*#21〜#30

2010年06月07日

練拳 Diary #30 「勁力について その1」

                        by 教練  円山 玄花



 太極拳の訓練として行われる数々の練功は、静止した状態で始められる定歩のものから、各種の歩法や套路など活歩で行うもの、さらには相手と手を交える対人訓練や推手、そして互いに自由に動く散手まで、その形式や内容には様々なものがありますが、それらすべての太極拳の練功は、「太極勁」という独自のチカラを習得するために存在していると言えます。

 しかしながら、「勁力」というものが非日常的なものである故でしょうか、それが詳細に説明され、毎回の稽古で実際に目の前で証明されていても、各自の持つ武術概念が邪魔をしてしまい、太極拳を理解するための貴重な練功が、スポーツ格闘技に武術風のエッセンスを加えたり、どこぞの武道からの借り物のようになってしまうということが往々にして見られます。

 太極拳の目指しているところは何処であるのか、太極拳でいう「武術」とは何であるのかを正しく理解した上で稽古に望まなければ、どれほど希少で価値のある練功を学ぶ機会が与えられようとも、その本質を逃してしまうことに成り兼ねません。
 そのようなことを避けるためにも、太極拳で用いられるチカラ「勁力」とは、どのようなものとして捉えられ、どのように学んでいくのかを、正しく認識する必要があります。


 初めに述べたように、全ての太極拳の練功は「太極勁」を習得するために存在します。
 それは、站椿で立っていても、套路を練っていても、ミットに拳を打ち込んでいても同じことで、各練功によって目的が変わるということは有り得ません。
 つまり、どの練功に於いても、例外なく初めから「勁」というチカラの考え方を学び、それを実感し、練っていくというわけです。
 そして、ありがたいことには、各練功ごとに、練功の内容が正しいものであるかどうかを確認する方法が必ず用意されているのです。

 例えば、自分の「站椿」の認識が正しいかどうかを簡単に確認できる方法があります。
 それは、足を肩幅に開いて真っ直ぐ立ち、両手を肩の高さに挙げて軽く前に出し、前方から両掌を相手に押してもらう、「グラウンディング」と呼ばれる練習方法です。
 この実験は、これまでにもホームページやブログで紹介されたことがあるのですが、太極拳を理解するのにとても役に立ち、誰にでも簡単に実験できるので、重ねてご紹介しようと思います。

 グラウンディングでは、相手に寄り掛からず、自分の立つ中心を外れず真っ直ぐに立っていることが重要になります。正しく身体が整えられていれば、ある程度のチカラで押されても崩れずに立っていることができ、しかも、押されれば押されるほど自分の構造が明確に感じられ、自分が大地に立っていることに寛ぎ、相手に押されていることの中身をじっくりと味わえるようになります。
 しかし、それが反対であったなら、つまり、立ち方を正しく整えることができなければ、自分が立っていることよりも、相手から押される力の方を強く感じてしまい、簡単に押されてしまうか、身体の軸を崩して拙力で対抗することになります。
 そのようなときには、正しい要求など何処かへ行ってしまい、身体に残っているのは使い慣れた日常的な筋肉感覚、筋力操作の力感のみ、ということになってしまいます。

 これが、この練習法のとても面白いところだと思います。
 普通に考えればどうみても不利な条件でありながら、身体の整え方によって自分に生じる感覚が全く変わってきて、しかも同じ力の強さで押してもらっているのに、それに耐えられる場合と、耐えられない場合が生じてくるのです。

 私がこの練習で押されなくなったときには、とても驚いたことを今でも覚えています。
 「勁力」というものを初めて耳にしたときには、知りもしないのに、何だかとんでもないチカラのように想像していて、それをとても難しいものだと勝手に決めつけていました。
 そんなチカラを自分のものにするには、きっと厳しい練功と気功を山ほどやって、仙人のように何十年も厳しい修行に励まなければ手に入らない超人的な力に違いない・・・などと思っていたのです。

 けれども、そのチカラは、全くそのようなものではありませんでした。
 自分の身体の整え方では日常の領域を越えられずに、一般的な力である「拙力」しか生じず、小さな力が大きな力に制せられるという、日常の法則通りに相手に押されていたのですが、架式と姿勢が正しく修正されたことによって《勁力が生じる構造》となり、それ以前と同じチカラで押されても全くビクともせず、反対に返すことまで出来るようになりました。

 そのときには、自分が棒立ちで相手を飛ばしたことよりも、その後でそれが「勁力」であると説明されたことに、とても驚きました。
 「勁力」とは、自分が想っていたような特別なチカラではなく、身体を正しく整えたときに既に生じている、日常的ではないチカラのことだったのです。
 師父は勁力を「特殊で微妙な整えられたチカラ」であると表現されたことがありますが、実際に自分でそのチカラを受け、未熟ながらも「勁」として相手に伝えられることを体験してみれば、まさしく特殊で微妙な、整ったチカラであると思えました。


 このような「相手に押させる」という稽古は、他の多くの練功でも行われています。
 代表的なものを挙げれば、お馴染みの「腰相撲」はもちろんですし、基本功や套路の途中姿勢でも、動作を止めたところで腕や腰などを押して確認したり、壁や椅子、床などに拘束された状態で、身体の各部位を一人から複数で押さえさせるものなどがあります。

 それらはいずれも、押させた後にそれを「返す」ということを行い、自分の架式や身体の状態を確認していきます。自分が立っているときに存在する力よりも大きな負荷を掛けてもらうことで、自分の身体がどのように整っているのか、どこが整っていないのかを詳しく見ていくことができるのです。
 相手には、毎回一定のチカラでゆっくりと押してもらっていますから、自分と相手との関係は変わりません。変わることがあるとすれば、「自分の状態=在り方」だけですから、自分の在り方だけを見つめながら稽古をすることができるわけです。

 正しく立てたときとそうでないときには、明確な違いが身体に生じ、それが押している相手にもハッキリと伝わりますが、その違いこそが「拙力」と「勁力」の違いだと思えます。

 私たちが稽古で受けている「勁」の特徴を、思い付くままに挙げてみますと、

 拙力に比べて、そのチカラは軽く感じられ、早さがあり、鋭さがあり、
 相手に伝えるためのモーションや、伝わるまでの時間が必要なく、
 筋力の大小に関係なく発することができ、
 意のままに、その方向も大きさも強さもコントロールでき、
 小さな動きで大きな力を出すことができ、それが長く持続する・・・

 ・・などと言えると思います。

 「力」というものを考えた時には、師父が言われたバッテリーの話を思い出します。
 自動車のバッテリーは、見た目にはそれがフル充電されているのか、残量がない虫の息の状態なのかは見分けられないし、バッテリーを充電している時にもそれ自体が膨らんでくるわけではないし、減ってきたからといって縮んでくるものでもない。目には見えないバッテリーの容量を測るにはバッテリーチェッカーを使わないと誰にも分からない。
 勁力もそれと同じことで、相手には、そこにどれほどの力が内在されているのか、推し量ることができない質のチカラである・・・と言われました。

 私たちが「勁」を学ぶときには、いきなり発勁の訓練を始めたりはしません。
 そもそも「発勁」というのは、勁の中でも比較的重要なものとして選ばれた何種類かの勁、「陳氏太極勁十論」などで語られる内のひとつのものに過ぎません。
 そして「勁」というものが正しく認識されれば、「発勁」も学ぶべき勁のひとつとして、誰もが学び、習得していくことができるのです。

 グラウンディングなどの練習法で「拙力」ではないチカラ、「勁力」を実感することができたら、次にそれを相手に返していくことを学んでいきます。返すと言っても、それはまだ「発勁」ではないので、道場では言葉を変えて「出力」などと呼んでいます。

 「出力」というのは、一般日常的なチカラである拙力を出すことではなく、整えられた身体から正しく「チカラが出される」ことを指しています。
 普通、人が力を出そうとするときには、それは筋肉に力を込めた状態、即ち「入力」であると言えます。重い荷物を持ち上げたり押していくとき、ロープを引き上げるとき、引かれないように身体を留めているとき、全身に「入力」が働いていることが実感できます。

 そして、格闘技出身者にミットやサンドバッグを打ってもらった場合にも、構えられた拳が大きな衝撃音を伴ってミットに繰り出されるとき、その腕には大きな「入力」があるように見えます。それは、どのような突きでも蹴りでも同じことでした。

 私は真剣の日本刀を振り回したことはないのですが、それを持つときに腕に少しでも力みがあれば抜刀することはできないし、ましてや人を斬ることは絶対にできない、と教わりました。
 それは刀だけではなく、ナイフでも拳銃でも、大工仕事のカナヅチにでも同じことが言えると思います。金槌で釘を打とうとしたとき、金槌を持つ手に力が入っていたら、ただの釘一本上手に打つことができません。釘を真っ直ぐに打つためには、金槌を正しい方向に、必要な分の力だけを釘に伝えなくてはならず、そのとき初めて金槌による力が正しく発揮されたことになります。

 つまり、何かにチカラを伝えるためには、そのものがきちんと働いて力が「出力」される必要があり、反対に、動いていたものにブレーキを掛けて止めるときには、力が「入力」された方が効率がよい、と言えるでしょうか。

 ここに、私たちが斯くも「構造」にこだわり、それを大切に稽古する理由があります。

 金槌がその力を最大に発揮するためには、金槌の構造が整っている必要があります。
 もし、あの柄の部分が極端に長細かったり、強い力を出せるようにと頭の部分だけが巨大な金具になっていたとしたら、それは金槌としての用を為しません。
 矢が効率よく飛ぶためには、正しい弓の構造が必要ですし、ライフルだって戦車だって、その構造と働きのバランスが取れていなければ、機能することができないに違いないのです。

 一般日常的な力・拙力ではない正しい勁力を用いるためには、その人の構造が正しく整っていることと、その働きにバランスが取れていることが必要です。
 バランスというのは、特に難しい意味ではありません。上と下のバランス、前と後ろのバランス、相手と自分のバランス、陰と陽、虚と実のバランス・・・・

 そのことを理解するために、太極拳で最初に学ぶ練功が「站椿」であり、その内容を確認するものとして、「グラウンディング」や「腰相撲」などの対人訓練が存在しています。          


                                (つづく)

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2010年04月27日

練拳 Diary #29 「階段の、ステップ・バイ・ステップ」

                        by 教練  円山 玄花



 1週間に2回、門人によっては1週間に5回の稽古を行う中で、一般武藝クラス・研究會の区別なく、幾度も繰り返し説かれている「日常・非日常」という言葉があります。

 人間の「常識・非常識」については、道徳の時間に勉強をしたり、社会生活のなかでそのことが問われる機会があったりもしますが、「日常・非日常」となると、そのような言葉そのものをあまり耳にしたことがなく、そのことと太極拳にどのような関係があるのか、それをどのように考えたらよいのかがあまりよく分からない、ということもあるようです。

 稽古中に最も多く聞かれる、「日常・非日常」に関係する言葉を上げると、

 「日常の考え方のままでは、太極拳は理解できない」

 「武術について、君たちが考えられる全てのことは、逆さまだと思った方が良い」

 「日常が非日常に、非日常が日常にならない限り、太極拳は見えてこない」

 ・・などです。

 それでは、普段私たちが生活をしている中での「日常・非日常」とは、一体何であるのかとちょっと考えてみました。

 例えば、普通ヒトは前向きに歩くところを、後ろ向きに歩いてみる。
 普段右手で箸を持つことを、左手で持ってみる。
 席を立つときに、必ず右回りでイスから立ち上がっていた動きを、左回りで立ってみる。
 
 他にも、自転車に乗る、車を運転する、まだ食べた事のない物を食べてみる、船で旅をする、全く知らない言語で話しかけられる、飛行機で見知らぬ遠い外国へ行く・・などなど、挙げ始めてみると、日常の中には意外とたくさんの「非日常」が転がっている事に驚かされます。

 もちろん、今挙げたものは事物や現象など、自分の身の回りのことであり、「考え方」について触れるものではありませんが、程度やレベルの差異はあっても、普段自分が考えないことや、生活習慣にない事柄は、すべて「非日常」と呼べるのではないでしょうか。


 そう考えてみると「階段」というものは、日常の中では見過ごされがちな、ほとんど日常と一体化しているような、けれども立派な「非日常」であると思えてきます。
 しかも、その存在がほとんど日常と一体化しているために、階段に対する自分の「考え方」の「日常・非日常」にまで、言及することができると思うのです。

 「階段」は、足が疲れるし、時間は掛かるし、息も切れる・・・
 三階建てのビルにエレベーターを付ける義務がないなんて、何て非効率的なのだろうか・・と、そう思っていたのは、太極拳を本格的に学び始める前までのことでした。

 「階段は、現代の人が太極拳を学ぶ上で、とても重要なことを教えてくれるはずだ」

・・そのように師父に言われてから、私の階段に対する見方と考え方が変わったのです。


 普通、「階段」という物はあまり好まれません。
 例えば、5階建てのビルの最上階にお遣いを頼まれたとして、受付のあるホールから少し入ったところに、階段とエスカレーターとエレベーターが同じ場所に並んでいたとしたら、貴方ならどれを選ぶでしょうか。
 個人の好みや、頼まれた用事の内容にもよると思いますが、真っ先に階段が選ばれることはまずないように思われます。

 なぜ階段が好まれないかと言えば、それは当然、平地を歩くよりも足に負担が来るからであると思います。聞いた話では、階段は普通、平地を歩くときの約2倍のエネルギーが必要だとか。そして、階段を上るときには、足で身体を持ち上げる負担が掛かりますし、下る時には、足で身体を支える負担が掛かります。
 この、”階段を下るときの負担” というものは、割と見落とされやすく、ともすれば上りだけが身体に負担が来るものだと思われがちですが、実はここに「日常」の視点から見た思い込みがありました。


 かつて池袋の ”サンシャイン 60” で、全部で1,204 段ある階段を使った、とても興味深い実験が行われたそうです。
 その実験とは、まず、サンシャイン60 の屋上と1階に数十人ずつの学生を集め、屋上の人は1階まで、1階の人は屋上まで、それぞれ移動してもらいます。
 そして「上り組」と「下り組」がそれぞれ1階と屋上に到着したら、全員が1階の階段に集合して、一斉に階段を下りてもらう、というものでした。
 すると「上り組」は、筋肉痛のために満足に階段を下りられなかったのに対し、「下り組」は何の問題もなく下りることが出来たといいます。
 ところが、その翌日、再び同じメンバーに集まってもらい、同じように階段を下りてもらうと、「上り組」は普通に下りていくのに対して、「下り組」は「上り組」以上に筋肉痛に苦しんでしまい、とても普通には下りられなかった、というのです。

 この実験から、階段の「上り」と「下り」では、使われる筋肉や身体に受ける負担は異なるものの、どちらも同じように負荷が掛かっているということ、そして階段を下るときに使う筋肉は、普段はあまり使われないためか、急激に使われた後の疲労はかなり大きいということが分かります。

 身体に掛かってくる負担の種類はともかくとしても、実際に20キロの荷物を持って3階まで上るとしたら、同じ荷物を持って下りることに比べると、より負担が大きいと言えます。
 そして、階段の上りと下りで負担が変わることが「日常」であるならば、その負担が変わらないことや、階段を歩くことと平地を歩くことが、身体的に変わらない状態が「非日常」であると言えます。
 そのことは、武術的に考えた場合に、何を意味しているのでしょうか・・・。


 武術の本や雑誌に見られる「歩法」に関係する項目を読んでみると、

 「膝を抜いて、前へ移動するための推進力にする」

 「膝を抜いて落下することで、後方への蹴りが不要になる」

 「膝を抜くことで、相手からは技の起こりが見えない」

 ・・などという表現がよく見られます。

 私たちが稽古で学んでいる歩法とは異なる、その「膝を抜く」という方法に興味を持った私は、それを「階段」で試してみました。

 実際にやってみると、「上り」で膝を抜くと、身体は前の下方向に向かいますから、大急ぎで後ろ足を上の段に持ち上げなくてはなりません。
 また、「下り」で膝を抜くと、次の段に後ろ足を降ろすことができず、そこから体が制御不能な状態に陥り、一番下まで、何段かおきに跳び歩くことになります。

 膝の抜きを加減して見た場合にはそのようなことはなく、後ろ足は次の段に来たのですが、それを連続させて歩くことは、私には難しく感じられました。

 「階段で戦うことは滅多に無い」と考えれば確かにそうかもしれませんが、例えばそれが坂道であったらどうでしょうか。
 下り坂であれば膝を抜いたり落下を推進に変えたりすることは、もしかすると戦闘上有利に繋がるのかもしれませんが、反対に上り坂であったなら、落下して推進できる距離やそれに伴う攻撃威力はずいぶん減少されることが想像されます。
 そしてその身体の使い方では、たとえ見た目にはほとんど分からないような、緩やかな斜面であったとしても、坂の上りと下りでは物理的に作用が異なっている、ということになります。

 果たして、生命の危機を如何に切り抜けるかという際どい状況にあるとき、自分の置かれた環境によって、身体の使い方や原理が左右される怖れがあるものを、わざわざ重要な歩法の練功として練る必要があるのだろうか、という疑問が湧き起こってきました。
 もちろん、私は「膝を抜く」ということに対してそれほどの研究を重ねたわけでもなく、ただ自分がその本を読んで、その言葉通りに試してみただけのことですから、そこに深い原理があっても、当然それを十全に理解することなど、出来るはずもないのですが・・・。


 武術として、自分が相手に殺されないための要素とは、絶対的な「早さ」と、一撃で相手を仕留められる「威力」だと私は思います。

 絶対的な早さとは、瞬間的な速さとは異なり、例えばどれ程パンチを打つ速度が速くても、武術的に見て、身体の動きが遅いのでは、何の意味もありません。
 また相手を確実に仕留められる「威力」とは、パンチ力や発勁力そのものの大きさや強さではなく、相手と自分の関係性に於いて、こちらの力や動作が小さくても相手にとっては強大な影響と作用を受けることが、武術的な「威力」ではないかと思っています。

 そしてその二つの要素は、基本功を中心とした数々の練功によって、身体に備わってくるものだと思うのです。

 基本功や歩法を、ゆっくりと等速度で丁寧に時間を掛けて練り込んでいくのは、どのような状況下にあっても「ひとつの原理」で動ける身体を手に入れるためであり、多くのシチュエーションを設定しておいて、ひとつひとつに対処できるように工夫するようなことは有り得ません。

 例えば、歩法で足の蹴りや落下が感じられなくとも、「階段」を歩くときに足の蹴り上げや落下が必要であるなら、それは同じことが平地でも生じているはずであり、それだと基本の原理から外れてしまうため、まだ身体がトータルに動けているとは言えません。
 階段でも坂道でも、荒野でも田圃の泥の中であっても通用する、不変の原理でなくては、武術としての意味も、日夜の厳しい修練に励む甲斐もないというものです。


 私の場合、自分の歩法を飛躍的に変えてくれたのが、まさにその「階段」でした。
 最初の頃は、段の上に足を乗せて、その位置に自分の身体を持って行こうとすると、どうしても足の筋肉に効いてしまいました。
 それを歩法で考えてみると、出した前足を身体が通過していくときには、足が効いているということであり、それならば足が効かないようにと、そこで膝を抜いても、身体は落下するだけですから、結局どこかで下から上に戻ってこなければなりません。

 私たちが稽古で「落下」を注意される理由のひとつは、落下する動きは、相手にとってはとても「遅い動き」として見えてしまうからです。
 例えば、川を流れる水を見たときに、どこにあった水がどの辺りまで来たかを認識することは非常に難しいのですが、落下して滝壺に落ちてゆく水を目で追うことは容易にできる、ということと似ていると思います。
 さらに、落下をしている間は決して身体をトータルに働かすことが出来ず、身体が十全に働かない状態では「勁力」は生じないという問題があるためです。

 「落下」の問題については、階段の下りの方が、より分かり易いかもしれません。
 いま上ってきた階段を注意深く同じ感覚で下りようとすると、足がわずかに届かない状態となって、不足した分の高さを「落下」で補っていたことが分かります。

 このことについて師父は、階段の上りと下りとでは、使われる身体の構造が異なるためであると指摘されます。
 本来人間の身体は大きな段差を下れるようには作られて居らず、階段が必要な場所では、上りと下りで一段の高さを変えて、下りは上りの三分の二程度の高さにすれば歩きやすく、駅などでは下りのエスカレーターを増やせば大変効率も良いし、健康にも良いはずであると言われるのです。

 ただし、それは一般の人に対してのことであって、師父ご自身は階段の上りでも下りでも、平地と何ら変わらない状態だと仰いますし、実際に師父が階段を歩く姿を拝見すると、まるでエスカレーターにでも乗っているのではないかと思えるほど、身体に入力や脱力などの変化がまったく見られません。

 師父は、それを可能にするために足腰を鍛えたわけではなく、ただ「基本」を守って歩いているだけである、と仰います。
 それだけで、階段を上るときにも足には平地を歩く以上の負担が掛からず、下りでも足が足りないということがなくなってしまうのですから、「基本」がもたらす構造の、何とすごいことでしょうか。

 平地でも階段でも、何ひとつ変わりなく、同じように歩けること。
 それは私たちの学んでいる「原理」がひとつであること、そして「歩法」が示していることもひとつであり、それは平地でも坂道でも、前進でも後退でも、横向きに歩いても、ゆっくりでも素早く動いても、何ら変わることのない、すべてに通じる「法則」であることを意味しています。

 さらに視点を変えてみれば、相手が如何なる武術の戦闘法を身につけていようとも、如何なる種類の武器を所持していようとも、こちらは「たったひとつの原理」を磨き続けていればよい、ということになります。
 いつ誰がどのような武器を持ち、何人で襲ってくるか分からないという、現代からは想像もつかない過酷な戦乱の状況下で、相手がどのような武術に長けているのかも分からない中では「何々に対してはどのように対処する」という考え方では、とても生き延びられなかったはずですから、それは昔日には極めて常識的な考え方だったかもしれません。

 「ただひとつのことを理解し、身につけるために、すべての練功はある」

 ・・そのことを常に忘れてはならない、と指導される師父の言葉は、幾度となく繰り返して聞いても、とても深く、そして重く感じられます。


 「日常」から「非日常」へと興味を持ったとき、そして自分にとっての未知なる「非日常」をやってみよう、やっていこうとしたときには、まるで荒れ地を耕して豊かな畑にしていくかのように、脳の中が開拓され、身体が変わり、自分という生命が大きく、豊かな存在になっていくような確かな実感があります。

 ドレスアップして高級フランス料理店へ行くことも、十分素敵な「非日常」だと思いますが、言わばそれは身の回りのことであって、ただひとときの心地よい体験に過ぎません。
 つまり、自分を変えなくても、「非日常」という環境に身を置くことはできるのです。

 「階段」は、その関わり方次第で、見方・考え方・実際の感覚を「非日常」へとチェンジすることができる、優れた道具だと思います。
 そして、何がきっかけであれ、一度でも自分の「非日常」が「日常」へと変化すれば、人はそこからさらに大きく、自分を開拓していくことが可能になるのだと思います。

 現代における武術の存在意義は、そのようなところにもあるのだと感じられました。


                                    (了)

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2010年03月28日

練拳 Diary #28 「腰相撲の動画」

                      by 教練  円山 玄花


 この練拳ダイアリーでは、これまでに「腰相撲」という稽古法を計7回のシリーズで掲載してきました。記事と共に掲載した写真は50枚を超えますが、いずれもその時々の稽古に励む門人の様子を分かりやすくお伝え出来たのではないかと思っています。

 しかし、拙い文章と静止画の写真だけでは表現出来ないことの方がはるかに多く、太極拳の計り知れない奥深さや、私たちが修錬する目的や意義を一体どれほど表現できたのかは疑問として残りました。そしてスタッフたちからも、これ以上のことをお伝えするには実際に動画の映像を観て頂くしかないという声が上がり、初めて動画を公開するに至った次第です。

 「動画」を公開する主な理由は、ふたつあります。
 ひとつは、先に述べたとおり、文章や写真では表せないものをお伝えするためです。
 架式の整え方やその重要性、そして勁力というものをどれほど言葉で説明しようと、そう簡単に理解できるような質のものでないことは、太極拳を学習している人たちが一番良く知るところでしょうし、実際に目で見ることに勝る方法は無いと思えるからです。
 また、それをビデオカメラが捉えた目で繰り返して見ることによって、より大きな理解やイメージを得られる筈であると思えます。

 もうひとつは、太極拳の歴史が始まって以来、陳家溝でも重要な練功とされて古くから練られていた筈の「腰相撲」が、太極武藝館にどのような訓練方法として継承されているのかをお伝えするためです。

 その訓練内容を詳らかに説明することは許されておりませんが、少なくともこのブログで述べてきた内容が実際にはどのようなものであるのかを、このような動画でご紹介することは可能であると思いました。


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 【 動画 その1・解説 】

 これらの動画をご覧頂くにあたって、内容の順序と概要をお伝えしておきます。
 この映像は、以下の7種類の「腰相撲の訓練」を一本の動画にまとめたものです。


 (1)1名の門人が、正しい形で力一杯押していくもの(計三本)

 押す人の表情はクールですが、実際にはかなりの力で押しています。
 そして、それにも関わらず、師父の姿勢はほとんど変わらないまま、相手がひどく崩された格好で飛ばされていくのが見られます。
 この場合、押す側の手に感じられる力はごく僅かなものですが、反対に身体内部に返ってくる衝撃は非常に大きく、もし一般門人がこれと同じものを受けたら、とてもこの演者のようには立ったまま無事に着地することは出来ないと思われます。
 実際に、撮影ではヒヤリとする場面が幾度かありましたが、その度に頭から落ちそうになるのを演者が空中で身体をコントロールして必死にこらえ、また、師父も発力をコントロールされているために事無きを得ました。


 (2)5名の門人が、力一杯押して行くもの

 いずれも各自が最大の力で押しているものですが、普段の稽古では多人数で行う場合でも、構造を理解するために、いちいち青筋を立てるほどのパワーで押して行くようなことはしません。特に一般クラスの稽古では、各自が最も理解できる力の状態で押して行くように指導されます。

 この映像は、撮影用に最大の力で思い切り押していますが、それでも正しく整った架式には、単に力の大きさで向かおうとしても全く刃が立たないということがよく分かります。
 押す際には、一人一人が自分のすぐ前の人を押すのではなく、受け手であるただ一人の相手を押していくように全力を出しているのですが、その手応えはまるでビルの壁でも押しているかの如く、全く押せるような気がしません。
 また、その挙げ句に、突然津波が押し寄せてきたように身体全体が浮かされて弾かれ、後方の壁に当たって止まるまで、フルスピードで走らされることになります。

 これまでにも述べてきたように、「腰相撲」は力比べを行うのではなく、お互いに架式を整備して勁力を理解し、太極拳の構造から武術として使える身体を養うために、その練功が行われます。
 また、腰相撲によって生じるチカラが「勁力」であることの証しとして、押されている合力の強大さとは反対に、遙かに軽い力で相手を返すことが可能になります。また、それが質量や拙力によるものではないことを確認するために、自分より大きな人と組んでみたり、多人数を相手に同じことが可能であるかどうかを試してみるわけです。

 太極武藝館では、入門後わずか数回しか稽古に出席していない門人でも相手を返してしまうような現象が見られますが、それは「腰相撲」という練功を始めた時点から『正しく受けられることが、反対に相手をきちんと飛ばし返すことが出来ることである』と指導される故だと思います。
 腰相撲の練功に於いて、押す側としての最も重要な稽古は、正しい架式で、チカラを水平に、きちんと相手に伝えられる、ということです。
 それによって初めて押している自分の「構造」が明らかになり、その正しい構造で押せた場合には、返して来る相手の勁を正しい構造で受けることが出来るので、そこに正しい身体を養うための正しい稽古が成立することになります。

 かつて、入門して間もない門人から、
 
  『腰相撲というのは、ここで指導されるように、正しい姿勢できちんと真っ直ぐに
   押してもらわないと、相手を返すことは出来ないのですか?』

 ・・・と、訊かれたことがあります。
 それに対して私は、

  『いや、どのように押されても返すことは出来ますが、それでは ”腰相撲の稽古” になり
   ません。互いに自由に押したり投げたりするものは別の稽古になります。
   腰相撲は、相手を返すことが出来るかを追求しているのではなく、正しく押せること
   と、正しく返せることの中で、太極拳の構造を学んでいくことが目的なのです・・』

 と、お答えしました。
 
 この質問自体が「パワー志向」であり、「力比べ」の発想から出てくるものであると思えましたが、その発想ではお互いが「構造」を理解して高度なものにしていく「練功」そのものが成立しません。
 太極拳として正しい姿勢でないもの、つまり構造が整っていない状態では、ごく普通にチカラをまっすぐ前に伝えることもできず、自分の持つ力の半分ほども出せないことでしょう。
 それが分からず、ムリヤリに拙力を気ままに出せることが「大きなチカラの出し方」だと思ってしまうのは、まさに非武術的であり、日常的な発想でしかありません。


 (3)5名の門人が、重みや揺さぶりを使って、力一杯煽(あお)りながら、
    ひたすら「拙力」で押していったもの


 これは実際にそのような「拙力」で煽り、力んで押すことを試みた映像です。
 上述の質問者のように、架式を整えることなく寄り掛かりで重みを掛け、力んであおっていく方法を試みたわけですが、もちろん、このようなものが「稽古」として行われることは決して有り得ません。

 実際に試してみれば、通常の腰相撲に比べて、自分の力が受け手まで届かず、ただ単に自分のすぐ前にいる人を押している感覚しかないということが、押している誰にも明らかでした。
 また、もしもそれで押していったことを躱(かわ)されたり、流されたりした場合には、「押す側も押される側も、体軸がひどく崩れるしかない」という非武術的な身体の状態になってしまい、武術の稽古として成立しないものとなります。

 この映像では、たとえそのような非武術的な拙力の状態で、気儘に力一杯押していっても、正しい架式で受けられた場合には、意外なほど簡単に返されてしまう様子が見られます。


 (4)5名に腰を押されているところを、先頭の人の腕を取って押し返したもの。

 これは稽古では行われていません。一対一でもなかなか難しく、対複数では誰も出来る人が居ないからですが、このようなことも可能であることが参考として示されています。


 (5)5名の門人が、正しい形で力一杯押していくもの。
    (2)とは返し方が異なり、前に踏み出さず、その場で返します。


 多人数の稽古では、このように架式を変えず、その場で相手を返す練習を行いますが、(2)のように、前に歩いて出ながら返す練習もあります。
 

 (6)壁ぎわで正座をして、背と腰を離したまま肩を壁に付け、
    11名の門人に肩を押させ、それを返したもの。


 これも、腰相撲の原理を用いればこのような事も可能になる、と示されたものです。
 試してみればすぐに納得できますが、相手がたった一人でも返すことが難しいだけでなく、原理が分からなければ背筋や肩、腰などを痛める可能性が高いので、特に多人数の練習は一般クラスの稽古では行われません。


 (7)壁にカカト、尻、背中、頭を付けて立ったところを、
    6名および10名の門人が腰を押していき、それを返したもの。(計2本)


 これは正座するものより安全性が高いので、稽古でも度々行われています。
 相手が一人でもかなり難しく、複数になると上級者でなくてはとても返せません。
 また、このカタチで相手を弾き飛ばすのではなく、歩いて前に出て行く「壁抜け」という稽古もありますが、同様に難度の高いものです。




   



            *   *   *   *   *



 【 動画・その2 】

  *まだ架式を充分理解できていない人が、5名の門人に押されたもの(計5本)

 「動画・その1」と同じように押していきますが、ご覧のようにあっと言う間に押し切られ、力の差が激しい場合は後ろの壁に叩きつけられてしまい、何とか耐えている場合でも、結局最後には押し切られてしまいます。腰相撲では、実際にはこのような、大きな合力が押される側に掛けられていることが分かります。
 しかし、押していった人たちは、師父を思い切り押した際の力に比べれば、まだそれほど大きな力ではないと言うことです。
 4本目の映像では、押している5名は全て女性です。いずれも太極武藝館で十年以上稽古に励んできた人たちであり、その構造から出るチカラは映像からはなかなか想像できません。
 普段の稽古では、女性2人対男性1人、女性3人対男性1人などで練習が組まれることもありますが、筋力に自信のある格闘技経験者でも、かなりの苦労を強いられます。

 受けている彼らは、ほぼ全員が格闘技でその実力を大いに示してきた人たちであり、筋力もかなり強く、ベンチプレスでは100キロ以上を容易に挙げ、スクワット百回を10セット、腕立て伏せなら百回程度を軽くこなしてきたような人たちです。
 彼らは一対一なら相手に押される時には余裕で受けることが出来ますし、返して飛ばすことも出来るのですが、やはり多人数で押された場合は合力が非常に大きいために、このような結果となります。腰相撲では「架式」を正しく習得しなければ、決して正しく返すことが出来ないということが分かります。




   



            *   *   *   *   *


 以上、各々の動画の解説を述べてみました。
 門人の皆さんにとっても、普段の稽古で行われている「腰相撲」を動画にして見るのは今回が初めてのことと思います。この練功の様子を道場の稽古で見ているだけでは分からなかったことが、この動画によって新たに見えてくるかも知れません。

 単に相手を弾き飛ばすという表面的な現象にとらわれることなく、正しい架式と構造の重要性、腰相撲という練功の奥深さをよくご覧頂き、日頃の稽古にお役立て頂ければたいへん嬉しく思います。


                                  (了)

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2010年03月20日

練拳 Diary #27 「腰相撲の訓練」

                      by 教練  円山 玄花


 太極武藝館で一番初めに学ぶ ”歩法” は、その名も「太極歩」というものです。
 太極歩は両手を腰に当て、足を交互に前に出して歩いていくだけの最もシンプルな歩法で、前進と後退とを、ひたすら時間を掛けて行われます。

 なぜ最初に学ぶ歩法が太極歩であるかと言えば、この歩法が「歩く」ということそのものを理解するのに最も適しているからであり、もしこれが腕を素早く振り上げながら歩くものだったり、震脚をしながら拳を打ち出していくというような、見た目にも難しいものであったら、歩法の内容に目が行くまでに随分時間が掛かってしまい、太極拳における「歩法」の示す意味など、何も見えてはこないことでしょう。

 この太極歩は、初心者が最初に学ぶ歩法とは言っても、その奥は深く、歩法では太極歩が一番難しいと言われるほどですから、『歩法は太極歩に始まり、太極歩に終わる』と言っても過言ではないかも知れません。


 そして、歩法の太極歩にあたるものが、腰相撲では「弓歩の腰相撲」なのです。
 「弓歩の腰相撲」は、以前にもご紹介したことがあるように、足を前後に開いた弓歩の姿勢で前方から相手に押してもらい、それを返すという、腰相撲の基本形とも言えるものですが、そこに内包されているものは単に基本に留まらず、太極拳の立ち方、歩き方、相手との関わり方から相手の崩し方まで、腰相撲で自分の在り方を整えることが、そのまま即太極拳の戦闘理論の理解に繋がる、ということを実感することが出来るのです。

 それ故でしょうか、何年稽古しても、何種類の腰相撲を学んでも、この「弓歩の腰相撲」が最も奥が深いように思われますし、その度合いは自分の歩法に対する理解と比例しているように感じられます。

 腰相撲では、弓歩の架式が正しく決まれば、相手がどれほど力を込めて押してきても押し切られることがありません。それはこちらが最大の力で耐えているからではなく、むしろ楽に構えていることができ、足には負担がなく、軽く感じられるほどです。

 私自身、自分より30キロ以上も体重のある、目の前に立ったら視界がゼロになってしまうような大きな男性が思いきり押してきても押し切られなかった、という事がありました。
 因みにこの時の稽古は、いわゆる ”受けと取り” に分かれた腰相撲の対練ではなく、互いに弓歩の姿勢で押し合い、どちらが相手を押していけるかというものでしたから、相手には ”受ける” という感覚はさらさら無いようで、押しながら後ろ足をにじり寄せてまでこちらを押し切ろうとしていましたが、結果として、相手は一歩も前に出られなかったのです。

 このことには私自身がたいへん驚かされました。
 こちらがやっている事と言えば、弓歩で構えるために足を一歩出していく過程では、歩法の通りに動こうとするだけで、徐々に前足が曲がるにしたがって、弓歩という架式が隙間や余りが無く、きちんと整えられてきます。
 そこに相手が力を加えてくると、その力によって構造が咬み合い、さらにカッチリと締まるような感覚があり、同時に足は取り立てて踏ん張る必要がないほど軽く感じられます。
 その感覚は相手が押してくればくるほどに強いものとなり、より明確に弓歩の構造だけが浮き出てくるようでもあったのです。
 まさに太極拳でいうところの架式、そして構造の妙を体験したような気がしました。
 
 ところが、その弓歩がキッチリ決まらなかったとき、つまり一歩が正しく出せなかったときには、相手が力を加えてくると、あっと言う間に身体が崩れはじめます。同時に、自分の全体重と相手の力が後ろ足一本に集まり、前足が浮いてくるように感じられます。
 そうなると、たとえ相手が自分よりも小柄で体重の軽い人に押してもらっても、ギシギシと音を立てて頑張っていた足の筋肉にもやがて限界が来て、それ以上どうにも踏ん張ることができずに、簡単に押されてしまうのです。

 この腰相撲での二つの体験は、そのまま歩法の練習にも出てきました。
 立っているところから正しく一歩を出すことができ、弓歩の架式が構造としてピタリと決まったとき、そこから次の一歩を出すときには足の負担がカケラも感じられず、また前に歩いて出るような感覚があまりありません。
 それに比べて弓歩の架式が決まらなかったときには、そこからどれほど歩法で教わっていることをその通りに動こうとしても身体は動かず、そのまま無理に動こうとしたときには、自分の身体が歪み崩れていくことを感じます。
 歩を進めて行くと片足ずつに重く乗り上げていくようであり、この一歩で相手に向かって拳を打ち出したときには、容易にかわされてしまうことが想像できました。

 何ゆえに、これほどまで「架式」が重要であるとされているのか・・・・
 架式が正しく整えられていれば、そこから動いたときには「勁力」が生じている、とは言われていても、普通は後半の「動いたときには勁力が生じている」ところだけを重要視してしまい、その元となる架式そのものを、何をどのように整えたらよいのかというところには、なかなか着目されないようです。

 大切なことは、基本功で学んでいることから離れて、自分なりに腰相撲のための工夫を始めないことです。基本功で学んでいることとは、日常の考え方を止め、日常の立ち方を離れ、太極拳で要求されていることにひたすら自分を合わせていくことです。そうすれば、そこに深遠なる太極拳の学習体系を見出すことができ、そこから始まる歩法や套路などの各練功の意味が、自ずと見えてくるに違いありません。


 ある時、腰相撲の稽古中に、師父に「腰相撲が ”纏絲勁” だということが分かるか?」と問われたことがあります。その瞬間、何かで頭を殴られたようなショックがあり、それは今も鮮やかに残っています。
 その時には、自分は基本功の通りに構えて、そこから動くと相手が飛んでいく、ということしか分からず、纏絲勁とは結びつかなかったのですが、よく考えてみれば「太極拳は纏絲の法である」と言われていて、一般クラスで基本功を稽古している際にも、普段と何も変わらない動きのまま、「これが纏絲です」と説明されることがあります。
 それは決して腕をグルグルと力強く捻っていくようなものではありませんし、常日頃から「遙か彼方の高いところに纏絲の法があるのではなく、初めから纏絲しか教えていない」と言われていることを考えれば、腰相撲が纏絲勁であるということも、ごく当たり前のことなのでしょう。

 しかし、そこには隠しきれない驚きと新鮮な感動がありました。
 私にとっては、まだそれは「当たり前」ではなかったのです。
 套路の稽古で師父について動くとき、師父が時折見せてくださる身体や手足がブルブルと震えては空を切り裂くような纏絲の動きは、その手前の動作をいくら真似てみても自分には起こりません。精々が力みのない手足がプルンと一回振れる程度です。
 そのような違いが「勁」というものの理解の違いであり、それは徐々に段階を追って身につけていかなければならないものだと、頭のどこかで考えていました。

 それが、今自分のやっているこのシンプルな腰相撲が、「纏絲勁」だと言われたのです。
 それは、押してきた相手に耐えられることがあって、そこから纏絲勁を発するのではなく、正しく架式が整えられたことそのものが纏絲が働いているということであり、相手の力に楽に耐えられることと相手を返せることは、同じ纏絲の働きであったということを意味しているのです。

 そのことがあってから、自分の稽古が少し変わりました。
 今までよりも基本功や歩法の動きをさらに立体的に見られるようになり、対練では、より基本の動きに注意深く、基本から離れないことをもっと大切にできるようになったのです。
 それは、私が考え方を変えたのではなく、一種のショックによって変わってしまったと言えるでしょう。まるで初めて火を目にした子供が、その不思議さに惹かれて不用意に手を伸ばし、熱い!、と思ったその瞬間に「火」というものを理解することと似ているかもしれません。

 実際に目にして、触れて、味わわなければ、そしてそのショックを体験しなければ、自分の考え方、物の見方は変わりようがなく、決して自分の持ち前の頭でチェンジできるようなことではないと思えます。
 そう考えると、ブログで紹介してきた様々な練功も、本当の意味でそれを皆さんにお伝えするには、実際に見ていただくより他に方法がないような気がしてきます。

                                   (了)

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2010年03月06日

練拳 Diary #26 「起き上がり腹筋と、その動画」

                      by 教練  円山 玄花


 太極武藝館で行われる補助訓練の中に、「起き上がり腹筋」と呼ばれるものがあります。
 これは、 ”のら” さんの「站椿」シリーズにも度々登場している練功のひとつです。

 「起き上がり腹筋」は、生まれてから今日まで日常的な生活をごく普通に送ってきた私たち一般人が、太極拳という高度な武術を修めるために必要な「非日常的」な考え方にシフトするのに大変役に立つ練功であると思えます。

 何故このような練功が必要なのかと言えば、そもそも普段の生活には「日常」や「非日常」という考え方そのものが必要とされず、武術を始めようとする時には、ただ「強さ」に憧れたり、術理が見せる高度さに心惹かれる気持ちばかりが先行して、まるで普段と何も変わらない「日常」の延長で高度な武術が習得できるような気がしてしまうからです。
 しかし、考えてみれば高度な武術が日常性の延長で習得できるはずもなく、実際に稽古を始めてみると、日常的な考え方から生じる動きの中身は、やはり日常の枠から一歩も出ない、極めて凡庸なものでしかないということが直ちに実感されます。
 また、基本功などでは何となく「似たような動き」ができているように思えても、推手や散手の稽古では、ただの一歩も、わずかな動作さえも武術的には動けていないということに直面させられ、より武術的な身体を持つ相手からは、それが具体的に証明されることになります。

 「起き上がり腹筋」は単なる補助練功に過ぎませんが、示された通りにやってみようとすることで、自分たちがいかに都合よく「不自然な身体」を日常として使ってきてしまったか、その結果、自分で自分の身体を制御できないような「不自由」な身体になってしまったかということに思い至るきっかけとなります。

 例えば套路は、その姿勢や動作はそれ自体がどこを取っても非日常的なものですが、第八勢から盛んに出てくる「蹴り」の動作では、各自が持つ蹴りのイメージが邪魔をして、つい日常的に蹴りたくなってしまい、なかなか太極拳の武術原理で行えない、というようなことも起こってきます。
 蹴りの動作に限らず、「突き」が出てくればつい力強く突きたくなり、震脚の動作では派手な音で地面を踏みならしたくなり、いかにもカンフーらしい「二起脚」の動きなどは、ここぞとばかりに高く飛び上がって見事に空中蹴りを決めたくなってしまいます。
 しかし、「日常の身体」を以てそのような練習をしても決して武術的な訓練にはならず、そのような考え方ではいつまで経っても、なぜ套路にそのような動作が用意されているのかを理解するには至らないことでしょう。
 套路の稽古の中で正しい理解が起これば、力強く飛んだり蹴ったりすることこそが日常から見た太極拳の ”落とし穴” であり、正に「考え方」を変えなければ真正な太極拳を学んでいくことは出来ないところだと思えます。

 自分の考え方の何が「日常的」で、何が「武術的・非日常的」だと言われているのか・・
 この「起き上がり腹筋」は、站椿や基本功を見たまま、ただ真似をしているだけでは中々分かりにくいところを、よく実感させてくれる練功だと思います。



 それでは、「起き上がり腹筋」の練習方法をご紹介しましょう。

(1)まず足を肩幅に開いて立ち、パートナーに両足の甲を軽く押さえてもらいます。
   強く押さえてもらう必要はなく、およそ1〜2キロほどの軽い力で押さえます。

(2)そこからゆっくりと馬歩の姿勢を取るように腰を下ろしていき、膝を曲げてお尻が
   床に着いたら、そのままさらに、腰から背中、頭までを床に付けていきます。

(3)そこまで来たら、今度は反対に、頭、背中、腰の順に身体を起こしていき、最初に
   立っていたところへ立ち上がってきて、動作が終了します。

 *なお、映像では「パートナーが補助する場合」「重りを足甲に載せて補助する場合」
  「補助無しで行う場合」の三種類の練習法をご紹介しています。


 また、この練習で注意すべきことは、

 (1)一連の動作は途切れることなく、ゆっくりと「等速度、一動作」で行うこと。

 (2)腰を下ろしていくときには、膝が極端につま先から出ないようにすること。

 (3)立ち上がる時は腹筋に入力して身体を縮めたり、腕を振って勢いをつけないこと。

 (4)押さえられている足の抵抗を利用して起き上がろうとしないこと。

 ・・等々で、注意するところは、基本功などで要求される事とほぼ同じものです。


 また、当然ながら、ただ起き上がって来れば良いというものではありませんので、単純に「勢い」や「身体の柔らかさ」で起き上がって来れるようなものは全て誤りとなります。

 身体が正しく使われずに、柔軟性だけで起き上がれてしまうような場合には、足の下全体に厚さ2センチくらいのプレートなどを敷いて、お尻よりも足の方を高くし、高低差を付けてみると、この練功の意味が分かりやすくなります。

 この練功には「腹筋」という名前が付けられていますが、実際は腹筋に意図的に入力するわけではありません。腹筋やスクワットのトレーニングを山ほど積んできた人たちは、立ち上がろうとした瞬間に腹筋が固まり、腹と足がぶつかって、かえって立ち上がり難いようです。
 また、勢いで何とかお尻だけは持ち上がっても、それまでに入力してきた大腿四頭筋などで蹴ってしまい、後ろに大きく身体が立ち上がりながら崩れていくケースもよく見られます。

 ここでも他の練功と同様に《 踏まない・蹴らない・落下しない 》ことが要求され、さらに《 弛まず・しゃがまず・休まず・頑張って起とうとせず 》に行うことが大切になります。

 つまり、この練功を日常的に「膝を弛ませて屈み、床の上に寝て、腹筋を使って身体を起こし、身体を足の上に持ってきて、おもむろに立ち上がる」という事の中で頑張ろうとしても、決して容易には起き上がれません。

 この練功では身体の使い方が如実に表れ、腹筋が入力されれば足を押さえているパートナーにその反動が伝わりますし、押さえられている抵抗を利用して上がろうとすれば、それこそ相手にダイレクトに伝わってしまうので、ゴマカシがききません。
 また、そんな工夫を凝らして何とか起き上がれたとしても、ただそれだけのことで、決してこの練功を通じて太極拳を理解することには至らないのです。


 ・・・工夫と言えば、つい先日、面白い出来事がありました。
 ある時、この「起き上がり腹筋」がまだ上手く出来ない初心者のAさんが、 ”窮余の一策” として、ある練習方法を思いついたのです。

 それまでAさんの「起き上がり腹筋」は、座りに行く時に膝がつま先から大きく出て、もう少しで床にお尻が着くという時にドシンと尻餅をついてしまう、といった状態でした。
 そして膝が出ないようにすると、今度は胸とお尻が前後に飛び出すような格好になり、その姿勢では太腿に負担が来るのは避けられず、足の限界が来たところで、やはりドンと尻餅をついてしまいます。
 落下することなく、ゆっくりと、一動作でトータルに身体を使う事が出来れば容易に上がって来られるのですが、ひとたび落下してしまうと、そこからどれだけ身体を使おうとしても、もう起き上がれなくなります。
 Aさんは、この練習が行われる度に、とても苦労をしていました。

 そのAさんが、起き上がれるようになる為に工夫を凝らした練習方法とは、

 まず、壁に向かって広めの馬歩に足を開いて立ち、つま先をピタリと壁に付けます。
 そこからどんどん膝を屈めて行き、降りられるところまで降りたら、また元に戻ってくる事をくり返し、徐々に深く腰を下ろして行けるようにしていく、というものでした。

 Aさんはその練習によって「膝を出さずに降りる事」と「尻餅をつかずに腰を下ろすこと」の二つがだんだん出来るようになり、上級者の起き上がり腹筋に近づくことができる!!・・と、思えたのだそうです。

 なるほど、よく考えたものです。「起き上がり腹筋」が難しい人にとっては、画期的な訓練法と言えるかも知れません。

 ところが、その練習方法には、とんでもないことが隠されていました。
 稽古前に、Aさんがそれをせっせと道場で独り練習しているのを目に留めた上級者が、『・・ほう、なんだか面白そうな事をしてますね・・・』と真似をしたところ、一回目から『うーん、これはイケナイ、すぐ止めた方が良いですよ!』と、忠告をしたのです。
 お尻は床に付くほど下がって行けるというのに、一体何がイケナイのでしょうか・・?

 私も試してみましたが、動き始めてすぐに感じられたのは、普段から繊細に追求してきた「立つこと」の本質がかなり狂わされてしまうおそれがある、ということでした。
 言わば「立てない・動けない」身体を、わざわざ練っているような感覚があるのです。
 試しに何回か上下に動いてみると、踵がずいぶん重く感じられ、足首や足の甲が緊張して指先が浮き上がるような感覚がありましたが、Aさんは身体が慣れてしまったのか、それ程緊張は感じられないと言うことでした。

 数回動いた後にはすっかり体軸が変わり、腰や腹はまるで鬆(す)が入ったようなものに感じられて、何によってどのように立てばよいのかが分からなくなるような、そんな感覚があります。
 それは、スクワットのような運動だから大腿四頭筋にくるとか、やり方によっては大腿二頭筋に来る、インナーマッスルが働く、といったレベルの話ではなく、たとえそれがどんな筋肉に来ようと、站椿や基本功を練ってきた意味がすっかり無くなってしまうような、体軸そのものが失われる危険性を孕んだ方法だと思えました。

 また、拳学研究会のメンバーにも試してもらったところ、面白いことに、陳氏太極拳には不可欠な「ある機能」が、かなり働きにくいことが分かりました。
 その機能を働かせながらAさんの方法を行おうとすると全くうまくいかず、反対に、それを機能させずに行えば確かにスムーズには動けるのですが、「股関節」と「腸腰筋」を巧みに働かせただけの単純な運動にしかなりません。 
 ・・これでは纏絲勁など、夢のまた夢になってしまうかもしれません。

 パートナーも必要なく、壁さえあれば他に道具がいるわけでもないこのAさんの練習方法は、まだ身体に練功というものの実感がなく、歩法では落下や蹴り上げが顕著に見られるような、出席日数の少ないAさんだからこそ考えついた方法ではないかと思え、早速それを中止するようにアドバイスしました。


 「起き上がり腹筋」では、パートナーに補助してもらうものが分かれば、より身体の構造を理解していくために、徐々に足に掛ける負担を少なくしていき、最後には補助なしで、ひとりで座りに行き、ひとりで立ち上がってくる、ということを稽古しますが、例えばAさんの考えた練習方法では、補助さえあれば何とか立ち上がってこれるかも知れませんが、補助無しでは勢いをつけない限り、まず不可能ではないかと思えます。

 それが難しくても、起き上がれなくても、そこに「自分なりの工夫」を持ち込むことなく、ひたすら要求を守って修練を積み重ねていくと、そこに今までの自分とは違うものを感じられるようになります。
 一見、腹筋運動のように見えても腹筋への入力を使わないこの運動は、日頃から指導されるとおり、「やり方」の工夫ではなく、自分の「考え方」を変えることでしか出来るようにならないものだと思いました。


 かつてホームページに、起き上がり腹筋の「補助のない場合」の動画を掲載したことがありました。ところが、門人のひとりがそれを体育の教師である奥様に見せたところ、即座に『・・これは有り得ない、こんなことは絶対に不可能だ!!』と仰ったそうです。
 その方は体育大学出身ですが、映像を他の教師たちにも見せたところ、やはりこんなことは有り得ない、これはきっとトリックに違いない、という意見で一致したということです。

 私たちの道場では、出来なかった人でも、武術としての「正しい考え方」と「身体の在り方」を説いていけば誰もが徐々に出来るようになってきますし、中には「補助なし」で起き上がって来られるようになる人も居ますから、そのお話を伺った時には、私たちの方が随分驚かされたものです。何よりも、この「起き上がり腹筋」がそれほどまでに「非日常的な動き」に見えるのだという事に、妙に納得したものでした。
 そして、「日常」から見て「有り得ない」と思えるからこそ、練功として練る価値があり、それ故に「武術」と呼べるのではないか、とつくづく思えた次第です。

                                  (了)



   

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