*第81回 〜 第90回

2012年06月15日

連載小説「龍の道」 第90回




第90回 龍 淵(13)


「わぁ、美味しいっ!─────────────────」

「うん、いつ食べても、この味は変わらないな」

 ふと気付くと、ランチタイムにはまだ間があるというのに、このレストランに訪れて来る人がだんだん増えてきた。ほとんどの人がカレーを注文している。昼どきの混雑を避けてゆっくり此処のカレーを楽しもうと、時間に余裕のある人たちが早めにやって来るのである。

「これはちょっと他には無い味ね。宏隆が何度もここに来る理由が分かるわ・・・」

「ね、そうだろう?、僕もカレーが好きであちこち食べ歩いたけど、インド料理店のカレーなんかは別にしても、まだこれに匹敵するカレーにはお目にかかったことがない」

「やっぱり牛肉が深い味わいを出しているのかしら?、もちろんルウのベースにも神戸牛が使われているのでしょうね」

「・・うん、それはもちろん、神戸ビーフを使っているだろうな」

「カレーの具に使われているお肉も、やっぱり神戸牛なんでしょうね」

「ん・・ああ、そうね・・そりゃ、神戸ビーフに決まってるよ」

「神戸牛って、どうしてこんなに味わいが深いのかしら。松阪牛なんかは当地のすき焼きの老舗で何度か頂いたけれど、神戸牛とはまた全然味が違っているわね。近江牛もすき焼きで食べると本当に美味しいんだけれど、神戸牛とは味も香りも違う・・・」

「そう、確かに、神戸ビーフと、松阪牛や近江牛とはまったく違うね」

「何よ、宏隆・・さっきから奥歯に物が挟まったような言い方をして!、私が ”神戸牛” って言っているのに、どうしてわざわざ、神戸ビーフ、神戸ビーフ、って言い直すのよ?、それも生粋ハイカラ神戸っ子の習慣だってこと?!」

 ちょっとムッとした声で、珠乃が言う。

「いや・・ただ神戸牛と神戸ビーフとは違うものなので、つい・・・・」

「え?、神戸牛と神戸ビーフは違う?・・それってどちらも、世界的に有名な神戸の牛肉を指しているんじゃないの?」

「いいや、まったく別のものだよ」

「別のもの?、ただ普通に何々牛と呼ぶか、ハイカラに呼ぶかの違いだと思っていたわ」

「ははは・・神戸っ子は何でもハイカラにして喜んでいるワケじゃないよ。珠乃は奈良から来たから知らなくても当然だけど、そもそも ”神戸牛” という銘柄は存在しないんだ」

「ええっ、そんな!・・・だって、スーパーでもデパートでも、そこら中で ”神戸牛” って名前で売られているじゃないの?」

「一般的に兵庫県で生産された牛は何でも ”神戸牛” と呼ばれているみたいだけど、厳密に言えば ”神戸ビーフ” だと思って買ってきても、ホンモノとは全く違う場合があるってことになるね」

「宏隆・・・神戸を愛する神戸人のハシクレとしてはっきりしておきたいから、そのあたりをちゃんと説明してよ!」

「オーケー、そンじゃ説明してやるか・・・あ、コレ食べてからでもいい?」

「駄目ッ、すぐに説明しなさいっ─────────────────!」

「ヤレヤレ、こんなのをヨメハンに貰ったら亭主が可哀想だよな、ほんまに・・・」

「ん・・何か仰いましたか?」

「あ、いや、コホン・・・それじゃ神戸肉について、ちと説明させて頂きます」

 宏隆がスプーンとフォークを置いて、膝の上のナプキンで口を拭き、水を一口飲む。

「はい、謹んで蘊蓄(うんちく)を拝聴させて頂くわ」

 珠乃は椅子に座り直して、笑顔でちょっと姿勢を新ためた。
 自分が知らないことを人に教えてもらう際に、このように先ず姿勢を正して聞こうとする習慣は自分にも身に付いている。宏隆はそれをごく自然にできる珠乃を好ましく思えた。

 こんな時の珠乃は、とても輝いて美しく見える。

「・・まず、神戸肉は言わずと知れた日本三大和牛ブランドのひとつだけれど、いま言ったように ”神戸牛” という銘柄は存在しない。神戸牛というのは俗称で、最高級の牛肉として知られる神戸牛肉の正式な名称は、”神戸ビーフ” 又は ”神戸肉” と呼ぶのが正しいんだ。
 それに、神戸で育ったすべての牛肉が神戸ビーフと呼ばれるわけじゃなくて、神戸肉流通推進協議会という所が定めた厳しい定義をクリアしたものだけに、晴れて ”神戸ビーフ” という称号が与えられるんだよ」

「まあ、そうだったの・・・」

「神戸肉の定義は、神戸肉流通推進協議会が設立された昭和58年に定められていて、そこに ”兵庫県産但馬牛および神戸肉神戸ビーフの規約” というものがある。
 その規約には、神戸肉・神戸ビーフと呼べるものは、兵庫県産の但馬牛のうち、未経産牛(出産を経験していない雌牛)と去勢牛に限られ、肉質等級はどう、歩留(ぶどまり)等級はどう、枝肉重量(頭部、内臓、四肢を取り除いた部分の骨付き肉の重量)は何キログラム以下、という具合に肉の格付けが細かく決められていて、そうでないものとは厳しく区別されているんだ。
 つまり、但馬産の肉牛の中でも特に上質なものを ”神戸ビーフ” や ”神戸肉” と呼んでいるわけで、一般の人たちに ”神戸牛” と呼ばれているものはもっと範囲が広くて、その規定に入らないものも多く含まれるってコトになるね」

「うわぁ、宏隆は食いしん坊だけあって流石に詳しいわね。ただ漠然と、神戸近郊で育つから神戸牛なんだと、単純にそう思っていた自分が恥ずかしいわ。でも、歩留り等級って何のこと?」

「歩留り等級というのは、日本食肉格付協会によって定められたABCのランクのことで、枝肉から得られる部分肉の重量によって決められている。ステーキを食べに行くと、よくこの肉はA5です、A3です、などと説明されるけど、そのことだよ。それを導き出すための難しい計算式まであるんだ。ついでに、肉質等級というのは、霜降りの入り具合や肉の保水力やきめの細かさ、脂肪の色つやなどによって詳細に決められているんだ」

「ふぅむ、なるほど・・・・」

「神戸ビーフの歴史は、慶応三年(1867)に神戸港が開港された際、外国人が船で神戸に入って来た時に始まる。当時の日本人はまだ牛肉を食べる習慣がなく、彼らは仕方なく自分たちで牛を手に入れて食べていたんだけれど、ある時、但馬牛を口にする機会があって、その余りの美味しさにとても驚いた。
 彼らが本国で食べていた牛肉は固くて、よく噛まなくてはロクに味も無いし、バサバサしているからバターをステーキに乗せたり、ワインで蒸し焼きにしてソースを工夫したり、焼いた肉を10分間も休ませておかなくては美味しくならない。しかし但馬牛はそのまま生で食べても美味しいし、ただ焼いて塩を振るだけでも充分美味しく食べられたんだ。彼らがビックリするのも無理はなかっただろうね」

「ああ、それはよく分かるわ。外国に行ってステーキを食べても、あまり美味しかったという記憶が無いのよ。両親とフランス旅行をした時、高級ホテルのレストランへ入っても、確かに味は洗練されているけれど、お肉そのものはそれほど美味しいとは思えなかったわ。
アメリカに行った時なんかは、これは本当に食肉なのかしら、って思えて・・・」

「そのとおり、それが気候風土の違いというものなんだろうな。但馬牛を産み出す中国山地の気候は牛にとって快適で、それが美味しい肉牛に適した環境だったのだろう。
 但馬牛はもともと水田耕作や輸送のための役牛だったのだけれど、牛肉を食べる習慣が日本に生じてきた明治以降から食肉としての但馬牛の質の高さが注目され、但馬牛同士の交配しか行わない純粋な血統を保つ努力が続けられて、今日の名声を築くようになったんだ」

「それじゃ、開港の時に入ってきた外国人は、その役牛の肉を食べて美味しいと思ったわけね。彼らが本国で食べていたのは食用に育てた肉牛だったのに、日本の農家に飼われている役牛の方が美味しいなんて、よほどのコトね」

「本当にそうだな。反対に日本人が外国に行って肉を食べると、これは役牛じゃないのかと思えてしまったりする。文化の違いというのはスゴイもんだね」

「でも、世の中には何にでもすぐ反対する人が居るわね・・・神戸や松阪の牛肉の美味しさは脂肪の美味しさであって肉本来の旨さではない、そもそも脂肪の味を肉の味とするのは日本人くらいのもので、その証拠に霜降り肉は外国人から全然評価されていない、などと言っている評論家や有名なロングセラーの漫画原作者が居て、それを ”霜降り肉信仰” と称して、強く否定しているわね」

「あはは、”霜降り肉信仰” ね!・・・本当に、メシの種にするためには色んなことを言う人が居るね。けれど実際には神戸ビーフは欧米を中心とする海外でもすごく知名度が高くて、キャビア、フォアグラ、ホワイトトリュフと並んで Kobe Beef が常に上位にランクされ、最高級の食材として定着しているんだよ。日本を訪問したら、先ずは神戸ビーフを食べたいという各国の王室王族、政治家、有名人、ハリウッドの俳優なども大勢居ると言うし」


 ここで宏隆が語っていることは事実である─────────────────

 例えば、有名な映画監督のスピルバーグが自家用機でやって来ては、何十キロも神戸肉を買い込んで帰るというのは有名な話であるし、俳優のトム・クルーズは大の神戸ビーフ好きで、その味を事あるごとに行く先々で紹介し続けている。

 また、オバマ大統領が来日することになって天皇皇后両陛下との昼食会が企画された際、事前に外務省から宗教上の理由やアレルギーなどで食べられないものが有るか、とホワイトハウスに問い合わせたところ、『ぜひ神戸ビーフとマグロを食べたい』と回答があった。
 食べられない物があるかと訊ねたのに、食べたい物はこれだと回答してくるのは異例であったというが、かのミスター・プレジデントは、それほど神戸ビーフやマグロに強く憧れていたということになるだろうか。

 また、こんなエピソードもある。
 2009年9月に「The World」という、全168室の船室を世界中の富豪に分譲販売している「洋上マンション豪華客船」が神戸港に二度目の入港をしてきた。因みに船室一室の価格は八千万円から七億円で、船内自治会でそのつど寄港地が決定され世界中を巡り続けている。
「The World」には、同じ寄港地には二度と立ち寄らないというルールがあるのだが、神戸ビーフに魅せられ、どうしてももう一度食べたいという自治会員たちの強い希望により、ルールを破っての異例の再入港になったという。


「まあ、そうだったの?・・・霜降り肉は外国人から評価されていないなんて、霜降り肉の否定論者たちはよくそんなことが言えるわね!」

「あの漫画には、霜降り肉を否定する描写が何度も登場してくる。たとえば最高級の土佐赤牛の霜降り肉の刺身を出されて主人公の父である高名な美食家が激怒する、という場面が出てくるね。

 『あなたには人をもてなす資格がない。そんな人の頼みなんか聞けませんな。
  マグロの脂肪は低い温度で溶けるから、舌の上でトロリと溶けて甘い味がするが、
  牛の脂肪は高い温度でないと溶けない。冷たい刺身の状態では、食べると脂肪が
  ロウソクのようにニッチャリと歯にまつわりつくだけで、旨味は少しも感じない・・』

 ─────────などという具合に、”霜降り肉” はケチョンケチョンに描かれている。
 だけど、怒る気にもならないね。一体この作者はどんな霜降り肉を食べたんだろうかと、神戸や松阪の人なら、誰でもそう思うんじゃないかな。
 そもそも、牛肉は部位や品種によって融点が違うんだ。和牛種では全部位に渡って低い融点なんだけれど、輸入牛や乳牛の肉は皮下脂肪が体温で溶ける範囲の融点でしかない。
 一度この原作者に本物の神戸ビーフをナマの刺身で食べさせてあげたいね。脂肪がロウソクのようにニッチャリと歯にまつわるような神戸肉は存在しない。有り得ないね。
 大体、この原作者はロウソクをカジったことがあるんだろうか?、だとしたら何故?
あはは・・・まあ、漫画に書かれていることを頭っから信じる方がどうかしているけどね」

「宏隆、あなた、本当に食べ物に詳しいわね!」

「はは、実はこれ、ウチの鈴木シェフからの受け売りなんだ・・・」

「なぁんだあ、よく勉強してるなぁって、感心してあげたのに!」

「・・・ついでに、中国人なんかは神戸ビーフを本国に大量密輸するヤツらが絶えないって父の貿易会社の人が苦笑していたっけ。だから中国共産党にはけっこう神戸肉がウケているんじゃないかって言ってたよ。
 そう言えば、北朝鮮の楽園とやらに御座す(おわす)例の将軍サマも、神戸ビーフは大の好物で、あの国が何かしでかす度に日本が制裁措置を取るわけだけれど、その中に必ず神戸肉の輸出停止というのがある。お前たち、そんなコトをすると将軍サマに神戸肉を食べさせないぞってワケだよね、あははは・・・」

「オドシ、ユスリ、タカリの北朝鮮のやり方は日本人として決して許せないけれど、強気ですぐにミサイルを撃つぞと言う将軍サマにしては、何だかユーモラスな話よね」

「外国人ばかり例を挙げたけれど、もちろん神戸肉を愛する日本人は多いよ」

「ハイ、私もその一人よ。ただサッと生姜焼きにしただけであんなにも幸せになれるお肉って、他にあるのかしらね・・・そう言えば、伊藤博文や文豪の谷崎潤一郎も神戸ビーフを愛したという話を聞いたことがあるわ」

「伊藤博文は初代の兵庫県知事だったからね、きっと毎日でも食べただろうな。谷崎潤一郎は神戸に長く住んだから、そりゃ食べずには居られないよ。三宮には谷崎がよく通ったという老舗の洋食屋もあるし。まあ、ボクはあまりお勧めしないけれどね」

「あら、どうして?」

「有名人が愛した有名老舗、イコール本当に美味しいお店とは限らないからだよ。他の人が何と言おうと、自分の目で確かめて、自分の舌で味わって、美味しいと思えないんだったらそれは美味しくないんだよ。だから流行のグルメ漫画なんかに踊らされる人間の気が知れない。その洋食屋は味もポリシーも僕の好みじゃないしね」

「宏隆らしいわね。でも、そのとおりよ。メディアの都合の良い情報に踊らされて物事の本質を見失い、肝心の自分の感性が信じられないというのは、ちょっと哀しいコトよね」

「ところで、ここのビーフカレーはどう?」

「うん、すごく美味しい!!」

「このホテルやレストランが、将来もずっと伝統が守られて存続していくと良いのだけれどね。古き良き伝統を、佳き文化を失うことなく、大切に守っていって欲しいな」

「本当に、そうね・・・・ところで、神戸ビーフのことはよく分かったけれど、近頃の宏隆が一体何をやっているのか、あの怪しい中国人の女性は何者なのか、やっぱり気になって仕方がないのだけれど」

「そうだったね、神戸ビーフの話に夢中で・・・・」

 頭を掻いて、宏隆はちょっと困ったような顔をした。
 珠乃に、自分の置かれた立場を、どのように説明すればよいのか───────────────

 王老師と出会って以来の出来事には、いろいろと複雑な事情が絡んでくる。
 それを洗いざらい何もかも珠乃に話してしまうことなど、どう考えても出来ないと思えてしまうのだ。それに、いくら宗少尉が大丈夫だと言っても、それを知ることによって珠乃自身に降りかかって来ることの大きさを想うと、自分が知らせたために珠乃をそんな世界に巻き込んではならない、という気持ちになる。
 現についさっきも、秘密結社とは無関係でも自分の所為で珠乃を危険な目に遭わせてしまったのである。二度と珠乃にそんな思いをさせてはいけないと、宏隆は思うのである。


「いいのよ、話したくなかったら・・・無理に話さなくても、いいの・・・・」

 宏隆の困っている顔を見て、珠乃が優しく声を掛ける。

「いや、話すよ──────────でも、僕の問題だけじゃ済まないデリケートなことについては今の時点では話せない。それを分かってくれるなら、珠乃に話そうと思う」

「分かったわ。宏隆が話せることだけで良いから私に聞かせて。私は興味本位でそれを知りたいわけではないのよ。ただ、宏隆が・・宏隆のことが、心配で・・・いつの間にか、自分が知らないところに宏隆が行ってしまいそうで・・なんだか怖くて・・・・」

 珠乃は目にハンカチを当てて涙ぐんでいる。

 宏隆には、珠乃の心が痛いほどよく分かった。

「ありがとう、珠乃・・・・話せるだけ、話すから」

「うん──────────」


 食後の珈琲とケーキをいただきながら、宏隆はこれまでのことを珠乃に話した。


 王老師との出会い─────────────────

 たとえ真摯に武術を追求していたとしても、そして才能に恵まれていたとしても、滅多にそんな機会が与えられるはずも無い、太極拳の正式な真伝継承の道が宏隆に訪れたこと。

 そして、師は台湾の秘密結社に関わる人であり、その秘密結社は文化大革命の際に反政府思想者・反共産主義者狩りで大陸を追われた人や、革命で家族や親族を殺された人たちによって、共産主義中国や北朝鮮の侵略を防ぐために結成されているということ。

 その結社はかつて日本が台湾を統治していたことに恩義を感じており、またそこには宏隆の父親も深く関わっていて、宏隆もそれらの縁で参入することとなり、様々な訓練を受けているということ。

 宗少尉は秘密結社の格闘訓練教官であるということ。自分は台湾で訓練を受け始めたが、その間には少々危ない目にも遭ったということ。

 宏隆は珠乃に、それらをできるだけ分かり易く話して聞かせた。
 ただ、台湾に渡る時に乗っていた大武號(たいぶごう)が、尖閣諸島の辺りの海で漁船を装った北朝鮮の工作船から攻撃を受けたことについては、話すのをやめた。
 珠乃が怖がったり心配してはいけないし、そのこと自体がニュースにも取り上げられず、秘密裏に処理されている事だからである。



                                (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第91回の掲載は、7月1日(日)の予定です

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2012年06月01日

連載小説「龍の道」 第89回




第89回 龍 淵(12)


「やれやれ、ひどい朝だったなぁ──────────────」

 珠乃と二人して並木道を歩きながら、宏隆がそう言った。

「でも、あのテキ屋のボスさんは、どこか憎めないところがあったわね・・・」

 珠乃は、カバンを胸の前に両手で抱えるようにして歩いている。

「うん、そりゃまあ、もちろん本当の悪人じゃないんだろうけどね」

「ところで──────────────」

「ん・・?」

「宏隆がなにをやっているのか、ちゃんと私に教えてよ。あの宗さんとかいう、何やら怪しい中国人の女性も、私には明かしても大丈夫だって言ってたでしょ?」

 歩を止めて、ちょっと怒ったような顔をして宏隆に詰め寄ってくる。

「怪しい中国人?・・・ははは、ホントにそうだね!」

「こらっ、また誤魔化そうとするっ!!」

 怒った珠乃が、手にしたカバンを振り上げて宏隆の頭を叩こうとする。

「あ、ゴメン・・分かった、分かったよ、後でちゃんと話すよ、話すから・・・まったくもう、女のくせに、口で言うより手の方が早いんだから!!」

「後でって、いつのことよ?、宏隆の ”後で” はちっともアテにならないんだから!」

「僕がアテにならないって、何のハナシだよ・・?」

「今度あそこのカフェにお茶を飲みに行こう、夏休みには瀬戸内海の無人島にヨットで連れて行ってやる、摩耶山からの冬の夜景が綺麗だから見に行こう、あの映画は面白そうだから週末に二人で観に行こうか・・・って、クチばーっかりで、めったに実行したためしが無いじゃないの!!」

「あ・・そういえば、そんなコトもあったっけ?・・・・」

「ほぉら、ごらんなさい、自分が言ったことさえ次の瞬間には忘れてるんだから!、だからせめて、今回みたいなオオゴトはきちんと私に説明して、って言ってるのよ」

「わかったよ、しかし女ってのは細かいことばっかり覚えてるんだなぁ、まったく・・・・でも、そう言う珠乃にも不思議なことがあるよな。さっきの、あのホウキで構えてあいつらを叩きのめした技は、いったい何なんだ?」

「・・ああ、あのこと?、あれは薙刀(なぎなた)よ」

「ナギナタって、あのバターナイフのお化けみたいなヤツのことか?、お前、そんなこと、いつの間にやっていたんだよ?」

「小さい頃からよ・・・母は若い頃から薙刀を長年やっていて、女学校では敵う者が居ないほどのウデだったそうなの。私は神戸に越して来て、小学校ではずっと母から教わって、中学からは母の勧めで京都にある道場に通っていたのよ」

「わあ、そりゃスゴイなぁ!、それじゃ級位とか段位なんかも持ってるの?」

「去年の春に、二段を頂いたばかり。師範が仰るには、実力ではもう三段に匹敵するのだそうだけれど、まだ資格最少年齢の19歳に満たないので、それまで待つしかないって」

「なるほど、道理でそこらのテキ屋ごときじゃまったく敵わないはずだ」

「そうでもなくってよ。とても怖くて、必死だったからあんな風に出来ただけ・・・・」

「いやいや、ご謙遜だね。あのとき箒を構えた珠乃の眼は怖いほどだったし、助けに来たつもりだったのに、ちっとも僕の出番がなかったからね」

「宏隆が、きっと助けに来てくれるって、信じてたから・・・・」

 珠乃はあの時の怖さを思い出したのか、俯いて、ちょっと涙ぐんだ。

「さ・・さて、どこかへ行こうか・・・もう今日は学校に行く気がしないしな」

「それじゃ、学校をサボって、宏隆の好きな海でも見に行く?」

 珠乃の顔が輝いた。

「お、いいね。でも珠乃が ”サボる” なんて言うのは珍しいな」

「あら、私だって普通の女子高校生よ。それに、サボるというのは元々フランス語、おフランスの言葉なんだから、私にも似合うでしょう?」

「フランス語・・?」

「そうよ、もとはサボタージュという言葉。仕事を滞らせて能率を落とし、経営者に損害を与えることで労働問題を解決しようとする紛争のやり方、つまり ”怠業” ってことね」

「へえ、こりゃ驚いた。それじゃ重複するという意味の ”ダブる” とか、いっしょに歌って ”ハモる” なんていうのと同じ、外来語の造語ってコトか?」

「・・ま、そういうことね」

「うーん、こりゃ勉強になったぞ・・マドモワゼル・ド・サボール、か!!」

「ねえ、サボると決まったら、どこへ行く?」

「そうだな──────────なんだかお腹が減ったから、先ずはオリエンタルで海を眺めながら食事をしようか」

「いいわね、ついさっき朝食を頂いたばかりなのに、何だか私もお腹が空いたわ」

「よし、早めのランチ、”早弁” にするか!!」

「わぁ、ステキね!、私、早弁って初めての経験よ!」

「あはははは・・・・・・」

「はははは・・・・」


 国玉通りから市バスに乗れば三宮まで出るのは造作もないことだし、そこからオリエンタルホテルのある旧居留地辺りまでぶらぶら歩くのは、宏隆の好きな散歩のコースだった。
 久しぶりに珠乃と二人になったこの日も、宏隆は敢えて三宮駅でバスを降り、そこから海に向かってのんびりと歩いた。
 
「うーん、この街は、いつ歩いても風が気持ちいいわね─────────────」

 息を深く吸い込みながら、珠乃が言う。

「そうだな、やっぱり僕は、何と言っても神戸がいちばん好きだ」

「この夏に行った、台湾はどう?」

「台湾は、お祖父さんが政府の仕事をしていた所だから、前から行ってみたかったし、屋台のメシもすごく美味しいって言うから行ってきたんだよ」

「あはは、まったく、どうしようもない食いしん坊ね、宏隆って」

「それに・・・」

「それに?」

「いや、後で話すよ───────────」

「いいのよ、いつだって。宏隆が話したい時でいいから────────ところで、今日はどうしてオリエンタルホテルに行こうと思ったの?」

「何となく、好きなんだよね、あのホテルが──────────ウチの父なんかは、よく仕事や接待に使っているし、台湾にいたお祖父さんもこよなく愛したホテルだっていうし、僕なんか、まだ乳母車に乗っていた頃から、散歩の途中でよく母が立ち寄ったって・・・」

「あはは、それはすごいわね、赤ちゃんの頃から宏隆サマ御用達のホテルだったの?!」

「・・・うーん、わが家とオリエンタルは、何かご縁でもあるのかなぁ?」

「私は小さい頃に奈良から引っ越して来たから、自分も ”神戸っ子” みたいなつもりでいたけど、生粋のコーベ・アイト、神戸っ子の中身はもっと奥が深そうね・・・」



 オリエンタルホテルは、明治3年(1870)に神戸の旧居留地に開業し、以来、百年以上にわたって神戸の顔として存在し続けた、日本最古の歴史を誇る、名実ともに最高級の西洋式ホテルという賞賛を受け続けてきたホテルである。

 明治40年(1907)にメリケン波止場近くの海岸通りに移転したホテルには東洋で初めてのエレベーターが設けられ、素晴らしい料理を提供することで知られるレストランは、日本にも優れた西洋料理が存在することと、神戸ビーフの美味しさを世界中に知らしめた。
 因みに、宮内省御用達の「上野精養軒」の全盛時代を築いた、「料理名人」と言われた鈴木敏雄は、かつてオリエンタルホテルの第五代目の総料理長を務めた人であり、大正・昭和に亘る「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵とは無二の親友であった。
 
 昭和20年の神戸大空襲でホテルが被弾半壊し復旧できずに取り壊されたが、僅か4年後には旧居留地に移転して営業を再開した。屋上に世界初の「公式灯台」を設置したモダンなホテルには皇族をはじめ、ジャングル・ブックの著書で知られる英国ノーベル賞作家のラドヤード・キップリング、マリリン・モンローと野球選手のジョー・ディマジオ夫妻や、ヘレンケラー、孫文など、多くの著名な人たちが訪れた。キップリングは世界最高峰の料理と高く評し、ヘレンケラーは生涯で一番美味しい料理だと語った。また二十年近く神戸市内を転々と移り住んだ作家・谷崎潤一郎の「細雪」の中には度々このホテルが登場する。

 平成7年(1995)、阪神大震災により大きな被害を受け、営業が困難となり廃業。
建物は取り壊され、125年の長い歴史に幕を下ろした。
 平成22年(2010)、阪神大震災から15年の歳月を経て、旧オリエンタルホテルの跡地に新しく三井不動産による ”ORIENTAL HOTEL” がオープンしたが、古き良き時代のオリエンタルホテルを知る神戸っ子には、受け継がれたロゴも変り、サービス精神も薄っぺらで昔の面影は無く、全くの別ものであるとする人も多い。

 なお、1987年にダイエー傘下に入ってすぐ、新神戸オリエンタルホテルや、神戸メリケンパークオリエンタルホテルという姉妹ホテルが建設された。メリケンパークの突堤の先端に立つ、帆船の白いセールを想わせるホテルには、居留地に在ったかつてのオリエンタルのように屋上に真白い灯台が据えられ、いまも伝統の光彩を神戸の海に注いでいる。
 


「さてと・・ここへ来たら、やっぱりビーフカレーを食べるしかないな!」

 窓の外に広がる美しい神戸港の眺めよりも、若い体には食欲が優先するらしい。
 宏隆はメニューも開けずに、座るなり珠乃にそう告げた。

「ふぅん・・ここのカレーって、そんなに美味しいの?」

「おいおい、子供の頃からずっと神戸に住んでいるくせに、オリエンタルのカレーを食べたことがないのかい?」

「うん、わが家は割と和食が多いからね。父や母もそれほど好んでカレーを食べないし」

「へえ、そんな神戸人も居るんだなぁ・・・・」

「加藤様──────────────ではありませんか?」

「・・あ、宮田さん、こんにちは。お邪魔してます」

「これは宏隆さま。この時間に、学生服姿でお見えになるのはお珍しいですね」

「ははは、ちょっと今日はワケありで・・・珠乃、このレストランのチーフマネージャーの宮田さん。いつも家族でお世話になっているんだ。こちらは同級生の息長珠乃さんです」

「ようこそお越し下さいました・・・いや、これは大変失礼いたしました、あちらの眺めの良い席にご案内いたしましょう。さ、お手数ですがこちらへどうぞ」

 マネージャーはそう言って、先に立って二人を上席に案内する。どうやら学生服姿のカップルと見て、宏隆の顔を知らないボーイが安易に席に案内してしまったらしい。

「まあ!、席ひとつで、こんなにも眺めや気分が変わるものなのね」

「そうだね、こっちの方がずっと落ち着く」

「いつものカレーをお召し上がりになりますか?」

「そう、それをお願いします。珠乃も食べてみるかい?」

「それほどのお勧めなら、いちど頂いてみようかしら」

「畏まりました、しばらくお待ち下さいませ────────」

 マネージャーはそう言って注文を通しに行く。途中、さっき宏隆たちを席に案内したボーイにさりげなく合図をして、奧に連れて行った。
 行き届いた優しい気配りのあるサービスと、優れた味わい、落ち着いて寛げる環境、その何れが欠けていても一流のホテルには成り得ない。従業員一人ひとりが常に前向きに自己を磨き続けるというスピリットが感じられる、この古き良きホテルは、いつ訪れても宏隆に何かを勉強させてくれる。

「宏隆は、いつ何処へ行っても、加藤家の御曹司としてこんなふうに扱われているの?」

 神戸港の景色に見とれながら、珠乃がそう言った。
 少しフロアが高くなっているその席は、確かにさっきの処とは眺めも、居心地のよさも、まるで違っている。

「はは・・父の七光りというか、加藤家の威光というか、どこに行ってもこんな具合で・・
まあ、仕方がないんだけどね。けれどそれは、周りが加藤家のお坊ちゃんとして扱いたいだけで、僕個人の人生には全く関りないことだよ」

「一般庶民の私たちからすると、まるで昔の華族みたいな感じね」

「そりゃまぁ、元々はホントの子爵家なんだから、ある意味仕方がないけどな」

「でも、偉いわね。宏隆は家や親の威光を嵩(かさ)に懸けて威張るでもなく、きちんと自分の人生とは別のものだという自覚を持って生きているんだから」

「だって、家柄や血筋と、自分の価値観や人生観を一緒にされたらかなわないよ。そういえば、今まで珠乃の家系のことをこれまで気にしたこともなかったけど・・・珠乃のウチは、奈良から引っ越してきたんだよね」

「そうね、実は、私のところも随分歴史の古い家なのよ。もともとは滋賀県がその発祥だと聞いているわ」

「息長(おきなが)っていう名字自体、かなり珍しいものだよね」

「その ”オキナガ” で、何か思い当たらない?」

「おきなが、おきなが・・・そうだ、”オキナガタラシヒメ” なら知ってるけど」

「そう、そのオキナガよ─────────────────」

「ええっ・・!!」

「古事記や日本書紀には、息長という名の豪族や皇族がたくさん登場してくるのよ。滋賀県には今でも息長という地名が残っているけれど、息長氏はそこに本拠を誇っていて、京都の南部から奈良の北部、大阪東部にかけて広く隆盛を誇っていたというわ」

「へぇ、そうだったのか、初めて知ったよ」

「継体天皇が大和に入るのを助けたのも、この息長氏だということよ。息長氏はもともと、第九代・開化天皇の玄孫(ひ孫の子)である息長宿禰王(おきながすくねのみこ)から出ていると言われていて、その娘が息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、つまり仲哀天皇の后である神功皇后(じんぐうこうごう)というわけなのよ」

「神功皇后と言えば、夫である仲哀天皇(日本武尊の第二子)が急死した後、お腹の中に後の応神天皇である子を宿したまま、玄界灘を渡って新羅を攻めたという歴史があったね。
 いまの学校教育じゃそんなこと教えないけど、戦前には学校できちんと教えていたって、父から聞いたことがあるよ」

「戦後は左翼学者による神功皇后や仲哀天皇の存在さえ否定するような ”架空論” まで出ているのだけれど、今どきの若者にしては、宏隆は日本の歴史に詳しいわね」

「そうでもないよ、僕は自分の興味のあることしか勉強しないタイプだったからね。K先生や張大人にも、もっと広く見識を高め、まずは自分の国のことをきちんと勉強しなくてはいけないって、さんざんお叱りを受けているんだ」

「その、K先生や張大人っていうお名前、私、初めて聞くわ・・・・」

「うん、そのことも後から説明するよ・・・・それで、つまり珠乃は、その息長氏の直系の子孫っていうわけだよな。しかし、なるほどねぇ、道理で───────────」

「どうりで・・・何よ?」

「いや、お腹に赤ちゃんが居ようと何だろうと、自ら先頭を切って朝鮮に攻めに行くところなんか、今朝の珠乃の勇ましさとダブってくると・・・」

「まあっ!!──────────────」


 カレーが運ばれてきた。

「おおっ、来た来た・・・・さあ、いただこうか。うーん、この香りを嗅ぐと、メチャクチャに食欲が出て来るんだよね」

「本当に。カレーって不思議なお料理よね。もとはインドやインドネシアの料理だったはずなのに、こんなにも日本に定着してしまって──────────────」

「そうそう、日本のカレーはインドのカレーとは全然違っていて、もはや日本独自の料理と言っても良いんじゃないかと思うよ」


 かつて1世紀以上にもわたって、このホテルの代名詞にもなっていた「ビーフカレー」は通常とは作り方が異なっていて、三井系に代替わりをした現在の ORIENTAL HOTEL ではシェフがその幻の味を復活させるために大変な苦労をしている、という。

 その新しいオリエンタルの開業日は2010年3月3日であったが、その日に間に合わせようと三ヶ月も前から、昔のオリエンタルホテルで供していたビーフカレーを再現しようと味の再現に努めていた越智伸一朗シェフは、とうとう開業日までに間に合わせることが出来ず、幻のビーフカレーをメニューに載せることができなかった、というエピソードがある。

 しかしその後、阪神大震災で廃業したオリエンタルホテルで働いていたシェフが書いたノートが遺族から提供され、当時のカレーのレシピを知るに至り、幻のビーフカレーの再現に希望を持てるようになった。 

 オリエンタルホテルのカレーの最大の特徴は、ルウにする玉葱を揚げることにあった。
 通常、カレーを作るときには玉葱を炒めるが、オリエンタルでは揚げていたのである。
 新オリエンタルの越智シェフは、それによって深い味わいの甘さを再現できたが、まだ何かが違っていると思い、どうすればかつての深い味わいが甦るのかに悩みに悩んだという。

 しかし、遂にかつてオリエンタルホテルの厨房でカレーを作っていたシェフを探し当て、詳細にわたってレシピを教授してもらえることになった。

 その深い味わいの秘密は、思いもよらないことにあった。
 それは、その日に残ったカレーの上に、さらに新しく造ったカレーを足していくことにあった。そのことによって、当日に造られたカレーよりもコクのある、深い味わいのカレーが出来上がるのである。
 昔のオリエンタルホテルでは、それを何十年も変わることなく繰り返してきた結果、他に真似の出来ない、信じられないほど深みのある味わいが創り出されたのである。

 同じ手法は、日本料理の出汁(だし)にも用いられてきた。
 おでん屋として創業百数十年を誇る老舗として知られる京都の「蛸長(たこちょう)」でも、そのように毎日出汁を作っては足し、作っては足し、親から子、子から孫、孫から曾孫へと、代々百数十年間にわたって倦まず弛まず毎日繰り返し続けてきたのである。
 優れた味、深い味わいには、やはりそれなりの理由がある、ということであろう。



                                 (つづく)






【阪神大震災で倒壊した旧居留地のオリエンタルホテル。屋上に灯台が見える】

   




【神戸メリケンパーク・オリエンタルの屋上にある公式灯台。夕暮れには灯が点る】

     



  *次回、連載小説「龍の道」 第90回の掲載は、6月15日(金)の予定です

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2012年05月15日

連載小説「龍の道」 第88回




第88回 龍 淵(11)


「・・た、珠乃っ!!─────────────────」

 この瞬間、宏隆は自分が甘かったことを痛感していた。

 絡んできている相手は、多寡が不良のボス。本格的な極道ヤクザでもなし、それほど大それた事をするとも思えない。何より、自分がこの夏に経験してきた数々の危機と比べれば、テキ屋のボンボンとのケンカなど、可愛いものではないか───────────
 そういう気持ちが、つい初めから相手を見くびれるような錯覚を宏隆に起こさせていたのである。

「おっと、ストップやで!、ここから先に行ってもろたら困るんや・・・・」

 じっとりと、体に貼り着くようにタックルしてきて、テキ屋の三人が行く手を阻む。
 三人は宏隆の手足に鉛の錘(おもり)のように絡みついて離さない。悲鳴を上げた珠乃の方へ慌てて走ろうとした、その僅かな隙を狙ってこんなふうに絡みつかれては、流石の宏隆も動きがひどくもたついた。
 しかも、彼らは宏隆と真っ向から闘おうとはせず、まるで興奮する酔っぱらいでも宥める(なだめる)ようにピタリと抱きついてくるのだ。そんなふうな、ある意味では悠長とも思えるエネルギーの相手を、咄嗟に殴ったり投げつけたりすることは中々難しいものだ。
 そして、そんな心理を承知した上でそのような方法を取っているとしたら、このテキ屋たちは見かけよりも強か(したたか)な、集団での戦闘の場数をかなり踏んできた、ケンカ慣れした者たちであると言える。

「くっ、くそお────────────どけっ、どくんだ!!」

 その彼らに対して、ケンカの若大将と異名を取るほどの宏隆は、為す術がない。

 それは、宏隆が常に独りでケンカの場を切り抜けてきたからであり、集団の策略が読めないためであった。多人数と対峙しても、学生同士のケンカでは、ただ数を恃(たの)んでのものに過ぎず、それほど怖れる必要もなかった。策謀の無い集団は個人に等しいのである。思えば、台湾のホテルで拉致された時も、相手がプロとは言え、敵の策略が宏隆に前もって読めず、一時は自分に有利な状況を造りながらも、結局は拉致されてしまう結果となったのであった。

 だが、今の宏隆には、そんなことを省みる余裕はない。

 必死にもがいて、絡みつく三人をほどこうとするが、大の男三人分の力はそう易々と解けはしない。身に着けた武術の技で、冷静に相手を打つなり投げるなりすれば、彼らの束縛はいとも簡単に解けるのかもしれないのだが、連れの珠乃が心配なあまり、其処へ行こうとする気持ちばかりが先に立って、いつもの宏隆らしい、武術的な動きが何ひとつ身体に起こってはくれないのである。

 そして────────────

 ついに宏隆はその場にドオと倒され、一人に上から馬乗りに跨がられ、他の二人には手足の関節をしっかりと押さえられて、ほとんど身動きが取れなくなってしまった。

「キャァーッ、何するのよ!・・放せっ、放しなさいっ!!」

 必死にもがいている珠乃の叫び声が、向こうから聞こえる。

「ヘっへっへ・・・・どや、ヒロタカはんよぉ、闘いちゅうのはな、腕っ節だけやのうて、ココや、ココの問題やで。ええ?、ワイには敵わんやろ?、何とか言うてみい!!」

 自分の頭を指しながら、大の字に転がった宏隆の頭上から見下ろして得意気にそう言う。

「くっ、卑怯者め!、まともに戦っては敵わないと思って、無関係の人間を人質にとってでも勝ちたいとは・・・この、見下げ果てた奴め、それでも男かっ!!」

「ワハハハ、なんとでも言え!、結果的にお前はワイの足もとに転がっとるやないけ!、
世の中いうもんはな、最後に笑うモンが勝ち、ちゅうことや。ええか、よう覚えとけや!」

「く、くそお────────────!!」

 何とか拘束を解こうとして藻掻いて暴れる宏隆を、学生の子分二人も加わって、宏隆の頭や足を、膝を使って地面に押さえつけた。

「ガハハ・・無駄や、無駄やで。なんぼケンカ大将のお前でも、五人がかりでそんなふうに地面に押さえられたら、どないしょうもないやろ。それで反撃できたら、ほんまに奇跡やろけどな、ガハハハハハ!!」

「むう・・くっ・・・くくうっっ・・・・・」

「ほれ、無駄な抵抗をせんと、潔よう観念して、ちと、あの女の方を見てみいや」

「な、何っ────────────!?」

 そう言われて、珠乃の声がする方をなんとか横目で見ると、

「あっ・・た、珠乃っ・・・!!」

 珠乃は二人の男に樹の幹に押し付けられ、顔にピタリとナイフを当てられている。

「ひ、宏隆ぁっ─────────────────!!」

 日頃は気丈な珠乃も、光るナイフを頬に突きつけられては、流石に声が震えている。
 映画や小説ではない、これは今ここで、現実に自分に起こっていることなのであった。

「た、珠乃・・・・・」

「さあ、分かったか。あの女の顔に傷をつけられンのが嫌やったら、起きてワイに土下座せえや。土下座して、ワイの靴をきれいに舐めて、その節は大変申し訳ございませんでしたと謝って、お怒りはごもっともですから、ボクを好きなだけ殴って下さい、と言うンや」

「な、何だと!、お前なんぞに誰がそんなことを言うモンかっ!!」

「ほ、さよか・・ほんなら、あの女の顔に長い切り傷を付けさせてもらおか。お前は一生、その顔の傷の責任を背負って、楽しく生きて行くんやな・・・・」

「こ・・この、人間のクズめ!!」

「へっ、何とでも吠えたらええ。そやけどな、ここで絶対的に立場が強いのはワイの方や、ええっ、違うんか!?、どないや、ケンカ大将のヒロタカはんよぉ!!」

「くっ・・し、仕方がない・・・分かった・・・・・」

「ガハハハ、観念しよったか、なかなか物分かりがエエやないか・・・・」

 自分が土下座して、散々殴られて、それで済むのなら、それで珠乃が無事なら、いくらでもそうしよう、そうするべきだ・・・・宏隆はそう決心して、観念した。


 が、その時─────────────────


「う、うっ・・・!!」

「くうっ・・・!」

 かすかな呻き声と共に、珠乃を拘束していた二人の男が、まるで突然目まいでも起こしたかのように、バタバタと地面に倒れた。

「な・・何やっ!、どないした!?・・・何ごとや?!」

 宏隆にも、いったい何が起こったのかは分からないが、突然ナイフを向けていた男たちの拘束が解けて、走って逃げて行く珠乃の姿が目に映った。

「お、追えっ、女を追うンや!!・・ええい、お前ら、ボケーっとしとらんと、二人ほどで早よう女を追いかけんかいっ!!」

「へ、へいっ・・・・」

 ナマズ顔にそう命じられて、宏隆を地面に押さえつけていた二人のテキ屋が走った。

 しかしその時、宏隆を押さえていた五人の者たちの力が、ほとんど同時に弛んで弱くなった。ナマズ顔のボスが、誰と誰に対して ”追え” と、名指しで命じなかったからである。

 そして、宏隆がそのチャンス逃すはずはなかった────────────

「う、うわぁっっっ!!」

「あ、アホっ、しっかり押さえとかんかいっ!!」

「じ、自分こそ・・・手ぇを弛めたやろ!」

「ドスッ─────────────────!!」

「グェエッ・・・・・」

 あっという間に跳ね起きた宏隆は、あたふたと狼狽する三人のうち、まず残りのテキ屋の腹を強かに拳で打ち抜き、あっという間に悶絶させた。先ず強そうな者から順に倒していくというのは、宏隆がこれまでの戦いで培った知恵である。

「う、うわぁ・・・・・」

 宏隆の素早い身のこなしと、瞬く間にただの一撃で大人のテキ屋を屠った技のキレを目前で見せつけられた二人の学生は、その大きな図体に似合わぬ怯えたような声をあげながら、じわじわと後退りをし始めた。

「お前ら、まだ僕と闘(や)りたいか?・・・」

 宏隆が眉を吊り上げてそう言うと、

「ええい、退がるな!、やってまえ!、早よ、イテもたらんかいっ!!」

「そ、そやけど、このセーガク(学生)がこんなに強いて、き、聞いてまへんでぇ・・・」

 もはや二人の学生の戦意は喪失している。残るはナマズ顔のボスひとりだが、宏隆は珠乃が気掛かりでならない。

「お前ら、そこでナマズの親分と待っていろ!!」

 そう言い遺すと、宏隆は珠乃が逃げた方に向かって全力で走った。

「珠乃っ!・・・何処だ、珠乃ぉ────────────!!」

 さっき珠乃がナイフを突きつけられていた樹の根元に、二人のテキ屋の男が倒れている。
なぜ突然こんな恰好で倒れてしまったのか分からないが、そこから珠乃が逃げた方向にむかって、宏隆はさらに走った。

「えっ──────────?!」

 しかし、ほんの数十メートルも行かないうちに、立木の向こうに信じられない光景が目に映った。

「た、珠乃・・・?」

 珠乃が、追いかけてきた二人の男たちに向かって、すごい形相で対峙しているのである。

「どうしたの?、来なさいよ!・・・多寡が女学生ひとりに、何を怖れているの?」

「くっ、くそお・・・この姐ちゃん、タダモンやないで!!」

 男たちは各々、鋭いナイフを手にして構えているが、珠乃に向かって容易に近づけないまま一定の距離を置いている。

 そしてセーラー服姿の珠乃は────────────────
 何と、柄の長いホウキを持って、颯爽と構えているのである。
 おそらく神社の裏にでも置いてあったのだろう、その庭箒(にわぼうき)を手に持って、近寄ればすぐにでもそのホウキで相手を打つ、という気迫が感じられるのだ。
 
「・・た、珠乃?・・・何をしているんだ?、危ないから下がっていろ!!」

 宏隆が怒鳴ったが、テキ屋の男たちは何故か宏隆のことなど眼中に無い。
 追ってきた宏隆よりも、目の前の珠乃に向かうのに精一杯で、そんな余裕がないのだ。

「宏隆、遅かったわね、まあ黙って見ててよ・・・私だって、自分の身くらい自分で守れるんだから!!」

 一瞬、宏隆が来て少し安心したような目をしたが、毅然とした表情でそう言い放った。

 見れば、テキ屋の男二人は、何度も地面を転がったようで、上着にもズボンにも土ぼこりがたっぷりと着いている。

「ま、まさか・・・・?」

 宏隆は、ようやく気が付いた。

 珠乃が手にしている庭箒は、普通の人間がそれを持って誰かを打とうとしているような構えではない。それは、訓練された者だけが醸し出す、独自の雰囲気を持った、完成された隙の無い構えなのである。
 少なくとも、脅しで光るナイフをちらつかせては目的を達成してきた、そんなテキ屋の男たちの構えとは、話にならないほど次元が違っている。

「う、うわぁあ───────────ああああっっっ!!」

 悲鳴のような叫び声を上げたのは、テキ屋の方である。
 手にしたナイフを振りかざして、大声を上げて珠乃に切りつけていったのだが、珠乃は眉ひとつ動かさずに、スウーッと庭箒を回転させながら男の手を払い、ホウキの反対側で足を払って、男を宙に舞わせて、大きな音を立てて転がした。
 いや、それは箒が回転して動いたと言うよりも、その長さが自在に変化したと言うべきかも知れない。珠乃が手にした箒は、支点のない不思議な動きをしていた。

「すごい─────────────────!」

 もはや、珠乃の身を案じて自分が盾になるとか、加勢するというような状況ではない。 
 珠乃を追って来た男たちは、明らかに珠乃に手を灼き、彼女を捕まえるどころではなく、どうすれば良いのか、困り果てているのだ。

 そして、宏隆は珠乃が心配でならなかったが、高度な武藝を極めようとしている自分にとって、正直なところ、本人の身の安全さえ確かなら、目の前で見せられた珠乃の不思議な動きをこのまま見ていたいという気持ちもある。
 そう思えるほど、宏隆が安心していられるような力が、珠乃には感じられるのだ。

「・・ち、ちっくしょぉ!!」

 もう一人の男が、手にしたナイフを頼りに飛び込んでいったが、それで珠乃を突こうとするよりも早く、ホウキの柄が彼の喉元にグイと突き込まれた。

「ぐ・・グェエッ・・・・」

 どんなに優れた格闘家であろうと、喉を鍛える方法はない。
 宏隆は、王老師が戦う時には敵の喉にしか触れない、と陳中尉に聞いたことがあった。

 ホウキの柄で強かに喉を突かれた男は、もんどり打って地面に倒れ、悶絶して倒れたところをさらに腹を突かれ、その場で静かになった。

「う、うわぁ─────────────────!!」

 さっき倒されたもう一人の男が、ナイフを捨てて逃げて行く。
 そばにいた宏隆の存在を気にする余裕もなく、なまず顔のボスの居る方へ飛ぶように走って行くのだ。

「珠乃っ・・・!」

「宏隆 ─────────────」

「大丈夫か?・・・怖くなかったか?」

 駆け寄って、肩を抱くようにして宏隆がそう訊くと、

「こ、怖かったわよ!・・・私だって普通の人間よ!、女の子よ!、怖いに決まってるじゃないの!・・・今まで何やってたのよ、小さい頃からケンカ大将だって威張ってたくせに、私が、私がこんな目に遭ってるっていうのに・・・!!」

 手にしていた箒を投げ捨てて、女らしく泣きじゃくりながら、興奮して宏隆の胸を叩く。これまでの緊張がようやく解けて、我慢していた感情が一気に出てきたのだ。

「ご、ごめんよ・・でも、余りにも、状況が─────────」

「もう・・バカ、バカっ・・・バカ宏隆ぁっ!!」

「ごめんよ・・な、ゴメンってば・・・」

 ポケットからハンカチを出して、珠乃の涙を拭いてやる。


「何とか無事に済んだみたいね─────────────────」

「えっ・・・?」

 その声に振り返ると、すぐ後ろに腕組みをした宗少尉が立っていた。

「宗少尉・・どうして此処へ?!」

「せっかくの早朝デートの所を悪いけど、早々に後始末をしなきゃならないから、それを済ませたら、あなた達は早く学校に行きなさい。それとも今日はオフにして、どこかにエスケイプした方が良いかもしれないわね」

「後始末って?」

「あっちに倒れている二人の男と、ココから逃げようとしたヤング・ボスのことよ」

「も、もしかして、倒れていた二人は宗少尉が・・?」

「違うわよ。私は連絡を受けて、ついさっき到着したところ」

「・・連絡って、誰から?」

「ヒロタカの居るところには常に警護が付いているの。特に台湾の一件からは身辺の警戒を厳重にしているのよ。それは神戸に居ても同じコトよ」

「それじゃ、あの二人はウチの組織の人たちが?」

「そう、毒を塗った吹き矢で、珠乃さんの安全を確保したのよ」

「ど、毒・・!!」

「まあ、毒って言ったって、ただの痺れ薬だけどね」

「宏隆、あなた一体何をやっているの?、ソシキだとか、毒の吹き矢だとか・・・・」

 いかにも訝し(いぶかし)そうな表情をして、珠乃が訊く。

「あ、その・・・つまり、何というか・・・・」

「大丈夫よ、ヒロタカ。珠乃さんの家庭の調査はもう済んでいるし、ご親戚や交流関係も敵の勢力ではないことが分かっているから。ご両親は分別ある愛国者で、神戸に転居してきてからはヒロタカのお父様とも付き合いがあって、憂国の想いもよく一致しているから、何を知られても大丈夫よ」

「ふう・・・・」

「でも、そのうち、きちんと説明しておいた方がいいわね。せっかく、仲が良い幼馴染みのステキなカップルなんだから────────────」

 ちょっと嫉妬をするような顔をして、宗少尉が横目で宏隆を見ながら言う。

「コホン・・・そういうワケだから、珠乃、またゆっくり話すよ」

「何だかよく分からないけど、まあ、今日は追求しないであげるわ」

「・・・さてと、ヒロタカ、あのヤング・ボスをどうする?」

「あ、そうだ。さっき逃げようとしてた、って言ってたけど・・」

「神戸支局の連中が捕まえて、あそこでヒロタカを待っているから行きましょう。子分どもは逃げてしまったけど、まあいいわね、加勢が来るとは思えないし・・・・」

 そう言いながら、宏隆たちを促して、ナマズのボスが居るところに向かう。

「でも、吹き矢で倒した二人はどうするの?」

 歩きながら、ちょっと心配そうに宏隆が訊く。

「ああ、あんなの、放っておけば1時間もすれば気がつくわよ。もし誰かに見られても宿酔(ふつかよい)で寝ているようにしか見えないから、心配ないし」

「なるほど・・・」

「問題は、あのヤング・ボスをどうするかだけどね・・・・」

 なまず顔のボスは、大きな樹の陰で後ろ手に括られ、地面に正座をさせられている。

「少尉、ご苦労さまです!」

 逃げようとしたボスを捕らえた玄洋會の二人の要員が、宗少尉に向かって敬礼をする。
 折り目正しい敬礼の仕方から、彼らが軍隊の経験者であることが分かる。

「あなた達こそご苦労さま、朝からひと仕事だったわね」

「いいえ、それよりヒロタカさんに怪我が無くて何よりでした」

 肩に7、80センチほどの黒いケースを掛けた、もうひとりの要員が答える。
 その革のケースには、さっき瞬時にテキ屋たちを倒した、組み立て式のブローガン(吹き矢)が入っているのかも知れなかった。

「ありがとうございます。自分が不甲斐ないばかりに、皆さんにご迷惑をおかけしました」

 宏隆が彼らに向かって頭を下げた。

「ヒロタカよぉ、お前、いったい何モンや?、こんな連中がウヨウヨ出てきて、お前がこんなワケの分からんヤツと知っとったら、下手にリベンジなんかするんやなかったな」

「ナマズ・・・いや、浪速の山本一家のミネオ、とか言ったな・・・今日は全面的に僕の負けだ、潔くそれを認めるよ。でも、君たちのおかげで僕は多くのことを学ぶことが出来た。珠乃をあんな危険に晒してしまったけれどね・・・結果的に、僕は独りでは君たちに対処できなかったし、勝てなかった。そのことは僕にとって大きな問題なんだ。これからその事をよく考えなくちゃいけない」

「・・そしたら、ワイを許してくれるんか?」

「いや、お前らのような卑怯な奴らを許すつもりはない。また懲りずにこんな事をしたら、何があっても叩きのめしてやる。けれど今回は僕の負けだ。もし僕独りだったら完全にお前たちに屈辱を味わわせられていたかも知れない・・・自分の武術は、辛うじて自分だけを守れるようなものでしかなかった。それがハッキリしたから、きちんとそんなことを含めた訓練をしなければならないと思うんだ。そうしなければ、お前たちのような手合いにむざむざと負けてしまうからね」

「負けた─────────────────!!」

「え・・?」

「ヒロタカ、お前はエラいやっちゃな・・・何やら武道を追求しとるらしいが、きっとモノになるやろな。それに、バックにはワイらみたいなテキ屋とは違う、もっと大きな組織が控えとるようやし、そんなヤツには、逆立ちしても到底かなわへんわ。
 ワイの負けや!、二度とお前や兄貴の所には現れんから、今日のことは水に流してくれへんか?、恐い目に遭わせてしもた連れのお嬢さんにも、このとおり謝るよって・・・」

 テキ屋の跡取り息子は、そう言って深く頭を下げた。

「宏隆、もう勘弁してあげて・・・・」

 怖ろしい目に遭わされた珠乃が、優しい目をしてそう言う。

「ああ、僕もいまさらどうする気もない・・・宗少尉、放してあげて下さい」

「おいっ・・・ヒロタカが許すと言うからお前を開放してやるが、本来なら地下の拘束室で一生過ごして貰うか、鳴門の渦に放り込んで魚の餌食にしてやるところだからね!!」

「ひっ!!・・・わ、分かりました、よく分かりました・・・・」

「それは本心か?、もし懲りずにまたヒロタカに近づいてきたら──────────」

 そう言うと、宗少尉は腰の後ろから素早く拳銃を取り出し、銃口をピタリと男の額に付けた。

「うわっ、うわわあっ・・・・す、すんません、もう来ません、絶対に近づきません!!」

「ふん!・・その言葉を、よーっく覚えときなっ!!」

「は、はい、すんません・・・決して忘れませンです、すんません・・・・」

「よし、縛(いましめ)を解いてやりな!」

「イエッサー!!」



                                  (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第89回の掲載は、6月1日(金)の予定です

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2012年05月01日

連載小説「龍の道」 第87回




第87回 龍 淵(10)


 「しまった─────────────────」

 宏隆は後悔した。こんな場合、女性が一緒に居るのと、そうでないのとでは自分の行動が大きく違ってくる。
 珠乃は自分と同い年の、ごく普通の女子高校生なのだ。小さい頃からケンカ三昧の日々を過ごし、いつの間にか台湾の秘密結社に籍を置くようにまでなったような自分とは何もかも違う、あまりにも普通の人なのだ。そんな人がそばに居るか居ないかでは、イザという時にかなり違ってきてしまう。

 しかし、もう遅い。何より、せっかく逃がそうと思った肝心の珠乃が一緒に付いてくると言って聞かないのだ。現に今も、自分から先にその大阪弁の不良の後に従いて、胸を張ってどんどん歩いているのだから、どうにも始末が悪い。
 それに加えて、後ろからどう見てもその男の仲間だと思われる、如何にも屈強そうな体格の二人が、宏隆たちを遠巻きに囲むようにして付いてきている。

「こうなったら、仕方がないな─────────────────」

 宏隆は覚悟を決めた。イザとなったら、たとえ自分の身を犠牲にしてでも、珠乃の無事を真っ先に考えてコトを運ばなくてはならない。こんな時には、どれほど自分の腕に覚えがあろうと、相手をどう料理するかということよりも、一緒に居る者の身の安全を最優先に図らなくてはならない、と宏隆は自分に言い聞かせた。


「・・さ、ここから裏に回るんや。この神社はな、すぐ近くの住宅地に住んどられる組長はん御一家が、必ずお正月にお参りをされるんで有名なところなンや。ワイも度々ココにお参りして、将来は立派な任侠の組長になれるようお願いしたいと思うとるんやで」

「やれやれ、罰当たりな。暴力団の親分が参拝するのに感心するよりも、先ずはここに祀られている、祖国を護るために自らの命を捧げた五万三千柱の英霊に敬意を払うべきじゃないのか。まあ、どれほどお前がお願いしても、英霊たちがそれを聞き届けてくれるかどうかは別のハナシだけどな」

「う・・くっ・・・・」

「その昔には任侠道というような言葉もあって、その世界も本物の男気や義侠心で構成されていたというが、今では在日不良朝鮮人や密入国の中国人などが大半を占める、ただの無法者の暴力集団に過ぎないじゃないか。そんなところに人生の目標を持つようなら、所詮不良の行く末は、お決まりのヤクザ渡世────────まあ、それではモノにはならんな」

「な、何だとぉ、聞いた風な口を利きよって。けど聞き捨てならんな、その ”モノにならん” ちゅうのは何のことじゃい?・・ちいと、ワイにも分かるように言うてみぃや!!」

「モノになるとは、人間になることだよ─────────────────」

「人間に?・・アホぬかせ、ワイかて生まれた時からずっと、お前と同ンなじ人間やで!」

「いいや、人は各々が与えられた試練を経て、それをきちんと乗り越えてこそ、初めて本物の人間になるのだ。この身は単なる容れ物、宿借りの殻にすぎず、人生の試練を経て魂が入るまでは、ただヒトの形をした人形と同じようなものだと、ぼくは思っている」

「ペッ、人間がヤドカリやて?、アホくさ!、お前みたいなガキに、本物の任侠道っちゅうんがどんなもんか、分かるもんけ!!」

「分かるとも、少なくともお前よりはな・・・教えてやろう、曾ての任侠道は、弱きを助け強きを挫く、あくまでも暴政に対抗する義侠心がその根本になっていたのだ。
 悪政の無法社会で脅かされる罪もない一般庶民を守り、悪法に縛られてむざむざと泣き寝入りをするしかなかった民の中に、人の仁と義を通す義侠の男たちが存在したのだ。
 昨今のような、法治国家の繁華街を根城に、弱い者や堅気の一般市民を狙って騙し脅かして利をむさぼるようなミミッチイ輩どもの、どこが任侠なものか!!」

「こ、こいつ、高校生のクセに禅寺の坊主みたいにエラソウに・・・けど、そないな難しいことを言われても、ワイにはよう分からんで・・・まあええ、さぁ、グズグズせんと、早うこっちに来んかい!!」


 朝も七時半を過ぎているのに、護国神社の裏手はまだ薄暗い。摩耶山のすぐ麓に位置しているこの神域は、立派な社殿のすぐ裏側まで古来の樹々が鬱蒼と生い茂る山の斜面が迫っていて、さぞかし此処に祀られる英霊たちも安らかに眠られることだろうと思える。

 その本殿の裏側の、少し広くなったところで男は立ち止まると、さっきから遠巻きについて来ていた二人が逃げ道を塞ぐようにして、宏隆と珠乃のすぐ後ろ、ほんの2メートルほどの所に離れて立った。

「さあ、もう何処にも逃げられへんで。へへへ、今日はあきらめるしかないな。可哀想やけども、ワイがやられたように、今度はお前に痛い目に遭うてもらわんと、な」
 
「一体どうしたいんだ?、高校生の僕を相手に、自分ひとりでは勝ち目がないとみて、図体の大きな加勢を二人も恃んで、また卑怯な真似をしたいということか?」

「ふんっ!、ケンカに卑怯もクソもあるもんけ、お前が叩きのめされて、ワイの恨みを晴らせたらそれでエエんじゃい!!」

「なるほど、そういうことか。だが、その行き着くところは任侠道とはほど遠いな。やはりチンピラ愚連隊になるしか能が無いらしい。可哀想に────────────」

「ええい、その減らず口をきけるのも、そこまでやでっ!!」

 そう吠えるように言うと、男は「ヒューッ!」と鋭く指笛を吹き鳴らした。

「む・・・・・・?」

 その音を合図に、斜面を覆う樹々の太い幹の裏側から、ふたり、三人と、隠れていた仲間がぞろぞろと現れてきて、全部で五人の男たちがズラリと後ろに並んだ。

「コイツでっか、峰雄はんをエラい目に遭わせた、言うんは?」

「ミネオ・・というのか、この男は────────────」

 心の中でそう思いながら、宏隆はこの難局を如何に切り抜けるかを考えていた。
 さっき後ろから従いて来た二人は、明らかにその峰雄という男と同じ大学生に見えるが、いま樹々の陰から出てきた五人の男たちは、どうみても、もっと年上の大人である。

「ほう、今度は大人たちの登場か。しかし、学生のケンカに大人の加勢を呼ぶとは、それもこんなに大勢・・・・お前もつくづく腐りきった甘ちゃんだな」

 宏隆は、その人数にちっとも動じない。
 普通ならば、これほどの人数に囲まれれば、袋叩きにされることを覚悟して、土下座して謝るしかないような状況であるのに、彼のこれまでのケンカ三昧の経験に加えて、この夏の非日常的な体験が、彼を自分でも考えられぬほど強く、逞しくしていたのである。

「坊主、度胸だけはあるようやな・・・まあ、ホザきたきゃあ、今のうちにいくらでもホザいておくがええ。どうせすぐに声も出んようになるからな────────────」

 低いドスの利いた声で、ひとりの男が言った。

「高校生の分際で、うちのボンにえらいナメた真似をしよったらしいが───────
 浪速の神農(しんのう)・山本貫太郎一家としては、若(わか)がそんな目に遭うたままでは黙っとれんからな、まあ、殺しはせんよって、勘弁してもらおか・・・」

 もう一人の男が、言った。

「ナニワの神農?、カンタロウ一家?・・・ははあ、お前、大阪のテキ屋さんの ”ぼんち” だったんか、なるほどな。しかしまあ、テキ屋の若サマが、たった一人の高校生を相手にわざわざ大阪から若いモンを大勢引き連れて ”お礼参り” とは、なんとも情けない・・・」

「ケッ、ほざくンやないで、ヒロタカよぉ・・・お前がワケの分からん不思議なケンカ術を使うことは、ウチの若いモンにもよぉーっく説明済みや。敵を知りて、己を知ったならば、百戦も危ういべからず、ちゅうことやで!・・・どや、観念せんかい!!」

「ははは、それを言うなら ”危ういべからず” じゃなくて、危うからず、だよ。タンカを切る時はもっとカッコよくやらなきゃ。ついでに ”君子危うきに近寄らず” ってのも、そこに書いてなかったかい?・・・まあ、何にしても情けない若サマには変わりはないが」

「くっ・・こっ、この・・減らず口のガキがぁ!!」


 テキ屋の男が口にした ”神農” というのは、職業の神様として中国から伝わってきた神農皇帝のことで、市(いち)や縁日、盛り場や祭礼などに様々な出店を出す的屋(てきや)が彼らの世界で自分たちのことを指す隠語でもある。
 的屋というのは、その文字が示す通り、思いがけず大当たりすることや一夜にして儲かることを「的矢(まとや)=矢で当てた的」に掛けて造られた言葉であり、日本人であれば誰もが知るように、境内や参道、門前市などで屋台や露店を出店し、参拝客目当てに御利益品や縁起物をはじめ、食品や玩具を売ったり、射的やくじ引き、金魚すくい、見世物小屋、大道芸などを披露して稼ぐことを生業とする、露天商・行商人の集団のことである。

 つまり的屋は日本の祭りや神事などの伝統文化と共存してきた集団であり、親分・子分、兄貴分・弟分という組や徒弟関係はあっても、元々はいわゆるヤクザとは本来の性質が異なっていた。博徒にせよ的屋にせよ、江戸時代には共に下民(げみん)・賤民(せんみん)として、身分制度では最下層として扱われてきたが、古くから的屋は稼業人、博徒は渡世人と呼ばれ、無宿で渡世人の博徒=ヤクザ者は的屋とは区別されてきたのである。
 また、生業を行うための縄張りも、博徒は「シマ」というが的屋は「庭場」と表現する。庭場とは寺社奉行の管轄地の名称である。

 しかし、的屋が営業を滞りなく行う為に必要な調整役として存在したヤクザの存在は的屋を下部組織に従えるまでに至り、現在では的屋と暴力団の関係は益々濃くなり、その殆どが暴力団化しているという。公安指定暴力団である東京池袋の「極東会(組長:松山眞一こと曹圭化=チョ・ギュワ)」は構成員1,200名、日本最大のテキ屋組織であることで知られている。 
 「ごくせん」のように、原作ではヤクザであったものを任侠集団(境内でタコ焼きを売るだけのテキ屋?)に変更して製作されたテレビドラマもあった。コミカルなドラマとは言え昨今ではそのような社会的性質を持つ集団の娘がヒロインとして放送され、高視聴率を得るというのだから、テレビ放送も日本の世論も、以前とは随分変わったものだと思う。


 ともあれ──────────────そのテキ屋の若(わか)が、この夏に宏隆にこっぴどく返り討ちに遭った挙げ句に締め落とされ、救急車で病院送りにされたのだから、やはり極道一家としては黙ってはいられない、というところであった。

 
「坊主、そういうワケやから、まあ、観念せぇや・・・・・」

 もうひとりの、顔に大きな傷のある男が、言った。

「・・・珠乃、僕からできるだけ遠くに離れていろ──────────────」

 小声でそう言って、誰も居ない唯一の方角である神社の裏側に向かって、珠乃の肩を突き放すように押すと、

「さあ、手っ取り早く済ませようや、これから学校に行かなきゃならないんでね」

 カバンを傍らの樹の根元に置きながら、宏隆は努めて明るく、相手に向かって言う。

「ええい、いてもたれっ(やってしまえ)!!」

 その、ナマズが潰れたような顔のテキ屋の若(わか)が、先ず宏隆の後ろ側に居た二人の子分に向かって、大声でそう命じた。

 しかし─────────────────

「うっ・・・ううっ・・・・・・」

 屈強な体つきをした二人の子分は、いざ宏隆に襲いかかろうとした途端に、その場で動けなくなってしまった。それどころか、ジワジワと徐々に後退りさえしているように見えるのである。

「・・な、なんや、なにしとるんや?、はよ行かんかい!、いてもたらんかいっ!!」

 ナマズ顔のテキ屋の若は、もたついている子分にハッパをかけるのだが、

「うっ・・い、行けへん!・・・ま、前に、歩けへんで!!」

「な、何でや?・・・何でやろ?!・・・足が前に出て行けへん!!」

 ただ立っているだけの宏隆に、ただの一歩も近づけないのだ。
 やってしまえと言われても、闘う前からこの状態では、戦闘意欲が湧くどころの話ではない。もちろん、そのような状況が引き起こされるのは、王老師に指導された訓練の賜物に違いないが、それにしても、宏隆の武術のレベルはかなり高まってきていると言える。

「こ、こいつぅ、ナ二しよるねん!!、ワイらの知らん技を使いよって・・見かけによらず卑怯なやっちゃな!!」

「ははは、たったひとりを七人で囲んでおいて、卑怯とはよく言うな・・・さあ、分かったら黙って引き上げることだ。さもないと、本当に怪我をすることになるぞ!!」

 屈強そうな二人の学生は、息も荒く油汗をかいて、すっかり戦意を喪失してしまったが、そのとき、

「中国拳法、やな?─────────────────」

 ナマズ顔の若の後ろから、ひとりが宏隆に声を掛けた。

「ほう・・テキ屋の兄さんにも、武術の分かる者が居るらしいな」

 宏隆はそれを聞いて、振り返ってそう言った。

「オレの祖国は朝鮮だが、今じゃすっかり日本人みたいなもんや。ナニワにも中国人はたくさん居るが、そいつらと話していると、時々お前みたいな不思議な技を使うヤツのことが話題になったりする・・・何でも ”気” とか何とか、言うそうやな」

「いや、僕のは ”気” 何かじゃあないよ。今のだって、特別に訓練をしたわけでもない。
ただ、こうしていればそう出来ることが自分に分かるだけのことだ」

「ほう・・何にしても、エラい高校生を襲ったもんだな、ウチの若も・・・」

「ええい、お前たち、感心しとらんとコイツを何とかしないか!、何のために大阪くんだりからお前たちを連れて来たと思うてるんや!!」

「大丈夫、ちゃんと仕事はしまっせ・・・」

「おい──────────────」

「よし・・・・!!」

 あらかじめ何かを打ち合わせでもしていたのか、五人の男たちは互いに目配せをして頷き合うと、スッと素早く動く気配を見せた。

「襲ってくるな──────────────」

 そう思って宏隆は身構えたが、意外にも、二人の男が本殿のすぐ裏に立っていた珠乃の方に向かって走り出し、後の三人は慌てて後を追おうとする宏隆に、通せんぼするように両手を広げて立ちはだかった。

「くっ・・・・し、しまった!!」

「きゃぁああ──────────────っ!!」

 すぐに、珠乃の疳高い悲鳴が、辺りをつんざいて響いた。



                                  (つづく)





 【神戸護国神社】

   



  *次回、連載小説「龍の道」 第88回の掲載は、5月15日(火)の予定です

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2012年04月15日

連載小説「龍の道」 第86回




第86回 龍 淵(9)


 あれからもう、何週間か経つ。その間、何度パラシュートで空を飛んだことだろうか。
 宗少尉とのタンデムジャンプですっかりスカイダイビングに魅せられた宏隆は、決められた訓練スケジュール通りに、天気さえ良ければ週末には必ずいつもの鶉野(うずらの)の飛行場に赴き、パラシュートで降下することを繰り返した。

 特攻に散った人々の想いを決して無駄にしてはならないと、この滑走路から飛び立つ度に宏隆は思う。自分もまた、北朝鮮の偽装船から襲撃を受けたり、台湾のホテルから拉致されたりと、実際に短期間に二度も外国人からの干渉を受けている。それは正しくは他国の政治からの干渉であり、もしあの時に自分が平和と安全を唱えて無抵抗で居たら、今ごろこうして空を飛ぶことも出来ず、武術の訓練を続けることも出来なかったのだ。
 かつての日本は、自分と同じように決して無抵抗ではなかった。欧米諸国の脅威に対して否応なく開戦を余儀なくされていった事は内外の歴史家が異口同音に指摘するところだが、敗戦は最初から日本人にも分かっていたのだと思う。分かりきっていながらも、白人至上主義を振りかざす欧米諸国がアジアへ侵攻して来ることに、アジアで唯一、日本だけが敢然と立ち向かったのである。

 ──────────そんな想いを胸に、今日も宏隆はセスナに乗り込む。
 曾て、この同じ滑走路を特攻隊の若者が離着陸を繰り返し、日夜訓練に励んだのだ。


 度胸を決めてやってみれば、これほど面白いことはない、と宏隆は思った。数ある宏隆の体験の中でも、これは最高の部類に入る。自己というものを根底から引っ繰り返すような、大きなチカラがあるのだ。
 そして、想像しているのと、実際にやってみるのとでは、あまりにも内容が違っている。何よりも、数千メートルの上空から飛び出したはずなのに、自分が時速200キロで落下しているとは到底思えないのだ。むしろいつまでもフワフワと宙に浮いていられるような錯覚さえあるが、しかし高度計を見れば、否応なく刻々と自分が地面に近づいている現実が認識される。当たり前のことだが、もし良い気になっていつまでもパラシュートを開かなければ、地面に激突してしまうのである。

 タンデムで飛んだのは、初めの一回だけであった。
 その後は独りで飛ぶことになったのだが、無論、その前にはパラシュートのセッティングやメインテナンス、レスキューパラシュート(予備傘)を開く訓練や、メインパラシュートを切り離す訓練、着地や着水などの訓練が地上で行われる。特に着水時にはキャノピー(傘の部分)が自分の上に落ちてこないようにしたり、素早くパラシュートを外さないとキャノピーやコードに絡まって溺れる場合もあるので入念に訓練する。
 実際に独りで飛び始めてからも、いきなり単独で飛ぶことはない。宗少尉が教官として近くを一緒に降下しながら、姿勢の確認や高度の確認など、空中で細やかな指導を受けながら何度も飛ぶのである。
 宏隆は、わずかな訓練時間で空中で自在に姿勢を変えられるようになり、急降下や減速のための身体の使い方などを思いのまま操れるようになった。


「Very Good ! !、ずいぶん上手に飛べるようになったわね。やっぱりヒロタカは素晴らしい運動センスを持っているわ!」

 着地ポイントに描かれた、直径九十センチの白い円の中にピタリと両足を乗せて降り立った宏隆に、すぐ後から降りてきた宗少尉が声を掛けた。
 
「そうですか、ただ面白くて夢中で繰り返しているだけですけれど────────」

 まるで地上を散歩でもしてきたように、何の乱れもなく普通に歩いているように降り立つ宗少尉を眺めながら、宏隆はひたすら感心してしまう。

「一般のパラシュート・スクールでは日に3回程度のジャンプを限度とするけれど、ヒロタカの場合は学校もあるから時間的にそうも言っていられず、特殊部隊式に一日5回のジャンプまで増やしていったのだけれど・・・まあ、これで総ジャンプ回数が25回を超えたので、これからが本格的なパラシュートの訓練になるわね」

「今日も天気が良いから、もっと飛びたいくらいですね」

「私が教えることは、もうほとんど無いわ。フリーフォール(パラシュートが開く迄の自由落下)での姿勢は自在に操れるようになったから、後はいろいろな状況でたくさん飛ぶことと、決められたポイントにもっと正確に着地できるように練習を繰り返すことね」

「もっと正確にっていうと、どのくらいの?」

「直径3センチの円に、カカトを踏めることよ」

「ええっ、たったの3センチ?、昔の50円玉よりもちょっと大きいくらいの所に?!」

「そんなに驚くほどのコトでもないのよ。その程度なら一般のパラシュート競技でも軽くこなす人が多く居るわ。むしろそんな競技では、誰がそれを外すかで勝負が決まることが多いんだから」

「すごいなぁ、特殊部隊も真っ青という感じ・・・」

「いいえ、特殊部隊は百パーセントそれを外さない訓練を受けるのよ!」

「ひえっ、恐れ入りました──────────────」

「それに、様々な状況で訓練を積まなきゃいけないわ。いつかも言ったけど、ジャングルの狭くて小さなポイントにスッと降りられるような正確さが求められるのよ。そうでなくてはただの週末のアクティヴ・レジャーと同じことだから」

「哎呀(アイヤー)、難しそう・・・・」

「スポーツとしてスカイダイビングを楽しむのとは違って、ヒロタカの場合は戦闘を想定した様々な訓練がパラシュートを通じて行われることになるわ。台湾に戻ったら、早速そんな訓練が始まるからね」

「台湾で?、宗少尉が日本に居る間にやればいいのに・・・」

「だって、日本じゃ武器や弾薬を持つわけにいかないでしょ。自衛隊じゃないんだから」

「あ、武器を携行しての訓練か、それもいいな。台湾へ行く途中に襲撃してきた朝鮮の偽装船なんか、空から密かにパラシュートで忍び寄って、手榴弾を落として機関を破壊すれば良かったですね」

「・・・そうね、速い船にランディングするのは難しいので、そんなコトも訓練するのよ。まあ、訓練だから相手は実弾で攻撃してこないけどね。中国や北朝鮮の船なら見つかり次第躊躇せずいきなり撃ってくるから、覚悟しなきゃね」

「え、冗談で言ったんだけど、ホントにそんなことをやるんだ・・」

「他にも、セスナやヘリの操縦なんかも、ある程度は覚えてもらうことになるわ」

「わぁ、ホントですか!!」

「万が一、パイロットが撃たれた場合などに備えて、ある程度の操縦はできなきゃね」

「 ”ある程度” って、そんなんじゃ墜落してしまうのでは?」

「大丈夫よ、たぶん・・・」

「たぶんって、そんな無責任な・・・人命は地球より重いんですよ!」

「それは日本の話でしょ。中国じゃ昔っから人命はチリ紙よりも軽いんだから。まあヘリの操縦は難しいけど、セスナなんかはそんなに大変じゃないから・・・」

「うわ、すっごい、メッチャクチャ適当なこと言ってる!」

「あはは・・オトコは黙って訓練していればいいのよっ!!」

「ぼくはビールじゃないんだからね、もう・・」

「さあ、馬鹿なこと言ってないで、今日のジャンプはお終い。これから神戸に戻って射撃訓練よ。射撃は欠かさず訓練しないとウデが鈍(なま)るからね。今日はライフルよ!」

「格闘訓練は?」

「やりたければ、どうぞ。南京町の地下にはゴツイ相手がごろごろ居るでしょ」

「よし、今日は負けないぞ!」

「そう、その意気よ。功夫も大事だけど、まずは絶対に負けないという気持ちが大切ね」

「・・で、その後は?」

「ふふ・・たこやき、食べに行こうか────────────」

「ええっ、またタコ焼きを食べるの?」

「だって、”蛸の壺” の明石焼き、スゴく美味しいんですもの!、あのお店、これからきっと何十年も営業が続いて立派な老舗になるわね」

「はいはい、お付き合いしますよ。毎週食べないと口がナマるんでしょ、きっと・・」

「そうよ、美味しいモノだって、功夫を積まなきゃ!!」

「やれやれ・・・」


 宗少尉が神戸に来てからはおよそ、そんな毎日を過ごしていた宏隆であるが、降下訓練が25回を超えた、その週末が終わった月曜日の朝─────────────


「加藤くん・・加藤くん!・・・ヒロタカ!!」

 学校に向かう路を歩いていた宏隆に、後ろから誰かが声を掛けた。

「え?・・・ああ、なんだ、キミか・・・・」

「なんだ君か、とはご挨拶ね。 ”おはよう” くらい言えないの?」

「あ、失礼・・おはよう、今朝は風が冷たいね、はは・・・」

「まあ、取って付けたように!、でも許してあげるわ、宏隆は昔からそうだから」

「う、コホン・・・」

 同じ高校に通う、息長珠乃(おきなが・たまの)である。
 珠乃は、宏隆が小学校三年生の時に奈良から引っ越してきて、国玉通の南側にある瀟洒な屋敷に住んでいる。珠乃は宏隆のクラスに来た転校生であったが、家がすぐ側のこともあって、その時からずっと幼馴染みの付き合いが続いており、お互いの家にもよく遊びに行ったりする、親同士もよく気が合うような間柄であった。

「そろそろ六甲颪(ろっこうおろし)が厳しくなってきたわね・・」

「ん?、ああ、そうだね。♪六甲オロシにぃ、サッソウとぉ〜、ってか、はは・・・」

「何言ってるの、ロクに野球のルールも知らないくせに。それに何だかボーッとしていて、ぜんぜん颯爽としてなんかいないわ」

「ははは・・まあ、六甲颪は ”ボーラ” ほどじゃないけど、本当に寒くなってきたね」

「ああ、ボーラね。私も家族でトリエステ(イタリア北部の州都)に行ったことがあるけれど、中心街の歩道には、歩行者が風に飛ばされないために、掴まるロープや鎖がそこら中に張ってあるものね」

「そう、風速40メートルくらいの風が普通に吹くんだよな、あの街は。オートバイなんか簡単にバタバタ倒れてしまう」

「──────────加藤くん、何か悩み事でもあるの?」

「・・え、どうして?」

「最近、学校でもずっとボォーッとしているし、何だか疲れているみたいで・・」

「そう?、まあここんトコずっと飛んでたんで、そりゃ体もくたびれているんだろうけど」

「飛んでた・・って?」

「え?・・あ、そうそう、近ごろはブッ飛んでるような生活だったというか、はは・・」

「ふぅーん・・・宏隆、何か隠してるわね?!」

「そ、そんなことないよ・・・」

「いいえ、最近少しおかしいわ。特に夏休みの前と後とでは、まるで人が変わったみたいになってしまって。何があったのか、ちゃんと私に話しなさい!」

「何もないよ。なんだよ、まるで女房みたいなコト言って・・・」

「にょ、女房って・・・わ、わたし、あなたの奥さんじゃなくってよ!!」

「いや・・・だから・・まるでそんな言い方だ、って──────────」

「そりゃあ、小学校の時にすぐ側に引っ越してきてから、なぜかずっと同級生で、ほとんど席も隣か前で、毎朝わざわざ宏隆の家に寄って、ランドセルに教科書や筆バコを詰めてあげて、挙げ句の果てに本人がそのカバンを持たずに、変な棒っきれだけを大事そうに持って玄関を出ても、私がカバンを抱えて学校まで従いて行ってあげましたけどね!!」

「またそれを言う!・・小学校の時の話だろ、あれから何年経ってると思ってるんだ?」

「ひとが心配して言ってるのに、もうっ・・バカ宏隆、知らないからっ!!」

「・・あ、おい、待てよ、珠乃!・・・まったく、昔から短気なんだから・・・」

 小走りをするように、珠乃がぐんぐん先に歩いて行く。

「待てよ・・・待って、ってば──────────────」

 春になれば見事に桜が咲き乱れる国玉通りを東に歩いて護国神社のところまで来たとき、珠乃がクルリと振り向いて、

「はい、待ったわよ!」

「もう・・そんなコトで怒るなよ、子供じゃないんだから」

「・・あ、同い年なのに、私が今でも子供だと思ってるんでしょ!」

「また、そうやってケンカを売る・・・・」

「ケンカじゃないわ、宏隆がバカなのよ!」

 珠乃がそう言い終わったとき─────────────────

「ほおー、朝からお安くないなぁ・・・・」

 ぬう・・と、護国神社の脇の松林から、とつぜん学生服姿の男が姿を現した。

「誰だ────────なぜ道をふさぐ?」

「はン、この顔をもう忘れたんかいな・・・この夏に、ハンサムな兄貴に用があった時に、一緒に居た弟のお前に見事に伸(の)されて、気絶させられた男やないか!」

 この物語の初めに登場した、不良学生のボスである。(註:龍の道・第2〜3回 参照)

「ああ、あの時の・・・!!」

 宏隆は懐かしそうにニコニコ笑っている。

「その節はえろう世話になったなぁ、今日はわざわざ挨拶に来たんやで・・」

「すっかり元気そうじゃないか。手加減してやったから、すぐに回復しただろう?」

「くっ、相変わらず口の減らんガキやな。あの時は高校生やと思うて、つい油断したんや。けど、今度はそうはいかへんで、覚悟してもらおか!」

「なるほど、雪辱戦ってコトか。しかし、馬鹿馬鹿しいからそんな事はヤメにしないか?」

「お前には馬鹿馬鹿しくても、ワイにとっては、そやないんや。きっちり落とし前をつけんとコンプレックスになってしもぅて、これから生きて行けへんからな」

「そうか、まあその気持ちは分からんでもないが、僕はこれから学校へ行くところだから、せめて放課後にしてくれないか?」

「・・宏隆、このヒト、お友だちなの?」

 心配そうに、珠乃が訊ねる。何やら凄まれていることは珠乃にもわかる。それに相手は宏隆よりも年上で体格も大きく、ナマズのように潰れた黒い顔の中で妖しく光っている眼も気味が悪かった。

「いや、友だちじゃないが、どうやら、まんざら縁の無い人間でもないらしい・・」

「へっ、こっちは忙しいンや。お前が何時にここを通るか、ずっと調べて今日が最適やと思って来たんや。ま、すぐに済むから、神社の裏まで顔を貸してもらうで!」

「やれやれ、仕方がないなぁ・・・珠乃、まあそういうワケだから先に行ってくれ」

「おっと、そうはいかんで。すぐその先には交番もあるよってな。けど、オンナを使って人を呼ぶとは、意外とお前も卑怯なやっちゃなあ」

「誰がそんなコトするもんか、ただ彼女を巻き込みたくないだけだよ!」

「いいわ、私も行く─────────────────」

「ば、馬鹿、何言ってるんだ・・・危ないから先に行ってろって!」

「いいえ、男が卑怯だと言われて、そのまま引き退がるわけにはいかないでしょ。私も行きます。行って、この人の言う ”落とし前” とかいうものがどんなものか、見届けてあげる」

「ほぉーお、今どき珍しい、えろうキモのすわった女やな。ほら、彼女もそう言ぅてるやないか、二人して仲良う一緒に来いや!」

「ば、バカ、何てことを言うんだ、いいから、合図をしたら学校まで突っ走れ!!」

 珠乃の耳元まで近づいて、小声でそう言い聞かせるが──────────

「イヤよ、私だけ逃げるなんて!、宏隆と一緒に行く!!」

「お、大きな声を出すな、バカ・・・」

「人のことを、バカ、バカって言わないでちょうだい!・・・さあ、大阪弁のキミっ、宏隆に用事があるんだったら、さっさとオトシマエをつける所に案内しなさい!」

「ヒューッ!、これぁ、坊主よりもオンナの方がよっぽど強いでぇ・・ワハハハハ!!」



                                  (つづく)



【スカイダイビングの動画・映画「Point Break」より】

      



  *次回、連載小説「龍の道」 第87回の掲載は、5月1日(火)の予定です

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