今日も稽古で日が暮れる

2019年05月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その42

   「弱さを知る」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 武術を稽古することの目的のひとつに、強くなることがあると思います。
 元々は、敵対する他者との闘争の手段として発展してきた武術は、当然のことながら自身を害しようとする人間よりも強くなければ、自らの身や、大切なものを守れません。

 ところが現代社会では、それまでは当たり前としてあった「強いものが正義」という考え方は、すでに過去のものとなりつつあります。国家間の紛争を解決する手段であった「戦争」という行為でさえ、第一次大戦後の1928年に締結されたパリ不戦条約以降、自衛以外の戦争は違法行為であると、国際的に認識されています。理由を作って、戦争を仕掛けていい時代は国際法的にも終わりを迎えています。
 また日常生活を送る中で、だれかが気に入らないから殴って言い聞かせてやろう、などということは、当然のことながら許されません。
 しかし、だからといって相手はこちらを害することを止めるということにはなりません。
単純に暴力に頼るという意味ではない中で、自分の身を守る手段は、自ら持っていなければ生きていくことができません。

 そのような中で生きる自分のような人間は、強さや弱さを、一体どのように考えていったらいいのでしょうか。

 太極武藝館の稽古をしていて感じるのは、人間の強さや弱さというのは、腕っ節の強さではなく、もっと他の部分にあるのではないかという点です。
 稽古中、たとえば対練をしていてだれかに崩されたとして、そのことに関して「弱い」と非難されることは決してありません。
 そもそも、試合形式のトレーニングをすることがないので、誰かと勝敗を比較して、優劣を決めるということはありません。勝ったから強い、負けたから弱いということはありません。

 これは考え方を変えれば、非常に洗練されたことであるといえると思います。
 武道をやっていない普通の人に話をしても、試合で勝敗を決めないのなら一体なにをやっているのか?と、なかなか理解してもらえないということは、ざらにあります。

 それよりも大切なことは、どのように稽古に取り組んでいるかだと思います。もちろん結果が伴わなければ稽古をしている意味はないですが、その結果が伴うかどうかという点も、端的に言って稽古への取り組み方に左右されるのだと思います。

 自分自身、稽古で壁にぶつかることはよくあることですし、自分が何にぶつかって戸惑っているのかわからず、そのためどうしていいか、打開する方法など全くわからないということもあります。
 そうしたとき、どうしても普段のやりかたとして、自分を強くすることで、つまり弱い部分を突っぱねようとすることで問題の解決に当たってしまうことがあります。
 本当の問題が「強くないこと」にあるのではなく「弱い」部分にあるのだということは、冷静に頭を働かせれば見えてくるのですが、問題の渦中にいる自分には、その部分が見えて来ず、すぐに結果が出そうな部分、強くあればいいという考え方にしがみついてしまうように感じます。
 当然のことながら問題は解決せず、時間が経つにつれて、むしろ複雑になっていくだけに感じられるものです。

 どうしたらいいかわからず、悶々とした日々を過ごす中でようやく、強くなろうとすることと弱さを知ることは全く違うことなのではないか、と思い至りました。
 自分だけでわかることはできず、色々と多くの人に心配や迷惑をかけながら、そう理解させてもらえるように導いていただいたおかげだと思います。

 自分がやることが何もかもうまくいかないように思え、どうしていいかわからなくなってしまったとき、師父に掛けていただいた言葉がありました。
 人間というのは、進化の途上にあって弱いものだから、うまくいかないことがあって当たり前だ、と。だから、そこから逃げずに立ち向かえるかどうかで、人間が決まるのだ、と。

 自分がうまくいかない原因は自分の中にあると思いながらも、それは自分の弱い部分を見ていないからではなく、自分に物事を解決していけるだけの強さがないからだ、と思い込んでいた自分には、ぱっと視界が開けるような言葉に感じられました。

 ただ強くなろうとするだけだと、自分の中にある弱い部分を隠すようになり、いつのまにか、他の人から見えないように、そして何より自分から見えないように蓋をしてしまうようになります。
 そうなると、問題の根本はそこにあるのに、いつしか取り繕うことばかりに労力を使うようになり、本当に必要な解決にまで力が注げなくなっていってしまうようでした。

 もちろん、見える人にはそれが見えているのだと思いますが、自分は隠すことに必死になり、その弱い部分にふくまれている本当の自分が見えなくなってしまいます。
 そんな中で、自分を見つめていかなければいけないことなどできるわけがありませんでした。

 現状で問題が解決はしていないのですが、問題として隠していた部分には、少しだけ光が当たってきたように感じます。それがどのようになっていくのかはわかりませんが、分からずにふさぎ込んでいたときよりは、一歩前進しているのではないかと思います。

 自分の中の弱さを知っていくことは、そのまま本来の自分がどのような存在であるかを知っていく過程に繋がっていると思います。
 そうすることで始めて、本当に自分ができることは何なのかが、見えてくるのではないかと思います。

 太極拳はだれにでも出来る、と師父は仰いますが、それが簡単には見えてこないのは、自分の中にある能力を、本当は自分自身が一番見出せていないからなのかもしれません。
 特に、画一的な教育を受けてきた自分たちの世代にとって、能力とは他者との比較で測られるものであり、その中で優劣を決められるものでした。
 自分の中にあるものが他者とは比べられない唯一のものであったり、また能力が伸びていく道筋や時間も唯一のものであった場合、それらの比較の仕方では、本来の能力など伸ばしていけるわけはないと思います。
 そうして画一的に育てられれ評価されてきた人たちが、いざ、自分の本来の姿を見つけろと言われても、なかなか簡単にはいかないのではないでしょうか。

 そこから脱却していけるかどうかが、太極拳のみならず、これからより良く生きていくために、自分も含め、多くの人々には必要になってくることではないかと思います。
 そうして初めて、太極拳が理解できる土台が出来上がるのだとしたら、それに取り組まない理由はないのではないかと思います。

                                 (了)



 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その43」の掲載は、7月22日(月)の予定です


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2019年04月18日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その41

  「動くということ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 最近、研究会で行われているガンハンドリングの稽古をしているときに、「体が動いていない」という注意を受けます。

 師父の動きを拝見していると、銃を構えるとき、手だけの動きにならずに、わずかな動きに際しても全身が同調して動いているのが見て取れます。
 振り返って自分の動きを見てみるとどうでしょうか。

 鏡に自分の姿を写してみると、銃を持ち上げる腕は肩から先の動きが主であり、足腰は重く、地面に居ついているように見えます。
 師父がさながら、いつでも獲物に飛び掛かることのできる動物だとすると、こちらはドッシリと待ち構え、動きのとれない置物のようにさえ見えます。
 どうしてこのような違いが生まれてしまうのでしょうか。


 人間が野生の中で、狩猟採集民として生活していた時代、現代人に比べて人間の体はもっと活動的であり、動く量が多かったと言われています。
 考えてみれば当たり前のことですが、自分の足で動き回り、体を使って食料となる動植物を集めないことには、生活そのものが成り立ちません。
 現代人の生活を見てみると、たいして体を使わなくても生きていくことができるような社会が出来上がってしまっています。
 古くはギリシャ・ローマ時代の貴族たちの時でさえ、身の回りのことは全て奴隷が執り行い、自分は何もしなくても生活できるような社会になっていたらしく、それではいけない、健康によくないということで運動をするようになり、それがスポーツの起源となったという話があります。

 言葉でいうと体を使う、動くという表現になっても、武術的な体の動きは、生き残るための必要性から生じたものだと思います。
 それと比べ、スポーツはその成り立ちからしてすでに違うところから生じており、スポーツ的な発想では武術の体の使い方ができないというのも、頷けます。

 ガンハンドリングの稽古の最中に自分が受けた注意として、「体が動かない」という点と「的当て」になってしまっているというものがあります。
 スポーツとして銃を扱うのなら、的にどれだけ当たるかが争点となるので、極端な話、体など動かなくてもいいということになります。
 自分の頭に染み付いてしまっている考え方の根は深く、好き好んでやろうとしているわけではなくても、どうしても出てきてしまうものです。これは、しっかりと解決していかないといけない課題です。


 最近の科学的な研究によると、そもそも人間の体は、カウチソファでのんびり過ごすようには出来ておらず、体を動かしていないとその機能が低下し、健康を害するとのことです。
 比較としてよく出されるのは、チンパンジーやゴリラなどの類人猿ですが、彼らは一日の運動量が、人間とくらべかなり少ないことが明らかになっています。
 移動距離もせいぜい1日数キロで、移動した先で食料を食べ続けるのが主な生活です。
 面白いのは、ゴリラなどはぜんぜん体を使わない生活をしていても、心筋梗塞などの生活習慣病のリスクが上がらないのですが、人間が同じ生活をすると、とたんに病気になるリスクが上昇するという研究結果です。
 そもそもの構造からして、人間の体は、野生動物以上に動く必要性がある造りになっているということのようです。
 逆に言えば、人間は他の野生動物以上に、動き続けることのできる動物ということです。
 野生に生きる動物は、わりと止まっていることが多いのに対し、人間は一日中動き続けることのできる生き物です。それは、野生環境を生き抜く上では、かなり有利に働いたはずです。

 少し話が逸れましたが、我々現代人も、体の構造という点では、野生を生きていた先祖たちと同じ造りをしており、そもそもが体を動かし続けることに特化した生き物であるはずです。
 体が使われなくなった理由としては、やはり生活でその必要性がなくなったからという点が挙げられると思います。

 では、戦闘状態に置かれた場合、果たして動かずに生き延びるということが可能でしょうか。
 そんなことはありえない、と言えるはずです。
 日常生活にどっぷりと浸かった思考からでは、たったひとつ銃を持ち上げるという動作を取っても、体を使わずに行われてしまいます。
 これはどうにかしないといけません。

 常々、師父に指摘して頂いている通り、一般的な日常生活の中には、危機感が不足していると思います。何かが起きたとき、とっさに動けるかそうでないかは、まさに生死を分かつ問題であるはずなのに、なかなかそれが省みられることがありません。

 人間という生き物の体に対する不理解と、そこから作り上げられた社会生活にどっぷりと浸かった考え方。
 日常生活の中においてさえ、それらは最終的に健康を害することにつながり、人として良く生きることを妨げることになります。
 ましてや、戦闘という極限状態を考えるなら、それらは即座に命を危険に晒すことにつながるはずです。

 とにもかくにも、「動けるか」どうかということは、短期的に自らの命をリスクに晒すことであり、長期的に見ても、自らをリスクにさらすことにつながる問題だと思います。
 いつか、とか、いずれどうにかするではなく、今まさに解決しなければならない喫緊の問題であるはずです。

 ガンハンドリングという、普通ではやらない課題を与えられることで、その中に出てくる自分の考え方が、あぶり出されるように感じます。
 その課題と向き合い、解決していくことが、太極拳のみならず、生きていく上での問題とも関わっていくことになると感じます。

                                  (了)


 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その42」の掲載は、5月22日(水)の予定です


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2019年01月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その40

  「困難に立ち向かう」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古で新しい課題が示されるたび、それまでの自分ではクリアできないという現実と直面させられます。
 現代人は困ることが足りていない、と師父は指摘されています。たしかに、日々の生活を振り返ってみると、何かの課題に対して困る、ということはほとんどないように感じます。ただ、何か面倒なことがあって困る、せいぜいこれくらいしかないのではないでしょうか。

 昨年から開講されているCQC講習会において、ロープを使った懸垂降下、ラペリングという課題への取り組みが始められています。
 私にとっては、ロープ降下は、生まれてこのかた一度もやったことのないことです。まさか自分がやるとは考えたこともありませんでした。少なくとも自分にとっては全く未知の経験です。
 仮に、いきなりぽんと道具を全部渡されて、手順を説明されたとしても、とてもではありませんができる気がしません。
 しかし、ここ太極武藝館では、そんな取り組み方は決して行われません。見よう見まねでなんとなくできたような形にすることは絶対になく、自分のような初心者を含め誰しもが、確実に理解できるような体系として、師父に細かく指導をしていただけました。

 まずはどういったメカニズムで降下が安全に行われるのか、ロープや道具に関する科学的な説明からはじまりました。その上で、ひとつずつ守るべきプロセスを、課題として段階的にこなしていきます。
 それぞれの段階でうまくいかないことがあったとしても、周りにいる仲間たちも意見を出し合い、当人がきちんと理解できるまで取り組み、示されたやり方を正しく、確実にできるようになっていきます。そうすることで、全くの未経験者である自分たちが、5メートルの垂直壁から安全に降下することができるようになりました。

 困難な課題に立ち向かうとき、そのままでは課題が大きすぎて、どこから手をつけたらいいかわかりません。一見すると解決不可能にも思えてしまいます。
 ところが、その課題を少しずつ細かく見ていくことで、ひとつひとつを解決可能な小さな課題に変えていきます。そうすることで、正しい手順で段階的に解決していき、最終的には、不可能に思えた最初の課題もこなせるようになっていきます。

 これはすごいことだと思いませんか? 少なくとも自分はそう思いました。

 今回の場合は、ただロープ降下の技能を身につけていくというだけでなく、その中にある課題を学習していく中で、何かを新たに学習していくにはどうしたらいいかという、学習法の学習法も示されているように、自分には感じられました。
 ロープワークが、ただ結び方を憶えるのではなく、訓練として行われたのと同様に、ロープ降下も、訓練として行われることで、もっと新しい考え方に気づかされるきっかけを与えていただいたように感じるのです。
 もちろん、ロープ降下を訓練することによって得られる身体の軸は、武術的に動ける身体を養うためにも、とても役に立っていると思います。
 実際に自分で動いているとき、そしてロープ降下の訓練を行った門人と対練をしているときには、とくにそれを強く感じます。そしてそれだけでなく、考え方の訓練としても、大きな意味を持っているように思うのです。

 何かを学習する上で、明確にフィードバックを得られるというのは大事なことです。
 ロープ降下の場合、野外で垂直壁から降りてくることができるという、明確な結果が出ます。そのため、自分の学習へのアプローチがどうだったかを、明確に検証することができるのではないかと思います。

 この、学習プロセスに対する検証過程は、そっくりそのまま太極拳への自分の学習方法を検証することにも使えるのではないでしょうか。
 ロープ降下において最初はできそうにないと思えた課題を、段階的に分けていくことで理解していけることは、すでに経験させていただきました。
 そもそも、太極拳もまた同様に、体系的な学習として師父に指導して頂いていることを、もっと大事に受け止めないといけない、と自分は感じました。どうしても、師父に示していただく太極拳の「結果」があまりにもすごいものに見えて、そこで半分思考停止してしまいがちです。
 それは、いきなり垂直壁で降下しろ、と言われているのと同様なのかもしれません。
 そこに至るまでの過程で、もっと段階的に課題を分けて、問題点がどこだったかを検証してきたときのように、太極拳においても、細かく検証していくことが可能なはずです。

 また、考え方が変わるという点においても、自分の中でも変化がありました。
 たとえば外を歩いているとき、建物の中にいるときなど、自分がどういう場所のどういう高さにいて、周りにどんなものがあるかを、以前よりも気にするようになりました。
 というよりは、以前はまったく気にしていなかったというべきでしょうか。

 それまで気づかなかった危険にも、目を向けるようになってきた!

 …などと思って道場に稽古に行くのですが、そこで師父に簡単な課題を出されて、
「いま自分がどの方向に何歩歩いたか憶えているか?」
 と質問され、ぜんぜん何にも気を配れていない! とハッとさせられる、そんなことの繰り返しばかりです。

 今年に入ってから、稽古の質が以前にも増して、より洗練されて高度になっているように感じます。
 これまでも、おそらく他では得られない高度な内容を指導されていたかと思いますが、稽古に参加させて頂いていて、より新しい取り組みが行われているのではないかと感じるところがあります。
 より洗練された内容でどんどん進んでいくので、のろまな自分も大慌てで、「これは大変だぞ…!」と、目を覚まされて、なんとかついていこうと必死になっているような状態です。

 太極武藝館の稽古においては、自分の考え方をどんどん変えていかないといけない、と思います。それまでの考えなど、本当は通用しないのだということを、一瞬にして自覚させてもらえるという経験は、なかなか味わえないかと思うのですが、稽古においてはそれは日常茶飯事です。
 それだけ、日常に溺れ切った自分の発想では生き残れないという甘さの表れであり、日常とはかけ離れた考え方、物の見方で師父が過ごされているということなのだと思います。
 より高度になっていく内容に伴って、自分にとっては非常に難しく、困難な課題も出てくるかと思いますが、

「逃げない、晴れ晴れと立ち向かう」

 という言葉を、師父に倣って自分も胸に刻み込んで、着実に課題に取り組んでいきたいと思います。

                                   (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その41」の掲載は、3月22日(金)の予定です


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2018年11月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その39

   「備えよ、常に」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 9月の終わり、台風24号の直撃により、静岡県の西部では大規模な停電の被害が発生しました。日本列島全体を見てみれば、最近の台風によって多くの場所で様々な被害が発生していましたが、静岡県にはそれほどの被害がなかったため、台風24号は、どこかで「大丈夫だろう」と油断していたときに来たようにも感じられました。

 特に、停電が起きたことによって、我々現代人の生活がいかに電気を使ったものに依存しているかを、改めて感じさせられたものです。
 あって当たり前だと思っていたものがなくなると、途端に人間は、どうしたらいいかわからなくなるものです。

 市内でも、電気が使えなく、携帯電話の充電ができない市民が、市役所に設置された充電スペースに殺到したといいます。当然のことながら、それにも限界があるので、最終的には自分自身の手でどうにか問題を解決していかなければならないことになります。

 幸いにして自分の場合は、第一回のCQC特別講習会を受けたこと、そしてその前に起きた北海道での地震の被害を伝え聞くことで、「これではいけない」と反省し、少しずつではあるものの災害に対する備えを進めていたところでした。
 食料、水、そのほか必要な装備を持ち出せるようにしておくこと。
 当然のこととして、誰しもが備えておいてしかるべきもののはずです。
 ですが、本当は一番肝心な、「何があっても対応する」という心の準備こそが、実際に自分の身に降りかかってくるまで、足りていなかったことに気づいていなかったと思います。
 それこそが本当は最も持つべき用意であり、いつでも「使える」ようにしておかなければならないものではないか、と思います。

 このことは、自然災害に限らず、あらゆる場面、日々の生活や非日常である闘争の場においても必要なことではないか、と考えさせられます。
 それは言い換えれば、居着かない状態といえるのかもしれません。

 たとえどれだけ体を鍛え、技を鍛え、相手の攻撃にはどう対応する、こちらからどのように攻撃するといったような、格闘技的なメニューをこなしているだけでは、一番大切な部分は本当の意味では身につかないのではないかと思います。
 もちろん、ルールの決められた試合の中では、数を重ねた分だけ技巧は増すでしょうし、対応できる場面は増えるかと思います。
 ですが、一度そのルールから離れてしまった時、果たして自分がどのように動けるのか、と考えると、疑問に思わざるを得ません。

 太極武藝館の稽古体系を考えてみると、そのような考え方とは一線を画した発想において組み立てられていると感じます。
 それはルールのある、ルールに守られた戦いで勝つことを目的としたものではなく、自分の身は自分で守らなければならない、もっと強大な力と対峙する必要のある状況で生き延びるために考え尽くされたものではないでしょうか。

 もちろん体は鍛えるに越したことはありません。自由に動ける体は何にも増して生き残る機会を与えてくれるはずです。
 ですが、どれだけ体を鍛えたとしても、大規模な地震の前では人間の力では打ち勝つことはできませんし、台風の大風では、人間を超える大きさのものがいとも簡単に飛ばされていってしまいます。
 そこで必要なのは、生き残るための考え方なのだと、道場の内外問わず、あらゆる機会を使って師父は我々に示して下さっています。

 ちょっとした傷を負うだけで人間は行動できなくなってしまいます。
 災害時、手を怪我しないようにグローブをするために持ち歩く。ほんの小さな考え方によって、自分が生き残る可能性は大きく変わってきます。それによって、周りの人にも手を貸せるようになるかもしれません。
 ところが、その単純な発想を、現代人は忘れてしまっているように思います。
 危険を察知するセンサーが鈍ってしまっているのです。

 多くの人が「どうしよう」と途方にくれている間、我々、太極武藝館の門人は、考えることをやめず、的確に動くための訓練を受けさせていただいています。
 これは非常時に身を守ることにも当然なりますし、日常の生活の中においても、それまでは気づけなかった危険に気づき、問題が起こる前に対処できるようにセンサーを働かせることにも繋がっていると、強く感じます。

 現在、世界中で「交通戦争」と揶揄されるほど、交通事故による怪我や死者の数は多いです。その数は、いわゆる戦争による被害者の数とは比べものにならないほどのものです。
 ある意味ではそれほど危険に満ちた生活を我々は送っているはずなのですが、実際に街に出て外を見渡してみると、果たしてどれほどの人が、実際に危機感を持って車の運転をしているでしょうか。
 車という凶器は、自分を被害者にも加害者にもする可能性を秘めています。もちろん、車を使うななどという過激はことは言いませんが、その可能性を頭に入れておくのとそうでないのでは、安全に対する気配りに大きな違いがあるのではないでしょうか。

 師父に示していただくまで、平和ボケ現代人の代表でもある自分は、「危険なものはどこか遠くの出来事」と思っていましたし、それが全て抜けたなどということは、今でも全くありません。相変わらず平和ボケはしてますし、鈍ったセンサーでしか物事を見ることはできていません。
 ですが、「そうではないのだ」と根気強く示していただいたお陰で、鈍りきった自分にもようやく何かがおかしいぞ・・・?と、思えるようにはなってきたように感じます。

 そうして見ると、太極拳の稽古もまた、これまでと違った見方で見ることができるような気がします。なんのために立つ稽古をするのか。体を鍛えるのなら、もっと効率のいいやり方はあるのかもしれません。ですが、それでは真の意味での、あらゆる状況に対応できる体は出来ないのだということが、以前よりは感じられます。

 稽古で歩法ばかりに多くの時間が割かれることにウンザリし、つい「一体いつまでコレをやるんですか?」とこぼした門人が居たという話を聞いたことがありますが、おそらく、それを本当に理解できるまでは続けなければいけないのではないかと思います。

 先日行われた野外訓練では、様々な発見がありました。
 特に、物事を「訓練」として取り組むことの奥深さを味わったように思います。
 野外訓練に向けて、我々研究会のメンバーは特に念入りにロープワークの特訓を行ったのですが、ただ漠然とやるのではなく、それを訓練として行うように、師父に工夫して頂いたのだと思います。

 それまでのキャンプでは、自分で覚えた(つもりになっていた)ロープワークを使ってやっていました。一応、形にはなり用は成すものの、ただそれだけともいえます。
 ですが、今回のロープワークは、自分の手の動き方、完成した状態、明らかにそれまでとは別ものとなっていました。もちろん覚えるべきものはまだまだたくさんあるのですが、訓練による効果をしっかりと体感できたことは、今後の大きな励みになるように思いました。

 ここには、先ほど述べた「備え」というものに通じるものがあるように感じます。
 道具は、以前使ったロープやタープ、ペグと同じものでした。
 変わったものといえば、自分の準備です。
 同じものを使っても、これだけ違うのです。

 このことは、普段の生活や、特に稽古の中でも大きな意味があることだと思います。ただ漠然と、日々の稽古をメニューとしてこなすのでは、意識的に練られた訓練との差は、いざ実際に使う段になって初めて大きなものとして出てくるのではないかと思います。

 これは恐ろしいことでもあり、ものすごく楽しみなことではないでしょうか。
与えられたチャンスを生かすも殺すも本当は自分次第であって、自分が大きく変わる機会もちゃんとあるということなのですから。

 何もないように思える日々の生活の中でも本当は人は問題に直面し、解決するチャンス、そして自分が変われるチャンスもあるのだと思います。
 そのことに気づけなくなってしまっている、センサーの鈍さこそが最大の問題であると、師父は常日頃から指導をして下さっています。
 それを生かせるかどうかは自分の心掛け次第だと思いますし、それだけのヒントを与えられてなお、何もしないのはただの怠慢でしかありません。

 まだ愚鈍な日常を完全に脱却は出来ていませんが、日々目の前に現れるものとしっかりと対面し、自らを肥やす土壌として活用していけたらと思います。

                                 (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その40」の掲載は、12月下旬の予定です

noriko630 at 22:22コメント(25) この記事をクリップ!

2018年10月02日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その38

  「『アウト』の探求」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今、マイルス・デイビスのアルバム『Kind of Blue』を聴きながら記事を書いています。
 以前、春日さんの記事「JAZZYな、太極拳を。」で紹介されて以来、時折思い出したようにマイルス・デイビスを聴くようになりました。

 以前、稽古中に師父が何度か、マイルス・デイビスの音楽と太極拳の関連性について言及されることがありました。

『君たちの太極拳は ”アウト” じゃない…。それでは太極拳のスピリットはわからないよ』

「アウト」じゃない…??

 太極武藝館で伝承されている太極拳といえば、真伝の纏絲勁が脈々と継承されている、いわばホンモノ、音楽でいえば古典的なクラシックにでも該当するような内容とでも言えるはずです。
 では、そこから外れると言わんばかりの『アウト』なスピリットがなければ、太極拳がわからないとは一体どういうことなのでしょう?
 その時の僕には、欠片も理解することが出来ず、うーんとうなるばかりでした。

 そこで、春日さんの記事で紹介されていた、マイルス・デイビスの2枚のアルバムを聴いてみました。そして、たしかに衝撃を受けます。
 それは、自分の抱いていたジャズに対するイメージを払拭するには十分な音楽に思われました。それからいくつか、マイルスの音楽を聴いていると、その中におススメのアルバムとして、『Kind of Blue』が含まれており、それを聴いて、おや、と疑問に思いました。

 『Kind of Blue』は、紹介されていた『Decoy』とは少し毛色が違い、オーソドックスなジャズといった音楽で、聴き慣れたような、非常に心地のいい音色が響きます。

 そうなのです。聴き慣れた音楽なのです。ここで自分はわからなくなりました。
 『Decoy』を聴けば、わからないまでも「アウトなのか」と考えさせられるものですが、
『Kind of Blue』は、何をもってしてアウトというのかわからなかったのです。
  このことは、「太極拳がアウトである」と言われながらも、自分にはピンと来ていないことに重なるような気がして、僕は少し調べてみることにしました。
 そして、このアルバムもまた、『アウト』な作品だと言えるのではないかと思うようになったのです。

 『Kind of Blue』は、それまで、ジャズの手法として定番だったコード(和音)中心の技法を、モード(旋律)主体のモードジャズとして確立させた、記念碑的作品だそうです。
  このアルバムによってジャズの世界に新しい地平が切り拓かれ、モードジャズというジャンルは、以降多くの人々によって演奏されることとなりました。それによっていまの我々の耳には、心地よい聴き慣れた音楽として届くことになったのです。


 このアルバムの録音の際、デイビスは演奏者たちに「このスケール(音階)で演奏するように」と指示した短いメロディーを渡し、テスト演奏やトレーニング、ミーティングを一切させなかったそうです。
 ジョン・コルトレーンやビル・エヴァンスといった名だたるプレイヤーたちも参加したというその録音現場は、一体どのような風景だったのでしょうか。

 たとえプロであろうと、それまで自身の経験したことのないものをするには、自分自身と向かい合う必要性が生じるはずです。
 特に、ジャズで行われる同じフレーズを繰り返すリフ(リフレインの略)演奏という技法は、同じ物事に取り組みながらも、立ち現れてくるものと向き合い、自分自身に問いかけ、それそのものの本質と向き合うことではないでしょうか。
 それは繰り返し行われる、自分自身の再創造であり、絶えず続く学習の過程であるともいえるのではないでしょうか。
 それは、音楽と武術、ジャンルは違えど、我々が毎回の稽古で求められている姿勢と、同じものなのではないか、という気がしたのです。

 「じゃあお前にマイルス・デイビスの何が分かるの?」と聞かれれば、「ぜんぜんわからない」と答えるしかありません。
 マイルス自身「俺の言ってることが全て理解できるなら、俺になれ!」と言っています。
 彼の残した言葉は、その音楽の中にこそ込められているはずです。もし、マイルスについて何かを知りたいのだとしたら、彼の音楽を聞くことの中にしかないはずです。
 その上で、マイルスのやってきたことを知ると、ジャズという世界で彼がどんな存在だったか、全体の構図がおぼろげながらも浮かんできます。
 それによって、マイルス・デイビスがなぜ『アウト』なのか、アウトサイダーな音楽であるジャズの中でも、より異端な、帝王として存在しているのかが、より際立って浮かんでくる気がします。何よりも、マイルス・デイビスの音楽を聞いているのは非常に心地いい体験です。
 そのスタイルを否定し、刷新し続けていくスタイルは、今も古びることなく、常に新しいものとして自分の中に流れ込んできます。

 なぜジャズの話を書いたかというと、僕自身にとって、マイルス・デイビスがひとつの新しい出会いであったからです。それほど多くを聞き込んだわけではないですが、ブログで紹介されて、それまで知識として知っていた程度のものから、「聴いてみよう」と思うようになり、ちょっとずつ聴いてみるようになったのです。
 その過程では、「よし、太極拳にアウトが必要なら聴いてみよう!」というモチベーションが、もちろんないわけではありませんでしたが、それよりもマイルスのジャズが良い音楽で、純粋に音楽として聴きたいと思うようになったからです。
 紹介して頂いた春日さんと、さらに興味を持たせて頂いた師父には感謝しています。

 マイルス・デイビスの音楽が、以前の自分のスタイルを常に刷新し続けること、それによって『アウト』で有り続ける、それがジャズの「スピリット」だとしたら、それは自分が思っていたアウトサイダーのイメージとも、また異なっているものでした。
 アウトサイダーというと、どうしてももっと破壊的で横暴で、自分自身の力で周りの世界をどんどんと書き換えていってしまうようなもの、とくに芸術に関してはそういうものだ、とどこかで思っていました。

 マイルス・デイビスの逸話しかり、日本の芸術家で言えば、岡本太郎などがそうでしょうか。しかし、気になって改めて岡本太郎の本をパラパラと読み返してみると、彼の書いている文章は大胆な情熱を持ちながら、実際にはものすごく繊細であり、普通の人では見逃してしまうようなことへの感性があることに気付かされます。

 先日、野外訓練が行われた際、師父の行動がものすごく丁寧で、ゆっくりなのだということに改めて気付かされました。ゆっくりなのですが、それが遅いのかというとそうではなく、ものすごく早いのです。
 仕草があまりに丁寧なので、そして目に見えない速さなどではないのでゆっくりに見えるのですが、行動ひとつひとつの繋がりが途切れなく、全体で観るととても早いのです。

 それは、何かの手順を覚えたから何も考えなくても動ける早さではなく、ひとつひとつ何が起きているかをしっかりと認識しながら、手順を絶えず確認でき、間違いがなく、そして滞りがないために出てくる早さなのではないかと思いました。
 ただ勢いでやってしまうものとは、異質の早さです。

 普段の師父の立ち振る舞いを見ても、いつも、丁寧に見えるのです。いつもやっているから、とか、これはこうだから、といったことで省略してしまうことのない動きに思えます。

 太極拳は『アウト』であるとおっしゃっている事と、この丁寧な物腰は、一体どこで重なるというのでしょうか。
 悩んだ末に、あるひとつのことが自分の中で結びつきました。
 マイルス・デイビスは、それまであったジャズをぶっ壊したアウトサイダーな人ですが、そこにあったのは、実は謙虚な姿勢だったのではないかと思います。
 マイルスは、自身のジャズのことを「俺のジャズはこうなんだよ」と、固定してしまうことは決してありませんでした。それまであった音楽を、「自分の」ジャズで壊していったのではありません。
 自分の中にあった音楽を、内省し、疑いを持ち、それを更新し続けていくことで、新しいことを創造していきました。その結果、それまであったジャズとは違う、新しいものが生まれていきました。そこにあるのは、自分を通す横暴さではなくて、自分を変え続けていく謙虚さではないでしょうか。
 その姿勢があったからこそ、マイルス・デイビスはジャズを新しくし続け、本物のジャズの魂を持ち続けられたのではないでしょうか。もし、ただマイルスのジャズの模倣に走ってしまったら、それは「ジャズってのはこうなんだよ」と定義づけてしまうことであり、横暴さの現れではないかと思います。
 それは、マイルスが持っていた本当のジャズの味にはならないのだと思います。

 では、それは武術、太極拳に当てはめて考えてみたらどうなるでしょうか。
 まず、自分の中に、勝手に思い込んでいる武術のイメージがあることに気付かされます。それは自分が傲慢にも思い込んだものです。
 そして、それがあるからこそ、たとえ目の前で本当の事が示されていても、全てを透明な目でみることが出来ず、壁にぶち当たってしまうのではないでしょうか。
 自分自身、稽古中にどれだけ師父の動きが見えずに、苦い思いをしているか数えればきりがありません。
 まずは、そこから外れる、自分自身の枷から『アウト』になることが必要なのだ、と師父はおっしゃっていたのではないか、そう思うようになりました。
 そのためには、たとえ何かに気づいたとしても気づかなかったとしても、自分の考えに固執せず、本当に言われていることを徹底して追求していける謙虚な姿勢が必要なのではないかと思います。
 追求していく対象そのものに対するリスペクトは当然必要ですが、マイルス・デイビスの例でも書いたとおり、それによって何か、たとえばジャズの世界などを変えていく、という思いで自分の考えを貫こうとするのは、少し間違った形なのではないかと思います。

 絶えず謙虚さを持ち、自身を省みることと、物事を再考し、新しいアプローチで取り組んでいくこと。そのためには目標を明確に定め、何よりも情熱を忘れないことが大事なのではないかと思います。
 音楽や武術のみならず、日常生活の中での、普段の立ち振る舞いまで含めた姿が大切になってくるのではないかと思います。つまり、きちんと生きていくために大事にしなければならないことが、どこでも大事になってくるということなのかもしれません。

 そのために、道場での稽古とは省みるところ、自身のあり方を磨くことにつながってくるのかもしれません。

                                  (了)





 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その39」の掲載は、11月22日(木)の予定です


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