門人随想

2022年02月11日

門人随想「科学的態度と道場 自分を疑うことから始まる太極拳」

                    by 拝師正式門人 阿部 玄明


【初めに】

 太極拳が上達するかしないかのポイントととして、どれだけ自分を観れるかが重要です。それは普段の稽古でもよく話題になるのですが、イマイチ自分を観るということに慣れてなく曖昧に捉えがちです。では、普段の日常生活ではどのように物事を観ているのかを「科学」という観点で整理し考察してみたところを今回の記事で紹介したいと思います。

 太極拳を科学的に論じるために、比較例としても科学を扱うニュースをテーマとして引用しようと思います。これから挙げる例は見方、考え方を判りやすく説明するために厳密性を求めずに大雑把に述べますので、”そういう考え方もあるよねっ!”という程度で軽く読み流していただきたいです。こういう説もある、ああいう説もあるなど諸説乱立している中で、一つの仮説を取り出してお話させていただきます。


【結局石油は無くなったの?、無くなるの?、いつ無くなるの?】

 今から何十年前のこと、石油ショックと呼ばれるイベントをきっかけとしてエネルギー危機が声高に叫ばれた時期に、あと50年くらいとかで石油が枯渇するという言説が科学的根拠をもって官産学そろって喧伝してました。それから50年たった今、石油は無くなるどころか地球上をどこを掘り出しても吹き出してきて無くなるどころではないというのが現状です。なぜかというと、当時の枯渇論の前提があって今の採掘技術や省エネルギー技術に進歩がなく、ただ現状のまま掘りつづけた場合にはという前提があったのです。その部分があまり(意図的に)フォーカスされずに石油が無くなることだけを切り出して、テレビや新聞や教育の現場で強烈な印象を植え付けられ続けたのです。
 その後技術が進歩し、より広い範囲、より深い地層からも石油を採掘できるようになり枯渇を免れているのは皆さんご存じの通りです。(原理的にはそれこそあと何十年、何百年もすれば枯渇するかもしれません。ですがいわゆる商業的、政治的意図を持った専門家がいかにも科学的っぽく言い続けた結果、国民全部が思考を限定させられた状態になり、クリーン(?)エネルギー推進の方向に突っ走ってしまった。その結果、活断層だらけの日本の国土中に原発が並び立つ異常な光景が出来上がったのです。この事例はその部分だけで見るとそれ自体は正しいのだけれど大きな視野でみると見ると不足と間違いがあることが観て取れます。科学的に議論されていることでも視野が狭いと後々取り返しが付かなくなることがあるのです。)


【地球温暖化議論はスケールが小さすぎないか?】

 類似な事例として地球の温暖化というテーマについても考察してみましょう。
 人間の経済活動に伴って二酸化炭素が放出され温暖化効果によって地球の温度が上昇しているというアレです。確かに日本の夏日は最高記録を更新するような猛暑日も近年増えているので「ああ、なるほど!」と思います。メディアは過去最高気温を記録すると元気になり、環境問題の重要性を語り始めるようです。しかしながら世界を見渡すと信じられない厳冬になる地域があるのはなんででしょうか?
 熱というものは、暖かいところから冷たいところに循環して均一化すれば移動しなくなる性質を持ちます。地球が温暖化しているなら、どこでもいつでも平均気温が上昇していないとおかしくないでしょうか。日本の夏は暑い一方、世界中で記録的な厳冬(アメリカのある州で前回の冬には部屋の中につららができるほどでした)になるのは何故なのでしょうか? 

 地球の気温を決定する熱量は入りと出の収支から決まっているはずであり、つまり大きな目で見ると、太陽の活動の影響による熱量増加(入り)、地球の大気からの冷却による熱量の減少(出)が気温に影響するのです。ですが温暖化について語るとき太陽の活動について詳細に報道する例はどれくらいあるでしょうか?
 天文学で観察されている事象としては、太陽には黒点の数が増減する太陽黒点周期というのがあり、太陽の活動が活発なときとそうでないときが周期的に繰り返されています。実は最近の太陽の活動はすごく活動が少なくなっており2030年にむけて極小期に突入すると推測されています。これは1700〜1800年ごろの前回の寒期に次ぐ規模のものであり、これからは地球が寒冷化する可能性を示唆しています。(産業革命から二酸化炭素の排出が増えて地球が暖かくなって来たというのが温暖化の主張ですがその当時は太陽の活動も少なかったということになり、信憑性に疑義が生じます。また万年単位で繰り返されている間氷期と氷期のサイクルは、二酸化炭素量の変動で説明できるのでしょうか?)
 また熱の収支に影響する因子として、太陽以外にも大規模な火山活動が起こった場合は火山灰により太陽光が長期間遮られるだけでも地球の温度が下がることが知られています。偏西風の流れが変わっても(近年日本などの夏が特に暑いのはこの影響が大きい可能性があります)特定の地域の気温が変わります。事象を観察するときどう見るか?、顕微鏡と望遠鏡を使い分け、観察対象のスケールを原子サイズから太陽系サイズにまでせわしなく拡大縮小してゆくと風景や登場人物がどんどん変わってゆき、原因が一つに特定できないことが判ります。このような思考と視点を漂わせることで一点集中の思考から抜け出すことができ疑問が生じます。この事例もまた、太陽や火山活動という関係性のある色々なものに触れずに二酸化炭素というきわめて微小なこと(それ自体の主張は正しいのが厄介ですが)に焦点をあて、聞く人の視野を狭くしそれが全てであると思わせ、次のビジネスに誘導しようというところが先の例と同じですね。
 なぜそんな風潮になるのかというと、センセーショナルなほうが世論を誘導しやすいし、研究者にとっては国や企業から予算が出るから乗っかるのです。巷に流れている情報はちっとも科学ではないのです。科学のふりをした政治とビジネスのコマーシャルなのです。


 ・・いかがでしたでしょうか?
 一度は見聞きしたことがある話題ですが、いろんな受け取り方、解釈もでき、研究の余地があるかと思います。もしそうではなく見聞きしたたままのことをそのまま聞き流してしまうことを習慣化していたとしたら、それは教育のせいかもしれません。
 今はどうかわかりませんが、昔の学校の勉強は教科書を暗記し、テストでは提示された選択肢の中から一つの正解を選び取ることが求められる。選択肢外のことを回答しては減点されるし記述式のテスト自体ほとんどなかったのです(議論についてはその機会さえ与えられてこなかったはずです)。余計なことを考えないロボットのように画一教育され、自由で創造的な思考は許容されなかったのです。

 結局温暖化説が正しいかどうかは現在進行形で議論中ですし、あと10年位は経過しないと検証できないかもしれません。ですが、政府や自称専門家の言うことを「ああ、そうですか」と受け入れているだけでは、本当に正しいことが判るのは時間経過頼みになってしまいます。本当にそれを知りたい、備えたいと思うのなら、自分で関心をもって周辺を研究しないと間に合わないのです。そして研究とは、なにも専門性の高い知識を学校通って詰め込む事は必要はありません。身近な日常のその場、その場で既に知っていることを新しい視点で観察し思考の幅を広げる一歩を踏み出し始めることだけなのです。日常の「聞くもの」「触れるもの」「味わうもの」を当たり前と思わずに疑問を持って関わることが、研究の始まりなのです。そうすると今まで見えていなかった周辺風景が見えてきて、まだ登場していない人物が浮かび上がってきます。そこからもっと知りたいと興味が生じることで研究が加速するのです。専門家が言うからとか大多数の人間がそう言っているからその意見に従うというのは科学的な態度とは言えませんし、多数派か少数派かどうかは科学とは関係ありません。大多数の人間は科学的真実を研究することはないし、日々の生活を過ごすのに都合の良い心地の良い行動と信念を選択します。また、それは維持が簡単だからであり、安心感があり葛藤を生じない感情の選択のことだからです。

 歴史をみると、その当時大多数に支持されてきた学説や信念は感情に基づいた動機で支持され、後の時代の科学的検証で否定されてきたのです。つまり科学的態度とは商業的と政治的動機や安心感や多数派であることとは反対の立場であり、非感情的、懐疑的、少数意見の側なのです。道場での稽古もまた、日常的ではなく孤独な研究であり自己の習慣に否定的であります。科学と道場は向き合う態度としては同じ性質なのです。


【太極拳に向きあう科学的態度】

 一般的な常識からすると、とてもできるとは思えない(大多数の人間がそんなことできるはずがないと否定するであろう)動作や事象を可能にする太極拳も、「ああすればこういうメカニズムでこうなる」と、架式の理論体系をもって説明され、実際にそれが実践され、その正しさが証明されます。そして太極拳は難しいことではなく、誰でも知っていることから成っていると言われますが、日常的に見ていては判らないものだとも言われます。できない場合は、出来るようになるための主体的な工夫や研究をしなさいと指導されます。
 ここに上述した科学の事例とかなりの一致が観られ、大変興味深いと思います。自分の選択行動と価値観に疑問を持って、自分でやらないとダメなのです。自分の取り組みのプロセスや考え方自体が狭くなっていないか、習慣化されてしまい同じことを繰り返していないか、つまりは『科学的な態度で稽古できているか?』ということです(上から見なさい、横から見なさい、もっとずっと遠いところから観なさい、など言われます。これらは自分の視点を変える 縮尺を変える、意識を変えることを意味しています。宇宙スケールにまで観方を変えないとダメなのです)。

 科学的態度とは、今まで使ってきた常識や行動パターンに疑いを持ち、自分自身の習慣化された行動を否定し新しい視点を獲得する姿勢のことです。そして、浮かび上がってくる関係性に関わってゆくプロセスです。勇気をもって過去の自己を否定し、観直すことから研究が始まるのです。道場でも日常でも何かを研究するのに必要なことは、未知の秘伝を教わることではなく、既に知っている当たり前のことを疑いの目をもって見つめ直すことでもあるのです。このことを念頭に置いて、気持ちを新たに稽古に打ち込みたいと思います。

                               (了)


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2022年01月11日

門人随想「無心でやり込むこと」

                    by 拝師正式門人 平田 玄琢



 想えば、物心ついた子供の頃、無心でやり込んでいたことがある。
 春には・・・桜でんぶのような鮮やかな桃色の、蓮華いっぱいの田んぼに入り蓮華つみ。堤防でつくし摘み、山の方でわらびとり。田植えを家族と一緒に行き、畦の堀にいる雑魚やドジョウを箕(み)ざるで大量にすくいとり、くし刺しにして干物づくり。
 夏には・・・木に止まっている蝉を素手で捕まえる。川に入り石の下にいる魚を両手で捕まえる時のダイレクトな魚信。毎朝、早起きしてカブトムシやクワガタムシを肥料袋一杯つかまえ、飼えない分は近所の鳥獣センターに売りに行き、お菓子やアイスを買い豪遊。
 秋には・・・山に入り、リスに負けないよう山栗を拾い、アケビを採って食べる。木からつり下がっている太いつたでターザンごっこ。山の枝や大きなシダで秘密基地づくり。
 冬には・・・北風の中で鼻水を垂れ、田んぼの氷割り遊びに夢中になる。祖父と一緒に、神無月に神様が旅立つためのお弁当の赤飯を背負っていく「ツト」という藁で作った水戸納豆の入れ物のようなものを作る。正月に使うしめ縄作り。
 一年を通して、山・川・田・畑・車の来ない道路が遊び場であった。

 半世紀前の田舎の子供は、テレビゲームもパソコンもなく、無心にやり込むことが沢山あって毎日忙しく楽しかった。
 憧れたものは、祖父が素手でマムシを捕まえること。ただそっと手を差し伸べるだけで捕まえられたマムシは、頭を取られ皮をむかれ干しマムシになっても動きつづけた。乾くと炙って酒のつまみとなった。
 驚いたことは、なぜか昆虫毒に耐性のあった父が、蜂に刺されても毒毛虫を素手で捕まえてもなんともなかったこと。私は、自転車に乗りスズメバチの巣に石を投げ素早く逃げる遊びで逃げ遅れ、頭を刺され膿んでしまい10円ハゲができた。

 高校生の頃、部活やスケートボードを無心にやり込み、千葉にスケートボードパークが出来たと聞き、早速行ってバンクに挑戦したが、コンクリートバンクの上から転げ落ちた友は、服はボロボロ血だらけの打撲となった。今思うと防具もつけず大変危険な遊びである。

 20代はダンスにはまった。ダンスは出来たらいいなと憧れていたものであり、その頃はやりつつあったブレイクダンスである。チームのリーダーが鏡張りの専用スタジオを経営し部活の様に運動をした。チャチャという昔のステップからディスコダンス。壁・ロープ・マネキン・ロボットなどのパントマイム。ポピュラーなムーンウオークのバックウオークは今一の動きだったが、サイドウオークはジャクソンより上手いと好評だった。
 スタジオのメンバーとは、スタジオで練習して様々なところにショータイムの依頼を受けて踊るだけだったが、あるとき、チームの皆とディスコに行った。他の客と違って、さぞかし目立って素晴らしいものかと思いきや、皆の、のりにのった状態は、唯の酔っぱらいが踊っているようだった。
アクロバティックなダンスは、床運動・鞍馬競技でもおなじみのウインドミルやトーマス旋回、頭のてっぺんで回るヘッドスピン、逆立ちして片方の手の平だけで回るナインティナインという技があり、その技が上手かったコメディアンがその名をコンビ名とした。そういったダンスは、痛いことも忘れ体中痣だらけになりシップ薬を張るのが日常となった。音楽が流れると、ところかまわずどこでも踊った。気が付くと、まるでセミプロの様にギャラをもらうようになっていた。そのスタジオからは多くの有名なダンサーが育っていった。

 ダンスに限界を感じた30代は、18歳からの雅楽を再び志し、笙(しょう)という楽器の演奏に熱中した。顔の正面に楽器を構える為、横の下に譜面を置きその譜面を長時間見て練習をしすぎて、両目とも網膜が剥がれ、治療後は再発しないように暗譜するようにした。雅楽の先輩の勧めで、憧れていた宮内庁の先生に教わるようになり、先生方は東京から熱海へ、生徒は熱海まで出向き稽古に励んだ。琵琶の稽古では、琵琶の重さで外くるぶしが腫れてしまったこともある。いつしかダンスは舞楽の舞に変わり、県神社庁の雅楽講師に任命された。

 40代では、22歳で神主として独立してからずっと念願であった、地元の神社の普請を行うべく取り組んだ。明治の初めに、神仏判然令により建築された拝殿は、昭和19年の東南海地震で柱と梁を繋ぐほぞがつぶれて傾いてしまっていた。その拝殿を両側から鉄骨で支え、その鉄骨も朽ちようとしていた。
 屋根瓦はガタガタにずれて建物自体も立体的に傾き、拝殿に入ると一本たりとも垂直に立っている柱はなく、まるでトランポリンのような床も、めまいが起こりふらつく原因となった。正座をしてもなんとなく斜めに座っている感があり気持ちが悪くなった。正月に大勢の参拝者が神社の中に上がり、重さで床板の底が抜け、ドリフのコントの様になった時もあったという。雨の日は雨漏りにバケツを置き、鉄のバケツ・金たらい・プラスチックバケツの雨だれ音は不協和音のハーモニーを奏でた。拝殿の畳は、梅雨時には見たことのない毒キノコが生え、朽ちた畳は畳床の中でカブトムシが育つかと思えた。扉はすべて賽銭泥棒によって壊され、トタンとベニヤでの安価な補修は、みすぼらしい社殿をよりみすぼらしく強調していた。当社は、通称を渋垂神社(しぶたれじんじゃ)というが、しみったれ神社とか、まるで貧乏神が祀られているようだと言われ大変悔しい思いをした。

 神社建設委員会の発足は困難を極めた。神社の現状を見ても見ぬふりをして補修で済まそうとする人達によって、何回も何回も会はご破算になった。神社保存検討委員会から神社建設準備委員会になり、次に漸く建設委員会となった。何れの会も、会長はじめ三役の人選と会の規約を作り承認されてから進みだすという有様で、発足まで5年の歳月を重ねていった。事務局は大変なので誰も受けてくれる人もなく、自ら神社総代や建設委員総勢50名の事務局となった。

 神社建設の理解を得るため各自治会に説明会を開き、宮司・総代会長・建設委員長の3名が出向いたが、納得する人は少なく大きなヤジが飛び交った。拳を握りしめ耐えがたきを耐えるしかないと思った。カタカタという抜刀寸前の鞘鳴りの音とはこういったものかと納得をした。
 説明会の後、神社を受け持つ20の自治会全てが寄付行為は出来ないとの声明を出してきたため、やむなく各戸をくまなく回ることとなった。建設委員会全体を、総務・設計監理・神事部会の3部会に分け、なおかつ部会前の役員会や寄付の現状を協議する会合も行ったので、忙しい時には、一週間に4、5回の会合を行った。まだ神社に社務所もなく、会議案を作成し公民館を借り、お茶や茶菓子を準備し会場の設営や片付けを一人で行なった。もちろん妻も献身的に手伝ってくれた。

 神社総代や建設委員が出ていない自治会の寄付活動は、たった一人で回ったこともあった。各戸を回ると、詐欺や偽物と思われた事もあったが、本物の神社宮司と認識されても、話をしている最中に戸を閉められ鍵をかけられた。あそこの宮司は頭が狂っていると噂が広がった。冷静に考えてみれば、見ず知らずの家庭にアポなしで訪問し、10万円以上の篤志寄付を頼むのだから、狂っていないわけがないのである。炎天下の中、トボトボ歩いて寄付を乞う田舎の神主の姿を見て哀れに思う人も多く、その同情からか何とか寄付も集まっていった。

 神社の建築用材は、伊勢神宮の式年遷宮用材の主となった南木曽の檜であり、『太一』という立て札を掲げた新車のトラックを調達する材木屋から購入した。
 『太一』という言葉は、神道ではあまりにも古い言葉であり意味不明となっていて、太いに一は変だということで、一時期『大一』という言葉に変えたこともあったという。太極拳ではお馴染みの『タイチ』であり、陰陽や宇宙の理をあらわすものとなっているため、神道では大自然の理をあらわしているのかもしれない。
 私が40年程前に勤めていた神社の参集殿を設計した有名な設計士がいた。その当時、助手を務めていた設計士に社殿社務所の設計を依頼し20数年ぶりに話をしてみると、社寺の設計はパソコンでは出来ないものであり、昔からの製図版で鉛筆の手書きだという。私の今迄の知り合いの設計士は皆、社寺もパソコンを使って設計することから考えて、あの助手は超一流の設計士となったに違いないと思い大変感慨深いものを感じた。設計士の勧めで社寺の新築は日本で最高の技術を持つと、マニアの間で囁かれている大工さんに依頼した。建築途中、日本で唯一人の宮大工の人間国宝がおしのびで遊びに来ていた。聞けば、いとこであり、若い頃一緒に大工修行をした仲だったとのこと。三年前に亡くなられたその大工さんは、建築業界では神といわれていた人だったことが最近耳に入った。
 依頼した設計士と大工のコンビは、私には驚くことばかりで、材木屋は、実生(みしょう:種子から発芽して生長すること。またその草木のこと)で200年以上育った伊勢神宮に使うご用材を「いいからもってけ」と言い、安価で譲ってもらった。屋根屋は半額に近い価格でよいと言った。屋根屋は、国技館や東宮御所を葺いた屋根専門の業者である。建具屋は、日光で実生の320年物の檜を特別に使ったといって自慢気に話した。
 師父が研究会でよくお話されていた『一流』は人間にも当てはまるようで、その人達と関係すると、気運が上がり物事が良い方に転がっていくようだった。
 毎日、建築を見学することは最高の楽しみであり、全ての普請が終わり竣功の神事や催しが終えた暁には感無量で放心状態であった。

 さて、ここからが問題である。毎日議案や資料づくりに明け暮れ、パソコンを午前様までやり込んだ体は、かなりガタがきてしまっていた。毎朝トイレに行くのに30分以上の時間を要するようになっていた。座骨神経痛から、肋間神経痛を発症し、狭心症の疑いもあり、心臓発作の時のためのニトロ薬を財布にしのばせていた。犬の散歩も心臓が苦しくなり途中で帰る時もあった。
 病院の他に、整体、鍼灸と治療をはしごして、神前の拝礼では腰から動かすことが出来ず首だけのお辞儀の時もあり、社殿の普請を終えたので私の役目は、もう終わったのかなと一抹の寂しさを感じた。

 ちょうどそのような時、風の噂で太極武藝館のことを知った。太極拳だけでなく治療も行っているそうだと。すぐに知人より紹介してもらい治療を受けるようになった。受動的な治療だけでは直ぐには治りそうになく、積極的な治療法として太極拳を習う事とした。道場に見学に行くと歩く稽古をやっていた。歩法である。それは、今迄見たこともない宙に浮いているかのような歩き方だった。人類は退化するのみと思っていたが、ここにいる人達は進化していると感じ驚いた。
 太極拳に憧れ早速入門したが、最初に行う柔功や圧腿は、錆びついた体にはとてもできるものではなく、大汗をかき、それだけで帰りたくなった。歩法や対練は、何回やってもまったく出来ず、次第に稽古を休む日々が増えていった。

 東日本大震災の起こった年、2011年の9月と、その翌年の6月に大型の台風が標高50メートル以上の場所に災いをもたらした。一般の民家の被害は少なかったが、神社の境内と山林は、竜巻に近い風で立木はすべて倒れめちゃくちゃになった。その光景は、まるで地獄の様で、これからもっと何か大きな事が起きる、何が起きても不思議ではないと感じた。まだまだ自分の役目は終わっていないと感じる出来事であった。

 毎日、負けるものかと思い神社境内の復興の作業が続いた。作業の合間に太極拳の柔功や圧腿・歩法を行った。その基本の動きを、大汗をかく苦しい動きではなく楽にできる動きとなるまでは到底先に進めそうにないと思い、朝昼晩できれば3回は行なって、まずは10年続けようと決意した。神社の山の災害が見える場所で、負けるものかと思って行う自発的で勝手な稽古は、膝を痛めたこともあったが、同じことを無心でやり込んでいくと、師父や玄花后嗣や門人から指摘された事や、声が、何回も何回も脳裏によみがえってきた。まるで、それは丁寧なご指導をいただいているようだった。

 太極拳は、今迄自分が取り組んだ何よりも面白くかつ難解であり、並大抵の努力では出来そうになく、還暦を過ぎた自分に残された時間も多くないと思われる。
 先日の稽古で玄花后嗣から雅楽の練習方法を問われたとき、「昔から伝わる練習方法をするだけです。」と答え、次の言葉を出そうとして、はっと思い口をつぐんだ。それは、嫌になるような地味な稽古だが、昔ながらの稽古方法の通りにやらないとそれは全く違ったものになる。それを面倒臭いと思ったり、小馬鹿にして怠った人は、自分のリズムと音程を整えることが出来ず、たった一人の相手すら合わせる事が出来ない。ましてや笙・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の三管を三人ずつと、三種類の太鼓と琵琶二面と楽筝二張という、複数の異なる楽器の相手と合わせる合奏は何十年経っても全く出来る日はやってこない。すなわち合奏のセンスが全く身につかないのである。
 指揮者のいない雅楽自体は非常に高いレベルのものもあるが、私の習得したものはまだ低いレベルの雅楽であり、自分の体全体や相手の体にも意識を用いる太極拳ほど複雑なものではない。しかし、振り返れば、最初に習った曲は、昔ながらの稽古である唱歌(しょうが)を何千回と稽古していると思われる。そして、曲ごとに何回も基本に戻って稽古をしている。昔の唱歌稽古は、合の手(あいのて)といわれる民謡の基となった独特なリズムと中世の基調音(現代の基調音よりも10ヘルツ程低い)による音の高さを正確に体に叩き込ませるため、正座にて足の腿の上と側を手で叩くため、腿が赤く腫れ上がった人もいたほどである。
 太極拳の門人の中には、基本となる昔ながらの稽古方法を行って大きな気付きと成果が出ている方もいて、やはり、昔ながらの稽古を無心にやり込む事は、これから先に進むならば、必要な事であり、とても大切なものであると思う。
                            (了)


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2021年09月14日

門人随想 「諦めない心」

                    by 拝師正式門人 川山 継玄


 この夏約一か月の間、私はご縁があって学童保育所に通う小学生達と過ごす機会を頂きました。
太陽が照り付ける暑い日も、帽子をかぶって虫籠や捕虫網を持って山を駆け回る子供達。
トカゲや虫を探して山肌を這うその姿は、あまりにトカゲが好きすぎて、私の目には、どうしてもトカゲそのものにしか見えない程でした。
 
 私は、普段の稽古で、一つの質問にさんざん時間をかけて考えておきながら、支離滅裂な事を拙い言葉でもじもじ言い出し、自分で発した言葉に疑問を持ち、挙句の果てに、「一体私は何を問われ、何を言いたかったのでしょう…?」とばかりに、答えを待つ相手に言葉を濁す始末。
 この状態では、自分で稽古し、研究していくなどとんでもない話です。悩んではいるものの、実際に・具体的に解決していくというには程遠い現状です。
物事と深く関わり、考え、調べて更に考察する事、言葉で説明することがとても苦手な…というよりできない私は、思考することなしに行動に移しているため、右脳優位な人間かと思っていました。
 ところが、稽古で丁寧に説明を受けて、何度も繰り返し取り組んでいるにもかかわらず、何も残っていない、時には一瞬にして頭が真っ白になって忘れてしまう。関連性が理解できない。不用意に壁や物にぶつかってしまう。等々、武術家というには何ともお粗末な有様。
 〈高速意識処理のコンピュータ〉と考えられている右脳が秘める能力はすさまじく、記憶力で言えば左脳の100万倍の能力をもっているとか。私が右脳優位であるわけがありません。

 『「文字で」記憶しようとして、“覚えられなかったらどうしよう”、“できなかったらどうしよう”、という不安や恐怖心を勝手に持ち、自らが緊張状態を作り出している。これは、左脳だけですべての物事を対処しようとして部分的・平面的にしか物事に関われていないことに起因している』
・・と、師父が脳についての講義もしてくださいました。また、
 『右脳を使えるようにするためには、良い音楽を聴きなさい、おいしい料理を作ってみなさい、食べてみなさい、本物に触れてみなさい、カラフルなペンで絵を使ってはみ出してもいいから自由にノートをとってみなさい、全てを喜びの中で存分に味わってごらんなさい…』など、師父は毎回、本当に丁寧にその時に応じた例を用いて、ご指導くださいました。

 「成長したい!」「変わりたい!」「師父や玄花后嗣と同じ景色を観たい!」と、音楽を聴き、絵を観て、自然を満喫して、映画を観て…。それらに感動はするのですが、その場で終わってしまうような、空回りしているような、貧しい精神状態の私。稽古で音楽を頭に流すのですが、いつの間にかそれは消えて、口を一文字に固く結び、緊張した面持ちに戻っています。
 そのような中で、子供達の瑞々しい感性と好奇心と行動力と優しさのお陰で、私にも一筋の光が見えてきたのです。

 小学校に通う児童全員が一輪車に乗れて、冬にはグループに分かれ、パフォーマンスを披露するまでに成長してしまう子供達。初めての夏休みを迎えた1年生の中には、乗れるようになってまだ間もない子も少なくありません。
 子供達と出会ったその日、「一輪車やろう!」と宿題を終えた1・2年生の女の子たちが私に声を掛けてくれました。一輪車には、数メートルしか乗れない私は、「今年の夏こそ、思ったところに悠々と漕いでいけるようになるぞ!」と意気込み、練習を始めました。

 「まず、遠くの山のサルをみるようにって教わったよ」
 と、1年生が口々に言います。教わったことをみんながよ〜く覚えているんだな、と感心しながら、
 「ふ〜ん、サルね!」
 とバーから手を放して漕ぎだしてみました。するとすぐさま、
 「そうそう、その調子! そうだな〜。サルじゃなくていいや。何の動物がいい?」
 と、Aちゃんがスイスイ一輪車に乗って近づいてきました。

―(えっ? 私が「サルはあの山にはいないよな」って頭の中をよぎったのがわかっちゃった?)

 「リスかな!、じゃあリスでいいや」

―(なんだ?!このテンポの良さは。)

 昨今の私の会話にはないスピード感にあっけにとられました。
 そしてその後も、私が一度乗るたびに、

 「あっ、できない理由が分かった!」

―「何?、何?、教えて‼」

 「目が下向いてる」

―「はいっ」(あれ⁈、どこかで聞いたような。)

 「腕が曲がってる」

―「あっ、本当だ」(これも聞いたことある。)

 「腰がこう(一輪車に乗ったまま、腰を巻き込んだ姿勢をとる)じゃなくてこう(同じく、命門が入った綺麗に立てている姿勢をとる)」

―「私そんなに腰が丸くなってるんだ」(あれ?、この子門人だっけ⁈)

 「体が動いてない」

―「う〜〜〜〜やっぱり(泣)」

 「笑ってない」

―「近頃眉間にしわ寄せて、口元ギュってしちゃうんだよね」(放鬆、ファンソン…)

 「怖がってる」

―「確かにそうだなあ」

 「転んでない」

―「ケガすると治りが遅いからな…」(稽古もできなくなっちゃうし。)

 極めつけが、
 「言われた通りにやってない!!」

―「…(-_-;)」(ごもっともです〜〜〜〜。)

 ・・ここは道場か?、と錯覚してしまうほど、日頃稽古で指摘されることのオンパレードで、しばらく開いた口が塞がりませんでした。
 彼女たちは、本当に真剣なまなざしで私の姿を観て、自分との違いを瞬時に察知し、心の声まで読み取って、一人一人が自分の言葉で、私ができない理由をわかりやすく、楽しそうに教えてくれるのです。
 一息つきながら、「どうして上手になったの?」と立ち乗り練習中の1年生に聞いてみると、「練習したから。」と極々普通に答えます。
 転んでも転んでも練習する彼女たち。そこには「乗れなかったらどうしよう。」という気持ちはみじんもなく、「うまくなりたい。これができるようになりたい(10級から名人まで段階があり、技の数々が用意されています)」という前向きで意欲的な気持ちだけです。乗れなければ、グループのみんなに迷惑をかけるため、彼女たちには乗れないという選択肢はありません。それだけの厳しさの中で頑張っています。

 以前のレンガ站椿の稽古で、
 「外筋でも何でも、乗ってやる!という気持ちでやるんです」と、玄花后嗣がおっしゃいました。
 「わかるまでやるんです」
 「今やらないなら、時間が経ってもやりません」
 「延期しないことです」
 ・・と、常々甘っちょろい考えが見え隠れするたびに、そう言って喝を入れてくださいます。

 人は、都合の良いように言い訳をつくっては、その場をしのぎます。それでも生活はできます。しかし、それでは太極拳は取れないと何度も何度もご指導頂きます。その場から逃げない、甘えを許さない心構えが大切だと思います。
 私は、右脳が使えるようになるには…と師父が挙げてくださったことを、心から楽しいと思えるまでやっただろうか。子供達が転んでも転んでも練習し続けるように、向かい合っただろうか。彼女達が私に指摘したように、自分を観て・認識し・修正しただろうか。
 答えは、“NO”でした。
 私が長く悩んで解決できなかった理由はただ一つ、
「“その時わかるまで取り組む”という覚悟の欠落」
だと思い至りました。それ故にできない理由を山ほど用意したり、延期したり、甘えてばかりの自分を許していたのです。

 「誰でも、今この瞬間に変われるのです」
と言われたことの意味が、分かったような気がします。
 「こうする」と言われたらその場でそのようにやる。わからなければ、わかるまでやる。それこそが大切だったのだと。
 これから、子供達から学んだ、強風に身を委ねる柳のようにしなやかで強い「諦めない心」を育て、鍛えていきたいと思います。そして、喜びに満ちて伸びやかに太極拳に向かい続けたいと思います。
                              (了)



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2020年08月28日

門人随想「女性天皇と女系天皇について」


                  by 田舎の神主
(拳学研究会所属)


 「女性天皇と女系天皇の違いを知ることは、これからの日本にとって大切な事であり、太極武藝館門人は知っていた方が良い」と師父からお話があり、大変僭越ですが私が知り得た事を書こうと思います。

 昨今の世論調査では、約8割弱の人が女性天皇や女系天皇を支持のようです。
保守政党といわれる自民党の二階俊博幹事長も、4年程前から女性天皇を容認する考えを公の場で示し、波紋を呼んでもその考えは今以って変えていません。

 小泉内閣は平成16、17年に、高い見識を有する人達を集め、「皇室典範に関する有識者会議」を17回開催し、その報告書を提出しました。

 報告書の主な内容は、

  〇女性天皇及び女系天皇(母系天皇)を認める。
  〇皇位継承順位は、男女を問わず第一子を優先する。
  〇女性天皇及び女性皇族の配偶者になる男性も皇族とする(女性宮家の設立を認める)

 等です。・・・すごい時代になったなと感じました。

 1776年5月1日に創立され、現在では殆ど樹立された世界単一政府(一般には陰謀論とされる。知的能力を実証された人々が世界を治めること)の目標の一部である、「愛国心と民族意識の根絶」と「家族制度と結婚制度の撤廃と子供のコミューン教育の実現」、他にも「私有財産と相続財産の撤廃」や「すべての宗教の撤廃」、これらは、コミンテルン・共産主義の基となりました。「天皇制打破」は共産主義者の目標の一つとなっています。「天皇制」という言葉も、元は共産主義用語です。

 戦後の日本では、国民にそれらを徐々に浸透させてきました。
 「愛国心と民族意識の根絶」をするため、すなわちその中心となっている皇室や、国民の各家庭内教育者の女性(日本では特に大和撫子といった)を変革し、彼らの思うようにする必要がありました。特に女性は膨大な経済効果がありますので、男女平等を超え、まるで女尊男卑のようになっている今の世、政界は女性票を獲得するため、国は女性から税金を取るため、経済界は女性を疲れさせ浪費させるため、様々なことが行われています。

 私は、先進諸国と言われる国々の女性(男性も)に関しては、残念ながらほとんど仕上がっていると感じます。日本では、天皇を女性・女系にして最後の仕上げといったところでしょうか。

 日本は1985年に、United Nations (連合国・国際連合)の女子差別撤廃条約を批准し、厚生労働省は男女雇用機会均等法を、行政は男女共同参画社会企画室を作りました。それにより、ジェンダーフリー、フェミニズム、女性解放、女性の社会進出が世間に流行りました。
 善し悪しは別にして実際に世の中がどの様に変化したかは、皆さんの周りを見ればよくお分かりのことと思います。家庭内では、昔大家族だったものが核家族になりました。子供にお金をかけた教育をすればするほど、昔の四書五経の教育の頃とはかけ離れた自由平等博愛の考えが浸透し、なぜか、親子の別離、夫婦の離婚まで進み、一家離散となっている方も多くなってきました。
 古くからの伝統的なものを、そのまま後世に伝えること (伝統文化)に携わっている人達は受難の時代であり、革新的な考えの人達やビジネスチャンスを狙う人達にとっては、素晴らしき新世界秩序の到来と思ったことでしょう。
 また、現代は一般的に男女同権・男女平等の世の中といわれますので、世論調査をすれば女性天皇や女系天皇支持は当たり前のことと思われます。

 戦前、日本は現在のような民主主義ではなく、天皇統治であり、それは、大御宝(おおみたから 国民)を君主である天皇が知ろし食す国家でした。すなわち、天皇は国民を宝のように思い、まるでご飯を食べ消化するかのように国民のことを深く知り、国を各家のように大切に思っていたのでした。私は理想的な国家ではないかと感じます。
 例えば、「大和」という古代の国名では、「和」という字の禾偏は穀物の意味です。旁(つくり)に口があり、穀物を食べることを意味します。ご飯を食べると皆は和らぎ、それが大きく広がり国中でご飯を食べ和らぐことが「大和」につながるという説もあります。
 また、後に述べますが、国民の朝の竈の煙が昇っていないことを心配した天皇もおられました。そういったことは、代々の天皇が御言葉を宣べたもの、「みことのり」「神勅」「詔勅」という永久保存の公文書として知ることができます。
 124代目の昭和天皇の御代の終戦を迎えるまで、天皇は「現人神 あらひとがみ」といわれ、国民が君主の皇位継承について語ることはとんでもないことでした。神主であった私の先祖も、普段から「言挙げせず」を心掛け、君主について語る事はとても恐れ多い事だったでしょう。
 私も18歳の頃、元 現人神であられた昭和天皇行幸啓の神社参拝(熱田神宮)の折、自分と陛下までの距離2メートル、皇后様が一歩下がって歩くその陛下の御姿は、まるで後光がさしているようで、とても恐れ多くて顔を上げることもできませんでした。

 では、現人神とか皇孫 (すめみま)といわれた天皇とは一体何か。戦後、神社や皇室について何の教育も内容も教わることのなかった世代(ほとんどの人)は、皇室のことを一般家庭と同じように思っているのではないかと危惧します。
(私も18歳まで神社や皇室について何の教育も受けていません。)



 <「男系」の男性天皇と女性天皇、「女系」の女性天皇と男性天皇>

 「男系」とは、父親を遡れば初代に辿り着く系譜をいいます。今迄、男系で続いてきた歴代126代の天皇は、父親の血統を遡れば初代の神武天皇に繋がります。母親を辿る場合を「女系」といい、母親を遡っては初代に辿り着きません。
 「女性天皇」は、過去に8人おられました。そのうち2人は、2度即位しています。しかし、いずれも男系の女性天皇であり、次の継承者が即位される迄の「中継ぎ」として、男系を守るために皇位につかれました。すなわち、その在位中は子供を産む状況にはなかったことや、結婚をせず独身を通したかです。
 
 男系守護の「女性天皇」は8人おられましたが、「女系天皇」という「女系」の女性天皇・男性天皇は全く例がありません。一旦「女系」となってしまうと、皇室とは別の血統である「別の男系」にすり替わってしまいます。
 男系皇位継承は、2680年間、126代続いている世界に類のない「万世一系の天皇」と称され貴重な伝統が守られています。その貴重な日本の国柄のことを「国体」といいます。国民体育大会の「国体」とは違います。「国体」の崩壊は、古き良き時代の日本の崩壊を意味します。

 万世一系の天皇の血統は、皇位継承の危機に備えた、天皇の男系子孫を当主とした「宮家」によって守られてきたのです。しかし、昭和22年に、昭和天皇の実弟である3宮家を残し、11の宮家が皇籍離脱させることになりました。その理由は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持出来なくなったことでした。

 当時の加藤進宮内次長の言葉として『万が一にも皇位を継ぐべき時が来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい』とあります。

 女性当主の「宮家」は、過去に例はありません。皇室は、俗に「天皇家」という一般家庭と同じような家の継続ではなく、皇統という男系の血統の継続なのです。
 また、血統というと思い当たるのが、血統書付きの動物、競争馬の血統の良し悪しや、美味しい肉牛の血統ですが、皇室の皇統はそのようなものではなく、血液が代々繋がっているだけの唯の血統ではありません。
 すなわち「万世一系」とは、単に血統上だけのものでなくて、精神的にも一貫不断の継続を意味している事を見失ってはならないのです。その精神的なものとは何か、それは、「日本の神話」や「みことのり」で示されています。



<日本の神話>

 我が国の神話は、戦後、学校では殆ど教えないものとなり、私が教わった極端思想の先生が神話について話した内容は、「日本神話は、皇室を権威付けるための作り話であり、日本民族の歴史伝承では無い。そういった嘘を教え込まれ、洗脳されたから、神風が吹く神国日本は必ず勝つとか、天皇は現人神と言われるようになった」
 また、大東亜戦争についても、「近隣諸国を植民地として支配して、連合国相手に勝てる見込みのない戦争を挑みアジアの国々に極悪非道なことをした。原爆を落としてもらったから戦争を敗戦という形で終了することになった」
 「広島の爆心地の横の平和記念公園では、(安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから)との碑文もあり、敗戦とともに、神話をはじめとする様々な洗脳が解け、日本はアメリカという解放者によって、自由で開放された良い国になった」
などという、日本人であることが恥ずかしくなるような自虐的なものであり、その当時の出来事に対し何の検証も無く、戦勝国側の理屈を押し付けたひどいものでした。  
 私も、当時、大袈裟に嘘を言っているのはその先生の方だと薄々思っていましたが、検証するすべもなく、後にその先生は、学校の帰りに、恨みに思った卒業生によって車に轢かれそうになりました。

 そのような自虐的な史観は、大人になるにつれ、自ら進んで行なった勉強と調査検証により次第に解かれ、日本人に生まれて本当によかったと思われる、すっきりとした史観に変わっていきました。
 様々な方とお話をすると、いい年をしていても自虐史観の解けない、または、自虐史観とも思っていない、私にとっては大変お気の毒と感じる方も多いのですが、しかし、そのような方は、私のようなものを、職業柄、昔の日本にかぶれた可哀そうな人と思っているようです。

 日本の神話では、伊勢神宮の内宮に祀られる天照大御神の子孫が天皇になられていますので、それはどのようないきさつがあったのかを、天孫降臨からの分かり易い神話物語として大筋を紐解いていきます。

 神話(国史)は古事記と日本書紀があり、その解説には様々な説があります。古事記の神々は、命(みこと)・日本書紀の神々は、尊(みこと)と表されます。日本書紀は、各地域の風土記も記載され、今年で編纂1300年を迎えますので、書店に書籍が少しはあると思います。
 また、諸説や神話に出てくる難解用語や神様については安易にインターネットで調べる事ができますので、少しでも興味がわき、もっと詳しく知りたい方は調べてみて下さい。日本神話は、唯の出鱈目ではなく各地の言い伝えや様々な暗示がありますので、初めて神話に触れる方はとても面白く感じると思います。
 皇室に関しては、インターネットの情報は不敬なものが多く見られますので、行間を読み、注意した方が良いと思います。



<天孫降臨(てんそんこうりん)>

 高天原(たかまのはら 天上の世界・中央政権)と葦原中国(あしはらのなかつくに/地上の世界・地方政権・出雲の国)で様々な攻防が治まり、天照大御神と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が、天照大御神の子である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に葦原中国を統治するように命じました。
 しかし、天忍穂耳命は「出雲に天降ろうと身支度をしている間に末の子が生まれました。名を邇邇芸命(ににぎのみこと)と言い、出雲にはこの子を降ろしてはどうでしょうか」と提案しました。
 古代ではこのように末の子が家督を継ぐという末子相続は、仁徳天皇の頃まで続きます。「天孫降臨」は、官僚が関係組織に下るというあまり良い言葉ではない「天下り」という言葉の語源になってしまいました。

 天照大御神の孫(天孫)邇邇芸命は葦原中国の統治を命ぜられ、天児屋命(あめのこやねのみこと・中臣連(なかとみのむらじ)の祖先 藤原氏の祖神)、布刀玉命(ふとだまのみこと・忌部の首(いんべのおびと)の祖先)、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのやのみこと)の、天石屋戸開きで活躍した五神を従えて天より降りました。
 その時に邇邇芸命が天照大御神から授かったものがあります。それは、「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)と「三大神勅」(さんだいしんちょく)です。それらが、我が国の天皇統治のいわれの基となっていきます。

 葦原中国に降り立った邇邇芸命は、大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と結婚します。ほどなく懐妊し、それを夫に不審に思われたため産屋に火をつけます。
天津神の子であれば無事生まれると予言し三人の御子が誕生します。末の御子の火遠理命(ほおりのみこと)が、天皇とつながっていく山幸彦、長子が海幸彦です。これが、弟の山幸彦が海幸彦の釣り針をなくし海神の宮殿に行く物語になります。

 山幸彦は、海神の綿津見神(わたつみのかみ)の娘、豊玉毘売命(とよたまびめのみこと)と結婚し、生まれた御子の名を鵜茸草茸不合命(うがやふきあえずのみこと)といいます。そして、叔母である玉依毘売命(たまよりびめ・母の妹)をめとり四人の御子を生み、その末子の若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が、後に初代・神武天皇となる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)です。神話は、後に神武東征の物語へと続きます。すなわち、日の御子からの血統が続いているということです。



<三種の神器>

 八咫鏡(やたのかがみ) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を三種の神器といいます。その神器は、皇居で奉斎(大切に保管され祭祀がおこなわれる)されていましたが、現在、八咫鏡と草薙剣は、伊勢神宮と熱田神宮に祀られていますので、それら二種は、神霊が宿る形代(かたしろ)で皇居(賢所・剣璽の間)にて祀られ、これらを奉斎することで正当な帝(天皇)の証であるとされました。
 また、八咫鏡は知恵を、八尺瓊勾玉は慈悲深さや仁義(優しさ)を、草薙剣は勇気や武力を象徴しているという説もあります。   

 八咫鏡は、伊斯許理度売命が作り、第十一代垂仁天皇の御代に、皇居から、祀られる場所の変遷を経て伊勢神宮の内宮に祀られました。
 八尺瓊勾玉は玉祖命が作り、天の岩屋戸開きの時に、八咫鏡と一緒に榊の木に掛けられたといわれています。
 草薙剣は、須佐之男命(すさのおのみこと)が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出て天照大御神に奉納され、皇室が奉斎していましたが、第十代崇神天皇の時代に伊勢神宮に移され、第十二代景行天皇の時代に伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)が、東征に向かう日本武尊(倭建命 やまとたけるのみこと)に草薙剣を託しました。
 東征の途中、尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の祖先、宮簀媛(みやずひめ)の家に滞在し、無事東国平定の後、尾張に戻り二人は妹背(いもせ)の契りを交わします。日本武尊の逝去後、尾張に社を立て草薙剣を奉斎したのが熱田神宮の起源といわれています。
 この剣は元々天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれていましたが、東征中に賊によって草原に火を付けられた時、逆に、草を薙ぎ払いそれに火を付け、難を逃れたことから、草薙剣と呼ばれるようになったそうです。今でも、草薙・焼津といった地名が残り、縁の祭神を祀った神社があります。



<三大神勅>

 三大神勅は、天照大御神が天孫邇邇芸命に授けた“みことのり”といわれます。

 「宝祚天壌無窮(ほうそてんじょうむきゅう)の神勅」とは、

豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂國(みずほのくに)は、是吾(これあ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく 爾皇孫就(いましすめみまゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)えまさむこと、當(まさ)に天壌(あめつち)の與窮(むたきはま)りなかるべきものぞ。
 天照大御神がご自身の子孫こそ天皇として、天地とともに永遠に日本を治めるにふさわしいと示された神勅です。
 
 「寶鏡同床共殿(ほうきょうどうしょうきょうでん)の神勅」とは、

吾(あ)が兒(みこ)、此(こ)の寶鏡(たからのかがみ)を視(み)まさむこと、當(まさ)に吾(あれ)を視(み)るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を供(ひとつ)にし、以(も)て斎鏡(いはいのかがみ)と為(な)すべし。
 天照大御神が三種の神器の鏡を授けられた時、この鏡を私だと思い大切に祀るよう、命じた神勅です。伊勢神宮に祀られた寶鏡は、大切に祀られ、国の重要な行事の前後に、天皇は、報告と祈願をするため必ずお参りに行きます。

 「斎庭穂(ゆにわのいなほ)の神勅」は

吾(あ)が高天原(たかまのはら)に所御(きこしめ)す、斎庭(ゆには)の穂(いなほ)を以(も)て、亦吾(またあ)が兒(みこ)に御(まか)せまつる。
 天照大御神が「人々の食の中心」として高天原で育てた神聖な稲穂を地上に授け
たことを伝えた神勅です。お米を中心とした食文化が、今でも途絶えることなく続いているのは、お米が神様からの賜りものと伝わっているからです。



<「みことのり」「詔勅」>

 今から2680年前、初代天皇の神武天皇が橿原の宮で即位します。そして国を肇(はじ)めます。神武元年1月1日(現2月11日)のことです。
 日本は米国のような建国ではなく、肇国(ちょうこく)なのです。初代神武天皇は、橿原建都の詔(みことのり)を宣べます。その後、歴代天皇はさまざまな重要なみことのりを宣べています。

 男系で各天皇を遡ることができるということは、歴代天皇の、みことのりに現れている精神を継ぐ、あるいは、その御心に立ち返る事ができるのではないかと思います。

 文学博士の井上順理氏は、錦正社『みことのり』刊行にあたって述べています。
 「歴代の天皇の御聖旨は、全く至公無私を旨として、常に専ら皇祖皇宗の御遺訓を継承実現するにありとせられてきた。否、逆にいえば、祖宗の遺訓継承とそれの実現のみに只管専念されるからこそ、個人的には全く無私公平であられる。しかもかく全く至公無私であるという境地は、普通の人間には到底期待しえない正に超人的な境地であるから、古代天皇は人にして人に非ざる“現人神 あらひとがみ”又は“明神 あきつかみ”ともいわれてきたのであって、かかる人にて神の如き至公無私の人の意思こそ、正にあるべき理想的な国家の最高意思即ち主権意志である。」

 簡単にいうと、天皇の祖先の御遺訓(みことのり)を継承し、それを実現しているから天皇無私といわれる。その超人的な境地は一般人には無理であるから天皇は現人神といわれた。それは国家の最高意思であった。

 私が個人的に重要と思っている「みことのり」、そして、私の好みの「みことのり」を幾つか挙げます。



◎ 神武天皇 【橿原建都の令 ― 八紘為宇の詔 (抜粋)】

 夫(そ)れ大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義(ことわり)必ず時に随(したが)ふ。苟(いやしく)も民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば、何(なん)ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わむ。
 訳/そもそも聖人が制(のり)を立て、道理が正しく行われる。国民の利となるならば、どんなことでも聖(ひじり)の行う業(わざ)として間違いはない。
(私の解釈) 
  天皇は国民とともにあるので、国民の質により天皇も変わることになる。


◎仁徳天皇 【百姓の窮乏を察し郡臣に下し給える詔】 
      【三年の間課役を除き給ふの詔】
      【百姓の富めるを喜び給ふの詔】

 即位四年目の春、天皇は高台から国を眺め、各家に炊事のための竈の煙が昇っていないのを目にされました。民の生活が貧しいのを察せられ、三年間の税を止め苦しみを癒すよう仰せられました。ご自身も、御所の垣根が崩れ屋根に穴が開き、夜は星が床を照らす宮殿で過ごされたのです。
 三年後、竈の煙が満ちた国を見られ、ご自身の豊かさを皇后に語られます。朽ち果てた宮殿に住みいぶかしむ皇后に、民の豊かさが君主の豊かさなのだと天皇は仰せられました。 


◎聖徳太子 【七条憲法 三に曰(いわ)く (抜粋)】
 詔(みことのり)を承りては必ず慎め、慎まずむば自(おのずから)に敗れなむ。
 (私の解釈)みことのりを慎んでうけたまわなければ、日本は自ら滅ぶ。


◎明治天皇 【教育に関する勅語 (教育勅語)】
 この勅語は余りにも有名な勅語です。
 「・・・父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、・・・」
 日本の道の精華であり、私は、最高の勅語と思います。


◎昭和天皇 【米国及び英国に対する宣戦の詔書】
      【大東亜戦争終結の詔書】

 この二つの詔書は、本当に大切なことが書かれています。
 私はこの詔書で曇った心が救済されました。


◎四千から五千勅あるといわれる、「みことのり」への和歌を記します。

 明治天皇御製 
  伝え来て 国の宝と なりにけり 聖(ひじり)の御代の みことのりふみ

  すめろぎの 勅(みこと)かしこみ 美くしと 思う心は 神ぞ知るらむ (象山) 
  いくそたび 繰り返しつつ わが君の 勅(みこと)しよめば 涙こぼるる(玄瑞)


◎昭和23年6月19日
 衆議院本会議において、教育勅語等排除に関する決議によって「みことのり」は全て無効となった。
 内容は、「詔勅の根本理念が主権在君並びに、神話的国体観に基いている事実は、明らかに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。」というものである。
 私にとっては、まるで理不尽な言い掛かりにしか思えませんでした。

 日本は本当に悲しい国になってしまった。・・・
 みことのり排除決議と、所謂天皇の人間宣言をうけて、三島由紀夫氏の著書『英霊の聲(えいれいのこえ)』には、今の日本への予言ともいえる文章が載っています。(抜粋)

 ───────平和は世にみちみち 人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交わし 利害は錯綜し、敵味方も相結び、外国の金銭は人らを走らせ もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、邪なる戦のみ陰にはびこり 夫婦朋友も信ずる能わず いつわりの人間主義をたつきの糧となし 偽善の団欒は世をおおい 若人らは咽喉元をしめつけられつつ 怠惰と麻薬と闘争に かつまた望みなき小志の道へ 年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば 道徳の名の下に天下にひろげ 真実はおおいかくされ、真情は病み、ただ金よ金よと思いめぐらせば 人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき、・・・・・などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。


 「万世一系」とは、単に血統上だけのものでなくて、精神的にも一貫不断の継続を意味している事を見失ってはならないと思います。その精神的なものとは何か、それは、「日本の神話」や「みことのり」で示されています。
 男系で各天皇を遡ることができるということは、歴代天皇の、詔勅(みことのり)に現れている精神を継ぐ、あるいは、その大御心に立ち返る事ができるのではないかと思います。
 女系天皇では、別の男系にすり替わってしまい始めの一世となります。そうなると日本国の国体である貴重な国柄の万世一系の天皇ではなくなり、精神的な一貫不断の継続はますます難しくなることでしょう。その精神的なものが継続されなかった時、天皇は、皇道(こうどう)ではなくなり、権威ではなく権力となるでしょう。
 また、今の国民は、残念ながら、英国王室のようなカッコよくセレブな皇室を望んでいると思います。

 そもそも、天皇の問題は、結論が議論の前という有識者達が、戦後の憲法や法律により議論すべきものでなく、各界の代表が歴史や伝統を踏まえ検証して議論すべきと思います。

 前々から私が感じ思うことは、戦前、もしくは昭和の時代まで大切だったもの、「国体=日本国の貴重な国柄」「旧日本的な考え方」「大東亜戦争の調査検証」「本来の男女夫婦の役割」「家族・親族のあり方」「友達・同志とは」「地域の人達との結びつき」「人と自然の関わり方」「寺社の本来のあり方」「心身の健康のあり方」「日本人の死生観の変化」「改憲、国防とは」「英霊の護りたかったもの」「日本人の価値観の変化」「本来の幸せとは」「そもそも日本とは何か」「日本人とは」・・・等を考える事さえ、まるで災害でものを失うかのように、急激に失いつつあると思います。

 以上の文章は、戦後帰還した日本兵が「もう今の日本人には言っても仕方がない」と同じように感じていた、浅学非才な田舎の神主(私)が書いたもので、諸兄には大変僭越、皇室にも大変不敬(一般人が皇位について述べること)なものかと思います。文章中不快なものがありましたら、どうかお許しください。
                                (了)

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2019年07月23日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その43

   「合わせることで変わる」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 合わせることについて、最近感じたことを書いてみようと思います。
 というのも、自分自身が合わせられないことに大いに悩んだからです。そして、自分が感じていた問題を打開するきっかけになったのは、他でもない、師父と合わせて動くことがきっかけだったからです。

 誤解を恐れずに言えば、それまで合わせようとしていたことは表面的なことで終始しており、全く違ったということです。
 動きを合わせる、タイミングを合わせる、形を合わせる。それらのことはもちろん、大切なことだと思います。しかしそれよりももっと大事な、意識…と、そこまで高尚なことではないのかもしれませんが、心や気持ちを合わせないといけないということが、いつのまにか自分にはわからなくなってしまっていたようでした。
 人間にとって、何が体を動かすかというと、やっぱり心がなければ動かないのではないかと思います。そして、合わせるということはまた、対象を見て真似る、という隙間さえもなく、時間と空間を離れたところに、同時にあることでなければならないのではないかと思います。
 そうでなければ、機械仕掛けの人形がやればいいだけなのですから。

 反省の意味も込めて書かせてもらいます。少し前までの自分の様子を見ていた人はお分かりかと思いますが、本当に、やることなすことダメになってしまっていたように感じていました。
 その時も、稽古で師父と一緒に動く機会を頂いていたというのに、頭の中では「ああ、やっぱりぜんぜん合わない、ダメだ…」ということばかりが渦巻いていました。手に持った電動ライフルの重みが、そのまま心の重さにプラスされているような気分でした。
 やりたくてやっているはずなのに、一体どうしてこうなってしまっているんだろう、自分は何をしているんだろう、と、抜け出せない状態でした。
 このまま、自分は完全にダメになって終わりかもしれない、そう思ったときです。
 どうせダメなら、最後までやりきってダメになってやろう、と、心の中で言っている自分に気づきました。
 或いはそれは、目の前を歩く師父が、言葉ではなく語られた声だったのかもしれません。
 本当に、それでいいのか、と。

 そこで、自分自身のスイッチがカチッと、本当に入ったような感覚があったのです。
 目の前の師父に合わせる…真似をするのではなく、おんなじに動くのだと。
 ただ見て真似るのでは間に合わず、見えない腕が自分から生えてがっしりと掴むような、あるいは自分が体から抜け出て師父と一緒に動いているかのように…。
 そうして歩いていると、離れた場所にいるのに、師父の隣に立って動いているかのように、隔てた距離に関係なく、まるで体温さえも確かな手応えを持って感じられたかのようでした。
 「少し合わせられきた、変わってきた」という言葉をいただくことで、それが自分だけの勘違いではない、確かなことなのだと確信が持てました。
 そして同時に、自分はこの感覚を確かに知っていたはずなのに…どうしてわからなくなってしまっていたのか…。

 大切な何かを理解するためには、一挙手一投足を作り出している自らの、原点に立ち返らなければならないのではないかと思います。
 体の動きが合わないのも、まず自らの心がひとつに合っていなかったからではないでしょうか。そんな中では、誰かと合わせるなどというのは不可能なことだと身をもって味わいました。
 その、大事にしている何かに、合わせようとしてはじめて、そのズレは急に埋まりはじめたように確かに感じられたのです。不思議な体験ではありましたが、確かに、その時を境に自分が変わっていったのが感じられます。

 合わせて動く。ただ動作だけではなく、考え方や、心まで合わせようとする。
 距離も時間も超えた先で、重なるようにして一緒に在ることができたら、その中ではたとえそれができなくても取り繕うことができないというか、その必要さえも感じられません。ただ、ありのままの自分をさらけ出して、隣に、いや、一緒に立って動いていればいいだけという気分でした。
 その中で、頭は冷静に違いを見極めて、次の、その次の一歩に活かしていかなければいけません。けれどそれもまた、同時に楽器をかき鳴らしてセッションをしているときのように心地いい感覚さえ伴っています。それは、あたかも本物の楽器に囲まれた中で、初めて音楽を体験したときのような気分です。
 つたないながらも、ぎこちないながらも、確かに本物の音が生まれてくるのです。そして自分もまた、その一員として、音を生み出すのだという手応えがありました。
 避けていたこと、恐れていたことが幻想だと思い知るには十分な体験であり、そこには上達していく過程での困難さはあれど、それは苦痛とは違う、喜びに近い感覚でした。

 合わせようとすることで、発せられた熱が、自分の中に入り込み、体を満たしていくような感覚があります。朧げながらも、これが受け取るということなのか?と思わされます。
 受け取るということは、観念としてある言葉ではなく、もっと即物的でリアリティのある何かを、自分の中に宿されることなのではないでしょうか。そう感じられるようなエネルギーが、確かに師父から自分の中に降り注いでくるのを感じられました。
 それはもちろん、自分だけに降り注いでいるわけではなくて、本当はずっとそこに、実際に、師父から与えられ続けていたもので、ただ自分が気づいていなくて、取りこぼし続けていたことなのかもしれません。
 重さを持った熱の塊に感じられるもの、それが自分の中に入り込み、内側から自分という人間を変えていってくれるという高揚感。そこで感じられる実感に比べれば、自分が教わったことを稽古していると思い込んでやっていたことの、いかに浅はかなことかが、思い知らされます。

 自分の中のものが、少しずつ人間として大事な気持ちや心を取り戻していくように思え、心身ともに、まず血肉の通った人間として存在しないことには、「本物」などわからないのではないかと思います。
 さんざん言われていたことが、ようやく、わずかながらでも、実感を持って味わえたような気分です。

 合わせることで、自分で陥ってしまったどん底にいるような感覚に少しずつ変化が生まれてきました。同時に、どれだけ貴重で大切な機会を、知らずに無駄にしていたかという後悔も生まれてきます。
 ですが、時間は過去には戻せません。これから先、どれだけ自分が変わっていけるかを、自分に問わなければなりません。それこそが、自分の状態を理解しながらも、厳しく、そして何より優しく見守っていてくださった師父にできる恩返しだと思うからです。
 もちろん、まだ惑うことも出てくるでしょうし、殆んど全てわからないことばかりです。けれど、あの時確かに感じた、合わせるということ…この実感だけは、もはや忘れようもなく自分の中に、確かに息づいているのです。
 そこで感じられた熱は、はっきりと、これから先も自分を後押ししてくれる原動力となってくれるのだと確信しています。

                                 (了)


 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その44」の掲載は、9月22日(日)の予定です


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