今日も稽古で日が暮れる

2021年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その52

   『純粋に』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 先日、稽古の帰りに、門人の I くんがこう言いました。

「僕にとって、太極拳は生き甲斐です」

 人生で、生き甲斐と断言できることに出会えるのは、素晴らしいことだと思います。それは人生を惰性で過ごし消費してしまうものではなく、人生を通して自分を磨いていくことに使える、素晴らしいものだと思います。

 昨年一年間、道場へ稽古に通う傍ら、ブログ記事「今日も稽古で日が暮れる」を書かせていただきました。
 それらの中でも常々触れさせていただきましたが、太極拳を稽古していく中で大事なことは、師父がどのように考え、行動されているのかを理解し、それに合わせていけるかという点ではないかと感じておりました。

 先日、たまたま見かけた科学ニュース記事の中で、ニューヨーク大学の研究について書かれていました。それによると、授業中の教師と生徒の脳は同期しているそうで、さらに、生徒の脳波が教師の脳波に似ていれば似ているほど、授業の理解度が高いことがわかったそうです。
 情報元の論文を当たったわけではないので、詳細はわからないですが、おそらくその通りなのだろうという気はします。
 自分で稽古をしていて、また他の門人が稽古に取り組む様子を見ていても、まさにその通りと思えることが実際に感じられます。
 示された太極拳の技法ひとつひとつが理解されることで上達するというよりは、その示された技法が、どのような理論・背景によって成り立っているのかを理解することが上達につながるのではないかと思います。
 そこで示されたことがそのまま出来なくても、師父が何を言わんとしているのかがなんとなく分かる…それによってのみ上達できるのではないかと思います。

 師父が常々「考え方が大事だ」と仰ってくださることは、そういう意味も含まれているのではないでしょうか。
 考え方が合っているということは、発想の仕方が同じということであり、考えを生み出す脳も同期した状態であると言えるかと思います。その状態で、武術的な動きをしようとした時、そこから導かれる動きは、それもまた師父の考えと同期した動きになる可能性は高く、それによって太極拳の動きが再現され得る、と繋がっていくのは論理的にもあり得るのではないでしょうか。

 師父に指導して頂いている太極拳は、非常に科学的・論理的で、一見すると神秘的な現象に見えるようなことも、きちんと条件が整えば再現性のある現象であると感じます。
 師父が太極拳を教わる時、「一度しか示してもらえなかった」という話をしてくださいました。それに比べて我々は、何度も技を示して頂き、事細かに説明までしていただき、それでも十分には理解しきれないという体たらくで情けない限りです。
 師父のように、一度示されただけで理解していけるよう、心身ともに研ぎ澄ませていかなければいけないと反省と精進をしております。

 技を教示して頂く際、師父や玄花后嗣に何度も何度も技を掛けていただくという機会が自分にはありました。技を掛けられることは非常に幸運なことで、そうやって体で覚えていくのだと、師父に伺ったことがあります。
 そこでふと思ったのですが、世界的に見ても太極拳の真伝が非常に稀な存在である上に、その技を自分のような一門人が何度も体験させていただくということは、これはもう歴史的に見ても稀な出来事なのではないでしょうか…?
 というのも、最近特に感じるようになったことなのですが、稽古中に対練で崩される時、明確なパターンがそこに存在すると認識できるようになってきたからです。
 体が散々崩され続け技を受け続け、その先にようやく頭の理解が追いついてきたという感覚です。
 それは不可思議な現象ではなくて、ある状態ではこちらの体が特定の反応を示していて、それに対して別の変化が加わるとこちらが対処できないというように、極めて論理的な現象だといえます。

 師父はよく、太極拳を「手品」と例えてお話をしてくださいます。手品・マジックにおいては、それがどれだけ不可思議な現象に見えても、必ずタネがあります。
 ある特定のポイントに人の注意を集めておいて、気づかれない裏で別のことをしている。それがある時、表に出てくると、人々は驚きます。
 マジシャンの腕前、見せるトリックの難易度など、様々な要素があるにせよ、見ている人のミスリーディングを誘うというのは、根本的なネタではないかと思います。

 太極拳においても、それと同じ状態が、相対している中で生じているのだと思います。
 もちろんそれは、格闘技のようなフェイントを仕掛けるという話ではありません。人間の生理現象、反応のもっと深いところで起きている繊細な現象を利用しているのだと感じます。

 さて、もし太極拳がそのような、手品のような人の虚をつく現象を利用しているとして、それを理解するにはどうしたらいいかという話になるかと思います。
 そのために、最初の話に戻りますが、考え方を合わせる、脳を同期させるしかないのではないかと思うのです。
 もし本当に太極拳が手品のように人を驚かす技法と共通点があるとして、ではその手品で人を驚かせるにはどうしたらいいでしょうか。
 そのためには、まず自分が、手品で純粋に驚く必要があるのではないかと思います。

 よく、手品やマジックを披露されている時に、手品の出来ない素人で「看破ってやろう」として見ている人がいます。
 そういう人は、拙い手品なら見破れるでしょうが、プロが本気で仕組んだ手品は絶対に見破ることが出来ません。
 問題はその先で、手品を見破ろうとしてきた人は、実は、手品で驚くということがわからないので、手品のトリックは分かっても、それを使って人を驚かせることができません。
 プロのマジシャンというのは、いくつものトリックを使えるからプロなのではなくて、人が「驚くこと」が分かるから、プロとしてやっていけるのではないでしょうか。
 人が何に驚くかが分かれば、そこから新たな仕掛けを考えることが出来るでしょうけれど、その逆ではないのではないかと思います。

 太極拳の稽古中でも、対練において、看破ってやろう、技を効かないようにしようという態度で挑むと、分かるべきことが分からないと体験として感じます。
 一番上達が早い人は、技を技としてきちんと受けられる人で、手品で言えば素直に、ただ純粋に驚くことが出来る人だと思います。
 自分が驚くことが出来るために、驚くということがどういうことか理解でき、それはつまり人を驚かすこともできるということではないかと思います。

 同じものを見て味わっていても、その人間の見方ひとつで物事は変わってしまうのだと思います。では、そこで何を選択するかで、物事も即座に変わるのだと思います。

 自分が何を選んでいるか自覚的になって、生活まで含めて稽古として取り組んでいきたいと思います。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その53」の掲載は、3月22日(月)の予定です

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2020年11月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その51

  『わかるかな』

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「…わかるかな」

 あなたは、それが「わかりますか」?…。師父が我々に何かを話してくださる時、いつも発してくださる問いかけです。

 師父が我々に何か指導してくださるとき、師父はそれが「出来るか」と問うことはありません。
 師父に「わかるかな」と問いかけられたとき、私はいつも自分自身の内側と向き合い、自分が何を感じ考えているか、外側をどのように見ているか、ということと直面することを求められているように思います。

 また稽古中、何かに気づいたとき、それまでに見えなかったものを見たとき、師父は一言、「わかったか」と仰ってくださいます。
 それによって、また自分自身と向き合い、それまでの自分との違い、確かに芽生えた手応えを感じることが出来ます。

 理解することと出来ることには、隔絶の違いがあるのではないかと、自分で稽古をしていても、また、どんどんと理解していく他の門人の取り組み方を見ていても感じます。
 厳密に言えば、理解せずに出来ることはないかと思います。ですが、その時点で要求されている事柄をクリアすることを目標にするのと、何かを理解することを目標にするのでは、大きな違いがあるように思います。

 思い返せば、自分自身を形成するのに非常に大事な幼い頃から、我々は学校で行われる評価のシステムに慣れすぎてしまっているのではないかと思います。
 その中で求められる、「勉強ができる」「良い成績が取れる」ことと、太極拳を「学習していける」「理解できる」ことで稽古していくことは、全く違ったことなのだと、最近は特に強く感じています。

 理解できることは、非常に経験的なことで、体感的、現実的なことなのではないかと思います。
 理解が生じると、頭で「なるほど」と思うだけには収まりきらず、気づいた瞬間には思わず膝を打つような体の動きを伴います。それまで繋がっていなかったことが結びついたかのような、実際的な手触りまで、自分の場合には感じられます。ぼやけていた輪郭がはっきりとした瞬間、確かに自分はそれまでのものとは変わったのだと、体感させられるのです。

 師父はその瞬間を見逃さず、「わかったか」と声をかけてくださります。
 …もしくは、わからずに首を捻る我々に「わかったか?」と問いかけて下さるのです。

 先日も、師父のお話を伺っているとき、「わかるだろうか」という問いかけを聞く度に、自分は嬉しくなってしまっていました。というのも、師父の言動には全て必ず、太極拳の理解につながる要素があると感じているからです。
 その師父からの、「わかるだろうか?」の言葉…。
 それはあたかも、「ここに宝があるのだけど」と示されているかのようにさえ思えるのです。

 学校で誰かに評価され、自分の価値を決められるかのような経験をしてきた我々にとって、わからないことはネガティブな響きを持っており、わからないことは誰かに劣ることであり、自分の居場所さえないのだと言われているかのように感じられる部分もあるのではないでしょうか。
 ですが、師父の「わかるだろうか」という言葉には、そうした後ろ向きなニュアンスは全く含まれていないのではないかと思います。
 「なぜわからないのだ」と我々を責め立てるような意味は微塵もありません。
 わからないのだとしても、その「わからない」自分と向かい合っているだろうか? わからない原因が「わかるだろうか?」 と、いつも自分と向き合うよう、指導してくださっているのだと感じます。

 「わかる」ことと「わからない」こと、こうして書いていると、まるで禅問答のようにも感じられます。
 以前師父が話してくださった、ある禅のマスターの話が強く心に残っています。

 その師匠は、悟りを理解できていない自分の弟子を、ある日、杖で殴りつけて殺してしまいます。
 驚き見開かれた弟子の目が師を捉えた、命を落とすその瞬間、確かに彼は、師の行動を通して何かが「わかった」のだそうです。
 理解、それは一瞬で起き、そして全てを理解した状態で、弟子は命を落とします。
 そして、そうなることもまた、師にはわかっていたのです。

 現代的な解釈で見ようとするには、野蛮に映る話かもしれません。
 ですが、理解する、わかるということはどういうことなのかを、非常に鮮烈に体験させてくれるかのような話ではないでしょうか。

 同時に、わかるためには全てを投げ出す覚悟があるかを、改めて自分に問われる話ではないかと思います。
 その弟子は、悟りを得るために、自分の命さえも投げ出すことを選んだのです。それは師匠の手によってでしたが、これほどまでに強烈で、一瞬で得られる理解、そして命を落とすまでのほんの一瞬の出来事を自ら選んでいたに違いありません。
 そして、その覚悟と行動があったからこそ、師匠と弟子には共通の理解が確かに生じたのではないでしょうか。

 師父の「わかりますか」という問いかけは、極端な話、太極拳がわかるかと問いかけているわけでもないのではないかと思います。
 というのも、先日も稽古で「そんな太極拳みたいな動きはしなくていい」という言葉があったからです。
 太極拳の稽古をしにきているのに…? と、疑問を持つ門人は、おそらくもうその場にはいなかったかと思います。
 むしろその言葉によって、自分の中でどれだけ勝手な太極拳のイメージが出来上がっていたかを、改めて実感したのではないかと思います。少なくとも、自分にとってはそういう経験でした。

 禅のマスターによって命を落とす瞬間、その弟子は何が「わかった」のでしょうか。
 師父は我々に、何が「わかりますか」と尋ねるのでしょうか。

 その問いの妙味、深みを、もっと味わっていきたいと思いました。

                                (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その52」の掲載は、2021年1月22日(金)の予定です

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2020年09月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その50

  「身につく」ということ

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 武術において求められるのは、ノートに正しく記述された教えを丸暗記して間違えずに言えることではなくて、実際にその教えによって、体が動けることではないかと思います。
 そのためには、道場で指導していただいたことをただ大切にしまっておくのではなく、それをしっかりと正しく理解し、身につくまで自分で稽古する必要があるかと思います。

 要点だけを抑えて理解した気持ちになる、もしくは、道場で示されていることを聞き、理解したつもりになって実際にはそれが反映されていないということは、普段の稽古をしている中で、気を付けているつもりでも、いくつも出てきてしまうことがあります。

 先日の稽古で、玄花后嗣と自分の他に誰も門人が来ないという珍しい(幸運な!!)日がありました。その為か、師父より「1つだけ教えてあげなさい」と玄花后嗣に指示があったとのことで、特別にひとつだけ見ていただくことが出来ました。

 他の門人の皆さまの反感を買わないように先に言わせていただきますが、そこで教えて頂いたのは、特別な秘伝などでは全くなく、その前の日の一般クラスの稽古でも玄花后嗣が言葉にしており、動きとしても示していただいていたような内容でした。
 唯一違ったのは、それをどのように見て、どのように行うかという、本当に些細な一点だけでした。
 説明をすれば「たったそれだけ」とも感じられるような内容ではないかと思います。しかし、それを意識せずにやるときと、意識してやったときの違いは、自分の体感的にはものすごい違いがあったということだけは言及させていただきます。

 自分=太郎冠者にとって足りないところ、というポイントを絞っていただいたというのも大きかったかと思いますが、これほどまでに違うとは…と、唖然としてしまいました。
 歩くとき、歩法を行うときに捉えたいはずの部分が、少し外れてしまうという自分の問題があったのですが、その些細な捉え方の改善によって、大きな違いが生じました。
 そのことを伝えると、玄花后嗣がにこりと笑いながら、
「お宝はどこにでも転がっている。けど、それと一緒に転がっていてはダメですね」
という師父の言葉をお話してくださり、苦笑いをしてしまいました。

 お宝はどこにでも転がっている…これは本当に嘘ではなくて、道場での稽古の間中、気づいても気づいていなくても、本当に大切な教えはどこにでもあるのではないかと、改めて痛感させられた出来事でした。
 思い返してみると、その日、自分が指導していただいたことは、それまでにも師父や玄花后嗣の動きの中に、しっかりと現れていたことが思い出されます。隠されることなく、それは示していただいていたことだったのです。同様に、それはどのような状態なのかというのも、一般クラスの中でさえ、言葉として示していただいていたのです。ですが、それを正しく結びつけ、理解に至るという部分が足りていなかったのです。
 これは完全に、見ている側の、受け取り側の問題であり、それこそがその修行者…自分の理解の度合いの現れであると言えるのだと思います。

 指導していただいた後、「確かに示していただいていたのに、どうして気づけないんでしょうね」と自分が言うと、
「だから、真伝を正しく理解した指導者が必要なのです」と言っていただき、大いに納得できました。
 ほんの些細な違いで理解がまるで180度も変化してしまうのですから、すごいことでもあり、本当に恐ろしいことでもあると思います。
 わずかな思い込みで生じる理解の不完全さ、ほんの小さなことで、それ以降の伝承が変わってしまう可能性があるのだとしたら、どれだけの精度で勉強をしていかないといけないのかが、それだけで想像ができます。

 師父にずっと言っていただいている、『自分を挟まずに受け取ること』…。
 それこそが本当に大事なことで、そこにあるはずのお宝を、本当にお宝として受け取ることができるか、そうではないかを分ける分岐点になっているのだと思いました。

 この出来事は、自分にとっては教えていただいた内容による自身の変化という点も重要であったものの、何よりも、自分がどのように普段の稽古を見て受け取っているのかを改めて問われるという、大きな出来事であったように感じました。

 自分を挟まずに、教わっていることをどれだけ稽古できているでしょうか。

 稽古中、他の人がどのように稽古をしているかという点にも関心があり、それとなく盗み見たり、何を稽古しているのかをそっとメモしておくということを続けたりしていました。
 最近、メキメキと上達されているAさんなど、僕にとっては本当に大切な盗み見…もとい勉強の対象であるのですが、そのAさんもまた、他の人の様子を僕以上に良く見ており、そして稽古に取り組む姿も、自らが何をしようとしているのか、じっくりと向かい合っている様子が見て取れるように感じます。
 Aさんからは、道場で指導して頂いていることを、余計なことを挟まずに取り組もうとされている様子が見えて、その取り組んでいる様子が自分にとっては本当に勉強になります。
 Aさんと対練で相手をさせていただくと、それまでの稽古で培われてきた動きが、そっくりそのまま現れているのが感じられます。
 何日か経ってまた対練をすると、前にあった動きはそのまま、さらに精度を上げて動きが変わっているのが感じられます。
 これが、稽古が「身につく」ということなのかと、その時に思いました。

 何よりもAさんの身についているのは、勉強の仕方なのではないかと思います。自分を挟まずに、示されていることを見聞きし、それを稽古し、それによって自分の体が動くようになること。そしてまた新たに示されることを勉強していくこと。ごく当たり前のプロセスですが、知っているのと実行できるのでは、隔絶の隔たりがあるかと思います。
 見せていただいているもの、勉強させていただいているものを大切にし、自分はどうなのだろうかと、日々自問する毎日です。

                              (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その51」の掲載は、11月22日(日)の予定です

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2020年07月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その49

  「情熱を持って」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 本気で何かを習得したいのなら、それに対して情熱を持たないことには、始まらないと思います。
 自分にとって師父は、ただ太極拳の師というのみならず、人として、男として、多くの大切なことを教えていただける人生の師と言える存在です。

 師父が以前、「情熱を持って」取り組むのだと、説いて下さったことがありました。
 その言葉には、ただ熱意を持つといったことや、熱心にやるといったことを超えた深い意味があるのではないかと思いました。

 自分が感じたのは、情熱には必ず行動が伴うのではないかという点です。口先だけの情熱…など、言葉にしただけで矛盾があるように感じられます。
 どれだけ熱心にやろうとしている、思っていると言ったところで、それが行動に結びつかないことには全く意味をなさないのだと思います。

 師父の言葉に重みを感じる一番の理由は、何よりも師父が「行動の人」だからです。
 数十年に渡る武術稽古という途方もない営みも当然のことながら、何か行事を行うとなったら、一切手を抜くことなく準備を行い、それを実行されます。
 太極武藝館の歌を作ると聞かされた時も、非常に驚きました。
 忙しい日々の合間を縫って実際に歌を完成させ、我々門人に自ら指導までしていただき、みんなが歌えるようにしていただきました。
 このような武術の師など、他に聞いたことがありません。ですが師父はそれを考え、実行に移されるのです。

 最近では、ご多忙のため道場に来られない時でも、スマートフォンを使ったテレビ通話を利用して指導をしていただくこともあり、常識に囚われない姿には、本当に驚かされます。
 中には「そんな指導で上達するわけがない」と思う人もいるかもしれませんが、実際に師父に指導を受けた人にポンポンと崩され投げ飛ばされるということを自分で味わうと、その結果に目を向けざるを得ません。

 それも全て、師父が理論的・科学的に太極拳を解明しており、何をどうしたらどうなるということを理解されていることの証明に他ならないのだと思います。
 そして、こういう文明の利器を利用することもいとわず、我々に指導をつけてくださるという師父の行動そのものが、師父が情熱を持って太極拳に取り組んでいらっしゃることの現れではないかと思います。
 その姿にこそ、我々門人は、何よりも多くのことを勉強させて頂いているのではないかと思います。
 師父のように太極拳に向かえているだろうか? と自分自身に問わない日はありません。
 口先だけ、うわべだけの情熱になってないだろうかと、常に自問自答しなければならないのだと思います。

 何かを理解することもまた、結果的には行動を変えることにつながることではないかと思います。
 太極拳の原理を頭で理解したということは論理的にありえず、理解が起これば、少なからず自らの動きに変化が生じるはずであり、そうでなければ本当の理解には至っていないと言えるのではないかと思います。
 このことは、自分を知的馬鹿へと誘う甘い誘惑と戦う時に大いに役立っています。

 極論すれば、本当に情熱を持って何かに取り組むとき、そこにあるのは「やる」か「やらない」かの2つだけであり、その間に「やろうとしている」というものはないのだと思います。
 やろうとしていると思っている間は、実際にはやってはいないはずです。
 実際に行動を起こしていない人間が、それに情熱を持っていると言えるのでしょうか?
 そうは言えないはずです。自分のこととしてもそう思います。

 世の中にはいろいろなことがありますが、どうしても興味を持てないこともありますし、特にやる必要を感じないこともあります。それらのことをやろうとは思いませんし、当然、情熱など持っているはずもありません。
 情熱を持たないものに関しては、変化を望まないものです。
 だからこそ、目標に向かって取り組んでいるはずの人間は抱いていて当たり前のはずの情熱について、師父はあえて我々に問い直してくださったのではないかと思います。
 自分の中で何かが袋小路に入り込んでしまった時、最後に照らしてくれるのは、自分の中にある光だけではないかと思います。本当に大事なこともまた、そのようにして見つけ出していかなければならないのではないかと思います。

 師父が「太極拳の構造はすでにそこにある」という話をしてくださったことがあります。
 何かを作っていくのではなくて、すでにそこにあるものを見つけ出して、磨いて使っていけるようにすること。それを行うためには、情熱を持ち、実践し続けることが必要不可欠なのだと思います。

 師父が行われることには、太極拳には繋がらない無駄なことは含まれていないように感じます。
 先日も、稽古でわからない部分で悩んでいた時、ふと浮かんできた太極武藝館の歌の歌詞に、とてつもないインスピレーションを受けたことがありました。
 稽古中にぶつぶつと歌詞を口ずさむのは怪しいことこの上なかったかもしれませんが、どうしてもわからなかった部分の解決の糸口が、その歌詞によって少し見えてきたのは紛れもない事実です。

 歌を作ると聞かされた時にはピンと来なかったものが、こうして稽古へと繋がってくるのは、まさに陰陽虚実が流転する太極の在り方だと感じられます。

                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その50」の掲載は、9月22日(火)の予定です

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2020年05月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その48

 「システムとシンプルさについて」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 先日の稽古中、玄花后嗣から「学習していけるシステムを理解しないといけない」
というお話をしていただきました。
 稽古をしていて、自分がよく注意される点に、「頭で考えていて身体が動いていない」
というものがあります。頭で理解することが物事を理解することだ、と思っていたためなのですが、言ってみればそれが間違いの始まりなのかもしれません。
 極端なことを言えば、頭で理解することと、それができるようになる=本当に理解すること、との間には、全く何も関係がないのかもしれないとさえ思うようになりました。


・刀鍛冶の話

 刀が武器として使われなくなって久しいですが、現代でも、刀鍛冶は伝統文化として日本に残っています。
 日本では刀の製作は法律で規制されていて、しっかりと弟子入りして、認められた人間が伝統的な手法で作ることしか認められていません。

 聞いた話でしかないのですが、刀鍛冶の師のもとに弟子入りした人は、刀の作り方について事細かに教えてもらえるかというと全くそんなことはなく、最初の数年は ”炭切り” と言って、炉に火を灯すための炭を切る仕事をずっとやらされるそうです。
 炭を切って運ぶだけの毎日で、たまに師がやっている作業を横から覗き見できるだけであり、当然何も教えてもらえないそうです。
 そんなことを続けていると、ある時、ふいに師匠が作業のひとつを「やってみろ」とやらせてくれるそうです。師や兄弟子を見様見真似でやってみると、師が一言「ダメだな」とだけ言い、それからは自分もその作業に加わることが出来るようになる…。

 最初その話を知った時は、「伝統文化ってそんな感じなのかぁ」と思うと同時に、
「現代の冶金技術や金属工学の知識を使って、しっかり教えてくれれば、もっと簡単に凄いものが作れるんじゃないの?」とも思ったのですが、太極武藝館に入門し、今になってようやく、そういうことではないのだということが理解されてきました。

 先日の師父の特別寄稿で、「師は弟子に何もしない」という言葉がありました。
 ただそのものを見せ、弟子はその在り方を感じとる…。

 これほどまでに全体的で、豊かな方法があっただろうか!と自分は凄まじく感動したものです。武藝館に入門させていただいて、我ながら随分考え方が変わったと思います…。

 刀を作ることは、鉄を化学的に変化させていくという、極めて科学的なアプローチの集合体です。事細かに分析していけば、いくらでも技術的な説明はできるはずです。ですが、刀鍛冶の伝統的な師弟関係では、そのような説明の仕方は行われていないそうです。

 相槌を打つという言葉がありますが、これは鍛治の時に、熱した金属を2人で叩く様子からきた言葉だそうです。
 その、ハンマーで熱した金属を打った時に出る「カンッ」という音、その音で熟練の職人は金属の温度や変性の様子がわかるそうです。
 また、金属を熱する、焼き入れの時の炎の温度を、揺らめく炎の色を見ることで判断して、焼き入れの仕方を調整する。熱した後、冷ますための水の温度を、その時々の気温によって判断する、などなど…。

 一般人には理解しがたいことを、刀鍛冶の職人は、師匠から受け継がれてきた方法で理解し、実践しているそうです。
 昔から受け継がれてきた方法ですが、戦国の時代に、金属の温度による分子構造の変化、云々といったことは当然発見されていません。科学的に言えば、ほんの少し条件が変わっただけで、刀は使えない鉄屑になってしまうそうです。

 そのシビアな物理的な条件を、彼らは先人のやり方を真摯に学ぶことで受け継ぎ、現在まで発展させてきたというのだから、驚くほかはありません。

 ある意味では、科学的な知識がなくて事細かに説明できなかったために、刀鍛冶の師は説明をしなかったとも言えるのかもしれません。
 代わりに、その作業そのものを、何の説明もなしに見せる。
 教わる弟子は、説明をされない代わりに、それらの現象そのものを、余すことなく全て見ることが要求されます。
 師が何に耳を傾け、何をじっと見据えているのか。おそらく、それが何を意味するのかさえも、説明はしてくれないのでしょう。しかし、ただその様子は示されている。
 弟子入りした人は、それを全て真似していくしかないのでしょう。
 最初はわからなくとも、それを真似していくしか、刀を作る方法はないのですから。

 太極拳の話に戻りますが、頭で理解することが理解することではない、というのは、上にも書いた理由によります。
 鉄が変性する温度を知っていたとして、刀を作れるかというと、そんなことはない…それだけの理由です。

 もちろん、鉄の温度変化に対する科学的な知識があれば、刀を作る上で有効に活用はできるはずです。
 ですがその知識も、刀を作る上で鉄の温度変化がどのような役割を果たしているのかを、全体性の中で理解できていなければ、全く意味がなくなってしまいます。それよりは、むしろ科学知識が何もなくとも、炎の色を見て温度を判断することのできる人の方が、よっぽど上手に刀を作れることでしょう。
 なぜなら、炎の色で温度を見分けることが出来るようになった人は、実際に、炎を見て、鉄を熱して、温度の変化を体験したしてきた人だからです。
 それが、本当の意味で理解している人を指すのだと思います。自分も、頭で理解するだけでなく、実際的な人間にならないといけないと、そう思っています。


・システムとは

 刀鍛冶の例が長くなってしまいましたが、刀を作るという極めて物理的な手順がはっきりした作業であるため、理解しやすいように思ったためです。
 というのも、こうしたらこうなるという明確なルール(物理法則)があり、それに則った手順で作業を行えばうまくいき、そうでなければ違った結果が出てくるというのが、システムの考え方を表していると感じたからです。

 道場では、結果にマルやバツを付けたいわけではない、という話をよくして頂きます。

 ある手順でAという作業を行い、Bという結果が得たいのにXという結果がでたとします。
 その場合、疑うべきは行なわれたAという作業であり、得られた結果Xそのものが問題ではないというのはすぐに理解できます。
 ところが、どうしても我々はXという結果が出たことのみに目を向けてしまい、作業Aそのものに目を向けなくなってしまいます。実際は、改善すべきは作業Aの工程であり、ここが是正されれば結果も正しくなるというのは道理なはずです。

 師父は、そのAにあたる部分をあらゆる手段を以て示してくださっているので、そこを改善できるかということが、我々に問われているところだと思います。
 そこを正していくには、さらに上位のシステムとして、間違った結果Xを得た場合、作業工程Aを見直すことが必要になり、それがつまりネガティブフィードバックが必要だと言われている点だと思います。
 そしてこれが一番大事なことだと思うのですが、多くの場合、問題になるのは、作業工程Aが間違っているのではなくて、自分が正しくその工程を“行えていない“ことに気付けるかどうか、という点だと思います。

 太極武藝館の太極拳について言えば、事細かに検証していけるだけのシステムが、稽古体系としてすでに構築されているように感じます。
 常々言われていることですが、理解していくために必要なのは、そのシステムに則って勉強していけることであり、そこで必要とされる考え方は、システムに乗った形で考えられているかどうかであって、「自分が」どう考えているかなど問題ではないという点ではないでしょうか。

 ここが違った!とシンプルに受け入れることが出来るのか否か。

 ここを理解できるかどうかは、多くのことを勉強していけるか、自分の考えで凝り固まって先に進めなくなってしまうかの、大きな分かれ道になっているように感じます。

                               (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その49」の掲載は、7月22日(水)の予定です

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