今日も稽古で日が暮れる

2022年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その62

  『アシよさらば ー誰が為にアシでケる?ー』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「それは足の入力で蹴っていますね」
 ある日、道場での稽古で、基本功をやっていた時のことです。宗師にこのように指摘していただいた私は、自分の状態を見返してみました。
(あ、足で蹴っている・・・?)
稽古の中で繰り返し、本当に繰り返し散々注意していただき、当然自分でも気をつけていながら、それでも度々現れてくる、足での入力、蹴りという状態。
 これは相当に根深い問題だぞ・・・と、認識を改めなければならないと遅まきながら悟った私は、本腰を入れてこの問題に介入していく決意を固めました。
 とはいえ、ではこれまでの稽古を通して「足で蹴る」問題を見て見ぬフリで過ごしてきたかというと実はそうでもなく、普段の生活を通して自分の状態がどうなっているかということを注意してきてはいたのです。注意してきた結果がこれなのです!
 事ここに至って初めて、注意してきただけでは足りない、問題の根の深さに目を向けることになりました。そして同時に、その問題に目を向ける、その眼差しのあり方にまで、目を向けざるを得なくなってしまったのです。

 太極武藝館では、歩法の稽古に多くの時間が割かれ、以前在籍していたある門人からは、「いつまでやるんですか」という声も聞かれた程、とのことです。
 いつまでやるんですか? それはもちろん、出来る様になるまででしょう!
 稽古の中で指導して頂いている内容は、非常にわかりやすい言葉で説明していただけるので、それを聞くと、頭ではあたかも理解できたような気持ちになります。ですが、聞いてわかったつもりになるのと、それを自分の体を通して実践出来るかというところは、全くの別物に感じます。自転車の乗り方を人から聞いて教わってわかったつもりになっても、すぐに乗れるはずがなく、自分で実際に自転車に乗る練習をすることでしか、身につける方法はありません。
 太極拳の稽古においても、全く同じことが言えるのではないかと思います。
「足の入力を使わない」という説明は、おそらく誰でも何を言われているのかわかるかと思います。
 ところが、それを実際に自分の体でやろうとすると、そう簡単にはいきません。
 先日も宗師に、『聞いたことで理解したつもりになっていることと、実際に自分ができていることのギャップを認識しなければならない』と、指導していただきました。
 稽古をしていく中で、自分達が超えていかなければならない壁がここにあるのではないかと思います。
 一般的な普通の考え方では、「そのように言われるものの、足を使ってしまう。きっと、それが出来ないのには自分が聞いていない秘伝が関わっているに違いない!それさえ教えてもらえれば、指導してもらっていることは出来るはずだ!」となるかもしれません。
 武藝館で稽古をさせて頂いていると、その認識が全く間違っているのだという現実に、嫌でも直面させられます。武術の武の字も齧ったことのないような、それまで主婦をやってこられたような普通の女性が、正しく修正されただけで、体重80キロを越す自分のような男を、簡単に吹っ飛ばし、転がすようになってしまいます。
 では、その人は誰も聞いていないような秘伝を聞いたのかといえば、そうではありませんでした。
 稽古で毎回のように指導して頂いている整え方を、改めて宗師がその場で指導して下さっただけでした。
 たったのそれだけです。だとすれば、その整え方こそが秘伝と言えるものだと思いますし、もし稽古で行き詰まりを感じたのだとしたら、それを自分がちゃんと守れているか、それが問われているのだと、見つめ直す必要が生じてきます。


 話題は変わりますが、自分が通わせて頂いている床屋のご主人から聞いた話です。その方は、学生時代に部活動で卓球をやっており、今も学生さんを相手にボランティアで週に何度か指導をしているとのことです。その話になったとき、ポツリと「基本がちゃんとやれていない子は試合で勝てない」と言っておりました。
 自分は卓球を知らなかったので、卓球で基本に当たることは何ですか?と尋ねたところ、ラリーを何回出来るかが一つの基準になると仰っていました。県の大会でも勝って行ける子は何百回と続けられるそうで、負けてしまう子はそれが続かない。イコール、基本が身についていないのだそうです。
 磐田には、オリンピックでメダルをとった水谷選手が所属していたチームもあるそうで、そこの練習は、同じ体育館でやっていると他の選手も注目をするような、一味違った練習をしているとのことでした。メダルを取った水谷選手や伊藤選手ともなると、ラリーが5000回以上(!)も続くとのことで、そのレベルでなければ世界で勝っていくことなど無理なようです。

 その話を聞いたとき、自分の太極拳への向かい方はどうだろうかと、改めて反省を促されたように感じました。言い方は悪いですが、学生の部活動のレベルでさえ、基本をしっかりと固めることで基礎を培い、実力を伸ばしていくという指導が行われているというのは、ある意味衝撃的ではあります。ましてや、世界で戦っていく選手となると、その上でさらに磨きをかけていくのが当然のこととして要求されます。
 太極拳を稽古するにあたり、「他にない、凄いものだ」と言いながら、取り組み方は学生の部活動の方が高度な訓練をしていました、などとなっては笑い話にもなりません。
 余談ですが、静岡県西部の卓球のレベルは、世界でメダルを獲得する選手を輩出するだけあって、かなり高いもののようです。とはいえそれは、何の気休めにもなりません。
 一流のものとして太極拳をやっていく為には、一流の意識で取り組み、訓練もそれに沿うものでなければならないはずです。床屋のご主人の話が頭に蘇ります。
「自分の経験の中で、自分が教わった理論が正しいことは証明されてきました。あとは、それを子供たち一人一人に合わせて、正しく指導してあげる必要があります。どこまで行っても勉強だね」
 これ卓球の話ですよね!?あなた本当に床屋のご主人ですか!?
 カットをしてもらいながら店内の壁をふっと見ると、理容師の大会で優勝している賞状が何枚か、控えめに飾ってあります。
 本当に腕のある人は自分からは何も言いませんし、何をしていても取り組み方が変わらないのだと、痛感させられました。
 教わっている太極拳の内容は高度でも、指導を受けている我々の質によって、それは二流にも三流にも簡単に変わってしまいます。それは教授して頂いた内容ではなく、我々個人個人の質そのものが現れてしまうからではないかと思います。
 であれば、太極武藝館が高度な学習体系を有していると本当に言える為には、我々が高度な功夫を体現している必要があるはずです。
 足で蹴ってしまう・・・このような問題は、早急に解決していく必要があります。
 問題の解決方法はすでに示して頂いていますし、あとは、自分がその方が便利だと勝手に思い込んでそうしてしまっているという現実と、しっかり直面する必要があるかと思います。

 誰が為にアシでケる・・・?それは他でもない、自分自身の為にそうしてしまっています。
 だからこそ、その問題を解決することが出来るのは、他でもない、自分自身のはずです。

 ・・・アシよさらば。
                             (了)





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2022年06月29日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その61

  『たいきょくけんでせかいをみるの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 私は仕事柄、いろいろな本を見る機会が多いのですが、先日、ある絵本が目に止まりました。それは、今年の夏休みの、小学生向けの読書感想文用課題図書のひとつでした。
『すうがくでせかいをみるの』というタイトルで、スペインの絵本作家さんが書いた絵本を邦訳したものでした。
 内容は、主人公の女の子が、家族がそれぞれ好きなものに熱心に取り組んでいる様子を見て、「自分は何が好きなんだろう?」といろいろな事をやってみる中で、自分は「すうがく」が好きだということに気がつく話です。
 世界をみる方法は人それぞれいくつもあり、自分は好きな「すうがく」で世界を見る。すると世界には様々な数字や形が秘められていることに、その子は気づき、それを楽しみます。
 他の子供が動物や紙飛行機を見る時、その子にはそれがフラクタルな図形や数式として見えています。数学という好きなものによって世界の見え方が一変すること、それが楽しくて仕方がないのです。

 可愛い絵柄で、短いのですぐ読み終わってしまう絵本ですが、大人の自分が読んでも、多くの事を問いかけてくれるような内容に感じられました。
 はて、自分には世界はどのように見えているのだろうか、と。
 主人公の女の子が大好きな数学で世界を見渡しているように、自分は太極拳で世界を見ているだろうか、とふと思ったのです。
 太極拳の稽古に取り組む中で、自分の考えを挟まないというのは常々指導していただいていて非常に重要なことだと思います。自分を挟まずに物事に接するという時に、その女の子がしているように、(大好きな)太極拳で世界を見るということは、もしかしてすごく大事な物の見方を指し示しているのでは、と感じたのです。

 道場での稽古の始まりと終わりに、最近はよく玄花宗師が日本の二十四節気、暦のお話をしてくださいます。暦の変化になぞらえて季節や気候が変動していくというお話をして下さるのですが、自分は恥ずかしながらそれまで、季節の変化における自身の体調の変化と、その管理とケアもしっかりしなきゃな〜というレベルの、浅い認識しか持っておりませんでした。
 つい先日の6月21日はちょうど、暦の上では夏至を迎えるというお話をしてくださいました。夏至は陽が最も強くなる日であり、それはちょうど太極図に示されているように、陰に転換する時の状態でもあるとのことでした。
 そのお話を聞いた時、急に自分の中で(ようやく)物事の歯車が噛み合った音がしました。
 それは浅〜い認識の頭をぶっ叩かれたような衝撃を、自分に与えてくれたのです。

 季節の変化に応じた体調管理も、武術修行者としては当然大事なことだと思います。また、二十四節気を通して、見えにくくなった日本の伝統、考え方や文化に触れる機会をも与えてくださったのも事実だと思います。
 ところが、それ以上に我々にとってもっと大事なことがあるのでは、と思い至ります。
 玄花宗師は、四季折々の変化の中に潜んでいる、陰陽虚実、気の循環・・・つまりは太極拳の話を我々にして下さっていたのではないかと、改めて気付かされたのです!!

 ここで、冒頭の疑問に戻りました。
 はて、自分は「太極拳で世界をみていたんだろうか?」という点です。
 絵本の女の子が紙飛行機が飛ぶ軌跡の中に、「すうがく」を通して幾何学のカタチと数式を見出していたように、宗師は四季の移ろいと暦の中に、「太極拳」を通して、陰陽虚実の変化と循環を見出されたために、我々にその話をしてくださったのではないかと思いました。
 太極拳を理解するということが、自分が理解できる形に太極拳が切り分けられるということではなく、太極拳を通じて見える世界の見方が自分にはどれだけ見えているのかということが問われるのだとしたら、自分の認識はずれていたことになります。
 他の人には見えないけれど、絵本の女の子には数学を通して世界に潜む数式が見えているのだとしたら、太極拳が隠されていないにも関わらず、なぜ自分にはそれが見えてこないのかという話にも、腑に落ちるものがあるのではないでしょうか。

 宗師にとっては、季節が巡り夏になることと、相対した相手が力も入れられずに崩れてしまうということは、同じものとして写っているのかもしれません。
 物事に潜む道理を見抜くためには、こうであるに違いないという思い込みを持っていては成せないのだと思います。
 暦の話と太極拳の関連性ということについても、自分の浅はかな理解で物事を勝手に結びつけてしまうという働きが起こった結果、より大切な部分が自分には見えていなかったのではないかと、改めて勉強させられる結果となりました。
 面白いのは、それが隠されていたというわけでもなく、ただ自分の見方ひとつによって、途端に見える姿がガラリと変わってしまったという点ではないでしょうか。
 そもそも、宗師が道場での稽古の締めくくりに「暑くなるから気をつけましょうね〜」というだけの話をされるでしょうか。いや、門人の方達には放っておくとどこまでも無理をしてしまう方々もおられるので、そういう意味も含まれているかとは思いますが・・・しかし道場でされるお話の中にはどこにでも、我々が太極拳を稽古していくために必要な意味が含まれているに違いないと、感じてしまうのです。

 私が世界を見る時、それは太極拳によるものでしょうか。考え方を変えること、見方を変えることというのは、そもそも自分の中にはなかった「太極拳」という新しい尺度によって世界を見ることであって、そうして初めて、世界が太極拳の理を隠さずに、我々に語りかけてくれているのだということに気づけることになるのかもしれません。
 ただ歩法を稽古する、套路や対練で技を磨くだけではなく、道場で様々な習得過程にある人々と一緒に過ごし、会話をし、食事を共にすることで、一体どのように皆が生きていて、太極拳と関わっているのか。それを感じられることがまた、自分にとってもすごく為になる稽古のひとつとなっているように感じられます。
 ひとつ共通しているのは、絵本の女の子が「すうがく」が大好きであるように、門人みんなが太極拳を大好きであるということ。好きだからこそ、もっと知りたい、もっと学びたいと思っているということではないでしょうか。
 先ずは直向きな情熱があるか、それがプロになれるかを最初に分けるのだと、宗師はおっしゃっています。

 太極拳が好きだという気持ちは、自分を燃え上がらせるのに十分な火種となるのではないでしょうか。それを、より大きな炎へと成長させていきたいと思いました。

                                (了)




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2022年05月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その60

   『自然に宿る強さ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 先日、いつものように道場で稽古の準備をしていると、道場に敷かれたマットにたんぽぽの綿毛が落ちているのに気づきました。稽古前に気になったゴミは拾うようにしているので、その時も普段と変わりなく、それを摘んで回収したのです。
 その時、プツ、という手応えがありました。
 驚いてそのたんぽぽの綿毛、種子を観察してみました。白い綿毛の部分はしなだれていましたが、先端の黒い種の部分が少し伸びていて、なんとマットに穴を開けて根を張ろうとしていたのです。
 新しく交換して数ヶ月と経っていないマットに、一ミリにも満たない小さな穴が穿たれていました。前回の稽古の終わりにはなかったと思うので、その後でどこかから飛んできて、根を張ろうとしていたのでしょう。たった二日も経たないうちに、小さくて弱い種が、柔らかいとはいえ目が詰まっていて丈夫なマットに穴を空けたという事実に、心底驚かされました。
 とはいえ、土ではないためそこに根を張ったとしても、栄養がとれることなく、結果的にその種子は遅かれ早かれ枯れてしまったはずです。しかし、自らが成長するために一見困難とも思える場所にさえ根を張ろうとしたという、その生命力。
 稽古が始まるまでのわずかな時間でしたが、自分に対してさまざまに考える機会を与えてくれた出来事でした。

 先日のゴールデンウィークに、研究會では特別強化訓練が執り行われました。
 普段はできないようなさまざまな稽古が行われたのですが、中日にあたる二日目には、道場から出て、野外での稽古が行われました。
 川に入り、山を歩き、坂道を文字通り転げ回りました。
 また、みんなで競争をしたり、共同作業をして、食事を摂るという、有意義な時間を過ごさせていただきました。その前後の変化の様子は、稽古に参加した門人みんなを見るだけですぐにわかることかと思います。
 さて、その日の訓練を振り返ってみて、自分が一番に感じたことは、その日行われたことというのは、実は自然・野生に生きてきた人間が、昔から行ってきた生活様式、普段の日常とほとんど変わりないのではないか、という点でした(今回は食料を調達したりはしませんでしたが)。
 太極拳の稽古が行われたはずなのに、その内容はまるで、「人間とはこういうものだ」ということを思い出させていただくようなものでした。
 師父はよく「太極拳は常にそこにある、ただ自分がそれに気づけていないだけ」という表現をしてくださいましたが、今回の稽古において、自分がどれだけ人間としての能力が退化している、あるいは使えていないのかということに大いに気付かされたものです。
 それがあって初めて太極拳が自身の中にすでに備わっているのだと気付けるのだとしたら、自分を磨くということは、自分が本来持っている能力にまず目を向け、そうした上で向上させていかなければならないことなのではないか、と感じさせられたものでした。
 稽古が執り行われる道場という場は、師父や宗師によって耕され、用意していただいた豊かな土壌なのではとしばしば感じます。
 今回の特別訓練においても、玄花宗師が我々の食事などの栄養状態にまで気を遣って頂き、自ら用意して下さった料理を我々が休憩中に頂くという、普通に考えたらありえないことまで準備をしていただいていました。
 我々が降り立ったのは、根を張っても栄養なんかない赤いマットの上ではなく、栄養豊かで、臨めばどれだけでも成長していけるような場所です。
 そこまで用意して下さった上で、「成長できません」「わかりません」などと言っていては嘘になってしまいます。そこから先は、やはり我々に問われた責任なのではないかと思いました。

 ところで最近、気になるニュースをみました。それは、現在の野菜に含まれる栄養価が、数十年前のものより少なくなっているという研究記事でした。
 我々の祖父母が食べていた野菜よりも、ビタミンやタンパク質、ミネラルなどが、ほんの少しずつではありますが少なくなっているというのです。
 これは一体どういうことなのかと調べてみると、ざっくりと原因をまとめてみると、どうも現在の野菜は大量生産するために成長が促進されており、十分に養分が吸収できる前に大きくなって出荷されてしまうということ。
 また、同じ畑で同じ品種を育て続けることにより、土壌そのものの栄養価が落ちてしまっているということ。そして、二酸化炭素の濃度が世界中で上がっていることで、植物が水を吸う量が以前より少なくなっており、それに伴って栄養を蓄える量が減っているということ、などの点が上がってくるようです。
 もちろん、栄養が少なくなっているからと言って即座に我々が栄養失調になるという話ではなく、食べる時に多品種の野菜を摂り、不足しがちな栄養を補ってあげれば問題はないようです。結局のところ、普段の食事習慣で改善できる話ではあるとのことです。
 ところで、野菜の栄養価が減ると何が起きるかというと、実は野菜の味そのものにも変化が起きるようです。昔より野菜らしい味がしなくなった、今の野菜は野菜の旨み(野菜臭さ?)がなくなったという話を自分も聞いたことがありましたが、そういった理由は実はこういうところにあったのかもしれません。科学的なデータなどなくとも、感覚、自分の舌でそれがわかってしまう人間はすごいものです。

 この記事を読んだ時、太極武藝館で行われていることは全く逆のことだと思いました。
 環境を整え、土壌を豊かにし、我々一人一人が、即席栽培で大きくなる=強くなることを目的とせず、人間として大いに成長し、太極拳という豊かな文化を育み、伝承していける一員となることを目指すための場・・・。
 大量生産で市場に出され、利益を出すことを目的とした野菜の栽培とは、全く異なった発想がそこにはあります。もちろん、生活の上でそれは必要なことだとも思いますし、全てを否定するわけではありません。
 ですが、世の中には、それと全く異なった価値観で育まれている世界があるのだということを、我々は頭の片隅、と言わずに頭の真ん中にしっかりと刻んでおかなければならないのだと思いました。

 そうでなければ、現代に大きく広がった資本至上主義とは全く相容れない、伝統文化という土壌の本質など理解することは難しく、そこで自身を成長させようなどということは、まるで夢物語のようになってしまうと思うからです。
 私は、豊かな土壌を用意してくださる太極武藝館に出会えたことを幸運に思いますし、またその環境に甘えることなく、自らもその一員としての責任を果たしながら、成長していくことに努力をしていかなければいけないと感じました。
                                (了)



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2022年04月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その59

   『変化するものと合わせる』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 最近の稽古において、自分の課題として、「動くこと」というものに焦点が当てられています。稽古全般を通して、玄花宗師の動きと比べ、明らかに動きが少ないのです。
 それは万人が見てもそう感じられるというレベルのもので、よく見なければわからないという程度ではないのです。明らかなのです。
 では、自分は自分の動きに固執していて、全然真似をしようとしていないかというと、まったくそうではなくて、全力で真似をしようとしているはずなのです。なのに、まったく違う動きしかできていないのです。
 自分にはまだ見えていなくて真似できていない動きも、当然あるかとは思うのですが、それだけではなくて、確かに見えているはずの動きも、真似できていないのです。
 見えているために、動けていないことが分かるのですから・・・。

 ところが、それが分かっても全く問題は解決していません。
 これは由々しき事態です。
 ともあれ、放っておいてもどうしようもないため、問題解決のため、状況をいくつか推察していくことにしました。

 まずはとにかく動きを大きくして真似してみること。
 動きが足りないのだから、もっと大きく動けばいい。

 シンプルな方法ですが、一番最初に取り組むことができます。
 玄花宗師の後ろに付いて動く機会を得たとき、それを実行してみます。ところが、それではどうしても動きが合わないのです。真似しているはずなのに、やっぱり違う動きをしているのです。
 そうして、問題の別の側面が見えてきます。
 
 そもそも動こうとしている箇所、体の動き方そのものが違うという点です。
 こうなってくると、また違う側面と向き合わなければならないということに気づかされます。自分はいったい、どのようにして体を使おうとしているのか、という点です。

 これは考え方や発想という点と結びつくかと思うのですが、人間の頭と体は本来不可分であり、表裏一体であるはずです。
 考え方を変えれば動きも変わるといえますし、逆に、動きを変えれば考え方も変わるともいえます。


 先日の火曜日の一般武藝クラスでは、普段ではやらないような「スペシャルな稽古」が行われました。
 玄花宗師の計らいではあったのですが、宗師は「こんなことをする予定ではなかった」と仰っていたので、逆に言えば稽古に参加した我々門人がその稽古を引き出してきたともいえるのかもしれません。これもまた表裏一体です。

 その稽古では、詳細は省きますが、自分が抱いていた考え方ががらりと変わるような、それでいてやれば誰でもできるような(一人では不可能ですが)、体を使った稽古が行われたのでした。
 そこで得られた自分の感覚は、それまでは気づけなかったものが非常に多かったのです。

 例えば、体を動かす、使うというときに自分が意図していたのは、ある意味では無駄な動きであったということ。そのような無駄な動きは、動く際には余計なものであるため、必然的に続けていく中で省かれていってしまいます。結果、動きは小さくなります。
 ところが、その稽古においては、嫌でも体を使うことが要求されます。そうしなければ一歩も動くことができなくなってしまうからです。
 そして、いざ一人になったときに自分の動きを振り返ってみて初めて、もっと自分の体が細かく分かれて動けるのだということが認識されました。

 玄花宗師の動きを拝見させていただくと、門人の皆さんの中からよく、
「すごく動いている」「自分たちより関節が多く見える」であるとか、はては、「宙を舞っているようだ」といった意見が出てきます。
 自分でも拝見させていただくと、それらの意見には全面的に同意である上に、毎回の稽古でちょっとずつ動きが変わっていっているようにも見えるのです。
 本質は共通されていても、同じであるということがなく、常に進化し続けているように見えるのです。
 それは、玄花宗師の動きが大きく、かつ動き続けているというだけでなく、その考え方においても、稽古に対して動き続けているような頭の使われ方をされているという現れなのではないかと感じます。

 稽古に対する発想でさえも、我々は固定的にしがちです。というのも、変化がない=安定した状況のほうが自分にとっては安心できる材料になるからではないかと思います。
 ところが、この世界は常に生々流転しており、変わらないことがあるとすれば、それは常に変化しているという点しかないのではないかと思います。
 その流れに逆らって、自分が固執的になり、太極拳の真理=絶対的なものを探すと称して、変化することのない安心感を探しているのだとすれば、それが見つからないということは道理ではないかと思います。
 そういったことを玄花宗師はしておらず、それを我々に示してくださっているようのではないかと思います。

 円山洋玄師父はよく我々に「君たちには遊びが足りない」ということを言ってくださいました。一流の人間は、その遊び方さえも洗練されており、一流のように見えます。
 翻って我々が「遊べない」と言われるのはどういった理由があるのでしょうか。
 遊びには楽しさが伴っており、そのためには物事が変化していく様子と、それに驚き受け入れることのできる性質が必要とされるのではないかと思います。

 多少乱暴な論法になりますが、我々が遊べないのは、物事の変化を受け入れるだけの器の大きさがない、という現れなのかもしれません。

 未知のものに出会い、それを楽しめるかが遊びの本質であれば、安心安定を求め、絶対不変の法則を探すなどとうそぶいているようでは、それは遊びの本質ではなく、それでは太極拳はわからないのだと、言っていただいていたのではないでしょうか。
 そのような状況では、千差万別に変化する戦いの場において対応できるような体の動きなど生じるはずもなく、それが稽古の中で端的に表れていたのではないかと思います。

 体の動きを変えることは頭を変えることであり、その逆もまた然り。

 太極武藝館の稽古においては、それに必要なものをすべて提示していただいているように感じます。あとはそれを、我々門人ひとりひとりが、どれだけ生かして自分のものにできるかという点のみが、問われているのだと思います。
                               (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その60」の掲載は、2022年5月22日(日)の予定です

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2022年02月28日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その58

   『合わせて、奏でられるもの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年に入って、太極武藝館の稽古では、「合わせる、真似をする」ことが大切だという指導をしていただいています。もちろん、これまでの稽古においてもそれらのことは、重要なことだと指摘していただいていました。それを今は、より追求しながら稽古している、といえる状態でしょうか。
 稽古においては、自分を挟まずに合わせる、真似をするということは当然であり、それがなければ上達は見込めない、といっても過言ではないかもしれません。
 今年の稽古が始まり二ヶ月近くの時間が経ちましたが、その間に私が感じたことを、少し書いてみたいと思います。

 いきなり個人的なことですが、最近、クラシック音楽、特に管弦楽団の音楽をよく聴くようになりました。学生時代(遠い昔のことのようです・・・)はクラブ活動でブラスバンドに所属していたこともあり、先輩や顧問の先生などから、おすすめされた曲を熱心に聞いていたことが思い出されます。
 当時は、このCDがいいよと言われれば、近くのCDショップに足を運び、そこになければもっと大きな店に行きと、東西奔走しながら目的のものを探し回ったものです。
 それが今では、音楽配信サービスにより、以前聴いていた曲はもちろんのこと、それ以外にも多種多様な音楽が配信されており、自由に聴くことができます。こういう点に関しては、改めていい時代になったものだと思いました。

 さて、音楽配信サービスでクラシックが配信されていることに気づいた私は、軽い気持ちで再生をしたのでした。聴いたのはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。かの有名な、世界最高峰のオーケストラです。そこで私は、改めて、これまでにない感動と衝撃を受けたのでした。

 う、うまい・・・上手すぎる・・!

 奏でられる音の一つ一つのハーモニー、それらがピタッと合い、渾然一体となって体に響き渡ります。学生時代も当たり前に上手だと思っていたのですが、その時とはまた感想が違うのです。
 太極武藝館には、師父に作曲していただいた太極武藝館の歌があります。
 それをみんなで歌った時の、最初のあの合わなさたるや・・・。メロディーをピアノで伴奏し、声を出しながら、みんなで苦労しながらも、少しずつ合奏を形にしていきました。
 その経験があったからこそ、より自分に響いてくるものがあったのだと思います。
 プロの管弦楽団は、当たり前のように合っていて、ズレがありません。音やタイミング、それらが成す一つの音楽、それが全くブレることなく数十人という人間によって形作られていることの、なんて脅威的なことでしょうか。

 音楽を聞く中で、いくつものことが頭の中に浮かんできました。
 一つは、凄すぎるものは逆に当たり前に見えてしまい、より注意深くならないと、その本質を見逃してしまうかもしれないということ。
 クラシック音楽は、昔からいろいろなところでBGMとして使われてきているので、名前は知らなくても一度はメロディを聴いたことがある曲というのは多いと思います。
 なので、なんとなく聴いていると、あ、この曲知ってる〜と自分の中で簡単に通り過ぎてしまいます。
 素人、またはそれに近いバンドが演奏した時の、曲が曲として成立しないかもしれない、バラバラになりそうな状態を思い浮かべてみると、それがその曲として当たり前に認識できることが、実はいかにすごいことかわかります。・・プロの演奏としてはそれが大前提なのは言うまでもないことなのですが。

 なぜこのようなことを思ったかというと、最近、玄花后嗣の動きを見ていると、そのように感じている自分に気付いたからです。
 玄花后嗣の動きが、以前にも増して師父に似た、凄い動きになっているように感じられるのと同時に、凄いのは分かるのに、あまりに滑らかに一動作(いちどうさ)で動かれるために、それが自然なものに見えてしまって、認識がし辛くなったように感じるようになったのです。
 自らのセンサーを鋭敏にし、感性を磨いていかないことには、高度な内容は学習していけないと痛感させられました。また、当たり前ではないものを当たり前だと思えてしまうような鈍さも、より一層戒めていかないといけないと思ったものです。

 もう一つは、プロとしてどのように稽古をしていかないといけないか、という点でした。
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、世界でも最高峰の管弦楽団であり、いわば音楽においてはプロ中のプロです。歌ひとつを形にするのに四苦八苦した経験を思うと、コンスタンスに何曲も形にし、最高の演奏を聴かせられ続ける彼らが、一体どれほどの勉強をし、訓練を積んできているのか、少し想像することができます。
 問題は、彼らのレベルで音楽を出来るかということではなく、彼らと同じレベルでの訓練・稽古を、我々が太極拳に対して行なっているか、という点ではないかと思いました。

 プロの管弦楽団として音楽を演奏すること。師父がおっしゃっていたように、プロとして武術に関わり、太極拳を稽古すること。ジャンルは違えど、そこに求められるプロとしての意識には、違いがあっていいはずがないと思います。
 では、自分は、彼らのようなレベルで武術に取り組めているでしょうか。
 それは今ある実力という意味ではなくて、ウィーン・フィルハーモニーのメンバーがそこに至るまでに辿った道筋、そこに掛けた力と時間と情熱と同じものを、自分は太極拳に注ぎこめているだろうか、と自問したのです。
 とてもではないですが、足りません。何よりも、圧倒的にその意識が足りません。
 プロとして取り組むこと・・・それが当然でなければ、到底師父の太極拳など理解できるはずがありません。その現実に、自分は愕然としました。

 そしてもう一つは、冒頭に書いたこととリンクするのですが、彼らの音楽は、全てがピッタリと合ってるという点です。
 和音が合っているという単純なレベルではなくて、例えば、無音の中からポンっと鳴らされるひとつの音、それがすでに音楽として成立しており、一体となってその姿を表してくるように感じられます。本当にすごいことだと思います。

 管弦楽団には指揮者がおり、素人からするとテキトーに指揮棒を振ってるだけで何をしているかわからないと思われるようですが、その人物を通して、楽団全体の音楽に一貫性が生み出されてきます。
 学生クラブレベルのブラスバンドでさえ、指揮をちゃんと見ない学生は、どうしても音楽として少し外れてしまいやすかったです。極論すれば指揮者がいなくても音楽は成立するかと思いますが、クラシック音楽というジャンルにおいては、指揮者という存在もまた、楽団を構成する要素のひとつとして、その全体性を成しているように感じられるものです。

 太極拳の稽古に話を戻しますと、当然誰しも、前で指導していただいている人と合わせて動こうとしているはずです。
 自分ももちろんそうしていました。ところがある時、玄花后嗣の後で動いている時に、ふっと感じるところがありました。自分は玄花后嗣に合わせようとしているけれど、その玄花后嗣は一体何に合わせようとしているのだろうか?と。その何かに、自分も合わせてみようと思ったのです。
 多分に感覚的で、言葉にすると取りこぼしが多く感じられます。
「月を指す手ではなく、月を目指す」
 そのように言われたことも一度ではありません。ですが、感覚的にはっきりとそうしてみようと思えたのは、もしかしたらその時が初めてだったのかもしれません。

 クラシック音楽も太極拳も、それが作られ、成立した当時の「もの」は、形としては何も残っていません。200年前の演奏家や音楽が残っていないように、200年前の太極拳は物体としては残っていません。
 ですが、それらは人々の中に、文化という形として脈々と保たれて残ってきました。
 楽譜は音楽ではありませんが、そこに記されたものを、人は音楽として再び演奏することができます。その時演奏家は、一体何をもって、それを音楽として成立させることができるのでしょうか。

 楽譜があっても音楽は出来ないのと同じように、秘伝を聞いただけでは太極拳は出来ないのかもしれません。先人たちが何に合わせてきたのかを自分で理解し、自分という存在をあたかも楽器のように奏でることができて初めて、太極拳はここに現れるのかもしれません。

 師父が合わせていたものとはなんだったのか。玄花后嗣が合わせていて、我々にも教えてくださっているものはなんなのか。
 そこに焦点を絞って、自らの感性を最大限に磨いてチューニングしていかないと、本当に大事なことは見えてこないようになっているのかもしれません。

 幸運なことに、我々太極武藝館の門人は、すでにそれに必要なことを目の前で提示していただいていますし、事細かな指導をしていただいています。
 あとは、それをどれだけ自分自身の課題として、自分に課して、切磋琢磨していけるかという点だけが問われているようにも思います。
 すでに述べた通り、管弦楽団の一員として多くの人々の前で演奏するプロの演奏家と、実践の場において自らの身を守り、大事なものを守れる武術家には、求められる努力に何も違いはないのだと思います。
 秘伝を習えば一朝一夕で戦える、そんな都合のいい話は恐らくないはずです。
 レクチャーを受けて一晩でプロ並みの演奏ができるようになります(??)
 ・・そんな話はあり得ないことくらい、誰でもわかる話です。

 だからこそ我々は、朝に夕に、教わった内容を正しく身につけるための努力を惜しんではいけないのだと思います。
 師父がそうされたように我々も倣わなければ、到底、太極拳をものにすることなど不可能に違いありません。

                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その59」の掲載は、2022年4月22日(金)の予定です

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