門人随想

2017年05月22日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その31

   「 くう ねる いきる」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



何気ない日常生活を送っていると、ふと気がつくと、自分が生きている実感がほとんど伴っていない、ということがあります。
 
武術とは非日常の世界であり、生き残るための技法である…。
 
そういう気持ちで取り組んでいるはずの、高度な武術の稽古の裏側で、実際に多くの時間を過ごしているのはふだんの生活です。
仕事をし、家に帰り、稽古に行き、また帰ってくる。
もう何年も続いている、日常生活の中で、なぜ生きている実感を感じられない瞬間があるのでしょうか。
 
それは単に寝不足で疲れていたり、なにか悩みがあったりとか、そういった些細なことの積み重ねで、ほんの少しずつ歯車がずれてしまっていると感じている、そういうことでしかないのかもしれません。
 
けど、自分に限らず多くの現代人の生活を見てみると、生きることとは一見無関係にも思えるような仕事に取り組み、生活の糧を得ているはずです。
必要なものがあればコンビニやスーパーで買いそろえ、インターネットで注文すればたいていのものが手に入る時代です。
もちろん、それは否定しません。
ですが自分自身のこととして、生きるために何が必要なのか、そこのところがまったくわからなくなってしまっているようでした。
 
 
今年に入り、研究会では特別稽古として、数回の野外訓練を行いました。
研究会の野外訓練! というと一般門人の方の中には、
「相当特別なすごいことをやっているに違いない…!」
と、内容を聞いてこられた方もいますが、実際には、まだふつうのキャンプを行いながら、野外での活動に慣れるといったことと、それにプラスして少しずつ課題が増やされ、野外での体の使い方を学習していくといったものです。
野外での体の使い方とは、師父から教示される軍隊の訓練に準じたものや、太極武藝館独自の学習体系に沿った訓練などです。
 
野外での訓練といっても、そこは太極武藝館の稽古ですから、食事まで徹底的に抜かりなく、素晴らしいものをいただくことになるわけです。
前回の訓練では、師父お手製の特製カレーをふるまっていただき、おいしく味わわせていただきました。
特別に参加していた一般門人のI(アイ)くんは、
「普段の食事より豪華な物を食べている」「こんな御馳走は味わったことがない」
と言い、何回もおかわりをもらっていました。
本当においしかったです。
 
 
しかし、研究会のメンバーはただ食事にありつけるということはなく、ちゃんと課題を与えられていました。
それは、カレーは師父の御好意で用意していただけるので、ご飯は自分で炊く、というものでした。
いくつか条件があり、
 
 1、使って良い火は焚火のみ
 
 2、火口(ほくち)は現地調達出来るものだけ
 
 3、着火具はメタルマッチ(ファイヤースターター)で
 
あとから知ったところでは、ウッドストーブ(註:ガスやアルコールなどの燃料を使わず、小枝などを燃やして使うキャンプ用コンロ)は使用可能だったそうですが、自分は持っていなかったので関係がなかったのでした…。
 
とにかく、そういった条件が出揃い、脳裏をよぎったのは数年前に行われた最初の野外訓練での課題でした。
 
雨が降ったあと、新聞紙とマッチだけで焚火をするというものです。
それはもう、いまだに語り草になるほど散々な結果でした…。
条件がそれほど悪かったわけではありません。ただ、自分のスキルのなさが痛感させられたのです。
 
火をおこし、ご飯が炊けなければ食べるものはない。
昔だったら、ごく当たり前の話だったはずです。ただ、現代ではそれ以外の手段がいくらでもとれるため、たったそれだけのことで食事にありつけないということがないわけです。
 
今回のキャンプ事前の天気予報では、その日は雨が降るかもしれない、ということでした。
これは非常にまずいです。慣れた人からすれば「なんだそんなことくらいで」と思うかもしれません。
そうなのです。自分が「なんだそんなことくらい」と思えるようになる為の訓練なのです。その時の自分にとっては、一大事だったのでした。
 
 
幸いにも(不幸にもというべきでしょうか)、キャンプ当日は雨も降らず、焚火を行うためのコンディションは悪くない状態でした。
やらなければならないことは、テント・タープの設営、メインとなる焚火・かまどの設営、そこで使うための薪集め、それから自分用の焚火と薪の用意でした。
 
もたもたしていては日が暮れてしまいます。
効率よく動くためにはどうしたらいいか、自分だけでなくまわりの人の状況もみながら動く必要があります。
何回かキャンプをしてきたぶんは、どうしたらいいかが分かってきているようにも感じました。
反省点はまだまだあるので、次回以降に生かしていきたいと思います。
 
 
焚火をするうえで一番の課題だったのが、一番最初に火をつける火口がないというところでした。麻紐をほぐしたものを試してみよう!とお気楽に考えていた自分が本当に憎らしいものです。
 
道具は現地で調達出来るものだけ、あと頼れるのは自分のみ、です。
落ちていた木を細かく削ってみるものの、先日までの雨で木は湿っており、簡単には火がついてくれません。
そうしているうちにあたりは暗くなり始め、何かを探しに行く時間もなくなっていきます。
どうにかしないとご飯が食べられません。
ささいなことですが、目の前に差し迫った危機のひとつではあります。
 
幸い、杉の木や枝はそこらじゅうに転がっており、おもな燃料として集めてありました。
なので、事前に勉強してあった方法を試してみることにしました。
 
「備えよ常に!」
 
まさにサバイバルとは知識ですね。
知識だけではダメですが、それを使えるようになっていれば、実に役に立つものです。
 
まず、出来るだけ乾いている杉の枝から皮をナイフではぎ取ります。
皮がある程度集まったら、それを手のひらでひたすら揉みます。
しばらく揉んでいると、杉の皮が繊維状にばらばらになり、ふわふわした綿状になってきたら火口の完成です。
試そうと思っていた麻紐ほどではありませんが、それでも十分に使えそうな状態にはなりました。
 
かまどは事前に、石を積み上げて作っておきました。
ご飯を炊き始めたら、火力が調整出来るように動かせる…というふうに作った(つもりの)ものです。
 
そこに薪、小枝、焚き付け、それからいま作った火口を用意し、火をつけます。
 
一発で点火!となったらよかったのですが、なかなかうまくいきません。
「やばーい! 火がつかない!」
などと散々騒いでいた記憶があります。それも野外の楽しみです(?)。
火口の状態がよくなかったようで、新たに作り直します。
手のひらいっぱいくらいの量で、最初よりももっとこまかくほぐします。
最終的に、それでうまくいってくれました。
 
メタルマッチから飛び出した火花が火口につき、そこから火が燃え上がります。
あわてて消してしまわないように、少しずつ小枝から大きな木へと火を移していきます。
火の状態を見ながら対話していきます。稽古と同じです。
 
ようやく焚火が安定してきたら、本題である炊飯へとうつります。
事前に水に浸してあった米を火にかけ、調理開始です。
 
少しアクシデントはあったものの(ふつうのクッカーでは蓋が吹っ飛びました…)、上手に炊き上げることができました。
家でガスの火で試したときよりも上手においしく炊けたのには驚きでした。
 
自分で焚火で炊いたご飯で、師父の手作りカレーをいただく。
なんという贅沢な時間でしょうか。
 
 
翌日の朝食と昼食も、研究会は自分で焚火を起こして調理をしました。
自分は簡単なコンソメスープと、パスタをつくりました。
 
師父のカレーのことを思うと、次回はもう少し、料理のバリエーションを増やさないといけないな、と思いました。何事も勉強です。
 
 
キャンプでは新調した一人用のテントを使ったのですが、もうテント泊はおしまいです。
「一回しか使ってないのに?」
とツッコまれながらも、次はタープ泊だ、とかたく心に決めたのです。
 
男は、つねにワイルドに生きなければならない生き物なのです。
 
そういうわけで、ゴールデンウィーク中の某日、稽古はお休みだったので個人的に、ゲリラキャンプもしくは野営というと聞こえはいいですが、いうなれば野宿へと強行スケジュールで出かけました。
場所は事前に決めてあったダム湖に隣接された公園です。
用意していったのはグリーンシート(ODカラーのブルーシート)とポンチョ(これは簡易タープにもなる便利なものです)、それからシュラフです。
 
休日が取れなかったので、夕方まで仕事をしてから、夜に出掛けるというスケジュールになってしまいました。なので、本当に寝て帰るだけとなりました。
 
バイクで走ること数十分、目的地に到着です。
 
心配していた雨も降りそうになく、最終的にはタープを張る手間もはぶいてしまい、グリーンシートを簡易シェルター代わりにして眠りました。
さえぎるものが何もなく、天上に広がる星が良く見えて綺麗でした。
 
もはやタープ泊でもなんでもありません。
ただ、緑のシートにくるまった人間が寝てるだけです。
気温は暖かく快適に眠れました。
ただ、明け方になると自分から出た水分でシート内が結露し、シュラフが濡れてきてしまいました。改善の余地ありです。
 
夜が明けると即座に片付けをし、簡単な朝食を食べて撤収しました。
 
季節が季節なので、寒くて命を落とすということはないですが、もっと事前に準備をしないといけない、と痛感しました。
 
 
今年になってから特に、野外で宿泊するという機会が増えました。
時間で言えばわずかなものですが、その一回一回が、大きな学びの機会となっているように思います。
 
今も、次にいつキャンプに行こうか、そこでは何をしようか、そのために何が必要か、と着実に準備を行っています。
言ってみれば、ハマってしまったわけですが、それまでの自分には考えられなかったことだと思います。
野外で活動することの楽しさにはまってしまうと、家の中でゆっくりしているのがだんだんともどかしく感じられ、どこでもいいから出掛けたくなってきます。
 
それはおそらく、キャンプでも焚火でもなんでもいいですが、それらがすべて、代わりの利かない本番だからではないか、と思うようになりました。
そしてそれらは、食べること、眠ることなど、生きていくことの本質に直接的に関わってきます。
ただ一晩眠れない、一食食べられないというだけでは、危機は命にまでは及びませんが、自分が不利になることだけは確かです。
ちょっとした判断ミスのひとつ、失敗のひとつが自身の能力をそこなう可能性を秘めているので、そういった気持ちを持って物事に取り組む必要が必然的に出てきます。
 
まわりの状況を見て、手元にあるものを最大限使い、自分の出来ることをフルに行わなければなりません。
その上で、十分な休息をとり、また次に備えなければなりません。
一回一回がリハーサルのない本番だからこそ、そこで得られたものは、成功であれ、失敗であれ、確実に次につながっていく糧として、自分の中に残っていきます。
 
生きることと自分の間に余計なことがない。
そのことが、楽しいことなのだと思いますし、そこに充実感があります。
 
野外でシートに包まって一回寝るだけで、屋根のあるところは、たとえテントでも贅沢なのだなと思い知ることが出来ました。本当に大したことではありません。ただどこにでもあるシートと寝袋を引っ張り出して外に出ただけで、そういう経験をすることが出来ました。
次はどうしようか考えるだけで、楽しくてしかたありませんね。
一応、良い子は真似しないでね、と言っておきますが。
 
翻って、それまでの普段の生活のことを考えてみると自分はどうだったでしょうか。
衣食住の心配もなく、それらがあることが当たり前であるという上で、他のことにかかずらって思い悩んでいたように感じます。
 
稽古をしていても、はっとさせられました。
果たして自分がどれだけ、一回の稽古を本番として取り組めていただろうか、ということにです。
毎回毎回真剣に行っていたつもりでも、どこかでは「これは練習だ」と思っていたのではないだろうかと。
稽古を本当の危機だと思えていたかというと、全く自信が持てません。
それほどまでに、感覚が鈍ってしまっていたのだと思います。
 
その点、師父に相手をしていただくと、一回の対練が代用の利かない本番であるという実感がはっきりと感じられます。それは、師父がそのように取り組んでいることの証だと思います。
それを自分はその瞬間、味わわせてもらっているのだと感じます。
 
それは言われて頭で分かるものでなければ、技術や体力をどれだけ向上させても、決して理解できる質のものではないように感じます。
 
 
それが分かっただけでも、自分には大きな収穫です。
 
もちろん、それで全てが一度に変化するわけではないとしても、自分の中に付いた火種は、最初はなかなか燃え上がらなくても、適切に育てていけば、きっと大きな炎になるはずです。
 
それがどうなるかはわかりませんが、自分の中に生まれた感覚を、大切にしていきたいと思います。
 

                                (了)




*次回、「今日も稽古で日が暮れる(その32)」の掲載は、7月22日(土)の予定です


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2015年01月24日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その27

   「 意識とはナニカ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳では、用意・・意を用いるというけれど、
 そもそも、その用いられるといわれている「意」とはなんなんだろう?

 意識的であること。
 単純なことなのだけど、日常の中ではすぐに見落とされてしまう。
 日常の考えに慣れ切った頭では、
 「意識的になろう。では意識的とはどういうことだろう?」
 そう考え始め、何かの定義を求めはじめたときにはすでに思考となっていて、
 肝心の意からは離れてしまっている。
 
 では、感じるままに・・・
 などとニューエイジにかぶれたような思想のもとで行ってみても、 
 立っていればなんだか脚も痛いし背中も痒い・・・
 相手が来れば相手を受け入れたときにはやられているなんてこともしばしばだ。
 
 そこに至って、ふと立ち止まらざるをえなくなる。
 こいつは、何かがおかしいぞ、と。
 

 僕たちが子供のころから、ラジオ体操はじめ、学校教育によって嫌でも西洋運動理論がいつのまにか身体に染み付いてしまっている。
 
 西洋的な運動、スポーツの始まりをさかのぼれば、一体どこに行きつくのかはわからないけれども、古代ギリシアやローマ時代に行われていたという古代オリンピックにその起源の一端があるかもしれない。
 
 古代オリンピックは神々に捧げる儀式としての意味合いを持っていたらしいが、競技の内容を見れば、円盤投げ、やり投げ、走り幅飛びに短距離走、ボクシングやレスリングなど、明らかに戦闘のための技術を競技にしたものが行われていた。
 中には盾や鎧を装備して行われる武装競争なる競技もあったというから、それらの意図していることは明らかに、兵士を鍛えるために、戦闘に必要な技術を細分化して競い合わせるということだろう。
 
 
 もちろんすべてのスポーツの起源が戦争のための訓練だったとは言わない。
 サッカーで戦うなんて、某少林サッカーじゃないんだから、さすがの中国人も考えないだろう。
 
 ただ、発想の根底として、ある全体の枠組みの中で、ここで言えば戦争に関する闘争技術の中の一部を取り出して、鍛練していくことが目的だったというものがあるように感じる。
 とすれば、そもそもにおいて、個々のスポーツ競技ひとつひとつは、断片的な身体操法と言えるのではないか、と感じるのだ。
 
 ここにはギリシャローマから始まる西洋的な思考哲学、分析などの萌芽が一緒に含まれているように思える。細分化し断片化したものひとつひとつを丹念に調べ上げていけば、結果として全体に関する知識も得られるだろう、という発想だ。
 いわばそれは、現代にも通じる科学的な思考方法とも言えるだろう。
 
 
 では、東洋の思想はどうだろうか。
 といってもそれらに関して、僕はまったく無知の素人なのだ。東洋の思想に関してはせいぜい鈴木大拙の本を何冊か読んだことがあるくらいである。
 どうもそれによると、東洋というのはいわば禅の思想に通じるものがあるらしく、それがそのままぽんとあるというか、我も彼もなくただあるといったようなこと、らしい。
 端折ってしまってるのでほとんど何も伝わってないが、時間があったら鈴木大拙の著書を読んでみてください。いろいろと面白いです。
 
 とにかくそういった思想の根底が東洋には流れているようで、当然それは太極拳にも通じる何かがあるのではないだろうか、と感じるのだ。
 
 ではそれはすでに取り上げた西洋的な思想と混じらないかというと、実は混ざり合う。
 ヨーロッパとアジアが中東あたりでじわっと混ざって独特な文化を作り上げるように、それらは境目なく溶け合っている。
 アプローチの方向性が違うだけで、それらは同じ物事の両面を取り扱っているもののようにまるで見えるのだ。
 
 問題になるのは恐らく、どちらかに極端に偏った見方になっているときなのではないだろうか。
 恐らく我々日本人は、西洋的な運動理論のみに偏ってしまっている、そこがそもそもの問題の始まりなのだと思う。
 
 現代の欧米では、盛んに東洋の神秘を科学的に研究するという、一見矛盾するような取り組みがかなり本気で行われている。
 マインドフルネスという、「今、ここに生きる」という、あたかも仏教の瞑想のようなものが心理学として本気で研究され、取り組まれていて、いま何かとブームになっているらしい。
 なんでも流行りのものに飛び着いちゃうのが欧米、おもにアメリカらしいのだが、それでも彼らの、問題に対して本気で取り組む真摯な姿勢、そしてそれを容認する文化は日本人は見習うべきだと思う。
 
 それらの精神文化が流行するのも、物質文明として栄えた西洋の文明が、相対的にバランスを保つために精神のほうへシフトしていくという流れの一つなのだろう。
 
 それに比べると、いまの日本の精神性はいかがなものだろうか。ハロウィンやクリスマスなど、向こうでは宗教的なイベントとして行われているものが、日本には完全にただのイベントとして入ってきてしまっているように感じる。
 日本の宗教は神道で、八百万の神を祭っているのだから問題ない、という見方も出来るのかもしれないが、そこにあったはずの精神性はどこにいったんだろう、と思うと首をかしげざるを得ない。
 
 
 えぇと、宗教や文化の話はともかく、である。
 (クリスマスぅ?・・昼は仕事して、夜は稽古してましたが、何か?)
 
 太極拳の稽古を行っていると、そういった、今の日本では価値観として忘れ去られてしまったような精神性にも目を向けざるを得ない、というのは、実に面白いことだ。
 そして同時に、太極拳は実際に身体を使う、実学としての面もちゃんとあるということを忘れてはならない。
 精神だけでも身体だけでもダメで、それらが調和しないことには、本当の意味での太極拳は習得できないように強く感じる。
 
 
 じゃあ自分は頑強な肉体に、聖人君主のような精神を持っているのか?
 というとぜんぜんそんなことはない。
 はや入門して何年も経つというのに、ダルダルの体とグダグダな心をいつまでも引きずったままである。
 ・・とそれはそれで問題なのだが、ひとつだけ変わったことがあるとすれば、自分は今、どうなのかということに、『嫌でも』目を向けざるを得なくなった、ということだろうか。
 そう、これがすごく嫌なことなのである。自分の本当の姿なんて、だれも知りたくはないものだ。理想とはぜんぜん違う、これが自分!、そんなのはNO!だ。
 
 ところが、一度これを始めてしまうと、自分という人間は、そして回りの出来事まで含めて、いかに面白いんだろう、とだんだんと感じはじめてしまうのである。
 良い部分はあんまりないように感じるが(笑)、ダメなところはダメなところで、意外と愛嬌があってよろしい。完璧なものなどないと知れば、これはこれで、まぁ味があると言えるんじゃないだろうか。
 
 それでも、うん。
 もうちょっと武術的にどうにか腕を上げたいものだから、いくつか注意点を絞って、自分のことを見てみよう。
 
 そうすると、少しずつだけど確かに変化が現れ始める。
 
 そうなっている時の、まさにいまの自分。
 
 
 冒頭に戻るが、ほんの少しだけ意識的になれているような気がした。
 
 意識的とはどういう状態か、と考えていてもダメで、かといって悟りを開いたような微笑で立っていても恐らく意味はないんだろう。
 
 自分が求めることの情熱の中で、わからないなりにも少しずつ、固まっていたものが解けだしていくような感覚だ。
 こうした味をちょっとでも味わえたのは、いまの日本の中にいて、ものすごく稀有なことで、素晴らしいことなんじゃないかと思う。
 そして一度この味を知ってしまうと、もう一口、もう一口と、なかなか止まらなくなってしまうものである。
 
 
 そう思わせてしまう太極拳は、ある意味、禁断の果実かもしれない。
 一度味わってしまえば、もうもとには戻れない。
 先へと進むのみである。 


                                 (了)

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2014年11月16日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その26

   「 離れた場所の優位性」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 非接触による崩しは、確かに不可思議な現象である。
 実際に味わってみれば、それがやらせなどではなく、確かな現象として、そして一定の法則に従って現れる現象なのだということを、いやというほど体感することが出来る。
 
 
 そもそも、離れた相手を仕留めることは、人間の発展の歴史においてごく自然的な出来事であった。
 
 
 人類は、自然界における最強のハンターである。
 人類が人類として姿を現して以来、人間にとって戦いの対象となる相手は、人間ではなかった。
 
 獲物を狩るためにこそ、人間の能力は発達してきた。獲物とは、大地に生える植物のことであり、大地を駆ける動物たちのことである。
 いったいどれくらいの動物が、たとえばマンモスなどの大型動物が人間の狩猟行為によって絶滅していったかを知れば、人間ほどのハンターは地球上に存在しないことにも納得せざるを得ない。
 
 
 自然界の中において、人間ほど自分から離れた場所に影響を与えられる動物はいない。
 同時に、人間ほど離れた場所のことを知ることのできる、予測することのできる動物はいなかった。
 これは他のどんな動物たち、人間より強靭な毛皮や脚をもち、また爪や歯を持ったどんな動物たちよりも有利に立つことのできるものだった。
 
 人間が得た最初の武器は、二本の脚で立つことだった。
 四足で移動する動物に比べて、二本の脚は極端に不安定であり、同時に、極端に効率的でもあった。自然界において、人間が最高の長距離ランナーだと言ったら驚くだろうか。
 
 中距離や短距離では、馬やチーターなどの動物に走ることにおいて、人間は勝つことは出来ない。ところが、超長距離のレースになったとたん、人間が勝ちはじめるようになる。
 
 過去に行われた山岳100マイル(160キロ)レースにおいて、人間は馬に勝ってきた。
 そもそも自然界に、純粋にレクリエーション目的で100キロから200キロに及ぶ距離を走る動物などいない。
 
 二本の脚で移動することは、人間にとってまぎれもない武器だったのだ。
 二足歩行を始めてから、最初の道具の痕跡が発見されるまでの空白の数百万年の間、人間は動物の肉を採ることは出来なかったかというと、決してそんなことはなかったのだ。
 
 どうやって獲物を捕っていたかと言うと、追い掛けることで疲労させて、捕まえていたのである。
 動物の痕跡を追いかけることで、動物を追いたてて走らせる。疲労が蓄積し動けなくなった動物を難なくしとめる。
 そんなことが可能なのか、と思われるかもしれないが、現代になっても、アフリカのブッシュマンにはこうした持久狩猟が伝統的に行われている。
 
 
 相手の行動を予測すること。そして、狩った動物の肉から得られる豊富なたんぱく質によって、人間の脳はさらに進化していった。
 次第に人間は道具を生み出し、文化を生み出し、それによって狩猟能力は更に加速され、多くの栄養を得ることが出来るようになった人類はさらに繁栄を迎えることとなった。
 
 
 以前すでに書いたが、ネアンデルタール人が得ることの出来なかった道具に、アトラトラがある。(編註:氷河期時代の投槍器・今日も稽古で〜その17参照)
 これは我々ホモサピエンスのほうが彼らより柔軟に動く肩を持ち、かつ文化を伝承する必要のある、群れることでしか生き残れなかった「弱さ」ゆえの産物である。
 
 ネアンデルタール人にくらべ肉体的に劣る我々ホモサピエンスは、その生存のために知恵を磨き、頭を使うことが強いられた。
 
 そうして得られた物を投げるという能力は、他の動物には見られない特徴であった。
 人類ほど長距離を走る動物、つまり持久力のある動物はいないし、人類ほど物を上手に投げることの出来る動物はいないのである。
 
 
 物を投げるというのは、実にあなどれない戦闘法である。
 弱者が強者を倒す例として有名なダビデとゴリアテの戦いは、まさに不利な状況を埋めるために遠距離からの投擲武器が使われた好例だ。
 大航海時代、新世界に出て行ったヨーロッパの軍隊は、彼らが最新式のマスケット銃や大砲で武装していたのにも関わらず、弓矢も使用していない原住民に、投石によって多数の死傷者を出すこととなった。
 
 
 人間の戦い方の基本は、いかに遠くから敵に対して影響を与えるかという方向に特化していったともいえる。
 投げ矢や投石からアトラトラなどのカタパルトが出来た。
 そこから弓矢に変わり、そして近代において大砲や銃火器を作りだした。
 発展は続き、現在では超長距離からミサイルをぶつけ合うという形に発展していった。
 
 相手に触れずに、離れたところから影響を与えるというのは、そもそも人類の発展の段階からすでにプログラムされた出来事であるともいえるのだ。
 
 
 たとえば物を投げて相手にぶつけるという単純な行為を、人間は子供のうちから簡単にやってのける。
 小学生にもなれば、野球をやり始める少年もたくさん出てきて、大人顔負けの名勝負を繰り広げているのだから大したものである。
 
 物を投げるのは、ただ投げる能力だけがあればいいわけではない。
 自分が投擲に適した動きをしている間に、自分の放りだした物体が相手へどのように到達するか、それまでの間に相手がどのように変化するかなど、そういった複雑なことを瞬時に計算し、柔軟に対応させていかなければ、目標に物が当たるということはない。
 
 獲物を狩るために離れたところから物をぶつけるには、相手の動きを予測し、自分を変化させる必要がある。
 そのためには相手がどう動くかを知る必要があり、そして自分がどうなっているかを知る必要があるのだ。
 
 そうした処理能力は人間の脳を発展させる必要性を生じさせた。
 もちろん狩りは一人では行わないので、仲間との連携も必要とした。その中でも、自分以外の他者の存在を認識する必要があり、それによって相対的に、人は自分の存在にも目を向けるようになっていった。
 
 
 
 以上のように、人間には進化の過程において、本質的に離れた対象に影響を与え、変化を予測するという志向性があると言える。
 
 それは、他の動物に比べて身体能力的に弱者である人間が、強者である他の動物を獲物とするために生まれてきた必然性の賜物といえる。
 そのために使われるのは、純粋な身体能力というよりも、自身の状態と相手の状態を見極め、それにたいして影響を与えることによって行われる一種の戦術に近いものということが出来る。
 
 この方向性の進化を狩猟のテクノロジーの進化として見たとき、武術・戦闘においてその類似性が見られるのも不思議ではない。
 進化の方向性は、環境に対してより必然性に傾く方向、つまり生存に適した方向に導かれる傾向があるからだ。
 
 武術は戦闘において生き残る技術として発展してきたのだから、ある特定の時期に、戦術として非接触の影響というテクノロジーを発見したのだとしても、不思議なことではない。
 それこそが弱者が強者に勝つための、必然の方法だったのだ。
 
 
 太極拳に関して言えば、そもそも離れた場所においては物理的な力の伝達作用は起きないのだから、力(拙力)の使いようがない。
 もちろん相手が人間としての構造を持っていない限り、影響は起きない。
 たとえば同じ重さの砂袋を置いておき、それに作用が起きるかというと、当然そんなことはないはずだ。
 
 非接触で人間に作用が起きるということは、つまりはそれがそのまま「用意不用力」の基準を満たしているといえる。
 
 
 また、非接触の影響を、気など神秘の力の作用だとするのも同様に誤りだと言える。
 たとえば野球少年がキャッチボールをするとき、そこには気の神秘の入り込む要素などまったくない。
 勿論、仲間同士としかキャッチボールが出来ないかというと、決してそんなことはない。
 初めての相手とだって、キャッチボールは出来る。そこには、キャッチボールを行うための人間の構造が確かに存在し、人間の脳が持つ高度な演算処理によってそれを実現しているからだ。
 
 
 言ってみれば、武術における非接触の影響にも同じようなことがあてはまるのではないだろうか。
 相手を撃つ、相手に向かう。
 その中には人間であったら逃れることのできない構造が存在している。
 それを正しく理解し、正しい変化を促せば、それによって触れていなくても相手は崩れるということは起こりうる。
 
 考えてみてほしい。特定の的に対して「当てる」ことと、特定の的に「当てない」こと、どちらがより簡単に起こりえるだろうか。
 
 試しに部屋の中のゴミ箱にゴミを投げ入れてみると良い。
 ゴミ箱に入れるのと、ゴミ箱から外すこと。どちらが簡単だろうか?
 
 だとしたら、相手に狙った攻撃を入れることと、狙った攻撃が当たらないこと、このどちらがそもそも起こりやすいことなのだろうか。
 
 
 太極拳。その原理は、自然の法則に沿っている。
 
 だからこそ、我々の目には逆に映りやすいのかもしれない。
 
 
                                  (了)

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2014年01月26日

門人随想 「マルコの稽古日記」その3

  「師父は、よくシャベ〜ル」   
               
               by マルコビッチ
(所属:全クラス制覇中っ!)


もう、ずぅ〜っと以前のこと、正式弟子のNさんが、
「皆さん、もっと師父の仰ったことを大切にした方が良いですよ!」
と、しみじみ私たちに言ってくださったことがありました。

そのNさんから、
「(原理から)一番遠いですねぇ・・」などと言われていたその頃の私には、

  ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 

その言葉のキツさが・・
いや、深さが、全然分かっていなかったのだなぁと、今になって思います。


師父は稽古中に、太極拳を理解するためにかなり大切だと思われる事を、とても丁寧に説明して下さいます。

あるいは、ぜったいに秘伝だと思えるようなことを、
「昔はこんなこと、拝師弟子にしか教えなかったんだけどねぇ・・」
と、ポロッと仰います。

あるいは、毎回の稽古で、何度も何度も繰り返して注意して下さる、
「もっと首を立てて」「体を回さない」「胸を張らない」などの、いくつもの言葉。

決して手を抜かず、何ひとつ見逃さず、詳細にわたって私たちの精神性や日常生活にまでおよぶお話をされた後で、自らスコップで地面を掘る動作をしながら、

「今日も私は、よくシャベ〜ル・・!!」

などと笑顔で仰るほど、実にたくさんの言葉を私たちに投げかけて下さっています。


けれども、果たして私たちは、どれだけの言葉を受け取れているのでしょうか。

稽古をしていると、

「師父、つまり〇〇が、〇〇だから、〇〇なんですね!、すごいコトですっ!!」

「・・だから、十年も前から、ずっとそう言ってるだろーがっ!」

な〜んて会話、よく耳にしますよね・・ゞ( ̄∇ ̄;)ヲイヲイ

別に私たちがボーッとして師父のお話を聞いていないという訳ではありません。
言われているその時には、シッカリまじめに聞いているのです。

しかし、そのお話が自分の中で「なるほど、そうか。ガッテン、ガッテン・・」と、勝手にガッテンの音が高鳴り、しかし、そのガッテンしたことが、実際に自分の身体ではどうなっているのか、ということになってくると、その理解の割合はかなり少ないのではないだろうか、と思います。


身体の状態のことなんかも、

「もっと膝裏を伸ばす!」
え・・どう伸ばすんだろか?・・そもそも膝裏って、ココでいいのか?・・・

  ・・・( ̄. ̄;)エット( ̄。 ̄;)アノォ( ̄- ̄;)ンー

「もっと首を立てて!」
・・って、どう立てるんだろか?・・どこに?、どの位置に立てるんだろう?・・・
などなどと、もしかしたら、自分では膝裏を伸ばしているつもりでも、
それは、言われている意味としての「膝裏」じゃないかもしれない。

  うーん・・(〃 ̄ω ̄〃ゞ

私は、そういうことが何回もありました。
きっとこれからも、まだまだそんなことがあると思えます。

秘伝は探し求めずとも、常日頃師父の仰ることを、自分に投げかけ、検証していくことで、自分の中に見出していけるのではないかと思います。

師父の仰ることを大事にする、師父の動きを、大事に、大事に、見ようとする。
本当にそうしようとしていれば、一般クラスの稽古にも、宝の山が存在するはず・・・

────────そう思って、毎日を頑張っているマルコでした。v( ̄ー ̄)v


                                (つづく)

noriko630 at 12:31コメント(14) この記事をクリップ!

2013年12月27日

門人随想 「マルコの稽古日記」その2

  「健康クラスもアナドレーヌ」   
               
               by マルコビッチ
(所属:全クラス制覇中っ!)


ちょっと前回との間が開いてしまいました。
もちっと、ちょくちょく連載する予定でしたが、まあ自分の都合やら編集室のご都合やら、何やらがいろいろとあったりして。( ̄(エ) ̄)ゞ ダハハ・・


さて、マルコは最近、「健康クラス」に参加させて頂くようになりました。
初めは、「健康クラスってどんなコトやるんだろう??、呼吸法とか、ちょっとした気功法みたいなコトをやるのかなぁ?」なんて思っていたのですが、そんなこと思ってたマルコってバッカジャナァ〜イ!と叫びたくなるほど、実際にトンでもない(!)クラスでした。

・・と言ってもモチ、普通に柔功、圧腿、歩法もやりますし、対練もやります。
聞くところによると「武器」もやるのだとか。
武器ったって、表演用のペラペラのヤツを振り回して套路をやるんじゃなくて、ホンモノの ”軍用トレーニングナイフ” を使って、老若男女が自由に攻防を繰り返したりすると言いますから、これがホンマに健康クラスかいな?・・( ̄ェ ̄;)


稽古時間はおよそ1時間半から2時間です。普通のクラスよりも遥かに少ないけれど、その分、その時の課題がはっきりとシンプルに理解できるんですよね。
え?、フツーはそのくらいの練習時間だよって?──────────
ウチは一般クラスが最低でも4時間、下手をすると5〜6時間になることもあるので、健康クラスの稽古は、あっという間に過ぎていきます。

けれども、特筆すべきは、その内容です。
「ちょっと、ちょっとぉ〜、そんなコト言ってもいいのォ?」と思えるようなことを、師父がごく当たり前の顔をして、平然と仰っているではありませんか!!
それも、ジツに細かく、わかりやすく説明して下さっていて、本当にビツクリでした。
これは「健康クラス」という名の、実に高度な太極拳原理を教えていただける、日曜日とはまた内容の異なる「特別クラス」なのだと思いました。


感動したマルコは、稽古が終わってから師父に、

『健康クラスって、スゴイことやってるんですね。健康クラスと言うよりも、これはスペシャルクラスというべきですね!!』

・・と、お聞きしました。すると師父は、


『いやいや、こういうのが本来の健康クラスなんだと思うよ。人間が健康でいられるためには、人間本来の在り方、まずは二足歩行をする人間として、本来のあるべき位置で正しく立てる、歩ける、というのがいちばん大事なことなんだよね。

よく見かける、身体や心を整えていくプロセスを省いて、ハイ、身体をユルめて〜、ゆったりと呼吸をして〜、もっと気を集めて〜、それを身体の隅々に流して〜・・・・みたいな、何処かで聞いたような事だけをやるのは、勿論それなりに気持ちは良くなるのかも知れないけど、果たしてそれで本当に ”健康” になるのかというと、気を感じただけで健康になる、という科学的根拠はどこにもないんだよね。

そういった健康法では、決まってストレスを減らしましょうとか、ストレスの無い生活を心掛けましょうと言うみたいだけれど、そもそも人間の心と体は常に様々なストレスを受けている状態が自然なのであって、人はストレスがなければ動けないし、成長しても行けない。植物だって、動物だって同じなんだと思います。私たちは重力というストレスがあるから大地にに立って生活していられるんだし、大自然の営みはすべてストレスが存在することで循環していると思えるんだよね。そういうことを理解して、その自然の営み自体を受け容れた上で、きちんと自分とつきあって行くことで、はじめて本当の健康が手に入るんだと思うんですよ。

だから、ウチの健康クラスでは、研究会でやっているような内容までやります。
その結果、武術なんか全く知らなかった、長年のあいだ難病で苦しんで来られた六十歳の女性が、若い門人を正しい発勁で軽々と吹っ飛ばしたりするようなことが起こるんです。
そのご病気も、入門してから劇的にどんどん良くなっていると言うから、ご本人より私たちの方が驚いているんですよ──────────』


・・などと、心から納得できるお話を伺うことが出来て、いつもながら全くブレることのない、師父の武藝を追求される姿勢をしみじみと感じることが出来ました。


───────というワケで、師父はマドレーヌがお好きですが(なんのこっちゃ)、
うちの健康クラスも、決してアナドレーヌ!!・・というお話でした。


                            つづく ( ̄(エ) ̄)v



     
     【健康クラスのスナップ。60歳の女性が若い門人を吹っ飛ばした瞬間】

disciples at 19:00コメント(11) この記事をクリップ!
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