今日も稽古で日が暮れる

2021年03月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その53

 『味噌の味噌臭きは上味噌にあらず』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず…」

 以前稽古中に、師父が我々に言ってくださったことわざです。その時には、細かい意味の説明などはなかったと思うので、発言の真意は個々人がそれぞれで味わってみよ、ということだったのだと思います。

 味噌を武術に置き換えて考えてみると、武術然とした武術は高級武術にあらず、といったところでしょうか。

 これは、最近師父に指導していただいている、「太極拳みたいな動きをしない」ということと通じる部分があるのではないかと思います。
 我々が基本功や歩法、対練をしている時、いかにも武術らしい動き…力強く、居付きや蹴りを使った素早い動きが出てきてしまいます。師父の動きを比較させていただくと、それはまるで舞でも舞っているかのように軽やかで、むしろ一見すると武術らしくない動きと見えなくもありません。

 我々は、そもそも武術の本当の動きを理解できておらず、それでいて自分の中にある武術観を完全には捨て去ることができず、大なり小なりそれを引きずったまま稽古に臨んでしまっているように思います。
 それを捨て去れることこそが、真に上達していける道なのではないかと思うのですが、言うは易しで、それを行動に移すのは難しいものがあります。

 ことわざの通り、味噌臭い味噌は食べられたものではありません。それなのになぜ、その味噌臭さを我々は武術性だと信じて疑わないのでしょうか。


 先日、師父が非常に興味深い話をしてくださいました。
 ところで、師父のお話はいつも一見関係なさそうなところから始まり、それが順を追って進んでいくと、最終的に明確な答えに辿り着きます…。
 師父のお話を聞いていると、とても短い時間の中に、明確な一本の筋道が見えて、そして最後の結論に至った時の爽快感は、まるで質の良いミステリ小説を読んだ時の気持ちになります。考えてみればそのように繋がってくるのに、最後に至るまでそういう発想は出来ず、そう来たか!とつい膝を打つような気分になります。

 さて、先日お話ししてくださったのは、「武術には狩猟のセンスが必要である」と言うものです。
 人類の発展の歴史を紐解き、狩猟の時代から個人の貯蔵が始まり、そこから争いが始まったと言う話をしていただきました。誰かが自分より多くのものを持っているから、それを欲する心が起こり、そこから争いが生じる。奪う側も、奪われないように守る側も、戦いの手段が必要になり、そこで狩りのセンスが必要とされると繋がっていきました。
 また、個人の所有という概念が生まれ、誰かとの比較で優劣を生じさせるようになり、そこからそれまでにないもの、俗っぽさが生じるというのは、非常に示唆的な話だと思いました。
 
 俗っぽさ、世俗的な思考に満ちた頭では、到底太極拳をとることはできない。

 師父ははっきりとこのように仰います。
 というのも、俗に塗れた中では、天才のセンスは生じず、生じたとしても世間から抹殺されてしまうもの、だとおっしゃいます。
 武術で必要な感性、閃き、センスは俗世で生きる中では必要とされず、埋もれてしまうのかもしれません。
 人類が狩猟の時代から貯蔵・農耕の時代へと変遷していく中で、それまでにはなかった他者との関わり方、社会性が生じてきたと想像できます。社会性で必要とされることは、狩猟の時代に母なる大地との関わりで必要とされてきたこととは、大分異なっていたのではないかと思います。

 「狩りのセンス」が必要という話をされた時、自分の頭には、受容性というワードが浮かんできて、それとつながりました。
 人間が生きていくために狩猟を行う時、獲物=恵みを与えてくれるのは、いつだって自分以外の自然、大いなる他者であったはずです。
 そして、その母なる自然が分け与えてくれるものを頂く=受容性という感性が今の人間よりも強かったのではないかと思います。

 狩猟では、どれだけ個人で足掻いても、自然から与えられるもの以上のものを得ることはできないはずです。かといって、何もせずに待っているだけでは、ただ飢えて命を落とすだけです。
 獲物を得られても、必要なだけの量で終えなければ生態系のバランスは崩れ、最後には自分たちも生きていけなくなります。
 そこでは、積極的あるいは能動的な受容性とでもいうものが必要とされていたのではないかと思います。

 現代でも、狩猟採集社会を営んでいる文化をみると、必ず自然に感謝を捧げる儀式が執り行われています。それは自然からいただいたものへの感謝であり、それが人間にとっての、芸術の始まりなのだと思うと示唆的なものがあるように感じます。
 最近も、人類最古の壁画が発見されたと話題になりましたが、それらは不思議と、人間と動物が描かれたものが多いのです。これは偶然なのでしょうか。

 太極拳を稽古することと照らし合わせてみると、どうなるでしょうか。
 自分でこうだと思い込んだことをやるのではなく、示されたことをきちんと受け取る。
 そして、ただ教えてもらうのを待つだけでなく、積極的に自分から取りにいくこと。

 それはあたかも、狩猟において生きるために獲物を持ち帰ることと、共通しているのではないかと思うのです。

 また師父は、老子の『道(タオ)』の思想も例に挙げて我々に話してくださいました。
 人間はここに存在としてあること。今、ここに生きていること。

 その時の自分には、それもまた、狩猟の話と関わったものとして響いてきました。
 獲物を狩るとき、明日の、明後日の生活はどうなるだろうと未来に心配を馳せたりはしないはずです。ただ、目の前にあるものと関わり、そうして獲物を追っていくことしか頭にないはずです。
 先の心配はしても仕方なく、与えられるものは母なる自然から与えられる。
 偶然か必然か、『道』の考え方に当てはまるように感じられます。

 老子は、確かに人の関わりの中で生じる社会性という面からみると、それらの決まり事を根底から破ってしまうような厄介者に感じますが、もっとプリミティブ・原始的で素朴な人間の営みという面から見れば、決して破綻しているわけではなく、むしろ自然の本質に迫るものではないかと感じられるから不思議です。

 また師父は、老子と同様に人々に生き方を説いたキリストの話も例に挙げてくださいました。

 1日の終わり、捕らえた魚を持って帰ろうとする男に、キリストが声を掛けたそうです。

 師父は、「その男はどうするだろうか」と我々に問い掛けます。 
 魚が痛むからと、そそくさと帰ってしまうでしょうか。
 もしくは、話を聞くものの「また後日」と去ってしまうのでしょうか。

 それとも、獲った魚や他の全部を捨てて導きに従い、キリストについていくでしょうか。

 そして、その行いは、社会的に見て正しくない、と非難されるべきなのでしょうか。 

 社会性=俗っぽい目で見てしまうと、本来そこに見出せるはずの自然的な営み、原理が見えなくなってしまうのではないかと思います。
 それはまさに、自分の考えを盲信して稽古を繰り返し、本当に示されているものが見えない我々の姿そのものを指し示しているのではないかと思います。

 味噌臭い味噌は、食べられたものではありません。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その54」の掲載は、5月22日(土)の予定です

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2021年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その52

   『純粋に』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 先日、稽古の帰りに、門人の I くんがこう言いました。

「僕にとって、太極拳は生き甲斐です」

 人生で、生き甲斐と断言できることに出会えるのは、素晴らしいことだと思います。それは人生を惰性で過ごし消費してしまうものではなく、人生を通して自分を磨いていくことに使える、素晴らしいものだと思います。

 昨年一年間、道場へ稽古に通う傍ら、ブログ記事「今日も稽古で日が暮れる」を書かせていただきました。
 それらの中でも常々触れさせていただきましたが、太極拳を稽古していく中で大事なことは、師父がどのように考え、行動されているのかを理解し、それに合わせていけるかという点ではないかと感じておりました。

 先日、たまたま見かけた科学ニュース記事の中で、ニューヨーク大学の研究について書かれていました。それによると、授業中の教師と生徒の脳は同期しているそうで、さらに、生徒の脳波が教師の脳波に似ていれば似ているほど、授業の理解度が高いことがわかったそうです。
 情報元の論文を当たったわけではないので、詳細はわからないですが、おそらくその通りなのだろうという気はします。
 自分で稽古をしていて、また他の門人が稽古に取り組む様子を見ていても、まさにその通りと思えることが実際に感じられます。
 示された太極拳の技法ひとつひとつが理解されることで上達するというよりは、その示された技法が、どのような理論・背景によって成り立っているのかを理解することが上達につながるのではないかと思います。
 そこで示されたことがそのまま出来なくても、師父が何を言わんとしているのかがなんとなく分かる…それによってのみ上達できるのではないかと思います。

 師父が常々「考え方が大事だ」と仰ってくださることは、そういう意味も含まれているのではないでしょうか。
 考え方が合っているということは、発想の仕方が同じということであり、考えを生み出す脳も同期した状態であると言えるかと思います。その状態で、武術的な動きをしようとした時、そこから導かれる動きは、それもまた師父の考えと同期した動きになる可能性は高く、それによって太極拳の動きが再現され得る、と繋がっていくのは論理的にもあり得るのではないでしょうか。

 師父に指導して頂いている太極拳は、非常に科学的・論理的で、一見すると神秘的な現象に見えるようなことも、きちんと条件が整えば再現性のある現象であると感じます。
 師父が太極拳を教わる時、「一度しか示してもらえなかった」という話をしてくださいました。それに比べて我々は、何度も技を示して頂き、事細かに説明までしていただき、それでも十分には理解しきれないという体たらくで情けない限りです。
 師父のように、一度示されただけで理解していけるよう、心身ともに研ぎ澄ませていかなければいけないと反省と精進をしております。

 技を教示して頂く際、師父や玄花后嗣に何度も何度も技を掛けていただくという機会が自分にはありました。技を掛けられることは非常に幸運なことで、そうやって体で覚えていくのだと、師父に伺ったことがあります。
 そこでふと思ったのですが、世界的に見ても太極拳の真伝が非常に稀な存在である上に、その技を自分のような一門人が何度も体験させていただくということは、これはもう歴史的に見ても稀な出来事なのではないでしょうか…?
 というのも、最近特に感じるようになったことなのですが、稽古中に対練で崩される時、明確なパターンがそこに存在すると認識できるようになってきたからです。
 体が散々崩され続け技を受け続け、その先にようやく頭の理解が追いついてきたという感覚です。
 それは不可思議な現象ではなくて、ある状態ではこちらの体が特定の反応を示していて、それに対して別の変化が加わるとこちらが対処できないというように、極めて論理的な現象だといえます。

 師父はよく、太極拳を「手品」と例えてお話をしてくださいます。手品・マジックにおいては、それがどれだけ不可思議な現象に見えても、必ずタネがあります。
 ある特定のポイントに人の注意を集めておいて、気づかれない裏で別のことをしている。それがある時、表に出てくると、人々は驚きます。
 マジシャンの腕前、見せるトリックの難易度など、様々な要素があるにせよ、見ている人のミスリーディングを誘うというのは、根本的なネタではないかと思います。

 太極拳においても、それと同じ状態が、相対している中で生じているのだと思います。
 もちろんそれは、格闘技のようなフェイントを仕掛けるという話ではありません。人間の生理現象、反応のもっと深いところで起きている繊細な現象を利用しているのだと感じます。

 さて、もし太極拳がそのような、手品のような人の虚をつく現象を利用しているとして、それを理解するにはどうしたらいいかという話になるかと思います。
 そのために、最初の話に戻りますが、考え方を合わせる、脳を同期させるしかないのではないかと思うのです。
 もし本当に太極拳が手品のように人を驚かす技法と共通点があるとして、ではその手品で人を驚かせるにはどうしたらいいでしょうか。
 そのためには、まず自分が、手品で純粋に驚く必要があるのではないかと思います。

 よく、手品やマジックを披露されている時に、手品の出来ない素人で「看破ってやろう」として見ている人がいます。
 そういう人は、拙い手品なら見破れるでしょうが、プロが本気で仕組んだ手品は絶対に見破ることが出来ません。
 問題はその先で、手品を見破ろうとしてきた人は、実は、手品で驚くということがわからないので、手品のトリックは分かっても、それを使って人を驚かせることができません。
 プロのマジシャンというのは、いくつものトリックを使えるからプロなのではなくて、人が「驚くこと」が分かるから、プロとしてやっていけるのではないでしょうか。
 人が何に驚くかが分かれば、そこから新たな仕掛けを考えることが出来るでしょうけれど、その逆ではないのではないかと思います。

 太極拳の稽古中でも、対練において、看破ってやろう、技を効かないようにしようという態度で挑むと、分かるべきことが分からないと体験として感じます。
 一番上達が早い人は、技を技としてきちんと受けられる人で、手品で言えば素直に、ただ純粋に驚くことが出来る人だと思います。
 自分が驚くことが出来るために、驚くということがどういうことか理解でき、それはつまり人を驚かすこともできるということではないかと思います。

 同じものを見て味わっていても、その人間の見方ひとつで物事は変わってしまうのだと思います。では、そこで何を選択するかで、物事も即座に変わるのだと思います。

 自分が何を選んでいるか自覚的になって、生活まで含めて稽古として取り組んでいきたいと思います。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その53」の掲載は、3月22日(月)の予定です

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2020年11月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その51

  『わかるかな』

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「…わかるかな」

 あなたは、それが「わかりますか」?…。師父が我々に何かを話してくださる時、いつも発してくださる問いかけです。

 師父が我々に何か指導してくださるとき、師父はそれが「出来るか」と問うことはありません。
 師父に「わかるかな」と問いかけられたとき、私はいつも自分自身の内側と向き合い、自分が何を感じ考えているか、外側をどのように見ているか、ということと直面することを求められているように思います。

 また稽古中、何かに気づいたとき、それまでに見えなかったものを見たとき、師父は一言、「わかったか」と仰ってくださいます。
 それによって、また自分自身と向き合い、それまでの自分との違い、確かに芽生えた手応えを感じることが出来ます。

 理解することと出来ることには、隔絶の違いがあるのではないかと、自分で稽古をしていても、また、どんどんと理解していく他の門人の取り組み方を見ていても感じます。
 厳密に言えば、理解せずに出来ることはないかと思います。ですが、その時点で要求されている事柄をクリアすることを目標にするのと、何かを理解することを目標にするのでは、大きな違いがあるように思います。

 思い返せば、自分自身を形成するのに非常に大事な幼い頃から、我々は学校で行われる評価のシステムに慣れすぎてしまっているのではないかと思います。
 その中で求められる、「勉強ができる」「良い成績が取れる」ことと、太極拳を「学習していける」「理解できる」ことで稽古していくことは、全く違ったことなのだと、最近は特に強く感じています。

 理解できることは、非常に経験的なことで、体感的、現実的なことなのではないかと思います。
 理解が生じると、頭で「なるほど」と思うだけには収まりきらず、気づいた瞬間には思わず膝を打つような体の動きを伴います。それまで繋がっていなかったことが結びついたかのような、実際的な手触りまで、自分の場合には感じられます。ぼやけていた輪郭がはっきりとした瞬間、確かに自分はそれまでのものとは変わったのだと、体感させられるのです。

 師父はその瞬間を見逃さず、「わかったか」と声をかけてくださります。
 …もしくは、わからずに首を捻る我々に「わかったか?」と問いかけて下さるのです。

 先日も、師父のお話を伺っているとき、「わかるだろうか」という問いかけを聞く度に、自分は嬉しくなってしまっていました。というのも、師父の言動には全て必ず、太極拳の理解につながる要素があると感じているからです。
 その師父からの、「わかるだろうか?」の言葉…。
 それはあたかも、「ここに宝があるのだけど」と示されているかのようにさえ思えるのです。

 学校で誰かに評価され、自分の価値を決められるかのような経験をしてきた我々にとって、わからないことはネガティブな響きを持っており、わからないことは誰かに劣ることであり、自分の居場所さえないのだと言われているかのように感じられる部分もあるのではないでしょうか。
 ですが、師父の「わかるだろうか」という言葉には、そうした後ろ向きなニュアンスは全く含まれていないのではないかと思います。
 「なぜわからないのだ」と我々を責め立てるような意味は微塵もありません。
 わからないのだとしても、その「わからない」自分と向かい合っているだろうか? わからない原因が「わかるだろうか?」 と、いつも自分と向き合うよう、指導してくださっているのだと感じます。

 「わかる」ことと「わからない」こと、こうして書いていると、まるで禅問答のようにも感じられます。
 以前師父が話してくださった、ある禅のマスターの話が強く心に残っています。

 その師匠は、悟りを理解できていない自分の弟子を、ある日、杖で殴りつけて殺してしまいます。
 驚き見開かれた弟子の目が師を捉えた、命を落とすその瞬間、確かに彼は、師の行動を通して何かが「わかった」のだそうです。
 理解、それは一瞬で起き、そして全てを理解した状態で、弟子は命を落とします。
 そして、そうなることもまた、師にはわかっていたのです。

 現代的な解釈で見ようとするには、野蛮に映る話かもしれません。
 ですが、理解する、わかるということはどういうことなのかを、非常に鮮烈に体験させてくれるかのような話ではないでしょうか。

 同時に、わかるためには全てを投げ出す覚悟があるかを、改めて自分に問われる話ではないかと思います。
 その弟子は、悟りを得るために、自分の命さえも投げ出すことを選んだのです。それは師匠の手によってでしたが、これほどまでに強烈で、一瞬で得られる理解、そして命を落とすまでのほんの一瞬の出来事を自ら選んでいたに違いありません。
 そして、その覚悟と行動があったからこそ、師匠と弟子には共通の理解が確かに生じたのではないでしょうか。

 師父の「わかりますか」という問いかけは、極端な話、太極拳がわかるかと問いかけているわけでもないのではないかと思います。
 というのも、先日も稽古で「そんな太極拳みたいな動きはしなくていい」という言葉があったからです。
 太極拳の稽古をしにきているのに…? と、疑問を持つ門人は、おそらくもうその場にはいなかったかと思います。
 むしろその言葉によって、自分の中でどれだけ勝手な太極拳のイメージが出来上がっていたかを、改めて実感したのではないかと思います。少なくとも、自分にとってはそういう経験でした。

 禅のマスターによって命を落とす瞬間、その弟子は何が「わかった」のでしょうか。
 師父は我々に、何が「わかりますか」と尋ねるのでしょうか。

 その問いの妙味、深みを、もっと味わっていきたいと思いました。

                                (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その52」の掲載は、2021年1月22日(金)の予定です

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2020年09月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その50

  「身につく」ということ

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 武術において求められるのは、ノートに正しく記述された教えを丸暗記して間違えずに言えることではなくて、実際にその教えによって、体が動けることではないかと思います。
 そのためには、道場で指導していただいたことをただ大切にしまっておくのではなく、それをしっかりと正しく理解し、身につくまで自分で稽古する必要があるかと思います。

 要点だけを抑えて理解した気持ちになる、もしくは、道場で示されていることを聞き、理解したつもりになって実際にはそれが反映されていないということは、普段の稽古をしている中で、気を付けているつもりでも、いくつも出てきてしまうことがあります。

 先日の稽古で、玄花后嗣と自分の他に誰も門人が来ないという珍しい(幸運な!!)日がありました。その為か、師父より「1つだけ教えてあげなさい」と玄花后嗣に指示があったとのことで、特別にひとつだけ見ていただくことが出来ました。

 他の門人の皆さまの反感を買わないように先に言わせていただきますが、そこで教えて頂いたのは、特別な秘伝などでは全くなく、その前の日の一般クラスの稽古でも玄花后嗣が言葉にしており、動きとしても示していただいていたような内容でした。
 唯一違ったのは、それをどのように見て、どのように行うかという、本当に些細な一点だけでした。
 説明をすれば「たったそれだけ」とも感じられるような内容ではないかと思います。しかし、それを意識せずにやるときと、意識してやったときの違いは、自分の体感的にはものすごい違いがあったということだけは言及させていただきます。

 自分=太郎冠者にとって足りないところ、というポイントを絞っていただいたというのも大きかったかと思いますが、これほどまでに違うとは…と、唖然としてしまいました。
 歩くとき、歩法を行うときに捉えたいはずの部分が、少し外れてしまうという自分の問題があったのですが、その些細な捉え方の改善によって、大きな違いが生じました。
 そのことを伝えると、玄花后嗣がにこりと笑いながら、
「お宝はどこにでも転がっている。けど、それと一緒に転がっていてはダメですね」
という師父の言葉をお話してくださり、苦笑いをしてしまいました。

 お宝はどこにでも転がっている…これは本当に嘘ではなくて、道場での稽古の間中、気づいても気づいていなくても、本当に大切な教えはどこにでもあるのではないかと、改めて痛感させられた出来事でした。
 思い返してみると、その日、自分が指導していただいたことは、それまでにも師父や玄花后嗣の動きの中に、しっかりと現れていたことが思い出されます。隠されることなく、それは示していただいていたことだったのです。同様に、それはどのような状態なのかというのも、一般クラスの中でさえ、言葉として示していただいていたのです。ですが、それを正しく結びつけ、理解に至るという部分が足りていなかったのです。
 これは完全に、見ている側の、受け取り側の問題であり、それこそがその修行者…自分の理解の度合いの現れであると言えるのだと思います。

 指導していただいた後、「確かに示していただいていたのに、どうして気づけないんでしょうね」と自分が言うと、
「だから、真伝を正しく理解した指導者が必要なのです」と言っていただき、大いに納得できました。
 ほんの些細な違いで理解がまるで180度も変化してしまうのですから、すごいことでもあり、本当に恐ろしいことでもあると思います。
 わずかな思い込みで生じる理解の不完全さ、ほんの小さなことで、それ以降の伝承が変わってしまう可能性があるのだとしたら、どれだけの精度で勉強をしていかないといけないのかが、それだけで想像ができます。

 師父にずっと言っていただいている、『自分を挟まずに受け取ること』…。
 それこそが本当に大事なことで、そこにあるはずのお宝を、本当にお宝として受け取ることができるか、そうではないかを分ける分岐点になっているのだと思いました。

 この出来事は、自分にとっては教えていただいた内容による自身の変化という点も重要であったものの、何よりも、自分がどのように普段の稽古を見て受け取っているのかを改めて問われるという、大きな出来事であったように感じました。

 自分を挟まずに、教わっていることをどれだけ稽古できているでしょうか。

 稽古中、他の人がどのように稽古をしているかという点にも関心があり、それとなく盗み見たり、何を稽古しているのかをそっとメモしておくということを続けたりしていました。
 最近、メキメキと上達されているAさんなど、僕にとっては本当に大切な盗み見…もとい勉強の対象であるのですが、そのAさんもまた、他の人の様子を僕以上に良く見ており、そして稽古に取り組む姿も、自らが何をしようとしているのか、じっくりと向かい合っている様子が見て取れるように感じます。
 Aさんからは、道場で指導して頂いていることを、余計なことを挟まずに取り組もうとされている様子が見えて、その取り組んでいる様子が自分にとっては本当に勉強になります。
 Aさんと対練で相手をさせていただくと、それまでの稽古で培われてきた動きが、そっくりそのまま現れているのが感じられます。
 何日か経ってまた対練をすると、前にあった動きはそのまま、さらに精度を上げて動きが変わっているのが感じられます。
 これが、稽古が「身につく」ということなのかと、その時に思いました。

 何よりもAさんの身についているのは、勉強の仕方なのではないかと思います。自分を挟まずに、示されていることを見聞きし、それを稽古し、それによって自分の体が動くようになること。そしてまた新たに示されることを勉強していくこと。ごく当たり前のプロセスですが、知っているのと実行できるのでは、隔絶の隔たりがあるかと思います。
 見せていただいているもの、勉強させていただいているものを大切にし、自分はどうなのだろうかと、日々自問する毎日です。

                              (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その51」の掲載は、11月22日(日)の予定です

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2020年07月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その49

  「情熱を持って」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 本気で何かを習得したいのなら、それに対して情熱を持たないことには、始まらないと思います。
 自分にとって師父は、ただ太極拳の師というのみならず、人として、男として、多くの大切なことを教えていただける人生の師と言える存在です。

 師父が以前、「情熱を持って」取り組むのだと、説いて下さったことがありました。
 その言葉には、ただ熱意を持つといったことや、熱心にやるといったことを超えた深い意味があるのではないかと思いました。

 自分が感じたのは、情熱には必ず行動が伴うのではないかという点です。口先だけの情熱…など、言葉にしただけで矛盾があるように感じられます。
 どれだけ熱心にやろうとしている、思っていると言ったところで、それが行動に結びつかないことには全く意味をなさないのだと思います。

 師父の言葉に重みを感じる一番の理由は、何よりも師父が「行動の人」だからです。
 数十年に渡る武術稽古という途方もない営みも当然のことながら、何か行事を行うとなったら、一切手を抜くことなく準備を行い、それを実行されます。
 太極武藝館の歌を作ると聞かされた時も、非常に驚きました。
 忙しい日々の合間を縫って実際に歌を完成させ、我々門人に自ら指導までしていただき、みんなが歌えるようにしていただきました。
 このような武術の師など、他に聞いたことがありません。ですが師父はそれを考え、実行に移されるのです。

 最近では、ご多忙のため道場に来られない時でも、スマートフォンを使ったテレビ通話を利用して指導をしていただくこともあり、常識に囚われない姿には、本当に驚かされます。
 中には「そんな指導で上達するわけがない」と思う人もいるかもしれませんが、実際に師父に指導を受けた人にポンポンと崩され投げ飛ばされるということを自分で味わうと、その結果に目を向けざるを得ません。

 それも全て、師父が理論的・科学的に太極拳を解明しており、何をどうしたらどうなるということを理解されていることの証明に他ならないのだと思います。
 そして、こういう文明の利器を利用することもいとわず、我々に指導をつけてくださるという師父の行動そのものが、師父が情熱を持って太極拳に取り組んでいらっしゃることの現れではないかと思います。
 その姿にこそ、我々門人は、何よりも多くのことを勉強させて頂いているのではないかと思います。
 師父のように太極拳に向かえているだろうか? と自分自身に問わない日はありません。
 口先だけ、うわべだけの情熱になってないだろうかと、常に自問自答しなければならないのだと思います。

 何かを理解することもまた、結果的には行動を変えることにつながることではないかと思います。
 太極拳の原理を頭で理解したということは論理的にありえず、理解が起これば、少なからず自らの動きに変化が生じるはずであり、そうでなければ本当の理解には至っていないと言えるのではないかと思います。
 このことは、自分を知的馬鹿へと誘う甘い誘惑と戦う時に大いに役立っています。

 極論すれば、本当に情熱を持って何かに取り組むとき、そこにあるのは「やる」か「やらない」かの2つだけであり、その間に「やろうとしている」というものはないのだと思います。
 やろうとしていると思っている間は、実際にはやってはいないはずです。
 実際に行動を起こしていない人間が、それに情熱を持っていると言えるのでしょうか?
 そうは言えないはずです。自分のこととしてもそう思います。

 世の中にはいろいろなことがありますが、どうしても興味を持てないこともありますし、特にやる必要を感じないこともあります。それらのことをやろうとは思いませんし、当然、情熱など持っているはずもありません。
 情熱を持たないものに関しては、変化を望まないものです。
 だからこそ、目標に向かって取り組んでいるはずの人間は抱いていて当たり前のはずの情熱について、師父はあえて我々に問い直してくださったのではないかと思います。
 自分の中で何かが袋小路に入り込んでしまった時、最後に照らしてくれるのは、自分の中にある光だけではないかと思います。本当に大事なこともまた、そのようにして見つけ出していかなければならないのではないかと思います。

 師父が「太極拳の構造はすでにそこにある」という話をしてくださったことがあります。
 何かを作っていくのではなくて、すでにそこにあるものを見つけ出して、磨いて使っていけるようにすること。それを行うためには、情熱を持ち、実践し続けることが必要不可欠なのだと思います。

 師父が行われることには、太極拳には繋がらない無駄なことは含まれていないように感じます。
 先日も、稽古でわからない部分で悩んでいた時、ふと浮かんできた太極武藝館の歌の歌詞に、とてつもないインスピレーションを受けたことがありました。
 稽古中にぶつぶつと歌詞を口ずさむのは怪しいことこの上なかったかもしれませんが、どうしてもわからなかった部分の解決の糸口が、その歌詞によって少し見えてきたのは紛れもない事実です。

 歌を作ると聞かされた時にはピンと来なかったものが、こうして稽古へと繋がってくるのは、まさに陰陽虚実が流転する太極の在り方だと感じられます。

                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その50」の掲載は、9月22日(火)の予定です

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