今日も稽古で日が暮れる

2022年10月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その65

  『絵本とイメージ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 先日、玄花宗師がご不在だった際の研究會での稽古の様子を、宗師にお伝えした時のことです。
 特定の対練では成果が見えるものの、別の形になると上手くいかないということがある、と説明させていただくと、
「太極拳は、『ひとつのこと』しかしていない」
 という旨の内容を指摘していただきました。我々が、違う対練をすると結果が伴わないのだとすれば、それは肝心な部分の理解が出来ていないのだ、という事でした。

 我々をその『ひとつのこと』の理解に導くために、様々な形をとって指導をしていただいています。そのひとつに、提示されたイメージに沿って体を使うというものがあります。太極拳の要訣というと難しくなってしまうので、その前段階としてわかりやすいイメージを伴った説明をして頂いているとのことですが、聞いたままのイメージを持ってみると、実際に体がそのように感じられ、確かな変化の実感が得られます。
 しかし、いざそれを維持しようとしたまま何かをしようとすると、気が付くとイメージが持続できていないということがあります。
 そのことを宗師にお伝えすると、
「昔の人と違って、現代人はイメージが体に染みつくまで集中した稽古時間を取るのが難しい」
 といったことを言って頂きました。
 …確かに、冬に農作業が出来ない間中、稽古に明け暮れていた昔の武術修行者と現代人の生活では、時間のサイクルが違っています。
 ですが、その時間が取れないからといって修得を諦めることは出来ません。我々に出来うる正しい稽古方法を探求していくしかありません。

 前回の記事でも書きましたが、頭や言葉で理解できたつもりになっていることと、体が実際に理解できていることの違いという問題が、ひとつあるように思います。
 その続きとなりますが、大人になった我々は、言葉とイメージをどのように結び付けているのかという疑問が、頭に浮かびます。稽古で示されているのに、言われた通りのことが出来ないという点において、二通りの間違いがあるように思います。
 ひとつは、言われた通りのことと称して表面上の文字面を追ってしまい、それだけしかしなくなるという間違い。もうひとつは、話の行間を読むと称して妄想を挟んで、自分勝手な行いをする、というパターンがあるように思います。
 そのどちらも間違いだということは、一目見ればわかることです。ですが実際には、そのどちらかをやってしまっていることが多いのだと思います。

 見せていただいたこと、説明していただいたことが、正しいイメージとして自分の中に染み込み、それを行うということがなぜ困難になってしまっているのでしょうか。これは、例えば自分の稽古の状態を問われた時に、明確に分かりやすくポイントを絞って説明することが困難であるといった問題と、表裏の関係にあるのではないかと思います。
 研究會では、ブログの記事を書く、コメントを期日内に書くという課題が課されています。自分もこうして毎月記事を書かせていただいていますが、一見すると太極拳の稽古と関係がなさそうなこの課題が、個人的には大いに勉強をさせていただく機会となっています。
 先に挙げた通り、自分の状態を言葉で説明できる時は、たとえ問題が出てきているとしても、稽古そのものはしっかり出来ている時なのだと思います。逆に、なかなかその表現が的確に説明出来ない、まとまった文章や言葉で表現すべきことが書けないといった状態というのは、自分自身の中にかなり混乱が生じている状態であり、自分がそうなっている限り、稽古の状況もそれに即したものとなってしまっている可能性があるように感じます。
 また、何かわかったつもりになっていても、いざ言葉にしてみるとかなりあやふやであったりした場合も、自分で気づいてないだけで漠然とした状態になっていると言えるのではないかと思います。

 我々が意識するしないに関わらず、言葉の使い方とその人の精神状態というのは密接に関係しているのだそうです。語彙力が無く「ヤバい」であらゆる感情を表現する若者が一定数いるようですが、そういった子は、感情がもっとグラデーション豊かに段階的に存在していることを、その語彙力の無さという理由で、理解できないのだそうです。
 いいことがあっても「ヤバい」、悪いことがあっても「ヤバい」。繊細さとは程遠い状態です。日本人が感性豊かと言われるゆえんのひとつには、四季折々に育まれた日本語があり、その語彙力にともなった感性・感覚を、日本人が身に着けていたという点が挙げられると思います。
 その正しい言葉遣いを見失った時、日本人だから感性が豊か、と言えていた点も同様に見失われてしまうのではないかと思います。

 我々が稽古をする際にも、この点は問題として顕在化しているように思います。説明された時のイメージを、正しいイメージとして認識出来ているのか、という点です。表面的にならず、かといって自分の勝手な解釈を挟まずに言われた通りにやることの困難さが、ここにはあるように思います。しかし、それこそが太極拳を正しく理解していくための、最も早く、かつ確実な方法なのだと指導していただいているので、この点を疎かにすることは、多くのことを取りこぼすことにつながってしまうのだと思います。

 上に書いたような言葉をうまく使えない若者の問題は、ただ言葉遣いだけでなく、その情緒や精神性の発達にまで問題が生じてくることにあります。彼らは、言葉が外界の特定の物事と結びついているということがうまく理解できておらず、それが同様に、自分の精神の奥行と結びついていることも理解できていないのだそうです。若者が問題行動を起こす際、ただ情緒が不安定になっている、感情的になるというわけではなく、精神や感情が段階的になっていることが理解できておらず、極端な行動に走ってしまうのだそうです。
 良いことがあった=最高、悪いことがあった=最悪、というように、スイッチのオンオフのようにしか感情がないとした場合、自分がどのような行動を取るか想像していただくと、おおむね理解しやすいのではないかと思います。

 言葉と外界のイメージは密接に結びついており、言葉は当然、外界の物事を表しています。また自分の中では、言葉によって情緒や感情が励起させられ、疑似的に体験することができます。
 それを手軽に味わえる方法のひとつに、絵本を読むことがあります。
 以前記事でも取り上げさせていただきましたが、自分は仕事柄、絵本を手に取ることがあるので、仕事の合間に気が向いたとき、絵本を見ることがあります。

 先日、玄花宗師が幼少の頃、愛読していたという絵本を紹介していただきました。
『光の旅 かげの旅(評論社刊)』というしかけ絵本で、日本語版は1984年に初版が発行され、発売以来、今年も重版が行われ読み継がれている本です。内容を説明をしていただき、非常に面白そうだったので、実際に自分でも注文して、読ませていただきました。
 白黒の大判のイラストに、控えめに書かれたテキストを読んでいくと、最後のページ、旅の終わりにたどり着きます。ところが、テキストに従って本をひっくり返すと、あら不思議…見てきたはずの景色ががらりと変わり、また新たな旅が始まるのです。
 あっという間にイラストが様変わりする様子は見ていてとても面白く、「へぇ!」と衝撃的でした。
 玄花宗師はこの本を何度も読み返したとのことで、その気持ちがよくわかりました。
 宗師は「誰に買ってもらったのかわからない」と仰っていましたが、見方を変えることで世界ががらりと変わる様子は、さながら陰陽虚実の流転を表しているようでもあり、太極拳の教えが宿っているようにさえ感じられました。ということは、やはり師父が買い与えられたのではないでしょうか…?

 さて、みなさんは小さなころ、どのような絵本を読んだでしょうか。
 自分はあんまり読まなかったような気がしていたのですが、よくよく思い返してみると自分が忘れていただけで、我が家には絵本がわりとたくさんあり、知らずにそれを読んでいたことを思い出しました。
 絵本は、小さな子供でもわかりやすいということは、大人が読んでもわかりやすいものです。
 特に、ベストセラーと呼ばれ長年読まれ続けている絵本は、子供の情緒を刺激し、言葉や世界の豊かさを味わわせて、体験させてくれるようなものがたくさんあります。
 絵本はただ左脳で文字として読むことは出来ず、絵を通じて右脳も使い、それらの総合的な信号は、言葉とイメージが体験として自分に染み込むことを味わわせてくれます。
 もし機会があったら、それを体験し、お気に入りの一冊を見つけてみるのも、普段あまりない刺激として楽しい試みかもしれません。

 絵本を絵本として味わい、体験すること…・そこで得られる感覚は、言われたことを言われた通りにすること、何も挟まずに、自分の味わいとして感じる体験と、大いに通じるところがあるように感じます。
 もしそこで得られるものが、人生を豊かにする役に立ち、太極拳の稽古にも反映されるのだとしたら、少し気持ちを楽にして絵本をゆっくりと手に取ってみるのも、良いのかもしれません。

                                (了)





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2022年09月30日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その64

  『子供の自分と、大人の自分』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古中によく指摘される事柄に、「頭で考えるのではなく、体を使って動く」という点があります。最近の稽古でも、道場内に色々な障害物を設置して、そこを移動するというサーキットトレーニングが行われることがあります。
 このトレーニングでは、どのように障害物を越えようかと考えている暇はなく、とにかく体を使うことしか解決手段がない、という状態が設定されます。このトレーニングを行うと、みんな一様に身体の状態が良くなり、足は軽くなり、足で蹴る、落下するといった普段注意される状態が、少なくなっているかと思います。トレーニングの効果があったのだといえばそれまでかもしれませんが、ではなぜ、普段からその状態でいることが難しいのでしょうか。

 『かのアインシュタインは、「子供に説明できなければ、理解したとはいえない」と言った』・・・と、師父や玄花宗師が我々に言ってくださったことがあります。
 我々が稽古において宗師にしていただく説明は、非常に明瞭簡潔であり、専門用語を使わずに説明すれば、小学生の子供が聞いても難しくて理解できないということはないと思います。
 実際に、当時まだ小学生だった門人が、指導を受けて大の大人を軽々と吹き飛ばすという風景が道場で見られることがしばしばありました。
 そしてその横で、大人が相手を崩すことが出来ずに四苦八苦、という状況もありました。
 これはいったい、どういうことなのでしょうか。

 この問題を考えるには、最初に挙げた「頭ではなく、体を使う」という点により深く入っていかなければならないのだと思います。
 稽古で適切な指導をしていただき、細かな点まで修正を行い、動けるようになってきました。そして、いざ対練になると・・・やっぱり体が動かない。これは、自分が理解したと思っていることでも、本当は体はまだ理解できていないのではないか、と思います。

 人間の体の命令形は、単純化すれば、脳から神経を経て体全体に張り巡らされています。
 大まかな説明ですが、脳の構造は中心部から脳幹、小脳、大脳で構成されており、それぞれが生命維持、運動機能、高度な命令を出す司令塔といった役割を担っています。
 我々が「体が動かない」という問題に直面しているとき、それを司っているのは脳の領域でいえば、脳幹、小脳にあたる部分でしょうか。野外で動く、障害物を使ったサーキットトレーニングを行う時など、普段とは違うイレギュラーな状況に置かれたとき、脳はその中心部に近い領域が、本能に導かれて活性化するのかもしれません。その結果、体が動くようになります。

 ところが、普段の稽古で「聞いたことで理解したつもりになってる状態」というのは、聞いた内容はまず高次機能を司る大脳で処理されますが、そこで得た情報が、さらに下の小脳、脳幹のほうにまで届いていない、あるいはそれらが理解できていない状態といえるのではないでしょうか。
 では、なぜ小脳や脳幹は、大脳からの情報を理解してくれないのでしょうか。自分の体の一部なのに、自身に反旗を翻しているのでしょうか?

 大脳の内側から小脳にあたる部分は、いわば人間の本能に直結した領域を担当しているといえます。本能による行動といえば・・・野外で走り回る、腹が減ったら食べる、眠くなったら寝る、喜怒哀楽を隠すことなく表現する・・・などがパッと浮かびましたが、いわば野性的な状態でしょうか。
 さて、人間の成長の過程において、一番野性に近い期間はいつにあたるでしょうか。
 それは、とりもなおさず子供時代ではないかと思います。

 私は仕事で接客業をしているのですが、子供連れの家族が買い物に来るのを毎週末見る機会があります。しっかりした親御さんはもちろんいるのですが、それでも、子供の面倒を見ずに暴れさせっぱなしという親も居るものです。まるで体の大きな子供が小さな子供を連れてきているような状態で、子供のしつけがなっているようには見えません。
 と、ここでは現代社会のモラルの低下を嘆きたいのではなくて、子供というのは適切にしつけられていないと、他の人がいる公共の場所でも、まぁ遠慮なく暴れるし大人の言う事を聞かない、という点に注目したいのです。

 子供をしつけるには、親が子供と同じ目線に立っていては、対等な立場になってしまい、ただぶつかるだけになってしまいます。親は大人として、子供を見ることが出来なければ適切にしつけられはしないと思います。かといって、大人にだけ分かるような理屈を子供にぶつけても、やっぱり子供は理解してくれません。
 大人は大人の立場として、子供にもわかるように子供を方向付けてあげないと、しつけは成功しないのではないかと思います。

 実はこれと同じことが、「自分の中」でも起きているのではないかと思うのです。
 我々の脳の運動・体の動きを司る部分がいわば原始的で本能に直結した部分にあるとして、そこに対して大脳がどれだけ立派な理論を上から押しつけても、子供に近い理解力の小脳たちは、何を言っているのか理解出来ず、結果、小脳=運動機能がうまく働いてくれない、「頭で考えた」動きしか出来ない、という構図になるのではないか、と思うのです。

 太極拳を頭で理解したつもりになっても出来ないのは、体(子供に近い性質を持った自分)が感覚として理解できていないから、といえるのではないでしょうか。
 つまり、子供に難しいこと言ってもわからない、のではないかということです。

 太極武藝館では、一人前の大人、一人の人間として立っていないと太極拳は理解していけない、と指導して頂きます。太極拳の技法だけをただ習得したいと思ってもそれは叶わず、かならず自身の存在に行き当たり、人間性や在り方という問題に、誰しもそれぞれがぶつかっているのではないかと思います。

 大人になるということは、子供時代を経てはじめて到達できるものです。
 人間には、大人である面と、子供である面、その両方が備わっているのではないかと感じさせられます。
 その上で、子供を正しくしつけていけるのは、大人の人間性を持った人だけではないかと思います。自分を律していける人というのは、自分の中に居る子供の面をしっかりとしつけられ、律していける人ではないかと思うのです。
 道場においても、玄花宗師はもちろんのこと、太極拳がどんどん上達している先輩たちと接していると、彼らはみんな、人間として大人であると感じるところがあります。律するところはきちんと律し、それでいて人の心を思いやる温かみとユーモアも兼ね備えている・・・それはまるで、師父にも感じられたものと同じもののように思えるのです。

 そして、そういう人たちはみな一様に、体が動くようになっている・・・果たしてこれは偶然でしょうか? いや、そんなことはあり得ません。

 自分の稽古の取り組み方として、体で動くと称して、まるで自分の体に対する支配力を強め、命令を実行させようとしている部分があったように感じます。これでは、自分の中の本能に近い部分は、なぜ命令されているのかも理解できないまま、あたかも叱られて萎縮してしまっている子供のようになってしまい、結果、体は自由に動いてはくれない、という状況になっていたのではないか、と思いました。
 叱りつけ、怒鳴りつけ、動くよう命令し酷使する、それでは体を大切にしているとは言えませんし、本能はそれを嫌い、どんどん動くのを怠る、勝手に暴れるようになるのではないかと思います。

 かといって、しつけが行き過ぎて大人の命令がないと動かない子供というのもまた、その在り方としては不自然なものではないかと思います。
 子供は、大人がどれだけ言って聞かせようと、自分にとって楽しいことがないと主体的には動いてくれません。逆にこれは、美点でもあるのだと思います。
 好きなこと、楽しいことに熱中し、周りのことも耳に入らず情熱的に取り組む姿勢は、子供が持っている素晴らしい性質だと思います。
 玄花宗師は、一人の大人として在りながらも、まるで誰よりも子供のように、興味深いことに情熱を傾ける姿勢を我々に見せてくださいますし、稽古においては誰よりも楽しみを見出し、本気で楽しんで遊んでいるようにさえ感じる時があります(そして、そのような時の稽古は、我々にとっても、すごく劇的に効果があるのです)。

 そういう、両面性とも思える性質を人間は併せ持っていることを知り、付き合っていくことで初めて、一人の人間として正しく在ることが出来るのではないか、と感じます。
 はめをはずしすぎてもダメだし、しっかりしなければ、と硬くなるだけでも物事は片手落ちで、うまく回ってはくれないように思うのです。

 また、人間同士に生じる争いの原因も、根っこの部分では、人間として未熟な、さながら子供のようにすぐに感情的になることで生じている部分が大きいのではないかと思います。
 それをまるで子供の喧嘩のように冷静に見つめられるのが大人の在り方だと思いますし、武術としても、力と力のぶつかり合いを一歩離れたところから見つめ、御することが出来るのが、太極拳の技法としても通じるところがあるのではないかと思います。
 そして、技法としてそれを習得するためには、自分の中にあるものを知り、律していける状態であることが、必要となっているのではないかと思います。

 このように感じるところがあり、稽古において「自分の体の声を聴く」ということを見つめ直した結果、それまでになかったことにいくつか気づけたことがありました。
 立ち方という点において、恣意的にこう立つと決めつけるのではなく、体が本当はどこに立とうとしているのか、が以前より感じられるようになり、変化した部分がありました。
 このようなことをきっかけとして、太極拳の稽古としても、また一人の人間としてももっと変化していけるところがあるように感じられました。
 問題が目の前に出てくる時、それはその問題を解決できるチャンスなのだと思います。
 自分に、まだまだ成長の機会があるのだ、と天が与えてくれているようにさえ感じられます。もっともっと、それらの機会に自分から積極的に向かっていき、本当の意味で動けるようになっていきたい、と思いました。

                                (了)




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2022年09月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その63

  『稽古への向かい方、整えるということ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年のお盆は、太極武藝館では珍しく(?)、道場での稽古がお休みとなりました。
 私は仕事柄、世間がお休みの日には逆に仕事が忙しくなるので、ほとんど普段と変わらない生活を過ごすことになる・・・かと思いきや、です。
 「道場で過ごす時間よりも、日常の時間のほうが長い」とはよく言われていますが、いざ実際に道場に通わない期間が数日設けられてみると、道場に行かないと時間が思ったよりも長く感じるものだな、となりました。
 稽古がない、やった〜! と遊び呆けることになるかというとそんなこともなくて、いつも体を動かしている時間に何もしていないと、逆に落ち着かずそわそわとしてきて、何かしたくなってくるのは、もはや身に付いた性分となってしまっているのかもしれません。

 せっかくの稽古がない時間を有意義に使う、ではないですが、改めて自分自身の生活を振り返ってみることにしました。
 私は現在、週に5日間道場での稽古に通っています。仕事があってどうしても間に合わない日は遅刻、ないしは欠席させていただいていますが、平日の一般クラスには、仕事を終えて即帰宅、急いで準備をすることでなんとか時間通りに参加させていただいています。
 仕事を終えてから慌てて飛び出していく必要がないというだけで、かなり精神的な余裕を感じられるものです。ところが、その余裕があるというのは、実はいい面だけではないのかもしれません。
 道場という場所と時間が定められた環境があれば、当然その時には稽古するしかないのですが、自分で好きなようにあれもできるこれもできるという状態になると、人は意外と、するべきことをするのが億劫になるという面があるのではないかと思います。
 夏休みの宿題を一向に片づけられない子供と同じように・・・(自分はそういうタイプでした)。

 なので今回のお盆休みの期間、自分がどのように自分の稽古に向き合うのか、少し見つめてみることにしました。
 自分で稽古をするということは、稽古時間も、するべき内容も自分で判断していかなければなりません。ただ漫然と、柔功、基本功、套路・・・とメニューをこなすように行っていっても時間は経つものの、身に付くことは少ないと思いますし、それが自分と本当に向き合っているとは言い難いのではないかと思います。
 自分の状態をしっかりと把握し、正しい稽古を行う。そうすることで初めて、自分の課題としっかり向き合うことになり、解決へと進んでいけるのではないかと思います。
 道場で指導していただくとき、自分のわからないことが自分ではっきりしていないのでは、何を解決していったらいいかも分からないことになります。ましてやその状態では、自分一人で稽古を行ってくることなど到底不可能ではないでしょうか。
 夏休みの子供のように、宿題を与えられるのを待つのではなく(ましてやそれが出来ないのでは論外です)、自分で課題を見出し、それに取り組めるのが、大人のやり方ではないかと思います。

 そして、自分で課題を見つけ、それにじっくりと向かい合うことで、今回のお盆休みの期間中、私は「寝ても覚めても太極拳」という状態になっておりました。
 生活の地続きとして稽古をする中で、起きてる間中「ああでもない、こうでもない」と太極拳に頭を支配されることとなり(仕事? もちろんしっかりやりましたよ)、結果的に寝ている間中もずっと太極拳のことを考えてたようでした。睡眠から目が覚めた瞬間、まず「立ち方が・・・こうで・・・いや基本が・・・」と夢の世界から続いてきていたのは、その証拠ではないでしょうか。
 頭の中が太極拳で支配されるのは、自分としてはすごくハッピーな状態で、とても楽しいものです。まさに何かにハマっている状態といえるのではないかと思います。
 太極拳をやるのに、何も特別な道具は必要なく、自分さえ居れば、すぐにでも稽古に取り組めます。四六時中熱中できるものがあること、それに制限なく取り組めること。これほど幸せなことはありません。

 そして、連休が明けました。最初の稽古で、玄花宗師が、「整えること」についてお話をしてくださいました。お話を聞いて、太極拳における自分の整え方と、それ以外の整え方に共通点があるのならば、普段の自分の行動を見つめなおすことは、そっくりそのまま太極拳の稽古へと繋がって生きてくることになるのだと、改めて感じました。
 今回の連休中、「道場での稽古」と「自分での稽古」を無意識のうちに分けてしまっていた自分に、改めて気づくことができました。それはたとえ薄く小さな壁だったとしても、壁であることに変わりはありません。あるいは、足元にあった小さな段差、くらいのものだったのかもしれません。
 ただ、小さな段差は油断すると足に引っ掛かり、つまずくことになります。それがあるとないとでは、雲泥の差です。
 思えば学生の頃から、「学校での自分」と「家庭での自分」をきっちり線を引いておきたいという面が自分の中にありました。道場に「通う」という日々の中で、そのような面が知らず知らずに顔をもたげていたのかもしれません。
 太極武藝館で過ごす時間は、自分の家族と過ごす時間よりも濃厚で、本当の自分をさらけ出しているかもしれません。玄花宗師には隠し事など通用しないのですから、線を引いても無駄なことだとあきらめる他ありません(笑)。冗談はさておき、自分自身を隠すことなく、ひとつのありのままの姿で取り組まないことには、太極拳の上達など見込めないというのが本当のところではないかと思います。・・・もちろん、親しき仲にも礼儀ありで、武藝館では世間一般の他所よりもそれが徹底されています。そしてそれがあるからこそ、仲間と過ごす時間が非常に心地よいと感じられるのではないでしょうか。

 連休中に行った、自分の稽古の取り組み方を見つめなおすということは、言い換えれば自分の時間の使い方を見つめなおすことであり、それは「整え方」の一つの面を表しているのではないかと、玄花宗師の話を聞きながら感じたものでした。物事というのは、思ってもみないところで繋がっているものです。
 そしてまた、そこで現れた結果も思ってもみなかったことであり、それによって自分はより、稽古に熱中する喜びと楽しみを感じられたのでした。
 散らかった物事を整えていくと、そこにそれまでは見いだせなかった法則性が現れてきます。今回の連休中に自分が取り組んでいたことは、連休明けの宗師のお話があって初めて本当の意味で整頓され、自分の中にしっかりと収納されたように感じました。

 ただ、それで良かった、おしまいおしまい、とならないのが物事の常です。
 私が今まさにキーボードを叩いている自室には、文字通り片づけねばならない課題が山積みとなっております。
 玄花宗師が話してくださった「整える」というお話は、文字通り、「整理整頓」の話でもありました。整理整頓が出来ないのなら、自分の整え方も推して知るべし、と。
 振り返って部屋を見回してみると・・・山積みの本も色々な道具も武器類もわりとまとめて置いてあるから、意外と綺麗に見えるかも・・・? なんて幻想を打ち砕いてくれるような、惨状が目の前に広がります。

 もしかしたら連休中に一番最初に取り組むべき課題は、本当はこうして目の前にあったのかもしれません(遠い目・・・)。
                               (了)




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2022年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その62

  『アシよさらば ー誰が為にアシでケる?ー』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「それは足の入力で蹴っていますね」
 ある日、道場での稽古で、基本功をやっていた時のことです。宗師にこのように指摘していただいた私は、自分の状態を見返してみました。
(あ、足で蹴っている・・・?)
稽古の中で繰り返し、本当に繰り返し散々注意していただき、当然自分でも気をつけていながら、それでも度々現れてくる、足での入力、蹴りという状態。
 これは相当に根深い問題だぞ・・・と、認識を改めなければならないと遅まきながら悟った私は、本腰を入れてこの問題に介入していく決意を固めました。
 とはいえ、ではこれまでの稽古を通して「足で蹴る」問題を見て見ぬフリで過ごしてきたかというと実はそうでもなく、普段の生活を通して自分の状態がどうなっているかということを注意してきてはいたのです。注意してきた結果がこれなのです!
 事ここに至って初めて、注意してきただけでは足りない、問題の根の深さに目を向けることになりました。そして同時に、その問題に目を向ける、その眼差しのあり方にまで、目を向けざるを得なくなってしまったのです。

 太極武藝館では、歩法の稽古に多くの時間が割かれ、以前在籍していたある門人からは、「いつまでやるんですか」という声も聞かれた程、とのことです。
 いつまでやるんですか? それはもちろん、出来る様になるまででしょう!
 稽古の中で指導して頂いている内容は、非常にわかりやすい言葉で説明していただけるので、それを聞くと、頭ではあたかも理解できたような気持ちになります。ですが、聞いてわかったつもりになるのと、それを自分の体を通して実践出来るかというところは、全くの別物に感じます。自転車の乗り方を人から聞いて教わってわかったつもりになっても、すぐに乗れるはずがなく、自分で実際に自転車に乗る練習をすることでしか、身につける方法はありません。
 太極拳の稽古においても、全く同じことが言えるのではないかと思います。
「足の入力を使わない」という説明は、おそらく誰でも何を言われているのかわかるかと思います。
 ところが、それを実際に自分の体でやろうとすると、そう簡単にはいきません。
 先日も宗師に、『聞いたことで理解したつもりになっていることと、実際に自分ができていることのギャップを認識しなければならない』と、指導していただきました。
 稽古をしていく中で、自分達が超えていかなければならない壁がここにあるのではないかと思います。
 一般的な普通の考え方では、「そのように言われるものの、足を使ってしまう。きっと、それが出来ないのには自分が聞いていない秘伝が関わっているに違いない!それさえ教えてもらえれば、指導してもらっていることは出来るはずだ!」となるかもしれません。
 武藝館で稽古をさせて頂いていると、その認識が全く間違っているのだという現実に、嫌でも直面させられます。武術の武の字も齧ったことのないような、それまで主婦をやってこられたような普通の女性が、正しく修正されただけで、体重80キロを越す自分のような男を、簡単に吹っ飛ばし、転がすようになってしまいます。
 では、その人は誰も聞いていないような秘伝を聞いたのかといえば、そうではありませんでした。
 稽古で毎回のように指導して頂いている整え方を、改めて宗師がその場で指導して下さっただけでした。
 たったのそれだけです。だとすれば、その整え方こそが秘伝と言えるものだと思いますし、もし稽古で行き詰まりを感じたのだとしたら、それを自分がちゃんと守れているか、それが問われているのだと、見つめ直す必要が生じてきます。


 話題は変わりますが、自分が通わせて頂いている床屋のご主人から聞いた話です。その方は、学生時代に部活動で卓球をやっており、今も学生さんを相手にボランティアで週に何度か指導をしているとのことです。その話になったとき、ポツリと「基本がちゃんとやれていない子は試合で勝てない」と言っておりました。
 自分は卓球を知らなかったので、卓球で基本に当たることは何ですか?と尋ねたところ、ラリーを何回出来るかが一つの基準になると仰っていました。県の大会でも勝って行ける子は何百回と続けられるそうで、負けてしまう子はそれが続かない。イコール、基本が身についていないのだそうです。
 磐田には、オリンピックでメダルをとった水谷選手が所属していたチームもあるそうで、そこの練習は、同じ体育館でやっていると他の選手も注目をするような、一味違った練習をしているとのことでした。メダルを取った水谷選手や伊藤選手ともなると、ラリーが5000回以上(!)も続くとのことで、そのレベルでなければ世界で勝っていくことなど無理なようです。

 その話を聞いたとき、自分の太極拳への向かい方はどうだろうかと、改めて反省を促されたように感じました。言い方は悪いですが、学生の部活動のレベルでさえ、基本をしっかりと固めることで基礎を培い、実力を伸ばしていくという指導が行われているというのは、ある意味衝撃的ではあります。ましてや、世界で戦っていく選手となると、その上でさらに磨きをかけていくのが当然のこととして要求されます。
 太極拳を稽古するにあたり、「他にない、凄いものだ」と言いながら、取り組み方は学生の部活動の方が高度な訓練をしていました、などとなっては笑い話にもなりません。
 余談ですが、静岡県西部の卓球のレベルは、世界でメダルを獲得する選手を輩出するだけあって、かなり高いもののようです。とはいえそれは、何の気休めにもなりません。
 一流のものとして太極拳をやっていく為には、一流の意識で取り組み、訓練もそれに沿うものでなければならないはずです。床屋のご主人の話が頭に蘇ります。
「自分の経験の中で、自分が教わった理論が正しいことは証明されてきました。あとは、それを子供たち一人一人に合わせて、正しく指導してあげる必要があります。どこまで行っても勉強だね」
 これ卓球の話ですよね!?あなた本当に床屋のご主人ですか!?
 カットをしてもらいながら店内の壁をふっと見ると、理容師の大会で優勝している賞状が何枚か、控えめに飾ってあります。
 本当に腕のある人は自分からは何も言いませんし、何をしていても取り組み方が変わらないのだと、痛感させられました。
 教わっている太極拳の内容は高度でも、指導を受けている我々の質によって、それは二流にも三流にも簡単に変わってしまいます。それは教授して頂いた内容ではなく、我々個人個人の質そのものが現れてしまうからではないかと思います。
 であれば、太極武藝館が高度な学習体系を有していると本当に言える為には、我々が高度な功夫を体現している必要があるはずです。
 足で蹴ってしまう・・・このような問題は、早急に解決していく必要があります。
 問題の解決方法はすでに示して頂いていますし、あとは、自分がその方が便利だと勝手に思い込んでそうしてしまっているという現実と、しっかり直面する必要があるかと思います。

 誰が為にアシでケる・・・?それは他でもない、自分自身の為にそうしてしまっています。
 だからこそ、その問題を解決することが出来るのは、他でもない、自分自身のはずです。

 ・・・アシよさらば。
                             (了)





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2022年06月29日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その61

  『たいきょくけんでせかいをみるの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 私は仕事柄、いろいろな本を見る機会が多いのですが、先日、ある絵本が目に止まりました。それは、今年の夏休みの、小学生向けの読書感想文用課題図書のひとつでした。
『すうがくでせかいをみるの』というタイトルで、スペインの絵本作家さんが書いた絵本を邦訳したものでした。
 内容は、主人公の女の子が、家族がそれぞれ好きなものに熱心に取り組んでいる様子を見て、「自分は何が好きなんだろう?」といろいろな事をやってみる中で、自分は「すうがく」が好きだということに気がつく話です。
 世界をみる方法は人それぞれいくつもあり、自分は好きな「すうがく」で世界を見る。すると世界には様々な数字や形が秘められていることに、その子は気づき、それを楽しみます。
 他の子供が動物や紙飛行機を見る時、その子にはそれがフラクタルな図形や数式として見えています。数学という好きなものによって世界の見え方が一変すること、それが楽しくて仕方がないのです。

 可愛い絵柄で、短いのですぐ読み終わってしまう絵本ですが、大人の自分が読んでも、多くの事を問いかけてくれるような内容に感じられました。
 はて、自分には世界はどのように見えているのだろうか、と。
 主人公の女の子が大好きな数学で世界を見渡しているように、自分は太極拳で世界を見ているだろうか、とふと思ったのです。
 太極拳の稽古に取り組む中で、自分の考えを挟まないというのは常々指導していただいていて非常に重要なことだと思います。自分を挟まずに物事に接するという時に、その女の子がしているように、(大好きな)太極拳で世界を見るということは、もしかしてすごく大事な物の見方を指し示しているのでは、と感じたのです。

 道場での稽古の始まりと終わりに、最近はよく玄花宗師が日本の二十四節気、暦のお話をしてくださいます。暦の変化になぞらえて季節や気候が変動していくというお話をして下さるのですが、自分は恥ずかしながらそれまで、季節の変化における自身の体調の変化と、その管理とケアもしっかりしなきゃな〜というレベルの、浅い認識しか持っておりませんでした。
 つい先日の6月21日はちょうど、暦の上では夏至を迎えるというお話をしてくださいました。夏至は陽が最も強くなる日であり、それはちょうど太極図に示されているように、陰に転換する時の状態でもあるとのことでした。
 そのお話を聞いた時、急に自分の中で(ようやく)物事の歯車が噛み合った音がしました。
 それは浅〜い認識の頭をぶっ叩かれたような衝撃を、自分に与えてくれたのです。

 季節の変化に応じた体調管理も、武術修行者としては当然大事なことだと思います。また、二十四節気を通して、見えにくくなった日本の伝統、考え方や文化に触れる機会をも与えてくださったのも事実だと思います。
 ところが、それ以上に我々にとってもっと大事なことがあるのでは、と思い至ります。
 玄花宗師は、四季折々の変化の中に潜んでいる、陰陽虚実、気の循環・・・つまりは太極拳の話を我々にして下さっていたのではないかと、改めて気付かされたのです!!

 ここで、冒頭の疑問に戻りました。
 はて、自分は「太極拳で世界をみていたんだろうか?」という点です。
 絵本の女の子が紙飛行機が飛ぶ軌跡の中に、「すうがく」を通して幾何学のカタチと数式を見出していたように、宗師は四季の移ろいと暦の中に、「太極拳」を通して、陰陽虚実の変化と循環を見出されたために、我々にその話をしてくださったのではないかと思いました。
 太極拳を理解するということが、自分が理解できる形に太極拳が切り分けられるということではなく、太極拳を通じて見える世界の見方が自分にはどれだけ見えているのかということが問われるのだとしたら、自分の認識はずれていたことになります。
 他の人には見えないけれど、絵本の女の子には数学を通して世界に潜む数式が見えているのだとしたら、太極拳が隠されていないにも関わらず、なぜ自分にはそれが見えてこないのかという話にも、腑に落ちるものがあるのではないでしょうか。

 宗師にとっては、季節が巡り夏になることと、相対した相手が力も入れられずに崩れてしまうということは、同じものとして写っているのかもしれません。
 物事に潜む道理を見抜くためには、こうであるに違いないという思い込みを持っていては成せないのだと思います。
 暦の話と太極拳の関連性ということについても、自分の浅はかな理解で物事を勝手に結びつけてしまうという働きが起こった結果、より大切な部分が自分には見えていなかったのではないかと、改めて勉強させられる結果となりました。
 面白いのは、それが隠されていたというわけでもなく、ただ自分の見方ひとつによって、途端に見える姿がガラリと変わってしまったという点ではないでしょうか。
 そもそも、宗師が道場での稽古の締めくくりに「暑くなるから気をつけましょうね〜」というだけの話をされるでしょうか。いや、門人の方達には放っておくとどこまでも無理をしてしまう方々もおられるので、そういう意味も含まれているかとは思いますが・・・しかし道場でされるお話の中にはどこにでも、我々が太極拳を稽古していくために必要な意味が含まれているに違いないと、感じてしまうのです。

 私が世界を見る時、それは太極拳によるものでしょうか。考え方を変えること、見方を変えることというのは、そもそも自分の中にはなかった「太極拳」という新しい尺度によって世界を見ることであって、そうして初めて、世界が太極拳の理を隠さずに、我々に語りかけてくれているのだということに気づけることになるのかもしれません。
 ただ歩法を稽古する、套路や対練で技を磨くだけではなく、道場で様々な習得過程にある人々と一緒に過ごし、会話をし、食事を共にすることで、一体どのように皆が生きていて、太極拳と関わっているのか。それを感じられることがまた、自分にとってもすごく為になる稽古のひとつとなっているように感じられます。
 ひとつ共通しているのは、絵本の女の子が「すうがく」が大好きであるように、門人みんなが太極拳を大好きであるということ。好きだからこそ、もっと知りたい、もっと学びたいと思っているということではないでしょうか。
 先ずは直向きな情熱があるか、それがプロになれるかを最初に分けるのだと、宗師はおっしゃっています。

 太極拳が好きだという気持ちは、自分を燃え上がらせるのに十分な火種となるのではないでしょうか。それを、より大きな炎へと成長させていきたいと思いました。

                                (了)




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