今日も稽古で日が暮れる

2021年08月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その55

  『意識的に見ること』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古をする上で、ただ漫然と数や時間をやればいいわけではない、とは常に注意されることです。
 では、意識して稽古に取り組むとは言いますが、何も知らない、味わったことのない状態で、果たして最初に何を意識したらいいのかという問題があるかと思います。

 よほどの天才でもない限り、何もないところから武術を創出するのは簡単なことではないはずです。だからこそ、我々には先人から授けて頂いてきている、代々培われた理論があり、それを学んでいくために守っていかなければいけない体系があるのだと思います。

 意識的に稽古に取り組むためには、まず何よりも自分に対して自覚的であること、認識をきちんと持っていることが必要だと思います。そして、何を意識しなければならないか、という、意識についての型や枠、つまりは規矩を身につけていかなければならないのではないか、と感じます。

 意識の型、というと表現が難しいかもしれませんが、それは、どのように自分が物事を捉えているかという、考え方につながっているのではないかと思います。

 人間は、やろうと思えば何でも出来るし、何にでもなれるような自由度を持って生まれてきているのではないかと感じます。ところがそれは、裏を返せばまっさらに何も書き込まれていない白紙のような状態で生まれてきているとも言えるわけで、そこで使われるべきペンや絵の具、はたまた書き込まれる言葉でさえも、外側の世界との関わりで一つずつ身につけていかなければいけないのではないかとも思います。

 太極拳で求められる考え方、提示されている物事は、日常の生活の中には存在し得ないものです。師父は常に我々に「考え方を変えること」と仰っていましたが、我々がこれまでの生活で養ってきたものの見方、発想方法では、太極拳で示されているものは見えてこないのだと、改めて感じさせられます。
 絶対に引っかかることのない網を広げて太極拳という獲物を捕らえようとしたところで、どれだけ頑張っても獲物が捕まえられるはずはありません。するりと網を抜けて行ってしまいます。
 では、どうしたらいいのでしょうか。


 先日の稽古の際に、玄花后嗣から「とにかく考えずに真似をすること」という指導をしていただきました。
 自分を挟まずに真似をすること。今まで生きてきて培われてきた自分という土壌がある中で、示されたものを素直に真似をするのは、我々にとって難しいこととなってしまっています。
 順番をつけられるものではないかもしれませんが、意識的に稽古に取り組むためにこそ、まずは何も挟まずに真似ができるかという点が、重要になってくるのだと思います。
 では、なぜ真似をしなければならないのでしょうか。

 太極武藝館の稽古では、多くの時間を歩き方、歩法の稽古に当てています。歩法の稽古があって対練は行わないという日はあるものの、その逆はない、というほど歩くことに重点が置かれています。
 道場に通って来ることのできる門人は、恐らく全員が物心が付く前には歩いていたと思います。乱暴な言い方ですが、人間は体の構造上、雑なやり方でも割と歩くことが出来てしまいます。
 ところが、大きくなっていざ太極拳の稽古をしようとなった時、その雑に習得してきた歩き方そのものに苦戦させられます。赤ちゃんの時、見様見真似とはいえなんとなく出来てしまった立ち方、歩き方を、大人になってからこれ程まで修正されるとは、思ってもいない事態です。
 太極武藝館に初めて入門した人は、ここまで細かく立ち方、歩き方を修正されるのかと驚くに違いありません。
 自分というまっさらな紙に書き込まれてしまった、身についている身体の使い方を、一から修正していかなければなりません。ところが、多くの場合、それらは無意識的になんとなく書き込まれてしまったもののはずです。

 ただ真似をして動いていく。
 その中で、指導者から折を見て、必要となる注意点、要訣を指導していただきます。
 そうすると、今まで無意識に行われていた自らの行為に、ふっと意識が向き、気がつくようになります。そうして初めて、
「ああ、自分はこのように勝手な体の使い方をしていたのだな」と、気づけるようになります。
 そうすると、示されていた動きが、自分の認識の変化に伴って、さらにそれまでと違ったものとして新しい面が見えてきます。そしてそれを真似をすると、また不意に気づける瞬間がやってきます。
 こういったサイクルを循環させることによって、何も挟まずに真似をすることから、自らのことに認識が向かうようになり、意識的に稽古を行うという感覚が芽生え、養われていくのではないかと思います。

 指導者による指導はもちろんのこと、我々門人同士でも、お互いの状態を見て指摘し合うという形の稽古が行われます。
 これは、他者の間違いを注意するためではなく、むしろそれを通して、自分が何を見ているのかを学習することが求められているのではないかと思います。
 同時に、稽古でどんどん成長していける人は、どのような点に着目しているのか。それを勉強させてもらえる機会でもあると自分は感じています。

 そういった形を通して、自分が何を認識し意識しているのかという点そのものに、次第に意識が向うようになっていきます。
 自分の認識のメカニズムが、だんだんと形としてあらわになってくるのです。
 人間は、自分で思っている以上に、自身の内面を構成するものが外側の影響を受けているのではないかと思います。というよりも、それがなければ、自身の内面を認識することさえも難しいのではないかと思います。
 考え方という点においても、そこに意識を向けるという訓練を行って初めて、考え方に向かい合うという概念が生じてくる、とでも言えるでしょうか。
 そういうことを言ってもらわないと、それに目を向けるのは、人間にとっては容易なことではないと思うのです。

 歩き方に関しても、日常生活を送る上で恐らくほとんどの人は、生まれてからこれまで、自分がどのように歩いているのかを認識したことはないのではないかと思います。
 それでも、足を痛めたとか、スポーツをするなど、何かの必要性に迫られた時に、初めてそれを認識するのではないかと思います。

 太極拳を完全に独学で行うのは、恐らくほぼ不可能ではないかと思う理由がそこにあります。
 物事はそこにあったとしても、何に目を向けたらいいのかわからないからです。
 太極拳は、そのシステムを理解している指導者から、何に意識を向けたらいいかという点を教えて頂いて初めて、そこに目を向けることが出来るのではないかと思います。
 それなしで全てを独力で見極めようとするのは、砂漠の中の砂粒ひとつを見つけ出すのに近い神業ではないかと思われるのです。

「考え方を変えなさい」と言われる時、そこにある意識のメカニズムにまで目を向けよ、と言われている気がしてなりません。
 師父は我々に、構造はすでにそこにある、ということを話してくださいました。ただ、誰もそれに気づいていないだけなのだ、と。
 太極拳としての構造がすでに人間の体の中に備わっているのに気づけないのだとして、では我々は稽古の際、何を教わっているのでしょうか。
 それは、意識や認識の中にも見出されるべきメカニズム、型というものではないのかと、感じます。それさえも本来そこにあるものなのかもしれませんが、先人の導きなくしては、そこに気づくことは不可能とさえ思えます。

 最初に入門して直される立ち方、歩き方。ただそれが変わるだけでなく、そこに意識的になれるかどうか。
 何に目を向けるべきか、注意したらいいかという認識の型というべきものを、我々への指導に多くの時間を割いて頂いているのではないでしょうか。

 私たちは、師父のような物の見方が出来ているでしょうか。
 師父は、どのようなときも特定の見方に固執することなく、柔軟な捉え方をするようご指導くださいました。
 こう言われたから、とか、こうしなければならないということではなく、常に機に臨んで変化に応じることこそ、疾風勁草の在り方なのではないかと思います。

                              (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その56」の掲載は、10月22日(金)の予定です

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2021年08月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その54

  『選択し続けること』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 稽古をしているとき、それまで出来なかったこと、違ったことが、わずかなきっかけで急に変わるということがあります。
 師父はよく我々に、何を選択するかが大切だ、というお話をしてくださいます。

「山頂に至るのに、一歩ずつ歩いていく必要はない。・・ヘリコプターでパッと山頂に降り立ってしまえばいい」

 ・・千里の道も一歩から。武術という山の頂に到達するには、長く険しい道を一歩一歩進んで行くしかない。そのために、先人の教えを守り、彼らの示した道順に従い歩んでいくのだ・・・。

 そう、常識的に考えがちな我々の頭に、上にあげた師父の言葉はどのように響いたことでしょうか。

 特に我々日本人には、結果が出るまで粛々と努力し続けることが美徳という価値観があるかと思います。そして、たとえ結果が伴わなくても、そこに至るまでの過程が、努力し続けてきたことが美しいのだと、自分に言い聞かせるような文化があります。
 そういった面は確かに良い部分もあるかもしれませんが、言語が違えば文化圏、考え方まで異なっている他国から入ってきた武術を練習する際に、そのような美徳だけで正しく習得できるかというと、少し疑問が挟まります。
 武術とは生死を賭けた瀬戸際で生きる術であり、そこで結果を伴わない綺麗事だけを行っていては、本来必要な技術・精神は見出せないのではないかとも思われます。

 頭が堅くても本当のことはわからない、ともよく言われます。
 ヘリコプターで山頂に至る、という例え通り、もし先人たちが指し示している道が、ヘリで空中を通るルートまで含んでいるのだとしたら、我々が固定観念に囚われて躍起になって足元を探し続けたところで、永遠に道は見つからないということになってしまいます。

 師父はよく、月を指し示す指を稽古に例えてくださり、指ではなく月を見なくてはならないと仰ってくださいます。
 月へ至る道を探すのに、足元を探す愚か者がどれだけいるでしょうか。
 我々が何かを発見できないと嘆いているとき、月がある空のその先ではなく、自らの足元をじっと眺めるという愚を犯していないかを、改めて見直すべきではないかと思いました。

 この話は、単なる例え話ではなくて、実際的な技法にまで繋がっているのでは、とも感じます。
 相手を倒す時、高度な技術を追求する人間でも、どうしても自分と相手との関係性だけに着眼してしまうのではないでしょうか。
 相手がどのようにあって、自分がどうであるか。相手がどのように向かってきて、自分がどのように動くか。
 しかし、本当に見なければいけないのは、その点だけなのでしょうか。
 地に足をつけ、自分で歩くことだけが道の追求だと、そう思い込んでいる自身の姿がそこに重なります。姿形もなく空中に指し示された道までも、我々は捉えなくてはならないのではないか、という考えがよぎります。

 以前より動画で公開されているように、師父は壁際で行うような対練も我々に示してくださいます。
 なぜ壁際なのでしょうか。壁際に追い込まれた時にどのようにエスケープするかという練習を、状況を設定して行っているのでしょうか。
 私たちは、そのような単純な稽古を教えられたことは一度もありません。
 自分自身、壁際で動きにくくなった状態で動くことで何か発見する、といったような浅い理解で稽古をしていました。ですがあるとき、「もっと壁を使う」という師父の言葉が、実感として理解されたように感じたのです。
 言われた時にはわからなかった意味が、自身の感覚と結びつき、それに相手の崩れ方が重なった瞬間が訪れたのです。

 そこにずっとあったはずの壁に、我々は心身ともに、知らない間に影響を受けていました。ですが、そのことの意味をずっとわからないまま、ただ漫然と対練を繰り返していたかのようでした。
 そこにあるものに改めて気づき、それとの関係性まで含めて、自分と相手を認識しなければならないのだと、感じさせられたのです。

 そこにあって見えているはずのものが見えない。
 しかし、それがあると認識できるようになる感覚は、そこにはないはずの、例えば空を行く道のことも、はっきりと道と認識できるような感覚と、共通するものがあるのではないかと思います。

 人の意思は自由で、何者にも囚われていないはずです。
 ですが、我々が自由だと思っている以上に、そこにあるはずのものに影響を受け、制限されているのではないかと感じます。
 そのことに意識的に気づけると、それらをどうするかを、選択することができるのではないかと思います。
 そこに石があることに気づけば、それを避けることもできるし、座って一休みすることもできます。敵がそれに気づいてなければ、そこに足をかけて転がすこともできるかもしれません。

 意識的で気づいていること、自覚的であること。その上で、どのようにするかを意思で選択していけること。そのことの大切さを、我々は教わっているのではないかと思います。
 そして、その選択したことは、一度決めたことだからそれでよし、未来永劫続くというものではなくて、その都度その都度、瞬間瞬間に選択し続けなければ、すぐに変わっていってしまうのではないかとも感じられます。

 冒頭の話に戻ると、確かにヘリでパッと山頂に至ることは、歩くよりもすごく早いです。
 ですが、そこに至ったらそれで終わりではなく、さらなる別の頂に登るか、そこから山を下るか、その瞬間に選択肢はもう生じているのではないかと思います。
 山頂に来たからゴールだと、何もせずに保留していては、あっという間に山から転がり落ちてしまいます。
 ヘリコプターが空中でホバリングし続けるためには、実は空を飛び続けるのと同じだけの仕事をし続けなくてはいけません。
 あらゆるスポーツのプロ選手なども、一度覚えた技法を毎日毎日練習し続けます。そうしないと、それが出来なくなってしまうと知っているからです。
 そして興味深い事に、彼らが毎日練習し続けるのは、そのスポーツにおける最高難度の動きではなく、最も基礎的な動きなのだそうです。

 スポーツと武術という違いはありますが、我々も、基礎・基本を最も大事なものとして、指導していただいています。
 そしてそれをこそ、常に見つめ直し、磨いていかないといけません。
 この共通点は、決して偶然ではないはずです。

 何かを決意し、一度選択することは簡単なことです。
 本当に難しいのは、それを選択し続けることではないかと思います。

 我々が成し遂げなければならないのは、太極拳をただ理解するのみならず、理解したものを研鑽し続けることではないかと思います。
 そこへ至る道を、示されているものと、また、これとは明示されずに現されているものをも、感受性を最大限に開いて、見ていかなければならないのだと思います。


                             (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その55」の掲載は、8月22日(日)の予定です

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2021年03月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その53

 『味噌の味噌臭きは上味噌にあらず』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず…」

 以前稽古中に、師父が我々に言ってくださったことわざです。その時には、細かい意味の説明などはなかったと思うので、発言の真意は個々人がそれぞれで味わってみよ、ということだったのだと思います。

 味噌を武術に置き換えて考えてみると、武術然とした武術は高級武術にあらず、といったところでしょうか。

 これは、最近師父に指導していただいている、「太極拳みたいな動きをしない」ということと通じる部分があるのではないかと思います。
 我々が基本功や歩法、対練をしている時、いかにも武術らしい動き…力強く、居付きや蹴りを使った素早い動きが出てきてしまいます。師父の動きを比較させていただくと、それはまるで舞でも舞っているかのように軽やかで、むしろ一見すると武術らしくない動きと見えなくもありません。

 我々は、そもそも武術の本当の動きを理解できておらず、それでいて自分の中にある武術観を完全には捨て去ることができず、大なり小なりそれを引きずったまま稽古に臨んでしまっているように思います。
 それを捨て去れることこそが、真に上達していける道なのではないかと思うのですが、言うは易しで、それを行動に移すのは難しいものがあります。

 ことわざの通り、味噌臭い味噌は食べられたものではありません。それなのになぜ、その味噌臭さを我々は武術性だと信じて疑わないのでしょうか。


 先日、師父が非常に興味深い話をしてくださいました。
 ところで、師父のお話はいつも一見関係なさそうなところから始まり、それが順を追って進んでいくと、最終的に明確な答えに辿り着きます…。
 師父のお話を聞いていると、とても短い時間の中に、明確な一本の筋道が見えて、そして最後の結論に至った時の爽快感は、まるで質の良いミステリ小説を読んだ時の気持ちになります。考えてみればそのように繋がってくるのに、最後に至るまでそういう発想は出来ず、そう来たか!とつい膝を打つような気分になります。

 さて、先日お話ししてくださったのは、「武術には狩猟のセンスが必要である」と言うものです。
 人類の発展の歴史を紐解き、狩猟の時代から個人の貯蔵が始まり、そこから争いが始まったと言う話をしていただきました。誰かが自分より多くのものを持っているから、それを欲する心が起こり、そこから争いが生じる。奪う側も、奪われないように守る側も、戦いの手段が必要になり、そこで狩りのセンスが必要とされると繋がっていきました。
 また、個人の所有という概念が生まれ、誰かとの比較で優劣を生じさせるようになり、そこからそれまでにないもの、俗っぽさが生じるというのは、非常に示唆的な話だと思いました。
 
 俗っぽさ、世俗的な思考に満ちた頭では、到底太極拳をとることはできない。

 師父ははっきりとこのように仰います。
 というのも、俗に塗れた中では、天才のセンスは生じず、生じたとしても世間から抹殺されてしまうもの、だとおっしゃいます。
 武術で必要な感性、閃き、センスは俗世で生きる中では必要とされず、埋もれてしまうのかもしれません。
 人類が狩猟の時代から貯蔵・農耕の時代へと変遷していく中で、それまでにはなかった他者との関わり方、社会性が生じてきたと想像できます。社会性で必要とされることは、狩猟の時代に母なる大地との関わりで必要とされてきたこととは、大分異なっていたのではないかと思います。

 「狩りのセンス」が必要という話をされた時、自分の頭には、受容性というワードが浮かんできて、それとつながりました。
 人間が生きていくために狩猟を行う時、獲物=恵みを与えてくれるのは、いつだって自分以外の自然、大いなる他者であったはずです。
 そして、その母なる自然が分け与えてくれるものを頂く=受容性という感性が今の人間よりも強かったのではないかと思います。

 狩猟では、どれだけ個人で足掻いても、自然から与えられるもの以上のものを得ることはできないはずです。かといって、何もせずに待っているだけでは、ただ飢えて命を落とすだけです。
 獲物を得られても、必要なだけの量で終えなければ生態系のバランスは崩れ、最後には自分たちも生きていけなくなります。
 そこでは、積極的あるいは能動的な受容性とでもいうものが必要とされていたのではないかと思います。

 現代でも、狩猟採集社会を営んでいる文化をみると、必ず自然に感謝を捧げる儀式が執り行われています。それは自然からいただいたものへの感謝であり、それが人間にとっての、芸術の始まりなのだと思うと示唆的なものがあるように感じます。
 最近も、人類最古の壁画が発見されたと話題になりましたが、それらは不思議と、人間と動物が描かれたものが多いのです。これは偶然なのでしょうか。

 太極拳を稽古することと照らし合わせてみると、どうなるでしょうか。
 自分でこうだと思い込んだことをやるのではなく、示されたことをきちんと受け取る。
 そして、ただ教えてもらうのを待つだけでなく、積極的に自分から取りにいくこと。

 それはあたかも、狩猟において生きるために獲物を持ち帰ることと、共通しているのではないかと思うのです。

 また師父は、老子の『道(タオ)』の思想も例に挙げて我々に話してくださいました。
 人間はここに存在としてあること。今、ここに生きていること。

 その時の自分には、それもまた、狩猟の話と関わったものとして響いてきました。
 獲物を狩るとき、明日の、明後日の生活はどうなるだろうと未来に心配を馳せたりはしないはずです。ただ、目の前にあるものと関わり、そうして獲物を追っていくことしか頭にないはずです。
 先の心配はしても仕方なく、与えられるものは母なる自然から与えられる。
 偶然か必然か、『道』の考え方に当てはまるように感じられます。

 老子は、確かに人の関わりの中で生じる社会性という面からみると、それらの決まり事を根底から破ってしまうような厄介者に感じますが、もっとプリミティブ・原始的で素朴な人間の営みという面から見れば、決して破綻しているわけではなく、むしろ自然の本質に迫るものではないかと感じられるから不思議です。

 また師父は、老子と同様に人々に生き方を説いたキリストの話も例に挙げてくださいました。

 1日の終わり、捕らえた魚を持って帰ろうとする男に、キリストが声を掛けたそうです。

 師父は、「その男はどうするだろうか」と我々に問い掛けます。 
 魚が痛むからと、そそくさと帰ってしまうでしょうか。
 もしくは、話を聞くものの「また後日」と去ってしまうのでしょうか。

 それとも、獲った魚や他の全部を捨てて導きに従い、キリストについていくでしょうか。

 そして、その行いは、社会的に見て正しくない、と非難されるべきなのでしょうか。 

 社会性=俗っぽい目で見てしまうと、本来そこに見出せるはずの自然的な営み、原理が見えなくなってしまうのではないかと思います。
 それはまさに、自分の考えを盲信して稽古を繰り返し、本当に示されているものが見えない我々の姿そのものを指し示しているのではないかと思います。

 味噌臭い味噌は、食べられたものではありません。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その54」の掲載は、5月22日(土)の予定です

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2021年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その52

   『純粋に』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 先日、稽古の帰りに、門人の I くんがこう言いました。

「僕にとって、太極拳は生き甲斐です」

 人生で、生き甲斐と断言できることに出会えるのは、素晴らしいことだと思います。それは人生を惰性で過ごし消費してしまうものではなく、人生を通して自分を磨いていくことに使える、素晴らしいものだと思います。

 昨年一年間、道場へ稽古に通う傍ら、ブログ記事「今日も稽古で日が暮れる」を書かせていただきました。
 それらの中でも常々触れさせていただきましたが、太極拳を稽古していく中で大事なことは、師父がどのように考え、行動されているのかを理解し、それに合わせていけるかという点ではないかと感じておりました。

 先日、たまたま見かけた科学ニュース記事の中で、ニューヨーク大学の研究について書かれていました。それによると、授業中の教師と生徒の脳は同期しているそうで、さらに、生徒の脳波が教師の脳波に似ていれば似ているほど、授業の理解度が高いことがわかったそうです。
 情報元の論文を当たったわけではないので、詳細はわからないですが、おそらくその通りなのだろうという気はします。
 自分で稽古をしていて、また他の門人が稽古に取り組む様子を見ていても、まさにその通りと思えることが実際に感じられます。
 示された太極拳の技法ひとつひとつが理解されることで上達するというよりは、その示された技法が、どのような理論・背景によって成り立っているのかを理解することが上達につながるのではないかと思います。
 そこで示されたことがそのまま出来なくても、師父が何を言わんとしているのかがなんとなく分かる…それによってのみ上達できるのではないかと思います。

 師父が常々「考え方が大事だ」と仰ってくださることは、そういう意味も含まれているのではないでしょうか。
 考え方が合っているということは、発想の仕方が同じということであり、考えを生み出す脳も同期した状態であると言えるかと思います。その状態で、武術的な動きをしようとした時、そこから導かれる動きは、それもまた師父の考えと同期した動きになる可能性は高く、それによって太極拳の動きが再現され得る、と繋がっていくのは論理的にもあり得るのではないでしょうか。

 師父に指導して頂いている太極拳は、非常に科学的・論理的で、一見すると神秘的な現象に見えるようなことも、きちんと条件が整えば再現性のある現象であると感じます。
 師父が太極拳を教わる時、「一度しか示してもらえなかった」という話をしてくださいました。それに比べて我々は、何度も技を示して頂き、事細かに説明までしていただき、それでも十分には理解しきれないという体たらくで情けない限りです。
 師父のように、一度示されただけで理解していけるよう、心身ともに研ぎ澄ませていかなければいけないと反省と精進をしております。

 技を教示して頂く際、師父や玄花后嗣に何度も何度も技を掛けていただくという機会が自分にはありました。技を掛けられることは非常に幸運なことで、そうやって体で覚えていくのだと、師父に伺ったことがあります。
 そこでふと思ったのですが、世界的に見ても太極拳の真伝が非常に稀な存在である上に、その技を自分のような一門人が何度も体験させていただくということは、これはもう歴史的に見ても稀な出来事なのではないでしょうか…?
 というのも、最近特に感じるようになったことなのですが、稽古中に対練で崩される時、明確なパターンがそこに存在すると認識できるようになってきたからです。
 体が散々崩され続け技を受け続け、その先にようやく頭の理解が追いついてきたという感覚です。
 それは不可思議な現象ではなくて、ある状態ではこちらの体が特定の反応を示していて、それに対して別の変化が加わるとこちらが対処できないというように、極めて論理的な現象だといえます。

 師父はよく、太極拳を「手品」と例えてお話をしてくださいます。手品・マジックにおいては、それがどれだけ不可思議な現象に見えても、必ずタネがあります。
 ある特定のポイントに人の注意を集めておいて、気づかれない裏で別のことをしている。それがある時、表に出てくると、人々は驚きます。
 マジシャンの腕前、見せるトリックの難易度など、様々な要素があるにせよ、見ている人のミスリーディングを誘うというのは、根本的なネタではないかと思います。

 太極拳においても、それと同じ状態が、相対している中で生じているのだと思います。
 もちろんそれは、格闘技のようなフェイントを仕掛けるという話ではありません。人間の生理現象、反応のもっと深いところで起きている繊細な現象を利用しているのだと感じます。

 さて、もし太極拳がそのような、手品のような人の虚をつく現象を利用しているとして、それを理解するにはどうしたらいいかという話になるかと思います。
 そのために、最初の話に戻りますが、考え方を合わせる、脳を同期させるしかないのではないかと思うのです。
 もし本当に太極拳が手品のように人を驚かす技法と共通点があるとして、ではその手品で人を驚かせるにはどうしたらいいでしょうか。
 そのためには、まず自分が、手品で純粋に驚く必要があるのではないかと思います。

 よく、手品やマジックを披露されている時に、手品の出来ない素人で「看破ってやろう」として見ている人がいます。
 そういう人は、拙い手品なら見破れるでしょうが、プロが本気で仕組んだ手品は絶対に見破ることが出来ません。
 問題はその先で、手品を見破ろうとしてきた人は、実は、手品で驚くということがわからないので、手品のトリックは分かっても、それを使って人を驚かせることができません。
 プロのマジシャンというのは、いくつものトリックを使えるからプロなのではなくて、人が「驚くこと」が分かるから、プロとしてやっていけるのではないでしょうか。
 人が何に驚くかが分かれば、そこから新たな仕掛けを考えることが出来るでしょうけれど、その逆ではないのではないかと思います。

 太極拳の稽古中でも、対練において、看破ってやろう、技を効かないようにしようという態度で挑むと、分かるべきことが分からないと体験として感じます。
 一番上達が早い人は、技を技としてきちんと受けられる人で、手品で言えば素直に、ただ純粋に驚くことが出来る人だと思います。
 自分が驚くことが出来るために、驚くということがどういうことか理解でき、それはつまり人を驚かすこともできるということではないかと思います。

 同じものを見て味わっていても、その人間の見方ひとつで物事は変わってしまうのだと思います。では、そこで何を選択するかで、物事も即座に変わるのだと思います。

 自分が何を選んでいるか自覚的になって、生活まで含めて稽古として取り組んでいきたいと思います。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その53」の掲載は、3月22日(月)の予定です

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2020年11月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その51

  『わかるかな』

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「…わかるかな」

 あなたは、それが「わかりますか」?…。師父が我々に何かを話してくださる時、いつも発してくださる問いかけです。

 師父が我々に何か指導してくださるとき、師父はそれが「出来るか」と問うことはありません。
 師父に「わかるかな」と問いかけられたとき、私はいつも自分自身の内側と向き合い、自分が何を感じ考えているか、外側をどのように見ているか、ということと直面することを求められているように思います。

 また稽古中、何かに気づいたとき、それまでに見えなかったものを見たとき、師父は一言、「わかったか」と仰ってくださいます。
 それによって、また自分自身と向き合い、それまでの自分との違い、確かに芽生えた手応えを感じることが出来ます。

 理解することと出来ることには、隔絶の違いがあるのではないかと、自分で稽古をしていても、また、どんどんと理解していく他の門人の取り組み方を見ていても感じます。
 厳密に言えば、理解せずに出来ることはないかと思います。ですが、その時点で要求されている事柄をクリアすることを目標にするのと、何かを理解することを目標にするのでは、大きな違いがあるように思います。

 思い返せば、自分自身を形成するのに非常に大事な幼い頃から、我々は学校で行われる評価のシステムに慣れすぎてしまっているのではないかと思います。
 その中で求められる、「勉強ができる」「良い成績が取れる」ことと、太極拳を「学習していける」「理解できる」ことで稽古していくことは、全く違ったことなのだと、最近は特に強く感じています。

 理解できることは、非常に経験的なことで、体感的、現実的なことなのではないかと思います。
 理解が生じると、頭で「なるほど」と思うだけには収まりきらず、気づいた瞬間には思わず膝を打つような体の動きを伴います。それまで繋がっていなかったことが結びついたかのような、実際的な手触りまで、自分の場合には感じられます。ぼやけていた輪郭がはっきりとした瞬間、確かに自分はそれまでのものとは変わったのだと、体感させられるのです。

 師父はその瞬間を見逃さず、「わかったか」と声をかけてくださります。
 …もしくは、わからずに首を捻る我々に「わかったか?」と問いかけて下さるのです。

 先日も、師父のお話を伺っているとき、「わかるだろうか」という問いかけを聞く度に、自分は嬉しくなってしまっていました。というのも、師父の言動には全て必ず、太極拳の理解につながる要素があると感じているからです。
 その師父からの、「わかるだろうか?」の言葉…。
 それはあたかも、「ここに宝があるのだけど」と示されているかのようにさえ思えるのです。

 学校で誰かに評価され、自分の価値を決められるかのような経験をしてきた我々にとって、わからないことはネガティブな響きを持っており、わからないことは誰かに劣ることであり、自分の居場所さえないのだと言われているかのように感じられる部分もあるのではないでしょうか。
 ですが、師父の「わかるだろうか」という言葉には、そうした後ろ向きなニュアンスは全く含まれていないのではないかと思います。
 「なぜわからないのだ」と我々を責め立てるような意味は微塵もありません。
 わからないのだとしても、その「わからない」自分と向かい合っているだろうか? わからない原因が「わかるだろうか?」 と、いつも自分と向き合うよう、指導してくださっているのだと感じます。

 「わかる」ことと「わからない」こと、こうして書いていると、まるで禅問答のようにも感じられます。
 以前師父が話してくださった、ある禅のマスターの話が強く心に残っています。

 その師匠は、悟りを理解できていない自分の弟子を、ある日、杖で殴りつけて殺してしまいます。
 驚き見開かれた弟子の目が師を捉えた、命を落とすその瞬間、確かに彼は、師の行動を通して何かが「わかった」のだそうです。
 理解、それは一瞬で起き、そして全てを理解した状態で、弟子は命を落とします。
 そして、そうなることもまた、師にはわかっていたのです。

 現代的な解釈で見ようとするには、野蛮に映る話かもしれません。
 ですが、理解する、わかるということはどういうことなのかを、非常に鮮烈に体験させてくれるかのような話ではないでしょうか。

 同時に、わかるためには全てを投げ出す覚悟があるかを、改めて自分に問われる話ではないかと思います。
 その弟子は、悟りを得るために、自分の命さえも投げ出すことを選んだのです。それは師匠の手によってでしたが、これほどまでに強烈で、一瞬で得られる理解、そして命を落とすまでのほんの一瞬の出来事を自ら選んでいたに違いありません。
 そして、その覚悟と行動があったからこそ、師匠と弟子には共通の理解が確かに生じたのではないでしょうか。

 師父の「わかりますか」という問いかけは、極端な話、太極拳がわかるかと問いかけているわけでもないのではないかと思います。
 というのも、先日も稽古で「そんな太極拳みたいな動きはしなくていい」という言葉があったからです。
 太極拳の稽古をしにきているのに…? と、疑問を持つ門人は、おそらくもうその場にはいなかったかと思います。
 むしろその言葉によって、自分の中でどれだけ勝手な太極拳のイメージが出来上がっていたかを、改めて実感したのではないかと思います。少なくとも、自分にとってはそういう経験でした。

 禅のマスターによって命を落とす瞬間、その弟子は何が「わかった」のでしょうか。
 師父は我々に、何が「わかりますか」と尋ねるのでしょうか。

 その問いの妙味、深みを、もっと味わっていきたいと思いました。

                                (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その52」の掲載は、2021年1月22日(金)の予定です

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