*#21〜#30

2010年01月06日

練拳 Diary #25 「初稽古」

 新年明けましておめでとうございます。
 昨年は「練拳ダイアリー」を多くの方にご覧いただき、誠にありがとうございました。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。

 今年は1月2日に門人の皆さんが大勢お年始に来られたかと思えば、もう翌3日(日)には拳学研究会の稽古が行われ、昨日、1月5日(火)は「一般・武藝クラス」の稽古始めとなりました。
 年末年始の一週間ほどは、週に2〜5回の稽古に続けて通っている門人にとっては、一年のうちに三日以上稽古の無い日が続く唯一の期間に当たります。

 『何ごとも、登るのは大変だけれど、落ちるときには一瞬で落ちてしまうものです。
  毎日稽古をしていないと、あっと言う間に身体も功夫も元に戻ってしまう・・・
  気を抜かずに、この年末年始を、ご自分の稽古に励んでください』

 稽古納めを終えると、師父は必ずそのような言葉を門人の皆さんに向けられます。
 それはつまり、この一年間で養われた功夫を大切にして欲しいという心遣いと、いつものように道場で稽古をするのではなくても、自分で自分の稽古ができるかどうか、さらには太極拳の修練が心の奥底から求めて止まないことであるかどうかが、自分自身に問われる期間になるのだということを、同時に言われているようにも思います。

 道場があって、稽古をする時間が十分あるときには、誰でも比較的容易に稽古することができます。しかし、道場に来られない期間に自分がどれほど太極拳と向かい合えるのか、どれほど自分自身と向かい合うことが出来るかどうかで、その人の太極拳に対する思いや覚悟の大きさが自ずと見えてくるに違いありません。

 太極武藝館の初稽古は、まさに一年の内で唯一度稽古の無いその期間に、各自がどのように過ごしてきたかを思い知らされる最初の稽古であり、自分自身の現状と今年の課題を実感することになる、独特の緊張感に包まれた稽古となります。


 さて、今年の初稽古は、平常どおり「柔功」や「圧腿」などの準備功から始められました。
 思いのほか身体が鈍っていたり、前年からの課題がまだクリアできていなかったり、或いは年末年始の自主トレーニングによって、わずかでも進歩の形跡が見られたりと、やはり人それぞれ、思い思いの年末年始を過ごしてきたことが見受けられます。
 そして、そのことを最も強烈に感じているのはその人自身であるということも、こちらに伝わってくるかのようでした。

 毎年想うことではありますが、初稽古の良いところは、各自が新しい年の幕開けと共に、頭も身体もリフレッシュされ、気力が充実し、頭脳も明晰になっている、というところです。
 つまり、新年という大きな節目を越えたことによって、目の前に広がる全ての物事に対して、新しい気持ちで向かい合うことが出来ているように感じるのです。
 「考え方を変える」「日常に囚われない」ということを常に念頭に置いて稽古している私たちにとって、国も地域も家庭も、周りの環境の全てが「新年」という新しい気持ちで過ごしているということは、自分のアタマを変える絶好のチャンスになるような気がしました。

 次は、近ごろ一般クラスでも教授されるようになった「站椿功」が行われました。正面に立つ師父を囲むようにして、門人たちが一挙一動をつぶさに観察しながらの稽古です。

 「なぜ皆さんは腰が高いのか・・いくら膝を曲げても、腰は落ちません」
 「腰を低くするとは、膝を曲げることではなく、腰が落ちる構造にすることです」
 「結局は、如何に立つかということに尽きる。それが解らなければ太極拳は有り得ません」

 昨年の終わりに師父から、「私はこれまで細かく説明し過ぎたかも知れない。来年からはあまり説明をしないようにしましょう・・」というお言葉にあったとおり、今回は初心者に必要な站椿で要求される基本的なことと、各自への目立った注意点以外は、ことさら指導や指摘が無いままに、ただ「見せる」ことを中心に稽古が進められていきました。

 「物事を観ることのできる力」は、そのまま何かを「理解できる力」になる、と私は思っています。説明されていることを聞いているだけで分かったようなつもりになったり、出来ているような気になっていても、それは全くの間違いであり、ましてや太極拳を理解していく力には決してなり得ません。稽古で見たそのままをその場で体現しようとして、それに必死になることによって、初めてそこで言わんとしている練功の真意が見えてくるものだと思うのです。

 練功の真に意味するところを読み取ることが出来なければ、やはりパワー志向、スピード志向といった、日常の安易な考え方から抜け出すことができずに、太極拳の高度な練功もただの筋トレもどきになってしまうことでしょう。
 要点以外の詳しい説明を無しに、ただ「見せる」だけの稽古を行うことで「見る目」を養い、感じられる「アンテナ」を開発し、それを体現できるだけの「自己統御」ができるようになれば、その貢献するところは大きいものです。それは太極拳のみならず、家庭や社会に於いても、また自分の人生に於いても必ず役立てられ、それらがより豊かなものになるに違いないと、門人の皆さんの站椿訓練を見ながら鮮烈に感じられました。

 稽古はその後「纏絲勁訓練」と各種の「基礎歩法」が組み合わされ、さらに高度な構造を学ぶための、円圏で膝を伸ばして歩く歩法が長時間に亘って行われ、それらの練功を通じて各自の站椿のレベルを再認識できるように工夫されていました。そして、各々の今年の課題が各自にようやく見えてきた頃、仕上げに対人訓練が行われました。

 初稽古で行われた対練は、昨年このブログでもご紹介した「腰相撲」で、《弓歩の腰相撲》と、《腰相撲の投げ》の二種類が行われました。どちらも自己の有り様を見直し、太極拳の「考え方」に照らして観るには最適な練功です。

 基本である弓歩の腰相撲では、要求を守って架式を丁寧に整えれば、そこに美しくバランスの取れたひとつの「構造」が生じています。その構造は、相手に前方から押されることによって、その内容がより分かりやすく、鮮明なものになっていくように思えます。
 関わってきた相手に対して、抵抗するのでもなければ、ただ受け入れるのでもないという、非日常的な「もう一つの考え方」によって、相手の力は見事に無効化され、自分のチカラよりも遙かに大きな力が加えられても、そのチカラはゼロにされてしまうのです。

 後ろ足の突っ張りや、前方に身体を緩めての寄り掛かりなどといった、日常的に相手の力を回避する工夫をしなくても、自分が正しく放鬆して立てたときには、誰もが必ず、そこに深遠なる「太極拳の原理」を垣間見ることができます。
 実際に、正しい原理で歩法が理解できている門人は、相手に正面を向けた《馬歩の腰相撲》でも、押されながらその場で足踏みをしたり四股を踏むことが出来、そこから前に歩いたり、相手を返したりすることが出来ます。
 その稽古の様子は、新年の幕開けに相応しく、門人の皆さんが大切に育んでいる太極武藝館という名の樹が、またひとつ、正しく年輪を重ねたように思えました。

 各種の腰相撲が「太極拳の原理」を理解するための練功であるならば、《腰相撲の投げ》は「太極拳の戦闘方法」を理解するためのものだと言えます。
 初心者がこの練功を見ると「相手と組んで投げ倒す方法」であると勘違いしやすいのですが、この日も常日頃から指導されているとおり、私たちには「打ち方、蹴り方、投げ方」などと分類して稽古するような考え方は欠片も存在して居らず、たったひとつの「在り方」というものを《腰相撲の投げ》という練功を使って学んでいるに過ぎない、ということが示されています。

 そして、それが「在り方」であると言うことの証しに、六十歳を過ぎている女性に対して若い男性が投げに入ろうとしても、まったく倒れないという現象が起こり、師父に至っては、投げに行く動作さえ出来ない、足を挙げた途端に自分が転がる状態になります。

 散手などでも、師父が棒立ちになっているところに、様々な角度から突いたり蹴ったりしていく稽古が行われますが、師父は全く受けの動作をされず、足の一歩も、肩の一センチも動かさないのに、相手の突きや蹴りは常に師父の身体から何十センチも離れたところにしか届かない、という不思議な現象が起こります。
 師父は、ただ基本を守っているに過ぎないと仰るのみですが、私たちはそのようなことを目の当たりにして、初めて、本当に「在り方」だけが必要なのだと、心底実感させられることになるのです。

 まだ入門してから出席日数の少ない初心者にとって、対人訓練は特に実感するのが難しい練習のようでしたが、それでも目の前で繰り広げられる非日常的な現象の数々が、決して手の届かない遠い存在ではなく、基本功で示されている立ち方・歩き方などを地道に正しく積み重ねていくことで必ず手に入ると確信しているようであり、師父が示範される姿を見ている眼光の鋭さには、先輩たちにも負けないものがあって、つくづく感心してしまいます。


 こうして今年初めての稽古を終えてみますと、自己の在り方を整備すること無くして深遠な太極拳の原理など理解できるはずもなく、また、太極拳の原理を外れては、その高度な戦闘法など見えてくるはずもない、とつくづく思えます。
 それら目前に広がる「至宝」を手にするためには、何よりも自己の中身を絶え間なく磨く必要があり、そうして自分を磨くことによってこそ、ひとつの武藝が人間を存在の高みへと導くという事も有り得るのだと思えます。
 そして同時に、自分を磨き、鍛えるためだけに使える貴重な「道場」という場が此処に存在しているということが本当に有り難いことであると思えました。

 今後は一層気を引き締め、更なる研究と研鑽、そして自己の鍛錬に励み、先達が残された大いなる遺産をより深く味わい共有できる自分になりたいと、心の底より願った今年の稽古始めでした。

                                    (了)


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 ご参考までに、昨年、太極武藝館の各クラスで行われた稽古回数と時間を付記します。


      *一般クラス    102回   408時間
      *特別クラス     51回   255時間
      *拳学研究会    257回  2313時間


 稽古時間は、単に多ければ良いというものではないのでしょうが、高度な拳理を得るためには多くの稽古時間を充てなければ決して正しく習得できないということも、また事実であると思えます。

 太極武藝館ではいずれのクラスも稽古時間が多く取られていますが、例えば正式弟子とその候補生たちが在籍する「拳学研究会」で行われた昨年1年間の総稽古時間は、1日に平均すると約6.4時間になることが分かります。

 これは、毎日欠かさず2時間ずつの練習を行った場合の3年2ヶ月分に当り、週に2回、2時間ずつの練習を行った場合の約11年間分、また、週に3回、2時間ずつ練習を行った場合の約7.4年分に相当するものです。

 門人の皆さんは、ご自分の稽古回数と照らし合わせて本年の稽古の参考にしてください。



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2009年11月25日

練拳 Diary #24 「腰相撲(こしずもう) その6」

 これまでに、弓歩、馬歩、壁抜け、蹲踞、投げ、と、五種類の代表的な腰相撲について述べてきました。私たちが行っている腰相撲の全ての形は、この五種類の架式を元に変化したバリエーションであり、その架式を離れたものは、ひとつも行われません。
 その5種類の架式にしても、元を辿ればたったひとつの「馬歩=ma-bu」に行き着くことになります。

 なぜ「腰相撲」というひとつの練功に対して、様々な種類の架式が用意されているのかと言えば、ひとつには、人が立っている所からそれぞれの架式を取りに行く際の「身体の状態」が非常に重要であるからであると言えます。
 つまり、「馬歩」が正しく理解されていれば、どのような架式を取りに行っても、身体が乱れることはなく、今ある状態から形の異なる架式を取りに行こうとしたときに、原理に則った動きができれば、それは即ち生きた架式、使える架式となり、終には相手と向かい合ったときに、武術的に自在に動けることに繋がるのだと思います。
 そうでなければ、なぜ基本功を中心に、ゆっくりと同じ動作を何回も繰り返し稽古するというのでしょうか。ましてや套路などは、全て架式から架式までの途中に、身体がどのような状態にあるかということだけが問われているようにも思えるほどです。

 実際に、架式の整え方が動きの有利・不利を決定するものなのだと、強烈に感じられたことがありました。
 それは、師父と空手出身の門人が一緒に並んで、前方に突きをしながら歩いていく訓練を行ったときのことです。
 足を肩幅に開いて立っているところから、右足を一歩後ろに引いて弓歩で構え、順突きをしながら前に進んでいくのですが、何回やっても師父の方が速いのです。
 一歩が速いわけでも、出される拳のスピードが速いわけでもなく、むしろ周りで見ている私たちにとっては、一歩ずつが数えられるほどの、ごく普通の動きに見えるのですが、拳が到達するのは絶対的に師父の方が早く、例えばミットなどに打っていけば、到達する早さの違いは、より明らかだったことでしょう。

 体格も、足の長さも、腕の長さもそれほど変わらない二人が、同時に突き始めても到達する時間が大きく異なるという事実は、当時の私にとってかなり大きなショックでした。
 それは同じパンチ力を持っていても早く相手に届いた方が当たりますし、相手のパンチ力が自分より遙かに勝るとしても、やはり早く届いた方が有利であることを意味するからです。
 これが刀だったら、あるいは拳銃であればどうだったかと想像すれば、より分かり易いかも知れません。それが、拳打のスピードやフットワークの素早さに関係なく、早い遅いが決まってしまうのですから、これは大変なことだと思ったのです。

 何が原因でそのような事が起こっているのかを観察してみると、構えた時の姿勢や身体の位置、膝の動きなどには、それほど大きな違いが見られなかったのですが、動き出したときには既に師父が前に居て、その門人は後ろに居る、という具合に、「遅い・早い」が動いた瞬間に決定しているという状態でした。
 ところが、試みに師父がその門人の構えを細かく真似されていくと、そこからの動きは、その門人とピッタリ同じタイミング、同じ早さになってしまうのです。
 そこでようやく、初めに「構え」た時点で、その「架式」に秘密があるのだということに思い至りました。もっと正確に言えば、その「構え」が完成するまでの動きや、身体の状態の違いであり、さらには構えに行く手前の「立ち方」が問題であった、ということが分かったのです。
 
 「腰相撲」の練功で、いちばん初めに用意されている課題は「架式が正しく取れること」です。「正しく」とは、立って動くことが、太極拳の法則から少しも外れないことであり、どのような架式を行うときでも、その意識で修練を続けることで、漸く「太極拳の身体」が手に入るのだと思います。
 それは、基本功や套路、推手や散手などにも、同じように当て嵌めて考えることができます。つまり、基本功の架式の取り方と対練での架式の取り方は同じであり、突きも蹴りも、戦い方も、そこから離れたものは何ひとつ存在しないということになります。
 そのことこそ、師父が常々仰る、「たったひとつのことを学んでいるに過ぎない」というところの、「ひとつ」の意味なのではないかと思えるのです。

 その理解が無いままに、どれほど多くの架式を学ぼうとも、また多くの秘伝や要訣を聞いていても、それらはただの「使えない宝」に過ぎず、陳列棚に並べられた宝など、ただのガラクタ同然で、文字通りの ”宝の持ち腐れ” になってしまいます。
 また、もしその収集した宝物が、実はそれらの宝とは比べものにならないほどの、大いなる叡智に到達するための、単なる「鍵=キーワード」に過ぎないとしたら、その「鍵」を集めて並べておくことや、その「鍵」をピカピカに磨くことなどに、いったい何の意味があるでしょうか。

 私たち修行者は、腰相撲に用意されている架式の種類に囚われることなく、その架式の意味するところを理解するために、それを利用し、使い込むことが求められているのだと思います。
 そうしてようやく、太極拳の学習の中で「腰相撲」という練功を稽古する意味が見えてくるに違いありません。

 腰相撲のシリーズは今回で終わりになりますが、最後に、私たちが行っている腰相撲の様々なバリエーションを、写真にてご紹介したいと思います。

                                  (了)




   【 横からの腰相撲 】

        

   馬歩の姿勢を取り、横からゆっくり肩と腰の二個所を押してもらいます。
  大切なことは、「耐えられること」や「押されないこと」ではなく、架式が理解できる
  ことです。

   ゆっくりと押してもらっても架式と姿勢が乱れず、足に力みが生じなければ相手を返
  すことが出来ますが、まだ架式が充分に取れていない場合には上半身が傾いたり、押さ
  れている方と反対の足に力が増えてきて、そこが支点となり、限界まで来ると押されて
  しまいます。



   【 後ろからの腰相撲 】

        
  
   半馬歩(ban-ma-bu)の姿勢を取り、後ろからゆっくりと押してもらいます。
   充分に押された後に、それを返すこともできます。
  
   相手の手に寄り掛かることなく、半馬歩の姿勢が崩れないようにします。
   半馬歩が難しい場合には、弓歩の姿勢を取り、後ろから押してもらうことも出来ます。

   足を前後に開いた状態で後ろから押してもらうことにより、自分の架式や立っている
  身体の状態がより明確になります。

   例えば、「馬歩」の構造が正しく取れていなければ、たとえ小さな力で押されても、
  身体が居着く状態となりますし、反対に「馬歩」の構造が守られていれば弓歩で前から
  押された時と同様に、どれほど押されても足に大きな負荷が来ることはありません。



   【 片手での引き合い 】

        
  
   向かい合って構え、単塔手の状態から手首同士を掛け、互いに後ろに向かって四正手
  の「リィ」をするように引き合います。
   架式は、半馬歩よりやや広めに取り、相手を引くときには身体を動かしても構いませ
  んが、一方向に等速度で引くようにし、引きながら方向を変えたり、何動作にも分かれ
  ないことが大切です。

   これまでに述べてきた腰相撲と違って、「取り」と「受け」に分かれないため、より
  架式が整っている方が、相手を力むことなく引くことが出来ます。



   【 膝相撲 】

        
  
   お互いに弓歩の架式を取り、脚の内側を向かい合わせて脛を交差させ、そこから双方
  同時に押し合います。グイグイと煽らずに、一動作で押していくようにします。
   これも、弓歩の架式が正しく取れている方が正しく動くことが出来、その結果相手を
  押していくことが出来ます。

   膝相撲では、他に膝の内側を併せてお互いに押し合って崩すものもありますが、何れ
  にしても弓歩が固くて動けないような、不自由なものではないことを現しており、架式
  そのものが ”使えるもの” であるということが分かります。



   【 肩を押す 】

        
  
   床に正座をしているところを、前から肩を押してもらい、返すというものです。
   架式では馬歩の確認となり、正座で足が曲げられていても、無極椿の要求が変わらず
  守られていることが大切です。

   日頃大腿四頭筋を多用していると、軽い力で押されてもアシに負荷が来てしまうため、
  押されると簡単に後ろに転がされてしまいます。



   【 足を伸ばして座り、手を押す 】

        
  
   一方が床に座って足を開いて伸ばし、パートナーは床に座った人の掌を前から後ろに
  倒していくようにゆっくりと押していきます。

   これも架式で言えば馬歩の確認となり、馬歩の理解が正しければ絶対的に不利な体勢
  であるにも拘わらず、相手を返すことが出来ます。
   架式がまだ十分でない場合には、押される力は腕に来やすく、そこから背筋、大腿四
  頭筋へと力みが伝わり、ついには相手に押されてしまいます。

   正座や床に座るものなど、足を使わずに行う対練では、「架式」というものが足の形
  式ではなく、身体全体の問題であるということを示しているように思います。

   足を使わない腰相撲では、この他にも、床に横になって腰や肩を押してもらうもの、
  また、多人数で手足を押さえさせるものなどもあります。



   【 ぶら下がり腰相撲 】

        
  
        

   これも足を使わない腰相撲の一種ですが、今度は上からぶら下がって足の踏み込みや
  蹴りが使えない状態で腰を押してもらい、更にそれを返すというものです。

   初めはカカトを床に着けて行いますが、「立ち方」が理解されてくると完全に足を浮
  かせてぶら下がった状態でも押されることはなく、身体は武術的に機能しているために
  相手を返すことが出来ますが、反対に、立ち方が十分でない場合には、小さな力でゆっ
  くり押されても、まるでサンドバッグを押すように簡単に押されてしまいます。

   一番下の女性演者の写真のように、足が床に着いていない状態では筋力で耐えること
  も出来なければ、脚力で返すことも出来ないため、自ずと「立つこととは何か」という
  ことに行き当たります。
   また、拙力を使えない状態、拙力を使っても意味のない状態を創り出すことによって
  「非拙力の構造」を垣間見ることのできる、優れた練功法であると思います。

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2009年10月23日

練拳 Diary #23 「腰相撲(こしずもう) その5」

 私たちが行う「腰相撲」の稽古は、実に様々な架式とスタイルが用意されており、その種類を挙げていったらキリがないほど数多くの腰相撲が存在します。
 それは、その日その時の稽古内容に合わせて、"今・此処" で必要な練功として腰相撲が行われるためであり、他の練功の稽古中でも「今から、この形で腰相撲をやってみましょう」と言って、その場で新しい腰相撲が発案されるのも珍しいことではありません。
 「腰相撲」と言っても、単に腰を押すものだけではなく、反対に”引いてもらう”ものや、腰以外の身体の部位を押してもらうもの、壁や床に固定されるものから、お互いに自由に崩し合うものまで、全ては「太極拳」という文化・学問の学習と体現、そして太極拳特有の力である「勁力」を理解するためのバリエーションであると言えます。

 さて、今回行われたのは、腰相撲の「投げ」でした。
 稽古方法は、まずお互いに右足を前に出して、腰を取って四つに組み、その状態から、一方が前足を挙げて相手の外側に入り、これを崩して倒します。そのとき、相手は倒されないように、それを阻止する、というものです。
 これまでに述べてきた腰相撲と異なる点は、相手から押されるというアクション無しに、こちらから仕掛けるところと、始めに組んでいた弓歩の架式から変わって、完成姿勢が馬歩になるところです。

 この腰相撲で要求されるポイントを幾つか上げると、
 
 (1)相手と組んだところから前足を挙げる際に、後ろ足に乗り直さない。
 
 (2)自分の出していった足で、相手の足を刈って倒さない。
 
 (3)自分が動き始めたときには、相手が崩れていなくてはならない。
 
 ・・などです。

 (1)については、よく初心者を中心に指摘されることなのですが、自分が行動を起こす際に一度乗り直すという動きでは、相手に関わるまでに最低でも二動作必要になり、相対している状態から、一動作以上の動きは武術的に考えても有り得ず、もしそのような動きを稽古していれば、相手は容易に反撃することができてしまいます。
 相手と構えた時の架式が正しく整えられていて、そこからどのようにでも動ける状態であれば、足を挙げることから相手に入っていくところまで、すべて一動作で可能になります。

 (2)に上げた、相手の足を刈るのではないということは、ある程度太極拳の仕組みを理解していないと難しいようで、普通は「倒す」ということに対する先入観が働き、日常的な、いわゆる ”足を掛けて倒す” ということの工夫になってしまいます。
 太極拳で求められる「倒す」ということは、私たちのところでは、結果的に相手が「立っていられない」ことを意味します。つまり、支点を作ってテコの原理で倒されたり、自分が立っていた力よりも大きな力で倒されるのではなく、自分が立っているということの全体そのものが、その場に存在できなくなるのです。
 そのような状態を、門人はよく「天地がひっくり返った」と表現します。自分に力が加えられて地面に倒されるのではなくて、自分が立っている状態はそのままで何も加えられずに、今立っていたはずの地面が、その天と地とが一瞬にして入れ替わる、というような感覚のものです。

 (3)で示されているものは、今回の腰相撲に限らず、全ての対練に共通することなのですが、相手と向かい合ったそのときから、そして動き始めたときから、すでに相手を崩せていなくては、武術的に間に合わない、と指導されます。
 それは相手との接触・非接触に関係なく、相手がこちらに向かってくるその瞬間から崩せていないと ”遅い” とされるのです。
 そして、「崩す」ということは、何も見た目にグラグラと崩せていることだけではなく、相手が感知できないくらいの、ごく微細な ”崩し” もそれに入ります。

 それでは一体、何によって「崩れる」ということが起こるのでしょうか。
 その秘密は、ひとつには「架式」にあると言えます。それは、馬歩で立っているとき、或いは弓歩で構えたとき、静止してその場に立っているだけでも、その架式が正しく取れていれば、相手は容易に近づくことが出来ず、ついには触れてもいないのに崩されてしまう、ということが起こります。
 これは、構造対構造であれば、より構造的に大きくて、無理がなく整っている方が勝る為であり、例えば自分が巨大なビルを目の前にして見上げた時や高層ビルの上から下を見たときの目眩にも似た感覚や、不意に水に浮かぶサーフボードに乗せられたときのような、自分の構造以外の物の上に立ってしまった状態と少し似ているかも知れません。
 ・・とは言え、始めにそのような ”構造負け” をしていても、徐々にそれに対応できるようになり、サーフィンも出来れば、高くて細い梁の上でも、楽に歩けるようになってしまうのですから、人間に秘められている可能性というものを考えると、つくづく凄いことだと思えます。

 今回の腰相撲での架式や構造については、お互いに構えたところから、こちらから動きを起こして相手を倒します。それは、始めに整えられた架式の要求を外さずに動けるかどうかが、各自に問われているのだと思います。
 真に正しい要求と原理に沿って整えられた架式であれば、それ自体がそこからどのようにでも自在に動ける「静中の動」の状態であり、動いても失われない架式の状態は、即ち「動中の静」であると言えますから、ここでもまた、站椿の「無極椿」と「太極椿」を理解することの重要性が伺えます。
 
 さらに、整えられた架式から動けた場合には、「相手とぶつからない」ということが起こります。ちょうど、構造が整えられている方がもう一方を捉えられるように、こちらが動いたときには、お互いにひとつの構造として、ひとつの方向へ動いていくことになるのです。
 ただし方向性としては、同じひとつの方向でも、ちょうどシーソーのように、こちらは起きる方へ、相手は落ちる方へと動くため、この現象が結果として「ぶつからずに相手を倒した」と、いうことになるわけです。

 師父や上級者がこれを行うと、動きが始まったと同時に相手が宙に浮くような格好で崩されるため、足を刈るどころか、身体にはほとんど触れていないことが分かります。
 それはスローで稽古が行われるときも同様で、例え足に触れることがあっても、触れている力以上には増えずに動き続けて、ゆっくりな動きのまま返されていくのです。
 例え相手が拙力で倒されまいと頑張っていても、それは例えば、遊園地のコーヒーカップに二人で乗りながら、ひとりだけが回るまいと頑張っているようなものですから、どれほどカップの上で力んでいようとも、意味のないものになります。
 反対に、多少力ずくで来てもかわせるような、柔らかい状態で受けられたとしても、ひとつの構造として取ってしまうため、相手はかわすこともできずに崩されてしまうのです。

 腰相撲で、相手に何の抵抗感も与えずに投げられる、ということを繰り返していると、例えば弸(ポン)の稽古で、構えている相手の両手に触れ、接触しているただそれだけの力で相手が大きく吹っ飛び、崩されるという事と同じであることに気がつきます。
 それは弸(ポン)に限らず、手の平や腰を持っての「押し合い」や「腕相撲」などの対練でも同様で、全てに共通しているのは、極めて小さな力で大きな影響力が生じる、ということです。そしてそれは「四両撥千斤(しりょうはつせんきん)」の現象を表しています。

 「四両撥千斤」とは、四両(150g)の力で千斤(500kg)を撥(はじ)くという喩えで、陳氏第九世の陳王廷が残したと伝えられる、太極拳の戦い方を示した歌訣に出てくる言葉です。
 また、王宗岳が著した、いわゆる「太極拳経」と呼ばれるものにも、
 『察セヨ、四両モ千斤ヲ撥クノ句ヲ、力(チカラ)ニ非ズシテ勝ツコト顕ラカナリ』・・という一節が出てきます。
 四両と千斤の話を聞いた当初は、さすがは中国だ!、とも思いましたが、腰相撲でも弸(ポン)でも、実際に百キロ近い体重の人間が、触れられていた状態から、何のモーションもなく、まさに数十グラム程度の軽い力で数メートル離れた壁まで一気に吹っ飛ばされるわけですから、決してオーバーな例え話ではなかったのだと、つくづく思い直したものです。
 その、四両の軽さで千斤を撥くことを可能にしているのが、他でもない「勁力」なのだと思います。そして、その「勁力」を理解し、身につけるためのシステムが、基本功を始め、腰相撲などの対練にまで、徹底されているのだと思いました。
 
 すべては正しい架式が整っていればこそ、と述べましたが、実際にはそう簡単なことではありません。

 そもそも、何を以て「正しい架式」とするのか。
 どのようにして、その架式が整えられるのか。
 その架式から、どのようにして動けるのか。
 構えたときと動いたときの、自分の架式と相手との関係性はどうであるのか・・。

 架式の追求は、即ち拳理・拳学の追求そのものであり、その追求なしには、どれ程の太極拳を学んでいようとも、またそこでの修行にどれ程の年月を掛けようとも、太極拳の核心に迫ることは叶わないと思えるものです。
 そうでなければ、なぜ多くの時間を使って数々の「腰相撲」をこなし、その全ての腰相撲で架式の重要性が説かれるのでしょうか。ましてや、その場で相手が崩れて、吹っ飛ぶというような表面的な工夫をしていては、架式どころか、腰相撲の意味さえ見えてくるはずがありません。

 これらの問題は、単に站椿が鍵だ、意識が重要だ、などと、聞いたようなことを頭で復唱していても当然解決するはずはなく、実際に自分の足で探求の旅に出て、自分の眼で観て、自分の身を以てそれを骨の髄まで浸みさせ、通過させ、さらに研究と検証を重ねることによってのみ、ようやく「本物の太極拳」と言われるところの、その片鱗に触れることができるのだと思います。
 站椿や基本功など、ごく身近にある練功はそれ自体が至宝であり、そのような ”探求の旅” に出て、その本質を尋ねるだけの価値があると思えるものです。


                                  (了)



  【 参考写真 】

        
  *相手はかなり頑張っているのですが、簡単に投げられてしまいます。
   「組んだ時から既に浮かされているような感じがする」とのことでした。



        
  *非常に軽い投げで、出した右足の着地は、相手が倒れてからであることが分かります。
   身体の動きが早く、左足にも落下が無いことなどが見られます。



        
  *まだ稽古回数が20回に満たない新入門人の投げ。動きは当然ぎこちないものの、
   馬歩を修正することで膝が出なくなり、相手を押さなくなりました。



        
  *これは、門人が師父を投げに行こうとして、反対に返されたところです。
   返される時にも、ぶつかったり押し返されたりするような感覚はまったく無く、
   何故返されてしまうのかが解らないほど、非常に柔らかく返されます。
   普通は、投げに行くために足を出すという行為自体が全くできない状態です。

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2009年10月03日

練拳 Diary #22 「腰相撲(こしずもう) その4」

 当門で行われる練功の数々は、すべて「太極拳とは何であるのか」ということを各自が認識し、各々の段階で明確に理解するために用意されています。
 そして、それを理解していく必要がある、という意識を持って稽古に臨むのと、そのような意識を持たずに、ただ示された練功を毎回の稽古で繰り返しているのとでは、同じ時間、同じ稽古をこなしていても、身に付くことが大きく異なってきます。

 特に、他の格闘技や武術を経験してからここに入門した人は、どうしても自分がこれまでに学んできた学習スタイルの延長線上に「太極拳」もあるものだと思いがちで、稽古に対する正しい意識がなかなか芽生えず、「太極拳のシステム」を理解するのが難しいようです。
 反対に、ごく普通の主婦やサラリーマンなど、武術と縁が出来たのは太極武藝館が初めてで、それも三十歳、四十歳を過ぎてからの入門、という人のほうが、指導内容の飲み込みが早く、太極拳を根本から理解していくための軌道に乗りやすいことが多く見られます。

 「腰相撲」ひとつを取り出して見ても、それは実に様々なバリエーションで行われていますが、どのような架式とスタイルで稽古していようとも、示されている原理はひとつであり、何種類もの「腰相撲」を通して、太極拳の発想や考え方、稽古の取り組み方などを学ぶことによって、ようやく「太極拳とは何であるのか」ということを実感していくことができるのです。
 その原理を理解するためには、武術経験の有無に関係なく、また、自己の学習スタイルを持ち運ぶことなく、日々新しい気持ちで謙虚に稽古に臨み、常に探求し、真摯に学び続ける姿勢が大切ではないかと思えます。


 さて、今回の腰相撲は、「蹲踞(そんきょ)」の形で行われました。
 稽古方法は、これまでに述べてきた腰相撲と同様に、蹲踞の姿勢を取り、パートナーに前から腰を押してもらうというものです。
 相手にある程度強く押されても立っていられることが確認できたら、それを返すことも行いますが、返すことよりは架式が崩れないことを、そして、正しく架式が取られていれば、容易には押されず、相手を軽く返すことができるという、その仕組みを学んでいきます。

 実際にやってみると、押されたり返していくこと以前に、蹲踞の姿勢がどれほど正しく取れるかどうかを、そして蹲踞の姿勢を取る意味がきちんと理解されているかどうかが、真っ先に問われているのだということを、誰もが実感するようです。
 「蹲踞」の取り方は、まず両足の踵を合わせて直立し、つま先を軽く開き、そこから腰を下ろすようにしてお尻を踵に近づけていき、同時に、脚はつま先立ちになるというものです。
 このように、蹲踞の姿勢を取りに行く動作そのものは、取り立てて難しくないのですが、上級者と初心者の完成姿勢を見比べてみると、立つことに対する理解の違いが明らかに「姿勢の違い」として顕れており、正しく架式を整えることの難しさを感じます。

 因みに、太極武藝館では、事情により稽古に遅参してきた場合には、更衣室で支度を整えた後、道場に入場して壁に向かって蹲踞の姿勢を取り、稽古参加の許可が下りるまで黙想して待つことになっています。そして、その時の蹲踞の姿勢が正しくない場合には、その場で修正され、さらにそのまま待つことになります。
 人によっては、一回の蹲踞で二度、三度と繰り返し修正を受ける場合もあり、稽古参加の許可を待つ時点から、その人の稽古が始まっていると言えます。

 なぜ、その「蹲踞」を使って腰相撲が行われるのでしょうか・・?
 初心者は、長時間その姿勢を取っていると、すぐに足の力みやつらさを訴えます。
 つまり、馬歩や弓歩の架式に比べて足を多用しやすく、そのために、無極椿で整えられた身体の構造が、いとも簡単に崩れてしまうというわけです。
 言い換えれば、蹲踞のようにつま先立ちになるような姿勢になっても、馬歩や弓歩で確認できた身体の状態を変わらずに正しく取れるかどうかを見ていくという、その機会を与えられているのだと言えます。

 蹲踞の姿勢は、他の腰相撲に比べて接地面積が少なくなり、見た目もとても不安定です。
 しかし「馬歩」が正しく理解されていれば、例え膝が深く曲げられていても、つま先立ちになっていても、馬歩は些かも乱れることが無く、ちょっとやそっと押されたくらいでは、ビクともしません。
 そのように馬歩が確立されている人を押していくと、とても蹲踞をしているようには思えず、まるで弓歩で立っているところを腰相撲で押して行ったときのような、とても押せないけれども、足で耐えている力感がまるで無いように感じられるのです。

 蹲踞の姿勢では、例え前傾して重心を最大に前に出したとしても、つま先立ちをしているという構造上、前から押される力に対抗するには限界があります。
 そして、前傾の傾向にある人ほど、ほんの僅かな力で、花瓶を傾ける為に指でトンと突くような力でも、簡単に、コロリと倒れてしまう光景が見られます。
 反対に、比較的押されにくい人の姿勢を見ると、むしろ身体は真っ直ぐであり、身体に角度が付いていたとしても僅かなもので、とても寄り掛かりとしては利用できないくらいの傾斜なのです。
 
 何故、蹲踞のような姿勢で押されない事が可能になるのかと言えば、それこそが太極拳を学ぶ上で、最も理解されなければならないことのひとつである、「化勁」の作用によるものだと指導されます。
 「勁力」そのものが、正しく架式を整えられたことによって生じるチカラであるように、蹲踞の架式を、馬歩を崩さずに全身をピタリと一致させて取ることが出来れば、化勁という力の働きによって、相手の力が大きくても小さくても、全て無効にされてしまいます。
 押して行く側にしてみたら、押している力はどんどん増やしているのに、相手を動かすことが出来ないため、さらに力を込めますから、結果的に身体は居着いて不自由な状態になってしまいます。

 この、押している力は増えているのに相手に影響のない状態については、誰もが、「どこまでも、押して行けそうな気がしてしまう」・・と、表現しています。
 つまり、化勁によって押して行った力が無効にされると言っても、それは、こちらよりも強く大きな力で阻止された為に「押していけない」と感じられるような種類のものではない、ということになります。
 相手を押していったときに、力がぶつかることによって阻止されたものであれば、それ以上の力を加えたり、多人数で押していけば、動かせることが分かります。
 しかし、「どこまでも押して行けそうな気がする」ものに対しては、なかなかそれ以上の力を出せないものです。それは例えば、レールに乗ったトロッコを押して行くときに、始めに押して動かせた力以上に増やす必要がないことと、似ているかもしれません。

 そして、ここからが太極拳の面白いところだと思うのですが、相手を押していくときに、相手の身体に両手がようやくピタリと密着したというくらいの、ごく小さな力で関わった場合にも、こちらは見事に居着かされ、相手の意のままに返されてしまいます。
 つまり、こちらの力の大小に関係なく、相手に向かった力は全て無効にされてしまい、こちらの出した力以上の影響が返ってくることが「化勁」の本質だと言えるでしょう。
 そして、それを可能にしているのが、正しく架式を整えることによって生じる「弸勁(ポンジン)」だと教示されるのですから、何故にあれほどまでに「站椿」が重要だとされているのかも、自ずと見えて来る、というものです。

 例えば、「散手」などの稽古では、基本を理解している人に対して突いていくと、こちらの突きが逸らされる・・・つまり無効にされる、ということが起こります。
 それは突きに限定されたことではなく、蹴りでもタックルでも、果ては床に正座をしているところを様々に攻撃して行っても、やはり当たらず、逸らされてしまうのです。
 避けられたわけでも、移動しながら突きを受け流されたわけでもないのに、突いて行ったその先に、相手が居ないのです。

 試しにスローで突いていくと、突きが逸らされてから、まるで受ける形を取ったように手が沿わされていることが分かります。これを素早く行えば、傍目にはまるで腕や手で受けたように見えるのですが、突いた方にしてみたら、こちらが完全に突ききったときには、受けられた感覚がないまま相手の手がそこに来ているわけですから、いつの間にか相手の手の内に居るという、誰が見ても、非常に不利な状況だと言えます。
 このような現象もまた、化勁の作用によるものだと言えます。

 もちろん「化勁」は太極拳独自の高度な戦闘技法であり、「腰相撲」は初歩的な化勁の体験に過ぎないのですが、それでも、自分より遙かに有利な体勢から押されても、その力に少しも影響を受けず、また力んで耐える必要もなく、それどころか反対に相手を居着かせて、不自由な状態にしてから意のままに返すことが出来るという、その事実と体験は、やがて推手や散手などの実践技法を理解していく上で、確実に有益な宝物となるでしょうし、太極拳という、私たちが慣れ親しんだ日常とは発想も方法も全く異なる武術を学ぶための、重要な鍵のひとつになるに違いありません。
 また、そのような「鍵」によってこそ、「太極拳とは何か」という未知なる扉が開かれるのだと、つくづく思えるものです。

                                  (了)



 【 参考写真 】

        

  *体格の大きな人が、かなり強い力で押してきているところを正しく受け、
   さらに返している様子です。
   押されているときと返した後の姿勢が、ほとんど変わりません。



        

  *こちらも良く立てている例です。
   脛や足首の緊張が無ければ、身体の自由度が更に増えると思います。



        

  *揺るがずに受け、返せてはいますが、わずかに相手への寄り掛かりが見られます。
   自分の力で立つことが出来れば、骨盤の巻き込みや大腿部の力みが解消されるはずです。



        

  *身体は伸びやかですが、前傾姿勢で耐えているため、返すことができず、
   結局は押されてしまった例です。



        

  *こちらも返せなかった例です。前傾姿勢ではないのですが、押されてきたことに対して、
   受け身で、ただ待っていた状態だと言えます。



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2009年09月14日

練拳 Diary #21 「腰相撲(こしずもう) その3」

 腰相撲のひとつとして行われる稽古の中に、「壁抜け」というものがあります。
 数ある腰相撲の練習法の中でも、特にこの練功は日常や常識というものが一切通用しない、独特のスタイルを取るものであり、同時に太極拳や力というものに対する自分のイメージを、大きく根底から変えてくれるものだと思います。

 稽古方法は、まず、壁を背にして立ち、足を一足(つま先から踵までの幅)に開きます。
 壁を背にして立つと言っても、当然壁に寄り掛かるわけではなく、踵は壁から僅かに離しておき、膝はピンと伸ばしておき、背中は壁に触れる程度です。
 次に、その状態でパートナーに腰を押してもらいます。この時点で身体が正しく整えられていれば、押されていても身体はフリーな状態で、そこから相手を返すことができます。

 相手を返すときには、前傾したり相手に寄り掛かったりせず、真っ直ぐに立っているままで、基本功で教わる通りに身体を用いて返します。このときに働いている力が「開合勁」であると説明されます。正しく「勁力」が働いた場合には、返す方向への運動が見られず、返した後も最初の姿勢と何一つ変わらないのに対して、拙力で返そうとした場合には、押されていた腰を前へ押し出すような格好が見られるのが特徴です。

 「壁抜け」は、これまでに述べてきた2つの腰相撲に比べて、架式の整え方が大きく変化します。
 最初の腰相撲では、前後に足を開いて弓歩の架式を取り、次の馬歩の腰相撲では足を左右に開いて深く腰掛けました。ところが、今回の「壁抜け」では、足をたった一足ほどに開いただけで、腰を深く落として構えるような動作が何も無く、足を並行に開いて立っているだけです。
 その、ただ立っているだけで相手が押せないときの姿勢と、相手を飛ばし返しても乱れない姿は、どこから見ても「站椿」の状態に相違なく、日常では到底有り得ないように思われる現象を目の当たりにすることで、站椿と基本功で養われる内容の重要性に、誰もが認識を新たにすることになります。

 ところで、”足を軽く左右に開く”という動作は、套路で学習する一番最初の動作であり、そこのところが分からなければ、先の動作に進んでも何の意味も無いと言われ、ある時にはその日の稽古の套路の時間は、”足を左右に開く”という、ただその一動作だけが指導されたこともあるほど、奥の深い重要なものとされています。
 足を左右に開くということが、なぜそれほど重要視されるのかと言えば、これは、私たちにとっては歩法の一歩に相当するものであり、何によって身体が動き、足が開かれ、如何にして身体に「歩法」というものが生じるのか、その仕組みと過程を発見する為の、実に大切な一動作なのです。
 站椿でも、歩法でも、基本功や套路であっても、凡そ「型」として用意されている練功は、その殆どが”足を横に開く”という動作から始められます。当然のことながら、足を開くという身体操作を行う為には、先ずは正しく立つこと、即ち「站椿」が十分に理解されている必要がありますが、站椿の意味するところを理解するためにも、正しく足を開くというところから目を向ける必要があるのだと思います。
 ただ単純に、普通に足を開くだけなら、誰にでも、一般人にでもできるのです。
 そのような、誰にでも出来ることであれば、ことさら取り出して修練を重ねる必要もなく、誰にでも出来るようなことではない故に、それ故に高度な武術原理として、六百年もの長い年月を掛けて研究され続けてきたのだと、私たちがそのような動作を一般日常的に、軽率に動いてしまったようなときには、必ず厳しく注意されます。

 今回の「壁抜け」で最もユニークなところは、「立つ」ことが理解されていれば、たとえ棒立ちであっても、相手に「押せない」状態が起こることでしょうか。
 壁を背にして、足を僅かに一足ほど開いただけの棒立ちの人間を、壁に押し込めて封じることが出来ないのです。身体の大きな人が押したり、2〜3人で押していくと、道場の壁がミシミシと音を立てますから、当然押している力は前へ伝わっているはずであり、その分相手は壁に固定されているはずだと思えるものです。
 ところが、師父や上級者のように、立ち方を繊細に訓練してきた人たちは、押されているところから軽く足踏みをしたり、押してきた人と容易に場所を入れ替えて、反対に相手を壁に押して行くようなことさえ見せて下さったりします。つまり、懸命に壁に封じたつもりが、実は相手は完全に自由な状態であったと言うことになります。
  
 例えばこれが、普通の人を押していった場合にはどうなるのでしょうか。
 かつて師父が、ある大学の新入学生オリエンテーリングの「太極拳体験クラス」に、特別講師として招かれたことがありましたが、その時にレッスンのひとつとしてこの「壁抜け」が行われました。
 大きな大学生を相手に、彼らの腰を壁に向かって押していくと、私のようにか弱く小さな身体と華奢な両腕で押しているにも拘わらず、彼らは自分の腰を動かすことも、前に出ることも出来ません。さらに師父に、「それでは、どんなことをしても良いから、頑張って前に出てみましょう」と言われると、上半身を最大に前傾させて、重心を少しでも前に出そうとしたり、壁の反動や床の蹴りなどの勢いを使って工夫する人も居ましたが、何をやっても前には出られず、結果は同じでした。

 ここでひとつ、面白いことに気がつきました。
 それは、壁を背にして直立し、腰を押さえて固定されている状況では、「足の蹴り」が使えないということです。
 歩き出すために片足を振り出しても腰が移動できないので、出した足は虚しく、元の身体の真下の位置に戻ってくるのです。反対の軸足で蹴ろうとした場合には、今度は前ではなく、上向きに力が働いてしまって、やはり前に出ることが出来ません。
 彼らは私よりも遙かに太くて立派な足の筋肉を持っていましたが、そのような折角の筋力も”使える環境”、つまりその人にとって「日常」の状態にしないと、なかなかその力を発揮できないのだと、感心してしまいました。また、加えて、ヒトは身体の中心である「腰」を押さえられると、ずいぶん不自由になってしまうものなのだと、改めて感じられました。


 さて、壁抜けで師父や上級者を押していった門人は、口々に「押せない」感覚を訴えます。そのうちの幾つかを挙げますと、
 
 「何を押しているのか分からない」

 「押しても、相手の足腰が床や壁に付いているという気がしない」

 「押す力が増すほどに、反対に自分の足が浮かされてくる気がして、押せなくなる」

 「前に押しているのに、同時に、同じ力で後ろから引かれているようだ」

・・などです。


 相手に腰を押させてそれを返していくという、極めてシンプルな対練でも、ここで生じているお互いの関係性を、推手や散手のような相手と向かい合ったときの状況に当てはめて、押していく力を自分からの攻撃として考えてみると、ちょっと恐いような気がしました。
 それは例えば、このように言い換えられるでしょうか。
 
 「どこを打っているのか分からない」
  
 「打っていっても、相手の足が床に付いている気がしない」

 「こちらのパンチ力が増すほどに、自分の足が浮かされる気がして打てなくなる」
 
 「前に突いているのに、同時に後ろから引かれているようだ」


 もし、稽古でなく、普段の生活で誰かと向かい合い、このような状況が自分に生じたとしたら、私だったらすぐにその相手と向かい合うことを止めるでしょう。
 なぜならば、そのような状況では、こちらが相手の実態を掴めていないことは明白であり、それは同時に、相手には自分の実態を、その全体を取られていることを意味するからです。
 それは、例えば戦闘機のシューティングゲームで言うと、相手は此方を完全にロックできていて、いつでも撃てる状態と同じことのように思えるのです。
 実際に、相手との関係性で押している側に「押せない」状況が生じたときには、押している方は押すことだけに限定されてしまい、逆に押されている方は自由度が大きく、そこから十分に、じっくりと動くことが可能になり、相手を軽く返していくことが出来ます。
 押す側が動きを限定されているのに対して、押される相手が自由であることほど、避けるべき危険な状況は無いように思えます。

 もちろんこの「壁抜け」は戦闘技法の訓練ではなく、太極拳の原理を理解するための練功であり、ましてや発勁技法の稽古ではありません。ただひたすらに、自分の身体の構造に目覚め、示されている構造を手に入れて、その精度を高めていくなかで、「勁力」という太極拳特有の力を、基本功と照らし合わせて学習していくことが目的です。

 しかし、そうは言っても、原理の理解・習得のための稽古で、これほど具体的に相手との関係性が浮かび上がってくるのは、やはり凄いことだと思います。
 それは、太極拳の原理が即ち「戦闘方法」を示すものでありながら、同時に、単にその「方法」からのアプローチだけでは原理を導き出せないということの表れであり、原理を理解するために”足を開く”という単純な動作の研究をしたり、「站椿」を練り込むことが必要なのだと言えるでしょう。
 「腰相撲」のバリエーションのひとつである「壁抜け」は、そのことを私たちに教えてくれているのだと思いました。

                                 (了)




  【 参考写真 】

        

        
    
  *押す側も、押される側も、丁寧に身体を整えようとしています。
   押されている側には、押されているときと返した後の姿勢に変化が無く、
   相手を前方に返そうとしていないことが分かります。




        
  
  *一枚目の写真では、やや相手に押さえ込まれていることが見られます。
   その結果、相手を返したときには僅かに前傾姿勢となります。
   稽古中には、このように、相手を飛ばし返せたかどうかが問題とされるのではなく、
   どのようにして自分の身体を整えたか、ということが最も重要であると指導されます。




        
  
  *お互いに姿勢をチェックしながら、押した感触や身体の状態を確認します。
   正しく立てていれば、何のアクションも必要とせずに相手を返すことが出来ます。




        
  
  *入門してから、わずか数日しか経っていない新入門人の「壁抜け」です。
   当然のことながら、正しい軸や架式は身に付いていないのですが、それでも立ち方を
   修正し、基本功で学んだことを丁寧に再現できれば、このように相手には「押せない」
   状態が生じ、力まずに返すことが可能になります。
   本人の感性もさることながら、指導される要求や要訣の偉大さに驚かされた一枚です。

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