今日も稽古で日が暮れる

2020年03月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その47

   「すべて真似する」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳の稽古では、示された動きを全て真似をすることが求められます。それは、自分の気になったところや教わって理解できているところだけでなく、自分の考えを挟まずに動きの全てを真似するという、言葉通りの意味です。

 表面だけをなぞって真似することを猿真似と言いますが、先日、おもしろい実験の記事を読みました。
 人間だけでなく、チンパンジーなどの類人猿も他者の行動を模倣する能力を持っているのですが、人間とチンパンジーでは、その真似の仕方がどう違うのか? という実験でした。

 その実験では、箱の中に入ったおやつを研究者が取り出す様子を見せて、チンパンジーと人間の子供が、それぞれどのように箱の開け方を模倣するかを観察していました。
 箱の開け方を示すやり方にはいくつかバリエーションがあったのですが、その中でいくつか、箱を開けるのには必要のない行為(たとえば箱をポンポンと叩く、など)もわざと含んでいるものもありました。

 実験をしてみると、おもしろい結果が得られました。
 箱が透明で、明らかに「箱をポンポンと叩く」ことが開けることに関係がないと分かるとき、チンパンジーは箱を叩くのを省略する傾向があったのに対し、人間の子供はというと、それでも箱を叩くという示された手順を真似する傾向があった、とのことでした。
 一見すると、必要のない手順を省くことのほうが合理的にも思えます。一体、どういうことなのでしょうか? 実は人間よりも、チンパンジーのほうが知的だと…?

 実はこの実験は、人類が繁栄した理由は「何も考えずに他者を模倣する力」を持っていたから、ということを確かめるために行われたものだったそうです。
 自分の考えを挟まずに、他人の行動を注意深く真似することによって技術が伝達し、生き残る確率を上げる。結果として、これだけ人類が繁栄することに繋がったのでは、という考え方です。

 現実の物事は複雑で、全てを人間の知識で理解できると思っているとしたら、それは思い上がりではないかと思います。ではどうすることもできないかというと、そうではなくて、実際に先人たちたが生き残ってきた手法を真似することで生き抜くことができた、そうやって人々は今まで、綿々と生命を受け継いできたのではないかと思います。

 昨今、タピオカがブームとなっていますが、その原料であるキャッサバという芋は毒を持っており、適切に加工しないと食べることができません。
 東南アジアやアフリカなど、世界中で広く食べられているキャッサバですが、彼らが化学の知識を持っていて、正しい理屈を知っているから毒を処理できているかというと、そうではありません。
 経験則として、この調理の仕方なら食べられるようになる、というのを先人のやり方を観て学習していった結果なのです。
 2000年代に入って、気候のせいでアフリカのある地域で食糧不足が発生したそうです。
 それに伴って、その周辺で奇妙な病気が蔓延しはじめたそうです。原因がわからなかった当地の医師たちは、海外から研究者・医者を呼び寄せて原因を究明してもらいました。
 原因は、適切に毒が処理されていないキャッサバを食べたため、ということが判明しました。
 食糧不足により、過酷な環境でも育つキャッサバを、それまで食べていなかった都市部の人間たちが食べはじめたことにより、加熱したキャッサバを水につけて一晩置いて絞る、という、ごく単純な毒抜きの方法を知らずに調理していたことが理由だったようです。

 考えずに全て真似することと、「合理的に」手順を抜き出して真似すること、果たしてどちらが本当の意味で合理的なのでしょうか。
 人間の文化、営みの中には、理由はわからないけれど受け継がれてきて、そうするようになっている文化がたくさんあるかと思います。ところが、近代の合理主義は、それらをバッサリと無用のものとして切り捨てていきました。
 近代の合理主義には、「わからないものをわからないまま受け入れる」ことで、自分には理解の及んでいない部分の可能性が開けるということが、どうにも理解できなかったようです。

 残念なことに、我々現代人は、その近代合理主義の洗礼にどっぷりと浸かって育ってきてしまっています。

 示された太極拳の動きを真似する際、考えずにその動き全てを真似しようとすることは、自分が気づいていない宝物を手に入れる可能性を与えてくれるのだと思います。
 逆に、自分の理解の及んでいる範囲でのみ真似しようとすることは、そこにある大切なものを取りこぼしてしまうばかりか、毒の含まれている食材をそのまま食べてしまうかのような害を自分に及ぼしているといえるのかもしれません。


 太極拳を理解していくには、示されたことを真似するのはもちろんのこと、師父がどのように太極拳に向かっているのかという点をこそ、真似しなければならないのではないかと思います。
 先の例では、キャッサバの調理の仕方を先人から学ぶと書きましたが、では師父がされていることはというと、どうでしょうか。
 ただキャッサバの食べ方を伝えるのではなくて、キャッサバの新しい調理の仕方、ないしはキャッサバに変わる新たな食料をずっと開拓し続けているのではないかと思うのです。
 我々門人が教わることができるのは、もしかしたらそのキャッサバの調理の仕方だけで、それを覚えただけでは、太極拳を理解するには足りないのではないかと思います。

 前回の記事で、「なにを掛けるか」として書かせていただきましたが、自分の調理したキャッサバをまず自分で食べられるか? ということだと思います。
 自分の命が掛かっていれば、手を抜いて調理をすることはないでしょうし、もっと真剣に示されたものを真似しようとするはずです。
 太極拳は武術なので、全く同じことが(むしろもっと直接的に)いえるのだと思うのですが、どうしても、我々にはその感覚が欠如してしまっているのではないかと、自分のこととして特に強く思います。

 そのことが少しばかり感じられて稽古に向かうようになった時から、少しずつ自分が理解できるものも変わってきたように感じました。
 自分の責任で生きるということは、毒がある(かもしれない)料理を平然と他人だけに食べさせるような人間には理解できないことではないかと思います。それは、近代合理主義が生んだ官僚のようなやり方で、彼らほど勇敢さとかけ離れた人類はいないのではないかと思います。
 まずは自分のこととして、しっかりと正面から向かい合う必要があるのだと思います。
 自分では毒を抜いたつもりだったという言い訳は、自分でその料理を食べていないからできるのではないでしょうか。

 自らが責任を負うということは、自らが傷つく覚悟を持って、腹を切る覚悟で物事に臨むことではないでしょうか。人から咎められないように、うまく見えるように稽古をしていくことは、最終的に全てを水の泡に帰すような崩壊が待っているのだと思います。
 それが自然の道理だからです。
 逆に、ネガティブフィードバックを続けていくことは、小さな間違いをずっと見つけていくことでもあります。それはある意味では、うまくいかないことを繰り返すことでもあり、自尊心は傷つくのかもしれません。しかし、自分が本当にしたいこと、目標と照らし合わせたとき、そんなものは傷ついたといえるのでしょうか?
 その目標が明確になっていないときは、小さなエゴを満足させるような稽古をしてしまうのではないかと思います。そうすると、堰き止められたダムに溜まりに溜まった間違いは、ある日、大きな音を立ててドカン! と崩れてしまいます。
 「晴々と立ち向かう」ことは、いつだって自分に成長の種を与えてくれるのではないでしょうか。

 師父はいつだって、そのことを自分に伝えてくださっています。
 言葉はもちろんのこと、言葉以外のあらゆる手段でも、です。

 師父に、太極拳に関して「上達しろ」と言われたことはありません。
 ただ、人間として「一人前になれ」「男になれ」とは何度言われたことかわかりません。

 そうすることでしか、太極拳が本当の意味で上達することはないのだと、ようやく理解出来はじめたように感じています。
「男らしく」なんて死滅した古い言葉かな、と師父が冗談でいわれたこともありましたが、それを死滅させないように、さらに繁栄させていくことこそ、我々…というか、男である自分に求められていることのように感じます。

                                (了)


*次回「今日も稽古で日が暮れる/その48」の掲載は、5月22日(金)の予定です

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2020年01月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その46

   「なにを掛けるか」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 1月も早くも3週間が過ぎ、すでに何回も道場で稽古をしてきました。
 道場で師父にお会いできないときも、師父はあの時どういうことを言っていただろうか、どう示していただいただろうか、と思いながら稽古をしていると、不思議と師父に稽古を見ていただいているような気持ちになります。
 その場で稽古を見ていただけなかったとしても、師父が一体なにを掛けて稽古に取り組んでいるか、それと比べて自分の稽古への取り組みはどうかを比較していくと、学ばせて頂けることがたくさん出てくるのです。

 太極拳という「システム」を学ぶにあたり、学習に対するアプローチの仕方でどれだけその成果が変わってしまうかということを、痛感させられています。

 師父から示していただいている学習体系は、その要点だけ持ってきて、おいしいところだけ取り出してやろうとしても決してうまく行かないようになっているのではないか、と思うのです。

 太極拳をシステムとしてみた場合、システムの健全化、成長をさせていくためには、何か要素を付け足していくのではなくて、そのシステムを使っていく中で現れてくる不備をやめていく、否定していくことでしか改善されていかないからです。
 すでに人間は自分の体がそこにあり、その構造を使って生きています。その中で、太極拳というシステムに最適化をしていくためには、要素を付け足していくというやり方をしていては、悪い意味で無限の可能性を試していかなくなってしまうからです。
 それとは逆に、間違っていることをやめていくのは、簡単です。
 AとBを比較して違いがわかれば、その違っている要素をやめていく。そうすれば、やめた分はBはAに近くなっていきます。
 BにとってAがどういうものか完全にはわかっていなかったとしても、BはAに近づいていくことができます。システムが否定の道でしか改善しないという、非常にシンプルな説明です。

 今年は元旦から初詣に行くことができました。
 神社の境内の清涼な空気を体に浴びて、昔の日本人から脈々と受け継がれている神道が、なぜ禊と祓を行うのかということに、思いを馳せることができました。
 禊と祓、宗教的な詳しい説明は不勉強なのですが、それは何かを取り除くという行為に他ならないと思います。昔の日本人は、経験的に、何かを健全化させていくには否定していく必要性があることを知っていたのだと思います。それが、特定の形で残されたのが禊と祓なのではないかと思います。

 何かをやめていくということは、ある意味では自分の一部を捨て去ることに繋がるので、行うには勇気が必要になります。
 師父が、臆病ではできないと仰っているところかと思います。

 どれだけそれを取りたいか、そのために何を掛けることができるのか?
 問われているのはそのことで、それがなければ、太極拳を理解することはできない…。

 師父がずっと言われ続けていることなのですが、それこそがまさに、太極拳をどれだけ学習していけるかの本質なのではないか、というように感じるようになりました。
 ただ時間をかけるとか、どれだけ稽古をしているか、と単純に表せるものではないのだと思います。

 魂をかける、命をかける。

 言い方は色々だとは思いますが、自分の考えをやめる、否定することで上達していくとはつまり、自分の一部をやめて、捨て去っていくことで、自分自身が刷新されていくことなのではないでしょうか。そのためには、どれだけの頭があるとか、運動神経があるかではなく、ただどれだけ覚悟を持って取り組んでいるか、その点に尽きるのだと思います。

 ただ努力を積み重ねるだけなら、おそらく多くの人にできることなのではないかと思います。
 システムという点で見ると、それは積み重ねていく方向の努力であって、ある時まではうまくいったとしても、ある時、システムの全体としては不備が起きてしまい、うまくいかなくなる日が来てしまいます。

 師父に示していただいているのは、太極拳という磨かれたシステムです。
 教えていただける要点は、それをそのまま自分のシステムに取り込むのではなくて、それによって自らのシステムを新たに生まれ変わらせることに使わなければならないのだと思います。
 すでにシステムの発展形を示していただけているので、それに向けて自分のシステムを改善していく必要があり、そのためには足し算ではなく引き算をしていかなければならないのではないでしょうか。

 自らの足で立つ、自立した人間であることとは、起きたことの責任を自らで負うことのできる覚悟を持った人間のことなのだと思います。
 自らの身を切る覚悟があり、それのできるところにいる人間でなければ、自分を持たずに手放していくことの意味がわからない、と師父は仰っているのだと思います。
 両者は同じことを示していて、全く矛盾していません。それは、自立しているとして我を貫こうとする種類の人間とは全く異なっています。

 太古の昔から、力を持った為政者とはすなわち、自ら戦争の最前線で死ぬ覚悟を持った人間のことを指していました。
 野蛮だなんだというような話は別として、古代ローマの皇帝は、多くが戦争で命を落としているのです。
 今のように後ろから指示を出し、自分以外の他者を先に死なせる種類の人間では決してありませんでした。自らを犠牲にする覚悟を持ち、実際に最前線に行ける人間こそが力を持つことが許されたのです。

 これは最小化すれば、個人のレベルでも同じことがいえるのだと思います。
 自らが安全なところにいて、本当の意味で力を得ることは出来ないということなのだと思います。
 安心できるところにいるかぎり、太極拳で示している本当の戦い方はわからないのだと、師父はそう示してくださっているのだと思います。

 これはただそういう覚悟なくして出来ないというような、観念的な話ではないのだと思います。
 実際に、システムを改善していくという、科学的なアプローチを行っていく上で必要な状態のことを指し示していて、そのためにもスピリットこそが大事なのだと、師父は仰っているのではないでしょうか。
 このような話が現実的に意味を持つようになるところが、太極武藝館で示されている太極拳を学習していく中で、非常に刺激的で面白いところだと思います。

 だからこそ、ただ太極拳の技術を学ぶのではなく、師の後ろ姿を見て、師がどのように生きているのかを自分も味わなければいけないのだと思います。

 そのためには、言葉で語るのではなくて、実際に行動で示さないといけないのだと思います。


                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その47」の掲載は、3月22日(日)の予定です

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2019年11月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その45

   「『選ぶこと』について」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 前回、「選択の問題」という記事を書きましたが、ただ記事にして終わりではなくて、毎回の稽古の中で、自分が何を選んでいるかということについて、より意識しながら取り組むことを続けてきました。

 最近の稽古の中で、師父が特殊部隊を例に挙げて話をしてくださったのが、非常に印象に残っています。特殊部隊のような戦闘のプロを目指して訓練をしていく中で、一番大切な要素が、訓練を行う者の精神力である、という話です。
 武術で、科学的に取り組む、構造に関して分析していくというアプローチをとっていくとき、あたかも大切なのは物質的な要素ばかりだと思ってしまいがちですが、本当に大事なのは精神であり、マインド、魂や心なのだと師父はおっしゃいます。

 最近、たくさんの門人が道場で稽古をしている様子を、それとなく観察させてもらう、ということをこっそりと続けていました。
 そうすると、いくつか気づいたことがありました。
 稽古の中で、ここ最近特に上達していく様子が目に見えて感じられる門人の方たちは、まるで「分かることをしっかりと選んでいる」ように見えるのです。

 こう書くと当たり前のことのように思えて伝わりづらいかもしれませんが、おそらく、実際に道場で彼らを含めたみんなの様子を見ていると、納得していただけるのではないかと思います。
 上達するために道場に来ているのだから、誰しも、稽古で理解していけるほうを選んでいるはずではないのか? と思うのは当然の疑問です。
 ですが、自分のことを鑑みても思うのですが、稽古がうまくいっていないときには、まるで自分がうまくいかない方に身を置くような選択を続けているのではないかと思います。

 なぜそんな、不条理な選択を行うのか。その時々、その人によって違いはあるのかもしれませんが、人間とは元来、不条理な生き物で、思っているよりも自分自身のバイアスによって選択は歪められ、思っているよりも合理的な行動はとれていないということなのかもしれません。

 自分が何を選ぶかということは、腕っ節の強さには関係がなく、年齢や体格、どれだけの年月やってきたのかということにも関係がありません。精神の問題であり、心の問題です。
 しかし、実際にそれこそが稽古の成果を決める決定的な要因なのだと感じられたとき、かなりの衝撃に自分は襲われたものです。

 気づいたからには、自分の稽古にそれを生かさない手はありません。
 稽古で上達していっている人を参考にして、自分もある選択をすることにしました。

 非常に単純です。自分も理解していけるほうを選ぶようにする、それだけです。
 もう少し付け加えるなら、「理解していけるほうを選ぶ」ということを選ぶ、というものです。
 たったそれだけの選択をすることにしただけで、多くのことが自分に起きてきたと思います。

 稽古の中では、師父から多くのことを示していただいています。それは太極拳の動きであったり、見せられる姿や立ち振る舞いであったり、まるで太極拳とは関係がなさそうな師父のお話の中であったりと、様々な姿を取って表現されているかと思います。
 その中に、我々が気付くべき太極拳は含まれていて、それに気付くか気づかないかは、やはり我々ひとりひとりに問われているのだと思います。
 たとえばあるひとつの技を同じ形で示されたとしても、理解できる人は理解でき、理解できない人には理解できないのだとしたら、その人がどう受け取ろうとしているかという違い以外に、どこに差異があるといえるのでしょうか。

 そして、すでに書いた通り、理解できていく人は、それを自分で選んでいる人なのだと思います。
 自分を挟まずに真似することの大切さは、たくさん言われ、ブログ等にも書かれているかと思いますが、まず自分がそれを理解する準備ができた上で真似しないことには、ただの模倣にすらならず、理解は生じてこないのだと思います。
 本来は、そこまで含めた意味で「真似をする」と言うのかもしれません。

 「備えよ常に」という言葉は、何かが起きた時に、すぐに動ける状態に準備しておくことなのだと自分は思っていました。
 自分にはそれができていない、師父は常に準備されているように思える…
 そう師父に話したら、師父は「そうではない」とおっしゃったのです。

 「私は物事に備えているのではない。私は、常に『自分に』備えているのだ」と…。

 この言葉を聞いたとき、金槌で頭を殴られたような衝撃を受けました。
 思ってもいなかった衝撃を受けると、否応なく人間は変わってしまうものです。

 自分が準備できていなかったのは、外の物事ではなく、他でもない自分自身に対してだったのです。内と外がぐるっと入れ替わってしまうような経験は、生きている中でもそうそう味わえるものではないです。

 太極拳の理解がおぼつかないのも、外側の事物に問題があるのではなくて、自分の内側の問題に向き合えていないからであり、それをするためには、他でもなく、自分自身できちんと選ばなくてはならないのだと、師父は仰っているのだと思いました。

 常に、自分に対して備えていなければならないのです。
 それは何を選んでいるかを知るということであり、何を選ぶかということではないでしょうか。きちんと選択することができれば、それによって現実は動き、おのずと結果は出てくるものではないかと思います。

 師父から、意識・意志・魂がベースであり、その上に理論や技術が乗ることで物事は発展していく、というお話をしていただきました。
 太極拳を科学的に追求していくということは、ただ技術や技法を学び研鑽していくだけではなく、それを行う人間としても、本物でなくてはならない。だからこそ、現代においても太極拳は価値のあるもので、大切なものなのだ、と。

 自分の中のタガが外れて、まるで壊れたようになったとき、はじめて新しい、見えていなかった物事が見えました。
 そして、それを待っていたかのように、外側からまた新しいことがドンドンと飛び込んできます。それによって、また思ってもみなかった自分の枷が外れていってしまいます。
 そうして新しくなっていくという繰り返しの循環は、一度味わうと病みつきになってしまうものです。

 それに必要な最初のきっかけは、疑問を持ち、自分が何か別のことを選んでいくことから始まるのかもしれません。
 幸いにして、我々には教えをいただける師がいて、現代では稀有な道場、志を同じくした様々な門人たち、という学びの場が与えられています。
 それだけ恵まれた環境を使わないという手はないと思います。

 何より、ささいなことで人間は変わっていくのだということ、これほど面白いものは、この世の中でそうそう無いのではないかと思います。



                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その46」の掲載は、2020年1月22日(水)の予定です

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2019年09月21日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その44

   「選択の問題」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 最近、稽古をする中で、感じたことを書いてみようと思います。
 稽古中には、師父や玄花后嗣から、我々が稽古をしていく中で、どのように考え、取り組んでいったら良いか、様々な角度から多くの話をしていただいています。

 それらの多くは、ただ太極拳の修練のために必要になることばかりでなく、それぞれの門人が、人生をより良く、本物の人間、一流の人間として生きていくためにはどうしていったら良いかという示唆が、ただの哲学としてではなく、現実的に有効な手法として数多く含まれているように感じます。
 太極武藝館で伝えられている太極拳が、あいまいな表現に逃げずに、ひたすら科学的に追求されているのと、共通しているかと思います。

 そして、そこで言われたことは、ただノートや心の中に書き記して大事にしておくだけではなく、そこから現実の行動に移せるだけの厚みがあり、そして、それが端的に言ってしまえば、生きていく上でものすごく役に立つ、有用な手法であると感じています。
 その中で、特に自分の印象に強く残っており、ガツンと文字通りのインパクトを与えてくれたものを取り上げてみたいと思います。

 それは、自分が何を選ぶか、ということです。選択の問題、とでも言えるでしょうか。
 前回までの記事にも書きましたが、稽古をしていく上では、うまくいっている時も、うまくいかない時もあるかと思います。
 それまでの自分は、稽古に限らず物事がうまくいかない時には、いくつも原因があって、それに対して自分がうまく対応出来なければ、それが問題になって現実にあらわれてくる、というような、そんな考え方を漠然と抱いていたものでした。
 原因に当たるものには、自分の力が足りない、時間がない、それが難しすぎるなど、考えられるものをいくつか当てはめることができるかと思います。
 そう思うのが自然なことであり、妥当なことだと考えるのは、普通のことではないかと思い、それを疑ってもいなかったのです。

 ところが、師父の話を聞いて、はっと目を覚まされたのです。

「問題の原因は全て自分にある。そして、それを選んでいるのは全て自分である」

 その「言葉」自体は、どこか別のところでも聞いたことのあるものでした。
 街中の本屋さんに行けば、本棚の片隅に、そういった聞こえのいい言葉がたくさん書いてあって、それを読めば、数日間はまるで悟りを開けたような気持ちにさせてくれる本がいくつも置いてあるものです。
 でも、何日かたてば元どおり、また次のよく効く「言葉」を探さなければなりません。

 しかし、師父は違いました。それは「言葉」ではありましたが、師父の「行動の表明」であり、生き方、現実の実行を伴ったものだったからです。

「原因は自分にあり、全て選んでいるのは自分である」

 そして、“私はそのように生きている” ────────

 それは自分にとっては衝撃でした。
 一言一句違わずにそう師父が仰ったわけではないのですが、師父の話の中には、そのような生き様が現れており、それまで師父がさりげなくその後ろ姿で表してくださっていた生き方の中にこそ、この「言葉」の真の重みが現されていたことが、あらためて理解できたのです。

 自分は、その言葉によって多くの事に思い当たり、しばし呆然とさえしてしまいました。
 本に書かれていたものではない、生きた言葉です。本では常套句のように、「選んでいるのは自分です、だから〜…」と続くのですが、本当は、その時点で迷路に迷い込んでしまっていたのではないでしょうか。

 選んでいるのは、選択しているのは自分であるとわかったのなら、あとはそれをどう選ぶかだけが問題で、それは思考ではなく行動で表すしかないのだということです。

 先ほど、問題が起きたときには原因はいくつも当てはめることができると書きましたが、その原因だとしたものが、果たして本当の原因だったのかと、考える必要があったのだと思います。
 現実の結果は、多種多様な要素が絡み合って出来上がった現実であり、仮に、ぱっと思い付くような因果関係が原因としてあげられたとしても、それで果たして、実際に問題が解決できるかというと、そんなことはないと思うからです。

 自分の見ているものは、自分が選択しているのだということは、刮目すべきことであり、そして、太極拳を修業していく上でも重大なことであると思います。

 実際に自分に起きた出来事として、その言葉を聞いてはっとした以後では、かなり見方が変わったように感じます。
 問題に対する関わり方が、それまでのものと変化してきました。問題が自分と離れた、何か外側から用意された別のことではなく、自分の中にしっかりと根付いているもののように、言い方を変えれば、ある意味では身近なものになったように感じられるのです。

 稽古をする中で、本当に大事なことは「どれだけ真似できるか」だと言われています。
 真似できていないという問題が出たとき、そしてしばしばそれは出てくるものですが、その問題の原因は自分にある、というのなら百歩譲って受け入れられるが、それを自分で選択している!などと考えるのは、ものすごく抵抗のある考え方かもしれません。
 自分はこれだけ頑張って真似しようとしているのに!きっと何か違う原因があるに違いない!と…。

 そうなる気持ちは、自分にも覚えがあるので否定はしません。
 ですが、それではできない、と師父に指導していただいているとおり、間違っていたのだと、今だったら思うことができます。

 今は少しですが、問題が出てきたときにも、太極拳のこととしてだけではなく、自分の問題として、
「そういうとこあるよな、自分」
 と、前より素直に思えるようになりました。それと、問題そのものが身近に感じられ、まるでそれが自分の中でだだをこねている子供、とでもいうように思えてきたというのがひとつあります。

 同じ問題に関して、難攻不落の敵!と感じるか、だだをこねる子供と感じるかでは、対処の仕方がかなり違ってくるのではないかと思います。

 ここでふと、師父に「子供のマインドではわからない」言われていたことを思い出しました。
 子供同士の同レベルの争いでは、当人たちにとっては一大事に感じられるものですが、大人から見たら、それは実にささいなケンカに見えるものです。
 問題に感じていることも、わかっている人からすれば、もしかしたらその程度のことなのかもしれません。当人にとっては、人生を掛けた最大の危機が現れた、くらいにも感じるものですが。

                                 (了)



 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その45」の掲載は、11月22日(金)の予定です

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2019年05月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その42

   「弱さを知る」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 武術を稽古することの目的のひとつに、強くなることがあると思います。
 元々は、敵対する他者との闘争の手段として発展してきた武術は、当然のことながら自身を害しようとする人間よりも強くなければ、自らの身や、大切なものを守れません。

 ところが現代社会では、それまでは当たり前としてあった「強いものが正義」という考え方は、すでに過去のものとなりつつあります。国家間の紛争を解決する手段であった「戦争」という行為でさえ、第一次大戦後の1928年に締結されたパリ不戦条約以降、自衛以外の戦争は違法行為であると、国際的に認識されています。理由を作って、戦争を仕掛けていい時代は国際法的にも終わりを迎えています。
 また日常生活を送る中で、だれかが気に入らないから殴って言い聞かせてやろう、などということは、当然のことながら許されません。
 しかし、だからといって相手はこちらを害することを止めるということにはなりません。
単純に暴力に頼るという意味ではない中で、自分の身を守る手段は、自ら持っていなければ生きていくことができません。

 そのような中で生きる自分のような人間は、強さや弱さを、一体どのように考えていったらいいのでしょうか。

 太極武藝館の稽古をしていて感じるのは、人間の強さや弱さというのは、腕っ節の強さではなく、もっと他の部分にあるのではないかという点です。
 稽古中、たとえば対練をしていてだれかに崩されたとして、そのことに関して「弱い」と非難されることは決してありません。
 そもそも、試合形式のトレーニングをすることがないので、誰かと勝敗を比較して、優劣を決めるということはありません。勝ったから強い、負けたから弱いということはありません。

 これは考え方を変えれば、非常に洗練されたことであるといえると思います。
 武道をやっていない普通の人に話をしても、試合で勝敗を決めないのなら一体なにをやっているのか?と、なかなか理解してもらえないということは、ざらにあります。

 それよりも大切なことは、どのように稽古に取り組んでいるかだと思います。もちろん結果が伴わなければ稽古をしている意味はないですが、その結果が伴うかどうかという点も、端的に言って稽古への取り組み方に左右されるのだと思います。

 自分自身、稽古で壁にぶつかることはよくあることですし、自分が何にぶつかって戸惑っているのかわからず、そのためどうしていいか、打開する方法など全くわからないということもあります。
 そうしたとき、どうしても普段のやりかたとして、自分を強くすることで、つまり弱い部分を突っぱねようとすることで問題の解決に当たってしまうことがあります。
 本当の問題が「強くないこと」にあるのではなく「弱い」部分にあるのだということは、冷静に頭を働かせれば見えてくるのですが、問題の渦中にいる自分には、その部分が見えて来ず、すぐに結果が出そうな部分、強くあればいいという考え方にしがみついてしまうように感じます。
 当然のことながら問題は解決せず、時間が経つにつれて、むしろ複雑になっていくだけに感じられるものです。

 どうしたらいいかわからず、悶々とした日々を過ごす中でようやく、強くなろうとすることと弱さを知ることは全く違うことなのではないか、と思い至りました。
 自分だけでわかることはできず、色々と多くの人に心配や迷惑をかけながら、そう理解させてもらえるように導いていただいたおかげだと思います。

 自分がやることが何もかもうまくいかないように思え、どうしていいかわからなくなってしまったとき、師父に掛けていただいた言葉がありました。
 人間というのは、進化の途上にあって弱いものだから、うまくいかないことがあって当たり前だ、と。だから、そこから逃げずに立ち向かえるかどうかで、人間が決まるのだ、と。

 自分がうまくいかない原因は自分の中にあると思いながらも、それは自分の弱い部分を見ていないからではなく、自分に物事を解決していけるだけの強さがないからだ、と思い込んでいた自分には、ぱっと視界が開けるような言葉に感じられました。

 ただ強くなろうとするだけだと、自分の中にある弱い部分を隠すようになり、いつのまにか、他の人から見えないように、そして何より自分から見えないように蓋をしてしまうようになります。
 そうなると、問題の根本はそこにあるのに、いつしか取り繕うことばかりに労力を使うようになり、本当に必要な解決にまで力が注げなくなっていってしまうようでした。

 もちろん、見える人にはそれが見えているのだと思いますが、自分は隠すことに必死になり、その弱い部分にふくまれている本当の自分が見えなくなってしまいます。
 そんな中で、自分を見つめていかなければいけないことなどできるわけがありませんでした。

 現状で問題が解決はしていないのですが、問題として隠していた部分には、少しだけ光が当たってきたように感じます。それがどのようになっていくのかはわかりませんが、分からずにふさぎ込んでいたときよりは、一歩前進しているのではないかと思います。

 自分の中の弱さを知っていくことは、そのまま本来の自分がどのような存在であるかを知っていく過程に繋がっていると思います。
 そうすることで始めて、本当に自分ができることは何なのかが、見えてくるのではないかと思います。

 太極拳はだれにでも出来る、と師父は仰いますが、それが簡単には見えてこないのは、自分の中にある能力を、本当は自分自身が一番見出せていないからなのかもしれません。
 特に、画一的な教育を受けてきた自分たちの世代にとって、能力とは他者との比較で測られるものであり、その中で優劣を決められるものでした。
 自分の中にあるものが他者とは比べられない唯一のものであったり、また能力が伸びていく道筋や時間も唯一のものであった場合、それらの比較の仕方では、本来の能力など伸ばしていけるわけはないと思います。
 そうして画一的に育てられれ評価されてきた人たちが、いざ、自分の本来の姿を見つけろと言われても、なかなか簡単にはいかないのではないでしょうか。

 そこから脱却していけるかどうかが、太極拳のみならず、これからより良く生きていくために、自分も含め、多くの人々には必要になってくることではないかと思います。
 そうして初めて、太極拳が理解できる土台が出来上がるのだとしたら、それに取り組まない理由はないのではないかと思います。

                                 (了)



 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その43」の掲載は、7月22日(月)の予定です


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