*第71回 〜 第80回
2011年10月15日
連載小説「龍の道」 第75回

第75回 構 造(10)
「もう一度、陳師兄と散手を・・・・?」
「そうだ、再び陳と一手交えてみて、自分の ”順身” を確かめてみると良い」
「でも先ほどは、もう陳師兄に向かって行かなくても良いと言われましたが・・」
「うむ、こんなに早く君が気がつくとは思わなかったからね」
「気がつくとは・・・ぼくは何に気がついたのでしょう?」
「歩き方に、歩法のシステムにだよ。自覚が無いのかね?」
「自分では、よく分かりません──────────」
「しかし、”左右” という考え方が違っていたことには・・・?」
「はい、自分の歩き方は、言うなれば、ひとつの軸を動かして歩こうとしていて・・・・・ちょうど、竹馬を横棒で繋いだような構造で歩いていたのだと思えました」
「ほう、それはなかなか面白い表現だね」
「けれども、後ろから拝見する王老師の動きは、まるで二つの軸で動く竹馬のように見えたのです」
「ふむ──────────────」
「竹馬を、もし横棒で左右に繋いでしまったら、竹馬として歩けません。自分はそんな構造のままで、それ自体を工夫して歩こうとしていたのだと思います。後ろから拝見する王老師の歩き方は、決してそんな不具合な構造ではなく、何というか・・・・」
「どう見えたのかな?」
「まるで、猫がゆったりと歩いているような、蛇がくねって歩いているような・・・」
「ははは、君にかかっては、私もネコになってしまうね」
「あ、いえ、失礼しました。猫や蛇というよりも、龍というものが存在するなら、きっとそんなふうに動くのだろうと思えます」
「ははは・・・まあ、そんなに持ち上げなくても良い。あの歩法は心意拳ではズバリそのような名前が付けられているがね」
「えっ────────」
「私は、その歩法はもともと、心意六合拳から取り入れられたのだと考えている。
それに、君が想像した ”竹馬” というのは非常に良いヒントになると思う」
「竹馬が、ですか───────?」
「そうだ。竹馬をもっと研究してごらん。日本にあるような竹馬は中国には無いからね」
「えっ、本当ですか?・・・ぼくはてっきり中国から渡って来たものだと思っていました」
「ははは、自国の文化は何でもかんでも、隣の三千年の歴史を誇る中国から伝えられたと思い込んでしまうのが、温和(おとな)しくて人の好い日本人の悪いクセだと、いつもK先生が話されていたよ。
インテリを気取る人間ほど漢字ばかりの難解な文を書きたがり、そのくせ和歌のひとつ、俳句のひとつもつくれない、とか、シェイクスピアや四書五経をありがたがるのに万葉集のことは何も知らない、とか・・・・
日本は世界にも希な独自の優れた文化を持っているというのに──────────中国人の私から見ても、それはとても悲しいことに思えるがね」
「はい、確かに仰るとおりです。しかし、”竹馬の友” というのは、確か中国の故事ではありませんでしたか?」
「竹馬の友は日本でも幼友だちという意味を持つそうだが、李白が詠んだものに ”長干行” という、自分が結ばれる縁となった幼馴染みの男の子が、幼少の頃に竹馬に跨がってやって来て、井戸の回りで青梅を玩具にして遊んでいた・・・・という情景から始まる、女性の視点から描かれた美しい詩があって、そこから "青梅竹馬" という語が異性の幼馴染みという意味で使われるようになったのだ。この詩は、少女時代の初恋から結婚を経て、遠征した夫の帰りを待ち侘びるという女心を歌い上げた、中国でも人気の高い詩のひとつだ」
「格調の高そうな詩ですね。日本に帰ったら、ぜひその詩を読んでみたいです」
「しかし、中国の竹馬は日本のように手で持って足を掛けて乗るようなタイプのものではなく、 ”ツウマァー” と言って、馬に見立てた竹に跨がって遊ぶものだ。時代や身分によっても馬の顔が竹の先端に付いたり、下端に小さな車輪が付いたりする」
「あ、それは日本にも同じものがあります。馬の顔があったり手綱が付けられたものも時代劇にはよく出てきます」
「もしかすると、日本のような ”竹馬” は、世界でも珍しいものかも知れない」
「スティルツという、脚の下に着ける高下駄のようなものは、木下サーカスや神戸の南京町の客寄せでも見たことがあります」
「・・・ああ、それは中国では ”ツァイガォチャオ” と言って、演劇から大道芸にまで、よく使われますね。もともとはヨーロッパで発達したものでしょう。
脚に固定するものと、脚に装着するだけではなく、そこから伸びる長い棒を手でつかんで乗るものもあります。足場が悪いフランスのどこかの地方では、郵便配達がそれを履いて来るそうですよ」
傍らから、何でもよく知っている博学な陳中尉が言った。
「西洋の竹馬ですね──────────そういえば、スティルツは日本の竹馬のようには乗らずに、脚を乗せるところを横向きにして、足の外側、体側(たいそく)の方に棒をついて乗るのでしたね」
宏隆が、陳中尉に訊ねる。
「そうそう。ベルギーか何処か、ヨーロッパのお祭りでは、その横乗りの竹馬・スティルツを用いた騎馬戦が、中世の昔から今に至るまで盛大に行われているそうですよ」
「陳師兄、本当にいろいろとご存知ですね、すごいなぁ・・・」
「あはは、お恥ずかしい。ただの雑学ですよ、ただ色々なことに興味があるだけです」
「いやいや、陳は寸暇を割いては図書館に行くのが趣味のような人間だからね。どのようなことにも徹底して興味を持ち、それを追求していくのはとても良いことだ」
「はい、よく見習わせて頂きます──────────」
「まあ、竹馬はもう良いとして、ともかく陳ともう一度やってみなさい。きっと多くの発見があるはずだ」
「はい」
「では・・・さっきは見事に飛ばされましたが、お手柔らかにお願いしますよ」
陳中尉がにこにこ微笑みながら、宏隆の前に進んでくる。
「お願いします!」
宏隆は直立して姿勢を正し、ピタリと包拳礼を陳中尉に向けた。
緊張はあっても、向かい合って立つ宏隆には、もう何の迷いもない。
範とするべき偉大な先輩である陳承明(ちん・しょうめい)という人間の大きさに、その武人としての軸の強力さに圧倒されることには何も変わりがないが、今の宏隆はそれどころではなかった。
それよりも何よりも、順身の構造を、そのメカニズムを理解しなくてはならない。
そうしなくては太極拳は、自分の求める至高の武術は、何も始まってはくれないのだ。
それに、さっき「逆さまだよ」と王老師に言われたことが、何のことだか未だ解決していない。いったい何が逆さまなのか、暗闇の中で手探りをして、それがどんな物なのか分かりそうで判らないような感覚と似ている。
逆さまだと言われた直後に、無意識に身体が動いて、陳中尉が数メートルも崩れて飛んだが、自分では偶然そうなったとしか思えなかった。
だがしかし・・・・もしかすると、それはこうではないか、と思えることはある。
それを、そのたったひとつの小さな光を、よく確かめてみようと、宏隆は思う。
「スゥ──────────────ッ」
「うわわっ・・・・」
そんなことを考えているわずかな間に、陳中尉が音もなく近づいてスッと拳を放ってきたので、宏隆は慌ててそれを避けたが、しかし──────────────
「うわあっ・・・!!」
宏隆が避けた途端に、正にそのところに、瞬時にして向きを変え、陳中尉が入ってくる。
宏隆は足が間に合わず、思わずよろけて尻もちをついた。
なぜ、こんなに素早い動きが出来るのか。
まるで真っ直ぐに歩いているまま同じ方向に続けて入って来たような、向きをいつ変更したのかが全くこちらには見えない、ちょっと人間の動きとは思えないような素早い動きなのである。それに、大きく踏み込んで拳を打ってきているのに、足音もしない。
すぐさま飛び起きて構え直したが、立ち上がったと同時に、
「スサッ──────────」
陳中尉の拳打が、宏隆の顔面に飛んでくる。
「うっ────────────!!」
その拳を避けているわけではないのに、身体全体が大きく崩されて、渦に飲まれたように旋回しながら、あらぬ方向へ飛ばされてしまう。
同じように崩され、飛ばされても、さきほどの散手とはテンポもムードも大きく違っている。陳中尉は受けに回るようなことはせず、どんどん宏隆に攻撃してくるのである。
しかし、何という速さなのだろうか──────────王老師といい、その直弟子であるこの陳中尉といい、身体がこんなに素早く動ける武術を、宏隆は他に知らなかった。
「さあ、どうしました。しっかり攻撃してこないと何も分かりませんよ!」
ちょっと呆然としている宏隆に、陳中尉から声が掛かる。
「あ、はい・・・・行きます」
確かに、陳中尉の動きに感心している場合ではない。
「ササッ、スサッ──────────」
軽やかなステップで大きく踏み込みながら、何度か拳を打っていく。
だが、今度はさっきのようには崩されない。陳中尉は体を開いたり、上半身を曲げたりしながら、宏隆の拳を軽く躱(かわ)している。
「そんな、ボクシングもどきのステップで打ってきても私には当たりませんよ。もっと歩法を大切にして、太極拳の戦い方を身に着けるのです」
「はい──────────」
確かに、さっきの散手の感覚のまま陳師兄に向かってしまっていた、と宏隆は反省した。
しかし、陳中尉の前に立った途端に、何故か身体がぎこちなく動いてしまうのもまた事実ではある。
王老師や陳中尉は、軸の取り方が普通の人間とは全く違っている、と宏隆は思う。
いや、まだ自分には未知の世界だが、そもそも太極拳の戦い方というのは、軸の取り方が普通の武術とは完全に異なっているのかもしれない。向かい合ったその瞬間に、もうすでに相手は、実力の半分も出せないような取られ方をしているのだと思う。
宏隆の、”ケンカの若大将” と呼ばれるほどの豊富なストリートファイトの経験でも、勝負というのは、いざ向かい合ったそのときに、すでに勝敗の半分以上が決まっていた。
まだ勝負が始まっていないうちから、コイツには勝てると確信できたり、反対にこの相手には絶対に勝てないと思えたりもする。そして、結果はほとんどいつもそのように、初めに感じられたとおりになることが多かったのである。
それは、相手の「武術的な軸」の度合いによるものであると思える。武術の実力というのは取りも直さず、軸の強さ、軸の完成度にあるのではないかと、宏隆は思うのだ。
「そうだ、架式だ──────────────」
その武術の完成度を決定する ”軸” の在り方は、ひたすら架式によって成り立つ。
歩法とは、歩き方とは、その架式を一歩ずつ繰り返すことに他ならない。歩みとして動く一歩ずつを完成された架式として丁寧に歩かなければ、武術としての強力な軸も、威力も、生じるはずもなかった。
宏隆は今になって、ようやくそれに思い至った。
「あの歩法だ───────────あのとおりに、歩いてみよう」
その、クネクネとした奇妙な歩法は、初めて経験する宏隆にはとても歩きにくかったが、歩いているうちに徐々に自分の体が勝手に調整されてくるような、不思議な感覚があった。それに、歩き終えたときに、自分が立って居る位置がそれまでとは大きく違っていたことに気付かされた。
宏隆の脳裏には、さっき一緒に歩いた王老師の後ろ姿が、まざまざと焼き付いていた。
後ろに従いて、夢中で歩いていると、だんだん自分が王老師の身体の中に入って、一体となっていくような気がしてくる。
──────────そのときの、その感覚のまま、宏隆は陳中尉に向かって、歩いた。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第76回の掲載は、11月1日(火)の予定です
2011年10月01日
連載小説「龍の道」 第74回

第74回 構 造(9)
何といっても、歩きにくい──────────────
平らな床の上を歩いているのに、まるで綱渡りをしているような不安定さがある。
けれども、こんなことが果たして太極拳の、武術の、何の役に立つのだろうか。
「王老師・・・いったい何なのですか、この歩き方は?
武術というよりも、まるでバレエか何かの練習をしているみたいに思えますが」
あまりにも武術とは掛け離れていそうなその歩き方を、宏隆は不思議に思った。
どうにかこうにか、王老師に就いて訓練場の端から端まで、取り敢えず歩いてはみたが、すでにもう、それだけでも太腿の横の辺りが突っ張って痛い。
「太極拳の、とても重要な歩法(bu-fa)のひとつだよ。これで、もし太腿が痛くなるようなら、君の歩き方が間違っているというわけだ」
痛そうな顔をしたわけでもないのに、見透かすように王老師が言う。
「歩法?────────こんなクネクネした奇妙な歩法も、太極拳にはあるのですか?」
「あるどころではない。この歩き方は太極拳の全ての動きや原理を表している。これこそが最も重要な基本とされる、”太極歩(taiji-bu)” の正体であり、これこそが、陳氏太極拳が心意拳に学んだことを証明する、確たる証拠と言えるものなのだ」
「えっ・・・こ、これが太極歩の原理?!」
「そうだとも。それが分からないようでは、君はまだ歩法を理解していないことになる。
この歩法は、太極拳と並んで内家三拳と称される、形意拳、八卦掌にも共通する武術構造を正しく表すものだ。つまり内家三拳は心意拳の原理が用いられているということだ」
「内家拳の────────形意拳や八卦掌の構造までが、この奇妙な歩き方に・・・」
「そうだ。八卦掌の凄さは、すでに君も目にしたことがあるだろう?」
「はい、海軍基地で宗少尉と黄(こう)さんが一戦を交えたときに、素晴らしい八卦掌の技を見せてくれました。武漢班のトップと言われる黄さんの武術は八卦掌で、宗少尉のスピーディな少林拳の動きを完全に封じていって・・・まるで忍者が水の上を歩くような、スケートで氷の上を滑っているような、すごい歩き方でした」
「ニンジャのことは私にはよく分からないが・・・・まるで水や氷の上を歩くようだというのは、よく八卦掌をよく言い表しているね。内家拳の歩法はすべて、蹴り上げたり、落下したり、力んだりしてはならないものだ。黄くんの八卦掌はまずまずの功夫だが、私の見る限りでは、まだ大切なことが欠落している」
「大切なこと・・・?」
「そうだ、それが何か、分からないかね?」
「ぼくがですか? 自分になど、八卦掌の何が分かるでしょうか──────────」
「よく思いだしてみなさい。君はもう、その大切なことに薄々気付いているはずだ。
黄くんは、宗少尉と、どのように戦っていたかな?」
「そうだ・・・あの時、ぼくはとても不思議だったのです。黄さんが一歩を移動する間に、宗少尉は二歩も三歩も歩かされていました。それに、黄さんの身体の前後左右があっという間に入れ替わって、宗少尉はあらぬところを・・・まるで、さっきまで黄さんが居たところへ、わざわざ遅れて突いたり蹴ったりしているように見えたのです。その光景を目にしたときに、自分が王老師に向かって行ったときのことを思いだしました」
「────────ふむ、そこで何か思い当たることがあったかな?」
「はい、神戸の地下室で手合わせをして頂いたときには、王老師はほとんど動かず、攻撃していく自分が、ただ空振りをさせられて、走り回っているだけでした。自分の攻撃が、ことごとく躱(かわ)されてしまうのではなく、まるでわざわざ王老師の居ないところを打って行ってしまう様な、不思議な感覚です。躱されているという実感がまるでなく、王老師が動いているのかどうかさえもロクに分からない状況でした───────それが黄さんと戦っている宗少尉と、そっくり同じ現象だと思いました」
「ふむ・・・それは、宗少尉も良い勉強をしたね」
「何より驚かされたのは、まるで水中の魚が、あっという間に向きを変えてしまうような動きでした。余りにも黄さんがヒラリ、ヒラリと早く動くので、リングの外から観ている自分でさえ、黄さんが一体どちら側の半身で構えているのかが認識しにくいほどでした。
そのせいでしょうか、宗少尉はたびたび黄さんに背中に回られてしまい、戦闘でバックを取られたらもうお終いだと、陳師兄が言われました」
「確かに、相手の後ろに回ることが出来るほどの実力差なら、勝負は十中八九は決まったようなものだからね」
「宗少尉の少林拳の技は、ちょうど日本の空手を軽快に、伸びやかにしたような感じで、素早く鋭く黄さんに迫っていくのですが、前蹴りで蹴って行ったときに、黄さんに見事に頭から落とされてしまいました」
「それはおそらく、八卦掌の ”倒銀瓶”だろう。銀の瓶子を倒す、と書く技だ」
「そうです、そのとき陳師兄にその名を教えて頂きました。
あまりにもその技が鮮烈だったので、それから見様見真似で、密かに練習していたのですが、拉致事件のときに、自然とそれを敵の一人に使ってしまいました」
「ほう、倒銀瓶を北朝鮮の工作員相手に・・・・で、どうなったかね?」
「必死の状況だったことも手伝って、運よく、上手く決まってくれました」
「それは大したものだ、はははは────────」
「・・・あの時、ヒロタカが拉致された部屋には、敵の射殺死体がひとつ発見されました。
ボーイとして潜入していた程くんの供述調書には、ヒロタカに悶絶させられて動けなくなったメンバーが居て、おそらくリーダーの徐が、逃走の足手まといになると考えて撃ち殺し、罪を着せるために気を失わせた程くんの手にその銃を持たせたのだろう、と書かれていましたが、そのときのことですか?」
突然、陳中尉があの事件のことを語ったので、思わず宏隆の表情が暗くなった。
自分が叩きのめした所為で動けなくなった相手が、結果的に徐に殺される羽目になったのである。悲壮な最期を遂げた徐にしても、宏隆が悶絶させたその男にしても、自分を酷い目に遭わせた敵とは言え、あの事件が終わってからも、まだ宏隆の心は決して晴れては居なかった。
「・・あ、すみません。嫌なことを思い出させてしまいましたね。私たちは、そんな事に慣れっこになってしまっていて───────ヒロタカは武漢班のメンバーではないのに、つい、心無いことを口にしてしまいました」
すぐに宏隆の表情に気付いて、宏隆に謝ったが、
「いえ、構いません、自分の問題です。どうか気になさらないで下さい────────
多分その人は、ぼくが ”金剛搗碓” の応用で気絶させた相手です」
やはり宏隆は、あの拉致事件のショックから、まだ完全に立ち直れてはいない。
短い期間に、見知らぬ異国の地で、あまりにも多くのことが若い宏隆の身に降りかかり、
それを時間的にも精神的にも処理できない状態が続いているのであった。
「闘いとはそういうものだ──────────敵である相手は、倒さなければ、殺さなくては自分が殺られてしまう。人を倒し、傷つけることには誰しも心が痛むが、そうしなくては自分が同じ目に遭って、自分の人生がなき物とされ、自分を愛する人たちが悲しむことになる。
国家、民族、家族・・・そして自分自身の、その存在や誇りを、大切な絆を、有無を言わさず破壊しようとする者たちに対しては、それが誰であれ、敢然と立ち向かわなくてはならない」
少し怖い表情をして、王老師が言った。
「そうですとも・・・あの場合、ヒロタカが取った行動は、何ひとつ間違っていません。
それに、師父などはもっと辛い、哀しい目に遭って来られています」
陳中尉も、宏隆を気遣って言葉を添えた。
「はい、ぼくは大丈夫です。すみません、ちょっと思い出してしまって・・・」
人が成長するためには、そこには必ず超えて行かなくてはならないものがある。
辛く哀しく、心身共に厳しい状況に遭わされた、あの忌まわしい拉致事件ではあったが、しかしそれは、まだ若い宏隆が大きく成長するための、かけがえのないステップボードになってゆくこともまた、確かではあった。
「さて、その八卦掌の動きだが、それと今見せた歩法との共通点は何か、分かるかね?」
王老師が宏隆に問いかけた。
「いえ、よく分かりません──────────」
「ならば、もう一度歩いてみることにしようか」
「はい」
「ヒロタカ、こんな機会は滅多に無いことですよ。師父は、普段は新しいことは一回しか弟子に示されないことが常なのです」
そういえばそうだ────────陳中尉に言われて、ようやく宏隆はそのことを思い出した。
台湾へ来てから王老師に教授されない日々が続き、挙げ句に色々な事件が起こって、すっかりその感覚が薄れてしまっていたが、王老師はどんなことを教えるときにも、必ず一度に一回が当たり前であったのだ。
「は、はい・・・・」
王老師はニコリともせず、陳中尉を一瞥すると、再び宏隆の前を歩き始めた。
「そうだ、本当は一回コッキリなのに、今日は何故か何度も見せてもらえる・・・・
それほど大切なことが示されているのだ。こんな機会を逃して良いはずがない」
今度は逃すまいと、王老師の後ろから、その奇妙な歩法で歩いて行く。
「もっと私の動きを・・・部分ではなく、コトの全体をよく観るのだ」
「はい」
「自分の見たいところばかりを見ていても駄目だ。考えることを止めて、見るもののすべてが自分に入ってくるように、何も自分を挟まず、 ”ただ、見守る” のだ」
「ただ、見守る──────────」
宏隆は、京都の大徳寺に参禅したときにも、全く同じことを言われたのを思い出した。
禅とは、考えることではない。禅とは思考を、あれこれと考えるのをやめることなのだ。
考えるのを止めて、自分の心が風の無い凪いだ湖面のようになれば、己を映す鏡の如く、そこに本当の自分自身が映し出される。
そうなるまで、ただ黙々と座り、ただ黙々と塵を掃き、ただ黙々と歩きながら、ただひたすら、そこに映し出された己自身を見守るのだ──────────────
大徳寺の和尚は、参禅を続けている宏隆にそんなことを諭した。
自分は、見てやろうとしていた、と思う。
自分がやれることをその中に探したり、自分が分かることから、自分なりにそれに取りかかろうとしていたのだと思える。
だから、それが太極歩の原理を表すほどの、内家三拳の構造を表すほどの重要な歩法であっても、先ずはただの ”奇妙な歩き方” に見えてしまうのだ。
それは、間違いなく自分の ”傲慢さ” だと宏隆には思えた。
もっと謙虚に、物事を、その物事として、素直に見ることが出来なくてはならない。
そうしなくては、太極拳の深遠な原理も、構造も、自分にとっては正に猫に小判となるに違いなかった。
「さあ、もういちど、従いてきなさい──────────────」
「はい」
大徳寺の和尚に言われた言葉を思い出して、宏隆は見方が少し変わった。
その所為だろうか、王老師の後から歩いていると、さっきまでよりも少し違うことが見え始めてきている。
「嗚呼、この歩き方は、こんなふうに体が動いていたのだ──────────
何ということだ、王老師はさっきと全く同じように歩いているのに、ぼくはそれを自分の見たいように見ていただけで、こんなふうに動いているとは、とても思えなかった・・・
馬鹿め────────この、宏隆の、大馬鹿者め!!」
己の傲慢さを、思い上がりを心の中で罵りながら、王老師の後を従(つ)いて歩く。
そして、ふと、そのとき宏隆は気付いた。
「何故、後ろから従いて来い、と言われたのだろうか────────?」
前から見なさい、横から見なさい、陳中尉と並んで従いて来なさい、ではない。
なぜ、後ろからついて来い、と言われたのか。
そう気付いたときに、それまでとは全く違う見え方が、そこに見えるようになった。
王老師の後ろ姿に、である。
「こ、これは・・・・!!」
そして、それが見えた途端に、宏隆の身体は、それまでとは全く違う動きをしていた。
「ほう・・・何か、少し気が付いたかな?」
王老師が、ポツリとそう言った。
「・・ま、前を歩いて居るのに、ぼくの考えていることが分かるのですか?」
「ははは、もし君が後ろから私を襲おうとしていたら、それを分からなくては自分の命が危ないではないか・・・相手が何を考え、何をしようとしているかを正しく察知できることが武術の極意なのだよ」
「・・・・・・・」
「・・さて、そろそろ、少しは原理が見えてきたかな?」
歩き終えて、宏隆の方を振り返って、王老師が言う。
「はい。左右が、左右というものの考え方が、間違っていました」
「ふむ・・・陳よ、お前から見て、彼の歩き方はどうだったかね?」
「はい、先ほどよりも、かなり身体が動くようになりました。ヒロタカが自分で言ったとおり、左右の構造変化が、これまでとは格段に違ってきています」
「王老師・・・これが、この動きが、順身の原理なのでしょうか?」
「そうだ。だが、順身の原理は ”動き” ではなく、"変化" というべきものだ。構造は動かすのではなく、自然に変化するのだ。そして、それを理解するためには・・・」
「站椿が必要になる────────────?」
「そのとおり。では、なぜ站椿が必要か、分かるかね?」
「立つことが、立とうとすることでは無いからです」
「そうだ、よく分かっているじゃないか」
「では、黄さんが八卦掌で見せた、あの魚が向きを変えるような動きも────────?」
「ちょうど良い、それを知るためにも、もう一度、陳と手合わせしてみるがいい」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第75回の掲載は、10月15日(土)の予定です
2011年09月15日
連載小説「龍の道」 第73回

第73回 構 造(8)
もう、陳中尉に向かって、幾度打ち込んで行ったことだろうか──────────
「何がなんでも、今、この場で、これを取らなくてはならない」
そんな強い気持ちに貫かれていて、繰り返し、繰り返し、どれほど壁や床に叩き付けられても、コマに弾かれたようにキリキリ舞いにさせられても、懲りずにまた陳中尉に向かっていく。
「これは・・・この少年は、やはり並の人間ではないな」
気の済むまでやりましょう、と言いはしたが、向かってくる宏隆の勢いは少しも衰えないばかりか、むしろだんだん激しく、鋭くなってくるようにさえ思える。何度も、何度でも、解るまでは決して止めようとしないその執念には、さすがの陳中尉も少しばかり驚きを隠せなかった。
しかし、その幾度となく打ち続けていた拳打の、さらなる一本を打とうとした時に、突然王老師が声を掛けた。
「さかさまだよ、それは────────やるべきことと、ちょうど正反対だ」
「え・・・は、反対───────?」
いったい何を言われているのだろう、と宏隆は思った。
”正反対” とは、何のことをいうのか。宏隆には、まるで見当がつかない。
だが、それから幾度か向かって行くうちに、ふと────────
陳中尉が宏隆を崩そうと、そのための変化を始めた、まさにその瞬間の動きが、それまでとは違って宏隆には妙にゆっくりに感じられて、その僅かばかりの時間の余裕を、自分の身体をもっと正しく、さっきまでとは違った変化のために使ってみよう、と思えた。
いや、使ってみると言うよりは、王老師の言葉を耳にしたために、ほとんど無意識的に、勝手に体が動いたと言って良い。
そしてそれは、それまでの宏隆の動きとは、ちょうど ”反対” の変化だった。
「スッ───────────」
「そう、それだ・・・!」
宏隆が動作を始めたか始めないかという、その瞬間に、王老師がつぶやいた。
それは、あのときの動き──────────基隆(キールン)の海軍基地で宗少尉と対戦したときに宏隆が見せた、あの居合いの型のような動きと似ていた。
「むうっ・・・・」
すでに相手を崩すための動きを始めていた陳中尉は、それまでとは違った、宏隆の思わぬ変化に体の軸を狂わされ、さらに反射的にそれを戻そうとした為に反対に崩され、固く巻かれた紐から瞬時に放たれたコマのように、二、三度、クルクルと渦のように素早く旋転し、ボールのように身体を弾ませながら、壁際まで数メートルほど飛ばされていった。
「え・・いったい、いま、何が──────────?」
驚いたのは、当の宏隆の方である。
自分が原因で人がこんな具合に飛んでいくのは、宏隆にとって初めての経験であった。
それも、飛ばした相手は、あの陳中尉なのである。
「それだ、それですよ、ヒロタカ!・・・とうとう出来たじゃないですか!」
戻ってきた陳中尉が言った。
「出来たんでしょうか・・・?」
ちょっと呆然とした顔で、宏隆が言う。
「だとしても、何が出来たのかよく分かりません。自分がどう動いたのかも、全然憶えていませんし」
「はは・・そんなものです。でも、これからだんだん分かっていきますよ。大切なことは、それを憶えておくことではなく、それが何であるかを分かろうとすること。上手に出来ることよりも、正しく内容を理解しようとする態度なのです」
「はい──────────」
「その動きが可能となるのは、身体構造が正しく使われた時だけです。自分の体がどのように変化したか・・・いや、それ以前に、どの位置で立てていたか、どれほどの精度で立てていたか、それが正しく動いていたかどうかを、きちんと認識する必要があります」
「今のは、マグレみたいなものかもしれません。陳師兄、もう一度お願いします!」
「いや、マグレではない──────────これで君は、もうそれを取る。
ほどなく君は、このシステムを理解することだろう。だから今はもう、それ以上陳に向かって行くこともない。後は自分で研究をしていくのだ」
陳中尉に代わって、王老師が宏隆に言った。
「は、はい・・・・」
「君は、なかなかよく動けている。それに、近ごろの若者にしては根気や忍耐力もある。
今の君に足りないのは、構造への理解だけだと思える。色々なものを見せて煩雑になったかもしれないが、今日ここで站椿を教えようと思ったのも、その理由からだ」
「その、”太極拳の構造” を理解するには、どうすれば良いのですか?」
「大切なことは、やはり站椿で正しく立つことに尽きる。私の言うとおりに、私の教えることをひとつも漏らさず、ひとつも自分なりの勝手な解釈を交えず、ひたすら正しく立つ位置を取ることだ。站椿の最大の目的は、立つことの正しい位置を取るためにあるのだ」
「はい・・・」
「しかし、ただ見様見真似で立っているだけでは駄目だ。正しい位置はたったひとつしかない。身体構造の理論を学んで、その理論に則って正しい位置を実感しなくてはならない。
それを実感することが出来たら、今度は常にその位置で動けるように、どのような場合でも構造が正しく変化するように、纏絲勁の基本功と歩法を丁寧に整備していくのだ」
「結局、答えは常に ”基本功” にあるのですね」
「そうだとも。決して基本を軽んじてはならない。この世界には、套路を学んでいさえすれば全てが理解できるという考え方や、宗家に生まれて幼少から武藝に慣れ親しんでいれば下地は自然に形成され、敢えて基本は必要とされない、などといった意見も存在する。
そういう人たちは、まるで基本功というものを、初心者やなかなか理解できない人間たちのための、専用の救済手段のように捉えていたりもする。
しかし、それはとんでもない間違いだ。套路は基本の集大成であり、基本功という、武術の最小単位の中身を、その精緻なメカニズムを理解しない限りは、套路はただの ”自分勝手に流して行える運動” に成り下がってしまう。
それは平和な世の中では心地良いことかも知れないが、見栄えのする表演競技には使えても、真の武術としての内容にはほど遠い。そもそも、套路自体が指し示しているものは太極拳の ”基本” そのものなのだ。基本の中身こそが武術としての戦い方であり、武術は基本以外に何もない。基本こそが武術なのだ。そして何より、基本の存在無くしては、その武術は何の進歩も発展も望めない。より高度な拳理に到るための研究を後世に伝承し、次世代にさらなる昇華を希むには、基本の整備こそが何よりも必要となってくるのだ」
「太極拳で最も重要な ”基本” は、やはり站椿でしょうか?」
「正しい位置が確立されてこそ、正しい動きが生じる。站椿で得られる正しい位置は、武術では最も重要なものだ。それが無くては斬られる、殴られる、斬れない、打てない・・・」
「正しい位置は站椿で求めて、正しい動きはどのように求めていけば良いのですか?」
「君は、”正しい動き” というのは、どのような動きだと思うかね?」
「先ほどより教えて頂いている ”順身” によるものだと思います」
「では、その順身とは、どのようなものだろうか?」
「人間本来の、自然な構造に順(したが)って動ける身体である、と教えて頂きました。
そして、それは勝手気儘に動ける自在を得ることではなく、その構造に拘束され、法則に雁字搦めに束縛された、極めて限定された動きであり、それを取れなくては法則そのものにはなれないのだと・・・」
「そのとおりだ。そして、順身を理解するには、真っ直ぐに歩いてみることが一番手っ取り早い。真っ直ぐに歩くのが如何に困難かを知ることが必要だ」
「先ほど見せて頂いたものですね。自分は当たり前のように上下左右にブレてしまうのに、王老師は真っ直ぐにブレずに歩けるので、非常に驚かされました。それは中心が使われるゆえに可能となる・・・足ではなく中心が使われて歩くのだ、と仰いました」
「よろしい・・・では、私と一緒に歩いてみようか──────────」
「えっ・・・?!」
「どうしたかね? 私と歩くのでは不服かね?」
「い、いいえ、そんな・・・・不服だなんて・・・その、驚いただけです」
「ははは、自分の師匠と歩くのに、何を驚くことがあるものか」
「は、はい・・・」
「さて──────────まず、先ほど君は、もともと人間は真っ直ぐ歩ける構造ではない、と言ったね」
「はい。しかし、その後すぐ王老師が示して頂いた歩き方は、全くブレていませんでした。自分には未だそれが不思議でなりません。特別な歩き方ではない、と仰いましたが・・・」
「構造的には何も特別な歩き方ではないが、日常性から見れば、それは信じられぬほど高度なことに見えるかも知れない─────────君は、サーカスを見たことがあるかね?」
「はい、神戸に毎年、”木下大サーカス” が来て、よく父に連れられて見に行きました」
「ロシアのボリショイ・サーカスと並んで、世界三大サーカスと言われる、あのキノシタ・サーカスだね」
「そうです。小さい頃から、ぼくはサーカスが大好きです」
「ふむ、ところで、サーカスには ”綱渡り” が付き物だが、それをどう思うかね?」
「すごいと思います。あんなに高いところに張られた一本のロープの上を、人間が平然と歩いて─────── あっ・・・ああっ!!・・・・・」
「どうかしたかね?」
「つ・・綱渡りをする人が、少しでも左右にブレたら、すぐ下に落ちてしまうじゃないか、と思いました・・・なぜ今まで、そんなことに気が付かなかったのでしょう」
「ははは・・・そう、サーカスの団員たちは、”人間はもともと真っ直ぐに歩ける構造ではない” などとは言ってはいられない。それでは綱渡りの芸はできないからね」
「では、なぜ綱渡りが出来るのでしょうか?」
「それは、人間がもともと、”真っ直ぐ歩ける構造” を持っているからだ」
「もともと、持っている──────────」
「そうだ、元から持っていないものなら、誰がいくらやっても出来るわけがない。人間は、その本来の構造を正しく自覚することで、非日常的と思えることさえ可能にしてきた」
「太極拳は、綱渡りのように歩くのですか?」
「ははは、君は、なかなか面白いね・・・・まあ、やってみようか。
後ろから、私が歩くとおりに従(つ)いてきなさい─────────」
王老師は脚(ジャオ)を閉じて真っ直ぐに立つと、そのままヒタヒタと歩き始めた。
「うっ・・な、何なのだ、これは・・・・?」
王老師と一緒に歩き始めてすぐ、宏隆は自分の体にひどく違和感が感じられた。
前を歩く王老師は、まるでピンと張られた釣り糸のようで、付き従って歩く自分だけが釣り針に掛かった魚みたいに、ユラユラと翻弄されて揺れているのが分かる。
それほど、王老師の歩き方は真っ直ぐで、ブレない。
老師の歩き方なら、きっとサーカスの綱渡りでも可能だと思えるが、自分の歩き方では、まず、ほんの1メートルでさえ、ロープの上を前に進めないに違いない。
「さあ、どうだったかね、後ろから従いてきた感想は?」
反対側の壁際まで歩いてきて、振り返って言う。
「まったくダメです。特に左右にフラフラしてしまうのが、よく分かります」
「では、今度はこう歩いてみようか・・・」
王老師は、さっきと同じように直立したが、腰の前で両手で球を抱えるように構えると、次の一歩をちょっと不思議な足の出し方で出して、静止した。
「さあ、用意はいいかな?」
見様見真似に、慌ててその立ち方に似せて、コックリと頷く。
「まず初めは、ゆっくりと歩くとするか」
王老師は一歩ずつ、初めての宏隆にもよくわかるように、ゆっくりと歩いてくれる。
だが、宏隆の足はわずか二歩目で、もう縺(もつ)れそうになってくる。
「な、な、何だ・・・この歩き方は・・・・・」
何より、さっき普通に歩いて従いて行ったときよりも、もっとブレがひどい。
自分が明らかに足で上に蹴り上げ、横方向に撓(たわ)み、落下して前に落ちてしまうのが有り有りと分かる。
「ひどい─────自分の歩き方は、こんなにお粗末なものだったのか!!」
前をゆく王老師は、一定のリズムで、ヒタ、ヒタ、と歩いている。
それは、さっきのような普通の歩き方とは違い、一歩ずつ、連続して架式を正しく繰り返しているように思えた。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第74回の掲載は、10月1日(土)の予定です
2011年09月01日
連載小説「龍の道」 第72回

第72回 構 造(7)
「何だ・・・いまの崩され方は──────────────?」
その、あまりに不自然な崩され方に、ちょっと呆気にとられたが───────
一年前、そっくり同じ経験をさせられていたことに、宏隆はすぐに気が付いた。
「これは、王老師に向かって行った時と、まったく一緒だ・・・」
南京町の、あの秘密の地下施設で初めて王老師と会った時に、初対面の自分に向かって、「ちょっと私を打ってみないか?」と言われ、さらに「それとも、君には私を打つ勇気がないかな?」と挑発するように言われて、それならばと、本気でその人に向かって攻めて行ったのだが、どれほど素早く激しく打っていっても一発も掠りもせず、始めのうちは自分が崩
されていることさえ認識できなかった。
しかしよく考えてみれば、不思議なことに、たとえ様子を見るための軽い突きでさえ、打ち始めた時にはもう自分の体が崩されていた。それも、王老師がその突きを避けるのではなく、突いて行った宏隆の体の方が初めから崩され、まるでわざわざ王老師の居ないところを目がけて突いて行ったようになってしまうのである。
それを散々繰り返した挙げ句、最後に放った渾身の一撃をフワリと受け止められ、同時に、まるで上着でも放るように、宏隆の体は後方の壁の天井際まで、仰角を付けて宙を舞って飛ばされ、叩き付けられたのである。
あのとき経験したことは、決して忘れようがない。
「師父と手合わせして頂いたときのことを、思い出しましたか───────?」
宏隆の心を見通すように、陳中尉が微笑んで言う。
「はい───────でも、よくお分かりですね」
「まあ、自分にも覚えがありますからね・・・で、今はどんな感じですか?」
「王老師に打っていった時と同じように崩されてしまいます。まるで空気の渦に巻き込まれたみたいで、触れられてもいないのに、その渦に巻き込まれてから弾き飛ばされてしまうような、まったく不思議な感じです」
「太極拳では、 ”回転している独楽(こま)に弾かれたような感覚” 、などと表現されることがありますけどね」
「・・あ、そのとおりです。回っている独楽に突っ込んでいって弾かれてしまったような感覚だとも言えます。今の場合、実際には全く接触が無い状態ですが、兎も角、どう打っていっても自分の身体ごと、そっくり逸らされてしまいます」
「まさにそれが順身で学びたいこと、順身によって身に着けたいことです。
それこそが、常に相手を崩し続けていられる原理───────相手の攻撃は何ひとつ当たらず、自分の攻撃はすべて確実に相手に当たる、絶対的な武術原理なのです。
実際、私のような仕事をしている人間だと、このような原理がきちんと身に付いていなくては、命がいくつあっても足りませんからね、ははは・・・・」
「でも、ぼくは自分がどうして崩されるのか、まったく見当が付きません」
「それは当然ですよ。私もこのシステムを理解するまでは何年も掛かりましたし、師父などは、先師に数限りなく打たれ、投げられ続けた挙げ句、今後は独りで研究せよと命じられ、その原理をご自分で発見されるまでには、それから十数年もの歳月を費やされたということです」
「そんなに長い時間を────────────────」
「原理自体はシンプルでも、奥は非常に深いですからね。私などは、若い頃の師父とは反対に、特別に原理の詳細を教えて頂いていたにも拘わらず、それを正しく出来るようになるまでには四苦八苦しました。師父は純粋にご自身の研究でそれを発見されたのですから、そこには私などが窺い知ることの出来ない大変なご苦労があったことと思います」
「そんな大変なことが、ぼくなんかに出来るでしょうか・・・?」
「これを取りたい、とは思わないのですか?」
「もちろん、取りたいです・・・・」
「どうしても取りたい、と強く思いますか?」
「どうしても────────────絶対に、出来るまでやります。
自分に限らず、こんな凄いことを経験させられて、それを自分のものにしたいと思わない人など居るはずがありません。きっと誰もが、その原理の虜(とりこ)になってしまうはずです」
「ははは、そのとおりですね。それじゃ、やりましょう。実際に体験していくことでしか、太極拳の原理は見出せませんからね」
「はい、お願いします」
「さあ、もう一度打ってきて───────────」
きちんと構え直して、再び陳中尉に向かって打撃を試みていく。
架式や歩法の精度を、もっともっと高めなくてはいけない、と宏隆は思った。学んだ基本の原理だけで動いて、余計な力みを使うような習慣を一切やめなくてはならない。
もちろん、そうすることで身体は動き難くなるだろうし、打って行くタイミングや間合いなども当然限定されてしまうに違いない。しかし、本物の武術を修めるには、そうしなくては何も始まらないのだと、ようやく宏隆は分かりかけてきていた。
高度な武術は、その武術が持つ原理構造に拘束され、慣れ親しんだ日常の身勝手な動きを封じられてこそ、その武術本来の動きが修得できるのである。
宏隆は、そのことを少しずつ理解しつつあった。
「そうです。さっきよりも、もっと歩法を守るようになってきましたね。その調子で、私に当たるように、本気で当てるつもりで、しっかり突いてきてごらんなさい」
「はい・・・」
より鋭く、より素早く、きちんと陳中尉に突きが当たるように・・・・
できる限り正しく架式と歩法を守りながら、宏隆は拳(こぶし)を繰り出したが、
「うわわわっ──────────────!!」
またしても、宏隆が繰り出した拳は、陳中尉の体から一尺も離れたところで空振りをし、体が激しくスピンしながら足がもつれて、受身もロクに取れず、大きく床に転がされた。
「そう、その調子です────────さあ、もう一度打ってきて!!」
「は、はい・・・・」
何がその調子なのか、よく分からないまま、何度も何度も繰り返して突いて行くが、
「うわぁああ──────────────!!」
そのたびに宏隆の突きは逸(そ)らされ、身体が捻られながら脚がもつれ、悲鳴や絶叫に近い声を上げつつ、クルクルと目に見えない渦に翻弄されながら、あらぬ方向へと崩され、走り回らされてしまう。
崩される、と言っても、ちょっとやそっとの生半可な崩され方ではない。例えば、生まれて初めてスケート靴を履いておっかなびっくりでやっと氷の上に立ったところを、後ろから誰かが思い切りぶつかってきたような、そんなひどい崩され方なのである。これでは大の男でも思わず悲鳴が出る。
そして、これほど真剣に攻撃を続けているというのに、宏隆の拳は陳中尉の体に一本たりとも掠りもしない。その上、突こうとしたその瞬間には崩されてしまうのだ。
もしこれが実戦だったら・・・と思うと、宏隆はゾッとした。窮余の一策であった居合の形を使って、何とかその場を収めた宗少尉の戦いとは内容がまったく違っている。
「なかなか良くなってきました。やっぱり、きちんと架式や歩法を練習している成果が、こんなところにもはっきり出てきますね」
「・・・こ、これが、その成果なのですか?」
打っても、打っても、一発も陳中尉に当たらないまま、ぐるぐるとスピンさせられ、ひどく崩されてしまう宏隆には、それがこれまでの訓練の成果などとはカケラも思えない。
けれども──────────────
宏隆は文字通り、転んでもただでは起きない。高度な太極拳の勁に激しく翻弄されながらも、そして口では半ば泣き言を云いながらも、陳中尉の動きをひとつひとつ、どんな些細なことも見逃すまいと、必死にそのシステムの本質を見ようとしていた。
そして、その強い執念に応えるように、兄弟子である陳中尉も何ひとつ手を抜かず、妥協もせず、徹底的に宏隆を崩して翻弄し、全く体に触れることなく転がし、宙に舞わせ、壁に叩き付けていた。
「そこです・・・・重要なのは!!」
何十本も向かっていった後で、不意に、陳中尉がそう声をかけた。
「え・・?」
「いいですか、もう一度行きますよ。さあ、打ってきて────────」
「はい・・・・」
何のことだか、宏隆には分からないが、言われるままに打って行くと、
「ううっ・・・・・!」
それまで、ひたすら渦に飲み込まれては放り出されるように翻弄されていた身体が、今度はいきなりその場でピタリと静止させられた。
「う、動けない──────────────?!」
何が起こっているのか・・・・
まるで金縛りにでも遭ったように、宏隆の身体はその場で全く動けなくなった。
それどころか、そうなった位置から、陳中尉がじわり、じわりと、間合いを詰めて近づくにつれ、身体が勝手にあらぬ方向によじれ、ひどい恰好にさせられていく。
「く、くうっ・・・こ、これは──────────────!?」
「どうですか、動けますか?」
「・・う、動けません。どこにも、動けない──────────────」
こんな経験は初めだった。陳中尉は宏隆に指一本触れてはいないのに、間合いを詰めてこられた途端に、身体が動かなくなったのである。宏隆は、だんだん呼吸さえしづらくなってきた。
「実戦であれ、訓練であれ、試合であれ・・・・本物の太極拳を修得した相手と向かい合えば、多かれ少なかれ、常にその状態にさせられている。ただ、当の本人はそれに気付かないから、こちらの意のままになってしまう。哀れなものだ──────────────」
それまで壁際の椅子に座って二人を観ていた王老師が、立ち上がってきて言った。
「陳よ、もう良い・・・緩めてやりなさい」
「はい」
陳中尉がそう言った途端に、スウーッと、ようやく金縛りから開放されたように、身体が楽になっていく。
「ふうぅ────────ああ、やっと動けます。息まで止まるかと思いました・・・・
王老師、これは一体、どういうことなのでしょうか?」
「どうということも無い。陳はただ、順身で君との間合いを合わせただけのことだよ」
「それだけで・・ただそれだけで、人間は身体が動けなくなってしまうのですか?」
「そうだ、たった今、君が体験したとおりだ」
「なんだか魔法にでも掛けられたみたいです──────────────こんなこと、体験した本人でなければ、誰に説明しても信じてもらえないでしょうね」
「もちろん魔法ではないが、誰もが信じ得るものではないが故に、それは本物なのだ。
大多数に受け容れられ、大衆が素直に理解できるようなものは決して武藝の真実とは言えない。以前にも言ったが、この世界では真っ直ぐなものは歪んで見え、真っ白なものは汚れて見える。それが法則なのだ────────よくそれを覚えておきなさい」
「はい」
「それに──────────────」
「はい?」
「もっと信じられないようなことも、術理として起こる」
「もっと・・・?」
「たとえば、こう──────────────」
「うわぁぁああああ・・・・!!」
王老師が、ふと人差し指を向けただけで──────────────
その瞬間、宏隆の身体は ”くの字” に体を曲げながら2〜3メートルも宙を飛ばされ、着地しても足がもつれて倒れ、後ろ向きにゴロゴロと何メートルも激しく転がされた。
「な、な・・・何が・・・・・・・!!」
何が起こったのか、あまりの唐突な、非日常的な現象に、宏隆は言葉もない。
まるで大きな波に翻弄されたような、突然巨大な扇風機を向けられたような、どうしようもないチカラが宏隆の身体を襲ったのだ。
「────────大丈夫かね、ちょっと効き過ぎたようだが」
「は、はい・・何とか、大丈夫ですが・・・何ですか、今のは・・・?
まるで、さっきの金縛りの状態のままで飛ばされたような気がします」
「そのとおりですよ」
陳中尉が、笑いながらそう言う。
「そして、それをきちんと受けられる身体こそ、稽古に必要とされるものです」
「きちんと、受けられる身体────────?」
「そうです。勁力はそれを正しく受けられるようになってこそ、自分が使えるようになる。まずは勁をきちんと受けられるような身体を開発しなければ、自分が勁を見出すことも修得することも決して有り得ません。師の勁をきちんと体で受けられるようになってこそ、初めて太極拳の勁(チカラ)の実体が見えてくるのです」
「今、ふと思ったのですが・・・そう言えば日本の武道でも、柔術や合気道も皆、決まった型を稽古して、延々と繰り返して師匠の技を受ける訓練をしていますね。あれは、投げたり投げられたりする練習をしているのではなくて、その武術の独自のチカラを身に着けるためにやっていることなのでしょうか」
「そうに決まっています。高度な武術であるほど、そのような方法で独自のチカラを修得するシステムが存在しているはずです」
「新興空手やキックの人たちは、あれはインチキだ、弟子が師匠に恥を掻かせないように、わざと綺麗に投げられてあげているのだ、などと言っていました」
「分からない人というのは、何を見ても現象ばかりを見て、結局は中身を理解できないのでしょう。ヒロタカはそれほど ”受けられる身体” があるのだから、勁力の修得も、そう遠いことではありませんよ」
「自分など、その渦に翻弄され、転がされているだけですが、これでも本当に ”受けられる身体” なのでしょうか?」
「正しく受けられなくては、そんなに吹っ飛びません」
「───────────では反対に、受けられないような身体の人が相手だと、派手に吹っ飛ばすことは出来ない、ということなのでしょうか?」
「そうではありません。受けられないような身体では打撃が強かに効いてしまい、軽い突きでもその場で悶絶するか、地面や壁に叩き付けられることになります。正しく受けることの出来る身体は、相手がどのような攻撃をしても、それを崩し、化勁することが可能となるのです。太極拳の勁力は人を吹っ飛ばすためだけにあるのでは無いですからね」
「なるほど、そうでしたか・・・・」
「それに、師父のようなレベルになると、相手がどうであれ、相手からその軸を引き出すように整えてしまって、結局は激しく吹っ飛ばしてしまいます。
いつだったか、茶館で師父に絡んできた黒社会(ヤクザ)の人間が、師父にフッと触れられただけで表の通りまで吹っ飛んで行ったこともありました」
「陳師兄、もう一度お願いします──────────────」
「よし、何度でも、気の済むまで、分かるまでやりましょう!」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第73回の掲載は、9月15日(木)の予定です
2011年08月15日
連載小説「龍の道」 第71回

第71回 構 造(6)
「さあ、やってみましょう──────────────」
陳中尉が訓練場の中ほどに進んで、もう宏隆を待っている。
「あの・・それは、師兄と散手をして頂ける、ってことでしょうか?」
「そうです、順身を確かめるには、この際それが一番手っ取り早い・・・」
さて、えらいことになったぞ・・と、宏隆は思った。陳中尉には以前から、是非手合わせをしてもらいたいと思っていたが、それがこんな具合に実現するとは・・・・
それに王老師まで、自ら宏隆と散手をするつもりだったと言われるのだ。
宏隆は俄然、緊張してきた。
海軍基地のリングで宗少尉と戦った時とは、また違う種類の緊張が自分を襲ってくる。
「陳師兄────────ぼくは散手訓練の経験が何も無いので、どうしたら良いのか、まったく分からないのですが」
「あははは、何を言っているんですか。基隆(キールン)の基地で、宗少尉とあれほどの戦いぶりを見せたことが、ついさっき話に出たばかりですよ」
「はい、確かに・・・そうなのですが・・・・」
「そんなに難しく考えることはありませんよ。散手というのは、自分のこれまでの武術原理への理解や戦闘法への理解、それらが全てさらけ出されて、自分自身に改めてフィードバックするシステムなのです。海軍基地のリングの上とは、少々内容が違いますしね・・・それに、ヒロタカだって、本当は私と手を合わせてみたいと思っていたでしょう?」
「はい、それは以前から、密かに望んではいましたが・・・」
「それじゃ、やりましょう、今がまさにその機会ですよ!!
さあ、遠慮なく、気軽に私に掛かってきて下さい───────────」
陳中尉はそう言うと、宏隆に向かって半身に腰を切ると同時に、手をスゥーッと肩の前のあたりに挙げて構えた。
見事に身体と腕の動きが一致している。
居合でも、一番やかましく言われるのは、身体と手足の動きが一致することである。
それを、この人は事も無げに、ごく普通にやるのだ。
そんな動きを見るとちょっぴりドキドキするが、こうなったら、やるしかない。
しかし、気軽に掛かって来いと言われても、何と言っても相手は秘密結社の戦闘部隊を率いる隊長であり、台湾海軍の武術教練でもある。その百戦錬磨の、触れれば切れるような、押せば弾き返されるような、見るからに逞しい体躯の陳中尉は、王老師に鍛え上げられた功夫と相俟って、稽古とは云え、自分の如きケンカで腕を磨いてきたような若造が、おいそれと気軽に掛かっていけるような相手では決してないのだ。
「すごい──────────────」
実際に、いざ初めて向かい合ってみると、改めて何という軸の強さだろうかと思う。
そして大きい。陳中尉は自分よりも4〜5センチ背が高いが、相対してみると、まるで20センチも背丈が違う人のように思えてくる。
はち切れそうに精悍なブラック・タイガーの迷彩柄のズボンを履き、ひとつひとつの筋肉がくっきりと区切られて見える、玄洋會のシンボルが刺繍された黒いTシャツをピシリと身に着けたその姿は、宏隆にとっては宗少尉と比べると二回りも三回りも大きな、王老師の存在に限りなく近い、太く強烈な軸が目前に立ちはだかっているように思えるのだ。
「儘(まま)よ──────────────」
為るように成れ・・と思うが、決して投げ遣りな思いではないし、言われるまま気軽に向かおうとしているわけでもなかった。陳中尉の胸を借りて、ようやく少しばかり解けかけてきている ”順身” の秘密を、吾が身を以て解明してやろうと、腹に決めたのだ。
そして、それが証拠に、もう先ほどまでとは違って宏隆の目の奧は爛々と、まるで深山に棲む獣のように光り始めている。
「お、これは──────────────」
陳中尉もまた、すぐに宏隆のそんな真剣な軸を鋭敏に感じ取り、
「やはり大したものだな、宗少尉をひっくり返すだけのことはある。順身を理解させるためとは言え、これは、気を抜くと自分も宗少尉の二の舞になってしまうぞ・・・・」
そう自分に言い聞かせて、再びピタリと構え直した。
「さあ、攻めてきて──────────────」
「はい・・・」
やってみよう────────と宏隆は思った。
戦う相手と向かい合った時の気負い、初めて王老師と相対した時のような、あるいは大勢の軍人たちが見守るリングで、宗少尉と向かい合った時のような気負いは、もう何も無い。
変な喩えだが、休日に渓流で暢びりと釣り糸を垂れるような・・釣れても釣れなくても、ただそうしていること自体が、自分にとってとても有意義な時間であるような・・・
持ち前の気質が幸いして、それに近いような気持ちになっている。
「ササッ、スササッ──────────────」
まるで艶々とした幹を持つ巨木に立ち向かって行くような気分だが、陳中尉に向かって、左に、右にと、拳を打ちながら攻め込んでいく・・・・
しかし、どういうわけか、海軍基地で宗少尉に向かったときとは戦い方が違っている。
およそ太極拳とはほど遠いような、近ごろ流行りのフルコンタクト空手やキックボクシングのような足捌きで、軽快にポンポンと攻め入って行こうとしているのだ。
けれども、それ自体がぎこちない動きなので、陳中尉は何も脅かされてはいない。
もとより稽古として攻めているので、打撃力や実際に当たるかどうかが問われているわけではないのだが、かといって決して相手が余裕で躱せるような生温い打撃をしているわけでもない。こうすれば当たる、というところできちんと攻めて行っているのだ。
しかし、陳中尉はそれを何ひとつ防御の動作として躱(かわ)してはおらず、ろくに足を使って避けていることもしていないのだが、にも拘わらず、宏隆が放つ拳(こぶし)は中尉の体から常に遠く、どれも届かなかった。
「ふむ、体の動き自体も良くありませんが、もっと太極拳の戦い方を模索しないと、順身は決して理解できませんよ」
「は、はい────────」
そう言われても・・・と、宏隆は思う。
何しろ、王老師から教わった太極拳は、站椿と柔功と纏絲勁の基本功、套路も第二勢の終わりまで、つまり、開門式の金剛搗碓と懶扎衣(ランチャーイー)、単便(ダンビエン)、二度目の金剛搗碓(こんごうとうたい)までの、わずか四つの動作を教わったに過ぎない。
つまり、太極拳の戦い方を模索せよと言われても、見当も付かないのだ。
「・・・ですが、自分には太極拳の戦い方など、何の見当も付きません」
「それは違います──────────────」
「え?」
「太極拳の戦い方は、ヒロタカが教わった基本以外には、他に何もないのです。だからそれは、私にとっても同じなのですよ。套路を何処まで学んだから戦えるとか、対練を散々やったから戦えるようになったとか、そんなものではないのです」
「その、基本以外に何も無い、というのがよく分かりません・・・素朴な疑問なのですが、太極拳ではこんな具合に、空手の組手のように離れて戦うのでしょうか?」
「どうしてそう思うのですか?」
「基本功も套路もゆっくり練られますし、王老師が神戸の地下で推手を見せてくれたことがありましたが、相手と接触した手をグルグルと回してから、激しく飛ばしていました。
それが太極拳の戦い方かと思い、不思議だったのです」
「不思議、というのは───────?」
「接触をしてから反撃をする、というのが疑問に思えたからです。たとえが悪いですが、ケンカの場面でも、互いに手を交差してから何かをする、というのはほとんど有り得ません。相手に組み付かれてしまった場合は別ですが」
「そのとおりですね、実戦では、いちいち相手が手を塔手してくれたり、突いてきた手を此方が受けて拘束するまで待って居てくれたりしませんから・・・・」
「そうなると、太極拳が基本だけで戦える、というのが疑問になります。
基本はゆっくりとした動きばかりで、套路の中で時おり激しく発勁をすることがあっても、それ以外はあくまでもゆっくりと動く・・・・そのシステムで、一体どうやって、ボクシングやフルコンタクト空手のように素早いフットワークで攻撃してくる相手を捌いたり、反撃したりすることが出来るというのでしょうか?」
「なるほど、もっともな疑問かも知れません。太極拳を学んでいる人は、皆その疑問を持っているかも知れませんね」
「陳師兄は、そのようなことを疑問に思わなかったのですか?」
「ありません。私は最初から、師父に太極拳の戦い方を教わりましたから」
「えっ、ええっ──────────────!?」
「私は基本功を学ぶのと同時に、太極拳の戦い方を学びました。だから、そんな事を疑問に思う暇がなかったのですよ」
「・・・・架式と站椿と、柔功と基本功をやって、やっと套路を教わって、それから推手などの対練を学んで、それからいよいよ太極拳の戦い方を学んで行く、というのが学習の順序なのではないのですか?」
「そういう学び方もあると思いますが・・・・私の場合は、仕事柄そんな悠長なことは言っていられなかったのです。明日にでも、今夜にでも、直ぐに現場に飛んでいって戦わなくてはならないような状況でしたからね」
「すると────────実際には、太極拳は初めから戦闘法を学習することが可能であるということなのですか?」
「そのとおりです。そうでなくては武術ではないし、かつての凄まじい戦乱の時代に、基本功を何年も掛けて練り上げなくては戦えないような武術が、人々に受け容れられるわけがありません」
「すごい!・・・太極拳というのは、本当に凄いものなのですね。でも、僕には基本功それ自体が戦闘法であるということが、まったく理解できません」
「やれば分かりますよ。何処かで見たような、ケンカで学んだようなフットワークやパンチを止めて、もっと学習した基本の原理だけで動いて、攻撃してきてごらんなさい」
「・・・でも、そうすると全く動けなくなるような気がしますが」
「それで良い・・・それが正しいのです。そうなることを怖れず、学んだ基本だけで、その構造だけで動こうとすることが最も大切なことです。残念ながらその辺の ”ケンカの若大将” 程度の戦闘原理では、武術をきちんと学んでいる人にはどうやっても敵いません。
でもヒロタカには宗少尉にあれほどの戦い方が出来る・・・その素質を活かすためにも、基本の原理構造に徹する必要があります」
「たった今、ぼくの突きが陳師兄に届かなかったのも、その所為でしょうか?」
「そうです。それが順体なのです。ヒロタカの構造よりも私の ”順体のレベル” が勝っているので、必然的にそうなってしまうのですよ」
「順体のレベル・・?」
「まだ難しいでしょうね・・・・日本に ”論より証拠” 、という諺があるでしょう?
理屈は後回しにして、さあ、どんどん打ってきて──────────────!!」
よし、それが何なのか、分かるまで基本に徹してやってみよう。
そう思うと、少し気持ちが楽になって、さっきよりも幾分動きやすくなった。
「ササッ・・・スサササッ・・・・」
足取りが、先ほどまでとは打って変わって、軽くなっている。
やはり人間は、どんな時でも意識が問題なのだなと、つくづく思う。
宏隆は注意深く歩法の要求を守って、陳中尉に向かって攻め込んでいった。
「タン、タタッ、ダァーン・・・・・・・」
真っ直ぐに突く拳が、陳中尉の顔面に何度も伸びてゆく。
初めはさっきと同じように、なぜか距離が開いて届かなかったが、やがて陳中尉がその場で体を使って宏隆の拳を躱(かわ)すようになってきた。
宏隆が狙ってきた顔面を、左右に振って避けるようになってきたのである。
「あ、さっきと違う!!」
もしかすると、これは中々良い攻め方なのかも知れない、と宏隆は思ったが、
「さて、ここからです──────────────」
陳中尉が宏隆の拳打を躱しながら、ポツリとそうつぶやいた。
「え・・・?」
「なかなか良い突きをしています。基本功をきちんと学習していますね。
しかし、まだ身体が成っていない・・・・今は、わざと避ける動作をしてあげましたが、それでは人は打てません。次の攻撃から、それまでと何が違うか比較してごらんなさい」
「は、はい・・・」
何を比較するというのか────────そのワケも分からないが、こうなったらどんどん攻撃していくしかない。そう思って、一歩飛び込みざま、鋭く右の拳を打っていったが、
「ああっ───────────!!」
宏隆の身体は、突然、左に回転しながら陳中尉のもとを離れて飛ばされていった。
不思議な感覚が、この身を包んでいる。まるで渦潮に巻き込まれたかのように、自分の身体が制御不能となり、そのうえ、捻られながら大きく飛ばされたのだ。
「それだ!・・・もっとです、もっと打ってきてごらんなさい!!」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第72回の掲載は、9月1日(木)の予定です