門人随想

2022年09月12日

門人随想「歌と詩と」

                    by 拝師正式門人 西川 敦玄



 太極武藝館で太極拳の練功をしていくことは難しい・・・と思う。多分、門人の多くはそう感じているはずである。当門の門下生のブログや、そのコメントをみればよく分かる。そこには、自己の至らなさ、反省の弁がそこかしこに表現されている。もう反省と決意が銀河の星のごとくに連なっている。もちろん、僕もその星々を形成している。ブログのコメントを遠くから眺めてみる。どのブログのコメントにも同じ夜空が広がっている。
 皆はそうは思わないかな・・・・。
 判で押したようなコメントを皆が片手間に書いているのか?そんなことはないと信じる。皆、真剣にコメントを書いて、結果同じ夜空となっている。
 稽古で、注意され、注意されても、改善しない。師父に易しく噛み含めて指導されても、理解できない。自分の問題だと指摘されて、必死に自己を変革しようと試みる。毎回、反省の弁とともに決意を述べる。我々は一体なにを反省しているのだろう。自分の理解が進まないことに真剣に浸ってみるといい。勿論浸るだけでは変わらない。苦しまなければ。自分の力ではどうしようもないところまで苦しまなければ。

 最近、師父の言葉が、ふっと入ってくることがある。そうして腑に落ちるようになってきた。
 そういえば、今年いただいた太極武藝館のカレンダーは師父の言葉で満ちあふれていた。其れを観ていると、私たちに対して言われたことが甦ってくる。

 「本物の音楽を楽しみなさい。」
 「料理もしてみようか。それは、残り物を使ったような発想でするのではないよ。」
 「芸術に親しみなさい。」
 「どんな絵が好きかな。」
 「コーヒーはどんなのが好きかね。」

 僕は知らなかった。自分の好み嗜好を聞かれているのかと勘違いをしていた。「自分の好みがはっきり理解できているか」と問われているのかとさえ思った。また、絵を描いたり楽器を奏でたりすることが太極拳の上達の秘訣であるとも思い、絵心や音楽センスがない自分に絶望したりもした。
 そうして、反省という名のもとに自責の観念だけが増えていく、満ちていく。ダメだダメだと自分を苦しめ、家族を苦しめる。周囲に迷惑を振りまく。もう限界であると思った。家族も壊れていって、全てを捨ててしまえと思った。太極拳がそうさせているのかと疑った。僕の自我は膨らみ破裂寸前であった。早急になんとかしなければ、自分が壊れるか、周りが壊れるか。
 僕には太極拳は捨てられない。自我を安心させるためには、自分が思いこんでいる太極拳のようなもの以外の全てが崩壊してしまうかもしれなかった。幸い僕は、踏みとどまることができた。漸くそこで、自我と異なるところに目を向けることができた。いままで、必死に自分であると思っていたものにではなく、自分ではないところに真実があると実感することができた。
 芸術は、その場所でこそ花開く。音楽もそこに流れている。料理もそこでされるのだ。自我が入り込む余地がないのではないのだ。そもそも関わりが無い場所なのだ。いや、自我は関わってはいるか。勿論お互いに影響はされるだろう。しかし、芸術が花開く土壌は自我という土壌ではない。この年になって漸くその事に気付かされた。
 とっても不思議なことに、自分が変わったわけでもないのに。その事に気付いただけなのに、人間関係も変化が起きてくる。自分が変わるのかもしれないが、相手も変わる。本当に実感として相手が変わる。周囲が変わる。
 でも、そこで有頂天になってはいけない。生きて働くその場所は、自分の好きな様にすることはできない。そして、同様に自分自身をも好きな様にすることができないことを知る。太極拳も同様である。それらを、ぼくが好きな様にはすることができないことが、漸く僕の腑に落ちた。
 好きな様なことが出来ないそれ、そこへのアプローチを表現する方法はないか・・・・。そこにある、そこで生きているという事への分かりやすい表現はないか。言ってみれば、それは自然である。道である。建築物であり、光であり、音である。はっと思う。私たちは古来、短歌俳句をもってそれを言葉として表現してきたのではなかっただろうか。詩人のみならず、高名な僧侶もそういったものを残している。
 カレンダーの中に師父の詠まれた俳句がある。師父は書もされるし、俳句も詠まれる。僕は俳句をはじめとする詩は、その場所に生きている事、そして自分を歌として表す芸術だと理解した。そうする事で、初めてその芸術を楽しみ、また真実に生きる事ができると思った。そう、そこで生きる事は創造性に満ちあふれている。
 
 去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの
      
 有名な高浜虚子の俳句だが、これなど自我の箱庭の中で生きていては詠めないものではなかろうか。棒の如きものは自我の中では生まれてこないものだと思う。それは解釈を拒絶している。
 また、道元禅師の「本来ノ面目」という題で読まれた歌に

 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷し(すずし)かりけり

 という歌がある。題と歌と合わせてみると良いと思う。自然をそのままに認めている。当たり前のところに立ち上がってくるものがある。立ち上がるそのところは、決して自分の中ではない。道元禅師は「これが本来の面目」と言われたのかしらんとも思う。

 最近読み始めた詩集がある。高村光太郎の詩集である。とても、誠実に純情に詩が書かれている。ここで、紹介させてもらえればと思う。


 手紙に添へて
どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
中にかはいい部屋を揃へてゐるのでせう
どうして蜜柑は葡萄でなく
葡萄は蜜柑でないのでせう
世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません
何にも生きる意味は無いときでさへ
この美はあなたを引きとめるでせう
たつた一度何かを新しく見てください
あなたの心に美がのりうつると
あなたの眼は時間の裏空間をも見ます
どんなに切なく辛く悲しい日にも
この美はあなたの味方になります
仮の身がしんじつの身になります
チルチルはダイヤモンドを廻します
あなたの内部のボタンをちよつと押して
もう一度その蜜柑をよく見て下さい


 学生時代の教科書以来か、かれの詩集を本屋でふと手にとってみて、その詩にうたれた。僕には解説する能力もないが、あるいはこの詩にかいてあることが言いたかったのかもしれない。
 そして、もう一つ小学校の教科書にもあるかもしれない有名な詩。今、改めて読んで涙あふれてきた。


 道程 
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


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2022年08月13日

門人随想「沁みてくるもの」

                    by 拝師正式門人 松久 宗玄



「稽古が沁みてきますね・・・」
稽古の終わり際に、とある門人の方が呟かれた言葉には、ハッとさせられる稽古の本質が感じられました。

太極拳の稽古の難しさには、おそらく全ての門人が頭を抱えている事かと思いますが、その中で、その沁みてくる感覚を味わう事が出来ているか、否かには、天地の違いがあると思いました。

師父の伝えられる太極拳の稽古体系は、本来は解釈の余地が無いレベルで完成されていますし、その要訣は明確に提示されているのですが、その教えを表面的になぞってみても、同じ様には再現できず、形を真似れど、その中身は判然とせず、謎は深まるばかりとなってしまいます。

師父曰く、
太極拳は暗号だ。稽古体系と要訣は暗号を解く為のコードブックだ。
太極拳は詩だ。行間を読み解ける詩情がないと理解は難しい。
太極拳は数学だ。論理的に記述が可能な法則性に基づいている。
太極拳は音楽だ。JAZZのアウトで戦うのだ。
太極拳は宇宙の法則だ。自然の「ことわり」なのだよ・・・

その言葉の奔流に圧倒されつつ、益々、謎は深まっていきます・・・

私自身、師父の言葉も、太極拳の稽古体系も、その一つ一つが区別され、分かれたものとして捉え、読み解こうとして、ことごとく挫折してきました。
提示されているのに、見えない、分からない事に悩み続ける状態です。
よく例えに挙げられる、月を目指したい筈なのに、月を指す「指」を気にする錯誤に、何度ハマり込んだことでしょう。

一方、冒頭の「沁みてくる」と語られた門人の方は、「日々が新鮮な驚きの連続です」とも語られていました。
自分の中に発見があり、素直にその味わいを楽しんでいる風情でした。

その両者の違いは何にあるのでしょうか?
その一つの鍵として、「部分」と「全体」があると思います。

科学的なアプローチの起点は、渾然一体としてよく分からない現実世界を、単純な要素に分解して調べることから始まります。「分ける」ことで、差異や作用を際立たせる事が可能となり、要素同士を比較する事で理解を進めることが可能になるからです。
その細かく世界を切り分けていく道具として、言葉が生み出され、大いに発展、発達しました。
言葉で「分ける」ことが、「分かる」= 科学的理解に繋がっているのだと思います。

現代人は、科学者であるかどうかに関わらず、既に科学的に切り分けられた世界に生きてしまっていると思います。
皆が皆、言葉で事物を切り、単純化して物事を理解する作法が身に付いてしまっています。
それ故に、神も、神秘も、全体性も、バラバラにしてしまって、逆に物事の意味や価値が良く分からない状況にも陥っている、とも思われます。

この言葉で切り分けて「分かった」気になれる点が、現代人に太極拳の理解が難しい理由の一つだと思われます。
先の師父の言葉の奔流は、切り分けて単純化するアプローチでは歯が立たない複雑性に充ちています。
また、太極拳を含む芸術の世界では、「高い」あるいは「深い」と表現される、意味や価値の、垂直方向の重層性が認められます。
高くて深い対象を、単純に言葉で「部分」に切り分ける行為は、高きを崩し、深さを埋めて、平坦にしていくアプローチであり、むしろ価値を無価値に近付けているのだと思います。

これらの事から、意味や価値は「部分」には少なく、「全体」にこそ属することも見えてきます。
人間の優れた点は、バラバラにする事も出来れば、それらを繋げて再構成する事も出来る点だと思います。
言葉においても、文字一つ、単語、文、文章と、繋げることで意味性が高まります。
「部分」が法則性を持って「再構築」あるいは「統合」される事で、その「関係性」の中に意味や価値が宿るのだと思われます。
この「全体」を「再構築/統合」する働きが、我々には圧倒的に足りないのだと思います。

冒頭にある「沁みてくる」ものを味わう事が出来る感性は、「全体性」が働く中で生きられているからではないかと思われました。
「全体性」の中で「分かる」ことが起これば、その「全体性」はより高く、より深く、より複雑な「関係性」を生じ、その新たな「関係性」の中に、新たに立ち現れる意味性こそが、「沁みてくる」味わいではないかと思われます。

師父が「太極拳は大人の拳法だ」と述べられた事も思い起こされます。
この意味は、人生の辛酸も舐め、清濁合わせて呑み干し、酸いも甘いも噛み分ける事が出来るまで成熟しないと、いつまでも人間は「部分」を追いかけて、「全体」に目が向けられないもの、と今ならその言葉を味わうことが出来ます。

先ずは”違いがわかる男”を目指して、日々、日常においてこそ、味わい深いものとして物事に関われるよう、日々の生活を整えていきたいと思います。
                              (了)


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2022年07月18日

特別強化訓練 感想文寄稿 其の二

   『強化訓練に参加して』

                    by 池田善美
(拳學研究會クラス)



今回の強化訓練に参加させていただき、ありがとうございました。
またこの強化訓練にあたり、入念な準備と様々なご配慮に心から感謝申し上げます。
お陰さまで、皆さんの半分の時間ではありますが乗り越えることができました。
ありがとうございました。

私はこのような研究会の訓練には初めて参加させて頂きました。
一般的な運動能力に欠けていることは、コンプレックスでありながら鍛えもせずそのままにしてきました。
そんな私が太極拳なら動くことができ、私の人生で唯一続けていかれることでした。
しかし、その太極拳で必要とされる練功の中には苦手なことが多々あり、その一つが受け身でした。
蹴りでも勢いでもなく、身体を使うことを要求されますが、蹴りや勢いを使っても出来ない私は、身体を使うという正しいやり方にさえ向かい合うことができず、「無理」という一言で自分から遠ざけていたのだと思います。
スキーに行って、滑り降りることはできても転んだ時に対処できず、若い女子たちの冷たい視線を浴びながらジタバタしていた時の状況を思い出します。
グループでテントを設営した時のように、きちんと説明書を広げて、全体像を把握し必要なことを順を追って着実に行っていくことは、苦手な練功を行っていく上でも当てはまることで、玄花宗師のお手本と基本という説明書を頼りに、出来なくてもいいから身体を使うとはどういうことなのかを理解していくことなのだと思いました。
そうして、出来ないことに対して先送りせず、ひとつひとつ向かい合っていくことは準備であり、その準備の積み重ねが想定外の状況に対処できる力なのだと思いました。
私の目標に「どんな状況でも冷静でいられること」がありますが、それはただ常に自分を観るということだけではなく、常に自分への準備をすることなのだと思いました。
今回の強化訓練もそうですが、師父や玄花宗師は式典や講習会などの際には決まって入念な準備をされます。
決して行き当たりばったりなことはしません。あらゆることを考えられてとことん準備をされます。
それはきっと常にそのように生きていらっしゃるからなのだと思いました。
それが、きちんと生きる!ということと繋がるのだと思いました。

また、出来る出来ないではなく、チャレンジしていくこと自体が力になるということを実感いたしました。
正式弟子の方々の稽古に向かっていく強さは、このようなことを繰り返し経験されているからなのだと、やはり凄いなあと思いました。

二つ目の目標に「対練の際の相手との関わり」としましたが、今まで、相手と合わせて基本の動きで・・などの考え方で対練をしてきま
したが、最終的には相手を倒したいという思いがあることがわかりました。
自分ではそんなことはないと思っていたのですが、日常の人との関わりの中で、「どうしてこういうふうに出来ないのか・・」と自分を通そうとする強さがあると、思い当たることがあったからです。
初日にご指導いただいた、「人はどうしたら崩れるのか、崩そうとするのではなく、どうしたら崩れるのか探していく、相手が立てるところを探していく・・・」この最後の言葉は、初めて耳にする私の発想にはないもので衝撃でした。
私たちがやっている対練では、倒しにいこうとすることではなく合わせることを重要とします。そこが深くて面白いなと思うのですが、その深さはまさに単純なものではないのだと思いました。
人は人との関係により成長していくのだと思うので、この太極拳は本当に生き方や精神がそのまま反映されるのだと改めて感じました。

そして、身体を使うということの認識の違いを思い知らされました。
今まで、”基本に則った構造による動き”などと思っていましたが、私の考えはなんかチマチマしたちっぽけなものに思えたのです。
現に何も動けないから!!
もっと身体全部を使うということなのだと、人間本来の動きの大きさなのだと思いました。
道場で稽古していると、目と耳から情報が入り頭で考えることが主になっているようだと思いました。
アイマスクをして対練した時の感覚の違いには驚きました。まるで頭が解放されて今まで止まっていたものが動き始めたようでした。
野外での活動は、特に川に入っての動きは目と耳だけではなく皮膚や鼻、足裏の感覚、あらゆるものが眠りから覚めたように機能し始めてとても新鮮でした。
道場での稽古は、次に足を踏み出す場所に何も不安はなく、なんと平和な場所での稽古なのだろうというのが川から上がって思ったことでした。
神社の山歩きも、歩く場所により落ち葉でふかふかのところもあれば、粘土質で滑りそうなところ、あるいは途中に整備されたアスファルトの道もあり、その時々で身体が反応することに気づき大変面白かったです。

玄花宗師がそれぞれの体力に合わせて誘導してくださったこともとても感慨深くて、皆と同じに動けることではなく、やはり理解していくことなのだと改めて思いました。
しかしながら、皆と同じに動けない不足の部分は補っていかなければならず、これから時間はかかっても正しく身体を作っていこうと思います。
貴重な体験をさせていただきありがとうございました。


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2022年07月12日

特別強化訓練 感想文寄稿 其の一

   『特別訓練を終えて』

                    by 川山継玄
(日本玄門會)


「体の全関節は動いています。」
訓練の一番最初から、自分の今までの認識がひっくり返されたような衝撃を受けました。
稽古の中で、
「今どうでしたか?」
と自分の状態の振り返りを問われた時、まず
「〇〇が動いていないと思います。…………。」
と話を続けていたので、「えっ?」と一瞬違和感を覚えました。本来動いているはずの関節も自分の中では「動くもの」という認識が無く、
「動かないものを動かさなくちゃ!!」
と躍起になっていたのではないか、と初めて体に対する認識の違いに気付かされました。
冒頭でこの衝撃があったために、今ある認識はほぼほぼ間違いであろうから、まず現状の把握をし、瞬時に書き換えられる精神状態でありたい!と特別訓練モードに入れました。そして、
「もっと自分の身体に耳を傾けなさい」
と常々言われている事の意味を解りたいと思い、気持ちを新たに臨みました。

初日は、事前に基礎訓練や重いものを持っての階段の上り下りなどをご指導いただいていたおかげで、重心がとりやすく、立つ位置がスムーズに修正され、その位置を感じ取りながら稽古できました。
自分では「無理」「この位置はありえない」と諦めていた位置や動きを、自分の身体でもとることができる兆しを見出し、気づきと変化の楽しさや、自身の可能性の広がりを感じることができました。これを、早くに感じ取れたことが、「現状の把握から修正」の速度を速め、この訓練を最大限に有効なものとして導いてくれました。
只、この時点では、意識の使い方が、自分の身体の中に留まり、ある程度限定された範囲内でしか使えておらず、長期的かつ広範囲にわたるような全体性は見いだせていません。
翌日の野外訓練を、期待と不安に胸を膨らませながら、身体をケアして楽しみに待ちました。

二日目は、他にもたくさんの人がいたので「自分の生徒さんや娘達の友達がいるかもしれないな。」とは少し思いましたが、周囲の目を気にすることなく、自分の課題に向かえました。
今回は自然とチームの中に身をおく自分と対面する為、昨日よりも「自分勝手が許されない」という微緊張がありました。しかし、その状態の中でも、普段状況が変わると感じる焦りはほとんどなく、何があっても全ては自分の糧になるという確信があったので、昨日と同じく現状の把握を続け、自身・自然・チームとの関わりに全集中しました。
基礎訓練からテント張り・川での訓練・夜間訓練。普段体験することの無い、奥深い広がりを展開したこの日は、いかに普段限定された(その枠は自分自身で設定しているのですが)環境の中で、自己中心的で傲慢な態度で過ごしていたかに気付かされました。

テント張りでは、「素直な自分であれ!」「ごまかすな!」「こちらから積極的に関わり、解ろう・伝えようとすることから循環は起こる」と痛感。
川での稽古は、高い方から低い方に止まることなく法則に従ってそこに存在する川。
以前師父が、
「川は一瞬たりとも同じ水が流れる事はない。」
とおっしゃったことの意味を解りたく、自分が感じられる水の流れや風、周囲を取り巻くもの全てに意識を向け、その無理のなさや、存在するもの一つ一つの尊さを感じてみました。
法則に逆らうことなくそこにある物との関わりを持ったことで、自分の小ささを感じるとともに、もうすでに私達の身体は宇宙の一つとして存在し、身体には宇宙が存在していると感じました。
一つ一つ・一人一人の存在のユニークであり、とても尊いものだと認識が新たになり、自分自身と他者を大切にしようと誓いました。
愛野公園での訓練は、少し諦めそうな自分もいたのですが、がむしゃらにやってみる挑戦心が養われました。アスレチックを後ろ向き四つん這いでやりきったことは、形ややり方にとらわれることなく、出来る方のアドバイスに従い、「何が何でもやりきってやる!!」根性だけが頼みの綱でした。案外これがその後の自信にもつながりました。
夜間訓練もすごかったです。同じ山道でも、視界がハッキリしている時と夜間月明りのみが頼りの状態での心理状態・五感の研ぎ澄まされ方・自身の行動の違いが大きすぎて、びっくりしました。
夜間の山歩きでは、情報量が限定されていると、とても注意深く、自分の身体を最大限に使おうとすることに気付きました。そこには、限界を作っていては生き残れないという本能が働くかのような、リミッターを感じない状態を体感しました。これは、他の方々の足音や動きからも察することができ、大変興味深かったです。
舗装された道路や道場のマットの上が歩きづらいと感じられたことは、今までの常識を覆される大きな収穫です。

三日目は今までの集大成。では、実際に太極拳とはどうつながるのかをやってみると、意識の使われ方、放鬆の状態、自己修正の速さに大きな変化が表れており、びっくりしました。
この一連の流れは、三日間集中して行われたことでより明確に感じ取ることができ、変化として自分の中に表れたのだと思います。
普段の稽古でも玄花宗師が、綿密なる準備を重ねてご指導下さっているのですが、日常との狭間で自分自身に寛ぐことが困難になっていたのだと感じます。
実際に、外に出で内側を観る事の大切さを思い知らされた特別訓練となりました。
また、毎晩最後に行われた自己メンテナンスは、この訓練を最後まで行うことができた大きなカギになっています。今後も愛おしい自分をきちんとケアして、いつでも戦える状態であれるよう、心掛けます。

今回のこの訓練目標であった、
・自己管理、時間管理
・構造理解
・自己認識を明確にし、自己修正力を上げる
これらは、大きく改善され、収穫が大きかったと思います。
ただ、時間管理は未だしっくり来ておらず、改善の余地が多くあります。
今後、「どのような流れを目標にしているかを書き出し、準備する時間をとり、行動に繋げる」ようにしてみたいと思います。思いのほか、頭で流れを確認するだけになっているので、目視化がカギの一つではないかと思われます。

最後になりますが、この素晴らしい特別訓練を、お忙しい中ご準備下さり、ご指導下さり、本当に有難うございました。
ご準備・食事・現場での見守り・会場の提供と先導に関わってくださった皆様、一緒に訓練し切磋琢磨した研究会の皆様に心より感謝申し上げます。
この訓練を活かし、玄門太極拳の研究・継承に尽力する事こそご恩返しと思い、今後精進して参りたいと思います。
ありがとうございました。

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2022年02月11日

門人随想「科学的態度と道場 自分を疑うことから始まる太極拳」

                    by 拝師正式門人 阿部 玄明


【初めに】

 太極拳が上達するかしないかのポイントととして、どれだけ自分を観れるかが重要です。それは普段の稽古でもよく話題になるのですが、イマイチ自分を観るということに慣れてなく曖昧に捉えがちです。では、普段の日常生活ではどのように物事を観ているのかを「科学」という観点で整理し考察してみたところを今回の記事で紹介したいと思います。

 太極拳を科学的に論じるために、比較例としても科学を扱うニュースをテーマとして引用しようと思います。これから挙げる例は見方、考え方を判りやすく説明するために厳密性を求めずに大雑把に述べますので、”そういう考え方もあるよねっ!”という程度で軽く読み流していただきたいです。こういう説もある、ああいう説もあるなど諸説乱立している中で、一つの仮説を取り出してお話させていただきます。


【結局石油は無くなったの?、無くなるの?、いつ無くなるの?】

 今から何十年前のこと、石油ショックと呼ばれるイベントをきっかけとしてエネルギー危機が声高に叫ばれた時期に、あと50年くらいとかで石油が枯渇するという言説が科学的根拠をもって官産学そろって喧伝してました。それから50年たった今、石油は無くなるどころか地球上をどこを掘り出しても吹き出してきて無くなるどころではないというのが現状です。なぜかというと、当時の枯渇論の前提があって今の採掘技術や省エネルギー技術に進歩がなく、ただ現状のまま掘りつづけた場合にはという前提があったのです。その部分があまり(意図的に)フォーカスされずに石油が無くなることだけを切り出して、テレビや新聞や教育の現場で強烈な印象を植え付けられ続けたのです。
 その後技術が進歩し、より広い範囲、より深い地層からも石油を採掘できるようになり枯渇を免れているのは皆さんご存じの通りです。(原理的にはそれこそあと何十年、何百年もすれば枯渇するかもしれません。ですがいわゆる商業的、政治的意図を持った専門家がいかにも科学的っぽく言い続けた結果、国民全部が思考を限定させられた状態になり、クリーン(?)エネルギー推進の方向に突っ走ってしまった。その結果、活断層だらけの日本の国土中に原発が並び立つ異常な光景が出来上がったのです。この事例はその部分だけで見るとそれ自体は正しいのだけれど大きな視野でみると見ると不足と間違いがあることが観て取れます。科学的に議論されていることでも視野が狭いと後々取り返しが付かなくなることがあるのです。)


【地球温暖化議論はスケールが小さすぎないか?】

 類似な事例として地球の温暖化というテーマについても考察してみましょう。
 人間の経済活動に伴って二酸化炭素が放出され温暖化効果によって地球の温度が上昇しているというアレです。確かに日本の夏日は最高記録を更新するような猛暑日も近年増えているので「ああ、なるほど!」と思います。メディアは過去最高気温を記録すると元気になり、環境問題の重要性を語り始めるようです。しかしながら世界を見渡すと信じられない厳冬になる地域があるのはなんででしょうか?
 熱というものは、暖かいところから冷たいところに循環して均一化すれば移動しなくなる性質を持ちます。地球が温暖化しているなら、どこでもいつでも平均気温が上昇していないとおかしくないでしょうか。日本の夏は暑い一方、世界中で記録的な厳冬(アメリカのある州で前回の冬には部屋の中につららができるほどでした)になるのは何故なのでしょうか? 

 地球の気温を決定する熱量は入りと出の収支から決まっているはずであり、つまり大きな目で見ると、太陽の活動の影響による熱量増加(入り)、地球の大気からの冷却による熱量の減少(出)が気温に影響するのです。ですが温暖化について語るとき太陽の活動について詳細に報道する例はどれくらいあるでしょうか?
 天文学で観察されている事象としては、太陽には黒点の数が増減する太陽黒点周期というのがあり、太陽の活動が活発なときとそうでないときが周期的に繰り返されています。実は最近の太陽の活動はすごく活動が少なくなっており2030年にむけて極小期に突入すると推測されています。これは1700〜1800年ごろの前回の寒期に次ぐ規模のものであり、これからは地球が寒冷化する可能性を示唆しています。(産業革命から二酸化炭素の排出が増えて地球が暖かくなって来たというのが温暖化の主張ですがその当時は太陽の活動も少なかったということになり、信憑性に疑義が生じます。また万年単位で繰り返されている間氷期と氷期のサイクルは、二酸化炭素量の変動で説明できるのでしょうか?)
 また熱の収支に影響する因子として、太陽以外にも大規模な火山活動が起こった場合は火山灰により太陽光が長期間遮られるだけでも地球の温度が下がることが知られています。偏西風の流れが変わっても(近年日本などの夏が特に暑いのはこの影響が大きい可能性があります)特定の地域の気温が変わります。事象を観察するときどう見るか?、顕微鏡と望遠鏡を使い分け、観察対象のスケールを原子サイズから太陽系サイズにまでせわしなく拡大縮小してゆくと風景や登場人物がどんどん変わってゆき、原因が一つに特定できないことが判ります。このような思考と視点を漂わせることで一点集中の思考から抜け出すことができ疑問が生じます。この事例もまた、太陽や火山活動という関係性のある色々なものに触れずに二酸化炭素というきわめて微小なこと(それ自体の主張は正しいのが厄介ですが)に焦点をあて、聞く人の視野を狭くしそれが全てであると思わせ、次のビジネスに誘導しようというところが先の例と同じですね。
 なぜそんな風潮になるのかというと、センセーショナルなほうが世論を誘導しやすいし、研究者にとっては国や企業から予算が出るから乗っかるのです。巷に流れている情報はちっとも科学ではないのです。科学のふりをした政治とビジネスのコマーシャルなのです。


 ・・いかがでしたでしょうか?
 一度は見聞きしたことがある話題ですが、いろんな受け取り方、解釈もでき、研究の余地があるかと思います。もしそうではなく見聞きしたたままのことをそのまま聞き流してしまうことを習慣化していたとしたら、それは教育のせいかもしれません。
 今はどうかわかりませんが、昔の学校の勉強は教科書を暗記し、テストでは提示された選択肢の中から一つの正解を選び取ることが求められる。選択肢外のことを回答しては減点されるし記述式のテスト自体ほとんどなかったのです(議論についてはその機会さえ与えられてこなかったはずです)。余計なことを考えないロボットのように画一教育され、自由で創造的な思考は許容されなかったのです。

 結局温暖化説が正しいかどうかは現在進行形で議論中ですし、あと10年位は経過しないと検証できないかもしれません。ですが、政府や自称専門家の言うことを「ああ、そうですか」と受け入れているだけでは、本当に正しいことが判るのは時間経過頼みになってしまいます。本当にそれを知りたい、備えたいと思うのなら、自分で関心をもって周辺を研究しないと間に合わないのです。そして研究とは、なにも専門性の高い知識を学校通って詰め込む事は必要はありません。身近な日常のその場、その場で既に知っていることを新しい視点で観察し思考の幅を広げる一歩を踏み出し始めることだけなのです。日常の「聞くもの」「触れるもの」「味わうもの」を当たり前と思わずに疑問を持って関わることが、研究の始まりなのです。そうすると今まで見えていなかった周辺風景が見えてきて、まだ登場していない人物が浮かび上がってきます。そこからもっと知りたいと興味が生じることで研究が加速するのです。専門家が言うからとか大多数の人間がそう言っているからその意見に従うというのは科学的な態度とは言えませんし、多数派か少数派かどうかは科学とは関係ありません。大多数の人間は科学的真実を研究することはないし、日々の生活を過ごすのに都合の良い心地の良い行動と信念を選択します。また、それは維持が簡単だからであり、安心感があり葛藤を生じない感情の選択のことだからです。

 歴史をみると、その当時大多数に支持されてきた学説や信念は感情に基づいた動機で支持され、後の時代の科学的検証で否定されてきたのです。つまり科学的態度とは商業的と政治的動機や安心感や多数派であることとは反対の立場であり、非感情的、懐疑的、少数意見の側なのです。道場での稽古もまた、日常的ではなく孤独な研究であり自己の習慣に否定的であります。科学と道場は向き合う態度としては同じ性質なのです。


【太極拳に向きあう科学的態度】

 一般的な常識からすると、とてもできるとは思えない(大多数の人間がそんなことできるはずがないと否定するであろう)動作や事象を可能にする太極拳も、「ああすればこういうメカニズムでこうなる」と、架式の理論体系をもって説明され、実際にそれが実践され、その正しさが証明されます。そして太極拳は難しいことではなく、誰でも知っていることから成っていると言われますが、日常的に見ていては判らないものだとも言われます。できない場合は、出来るようになるための主体的な工夫や研究をしなさいと指導されます。
 ここに上述した科学の事例とかなりの一致が観られ、大変興味深いと思います。自分の選択行動と価値観に疑問を持って、自分でやらないとダメなのです。自分の取り組みのプロセスや考え方自体が狭くなっていないか、習慣化されてしまい同じことを繰り返していないか、つまりは『科学的な態度で稽古できているか?』ということです(上から見なさい、横から見なさい、もっとずっと遠いところから観なさい、など言われます。これらは自分の視点を変える 縮尺を変える、意識を変えることを意味しています。宇宙スケールにまで観方を変えないとダメなのです)。

 科学的態度とは、今まで使ってきた常識や行動パターンに疑いを持ち、自分自身の習慣化された行動を否定し新しい視点を獲得する姿勢のことです。そして、浮かび上がってくる関係性に関わってゆくプロセスです。勇気をもって過去の自己を否定し、観直すことから研究が始まるのです。道場でも日常でも何かを研究するのに必要なことは、未知の秘伝を教わることではなく、既に知っている当たり前のことを疑いの目をもって見つめ直すことでもあるのです。このことを念頭に置いて、気持ちを新たに稽古に打ち込みたいと思います。

                               (了)


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