今日も稽古で日が暮れる

2018年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その37

  「学習法の学習法」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 前回、一般クラスで稽古指導の手伝いをしているときでした。ある門人の歩法を見ていたとき、窓ガラスに鏡写しになったご自分の姿を、なかなか見てもらえないということがありました。
 正しい状態と間違った状態の違いを説明し、二種類を比べてもらえば違うということは理解してもらえ、そしてご自分の感覚でも違いはわかる、という状態でした。しかし、いざ動いたときに、なぜかご自分の動く姿を見てもらえません!
 「そこです!」
 というやりとりを玄花后嗣もまじえて数回行った末、ようやく見てもらい、違いを自身の「目」で納得してもらえたのでした。

 「本当に、違ったんですね!」
 とその門人は感嘆しながら言っていました。理解はできていたはずなのに、違いに気づけない。そして、実は気がついていないからこそ、正しくやろうとしているつもりでありながら、本当は間違った稽古を延々と続けてしまっていたのです。

 このようなことは、その門人に限らず、我々になら誰しも起こり得ることです。
 これは一体、どういうことなのでしょうか。


【おつむの問題?】

 我々は稽古中にしばしば、「アタマが硬い」「頭は悪くないが“おつむ”が弱い」といった指摘を受けます。
 目の前で見ているはずなのに、まるで目が見えない人のように、実際にやってみると全く理解できていないということはよくあることで、本当に自分自身「大丈夫なのか・・・?」と思ってしまうレベルで頭が働いていないように感じることがあります。

 道場の中でのみならず、世間でももっと頭を鍛えないといけない、という風潮はあるらしく、昨今では「脳トレ」と言われるジャンルのゲームや書籍が賑わっています。
 では、その「脳トレ」などで頭を鍛えればいいのでしょうか。
 脳トレに関しては、学術的な研究も行われていますが、ほとんどの研究が導き出した結果によれば、「脳トレは効果がない」という見解が主流のようです。
 もし効果があるとすれば、取り組んだ類のパズルやゲームが得意になるであったり、あるいは思い込み(プラセボ効果)によって、能力が向上する、といった程度のものでしかないということが言われています。つまり、やってもあまり意味がない、ということです。

 逆に、本当に脳の能力、認知機能や反射速度を高めたいのなら、娯楽用の一般的なテレビゲームのアクションゲームやシューティングゲームをやったほうが、実際に脳機能が改善される効果が高い、という研究結果が出ています。
 一時期は”ゲーム脳”という言葉で、ゲームをすることが悪いように言われていましたが、それによって生まれた脳トレゲームよりも、悪そうな普通のゲームをやったほうが効果があったというのは皮肉なものですね。

 イラク戦争に従事していた米軍の兵士が、オフの時間には持ち込んだテレビゲームでひたすら遊んでいるという話がありますが、ストレス解消のほかに、もしかしたらある種のトレーニングになっていたのかもしれません。
 シールズの伝説的なスナイパー、クリス・カイル氏も、現地で手に入れたゲームをやり込んでプロ級の腕前だった、と著書に書いてありました。

 知的な活動を行うとき、その人がもともと持ってる知能が問題なのか、それとも後から学習した能力が大切なのか、いろいろと言われているところではあります。
 実際のところ、生まれ持った知能よりも、後天的に学習できる、学習能力そのもののほうが結果に大きな影響を与えていると見る研究があります。

 ここが大事な点なのですが、「知能」ではなく、「どれだけ学習したか=知識」でもないのです。どれだけ学習していけるか、という点が、重要なのです。
 そしてもっと大事なのが、どれだけ学習していけるかという学習方法は、学習していけるということです。


【認知の認知、メタ認知】

 さて、では実際に学習方法を改善していくにはどうしたらいいのでしょうか。
 学習方法を変えるには、自分が何を考えているかを知る必要があります。自分の認知に関わる認知のことを「メタ認知」と言います。
 ロシア武術のシステマでも、「汝自身を知れ」というキーワードが言われているようですが、自分が何を考え、何をしているのかを知ることが、学習プロセスを改善していく上では必要不可欠な要素になってきます。

 冒頭で挙げた例では、その門人は歩法の問題を解決しようという学習を行なっていましたが、その学習方法(鏡を見ないで行う)に問題があるとは認識していませんでした。
 決して努力していなかったわけではなく、ただその努力の仕方が少し違っていたのです。
 結果的に、その門人は問題に気づき、学習プロセスの見直し(鏡を見て確認する)を行いました。それによって、問題とされていた部分が本当の意味で理解され、問題は解決へと向かっていったのです。

 自身の能力を高め、技術を向上させていくには、たゆまぬ努力が必要です。それは、がむしゃらな努力ではなく、効率的な努力でなくてはいけません。
 それは一般的には、学校ではほとんど教えてもらえないような、勉強法に関する勉強法と呼べるものです。

 余談ですが、最近の研究では、小学生くらいの子供に宿題をやらせるのは百害あって一利なし、という見解が広まっているようです。
 それは大人が外側から押し付けることによって、子供が持ってる自主的な学習意慾とそれに取り組む時間を削いでしまうことのほうが多いから、ということらしいです。
 小学生時代にそれに気づいていた自分は、自主的に宿題をしなかったものです。(ウソです、ただのサボりです)
 子供、というより人間が持っている学習能力は、浅はかな考えがおよびもつかないものなのかもしれません。
 たとえば昆虫が好きな子供がいたら、そこから広がっていく世界を勉強していけるように導いていってあげるのが良いのでしょう。強制的に算数のドリルをやらせるより、「昆虫の繁殖による個体数の増減」について子供が自主的に研究しはじめたら、それはもう応用数学や生物学・社会学のレベルです。親にとっては未知の領域かもしれませんが、子供がそちらをやりたがっているのを喜んであげるのが本当の愛情だと思います。

 話がそれました。
 大人は、そこからさらに一歩先に進んで、その研究を進めていくためにはどうしたらいいかを、より能動的に研究していくことが可能です。
 メタ認知による学習法の改善は、それそのものが強力なツールであり、自身の修練を推し進めていってくれる原動力になるはずです。
 大切なことは、自分が何を考えているかを知り、何を見ているか、何を見たいと思っているのかを知ることです。


【なまけものの伝説】

 怠け者というと世間ではあまりいい意味に取られませんが、コンピュータのプログラミングの世界では、怠け者は腕のいいプログラマーである、ということが言われています。
 というのも、怠け者は自分が可能な限り楽をするための手段を考えるので、それによってプログラムを改良し、人の手を煩わせないものに進歩させていくことになるからです。

 そして怠け者は、楽をすることでできた時間を何に使うのでしょう。
 そのプロセスをさらに改善させることに使い、そうして学習プロセスはどんどんとレベルアップしていけるのです。
 日本では、コツコツと努力を積み重ねるのが美徳という観点がありますが、それは場合によっては怠惰な努力になるともいえます。
 プログラミングの例で言えば、同じものをひたすら打ち込むのは愚か者の仕事であり、真の怠け者はそれを省略して同じ仕事ができるプログラムを作ります。そうして効率化した仕事を「仕事をサボっている」と見る風潮はいかがなものかと思います。

 愚か者の、愚者の努力をいくら続けてもやった気になるだけで、愚者であることからは逃れられません。我々には、賢者の努力とも言える、努力することが最大限の効果をあらわす努力をする必要があるように思います。
 のんびりと「今日はできなかったけど、明日にはできるかもしれない」などと構えている時間はないのではないでしょうか。人生の時間は、怠惰に生きれば長いですが、使おうとすれば短いのです。
 現実として今日わからない、できないことは出てくるのは仕方ないですが、それでも、明日につながる何かを残していくような努力はするべきなのです。


【若者の思考】

 嫌でも体は歳をとり、肉体は変化していきます。それさえも、きちんと努力をすれば何もしないものとは比べるべくもないカバーができます。
 そしてそれ以上に、脳は思っているよりも神経細胞のレベルでは老化しにくいようです。
 もし歳をとったと感じるとすれば、それは自分の考え方が歳をとったのであり、頭を使わなくなったり、物事への興味を失ってしまったことの結果です。

 太極武藝館で太極拳を稽古する門人たちは、老若男女問わず、新しいことに興味を持ち、意慾的であり、年齢を感じさせない人ばかりです。
 稽古で年配の方たちが多い時に、師父が冗談で「太極老人館」などと言われることもありますが、それでも一般的な社会よりはイイ・・・と、思います・・・。

 どうかその美点を生かし、さらに伸ばしていく方向に向かっていきたいものです。
そして自分たちの手で、太極拳という高度な文化を残し、発展させていきたいと思います。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その38」の掲載は、9月22日(日)の予定です


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2018年05月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その36

  「整えるということ・暗号・真似をする」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


【整える】

 太極拳では正しく立つことが重要視され、身体のみならず、精神の軸もきちんと律していかないと習得は難しい、と言われています。
自分も、半ば盲目的に「整えなければ・・・」と思い稽古に取り組んでいたのですが、あるときふと、整えるとはどういうことだろう? と疑問に思ったのです。

 整える、ということは情報の観点でいえば物事の秩序の度合い、と解釈できますが、ではその度合いとはいったいどこから生じるのでしょうか?

 部屋の中で散り散りになった本を本棚に片付けるとき、そこには一定のルールが必要になります。本のサイズで分ける、著者で分ける、内容の関連性で分ける・・・それぞれの好みもあるかと思います。ただランダムに棚に収めるだけでは、それはしまっただけであり、整えたことにはならないといえます。

 では、人間の体も同じように整えることができるかというと、そうはできません。
そもそも人間の体はひとつにつながっていて、バラバラにならず、順番はすべて決まっています。
そうしてみると、人間とはすでに整ったものだと言えます。

 すでに整っているはずのものを、バラバラだと感じて、では整えようと好き勝手な基準を考える。それが、じつは人間の傲慢な考え方なのではないだろうか、とふと感じたのです。
 それでは、太極拳で言われているような「整える」とはどういうことか、自分の中で、最初から考える必要性が出てきました。


【暗 号】

 「太極拳とはコード、すなわち暗号を解くことだ」と、師父は常々言われています。
 色々指導されている中で、あるときふと、何かが分かることがあります。暗号の正解のひとつにたどり着いたということでしょうか。
 ですが、そのひとつがわかったからといって、暗号のすべてが理解できたわけではありません。せいぜい、知らない言語体系の中の単語ひとつの意味がわかった、くらいの解釈でしょうか。その言語が習得できたとはとうてい言えません。
 暗号のひとつを解くことによって、ひとつのヒントは理解できたかもしれませんが、暗号の普遍性を解いて、完全に理解したわけではないのです。

 ここで太極拳から離れて、いわゆる一般的な暗号を解くことを考えてみます。

 暗号とは、ある特定の変換法則によって、文章を別の状態に変えて、解読表を持たない人間には理解できないようにするものです。
 なにもヒントのない状態から暗号を解くには、その中に繰り返し現れる部分に着目し、それがなにを意味しているかを特定することから始められることが多いです。
 知らない言語を理解する、たとえば古代エジプトのヒエログリフを解読する場合でも、繰り返し現れる文字列がなにを意味するかわかったことが、解読のきっかけになりました。

 知らない街で知らない言葉を使う人々を観察していて、人々が知り合いだと思われる人と会うごとに「ンダバ!」と言っていたら、それはあいさつなんだろうなと推察する、というようなものです。「ンダバ」は適当に考えた言葉ですが。

 太極拳の暗号を解読する場合にも、それと同じ手法でアプローチできるかと思います。
 基本功や套路の中に繰り返し現れる要素を見極め、それが指導されていることとどう共通しているか、それを見極めるのです。

 そうすると、まるで関連がなかったかと思われるような動きの中に、共通の何かが、次第にみえてきます。そうしたら、それをヒントに考えていくことが可能なはずです。


【真似すること】

 さて、その上で、真似をすることの大切さについても考えてみたいと思います。
 真似をすることは、もちろん学習する上での心構えとしても大事なのですが、そことは少し観点を変えて、戦略として、数字の上でどれだけ有利かということを考えてみようと思います。

 暗号を解く上で、現れている繰り返しに着目せず、総当たり的に文字を当てはめて、意味がつながる文章が出てくるまでやる、というやり方ももちろん可能です。

 パスワードを解くとき、たとえばそれが四桁の数字でできる暗証番号だとしたら、
0000〜9999までの10,000個の数字の組み合わせの中に必ず正解があります。頑張ればなんとかなるかもしれません。
 では、それが7桁の数字だとしたらどうでしょう。
0000000〜9999999までの10,000,000個の数字の中に正解が含まれています。気が遠くなる数字です。
 そこにアルファベットまで含むとしたら、もうどうしようもないですね。
 だから普通、他人のパスワードを盗みたいクラッカーは、多くの人が使いやすいパスワードのパターンを使って攻めることをします。1234567など、わかりやすいパスワードは危険と言われる所以です。

 真似をすることの大切さとは、ひとつにはそれだけ、試行回数を減らすことができるからです。
 ランダムな数字をあてもなく入力していくのではなく、たとえばある特定の数字(誕生日など)が含まれている、とヒントがあれば、それだけ解けるまでにかかる回数は減ります。

 師父に模範を示していただくことは、極端にいえば、隣でパスワードを入力している様子を見ていることに近いのかもしれません。
 それはもう、ほとんど正解を示されているといっても過言ではないかもしれません。

 そこまで極端でなくとも、暗号の中に含まれる繰り返し現れる構文を、目の前で指し示していただいて、ここにも、ほら、ここにも・・・と教授されているようなものでしょうか。

 真似できない状態というのは、それらのヒントを一切顧みず、自力で総当たりによって暗号を解読することだとすれば、真似したときとしないときで、一体どれほどの労力の違いがあるか、一目瞭然だと思います。


【ふたたび整える、そして暗号】

 いくつかのことをざっと見てきましたが、最初の疑問に戻って、整えるということについて考えてみたいと思います。

 冒頭で、人間とはすでに整っているのでは、と書きました。そして暗号の話に続いたわけですが、ここでふと疑問がよぎります。
 自分はそれまで、太極拳が暗号だと思っていたところがあったのですが、もしかしたらそれは少し違うのではないだろうか、ということです。

 暗号は解読表があれば、読み解けるものです。
 自分が一番わからなければいけないのは自分自身、広く言えば、対峙する相手や周りの環境まで含めた、人間のことなのではないでしょうか。
 だとすれば、暗号というのは太極拳のことではなくて、広く人間全般のことを指し示していて、太極拳とは、暗号=人間を理解するための、解読表という意味があるのではないか、と思ったのです。
 しかし物事は単純ではなく、太極拳という解読表もまた暗号によって記されているとすれば、二重三重に理解しなければならないことがあるというのも、腑に落ちるものです。

 整えるということは、すでにそこにある暗号で記された自分から、どれだけ意味のある言葉を正しく解読できるかといえて、それは本棚を整理するときのように、好き勝手な基準で言葉を並び替えるのとは意味が違うといえるはずです。

 そして、暗号を解読するために繰り返し現れる言葉に着目するというやり方を、暗号という二元的な世界から離れて、時間や動きまで含めた動的な現象で表現すると、真似をすることと言えるのではないかと思います。
 イメージが平面から動的な立体になるので表現が難しいですが、まず真似をしないことには、そもそも疑問となっている解読したい暗号が立ち現れてこないと言えるのかもしれません。

 真似をすることは、もっと根源的なものであり、本質に迫るための手段とさえいえるのではないでしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その37」の掲載は、7月22日(日)の予定です


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2018年03月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その35

   「 思い悩むことなく」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 なにかに行き詰まったとき、まったく関係ないと思っていたきっかけによって、ぱっと視界が晴れ渡り、遠くが見えるようになることがあります。何かがひらめく分からなかったことが理解に結びつく、誰しも経験があると思います。
 その変化は、劇的な一瞬で起こることもありますが、時間をかけてじわじわと起きている変化、その一見わかりづらい変化こそが、実は本当は重要なものだという気がします。

 毎日、太極拳の稽古をしていると、自分が理解できていないことがたくさんあることに気付かされます。その度に、なぜ自分には理解出来ていないのだろう、と思い悩まされることもしばしばです。
 やっぱり、生活が便利になった「現代人」にはわかりづらいことなのだろうか、だとすれば何を見直さなければいけないのだろうか・・・。

 そう考えていたとき、武術とは関係のない本を読んでいていくつかの記述に行き当たったのです。それは、「まったく、最近の若者は・・・」と、ブツブツと文句を言っているおじさんの姿の描写でした。
 現代のおじさんではありません。古代ギリシャ時代のおじさんの話です。

 文献が残っている、古くはギリシャの時代から、中世ヨーロッパや江戸時代の日本、はたまた現代のSNSの中にまで、最近の若い奴に文句を垂れるおじさんは存在していたのです!
 つまりどの時代の、どの時間を切り取っても、その現在時から見れば常に世界は「もっとも変化に富んだ時代」に見えて、その時々に「特別な激動の時代」であり、そして振り返れば、過去に失ってしまった大切な何かがあった、というふうに見えるのです。

 時代と人は、常に変化し続けている、考えてみれば当たり前のことなのです。
 人々の意識や考えは当然、時代によって変わりますし、生活様式の変化も起こります。だけど、変わっていないこともまた同時に、数多くあるのです。

 つまり、何が言いたいかというと、武術に関しても、もし理解できないものがあったとしても、それは決して現代という時代のせいではなくて、どこまでも徹底的に、自分自身の責任だといえるのではないか、ということです。
 というのも、もしいつかはわかりませんが、「昔」の時代性が武術の真伝を理解する助けになっているのだとしたら、もっと達人がたくさんいてもいいはずです。
 道を歩けば達人に当たる、という世の中だとしたら、相対的に武術はより高度に奥深いものになり、そもそも基礎的な武術の嗜みは当たり前のものとして、生活の中に根付いていてもおかしくありません。

 それに似た時代が、昔の武家社会だった日本にはあったのかもしれません。
 しかし彼ら、武術を嗜んだ武家の人たちにしても、特権的な身分階級の中で、幼少期からの鍛錬で身につけた技芸であって、その時代性ゆえに容易に身についたものだとは決して言えないはずです。
 中には、「武芸で身を立てようとするも技を修めるに至らず・・・」というように志半ばで道を外れた人も、当然いたわけです。その人は、当時としては珍しい人だった、ということでしょうか?

 古今東西、達人のエピソードは枚挙に暇がないですが、流派や技法はともかくとして、彼らに共通して言えることがあります。
 それは、彼らは「とてつもなくたくさん稽古していた」という、身も蓋もない事実です。
 武術の真伝を知るには、まず稽古をしなければ話になりません。
 もし仮に、現代性を理由に武術が理解できないと言いたいのだったら、その原因は多分、しっかりとした稽古をする時間が不足しているからだと思われます。

 生活のためにどうしても時間を取られる、というのはもっともな理由ですが、歴史に名を残すような達人は、そもそも生活そのものをまるごと武術の稽古に充てられるような生活スタイルを選んで送っているような人たちです。
 現代の戦士であるプロの職業軍人、特殊部隊の人たちも、戦闘技術のトレーニングを絶えず行えるような生活を送っており、その逆の状態・・・生活ありきでトレーニングする時間がない、という状態とは、そもそも根本の発想からして違っています。

 生活があるからそこまではできない、と思ってしまうようだったら、そもそも本当にそこまでできないということなのかもしれません。どれだけしっかりとした稽古の時間を取れるか、それは本当に自己責任であり、逆に言えば、きちんと努力をすれば、もっと武術を理解することができるということだと思うのです。

 個人的には、稽古がうまくいっていないと思うときには、ただ思い悩むだけで、実はしっかりとした練習ができていないことが多かった、と思っています。

 うまくいかない → 練習に熱が入らない、だんだん嫌になってくる → 余計にうまくいかない →・・・というフィードバックループができてしまい、なかなかそこから抜け出せなくなってしまうものです。
 逆にうまくいっている(と思っている)時には、手応えを感じる → 練習に熱が入る → また手応えを感じる →・・・というフィードバックが起きているのだと思います。

 僕自身、かなり気分で浮き沈みがあるほうなので、「これはいけない」と、改めて自分のことを見直してみました。
 そうすると、面白いことがわかりました。
 うまくいっていると思っている時と、全然ダメだと沈んでいる時、やっていることの結果(わかりやすい例として言えば、対練での成否でしょうか)そのものは、別に大差ないのです。言ってみれば両方とも同じくらい成功も失敗もしているのに、ある時はうまくいっていることに目が向き、正のフィードバックが働き、ある時はうまくいかなかった方に目がいって、よりできなく、動けなくなってしまっているだけだったのです。

 自分がどんな状態でも、同じようにわかっていて同じようにわかっていなかったのです。
 しかし、最初のささいな違いの積み重ねで、フィードバックの仕方が変わってしまうのだとしたら、果たして、どのようにしていったらいいのでしょうか。

 僕はある時から、難しくてわからないと感じても、できるだけ思い悩まないように心がけるようにしてきました。
 うまくいっていてもいかなくても、考えることは考えるけど、結果については思い悩まない。これもまた、自分を挟まないことのひとつと言えるでしょう。
 うまくいってないときは、何がいけないのかわかるまではとにかくやるしかありません。
 どちらの場合も、人からは妙に自信満々に見えるようで、何かわかったのか聞かれると、
 「わかりません!」と自信満々に答えるのでずっこけられます。
 まぁ、それはそれ、です。

 ただひとつ、自信を持って言えるのは、自分ごときでは武術をわかったとか理解できたとかいえるようなところまで、稽古が全く足りていない!ということです。

 たしかに、一見平和な現代の日本では、武術を修得することはむずかしいのかもしれませんが、それは実際のところ、どれだけそれに自分を没頭させられるかの度合いの問題ではないでしょうか。身近に、隣に戦いがある、ない、といったことは、本当はただの理由づけにすぎないのだと思います。
 戦争をしている中でも、勇敢に「戦わない」人間というのも、いるものです。だとすればやはり、太極拳が理解できるかどうかは、周りのせいになどできず、ひとえに自分にかかっているのだと思います。
 しかしこれは、本当にそれを知りたい人間にとっては、福音なのではないでしょうか。
 自分の努力次第で得られる可能性があるのですから。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その36」の掲載は、5月22日(月)の予定です


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2018年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その34

   「 小能く大を制す」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 旧約聖書にも記されてる神話の時代、鎧で身を固めた巨人ゴリアテを倒したのは、ちっぽけな羊飼いの少年、ダビデでした。
 彼は、河原でひろった石を、向かってくるゴリアテの額に命中させ、彼を倒します。
 そして、ダビデは持っていなかったので、ゴリアテの剣を奪うと、ゴリアテの首を落としてしまいました。

 小能く大を制す、柔能く剛を制す。
 歴史は時に、とてもちっぽけな存在が、あまりに強大なものを打ち倒す姿を、我々に見せつけてくれます。
 盛者必衰、驕れる者は必ず天から罰せられるとでもいうのでしょうか。
 大きいものはたしかに優れた面を持っているかもしれません。ところが果たして、大きければ大きいほど良い、と言い切れるものでしょうか。

 先程もあげたとおり、歴史は我々が思うのとは違った姿を見せてくれます。大陸のほとんどを制するに至った大国が、いまでは影も形もなく姿を消してしまうということは、歴史上ざらにあります。かつて地球上を歩き回っていた恐竜たちも、今ではわずかな痕跡を残すのみとなってしまいました。

 一体、こういったことは何故に起きてしまうものなのでしょうか。とはいうものの、その理由は考えても仕方がないのかもしれません。原因はひとつではないでしょうし、それらの原因もおそらく複雑に絡み合っていて、単純に説明できるものではないはずだからです。

 憶えておかなければならないのは、長大で、強大になればなる程、外部から受ける影響は数を増し、また、それ自身の内側から来る影響も、大きさを増していくという事でしょう。
 大きなものが身を滅ぼす原因は、天から与えられたものではなく、たったひとつ、「それが大きかったから」なのかもしれません。

 ゴリアテは大きく、全身を鎧で固め、故に動きが鈍かった、などと解釈されています。
 本当のところはわかりません。とどめを刺すための剣すら持たないダビデに、自身の剣でやられたとすれば、それは皮肉以外の何者でもありません。
 ゴリアテは大きく、戦いに必要なものはすべて備えていた。ゆえに、彼は命を落としました。ダビデは何も持っていなかった。そして最後には勝利しました。

 これらの出来事や、歴史的事実などを思ったとき、僕の頭によぎったのは、やはり太極拳のことでした。
 力の弱く小さな者が、なぜ強くて大きな者を制することができるのか、でした。
 そこには、力を制する技術や戦闘法などを越えて、もっと根本的な原因、作用が潜んでいるのではないかと思ったのです。

 稽古をしていると、身体の使い方に関して、むしろ普通では使う必要のないところまで身体を、まるで「大きく」使うことが求められます。

 しかし、先人は、それらの使い方を「小架式」という言葉で残しています。
 もちろん、自分ではその片鱗に触れられるレベルにすら至っていないというのが実情ですが、しかし、それを「小さい」と表現したことに非常に興味をそそられます。

 まるで常識では考えられないことに取り組む場合、発想の転換がせまられます。
 小能く大を制すとは、小さいもの「でも」大きいものを制することが「できる」、というのではなくて、小さいもの「でしか」大きいものを制することが「できない」、と言えるのかもしれません。

 ささいな表現の違いに思えますが、これは実は論理的命題として、数学・科学的にも非常に大きな意味を持っている分野です。

 なぜかというと、こういった論理を、人間の頭はうまく扱うのが苦手だからです。

 たとえば、「四両撥千斤」という言葉があります。
 平たく言えば(先人の皆様、くだけた表現を使うことをお許し下さい)、力を使わなくても相手は吹っ飛ぶ、というところでしょうか。

 これを、「相手を吹っ飛ばすのに力を使ってはいけない」というのと、
「相手を吹っ飛ばすのに力を使う必要がない」というのでは、我々の受ける印象は大きく違ってしまうのです。

 特に、その言葉によって “目的地を探している場合には” 、です。

 少しわかりやすく例えてみます。
 まだ知らされていない目的地に行くために、「車を使ってはいけない」と聞いた場合と、「車を使う必要がない」と聞いた場合では、その目的地がどこにあるのかという印象が大きく変わるのではないでしょうか。

 幸いにも、本部道場は駅のすぐ近くにあり、目の前にはバスの停留場もあります。本数は少ないですが…。タクシーもすぐにつかまえられそうです。
 いやちょっと待てよ、バスもタクシーも「車」か?いやいや電車も大きいくくりでは車の一種だし、はたまた…。
 この際わかりやすく、条件は「自分で車を運転してはいけない」として考えよう。
 だとすれば公共の交通機関はOKとして、最近では自動車の相乗りサービスもあるし、レンタル自転車も探せばあるよなぁ。まてよ、飛行機で行くのが早いのか?

 「車を使ってはいけない」とした場合、このようなことがぱっと浮かんできたのではないでしょうか。
 “本来は” 車を使うべきところを、それを禁じられてしまったので、代替手段として、他の乗り物を探す、ということがです。

 では、「車は必要ない」といわれた場合は、どうでしょうか。
自然と、歩いてすぐ行ける近くとか、車がなくても行ける場所なんだな、と思いませんか?
あとはせいぜい、駅からすぐ近くの場所、などでしょうか。

 両方とも、条件は同じ、「車は使わない」と示しているだけなのにこれだけ違ったように感じてしまうのはどうしてなのでしょう。

 もしも、伏せられていた目的地が、(道場にいたとして)本部道場の入ったビルの上の階だったとしたらどうでしょうか。
 上の階に行くには、階段を使ってすぐです。

 目的地を知っている人からすれば当り前なので「まぁ、車は使わないよね」となります。当り前なのですが、車を出すあたり少し罠の匂いがしますね。嘘は言ってないんですが。

 それはともかく、目的地を知らされていない人たちの間では、こうしている間に様々な解釈が生まれてきてしまいました。

 車は使わない! 目的地に行くためには車は使ってはいけないということなんだ!
 では他にどのような手段があるだろうか?と。ちょっとしたお祭り騒ぎです。

 ある人は時刻表を調べ始め、効率的な移動を模索します。今の時代、スマホは便利でなんでも調べられますね。またある人は、では車でなければいいんだな、などと言いはじめ、画期的な新しい乗り物を発明しだしたりするかもしれません。人が乗れるドローンとか大流行りですね。

 その中で、もっともシンプルに考え、あるいは言った人のニュアンスを読み取れた人だけが、「ああ、車はいらないんだな」などと呟き、言った人とちらっと視線を交わし(その人はなぜか人差し指を立て、天井を差して笑っていました)そっと部屋を出て行くわけです。

 果たして、どちらが知的な姿でしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その35」の掲載は、3月22日(月)の予定です

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2017年11月23日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その33

   「 弱さに向かい合う」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


前回の記事に書いた体質改善の命ですが、期限内になんとかクリアすることができました。
出されていた課題は、約2ヶ月で体重を14キロほど落とすという、実にシンプルなものでした。
というのも、減量前の時点で体重90キロオーバーという、武術修行者にはあるまじきたるみきった僕の体を見かねて、師父が出した課題だったのです。
 
 2ヶ月で14キロ。
 
あらためて文字にしてみると、わりと難しい話に思われますが、バットマンシリーズで主役を演じたクリスチャン・ベールが映画「マシニスト」のために役作りで30キロ減量(その後バットマンのために6ヶ月で30キロのビルドアップ)したことと比べれば減らす量は半分以下です。
 
もう少し頑張らなければハリウッドデビューは叶いそうもありません。
 
 
冗談はさておき、今回の場合は、期限が決められていたこともあり、わりと短期間で目標まで持っていったわけですが、さすがにそれだけ体重が減ると目に見えて見た目も変化しますし、なにより体を動かしてみると、とても軽く感じるものです。
 
自分1人ではそこまでやろうとすることはできなかったと思うので、きっかけを与えてくださった師父に感謝しています。
 
さて、前回の記事でも書きましたが、それまでできなかった起き上がり腹筋ができるようになったり、体重を減量することができたりと、人間というのは変化することができるのだと、最近の出来事を通じて実感することができるようになりました。
 
 
前回と重複してしまう内容もあるかと思いますが、少し書いてみたいと思います。
 
 
人間のみならず、世界や環境というものは、たえず流動的に変化しています。
 
そこに生きている生き物は、環境の変化に対応できなければ、最終的には死滅してしまいます。
 
だからこそ、生きるための強さには、環境に適応できる強さが必要であり、変化できることが強みでもあるわけです。
 
 
人間の体について考えてみると、人間は常に細胞レベルどころか、原子のレベルで常に変化し続けています。食べたものが、数日のうちに体を構成する原子レベルで入れ替わっていき、自分という人間を構成していた要素は、短期間のうちに全て新しいものに入れ替わってしまうそうです。
 
当然、人間の考えを作り出す脳もその中で入れ替わり続けていて、しばらくすれば全く新しい自分になっているはずです。
 
なのに人は、なかなか自分の考え方を変えることができません。
 
これは一体、なぜなのでしょうか。
 
それは、パターンを変えられないためだと思います。
 
たとえば、いつのまにか体重が増えていってしまうのも、本当はいつのまにかではなくて、体重が増えるような生活を続けてしまったからです。
 
そこを見直して変えることができれば、自然と体重は落ちていきます。
 
簡単なことのはずですが、人間は一度馴染んでしまったパターンを、なかなか変えることができません。
 
ものの見方という点でも、一度こうだと思ってしまった見方を変えるには、相応の努力をしなければならないように感じます。
 
 
太極拳の稽古をしていても、いつのまにか「きっとこうに違いない」と思い込んでいることに気づいてハッとする、ということが毎回のようにあります。
 
本当は知らないことのはずなのに、あたかも自分が知っていることの中にあるように感じてしまい、そこからどうにかしようと解決策を考える。
 
そして、当然のようにそれではうまくいかないので、悶々とする。その繰り返しです。
 
 
一体、これまで何回このパターンを繰り返してきたことでしょうか。
 
このパターンを打破するためには、まったく違ったことをやらなければなりません。
それまでとは違うことをやることでしか、同じことを繰り返すパターンという殻は破れないのです。
 
 
その、やってみるという行為の中には、自分の考えを挟む隙間はありません。
 
そもそも考えを否定するためにやるはずなのに、考えながらやってしまっては、元の木阿弥というものです。
 
考えずにやる中で、うまくいかなかったらやめる。
 
じつは、ネガティブフィードバックを繰り返すことが、生命がこれまで絶滅せずに数十億年繁栄し続けている、自然界の最善手のようなのです。
 
 
ネガティブフィードバック、それは最強の手段といっても過言ではないかもしれません。
 
 
誰しも、強くなりたくて武術の稽古をしているのだと思いますが、そのためには否が応でも自身の弱さと対面しなくてはなりません。
 
敵は己の中にある、と言われる所以だと思います。
 
ところが、自分の弱さを知ることが、本当の強さにつながっていく。
 
それに気づいたことで、自分がどれだけ開かれる思いがしたことでしょうか。
 
上で書いたように、人間の体で新陳代謝が起きているのも、不要になった細胞を自身で切り捨てることで、別の細胞に入れ替わり、総体としての体は健康な状態を保つ、という仕組みが働いています。
 
考え方においても、これと同じことが言えます。
 
うまくいかないひとつのことを、あれこれいじくり回しているよりは、いくつもやってみて、その中でうまくいくものを取捨選択していくほうが、最終的に残るものは有効なものになります。
 
弱い自分というものは、どうしても見たくないものですし、できればそんなものは存在しなかったことにして、強い自分だけ表に立たせて飾っておきたい。誰しもそういう心が働くものだと思います。他ならぬ自分自身がそうです。
 
それまでの僕は、本当の強さについて考えるとき、何事にも動じない強さこそが強さなのだと思っていました。ところが、本当はそうではなかったのです。
 
弱い部分があるからこそ、それを乗り越えていくことで、人や、物事は、少しずつ強くなっていけるのです。
 
稽古をしていて、自分でも少し前とは変わってきたと感じるところは、言ってしまえばすべてたったこれだけのことが理由で起きたといえるかもしれません。
 
 
痩せろと言われたらやせる。
 
起き上がり腹筋をやれといわれたらやる。
 
 
道場にいる人はわかるかと思いますが、なにもかもいきなり出来たわけではありませんでした。
 
起き上がり腹筋に関しては10年はダメでしたし、減量に関しても、ずっと以前から走れと言われ続けていて、それでもうまくいってなかったのです。
 
ではなにがきっかけだったかというと、それまで言われ続けてきたということもあると思いますし、師父が仰るんだからきっと何かあるに違いない、と遅まきながら気付いたのかもしれません。
 
自慢しているわけではなくて、本来はやらなければいけないことから単に逃げ続けていただけなので、全くほめられたものではないのです。
 
 
しかし、それらのことが自分にとってはきっかけになったのは本当のことなのです。
稽古をしていて、それまでわからなかったことが急に分かるようになった、ということではありません。
 
ただ、稽古をしているとき、師父の動きを拝見しているとき、それまで気付かなかった「これではダメだな」という、
自分の姿が少し見えるようになった気がするのです。
 
取り組み方への考え方でしょうか。
それが果たして、理にかなったやり方なのか。そう思えるようになり、これもまた少しずつ変化を起こしているように感じます。
 
 
自分で感じる変化は非常に些細なものなので、太極拳に限らず人生全般で、本当は「こんなのでいいのか」と思うところもあります。
 
弱音を吐き続ければ、一晩は語り明かすことができそうです。
 
ただ、それとは別に、自分の中に、そんなものは一切置き去りにしてやっていけそうな力があるのも同時に感じています。
 
一足飛びに強くなったり、成長することはむずかしいことだと思います。
 
朝起きたら達人になっていた、なんてことはありません。
 
アメーバみたいな生き物からいきなり人間が生まれるのはほとんど不可能のように思えますが、段階的に進化を重ねていくことで、最終的には不可能とも思える人間が生まれ、さらにそれが進化していく可能性も見えてくるのだと思います。
 
 
多くの人は、なにかを成し遂げようとして夢見るのは憧れの姿であり、それと自分を見比べて、とてもそれはできそうにない、と諦めてしまうのだと思います。
 
本当はそこに至るまでの道筋があるはずなのですが、それが普通にはわかりません。
 
だから、そこに到達するのがまるで不可能なように感じるのだと思います。
 
だからこそ、段階的に成長していける体系があるということは、本当にとてつもないことであり、それこそが本当の意味での宝なのだと思います。
 
とはいうものの、では教わればそれで全てができるかというと、全くそんなこともないのも事実だと思います。
 
教えてもらうことができるのは、道の歩き方であり、歩くべき道です。
 
実際にそれを歩くのは、自分であり、自分の脚を動かさなければならないのです。
 
おまけに、教えていただいた道は、自分の考え方という草木が覆い、一見するととても道のようには見えないのかもしれません。
 
そのため、最初にその道を行く冒険者のように、自分の手で道を切り開いていくという意志が必要になるのかもしれません。
そして、そこを歩いていけるのは、自分の力で、自らの脚でのみ、です。
 

                                  (了)



 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その34」の掲載は、1月22日(月)の予定です

disciples at 11:33コメント(15) この記事をクリップ!
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