今日も稽古で日が暮れる

2017年03月10日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その30

   「 カガクと技術」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



太極武藝館では、徹底して太極拳を「科学」として捉えた稽古が行われている。
そこには曖昧さは一切なく、奥深い原理が、シンプルかつ論理的な説明で教授されている。

もちろんそこには、矮小化された人間単位だけの解釈ではなく、もっと宇宙全体の活動原理を包括するような、懐の深い世界が広がっているのである。

科学的な解明であるとか、発展という言葉を聞くと、どうしても非人間的なイメージがついてくるかもしれない。
いつか人々は自分の力では何もしなくなり、科学技術という檻に囚われた生活を送り、人間として大切なものを永久に失ってしまうのではないか? という見方だ。

だが個人的には、それは限定的で偏った見方ではないか、と思うのだ。


なんとなしに「科学技術」という言葉を使ったが、厳密にいえば科学と技術は、非常に近い関係ではあるが、実際にはそれぞれ異なった概念を示す言葉であると言える。
この関係性は、太極拳においても同じことが言えるはずだ。


ふつうに思われていることとしては、科学の発展が新たな技術を生み出すというイメージがあるかもしれない。
ところが、本来の関係性としては、これはまったく逆であるらしい。

科学の歴史はまだ浅く、技術の発展こそが科学の発展を助けるものである。
人類は何万年も前から火を使っていたが、科学的に火を理解したのは、近代に至ってからである。

これは実際に歴史を紐解いてみれば簡単に説明がつく。

産業革命の時代、ジェームズ・ワットによって作られた蒸気機関が爆発的に普及した。
それによって、熱力学という新たな科学の分野が切り開かれ、経験則でしか知られていなかった知識が、体系的に説明されるようになった。
当然、ワット以前にも人類は火を使っており、また蒸気機関も存在していたし、熱力学の仕組みそのものは使われていたが、広く学問的に追求されるようになるのは、新たな技術=新型の蒸気機関の普及を待つ必要があったのだ。

ガリレオが天体の運動法則を発見できたのも、彼の熱意と取り組みはもちろんだが、天体望遠鏡を作る技術が世界にあったから、ともいえる。
ガラスを加工しレンズを作る技術、金属を加工する技術、それらの集大成として、天体望遠鏡は生まれた。
それによって、それまで神々の世界のワザとされてきた天体の動きを、人が理解し始めた。
科学の萌芽が芽吹きはじめたのだ。
それは、神々の権威を失墜させる、幕開けでもあったのだが・・・。

このように、科学が技術を生み出したのではなく、技術こそが、科学の母であった。

いずれにせよ、それらの出来事は時代の流れであり、必然であったのだと思う。

特に現代では、コンピュータやインターネットの急速な発展から、世界をとりまく環境の変化がどんどん加速していっている。
技術の発展自体は確かに人類が作り出しているものだが、その法則性を見てみると、時代という機が熟したことによってその技術があらわれてくるのは自然の現象であり、止めることのできない進化の力である、ということらしい。

たとえば、アインシュタインは相対性理論を発見したが、同時代に、彼以外にも相対性理論を発見していた科学者がいる。
電話の発明者はグラハム・ベルだが、エジソンもほぼ同時に電話を発明している。ただ特許を取るのがベルのほうが先だったというだけの話だ。

なぜかというと、それらの技術は、無から突然ぽんと生まれたわけではないからだ。
それぞれのものに、その前段階の積み重ねがあり、その先の一歩として、新たなモノが生まれてくるのだ。


太極拳に当てはめてみれば、おそらく、宇宙の原理なる深遠なものから太極拳を考え始めても机上の空論で終わってしまうのは、そういった進化・発展の本来の方向性からは、反対からアプローチしてしまっているからに違いない。

最初に、戦う必要性があり、戦うための技術が生まれた。

そこから、よりその技術を洗練していくために、体系的な解明、説明が行われるようになった。つまり、科学的解明が始まった。
太極拳が発展した時代の中国においては、その原理を説明するために太極思想や気という概念を用いるのが自然なことだったに違いない。
だがそれも、実際に使える技術がある上で、それを説明するために行われたのだということは間違いないだろう。そうでなければ現代にまで、この技術が残っているはずがないのだから。

だから、もし現代で太極拳を稽古するのであれば、この時代にあった言葉で説明することは不可能ではないし、自然なことなのだと思う。
それゆえに、師父の太極拳に対する取り組み方は、ごく自然なことであるし、また、非常に発展的な示唆を秘めたものだというように感じる。
そのことが太極武藝館を、ただ武術として稀有なチカラを持った太極拳を学習出来る場という限定されたものでなく、もっと人間として成長していける場として、人を引きつける魅力のある場所にしているのだと思う。
武術は個々の研鑽だというのは、否定できない事実だ。
だが、多くの仲間が集まることによって、それまでは気付けなかった可能性が開けるのかもしれない。
人は、そうして進歩してきたのだから。


太極拳も、最初は非常に素朴な拳法だったかもしれない。
そこから、時代の要請、自らの身を守るための必要性や、外部との交流によってどんどん新しい技術を取り込み、また自らが研鑽し、いまある太極拳の技術が形作られた。

その進化発展はいまもまだ続き、師父は「新しい発見があった」と仰り、より洗練された技術がこの世界に現れてくる。

それは太極拳が徹底して「敵にやられないための技術」であるためであり、もしそれがいかに技を魅せるか、採点されるかといった方向にでも向かったものなら、とたんに本質を失ってしまうだろう。
それは太極拳から生まれた、「別の何か」なのだ。

やられないための技術であるからこそ、技術は進歩し、それによって新たな考察を得る。
考察は科学的解明を促し、そして得られた理解は、また技術としての太極拳を進化発展させていく、というサイクルを続ける。
太極拳の本質を伝承していく人々がいる限り、それに終わりはない。


世界に目を向けてみると、近年になって過去に類を見ないほど人々の生活は変化している。
嫌でも技術は進歩し、この世界に起こっている変化は止めようがないが、100ある変化の中で、悪い変化が49だとして、良い変化が51あれば、少しずつであれ、世界は良くなっていくに違いない。

自然の中で、古くからある生活を送っていくことは実に魅力的だが、いまの科学と技術なくして、70億人もの人間が地球で生きていくことはもはや不可能になってしまっている。

古来からの狩猟採集民としての生活を人間がするためには、一人当たり数キロ四方の自然が必要になるという。
そんな余裕はこの地球にはない。もし本当にそれをするとなると、全人類のほとんどは生きていけなくなることになってしまう。
確かに技術の進歩の否定的側面はあるが、それによって世界に生きることが出来る70億人という人々が、いままでには存在しなかったあたらしい何かを生み出せる可能性が生まれているのだ。
それは否定されることではなく、素晴らしいことだと思う。

だがそれは、本来自然環境で生活するための体を持った人間だということを忘れて、現代的な生活のみに浸るということにはならない。
不可避な変化を受け入れながらも、それだけに甘んじることなく、自分で出来ることをやっていく必要があるということだ。
そして、そのための自由もまた、格段に増えているのではないだろうか。

過去の歴史を見てみれば、いまの人々の暮らしは間違いなく豊かになっていると言えるし、生き方を選択する自由も格段に増えている。
それに伴って裏側では、その豊かさの代償として多くの危険が生じてしまっているが、必要なのは、バランスを保って生きていくことなのではないか、と思う。
便利な世の中になったが、何もしなければ能力は衰えていく。
もしそれが嫌なら、自身で何かしらの努力をする必要がある。


情熱は、何もないところから生まれるわけではない。
自分が関わって、行ったことの結果として、熱が生まれ、それが自分の中に情熱として芽生えていくのだと、最近になってようやく知ることが出来た。
情熱があることを追求していくのではなく、自分が追求していくことの中にこそ、情熱が生まれてくるのだ。

そうと知ったからこそ、自分の目の前にいくつもの選択肢があることは、迷いを生み出すもとではなく、むしろ感謝するべきことなのだとわかった。
ただ流されるのではなく、自分で選び、勝ち取っていく。
それが自分の力になっていく。

それが出来ることが、人のもつ素晴らしい力だということを、理解した。
こうした考えが少しでも広まれば、ちょっとずつでも、世界はよくなっていくに違いない。
なによりも、少しずつでも変化していける自分自身を、楽しみ、そうできることの喜びを味わっていきたいと思う。


                                 (了)

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2016年05月10日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その29

   「 危険を『意識』する」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 
 今年から始まったCQC講習の第一段階が先日、終了した。
 
 CQCという名の通り、身を守るための近接格闘術の話からはじまり、それ以外にも火災や地震など、身の回りにある危険から回避する方法などが多岐に亘って提示されるという、学ぶことの多い内容だった。
 
 あれだけの内容を、忙しい中、講習のために用意してくださる師父には、本当に頭が下がる思いだ。内容のレベルで言えば、「危険回避学」とでも名付けて大学の講義としても十分通用するレベルなではないか、と個人的には思う。
 「プロなんだから、当たり前だ〜」と、師父には笑って言われそうではあるが。
 
 
 さて、特に地震に関しては、東海地震の発生が予想される地方ということもあり、数回にわたり念入りに講習が行われることとなった。
 そして講習の期間中に、ちょうど熊本で地震が発生したこともあり、いつか来る危機ではなく、すでに自分たちの目の前にある危機として、より認識を新たにすることが出来たように感じる。
 
 ここまでの講習を通して感じたことを、日頃の稽古と照らし合わせていくつか書いてみようと思う。
 
 
 事故や災害、危険からの回避も、戦闘も、第一の目的は自分自身が生き残ることにあると思う。また、それらに共通することは、いつ起こるか分からないということだろう。
 
 あと〇〇分後に火災が発生します〜・・などということはこの現実世界ではありえない。
 もちろん、人為的なテロや攻撃だったらそうとは言い切れないが、事前にそれをつかむことが出来なければ、実質的にはいつ起こるか分からない状態と違いはないといえる。
 
 だとしたら、いつ何が起きても大丈夫なように、自身で準備しておくしかない、ということになる。
 
 CQC講習では、地震などの災害時に備えてどれだけの装備を持っておくべきかということが、かなり入念に紹介された。東海地震がいつ起きてもおかしくない、と言われ続けている場所に住んでいながら、実際に自分がどれほどの準備をしていたか?ほとんど何も備えていないに等しかった。
 日本中で大きな地震が起きて、かつこれだけ言われていてもそうなのだから、もし実際に何かが起こったときに、自分がどれだけ対処できるだろうか。学ぶ前と後で変わった意識を実際に生かしていかないといけないと感じる。
 
 これが地震ではなくて、たとえば暴漢に急に襲われるといった事態だとしたら、どうだろうか。自分は散々稽古しているから大丈夫、などとはとても思えない。
 
 どうしようもない状態に陥ったとき、まずは自分がどのように動けるのか。
 そこに意識を向けていかないといけない。
 
 
 世界中には多種多様な格闘技や武術があり、民間のみならず各国の軍隊や警察などで指導している人の動画などが、ネット上には数多く出回っている。
 それぞれの武術にはそれぞれの考え方があり、細かい対処の仕方という点ではいくらでも違いはあると思う。だが、一貫して共通して見えるのは、いかに止まらずに動き続けられる状態を維持できるか、という点だろうか。
 
 道場で、数人がかり(時には10人近く)で壁際に師父を拘束しに行くというものを示していただくことがある。
 我々門人は、もちろん全力で師父が動けないように拘束しに行く。
 そのとき、壁から逃れる事のできないようにするのみならず、師父の足が地面から離れてしまうほどに、我々は本気で拘束しに行っている、はずなのだ。
 押さえている身体の部分と壁によって、そこは確かに動かないはずなのに、なぜだか押さえられている感じがしないのが不思議だ。

 「そんなので拘束出来てるのか〜」
 と師父は冗談のようにおっしゃるが、押さえつけた身体によって、後ろの壁はみしみしと音を立てている。
 こんな状態になったら、実際ふつうだったら動けたものではない。
 ところが、師父はそれをこともなげに、ひょいっと拘束を外していくではないか。
 
 ときには指名した人間を一人ずつ、ときには全員を同時に吹き飛ばし、ないしは床に転がしていく。やらせと思われても仕方のない光景かもしれない…。
 
 災害とは想定されているケースが一見違うようにも思われるが、人間の自由を奪って動けないようにしているはずの状況でも、師父のような武術家は、状況に拘束されることなく、動ける状態を保っているのである。
 
 押さえつけたところから始めてそれなのだから、動いて歩きまわっている師父をとらえにいくなどというと、もう話にもならない。
 何人でかかろうがスルスルと師父は自由に動いてとらえきれず、我々は捉えにいこうとした仲間であるはずの門人同士でぶつかって邪魔し合う(ように崩される)始末である。
 
 
 動き続けられるというのは、それだけで凄い力を秘めているのだと感心せざるを得ない。
 自分でやってみると、一人ならまだしも(それでも怪しいのだが)、二人相手に攻められてこようものなら、どれだけ自分が動けない身体になってしまっているのかが、はっきりと感じられるものだ。
 稽古の中でそれなのだから、実際に外で複数の人間に襲われたらどうなるのか、考えるだけでも恐ろしいものである。
 もちろん、道場の稽古で襲ってくる人間は門人なので、当然ふつうの人よりも鍛えられ動けるようになっている人間なので、一概に同じとは言えないかもしれないが…。
 
 
 
 動き続けられることとあわせて、危険がせまっている時には、ゆっくりと腰を据えて対処しようという時間がない、ということにも驚いた。
 目の前に敵がいて、倒さなければならないとき、格闘技の試合のように2〜5分、という時間を取ることは出来ない。短い時間の中で何とかしなければならない、という事だった。
 
 知り合いの友人から聞いた話だが、米軍の海兵隊で機関銃を持ったガンナーの、兵士としての危険度を現す数字は、「12」だという。
 
 なんの数字かというと、「戦闘が始まってからそれ以上時間が経ったらいつ死んでもおかしくない」数字だという。
 将校ではなく、現場の兵士である銃手の場合は、『12秒』だ。
 
 戦場になど行ったことのない自分たちには、日常的には考えられない話だ。
 漠然と将来の不安とか、せいぜいそういったものしか感覚的には感じられない。
 人間は、いつか死ぬんだろうな〜なんて暢気なことは、まったく言ってられない。
 
 「12秒経ったら、自分は死ぬ」
 
 そのような意識でいることが、普段あるだろうか?
 やはり、自分はまだまだ甘いところで生きているのだなと痛感させられる。
 
 
 もちろん、そのような状況の中であっても、最後まで生き残ることを考えなければならないのだが、死が遠くにある中でただ生きていることと、死を隣り合わせにした中で生き続けることでは、意味がまったく違っている。
 
 日本の中にいては、いきなり銃弾で死ぬ可能性は少ないかもしれないが、それ以外にも危険はいくらでもある。
 道を歩いていれば、車が突っ込んでくるかもしれない。火災や災害や事故、そういった危険は考えてみればいくらでもあるはずなのに、どうして我々の危険意識はここまで鈍くなってしまっているのだろうか。
 常に神経質になっている必要はないだろうが、そういった危険をリストアップしてみることで、少し意識が変わってくるように思う。
 
 小さな範囲で見れば身の回りの危険、大きな範囲で見れば、国家同士、世界規模で起きている情勢。そういったことに、もう少し意識を向けてみないといけないように感じる。
 世界の遠く見えないところで起きたことが、自分の意思決定にどれだけの影響力を与えているか。
 少し前だったらSFのような話だったのかもしれないが、現在では、そのことが現実的なこととして身近に感じられるはずである。
 
 自分がそうするべきだと思って決めたはずのことが、本当は別の人間によって決められた方向性だったとしたら、どう思うだろうか。誰だって気持ちのいいことではないはずだ。
 だが実際には、長年の教育を通して、培われた「空気」や常識によって、また、メディアの手法によって、そういったことがまかり通ってしまっているのがこの世界だ。
 
 まずはそういったことが実際にあると知り、世界と自分がどう関わっているのかを、自分の中に問う必要があるように感じる。
 そうすることで、本来の自分ということが活動をしはじめ、それが生き残ることにつながっていくのではないかと、そういう風に感じるのだ。
 

                                  (了)


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2015年12月23日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その28

   「 ワイルドに生き残ろう!」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



野生の証明…?
 
闘争とはすなわち、生き残ることであり、戦いとはまさにサバイバルである。
そうした観点から見てみると、いかに現代の日本人が安全という幻想に包まれ、生存闘争とはかけ離れた生活をしていることか。
 
 
生存において、生き残るために何より必要なのは食糧の確保である。この現代日本においては、少し腹が減れば「ちょっとコンビニへ行こうかな」などとと安易な発想で乗り切ることができる。
こんなことでは、過酷な自然環境では生き残ることが出来ないのではないだろうか。
 
ではここで、人類よりよっぽどワイルドに生きているはずの、チンパンジーの一日の生活を追ってみることにしよう。
 
さぞかし、過酷な環境を自身の野性味によって乗り切っているに違いない。
 
 
 
野生を証明してみせよう
 
チンパンジーの一日の生活はこうだ。
 

ひたすら食べる、仲間と交流する、寝る。以上。

 
ずいぶんと野性的ではないか。まさに本能による行動。仲間と毛づくろいをしたり、
群れを作って行動しているあたりに社会性の片りんが見られる気もする。
 
…冗談はさておき、チンパンジーの生活などこんなもんである。馬鹿にしているわけではなくて、人間と複雑さのレベルにおいて違いが出てくるのはしょうがない。そもそもどれだけ人間がワイルドになって野生にかえっても、チンパンジーとは身体構造上の違いから、どうあがいたって彼らと同じような生活は出来ないのである。
 
悲しくも、それが現実だ。え、悲しくない? あ、そうですか。
 
チンパンジーとヒトではそもそも身体の作りが違うので、その生活様式も異なって当然だ。
チンパンジーとヒトの共通祖先から進化が枝分かれしたのは、もう何百万年も前だが、その構造上決定的な違いとなったのは、我々人類の先祖は直立二足歩行に適した身体になっていったが、チンパンジーはそうはならなかったことだ。
 
チンパンジーはもっぱら熟した果実を食べ、ほとんどを樹上で生活している。
移動は樹から樹へと枝渡り(ブラキエーション)をするか、地面を拳を着いて四足で歩いている(ナックルウォーキング)か、二本足でよたよたと歩くかしている。
 
人間の行う二足歩行というのは四足歩行に比べて、エネルギーの効率がいい。
 
チンパンジーの一日の移動距離がどれくらいかご存じだろうか。
彼らは一日に、2〜3キロメートルしか移動しない。
エネルギー効率が悪すぎて、それくらいしか移動できないのだ。
 
世の中には物好き…好奇心旺盛な人がいて、チンパンジーに酸素マスクを着けて、ルームランナーを歩かせる実験をした科学者がいる。
 
すると、その消費エネルギーは人間が同じ距離を歩いた場合の四倍にも達したという。
 
チンパンジーが2〜4キロ歩くエネルギーで、人間は8〜16キロ歩けるということになる。
 
悲しいかな、チンパンジーの場合、「ちょっとコンビニ行ってくる」でさえ、一日の労力の大半をつぎ込む壮大な仕事になりかねないのである。
 
そもそも彼らの場合、食べ物はそこらじゅうにある。自分がいる樹に果実がなくなればとなりの樹に移り、どうしても無ければ植物の茎や葉や根などを食べ、昆虫がいたら食べ、たまにはみんなで狩りでもしちゃう? といった具合だ。
 
極端な話、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家ではないが、食べられるものの上に住んでいるともいえるので、そもそも移動する必要性がほとんどないのだ。
ただ、野生の食物は繊維が硬く栄養が少なく、ひたすら噛んでいる必要があるし、たくさん食べなければならない。
 
消化に悪いものをひたすら一日中食べ続ける生活。たしかに野性的、か?
 
 
エネルギー効率の良さ
 
さて、武術修行者にとって興味深いのは、二足歩行と四足歩行のエネルギー効率の違いという点ではないだろうか(自分だけか?)。
 
とくに太極拳を修行する人間にとっては、いかに力を使わずに戦うかという点において、非常に示唆的なものが含まれているように感じる。
 
二足歩行に適した身体に進化した人間は、四足歩行のままのチンパンジーに比べて、力や瞬発力という点で明らかに劣っている。
パワーもスピードも、オリンピック級の超人の倍くらいの能力を、特に鍛えていないチンパンジーが出せるのである。
同じことで勝負しようとするのはあまりに馬鹿げているではないか。
 
チンパンジーとヒトの違いは、チンパンジーは直立出来ないという点にある。
まっすぐに立てないために、四つ足と二本足どちらも、歩く時には筋肉で体を支え続けなければならない。
 
おもにつかわれるのが背中や腰と、あとは蹴り足として使われる大腿部の筋肉だ。
 
人間はしっかりまっすぐ立てば、それだけで無駄な筋肉を使わずに立つことが出来るのだ。
 
もうピンと来た人がいるかもしれない。
太極武藝館では、大腿四頭筋で蹴らない、落下しないということを注意される。
それらの動きは、進化したヒトが獲得した動きというよりも、むしろ四足動物の持つ構造に近いものなのだ。
我々が進化する上で手放した構造を、わざわざ再び手に入れようとするのは、進化の方向性に反したことに思われる。
 
格闘技の試合が1ラウンドごとに休憩をはさむのも、そこで使われている動きが、そもそも効率の悪い動きだからだ。
 
太極武藝館の稽古では、休むことなく数十分も動き続ける。
特に研究会の散手では、師父一人相手に、年齢の若い門人が数人がかりで掛っていくのに、我々は汗だくで息も切れているのに、師父はまったく疲れた様子が見えない。
 
エネルギー効率の良い動きの出来る身体構造に向かった進化の方向性が、正しく整えられた人間としての本来の在り方に宿っているという、まさに証明といえるのではないだろうか。
 
ウルトラマラソンという競技では200キロもの距離を人間は走破し、一日百マイル(約160キロメートル)を数日間走り続けることが出来る。
そして、その能力によってヒトは野生動物を仕留める。
軍隊では数十キロの荷物を背負って数十キロの距離を行軍し、さらに敵地に到達してからはそこから戦闘を始める。
 
これだけのことが出来る生き物は、地球上に他に存在しない。
 
その始まりは、はるか昔、人類とチンパンジーの共通祖先が、まったく違った環境に置かれたことから始まった。
 
地球規模で環境が変化する中、チンパンジーの祖先は、森が豊かで、それまでの生活が続けられる環境に取り残され、何百万年も変化することなく居続けられた。
 
かたや、我々の祖先は、生活の場であった森が減少し、広大な荒野という辺縁に取り残されてしまう。
我々の祖先が選んだのは、森に戻ることではなく、目の前に広がる荒野を開拓し、新たなフロンティアを目指すことだった。
そのためには、効率の良い移動手段が必要不可欠であり、新しいことへと向かっていくその精神もまた、それらの原動力となったのだった。
我々人類とは、同じところでとどまってはいられない生物なのだ。だからこそ今、地球を超え、宇宙へとまで進出するにいたったのだ。
 
 
戦いを求めて…?
 
二足歩行を行うようになって前足が解放され、手と進化した人類は、さらに脳の進化が促されることによって、地球上類を見ない征服者となった。
 
面白いのは、人類がこれだけ発展するためにとった戦略が、血のつながらない他者と協力するというところにあった点だ。
太極拳もまた、向かってくる相手を制するために、その相手そのものの協力を必要とする。
自分を害するために向かってくる相手と和合することによって相手を制するとは、いかなる発想がそれを生んだのだろう。
何よりも、それを理念とするのではなく、実際的な技術として昇華させてきたその歴史に、驚きを禁じえない。
 
ヒトがヒトを敵とみなすのは、相手が別のグループに属していると判断した場合に限る。
自分の仲間ではない=自分と敵対する可能性がある、と、実に分かりやすい構図だ。
 
初期のホモ・サピエンスが地球上に広まり始めた当初、人類に人類同士の争いの跡がほとんど見られないのは単純な理由で、周囲に敵対するグループがいなかったからだ。
自分の回りにいるのは仲間ばかり。殴る相手を求めて数百キロも命をかけて歩いていく物好きはそうそういなかったに違いない。
 
イタリア半島くらいの広さの中に自分ひとりしか人間がいない、というくらいの人口密度の中で、せっかく見つけた隣人に問答無用で挑みかかる人間がどれほどいるだろうか。
 
その時代を生きた人間にとって、戦いとは生き残ることであり、生活そのものに深く根付いていたに違いない。
そしてその中には、他者を制するための戦いはほとんど含まれていなかったはずだ。
他者とは、協力すべき相手であり、仲間であった。
 
他人とは自分と似たものであり、他人を知るためには、自分を知る必要があった。自分を通じて、自分と似た他人を知ることが出来たのが、人類が他者と協力できた最大の理由だからだ。
 
助け合いの中で、相手を利することは自分を利することだった。
そして、いざ争いになったとき、相手を制することとは、すなわち自分を制することだったに違いない。
 
この精神は、人間としての正しい在り方、整え方を追求する太極拳の中にもしっかりと存在している。
 
人間が人間になったときから、生きる上で興味の対象に自分が含まれ、そして他者が含まれるようになった。
人間が増え、他者とのかかわりが増え、そこで争いが生じるのはある意味仕方のないことともいえる。
 
人間にとっての野生とは、いかにもな自然の環境に還ることではないと思う。
いままさにこうして生きているこの環境そのものが、実は人間にとって姿を変えた野生なのだ。
 
即座に命を奪うものも回りにはあふれているが、種としての時間の短さから、人間の遺伝的本能はその危険性に気づいていない。
また、慢性的にゆっくりと命を奪っていくような危険も同時にあふれているのだが、そのことにも多くの人は気付いていない。
 
太極武藝館で指導されている内容が、ただ敵と戦うための技術に終始するわけではない理由もそこにあるのではないか。
生き物にとって、生きることが戦いであり、生き残ることが勝つことだとすれば、いま生きている環境を知り、自分自身を知ることが、勝利への絶対条件と言える。
そのためにはただの方法論でなく、精神や志、魂といったものが必要になってくる。
 
君子危うきに近寄らず―
 
だが、真の戦士は、己や仲間を守るためならば、喜んで死地に赴く。
 
それは敵を屠ることに喜びを覚えているわけでもなく、征服したいわけでもない。
そうしたものが、ただ敵にやられない技術のために生じてくるものだろうか?
 
そうは思わない。
 
まずは絶対的なスピリットがあってこそ、そこから、生き残るために必要な技術は生じてくるのだ。
生き残るための戦いは、全体性の中にある。
それになるためには、やはり自らが全体性の中に没入しなければ不可能なように感じる。
 
あらゆる環境の中に「生きる」自分。
 
それこそが、まさに野生としての在り方ではないだろうか。
 
                               
                                  (了)

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2015年01月24日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その27

   「 意識とはナニカ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳では、用意・・意を用いるというけれど、
 そもそも、その用いられるといわれている「意」とはなんなんだろう?

 意識的であること。
 単純なことなのだけど、日常の中ではすぐに見落とされてしまう。
 日常の考えに慣れ切った頭では、
 「意識的になろう。では意識的とはどういうことだろう?」
 そう考え始め、何かの定義を求めはじめたときにはすでに思考となっていて、
 肝心の意からは離れてしまっている。
 
 では、感じるままに・・・
 などとニューエイジにかぶれたような思想のもとで行ってみても、 
 立っていればなんだか脚も痛いし背中も痒い・・・
 相手が来れば相手を受け入れたときにはやられているなんてこともしばしばだ。
 
 そこに至って、ふと立ち止まらざるをえなくなる。
 こいつは、何かがおかしいぞ、と。
 

 僕たちが子供のころから、ラジオ体操はじめ、学校教育によって嫌でも西洋運動理論がいつのまにか身体に染み付いてしまっている。
 
 西洋的な運動、スポーツの始まりをさかのぼれば、一体どこに行きつくのかはわからないけれども、古代ギリシアやローマ時代に行われていたという古代オリンピックにその起源の一端があるかもしれない。
 
 古代オリンピックは神々に捧げる儀式としての意味合いを持っていたらしいが、競技の内容を見れば、円盤投げ、やり投げ、走り幅飛びに短距離走、ボクシングやレスリングなど、明らかに戦闘のための技術を競技にしたものが行われていた。
 中には盾や鎧を装備して行われる武装競争なる競技もあったというから、それらの意図していることは明らかに、兵士を鍛えるために、戦闘に必要な技術を細分化して競い合わせるということだろう。
 
 
 もちろんすべてのスポーツの起源が戦争のための訓練だったとは言わない。
 サッカーで戦うなんて、某少林サッカーじゃないんだから、さすがの中国人も考えないだろう。
 
 ただ、発想の根底として、ある全体の枠組みの中で、ここで言えば戦争に関する闘争技術の中の一部を取り出して、鍛練していくことが目的だったというものがあるように感じる。
 とすれば、そもそもにおいて、個々のスポーツ競技ひとつひとつは、断片的な身体操法と言えるのではないか、と感じるのだ。
 
 ここにはギリシャローマから始まる西洋的な思考哲学、分析などの萌芽が一緒に含まれているように思える。細分化し断片化したものひとつひとつを丹念に調べ上げていけば、結果として全体に関する知識も得られるだろう、という発想だ。
 いわばそれは、現代にも通じる科学的な思考方法とも言えるだろう。
 
 
 では、東洋の思想はどうだろうか。
 といってもそれらに関して、僕はまったく無知の素人なのだ。東洋の思想に関してはせいぜい鈴木大拙の本を何冊か読んだことがあるくらいである。
 どうもそれによると、東洋というのはいわば禅の思想に通じるものがあるらしく、それがそのままぽんとあるというか、我も彼もなくただあるといったようなこと、らしい。
 端折ってしまってるのでほとんど何も伝わってないが、時間があったら鈴木大拙の著書を読んでみてください。いろいろと面白いです。
 
 とにかくそういった思想の根底が東洋には流れているようで、当然それは太極拳にも通じる何かがあるのではないだろうか、と感じるのだ。
 
 ではそれはすでに取り上げた西洋的な思想と混じらないかというと、実は混ざり合う。
 ヨーロッパとアジアが中東あたりでじわっと混ざって独特な文化を作り上げるように、それらは境目なく溶け合っている。
 アプローチの方向性が違うだけで、それらは同じ物事の両面を取り扱っているもののようにまるで見えるのだ。
 
 問題になるのは恐らく、どちらかに極端に偏った見方になっているときなのではないだろうか。
 恐らく我々日本人は、西洋的な運動理論のみに偏ってしまっている、そこがそもそもの問題の始まりなのだと思う。
 
 現代の欧米では、盛んに東洋の神秘を科学的に研究するという、一見矛盾するような取り組みがかなり本気で行われている。
 マインドフルネスという、「今、ここに生きる」という、あたかも仏教の瞑想のようなものが心理学として本気で研究され、取り組まれていて、いま何かとブームになっているらしい。
 なんでも流行りのものに飛び着いちゃうのが欧米、おもにアメリカらしいのだが、それでも彼らの、問題に対して本気で取り組む真摯な姿勢、そしてそれを容認する文化は日本人は見習うべきだと思う。
 
 それらの精神文化が流行するのも、物質文明として栄えた西洋の文明が、相対的にバランスを保つために精神のほうへシフトしていくという流れの一つなのだろう。
 
 それに比べると、いまの日本の精神性はいかがなものだろうか。ハロウィンやクリスマスなど、向こうでは宗教的なイベントとして行われているものが、日本には完全にただのイベントとして入ってきてしまっているように感じる。
 日本の宗教は神道で、八百万の神を祭っているのだから問題ない、という見方も出来るのかもしれないが、そこにあったはずの精神性はどこにいったんだろう、と思うと首をかしげざるを得ない。
 
 
 えぇと、宗教や文化の話はともかく、である。
 (クリスマスぅ?・・昼は仕事して、夜は稽古してましたが、何か?)
 
 太極拳の稽古を行っていると、そういった、今の日本では価値観として忘れ去られてしまったような精神性にも目を向けざるを得ない、というのは、実に面白いことだ。
 そして同時に、太極拳は実際に身体を使う、実学としての面もちゃんとあるということを忘れてはならない。
 精神だけでも身体だけでもダメで、それらが調和しないことには、本当の意味での太極拳は習得できないように強く感じる。
 
 
 じゃあ自分は頑強な肉体に、聖人君主のような精神を持っているのか?
 というとぜんぜんそんなことはない。
 はや入門して何年も経つというのに、ダルダルの体とグダグダな心をいつまでも引きずったままである。
 ・・とそれはそれで問題なのだが、ひとつだけ変わったことがあるとすれば、自分は今、どうなのかということに、『嫌でも』目を向けざるを得なくなった、ということだろうか。
 そう、これがすごく嫌なことなのである。自分の本当の姿なんて、だれも知りたくはないものだ。理想とはぜんぜん違う、これが自分!、そんなのはNO!だ。
 
 ところが、一度これを始めてしまうと、自分という人間は、そして回りの出来事まで含めて、いかに面白いんだろう、とだんだんと感じはじめてしまうのである。
 良い部分はあんまりないように感じるが(笑)、ダメなところはダメなところで、意外と愛嬌があってよろしい。完璧なものなどないと知れば、これはこれで、まぁ味があると言えるんじゃないだろうか。
 
 それでも、うん。
 もうちょっと武術的にどうにか腕を上げたいものだから、いくつか注意点を絞って、自分のことを見てみよう。
 
 そうすると、少しずつだけど確かに変化が現れ始める。
 
 そうなっている時の、まさにいまの自分。
 
 
 冒頭に戻るが、ほんの少しだけ意識的になれているような気がした。
 
 意識的とはどういう状態か、と考えていてもダメで、かといって悟りを開いたような微笑で立っていても恐らく意味はないんだろう。
 
 自分が求めることの情熱の中で、わからないなりにも少しずつ、固まっていたものが解けだしていくような感覚だ。
 こうした味をちょっとでも味わえたのは、いまの日本の中にいて、ものすごく稀有なことで、素晴らしいことなんじゃないかと思う。
 そして一度この味を知ってしまうと、もう一口、もう一口と、なかなか止まらなくなってしまうものである。
 
 
 そう思わせてしまう太極拳は、ある意味、禁断の果実かもしれない。
 一度味わってしまえば、もうもとには戻れない。
 先へと進むのみである。 


                                 (了)

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2014年11月16日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その26

   「 離れた場所の優位性」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 非接触による崩しは、確かに不可思議な現象である。
 実際に味わってみれば、それがやらせなどではなく、確かな現象として、そして一定の法則に従って現れる現象なのだということを、いやというほど体感することが出来る。
 
 
 そもそも、離れた相手を仕留めることは、人間の発展の歴史においてごく自然的な出来事であった。
 
 
 人類は、自然界における最強のハンターである。
 人類が人類として姿を現して以来、人間にとって戦いの対象となる相手は、人間ではなかった。
 
 獲物を狩るためにこそ、人間の能力は発達してきた。獲物とは、大地に生える植物のことであり、大地を駆ける動物たちのことである。
 いったいどれくらいの動物が、たとえばマンモスなどの大型動物が人間の狩猟行為によって絶滅していったかを知れば、人間ほどのハンターは地球上に存在しないことにも納得せざるを得ない。
 
 
 自然界の中において、人間ほど自分から離れた場所に影響を与えられる動物はいない。
 同時に、人間ほど離れた場所のことを知ることのできる、予測することのできる動物はいなかった。
 これは他のどんな動物たち、人間より強靭な毛皮や脚をもち、また爪や歯を持ったどんな動物たちよりも有利に立つことのできるものだった。
 
 人間が得た最初の武器は、二本の脚で立つことだった。
 四足で移動する動物に比べて、二本の脚は極端に不安定であり、同時に、極端に効率的でもあった。自然界において、人間が最高の長距離ランナーだと言ったら驚くだろうか。
 
 中距離や短距離では、馬やチーターなどの動物に走ることにおいて、人間は勝つことは出来ない。ところが、超長距離のレースになったとたん、人間が勝ちはじめるようになる。
 
 過去に行われた山岳100マイル(160キロ)レースにおいて、人間は馬に勝ってきた。
 そもそも自然界に、純粋にレクリエーション目的で100キロから200キロに及ぶ距離を走る動物などいない。
 
 二本の脚で移動することは、人間にとってまぎれもない武器だったのだ。
 二足歩行を始めてから、最初の道具の痕跡が発見されるまでの空白の数百万年の間、人間は動物の肉を採ることは出来なかったかというと、決してそんなことはなかったのだ。
 
 どうやって獲物を捕っていたかと言うと、追い掛けることで疲労させて、捕まえていたのである。
 動物の痕跡を追いかけることで、動物を追いたてて走らせる。疲労が蓄積し動けなくなった動物を難なくしとめる。
 そんなことが可能なのか、と思われるかもしれないが、現代になっても、アフリカのブッシュマンにはこうした持久狩猟が伝統的に行われている。
 
 
 相手の行動を予測すること。そして、狩った動物の肉から得られる豊富なたんぱく質によって、人間の脳はさらに進化していった。
 次第に人間は道具を生み出し、文化を生み出し、それによって狩猟能力は更に加速され、多くの栄養を得ることが出来るようになった人類はさらに繁栄を迎えることとなった。
 
 
 以前すでに書いたが、ネアンデルタール人が得ることの出来なかった道具に、アトラトラがある。(編註:氷河期時代の投槍器・今日も稽古で〜その17参照)
 これは我々ホモサピエンスのほうが彼らより柔軟に動く肩を持ち、かつ文化を伝承する必要のある、群れることでしか生き残れなかった「弱さ」ゆえの産物である。
 
 ネアンデルタール人にくらべ肉体的に劣る我々ホモサピエンスは、その生存のために知恵を磨き、頭を使うことが強いられた。
 
 そうして得られた物を投げるという能力は、他の動物には見られない特徴であった。
 人類ほど長距離を走る動物、つまり持久力のある動物はいないし、人類ほど物を上手に投げることの出来る動物はいないのである。
 
 
 物を投げるというのは、実にあなどれない戦闘法である。
 弱者が強者を倒す例として有名なダビデとゴリアテの戦いは、まさに不利な状況を埋めるために遠距離からの投擲武器が使われた好例だ。
 大航海時代、新世界に出て行ったヨーロッパの軍隊は、彼らが最新式のマスケット銃や大砲で武装していたのにも関わらず、弓矢も使用していない原住民に、投石によって多数の死傷者を出すこととなった。
 
 
 人間の戦い方の基本は、いかに遠くから敵に対して影響を与えるかという方向に特化していったともいえる。
 投げ矢や投石からアトラトラなどのカタパルトが出来た。
 そこから弓矢に変わり、そして近代において大砲や銃火器を作りだした。
 発展は続き、現在では超長距離からミサイルをぶつけ合うという形に発展していった。
 
 相手に触れずに、離れたところから影響を与えるというのは、そもそも人類の発展の段階からすでにプログラムされた出来事であるともいえるのだ。
 
 
 たとえば物を投げて相手にぶつけるという単純な行為を、人間は子供のうちから簡単にやってのける。
 小学生にもなれば、野球をやり始める少年もたくさん出てきて、大人顔負けの名勝負を繰り広げているのだから大したものである。
 
 物を投げるのは、ただ投げる能力だけがあればいいわけではない。
 自分が投擲に適した動きをしている間に、自分の放りだした物体が相手へどのように到達するか、それまでの間に相手がどのように変化するかなど、そういった複雑なことを瞬時に計算し、柔軟に対応させていかなければ、目標に物が当たるということはない。
 
 獲物を狩るために離れたところから物をぶつけるには、相手の動きを予測し、自分を変化させる必要がある。
 そのためには相手がどう動くかを知る必要があり、そして自分がどうなっているかを知る必要があるのだ。
 
 そうした処理能力は人間の脳を発展させる必要性を生じさせた。
 もちろん狩りは一人では行わないので、仲間との連携も必要とした。その中でも、自分以外の他者の存在を認識する必要があり、それによって相対的に、人は自分の存在にも目を向けるようになっていった。
 
 
 
 以上のように、人間には進化の過程において、本質的に離れた対象に影響を与え、変化を予測するという志向性があると言える。
 
 それは、他の動物に比べて身体能力的に弱者である人間が、強者である他の動物を獲物とするために生まれてきた必然性の賜物といえる。
 そのために使われるのは、純粋な身体能力というよりも、自身の状態と相手の状態を見極め、それにたいして影響を与えることによって行われる一種の戦術に近いものということが出来る。
 
 この方向性の進化を狩猟のテクノロジーの進化として見たとき、武術・戦闘においてその類似性が見られるのも不思議ではない。
 進化の方向性は、環境に対してより必然性に傾く方向、つまり生存に適した方向に導かれる傾向があるからだ。
 
 武術は戦闘において生き残る技術として発展してきたのだから、ある特定の時期に、戦術として非接触の影響というテクノロジーを発見したのだとしても、不思議なことではない。
 それこそが弱者が強者に勝つための、必然の方法だったのだ。
 
 
 太極拳に関して言えば、そもそも離れた場所においては物理的な力の伝達作用は起きないのだから、力(拙力)の使いようがない。
 もちろん相手が人間としての構造を持っていない限り、影響は起きない。
 たとえば同じ重さの砂袋を置いておき、それに作用が起きるかというと、当然そんなことはないはずだ。
 
 非接触で人間に作用が起きるということは、つまりはそれがそのまま「用意不用力」の基準を満たしているといえる。
 
 
 また、非接触の影響を、気など神秘の力の作用だとするのも同様に誤りだと言える。
 たとえば野球少年がキャッチボールをするとき、そこには気の神秘の入り込む要素などまったくない。
 勿論、仲間同士としかキャッチボールが出来ないかというと、決してそんなことはない。
 初めての相手とだって、キャッチボールは出来る。そこには、キャッチボールを行うための人間の構造が確かに存在し、人間の脳が持つ高度な演算処理によってそれを実現しているからだ。
 
 
 言ってみれば、武術における非接触の影響にも同じようなことがあてはまるのではないだろうか。
 相手を撃つ、相手に向かう。
 その中には人間であったら逃れることのできない構造が存在している。
 それを正しく理解し、正しい変化を促せば、それによって触れていなくても相手は崩れるということは起こりうる。
 
 考えてみてほしい。特定の的に対して「当てる」ことと、特定の的に「当てない」こと、どちらがより簡単に起こりえるだろうか。
 
 試しに部屋の中のゴミ箱にゴミを投げ入れてみると良い。
 ゴミ箱に入れるのと、ゴミ箱から外すこと。どちらが簡単だろうか?
 
 だとしたら、相手に狙った攻撃を入れることと、狙った攻撃が当たらないこと、このどちらがそもそも起こりやすいことなのだろうか。
 
 
 太極拳。その原理は、自然の法則に沿っている。
 
 だからこそ、我々の目には逆に映りやすいのかもしれない。
 
 
                                  (了)

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