今日も稽古で日が暮れる

2015年12月23日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その28

   「 ワイルドに生き残ろう!」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



野生の証明…?
 
闘争とはすなわち、生き残ることであり、戦いとはまさにサバイバルである。
そうした観点から見てみると、いかに現代の日本人が安全という幻想に包まれ、生存闘争とはかけ離れた生活をしていることか。
 
 
生存において、生き残るために何より必要なのは食糧の確保である。この現代日本においては、少し腹が減れば「ちょっとコンビニへ行こうかな」などとと安易な発想で乗り切ることができる。
こんなことでは、過酷な自然環境では生き残ることが出来ないのではないだろうか。
 
ではここで、人類よりよっぽどワイルドに生きているはずの、チンパンジーの一日の生活を追ってみることにしよう。
 
さぞかし、過酷な環境を自身の野性味によって乗り切っているに違いない。
 
 
 
野生を証明してみせよう
 
チンパンジーの一日の生活はこうだ。
 

ひたすら食べる、仲間と交流する、寝る。以上。

 
ずいぶんと野性的ではないか。まさに本能による行動。仲間と毛づくろいをしたり、
群れを作って行動しているあたりに社会性の片りんが見られる気もする。
 
…冗談はさておき、チンパンジーの生活などこんなもんである。馬鹿にしているわけではなくて、人間と複雑さのレベルにおいて違いが出てくるのはしょうがない。そもそもどれだけ人間がワイルドになって野生にかえっても、チンパンジーとは身体構造上の違いから、どうあがいたって彼らと同じような生活は出来ないのである。
 
悲しくも、それが現実だ。え、悲しくない? あ、そうですか。
 
チンパンジーとヒトではそもそも身体の作りが違うので、その生活様式も異なって当然だ。
チンパンジーとヒトの共通祖先から進化が枝分かれしたのは、もう何百万年も前だが、その構造上決定的な違いとなったのは、我々人類の先祖は直立二足歩行に適した身体になっていったが、チンパンジーはそうはならなかったことだ。
 
チンパンジーはもっぱら熟した果実を食べ、ほとんどを樹上で生活している。
移動は樹から樹へと枝渡り(ブラキエーション)をするか、地面を拳を着いて四足で歩いている(ナックルウォーキング)か、二本足でよたよたと歩くかしている。
 
人間の行う二足歩行というのは四足歩行に比べて、エネルギーの効率がいい。
 
チンパンジーの一日の移動距離がどれくらいかご存じだろうか。
彼らは一日に、2〜3キロメートルしか移動しない。
エネルギー効率が悪すぎて、それくらいしか移動できないのだ。
 
世の中には物好き…好奇心旺盛な人がいて、チンパンジーに酸素マスクを着けて、ルームランナーを歩かせる実験をした科学者がいる。
 
すると、その消費エネルギーは人間が同じ距離を歩いた場合の四倍にも達したという。
 
チンパンジーが2〜4キロ歩くエネルギーで、人間は8〜16キロ歩けるということになる。
 
悲しいかな、チンパンジーの場合、「ちょっとコンビニ行ってくる」でさえ、一日の労力の大半をつぎ込む壮大な仕事になりかねないのである。
 
そもそも彼らの場合、食べ物はそこらじゅうにある。自分がいる樹に果実がなくなればとなりの樹に移り、どうしても無ければ植物の茎や葉や根などを食べ、昆虫がいたら食べ、たまにはみんなで狩りでもしちゃう? といった具合だ。
 
極端な話、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家ではないが、食べられるものの上に住んでいるともいえるので、そもそも移動する必要性がほとんどないのだ。
ただ、野生の食物は繊維が硬く栄養が少なく、ひたすら噛んでいる必要があるし、たくさん食べなければならない。
 
消化に悪いものをひたすら一日中食べ続ける生活。たしかに野性的、か?
 
 
エネルギー効率の良さ
 
さて、武術修行者にとって興味深いのは、二足歩行と四足歩行のエネルギー効率の違いという点ではないだろうか(自分だけか?)。
 
とくに太極拳を修行する人間にとっては、いかに力を使わずに戦うかという点において、非常に示唆的なものが含まれているように感じる。
 
二足歩行に適した身体に進化した人間は、四足歩行のままのチンパンジーに比べて、力や瞬発力という点で明らかに劣っている。
パワーもスピードも、オリンピック級の超人の倍くらいの能力を、特に鍛えていないチンパンジーが出せるのである。
同じことで勝負しようとするのはあまりに馬鹿げているではないか。
 
チンパンジーとヒトの違いは、チンパンジーは直立出来ないという点にある。
まっすぐに立てないために、四つ足と二本足どちらも、歩く時には筋肉で体を支え続けなければならない。
 
おもにつかわれるのが背中や腰と、あとは蹴り足として使われる大腿部の筋肉だ。
 
人間はしっかりまっすぐ立てば、それだけで無駄な筋肉を使わずに立つことが出来るのだ。
 
もうピンと来た人がいるかもしれない。
太極武藝館では、大腿四頭筋で蹴らない、落下しないということを注意される。
それらの動きは、進化したヒトが獲得した動きというよりも、むしろ四足動物の持つ構造に近いものなのだ。
我々が進化する上で手放した構造を、わざわざ再び手に入れようとするのは、進化の方向性に反したことに思われる。
 
格闘技の試合が1ラウンドごとに休憩をはさむのも、そこで使われている動きが、そもそも効率の悪い動きだからだ。
 
太極武藝館の稽古では、休むことなく数十分も動き続ける。
特に研究会の散手では、師父一人相手に、年齢の若い門人が数人がかりで掛っていくのに、我々は汗だくで息も切れているのに、師父はまったく疲れた様子が見えない。
 
エネルギー効率の良い動きの出来る身体構造に向かった進化の方向性が、正しく整えられた人間としての本来の在り方に宿っているという、まさに証明といえるのではないだろうか。
 
ウルトラマラソンという競技では200キロもの距離を人間は走破し、一日百マイル(約160キロメートル)を数日間走り続けることが出来る。
そして、その能力によってヒトは野生動物を仕留める。
軍隊では数十キロの荷物を背負って数十キロの距離を行軍し、さらに敵地に到達してからはそこから戦闘を始める。
 
これだけのことが出来る生き物は、地球上に他に存在しない。
 
その始まりは、はるか昔、人類とチンパンジーの共通祖先が、まったく違った環境に置かれたことから始まった。
 
地球規模で環境が変化する中、チンパンジーの祖先は、森が豊かで、それまでの生活が続けられる環境に取り残され、何百万年も変化することなく居続けられた。
 
かたや、我々の祖先は、生活の場であった森が減少し、広大な荒野という辺縁に取り残されてしまう。
我々の祖先が選んだのは、森に戻ることではなく、目の前に広がる荒野を開拓し、新たなフロンティアを目指すことだった。
そのためには、効率の良い移動手段が必要不可欠であり、新しいことへと向かっていくその精神もまた、それらの原動力となったのだった。
我々人類とは、同じところでとどまってはいられない生物なのだ。だからこそ今、地球を超え、宇宙へとまで進出するにいたったのだ。
 
 
戦いを求めて…?
 
二足歩行を行うようになって前足が解放され、手と進化した人類は、さらに脳の進化が促されることによって、地球上類を見ない征服者となった。
 
面白いのは、人類がこれだけ発展するためにとった戦略が、血のつながらない他者と協力するというところにあった点だ。
太極拳もまた、向かってくる相手を制するために、その相手そのものの協力を必要とする。
自分を害するために向かってくる相手と和合することによって相手を制するとは、いかなる発想がそれを生んだのだろう。
何よりも、それを理念とするのではなく、実際的な技術として昇華させてきたその歴史に、驚きを禁じえない。
 
ヒトがヒトを敵とみなすのは、相手が別のグループに属していると判断した場合に限る。
自分の仲間ではない=自分と敵対する可能性がある、と、実に分かりやすい構図だ。
 
初期のホモ・サピエンスが地球上に広まり始めた当初、人類に人類同士の争いの跡がほとんど見られないのは単純な理由で、周囲に敵対するグループがいなかったからだ。
自分の回りにいるのは仲間ばかり。殴る相手を求めて数百キロも命をかけて歩いていく物好きはそうそういなかったに違いない。
 
イタリア半島くらいの広さの中に自分ひとりしか人間がいない、というくらいの人口密度の中で、せっかく見つけた隣人に問答無用で挑みかかる人間がどれほどいるだろうか。
 
その時代を生きた人間にとって、戦いとは生き残ることであり、生活そのものに深く根付いていたに違いない。
そしてその中には、他者を制するための戦いはほとんど含まれていなかったはずだ。
他者とは、協力すべき相手であり、仲間であった。
 
他人とは自分と似たものであり、他人を知るためには、自分を知る必要があった。自分を通じて、自分と似た他人を知ることが出来たのが、人類が他者と協力できた最大の理由だからだ。
 
助け合いの中で、相手を利することは自分を利することだった。
そして、いざ争いになったとき、相手を制することとは、すなわち自分を制することだったに違いない。
 
この精神は、人間としての正しい在り方、整え方を追求する太極拳の中にもしっかりと存在している。
 
人間が人間になったときから、生きる上で興味の対象に自分が含まれ、そして他者が含まれるようになった。
人間が増え、他者とのかかわりが増え、そこで争いが生じるのはある意味仕方のないことともいえる。
 
人間にとっての野生とは、いかにもな自然の環境に還ることではないと思う。
いままさにこうして生きているこの環境そのものが、実は人間にとって姿を変えた野生なのだ。
 
即座に命を奪うものも回りにはあふれているが、種としての時間の短さから、人間の遺伝的本能はその危険性に気づいていない。
また、慢性的にゆっくりと命を奪っていくような危険も同時にあふれているのだが、そのことにも多くの人は気付いていない。
 
太極武藝館で指導されている内容が、ただ敵と戦うための技術に終始するわけではない理由もそこにあるのではないか。
生き物にとって、生きることが戦いであり、生き残ることが勝つことだとすれば、いま生きている環境を知り、自分自身を知ることが、勝利への絶対条件と言える。
そのためにはただの方法論でなく、精神や志、魂といったものが必要になってくる。
 
君子危うきに近寄らず―
 
だが、真の戦士は、己や仲間を守るためならば、喜んで死地に赴く。
 
それは敵を屠ることに喜びを覚えているわけでもなく、征服したいわけでもない。
そうしたものが、ただ敵にやられない技術のために生じてくるものだろうか?
 
そうは思わない。
 
まずは絶対的なスピリットがあってこそ、そこから、生き残るために必要な技術は生じてくるのだ。
生き残るための戦いは、全体性の中にある。
それになるためには、やはり自らが全体性の中に没入しなければ不可能なように感じる。
 
あらゆる環境の中に「生きる」自分。
 
それこそが、まさに野生としての在り方ではないだろうか。
 
                               
                                  (了)

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2015年01月24日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その27

   「 意識とはナニカ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳では、用意・・意を用いるというけれど、
 そもそも、その用いられるといわれている「意」とはなんなんだろう?

 意識的であること。
 単純なことなのだけど、日常の中ではすぐに見落とされてしまう。
 日常の考えに慣れ切った頭では、
 「意識的になろう。では意識的とはどういうことだろう?」
 そう考え始め、何かの定義を求めはじめたときにはすでに思考となっていて、
 肝心の意からは離れてしまっている。
 
 では、感じるままに・・・
 などとニューエイジにかぶれたような思想のもとで行ってみても、 
 立っていればなんだか脚も痛いし背中も痒い・・・
 相手が来れば相手を受け入れたときにはやられているなんてこともしばしばだ。
 
 そこに至って、ふと立ち止まらざるをえなくなる。
 こいつは、何かがおかしいぞ、と。
 

 僕たちが子供のころから、ラジオ体操はじめ、学校教育によって嫌でも西洋運動理論がいつのまにか身体に染み付いてしまっている。
 
 西洋的な運動、スポーツの始まりをさかのぼれば、一体どこに行きつくのかはわからないけれども、古代ギリシアやローマ時代に行われていたという古代オリンピックにその起源の一端があるかもしれない。
 
 古代オリンピックは神々に捧げる儀式としての意味合いを持っていたらしいが、競技の内容を見れば、円盤投げ、やり投げ、走り幅飛びに短距離走、ボクシングやレスリングなど、明らかに戦闘のための技術を競技にしたものが行われていた。
 中には盾や鎧を装備して行われる武装競争なる競技もあったというから、それらの意図していることは明らかに、兵士を鍛えるために、戦闘に必要な技術を細分化して競い合わせるということだろう。
 
 
 もちろんすべてのスポーツの起源が戦争のための訓練だったとは言わない。
 サッカーで戦うなんて、某少林サッカーじゃないんだから、さすがの中国人も考えないだろう。
 
 ただ、発想の根底として、ある全体の枠組みの中で、ここで言えば戦争に関する闘争技術の中の一部を取り出して、鍛練していくことが目的だったというものがあるように感じる。
 とすれば、そもそもにおいて、個々のスポーツ競技ひとつひとつは、断片的な身体操法と言えるのではないか、と感じるのだ。
 
 ここにはギリシャローマから始まる西洋的な思考哲学、分析などの萌芽が一緒に含まれているように思える。細分化し断片化したものひとつひとつを丹念に調べ上げていけば、結果として全体に関する知識も得られるだろう、という発想だ。
 いわばそれは、現代にも通じる科学的な思考方法とも言えるだろう。
 
 
 では、東洋の思想はどうだろうか。
 といってもそれらに関して、僕はまったく無知の素人なのだ。東洋の思想に関してはせいぜい鈴木大拙の本を何冊か読んだことがあるくらいである。
 どうもそれによると、東洋というのはいわば禅の思想に通じるものがあるらしく、それがそのままぽんとあるというか、我も彼もなくただあるといったようなこと、らしい。
 端折ってしまってるのでほとんど何も伝わってないが、時間があったら鈴木大拙の著書を読んでみてください。いろいろと面白いです。
 
 とにかくそういった思想の根底が東洋には流れているようで、当然それは太極拳にも通じる何かがあるのではないだろうか、と感じるのだ。
 
 ではそれはすでに取り上げた西洋的な思想と混じらないかというと、実は混ざり合う。
 ヨーロッパとアジアが中東あたりでじわっと混ざって独特な文化を作り上げるように、それらは境目なく溶け合っている。
 アプローチの方向性が違うだけで、それらは同じ物事の両面を取り扱っているもののようにまるで見えるのだ。
 
 問題になるのは恐らく、どちらかに極端に偏った見方になっているときなのではないだろうか。
 恐らく我々日本人は、西洋的な運動理論のみに偏ってしまっている、そこがそもそもの問題の始まりなのだと思う。
 
 現代の欧米では、盛んに東洋の神秘を科学的に研究するという、一見矛盾するような取り組みがかなり本気で行われている。
 マインドフルネスという、「今、ここに生きる」という、あたかも仏教の瞑想のようなものが心理学として本気で研究され、取り組まれていて、いま何かとブームになっているらしい。
 なんでも流行りのものに飛び着いちゃうのが欧米、おもにアメリカらしいのだが、それでも彼らの、問題に対して本気で取り組む真摯な姿勢、そしてそれを容認する文化は日本人は見習うべきだと思う。
 
 それらの精神文化が流行するのも、物質文明として栄えた西洋の文明が、相対的にバランスを保つために精神のほうへシフトしていくという流れの一つなのだろう。
 
 それに比べると、いまの日本の精神性はいかがなものだろうか。ハロウィンやクリスマスなど、向こうでは宗教的なイベントとして行われているものが、日本には完全にただのイベントとして入ってきてしまっているように感じる。
 日本の宗教は神道で、八百万の神を祭っているのだから問題ない、という見方も出来るのかもしれないが、そこにあったはずの精神性はどこにいったんだろう、と思うと首をかしげざるを得ない。
 
 
 えぇと、宗教や文化の話はともかく、である。
 (クリスマスぅ?・・昼は仕事して、夜は稽古してましたが、何か?)
 
 太極拳の稽古を行っていると、そういった、今の日本では価値観として忘れ去られてしまったような精神性にも目を向けざるを得ない、というのは、実に面白いことだ。
 そして同時に、太極拳は実際に身体を使う、実学としての面もちゃんとあるということを忘れてはならない。
 精神だけでも身体だけでもダメで、それらが調和しないことには、本当の意味での太極拳は習得できないように強く感じる。
 
 
 じゃあ自分は頑強な肉体に、聖人君主のような精神を持っているのか?
 というとぜんぜんそんなことはない。
 はや入門して何年も経つというのに、ダルダルの体とグダグダな心をいつまでも引きずったままである。
 ・・とそれはそれで問題なのだが、ひとつだけ変わったことがあるとすれば、自分は今、どうなのかということに、『嫌でも』目を向けざるを得なくなった、ということだろうか。
 そう、これがすごく嫌なことなのである。自分の本当の姿なんて、だれも知りたくはないものだ。理想とはぜんぜん違う、これが自分!、そんなのはNO!だ。
 
 ところが、一度これを始めてしまうと、自分という人間は、そして回りの出来事まで含めて、いかに面白いんだろう、とだんだんと感じはじめてしまうのである。
 良い部分はあんまりないように感じるが(笑)、ダメなところはダメなところで、意外と愛嬌があってよろしい。完璧なものなどないと知れば、これはこれで、まぁ味があると言えるんじゃないだろうか。
 
 それでも、うん。
 もうちょっと武術的にどうにか腕を上げたいものだから、いくつか注意点を絞って、自分のことを見てみよう。
 
 そうすると、少しずつだけど確かに変化が現れ始める。
 
 そうなっている時の、まさにいまの自分。
 
 
 冒頭に戻るが、ほんの少しだけ意識的になれているような気がした。
 
 意識的とはどういう状態か、と考えていてもダメで、かといって悟りを開いたような微笑で立っていても恐らく意味はないんだろう。
 
 自分が求めることの情熱の中で、わからないなりにも少しずつ、固まっていたものが解けだしていくような感覚だ。
 こうした味をちょっとでも味わえたのは、いまの日本の中にいて、ものすごく稀有なことで、素晴らしいことなんじゃないかと思う。
 そして一度この味を知ってしまうと、もう一口、もう一口と、なかなか止まらなくなってしまうものである。
 
 
 そう思わせてしまう太極拳は、ある意味、禁断の果実かもしれない。
 一度味わってしまえば、もうもとには戻れない。
 先へと進むのみである。 


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2014年11月16日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その26

   「 離れた場所の優位性」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 非接触による崩しは、確かに不可思議な現象である。
 実際に味わってみれば、それがやらせなどではなく、確かな現象として、そして一定の法則に従って現れる現象なのだということを、いやというほど体感することが出来る。
 
 
 そもそも、離れた相手を仕留めることは、人間の発展の歴史においてごく自然的な出来事であった。
 
 
 人類は、自然界における最強のハンターである。
 人類が人類として姿を現して以来、人間にとって戦いの対象となる相手は、人間ではなかった。
 
 獲物を狩るためにこそ、人間の能力は発達してきた。獲物とは、大地に生える植物のことであり、大地を駆ける動物たちのことである。
 いったいどれくらいの動物が、たとえばマンモスなどの大型動物が人間の狩猟行為によって絶滅していったかを知れば、人間ほどのハンターは地球上に存在しないことにも納得せざるを得ない。
 
 
 自然界の中において、人間ほど自分から離れた場所に影響を与えられる動物はいない。
 同時に、人間ほど離れた場所のことを知ることのできる、予測することのできる動物はいなかった。
 これは他のどんな動物たち、人間より強靭な毛皮や脚をもち、また爪や歯を持ったどんな動物たちよりも有利に立つことのできるものだった。
 
 人間が得た最初の武器は、二本の脚で立つことだった。
 四足で移動する動物に比べて、二本の脚は極端に不安定であり、同時に、極端に効率的でもあった。自然界において、人間が最高の長距離ランナーだと言ったら驚くだろうか。
 
 中距離や短距離では、馬やチーターなどの動物に走ることにおいて、人間は勝つことは出来ない。ところが、超長距離のレースになったとたん、人間が勝ちはじめるようになる。
 
 過去に行われた山岳100マイル(160キロ)レースにおいて、人間は馬に勝ってきた。
 そもそも自然界に、純粋にレクリエーション目的で100キロから200キロに及ぶ距離を走る動物などいない。
 
 二本の脚で移動することは、人間にとってまぎれもない武器だったのだ。
 二足歩行を始めてから、最初の道具の痕跡が発見されるまでの空白の数百万年の間、人間は動物の肉を採ることは出来なかったかというと、決してそんなことはなかったのだ。
 
 どうやって獲物を捕っていたかと言うと、追い掛けることで疲労させて、捕まえていたのである。
 動物の痕跡を追いかけることで、動物を追いたてて走らせる。疲労が蓄積し動けなくなった動物を難なくしとめる。
 そんなことが可能なのか、と思われるかもしれないが、現代になっても、アフリカのブッシュマンにはこうした持久狩猟が伝統的に行われている。
 
 
 相手の行動を予測すること。そして、狩った動物の肉から得られる豊富なたんぱく質によって、人間の脳はさらに進化していった。
 次第に人間は道具を生み出し、文化を生み出し、それによって狩猟能力は更に加速され、多くの栄養を得ることが出来るようになった人類はさらに繁栄を迎えることとなった。
 
 
 以前すでに書いたが、ネアンデルタール人が得ることの出来なかった道具に、アトラトラがある。(編註:氷河期時代の投槍器・今日も稽古で〜その17参照)
 これは我々ホモサピエンスのほうが彼らより柔軟に動く肩を持ち、かつ文化を伝承する必要のある、群れることでしか生き残れなかった「弱さ」ゆえの産物である。
 
 ネアンデルタール人にくらべ肉体的に劣る我々ホモサピエンスは、その生存のために知恵を磨き、頭を使うことが強いられた。
 
 そうして得られた物を投げるという能力は、他の動物には見られない特徴であった。
 人類ほど長距離を走る動物、つまり持久力のある動物はいないし、人類ほど物を上手に投げることの出来る動物はいないのである。
 
 
 物を投げるというのは、実にあなどれない戦闘法である。
 弱者が強者を倒す例として有名なダビデとゴリアテの戦いは、まさに不利な状況を埋めるために遠距離からの投擲武器が使われた好例だ。
 大航海時代、新世界に出て行ったヨーロッパの軍隊は、彼らが最新式のマスケット銃や大砲で武装していたのにも関わらず、弓矢も使用していない原住民に、投石によって多数の死傷者を出すこととなった。
 
 
 人間の戦い方の基本は、いかに遠くから敵に対して影響を与えるかという方向に特化していったともいえる。
 投げ矢や投石からアトラトラなどのカタパルトが出来た。
 そこから弓矢に変わり、そして近代において大砲や銃火器を作りだした。
 発展は続き、現在では超長距離からミサイルをぶつけ合うという形に発展していった。
 
 相手に触れずに、離れたところから影響を与えるというのは、そもそも人類の発展の段階からすでにプログラムされた出来事であるともいえるのだ。
 
 
 たとえば物を投げて相手にぶつけるという単純な行為を、人間は子供のうちから簡単にやってのける。
 小学生にもなれば、野球をやり始める少年もたくさん出てきて、大人顔負けの名勝負を繰り広げているのだから大したものである。
 
 物を投げるのは、ただ投げる能力だけがあればいいわけではない。
 自分が投擲に適した動きをしている間に、自分の放りだした物体が相手へどのように到達するか、それまでの間に相手がどのように変化するかなど、そういった複雑なことを瞬時に計算し、柔軟に対応させていかなければ、目標に物が当たるということはない。
 
 獲物を狩るために離れたところから物をぶつけるには、相手の動きを予測し、自分を変化させる必要がある。
 そのためには相手がどう動くかを知る必要があり、そして自分がどうなっているかを知る必要があるのだ。
 
 そうした処理能力は人間の脳を発展させる必要性を生じさせた。
 もちろん狩りは一人では行わないので、仲間との連携も必要とした。その中でも、自分以外の他者の存在を認識する必要があり、それによって相対的に、人は自分の存在にも目を向けるようになっていった。
 
 
 
 以上のように、人間には進化の過程において、本質的に離れた対象に影響を与え、変化を予測するという志向性があると言える。
 
 それは、他の動物に比べて身体能力的に弱者である人間が、強者である他の動物を獲物とするために生まれてきた必然性の賜物といえる。
 そのために使われるのは、純粋な身体能力というよりも、自身の状態と相手の状態を見極め、それにたいして影響を与えることによって行われる一種の戦術に近いものということが出来る。
 
 この方向性の進化を狩猟のテクノロジーの進化として見たとき、武術・戦闘においてその類似性が見られるのも不思議ではない。
 進化の方向性は、環境に対してより必然性に傾く方向、つまり生存に適した方向に導かれる傾向があるからだ。
 
 武術は戦闘において生き残る技術として発展してきたのだから、ある特定の時期に、戦術として非接触の影響というテクノロジーを発見したのだとしても、不思議なことではない。
 それこそが弱者が強者に勝つための、必然の方法だったのだ。
 
 
 太極拳に関して言えば、そもそも離れた場所においては物理的な力の伝達作用は起きないのだから、力(拙力)の使いようがない。
 もちろん相手が人間としての構造を持っていない限り、影響は起きない。
 たとえば同じ重さの砂袋を置いておき、それに作用が起きるかというと、当然そんなことはないはずだ。
 
 非接触で人間に作用が起きるということは、つまりはそれがそのまま「用意不用力」の基準を満たしているといえる。
 
 
 また、非接触の影響を、気など神秘の力の作用だとするのも同様に誤りだと言える。
 たとえば野球少年がキャッチボールをするとき、そこには気の神秘の入り込む要素などまったくない。
 勿論、仲間同士としかキャッチボールが出来ないかというと、決してそんなことはない。
 初めての相手とだって、キャッチボールは出来る。そこには、キャッチボールを行うための人間の構造が確かに存在し、人間の脳が持つ高度な演算処理によってそれを実現しているからだ。
 
 
 言ってみれば、武術における非接触の影響にも同じようなことがあてはまるのではないだろうか。
 相手を撃つ、相手に向かう。
 その中には人間であったら逃れることのできない構造が存在している。
 それを正しく理解し、正しい変化を促せば、それによって触れていなくても相手は崩れるということは起こりうる。
 
 考えてみてほしい。特定の的に対して「当てる」ことと、特定の的に「当てない」こと、どちらがより簡単に起こりえるだろうか。
 
 試しに部屋の中のゴミ箱にゴミを投げ入れてみると良い。
 ゴミ箱に入れるのと、ゴミ箱から外すこと。どちらが簡単だろうか?
 
 だとしたら、相手に狙った攻撃を入れることと、狙った攻撃が当たらないこと、このどちらがそもそも起こりやすいことなのだろうか。
 
 
 太極拳。その原理は、自然の法則に沿っている。
 
 だからこそ、我々の目には逆に映りやすいのかもしれない。
 
 
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2014年08月22日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その25

   「 認 識 の ワ ナ 3」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 すっかり見慣れてしまったとはいえ、恐ろしい光景である。
 同時に、自分自身が何度体験しても、そこには毎回新しい発見があり、
 また得も言われぬ感動さえ生じる。
 
 四両発千斤。
 
 文字通り、いや、それ以上かもしれない。
 ほとんど触れるか触れないかといった状態で師父と向かい合っている人間が、
 唐突に、羽織を放られたかのように舞っていく。
 
 道場内を駆け回り、地面を転がる。しかしその勢いは、簡単にはおさまらない。
 これほどまでに、人はもろいものなのか。
 
 
 果たしてこのようなことが、現実に起こっていることなのだろうか。

 もちろんそうだ。
 実際に見ることも出来、体験までさせていただいている。
 
 正しい指導を受ければ、年齢、性別、体格、それに武術経験の有無、
 修行の長さに関係がなく相手は崩れ、吹っ飛んでいってしまう。
 
 自分だけの考えでやろうとすれば、相手にはまったく影響がなく立ったままである。
 力でどうにかしようとしても、よほどの体格差がなければ派手には飛ばない。
 四両発千斤など、夢のまた夢である。

 一体、どうしてこのような違いが生じてしまうのだろうか。
 同じ場所にいながら、まるで違う現実を生きているかのようだ。
 もしかしたら、それは本当に違う現実なのかもしれない…。


 1960年代、アメリカの知覚心理学者ジェームズ・ギブソンによって、「アフォーダンス」という概念が提唱された。
 アフォーダンスとは、「与える、供する」という意味の「afford」という英語から作られた言葉で、環境が動物(この場合、人間)に与える意味や価値のことを指す。
 動物と物の間にある行為についての、関係性そのものを示している。
 
 「またわけのわからないコトバが出てきた…」と声が聞こえた気がするが、気のせいだとしておこう。
 
 例をあげれば、我々がフォークを見たとき、何かに突きさして食べることをアフォードしている、つまり与えている。階段は、上り下りすることをアフォードする。平坦な道は、歩くことをアフォードする。スマートフォンは、手にとっていじることをアフォードする。
 
 こういったように、環境側・外側から我々に対して、行為を提供する(アフォードする)関係性をアフォーダンスという。アフォーダンスは環境を動物が探求することで獲得される意味・価値である、ともいえる。
 
 これには、前回書いた自身が持っている身体に対する図式が大きな意味を持ってくる。
 四足動物の犬にフォークを見せてもそれで食べることはできないし、スマートフォンはいじれない。
 20センチ弱の木の棒が二本あったとして、箸を使う文化がなければそれによって食事をするという発想は生じないかもしれない。
 
 だが、同じ人間ならば、食卓に置かれた二本の棒が、食事をする際に器用に扱われる道具となる可能性はある。
 その人間が、食事とは素手でするものと思っていたり、もしくはフォークとスプーンしか知らないとしても、そこに二本の棒が箸として使われうる関係性、アフォーダンスは存在しているのだ。
 
 
 これに、武術となんの関係があるのだろうか。
 
 アフォーダンスとは環境との関係性と書いたが、自分以外の他者を環境と当てはめて考えてみる。
 その上で、まず前提としての自分の考え方が間違っていないか、そこから追求していかなければならないように感じる。
 
 
 太極武藝館の稽古では、さまざまな形で相手を崩す対練が行われている。
 それは相手を倒せるか、つまり勝負としての稽古ではなくて、人間とはどのような構造であり、どうすれば力を用いずに崩せるかを知るためのものとして行われている。
 
 さらっと書いてしまったが、この中に、対練が武術の稽古として生きてくるか否か、そして何より自分自身もはまっている間違いの種が潜んでいるように感じる。
 
 
 多くの場合、相手を崩す稽古をする=ふつうでは崩れない人間をいかに崩すか、という図式が無意識のうちに頭の中に生じているのではないだろうか。
 相手を崩すことに習熟することが実力であり、それが出来ることが武術の技術なのだと、いつのまにか勝手に勘違いをしてしまってはいないだろうか。
 
 ここが、そもそもの間違いなのだ。
 
 先の例で言えば、直径十センチ、長さ2メートルはあろう木の棒を出されて、これを削っていけばいずれ箸として使えるようになる、と思っているのと同じだ。
 
 本当にそうなのか?
 恐らく前提からして間違っている。
 我々の前に供されているのは、すでに箸としてある、二本の棒なのだ。
 
 では、対練における最初の間違いは何か?
 おそらく、人間とは崩れにくいものだという考えにある。
 
 人間とは、ひどく脆く、崩れやすいものなのだ。…私たちがそうとは知らないだけで。


 力学的に見ても、四足より二足のほうが不安定なのは明らかだ。
 しかし、私たちの祖先は、二足歩行になることで、失うものより多くのものを得ることとなった。
 そうして発達した能力の中で、私たちのその試みが、どれほどまでに絶妙なバランスの上で成り立っているのかを、忘れてしまったに違いない。
 現代の科学では解明できていない、もちろん再現も出来ないほど、我々は高度な能力によって立つことが可能となっている。
 
 対練とは、私たちにそれを思い出させてくれるものなのかもしれない。
 
 そうとしか言えないこともある。
 たった一つのアドバイスで、劇的に相手への影響が変わることが、しばしばあるからだ。
 
 指導されていることは、いつだってシンプルだ。
 
 だが、それに気づくのは容易ではない。
 間違いはいつだって自分の勘違いや思い込みに根ざしている。
 
 
 我々の脳は高度に発達して、次に起こることを予測することが可能になった。
 アフォーダンスはその現れであり、ボディスキーマはそれを行う為の働きを担っている。
 予測された計画の上で、身体は素直にそれに従おうとする。
 
 私たちが箸を作ることを目的として関係性を見ている場合、
 身体はそれに従ったイメージを持つことになる。

 まずは丸太を切ろうか。それには斧か鋸か。
 力を使わないというのなら、チェーンソーで削りだすのも手かもしれない。
 長さを揃えて、形を作って、磨いて…。
 
 …いったい、いつになったらご飯を食べられるのだろう?
 
 本当なら、箸をひょいとつまんで使えばいいだけなのに。
 
 
 
 ここでも、「受容性」というキーワードが浮かんでくる。
 
 箸が箸としてあるからこそ、それは私たちにそう使えるように与えられている。
 
 スマートフォンはスマートフォンとして、その意味がある。
 もちろん、スマートフォンを漬物石として使ってもいいのだろう。
 それを発想の自由、個性といえばそうかもしれないが、
 それは、本来の意味を大きく外れているように思う。
 
 
 師父は、
 「車の免許が取れて、箸が使えれば太極拳はだれにでも出来る」
 と、おっしゃっている。
 
 自分にはとてもではないが体現できていない。
 しかし、おそらくそれは真実なのだと思う。
 そしてそのための訓練体系が、対練のみならずさまざまな基本功、
 歩法、套路として用意されているのだと思う。
 
 人間の構造とはどういうものか。
 動くとは、どういうことを示しているのか。
 相手との関係性はどういったものか。
 武術として、それがどう作用しているのか。
 
 それらはすべて、目の前にある木の棒がどういうものなのかを、
 知るためにあるのではないだろうか。
 
 
 私たちの目の前にあるのは、箸か?
 
 それとも、大きな大きな木の棒だろうか?
 
 
 それに自分で問いかけるとき、何かしらの光明はあるのかもしれない。
 
 

                                 (了)

noriko630 at 20:40コメント(14) この記事をクリップ!

2014年06月24日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その24

   「 認 識 の ワ ナ 2 」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 私とは何か? 

 いま私は一体何をしているのか。
 そして、私はそのことをどれだけ知っているのだろうか。
 
 私はいま、この文章を書くためにパソコンディスプレイの前に座り、
 指先はキーボードをたたき続けている。
 外では鳥の鳴き声や車の走る音が聞こえる。
 
 キーボードを叩くたびに表示される文字に集中し、時折止まりながら書いている間、
 私はひととき、自分が自分の身体を持っているという感覚が希薄になっている。
 
 イスと触れあっている接地点、身体にまとっている衣服の感触、
 忘れずに続けられている呼吸、瞬きは自動で行われている。
 これを書いている私は、呼吸をし、生命を維持し続けようとしている私なのだろうか?
 
 それとも、指先から繰り出され画面に表示される、
 文字の中に息づいている精神こそが、私の在りかなのだろうか?
 ありふれた光景、ごく日常的な生活の中に、神秘の種は潜んでいる。
 
 
 提示されているはずの物事が見えないということは、一体どういうことなのだろうか。
 
 稽古中、目の前で模範され、それを真似している中で、いっこうに形が合わない時。
 見る角度を変え、自分の姿を鏡に映し真似しようとするのに、
 それでも同じ状態にはならないというとき、そこで何が起きているのだろうか。
 
 少なくとも道場で稽古をしているとき、だれでも服を着ているし、靴を履いている。
 このことを稽古中に意識する瞬間は、服が引っかかったり乱れたり、靴が足に当たる、
 ないしは脱げたということがない限り、ほとんどないはずだ。
 
 当たり前のはずなのに、そのことをまったく意識していない。
 そこまで意識に上らせていたら、こちらの処理能力を超えてしまうからだ。
 だから自分の脳は、感覚は本来上がってきているはずのそれらの情報を、
 意図的に遮断するように出来ている。
 そして、何かイレギュラーな事態が起きたり、着替える必要がある場合などには、
 意識に上るように仕向けている。
 
 誰でも、自分が今着ている服を感じるように言われたら、
 それを感じることが出来るはずだ。
 
 ところが、太極拳においてはそうはいかない。
 
 基本功をやっても歩法や套路で動いても、なかなか師父とは同じようにはいかない。
 ましてや対練や散手などで相手がいるとなれば、
 もうそこには稽古で培われた動きではなく、自分のやりたい動作が出てきてしまうのだ。
 
 それについて、神経学的なメカニズムで少し見てみようと思う。
 
 
 人間の身体は、行き当たりばったりで動かしているわけではない。

 脳が全身の感覚を処理し、
 自分がどのような状態にあるのかを常にリアルタイムで演算している、
 いってみれば、高度な情報処理システムとして機能している。
 
 とくに上であげたような身体が感じる感覚や、
 姿勢などの状態を処理している神経のメカニズムのことを、
 「ボディ・スキーマ(身体図式)」という。
 
 我々の脳は、自分が感じている情報を基にして、
 自分の脳内に、自分の身体が今どういう状況なのかを「図式化」しているのだ。
 服を着ていれば、それも自身のボディ・スキーマに組み込まれる。
 帽子をかぶれば帽子も、道具を持てばそれも、
 自身の身体の一部として処理するように機能しているのだ。
 
 もうひとつ、「ボディ・イメージ」というものがある。
 これはボディ・スキーマより分かりやすくて、
 自分の身体がどのような状態にあるのか、
 自分で意識的に抱いているイメージだと思ってもらって良い。
 
 脳の情報処理システムは階層的になっていて、
 全身にある感覚器官を通じて得られた感覚は、
 脳内の低次な処理過程から、高度な処理過程へと段階的に進み、
 それからまた低次の処理過程へと下って、
 また全身の感覚器、運動器官に伝えられることになる。
 
  あまり見慣れない言葉の羅列に、
 「よし、読み飛ばそう!」と斜め読みした方もいるかもしれないが、
 もう少しだけ辛抱してもらいたい。
 ここからが話の核心になる。
 
 
 身体から脳に送られた情報は、
 低次の領域から高次の領域へと送られ、ボディ・スキーマを形成する。
 それから逆のルートをたどり、自分の動きや姿勢を実際に決めることになるわけだが、
 それぞれをつないでいる神経線維の数、そこに大きな違いが見られるのだ。
 
 低次から高次に向かう神経線維の数が1本だとすると、
 それに対して高次から低次に向かう神経線維の数は、なんと10本(!)にもなる。
 
 「だから…なに?」
 
 という声が少なからず聞こえたが、これは人間の情報処理過程において、
 かなり面白い示唆的な内容を含んだ数字だといえる。
 
 というのも、外側から上がってくる情報が1つだとすると、
 自分の脳内から外に向かっていく情報が、単純に言って10倍あるという事なのだから。
 
 
 つまり、どういうことかと言うと、

 太極拳で例にとると、
 師父の姿を見て、自分の姿を鏡で確認して、
 それでも足りなければ、外側から誰かに直してもらったとしても、
 自分が真似しているつもりになっていることの10倍は、
 自動的に、自分で勝手に思い込んだ動きをしている、ということになってしまうのだ。
 
 これは驚くべき、そして悲しい結論でもある。
 神経的なメカニズムから言っても、
 人間は「自分勝手に自分の動きをすること」に特化したような仕組みを持っている、
 というのだから。
 
 自分の動きの根本にあるのは、「次はこうする」と、
 自分で立てた「予測」と、「思い込み(ビリーフ)」がメインなのだ。
 
 ましてや、二足歩行を初めてから何年、何十年も経ってしまい、
 好き勝手に動くことを憶えてしまった我々の脳と身体である。
 「こういう状態のときは、こうでしょ!」と、
 勝手に自分の身体を制御してしまうことに慣れ切ってしまっている。
 
 
 これでは、どれだけ高度な学習体系を有し、精妙な身体操法を提示されたとしても、
 真似できっこないのは、むしろ仕方のないことのように思える。
 
 基本功で動きを示されたとき、あなたの手はどこにある?
 歩法で歩く時、足はどこに出ている? 身体はどっちを向いている?
 そんな一見単純なことも真似できないのは、自分で勝手に思い込み、
 予測して動きたがる我々の神経に問題がある。
 

 「じゃあ、どうすることもできないじゃないか・・!!」
 
 だが、あきらめるのはまだ早い。
 我々人類は、学習することで現在の文化を作り上げてきた。
 そこもまた、意識的に学習していくことで改善していくことは可能なのだ。
 
 自らが抱いているボディ・イメージを修正してあげることで、
 ボディ・スキーマが行っている情報処理の過程に変更を加えることが可能なのだ。
 
 ボディ・イメージは、後天的に学習された自分自身の在り方、
 状態に対する考え方だと思ってもらいたい。

 そう、「考え方」なのだ。
 
 師父がおっしゃっている「太極拳は、考え方で決まる」という言葉が、
 ここにおいて大きく響いてくるのが感じられる!!
 
 なぜこうも多種多様な練功が示されているのか。
 それらはすべて、自分の「考え方」を変えるためなのだ。
 
 自分がどう在って、どう変化するのか。
 意識的な領域のアプローチによって初めて、自らが変質しはじめる。
 脳と神経というメカニズムで表現すれば、
 ボディ・イメージの変更がボディ・スキーマに影響を与え、
 実際の姿勢や動きに変化が起こる、といえる。
 
 また、人間の脳は可塑性があり、
 学習していくことで、生涯にわたって変化していけるものである。
 ここにおいても「受容性」が重要となってくる。
 
 自らから発することではなく(高次領域から低次領域に向かう命令ではなく)、
 受け入れること(外界で得られた情報を高次領域に届け、変化を促すこと)で、
 自身の目の前に展開されている本当の現実と向き合っていく事が可能になっていくのだ。
 
 
 自らの在り方に目を向け、現実を受け入れることで、脳は変化を起こし始める。
 それは、太極拳への取り組み方のみならず、
 人生に対する態度にまで影響を及ぼさずにはいられないだろう。


                               (つづく)


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