*#1〜#10

2009年01月22日

練拳 Diary #5 「斜圧腿」

 数ある基本功の中でも、最も大切な練功のひとつとして行われているものに、
柔功の「圧腿(あったい=ya-tui)」があります。

 圧腿は、単に字面で捉えれば「腿を圧して伸ばす」となりますが、実際に要求されていることは、それほど単純なものではありません。

 なぜならこの圧腿は、練拳十年を越えようという上級者でさえ、未だに四苦八苦する練功で、初級や中級者で歩法や套路が少し動けるようになってきたかな、と思えるような人でも、ちょいと圧腿をやってみれば一目瞭然、本人が原理を理解しているかどうかがひと目で分かってしまうという、たいへん優れた内容を持つものです。

 圧腿には幾つか種類がありますが、中でも、特に身体の使い方が顕著に表れ、自分でも認識しやすいものを挙げるとすれば、やはり「斜圧腿(しゃあったい=xie-ya-tui)」でしょうか。

 斜圧腿は、足を広めの並歩(bing-bu)に開き、身体は真っ直ぐに保ったまま、一方の足先を60度くらいに開き、腰を深く落として片膝を曲げ、もう一方の足は真横に完全に伸ばし、つま先は正面に向けた形となります。
 右膝を曲げてきた場合には、顔の横で右肘を曲げ、手の平を正面に向けるようにし、左手は横に出した左足の体側線に沿って小指側を乗せ、指先まで伸ばします。
 その後、上体を伸ばしている足の方向へグーッと倒していきます。

 ・・まずここまでが、第一の姿勢です。

 次に、その姿勢から、伸ばしていた足先を真上に返し、左手でつま先を掴み、右手で左足の膝を伸ばすようにモモの上から軽く押さえます。

 完成姿勢を説明すれば、たったこれだけの、小学生でも見様見真似でやってしまえる、とても簡単なフォルムです。


 圧腿では、歩法のようには足を動かさず、まずは静止した姿勢を取ります。
 套路のように何動作も、西を向いたら次は東に・・と動くわけではなく、ましてや必ず北を向いて始めなくてはならないとか、いや、真実は南向きだ、それには深い秘密がアル・・・などといった喧々諤々もありません(笑)
 此処にはただ、正しい構造の妙諦が、確として存在しているのみです。

 圧腿は、そのシンプルな身体の運びと、非日常的なフォルムを取ることによって、より自分の仕組みに深く目を向けやすいと思います。
 近ごろの稽古では、門人に圧腿の重要性を再認識してもらうために、特にこの斜圧腿が取り出されて、入念に指導されることも多くなりました。

 斜圧腿の目的とは、取りも直さず、身体が正しく武術的に機能するための「軸」を造ることにあります。
 身体が「非日常的」に使われるとき・・・
 例えば、ボールの上に立つために手を置いて片足を掛け、もう一方の足を乗せようとするその瞬間・・或いは、立てられたレンガを何個も歩いていく「煉瓦渡り」をしているときなどには、足を頼らずに身体で対象を捉えられるだけの、太くて鋼のようにしなやかな「軸」が必要になります。

 また、基礎訓練から歩法、套路に至るまで、全てその「軸」が無ければ、どれほど師父と似たような格好や動きができようとも、その実態は、一歩前へ歩く毎に「身体」が使われずに「足」が多用され、套路では腕や足を振り回すことになり、対練では相手を力で押してしまう・・・
といった、日常的な拙力ばかりになってしまうのです。
 道場で何度となく指摘される「構造」の違いは、正に「軸」の存在とその認識が鍵となり、この斜圧腿は、武術としての身体に必要な軸をつくるための、大変有意義な練功のひとつであると言えます。

 斜圧腿では、完成姿勢を取ってからしばらくの間静止していることで、自分の身体の構造と、それに伴う偏りが見えてきます。
 また、斜圧腿の構造が正しいかどうかは、その姿勢のまま、パートナーに、様々な方向からゆっくりと押したり引いたりしてもらうことで確認することが出来ます。

 正しく構造が取れていれば、ふらつくこともなく、必死に抵抗する必要もなく、ゆったりと中心に寛いでいられるような感覚があり、押されたり引かれたりする度に、かえって「軸」の所在がはっきりと見えてきます。
 そして、それでいて決して重鈍なものではなく、まるで一本のロープの上に立たされているかのような、非常に不安定な感覚があるものです。
 逆に、少しでも身体が武術的に弛んでいたり、反対に力んでしまっていると、僅かな力が掛かってもたちまち崩されてしまい、とても立っていられなくなります。
 また、間違った姿勢では、体重を「足」で支えることになり、僅かな時間それを保持することさえ苦痛に感じられてしまうのも、その特徴のひとつでしょうか。

 自分の軸がきちんと確立されなければ、たとえ推手で接触していても、相手の軸を感じることはできませんし、先の「肩取り」のような非接触の稽古でも、相手の攻撃をその部分で躱すことなく崩していくようなことは、たいへん難しくなります。

 先日の稽古の中でも、身体が前傾して軸が立たず、身体を軸足の筋肉に寄り掛からせ、まるで杖のように足で支えて耐えているような姿勢が多く目につきました。
 そのような完成姿勢を正しく直そうとしても、すでに身体が固定されてしまっているため、なかなか修正できません。
 やはり、足を開いた一番最初のところから、どのような軸と身体の使い方によって、その最終的なフォルムに到達することができるのか、途中の姿勢や動きの過程を徹底的に修正する必要があります。

 「いーち、にーい・・・」と、何動作にも分けながら比較していくと、やはり細かいところで極めて日常的な、ただ単に自分の動き易い格好になってしまい、その為に軸が失われ、次の動作が大きく違ってくる・・ということが起こっていました。
 姿勢を細かく修正していくと、大抵の人は、あまりにも自分が想像していたものと身体の位置が違うため、「うわー、こんな位置でやるんですか・・?」と、目を丸くして驚きます。

 実は、歩法や套路に於いても、それと同じことが起こっているはずなのですが、何となく自分が立てているような、動けているような気がしてしまうのは、まだまだ「軸」の認識が足りない故かもしれません。

 もう一度、「柔功」から厳しく見直してみる必要がありそうです。

                                 (了)



 * 以下は、一般クラスにて「斜圧腿」を指導中の写真です *


   


   


   



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2009年01月17日

練拳 Diary #4 「受け身」

 身体に対する正しい認識を養うために、稽古の始めに「受け身」を稽古しました。

 一般的には、太極拳には「受け身」の練習など無いのでしょうが、私たちのところでは、身体機能の開発のために、また、激しく投げられたり飛ばされたときに安全に受けることが出来るようにするためにも、受け身の訓練が行われています。

 受け身の種類はたくさんありますが、
基本的なものは、「前転」「後ろ受け身」「前受け身」の三種類です。
今回は、その中の「前転」を中心に稽古しました。

 まず、足をやや広め(3尺以上)に開き、股関節から曲げて、足の前方に手を着きます。
このとき、膝はピンと伸びやかにし、腰や背中は丸くならずに伸びている状態です。
 右手を床から離し、左足の方向に伸ばして行きながら身体も運んで行き、頭を足の向こう側へ出すようにしながら、そのまま前方にゴロン・・・
 一回転して、真っ直ぐ立ち上がったところで完成となり、これを左右交互に行います。

 ・・しかし、この、一見小学生でも簡単に出来てしまいそうな稽古が、難しい。

 つまり、この練功を小学生のマット運動のように行うのではなく、太極拳の高度な身体操作を身につけるための稽古にできるか・・ということです。

 上級者は、まるで水の中や無重力状態で前転をするかのように、無駄のない動きで、軸も乱れることなくスッと受け身をとりますが、対して初心者さんは、身体がロボットのようにカクカクした動きになり、最後には床を感じさせるような、ドスンという地響きがするのが特徴です。

 稽古中に最も注意されるところは、「身体が使われていない」ことです。
 多く初学に観られるものは、手を着いた状態から、首も身体も「ゆるゆる〜」っと限界まで緩めてきて、後は重力に任せて、ゴロン・・・というものです。
 これでは身体を使わなくても転がれてしまいますし、そもそも「回るのではない」と指導されるので、太極拳的には全く正しくありません。
 また、この場合には身体の一部しか使われていないことがほとんどで、部分に限られた動きが更に途中で止まってしまうため、受け身の過程で肩や頭を床に打ってしまいます。
 人によっては頭のてっぺんをズリッと擦りながら回っていくことも、しばしばあるようです。

 身体は床に対して斜めに進入しているはずなのに、なぜ頭のてっぺんが着地してしまうので
しょうか・・? 不思議に思い、よく観察してみると、初めは斜めに進入している身体が、なんと、ほぼ真っ直ぐに向き直ってから回っているではありませんか!

 道理で・・・これでは頭を擦るわけです。
 そういえば、受け身の稽古の後は、床に髪の毛が何本も落ちていて、不思議だったのですが、それはこのためであったのだと、あらためて納得されました。

 では、どうすれば「回らず」に、なおかつ、ゴロンと「落ちず」に、前転することが出来るのでしょうか・・・?
 皆さんの身体の使い方を見ていると、足を開いて手を着きに行く時点で、身体(特に下半身)が固定されてしまっています。その為に、そこから動けるのは、主に上半身の離していく側の手と肩、動いていたとしても、左右どちらかの半身だけになってしまうわけです。

 身体の一部しか使わずに動きを完成させるのは至難の業です。
 手を着きに行くときから全身が機能しなくてはなりませんし、右手を左足方向に差し出していくときにも、左手も、左半身も固定せず、もちろん右半身も動いて、膝がきちんと伸びているままでも、足まで動き続けている・・・
 そんな感覚が出てくると、不思議と身体はいつまでも動き続けることができ、ちょうど、
「起き上がり腹筋」で起き上がってくるときのように、スッと身体が軽く浮いて抜ける感じになります。そうなると、前転した後も足でヨイショと立ち上がる努力をしなくても、自然に身体は起きてくるようになります。
( ”起き上がり腹筋” については、あらためてご紹介します。)

 この、最後まで支点を作らずに身体が動き続けるという感覚は、歩法や套路などの稽古でも、とても役に立ちます。何よりも、「身体を動かす」ということに対する自分の考え方が、このようにシンプルな練功では如実に表れてきます。

 勢いを使ってしまったり、最後につま先で蹴って回ってしまったり・・
 それらの身体の使い方は、他の基本功や套路などでも禁忌事項として細かく意識されていたはずなのですが、師父や先輩について動いていると、何となく一緒に動けているような気がするためでしょうか、まだまだ身につくまでには至らなかったようです。

 今回のような稽古は、自分の基本的な身体の使い方を思い知るために、そしてそれを修正するために、とても役に立ました。

 「前転」という非日常の動作をするために、ともすれば、自分にとって都合の良いやり方を工夫してしまいますが、下手でも良い、たとえ綺麗に出来なくても、正しい身体の在り方を追求していこうとする意識こそが最も大切なことです。

 師父は常々、

  「出来る稽古」ではなく、「解る稽古」をしなさい。
  表面的に上手く形をなぞっていても、どれほど私に似ていても、
  そんなものは何の役にも立たない・・・
  反対に、どれほど下手でも、似ていなくても、
  中身を取ろうとしてそうなっているのであれば、その方が正しい。
  「出来ること」を求めるのではなく、「理解すること」を求める。
  その意識が、とても大切です・・・

 と、仰いますが、私たちは常にそれを忘れず、心掛けなくてはならないと思います。

 そして、ようやくそのことに辿り着いたときには、真の理解が始まります。
 つまり、そこからがようやく、本当の「稽古」になるのです。

 散々頭を打ち、肩にアザをつくり、足が筋肉痛でバンバンになって・・
 しかし、たとえ巧く出来なくとも、それが正しい理解に活かされると思えば、
 身体の痛みなど、なんのその・・であると思います。

                                 (了)

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2009年01月10日

練拳 Diary #3 「退歩」

 なぜ、ヒトは、後ろ向きに歩きにくいのでしょうか・・・

 ヒトだけではありません、トラや、チンパンジーや、キリンさんが後ろ向きに爆走しているところなど、想像しただけでちょっと笑えてしまいます。

 猫だって、後ずさりすることはあっても、鼠が向きを変えた瞬間に、後ろ向きに走ってネズミを追い詰めたりしませんし、馬が突然後ろ向きに歩き始めたら西部劇にはならない・・
 そう考えると、哺乳類の中で「後ろ向き歩き」を使えるのは人間だけ、ということになるでしょうか。

 かつて武藝館では、稽古を終えて帰るときの階段を下りる際にも「後ろ向き」で行くように指導されたことがありますが、未だにそれを大切なこととして続け、新入門人に親切に指導している先輩も居られます。

 今回の研究會稽古では、この「退歩(tui-bu)」について多くの時間を取りました。
つまり、「退歩で学ぶべき歩法の構造」の学習、ということになるでしょうか。

 進歩(jin-bu)に比べると、姿勢は前傾しやすく、身体は居着きがちになります。
また、それによって使われるところが大腿四頭筋中心になりやすいということも、特徴のひとつでしょうか。

 細かく見ていくと、こんなにも自分の身体が使われていなかったのかと驚きます。
 なるほど、套路で「倒捻紅(倒巻肱)」が出てくるのは、第六勢になってからである筈だと、つくづく納得できます。もし套路で、初めの頃から後ろ向きに下がる動作が出てきていたら、誰もがきっとワケが分からなくなっていたことでしょう。前や横に動くことさえ、決して簡単ではないのですから。

 階段を利用しての退歩訓練を始め、師父の指導の特徴でもある様々な「実験」をふまえた稽古を経ながら、ようやく見えてきたことのひとつは、どうやら後ろ向きに下がるという不慣れな姿勢を取るために、より中心が使いにくく、日常で使い慣れたところの筋肉を嫌というほど使ってしまっている、ということです。

 しかし、面白いことに、指導されるその「正しい構造を使ってしか歩けない訓練」を20分間ほど続けていると、その後で元の「踏む・蹴る・弛む」などといった ”三大悪癖動作” が、もはや誰にも、欠片ほども出来なくなってしまうのです。

 『ハハハ・・ついさっきまでやっていたじゃないか!
  間違った構造にしてごらん! ・・・ん?、ほれ、どうした?』

・・などと師父に言われても、慣れ親しんでいたはずの日常の動きにはもう戻りようがない。
日常的な動きをしようと思っても、そのようにはピクリとも動けないのです。

 これは、やっている本人たち自身が仰天して驚くほどです。


 正しい馬歩の構造が取れていれば、前でも後ろでも「馬歩の構造」に変わりはなく、
自由自在に身体を運ぶことが出来ます。

 実際、いつだったか、研究會での師父の歩法の映像を見せて頂いたときに、他の二人の門人と余りにも違っていて、たいへん不思議に思えたことがありました。

 映像をよく見ていくと、その不思議さの原因は、師父が他の二人と一緒に前進しているにも関わらず、まるで師父だけが「後ろに向かって歩いているように見えてしまう」ことにあったのが判りました。
 ・・つまり、師父だけが、まるでビデオの逆回しをしているように見えるのです。

 余りにも、その映像が不思議に見えるので、スタッフの一人が思い付いて、ビデオを逆回しのスローにして再生してみよう、ということになりました。

 すると、他の二人の門人は、逆回しにして見ても、これは前進、これは後退と、明らかに区別できるのですが、師父は、逆回しにして見ても、ごく普通に前進や後退をしているようにしか見えない。つまり、逆回しで見ているのに、逆回しには見えず、どうみても普通に前進し、後退をしているようにしか見えないのです。

 これにはちょっと驚かされました。
 
 散手の稽古などでは、このような歩法が可能な身体操作で対されるから、私たちは本当に苦労することになるのだと、その時につくづく思いました。
 何しろ、師父が前に来るのか、後ろに下がっているのかがロクに認識できない状態で戦っているのですから、こんなにやり難いことはないわけです。

 「退歩」は、とても役に立ちます。
 今回の稽古では、退歩を正しく稽古することで、自分の馬歩の何が間違っていたのか、あるいは何が整っていなかったのかをじっくりと確認することが出来た、とても良い稽古になったと思います。

                                 (了)

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2009年01月08日

練拳 Diary #2 「稽古始め」

 今年の初稽古は、拳学研究会が3日に始まり、一般クラスは6日に行われました。

 年末に三日間をかけて念入りに磨き上げられ、ワックスも新たに施された武藝館ビルの階段を上がると、二階の道場の入り口には注連縄の正月飾りが掛かり、記帳台には緋毛氈の上に三宝に載った鏡餅と、華やかに活けられた生花が飾られています。
 入り口の向こうをガラス越しに見れば、丁寧に掃き清められた床や、一寸の乱れもなく整えられた道場の内部を隅々まで見渡すことができ、お正月休みを終えて、今年初めて道場に訪れた人の意識を一瞬にして「道場」に引き戻す力を持つその空間は、出席簿に自分の名前を書くという行為だけで心身に一本の軸が貫かれ、あらためて心が引き締まる思いがします。


 拳学研究会の稽古では、1月3日の初日から10時間以上にわたる稽古が行われ、少人数ならではの、密度の濃い充実した稽古を行うことができました。
 特に、「動く」ということに対する各自の発想や考え方が間違っていては、この先何万回稽古を積み重ねようと正しい功夫は全く身に付かない、と師父が仰り、やはり太極拳の原理を最も確認しやすい「基本功」の稽古が中心となって行われていきます。

 案の定、その原理への理解よりも、安易に身体の状態を太極拳のフォルムに似せて修正しようとするような考え方が未だに各自に見られましたが、その考え方自体が日常的なものに過ぎず、そのように逆に日常へと修正されてしまった身体は、時が経てば容易に元に戻ってしまい、真の太極拳功夫とは成り得ないということをあらためて発見することができたように思います。


 見た目の、部分的な修正ではなく、根本的に、原理として何が違っていたのか・・・

 「太極拳というものは、君たちが想像しているものとは全く違うものだ」

 「3分間打ち合ったら1分間休憩するような身体構造は、太極拳には存在していない」

 「一度、自分の考え方を全面的に否定することが出来なければ、何も見えてこない」

 師父のお言葉と、自分たちのやっていることを照らし合わせるのですが、まだまだ一般日常的な考え方に支配されていて、深遠な太極拳の原理法則が見えず、充分に感じられないのです。
 自分の持つ尺度をどのような大きさにすれば太極拳が測れるのか、ではなく、
まずその「尺度」そのものを捨てることから始められなくてはならない、ということ・・・
 今年初めての稽古がそこから始められたおかげで、各自の課題がずいぶん明確になったように思います。


 一般クラスでは、稽古開始に先立って師父より年頭のご挨拶がありました。

 この貴重な太極拳の拳理拳学を、より多くの心ある人々に正しく伝え、門人は后嗣と正式弟子を中心に、その伝承と研究が絶えることの無きよう、尚一層日々研鑽すべきであること。
 また、本年は太極武藝館が創立15周年という大きな節目を迎えており、吾が門が更なる成長を遂げるべき年としたい、と話されました。
 また、新設したブログは、すでに多くの方々にもご覧頂いており、ご好評も戴いて大変ありがたく、喜ばしいものであるが、太極武藝館の門人としての自覚を持ち、ご覧になっている門外の先輩方に恥ずかしくないよう、心を引き締めて更なる学究に励んで欲しい、とのお言葉がありました。


 気持ちも新たに始められた初稽古では、柔功や歩法など、基本功が中心に行われました。
各自復習の時間に入ると、師父がひとりずつ見て回り、問題点を指摘していきます。

 「うーん・・・今の一歩目はまあ良いとしても、二歩目は全く違っていますね」

 「・・ほら、ほら、そんな動きは太極拳には無かったでしょう・・・?」

 「それこそが、拙力の大いなる源になるものですよ・・」


 先ずは上級者に対して、師父のご指導がある。
 皆、自分なりに懸命に修正をしようとしているが、それでもまだ間違っていると、師父はその人に対して「何がどう違う」などといった説明は一切仰らずに、ただご自分の隣りで一緒に合わせて動いてみるように仰います。

 そして、それを近くに居た門人たちにも見て貰いながら、師父と何が違うのかを皆で比べていくように指示されます。

 動き始めると、さっそく、見ている先輩たちが指摘していきます。

 「・・ああ、なるほど、まずここが違っていますね」

 「あ、ここは・・・ここでは、まだそこまで動いていません」

 「そこへ行くまでの動きが、もっと、こうで、こうなるべきなんですよ」

 「頭では理解されているようですが、まだ原理で身体が動けていないようですね・・」

 「そこでの身体の向きが、そちらの身体の部分と合っていません。
  それは、そこで、このような原理が、こう使われていないからです・・・」


 ・・・見てくれている先輩たちは、目を皿のようにして師父とその人を見比べ、自分の理解の範囲で見えるところをすべて指摘しながらも、自分もまた、懸命にこの「謎」を解明していこうとしています。

 師父は、構造のポイントとなる各々のところで動きを止めて下さるのみで、やはり、何も多くは語られません。

 ふと気がつくと、先ほどまで個人々々で稽古していた中級者以下の人たちまで、全員が動きを止めて近寄り、お二人の周りを大きく囲む形になっていました。

 同じ姿勢を取って鏡で見比べている人、腕を組み、眉間にシワを寄せて微動だにしない人、自分も比べてもらおうと、二人の後ろに付いて動き始める人、ここぞとばかりに師父にピッタリと付いて一緒に動いている人、床に這いつくばって師父の足を見ている人・・・

 これは普段と変わらぬ、決して珍しくない光景なのですが、稽古始めに目の当たりにすると、ああ、いよいよ今年も稽古が始まったのだなあと、しみじみと実感されたことでした。

                                 (了)

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2009年01月02日

練拳 Diary #1 「肩取り」

 「肩取り」という対練があります。

 「肩取り」というのは、互いに自由に動きながら、相手の肩を両手で取りに行って崩し、或いは倒すというシンプルな対練ですが、取られる側は、もちろんただじっと崩されるのを待っているのではなく、手の防御を使わずに、巧みにそれを躱(かわ)し、崩し返して、相手からの肩取り攻撃を無効にする、というものです。

 これは、定歩でそれを行う場合と、お互いに自由に動いて行う活歩の場合があります。

 一見、簡単で軟弱な稽古に思えてしまいますが、実際にやってみると、さにあらず・・・
 まず、肩に手を触れられてしまうようではいけませんが、かと言って、肩を素早く動かしてそれを回避するわけではなく、相手が肩に触れたくとも、どうしても触れられない、という状況が作られなくてはなりません。

 そもそも、相手の手が肩に触れられてしまう状況というのは、打撃であればヒットしている状態ですから、出来ることなら、触れられる前に相手を崩し終えていたいわけです。

 しかし、やってみると、コレがなかなか難しい・・・
 初心者さんたちは、たいがい肩に触れられてから、その力に対して抵抗する形になり、肩に触れた相手を振り回したり押し返したりするような動きになってしまいます。

 中級者や上級者になると、もう、相手の手はなかなか届きません。
 一生懸命崩そうとして歩法を工夫し、手を伸ばしているのですが、相手も自分と同じレベルの人なので、これがそう簡単には届かない。正しい歩法や身法で対応されるので、あと数センチ、十数センチ、というところで、おっとっとっ・・と崩されてしまいます。

 反対に、上級者が下級者に向かって取りに行くと、その手は簡単に届いてしまいます。
 つまり、これはもう攻撃がヒットしている状態ですね。

 そこで、相手も懸命にそれを避けようとするのですが、まず足の動きが止まり、取りに来る「手」を肩を捻って避けようとするので、結局は見事に肩を取られ、崩され、転がされてしまいます。これは「用力」という考え方、つまり、相手の力を受けとめ、それを力で返そうとする考え方から始められているわけです。このような状況では、当然ながら足は居着いてしまいます。

 「不用力」という考え方では、相手の力をガッチリ受け止めることはありません。
そこでは、肩に手を触れられる遥か以前から、相手の力は無効になってしまいます。
それを習得できれば、敢えて触れさせる必要もないのですが、たとえ触れられたとしても、それを力で返すような運動には全くなりません。


 ある日、数十分の練習の後で、師父がそれを「2対1」で行うものを示されました。

 研究会のメンバーが2人掛かりで、師父の肩を自由に取りに行きます。
これは、よく稽古で示範されるものですが、後ろからこっそりチャンスを狙っても良いし、師父が一人目を避けたその瞬間を狙って、素早く肩を取りに行っても良いのです。

 しかし、師父の動きは、といえば・・・
 師父だけを見ていると、そんなに早く動いている感じがしないから不思議です。
ゆっくりだけど動きは小さく、スッスッと方向が瞬時に変化する、という感じでしょうか。

 師父の肩を取りに行く側は、かなり早い時期から、思わぬ方向へ崩されていきます。
 かといって、師父は決して肩を避けようとしてはいません。身体は動いているけれど、肩を避けていない。そして、師父の身体が少し動いたと思えるその瞬間に、取りに行った人がひどく崩されて、あらぬ所に飛ばされてしまいます。
 後ろから狙おうと、横から行こうと、二人が同時に取りに行こうと、その「崩される」という状況は何も変わらないから不思議です。

 以前、この肩取りの稽古を「拳學研究會クラス」で行ったときには、7対1で師父に向かっていったことがあります。その時も結果はまったく同じで、誰ひとり師父を崩す事はおろか、触れることさえ出来ずに、ただひたすらひどく崩され、師父の周りで飛び回り、転がり回っていたような状況でした。


 次の稽古では、その二人に対し、左右に開いた師父の足を取りに来るように仰いました。

 太腿でも、膝でも、スネでも良い。
 ご自分はその場を動かないから、足を二人掛かりで取りに来い、と。
 二人で一本ずつの足でも、二本ずつでも、前後からでも、
 好きなようにタックルして崩してみなさい・・・というわけです。

 足は二本しかないのだから、ひとりで一本ずつ、両手で抱えるように取りに行きます。

 これは初めて見るものなので、取りに行く二人が動き始めるまでの僅かな時間に、
 どうなるのだろうか?・・と想像してみるのですが、イマイチ、ピンと来ない。

 同時に来たら、いったい、どうするんだろうか・・? 

 いや、右足が動いているときには、左足はどうなるんだ・・?

 思う間もなく・・・二人が素早く取りに行きます。
 ひとりずつではなく、ほとんど二人同時に、左右それぞれの足に向かって、
 こうなったら意地でも師父をひっくり返そうとして、必死で取りに行きます。
 しかし、始まったその瞬間から、先ほどの「肩取り」と同じように、
 取りに行った人たちが師父の周りで、飛んで、回って・・という繰り返し。

 まあ・・・飛ぶわ、飛ぶわ・・・
 周りの門人から笑いが出るほど、奇妙な恰好ですっ飛んで、クルクル回らされる。
 それも、ろくに師父の足に触れることさえ出来ずに。
 師父の足元は・・と言えば、
 肩幅ほどのスタンスで、まるで軽やかにダンスでも踊っているかのような・・
 全然、ドタバタしていないし、足音も聞こえない。
 床から足が浮いているような・・・
 もしくは、足が着いたままでいるような・・・
 ・・・こうなると、もう、溜め息しか出ませんです、はい。

 やってみれば分かりますが、
 普通は、触れさせまいとドタバタ逃げ回ったり、
 触れに来るところを、その足で押し返したり、素早く引きたくなるはずです。

 私にはまだまだ、とても、あんな真似は出来ません。
 ♪ダンスは、うまく踊れない・・・という感じで(汗)


 肩でも、足を取りに行った場合でも、すべてに共通して見えたのは、
 相手が取ろうとしているところを、決して「躱そうとしていない」・・ということ。

 相手にしてみれば、むしろ手のすぐ近くに、取ろうとしている目標物があるのですが、
 どうしても触れることが出来ない。
 たとえ少し触れることが出来ても、その時にはすでに身体ごと大きく崩されているので、
 もうどうにも止まらず、結局、飛び回ったり、転がされるしかない・・・

 そして、よく見れば、
 右脚が下りるときには、もう左脚が上がっている・・・

 これは当たり前のことで、
 誰でも歩くときにはそうなっているハズなんですけどね・・・

 けど・・・ しかし・・・ ムムゥ・・・・
 人間はふつう、こんなふうに足を上げ下げしているだろうか・・・

 ・・・どうも、その辺りが、歩法の「謎」を解く鍵となりそうです。

                                 (了)

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