門人随想

2019年07月23日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その43

   「合わせることで変わる」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 合わせることについて、最近感じたことを書いてみようと思います。
 というのも、自分自身が合わせられないことに大いに悩んだからです。そして、自分が感じていた問題を打開するきっかけになったのは、他でもない、師父と合わせて動くことがきっかけだったからです。

 誤解を恐れずに言えば、それまで合わせようとしていたことは表面的なことで終始しており、全く違ったということです。
 動きを合わせる、タイミングを合わせる、形を合わせる。それらのことはもちろん、大切なことだと思います。しかしそれよりももっと大事な、意識…と、そこまで高尚なことではないのかもしれませんが、心や気持ちを合わせないといけないということが、いつのまにか自分にはわからなくなってしまっていたようでした。
 人間にとって、何が体を動かすかというと、やっぱり心がなければ動かないのではないかと思います。そして、合わせるということはまた、対象を見て真似る、という隙間さえもなく、時間と空間を離れたところに、同時にあることでなければならないのではないかと思います。
 そうでなければ、機械仕掛けの人形がやればいいだけなのですから。

 反省の意味も込めて書かせてもらいます。少し前までの自分の様子を見ていた人はお分かりかと思いますが、本当に、やることなすことダメになってしまっていたように感じていました。
 その時も、稽古で師父と一緒に動く機会を頂いていたというのに、頭の中では「ああ、やっぱりぜんぜん合わない、ダメだ…」ということばかりが渦巻いていました。手に持った電動ライフルの重みが、そのまま心の重さにプラスされているような気分でした。
 やりたくてやっているはずなのに、一体どうしてこうなってしまっているんだろう、自分は何をしているんだろう、と、抜け出せない状態でした。
 このまま、自分は完全にダメになって終わりかもしれない、そう思ったときです。
 どうせダメなら、最後までやりきってダメになってやろう、と、心の中で言っている自分に気づきました。
 或いはそれは、目の前を歩く師父が、言葉ではなく語られた声だったのかもしれません。
 本当に、それでいいのか、と。

 そこで、自分自身のスイッチがカチッと、本当に入ったような感覚があったのです。
 目の前の師父に合わせる…真似をするのではなく、おんなじに動くのだと。
 ただ見て真似るのでは間に合わず、見えない腕が自分から生えてがっしりと掴むような、あるいは自分が体から抜け出て師父と一緒に動いているかのように…。
 そうして歩いていると、離れた場所にいるのに、師父の隣に立って動いているかのように、隔てた距離に関係なく、まるで体温さえも確かな手応えを持って感じられたかのようでした。
 「少し合わせられきた、変わってきた」という言葉をいただくことで、それが自分だけの勘違いではない、確かなことなのだと確信が持てました。
 そして同時に、自分はこの感覚を確かに知っていたはずなのに…どうしてわからなくなってしまっていたのか…。

 大切な何かを理解するためには、一挙手一投足を作り出している自らの、原点に立ち返らなければならないのではないかと思います。
 体の動きが合わないのも、まず自らの心がひとつに合っていなかったからではないでしょうか。そんな中では、誰かと合わせるなどというのは不可能なことだと身をもって味わいました。
 その、大事にしている何かに、合わせようとしてはじめて、そのズレは急に埋まりはじめたように確かに感じられたのです。不思議な体験ではありましたが、確かに、その時を境に自分が変わっていったのが感じられます。

 合わせて動く。ただ動作だけではなく、考え方や、心まで合わせようとする。
 距離も時間も超えた先で、重なるようにして一緒に在ることができたら、その中ではたとえそれができなくても取り繕うことができないというか、その必要さえも感じられません。ただ、ありのままの自分をさらけ出して、隣に、いや、一緒に立って動いていればいいだけという気分でした。
 その中で、頭は冷静に違いを見極めて、次の、その次の一歩に活かしていかなければいけません。けれどそれもまた、同時に楽器をかき鳴らしてセッションをしているときのように心地いい感覚さえ伴っています。それは、あたかも本物の楽器に囲まれた中で、初めて音楽を体験したときのような気分です。
 つたないながらも、ぎこちないながらも、確かに本物の音が生まれてくるのです。そして自分もまた、その一員として、音を生み出すのだという手応えがありました。
 避けていたこと、恐れていたことが幻想だと思い知るには十分な体験であり、そこには上達していく過程での困難さはあれど、それは苦痛とは違う、喜びに近い感覚でした。

 合わせようとすることで、発せられた熱が、自分の中に入り込み、体を満たしていくような感覚があります。朧げながらも、これが受け取るということなのか?と思わされます。
 受け取るということは、観念としてある言葉ではなく、もっと即物的でリアリティのある何かを、自分の中に宿されることなのではないでしょうか。そう感じられるようなエネルギーが、確かに師父から自分の中に降り注いでくるのを感じられました。
 それはもちろん、自分だけに降り注いでいるわけではなくて、本当はずっとそこに、実際に、師父から与えられ続けていたもので、ただ自分が気づいていなくて、取りこぼし続けていたことなのかもしれません。
 重さを持った熱の塊に感じられるもの、それが自分の中に入り込み、内側から自分という人間を変えていってくれるという高揚感。そこで感じられる実感に比べれば、自分が教わったことを稽古していると思い込んでやっていたことの、いかに浅はかなことかが、思い知らされます。

 自分の中のものが、少しずつ人間として大事な気持ちや心を取り戻していくように思え、心身ともに、まず血肉の通った人間として存在しないことには、「本物」などわからないのではないかと思います。
 さんざん言われていたことが、ようやく、わずかながらでも、実感を持って味わえたような気分です。

 合わせることで、自分で陥ってしまったどん底にいるような感覚に少しずつ変化が生まれてきました。同時に、どれだけ貴重で大切な機会を、知らずに無駄にしていたかという後悔も生まれてきます。
 ですが、時間は過去には戻せません。これから先、どれだけ自分が変わっていけるかを、自分に問わなければなりません。それこそが、自分の状態を理解しながらも、厳しく、そして何より優しく見守っていてくださった師父にできる恩返しだと思うからです。
 もちろん、まだ惑うことも出てくるでしょうし、殆んど全てわからないことばかりです。けれど、あの時確かに感じた、合わせるということ…この実感だけは、もはや忘れようもなく自分の中に、確かに息づいているのです。
 そこで感じられた熱は、はっきりと、これから先も自分を後押ししてくれる原動力となってくれるのだと確信しています。

                                 (了)


 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その44」の掲載は、9月22日(日)の予定です


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2019年05月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その42

   「弱さを知る」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 武術を稽古することの目的のひとつに、強くなることがあると思います。
 元々は、敵対する他者との闘争の手段として発展してきた武術は、当然のことながら自身を害しようとする人間よりも強くなければ、自らの身や、大切なものを守れません。

 ところが現代社会では、それまでは当たり前としてあった「強いものが正義」という考え方は、すでに過去のものとなりつつあります。国家間の紛争を解決する手段であった「戦争」という行為でさえ、第一次大戦後の1928年に締結されたパリ不戦条約以降、自衛以外の戦争は違法行為であると、国際的に認識されています。理由を作って、戦争を仕掛けていい時代は国際法的にも終わりを迎えています。
 また日常生活を送る中で、だれかが気に入らないから殴って言い聞かせてやろう、などということは、当然のことながら許されません。
 しかし、だからといって相手はこちらを害することを止めるということにはなりません。
単純に暴力に頼るという意味ではない中で、自分の身を守る手段は、自ら持っていなければ生きていくことができません。

 そのような中で生きる自分のような人間は、強さや弱さを、一体どのように考えていったらいいのでしょうか。

 太極武藝館の稽古をしていて感じるのは、人間の強さや弱さというのは、腕っ節の強さではなく、もっと他の部分にあるのではないかという点です。
 稽古中、たとえば対練をしていてだれかに崩されたとして、そのことに関して「弱い」と非難されることは決してありません。
 そもそも、試合形式のトレーニングをすることがないので、誰かと勝敗を比較して、優劣を決めるということはありません。勝ったから強い、負けたから弱いということはありません。

 これは考え方を変えれば、非常に洗練されたことであるといえると思います。
 武道をやっていない普通の人に話をしても、試合で勝敗を決めないのなら一体なにをやっているのか?と、なかなか理解してもらえないということは、ざらにあります。

 それよりも大切なことは、どのように稽古に取り組んでいるかだと思います。もちろん結果が伴わなければ稽古をしている意味はないですが、その結果が伴うかどうかという点も、端的に言って稽古への取り組み方に左右されるのだと思います。

 自分自身、稽古で壁にぶつかることはよくあることですし、自分が何にぶつかって戸惑っているのかわからず、そのためどうしていいか、打開する方法など全くわからないということもあります。
 そうしたとき、どうしても普段のやりかたとして、自分を強くすることで、つまり弱い部分を突っぱねようとすることで問題の解決に当たってしまうことがあります。
 本当の問題が「強くないこと」にあるのではなく「弱い」部分にあるのだということは、冷静に頭を働かせれば見えてくるのですが、問題の渦中にいる自分には、その部分が見えて来ず、すぐに結果が出そうな部分、強くあればいいという考え方にしがみついてしまうように感じます。
 当然のことながら問題は解決せず、時間が経つにつれて、むしろ複雑になっていくだけに感じられるものです。

 どうしたらいいかわからず、悶々とした日々を過ごす中でようやく、強くなろうとすることと弱さを知ることは全く違うことなのではないか、と思い至りました。
 自分だけでわかることはできず、色々と多くの人に心配や迷惑をかけながら、そう理解させてもらえるように導いていただいたおかげだと思います。

 自分がやることが何もかもうまくいかないように思え、どうしていいかわからなくなってしまったとき、師父に掛けていただいた言葉がありました。
 人間というのは、進化の途上にあって弱いものだから、うまくいかないことがあって当たり前だ、と。だから、そこから逃げずに立ち向かえるかどうかで、人間が決まるのだ、と。

 自分がうまくいかない原因は自分の中にあると思いながらも、それは自分の弱い部分を見ていないからではなく、自分に物事を解決していけるだけの強さがないからだ、と思い込んでいた自分には、ぱっと視界が開けるような言葉に感じられました。

 ただ強くなろうとするだけだと、自分の中にある弱い部分を隠すようになり、いつのまにか、他の人から見えないように、そして何より自分から見えないように蓋をしてしまうようになります。
 そうなると、問題の根本はそこにあるのに、いつしか取り繕うことばかりに労力を使うようになり、本当に必要な解決にまで力が注げなくなっていってしまうようでした。

 もちろん、見える人にはそれが見えているのだと思いますが、自分は隠すことに必死になり、その弱い部分にふくまれている本当の自分が見えなくなってしまいます。
 そんな中で、自分を見つめていかなければいけないことなどできるわけがありませんでした。

 現状で問題が解決はしていないのですが、問題として隠していた部分には、少しだけ光が当たってきたように感じます。それがどのようになっていくのかはわかりませんが、分からずにふさぎ込んでいたときよりは、一歩前進しているのではないかと思います。

 自分の中の弱さを知っていくことは、そのまま本来の自分がどのような存在であるかを知っていく過程に繋がっていると思います。
 そうすることで始めて、本当に自分ができることは何なのかが、見えてくるのではないかと思います。

 太極拳はだれにでも出来る、と師父は仰いますが、それが簡単には見えてこないのは、自分の中にある能力を、本当は自分自身が一番見出せていないからなのかもしれません。
 特に、画一的な教育を受けてきた自分たちの世代にとって、能力とは他者との比較で測られるものであり、その中で優劣を決められるものでした。
 自分の中にあるものが他者とは比べられない唯一のものであったり、また能力が伸びていく道筋や時間も唯一のものであった場合、それらの比較の仕方では、本来の能力など伸ばしていけるわけはないと思います。
 そうして画一的に育てられれ評価されてきた人たちが、いざ、自分の本来の姿を見つけろと言われても、なかなか簡単にはいかないのではないでしょうか。

 そこから脱却していけるかどうかが、太極拳のみならず、これからより良く生きていくために、自分も含め、多くの人々には必要になってくることではないかと思います。
 そうして初めて、太極拳が理解できる土台が出来上がるのだとしたら、それに取り組まない理由はないのではないかと思います。

                                 (了)



 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その43」の掲載は、7月22日(月)の予定です


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2019年04月18日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その41

  「動くということ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 最近、研究会で行われているガンハンドリングの稽古をしているときに、「体が動いていない」という注意を受けます。

 師父の動きを拝見していると、銃を構えるとき、手だけの動きにならずに、わずかな動きに際しても全身が同調して動いているのが見て取れます。
 振り返って自分の動きを見てみるとどうでしょうか。

 鏡に自分の姿を写してみると、銃を持ち上げる腕は肩から先の動きが主であり、足腰は重く、地面に居ついているように見えます。
 師父がさながら、いつでも獲物に飛び掛かることのできる動物だとすると、こちらはドッシリと待ち構え、動きのとれない置物のようにさえ見えます。
 どうしてこのような違いが生まれてしまうのでしょうか。


 人間が野生の中で、狩猟採集民として生活していた時代、現代人に比べて人間の体はもっと活動的であり、動く量が多かったと言われています。
 考えてみれば当たり前のことですが、自分の足で動き回り、体を使って食料となる動植物を集めないことには、生活そのものが成り立ちません。
 現代人の生活を見てみると、たいして体を使わなくても生きていくことができるような社会が出来上がってしまっています。
 古くはギリシャ・ローマ時代の貴族たちの時でさえ、身の回りのことは全て奴隷が執り行い、自分は何もしなくても生活できるような社会になっていたらしく、それではいけない、健康によくないということで運動をするようになり、それがスポーツの起源となったという話があります。

 言葉でいうと体を使う、動くという表現になっても、武術的な体の動きは、生き残るための必要性から生じたものだと思います。
 それと比べ、スポーツはその成り立ちからしてすでに違うところから生じており、スポーツ的な発想では武術の体の使い方ができないというのも、頷けます。

 ガンハンドリングの稽古の最中に自分が受けた注意として、「体が動かない」という点と「的当て」になってしまっているというものがあります。
 スポーツとして銃を扱うのなら、的にどれだけ当たるかが争点となるので、極端な話、体など動かなくてもいいということになります。
 自分の頭に染み付いてしまっている考え方の根は深く、好き好んでやろうとしているわけではなくても、どうしても出てきてしまうものです。これは、しっかりと解決していかないといけない課題です。


 最近の科学的な研究によると、そもそも人間の体は、カウチソファでのんびり過ごすようには出来ておらず、体を動かしていないとその機能が低下し、健康を害するとのことです。
 比較としてよく出されるのは、チンパンジーやゴリラなどの類人猿ですが、彼らは一日の運動量が、人間とくらべかなり少ないことが明らかになっています。
 移動距離もせいぜい1日数キロで、移動した先で食料を食べ続けるのが主な生活です。
 面白いのは、ゴリラなどはぜんぜん体を使わない生活をしていても、心筋梗塞などの生活習慣病のリスクが上がらないのですが、人間が同じ生活をすると、とたんに病気になるリスクが上昇するという研究結果です。
 そもそもの構造からして、人間の体は、野生動物以上に動く必要性がある造りになっているということのようです。
 逆に言えば、人間は他の野生動物以上に、動き続けることのできる動物ということです。
 野生に生きる動物は、わりと止まっていることが多いのに対し、人間は一日中動き続けることのできる生き物です。それは、野生環境を生き抜く上では、かなり有利に働いたはずです。

 少し話が逸れましたが、我々現代人も、体の構造という点では、野生を生きていた先祖たちと同じ造りをしており、そもそもが体を動かし続けることに特化した生き物であるはずです。
 体が使われなくなった理由としては、やはり生活でその必要性がなくなったからという点が挙げられると思います。

 では、戦闘状態に置かれた場合、果たして動かずに生き延びるということが可能でしょうか。
 そんなことはありえない、と言えるはずです。
 日常生活にどっぷりと浸かった思考からでは、たったひとつ銃を持ち上げるという動作を取っても、体を使わずに行われてしまいます。
 これはどうにかしないといけません。

 常々、師父に指摘して頂いている通り、一般的な日常生活の中には、危機感が不足していると思います。何かが起きたとき、とっさに動けるかそうでないかは、まさに生死を分かつ問題であるはずなのに、なかなかそれが省みられることがありません。

 人間という生き物の体に対する不理解と、そこから作り上げられた社会生活にどっぷりと浸かった考え方。
 日常生活の中においてさえ、それらは最終的に健康を害することにつながり、人として良く生きることを妨げることになります。
 ましてや、戦闘という極限状態を考えるなら、それらは即座に命を危険に晒すことにつながるはずです。

 とにもかくにも、「動けるか」どうかということは、短期的に自らの命をリスクに晒すことであり、長期的に見ても、自らをリスクにさらすことにつながる問題だと思います。
 いつか、とか、いずれどうにかするではなく、今まさに解決しなければならない喫緊の問題であるはずです。

 ガンハンドリングという、普通ではやらない課題を与えられることで、その中に出てくる自分の考え方が、あぶり出されるように感じます。
 その課題と向き合い、解決していくことが、太極拳のみならず、生きていく上での問題とも関わっていくことになると感じます。

                                  (了)


 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その42」の掲載は、5月22日(水)の予定です


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2019年02月19日

門人随想 「日の出」

                  by 拝師正式門人  西 川 敦 玄



 平成31年が始まりました。平成最後の年で新しい年号が始まる年です。筆を走らせている今、いささか時期を逸しているのですが、歳の瀬から年始にかけての風景を眺めてみます。

 毎年年が明けると清々しい気持ちになります。家族、親族、人によっては友人と、あるいは一人で夜半を過ごし、歳を越し、翌朝には初日の出を拝みます(私は実際には上がってしまった日を拝んでいるのですが)。一年の区切りをつけて、新しい一年に向けて思いを新たにします。では、お正月とは特別な一日なのでしょうか。

 日の出という現象は、ご存知のように地球の自転によって太陽光が東より差し込む現象です。地球を俯瞰する視点に立てば、日が出るとの表現は正確ではありません。日が出る(昇る)というのは、自分という視点から入光を表現したものです。初日の出とは北半球において考えると、地軸が太陽と遠ざかるように最大限に傾いた太陽と地球の関係(冬至)から、地球が9回ほど自転した時期において、ある時点での太陽光の照射開始時とでも言えば良いでしょうか。こうしてみると、太陽暦の1月1日に天文学的視点で特別な意味はなさそうです。
 それでも、私たちは地球が太陽のまわりを一周回った記念のひとして、次の公転にむけて気持ちを新たにしているわけです。
 一方で、文化的な側面に向けてみれば、1月1日が特別な日であることに異論を唱える人は少ないはずです。 日の出は日常で繰り返される現象ですが、大晦日から正月にかけてのそれは、世界中で非日常的な一日として過ごすことが多いのではないでしょうか。
 しかし、10年、20年と月日が経てば、幼少期には非日常の風景であったものが、年中行事として予定された行事、日常のイベントの一つとなります。一生を考えると何十回となく経験するわけですし、同じ民族でいえば、何百回となく経験してきている日常の風景とも言えます。
 お正月の行事、初日の出、初詣が非日常ではないとすると、日常や非日常といった考え方も簡単には捉えられないものと思ったほうが良いでしょう。

 では、反対に日常の生活を決まったように送るということは、日常的なのでしょうか。
ここで、いささか極端な例を思いだしました。
 ドイツの哲学者にカントという人がいます。著作はあまり読んだことが無いのですが、学術的業績のほかに、規則正しい生活習慣で知られた人です。
 有名な逸話だと思いますが、彼の日常は細部まで日々同じように送り、散歩の道まで決まっていたそうです。そして、散歩の道沿いに住んでいる人はその姿をみて時計の狂いを直したと言われているエピソードがあります。
 日常の生活が日々を決まったように過ごすことと仮定するならば、これなどは、もっとも毎日を日常的に生きていると言えると思います。しかし、これを誰も真似できませんし、私達の生活では規則正しく毎日物事が進むことはありえない訳です。
 このようにカントの如く日常を過ごすことは、私たちにとっては非日常と言えると思います。しかし、強制的に時間を整えることに鍵があるわけではないでしょう。そこを非日常の要点とみると、日常性と非日常を取り違えそうです。
 それでは、何が日常を非日常たらしめているのでしょうか。そこには、意志の力、積極的に自己を日常に関わらせていく力の働きがあるのだと思います。そして、面白いことに、まるで型にはまるような日常性のなかでの意志の発露こそが、非日常性を発揮する要点のようにみえます。

 では、私たちの日常生活はどのようなことで成り立っているのでしょう? 、日々の生活では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。
 ・・ん?!、 もしかして、以下のように言いかえても不自然ではないかもしれません。
 私たちの稽古では、立ったり座ったり、歩いたり、走ったりすることがあります。そうです。いつもの稽古です。私達が四苦八苦している、あの稽古です。
 元日をお正月の特別な一日として過ごすことをしてみても非日常とはならないように、稽古を特別なイベントとして行っても、非日常にはならないでしょう。つまり、稽古に出たときに(平日に対するお正月のように)、特別な歩き方をすることが非日常の歩き方ではないと思います。先ほど見たように、そこに意志の発露があることで、非日常性を発揮するのだと思います。
 しかし、如何に意志の力の発露が大事とはいえ、稽古にでている特別な環境が、意識を非日常に向かわせてくれることに変わりはありません。また、一年の節目になる日も同様に特別な環境です。

 今年も例年と同じように年が明けて、新しい年が始まりました。
 平成最後の歳の始まりを、私は新鮮な気分で、厳かに、希望をもって迎え、前に進んでいきたいと思っています。

                                  (了)


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2017年05月22日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その31

   「 くう ねる いきる」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



何気ない日常生活を送っていると、ふと気がつくと、自分が生きている実感がほとんど伴っていない、ということがあります。
 
武術とは非日常の世界であり、生き残るための技法である…。
 
そういう気持ちで取り組んでいるはずの、高度な武術の稽古の裏側で、実際に多くの時間を過ごしているのはふだんの生活です。
仕事をし、家に帰り、稽古に行き、また帰ってくる。
もう何年も続いている、日常生活の中で、なぜ生きている実感を感じられない瞬間があるのでしょうか。
 
それは単に寝不足で疲れていたり、なにか悩みがあったりとか、そういった些細なことの積み重ねで、ほんの少しずつ歯車がずれてしまっていると感じている、そういうことでしかないのかもしれません。
 
けど、自分に限らず多くの現代人の生活を見てみると、生きることとは一見無関係にも思えるような仕事に取り組み、生活の糧を得ているはずです。
必要なものがあればコンビニやスーパーで買いそろえ、インターネットで注文すればたいていのものが手に入る時代です。
もちろん、それは否定しません。
ですが自分自身のこととして、生きるために何が必要なのか、そこのところがまったくわからなくなってしまっているようでした。
 
 
今年に入り、研究会では特別稽古として、数回の野外訓練を行いました。
研究会の野外訓練! というと一般門人の方の中には、
「相当特別なすごいことをやっているに違いない…!」
と、内容を聞いてこられた方もいますが、実際には、まだふつうのキャンプを行いながら、野外での活動に慣れるといったことと、それにプラスして少しずつ課題が増やされ、野外での体の使い方を学習していくといったものです。
野外での体の使い方とは、師父から教示される軍隊の訓練に準じたものや、太極武藝館独自の学習体系に沿った訓練などです。
 
野外での訓練といっても、そこは太極武藝館の稽古ですから、食事まで徹底的に抜かりなく、素晴らしいものをいただくことになるわけです。
前回の訓練では、師父お手製の特製カレーをふるまっていただき、おいしく味わわせていただきました。
特別に参加していた一般門人のI(アイ)くんは、
「普段の食事より豪華な物を食べている」「こんな御馳走は味わったことがない」
と言い、何回もおかわりをもらっていました。
本当においしかったです。
 
 
しかし、研究会のメンバーはただ食事にありつけるということはなく、ちゃんと課題を与えられていました。
それは、カレーは師父の御好意で用意していただけるので、ご飯は自分で炊く、というものでした。
いくつか条件があり、
 
 1、使って良い火は焚火のみ
 
 2、火口(ほくち)は現地調達出来るものだけ
 
 3、着火具はメタルマッチ(ファイヤースターター)で
 
あとから知ったところでは、ウッドストーブ(註:ガスやアルコールなどの燃料を使わず、小枝などを燃やして使うキャンプ用コンロ)は使用可能だったそうですが、自分は持っていなかったので関係がなかったのでした…。
 
とにかく、そういった条件が出揃い、脳裏をよぎったのは数年前に行われた最初の野外訓練での課題でした。
 
雨が降ったあと、新聞紙とマッチだけで焚火をするというものです。
それはもう、いまだに語り草になるほど散々な結果でした…。
条件がそれほど悪かったわけではありません。ただ、自分のスキルのなさが痛感させられたのです。
 
火をおこし、ご飯が炊けなければ食べるものはない。
昔だったら、ごく当たり前の話だったはずです。ただ、現代ではそれ以外の手段がいくらでもとれるため、たったそれだけのことで食事にありつけないということがないわけです。
 
今回のキャンプ事前の天気予報では、その日は雨が降るかもしれない、ということでした。
これは非常にまずいです。慣れた人からすれば「なんだそんなことくらいで」と思うかもしれません。
そうなのです。自分が「なんだそんなことくらい」と思えるようになる為の訓練なのです。その時の自分にとっては、一大事だったのでした。
 
 
幸いにも(不幸にもというべきでしょうか)、キャンプ当日は雨も降らず、焚火を行うためのコンディションは悪くない状態でした。
やらなければならないことは、テント・タープの設営、メインとなる焚火・かまどの設営、そこで使うための薪集め、それから自分用の焚火と薪の用意でした。
 
もたもたしていては日が暮れてしまいます。
効率よく動くためにはどうしたらいいか、自分だけでなくまわりの人の状況もみながら動く必要があります。
何回かキャンプをしてきたぶんは、どうしたらいいかが分かってきているようにも感じました。
反省点はまだまだあるので、次回以降に生かしていきたいと思います。
 
 
焚火をするうえで一番の課題だったのが、一番最初に火をつける火口がないというところでした。麻紐をほぐしたものを試してみよう!とお気楽に考えていた自分が本当に憎らしいものです。
 
道具は現地で調達出来るものだけ、あと頼れるのは自分のみ、です。
落ちていた木を細かく削ってみるものの、先日までの雨で木は湿っており、簡単には火がついてくれません。
そうしているうちにあたりは暗くなり始め、何かを探しに行く時間もなくなっていきます。
どうにかしないとご飯が食べられません。
ささいなことですが、目の前に差し迫った危機のひとつではあります。
 
幸い、杉の木や枝はそこらじゅうに転がっており、おもな燃料として集めてありました。
なので、事前に勉強してあった方法を試してみることにしました。
 
「備えよ常に!」
 
まさにサバイバルとは知識ですね。
知識だけではダメですが、それを使えるようになっていれば、実に役に立つものです。
 
まず、出来るだけ乾いている杉の枝から皮をナイフではぎ取ります。
皮がある程度集まったら、それを手のひらでひたすら揉みます。
しばらく揉んでいると、杉の皮が繊維状にばらばらになり、ふわふわした綿状になってきたら火口の完成です。
試そうと思っていた麻紐ほどではありませんが、それでも十分に使えそうな状態にはなりました。
 
かまどは事前に、石を積み上げて作っておきました。
ご飯を炊き始めたら、火力が調整出来るように動かせる…というふうに作った(つもりの)ものです。
 
そこに薪、小枝、焚き付け、それからいま作った火口を用意し、火をつけます。
 
一発で点火!となったらよかったのですが、なかなかうまくいきません。
「やばーい! 火がつかない!」
などと散々騒いでいた記憶があります。それも野外の楽しみです(?)。
火口の状態がよくなかったようで、新たに作り直します。
手のひらいっぱいくらいの量で、最初よりももっとこまかくほぐします。
最終的に、それでうまくいってくれました。
 
メタルマッチから飛び出した火花が火口につき、そこから火が燃え上がります。
あわてて消してしまわないように、少しずつ小枝から大きな木へと火を移していきます。
火の状態を見ながら対話していきます。稽古と同じです。
 
ようやく焚火が安定してきたら、本題である炊飯へとうつります。
事前に水に浸してあった米を火にかけ、調理開始です。
 
少しアクシデントはあったものの(ふつうのクッカーでは蓋が吹っ飛びました…)、上手に炊き上げることができました。
家でガスの火で試したときよりも上手においしく炊けたのには驚きでした。
 
自分で焚火で炊いたご飯で、師父の手作りカレーをいただく。
なんという贅沢な時間でしょうか。
 
 
翌日の朝食と昼食も、研究会は自分で焚火を起こして調理をしました。
自分は簡単なコンソメスープと、パスタをつくりました。
 
師父のカレーのことを思うと、次回はもう少し、料理のバリエーションを増やさないといけないな、と思いました。何事も勉強です。
 
 
キャンプでは新調した一人用のテントを使ったのですが、もうテント泊はおしまいです。
「一回しか使ってないのに?」
とツッコまれながらも、次はタープ泊だ、とかたく心に決めたのです。
 
男は、つねにワイルドに生きなければならない生き物なのです。
 
そういうわけで、ゴールデンウィーク中の某日、稽古はお休みだったので個人的に、ゲリラキャンプもしくは野営というと聞こえはいいですが、いうなれば野宿へと強行スケジュールで出かけました。
場所は事前に決めてあったダム湖に隣接された公園です。
用意していったのはグリーンシート(ODカラーのブルーシート)とポンチョ(これは簡易タープにもなる便利なものです)、それからシュラフです。
 
休日が取れなかったので、夕方まで仕事をしてから、夜に出掛けるというスケジュールになってしまいました。なので、本当に寝て帰るだけとなりました。
 
バイクで走ること数十分、目的地に到着です。
 
心配していた雨も降りそうになく、最終的にはタープを張る手間もはぶいてしまい、グリーンシートを簡易シェルター代わりにして眠りました。
さえぎるものが何もなく、天上に広がる星が良く見えて綺麗でした。
 
もはやタープ泊でもなんでもありません。
ただ、緑のシートにくるまった人間が寝てるだけです。
気温は暖かく快適に眠れました。
ただ、明け方になると自分から出た水分でシート内が結露し、シュラフが濡れてきてしまいました。改善の余地ありです。
 
夜が明けると即座に片付けをし、簡単な朝食を食べて撤収しました。
 
季節が季節なので、寒くて命を落とすということはないですが、もっと事前に準備をしないといけない、と痛感しました。
 
 
今年になってから特に、野外で宿泊するという機会が増えました。
時間で言えばわずかなものですが、その一回一回が、大きな学びの機会となっているように思います。
 
今も、次にいつキャンプに行こうか、そこでは何をしようか、そのために何が必要か、と着実に準備を行っています。
言ってみれば、ハマってしまったわけですが、それまでの自分には考えられなかったことだと思います。
野外で活動することの楽しさにはまってしまうと、家の中でゆっくりしているのがだんだんともどかしく感じられ、どこでもいいから出掛けたくなってきます。
 
それはおそらく、キャンプでも焚火でもなんでもいいですが、それらがすべて、代わりの利かない本番だからではないか、と思うようになりました。
そしてそれらは、食べること、眠ることなど、生きていくことの本質に直接的に関わってきます。
ただ一晩眠れない、一食食べられないというだけでは、危機は命にまでは及びませんが、自分が不利になることだけは確かです。
ちょっとした判断ミスのひとつ、失敗のひとつが自身の能力をそこなう可能性を秘めているので、そういった気持ちを持って物事に取り組む必要が必然的に出てきます。
 
まわりの状況を見て、手元にあるものを最大限使い、自分の出来ることをフルに行わなければなりません。
その上で、十分な休息をとり、また次に備えなければなりません。
一回一回がリハーサルのない本番だからこそ、そこで得られたものは、成功であれ、失敗であれ、確実に次につながっていく糧として、自分の中に残っていきます。
 
生きることと自分の間に余計なことがない。
そのことが、楽しいことなのだと思いますし、そこに充実感があります。
 
野外でシートに包まって一回寝るだけで、屋根のあるところは、たとえテントでも贅沢なのだなと思い知ることが出来ました。本当に大したことではありません。ただどこにでもあるシートと寝袋を引っ張り出して外に出ただけで、そういう経験をすることが出来ました。
次はどうしようか考えるだけで、楽しくてしかたありませんね。
一応、良い子は真似しないでね、と言っておきますが。
 
翻って、それまでの普段の生活のことを考えてみると自分はどうだったでしょうか。
衣食住の心配もなく、それらがあることが当たり前であるという上で、他のことにかかずらって思い悩んでいたように感じます。
 
稽古をしていても、はっとさせられました。
果たして自分がどれだけ、一回の稽古を本番として取り組めていただろうか、ということにです。
毎回毎回真剣に行っていたつもりでも、どこかでは「これは練習だ」と思っていたのではないだろうかと。
稽古を本当の危機だと思えていたかというと、全く自信が持てません。
それほどまでに、感覚が鈍ってしまっていたのだと思います。
 
その点、師父に相手をしていただくと、一回の対練が代用の利かない本番であるという実感がはっきりと感じられます。それは、師父がそのように取り組んでいることの証だと思います。
それを自分はその瞬間、味わわせてもらっているのだと感じます。
 
それは言われて頭で分かるものでなければ、技術や体力をどれだけ向上させても、決して理解できる質のものではないように感じます。
 
 
それが分かっただけでも、自分には大きな収穫です。
 
もちろん、それで全てが一度に変化するわけではないとしても、自分の中に付いた火種は、最初はなかなか燃え上がらなくても、適切に育てていけば、きっと大きな炎になるはずです。
 
それがどうなるかはわかりませんが、自分の中に生まれた感覚を、大切にしていきたいと思います。
 

                                (了)




*次回、「今日も稽古で日が暮れる(その32)」の掲載は、7月22日(土)の予定です


disciples at 21:13コメント(18) この記事をクリップ!
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