今日も稽古で日が暮れる

2023年10月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その77

   『稽古を楽しむ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 一年365日…普段の生活を送っている時、仕事をしている時でも、太極武藝館の門人の頭の中には太極拳の事があり、稽古で出てきた問題点が気になる、という状態が生じているのではないかと思います。
 椅子に座っている時、ふと立ち上がったり動作をする時、ちょっとした瞬間にもそれは現れ、今の動きはどうだったのだろうか?姿勢はどうなっているのか、無駄に力んでいないか等、あらゆる注意点が頭と体の中を駆け巡るのが日常茶飯事だという事は、おそらく私だけではないかと思います。

 私にとっては、いつでもどこでも取り組めることが常にそばにあることは、ひとつの喜びとして感じられます。ただ、人生…というか稽古ですが、上手くいっている時もあれば、そうでない時もあります。
 道場に行けば、毎回同じ問題を指摘され、それがずっと続いていると感じる時があります。
 実際、稽古中の門人からは、こういった意見も聞こえることがあります。外から見ると以前のその門人とは全く違った、上達していると思える状態であるのに、その当人からすると、違いが分からないというものです。
 そういった意見が出てくるのも、確かにわかります。自分でやっていても、自分自身の問題点に気づけば気づくほどまだまだダメだという気持ちになり、よくなっているという状態が実感しづらい時があります。その状態で稽古を続けていけば、やってもやっても変わらないという気持ちが募っていき、現状が打破できない、と感じてしまうかもしれません。

 これは個人的な感想も含まれるのですが、太極武藝館で指導して頂いている稽古方法をしっかりと行えば、間違いなく良い方向での効果は出るのだと思います。ただ、示して頂いている内容の高度なこともあり、理想とされる状態が高く感じると、自分の至らなさだけが見えてしまい、稽古として行っていることに意味が感じられなくなってしまう、という事もありうるのかもしれません。

 以前、拝師正式弟子である先輩から聞いたお話です。
 今はもう辞めてしまった門人が、当時、一人で棍の稽古を続けていたのだそうです。その姿を見た師父が、「まだ出来ていない」と仰ったのだそうです。すると、その門人は、出来ていないのだからやっていても仕方がない、と棍の稽古を止めてしまったのだそうです。
 先輩からすると、その門人は自分で稽古を行ったことで間違いなく上達していたのだそうですが、その上で師父は不備がある点を指摘してくださったのに、精神的に耐えきれなくなってしまったようだった、とのことでした。

 自分は幸運なことに、正式弟子の皆さんしかいない稽古に混ぜて居させて頂くという機会に、何度も恵まれたことがあります。当然、居させてもらっているだけで自分が直接指導を受けたりはしないのですが、おこぼれで師父に「それではダメだな!」と毎回のように言って頂いておりました。
 それは、「お前は出来ていない」と咎められているのではなく、もっと見るべきことに注目して稽古に励むよう、自分を叱咤激励して指導して頂いていたのだと思います。その言葉を自分を進める力に変えられるか、自分には出来ないのだと折れてしまうのか、その選択は、自分に問われているのではないかと思います。

 稽古で結果を出すことに執着を持ってしまうと、それは心身の居着きとして現れてしまうのではないでしょうか。すでに書いたとおり、太極武藝館の稽古は、続ければ間違いなく自身の変化が生じるよう、用意して下さってあるように感じます。いくつもある心身の問題に対して、やれば必ず応えてくれるような体系がそこにあり、あとはそれをしっかりと自分で選んで、続けていけるかどうかが問われているのではないかと思います。

 その過程において、嫌でも自分に向かい合うことになります。自分と向かい合うことに、喜びを見出せるかどうか。自分自身を知り、それを通してこの世界の見え方が変わっていく。そのことに喜びと楽しみを感じるようになってくると、稽古で結果を出すことが目的ではなく、稽古に取り組むことそのものが目的となってきます。そうなった時、太極武藝館での教えは、私たちに大きな収穫を与えてくれる、豊かな土壌のように感じられるものです。
 そうなってきたら、それはもはや生きる歓びとして、病める時も健やかなる時も、常にそばにある事が本当にありがたい事として感じられるのではないかと思います。

 基礎的な稽古をコツコツと続ける事、基本を理解する必要性に直面し、それが至らなかったと痛感するという事は、どれだけ道場で稽古をしていたとしても、変わらず出てくるものです。
 宗師が訓練に行かれていて留守にされていた時のことです。他の門人の早退および欠席の結果、道場に残ったのが私ともう一人、研究会の門人の二人だけということがありました。
 夜も更け、後は確認でもして帰ろうか、となった時間帯にも関わらず、たった二人きりの稽古は、意図せずヒートアップしていきます。
 対練をしていて、宗師に示して頂いていたものと何が違う、どう違うか…二人で意見を出し合いながら、技をかけ合います。
 次第に、結果が少しずつ良い方向に変化をしていくと、二人で「全く違った…違う事をしていた!」と感嘆のため息をもらしました。
 言ってみれば架式の違い、身体の動きの違いがあったのですが、その大本にあったのは、道場での稽古でほぼ毎回一番最初に行われる「柔功」の違いだったというのが、二人で見解が一致した点でした。

 柔功は一見すると、本格的に身体を動かす前の準備運動とも取れてしまえるような動きでもあり、また簡単な動作にも見えるため、一般的な感覚では、さっと終わらせて次に行きましょう、となってしまいやすいものかもしれません。ある意味では、そこに罠が仕込まれているのかもしれません。
 柔功を、なぜ稽古の毎回最初にやるのでしょうか。本当は、それだけ大事な稽古だから、なのかもしれません。
 柔功の動きをじっくりと吟味し、味わえば味わうほど、自分の動きの足りなさが身に染みてくる、紛れもない太極武藝館の練功のひとつなのだと感じます。柔功で使われるもの、養われた体の動きが、対練で発揮されると、それだけで相手は力もなく崩れることに繋がってくるのだ感じたことは、太極武藝館の稽古が一貫した訓練体系として組み立てられている証なのではないでしょうか。
 おそらく入門した当初から、誰でもやっている、全く隠されていない動きのはずです。
 最初から示して頂いている動き、その中に自分の気づけていないものがそれだけあり、深めていけるものがたくさんあるのだとしたら…自分に変化がないと嘆いている暇などないのかもしれません。
 散歩をしている最中、ふと見かけた草木に目が引き寄せられ、自然の営みを感じたり、見上げた大空に浮かぶ雲に、吸い込まれてしまうような錯覚を覚える…。
 世界は驚きと発見に満ちており、それをダイレクトに味わわせてくれるものが、私にとっての太極拳の稽古と同義になっているように感じます。
 ただ退屈に毎日を過ごすのではなく、やるべき課題があり、驚きがある。これほど楽しいことは、なかなかないのではと思います。

 楽しまなければならない、ということはないのかもしれませんが、せっかく稽古をするのですから、そこに楽しさを見出し取り組んでいくのも、悪くないのではないかと思います。
 おちゃらけてふざけるのでもないし、深刻になりすぎるのでもなく…。
 人生を掛けて真剣に取り組むからこそ、本当の喜びがあり、楽しさを感じる。
 今現在の私は、稽古への取り組みをそのように感じています。
                                 (了)




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2023年09月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その76

   『耳を傾けてみる』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 注意深く耳を傾けて、ただ「聴く」ことに集中してみると、それまで自分が思ってもみなかった音が溢れていることに気づくことができます。夜、部屋の中で椅子に座り、耳を傾けてみます。窓の外では、まだ昼の暑さが残る中、もう秋の虫が鳴いている声が聞こえてきます。

 静けさに包まれると同時に、昼の喧騒から離れた夜の音が、辺りに満ち満ちているのが感じられてきます。同時に、静けさを漂わせた自分の輪郭が、はっきりと感じられてくるのがわかります。
 ただ、静かに聴く。それだけを続けていると、ある時はっと気づきます。聞こえなかった音が聞こえはじめた時、静けさを取り戻していたのは他でもない、自分自身であったことに。
 物事をわからなくしていたのは、自分から聞こえていた騒音だったのかもしれません。

 太極拳の稽古を行っている時、何よりも自分自身という存在と直面しないといけないということに気づかされます。どれだけ高度なことを示され、教えていただいたとしても、それを学習しようという自分が平々凡々としていて、雑音に満ちていては、その内容は自分の中には入ってきません。
 どれだけ努力していたつもりだとしても、それが無意味なものになってしまう…知識としての太極拳ばかりが増えて、身に付いたものがないとすれば、これほどむなしいことはありません。
 結果を出そうとすれば自ずと力みが生じ、それが上手くいかない原因となってしまう…この循環を断ち切るためには、どこかで全て手放して、ただ、そこで起きている事と向かい合わなければならないのだと感じます。

 立ち方、架式の決まり具合、どれだけ注意深く稽古したつもりになっても、いざ対練でそれを確認してみると、途端に化けの皮がはがれてしまうという経験を、何回繰り返したでしょうか。飽きるほどの失敗を繰り返し、その果てにようやく、原因となっているのが技術ややり方ではなく、それに対する自分の取り組み方、在り方であることが理解されてきます。何かがおかしいと思っても、結果が変わらない状態が起こり、万策尽き果てたかのようにさえ感じられた時、人はようやく自分に固執することを諦め、人の話に耳を傾け、何が起こっているのかを本当に理解しようとする準備ができるのかもしれません。

 自分の力でなんとかなる、解決できるはずだという考え方の限界に直面した時、人は謙虚にならざるを得ません。そして初めて、「自分」という我の強さがあったのだということが分かってきます。
 それは、自分の姿を映すはずの水面がバシャバシャと波立っていて見えなかったものが、ようやく落ち着いてきて、姿を映す鏡になってきてくれたかのような感覚です。そこに映ったものを見て初めて何かを理解し、「言われていたことはこのことだったのか」という感覚が、しみじみと湧いてきます。

 対練で人と合わせること。それよりもまず、自分と合わせること。それまでバラバラで、部分部分で使おうとしていた自分の身体が、以前より一つにまとまった物として感じられます。
 その状態で稽古してみると、それまではただやりにくいと思っていた歩法や練功の形が、自分の状態を別の状態に変化させてくれるような、ひとつの「型」として機能しているかのように感じられてきました。
 様々に示して頂いていた練功の中にある形を、自分の身体に通すことが楽しくなってきます。自分の身体なのに、もっと外側から鋳型をはめられて形作られているかのような、それまでになかった不思議な感触です。

 手の向き、足の位置、顔や体の向き…それまで注意され直そうとしていたものは、中身のないまま輪郭をなぞろうとしていたものであったかのように思われます。
 それが今は、正しい位置や形を守ることで、身体がひとつのものとして矯正されていくのが感じられます。
「チューニングする」という表現をされていたのは、もしかしたらこういったことを指していたのだろうか…という思いがよぎります。
 心と体を落ち着かせ、じっくりと耳を傾けてあげることで、自分の身体がどのような状態であるのか、どのようにひとつのものとして統合されているのか、そのことに少しずつ焦点があってきたのかもしれません。

 自分の中に確かに生じてきた変化を、じっくりと楽しんでみます。それはあたかも、誰もいない静かな美術館の中で、自分とその作品だけがあり、淡々と対話しているかのような楽しみ方です。騒ぎ立てず、じっくりと、作品と自分との間に生じているものを、ただただ味わうかのような…。
 その作品は何も動かず、音も出しません。咳払いするのさえためらわれるような静けさの中に、そこには確かに息遣いがあり、動きがあります。もしかしたら、その作品を通して現れた自分の変化が、そのように感じさせてくれるのかもしれません。

 太極拳の「難しさ」は、一流のプロでもはじめたばかりの素人でも、全く同じ条件から始められるところにあるのではないか、とふと思いました。
 プロの画家と素人の絵描き、それぞれに紙とペンを渡すのと同じで、スタートはおそらくほとんどの人に平等に与えられるのではないかと思います。ところが、その二人が同じレベルで絵を描けるかとなると、全く話は違ってきます。
 だからこそ、自分が素人ではなく、プロの意識を持ってペンを取らなければならないように、太極拳にも一流の意識を持って取り組んでいかなければならないのでは、と思ったのです。

 …と、そのようなことを宗師にお話ししたら、「難しく考えすぎじゃない?」と笑われてしまいました。
 本当に、仰る通りです。

 なので難しく考えるのはやめて、じっくりと取り組んでみることにしました。一流の絵描きがキャンバスに向かい、無心に筆を動かすように、自分と向かい合い、無心に身体を動かしてみます。そうしてだんだんと、自分の身体が雄弁に語りかけてくれるのが少しずつ聴こえてくるから、不思議なものです。

 最後の最後まで一番煩く、聞き取りにくくしていたのは、他でもない頭の中で聞こえてくる声だったかもしれません。体はこれだけ声を発してくれているというのに、その声を聞こえなくしてしまう、または無視してしまうような声は、稽古をする上ではあんまり役に立たないのかもしれません。
 それを大声で制しようとしても、その声もまた、ただ大きくなるだけです。騒音は拡大し、とどまることを知りません。
 だったら、こちらが声を出すことをやめて、そっと耳を傾けることを示してみるといいのかもしれません。最初は不審に思いながらも、その頭の声の主も、次第に自分の身体や、周りの音に耳を澄ませることを真似しはじめてくれます。
 そうしてくれたらしめたもの、だんだんと頭の声は小さくなって、今まで聴こえなかった他の声や音が、聴こえてくるのがわかります。

 自分が静かになってくると、はじめて聴こえてくる音。
 それは、世界はこれだけ色々な音を聞かせてくれていたのかと、静かな感動を覚えるものです。
                               (了)





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2023年08月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その75

   『さながら蓋がポンと外れるように』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)





 先日、一人で稽古をしていた時のことです。太極武藝館では、重要視されていることの一つに片足で立つことがあり、その時も、その事を念頭に置いて稽古をしていました。
 立つこと、歩くことといった基本的な動作の中で、どうしても片足で立つ状態は現れてきます。その整い方次第で、武術としての有利・不利な状態が左右されてくるのは、想像に難しくないかと思います。
 その日も基本的な稽古で体を整えた後、歩法の稽古を行っていたのですが、片足になっていく際の自身の身体のブレが気になっていました。

 両足で立っているところから、片足ずつ立つ。その中で現れてくるブレがどうしても解消されません。両足から片足へ、慎重に歩を進めようとすると、自ずと動きはゆっくりになっていきます。
「うまくいかないなー!」と思いながらも、全身の状態や動きを観察しつつ、一歩一歩進んでいきます。悪戦苦闘しながら歩を進めようとする自分の姿がふと窓ガラスに反射して映ったとき、衝撃にも近い感覚に襲われました(これは稽古をしていると、本当によく感じるものです、余談ですが)。
 自分の行っていた動き方が、擦歩と呼ばれる歩法で指導して頂いていた形と、非常によく似た状態になっていたからです。

 さて、自分はなぜ衝撃を受けたのでしょうか。それは、擦歩という形の歩法のことなど意図していなかったのにも関わらず、自分がそのような形で稽古を行っていたからでした。
 念頭にあったのは冒頭にあげた通り、片足で立つことだけでした。もちろん、過去に擦歩の指導をして頂いていたことがあるので、それが無意識のうちに出てきていたのかもしれません。
 ただ、その知っていて行っていた稽古と、自分の課題に取り組む際に自然に必要性から出てきた稽古の形では、その深みが全く違うように感じたのです。

 まるで、自分が新しく擦歩という練習方法を編み出したかのような気持ちです。
 最も、現実には全くそんなことはないのですが、まるでそれくらい違って感じられたということです。

 また、それまでの自分は、稽古に取り組んでいるようでいて、形をただなぞるだけだったのではないか…という気持ちが、同時に湧き上がってきました。
 もちろん、知らないものを習得しようとしているのですから、教えていただいた形を大事にしなければならないのは当然のことです。ただ、それをなぞるだけで満足するのではなく、もっと本質の部分にまで踏み込んで味わっていかないといけないのだと感じられたような気がしたのでした。

 世の中には、「車輪の再発明」という言葉があります。特に近年では、IT業界で好んで使われている言葉だそうです。
 意味は、「すでに知られていて使われている技術を(知らずに、または無視して)再発明するような、無駄な労力を使うこと」といった、否定的なニュアンスで使われる場合が多いようです。
 今回、自分が経験したような事は、まるで自分がそうと知らずに車輪を再発明してしまったような、無駄なことなのかもしれません。ですが、考え方によっては、それによって車輪への理解が深まったともいえます。同時に、すでに用意して頂いている訓練体系へのありがたみが理解され、より注意深くそれに取り組まなければ、という気持ちにもなりました。

 太極拳のジレンマ(?)のひとつに、教わったことをそっくりそのまま受け取れる受容性と、自らが開拓者として道を切り開いてくスピリットが求められるという、一見すると矛盾しそうな二つの要素が必要とされている点があるかと思います。この問題を、頭で解こうとしても絶対に行き詰るように出来ているのが、面白いと感じる点です。
 禅の世界で言えば、導師に一喝していただくことでぱっと視界が開けるように、太極拳で言えば、稽古を進めていく中で、気づきに出会えることで、問題の霧は一瞬で晴れてしまうようになっているのかもしれません。

 太極武藝館でもシンボルとして扱われている太極図を見ると、陰と陽、矛盾とも思える要素が同時にそこに存在しながらも、見事に循環する様子が描かれています。
 凝り固まった頭では「あり得ない」と思ってしまうような物事も、少し視点を変えることが出来れば、とたんに問題ではなくなり、「あり得る、起こり得る」ことになるのかもしれません。
 その「頭の固さこそが問題だ」と、何度宗師に指導して頂いていることでしょうか…。

 さて、「アリエヘン〜!」と思いながらも実際に起きてしまう現象、師父に教えて頂いた技を、ひとつここで紹介させていただきたく思います。
 日常生活で非常に役立つ便利技であり、その機会に出会うごとに使わせて頂いているのですが、効果は百発百中です。

 教えて頂いた状況は、何かの集まりでの食事の際に、実際に師父に見せて頂いたと記憶しております。
 調味料が入ったビンだったと思うのですが、それの蓋が固くて開かなかったのです。何人かの力自慢が試しても、それは開かったのです。
 それをおもむろに師父が手に取ると、蓋の周りを緩む方向にツルツルと何回か指でなぞりました。それから蓋を開けると…いとも簡単に、ポンッと小気味よい音と共に蓋が外れたのです!
 その場で、固くて空かない蓋に実際に試させていただくと、自分がやっても確かにいともたやすく外れてしまうのだから、なお驚きです。

 唖然としている我々をよそに、師父は「これが構造だよ」と笑っておられました。

 それ以来、固くて開かないビンの蓋やペットボトルのキャップ(非力?)に出会うと、その技を使っています。最初は固くてびくともしない蓋が、ツルツルと指でなぞってから開けると、嘘のように開くようになるのです。

 なんでそうなるのかと言われると、正直何がなんだかわかりません。
 最初に開かなくても力いっぱいやった後だから?と思ったこともありますが、それだけでは説明がつきそうもありません。指でなぞった後の方が、明らかに蓋が開きやすいのです。

 師父が仰られた構造の構造たる故であり、そこが自分の理解が及んでいないところなのかもしれません。

 稽古においても、対練で相手に力で向かってこられた時、力みで耐えられた時にも技が効くかという点が課題として挙がっています。
 ビンの蓋のような無機物に対してさえ、効果のある構造・原理の関わり方があるとするならば、ヒトに対しても同じように、余計な力が無くても、蓋が外れるように関われ崩れる状態が存在しているのかもしれません。
 固い蓋を開けるという、まるで余興のような状況で示していただいた事でしたが、それは我々に、構造とは何か、力とは何かといった問いを、深く深く、投げかけてくれているようにさえ感じられます。
 ただ、指でツルツルなぞるだけというシンプルさを受け入れ、真似することが出来ているのか。そこで起きたことを、噛みしめることが出来るか。
 結果が伴わない時にこそ、自分の向かい方に目を向けなければならないのだと思いました。

                                (了)






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2023年07月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その74

   『コツ・コツ・ガラリ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 昨年末の話ですが、以前宗師が使っていた車を縁あって譲っていただくことになりました。マニュアル車ということもあって、最初は、慣れない車の運転に四苦八苦しながら乗っていました。
 当たり前ですがマニュアル車で取った免許は持っていますし、マニュアル車のバイクは散々乗り回してきたので、運転の方法は頭では理解しています。ところがいざ自動車の運転となると、どうしても感覚が違って感じられたものでした。

 この問題を、どうやって解決したのでしょうか。答えは簡単です。日頃から車を運転する機会を増やす、つまり練習あるのみでした。そうすると、最初はもどかしかったギアの切り替え、クラッチのつなぎ方なども、特に考えたりあたふたすることもなく、自然と行えるようになっていったのでした。
 ぎこちなく運転していた段階から比べると、変に意識することなく自然に車を走らせることが出来るようになることは、確かな進歩ではないかと思います。
 しかし、たかが車の運転、されど車の運転…その上でしっかりと意識的に車を走らせるということは、突き詰めれば本当に奥が深いものだと感じます。

 先日の野外訓練の際に、宗師が運転する車の後ろを付いていったのですが、その走りの感覚というものが正に太極拳であり、その稽古である、とわずかながらでも感じることが出来たのは、大きな発見だったように思います。
 宗師の運転は、こちらが苦もなく付いていけるよう、道路の状況だけでなく後ろの我々にもぴったりと合わせて頂いたような運転で、ものすごく運転しやすかったものでした。
 山道に差し掛かり、ワインディングが始まると、「何かはじまった…!」と走りが変わったように感じられました。
 後からそのことを宗師にお話ししたら、「みんなが付いてこれるように運転していただけ」と仰っていました。確かにスピードそのものは全く早くないのですが、ブレーキとアクセルのタイミング、カーブのルートの取り方などが、何も考えずに運転しているとだんだんついていけなくなるように早かったのです。
 また、なんというか、山道に入ってカーブになった途端、急にわくわくするような、走るのが楽しくて仕方ないとった運転に感じられました。
 全くスピードは出していないのに早く感じられたのもあって、実は後ろをついていきながら「うひょー」や「おぉー、すごいー!」などと歓声を上げていたのは、ここだけの秘密の話です。

 ともあれ、そのように車を走らせた経験は自分にはなかったので、いつもの自分の走りではない走り方を、短時間ではありますが体験させて頂けました。車種は違えど、同じ四輪の乗り物のはずなのに、全く違った走り方をしている…この経験はまさに、普段の太極拳の稽古で我々が味わっているのと同じ感覚だったのではないかと思うのです。
 同じように二本足で歩いているはずなのに、全く違ってしまう…。そのギャップを埋めるために、宗師や指導者の後ろに付き、その動き方や在り方をそっくりそのまま真似することで、自身の変容を促す。
 自分にはない車の走らせ方を追従しながら、野外訓練を行うキャンプ地に付く前から訓練は始まっていたのだと実感させられたものでした。

 余談ですが、先日バイクで久しぶりに山道・林道にツーリングに行ったのですが、運転の感覚が明らかに変わっていたのに驚きました。前にも通ったことのある道を走ったのですが、ものすごく運転しやすくなっており、以前よりも体を倒しカーブを曲がるのが本当に楽だったのです。体の使い方が多少は改善されていたのかもしれないですが、それよりもアクセルの開け閉めとルート選びの感覚が違っているように思われました。思い当たる節といえば、宗師の運転に付いていったという事しかなかったので、短時間の事でしかなかったのに、ここまで運転に(それも二輪の)影響が出るのかと、驚かされたものでした。

 さて、ここまで車とバイクの話しか書いてこなかったのですが、ここで経験された運転に対する認識と実際の変化は、そのまま自分の変化にも通じていて、太極拳の稽古にも影響が出てきているように感じられています。

 まず前提として、車の運転は日頃からコツコツと行っていたことが練習となっていて、それは日頃自分で行う稽古と重なる点があると思います。
 車を譲っていただく前、ここ最近はバイクにしか乗ってなかったこともあり、車の運転、ましてやマニュアル車なんて、恥ずかしながらぺーぺーのドライバーと変わらない状態でした。ほとんどおっかなびっくり乗るところから始まって、大型や二種免許まで持ってる運転好きの父親に教わったりもしながら、なんとか問題なく日常で乗れるレベルになっていきました。
 あとは普段使いと、休日にドライブに出かけるなどして、とにかく運転する機会を取るようにして慣れていきました。

 その上で、宗師の後を付いて走る…宗師は謙遜されて「自分の運転なんて大したことない」と仰っておりましたが、あの師父のもとで長年研鑽を積まれた運転が、大したことないなんてことはありません、間違いなく。
 そうして、自分にはない運転の在り方を追体験させて頂くことで、違いが認識させられ、新たな世界を目の当たりにさせて頂けたのでした。それによって、全く意図していなかったバイクの運転にまで影響が出ていたのですから、驚き以外ありません。

 運転の変化が太極拳に直接影響があった…かどうかはわかりませんが、練習や稽古を通してそれまでの自分の方法が変化するという点において、疑似体験は出来たのではないかと思います。
 車の運転と自分の歩き方・動き方の共通点を挙げるとすれば、どちらも行っている内に自然と…いうなれば自分勝手に…身に付いてしまうものだと思います。
 一度身に付いてしまった癖を直すのは、簡単ではないと思います。そのためには、正しく身に付いている人に手本を見せてもらい、それを忠実に真似しながら、自分との違いを噛みしめていくしかないのだと思います。
 どんな習い事でも、正しい知識と技能を持ったインストラクター・指導者に教わる機会を持てることは、上達において非常に有意義なものであるはずです。
 教わったことを基に、自分でしっかりと研鑽を積んで、また修正して貰える機会を持つ。
 正しくその繰り返しを行うことで、間違いなく上達していけるはずです。

 太極拳の稽古でも、前は出来なかった事がいつの間にか改善されていた、という事があります。ただ、そうなるためにはボーっと待っているのではなく、毎日地道にコツコツと練習し続ける必要があると思います。また、一つのことにとらわれることなく、様々に教わっている稽古方法を色々やってみることが大事な気がします。自分が思っている問題の現れと、その原因が全く違った所にあるというのは、ままあることです。
 行き詰ったと感じた時は、自分以外の門人、諸先輩方がどのように稽古をしているのか話を聞くのが、本当に参考になります。
 自分が思ってもみなかった発想や、足りていない部分がわかり、その上で自分でまたコツコツと稽古し続ければ、間違いなく変化は蓄積していくはずです。
 そして、自分が問題だと思っていた山は、いつのまにかガラリと崩れ去っており、違った景色が見えているかもしれません。
 目的地にたどり着くことを目標にしてしまうと、その歩みは苦痛となってしまうかもしれません。しかし歩くことそのものを目的としながらも、下を見て歩いていては、どこかで道を間違えてしまうかもしれません。
 ちゃんと顔を上げて景色を楽しみ、空気を味わっていけば、進む道を間違えることは少ないのではないかと思います。自分が見ようと思えば、周りに居る仲間や、先を行く指導者の姿が、しっかりと見えるはずです。
                              (了)






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2023年07月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その73

   『ていねいに整える稽古』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳の稽古をする中で、要訣を守り、自らを整えようとしていると、その影響は普段の自身の生活の中にも表れてくるのを感じます。
 例えば、物を整理整頓すること。家の中や仕事中に、ふと目に留まった置いてある物の乱れが気にかかるようになり、そっと整えるようになる機会が増えました。仕事中などは、それまでだったら他にやることがあるから、と通り過ぎてしまっていたものが、自分の中から、
「ここで整えないと、果たして太極拳の稽古で自身を整えることなどできるのだろうか?」
と、意識が声をかけてくるような感覚が沸き上がり、手早くですがさっと整頓するようになったのです。
 忙しい、他にやることがある、と言い訳をするのは簡単なことですが、一番の問題は、自分がそれを整えるというわずかな手間も取りたくない、やることを嫌がっていた、という事ではなかったかと思います。
 出ているものをもとの場所にしまう、乱れているものを整える。時間にすれば一秒にも満たないわずかなものですが、しっかりと自分の手を動かすことが必要です。
 そんな、ほんの些細な事ですら回避しようとしていた自分の姿は、こうして改めて文章にしてみるとショックを受けるものです。

 この、日常の中で何かを整えるわずかな手間を嫌がり見て見ぬふりをしてしまうこと、もしくは最初から気づかない意識の薄さは、稽古をする上で自分を整えることが出来ない、整えようとした事がいつのまにか忘れられてしまっているという事実に直結しているのではないかと思います。
 太極武藝館と関わり、過ごしている時間の中で、宗師が色々な事にていねいに関わろうとされているかを目の当たりにする機会が多くあり、自分がどれだけ適当に物事に当たっていたのかを痛感させられます。
 道場内の収納スペースには、訓練で必要とされる道具が実は沢山収められているのですが、一見するとそうとは分からないくらいコンパクトに綺麗に収まっています。そこから使うために一度取り出してみると、仕舞い方が分からないと、どのように戻したらいいのかわからなくなるほどです。収まっていた物の量は変わらないはずなのに、なかなか元のようには戻ってくれないのです!
 また、道場内の正面に下げてある太極武藝館の旗や、いくつもある写真入りの額など、どれもミリ単位で飾られる位置や角度などが整えられています。長年、こういった太極武藝館流の物の整え方を味わっていると、職場でもポスターの掲示方法や物の置き方が気になるようになってしまうというものです。
 先日も、神棚に祭られていた破魔矢が大雨で濡れてしまったので、交換の作業をお手伝いさせていただいたのですが、飾り紐のたれ方の位置、文字の見え方などきめ細やかな調整を目の当たりにして、これぞ太極武藝館流だ!と感慨深いものがありました。
 こうした、気にしなければ見過ごされてしまうようなことをしっかりと整える細やかさ、繊細さがあるからこそ、太極拳を学習する上で求められる精度や、それに取り組む精神性が育まれていくのだと感じたものでした。

 このような取り組みが武術となんの関係があるのだ?と、知らない人だったら思われるかもしれませんが、自分をはじめ、太極武藝館で稽古をしている門人からすると、これらの事は稽古そのものだと感じる部分があると思います。

 高いところから吊られているように…細い足場を歩くように…、稽古中に指導していただくこういった言葉を基にイメージを持って歩くと、実際に体の状態が変化するのを誰もが感じます。自身の感覚としても違いが感じられ、それは外側から第三者が見てもはっきりと違うものとして見えるものです。
 では、一人で練習する時間になるとどうなるでしょうか。あっという間にそれらの注意点は忘れ去られ、自分が気になっている問題に注目し始め、最初に整えられた立ち姿はどこかに消え去り、肩を振り足を上げながら妙な歩き方をする自分がそこにいます。
 ましてや対練で相手がいる時など、もっと顕著になります。『虚領頂勁』という要訣が頭の中に残っていればいいほうで、力を使わない!などと念じながら、姿勢は乱れ相手に寄りかかろうとするのを押しとどめた妙な力んだ姿勢で、プルプルしながら相手を動かそうと躍起になる自分がそこにあります。
 …多少誇張してますが、うまく出来ないときは概ねその通りになっているのが悲しいところです。

 冗談のように書いていますが、落ち着いていれば誰しも簡単に出来そうな、上から吊られて歩くイメージを持つといった事でさえ、人間は守るのが容易ではないという現実と、深く向き合う必要があるのではないかと思います。

 生活の中で整えることが気にかかると冒頭で書きましたが、たとえば仕事中、誰かが使ったメモ帳やペンが定位置ではない場所に置きっぱなしになっていることがしばしばあります。それを見て自分も気を付けるだけでなく、ペンはペン立てに、メモ帳は電話の近くに戻すといった簡単な事をするのに労を惜しまないという姿勢は、そっくりそのまま自分の稽古への取り組みに反映されているのではないかと思います。

 わずかな乱れも見逃してはならない!と神経質になるのではなく、ふと気になったところを整えていくこと。稽古や生活をする上で、自分やほかの人が気持ちよく時間を過ごせるように周囲をちょっと気に掛ける、というわずかな手間を惜しまない姿勢は、自分にとっては間違いなく太極武藝館に入門してはじめて教わったことだと思っています。
 その意識の働きかけ方は、太極拳を学習していく上で、自分自身の体を整えるために必要な意識の使い方だと思います。また、家での生活や、職場で過ごす時間においても、人間関係を円満にして、そこにいる人々がそれぞれ気持ちよく活動していけるようにするための、効果的な方法ではないかと思います。
(了)




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