今日も稽古で日が暮れる

2018年11月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その39

   「備えよ、常に」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 9月の終わり、台風24号の直撃により、静岡県の西部では大規模な停電の被害が発生しました。日本列島全体を見てみれば、最近の台風によって多くの場所で様々な被害が発生していましたが、静岡県にはそれほどの被害がなかったため、台風24号は、どこかで「大丈夫だろう」と油断していたときに来たようにも感じられました。

 特に、停電が起きたことによって、我々現代人の生活がいかに電気を使ったものに依存しているかを、改めて感じさせられたものです。
 あって当たり前だと思っていたものがなくなると、途端に人間は、どうしたらいいかわからなくなるものです。

 市内でも、電気が使えなく、携帯電話の充電ができない市民が、市役所に設置された充電スペースに殺到したといいます。当然のことながら、それにも限界があるので、最終的には自分自身の手でどうにか問題を解決していかなければならないことになります。

 幸いにして自分の場合は、第一回のCQC特別講習会を受けたこと、そしてその前に起きた北海道での地震の被害を伝え聞くことで、「これではいけない」と反省し、少しずつではあるものの災害に対する備えを進めていたところでした。
 食料、水、そのほか必要な装備を持ち出せるようにしておくこと。
 当然のこととして、誰しもが備えておいてしかるべきもののはずです。
 ですが、本当は一番肝心な、「何があっても対応する」という心の準備こそが、実際に自分の身に降りかかってくるまで、足りていなかったことに気づいていなかったと思います。
 それこそが本当は最も持つべき用意であり、いつでも「使える」ようにしておかなければならないものではないか、と思います。

 このことは、自然災害に限らず、あらゆる場面、日々の生活や非日常である闘争の場においても必要なことではないか、と考えさせられます。
 それは言い換えれば、居着かない状態といえるのかもしれません。

 たとえどれだけ体を鍛え、技を鍛え、相手の攻撃にはどう対応する、こちらからどのように攻撃するといったような、格闘技的なメニューをこなしているだけでは、一番大切な部分は本当の意味では身につかないのではないかと思います。
 もちろん、ルールの決められた試合の中では、数を重ねた分だけ技巧は増すでしょうし、対応できる場面は増えるかと思います。
 ですが、一度そのルールから離れてしまった時、果たして自分がどのように動けるのか、と考えると、疑問に思わざるを得ません。

 太極武藝館の稽古体系を考えてみると、そのような考え方とは一線を画した発想において組み立てられていると感じます。
 それはルールのある、ルールに守られた戦いで勝つことを目的としたものではなく、自分の身は自分で守らなければならない、もっと強大な力と対峙する必要のある状況で生き延びるために考え尽くされたものではないでしょうか。

 もちろん体は鍛えるに越したことはありません。自由に動ける体は何にも増して生き残る機会を与えてくれるはずです。
 ですが、どれだけ体を鍛えたとしても、大規模な地震の前では人間の力では打ち勝つことはできませんし、台風の大風では、人間を超える大きさのものがいとも簡単に飛ばされていってしまいます。
 そこで必要なのは、生き残るための考え方なのだと、道場の内外問わず、あらゆる機会を使って師父は我々に示して下さっています。

 ちょっとした傷を負うだけで人間は行動できなくなってしまいます。
 災害時、手を怪我しないようにグローブをするために持ち歩く。ほんの小さな考え方によって、自分が生き残る可能性は大きく変わってきます。それによって、周りの人にも手を貸せるようになるかもしれません。
 ところが、その単純な発想を、現代人は忘れてしまっているように思います。
 危険を察知するセンサーが鈍ってしまっているのです。

 多くの人が「どうしよう」と途方にくれている間、我々、太極武藝館の門人は、考えることをやめず、的確に動くための訓練を受けさせていただいています。
 これは非常時に身を守ることにも当然なりますし、日常の生活の中においても、それまでは気づけなかった危険に気づき、問題が起こる前に対処できるようにセンサーを働かせることにも繋がっていると、強く感じます。

 現在、世界中で「交通戦争」と揶揄されるほど、交通事故による怪我や死者の数は多いです。その数は、いわゆる戦争による被害者の数とは比べものにならないほどのものです。
 ある意味ではそれほど危険に満ちた生活を我々は送っているはずなのですが、実際に街に出て外を見渡してみると、果たしてどれほどの人が、実際に危機感を持って車の運転をしているでしょうか。
 車という凶器は、自分を被害者にも加害者にもする可能性を秘めています。もちろん、車を使うななどという過激はことは言いませんが、その可能性を頭に入れておくのとそうでないのでは、安全に対する気配りに大きな違いがあるのではないでしょうか。

 師父に示していただくまで、平和ボケ現代人の代表でもある自分は、「危険なものはどこか遠くの出来事」と思っていましたし、それが全て抜けたなどということは、今でも全くありません。相変わらず平和ボケはしてますし、鈍ったセンサーでしか物事を見ることはできていません。
 ですが、「そうではないのだ」と根気強く示していただいたお陰で、鈍りきった自分にもようやく何かがおかしいぞ・・・?と、思えるようにはなってきたように感じます。

 そうして見ると、太極拳の稽古もまた、これまでと違った見方で見ることができるような気がします。なんのために立つ稽古をするのか。体を鍛えるのなら、もっと効率のいいやり方はあるのかもしれません。ですが、それでは真の意味での、あらゆる状況に対応できる体は出来ないのだということが、以前よりは感じられます。

 稽古で歩法ばかりに多くの時間が割かれることにウンザリし、つい「一体いつまでコレをやるんですか?」とこぼした門人が居たという話を聞いたことがありますが、おそらく、それを本当に理解できるまでは続けなければいけないのではないかと思います。

 先日行われた野外訓練では、様々な発見がありました。
 特に、物事を「訓練」として取り組むことの奥深さを味わったように思います。
 野外訓練に向けて、我々研究会のメンバーは特に念入りにロープワークの特訓を行ったのですが、ただ漠然とやるのではなく、それを訓練として行うように、師父に工夫して頂いたのだと思います。

 それまでのキャンプでは、自分で覚えた(つもりになっていた)ロープワークを使ってやっていました。一応、形にはなり用は成すものの、ただそれだけともいえます。
 ですが、今回のロープワークは、自分の手の動き方、完成した状態、明らかにそれまでとは別ものとなっていました。もちろん覚えるべきものはまだまだたくさんあるのですが、訓練による効果をしっかりと体感できたことは、今後の大きな励みになるように思いました。

 ここには、先ほど述べた「備え」というものに通じるものがあるように感じます。
 道具は、以前使ったロープやタープ、ペグと同じものでした。
 変わったものといえば、自分の準備です。
 同じものを使っても、これだけ違うのです。

 このことは、普段の生活や、特に稽古の中でも大きな意味があることだと思います。ただ漠然と、日々の稽古をメニューとしてこなすのでは、意識的に練られた訓練との差は、いざ実際に使う段になって初めて大きなものとして出てくるのではないかと思います。

 これは恐ろしいことでもあり、ものすごく楽しみなことではないでしょうか。
与えられたチャンスを生かすも殺すも本当は自分次第であって、自分が大きく変わる機会もちゃんとあるということなのですから。

 何もないように思える日々の生活の中でも本当は人は問題に直面し、解決するチャンス、そして自分が変われるチャンスもあるのだと思います。
 そのことに気づけなくなってしまっている、センサーの鈍さこそが最大の問題であると、師父は常日頃から指導をして下さっています。
 それを生かせるかどうかは自分の心掛け次第だと思いますし、それだけのヒントを与えられてなお、何もしないのはただの怠慢でしかありません。

 まだ愚鈍な日常を完全に脱却は出来ていませんが、日々目の前に現れるものとしっかりと対面し、自らを肥やす土壌として活用していけたらと思います。

                                 (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その40」の掲載は、12月下旬の予定です

noriko630 at 22:22コメント(13) この記事をクリップ!

2018年10月02日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その38

  「『アウト』の探求」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今、マイルス・デイビスのアルバム『Kind of Blue』を聴きながら記事を書いています。
 以前、春日さんの記事「JAZZYな、太極拳を。」で紹介されて以来、時折思い出したようにマイルス・デイビスを聴くようになりました。

 以前、稽古中に師父が何度か、マイルス・デイビスの音楽と太極拳の関連性について言及されることがありました。

『君たちの太極拳は ”アウト” じゃない…。それでは太極拳のスピリットはわからないよ』

「アウト」じゃない…??

 太極武藝館で伝承されている太極拳といえば、真伝の纏絲勁が脈々と継承されている、いわばホンモノ、音楽でいえば古典的なクラシックにでも該当するような内容とでも言えるはずです。
 では、そこから外れると言わんばかりの『アウト』なスピリットがなければ、太極拳がわからないとは一体どういうことなのでしょう?
 その時の僕には、欠片も理解することが出来ず、うーんとうなるばかりでした。

 そこで、春日さんの記事で紹介されていた、マイルス・デイビスの2枚のアルバムを聴いてみました。そして、たしかに衝撃を受けます。
 それは、自分の抱いていたジャズに対するイメージを払拭するには十分な音楽に思われました。それからいくつか、マイルスの音楽を聴いていると、その中におススメのアルバムとして、『Kind of Blue』が含まれており、それを聴いて、おや、と疑問に思いました。

 『Kind of Blue』は、紹介されていた『Decoy』とは少し毛色が違い、オーソドックスなジャズといった音楽で、聴き慣れたような、非常に心地のいい音色が響きます。

 そうなのです。聴き慣れた音楽なのです。ここで自分はわからなくなりました。
 『Decoy』を聴けば、わからないまでも「アウトなのか」と考えさせられるものですが、
『Kind of Blue』は、何をもってしてアウトというのかわからなかったのです。
  このことは、「太極拳がアウトである」と言われながらも、自分にはピンと来ていないことに重なるような気がして、僕は少し調べてみることにしました。
 そして、このアルバムもまた、『アウト』な作品だと言えるのではないかと思うようになったのです。

 『Kind of Blue』は、それまで、ジャズの手法として定番だったコード(和音)中心の技法を、モード(旋律)主体のモードジャズとして確立させた、記念碑的作品だそうです。
  このアルバムによってジャズの世界に新しい地平が切り拓かれ、モードジャズというジャンルは、以降多くの人々によって演奏されることとなりました。それによっていまの我々の耳には、心地よい聴き慣れた音楽として届くことになったのです。


 このアルバムの録音の際、デイビスは演奏者たちに「このスケール(音階)で演奏するように」と指示した短いメロディーを渡し、テスト演奏やトレーニング、ミーティングを一切させなかったそうです。
 ジョン・コルトレーンやビル・エヴァンスといった名だたるプレイヤーたちも参加したというその録音現場は、一体どのような風景だったのでしょうか。

 たとえプロであろうと、それまで自身の経験したことのないものをするには、自分自身と向かい合う必要性が生じるはずです。
 特に、ジャズで行われる同じフレーズを繰り返すリフ(リフレインの略)演奏という技法は、同じ物事に取り組みながらも、立ち現れてくるものと向き合い、自分自身に問いかけ、それそのものの本質と向き合うことではないでしょうか。
 それは繰り返し行われる、自分自身の再創造であり、絶えず続く学習の過程であるともいえるのではないでしょうか。
 それは、音楽と武術、ジャンルは違えど、我々が毎回の稽古で求められている姿勢と、同じものなのではないか、という気がしたのです。

 「じゃあお前にマイルス・デイビスの何が分かるの?」と聞かれれば、「ぜんぜんわからない」と答えるしかありません。
 マイルス自身「俺の言ってることが全て理解できるなら、俺になれ!」と言っています。
 彼の残した言葉は、その音楽の中にこそ込められているはずです。もし、マイルスについて何かを知りたいのだとしたら、彼の音楽を聞くことの中にしかないはずです。
 その上で、マイルスのやってきたことを知ると、ジャズという世界で彼がどんな存在だったか、全体の構図がおぼろげながらも浮かんできます。
 それによって、マイルス・デイビスがなぜ『アウト』なのか、アウトサイダーな音楽であるジャズの中でも、より異端な、帝王として存在しているのかが、より際立って浮かんでくる気がします。何よりも、マイルス・デイビスの音楽を聞いているのは非常に心地いい体験です。
 そのスタイルを否定し、刷新し続けていくスタイルは、今も古びることなく、常に新しいものとして自分の中に流れ込んできます。

 なぜジャズの話を書いたかというと、僕自身にとって、マイルス・デイビスがひとつの新しい出会いであったからです。それほど多くを聞き込んだわけではないですが、ブログで紹介されて、それまで知識として知っていた程度のものから、「聴いてみよう」と思うようになり、ちょっとずつ聴いてみるようになったのです。
 その過程では、「よし、太極拳にアウトが必要なら聴いてみよう!」というモチベーションが、もちろんないわけではありませんでしたが、それよりもマイルスのジャズが良い音楽で、純粋に音楽として聴きたいと思うようになったからです。
 紹介して頂いた春日さんと、さらに興味を持たせて頂いた師父には感謝しています。

 マイルス・デイビスの音楽が、以前の自分のスタイルを常に刷新し続けること、それによって『アウト』で有り続ける、それがジャズの「スピリット」だとしたら、それは自分が思っていたアウトサイダーのイメージとも、また異なっているものでした。
 アウトサイダーというと、どうしてももっと破壊的で横暴で、自分自身の力で周りの世界をどんどんと書き換えていってしまうようなもの、とくに芸術に関してはそういうものだ、とどこかで思っていました。

 マイルス・デイビスの逸話しかり、日本の芸術家で言えば、岡本太郎などがそうでしょうか。しかし、気になって改めて岡本太郎の本をパラパラと読み返してみると、彼の書いている文章は大胆な情熱を持ちながら、実際にはものすごく繊細であり、普通の人では見逃してしまうようなことへの感性があることに気付かされます。

 先日、野外訓練が行われた際、師父の行動がものすごく丁寧で、ゆっくりなのだということに改めて気付かされました。ゆっくりなのですが、それが遅いのかというとそうではなく、ものすごく早いのです。
 仕草があまりに丁寧なので、そして目に見えない速さなどではないのでゆっくりに見えるのですが、行動ひとつひとつの繋がりが途切れなく、全体で観るととても早いのです。

 それは、何かの手順を覚えたから何も考えなくても動ける早さではなく、ひとつひとつ何が起きているかをしっかりと認識しながら、手順を絶えず確認でき、間違いがなく、そして滞りがないために出てくる早さなのではないかと思いました。
 ただ勢いでやってしまうものとは、異質の早さです。

 普段の師父の立ち振る舞いを見ても、いつも、丁寧に見えるのです。いつもやっているから、とか、これはこうだから、といったことで省略してしまうことのない動きに思えます。

 太極拳は『アウト』であるとおっしゃっている事と、この丁寧な物腰は、一体どこで重なるというのでしょうか。
 悩んだ末に、あるひとつのことが自分の中で結びつきました。
 マイルス・デイビスは、それまであったジャズをぶっ壊したアウトサイダーな人ですが、そこにあったのは、実は謙虚な姿勢だったのではないかと思います。
 マイルスは、自身のジャズのことを「俺のジャズはこうなんだよ」と、固定してしまうことは決してありませんでした。それまであった音楽を、「自分の」ジャズで壊していったのではありません。
 自分の中にあった音楽を、内省し、疑いを持ち、それを更新し続けていくことで、新しいことを創造していきました。その結果、それまであったジャズとは違う、新しいものが生まれていきました。そこにあるのは、自分を通す横暴さではなくて、自分を変え続けていく謙虚さではないでしょうか。
 その姿勢があったからこそ、マイルス・デイビスはジャズを新しくし続け、本物のジャズの魂を持ち続けられたのではないでしょうか。もし、ただマイルスのジャズの模倣に走ってしまったら、それは「ジャズってのはこうなんだよ」と定義づけてしまうことであり、横暴さの現れではないかと思います。
 それは、マイルスが持っていた本当のジャズの味にはならないのだと思います。

 では、それは武術、太極拳に当てはめて考えてみたらどうなるでしょうか。
 まず、自分の中に、勝手に思い込んでいる武術のイメージがあることに気付かされます。それは自分が傲慢にも思い込んだものです。
 そして、それがあるからこそ、たとえ目の前で本当の事が示されていても、全てを透明な目でみることが出来ず、壁にぶち当たってしまうのではないでしょうか。
 自分自身、稽古中にどれだけ師父の動きが見えずに、苦い思いをしているか数えればきりがありません。
 まずは、そこから外れる、自分自身の枷から『アウト』になることが必要なのだ、と師父はおっしゃっていたのではないか、そう思うようになりました。
 そのためには、たとえ何かに気づいたとしても気づかなかったとしても、自分の考えに固執せず、本当に言われていることを徹底して追求していける謙虚な姿勢が必要なのではないかと思います。
 追求していく対象そのものに対するリスペクトは当然必要ですが、マイルス・デイビスの例でも書いたとおり、それによって何か、たとえばジャズの世界などを変えていく、という思いで自分の考えを貫こうとするのは、少し間違った形なのではないかと思います。

 絶えず謙虚さを持ち、自身を省みることと、物事を再考し、新しいアプローチで取り組んでいくこと。そのためには目標を明確に定め、何よりも情熱を忘れないことが大事なのではないかと思います。
 音楽や武術のみならず、日常生活の中での、普段の立ち振る舞いまで含めた姿が大切になってくるのではないかと思います。つまり、きちんと生きていくために大事にしなければならないことが、どこでも大事になってくるということなのかもしれません。

 そのために、道場での稽古とは省みるところ、自身のあり方を磨くことにつながってくるのかもしれません。

                                  (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その39」の掲載は、11月22日(木)の予定です


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2018年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その37

  「学習法の学習法」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 前回、一般クラスで稽古指導の手伝いをしているときでした。ある門人の歩法を見ていたとき、窓ガラスに鏡写しになったご自分の姿を、なかなか見てもらえないということがありました。
 正しい状態と間違った状態の違いを説明し、二種類を比べてもらえば違うということは理解してもらえ、そしてご自分の感覚でも違いはわかる、という状態でした。しかし、いざ動いたときに、なぜかご自分の動く姿を見てもらえません!
 「そこです!」
 というやりとりを玄花后嗣もまじえて数回行った末、ようやく見てもらい、違いを自身の「目」で納得してもらえたのでした。

 「本当に、違ったんですね!」
 とその門人は感嘆しながら言っていました。理解はできていたはずなのに、違いに気づけない。そして、実は気がついていないからこそ、正しくやろうとしているつもりでありながら、本当は間違った稽古を延々と続けてしまっていたのです。

 このようなことは、その門人に限らず、我々になら誰しも起こり得ることです。
 これは一体、どういうことなのでしょうか。


【おつむの問題?】

 我々は稽古中にしばしば、「アタマが硬い」「頭は悪くないが“おつむ”が弱い」といった指摘を受けます。
 目の前で見ているはずなのに、まるで目が見えない人のように、実際にやってみると全く理解できていないということはよくあることで、本当に自分自身「大丈夫なのか・・・?」と思ってしまうレベルで頭が働いていないように感じることがあります。

 道場の中でのみならず、世間でももっと頭を鍛えないといけない、という風潮はあるらしく、昨今では「脳トレ」と言われるジャンルのゲームや書籍が賑わっています。
 では、その「脳トレ」などで頭を鍛えればいいのでしょうか。
 脳トレに関しては、学術的な研究も行われていますが、ほとんどの研究が導き出した結果によれば、「脳トレは効果がない」という見解が主流のようです。
 もし効果があるとすれば、取り組んだ類のパズルやゲームが得意になるであったり、あるいは思い込み(プラセボ効果)によって、能力が向上する、といった程度のものでしかないということが言われています。つまり、やってもあまり意味がない、ということです。

 逆に、本当に脳の能力、認知機能や反射速度を高めたいのなら、娯楽用の一般的なテレビゲームのアクションゲームやシューティングゲームをやったほうが、実際に脳機能が改善される効果が高い、という研究結果が出ています。
 一時期は”ゲーム脳”という言葉で、ゲームをすることが悪いように言われていましたが、それによって生まれた脳トレゲームよりも、悪そうな普通のゲームをやったほうが効果があったというのは皮肉なものですね。

 イラク戦争に従事していた米軍の兵士が、オフの時間には持ち込んだテレビゲームでひたすら遊んでいるという話がありますが、ストレス解消のほかに、もしかしたらある種のトレーニングになっていたのかもしれません。
 シールズの伝説的なスナイパー、クリス・カイル氏も、現地で手に入れたゲームをやり込んでプロ級の腕前だった、と著書に書いてありました。

 知的な活動を行うとき、その人がもともと持ってる知能が問題なのか、それとも後から学習した能力が大切なのか、いろいろと言われているところではあります。
 実際のところ、生まれ持った知能よりも、後天的に学習できる、学習能力そのもののほうが結果に大きな影響を与えていると見る研究があります。

 ここが大事な点なのですが、「知能」ではなく、「どれだけ学習したか=知識」でもないのです。どれだけ学習していけるか、という点が、重要なのです。
 そしてもっと大事なのが、どれだけ学習していけるかという学習方法は、学習していけるということです。


【認知の認知、メタ認知】

 さて、では実際に学習方法を改善していくにはどうしたらいいのでしょうか。
 学習方法を変えるには、自分が何を考えているかを知る必要があります。自分の認知に関わる認知のことを「メタ認知」と言います。
 ロシア武術のシステマでも、「汝自身を知れ」というキーワードが言われているようですが、自分が何を考え、何をしているのかを知ることが、学習プロセスを改善していく上では必要不可欠な要素になってきます。

 冒頭で挙げた例では、その門人は歩法の問題を解決しようという学習を行なっていましたが、その学習方法(鏡を見ないで行う)に問題があるとは認識していませんでした。
 決して努力していなかったわけではなく、ただその努力の仕方が少し違っていたのです。
 結果的に、その門人は問題に気づき、学習プロセスの見直し(鏡を見て確認する)を行いました。それによって、問題とされていた部分が本当の意味で理解され、問題は解決へと向かっていったのです。

 自身の能力を高め、技術を向上させていくには、たゆまぬ努力が必要です。それは、がむしゃらな努力ではなく、効率的な努力でなくてはいけません。
 それは一般的には、学校ではほとんど教えてもらえないような、勉強法に関する勉強法と呼べるものです。

 余談ですが、最近の研究では、小学生くらいの子供に宿題をやらせるのは百害あって一利なし、という見解が広まっているようです。
 それは大人が外側から押し付けることによって、子供が持ってる自主的な学習意慾とそれに取り組む時間を削いでしまうことのほうが多いから、ということらしいです。
 小学生時代にそれに気づいていた自分は、自主的に宿題をしなかったものです。(ウソです、ただのサボりです)
 子供、というより人間が持っている学習能力は、浅はかな考えがおよびもつかないものなのかもしれません。
 たとえば昆虫が好きな子供がいたら、そこから広がっていく世界を勉強していけるように導いていってあげるのが良いのでしょう。強制的に算数のドリルをやらせるより、「昆虫の繁殖による個体数の増減」について子供が自主的に研究しはじめたら、それはもう応用数学や生物学・社会学のレベルです。親にとっては未知の領域かもしれませんが、子供がそちらをやりたがっているのを喜んであげるのが本当の愛情だと思います。

 話がそれました。
 大人は、そこからさらに一歩先に進んで、その研究を進めていくためにはどうしたらいいかを、より能動的に研究していくことが可能です。
 メタ認知による学習法の改善は、それそのものが強力なツールであり、自身の修練を推し進めていってくれる原動力になるはずです。
 大切なことは、自分が何を考えているかを知り、何を見ているか、何を見たいと思っているのかを知ることです。


【なまけものの伝説】

 怠け者というと世間ではあまりいい意味に取られませんが、コンピュータのプログラミングの世界では、怠け者は腕のいいプログラマーである、ということが言われています。
 というのも、怠け者は自分が可能な限り楽をするための手段を考えるので、それによってプログラムを改良し、人の手を煩わせないものに進歩させていくことになるからです。

 そして怠け者は、楽をすることでできた時間を何に使うのでしょう。
 そのプロセスをさらに改善させることに使い、そうして学習プロセスはどんどんとレベルアップしていけるのです。
 日本では、コツコツと努力を積み重ねるのが美徳という観点がありますが、それは場合によっては怠惰な努力になるともいえます。
 プログラミングの例で言えば、同じものをひたすら打ち込むのは愚か者の仕事であり、真の怠け者はそれを省略して同じ仕事ができるプログラムを作ります。そうして効率化した仕事を「仕事をサボっている」と見る風潮はいかがなものかと思います。

 愚か者の、愚者の努力をいくら続けてもやった気になるだけで、愚者であることからは逃れられません。我々には、賢者の努力とも言える、努力することが最大限の効果をあらわす努力をする必要があるように思います。
 のんびりと「今日はできなかったけど、明日にはできるかもしれない」などと構えている時間はないのではないでしょうか。人生の時間は、怠惰に生きれば長いですが、使おうとすれば短いのです。
 現実として今日わからない、できないことは出てくるのは仕方ないですが、それでも、明日につながる何かを残していくような努力はするべきなのです。


【若者の思考】

 嫌でも体は歳をとり、肉体は変化していきます。それさえも、きちんと努力をすれば何もしないものとは比べるべくもないカバーができます。
 そしてそれ以上に、脳は思っているよりも神経細胞のレベルでは老化しにくいようです。
 もし歳をとったと感じるとすれば、それは自分の考え方が歳をとったのであり、頭を使わなくなったり、物事への興味を失ってしまったことの結果です。

 太極武藝館で太極拳を稽古する門人たちは、老若男女問わず、新しいことに興味を持ち、意慾的であり、年齢を感じさせない人ばかりです。
 稽古で年配の方たちが多い時に、師父が冗談で「太極老人館」などと言われることもありますが、それでも一般的な社会よりはイイ・・・と、思います・・・。

 どうかその美点を生かし、さらに伸ばしていく方向に向かっていきたいものです。
そして自分たちの手で、太極拳という高度な文化を残し、発展させていきたいと思います。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その38」の掲載は、9月22日(日)の予定です


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2018年05月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その36

  「整えるということ・暗号・真似をする」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


【整える】

 太極拳では正しく立つことが重要視され、身体のみならず、精神の軸もきちんと律していかないと習得は難しい、と言われています。
自分も、半ば盲目的に「整えなければ・・・」と思い稽古に取り組んでいたのですが、あるときふと、整えるとはどういうことだろう? と疑問に思ったのです。

 整える、ということは情報の観点でいえば物事の秩序の度合い、と解釈できますが、ではその度合いとはいったいどこから生じるのでしょうか?

 部屋の中で散り散りになった本を本棚に片付けるとき、そこには一定のルールが必要になります。本のサイズで分ける、著者で分ける、内容の関連性で分ける・・・それぞれの好みもあるかと思います。ただランダムに棚に収めるだけでは、それはしまっただけであり、整えたことにはならないといえます。

 では、人間の体も同じように整えることができるかというと、そうはできません。
そもそも人間の体はひとつにつながっていて、バラバラにならず、順番はすべて決まっています。
そうしてみると、人間とはすでに整ったものだと言えます。

 すでに整っているはずのものを、バラバラだと感じて、では整えようと好き勝手な基準を考える。それが、じつは人間の傲慢な考え方なのではないだろうか、とふと感じたのです。
 それでは、太極拳で言われているような「整える」とはどういうことか、自分の中で、最初から考える必要性が出てきました。


【暗 号】

 「太極拳とはコード、すなわち暗号を解くことだ」と、師父は常々言われています。
 色々指導されている中で、あるときふと、何かが分かることがあります。暗号の正解のひとつにたどり着いたということでしょうか。
 ですが、そのひとつがわかったからといって、暗号のすべてが理解できたわけではありません。せいぜい、知らない言語体系の中の単語ひとつの意味がわかった、くらいの解釈でしょうか。その言語が習得できたとはとうてい言えません。
 暗号のひとつを解くことによって、ひとつのヒントは理解できたかもしれませんが、暗号の普遍性を解いて、完全に理解したわけではないのです。

 ここで太極拳から離れて、いわゆる一般的な暗号を解くことを考えてみます。

 暗号とは、ある特定の変換法則によって、文章を別の状態に変えて、解読表を持たない人間には理解できないようにするものです。
 なにもヒントのない状態から暗号を解くには、その中に繰り返し現れる部分に着目し、それがなにを意味しているかを特定することから始められることが多いです。
 知らない言語を理解する、たとえば古代エジプトのヒエログリフを解読する場合でも、繰り返し現れる文字列がなにを意味するかわかったことが、解読のきっかけになりました。

 知らない街で知らない言葉を使う人々を観察していて、人々が知り合いだと思われる人と会うごとに「ンダバ!」と言っていたら、それはあいさつなんだろうなと推察する、というようなものです。「ンダバ」は適当に考えた言葉ですが。

 太極拳の暗号を解読する場合にも、それと同じ手法でアプローチできるかと思います。
 基本功や套路の中に繰り返し現れる要素を見極め、それが指導されていることとどう共通しているか、それを見極めるのです。

 そうすると、まるで関連がなかったかと思われるような動きの中に、共通の何かが、次第にみえてきます。そうしたら、それをヒントに考えていくことが可能なはずです。


【真似すること】

 さて、その上で、真似をすることの大切さについても考えてみたいと思います。
 真似をすることは、もちろん学習する上での心構えとしても大事なのですが、そことは少し観点を変えて、戦略として、数字の上でどれだけ有利かということを考えてみようと思います。

 暗号を解く上で、現れている繰り返しに着目せず、総当たり的に文字を当てはめて、意味がつながる文章が出てくるまでやる、というやり方ももちろん可能です。

 パスワードを解くとき、たとえばそれが四桁の数字でできる暗証番号だとしたら、
0000〜9999までの10,000個の数字の組み合わせの中に必ず正解があります。頑張ればなんとかなるかもしれません。
 では、それが7桁の数字だとしたらどうでしょう。
0000000〜9999999までの10,000,000個の数字の中に正解が含まれています。気が遠くなる数字です。
 そこにアルファベットまで含むとしたら、もうどうしようもないですね。
 だから普通、他人のパスワードを盗みたいクラッカーは、多くの人が使いやすいパスワードのパターンを使って攻めることをします。1234567など、わかりやすいパスワードは危険と言われる所以です。

 真似をすることの大切さとは、ひとつにはそれだけ、試行回数を減らすことができるからです。
 ランダムな数字をあてもなく入力していくのではなく、たとえばある特定の数字(誕生日など)が含まれている、とヒントがあれば、それだけ解けるまでにかかる回数は減ります。

 師父に模範を示していただくことは、極端にいえば、隣でパスワードを入力している様子を見ていることに近いのかもしれません。
 それはもう、ほとんど正解を示されているといっても過言ではないかもしれません。

 そこまで極端でなくとも、暗号の中に含まれる繰り返し現れる構文を、目の前で指し示していただいて、ここにも、ほら、ここにも・・・と教授されているようなものでしょうか。

 真似できない状態というのは、それらのヒントを一切顧みず、自力で総当たりによって暗号を解読することだとすれば、真似したときとしないときで、一体どれほどの労力の違いがあるか、一目瞭然だと思います。


【ふたたび整える、そして暗号】

 いくつかのことをざっと見てきましたが、最初の疑問に戻って、整えるということについて考えてみたいと思います。

 冒頭で、人間とはすでに整っているのでは、と書きました。そして暗号の話に続いたわけですが、ここでふと疑問がよぎります。
 自分はそれまで、太極拳が暗号だと思っていたところがあったのですが、もしかしたらそれは少し違うのではないだろうか、ということです。

 暗号は解読表があれば、読み解けるものです。
 自分が一番わからなければいけないのは自分自身、広く言えば、対峙する相手や周りの環境まで含めた、人間のことなのではないでしょうか。
 だとすれば、暗号というのは太極拳のことではなくて、広く人間全般のことを指し示していて、太極拳とは、暗号=人間を理解するための、解読表という意味があるのではないか、と思ったのです。
 しかし物事は単純ではなく、太極拳という解読表もまた暗号によって記されているとすれば、二重三重に理解しなければならないことがあるというのも、腑に落ちるものです。

 整えるということは、すでにそこにある暗号で記された自分から、どれだけ意味のある言葉を正しく解読できるかといえて、それは本棚を整理するときのように、好き勝手な基準で言葉を並び替えるのとは意味が違うといえるはずです。

 そして、暗号を解読するために繰り返し現れる言葉に着目するというやり方を、暗号という二元的な世界から離れて、時間や動きまで含めた動的な現象で表現すると、真似をすることと言えるのではないかと思います。
 イメージが平面から動的な立体になるので表現が難しいですが、まず真似をしないことには、そもそも疑問となっている解読したい暗号が立ち現れてこないと言えるのかもしれません。

 真似をすることは、もっと根源的なものであり、本質に迫るための手段とさえいえるのではないでしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その37」の掲載は、7月22日(日)の予定です


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2018年03月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その35

   「 思い悩むことなく」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 なにかに行き詰まったとき、まったく関係ないと思っていたきっかけによって、ぱっと視界が晴れ渡り、遠くが見えるようになることがあります。何かがひらめく分からなかったことが理解に結びつく、誰しも経験があると思います。
 その変化は、劇的な一瞬で起こることもありますが、時間をかけてじわじわと起きている変化、その一見わかりづらい変化こそが、実は本当は重要なものだという気がします。

 毎日、太極拳の稽古をしていると、自分が理解できていないことがたくさんあることに気付かされます。その度に、なぜ自分には理解出来ていないのだろう、と思い悩まされることもしばしばです。
 やっぱり、生活が便利になった「現代人」にはわかりづらいことなのだろうか、だとすれば何を見直さなければいけないのだろうか・・・。

 そう考えていたとき、武術とは関係のない本を読んでいていくつかの記述に行き当たったのです。それは、「まったく、最近の若者は・・・」と、ブツブツと文句を言っているおじさんの姿の描写でした。
 現代のおじさんではありません。古代ギリシャ時代のおじさんの話です。

 文献が残っている、古くはギリシャの時代から、中世ヨーロッパや江戸時代の日本、はたまた現代のSNSの中にまで、最近の若い奴に文句を垂れるおじさんは存在していたのです!
 つまりどの時代の、どの時間を切り取っても、その現在時から見れば常に世界は「もっとも変化に富んだ時代」に見えて、その時々に「特別な激動の時代」であり、そして振り返れば、過去に失ってしまった大切な何かがあった、というふうに見えるのです。

 時代と人は、常に変化し続けている、考えてみれば当たり前のことなのです。
 人々の意識や考えは当然、時代によって変わりますし、生活様式の変化も起こります。だけど、変わっていないこともまた同時に、数多くあるのです。

 つまり、何が言いたいかというと、武術に関しても、もし理解できないものがあったとしても、それは決して現代という時代のせいではなくて、どこまでも徹底的に、自分自身の責任だといえるのではないか、ということです。
 というのも、もしいつかはわかりませんが、「昔」の時代性が武術の真伝を理解する助けになっているのだとしたら、もっと達人がたくさんいてもいいはずです。
 道を歩けば達人に当たる、という世の中だとしたら、相対的に武術はより高度に奥深いものになり、そもそも基礎的な武術の嗜みは当たり前のものとして、生活の中に根付いていてもおかしくありません。

 それに似た時代が、昔の武家社会だった日本にはあったのかもしれません。
 しかし彼ら、武術を嗜んだ武家の人たちにしても、特権的な身分階級の中で、幼少期からの鍛錬で身につけた技芸であって、その時代性ゆえに容易に身についたものだとは決して言えないはずです。
 中には、「武芸で身を立てようとするも技を修めるに至らず・・・」というように志半ばで道を外れた人も、当然いたわけです。その人は、当時としては珍しい人だった、ということでしょうか?

 古今東西、達人のエピソードは枚挙に暇がないですが、流派や技法はともかくとして、彼らに共通して言えることがあります。
 それは、彼らは「とてつもなくたくさん稽古していた」という、身も蓋もない事実です。
 武術の真伝を知るには、まず稽古をしなければ話になりません。
 もし仮に、現代性を理由に武術が理解できないと言いたいのだったら、その原因は多分、しっかりとした稽古をする時間が不足しているからだと思われます。

 生活のためにどうしても時間を取られる、というのはもっともな理由ですが、歴史に名を残すような達人は、そもそも生活そのものをまるごと武術の稽古に充てられるような生活スタイルを選んで送っているような人たちです。
 現代の戦士であるプロの職業軍人、特殊部隊の人たちも、戦闘技術のトレーニングを絶えず行えるような生活を送っており、その逆の状態・・・生活ありきでトレーニングする時間がない、という状態とは、そもそも根本の発想からして違っています。

 生活があるからそこまではできない、と思ってしまうようだったら、そもそも本当にそこまでできないということなのかもしれません。どれだけしっかりとした稽古の時間を取れるか、それは本当に自己責任であり、逆に言えば、きちんと努力をすれば、もっと武術を理解することができるということだと思うのです。

 個人的には、稽古がうまくいっていないと思うときには、ただ思い悩むだけで、実はしっかりとした練習ができていないことが多かった、と思っています。

 うまくいかない → 練習に熱が入らない、だんだん嫌になってくる → 余計にうまくいかない →・・・というフィードバックループができてしまい、なかなかそこから抜け出せなくなってしまうものです。
 逆にうまくいっている(と思っている)時には、手応えを感じる → 練習に熱が入る → また手応えを感じる →・・・というフィードバックが起きているのだと思います。

 僕自身、かなり気分で浮き沈みがあるほうなので、「これはいけない」と、改めて自分のことを見直してみました。
 そうすると、面白いことがわかりました。
 うまくいっていると思っている時と、全然ダメだと沈んでいる時、やっていることの結果(わかりやすい例として言えば、対練での成否でしょうか)そのものは、別に大差ないのです。言ってみれば両方とも同じくらい成功も失敗もしているのに、ある時はうまくいっていることに目が向き、正のフィードバックが働き、ある時はうまくいかなかった方に目がいって、よりできなく、動けなくなってしまっているだけだったのです。

 自分がどんな状態でも、同じようにわかっていて同じようにわかっていなかったのです。
 しかし、最初のささいな違いの積み重ねで、フィードバックの仕方が変わってしまうのだとしたら、果たして、どのようにしていったらいいのでしょうか。

 僕はある時から、難しくてわからないと感じても、できるだけ思い悩まないように心がけるようにしてきました。
 うまくいっていてもいかなくても、考えることは考えるけど、結果については思い悩まない。これもまた、自分を挟まないことのひとつと言えるでしょう。
 うまくいってないときは、何がいけないのかわかるまではとにかくやるしかありません。
 どちらの場合も、人からは妙に自信満々に見えるようで、何かわかったのか聞かれると、
 「わかりません!」と自信満々に答えるのでずっこけられます。
 まぁ、それはそれ、です。

 ただひとつ、自信を持って言えるのは、自分ごときでは武術をわかったとか理解できたとかいえるようなところまで、稽古が全く足りていない!ということです。

 たしかに、一見平和な現代の日本では、武術を修得することはむずかしいのかもしれませんが、それは実際のところ、どれだけそれに自分を没頭させられるかの度合いの問題ではないでしょうか。身近に、隣に戦いがある、ない、といったことは、本当はただの理由づけにすぎないのだと思います。
 戦争をしている中でも、勇敢に「戦わない」人間というのも、いるものです。だとすればやはり、太極拳が理解できるかどうかは、周りのせいになどできず、ひとえに自分にかかっているのだと思います。
 しかしこれは、本当にそれを知りたい人間にとっては、福音なのではないでしょうか。
 自分の努力次第で得られる可能性があるのですから。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その36」の掲載は、5月22日(月)の予定です


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