*#31〜#40

2010年11月08日

練拳 Diary #35 「勁力について その6」

                        by 教練  円山 玄花



 私たちが「勁」というチカラの質について考えたとき、真っ先に思い浮かべるのは、やはり自分が勁を喰らったときの感覚でしょうか。
 その感覚は、至近距離で大砲を撃ち込まれたようであり、槍で突き抜かれたようでもあり、或いはまた、ロープに吊り下げられたまま鳴門の渦潮に放り込まれたようでもあります。
 受けた時の感覚は各々に異なると思いますが、いずれにしても、単純に ”強い” とか ”軽い” というようなチカラではない、ということが言えそうです。


 『・・・勁とは、単純に言えば力という意味なんです。
  だから発勁とは、勁を発することであり、力を出すことを言うんです』

 これは、中国武術研究家の笠尾恭二氏が「対談・発勁の秘伝と極意(BAB出版)」という本の中で語っていることです。笠尾氏はまた、同書の中で「勁力」という言葉についても、『古来より「勁」と「力」の意味合いの差異はなかなか微妙である』とされ、色々な使用例のひとつとして、両方合わせて「勁力」という言葉を使うこともあると言われ、さらに続けて、『これは ”ちから” というのを、やや強調した表現ですね・・・』と、語られています。
 また、40年ほど前に出版された同氏の著書「太極拳技法(東京書店)」には、勁の本来の意味は力であるが、太極拳用語としては単純に「力」を意味するときは少なく、「技」を意味したり、日本武術でよく使われる「気」と同じ様な意味に使うことが多いと記されていました。
 勁については他にも、「秘伝 陳家太極拳入門(松田隆智著・'77年新星出版刊)」の中で、『発勁は「勁(圧縮した強い力)」を発する」という意味である』と、述べられているものもあります。

 しかし私は、勁が「単なる力」や「技」、「強い力」であるという事について、予てより疑問を感じていました。
 確かに自分も、勁というものは「ちから」には違いないだろうと思っていました。しかし同時に、太極拳のように高度な訓練体系を持つ武術が、その根本的なチカラに、わざわざ単なる「力」という意味の言葉を当てるだろうか?、という疑問も生じていました。

 台湾の潘詠周老師(陳発科の弟子)の著書、「陳氏太極拳大全・第二巻」には、『この微妙な勁は太極拳の練法が意を以て気を動かし、気を以て身体を動かすことによる。一挙一動は等しく意を用い力を用いず、意が先に動き、その後形(身体)が動くことであり、意が至れば気が動き、気が至れば勁が動くようにすれば、その動きは軽妙且つ沈着となる』と、書かれています。
 また、武氏や楊氏が太極拳の聖典と仰ぐ王宗岳の「太極拳経」にも、「懂勁(トウケイ=勁を明らかに悟ること)」という言葉が四回も出てきますし、その中には、『由懂勁而階及神明(勁を正しく理解することができるようになれば、技芸のレベルは神明に及ぶ)』と明記されているのです。

 なぜ太極拳独自のチカラを、わざわざ「勁」と称したのか・・・・
 この機会にもう一度、勁という言葉そのものの意味から紐解いてみようと思いました。


 私たちの日常生活では馴染みの薄い「勁」という漢字も、実は人名用漢字として登録されている文字であり、実際に「勁(つよし)」という名前も見られます。
 勁という字には《ピンと張りつめて、つよい。力がつよい》という意味がありますが、これだけでは「強」という字が持つ《つよい。力や勢いがある》という意味とあまり差異がないように思われます。

 ところが、字の成り立ちを見てみると、この二つの文字には明らかな違いが出てきます。

 「勁」という字は、
  《 真っ直ぐに張られた縦糸 》
 というものになりますが、

 「強」という字は、
  《 固い殻のカブトムシ。または、がっちりとした殻を持つ甲虫 》
  《 弓の弦を外した様子。弓の弦を意味し、虫から取った強い弦(天蚕糸・てぐす)》
 という意味となるのです。

 なお、字の成り立ちには諸説がありますが、ここではそれらの説については触れずに、代表的なものを記すに留めます。

 さらに、同じ「つよさ」を表す文字でも「勁」の字に用いられる熟語には、以下のようなものがあります。

 ・勁士 ケイシ(勇気があって性質の強い人)
 ・勁直 ケイチョク(つよく正直なこと。また、そのさま。)
 ・勁草 ケイソウ(風などに折り曲げられない強い草。節操や意志の堅固なことのたとえ)
 ・勁箭 ケイセン(丈夫なつよい矢)
 ・勁疾 ケイシツ(つよくてすばやいこと)
 
 それに対し、「強」の字で用いられる熟語には以下のようなものが知られます。

 ・強者 キョウシャ(つよい人)
 ・強固 キョウコ(つよく堅いこと。しっかりして確かなこと)
 ・強忍 キョウニン(がまんづよいこと。忍耐力がつよいこと)
 ・強情 ゴウジョウ(意地をはり通すこと。頑固で自分の考えを変えないこと)
 ・強気 ツヨキ(気のつよいこと)


 このように、意味と成り立ち、そしてその字が用いられる熟語の二つを比較してみると、「勁」はピンと張られた糸や弦に生じているところの強さを表し、しなやかに動くけれどもクニャリと曲がったり折れたりすることがないものである、と言えそうです。
 それに対して「強」は、弓から外されたところの弦や、カブト虫の固い殻のような強さを表していると言えるでしょうか。

 また、特に「勁」という字については《 垂直のもので、力のはたらく状態を勁という 》と明記されてます。これを初めて知ったときには、まさに太極拳で要求される要訣と見事に一致するではないか!!・・と、大いに驚いたものです。

 実際に、架式が整えられた人に対して触れに行ったときには、どこに触れようとも、突っつけば揺れるようなしなやかさがありながら、押していっても全くビクともしません。
 もちろん、体内で密かに強大な神秘のパワーが蓄えられているようにも見えません。
 それは、ひとたびピタリと密着すると、接点の感覚は何も変わらずに、突如身体が芯から揺さぶられ、とうてい自分ではその格好、その速さでは決して動けない状態で吹っ飛ばされていくのです。稽古では接点に受けた極めて軽い感覚と、自分の身体に生じた激しい衝撃力とのギャップに中々ついていけないことが数多くあり、それが恐しくも面白くも感じられます。

 また、これは多人数で関わった場合も同じです。
 拙力でもある程度なら人を動かすことは可能ですが、例えば5〜6人に一斉に壁に押さえつけられた場合や、グルリと取り囲まれてじりじりと詰め寄られたときなどには、日常的な力ではちょっと無理があります。しかし、「勁力」であれば難なくそれを突破することが可能になるということを、私たち門人は毎回のように稽古で目の当たりにしています。

 たとえ拙力でも、相手の力が自分よりも小さいうちは対抗できますが、自分よりも大きな力が来た場合には、先に述べた「強」の字の如く、まるで甲虫の殻が割れるように、ある時点で限界がきてしまって屈するしかありません。
 それが勁力であると、自分よりも大きな力に対して自分以上の力を出す必要がないために、一人一人に対応することができ、結果として多人数に対してもそれを働かせることができるわけです。
 このようにして、「勁」の字義と実際に受けた感覚とを合わせて検証してみると、なぜ太極拳がそのチカラに「勁」という字を充て、勁を識り、勁を練り、勁を理解するために事細かな訓練体系を確立したのかという、その意味が少し分かってきたような気がします。


 ところで、「勁」というチカラには、もうひとつ「拙力」と異なる点があります。
 それは、拙力では、その力を働かせるには必ず「接点」が必要となるのに対し、勁力ではそれが必ずしも必要ではないということです。つまり、勁は離れていても作用する、ということです。
 私たちの稽古では、推手のように最初から相手に触れて行うものであっても「卵が割れない程度のチカラ」以上にならないことが原則とされます。それは、単に力が衝突しないためだとか、柔らかさを追求するためのものではありません。
 余談ながら、稽古で師父に飛ばされる時は、非常に撓(しな)やかではあっても決して柔らかくは感じませんし、門人同士で崩し合う際にも、柔らかさのために身体の動きを工夫するようなことは全くありません。それはひたすら、「強い力」や「堅い力」ではなく、鞭のようにしなやかで、電気のように、スイッチを入れたら瞬時に通電するようなチカラに感じられるのです。

 相手と接するときに「力み」が否定されるのは、ひたすら「放鬆(ファンソン)」を理解するためだと言えます。そして、そのことが相手と離れていても勁力が作用するということと、密接な繋がりを持ってくるのです。
 離れていても作用を受けるというのは、たとえば相手に掴み掛かって拘束しようとしたときや、棍や刀で斬りつけに行ったときに、こちらの攻撃が届く前に無効にされてしまう状態を言います。
 かつて当館のホームページで、師父が相手に触れずに崩す動画をコマ送りで公開したことがありました。掲載されたのはほんの一週間ほどの期間でしたが、それをご覧になった外部の方に、「円山老師の空間制御!」などという表現を某掲示板に出されたことがあります。
 その時の ”空間制御” という言葉が、なかなか言い得て妙であると思えたものでした。


 さて、こちらの攻撃が届く前にそれを無効にされた場合は、攻撃すると同時にひどく崩されてしまい、もしその状態のときに反撃を喰らったらひとたまりもないと思えるものです。
 その様子を周りで見ていると、掛かっていった人が師父の周りをひとりで走り回っているようにも見えてしまうのですが、当の本人にしてみれば、もう大変なことです。
 『これは、普通の人には信じてもらえないだろうね』と仰る師父に、勁を受けて走り回っていた門人が息を切らせながら、『いえ、やられている自分にも信じられません!』と発言した時には、皆で大笑いをしたものです。

 また、実際に手を触れずに相手が崩れる状態を、師父は『これは ”気” じゃないからね!』と、わざわざ断って言われます。
 『これは、純粋に太極拳の要求通りに身体を整えた結果であって、いわゆる ”気” の力ではなく、纏絲勁なのです。気は自然に働いているのでしょうけれど、私が故意に身体に気を溜めようとしたり、意識的にそのようなものを相手に向けて発するようなことは一切していません。念のため・・』と言われるのです。

 師父は常々、私たち門人に対し、太極拳を科学の目で観て、深く研究するよう仰います。
 自分にとってワケの分からないことを「気」や「神秘」の衣に包まず、すでに示されている基本の拳理拳学と訓練体系に照らし合わせてみれば、そこには極めて単純明快な、誰にでも解き得る「武術の仕組み」が浮かび上がってくるように思えました。


 ・・・さて、このブログには、六回に亘って「勁力」について書き綴ってきました。
 このシリーズで書いてきたことは全て道場で教えられたことだけであり、「勁」を学ぶにあたっての基本的な認識を述べさせて頂いたに過ぎません。私にとっても、「勁の本質」についての探求は、まだ始まったばかりだと言えます。

 そして、私が勁の本質を理解しようとしたとき、どのような角度からそれを探ろうとも、必ずひとつのことに行き当たりました。それは「架式」です。
 「勁力は、架式の整備なくしては微塵も生じるはずもない」とは、このシリーズの中で幾度となく記してきたことですが、つまるところ、勁の追求とはそのまま架式の追求であると言っても過言ではないと思います。
 そして、架式を追求していけば、自ずと架式の根源である「無極椿」に帰結せざるを得ません。だからこそ、訓練体系は「站椿」に始まり、すべての練功を「形」として練り、さらに相手を含めた「形」として推手や散手を練るという方法が順序よく、効率の良い学習方法として用意されているのだと思います。

 そのように順序立てて「勁力」というものを考えていくと、それは決して自分の中にたっぷりと溜めてから相手に向かって爆発させるようなものではないということが見えてきます。
 「勁」というのは、縦糸をピンと張るように、身体をある状態に整えれば誰にでもはたらく、極めてシンプルなチカラなのだと思います。

 ならば、その整え方、整備の仕方が奥義秘伝として隠されているのかと言えば、決してそうではありません。そのための要求も、整え方も、その全てが、すでに一般に公開されていることばかりです。
 但し、それらの要求をきちんと活かすには、それを正しく読み解く作業と、そこに自分勝手なものの見方や考え方を挟まないということが必要不可欠であると言えます。

 何ゆえに、「無極椿」が最重要である、とされるのか。
 何ゆえに、「無極」の理解なしに太極拳は理解できない、とされるのか。

 私はそこにようやく、私自身の太極拳の始まりを見たような気がしました。


                                    (了)

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2010年09月25日

練拳 Diary #34 「勁力について その5」

                        by 教練  円山 玄花



 一般的には「推手」と聞くと、どのようなイメージを持つのでしょうか。
 私が太極拳を始めた中学生の頃は、「推手」に対してあまり良い印象が無かったと記憶しています。なぜなら、推手の稽古をする度に腕や腿が筋肉痛になるので、”しんどい練功”という誤ったイメージしか持てなかったのです。ましてや推手が「化勁」の優れた訓練だとはとても思えず、悶々とした稽古時間を過ごしていました。
 今思うと情けない話ではありますが、唯一の収穫は、そのときにガンガン腕を使っていたために、後に拙力と勁力の違いを認識しやすかった、ということでしょうか。

 化勁とは、相手の力や攻撃をいなす技術である───────
 私は、化勁とはそういうものであると思っていました。しかし同時に、本当にその程度のものなのだろうか、という疑問も生じていました。
 それは、それほど身体の大きくない自分が、いかに推手で相手の攻撃をいなそうとしても、身体が大きくて力の強い人が相手では腕力で押し潰されてしまうからです。グルグルと腕を回しながらの攻防であれば、まだ何とか円い動きでクルリと逸らせるものの、手を触れている状態からの自由な攻防となると、クルリと動かす前に十分に入られてしまいます。

 何より、そうして相手の攻撃をクルリと逸らせたとしても、それ自体は ”深遠な太極の原理” などとは言えそうもありませんし、そんな事のために、あれほど厳格な基本への要求が在るとはとても思えないのです。それとも、基本功でシッカリと足腰を鍛えているからこそ、軽く相手の力を逸らすことが出来るとでもいう事なのでしょうか。しかし、もしそうだとすると、太極拳の戦い方は相手と触れてからの話だということになり、相手が武器を持っていた場合は、また違う戦い方が必要になってしまいます。

 さて、頭の中で次々と繰り返されるそんな問答に、いよいよ収集がつかなくなってきたとき、ある出来事が起こりました。

 それは、稽古中の対練でのことでした。
 その対練は、お互いにトレーニング・ナイフを持って、動きながら自由に突いたり斬ったりするというもので、条件は「素早さで目先の対処をせず、基本を守る」という事だけです。
 つまり、攻撃したり、それを躱そうとするときに、部分的な瞬発力や敏捷性で対応してはならないというわけです。このように条件を付けることによって「相手よりも速く動かなければやられる」という緊張がなくなり、自分の身体を整えながら動く学習が可能になります。

 その対練では、相手を斬ることもあれば、自分が斬られてしまうこともあります。
 もちろん巧く躱せることもあるのですが、時折、こちらの動きによって相手のナイフが当たらないだけではなく、相手の身体が勝手に崩れ、尚且つ、体勢を立て直すまでに時間が掛かってしまうという状況が出てきました。
 すると、傍で指導されていた師父が、「それが本来の化勁というものだよ」と静かに仰ったのです。それを聞いた私は「なるほど、そうか・・」と思いましたが、実は頭の中は大きく混乱していました。

 初めて私の「化勁」に対する認識が変わったのが、まさにその時でした。
 相手との接触・非接触に関わらず、相手の攻撃が ”無効” になってしまうこと。そこに働く作用のことを師父は「化勁」と表現されたわけです。
 その ”本来の化勁” と言われるものは、推手で相手の腕をクルリと逸らすこととは全く内容が違っています。相手の攻撃をただ単に逸らすのではなく、相手の攻撃そのものが無効となるチカラが働いていたということになり、そのチカラこそが「化勁」だということになります。
 推手の訓練で真っ先に要求されることは、『決められた動作の繰り返しであるからといって動きを流すことなく、一動作ずつ架式を正しく決めて行うこと』ですが、その要求がとても重要な意味を持っていたことが改めて認識できました。

 非接触の対練で、相手の攻撃が無効になるという体験をしてからは、推手に対する見方が大きく変わりました。推手の訓練が「化勁」を理解するための、実に優れた訓練方法であることが明かになってきたからです。
 「化勁」は、ランダムに相手との攻防を繰り返す対練よりも、相手と同じ架式を取り、同じ手の位置を合わせて、決められた形として動く方が遥かに分かり易かったというわけです。

 不思議なことに、その後の推手の訓練では、誰と組んでも腕が筋肉痛になるようなことがなくなりました。一瞬にして自分に大きな筋力がついたとは思えませんから、考えられることは唯ひとつ、自分のアタマが変わったということだけです。それも、推手の訓練の中で変わったのではなく、トレーニング・ナイフを使った対練によって変わることができたわけですから、つくづく「訓練体系」の有り難さを思い知らされたものです。


 「纏絲勁」に関しても、同じ様に、驚きに目を丸くしたことが度々ありました。

【 纏絲勁とは、太極拳の最終段階で教わる、高度で特殊なチカラである・・・ 】

 いつの頃からか、そのような勝手な認識が自分の中に芽生え、そこから太極拳全体の練功を見るような目が養われていきました。
 このことから、整備された訓練体系の中に身を置いていようとも、一介の修行者としてその全貌を眺めるまでには大変時間が掛かるということがわかります。それは太極拳に限らず、何事に於いても同じことが言えるのでしょう。
 また、自分が未だ知らないことに対しては、兎角早々に結論を付けたいという気持ちが生じてきますが、そこで終わってしまうか、そこで得た結論をそこから自身の研究材料にするかで、その後の発展が決まるような気がします。
 自分の場合には幸いにも、自分が「こうだ」と思ったことに対して、「それは違う」と訂正してくれる師が存在し、またそれを立証できるだけの学習体系が身近にありました。

 纏絲勁について、まだ「順」も「逆」も分からなかった頃、いちばん最初に驚かされたのは套路を稽古していたときです。それも、陳氏太極拳の表看板である「金剛搗碓」を練習していたときのことでした。

 自分が苦心していたのは、ちょうど左足を大きく前方に出して左弓歩となり、その左足に乗って右足を前に出すという、片足で起つ少し前のところでした。
 「乗れた」と思っていた左足は実は正しく乗れておらず、後ろ足が床から離れた途端に身体がフラリと左の外方向に流れてしまいます。
 その部分を鏡に映すと、見事に左の胯(クワ=骨盤側部)がフッと飛び出して見えました。
 ─────これでは正しく歩けていない・・と、愕然としました。

 太極拳で正しく歩けないことは、即ち戦えないことを意味しており、まして金剛搗碓を練りながら胯が外に膨らむようであれば、それは「架式」が整えられていない証拠です。
 もう一度、金剛搗碓の初めから動いてみたり、左弓歩の構えから確認してみたりと、いろいろ工夫してみるものの、なかなか歩けません。ちょっと良くなってきたかと思えば、足幅が狭かったり動きが速かったりして、何も問題の解決にはなっていないのです。

 歩法の稽古ではそれほど気にならなかったのに、なぜ金剛搗碓で軸足の胯が膨らむのか。
 その違いが分からないまま稽古を重ねて、幾日が経ったでしょうか。

 ある日、道場の後ろの方から、師父が誰かに指導されている声が聞こえてきました。
 「ほら、ここで右足が出せることが纏絲なのですよ」・・・と。
 そこで師父が示されていたのは紛れもなく金剛搗碓であり、左弓歩から前に一歩を出すところでした。

 ───────纏絲によって足が出されている。
 それは、その時の自分にとっては、かなり衝撃的なひと言でした。
 よく考えてみれば、太極拳は「纏絲の法」であると言われているのですから、纏絲によって足が出ることは、何の不思議もない、ごく当たり前のことなのです。
 問題は、それを学んでいる人間が自分なりの解釈で勝手なイメージを持ってしまうと、練功を練る目的も内容も、全て異なってきてしまうということです。

 私たちの套路の稽古では、改めて「纏絲」という言葉が出てこなければ、その動きが纏絲であることさえ忘れてしまうほど、ごく普通に見える動きが展開されています。
 そこでは、一般的に言われているような、身体や腕をグリグリとくねらせたり、足から頭までがブルンブルンと振るわせられながら、演手捶(突き)が繰り出されるような状況は全くありません。

 『太極勁や纏絲勁は、何も特別なものではない』

 ───────師父は毎回のように、稽古でそう仰います。

 ところが、私たちには纏絲がどのようなものであるかを追求する前に、どこかで誰かに聞いたようなことを短絡にヒョイと受け取ってしまうような、安易にそれが正しいことだと受け取ってしまう性質があるようです。また、多かれ少なかれ「纏絲」に対する各個人の勝手なイメージがあって、それに沿うものは正しく、沿わないものは間違いであるかのような錯覚をしていることもあるかもしれません。

 纏絲とは何であるのか───────
 太極拳を追求している以上は、そのことに各自が自分で足を踏み入れ、自分で探求していかなければなりません。そうでなくては、たとえ纏絲の謎が解ける環境にあっても、みすみすそれを見逃しかねないのです。それは既に宝の島に辿り着いていながら、そこにある宝が見えないようなものです。

 さて「纏絲によって足が出される」と聞いてから、私の金剛搗碓は大きく変わりました。
 もちろん、聞いたその瞬間から直ぐに、というわけにはいきませんでしたが、その問題をクリアするための稽古内容が大きく変わった結果、飛び出ていた左の胯は見事に出なくなったのです。

 そして同時に、自分の歩法の動きも変わっていきました。
 『歩法では乗れていたのに・・・』と思っていたものも、細かく纏絲の動きに照らし合わせてみると間違っていたのです。簡単に言うと「乗れていて胯が出なかった」のではなく「胯が出ないように歩いていた」のであって、その二つは大きく異なります。
 従って、金剛搗碓で自分の架式の不備が表れたことは当然のことである、と言えます。
 むしろそのお陰で、自分の纏絲や歩法に対する考え方を大きく見直せたことは、本当に有り難いことでした。

 歩法で胯が出ることを全く気にしなくても、飛び出ることが全くなくなったとき、そして金剛搗碓でフラリと左に寄らなくなったときの、その喜びといったら、喩えようもありません。
 日頃から師父に『キミたちの ”やり方” が間違っているのではなくて、 ”考え方” が違っているんですよ・・・』と言われていることを、身を以て体験したのでした。


 「化勁」や「纏絲勁」について、このように見直す機会が与えられる度に、思いを巡らせることがあります。
 それは、「勁」そのものの ”質” についてです。


                                 (つづく)

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2010年08月26日

練拳 Diary #33 「勁力について その4」

                        by 教練  円山 玄花



 四正手の稽古は、馬歩の架式から始められます。足幅を三尺に開き、先ずは定歩でゆっくりと形(かたち)を取りながら、ポン・リィ・ジィ・アンの四つの勁を練っていきます。
 馬歩で四正手の形と姿勢、そして身体の使われ方が分かったら、前後に足を開いた弓歩や、歩幅が狭い半馬歩など、架式を変えて稽古をしていきます。

 どの架式で稽古をする場合にも、四正手の各動作をスイスイと流して動いていくようなことはなく、ポンの動作であれば先ずポンだけについて、手の位置、身体の向き、左右の膝の状態など、身体の各構造を細かく整えてから次のリィの動作に移ります。
 初心者ほど早目のペースで動作を流してしまいやすくなりますが、多くは「架式」がどこでどのように決まるのかが分からない為に、それが起こっているように思えます。

 私自身、架式の意味するところが分からなかった頃には、四正手や套路の形を、右から左、前から後ろへと、スイスイと流すように動いてしまっていたものです。
 しかし、架式の持つ役割とその意味の重さを身をもって実感するようになってからは、まだ架式の持つ意味が分からない初心の時こそ、指導された通りの「形(かた=かたち)」で、規矩に沿って、丁寧に一動作ずつを決めて稽古するべきであると思えるようになりました。

 例えば、定歩でお互いに同じ架式を取って技を自由に掛け合う、という課題が与えられた時などには、理解が不十分な架式や中途半端な技術では、大きな身体や強い筋力・腕力に対してはカケラも通用しないということを思い知らされることになります。
 「架式」が通用しないとき、そして原理が働かないときには、やはり架式が流れてしまい、その結果「立つこと」が崩れ、「動けること」が消えてしまうのです。
 定歩の対練でさえそうなのですから、それが活歩であったり、推手のように相手と手を触れたまま動くようなものであれば、ただ触れた腕をグルグル回しながら一緒に歩いていくようなことになってしまうことが予想されます。

 相手の方が身体の使える範囲が広く、力も絶対的に強いという、日常的に見れば圧倒的に不利な条件でそのような対練に臨んだときに、初めて自分の基本の至らなさや視野の狭さに気づかされますが、それと同時に原理の持つ「不変の法則」を垣間見ることができます。
 実は相手の大きさやパワーが全く無意味になるのは、自分の側に整然とした「架式」が存在するが故のことです。それは、架式が確立されているが故に、相手もまた「相手自身の架式」に制限されてしまい、結果としてより確立された架式の中で動ける側が、より脆弱な架式の側を制することが出来るからなのです。

 架式の中でも「半馬歩」は、足幅が肩幅程度に狭くなることもあって難度が高く、正しい架式で四正手の勁を練っていくのは、上級者といえども決して容易ではありません。
 半馬歩は、馬歩や弓歩と違って足の横幅はなく前後の幅も半分以下ですから、「立つこと」の全体が見えていなければ、なかなかカッチリとは動けないものです。
 そのようなときには、半馬歩で立てない原因を幅の広い正馬歩に帰って確認し、また半馬歩で稽古をするということを繰り返し、「立つこと」と「動くこと」を徹底的に稽古することによって、より「馬歩」の原理に則った精密な架式へと洗練していくことができます。


 ─────話が「勁」から「架式」になってしまいましたが、「架式」なくして「勁」は存在しませんし、発勁の威力、化勁や聴勁の技術などを云々する前に、まずそれらの「勁」が正しく働く条件を整えなくてはなりません。何故なら、架式の不備とは即ち構造の不備であり、勁の不在とは、身体構造が正常に機能していないことを意味するからです。

 師父は「架式の不備」についても、実に様々な譬えを用いて説明されます。
 たとえば、凧揚げの凧は、その胴体に穴が空いていたらきちんと揚がらないし、フレームが歪んでいたり弛んだりしている自転車やクルマでレースをしたら真っ直ぐに走らず、大変なことになってしまう。また、銃器などは、その構造に少しでも狂いがあれば、単に弾丸が正確に飛ばないだけではなく安全性にまで問題が出てくる。武術にとって架式の不備とは、正にそのような事と同じ意味を持っている・・・などと説かれるのです。

 余談ながら、私はこのような譬え話が大好きで、いつも感心して聞き入ってしまいます。
 太極拳に限らず、物事は文字や言葉で説明できないことの方がはるかに多く、そのために個人の勝手な解釈や思い込みが入りやすいのが常ですが、師父のお話はいつもシンプルかつ明瞭で、各自のイメージにダイレクトにはたらきかけ、聴くと同時に映像が頭に浮かび、それを頭の中で再処理をしたり、考え直したりする必要がないのです。
 そんなお話をして頂けるのも、師父が物事に対して常に丁寧に関わって来られた故だと思うのですが、お話を聴くたびに、自分もまたそのように物事に関わり、学んでいきたいものであると、つくづく思う次第です。


 ─────さて、話を「四正手」に戻しましょう。
 馬歩の定歩で架式と姿勢、そして各要訣が整えられたら、次は弓歩の活歩で稽古をしていきます。活歩での稽古も、ゆっくりと一歩一歩を丁寧に、確実に動けるように整えていきます。
 それは、整えた架式がどのように動くのかを見守るためでもあり、「立つことの要求」と、「動くための要求」を外さないためでもあります。

 四正手を活歩で稽古していると、四正手の形に ”運足” を付けたのではなく、身体の動きによって足が自然に動くことが感じられるようになります。丁度、基本功の動きがそのまま歩法へと繋がっていったように、四正手でも無駄のない動きで一歩ずつを進めていくことができます。そして、その「四正手の勁で全身が動いている」という状態こそが、もし相手が自分に触れていれば、その勁の作用をダイレクトに受けてしまう状態に他ならないのです。


 「勁」を学習する上で、「対人訓練(対練)」は欠かすことの出来ない練習法です。
 四正手の対練では、各人が練ってきた「勁」というものの質とチカラの種類とを確認していきますが、その中でも「弸(ポン=正字は手偏)」は四正手の第一番目に位置していて、弸勁(ポンジン)は八門手法のすべての勁に含まれるというものですから、特に理解されるべき重要なチカラだと言えます。

 太極武藝館では通常、弸(ポン)の対練は「半馬歩」の架式で行われます。
 お互いに半馬歩で構えたところから始められ、双塔手からその場で弸を発するものや、前足を一歩踏み込んで弸を行うもの、また、大判のミットを持っている相手に弸を発していくものなど、様々なスタイルがありますが、どの場合でも最初は相手に触れた状態から弸を発していく訓練をします。
 もちろん離れたところから接触して来て弸を行う稽古もありますが、勁というチカラの質が分からないうちは難しく、日常的な力感に陥りやすいので、勁を確認するには双塔手から始める方が分かり易いと思います。

 触れた状態からの発勁ですから、そこには一切の予備動作はなく、言ってみれば向かい合ってから相手の手に触れるまでが予備動作に相当し、そこまでで既に「弸」の動作は終了しているのです。
 これまでにも述べてきたように、相手に触れた状態では溜められているような力は少しもなく、もちろん相手にも何かが溜まってくるような感覚はありませんし、触れた手をそこから離しても、相手との関係性は何も変わりません。

 「予備動作が無い」などと書くと、まるでそのこと自体が特別なことのように思えてしまいますが、実はそうではなく、予備動作の要らない身体の状態こそが「架式」であり、「站椿」で正しく立てることが即ち「勁力」の発生原理となるということに過ぎません。
 そしてそのことは、私たちが練る小架式の特徴である、短打・短勁の技術になっています。
 つまり、暗勁や寸勁などの技術が存在しているのも「架式」という考え方によるものであり、言い換えれば長打・長勁の必要がない架式を、学習の初めから練っていくわけです。

 一般的には、勁力や発勁が特殊で神秘的な技法のように考えられたり、難解な表現で説かれる場合もあるようですが、それらは何れもこれまでに「勁の性質」や「勁の発生するメカニズム」などが身体構造的に説かれたことが殆ど無かった故かも知れません。

 站椿、基本功、套路などを練り続けることで太極拳独自の身体を造り上げ、推手や様々な対練、拆招(たくしょう=招式の分析。単なる応用法とは異なる)などで勁の性質と働きを認識することができれば、それらの練功が分かれたものではなく、すべてが「太極勁」の理解のために存在していたことが誰にでも感じられます。
 それ故に、私たちは四正手の対練を、ことさら「発勁の訓練」として行っていません。
 「勁=チカラ」と「架式」を分けて考えるのではなく、あくまでも各自の「在り方」がどのようであるのか、基本の形が守られ続けた結果どうなるのかを綿密に確認し、「勁」と「形」が離れたものではないことを学んでいくのです。またその結果、站椿で長い時間を掛けて立つことや、套路で同じ動作を幾度となく繰り返して稽古する意味がようやく見えてくるようになります。


 上級者の「弸勁(ポンジン)」が相手に発せられるときには、予備動作や相手に伝える為のモーションのような初動が全くと言って良いほど見られません。
 構えたところから相手が飛んでいくまで、一連の動作を横から見ると、発する側には「弸」の基本動作以外には動きが見られず、前に立っている相手の姿を手の平で覆い隠せば、半馬歩の弸の基本訓練と何ひとつ変わるところがありません。
 それほどまでに、相手に重さを掛けたり、グイと持ち上げたり、落下の勢いを使ったりするところが何ひとつなく、相手の質量さえ感じられないような動きの中で、相手が軽やかに飛ばされていくのです。

 弸の勁を受けたときの感覚も、押されたり持ち上げられるような力は全く来ませんし、最初に触れていた時の力以上には一切増えることもありません。そこにある感覚は、まさに「生卵が割れないくらいのチカラ」であると言えます。
 これは、実際にそのような「勁」を受けた人でなければ分かり難いかもしれません。単に卵が割れないくらいのチカラで相手に触れても、当然どうにもなりませんし、どこかで聞いたような方法や上辺だけの格好を真似ても何も起こらず、そのような事では決して正しいチカラは理解できないからです。そして、そこで必要になるのが、精密な基本と基本を理解していくための学習体系です。

 以前に、師父の指示で大判のスポーツタオルを持って師父の前に立ったことがあります。
 タオルの両端を指でつまむように持ってピンと伸ばし、自分の頭より上に持ち上げると、タオルの下端がちょうどお腹の辺りに下がりました。つまり、私からは師父の姿が全く見えない状態で、師父からも私が見えない状態です。その状態で、私の胸の高さを狙ってタオルに拳打を打つというのです。
 私は師父の拳打の威力を間近で見て知っているだけに少々怖くなり、自分の胸には当たらないようにと、タオルを持った姿勢を一度横から見てもらい、タオルと自分との距離も見てもらいますと、師父は笑って「強く当てるようなものではないから大丈夫」と仰いました。
 正面に向き直り、タオルを前に掲げると、師父が前に立ったことは感じられるものの、それ以外には、構え方も、間合いも、いつ打ってくるのかも、一切分からない状態です。
 しかし、次の瞬間・・・目の前のタオルが少し膨らむのと同時に、あっと言う間に自分の身体が後ろに吹き飛んでいました。そして、幸いにも身体への実質的な衝撃はありませんでした。(笑)

 このときの感覚は、日頃の推手などでポンやリィで飛ばされるときのその感覚と同じものでした。周りで見ていた門人たちに聞くと、師父の拳打がタオルに触れると同時に、私の身体が後方に弾かれるように飛んでいったということで、後にビデオで確認すると本当にそのとおりで、驚かされました。
 師父はこれを「ちょっとした実験」と言われたのですが、目の前で見て、体験した私たちにとっては十分に非日常的な出来事であり、「勁」というチカラの認識を新たにする大きなきっかけとなったのです。
 指で摘んで垂らしたタオルに与えられる力など、どう考えても大きいはずがありません。
 それほど小さな力なのに、どうして相手は大きな影響を受けてしまうのか─────

 師父は毎回の稽古で、卵が割れないほどの軽くて小さいチカラを追求するからこそ、勁力の修得が可能なのだと仰います。大きく強い力でなければ相手に作用を及ぼせない、というのは日常的な感覚に過ぎず、先ずはその考え方を否定して新しい考え方に、太極拳の考え方に身を投じなければ「勁」という非日常・非拙力のチカラは決して手に入らない、と説かれます。
 そして、そのような日常の力に対する執着がほんの僅かでも残っている限り、練功本来の意味や目的が見えるはずもなく、深遠な拳理はもとより、練功それ自体も歪めて受け取られてしまうことになる、と仰るのです。

 私たちが学んでいることは「太極拳とは何か」ということであって、套路が恰好よくできれば良い、発勁で相手が飛べばそれで良い、武術としてそこそこ戦える技術が身に付けばそれでオーケイ、というわけではありません。
 基本功や套路、そして対人訓練に至るまで、数々の練功が指し示している「ひとつのこと」を理解するためにこそ、それらの練功を使わなければ、ただ套路ができた、四正手ができた、少し発勁もできた、ということで終わってしまいますし、たとえそれらが滞りなく出来たとしても、太極拳を理解したことにはならないと、私は思います。
 「勁」という太極拳のチカラを理解して習得するためにも、教わっていることをそのまま真っ直ぐに受け取り、コツコツと稽古を積み重ねて行かなければなりません。

 私が、「勁力」に対する考え方や、そのチカラの質が本当に重要だと思えるようになったのは、推手の稽古の意味が、ようやく少しばかり見え始めた頃のことでした。


                                  (つづく)

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2010年07月19日

練拳 Diary #32 「勁力について その3」

                        by 教練  円山 玄花



 軽くて早い、そして発するためのモーションを必要としないチカラ、”勁力” ────
 前稿では、そのチカラが「意」によって導かれ整えられた正しい「架式」から生じることを述べてきました。

 その稽古は「立つこと」の整備から始められ、「架式」の訓練によって身体が構造で動くことを理解し、対人訓練で「勁」が正しくはたらいていることをお互いに確認し、また基本功に戻って立ち方や架式を見直すという繰り返しによって、太極拳で求められるチカラ=勁力とは何であるのかを、順序立てて学習していくことができます。
 また、対人訓練に入る前に、架式の構造を正しく取れることと、その構造で動けることを十分に学ぶことで、「勁」と「勁力」に対する正しい認識が養われていきます。

 本来は、馬歩の架式が少しでも理解されてくれば、その時点で「力」に対する考え方が日常から非日常へと変わらざるを得なくなるもので、そこから「太極拳のチカラ=勁力」を学んでいくことができるのですが、馬歩がよく分からないうちから力の追求を始めると ”架式は架式、力は力” となる傾向があり、太極拳で学んだ架式に自分の思う「力」を乗せれば強力になるといったような、架式と力とを分けて考えることも間々あるようで、それでは何をどれほど学んでも勁力など永遠に手に入るはずもありません。

 身体が「正しい構造で動けること」というのは、それ自体が「力」を生み出すことであり、武術ではその為に「形(かた)」という訓練法を用いて、自分の構造と太極拳の構造との相違を明らかにしていくわけです。
 太極拳では、柔功も、纏絲練功も、開合訓練も、套路も、推手も、拆招(たくしょう)も、すべてがそのような「形(かた)」として用意されています。それは、日常的な手足の動かし方を如何に工夫しようと、決して正しい構造の動きとはならないからであり、その勝手気儘な動きを否定し、文字通り自分をピタリと「形にはめる」からこそ、はじめて「勁」という太極拳のチカラの本質を感じられるようになるわけです。

 例えば、”階段を歩く” という動作を考えてみても、太極拳の構造から外れることなく歩くことと、自分なりに足音を立てないようにしたり、足に負担が来ないように工夫することとは大きく異なります。試しに、階段を歩くことに、普段の歩法で指摘されている要求を当てはめてみると、足音や足の負担などを気にしなくとも、ただその要求を守ろうとしているだけで足音は立たず、足の負担も大きく軽減されることになります。
 また、先にご紹介した「足半(あしなか)」や「スーパー足半くん」などの練功用の履き物を用いる際にも、無意識に履いてしまうと身体は簡単に前傾して中心軸が失われてしまいますが、それを自分なりに力感で修正しようとするのではなく、太極拳の基本である「無極」の要求を正しく整えようとすることによって無理なく正しい構造で立つことができ、それが維持されたまま歩くことも可能になってきます。

 つまり、整えられた構造が「形(かた)」という条件に沿って動いたときには、どこで何をしていても「勁=非日常のチカラ」が働いている、ということです。
 この「無極」の調整によって構造が整い、その構造自体が非日常的なチカラを生じさせているために階段や足半でより高度な歩行が可能になった、というところが大切です。
 それは、太極拳のチカラが、一般日常的な後ろに溜めた力を前に出したり、右に溜めた力を左に出すような、溜めた力の大きさが即ち相手への影響力に比例するような種類のものではないことを意味しています。


 ここで、ひとつの対人訓練をご紹介しましょう。
 まず、お互いに広めの弓歩で向かい合って構えます。その姿勢で互いに両手を胸の前に出して手の平を合わせ、そこから ”取り” が前方に歩いて後ろ足を寄せてきます。ここでは正しい弓歩の架式から前足に乗り、正しく足を寄せてくることさえできれば、相手はそれだけで軽く後方へと崩れていくことが確認できます。
 ”受け” の側は、相手に対して抵抗するのではなく、ただ自分の弓歩の架式を守ってしっかりと立っているようにします。

 手順というほどの動作も無いシンプルな対練ですが、ここには太極拳の力を認識するための、そして「ポン」や「リィ」など四正手の勁を理解していくための基本が多く詰まっています。

 大切なことは、前に出るために自分の腕を弛めて身体を動かそうとしないことです。
 普通は、前方に障害物があるときには、その物体に対して最も力を出せる位置まで身体を運び、その後で物を動かしていこうとしますが、武術的に考えた場合には、その物体に触れてから実際に影響が出るまでの "時間" が問題になります。
 相手に対して、自分の攻撃が始まってから相手に影響が出るまでに長い時間が必要であれば、それはそっくりそのまま相手にとっての有効な時間になってしまいます。
 相手との接触・非接触に関係なく、自分が動いた瞬間からすでに相手に影響を及ぼせていなければ、どれほどの破壊力を身につけていようとも武術的には全く無意味なものになってしまうわけです。

 腕を弛めないと言っても、肘をピンと張り伸ばしておく必要はありませんが、自分が弓歩の姿勢から動き始めたときには、同時に相手がすでに崩れ始めているという状態が正しく、単に前方への移動のために腕を弛めてしまうと、ただ立っているだけの相手に軽い力で阻止されることになり、前に足を寄せてくることができなくなってしまいます。

 私がこの対練が「腰相撲」の稽古よりも難しいと思えるところは、相手に押してもらわずに自分から動くというところと、腰ではなく、手を用いるところです。
 相手と同じ架式で立ち、手を触れている状態からでは「拙力」で押せばすぐに分かってしまいますし、ゆっくり腕を弛めていっても容易にそれを感知されてしまいます。
 ここから自分が前足に乗って行くには、構えた弓歩の架式が決まっていることと、そこから歩法の原理通りに正しく動けること、そして、寄り掛からず、手で押さず、弛めもしない、などという自己制御が必要になります。

 もうひとつ難しい点は、始めにも述べたように、自分の前にいる相手を動かすために自分側に力を ”溜め” ようとしてしまうことで、パンチやキックなどを相手への衝撃力として訓練してきた人に多く見られる考え方です。
 大抵の場合は腕を弛めて自分の身体を前足に近づけ、曲げられた腕を伸ばすことで相手を押そうとするか、腕は伸ばしたままで身体に入力をし、それを解放するタイミングで相手に関わろうとするかのどちらかになるようです。
 当然そのような関わり方では架式も歩法も必要ありませんし、正しい弓歩で構えている相手には通用しません。仮に相手を動かせたとしても、相手にぶつかる力が与えられることになりますから、相手には、いつ、どのような力が、どのような経路で自分に来るのかが、ありありと分かってしまいます。
 師父や上級者と対練をしたときには、「何が来たのか感知できないうちに崩される」という状態で、力みも衝撃も感じないままに自分の足下が突然崩落するような感覚になります。
 力の大きさで表現すれば、力を溜めてからこちらに解放されたものとは比べものにならないほど小さな力に感じられ、お互いの手の平に生卵が挟まれていても、それが割れないほどの力である場合が多いのです。

 太極拳のチカラについて、私たちが最初に学ばなければならないことは、勁力は「溜める」ようなものではないということです。
 勁力を一般日常的な力と混同して考えてしまうと、站椿をはじめとする基本功の全ては、より大きな拙力を手に入れるための練功となってしまい、そこから勁力を理解していくことはたいへん難しくなります。

 勁力とは、整えられた構造が原理に沿って動いたときに生じるチカラであり、例えば先ほどの対練のように、弓歩の姿勢から正しく一歩を出せたときには、一歩を出すために動き始めたその瞬間からチカラが生じており、一歩出す間に力をためておいて、然る後に一気に放出するという種類のものではないのです。
 もしそのようなものが太極拳の力だとしたら、站椿や基本功での動きはグッと貯めてパッと打ち出すような動きであるべきですし、そうなると等速・等力や無極の要求を守ることも、全く必要なくなってしまいます。むしろ、走り込みや縄跳び、筋トレなどの太極拳とは正反対の訓練が必要になってくるかもしれません。

 繰り返しますが、「勁」は予め溜めておいてから出すような種類のものではありません。
 稽古では「勁」を ”電気のようなもの” であると喩えられることもあります。
 家庭のコンセントの所まで、それはすでに到達しているものであり、後はスイッチを入れれば電灯は点き、スイッチを切れば消えます。それも蛍光灯のような点灯までに時間の掛かるものではなく、白熱灯のようにスイッチを入れると同時に点灯するものです。スイッチを入れた後に力が溜められてから出されるような種類のものではないのです。
 そして、電気の通っているコードが「勁道」にあたり、その勁道にはすでに勁が通っている為に、触れれば(スイッチを入れれば)崩れ、吹っ飛ばされる(電灯が点く)ということが起こるのだと説明されることもあります。

 私たちがこの説明を初めて耳にしたときには、「勁」という、日常から見れば異質な、難解に思えるチカラをすんなり受け入れられたと同時に、このような認識を「太極勁」習得のための大事な第一歩として考え、ここから学習を始めなければならないと思いました。

 また師父は、『それは何も太極拳に限ったことではなく、そもそも力を溜めてから作用させるようなものは武術とは言えない』と言われます。よく考えてみれば、触れるだけで即斬れてしまうような刃物を手にした場合に ”溜めてから斬る” などということはちょっと考え難く、より時間を多く必要とする「溜める」という考え方自体、高度な武術の本質から外れているのではないかと思えます。

 そういえば、稽古中に受ける全ての対練の感覚は、”斬られる” 感覚と近似しているように思います。刃物に対しては此方が手で防いでも足で踏ん張っても、抵抗も虚しくバッサリ切られてしまいます。稽古でも同じように、たとえどのように抵抗しようとも、根本からひっくり返され、時には重力に反して軽々と浮かされ、時には突然落とし穴に掛かったように地面に吸い込まれ、こちらの抵抗は全くの無意味になってしまうのです。
 それは、こちらが相手を拘束しに行っても、お互いに同じ条件で投げ合っても、散手で打ちに行っても、全て同じ感覚が返ってきます。
 そしてどの場合にも、こちらが抗えないような強大な力によって屈服させられるのではなく、むしろ自分の側に立っていられないような、力が抜けていくような「どうしようもなさ」によって崩されてしまうのです。
 その「どうしようもない感覚」が、素手で刃物に向かっていったときの「斬られる感覚」と同じように感じられるのかもしれません。

 稽古では、お互いに「四つ」に組んで崩し合うものも行われており、それなどはとても興味深く、太極拳の考え方が分かり易いと思われますので、いずれ折を見てご紹介していきたいと思います。


 正しく整えられ、よく練られた架式には「勁道」が備わり、そこにはすでに「勁」が通っているということ・・・・それ故に、相手に触れたところから架式が動けば「勁」がはたらき、同時に相手も動かされているために、結果として立っていられない、崩される、ということが起こります。
 それでは「勁道」はどのようにして身体に備わるのか、と言えば、それは「基本功」をひたすら練ることによって養われるのです。わずか数種類ほどしかない基本功の動作は、まさに「勁道」を確立するために存在していると言えます。
 基本功で練られる「勁道」が見えてきたら、次は四正手の「勁」を練ることができます。



                                 (つづく)



        




        


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2010年06月21日

練拳 Diary #31 「勁力について その2」

                        by 教練  円山 玄花



 「勁」・・・その特殊で微妙な整えられた力は、稽古で練り、体験を重ねるほどに、なお不思議な力であると思えます。それは、勁という力があまりにも日常の発想から離れた質のものであり、また、私自身が未だ未だ日常性の域を出ていない故かもしれません。

 しかし「勁力」というものを太極拳の訓練体系から眺めてみれば、決してそれほど特別なものではなく、むしろ勁というチカラを用いることの方が、ヒトとしてごく当たり前の、自然なことのような気さえしてきます。
 なぜなら、站椿で立つことはヒトが構造的に最も自然に正しく立てるというところを少しも離れてはいませんし、歩法や套路で要求されることも困難極まりない特別なことではなく、指摘されることに素直に耳を傾けさえすれば小学生にでも訓練していくことができる、至ってシンプルな内容であるからです。
 そして、自分自身のことを考えてみても、太極拳を学ぶことで見えてきた「動く」ということに関する考え方や身体の使い方の方が、以前と比べて遙かに無理や無駄のないものであると感じられるからです。

 「勁力」と呼ばれるチカラもまた、単語だけで見ると、何か特別で神秘的なもののような気がしますが、各種の練功を稽古していく中で、こちらに伝わってくるチカラの感覚や、その時々の状況などを細かく見ていけば、決して神秘の力でもなければ超常的な気の力でもなく、とても実際的な力であるということが、誰にでも直ちに感じられると思います。
 その「太極勁」を習得するためには、「勁」が非日常・非拙力のチカラであることを常に念頭に置き、自分が既によく知っている力を工夫するのではなく、全く未知の新しいものとして受け入れ、学んでいくことが ”鍵” となります。


 さて、「出力・出勁」の稽古に入る前に、忘れてはならない重要なコトがあります。
 それは、《 全ての勁力は、正しい架式から生じる 》という認識です。

 これまでに腰相撲のシリーズでも述べてきたように、正しく整えられた架式なくして正しいチカラは発生しません。
 事実、3〜4人の門人に思い切り腰を押して貰う訓練でも、それに楽に耐えて返すことの出来る上級者が、架式の要求をただひとつ故意に外しただけで、たった一人を相手にしても返せなくなってしまうという事が起こります。いや、返せなくなるというよりは、架式の仕組みが崩れて拙力でしか対抗できなくなったということが、本人は勿論、周りで見ている人にも目に見えてよく分かるのです。
 では、「架式」とは、一体どのようにして整えられるものなのでしょうか。

 例えば、お馴染みの腰相撲でも「右弓歩」の架式を取るときには、直立した姿勢から左足先を開き、左足に乗って右足を前方に大きく踏み出します。その時、右の膝は垂直に立ち、左の膝は完全に伸びているようにします。上半身は真っ直ぐに起ち、腰は前に弛んで回ることのないように、前後にピシリとキレているようにします。

 架式を取ると言えば、ただこれだけのことなのですが、その際に重要なことは、完成姿勢が如何に決まっているかではなく、その姿勢になるまでの過程が如何に太極拳の要求を外れていなかったか、ということです。
 仮に完成姿勢だけが問題にされるのなら、かの「跌岔」などは、完成姿勢さえ正しければ、どのような足の踏ん張りや足の蹴り上げを用いて立ち上がっても良い、ということになってしまいますが、そのような自分勝手に動いて良いものが、生命の遣り取りに関わる戦いの為の訓練になる筈もなく、同時に「型」の稽古をする意味も存在しなくなります。

 「型」というのは、何も套路などの決められたものだけを指すわけではなく、右足を前に出して右弓歩を取るということも、それが武術としての訓練である以上、勝手気儘に動けるところはひとつとして無いのですから、それ自体が立派な「型」の稽古であると言えます。

 よく稽古中にも、各自が架式の完成姿勢を鏡に映して確認し修正をする姿が見られますが、本来の稽古の在り方としては、完成姿勢に行くまでの過程である、姿、形、動き、といったものこそが修正されるべきであり、動作の終了後にアレコレと直してみても、示範された事と自分との違いは確認できても、それ自体は正しい修正にはなりません。
 
 何故なら、架式は「意」によって導かれるからです。
 【 用意不用力(意ヲ用イテ、力ヲ用イズ)】という言葉は、太極拳の最も大切な要求のひとつであり、基本功、套路、対人訓練など太極拳に関わる全ての訓練に於いて貫かれるべき要訣です。套路や基本功で手の位置や身体の向きを修正する際にも、それが「力感」ではなく、「意」によって動かされなくてはなりません。

 私たちの稽古で、ひとつの動作、ひとつの架式に対して、あれほど繰り返し多くの注意を受けるのも、各自の「意」に対する意識がとても重要であるからだと思えます。
 套路で言えば、ただ一着(一技法)を師父について動く間にも、師父や教練から、そして同じ一般クラスの先輩からも、正しい在り方についての注意や、間違いに関する多くの指摘が為されます。

 ほんの一例を挙げますと、

 「その動きは明らかに原理から外れている動きである」

 「合わせるのが遅い。示範にピタリと合わせて動けなくては自分の誤りに気付けない」

 「静止して確認を促された瞬間の姿勢が、示されたものと大きく異なっている」
 
 「そこで胸とお尻が出るようであれば、その手前の動きでアシの蹴りを使っている」
 
 「もし、その動きが要求の通りなら、その時に手足はそのような位置には来ない」

 「その問題の根本は、やはり ”正しく立てていない” ことに因ると思える」

 ・・・等々といったような、様々な注意を受けることになります。

 しかも大抵の場合、一人の門人が抱えるひとつの問題は、その人が行う全ての練功に於ける共通する問題点でもありますから、例えば套路で間違いだと指摘されたところは歩法でも同じ間違いが存在しますし、やはり対練に於いてもその誤りが有り有りと出てくることになるのです。

 詳細にわたる指摘と自己修正の繰り返し・・それが延々と、一日5時間も10時間も、或いは何日も何ヶ月も続くと、やがて誰にも「気づき」と「発見」が訪れるようになります。
 指摘されたポイントを修正しようとするとき、単に身体だけを動かして修正されたものは、遅かれ早かれ、また同じ状況に身体が戻ってくるということ。
 自分の構造の誤りを認め、意識的に正しい構造を認識できた時には、たとえ精度は十分でなくとも、その瞬間から正しい構造で動くことができるということ。
 また、自分の間違いが認められない場合には、同じ間違いが際限なく繰り返されるということ。そして、何度も身体各部の位置や動きの修正を繰り返していくうちに、そもそも「意」でなければ、自分の「構造」には何ひとつ関われないという事がようやく見えてきます。

 稽古中に幾度となく聞かれる「真似をする」という言葉もまた、同様にその「意」を促すものです。普通は、動きながら動作を真似しようとする際に、見たものを一旦アタマで考え、分析してから身体に反映させようとするので動きが遅れてしまいます。しかし、遅れないように動こうとしたときには、自分勝手な思考では追いつかないので、それを止めて、意識的に「ただ合わせよう」とする働きが起こるわけです。

 よく、自分独りで稽古をしていると、足の筋肉の力みを多用してしまい、動けば動くほど身体は重くダルく感じられてしまうが、師父の動きにピッタリ合わせて動いてみると、驚くほど身体が軽く、足の力みなど不思議と少しも感じられない・・・などということが多く聞かれますが、これなどは「意」と「思考」の違いが明確に現れていると思えます。

 つまり、自分で動こうとしたときには、指摘された要求がグルグルと頭の中を巡っているために「思考」となり、「思考」は直ぐには身体に反映されないので「力感」で身体を動かすことになるのですが、示範に正しく合わせようとして動いたときには、そこに「思考」を挟む余裕がありませんから、「見たものを、見た瞬間に、見たまま動く」という「意」が働き、それによって示範と同時に全身を動かすことが出来る、ということになるのでしょう。
 「黙念師容」という要求は、まさにそのような学習方法を示しているのだと思います。

 一般クラスの稽古で「用意不用力」という言葉が毎回のように出てくることはありませんが、師父や教練について動くことや、架式や歩法に対する細かく厳しい要求があるために、《「意」を用いることで身体が動く 》ということを最初から学んでいることになります。
 そしてさらには、意が働けば気が動き(以意行気)、気が動けば身体が動く(以気運身)ということも、自ずと理解されてくるようになります。

 「気」という言葉もまた、「発勁」などと同じように神秘やオカルトの世界のことだと誤解されがちなもののひとつですが、私たちの道場では、それを分かり易く説明するために、よく「エネルギー」として語られます。

 生命を、生命たらしめている根源的なエネルギー。
 それは、大地にも、ヒトにも、天(宇宙)にも存在し、満ち溢れているエネルギーです。
 ヒトもまた、起きていても寝ていても、休むことなく動き続けている ”生命体” ですから、当然エネルギーによって動いているわけです。そのような、ヒトが動くために必要な内在しているエネルギーの総称を「気」と呼んでいるわけです。

 普段、気力旺盛な人を、「あの人はエネルギッシュだ」などと表現することもあるように、「気=エネルギー」として考えれば、取り立てて特別な物として扱う必要はないと思えます。 
 他にも、心意気、意気込み、意気揚々、生意気、意気消沈など、思いつくままに挙げてみても、私たちの生活の中で「意」と「気」に関係する言葉は、非常に多く日常的に、身近に使われていることが分かります。

 ・・少し話が逸れましたが、各練功に於いて必ず「意」が用いられるように稽古し、「意」によって身体が動くようになれば、「意」が働いたことによって「気=エネルギー」が動き、「気」が動いたときには「勁」が働く、ということになるでしょうか。

 したがって、右足を前に出して「右弓歩」を取る際にも、その一挙一動に「意」が用いられなければならず、そのような訓練を経て整えられた右弓歩の構造には、既に「勁」が働いているため、数人掛かりで腰を押していこうと、どれほどの拙力を以て関わろうとも、容易に押せるようなものではなくなるわけです。
 もし慎重に架式を整えたにも関わらず、軽い力で自分の架式が崩れてしまうようであれば、それはまだ弓歩になる前の「馬歩の構造」が理解されていない故であり、弓歩の架式を修正する前にもう一度「站椿」に立ち返って見直す必要があると言えるでしょう。

 基本中の基本である、正しい「架式」の整え方によって、「勁」というチカラの質に僅かでも触れることができたら、そこからようやく「太極勁」を習得する旅が始まります。



                                 (つづく)

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