今日も稽古で日が暮れる

2018年03月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その35

   「 思い悩むことなく」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 なにかに行き詰まったとき、まったく関係ないと思っていたきっかけによって、ぱっと視界が晴れ渡り、遠くが見えるようになることがあります。何かがひらめく分からなかったことが理解に結びつく、誰しも経験があると思います。
 その変化は、劇的な一瞬で起こることもありますが、時間をかけてじわじわと起きている変化、その一見わかりづらい変化こそが、実は本当は重要なものだという気がします。

 毎日、太極拳の稽古をしていると、自分が理解できていないことがたくさんあることに気付かされます。その度に、なぜ自分には理解出来ていないのだろう、と思い悩まされることもしばしばです。
 やっぱり、生活が便利になった「現代人」にはわかりづらいことなのだろうか、だとすれば何を見直さなければいけないのだろうか・・・。

 そう考えていたとき、武術とは関係のない本を読んでいていくつかの記述に行き当たったのです。それは、「まったく、最近の若者は・・・」と、ブツブツと文句を言っているおじさんの姿の描写でした。
 現代のおじさんではありません。古代ギリシャ時代のおじさんの話です。

 文献が残っている、古くはギリシャの時代から、中世ヨーロッパや江戸時代の日本、はたまた現代のSNSの中にまで、最近の若い奴に文句を垂れるおじさんは存在していたのです!
 つまりどの時代の、どの時間を切り取っても、その現在時から見れば常に世界は「もっとも変化に富んだ時代」に見えて、その時々に「特別な激動の時代」であり、そして振り返れば、過去に失ってしまった大切な何かがあった、というふうに見えるのです。

 時代と人は、常に変化し続けている、考えてみれば当たり前のことなのです。
 人々の意識や考えは当然、時代によって変わりますし、生活様式の変化も起こります。だけど、変わっていないこともまた同時に、数多くあるのです。

 つまり、何が言いたいかというと、武術に関しても、もし理解できないものがあったとしても、それは決して現代という時代のせいではなくて、どこまでも徹底的に、自分自身の責任だといえるのではないか、ということです。
 というのも、もしいつかはわかりませんが、「昔」の時代性が武術の真伝を理解する助けになっているのだとしたら、もっと達人がたくさんいてもいいはずです。
 道を歩けば達人に当たる、という世の中だとしたら、相対的に武術はより高度に奥深いものになり、そもそも基礎的な武術の嗜みは当たり前のものとして、生活の中に根付いていてもおかしくありません。

 それに似た時代が、昔の武家社会だった日本にはあったのかもしれません。
 しかし彼ら、武術を嗜んだ武家の人たちにしても、特権的な身分階級の中で、幼少期からの鍛錬で身につけた技芸であって、その時代性ゆえに容易に身についたものだとは決して言えないはずです。
 中には、「武芸で身を立てようとするも技を修めるに至らず・・・」というように志半ばで道を外れた人も、当然いたわけです。その人は、当時としては珍しい人だった、ということでしょうか?

 古今東西、達人のエピソードは枚挙に暇がないですが、流派や技法はともかくとして、彼らに共通して言えることがあります。
 それは、彼らは「とてつもなくたくさん稽古していた」という、身も蓋もない事実です。
 武術の真伝を知るには、まず稽古をしなければ話になりません。
 もし仮に、現代性を理由に武術が理解できないと言いたいのだったら、その原因は多分、しっかりとした稽古をする時間が不足しているからだと思われます。

 生活のためにどうしても時間を取られる、というのはもっともな理由ですが、歴史に名を残すような達人は、そもそも生活そのものをまるごと武術の稽古に充てられるような生活スタイルを選んで送っているような人たちです。
 現代の戦士であるプロの職業軍人、特殊部隊の人たちも、戦闘技術のトレーニングを絶えず行えるような生活を送っており、その逆の状態・・・生活ありきでトレーニングする時間がない、という状態とは、そもそも根本の発想からして違っています。

 生活があるからそこまではできない、と思ってしまうようだったら、そもそも本当にそこまでできないということなのかもしれません。どれだけしっかりとした稽古の時間を取れるか、それは本当に自己責任であり、逆に言えば、きちんと努力をすれば、もっと武術を理解することができるということだと思うのです。

 個人的には、稽古がうまくいっていないと思うときには、ただ思い悩むだけで、実はしっかりとした練習ができていないことが多かった、と思っています。

 うまくいかない → 練習に熱が入らない、だんだん嫌になってくる → 余計にうまくいかない →・・・というフィードバックループができてしまい、なかなかそこから抜け出せなくなってしまうものです。
 逆にうまくいっている(と思っている)時には、手応えを感じる → 練習に熱が入る → また手応えを感じる →・・・というフィードバックが起きているのだと思います。

 僕自身、かなり気分で浮き沈みがあるほうなので、「これはいけない」と、改めて自分のことを見直してみました。
 そうすると、面白いことがわかりました。
 うまくいっていると思っている時と、全然ダメだと沈んでいる時、やっていることの結果(わかりやすい例として言えば、対練での成否でしょうか)そのものは、別に大差ないのです。言ってみれば両方とも同じくらい成功も失敗もしているのに、ある時はうまくいっていることに目が向き、正のフィードバックが働き、ある時はうまくいかなかった方に目がいって、よりできなく、動けなくなってしまっているだけだったのです。

 自分がどんな状態でも、同じようにわかっていて同じようにわかっていなかったのです。
 しかし、最初のささいな違いの積み重ねで、フィードバックの仕方が変わってしまうのだとしたら、果たして、どのようにしていったらいいのでしょうか。

 僕はある時から、難しくてわからないと感じても、できるだけ思い悩まないように心がけるようにしてきました。
 うまくいっていてもいかなくても、考えることは考えるけど、結果については思い悩まない。これもまた、自分を挟まないことのひとつと言えるでしょう。
 うまくいってないときは、何がいけないのかわかるまではとにかくやるしかありません。
 どちらの場合も、人からは妙に自信満々に見えるようで、何かわかったのか聞かれると、
 「わかりません!」と自信満々に答えるのでずっこけられます。
 まぁ、それはそれ、です。

 ただひとつ、自信を持って言えるのは、自分ごときでは武術をわかったとか理解できたとかいえるようなところまで、稽古が全く足りていない!ということです。

 たしかに、一見平和な現代の日本では、武術を修得することはむずかしいのかもしれませんが、それは実際のところ、どれだけそれに自分を没頭させられるかの度合いの問題ではないでしょうか。身近に、隣に戦いがある、ない、といったことは、本当はただの理由づけにすぎないのだと思います。
 戦争をしている中でも、勇敢に「戦わない」人間というのも、いるものです。だとすればやはり、太極拳が理解できるかどうかは、周りのせいになどできず、ひとえに自分にかかっているのだと思います。
 しかしこれは、本当にそれを知りたい人間にとっては、福音なのではないでしょうか。
 自分の努力次第で得られる可能性があるのですから。


                                (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その36」の掲載は、5月22日(月)の予定です


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2018年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その34

   「 小能く大を制す」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 旧約聖書にも記されてる神話の時代、鎧で身を固めた巨人ゴリアテを倒したのは、ちっぽけな羊飼いの少年、ダビデでした。
 彼は、河原でひろった石を、向かってくるゴリアテの額に命中させ、彼を倒します。
 そして、ダビデは持っていなかったので、ゴリアテの剣を奪うと、ゴリアテの首を落としてしまいました。

 小能く大を制す、柔能く剛を制す。
 歴史は時に、とてもちっぽけな存在が、あまりに強大なものを打ち倒す姿を、我々に見せつけてくれます。
 盛者必衰、驕れる者は必ず天から罰せられるとでもいうのでしょうか。
 大きいものはたしかに優れた面を持っているかもしれません。ところが果たして、大きければ大きいほど良い、と言い切れるものでしょうか。

 先程もあげたとおり、歴史は我々が思うのとは違った姿を見せてくれます。大陸のほとんどを制するに至った大国が、いまでは影も形もなく姿を消してしまうということは、歴史上ざらにあります。かつて地球上を歩き回っていた恐竜たちも、今ではわずかな痕跡を残すのみとなってしまいました。

 一体、こういったことは何故に起きてしまうものなのでしょうか。とはいうものの、その理由は考えても仕方がないのかもしれません。原因はひとつではないでしょうし、それらの原因もおそらく複雑に絡み合っていて、単純に説明できるものではないはずだからです。

 憶えておかなければならないのは、長大で、強大になればなる程、外部から受ける影響は数を増し、また、それ自身の内側から来る影響も、大きさを増していくという事でしょう。
 大きなものが身を滅ぼす原因は、天から与えられたものではなく、たったひとつ、「それが大きかったから」なのかもしれません。

 ゴリアテは大きく、全身を鎧で固め、故に動きが鈍かった、などと解釈されています。
 本当のところはわかりません。とどめを刺すための剣すら持たないダビデに、自身の剣でやられたとすれば、それは皮肉以外の何者でもありません。
 ゴリアテは大きく、戦いに必要なものはすべて備えていた。ゆえに、彼は命を落としました。ダビデは何も持っていなかった。そして最後には勝利しました。

 これらの出来事や、歴史的事実などを思ったとき、僕の頭によぎったのは、やはり太極拳のことでした。
 力の弱く小さな者が、なぜ強くて大きな者を制することができるのか、でした。
 そこには、力を制する技術や戦闘法などを越えて、もっと根本的な原因、作用が潜んでいるのではないかと思ったのです。

 稽古をしていると、身体の使い方に関して、むしろ普通では使う必要のないところまで身体を、まるで「大きく」使うことが求められます。

 しかし、先人は、それらの使い方を「小架式」という言葉で残しています。
 もちろん、自分ではその片鱗に触れられるレベルにすら至っていないというのが実情ですが、しかし、それを「小さい」と表現したことに非常に興味をそそられます。

 まるで常識では考えられないことに取り組む場合、発想の転換がせまられます。
 小能く大を制すとは、小さいもの「でも」大きいものを制することが「できる」、というのではなくて、小さいもの「でしか」大きいものを制することが「できない」、と言えるのかもしれません。

 ささいな表現の違いに思えますが、これは実は論理的命題として、数学・科学的にも非常に大きな意味を持っている分野です。

 なぜかというと、こういった論理を、人間の頭はうまく扱うのが苦手だからです。

 たとえば、「四両撥千斤」という言葉があります。
 平たく言えば(先人の皆様、くだけた表現を使うことをお許し下さい)、力を使わなくても相手は吹っ飛ぶ、というところでしょうか。

 これを、「相手を吹っ飛ばすのに力を使ってはいけない」というのと、
「相手を吹っ飛ばすのに力を使う必要がない」というのでは、我々の受ける印象は大きく違ってしまうのです。

 特に、その言葉によって “目的地を探している場合には” 、です。

 少しわかりやすく例えてみます。
 まだ知らされていない目的地に行くために、「車を使ってはいけない」と聞いた場合と、「車を使う必要がない」と聞いた場合では、その目的地がどこにあるのかという印象が大きく変わるのではないでしょうか。

 幸いにも、本部道場は駅のすぐ近くにあり、目の前にはバスの停留場もあります。本数は少ないですが…。タクシーもすぐにつかまえられそうです。
 いやちょっと待てよ、バスもタクシーも「車」か?いやいや電車も大きいくくりでは車の一種だし、はたまた…。
 この際わかりやすく、条件は「自分で車を運転してはいけない」として考えよう。
 だとすれば公共の交通機関はOKとして、最近では自動車の相乗りサービスもあるし、レンタル自転車も探せばあるよなぁ。まてよ、飛行機で行くのが早いのか?

 「車を使ってはいけない」とした場合、このようなことがぱっと浮かんできたのではないでしょうか。
 “本来は” 車を使うべきところを、それを禁じられてしまったので、代替手段として、他の乗り物を探す、ということがです。

 では、「車は必要ない」といわれた場合は、どうでしょうか。
自然と、歩いてすぐ行ける近くとか、車がなくても行ける場所なんだな、と思いませんか?
あとはせいぜい、駅からすぐ近くの場所、などでしょうか。

 両方とも、条件は同じ、「車は使わない」と示しているだけなのにこれだけ違ったように感じてしまうのはどうしてなのでしょう。

 もしも、伏せられていた目的地が、(道場にいたとして)本部道場の入ったビルの上の階だったとしたらどうでしょうか。
 上の階に行くには、階段を使ってすぐです。

 目的地を知っている人からすれば当り前なので「まぁ、車は使わないよね」となります。当り前なのですが、車を出すあたり少し罠の匂いがしますね。嘘は言ってないんですが。

 それはともかく、目的地を知らされていない人たちの間では、こうしている間に様々な解釈が生まれてきてしまいました。

 車は使わない! 目的地に行くためには車は使ってはいけないということなんだ!
 では他にどのような手段があるだろうか?と。ちょっとしたお祭り騒ぎです。

 ある人は時刻表を調べ始め、効率的な移動を模索します。今の時代、スマホは便利でなんでも調べられますね。またある人は、では車でなければいいんだな、などと言いはじめ、画期的な新しい乗り物を発明しだしたりするかもしれません。人が乗れるドローンとか大流行りですね。

 その中で、もっともシンプルに考え、あるいは言った人のニュアンスを読み取れた人だけが、「ああ、車はいらないんだな」などと呟き、言った人とちらっと視線を交わし(その人はなぜか人差し指を立て、天井を差して笑っていました)そっと部屋を出て行くわけです。

 果たして、どちらが知的な姿でしょうか。

                                  (了)




 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その35」の掲載は、3月22日(月)の予定です

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2017年11月23日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その33

   「 弱さに向かい合う」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


前回の記事に書いた体質改善の命ですが、期限内になんとかクリアすることができました。
出されていた課題は、約2ヶ月で体重を14キロほど落とすという、実にシンプルなものでした。
というのも、減量前の時点で体重90キロオーバーという、武術修行者にはあるまじきたるみきった僕の体を見かねて、師父が出した課題だったのです。
 
 2ヶ月で14キロ。
 
あらためて文字にしてみると、わりと難しい話に思われますが、バットマンシリーズで主役を演じたクリスチャン・ベールが映画「マシニスト」のために役作りで30キロ減量(その後バットマンのために6ヶ月で30キロのビルドアップ)したことと比べれば減らす量は半分以下です。
 
もう少し頑張らなければハリウッドデビューは叶いそうもありません。
 
 
冗談はさておき、今回の場合は、期限が決められていたこともあり、わりと短期間で目標まで持っていったわけですが、さすがにそれだけ体重が減ると目に見えて見た目も変化しますし、なにより体を動かしてみると、とても軽く感じるものです。
 
自分1人ではそこまでやろうとすることはできなかったと思うので、きっかけを与えてくださった師父に感謝しています。
 
さて、前回の記事でも書きましたが、それまでできなかった起き上がり腹筋ができるようになったり、体重を減量することができたりと、人間というのは変化することができるのだと、最近の出来事を通じて実感することができるようになりました。
 
 
前回と重複してしまう内容もあるかと思いますが、少し書いてみたいと思います。
 
 
人間のみならず、世界や環境というものは、たえず流動的に変化しています。
 
そこに生きている生き物は、環境の変化に対応できなければ、最終的には死滅してしまいます。
 
だからこそ、生きるための強さには、環境に適応できる強さが必要であり、変化できることが強みでもあるわけです。
 
 
人間の体について考えてみると、人間は常に細胞レベルどころか、原子のレベルで常に変化し続けています。食べたものが、数日のうちに体を構成する原子レベルで入れ替わっていき、自分という人間を構成していた要素は、短期間のうちに全て新しいものに入れ替わってしまうそうです。
 
当然、人間の考えを作り出す脳もその中で入れ替わり続けていて、しばらくすれば全く新しい自分になっているはずです。
 
なのに人は、なかなか自分の考え方を変えることができません。
 
これは一体、なぜなのでしょうか。
 
それは、パターンを変えられないためだと思います。
 
たとえば、いつのまにか体重が増えていってしまうのも、本当はいつのまにかではなくて、体重が増えるような生活を続けてしまったからです。
 
そこを見直して変えることができれば、自然と体重は落ちていきます。
 
簡単なことのはずですが、人間は一度馴染んでしまったパターンを、なかなか変えることができません。
 
ものの見方という点でも、一度こうだと思ってしまった見方を変えるには、相応の努力をしなければならないように感じます。
 
 
太極拳の稽古をしていても、いつのまにか「きっとこうに違いない」と思い込んでいることに気づいてハッとする、ということが毎回のようにあります。
 
本当は知らないことのはずなのに、あたかも自分が知っていることの中にあるように感じてしまい、そこからどうにかしようと解決策を考える。
 
そして、当然のようにそれではうまくいかないので、悶々とする。その繰り返しです。
 
 
一体、これまで何回このパターンを繰り返してきたことでしょうか。
 
このパターンを打破するためには、まったく違ったことをやらなければなりません。
それまでとは違うことをやることでしか、同じことを繰り返すパターンという殻は破れないのです。
 
 
その、やってみるという行為の中には、自分の考えを挟む隙間はありません。
 
そもそも考えを否定するためにやるはずなのに、考えながらやってしまっては、元の木阿弥というものです。
 
考えずにやる中で、うまくいかなかったらやめる。
 
じつは、ネガティブフィードバックを繰り返すことが、生命がこれまで絶滅せずに数十億年繁栄し続けている、自然界の最善手のようなのです。
 
 
ネガティブフィードバック、それは最強の手段といっても過言ではないかもしれません。
 
 
誰しも、強くなりたくて武術の稽古をしているのだと思いますが、そのためには否が応でも自身の弱さと対面しなくてはなりません。
 
敵は己の中にある、と言われる所以だと思います。
 
ところが、自分の弱さを知ることが、本当の強さにつながっていく。
 
それに気づいたことで、自分がどれだけ開かれる思いがしたことでしょうか。
 
上で書いたように、人間の体で新陳代謝が起きているのも、不要になった細胞を自身で切り捨てることで、別の細胞に入れ替わり、総体としての体は健康な状態を保つ、という仕組みが働いています。
 
考え方においても、これと同じことが言えます。
 
うまくいかないひとつのことを、あれこれいじくり回しているよりは、いくつもやってみて、その中でうまくいくものを取捨選択していくほうが、最終的に残るものは有効なものになります。
 
弱い自分というものは、どうしても見たくないものですし、できればそんなものは存在しなかったことにして、強い自分だけ表に立たせて飾っておきたい。誰しもそういう心が働くものだと思います。他ならぬ自分自身がそうです。
 
それまでの僕は、本当の強さについて考えるとき、何事にも動じない強さこそが強さなのだと思っていました。ところが、本当はそうではなかったのです。
 
弱い部分があるからこそ、それを乗り越えていくことで、人や、物事は、少しずつ強くなっていけるのです。
 
稽古をしていて、自分でも少し前とは変わってきたと感じるところは、言ってしまえばすべてたったこれだけのことが理由で起きたといえるかもしれません。
 
 
痩せろと言われたらやせる。
 
起き上がり腹筋をやれといわれたらやる。
 
 
道場にいる人はわかるかと思いますが、なにもかもいきなり出来たわけではありませんでした。
 
起き上がり腹筋に関しては10年はダメでしたし、減量に関しても、ずっと以前から走れと言われ続けていて、それでもうまくいってなかったのです。
 
ではなにがきっかけだったかというと、それまで言われ続けてきたということもあると思いますし、師父が仰るんだからきっと何かあるに違いない、と遅まきながら気付いたのかもしれません。
 
自慢しているわけではなくて、本来はやらなければいけないことから単に逃げ続けていただけなので、全くほめられたものではないのです。
 
 
しかし、それらのことが自分にとってはきっかけになったのは本当のことなのです。
稽古をしていて、それまでわからなかったことが急に分かるようになった、ということではありません。
 
ただ、稽古をしているとき、師父の動きを拝見しているとき、それまで気付かなかった「これではダメだな」という、
自分の姿が少し見えるようになった気がするのです。
 
取り組み方への考え方でしょうか。
それが果たして、理にかなったやり方なのか。そう思えるようになり、これもまた少しずつ変化を起こしているように感じます。
 
 
自分で感じる変化は非常に些細なものなので、太極拳に限らず人生全般で、本当は「こんなのでいいのか」と思うところもあります。
 
弱音を吐き続ければ、一晩は語り明かすことができそうです。
 
ただ、それとは別に、自分の中に、そんなものは一切置き去りにしてやっていけそうな力があるのも同時に感じています。
 
一足飛びに強くなったり、成長することはむずかしいことだと思います。
 
朝起きたら達人になっていた、なんてことはありません。
 
アメーバみたいな生き物からいきなり人間が生まれるのはほとんど不可能のように思えますが、段階的に進化を重ねていくことで、最終的には不可能とも思える人間が生まれ、さらにそれが進化していく可能性も見えてくるのだと思います。
 
 
多くの人は、なにかを成し遂げようとして夢見るのは憧れの姿であり、それと自分を見比べて、とてもそれはできそうにない、と諦めてしまうのだと思います。
 
本当はそこに至るまでの道筋があるはずなのですが、それが普通にはわかりません。
 
だから、そこに到達するのがまるで不可能なように感じるのだと思います。
 
だからこそ、段階的に成長していける体系があるということは、本当にとてつもないことであり、それこそが本当の意味での宝なのだと思います。
 
とはいうものの、では教わればそれで全てができるかというと、全くそんなこともないのも事実だと思います。
 
教えてもらうことができるのは、道の歩き方であり、歩くべき道です。
 
実際にそれを歩くのは、自分であり、自分の脚を動かさなければならないのです。
 
おまけに、教えていただいた道は、自分の考え方という草木が覆い、一見するととても道のようには見えないのかもしれません。
 
そのため、最初にその道を行く冒険者のように、自分の手で道を切り開いていくという意志が必要になるのかもしれません。
そして、そこを歩いていけるのは、自分の力で、自らの脚でのみ、です。
 

                                  (了)



 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その34」の掲載は、1月22日(月)の予定です

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2017年09月25日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その32

   「 しなやかな強さ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 道場には色々な年代の人が通ってきていますが、特に自分より年上の人たちと比べて、
自分はとても意志薄弱で、なにかを意識的に続けていくことが出来ない弱さがある、と感じていました。
 
 それが自分の弱さだと、師父には時折指摘をして頂いていたのですが、ではどうしたらいいのだろうかと見当もつかず、本物の強さとはなんだろうと思いながら、漠然と日々を過ごしていました。 
 それが、ここ最近の出来事を通じて、強くなれたとは言わないものの、自分の弱さを克服していける方法を勉強できる機会を得たと思うところがあったので、少し書いてみようかと思います。
 
 
 ものの強さには種類があって、変化に対して脆いもの、変化にたいして強いもの、と大きく分けることが出来ると思います。
  変化に対して強いものもさらに分けることが出来て、ある程度の変化に耐えられるような強さのものと、変化があればあるほどどんどん強くなっていくもの、といえると思います。

  頑なに強いものと、しなやかに強いものと言えるでしょうか。 
 この、しなやかな強さということに対して、もっと目を向けなければいけないと思うのです。

 自然界において最大の強さは、決して負けることなく生き残っていく強さです。
 この自然界で、人間にかぎらず、あらゆるものが持っているべき、決して負けてはいけないときに持っているべき強さであり、ストレスや逆境にあったときに、それに立ち向かうことのできる種類のものです。
 
 この地球上で発生した生命が、さまざまな天災や困難に見舞われながらもまだ生き残り、かつ多種多様に反映しているのは、逆境があればあるほどより適応し、より強くなって生き残っていける強さがあったからです。
 言ってみれば、それは進化の仕組みそのものと言えるでしょうか。
 
 人間という大きさで見れば、かつて多くの英雄たちが神話において語られてきたように、自分の前に現れた困難を克服していける姿を生き方として示したようなものでしょうか。
 よし、やってやる!という決意の強さとでもいうもので、物事に対して柔軟に対応していけるようなやわらかさを持った強さなのではないかと思うのです。
 
 
 武術のことに関してはまだまだからっきしですが、自分を害そうとする敵を前にして、技術云々以前に、まずは生き残るという意志を持つ。そうしなければ生き残れないのではないかと思うのです。
 頑なに変化を拒むのではなく、かといって変化に流されていくのでもなく、第3の状態、変化を受け入れてそれによって自分が変わり適応していくことで、強くなれる。
適者生存の原理、それこそが本物の強さなのではないかと思うのです。
 
 一般的な強さとは、格闘技などでは特に、自分がどれだけ頑丈になれるか、相手に侵害されずに、相手を屠ることが出来るかという強さが求められているように思います。
 それは、まさに人工的な強さに他なりません。
 
 一度出来あがってしまったものは、自ら変化することはありません。ただ、物事が起きた事にどれだけ耐えれるかという、強度だけがためされます。
 しかし、時間の変化や物事に対して不変のものなど存在しません。いつかは、壊れてしまうはずです。
 どれだけ自分を貫けるかという、固い強さになってしまっていると、これは自分より強い相手に出会ったとき、また、柔軟に変化する相手には簡単に負けてしまうものです。
 
 出来ないことに、対応していける、取り組んでいこうとする気持ち。まずは、それに対して弱い気持ちにならず、やってみようとしなければなりません。
 そして、ただ頑なになって取り組んでいっても、状態は変わっていないので、結果もともなわないものです。
 
 
 たとえば、自分にとっては太極武藝館名物のひとつ、「起き上がり腹筋」がそうでした。
 入門して十年も経つのに、まともに出来たことがありませんでした。
 そして、それを自分の中で、出来なくても仕方ない、いまの自分には出来そうもない、と理由をつけて避けていたわけです。
 
 なかなかその状態を変えられなかったのですが、師という、きっかけを与えてくれる存在が居ることが大きかったです。

 「期日までに出来るようにすること」と言われたのが、そのきっかけでした。
 
 本当は、それも自分でそこまで持って行って出来るようにしなければいけないのですが、なかなかそうは出来なかったのです。
 
 とにかく、そう言われたからにはやるしかない、弱音を吐いている暇はなくなってしまいました。
 
 それでも最初のうちは、まったく進歩が見られず、とてもできる気がしませんでした。
 出来るようになっていくためには、なんで出来ないかを考えなければなりません。
 ネガティブ・フィードバックをしていくしかないのです。
 一足飛びに変わることは出来ないので、自分の中にある、弱い部分を少しずつ変えていくしかないと気付かされるのでした。
 
 とにかく期日までになんとかしなければ!というプレッシャーが、逆に人間に強さを与えてくれる、と、今となっては思います。それに対応、適応しなければ生き残れない!という重圧が(ちょっと大げさかもしれませんが)、人に成長する糧を与えてくれるのです。
 
 
 技術的なことを言えば、体の柔らかさや、勢いを利用した方法では、正しい「起き上がり腹筋」とは言えません。
 そもそも自分の体では柔らかさでは出来ないし、勢いだけではとてもではないですが、元の位置に戻ってこられないことは明白でした。
 
 ではどうするか? 一番のやり方は、ただ正しいやり方をやろうとするしかないということでした。
 それもただ盲目的に、漫然と行うのではダメで、創意工夫をしながら正しく挑戦するしかない、というものです。
 
 最初のうちは、全く出来ませんでした。以前はいくらか上がってきていたものが、恥ずかしながら以前よりも上がらなくなり、お尻が着いたまま上体を起こしてくるだけで、立ちあがることのできる気配など全くありませんでした。
 
 少しずつ改善していくしかありません。
 始まるときの立ち方、下りていくときの体の使われ方、下りてきてからの体の状態、見直すべき点はいくらでもありました。
 それをひとつひとつチェックしながら、少しずつ変えていくのです。
 変化としては本当に微々たるものの連続で、さっきより少し体が動くようになったとか、そういった程度のものです。
 しかし、なかなか体が起き上がってくるまでには到りませんでした。
 
 
 それでもあきらめずに続けていくと(もしかしたらそのころには、まわりのほうがあきらめムードになっているかもしれませんが…)、だんだんと自分の中で変化していっているのを感じることが出来るようになります。
 
 ほとんどやみくもに近かったチャレンジが、こうしたらいいんじゃないか、と改善点と因果関係を正しく結び始めるようになり、それに見合った結果が伴ってくるようになります。
 同じように出来ないにしても、それまでとは違ったものになってくるのです。
 
 そこまでやってくると、あきらめる必要はもう殆ど無いように感じられてきています。
 出来ない、けれど、もう少しで何かがつかめそうだ。
 起き上がり腹筋の場合は、根気よく補助をしてくれるパートナーが必須でした。
 道場の仲間というのは、本当にありがたいものです。
 
 最後の壁は、それまでやってきたものを総動員して、とにかくやってやる、という気持ちで行うことでなんとか超えることができました。
 ある日の稽古で、次の練功に移るという最後の一回のチャンスで、ようやく、立ちあがることが出来たのです。
 
 稽古中だというのに、思わずガッツポーズと声が出てしまいました。
 
 
 それと、起き上がり腹筋と前後して、個人的に、師父から体質改善の命を受けてチャレンジを続けていました。
 それも普通にはちょっと無理なのでは?と思うような課題だったのですが、とにかくやるしかない、と奮起して取り組んできました。
 
 それと併せて、前々から「走るように」と言われていたのですが、それもまた、やり方を改めることとなりました。
 
 ただ疲れるだけで効果が出ない、悪くすれば武術的に悪影響を与えかねないやり方から、
もっと正しい走り方を出来るように、少しずつ改善していったのです。
 
 「最初は早く走らなくてもいいから、走り方を見直すように」というアドバイスも頂き、見直しを重ねていきました。
 最初は、数百メートルも連続して走れなかったものが、練習を続けていく間に、ようやく10キロ走っても平気な体になってきました。
 これもまた、以前の自分からは考えられないことです。
 
 
 「起き上がり腹筋」でようやく立ち上がってこられたこと。
 おそらく、どれかひとつのことだけにチャレンジしていたのでは出来なかったと思うのですが、同時に取り組んでいたいくつかのことが自分の中で、確実に実を結んでいったことの結果なのではないかと思います。
 
 人には得意不得意があるので、ある人には簡単に出来ることが自分には難しく、またその逆もあると思います。
 それと、誰もが難しいと感じてしまうようなことも、当然あります。
 
 観方を変えれば、取り組んだことがないことを目の前にしたとき、最初から出来なくても当たり前のことだといえます。
 そうなったときに、あきらめてしまわずに、とにかく取り組んでみることが大切なのだと思うようになりました。
 
 場合によっては、既に出来る人から見れば幼稚なレベルにしか見えないかもしれません。また、自分の中の、何か「出来ること」と比較して、あまりにちっぽけすぎて、なんの意味もなさないように感じるかもしれません。
 
 けれど、そこであきらめずに、やり続ければ、変化は確実に自分の中に蓄積されていきます。それまでのやり方を自分の中に持ったままにしてしまうと、おそらくその小さな変化が見過ごされてしまうのだと思います。
 そうすれば、それはいつまでたっても出来ないままで、だんだんと続けるのが嫌になってしまうのだと思います。
 
 戸惑いの中にあっても、とにかく続けていくこと。
 それがある瞬間、ぱっと違った世界に連れて行ってくれるのだと思います。
 
 一般的に難しいのは、何かに取り組むときに、体系的に段階を踏んで挑戦していくことなのだと思います。
 自分の経験から、改めて振り返ってみると、太極拳というのは、少しずつ登っていける階段が用意されている、すさまじい学習体系なのだと感じさせられました。
 
 自身をふりかえってみると失敗のもとは、早く強くなりたいという思いから、一足飛びに上を目指そうとしてしまっていたところ、といえるでしょうか。
 本当は目の前に次の一歩があるというのに、そこを無視して進もうとしては、いずれ壁にぶつかってしまいます。
 
 地道にコツコツと。
 そうして得られるものが、本当に自分の中に根付いていく功夫なのだという気がします。
 

 体質改善の命令は今も挑戦中なのですが、その中で、自分は変わっていけるのだという、確かな手ごたえを感じることが出来るようになりました。
 
 そのチャレンジが終わっても、また次に、今度は自分で立てた目標に向かって、少しずつ続けていこうかと思っています。
 それが楽しみなのは、いままでになかった感覚で、自分自身にとって一番驚きの変化でしょうか。 

                                 (了)





*次回、「今日も稽古で日が暮れる/ その33」の掲載は、11月22日(水)の予定です


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2017年05月22日

門人随想 「今日も稽古で日が暮れる」 その31

   「 くう ねる いきる」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



何気ない日常生活を送っていると、ふと気がつくと、自分が生きている実感がほとんど伴っていない、ということがあります。
 
武術とは非日常の世界であり、生き残るための技法である…。
 
そういう気持ちで取り組んでいるはずの、高度な武術の稽古の裏側で、実際に多くの時間を過ごしているのはふだんの生活です。
仕事をし、家に帰り、稽古に行き、また帰ってくる。
もう何年も続いている、日常生活の中で、なぜ生きている実感を感じられない瞬間があるのでしょうか。
 
それは単に寝不足で疲れていたり、なにか悩みがあったりとか、そういった些細なことの積み重ねで、ほんの少しずつ歯車がずれてしまっていると感じている、そういうことでしかないのかもしれません。
 
けど、自分に限らず多くの現代人の生活を見てみると、生きることとは一見無関係にも思えるような仕事に取り組み、生活の糧を得ているはずです。
必要なものがあればコンビニやスーパーで買いそろえ、インターネットで注文すればたいていのものが手に入る時代です。
もちろん、それは否定しません。
ですが自分自身のこととして、生きるために何が必要なのか、そこのところがまったくわからなくなってしまっているようでした。
 
 
今年に入り、研究会では特別稽古として、数回の野外訓練を行いました。
研究会の野外訓練! というと一般門人の方の中には、
「相当特別なすごいことをやっているに違いない…!」
と、内容を聞いてこられた方もいますが、実際には、まだふつうのキャンプを行いながら、野外での活動に慣れるといったことと、それにプラスして少しずつ課題が増やされ、野外での体の使い方を学習していくといったものです。
野外での体の使い方とは、師父から教示される軍隊の訓練に準じたものや、太極武藝館独自の学習体系に沿った訓練などです。
 
野外での訓練といっても、そこは太極武藝館の稽古ですから、食事まで徹底的に抜かりなく、素晴らしいものをいただくことになるわけです。
前回の訓練では、師父お手製の特製カレーをふるまっていただき、おいしく味わわせていただきました。
特別に参加していた一般門人のI(アイ)くんは、
「普段の食事より豪華な物を食べている」「こんな御馳走は味わったことがない」
と言い、何回もおかわりをもらっていました。
本当においしかったです。
 
 
しかし、研究会のメンバーはただ食事にありつけるということはなく、ちゃんと課題を与えられていました。
それは、カレーは師父の御好意で用意していただけるので、ご飯は自分で炊く、というものでした。
いくつか条件があり、
 
 1、使って良い火は焚火のみ
 
 2、火口(ほくち)は現地調達出来るものだけ
 
 3、着火具はメタルマッチ(ファイヤースターター)で
 
あとから知ったところでは、ウッドストーブ(註:ガスやアルコールなどの燃料を使わず、小枝などを燃やして使うキャンプ用コンロ)は使用可能だったそうですが、自分は持っていなかったので関係がなかったのでした…。
 
とにかく、そういった条件が出揃い、脳裏をよぎったのは数年前に行われた最初の野外訓練での課題でした。
 
雨が降ったあと、新聞紙とマッチだけで焚火をするというものです。
それはもう、いまだに語り草になるほど散々な結果でした…。
条件がそれほど悪かったわけではありません。ただ、自分のスキルのなさが痛感させられたのです。
 
火をおこし、ご飯が炊けなければ食べるものはない。
昔だったら、ごく当たり前の話だったはずです。ただ、現代ではそれ以外の手段がいくらでもとれるため、たったそれだけのことで食事にありつけないということがないわけです。
 
今回のキャンプ事前の天気予報では、その日は雨が降るかもしれない、ということでした。
これは非常にまずいです。慣れた人からすれば「なんだそんなことくらいで」と思うかもしれません。
そうなのです。自分が「なんだそんなことくらい」と思えるようになる為の訓練なのです。その時の自分にとっては、一大事だったのでした。
 
 
幸いにも(不幸にもというべきでしょうか)、キャンプ当日は雨も降らず、焚火を行うためのコンディションは悪くない状態でした。
やらなければならないことは、テント・タープの設営、メインとなる焚火・かまどの設営、そこで使うための薪集め、それから自分用の焚火と薪の用意でした。
 
もたもたしていては日が暮れてしまいます。
効率よく動くためにはどうしたらいいか、自分だけでなくまわりの人の状況もみながら動く必要があります。
何回かキャンプをしてきたぶんは、どうしたらいいかが分かってきているようにも感じました。
反省点はまだまだあるので、次回以降に生かしていきたいと思います。
 
 
焚火をするうえで一番の課題だったのが、一番最初に火をつける火口がないというところでした。麻紐をほぐしたものを試してみよう!とお気楽に考えていた自分が本当に憎らしいものです。
 
道具は現地で調達出来るものだけ、あと頼れるのは自分のみ、です。
落ちていた木を細かく削ってみるものの、先日までの雨で木は湿っており、簡単には火がついてくれません。
そうしているうちにあたりは暗くなり始め、何かを探しに行く時間もなくなっていきます。
どうにかしないとご飯が食べられません。
ささいなことですが、目の前に差し迫った危機のひとつではあります。
 
幸い、杉の木や枝はそこらじゅうに転がっており、おもな燃料として集めてありました。
なので、事前に勉強してあった方法を試してみることにしました。
 
「備えよ常に!」
 
まさにサバイバルとは知識ですね。
知識だけではダメですが、それを使えるようになっていれば、実に役に立つものです。
 
まず、出来るだけ乾いている杉の枝から皮をナイフではぎ取ります。
皮がある程度集まったら、それを手のひらでひたすら揉みます。
しばらく揉んでいると、杉の皮が繊維状にばらばらになり、ふわふわした綿状になってきたら火口の完成です。
試そうと思っていた麻紐ほどではありませんが、それでも十分に使えそうな状態にはなりました。
 
かまどは事前に、石を積み上げて作っておきました。
ご飯を炊き始めたら、火力が調整出来るように動かせる…というふうに作った(つもりの)ものです。
 
そこに薪、小枝、焚き付け、それからいま作った火口を用意し、火をつけます。
 
一発で点火!となったらよかったのですが、なかなかうまくいきません。
「やばーい! 火がつかない!」
などと散々騒いでいた記憶があります。それも野外の楽しみです(?)。
火口の状態がよくなかったようで、新たに作り直します。
手のひらいっぱいくらいの量で、最初よりももっとこまかくほぐします。
最終的に、それでうまくいってくれました。
 
メタルマッチから飛び出した火花が火口につき、そこから火が燃え上がります。
あわてて消してしまわないように、少しずつ小枝から大きな木へと火を移していきます。
火の状態を見ながら対話していきます。稽古と同じです。
 
ようやく焚火が安定してきたら、本題である炊飯へとうつります。
事前に水に浸してあった米を火にかけ、調理開始です。
 
少しアクシデントはあったものの(ふつうのクッカーでは蓋が吹っ飛びました…)、上手に炊き上げることができました。
家でガスの火で試したときよりも上手においしく炊けたのには驚きでした。
 
自分で焚火で炊いたご飯で、師父の手作りカレーをいただく。
なんという贅沢な時間でしょうか。
 
 
翌日の朝食と昼食も、研究会は自分で焚火を起こして調理をしました。
自分は簡単なコンソメスープと、パスタをつくりました。
 
師父のカレーのことを思うと、次回はもう少し、料理のバリエーションを増やさないといけないな、と思いました。何事も勉強です。
 
 
キャンプでは新調した一人用のテントを使ったのですが、もうテント泊はおしまいです。
「一回しか使ってないのに?」
とツッコまれながらも、次はタープ泊だ、とかたく心に決めたのです。
 
男は、つねにワイルドに生きなければならない生き物なのです。
 
そういうわけで、ゴールデンウィーク中の某日、稽古はお休みだったので個人的に、ゲリラキャンプもしくは野営というと聞こえはいいですが、いうなれば野宿へと強行スケジュールで出かけました。
場所は事前に決めてあったダム湖に隣接された公園です。
用意していったのはグリーンシート(ODカラーのブルーシート)とポンチョ(これは簡易タープにもなる便利なものです)、それからシュラフです。
 
休日が取れなかったので、夕方まで仕事をしてから、夜に出掛けるというスケジュールになってしまいました。なので、本当に寝て帰るだけとなりました。
 
バイクで走ること数十分、目的地に到着です。
 
心配していた雨も降りそうになく、最終的にはタープを張る手間もはぶいてしまい、グリーンシートを簡易シェルター代わりにして眠りました。
さえぎるものが何もなく、天上に広がる星が良く見えて綺麗でした。
 
もはやタープ泊でもなんでもありません。
ただ、緑のシートにくるまった人間が寝てるだけです。
気温は暖かく快適に眠れました。
ただ、明け方になると自分から出た水分でシート内が結露し、シュラフが濡れてきてしまいました。改善の余地ありです。
 
夜が明けると即座に片付けをし、簡単な朝食を食べて撤収しました。
 
季節が季節なので、寒くて命を落とすということはないですが、もっと事前に準備をしないといけない、と痛感しました。
 
 
今年になってから特に、野外で宿泊するという機会が増えました。
時間で言えばわずかなものですが、その一回一回が、大きな学びの機会となっているように思います。
 
今も、次にいつキャンプに行こうか、そこでは何をしようか、そのために何が必要か、と着実に準備を行っています。
言ってみれば、ハマってしまったわけですが、それまでの自分には考えられなかったことだと思います。
野外で活動することの楽しさにはまってしまうと、家の中でゆっくりしているのがだんだんともどかしく感じられ、どこでもいいから出掛けたくなってきます。
 
それはおそらく、キャンプでも焚火でもなんでもいいですが、それらがすべて、代わりの利かない本番だからではないか、と思うようになりました。
そしてそれらは、食べること、眠ることなど、生きていくことの本質に直接的に関わってきます。
ただ一晩眠れない、一食食べられないというだけでは、危機は命にまでは及びませんが、自分が不利になることだけは確かです。
ちょっとした判断ミスのひとつ、失敗のひとつが自身の能力をそこなう可能性を秘めているので、そういった気持ちを持って物事に取り組む必要が必然的に出てきます。
 
まわりの状況を見て、手元にあるものを最大限使い、自分の出来ることをフルに行わなければなりません。
その上で、十分な休息をとり、また次に備えなければなりません。
一回一回がリハーサルのない本番だからこそ、そこで得られたものは、成功であれ、失敗であれ、確実に次につながっていく糧として、自分の中に残っていきます。
 
生きることと自分の間に余計なことがない。
そのことが、楽しいことなのだと思いますし、そこに充実感があります。
 
野外でシートに包まって一回寝るだけで、屋根のあるところは、たとえテントでも贅沢なのだなと思い知ることが出来ました。本当に大したことではありません。ただどこにでもあるシートと寝袋を引っ張り出して外に出ただけで、そういう経験をすることが出来ました。
次はどうしようか考えるだけで、楽しくてしかたありませんね。
一応、良い子は真似しないでね、と言っておきますが。
 
翻って、それまでの普段の生活のことを考えてみると自分はどうだったでしょうか。
衣食住の心配もなく、それらがあることが当たり前であるという上で、他のことにかかずらって思い悩んでいたように感じます。
 
稽古をしていても、はっとさせられました。
果たして自分がどれだけ、一回の稽古を本番として取り組めていただろうか、ということにです。
毎回毎回真剣に行っていたつもりでも、どこかでは「これは練習だ」と思っていたのではないだろうかと。
稽古を本当の危機だと思えていたかというと、全く自信が持てません。
それほどまでに、感覚が鈍ってしまっていたのだと思います。
 
その点、師父に相手をしていただくと、一回の対練が代用の利かない本番であるという実感がはっきりと感じられます。それは、師父がそのように取り組んでいることの証だと思います。
それを自分はその瞬間、味わわせてもらっているのだと感じます。
 
それは言われて頭で分かるものでなければ、技術や体力をどれだけ向上させても、決して理解できる質のものではないように感じます。
 
 
それが分かっただけでも、自分には大きな収穫です。
 
もちろん、それで全てが一度に変化するわけではないとしても、自分の中に付いた火種は、最初はなかなか燃え上がらなくても、適切に育てていけば、きっと大きな炎になるはずです。
 
それがどうなるかはわかりませんが、自分の中に生まれた感覚を、大切にしていきたいと思います。
 

                                (了)




*次回、「今日も稽古で日が暮れる(その32)」の掲載は、7月22日(土)の予定です


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