*第61回 〜 第70回

2011年05月25日

連載小説「龍の道」 第65回




第65回 入 門(6)


「─────さて、君はさぞかし、今のような体験を ”神秘的” だと思うことだろうね」

「はい、もちろんです。とても神秘的で、とても特別な体験だと思います。でも、先ほど王老師は、この世に特別なものなど何ひとつない、と仰いました」

 眼を輝かせながら、宏隆がそう言った。
 これを神秘と言わずして、いったい何だというのだろうか。こんな体験が特別でなくて 何を特別というのだろうかと、素直にそう思えるのである。

「君の言いたいことは分かる────────────
 この世界に特別なものは無い、太極拳は何も特別な武術ではない、と言われても、現実に生卵が割れないほどのチカラで天井際まで吹っ飛ばされ、額に指を当てられただけで強烈な光や電気ショックが身体中を駆け抜けるのだから、それはどうしたって特別なことにしか思えない、と────────────」

「そ、そうです、いくら特別ではないと説明されても、自分にはどうしても特別なことにしか思えません」

「────────では、君はこの部屋を照らす灯りを、特別だと思うかね?」

「電灯が?─────いいえ、部屋に灯りが点いていても別に何の不思議もありません。
 今はランプの時代じゃありませんから・・・」

「では、飛行機が空を飛び交っていることは────────────?」

「もう何度も飛行機に乗っていますから、ちっとも特別なこととは思えません」

「太陽が空に昇って沈むのではなく、この地球が動いているのだということは?」

「もうそれは常識なので、ごく当たり前のことだと思えます」

「そうだ────────そのように、事実や現象が世によく識られるようになり、ごく当たり前のことになれば、それは何ら神秘でも特別なものでもなくなる。
 しかし、それらがまだ当たり前のことでなかった時には、とても特別なことだったのだ。 
 それは個人の物の見方や価値観に因るところが大きいし、凡庸で通俗な位置から見れば、ほんの少しでもそれ以上高い所にあるものは、すべて特別に思えてしまう」

「自分がそれらと同じ位置にあれば、それらは特別ではなくなる、ということですか?」

「そのとおり──────────この時代、人間は堕落の極みにあって、人として当たり前のことでさえ特別なことだと思う人間が増えた。そして貧しさからは豊かさが、弱さからは強さが、脆(もろ)さからは靱(つよ)さが、神秘的で特別なことに思えてしまう。
 太極拳もそうだ。文化大革命はそれまでの伝統武術の中身を根底から覆すことになった。考えてもごらん、革命を起こした為政者が自分を脅かす危険性のある武術をわざわざ振興するわけがない。幾百年もの間大切に保存されてきた拳理拳学は、武人の誇りと共に悉(ことごと)く破壊され、地に埋められ、河に流され、劫火に焼かれて失伝し、為政者の顔色を窺いながら、多くの人々の価値観が変わっていった。武術はただその名前だけを残し、人々はただ単に無難な、形式だけの体操を練るようになっていったのだ──────」

「そんなことが────────────」

「他人事(ひとごと)ではないよ、日本も同じことをされたじゃないか。日本が戦争に負けた時、アメリカは、GHQ(占領軍総司令部)は真っ先に、日本人が日本の武道を学ぶことを全面的に禁止したことを知っているだろう?」

「そのようなことを聞いたことがありますが、ハッキリと認識していません」

「そう、日本人に全ての武道を禁止したその事実さえも、日本国民に意識させないようにすることが占領政策の意味だった。それを知る世代は、次の世代にそれを伝えることが虚しくなるように教育された。現に、戦後わずか十年後に生まれた君でさえ、そのことをよく知らない、あまり興味を持てないような教育をされているのだ。今の日本に、古(いにしえ)の伝統を十全に受け継いでいる本物の武術がどれほど残されていることだろうか・・・」

「はい、張大人にも言われました。ぼくはもっと日本のことを知る必要があります。そして仰るとおり、十全な形で日本に残されている武術はとても数少ないと思います」

「繰り返すが、太極拳は何ら特別なものではない。今日、この世に特別なものや神秘があるとすれば、人間が人間として有りのままの姿で生きていることこそが特別であり、それがすでに正しく整っていること自体が、その当たり前の構造こそが、真の神秘だと言えるかもしれない────────────」

「はい、そのことは分かります」

「よく覚えておきなさい─────── ”それ” は、すでに整っているのだ。
 今日から君が入門する太極門というのは、すでに君自身の中にある。
 入門とは、君自身の内側以外の、どこか他のところにある門が開かれることではないし、その門から先に延びている道も、君自身以外のどこかへ向かって続いているのではない。
 それは君自身の道であり、君自身の道とならなくては、真の大道とは言えないのだ」

「ぼく自身の道────────────」

「そうだ、それは ”道” という言葉で表されてはいるが、むしろ ”川” という方が分かり易いかもしれない。
 川は、山奥の源流から下流へと向かって流れて行き、やがて大きな流れとなって大海へと注ぐ。川を下る時に必死に舟を漕ぐ人は居ない。それと同じように、道を歩くのに必死に歩く必要はない。本当の道は川のように流れているのであって、そこに舟を浮かべて流されて行けば、やがて大海に辿り着ける。そこを必死に歩んでいくようなものではないのだ。
 ただ吾が身をその ”道” に委ね、流され、大海へと運ばれるのを許すことだけが必要だ。
 もし君が ”道” を見出したら、決してその流れに抗ってはいけない。上流に向かって頑張って舟を漕ぐような愚かさを戒め、”道” というものの性質をよく理解することだ」
 
「はい────────────」

「うむ、君はとても素直だ──────────── ”特別” ということに対して屁理屈をこねようとはしないし、言葉としての定義を求めようともしない。ただ私の言っていることに耳を傾け、その意味を感じようとしている。
 大切なことは、そのような ”向かい方” や ”あり方” であって、言葉自体の意味を求めることには何の意味もない。君はそのことを、すでに知っているようだね」

「もしぼくがそうであるなら、それは自分を育ててくれた父や母の、そして王老師やK先生のような師のおかげだと思います」

「大切なことだから、もう一度繰り返しておこう。
 学ぶためには、どのような場合も、決してあれこれと自分の思考を挟んではいけない。
 ものごとを、思考によって意味付けたり、判断しようとすることを止めることだ。
 そうすれば、君はもっと大きなものを手に入れることが出来る。
 自分の貧しい思考で判断することを、間違っても ”理性” だなどと思わないこと。
 本当の理性というのは、もっと大きなもの────────────
 自己という個人の心のはたらきではなく、宇宙を司っている原理のことだ。
 ちっぽけな己の論理、思考する能力で物事を判断しようとするのをやめなさい。
 そうしなくては、本当の ”道” は見えてこない」

「ありがとうございます。
 王老師の教えを、生涯大切にいたします────────────」

「よろしい───────君を私の正式な弟子として、心より喜びをもって迎えよう」

「ありがとうございます」

「これから君が学んで行くことは常に真新しく、日々に新しいものとなる」

「そして、何ら特別なものではない────────────」

「───────そう、そのとおりだ、はははは・・・・・」



 入門式は、瓢箪形の窓に囲まれた部屋で、延々と続けられてゆく。
 戸外(そと)は台湾の夏には珍しく涼風がそよぎ、夜空いっぱいに星が瞬いている。


 やがてそれらの儀式も無事に終わり、式場は宏隆の入門や玄洋會への参入を祝う宴の席へと設えが変えられ、照明がより明るく灯され、胡弓を中心とした三人の楽団が、心が洗われるような優しい音楽を奏でている。


 見たこともないような、見事な中華料理と美酒の数々──────それらが用意された八つの円卓を囲む人々は、みな和やかに、宏隆の入門や参入を心から祝福する表情に溢れていた。


「おめでとう、ヒロタカ・・・これで今日から、私たちは義姉弟ね!!」

 ポンッと、座っている宏隆の肩を後ろから叩くと、後ろからその肩を抱くようにして、嬉しそうに宗少尉が言う。もうどうにもこうにも、じっとしていられずに、宴の席になるとすぐ宏隆のところにやってきたのである。

「ありがとうございます。こんな立派な式をして頂いて・・・皆さんのお陰です」

「本当によかったわねぇ・・・・ついさっき、部屋で着替えをしていた時とは、まるで別人のように見えるわよ」

 目を潤ませながら、上から下まで宏隆をながめては、嬉しそうに言う。

「でも・・・・」

 しかし、宏隆は急に肩を落としてうなだれ、深刻な顔をしてそう言う。

「でも・・? どうしたの、何か問題があるの・・・?」

「いえ・・・ ただ・・・・・・」

「ただ? ・・・・ただ、どうしたの・・・?」

「宗少尉の弟になったら、さぞかしオッカナイだろうなぁ、と思って・・・・」

「こ・・コラァ、人が心配しているのに───────!!」

 宗少尉が拳を振り上げて、宏隆を打(ぶ)とうとする。

「うわわっ!、ごめんなさい・・・でも、ほら!、やっぱり怖いじゃないですか!!」

「あ・・・・ほんとだ」

「ハハハハハ・・・・・」

「アハハハハハ・・・・・」

「───────おお、楽しそうにやっていますね!」

「あ、陳中尉!───────今日は本当にありがとうございました」

「おめでとう、ヒロタカ。これで僕たちは正式に師兄弟(兄弟弟子)になったわけですね」

「何だか、とても畏れ多いですが───────どうぞよろしくお願いいたします」

 真っ直ぐに立って、深々と頭を下げて、宏隆が丁寧に礼をする。

「うーん、王老師も仰っていましたけど、やっぱり日本人のお辞儀は世界一美しいですね。
 特に日本の天皇や皇后のお辞儀は、どこの国の君主よりもずば抜けて美しいものです。それは、もっと日本人が誇りに思って、大切にすべきことだと思いますよ」

「ありがとうございます・・・・」

「ところで、今日で無事に入門式も終えて、あとどのくらい台湾に滞在できるのですか?」

「さあ・・ぼくはただ、台湾に行くよう王老師から命じられただけなので、その後のことはさっぱり分からないのですが」

「・・・ははは、相変わらずのんびりしていますね。では、ヒロタカの台湾滞在中に関しては私に一任されているので、これからのことは私がスケジュールを決めましょう」

「あの拉致騒ぎのおかげで、まだトレーニングもロクに受けさせて頂いていません。
 拳銃も、ライフルも、実戦のための格闘訓練も・・・・・」

「そうですね─────────しかし、最も訓練してもらいたいのは太極拳です」

「太極拳のご指導も、ぜひお願いしたいと思っていました。
 陳中尉の・・陳師兄の太極拳を、拝見したくて仕方がありませんでした」

「あはは、ついに私のことを師兄と呼ぶようになりましたね、とても嬉しいです・・・
 太極拳をきちんと練られるようになることが、結局は他の訓練が上達する一番の近道ですよ。さあ、それでは二人でお願いをしに行きましょう」

「二人で、お願いをしに・・・?」

「そう、せっかく王老師が台湾に来ていらっしゃるのだから、二人でご指導を仰ぐのです」

「えっ────────────!!」

「何も驚くことはないですよ。私たちは弟子なのだから、当然じゃないですか・・・・」

「で、でも・・・・陳中尉と・・陳師兄と・・・王老師にご指導を・・・・・・」

「ハハハハ・・・・何だか、ヒロタカには珍しく、とても緊張してきましたね?」

「はい、そんなことが実現するなんて、本当に夢のようです。
 今まではずっと王老師と二人だけで、マンツーマンでご指導を頂いていたので、自分以外の人がどう立つのか、それをどう動くのか、どう指導されて、どのように訓練していくのか、とても興味がありましたし・・・何と言っても陳師兄とご一緒に老師のご指導を受けられるなんて、思いもよりませんでした」

「ははは・・・まだお願いする前なので、そうして頂けるかどうか分かりませんけどね。
 さあ、一緒に王老師のお席へ行きましょうか────────────」

「はい!!」

「あ、そうだ・・老師の前に参上したら、このように手を組み、頭上に掲げながら、片膝を着いて、このように礼を取ります。このような礼をするのは拝師をした弟子だけに許される正式な礼儀作法ですから、よく覚えておいて下さいね」

 陳中尉は両手を使って、複雑な指の組み方を宏隆に見せ、跪く動作を示した。

「あ・・その作法はもう、神戸で王老師に教えていただきました。初めてご指導を受けたときに、今後はそのように礼を取るように言われたのです」 
                       (*編集部註:「龍の道 第16回」参照)

 「え、そうなのですか?、すごいなあ・・・私なんか、その礼法を教わったのは拝師をしてからですよ。やっぱり、ヒロタカは別格なんですねぇ────────────」

「でも、きちんと礼式が出来ることはもちろんのこと、最も大切なのはその人の心なのだと、老師に言われました。自分を教え導く師を敬って、心を込めて丁寧に行うことで、はじめてその礼法も活きるのだと」

「うん、良い教えを受けましたね。さあ、それでは王老師のもとへ行きましょう!」

「はいっ────────────!!」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第66回の掲載は、6月8日(水)の予定です

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2011年05月11日

連載小説「龍の道」 第64回




第64回 入 門(5)


「・・・さて、大切なことを言っておこう────────────
 それは、私が君に与えるこのイニシエーション(入門の儀式)は、それ自体、何も特別なものではない、ということだ。
 そもそも、この世界に ”特別なもの” など、何ひとつ有りはしない。だから、たとえ私が ”特別” という言葉を使ったとしても、そこには取り立てて何も意味は無い。
 入門とは、天がその人に与えた ”学びのかたち” に過ぎない・・・・分かるかね?」

「では、拝師入門というのは、特別な武術を修得した特別なマスターに、特別に学んでいくことが許される特別な機会、ということではないのですか?」

「そうではない──────入門というのは、入門者に特別な機会が与えられることではなく、それが決して特別なものではない、ということをきちんと認識できるようにするための機会が与えられるものなのだ」

「よく分かりません────────────」

「今は分からなくとも、やがて分かるようになる。
 入門とは、ようやくそのようなことの理解が始まる機会でもあるのだ」

「入門ということ自体、花が自然に開くように、起こるべくして起こっているものなので、そこに取り立てて格別な意味づけをする必要はない、ということでしょうか?」

「それは、そのとおりだが────────しかし、もっと理解されるべき重要なことは、太極拳が ”特別な武術” ではない、ということだ」

「ええっ!・・・・ぼくは、太極拳はものすごく特別な武術だと思っていました!!現に、王老師にちょっと触れられただけでも、天井際まで吹っ飛んでしまって・・・・」

「門の外側から見れば、それは、ある意味では特別なものだと言えるかもしれない。
 しかし、そのような私の修行の成果も決して特別なことではないし、それ自体、私が特別なことに身を委ねた結果として得られたものでもないのだ」

「うーん、何だか混乱してきました────────────」

「私も始めは、太極拳は特別な武術だと思っていた。君と同じように、私の師である人に強(したた)かに吹っ飛ばされてからは、太極拳はそれまで自分が学んできた武術とは天地の差がある、と思えた」

「そんなに凄いことでも、特別な修行によって得られたことではないのですか?」

「その頃の私から見れば、太極拳はとても特別な武術だった。師の驚異的な功夫も、特殊な修行でしか得られないに違いないと思えたものだ。しかし、入門を許されて学んでいくうちに、それを ”特別なもの” として見ているうちは、太極拳というものの実体など、何ひとつ理解できないことに徐々に気づかされてきたのだ」

「───────────────」

「よく覚えておきなさい、太極拳は決して特別なものではない。
 人が人として存在する、その本来あるべき有りのままの自然な姿で・・・その有りのままであるがゆえに修得が可能となる武術─────────────それは、この宇宙の中で、この地上に生きる人間というものの存在を、まるごと、トータルに受け容れるからこそ可能になる・・・・まったく何ら特別ではない、特別ではないがゆえに、最高のものであり続けることの出来る、至高の武藝なのだ」

「はい────────────」

「今は分からないかも知れないが、やがて君にもそれを正しく実感し、理解する日がやってくることだろう」

「・・・それは、どのようにして理解されるのでしょうか?」

「ただひたすら、人として当たり前に、正しく整って、有りのままに────────
 早い話が、二本足できちんと立つことが出来れば、誰にでも理解できることだがね」

「人として正しく整い・・・・有りのままに・・・・二本足で立つ・・・・・」

「そうだ。人間に与えられたこと─────────つまり、二本足で立ち、歩くことが、そのすべてだ。人間は、本来の有りのままに正しく立ち、正しく歩くことで、心も身体も、ありのままの正しい状態で存在することが出来る。人の正しい考え、正しい行動とは、人が人として本来持っている、有りのままの正しい構造から生まれるのだ」

「・・・よく考えてみればそれは、何も特別なことではありませんね」

「そのとおり、そして、それを核心とする武術が、何ら特別なものであるわけがない。
 その、有りのままに整っている状態のことを ”太極(tai-ji)” と呼ぶのだ。
 良いかな・・・それは、すでに整っている────────────
 ただ、ほとんどの人は ”そのこと” に気付いていない」

「それは、すでに整っている────────────
 ぼくは、世に言う秘伝とか真伝などというものは全て、人間一般の能力を遙かに超えたところにある、まったく特別なものだと思っていました」

「人間が、人間の能力を超えることは出来ない。人間に出来るのは、吾々に与えられたものが何であるのかを正しく識り、それを正しく生きること、ただそれだけだ」

「では、太極拳もそのように、人間として自分に与えられているものを正しく識ることによって学んで行くのでしょうか?」

「そうだ。本来、太極拳の構造は非常にシンプルで、とても修得し易いものだ。
 だから、それを特別なものとして見てしまえば、それが誤りの始まりとなり、どのように修行しても、どうにもならない。正しい構造を見つけるには、それが決して特別なものではない、という認識から学習を始めなければならない」

「しかし、それ自体が特別なものでないのなら、誰もが入門して学べそうなものですが、どうして滅多に入門を許される人が居ないのでしょう?」

「ははは・・・この世界では、老師によっては拝師弟子を百人も取ったりする人も居るよ。
 どこぞの有名な老師に至っては、拝師弟子の第一カテゴリーに五十人、第二カテゴリーには百人、その下には徒弟学生が何百人、などという具合にね・・・・だから、高名な老師に就いて太極拳の真伝を得たという者などは、世界に何十万人も居るに違いない」

「拝師弟子が・・百人も、ですか──────────!?」

「私の拝師弟子などは、君を入れても僅か三人しか居ない。私は滅多なことでは弟子を取らないからね」

「しかし、何故そんな?・・・・あまりにも人数が違いすぎます!」

「それは、その人の問題だよ。それに、人数で何かが決まるものでもない。私は、私に与えられたものを、与えられた分だけ、弟子と分かち合っているに過ぎない。
 きっとその老師は、功夫の至らぬ私と違って、弟子に与えるものを山ほど持っているのだろうね、はははは・・・・」

「・・・・何だか悔しい気もします」

「そうではない。人はそれぞれ、その人の課題を持ってこの世に生を受けているのだ。多くの拝師弟子を持つ人はそのような課題を、わずか数人ばかりに伝えようとする人もまた、それに見合った課題を持ってこの世に生まれて来ているのだよ」

「ですが・・・百人の拝師弟子に、数百人の門人徒弟が居て、一体何をどのように伝えられるというのでしょうか」

「それもまた、人それぞれ─────────私の知ったことではないよ、ははは・・・
 ただ、私の学んだ内容、私の教え方では、その人数では絶対に不可能ではあるがね」

「人間にすでに与えられている有りのままの在り方というのは、太極拳で云えば站椿・・・つまり、無極椿のことですね」

「そう、そのとおり。無極椿こそは太極拳の構造を、その根本の在り方を示すものだ。それは、人間にすでに与えられているものではあるが、必死に追求し、研究しなければその根本の在り方は見えてこない」

「─────それは元々すでに人間が持っていて、何ら特別なものではない、有りのままに整っている状態だというのに、どうして必死に追求しなくては分からないのでしょうか?」

「歪められ、逸れて外れてしまうこともまた、人間の性質だからだ───────────
 人は、何かをしたい、もっとこうありたい、と願うだけで其処から外れてしまう。
 それには手前勝手な考え方、都合の良い自分本位な解釈が含まれているからだ」

「・・・かといって、何もしなければ、願わなければ────────────?」

「自分の在る位置が、正しく認識されることもない」

「では、どうすればよいのでしょう?」

「整え続けるのだよ、本来あるべきところに────────────」

「それは、どのようにして認識できるのでしょうか?」

「人には、誰にでも、それを認識できる能力が備わっている。ただ、そのことを忘れているだけなのだ──────────── ”無極椿” はそれを正しく思い出させてくれる、とても素晴らしい練功だよ」

「・・・ああ、何だかすごくワクワクしてきました。これまでの自分の無極椿は、ただ要求に従って、何が何でもそのとおりに立とうと無理矢理に頑張っていたのだと思います」

「ははは・・・それでは ”無極” にはならないね」

「はい、今のお話で、ようやくそのことが見えてきました、ありがとうございます」

「さて────────────では、もっと此方に来なさい」

 言われるままに、王老師のすぐ前に跪(ひざまず)いて、老師を見上げた。

 何という奥の深い眼をしているのだろう、王老師の眼を見ていると、まるで大海の深みを覗いているような気持ちになる。
 その波乱に満ちた人生を自ずと物語っているような、そして、その波乱の渦中にあっても自分を見失わず、万丈の波濤に幾度となく翻弄されながらも、その度に其処から逞しく這い上がり、直向きな修行に身を委ね、常に己を厳しく律し続けることでその波乱を乗り切り、その果てに、人としての根本を、人としての本来のあるべきところを見出すことができたような────────────そんな眼をしている。

 その、人としての在るべきところこそ、この人が自分に伝えようとしている武藝の在処(ありか)の根本なのだ・・・と、宏隆には思えた。


「オンバザラダトバン、オンバザラダトバン、オンバザラダトバン・・・・
 ノウマクサマンダボダナンベイシラマンダヤソワカ、ノウマクサマンダボダナン・・・・
 ノウマクサマンダボダナンアビラウンケン────────────」

 ふと気付くと、さっき仏法の授戒を授けてくれた戒和上が、夜の闇に響く海鳴りのように、低く真言を詠み上げている。

「額を、こちらへ────────────」

 王老師が、跪いて頭を差し出した宏隆の方に、少し腰を折るようにして、手を差し伸べてきた。

「眼を閉じなさい────────────」

 静かにそう言い、親指を宏隆の額の真ん中に・・・ちょうど眉間の中心に当てた。

(ああっ!!────────────)

 驚いて、思わず大声を出しそうになった。
 眼を閉じて、王老師の指が自分の額に触れた途端に、身体中にビクリと、まるで感電でもしたように何かの衝撃が走り、目の奥から頭の中いっぱいに眩(まばゆ)い光が閃いて溢れたのだ。

(いったい、何なのだ、これは────────────)

「深く、息を吸って────────────」

 言われるままに、息を深く吸い込むと、その吸った息が止まると同時に、今度は背骨の下から上に向かって新たな衝撃が走った。

「うわっっ!!────────────」

 今度はつい、声を漏らしてしまった。

「どうかね、何かが起こったかね?」

「・・お、起こったなんてものではありません。初めの、額に指を当てられたときには凄い光が頭の中にパーッと閃いて、今のは背骨に電気ショックのようなものがビリビリッと、上の方に走りました」

「ほう、それはよかった・・・」

「・・よ、よかった、って・・・あれは・・・今のはいったい、何なのですか?」

「私だよ・・・私自身を、君に分かち合って与えたのだ────────────」

「王老師を、ぼくに・・・・?」

「仏陀釈尊は摩訶迦葉と拈華微笑を分かち合い、キリストは葡萄酒を自分の血とし、パンを自分の体として弟子たちと分かち合った。秘密結社では、ナイフで身を切り、血液を絞って義兄弟と信義を分かち合うが、私のやり方は違う・・・・・もっと実際的なエネルギーを、もっと君自身が体験できるエネルギーを、弟子として迎える君と分かち合ったのだ」

「これは、氣────────────というものですか?」

「何であれ、君が実際に体験したことについて、あれこれと思考を挟まないことだ。
 物事を思考によって意味付けたり、判断することを止めなくてはならない。
 それは、そのものごと自体を貧しくしてしまうだけで、何の役にも立たない。
 それに、いわゆる ”氣” については、今はまだ何も考えなくとも良い・・・」

「はい────────────」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第65回の掲載は、5月25日(水)の予定です

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2011年04月27日

連載小説「龍の道」 第63回




第63回 入 門(4)


「花が・・・自然に開かれるように────────────」

「そうだ───────君に、そのことが分かるだろうか?」

「僕は、その準備が整っているのでしょうか?
 自分では、そうであるとは、とても思えないのですが・・・・」

「準備ができたかどうかは、自分では認識することができない────────
 ただ、本当に準備が整えられたときには、門は開かれる。
 さあ準備が整った、後は門が開かれるのを待つだけだ、というものではない。
 門が開かれることで、自分に準備が出来たのかどうかが、初めて分かるのだ」

「では────────────?」

「そう、君はすでに、この門の中に入る準備が出来ている。
 それは私だけではなく、ここに来て下さった多くの人たちが認識していることでもある」

「そうであるなら、とても嬉しく思いますが・・・
 しかし、本当のところは、今ひとつピンと来ません」

「では、もう少し分かりやすく説明しよう。
 その ”準備” というのは、別の言葉で云えば、”死ぬ覚悟” ができた、ということだ」

「死ぬ覚悟、ですか?────────────
 日本で江戸中期に書かれた ”葉隠(はがくれ)” という書には、”武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり” と、書かれていますが、それと同じ意味でしょうか」

「 ”葉隠” は武士の修養書だね。私も英訳本を読んだ。死を覚悟することによって生の力が得られるという逆説的な哲学書だと想ったが、この場合は、それとは少々意味が違うね・・・
 私が言う ”死ぬ覚悟” というのは、今までの古い自分が滅び去って、真新しい自分に生まれ変わること。元の自分が死に絶え、完全に滅び去って再誕生(Rebirth)する覚悟ができた、ということなのだ」

「再誕生(Rebirth)────────────?」

「 再誕生が起こるのは、人間にとって、とても美しく、尊いことだ。
 多くの人々は、それが起こるまでには到らないし、或いは、そのような事が存在することさえ知らずに、ただ自分の身勝手さや傲慢さを持ち続けて人生の旅路を終えるしかない」

「自分もそのような、とても未熟で傲慢な人間だと思いますが──────────」

「ふむ・・・では、君は自分がそうだということを、いつ認識したのだろうか?」

「小さい頃から、少しずつです。自分が人間として如何に成長するかということにはまるで無知で、人として未熟であるという認識は、小学校に入る前からすでにありました」

「そんな頃から、人間として未熟と思えたとは────────それは大変な子供だね。
 この際、自分のことについて、もう少し話してみなさい」

「自分の年齢と、自己という存在そのものとは必ずしも一致しない、と感じていました。
 友達からも、お前は同じ年齢の子供に見えないとか、年寄りと話をしているみたいだと言われることが多くて、実際に同級生の言動がずいぶん幼稚に思えてなりませんでした」

「ふむ・・・」

「十歳を過ぎる頃から、自分の未熟さがとても大きな問題に感じられて悩み始め、中学に入って父と京都の禅寺へ参禅に行ったのがきっかけで、大徳寺に通うようになりました」

「・・ほう、その年齢から禅を始めるとは、これまた大変な子供だ。
 もっとも、昔の日本人は人生を五十年と割り切り、11歳から16歳の頃までには元服の儀式をしたというが、君はまるでかつての時代のサムライの子供のようだね・・・・
 それで、禅寺へ参禅を繰り返して、何かを得ることができたかな?」

「高校に入った頃には、お前の悩みなんぞ青臭くてくだらん、もっと馬鹿になれ、アホになれ・・・と、その寺の住職に言われ続けました」

「ほう、馬鹿になれ、と────────────」

「そうです。お前はお利口すぎる、真面目すぎる、もっと馬鹿にならんとあかん、アホにならんとあかん、と顔を合わせるたびに言われました」

「ハハハハハ────────────」

「でも・・・かと思えば、枯山水の庭に向かって座禅をしていると、
 ”アホやなぁ、お前は。まだ若いのに、何でこんな所で日がな一日座ってるんや?” と言われ、僕も思わずちょっとムッとして、”えっ?、だって此処は座禅をするための禅寺でしょ。それに和尚さんは、僕にもっと馬鹿になれ、アホになれ、と言われたではないですか。禅寺でアホになる為にじっと座っていてはいけませんか・・・?” と問い返すと、ちょっと呆れた顔をされて、”ああ、ほんまのアホやなあ、お前は。もうええ、帰れ、帰れ!、もう座らんでもええ、帰って風呂でも浴びて、グウタラのように寝てしまえ!” と、怒鳴られました」

「ワハハハハ・・・・それで、それからは?」

「また次の週末に、いつもと同じように大徳寺に行きました」

「────────今度は、何と言われたのかね?」

「 ”おお、坊主、また来たんか” 、とニコニコして、 ”いや、ちょうど良かった、今日は風が強うて、門前と参道に落ち葉が溜まってかなわん、お前、それをちょっと履いてきてくれへんかなぁ?” 、と言われました。
 人のことを坊主だなんて、自分こそホントの坊主だろうと思いつつ、神戸からわざわざ電車に乗って座禅をしに来たのに、禅を指導するどころか、訪問者に掃除をさせることに少々呆れましたが、それを余りにも自然に言われるので、思わず ”ハイ” と素直に応えてしまい、受付けの女性にホウキを借りて、しぶしぶ門前の落ち葉を掃きました」

「ふむ、それで?────────────」

「ところが、風が強いので、掃けども掃けども、落ち葉がちっともきれいになりません。 
 こっちを綺麗に掃いていると、もう、いま掃いた所が落ち葉だらけになっていて・・・・周りの塔頭(たっちゅう=大寺院の敷地内にある小寺院)を見てみると、どの寺も落ち葉だらけで誰も掃いてなんかいない・・・こんな風の強い日に掃除をするのは馬鹿とばかりに、みんなそのままにしてあるのです」

「ほう・・・なのに、和尚は門の前を掃いてこいと、君に言ったのだね」

「はい」

「それで、どうした?」

「仕方なく、いろんな事をやってみました・・・・落ち葉がそこに溜まるより早く、それをチリトリに入れるにはどうしたら良いか、とか、チリ取りの上を押さえながら、サッと落ち葉を掃いて入れたり、風が少し止んだ瞬間に、ここゾとばかりに走り回って大急ぎで掃きまくったり・・・・・」

「ふむ────────────」

「でも、そうこうしているうちに、もう止めることにしたのです」

「やめた?・・・掃いても仕方がないので、あきらめたというわけかね?」

「いいえ、そんなふうに、落ち葉をどうにかしようとすることを、止めたのです。
 何時間も、北風の中を、掃いても掃いても掃ききれない落ち葉と奮闘しているうちに、いったい自分が何をやっているのかということにハッとさせられて、自分がどんな課題を与えられたのかということに、ようやく気付きはじめたのです。
 よく考えてみれば、和尚は僕に、”門前の落ち葉を綺麗にしてこい” とは言わなかった。ただ、”風が強くて落ち葉が溜まるから掃いてきてくれ” と言ったのです。それに気がついてからは、その言葉どおりに、”ただ落ち葉を掃くこと” に没頭することにしました」
 
「なるほど・・・・落ち葉を綺麗に掃くためには、風が強くてどうにもならない。しかし、だからといって、自分の都合で早々に放棄すれば、与えられた課題が見えてこない・・・」

「そうです。それに気付いたときに、自分は何と情けない奴なのか、と思いました。
 僕は禅というものが、ただ枯山水に向かって座って静かに瞑目しているうちに何かを達観することだと思っていたのです。しかし、実際はそんな甘いものではありませんでした。
 いや、甘いとか厳しいなどと言うよりも、それは、もっと活きた教え・・・実際にそれを体験することで味わい、行動することで実感することのできる、王老師が指導して下さる太極拳の稽古と同じものだったのです。
 僕はその時、門前の落ち葉を掃きながら、同時に何かを、何かの大きなヒントを貰えたような気がしていました」

「ふむ────────────とても良い勉強をしたね。
 その和尚さんは素晴らしい禅師だ。禅は非日常の中から日常を明らかにし、日常の中から非日常を示してくれる。そのことによって、人は日常とは何か、人間の営みとは何かということに気付くことが出来るのだ」

「はい、本当に有り難い御縁を頂戴したと、心から感謝しています」

「・・・その京都の寺は、大徳寺、と云ったかな?」

「はい。大徳寺という大きな寺院の中にある、大仙院という塔頭です。
 西暦1500年頃に建造された日本最古の玄関があるような古刹で、代々高名な住持によって営まれ、第七世住持の沢庵宗彭という和尚が宮本武蔵に剣の道を説いた、武藝に所縁(ゆかり)のある寺院でもあります」

「沢庵和尚や剣豪の宮本武蔵は台湾でもよく知られている。しかし大仙院とはまた、意味深い名だね。大仙とは俗世間の境界を超えた向こう側に居る、優れた尊い人という意味だ。
 それに、”玄関” という言葉も、もとは家の入口のことではなく、玄門の関、玄妙なる大道への関門という意味の禅語だ。しかし、こんなに深い意味のある言葉が、家の入口の名称としてごく当たり前に使われているのは、広い世界の中でも日本だけに違いないがね」

「──────────そこに、江戸時代に武蔵がしばらく滞在したという四畳半の部屋があって、自分もその部屋で大仙院の和尚にお茶を点てて頂いたことがあります」

「剣の達人、宮本武蔵の居た部屋でお茶を頂いた・・・・」

「はい、普段は外から拝観するだけなのですが、沢庵和尚が武蔵に道を説いたという部屋に座らせて頂ければ、さぞかし自分も武術が強くなるに違いない、と思って、和尚にお願いして特別にそうして頂いたのです」

「ははは・・・禅師はそのとき、君に何か言わなかったかね?」

「はい、お察しの通りです───────慣れた手つきでサラサラとお茶を点てながら、”武蔵のおった部屋に座って武術の達人になれるンやったら、ブッダガヤの菩提樹の下に座っとったら誰でもお釈迦サンになれる、ちゅうことやな・・・坊主、今度はインドで座禅して悟ってきたらどないや?” と、言われました」

「ワハハハハハ・・・・・・・・」

「自分は、その程度の幼稚で浅薄な人間でしかありません。
 王老師は、そんな自分に何の準備ができている、と仰るのでしょうか?」

「その準備が出来た人には、いろいろな兆候が現れてくる────────────
 それは突然の出来事ではなく、ゆっくり、じっくりとやって来るのだ。
 君は小さい頃からすでに、こうなるべくしてあった人であったと思える。その参禅の話もそうだし、其方に居られるK先生との出会いや、私たち玄洋會結社との出会い・・・・
 ほんのわずかな期間のあいだに、様々な大きな出来事が起こり続けているだろう?」

「はい。台湾に来てからも、たった十日間ほどの間に、十年かかっても体験できないようなことを経験することになりました。実際に、随分時間が経過したような気がしています」

「そう、それは君にしてみれば思わぬハプニングの連続かもしれないが、実は、君がもっと大きなことを勉強して、もっと大きな人間になるために、天が君に対して与えてくれたことなのだ」

「天が────────────」

「そうだ。地上に生きる誰もが、天からこの世での、今生での課題を与えられているのだと私は思っている・・・・その人がこの生で如何に成長するか、如何に学ぶか、如何に生きる
かを、天は静かに、じっくりとその人間を観ているのだ」

「僕は、小さい頃からずっとそんな気がしていました」

「私もそうだった。だから、天に恥じない人間になろうと思い、己を偽らず、他を偽らず、己の長所も短所も、悩みも理解も、全て受け容れて誠実に生きようと強く思ったものだよ。
 自分は、自分以上でもなければ、自分以下でもない。だから、自分を卑下したり、自惚れたり、他と比較してことさら優劣を感じたり、事ある度に一喜一憂する必要もないのだと。
 ただひたすらに、自己に誠実に生き、他に誠実に対すること。そうすれば必ず天が己の歩むべき道を示してくれる──────────少なくとも、私はずっとそのように物事が起こり続けている」

「・・・では、僕のような中途半端で傲慢な人間でも、誠実にそれを受け容れて生きようとする決心さえあれば、真の意味でこの門に入ることが出来るのでしょうか」

「そのとおりだ」

「僕は、王老師が示して下さる本物の太極拳の道を通じて、自分が本当に自分らしい人生を歩めるような気がしています。それが自分に与えられた勉強の方法であり、そこで学んで行くことが人生の課題であり・・・そして、もう実際に、そこを歩んでいると思えます」

「それで充分だ。君は私が受け継いでいる深遠な武藝の門に入るための、充分な準備ができている・・・・」

「それでは、あらためて───────────────
 謹んで王老師の太極門への入門をお許し戴きたく存じます」

「よろしい。では、入門の儀式を進めることにしよう」



                               (つづく)



  *次回、連載小説「龍の道」 第64回の掲載は、5月11日(水)の予定です



  【 参考資料:京都紫野 大徳寺 大仙院 】

      


    



  【 参考資料:インド・ブッダガヤの大菩提樹 】

           


      


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2011年04月13日

連載小説「龍の道」 第62回




 第62回 入 門(3)


「これより、入門の儀を行う────────────」

 高らかに、場内に声が響きわたった。

 いよいよ、陳氏太極門への正式な入門の儀が行われるのだ。
 単に老師から学ぶことを許されても、それはただの「学生」という立場であり、決して正式な「弟子」とは呼べないのだと王老師に言われてから、宏隆はずっと入門について考えていた。

「入門者、加藤宏隆──────────陳氏太極門外族伝人、王永斌老師に三叩頭せよ」

「はい────────」

 宏隆は、王老師の前に跪き、心を込めて深々と三叩頭をした。

 正式な弟子になることを、中国武術では「拝師(はいし・bai-shi)」という。
 拝師とは、文字上は「師を拝する」という意味には違いないが、そこに存在している内容はとても意味深いものだ。学生の立場とでは指導内容が全く違ってくる、などと言うのは外見的な些細なことでしかない。その真の意味は、拝師を許される老師と「共に在る」ことにより師弟の絆が深く強められていくことにあり、それによって言葉や形にすることの出来ない「無形の内容」に至るまで、正しく伝承していく事を可能とすることにあるのである。

 禅にも、「以心伝心」「教外別伝」「不立文字」「拈華微笑」などという言葉がある。
 本当に大切なものは、口伝の言葉や秘伝書に書き記された文字といった、眼に見えるような形では決して伝承され得ず、師の心から弟子の心へ、伝える者の存在自体から受け取る者の存在自体へと、直接的に伝承されるものであるという教えであるが、それは仏教に限らず、高度な武術体系を有する武門の伝承に於いても、まったく同じことであった。

 宏隆はずっと、そのことについて考えていた。
 宏隆も、小さい頃からずっと京都の大徳寺などに参禅を繰り返してきている。そこで禅師によって語られる「教外別伝」や「不立文字」などの内容は、宏隆にとっても大変興味深い、深い禅の教えであった。

 言葉や文字によらず、心から心へと、直接伝えられること──────────
 中でも、大きく彼の心に響いて止まなかったのは、「拈華微笑」の説話であった。
 
 その「拈華微笑(ねんげみしょう)」の話とは──────────

 ある日、釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)で大勢の人々の前で説法をするために入場してきたとき、ただ黙って蓮の華を手にして歩いてきた。
 そして、いつもの説法の位置に立ち止まると、おもむろにその華を拈って(ひねって=指で摘んで回したり、向きを変えたりしながら)差し出し、ただ黙って人々にそれを示した。
 居合わせた人々は誰ひとりその意味が分からず、ただシーンとして、釈尊が語りはじめるのを待っていたが、釈尊はただの一言も喋らない。
 しかし大衆の中でただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう=マハー・カーシャパ)という弟子だけが、顔をクシャクシャにして笑っていた。
 釈尊はそれを見つけて、
『言葉で説いて伝えるべきことは既に多くの人たちに伝えた。しかし、言葉には出来ない、もっと大切なことを、たった今、この摩訶迦葉に、そのすべてを伝えることが出来た』 
───────と言われた。

 この言い伝えを「拈華微笑」という。

 「拈華微笑」の故事は、釈迦の死の直前に書かれた経典である大般涅槃経などの解釈では、釈尊の死の直前期に迦葉が側におらず、釈迦の臨終にも居合わせていなかったことなどが指摘され、この伝説を史実に反するものとする研究もあるが、紀元前何百年という古い時代に、仏陀釈尊の周辺に起こった事柄の真偽よりも、釈迦や仏教がその伝説を以て示そうとした、決して言葉や文字としては表現され得ない、偉大なものの「内容」が如何にして正しく伝承されるべきかと言うことこそが、史実を超えて大切にされなくてはならないのだと思える。

 本当の意味での、トータルな伝承、というものが存在する世界──────────
 それは、言葉や形では決して十全に伝えきれないものを、丸ごと、その存在自体、そのものを次世代へ直截伝達するための、最も偉大な方法なのだと思える。
 
 そして、大いなる武藝文化を継承する人に就いて、その正式な弟子になるということは、自分がそのような形で伝承を受け取るべき立場となる、ということでもあった。
 ただ単に伝統太極拳の真伝を修得するために秘伝の武術三昧に耽るだけでは、本物の弟子とは言えないのである。

 その「正式な伝承」という大きな責任を、自分がきちんと果たせるのか・・・・
 宏隆は、そのことについて、少なからず不安を持っていた。
 言葉で表されたものであれば、もしかすれば、或いは自分にも努力次第では可能なのかもしれない、と思う。秘伝書を良く読んで学習と研究に励めば、きっと理解できることだって多くあるに違いないのだ。

 しかし、あの霊鷲山での摩訶迦葉のように、言葉に出来ないものを師から全的に伝えられるようになるには、一体どうすれば良いのか・・・・

 それについての不安が、宏隆にはずっとつきまとっていたのである。


「次に、王永斌(おうえいひん)老師より、入門に際してのお言葉がある───────」

 ああ、ついにこの時がやってきたのだ、と宏隆は思った。
 ただの学生であった立場から、今日、あらためて正式な入門者として王老師に拝師するのである。これから、何がどう変わってゆくのか・・・・

 叩頭して頭を下げたまま、王老師の足元をじっと見つめながら、師の言葉を待つ。
 期待と不安とが入り混じったまま静かに佇んでいると、神戸南京町の秘密の地下道場で、王老師に就いて学んだ日々が走馬燈のようにグルグルと頭の中を巡ってくる。

「さ、顔を上げなさい────────────」

 師の優しい声が頭上に響き、宏隆は面(おもて)を上げた。

「この度は大変な目に遭わせてしまったが、よく無事で帰って来てくれた。
 私は伝承を託す立場として、また父君から君をお預かりしている立場として、無事にこの日を迎えることが出来たことを、とても嬉しく思う」

 宏隆によく分かるように、師は流暢な英語でそう語りかけた。
 考えてみれば、中華伝統武術への入門式であるというのに、平然と英語で語りかけられるということはある意味では可笑しなことかもしれない。しかし、この台湾・玄洋會にあっては、そのようなことには全く拘らず、常に開かれた方へ、つまらぬ外形よりも確かな内容の方へと物事が捉えられ、実際的に進んでいくことばかりだと感じられる。

「大変ご心配をおかけしました。玄洋會の皆さまのご尽力のお陰で、北朝鮮特殊部隊による拉致からこのように無事に帰ってくることが出来ました。本当にありがとうございました」

「本当によかった。しかし、今回の事件では、まるで武漢班チームの一員のような活躍ぶりだったと聞いているが?」

「いえ、活躍ではありません。ひたすらご迷惑をお掛けするばかりでした」

「ははは・・・まあ兎も角も、無事に戻ったのだから、よかった。
 しかし、いつどんな場合でも、決して自分の命を粗末にしてはならない。人間が真に取るべき行動や義勇の精神と、無謀な行為、暴勇とは全く異なるものだからね」

「はい、肝に銘じておきます」

「・・さて、私が受け継ぐ太極門に入門するための準備は、もうできたかね?」

「王老師の許で本格的に修行をさせて頂く覚悟はありますが、かのマハー・カーシャパが、釈尊の差し出す華に笑えたようには、まだ準備が出来ておりません」

「ん?──────────── ほう・・はははは・・・・・・」

 祭壇の前に居並ぶ他の老師たちも、その言葉を聞いて、顔を見合わせて微笑んでいる。

「君はまだ若いのに、いろんなことを学んできているようだね。これでは、私たちの側からは、取り立ててあまり言うことがなさそうなほどだ」

「済みません。余計なことを申し上げて・・・失礼しました」

「いや、構わないよ。その方が、此方の人たちも君という人間が分かるというものだ」

「はい」

「では、この度の入門に際して、大切なことを言っておこう────────────」

「はい、謹んでお話を伺います」

「入門というのは、言うまでもなく、門から内側へ入っていくことをいう。
 門というのは、ここでは太極拳という伝統武藝の門のことだが、門があるということは、
 その門の外側と、門の内側とがある、ということだ────────────」

「はい・・・・」

「門の外では、大勢の人たちが、その門が開かれるのを待っている。
 門の内側の世界が、如何に素晴らしいかということを聞きつけて、
 その門を潜って、門の内側に入りたいと希み求めながら、
 その門が開かれるのを今か今かと待っている人たちは、この世界に山ほど存在している。

 しかし、その門を潜って、中に入ることのできる人は、とても希だ。
 ただ単に、その門を見つけて門前へやって来ても、門は決して開かれはしない。
 自分で開こうと、苦心惨憺してあがいてもどうにもならないし、
 思い切り門を叩いて、内に向かって誰かを呼んでみても、決して門は開かれない。
 どのような門であっても、内側にしか開かれないように出来ているし、
 その門が開かれること自体、とても希なことだからだ。
 
 その門は、外に居る人の ”準備” が出来たときにだけ、そっと開かれる。

 それは、どのような準備なのだろうか────────────
 ただ単に、自分がその気になっているくらいでは、準備とは言えない。
 どれほど強烈に、強い情熱を以てその門の内側に入りたいと願っていたとしても、
 そんなものでは、まったく準備とは言えない。
 
 その門は、春になって花が花弁を開くように、自然に開かれるのだ。
 どの花も、ただ開く準備をしているだけで、
 自分で開こうと努力している花など、どこにもいない。
 それは、時が至れば、自然に開くような仕組みになっているのだ。

 長い冬のあいだ、北風に、枝という枝をすべて打ち震わせながら、
 夏には青々と萌えていた葉が、嘘のようにすべて枯れ落ち、
 死に絶えたように、もはや一枚の葉も、ひとつの木の芽も見当たらない。

 もはや骸(むくろ)としか思えないような、枯れ果てた一本の樹が、凍えながら、
 弱々しい些(すくな)い陽差しを愛しむように受け取り、
 大地からの眼に見えない恵みを閑かに、密やかに受け取りながら、
 根気よく、春が来るのを待って、
 待って、待って、ずうっと待ち続けて────────────

 少しずつ、少しずつ、その樹の中で花が開くための力を蓄えては、
 静かに、おし黙ったまま、またひっそりと蓄えて・・・

 ほんの小さな、とても小さな芽の中に、
 幾重もの花弁を、堅く、強く重ねていきながら、
 暖かくなる日を、ただじっと待つ・・・

 やがて────────────
 さあ、その樹は、もういつでも花が開くための準備が出来た。
 冬という季節は、新しく花が開くための時間として、どうしても必要だった。
 青々とした葉を一枚残らず黄色く枯らせて落とし、自ら骸(むくろ)のようにしたのは、
 ふたたび初めから、また一から新しく生まれ変わったように、
 自分自身の中で、何もかもやり直すためだった。
 
 ある日────────────
 ほんの少し、大地の温もりが感じられるようになった頃に、
 小さな芽の中に、幾重にも堅く、堅く重ねて蔵(しま)われてあった花弁は、
 そっと、その蕾(つぼみ)を弛ませ、花として開き始める。
 自分が開くのではない。
 大自然が自分を導き、それを開かせてくれるのだ。

 それこそが、門が開かれるということだ。
 そのように、その人に門が開かれることを、入門というのだ────────────」



                                (つづく)



   *次回、連載小説「龍の道」 第63回の掲載は、4月27日(水)の予定です
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2011年03月23日

連載小説「龍の道」 第61回




 第61回 入 門(2)


 式場の正面には純白の絹布が敷かれた祭壇が設けられ、中央には大振りの位牌が三つ置かれている。日本のものとは違って、上部が丸く下部が四角く作られた、「天円地方」という独自の宇宙観が表されているものだ。
 祭壇の一番手前の台には、三巻の巻子(かんす=巻物)と、柄(つか)や鞘(さや)に見事な意匠の龍の細工が施された短刀、それに長さが15センチほどの大理石の塊が絹張りの箱と共に置かれている。多分それは大型の印章かもしれないと宏隆は思った。
 祭壇の左右両脇には一対の幅(ふく)が掲げられてあり、誰の筆によるものか、達筆で力強い漢詩の墨跡が赤地に黒々と顕されている。
 漢詩の福の前には繊細な透かし彫りを施した高い背靠れの椅子が三脚ずつ置かれ、そこに絹の旗袍(チーパオ)を着た人が三人ずつ座っている。その六人の中にはもちろん、王老師や張大人の顔を見ることができる。

「これより、日本人・加藤宏隆の陳氏太極門入門式、及び、玄洋會への参入式を執り行う」

 張大人の横に座っている、顎髭を白く蓄えた老人が静かに椅子から立ち上がり、よく通る澄み切った声でそう宣言し、

「初めに、入門者は祖師祖霊および参集の導師に対し、三叩頭(さんこうとう)の礼をとりなさい」

 ────────────続けてそう言った。

 叩頭とは跪(ひざまず)いて頭を地に着け、深くお辞儀をすることである。三叩頭とはそれを三回行うことを意味している。
 宏隆は、陳中尉に教わったとおりに祭壇の前に跪いて額を床に付け、両手のひらで何かを受けるように頭上に掲げ、また立ち上がっては跪いて額(ぬか)ずくことを三回、丁寧に繰り返した。
 
「日本人、天孫・天児屋根命(あめのこやねのみこと)に発する、古の大和王権・中臣連(なかとみのむらじ)鎌足、不比等、房前(ふささき)より出る、北家藤原氏第五十一代、従五位の下・加藤隆興(たかおき)の孫にして、玄洋會特別顧問・加藤光興(みつおき)の第二子、藤原祥雲・加藤光次郎宏隆(ふじわらのしょううん・かとうこうじろうひろたか)とは、汝自身であることに相違ないか──────────」

 澄み切った声が更に高らかに、加藤家の系統と、宏隆の家系上の正式な名前を詠み上げて本人であることを確認した。このように、家系の内容を儀式の席上で詠み上げるということ自体、台湾の玄洋會が如何に日本人や日本文化を敬愛し、尊重しているかが分かる。

「はい、相違ありません────────────」

「汝は本日の入門式にあたり、六百年の伝統を誇る陳氏太極小架の正統を継承する王永斌(おう・えいひん)老師の許に於いて厳しい研鑽と弛まぬ修行に励み、己が生涯を懸けて、その道統を十全に受け継ぎ、さらなる研究と拳理発展に身を捧げる意志と覚悟が有るか」

「はい、ございます」

「では、その意(こころ)を込めて、再び祖師祖霊の位牌に三叩頭を捧げ、香を奉献せよ」

 言われた通りに、宏隆は三つの位牌の前に進み、日本の物より三倍ほども長さのある線香を一度に三本ずつ供えて、各々に三叩頭を捧げた。

「よろしい。汝の入門後は深遠なる太極武藝と併せて、仏教の法、老荘の道(TAO)、儒家の倫理礼節を学び修めなくてはならない。なお、この入門式に於いては、特に仏陀の法を学ぶために在家受戒して仏道に帰依し、また道教の三戒傳授と斎戒儀礼を受けなければならないが、汝はそれらを受け容れる用意があるか」

「───────はい、謹んでお受け致します」

 気がつくと、いま宏隆が供えた線香とは異なる芳香が、辺り一面に漂いはじめている。
 部屋の横隅にある扉から、キリスト教の典礼で使われるような吊り下げ式の香炉を大きく振りながら歩いてきた僧が、宏隆の周りを時計回りに三回まわって、辺り一面に香を薫き込めた。

「では、先ずこれより授戒の儀と三宝帰依(さんぼうきえ)の儀を行う。
 授戒は、元・少林寺の高僧、権大教師(ごんだいきょうし)の徳海こと、李星明(り・せいめい)を戒和上(かいわじょう)として執り行われる」

 「授戒」とは、仏門に入る者に師僧が仏法の戒律を授けることであり、それを受ける側にとっては、同じ発音でも「受戒」という字になる。
 受戒は仏陀が説く法の教えに帰依する証しとして、出家在家の別なく戒律を守ることを誓うものだが、受戒宣誓の内容は大乗仏教、小乗仏教によっても差異があり、小乗の場合は授戒の師を必要とし、場合によっては「三師七証」と言って、三人の師と七人の証人のもとで授戒式が行われる。
 宏隆の場合は、玄洋會が陳家溝を通じて大乗仏教の嵩山少林寺と縁があるため、ひとりの「戒和上」と呼ばれる授戒師によって執り行われるのである。

 オレンジ色の僧衣に身を包んだ、背の高い、よく鍛えられた筋肉が隆々とした坊主頭の人を先頭に、その後ろから五人の僧侶が磬(けい)や笙(しょう)が奏でる音と共に、手にした鐘を鳴らし、読経を唱和しながら入場してくる。
 その音声(おんじょう)は混声合唱として、美しく厳かに会場に響きわたってゆく。

 やがて、先頭の僧が宏隆の前に立つと読経の音声が止み、他の僧が先頭の僧を中心に宏隆の周りをグルリと取り囲むようにして立った。この僧こそ、戒和上に違いなかった。

「───────入門者は、接足作礼して、帰依真言を唱えよ」

 接足作礼(せっそくさらい)とは、五体投地とも呼ばれる、仏教に帰依する者が行う最高の敬礼法である。作礼を行う者は両膝と両肘を着けて地に伏し、さらに合掌をして頭を地に着ける。
 
「Buddham Saranam Gacchami・・・・・
 ブッダァーム、シャラナァーム、ガッチャーミィー・・・」

「Dhammam Saranam Gacchami・・・・
 ダンマァーム、シャラナァーム、ガッチャーミィー・・・」

「Sangham Saranam Gacchami・・・・
 サンガァーム、シャラナァーム、ガッチャーミィー・・・」

 仏陀・仏法・僧伽(そうぎゃ)の三つの仏宝に帰依することを「三宝帰依」という。
 仏陀とは開悟して光明を得た人を指し、仏法とは悟りを開いた人が得た真理とその人によって説かれる道のこと、僧伽とは光明を得た人が営む精舎道場のことである。
 三宝帰依は、それら三つの仏宝を己の拠り所とし、仏法の力にすがって修行していくことを誓うことをいう。

 宏隆は、古代仏教語の三宝帰依の真言(マントラ)を朗々と詠じつつ、接足作礼を三度、丁寧に行った。宏隆が詠じるその真言には、どこか心安らぐ音楽を聴いているような、そんな響きがある。宏隆が三宝のひとつひとつを朗々と詠じる度に、傍らでチベッタン・ベルという金属の円盤形の楽器が高らかに、チリィーン、チリィーンと打ち鳴らされた。

「これより、受戒者に剃髪の礼を授ける────────────」

 先ほどの吊り下げ式の香炉を持った僧のところへ歩んで行き、片膝を着いて跪き、両掌を頭上に受ける形を取って、その掌に香をいただき、その香煙を手足から身体中に振り掛けるようにして清める。
 清め終わると、香炉が祭壇へ向かう緋毛氈の中央に置かれ、宏隆はその香炉を左足から跨いで祭壇へと歩を進めた。祭壇では授戒師である元少林寺の高僧が待っている。

「受戒者は、戒和上に叩頭────────────」
 
 宏隆が授戒師の前で叩頭すると、戒和上が読経しながら細いスティックのようなもので清水(せいすい)を頭に振り掛け、剃刀(かみそり)の刃で頭髪に触れた。実際に剃るわけではなく、剃刀を髪に当てることで剃髪の儀式とするのである。
 
「加藤宏隆、汝が仏門に入った証しとして、茲(ここ)に戒名を与える」

 授戒師から差し出された白木の札には、『光徳(こうとく)』と書かれてあった。
 ”光” は父の「光興」という名や、宏隆の家系上の名前である「光次郎」から取った文字であり、 "徳" は少林寺高僧の法名に代々用いられる文字でもある。

「────────────ありがとうございます」

 戒名は、一般には僧が死者を弔う際につける名として知られているが、本来の意味は仏門に帰依した証しとして受戒した出家者、在家者に与えられる法名のことをいう。


「次に、道教龍門派、玉皇山・福星道観の都監、王葛玄による三戒傳授と斎戒儀礼を行う」

 道士の位階は、方丈、住持、総理、都監、八大執事などがあるが、都監(Dou-jian)は上から四つ目の階級にあたり、八人の執事や道観(道教寺院)内の道士の監督役を司る役職である。
 三戒傳授とは一体どんなことをするのかと思っていたら、道教を学ぶために最も基本的な三つの戒めを書いた経典と、道観から出された護神符を授かるものであった。

 斎戒儀礼とは、人の穢れを取り去る儀式である。道教の流派によっても様々な方法があるが、いつの間にかやって来た五人の道士が円陣を組んで宏隆を取り囲み、呪文のようなものを唱えながら、グルグルと周りを回り始めた。

「何だ、これは────────────?」

 やがて、しばらくすると、不思議な感覚が身体中を巡ってくる。
 中国独自の気功療法では、病を患っている人に「気を通す」という事が行われると聞いたことがあるが、もしかすると、これがそうなのだろうかとも思う。

 グルグルと自分の周りを回り続けているのかと思っていたら、ふと気付くと五人の道士たちは、先ほどとは違う、変わった歩き方をしている。

「不思議だ────────────まるで川の中の飛び石を渡るかのような・・・
 そうだ、これは基隆の海軍基地で見た、黄さんの、八卦掌の歩き方だ!!」

 宏隆は、海軍基地のリングで、宗少尉が黃准尉と戦った時のことを思い出した。
 まるで水の上を歩いているような、一歩、二歩と歩く度に身体の前後左右が入れ替わり、渦巻いてはサラリと流れる、宗少尉を手玉に取った、あの八卦掌を見た時の驚きと感動がまざまざと甦ってきたのである。
 あのとき、黃の八卦掌に驚く宏隆に、戦い方ではなく歩き方、つまり歩法(bu-fa)自体に秘密があるのだ、と陳中尉は言った。以来宏隆は黃の動きを思い出しては、見様見真似でその歩法の練習をし、先日拉致された際には、その技法をそっくり真似て使ってもみた。
 それほどまでに、宏隆には黃の八卦掌が脳裏に焼き付いていたのである。

 宏隆は道教の儀礼を受けている最中であることも忘れ、ただその歩法に見入っていた。

「──────────ははは、よほどこの歩法に興味がおありのようですね」

 正面中央に座っていた道教の授戒師、王葛玄が、宏隆に声を掛けた。

「・・あ、失礼しました。儀式の最中なのに、つい──────────」

「いやいや、構いませんよ。それに魅せられて凝視してしまうことは、武術を修練する者にとっては当たり前のことですし、そんなふうに無為自然の方が、本当の意味での儀式になる」

「まるで八卦掌のように思えて、とても興味を持ちました」

「これは、罡歩(Gang-bu)と呼ばれるもので、私たちの修行法にある、福星道観の独自の歩き方です」

「罡歩(Gang-bu=こうほ)──────────?」

「そう、罡という字は、北斗七星を意味しています。この歩き方は "七星歩" とも ”九宮歩” とも言って、北斗七星の形をなぞって歩きながら九宮のすべてを整えるものです。
 八卦掌にも、これが伝わったと言われています」

 清朝後期、紫禁城の宦官であった董海川が創始したと言われる八卦掌は、道教を源流とするという説も有力であるが、いま、この五人の道士たちの不思議な歩き方を見れば、それもなるほど、と頷ける。

「うわぁ、勉強することがたくさんあるなぁ・・・・」

 不思議な歩法で周りを巡っていた僧たちは、いつの間にか宏隆の後方で、片膝を床に着けて整列している。

「貴方は道士になるわけではないので、道教については特に何も学ぶ必要がありません。
道教と老荘思想は本来別のものなのです。しかし、老荘の教え自体はよく味わって学ぶべきです。老荘の教えは中国では禅宗をはじめ、儒教・朱子学にも大きな影響を与えています」

「はい──────────」

「今、この五人の道士たちが、貴方にたっぷりと ”氣” を通しました。これによって、今後の様々な練功を受け取る力が格段に高まり、これまでと大きく違ってくることでしょう」

「ありがとうございます」

「ただ────────────」

「え、ただ・・・・?」

「ただ、肝氣が少し弱っているようです」

「肝の氣────────────?」

「そう、小さい頃から、さんざんケンカ三昧に明け暮れたといいますし、この度の拉致に遭ったストレスなどがその原因でしょう。戦いを好む人は、よく肝氣を患うのです」

「そうなのですか・・・・・・」

「いずれ王老師から詳しく学ぶことになるでしょうが、身体の一部にでも慢性的な滞りがあると、人はトータルには何かを学んだり修めたりしていくことが出来ません。気を通すことに加え、秘伝の整体法と鍼で、それを改善しなくてはなりません」

「ハリとは・・・・鍼灸の、鍼のことですか?」

「そうです。たとえ貴方の身体に何も問題が無くても、高度な伝承を学ぶ修行者に相応しい構造にするために整体術を施し、身体中に鍼を打って新しい流れをつくるよう、此処に居られる王老師と張大人より指示されています」

「身体に、新しい流れをつくる────────────」
 
「そのとおり、これまでの貴方とは全く違った、新しい身体の流れが始まるのです」

「この儀式で、それらを行うのですか?」

「いいえ、此処では時間が足りないので、後日改めて行います」

「加えて、易筋経や洗髄経の行法も、たっぷりと学ぶことになる──────────」

 先ほど戒和上として宏隆に授戒を与えた、元少林寺の高僧・徳海が静かに言った。

「易筋経や、洗髄経・・・・」

「そうだ、達磨大師が嵩山少林寺に伝えた、人間の身体を根本から変える行法だ。これを知る者はそうザラには居ない・・・もっとも、香港や上海で売っているインチキ本を読んで、誤ったことを勉強した人は世界中に巨万(ごまん)と居るがね!、ワハハハハ・・・!!」

「まったく、その通りだ、わはははは!!・・・・・」

 福星道観の授戒師・王葛玄も、一緒に肩を揺すって高らかに笑った。

 入門式と参入式の儀式が、このように和やかなムードで行われるとは、宏隆には想像も付かなかったが、授戒師たちが大笑いをしても、祭壇前の老師たちがそれに応じてにこやかに微笑んでいても、儀式自体の厳粛さは何も変わらない。
 これは決して形式だけのものではない、儀式を行う側も、受ける側も、参集する人たちの意(こころ)がひとつになった、内容の濃い本物の儀式なのだと、宏隆はあらためて思った。
 

                                (つづく)



   *次回、連載小説「龍の道」 第62回の掲載は、4月13日(水)の予定です



   【 参考資料:武當山の道教寺院 】

      


      


      


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