今日も稽古で日が暮れる

2022年04月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その59

   『変化するものと合わせる』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 最近の稽古において、自分の課題として、「動くこと」というものに焦点が当てられています。稽古全般を通して、玄花宗師の動きと比べ、明らかに動きが少ないのです。
 それは万人が見てもそう感じられるというレベルのもので、よく見なければわからないという程度ではないのです。明らかなのです。
 では、自分は自分の動きに固執していて、全然真似をしようとしていないかというと、まったくそうではなくて、全力で真似をしようとしているはずなのです。なのに、まったく違う動きしかできていないのです。
 自分にはまだ見えていなくて真似できていない動きも、当然あるかとは思うのですが、それだけではなくて、確かに見えているはずの動きも、真似できていないのです。
 見えているために、動けていないことが分かるのですから・・・。

 ところが、それが分かっても全く問題は解決していません。
 これは由々しき事態です。
 ともあれ、放っておいてもどうしようもないため、問題解決のため、状況をいくつか推察していくことにしました。

 まずはとにかく動きを大きくして真似してみること。
 動きが足りないのだから、もっと大きく動けばいい。

 シンプルな方法ですが、一番最初に取り組むことができます。
 玄花宗師の後ろに付いて動く機会を得たとき、それを実行してみます。ところが、それではどうしても動きが合わないのです。真似しているはずなのに、やっぱり違う動きをしているのです。
 そうして、問題の別の側面が見えてきます。
 
 そもそも動こうとしている箇所、体の動き方そのものが違うという点です。
 こうなってくると、また違う側面と向き合わなければならないということに気づかされます。自分はいったい、どのようにして体を使おうとしているのか、という点です。

 これは考え方や発想という点と結びつくかと思うのですが、人間の頭と体は本来不可分であり、表裏一体であるはずです。
 考え方を変えれば動きも変わるといえますし、逆に、動きを変えれば考え方も変わるともいえます。


 先日の火曜日の一般武藝クラスでは、普段ではやらないような「スペシャルな稽古」が行われました。
 玄花宗師の計らいではあったのですが、宗師は「こんなことをする予定ではなかった」と仰っていたので、逆に言えば稽古に参加した我々門人がその稽古を引き出してきたともいえるのかもしれません。これもまた表裏一体です。

 その稽古では、詳細は省きますが、自分が抱いていた考え方ががらりと変わるような、それでいてやれば誰でもできるような(一人では不可能ですが)、体を使った稽古が行われたのでした。
 そこで得られた自分の感覚は、それまでは気づけなかったものが非常に多かったのです。

 例えば、体を動かす、使うというときに自分が意図していたのは、ある意味では無駄な動きであったということ。そのような無駄な動きは、動く際には余計なものであるため、必然的に続けていく中で省かれていってしまいます。結果、動きは小さくなります。
 ところが、その稽古においては、嫌でも体を使うことが要求されます。そうしなければ一歩も動くことができなくなってしまうからです。
 そして、いざ一人になったときに自分の動きを振り返ってみて初めて、もっと自分の体が細かく分かれて動けるのだということが認識されました。

 玄花宗師の動きを拝見させていただくと、門人の皆さんの中からよく、
「すごく動いている」「自分たちより関節が多く見える」であるとか、はては、「宙を舞っているようだ」といった意見が出てきます。
 自分でも拝見させていただくと、それらの意見には全面的に同意である上に、毎回の稽古でちょっとずつ動きが変わっていっているようにも見えるのです。
 本質は共通されていても、同じであるということがなく、常に進化し続けているように見えるのです。
 それは、玄花宗師の動きが大きく、かつ動き続けているというだけでなく、その考え方においても、稽古に対して動き続けているような頭の使われ方をされているという現れなのではないかと感じます。

 稽古に対する発想でさえも、我々は固定的にしがちです。というのも、変化がない=安定した状況のほうが自分にとっては安心できる材料になるからではないかと思います。
 ところが、この世界は常に生々流転しており、変わらないことがあるとすれば、それは常に変化しているという点しかないのではないかと思います。
 その流れに逆らって、自分が固執的になり、太極拳の真理=絶対的なものを探すと称して、変化することのない安心感を探しているのだとすれば、それが見つからないということは道理ではないかと思います。
 そういったことを玄花宗師はしておらず、それを我々に示してくださっているようのではないかと思います。

 円山洋玄師父はよく我々に「君たちには遊びが足りない」ということを言ってくださいました。一流の人間は、その遊び方さえも洗練されており、一流のように見えます。
 翻って我々が「遊べない」と言われるのはどういった理由があるのでしょうか。
 遊びには楽しさが伴っており、そのためには物事が変化していく様子と、それに驚き受け入れることのできる性質が必要とされるのではないかと思います。

 多少乱暴な論法になりますが、我々が遊べないのは、物事の変化を受け入れるだけの器の大きさがない、という現れなのかもしれません。

 未知のものに出会い、それを楽しめるかが遊びの本質であれば、安心安定を求め、絶対不変の法則を探すなどとうそぶいているようでは、それは遊びの本質ではなく、それでは太極拳はわからないのだと、言っていただいていたのではないでしょうか。
 そのような状況では、千差万別に変化する戦いの場において対応できるような体の動きなど生じるはずもなく、それが稽古の中で端的に表れていたのではないかと思います。

 体の動きを変えることは頭を変えることであり、その逆もまた然り。

 太極武藝館の稽古においては、それに必要なものをすべて提示していただいているように感じます。あとはそれを、我々門人ひとりひとりが、どれだけ生かして自分のものにできるかという点のみが、問われているのだと思います。
                               (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その60」の掲載は、2022年5月22日(日)の予定です

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2022年02月28日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その58

   『合わせて、奏でられるもの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年に入って、太極武藝館の稽古では、「合わせる、真似をする」ことが大切だという指導をしていただいています。もちろん、これまでの稽古においてもそれらのことは、重要なことだと指摘していただいていました。それを今は、より追求しながら稽古している、といえる状態でしょうか。
 稽古においては、自分を挟まずに合わせる、真似をするということは当然であり、それがなければ上達は見込めない、といっても過言ではないかもしれません。
 今年の稽古が始まり二ヶ月近くの時間が経ちましたが、その間に私が感じたことを、少し書いてみたいと思います。

 いきなり個人的なことですが、最近、クラシック音楽、特に管弦楽団の音楽をよく聴くようになりました。学生時代(遠い昔のことのようです・・・)はクラブ活動でブラスバンドに所属していたこともあり、先輩や顧問の先生などから、おすすめされた曲を熱心に聞いていたことが思い出されます。
 当時は、このCDがいいよと言われれば、近くのCDショップに足を運び、そこになければもっと大きな店に行きと、東西奔走しながら目的のものを探し回ったものです。
 それが今では、音楽配信サービスにより、以前聴いていた曲はもちろんのこと、それ以外にも多種多様な音楽が配信されており、自由に聴くことができます。こういう点に関しては、改めていい時代になったものだと思いました。

 さて、音楽配信サービスでクラシックが配信されていることに気づいた私は、軽い気持ちで再生をしたのでした。聴いたのはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。かの有名な、世界最高峰のオーケストラです。そこで私は、改めて、これまでにない感動と衝撃を受けたのでした。

 う、うまい・・・上手すぎる・・!

 奏でられる音の一つ一つのハーモニー、それらがピタッと合い、渾然一体となって体に響き渡ります。学生時代も当たり前に上手だと思っていたのですが、その時とはまた感想が違うのです。
 太極武藝館には、師父に作曲していただいた太極武藝館の歌があります。
 それをみんなで歌った時の、最初のあの合わなさたるや・・・。メロディーをピアノで伴奏し、声を出しながら、みんなで苦労しながらも、少しずつ合奏を形にしていきました。
 その経験があったからこそ、より自分に響いてくるものがあったのだと思います。
 プロの管弦楽団は、当たり前のように合っていて、ズレがありません。音やタイミング、それらが成す一つの音楽、それが全くブレることなく数十人という人間によって形作られていることの、なんて脅威的なことでしょうか。

 音楽を聞く中で、いくつものことが頭の中に浮かんできました。
 一つは、凄すぎるものは逆に当たり前に見えてしまい、より注意深くならないと、その本質を見逃してしまうかもしれないということ。
 クラシック音楽は、昔からいろいろなところでBGMとして使われてきているので、名前は知らなくても一度はメロディを聴いたことがある曲というのは多いと思います。
 なので、なんとなく聴いていると、あ、この曲知ってる〜と自分の中で簡単に通り過ぎてしまいます。
 素人、またはそれに近いバンドが演奏した時の、曲が曲として成立しないかもしれない、バラバラになりそうな状態を思い浮かべてみると、それがその曲として当たり前に認識できることが、実はいかにすごいことかわかります。・・プロの演奏としてはそれが大前提なのは言うまでもないことなのですが。

 なぜこのようなことを思ったかというと、最近、玄花后嗣の動きを見ていると、そのように感じている自分に気付いたからです。
 玄花后嗣の動きが、以前にも増して師父に似た、凄い動きになっているように感じられるのと同時に、凄いのは分かるのに、あまりに滑らかに一動作(いちどうさ)で動かれるために、それが自然なものに見えてしまって、認識がし辛くなったように感じるようになったのです。
 自らのセンサーを鋭敏にし、感性を磨いていかないことには、高度な内容は学習していけないと痛感させられました。また、当たり前ではないものを当たり前だと思えてしまうような鈍さも、より一層戒めていかないといけないと思ったものです。

 もう一つは、プロとしてどのように稽古をしていかないといけないか、という点でした。
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、世界でも最高峰の管弦楽団であり、いわば音楽においてはプロ中のプロです。歌ひとつを形にするのに四苦八苦した経験を思うと、コンスタンスに何曲も形にし、最高の演奏を聴かせられ続ける彼らが、一体どれほどの勉強をし、訓練を積んできているのか、少し想像することができます。
 問題は、彼らのレベルで音楽を出来るかということではなく、彼らと同じレベルでの訓練・稽古を、我々が太極拳に対して行なっているか、という点ではないかと思いました。

 プロの管弦楽団として音楽を演奏すること。師父がおっしゃっていたように、プロとして武術に関わり、太極拳を稽古すること。ジャンルは違えど、そこに求められるプロとしての意識には、違いがあっていいはずがないと思います。
 では、自分は、彼らのようなレベルで武術に取り組めているでしょうか。
 それは今ある実力という意味ではなくて、ウィーン・フィルハーモニーのメンバーがそこに至るまでに辿った道筋、そこに掛けた力と時間と情熱と同じものを、自分は太極拳に注ぎこめているだろうか、と自問したのです。
 とてもではないですが、足りません。何よりも、圧倒的にその意識が足りません。
 プロとして取り組むこと・・・それが当然でなければ、到底師父の太極拳など理解できるはずがありません。その現実に、自分は愕然としました。

 そしてもう一つは、冒頭に書いたこととリンクするのですが、彼らの音楽は、全てがピッタリと合ってるという点です。
 和音が合っているという単純なレベルではなくて、例えば、無音の中からポンっと鳴らされるひとつの音、それがすでに音楽として成立しており、一体となってその姿を表してくるように感じられます。本当にすごいことだと思います。

 管弦楽団には指揮者がおり、素人からするとテキトーに指揮棒を振ってるだけで何をしているかわからないと思われるようですが、その人物を通して、楽団全体の音楽に一貫性が生み出されてきます。
 学生クラブレベルのブラスバンドでさえ、指揮をちゃんと見ない学生は、どうしても音楽として少し外れてしまいやすかったです。極論すれば指揮者がいなくても音楽は成立するかと思いますが、クラシック音楽というジャンルにおいては、指揮者という存在もまた、楽団を構成する要素のひとつとして、その全体性を成しているように感じられるものです。

 太極拳の稽古に話を戻しますと、当然誰しも、前で指導していただいている人と合わせて動こうとしているはずです。
 自分ももちろんそうしていました。ところがある時、玄花后嗣の後で動いている時に、ふっと感じるところがありました。自分は玄花后嗣に合わせようとしているけれど、その玄花后嗣は一体何に合わせようとしているのだろうか?と。その何かに、自分も合わせてみようと思ったのです。
 多分に感覚的で、言葉にすると取りこぼしが多く感じられます。
「月を指す手ではなく、月を目指す」
 そのように言われたことも一度ではありません。ですが、感覚的にはっきりとそうしてみようと思えたのは、もしかしたらその時が初めてだったのかもしれません。

 クラシック音楽も太極拳も、それが作られ、成立した当時の「もの」は、形としては何も残っていません。200年前の演奏家や音楽が残っていないように、200年前の太極拳は物体としては残っていません。
 ですが、それらは人々の中に、文化という形として脈々と保たれて残ってきました。
 楽譜は音楽ではありませんが、そこに記されたものを、人は音楽として再び演奏することができます。その時演奏家は、一体何をもって、それを音楽として成立させることができるのでしょうか。

 楽譜があっても音楽は出来ないのと同じように、秘伝を聞いただけでは太極拳は出来ないのかもしれません。先人たちが何に合わせてきたのかを自分で理解し、自分という存在をあたかも楽器のように奏でることができて初めて、太極拳はここに現れるのかもしれません。

 師父が合わせていたものとはなんだったのか。玄花后嗣が合わせていて、我々にも教えてくださっているものはなんなのか。
 そこに焦点を絞って、自らの感性を最大限に磨いてチューニングしていかないと、本当に大事なことは見えてこないようになっているのかもしれません。

 幸運なことに、我々太極武藝館の門人は、すでにそれに必要なことを目の前で提示していただいていますし、事細かな指導をしていただいています。
 あとは、それをどれだけ自分自身の課題として、自分に課して、切磋琢磨していけるかという点だけが問われているようにも思います。
 すでに述べた通り、管弦楽団の一員として多くの人々の前で演奏するプロの演奏家と、実践の場において自らの身を守り、大事なものを守れる武術家には、求められる努力に何も違いはないのだと思います。
 秘伝を習えば一朝一夕で戦える、そんな都合のいい話は恐らくないはずです。
 レクチャーを受けて一晩でプロ並みの演奏ができるようになります(??)
 ・・そんな話はあり得ないことくらい、誰でもわかる話です。

 だからこそ我々は、朝に夕に、教わった内容を正しく身につけるための努力を惜しんではいけないのだと思います。
 師父がそうされたように我々も倣わなければ、到底、太極拳をものにすることなど不可能に違いありません。

                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その59」の掲載は、2022年4月22日(金)の予定です

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2021年12月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その57

    『尽きない流れに乗って』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年も残りあとわずかとなり、道場での稽古も、一年間のまとめと、また来年に向けての新しい課題への取り組みが行われています。

 先日、研究會門人による反省会が執り行われました。
 皆がそれぞれ今年の反省をし、それに対するアドバイス、来年に向けての抱負など、また次の稽古に生かされるような話がありましたが、その中で、玄花后嗣から稽古の指導の仕方に関しての、興味深いお話がありました。
 それは、例えば1週間の稽古の中で、同じ内容を日を変えて教えようとしても、それは不可能なのだと言うこと。
 同じ稽古指導は2度と出来ない、というお話でした。

 私は現在、1週間のうち5日間、仕事で遅刻せざるを得ない日はあるものの、ほぼ毎回の稽古に参加させていただいています。
 その中で確かに玄花后嗣のおっしゃる通り、同じ門人が稽古に来ている時でも、それぞれの日によって稽古の内容は全く変わり、毎回同じように歩法などを稽古しているようでも、その時々に応じてフォーカスされている内容が全く異なる時があることを感じます。
 もちろん、全体を通して、太極拳という一つの同じ原理を理解することを目的としていることに違いはないのですが、そのためのアプローチの取り方が、同じ基本、同じ対練を行なっていても、指導されていることが少しずつ違って感じられるのです。

 健康太極拳クラスの稽古は、一般武藝クラスより開始時間が早いこともあって、どうしても遅刻して参加することが多くなってしまうのですが、その時などは特に、すでに最初から参加していた門人たちの中で、その日の稽古で一連の流れの中で醸し出された変化が垣間見えます。(そしていつもそれに驚かされるものです)
 その時に見えるものというのが、面白いように毎回の稽古で異なっているのです。
 全体としては、もちろんみなさん継続されて良い方向への変化が積み重なっているように見えるのですが、その時々で交わされている言葉の断片や、何に注目しているかなどの見え方が、毎回同じということが全くと言っていいほど無いように感じるのです。
 これはもちろん、我々門人が少しでも理解できるようにと、心を砕いて下さっている玄花后嗣の指導の賜物であると思いますし、同時に、それを受けている我々門人が、どのように自分自身と向き合い、どのように変化していっているかの現れであるかと思います。
 そうして、相互作用によって生じている稽古というのは、おそらく指導してくださっている玄花后嗣の意図をも外れ、想定していなかった結果を生み出しているのではないかと思われます。

 武術の稽古とは、孤独なものである、と、師父は仰っておられました。
 我々個人個人が真摯に自分自身に向き合い、努力をしていかない限り、どれだけ優れた指導をしていただいていても、功夫が身につくという結果は伴わないのだと思います。
 それと同時に、道場にみんなが集まって行われる稽古も非常に大事で、自身の気付けなかったことに気づく機会がそこにあり、自身の取り組み方、物事の見方を含め、より切磋琢磨していける土台を与えていただいているのではないかと感じています。

 自分で行う稽古と、道場で行われる稽古は、どちらも自分自身で積極的に取り組んでいかなければならないという点では共通していますが、あたかもそれは一対の車輪のように、自分を前へと進ませてくれるものになってくれているように感じます。
 自分でやっていて気づけなかったことが、道場での稽古で新しく見出されます。
 また、道場での発見は、自分が取り組んでいたことの結果として見つかることが多いように感じます。

 私は毎回の稽古に通う時、必ず一つは何かを掴んで帰る、と心に決めて臨んでいます。
 それは、その時々によって違うのですが、その時疑問に思っていることであったり、自分が発見したと感じていることを、確かめることであったりします。
 そう決意して稽古に臨んでいると、不思議と毎回、必ず何かしらの発見があります。
 それは、思っていた疑問点の答えであったり、全くそれとは関係のない新しい気づきであったりしますが、いずれにせよ、自分の中にはなかった新しいものです。
 新しい気づきを得た時、それまで疑問だと思い込んでいたことが、急に解決することもありますし、その疑問自体が、ある意味ではナンセンスな疑問であったことに気付かされることもあります。また同様に、それまで発見だと思っていたことが間違っていたと気づかされることもしばしばあります。
 そういう時は遠慮なく、その古い考え方を捨ててしまいます。それが新しい発見につながるのだと思うようになりました。
 かといって、「何かを発見すること」に固執することもまた、稽古の進捗を鈍らせてしまう可能性もあります。
 太極武藝館で指導して頂いている内容は、すでにそこにあり、太極拳の原理は明確なものである、と示して頂いています。
 私が発見していることとは、言い換えれば、その学習体系に本来含まれているものであり、それに気づけていない自分自身の考え方の壁であるのだと言えます。

 自分が発見したと思っていることも全て、「すでに示して頂いていた」と感じることばかりであり、「あぁ、師父はこのことをおっしゃっていたのだなぁ」と思うことばかりです。
 頭の固い自分が精一杯取り組んで、ようやく発見したことなど、釈迦の掌の上で飛び回って喜んでいるおサルさんのようなものなのかもしれません。
 だからこそ、師父は稽古をライブのように取り組めることが大事なのだと仰っていたのだと思います。自分を挟まずに何かを取っていけるものとは、稽古を生のライブのように楽しめる音楽感なのではないかと感じます。

 ほぼ毎回のように道場での稽古に参加していると、指導して下さっている内容が、その瞬間だけでなく、一日、一週間、一ヶ月といったスパンで一つの流れを持っているように感じられることがあります。
 もちろんそれは、師父がまとめて下さった学習体系がそうであり、指導して下さっている玄花后嗣がそのように計画して下さっていることなのだと思いますが、その流れに乗れるかどうかは、我々一人一人の取り組み方如何によって、大きく左右されてしまうのだと感じます。
 道場の稽古に参加していても、途中から参加した時には、その流れが掴みにくいことが当然あります。また、稽古に出席しているからといって、教えてもらえれば全てわかるかというとそうではなく、稽古全体の流れと、自分自身の流れを調和させるような在り方がなければ、どうにもならないようにさえ思えます。

 稽古全体が大きな川の流れだとするならば、自分が川の上流にいるか下流にいるかにかかわらず(それは個人の進み具合というだけです)、その流れに乗れるかどうかだけが、稽古で進んでいけるかどうかの分かれ道になるといえるはずです。
 自身の力を過信し、その川を泳ぎ切ろうなどと考えると、おそらくどこかで疲れ果てて溺れてしまいます。また、その流れに乗らないまま、川岸を歩いていても、目的地にはいつまで経っても辿り着けないでしょう。

 稽古で師父の驚異的な功夫を体験をさせて頂くと、師父は事あるごとに、「私が凄いのではなくて、太極拳が凄いんだよ」とお話しして下さいました。
 太極拳のその流れに身を委ねることができた人だけが、太極拳が見せてくれる境地へと、我々を連れて行ってくれるのではないかと思います。

 自分がその流れに果たして乗れているのか、そんなことは正直判断のしようがなくわからないですが、個人的な手応えとしては、稽古をすればするほど、新しい疑問が湧いてくるように感じます。何かに気付けば問題は解決をし、その上で新しい疑問が生じます。
 『汲めども尽きぬ泉』という表現がありますが、太極拳に関して言えば、その疑問が留まることを知らないという意味なのでは…と思わずにはいられない程です。
 流れに乗るというのは、ラッコさんのように浮かんでいれば済むということではなくて、水面を優雅に泳ぐ白鳥の例えのように、水面下では足を動かし続けて泳ぎ続けなくてはならない、ということなのかもしれません。

 泉から溢れ続けるのは新たなる疑問ばかりですが、そこにあるのは確かに「変化」であり、停滞ではありません。
 それとどれだけ付き合っていくことになるのかはわかりませんが、少なくとも、今年の残り少ない日数だけでは、解決し終える兆しは、どうやらなさそうです。
 来年もまた、楽しませてもらえそうです。
                                (了)





*次回「今日も稽古で日が暮れる/その58」の掲載は、2022年2月22日(火)の予定です

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2021年10月28日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その56

    『駝鳥の妙術』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 先日のとある稽古中、玄花后嗣がふいに、「ダチョウはものすごく頭が悪い」というお話をされました。
 稽古に参加していた我々門人は、「藪から棒に、何の話だろう?」と耳を傾けます。

 玄花后嗣がおっしゃるには、
 ダチョウは記憶力が悪い。人が乗るとパニックになるけれど、すぐに乗せてるいことを忘れてしまう。柵に入れられても、すぐに忘れる。
 とにかく脳みそがすごく小さい。ダチョウの目玉より小さいほど。などなど。
 身振り手振りを交え、唐突に始まったダチョウの話に、みんなが笑いを誘われます。
 そこで語られるダチョウのアホさ(失礼)は、我々の想像を超え、そんな生き物がよく生きてこられたな、と思わされるに十分な内容でした。

 玄花后嗣の話は続きます。
「みなさんも、ダチョウのように稽古をしていませんか? 新しい課題を与えられたらパニックになるけれど、喉元過ぎたらすぐに忘れていませんか? きちんと頭を使って稽古に取り組めていますか?」

 その言葉に、我々ははっとなり、ある門人は苦笑いを浮かべ、また別の門人は、神妙な顔になり無言で頷いていました。


 ニワトリは3歩歩けば忘れる、などと言われますが、ダチョウは本当にそのレベルで記憶力がない生き物だそうです。
 異なる群れ同士のダチョウたちが出会い、パニックになってケンカが始まります。
 しばらくしてケンカが治まるとそれぞれの群れに分かれて去っていきます。
  その時、最初の群れとは違う組み合わせ(違うお父さんお母さん、違う子供たち)になっていても彼らは平然としており、当たり前のように帰っていくそうです。
 …そもそも身内の顔すら覚えていないとのことです。ちなみに、ペンギンはきちんと自分の子供を見分けられるそうです。
 また、みんなでいる時、誰かが(なんとなく)走り出すと、訳もなくみんながついていくそうです。ダチョウは時速60キロで30分走ることのできる、地上で二足歩行動物最速とのことで、暴走したまま崖の上まで辿り着き立ち往生、パニックになってまた誰かが走り出すとそれについていく、ということがざらにあるそうです。本能なのかもしれませんが、アホです。
 またその鈍感さは目を見張るものがあり、仲間に羽根をむしられて(理由はヒマだったから)、出血した部分にカラスがたかり、自分の身をつつかれてても平然と餌を食べているそうです。
 ただし、その生命力はとても強く、怪我の治りは早いそうで、そのような怪我も適切に治療をすればすぐに再生してしまうのだそうです。これがアホでも(失礼)生き残ってこれた理由のひとつなのかもしれません。

 さて、玄花后嗣はなぜ貴重な稽古中の時間を使ってダチョウの話をされたのでしょうか。人間らしく、真面目な顔をして考えてみようと思います。
 理由のひとつは、このように真面目な顔をしてみんなが稽古に取り組んでいたからかもしれません。
 集中しているといえば聞こえはいいですが、歯を食いしばり、眉間に皺を寄せて、身体中に余分な力を漲らせ鼻息を荒くしている中で、拙力を使わない太極拳が理解できるのでしょうか。
 いや、きっとできないに違いありません。

 師父も、稽古中によく冗談を言ってくださり、我々の余計な力みを取り除くような稽古をしてくださいました。真面目な顔をして稽古をしていて、結果が出ていればいいのですが、そうでない時がザラであり、そのような力みは理解を妨げる原因でしかない、と見抜かれておられたのだと思います。
 真に集中している時、人は澱みのない緊張を体に持たせ、余計な力は抜け、体は最大に動ける状態にあるはずです。周りのことに意識は配りつつも、ひとつ所に留まらせないその状態は、武術においても求められるものに近いように感じられます。
 もう一つの理由は、稽古になかなか進歩が見られず、同じ「出来ないこと」を繰り返している状態はまるで、考えなしに突っ走り、自分の置かれている状態もわからない、何をしていたかさえ思い出せないダチョウのようであると、喩えられたのではないでしょうか。
 同じことを繰り返すということは、そこで反省して次に繋げることが出来ていない状態です。
 理由は様々あるかと思います。一つは何が起きているのかわからない、鈍感な状態であること。正しい認識・意識なくして問題点の改善など望めるはずはありません。
 もう一つは、何かに気付けたとしても、その気づいたことが次に活かせない。気づきを忘れ、改善すべきことも手につけず、また同じことを繰り返してしまうところです。
 それはあたかも、記憶力の悪い、鈍感なダチョウの例えにピッタリと当てはまるもののように感じられます。

 どのように物事を勉強していったら良いか、師父は我々研究会に講義を開いてくださり、人間の脳の特性から、効果的な勉強方法まで、時間をとって丹念に教えてくださいました。
 その勉強の仕方、頭の使い方を、我々がダチョウ頭で忘れてしまっていないでしょうか。
 豚に真珠、猫に小判、ダチョウに勉強法…せっかく教わったことを活かせないのなら、トリと一緒です。何のために人間をやっているのか、わからなくなってしまいます。

「ダチョウの脳みそは約40グラム…彼らの目玉よりも軽いのだそうです」
 と、玄花后嗣がポツリと仰います。ちなみにダチョウの体重は100〜200キログラムです。
 対して人間の脳みそは1200〜1500グラム。大きさが全てではないですが、身体に対してそれだけ大きな比率を占める脳を、使わないなんてあまりに馬鹿げています。
 また、だからと言って稽古中に考え込み、体の動きが疎かになってしまうのも問題の一つです。この場合は、考えると称して自分自身の考えに拘泥し、周りが見えなくなってしまっているはずです。
 これはそもそも、武術として必要な在り方とは真っ向から対立しています。
 戦いの場において、考え込んで動けなくなることがあっていいはずがありません。それは稽古について考えているようでいて、実際には自分勝手なあり方になってしまっているのだと思います。

 戦闘機のパイロットが操縦中に行なっている作業は、音速で戦闘機を飛ばしながらコンピュータを操ることだと言われています。考えなしに操縦桿を操るのではなく、かといってデスクワークでコンピュータに向かっているでもない極限状態が、コンマ1秒の判断の中に求められているのだとすると、常人にできることではないように感じられます。
 しかし、地上での生身の戦いにおいても、それと同じ状態が必要となってくるはずです。
 考えて止まるのではなく、考えながら動く。
 知的な肉体作業があって初めて、自らを生存させながら敵を倒すことができるのではないかと思います。
 また、落ち着いて考える時にはじっくりと、指導されている内容、理論について向かい合う必要があるように感じます。
 稽古で教わったことをそのままにしておくと、次々と教わる内容に消化不良を起こして、いずれ何も理解できない状態に陥ってしまいます。
 自分は、稽古が終わるたびに一つ一つ、自分が行なっていたことと指導された内容、示されたことを思い出し、確認するようにしています。その中で、それまで見えてこなかった物事の関係性が少しずつ細い糸のようになってつながってくる時があります。
 それをもとに自分自身の動きを改善、検証を重ねた上で次回の稽古に臨みます。
 そうすると、自分が思っていたことの問題点が新たに浮上し、また、思っても見なかった発見が次々と現れてくるようになりました。

 稽古中の発見はさることながら、新しい発想が一番生まれてくるのは、シャワーを浴びている時など、リラックスしている時です。
 考えに考え抜いて頭を一杯にしておき、そこからリラックス状態に入ると、人間の脳は休むのではなくて、その時間の中で最大限の仕事を行います。
 余計な入力がない時、実は脳はその時間を、自分自身の神経の再配置に使っています。
 ボーッとする、散歩をする、リフレッシュをする。リラックスする時間が必要なのはそのためで、そういった時にこそ、思っても見なかった発見はあるものです。
 ですが、ただボーッとしてもダメで、事前にしっかりと課題に取り組んでおくことが必要になります。
 それはあたかも、ワインを作るために葡萄をしっかりと下拵え、準備をする必要があるのと同じだと思います。条件を整え、樽に入れて初めて、時間が葡萄をワインに変えてくれるのです。
 漫然と葡萄を眺めていても、それは決してワインにはなってくれません。

 我武者羅に稽古をすることはもちろん必要です。
 それが煮詰まったら、一度稽古をやめて、のんびりとダチョウの動画でも見てみたらいいのかもしれません。嫌でも肩の力が抜けてしまいます。

 師父が「一流の芸術に触れなさい。いい音楽を聞きなさい」と仰ってくださったのは、リラックスすることで生まれる貴重な瞬間の大切さを、身をもって味わわれていたからなのかもしれません。
 その瞬間に、それまで見えなかった糸が繋がり、パッと輝くものに出会えるのかもしれません。

                                (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その57」の掲載は、12月22日(水)の予定です

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2021年08月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その55

  『意識的に見ること』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古をする上で、ただ漫然と数や時間をやればいいわけではない、とは常に注意されることです。
 では、意識して稽古に取り組むとは言いますが、何も知らない、味わったことのない状態で、果たして最初に何を意識したらいいのかという問題があるかと思います。

 よほどの天才でもない限り、何もないところから武術を創出するのは簡単なことではないはずです。だからこそ、我々には先人から授けて頂いてきている、代々培われた理論があり、それを学んでいくために守っていかなければいけない体系があるのだと思います。

 意識的に稽古に取り組むためには、まず何よりも自分に対して自覚的であること、認識をきちんと持っていることが必要だと思います。そして、何を意識しなければならないか、という、意識についての型や枠、つまりは規矩を身につけていかなければならないのではないか、と感じます。

 意識の型、というと表現が難しいかもしれませんが、それは、どのように自分が物事を捉えているかという、考え方につながっているのではないかと思います。

 人間は、やろうと思えば何でも出来るし、何にでもなれるような自由度を持って生まれてきているのではないかと感じます。ところがそれは、裏を返せばまっさらに何も書き込まれていない白紙のような状態で生まれてきているとも言えるわけで、そこで使われるべきペンや絵の具、はたまた書き込まれる言葉でさえも、外側の世界との関わりで一つずつ身につけていかなければいけないのではないかとも思います。

 太極拳で求められる考え方、提示されている物事は、日常の生活の中には存在し得ないものです。師父は常に我々に「考え方を変えること」と仰っていましたが、我々がこれまでの生活で養ってきたものの見方、発想方法では、太極拳で示されているものは見えてこないのだと、改めて感じさせられます。
 絶対に引っかかることのない網を広げて太極拳という獲物を捕らえようとしたところで、どれだけ頑張っても獲物が捕まえられるはずはありません。するりと網を抜けて行ってしまいます。
 では、どうしたらいいのでしょうか。


 先日の稽古の際に、玄花后嗣から「とにかく考えずに真似をすること」という指導をしていただきました。
 自分を挟まずに真似をすること。今まで生きてきて培われてきた自分という土壌がある中で、示されたものを素直に真似をするのは、我々にとって難しいこととなってしまっています。
 順番をつけられるものではないかもしれませんが、意識的に稽古に取り組むためにこそ、まずは何も挟まずに真似ができるかという点が、重要になってくるのだと思います。
 では、なぜ真似をしなければならないのでしょうか。

 太極武藝館の稽古では、多くの時間を歩き方、歩法の稽古に当てています。歩法の稽古があって対練は行わないという日はあるものの、その逆はない、というほど歩くことに重点が置かれています。
 道場に通って来ることのできる門人は、恐らく全員が物心が付く前には歩いていたと思います。乱暴な言い方ですが、人間は体の構造上、雑なやり方でも割と歩くことが出来てしまいます。
 ところが、大きくなっていざ太極拳の稽古をしようとなった時、その雑に習得してきた歩き方そのものに苦戦させられます。赤ちゃんの時、見様見真似とはいえなんとなく出来てしまった立ち方、歩き方を、大人になってからこれ程まで修正されるとは、思ってもいない事態です。
 太極武藝館に初めて入門した人は、ここまで細かく立ち方、歩き方を修正されるのかと驚くに違いありません。
 自分というまっさらな紙に書き込まれてしまった、身についている身体の使い方を、一から修正していかなければなりません。ところが、多くの場合、それらは無意識的になんとなく書き込まれてしまったもののはずです。

 ただ真似をして動いていく。
 その中で、指導者から折を見て、必要となる注意点、要訣を指導していただきます。
 そうすると、今まで無意識に行われていた自らの行為に、ふっと意識が向き、気がつくようになります。そうして初めて、
「ああ、自分はこのように勝手な体の使い方をしていたのだな」と、気づけるようになります。
 そうすると、示されていた動きが、自分の認識の変化に伴って、さらにそれまでと違ったものとして新しい面が見えてきます。そしてそれを真似をすると、また不意に気づける瞬間がやってきます。
 こういったサイクルを循環させることによって、何も挟まずに真似をすることから、自らのことに認識が向かうようになり、意識的に稽古を行うという感覚が芽生え、養われていくのではないかと思います。

 指導者による指導はもちろんのこと、我々門人同士でも、お互いの状態を見て指摘し合うという形の稽古が行われます。
 これは、他者の間違いを注意するためではなく、むしろそれを通して、自分が何を見ているのかを学習することが求められているのではないかと思います。
 同時に、稽古でどんどん成長していける人は、どのような点に着目しているのか。それを勉強させてもらえる機会でもあると自分は感じています。

 そういった形を通して、自分が何を認識し意識しているのかという点そのものに、次第に意識が向うようになっていきます。
 自分の認識のメカニズムが、だんだんと形としてあらわになってくるのです。
 人間は、自分で思っている以上に、自身の内面を構成するものが外側の影響を受けているのではないかと思います。というよりも、それがなければ、自身の内面を認識することさえも難しいのではないかと思います。
 考え方という点においても、そこに意識を向けるという訓練を行って初めて、考え方に向かい合うという概念が生じてくる、とでも言えるでしょうか。
 そういうことを言ってもらわないと、それに目を向けるのは、人間にとっては容易なことではないと思うのです。

 歩き方に関しても、日常生活を送る上で恐らくほとんどの人は、生まれてからこれまで、自分がどのように歩いているのかを認識したことはないのではないかと思います。
 それでも、足を痛めたとか、スポーツをするなど、何かの必要性に迫られた時に、初めてそれを認識するのではないかと思います。

 太極拳を完全に独学で行うのは、恐らくほぼ不可能ではないかと思う理由がそこにあります。
 物事はそこにあったとしても、何に目を向けたらいいのかわからないからです。
 太極拳は、そのシステムを理解している指導者から、何に意識を向けたらいいかという点を教えて頂いて初めて、そこに目を向けることが出来るのではないかと思います。
 それなしで全てを独力で見極めようとするのは、砂漠の中の砂粒ひとつを見つけ出すのに近い神業ではないかと思われるのです。

「考え方を変えなさい」と言われる時、そこにある意識のメカニズムにまで目を向けよ、と言われている気がしてなりません。
 師父は我々に、構造はすでにそこにある、ということを話してくださいました。ただ、誰もそれに気づいていないだけなのだ、と。
 太極拳としての構造がすでに人間の体の中に備わっているのに気づけないのだとして、では我々は稽古の際、何を教わっているのでしょうか。
 それは、意識や認識の中にも見出されるべきメカニズム、型というものではないのかと、感じます。それさえも本来そこにあるものなのかもしれませんが、先人の導きなくしては、そこに気づくことは不可能とさえ思えます。

 最初に入門して直される立ち方、歩き方。ただそれが変わるだけでなく、そこに意識的になれるかどうか。
 何に目を向けるべきか、注意したらいいかという認識の型というべきものを、我々への指導に多くの時間を割いて頂いているのではないでしょうか。

 私たちは、師父のような物の見方が出来ているでしょうか。
 師父は、どのようなときも特定の見方に固執することなく、柔軟な捉え方をするようご指導くださいました。
 こう言われたから、とか、こうしなければならないということではなく、常に機に臨んで変化に応じることこそ、疾風勁草の在り方なのではないかと思います。

                              (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その56」の掲載は、10月22日(金)の予定です

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