*第51回 〜 第60回
2010年10月15日
連載小説「龍の道」 第55回

第55回 綁 架(bang-jia)(6)
「何処だ、ここは────────」
真っ暗闇の中で、宏隆はようやく目を覚ました。
まだ頭がぼんやりとしていて、横たわった体を動かそうとするとズキリと頭痛がする。
起き上がろうとした途端、ジャラリという音がして手首に固いものが食い込む。どうやら手錠を掛けられているらしい。胸のあたりが重苦しく、目まいや吐き気がするのは、宏隆を大人しく眠らせておくために打った薬物の副作用に違いなかった。
暗くて周りが何も見えないが、潮の匂いが高く鼻を突く。
身体の下に寝具のように積まれている物には、漁師が使う網のような感触があるし、そう遠くない所に波が打ち寄せる音が聞こえているので、おそらく此処はどこかの漁港の近くに違いないと思える。その強い潮の匂いの所為か、ぼんやりしていた意識が少しはっきりしてきて、昨夜ホテルで何があったのかが徐々に思い出されてきた。
「・・・そうか、あの時、首筋に注射のような物を打たれ、眠らされて、何処かの海岸まで連れて来られたんだな。此処から僕を船で運んで行くということか────────」
手錠をはめられた手で首の辺りを押さえて、まるで他人事のようにそう呟く。
「程さんは、無事だっただろうか・・・・」
見知らぬ土地で手枷を付けて監禁されている自分のことよりも、最後まで自分を庇ってくれた程さんが無事かどうか心配でならない。しかし、まずは吾が身の惨めな状況をどうにかしなくてはならないのが先決であった。
手許を探ると、幸い腕時計がそのまま外されずにあった。
高校の入学祝いに、兄の隆範(たかのり)から贈られたオメガのスピード・マスターは、近頃流行し始めたデジタル・クオーツ式の時計で、文字盤にライトが付いていて、しかも日付から曜日まで表示してくれるので、こんな時にはとても重宝する。
「こんなことになってしまって、きっと神戸の家でも大騒ぎだろう。兄さんも心配しているだろうな・・・・」
時計を見て想う兄の顔は、「どうだ、役に立っただろう・・!」と言わんばかりに微笑んでいる。
そのオメガの文字盤は、8月14日・月曜日の午前2時過ぎを示していた。
「何だって?、もう月曜日になったのか────────」
昨夜のことではなく、あれから丸々一日の間、昏々と眠らされていたのだということが判って、宏隆は驚いた。
「映画だと、こんな時はゼム・クリップか何かで、ヒョイと手錠を外すんだが・・・」
暢気にそんなことを想うが、しかし、そのクリップのひとつも、ここには無い。
「さて、どうするか────────」
そのとき、ジャラジャラ、ゴトゴトと、カンヌキに巻きつけた鎖を外しているような音がして、誰かが扉を開け始めたので、宏隆は素早く元のように寝転がり、まだ薬が効いて眠りこけている振りをした。こんな時間に、こんな所に入ってくる者は、もちろん宏隆を拉致した人間たち以外には考えられない。
薄目を開けて様子を伺っていると、二人で入って来た男の片方が懐中電灯を持って宏隆の顔を照らし、周囲にも異状がないか、あちこちライトで照らして確認している。
「よく眠っているようだな・・・・」
「ああ、グッタリしたままだ」
「水はどうだ・・・飲んだ形跡があるか?」
「いや、まだ飲んでいないようだ、桶に入れた水が全然減っていない」
「・・・ふむ、あの注射は実によく効くものだな。去年、博多から日本人の若い看護婦を拉致した時も、たった1本で15時間以上も眠り続けていた。目が覚めたら雪の北朝鮮だったのでずいぶん驚いていた。この坊主には昨夜念のため2本目も打ったから、まだ当分は目を覚まさないはずだ」
「このまま、出発まで転がしておけばいい。下手に目を醒まされると、また何をやらかすか分からんからな────────まったく、とんでもないガキだ!」
男は如何にも忌々しそうにそう言うと、ごつい軍隊用の靴で、横たわっている宏隆の腹をズシリと、思い切り蹴りつけた。
(うっ・・・・・・!!)
危うく、宏隆は声が出そうになったが、目が覚めていることを悟られないよう、表情が出ないように必死で我慢した。
「おい、止めておけ!────────お前はこんな子供にひどい目に遭わされたから憎くてたまらんのだろうが、大切に平壌(ピョンヤン)に連れて来いという命令だ。腹を蹴っても外傷は残らんが、台湾の組織とコイツの親父から身代金をたっぷりと巻き上げるまでは怪我をさせるわけにはいかない」
「チッ、身代金を奪っても、どうせ日本に返しはしないんだが・・・
まあいい、向こうに着いたら折を見てたっぷりと可愛がってやる!!」
そう言い捨てると、憎々しげに、宏隆の足元に唾を吐いた。
疳高く騒がしい朝鮮語で何を言っているのか分からないが、語調から凡その察しはつく。いま自分の腹を蹴った男は、八卦掌の「倒銀瓶」を決めて倒した相手かも知れない。
男たちは、またガタゴトと音を立てて扉を閉め、厳重にカンヌキに鎖を巻き付けていたが、やがてその話し声も次第に遠ざかっていった。
「ふぅ・・まったく、眠っている人間の腹をいきなり蹴るなんて────────
つい躱(かわ)しそうになって、危なくタヌキ寝入りがバレるところだった!」
しかし、そこら中をわざわざ懐中電灯で照らし回ってくれたお陰で、ここが漁師小屋らしき所で、出入り口が何処にあるのかもハッキリした。扉が開かれても外の灯りが全く見えなかったのは、月齢がまだ若くて、月夜回りではないからだろう。それに、この辺りは街灯もロクに無い所なのだと思えた。
「近ごろの夜明けは五時半頃だから、明るくなるまでには、もう少し時間がある。
今宵は月も出ぬそうな・・・なんて、ロマンチックなものじゃないけど、月の無い闇夜は脱出するにはかえって好都合だ。しかし、どうやって此処から脱出できるだろうか・・・」
腕時計のライトを点け、手錠をガチャガチャと動かしてみる。
引き千切れるはずもないし、ぶつけても、叩いても壊れそうもなかったが、そうしているうちに、ふと手錠に附属している小さなカギの形を思い出した。
武術は無論、和歌や馬術にも長じていた父の弟、つまり自分の叔父に当たる人が皇宮警察の侍衛官で、神戸の家に遊びに来た時に、まだ小学生だった宏隆が、大好きなその叔父にどうしても手錠を見せてほしいとせがんだことがあった。初めは駄目だと言っていた叔父が遂に根負けして、笑いながら宏隆にガチャリと手錠を掛けて見せた後、オモチャのような小さなカギで解錠した。それは意外なほど単純な形をしていたが、その形が、今ありありと思い出されたのである。
「────────そうだ、あんな形なら、針金のような物でも何とかなるかもしれない」
小屋の中をあちこち手探りで触れ回って歩くと、すぐそばの壁に、束ねて巻いた針金がいくつか懸けられていた。
「・・・やっぱり、こんな所には針金の一つや二つは、ぶら下がっているものだな」
太めの針金を10センチほどの長さに折って切り、先端を手錠の鍵穴を使って器用に少しずつ曲げて、かつて目にしたカギのような形にする。
叔父が指で摘んでいたその小さなカギは、意外なほど単純な形をしていた。
「さて、開(あ)いてくれよ・・・・」
二十分間ほど、まるで知恵の輪でも解くように懸命にガチャガチャと試していると、突然カチャッという音がして、手錠の留めが解除されてスルリと動いた。
「お、やったぞ!、去年亡くなった叔父さんに感謝しなくっちゃ。しかし、何でもやってみるものだな、何もしないウチから諦めていてはイケナイ、ってことだ・・・」
確かに、危地に立たされた甥に、常世の叔父が力を添えてくれたのかも知れなかった。
しかしこれは、精密な技術の無い、粗悪品の多い北朝鮮製の手錠であったことが大きく幸いした。もしこれがアメリカや日本製の手錠であったなら、いかに宏隆の運が強かろうと、素人が針金一本で解錠することなどは、全くの不可能と言ってよい。
加えて、宏隆に注射した睡眠剤の効果に頼って、彼の身柄を二重三重に拘束しておかなかったことも幸いしていた。日本の特捜や特殊部隊が敵を拘束する際には、手錠にロープや鎖を付けて身体に巻くのが普通であり、場合によっては指錠や足錠まで掛けることもある。
「・・・さて、どうにか手は自由になったが、お次はこの小屋からどうやって出るかだ」
だんだん暗闇に目が慣れてきたのか、薄っすらと小屋の内部が見える。
「出入り口は、まあ、開かないだろうな。あれはカンヌキの音だったし、ご丁寧に鎖まで巻きつけていたようだから、まず無理だろう。そうすると、何処かこの小屋が老朽して傷んでいる所でも探すしかないか・・・・」
小屋の内側をぐるりと一周しながら、板壁をあちこち押して回って弱い個所を探す。
しかし、板壁は厚さもあり、固く頑丈な造りでビクともしない。
「うーん、駄目か。それじゃ、一番傷みの激しい屋根はどうだろうか・・・・」
自分に言い聞かせるように言うと、そこの壁にあった柱をグイと掴んで登り始めようとしたが、身体を支えるだけの力がまるで出てこない。その上、力を入れた途端に睡眠薬の副作用でひどく目まいがして、吐き気まで催してくる。
「う・・ゲッ、ゲェッ────────
ふぅ・・・ひどい状態になったものだ、これでは見つかった時に闘えないぞ」
それでも、何とか頑張って柱をよじ登り、フラフラして梁を伝いながら、天井のあちこちを押して回る。
「はは・・やっぱり、思ったとおり天井は安普請だ・・・・」
ペラペラのトタンがそれほど厚くない板の上に張られているだけの、粗末な屋根である。
最も傷みがひどそうな音がする庇(ひさし)の手前の部分をグイグイ蹴り続けると、屋根の板はだんだん上に向かって口を開けていき、やがてパリンという音と共に、パックリと捲(めく)れるように空を向いて開いた。
「よし、空いた!・・・ああ、外の空気が美味い・・・!!」
屋根に空いた隙間には、嘘のような美しい星空が広がっている。宏隆が潜って出て行くには充分な広さだった。
しかし、一体誰が、監禁された者が屋根を破って出て行くと想像できるだろうか。
小屋自体に厳重に鍵さえ掛けておけば、睡眠薬を打って眠らせ、手錠を付けて中で監禁しているのだから、それだけで脱出は不可能だと考えるのが普通であろう。
また、監禁されている人間の方も、普通はそれだけで諦めてしまうに違いなかった。
しかし宏隆は、どんな時にも決して諦めたことがなかった。
これまでも、そのような機転を利かせ続けることで様々な難関を切り抜けてきたし、どのような時にも絶対に諦めないことを自分に課し、常にそれを意識して心掛けてきた。
継続は力なりと言うが、その日頃からの心構えと強い意志の継続が、このような状況となった際にきちんと活かされてくるのである。
そう考えると、宏隆には生まれながらに玄洋會のような組織で働くための素質が備わっているのかもしれない。しかし、そんな宏隆にとっても現実は決して甘くはなかった。
「ううっ・・・・・」
捲(まく)れ上がった庇の間から身軽に地面へ飛び降りたが、多寡が二、三メートルの高さなのに、いつものようにはいかない。コンクリートの地面に着地した衝撃で頭がズキリとして、その痛みに、思わずフラフラと二三歩よろめいた。
「うーん、まさか動物用じゃないンだろうが、ずいぶん安物の薬を打たれたもんだ。
どうせなら、もっと気持ち良く眠らせてもらいたかったものだが・・・・」
こんな時でさえ冗談を言ってのける心の余裕があるが、激しい頭痛に加えて、ここに至るまでの動きだけでも既に息が切れて動悸がしている。たっぷり眠って休んだ後なので動けるような錯覚をしていたが、薬の副作用に加えて、丸一日のあいだ飲まず食わずの状態が続いて体力が無くなっていることに、宏隆はようやく気が付きはじめた。
「そうか、エネルギーも水分も全然足りていないんだ。急いでこの場所から離れなくちゃならないのに、これではまともに動けないぞ────────」
因みに、犯罪者を一時的に収監する留置場でも、食事の量は極端に少ない。
人は空腹であれば逃げようという気も起こりにくいし、犯罪者を散々空腹のまま厳しく取り調べた挙げ句、別の捜査官が優しく出前を取ってやると言った途端に、急に従順な態度になったりするものであるという。また反対に、満腹で身体が元気になれば機会を窺って逃走する気にもなるだろうし、取り調べに逆らったり、嘘をつく余裕まで出てくるに違いない。
ホテルであれほどの動きを見せた宏隆を、空腹のままで眠らせておいたのは、拉致をした側にとっては、もちろん計算ずくのことであった。
宏隆は、何かを探すように周りを見渡し、見当を付けた方へフラフラと歩いて行く・・・
「お・・やっぱり、あったぞ────────」
少し先の漁港の道沿いに、金網を張った木枠がいくつも立てかけてあり、その金網の上には一夜干しにするための烏賊がズラリと並べられている。
宏隆は手を伸ばして固さを確かめると、いきなりそれにかぶりついて食べ始めた。
「ううっ・・の、喉が詰まる・・・・水だ、水っ────────」
丸一昼夜も飲まず食わずで居たので、口の中も喉も渇ききっていた。
幸い、漁港には陸揚げした魚の後始末をするための水道がそこら中にある。蛇口から水をがぶがぶ飲んで、ちょうど程よい柔らかさになっている烏賊の一夜干しをムシャムシャと頬張って食べ、ついでにその辺にぶら下がっている、塩の吹いた半乾しの海草を引きちぎって口に入れた。
「・・・あはは、よく塩が利いて、まるで居酒屋のメニューみたいだな。烏賊はカロリーこそ少ないけれどビタミンEやタウリンがたっぷり入っているので元気が出るんだ。生体を保とうとする恒常性の作用を促す、ホメオスタシスってやつだね。
これで珈琲でもあれば、取り敢えずは言うことがないんだが・・・・」
独り悦に入りながら、冗談が出るほど、宏隆はたちまち元気を取り戻し始めていた。
神戸は「毎日登山」という市民の標語さえあるような街だが、宏隆も小学校高学年の頃からはリュックひとつで六甲山の奥深くまで毎日のように歩き回り、中学生ともなれば独りでテントやタープを張って山野や海辺に野宿し、食料を自分で調達してその日の食餌にするということも学んできた。
そのような小さい頃からの経験が、こんな場合でも、どうすれば生き抜けるのかを直感として教えてくれたのである。
しかし、ようやく人心地のついた宏隆の耳に、遠くから騒がしく人声が聞こえてきた。
「居たぞっ!────────あそこに人影がある!!」
「急げっ! もしこれで取り逃がしたら、お前たちの命は保証できないぞ・・!!」
(つづく)
2010年10月01日
連載小説「龍の道」 第54回

第54回 綁 架(bang-jia)(5)
いったい、何処をどう捜せばよいのか───────
台北の閑静な住宅地、瑞安街の一角にある老舗クリーニング店、「白月園」の地下訓練場に集合した武漢班のメンバーは皆、暗い面持ちで途方に暮れていた。
あれから、すでに24時間以上を、徒らに過ごしている。
捜すべき所は全て捜した。武漢班や偵察班の隊員、約八十名が総出で、不眠不休で台北中を駆け回り、どんな些細な情報でもそれを確かめることに躍起になっていたが、いずれも結果は虚しく、拉致された宏隆の居所は未だに見当も付かない。
二十畳ほどある会議室の真ん中に置かれた大きなテーブルには、台湾全土や台北縣、市街地の詳細図、ホテル周辺の拡大図などが所狭しと広げられ、各班のチームリーダーでもある九名の選りすぐりの隊員たちが皆、困憊(こんぱい)しきった表情で周りを取り囲み、為す術もなくそれを睨んでいる。
昨夜、宏隆に何が起こり、どのようにして拉致されていったのかは、病院にいる程の証言ですでに明らかになっているが、そこから先のことが何も判らない。
ホテルでは、土曜日という週末の慌ただしさに加えて、銃声騒ぎまであったというのに、従業員が誰ひとりとして徐とその部下や宏隆本人の姿を目にしていないことから、おそらく蒋介石の緊急避難用に造られた、あの地下の秘密通路が使われたのだろうと推測できた。
「いったい、誰が地下通路への手引きをしたのか・・・あの通路さえ使えなければ、奴らもそう簡単にはホテルから出られなかっただろうに!」
ホテル周辺の地図を見つめながら、若い隊員が声を荒げて言う。
「・・まあ、マネージャーか宋美齢の一族の誰かに金を握らせて、通路のことを詳しく聞き出し、途中々々にある扉の鍵を手に入れたのだろう」
壁に靠(もた)れて、憮然として腕を組んでいた一人がそれに答えた。
「ならば、その線を手繰って、居所を吐かせてみるか・・・」
「無駄だろう、どうせ金を貰っただけの話で、奴らの居所など知るわけがない」
「しかし、奴らの足取りがこれほど全く掴めないのはどうしてだ?」
「真夜中で目撃者も居ないし、秘密の通路から暗い剣澤公園へ出て、そのまま高速にでも乗られたらもうお終いだよ。そうなると何処へ行ったか、追いかけようもない・・・」
「だが、市街地に潜伏したのではないことは確かだろう。市街(まち)の何処にも、それらしい情報がまったく無かったからな」
「すると、やはり台北市の外か、或いはすでに台北縣から外に出たか───────」
「そもそも、どうして徐が北朝鮮のスパイだと、誰も気付かなかったのだ?」
「張大人に所縁のある人の紹介で組織に入ったと言うので、疑いもしなかったのだ。
今さら、そんなことを言っても仕方がないが・・・・」
───────そんなふうに、取り留めもなく、各々の想いばかりが交錯していたが、
「みんな、済まない・・・・」
徐の話になった途端、兄貴分として慕われていた強が立ち上がり、悔しそうに唇を噛み、思い詰めた顔をして頭を下げた。強にしてみれば、可愛がっていた弟分にすっかり騙され、裏切られたのである。
「徐のことは───────奴のことは、ひたすらこの俺の責任だ。いちばん身近に居た俺が、奴の謀略に何も気付けなかった・・・だから、俺がきちんとケジメをつける。たとえ北朝鮮に潜入してでも、必ずヒロタカを捜し出して、取り返して来てやる!」
部下でもあった徐が北朝鮮のスパイであり、宏隆の拉致を実行した首謀者と判明した今となっては、あれほど反日感情を剥き出しにしていた強も、玄洋會の一員として、流石に大きな責任を感じていた。
「お前たち・・・強も、もういい。問題はヒロタカが今、どこに居るかだ。
それ以外のことは、無事にヒロタカを奪還してからのことだ。
もう時間が無い───────時間が経てば経つほど救出は難しくなる。奴らはまだ台湾を出てはいない。全員で、いま吾々に出来ることは何かを、もう一度よく考えるんだ!!
───────宗少尉、現在考えられる状況を確認してくれ!」
誰よりも険しい表情の陳中尉が、やや混乱気味の隊員たちに向かって厳しく言った。
陳中尉は流石に冷静ではあるが、言葉の端々には、やはり焦りを隠せない。
「・・・・先ほどもお伝えした通り、昨夜のうちに空港と台湾空軍には連絡済みですから、空路を使って脱出することは、航空管制の問題からも、この週末には不可能です。
私の考えでは、やはり最も考えられるのは海路で、それも民間の漁港を使って、早朝から週明けの操業に出かける漁船に紛れて逃亡する可能性が高いと思われます」
腰の後ろに拳銃を装着した宗少尉が立ち上がり、歯切れ良く、全員にそう説明する。
拉致の知らせを受けるとすぐ、早朝から台南の基地に出張する予定を取り止め、一旦緩急あれば直ちに玄洋會の司令室となる「白月園」に、誰よりも早く駆けつけていた。
一見、宗少尉は平静に見えるが、心の内は大声で泣き出したいような気持ちだった。
まるで、仲の良い弟が突然誘拐され、行方不明になったような辛さであり、狂おしいほどの悲しさなのである。
けれども、宏隆が北朝鮮に連れ出されるよりも早く発見し、何としてもそれを阻止しなくてはならないという強い想いが、努めて気持ちを平静に保ち、涙が溢れそうになるのを懸命にこらえながら、宏隆の捜索に全神経を傾けていた。
「ふむ───────しかし、脱出経路を漁港と限定してしまって良いのだろうか?」
「はい、漁港以外の所から脱出しようとすれば、北朝鮮まで最短でも1,500kmの距離を航行できる船の大きさでは必ずレーダーに引っ掛かり、巡防署のパトロールにもすぐに発見されてしまいます。海軍の報告によれば、現在沖合に停泊している社会主義国の船舶や不審船は一隻もありませんので、待機している船に小舟で乗り付けることも考えられません」
「では、西海岸から福州や杭州に渡り、中国経由で逃亡する可能性はどうだ?」
「現在、中国と北朝鮮の関係は微妙ですから、それもちょっと考え難いものです。
もし大陸に渡るとすれば、いったん澎湖縣(ほうこけん)など、台湾海峡に浮かぶ離島に渡ってから対岸の厦門(アモイ)に入る方法を選ぶかも知れませんが、密入出境の取り締まりが厳しい現在、大陸経由はあまりにも人目に付き易く、リスクが高いので、これも無いと考えて良いでしょう」
「確かに、宗少尉の言うとおりだな───────」
「これほど市街地を捜しても何の情報も無いのは、すでに郊外に出た証拠です。
現在時刻は8月14日・月曜日の 0236(午前2時36分)、拉致が実行されたのは一昨日、つまり8月12日・土曜日の深夜ですから、警察や軍隊など関係機関の動きが悪くなる週末を故意に狙ったものと言えるでしょう。
さらに、拉致実行の直後に動いては目立つので、昨日一日を潜伏と準備に充て、明けて本日、月曜日の未明に、漁船が出漁するのに紛れて出港するつもりではないでしょうか」
「海巡(海岸巡防署=日本の海上保安庁に相当)には、もう連絡を取ったか?」
「はい、拉致直後に北部、中部、南部の各巡防局に連絡済みです。張大人が昨夜のうちに行政院の役人を叩き起こして国防部に働きかけたので、今回の事件は中華民国としても見過ごすことの出来ない大きな問題となり、警察と連携して動き始めています」
「よし───────では、彼らがどの漁港に潜んでいる可能性が高いかを検討してみよう」
「漁港に潜伏して脱出を図るとしても、徐の一行が、台北からわざわざ陸路を南に移動してから船に乗るということは考えられません。西海岸からでは中国とトラブルが起こる可能性があるので避けるはずですし、また、宜蘭縣や花蓮縣からだと反対に北朝鮮へは遠くなり、陸上では距離を取るほど検問に引っ掛かる確率が増えますので、そうなると、脱出地は自ずと、台北の北、東、西に位置する漁港に限定されてきます」
「それらの漁港は、全部でどのくらいある?」
宗少尉は、台北縣の地図をテーブルの中央に移すと、赤い丸印でマークされた各々の港を指差しながら、
「台北縣に存在する漁港は、大小を合わせると、およそ四十港ほどあります。しかし大きな漁港では海巡の監視が厳しく、かと言って余りに小さな漁港ではかえって目立ちますから、それらを外した対象は十数カ所、中でも、そこまでの移動が人目に付きにくく、かつ鄙びた場所で、さらに社会主義思想の協力者が居そうなところとなると────────」
地図を睨みながら、漁港をひとつずつチェックしていくが、
「基隆(キールン)から2號省道を東に行った所にある、貢寮郷の澳底(おうてい)漁港はどうでしょうか。数年前になりますが、福建省から密出境してきた中国共産党・中央統戦部のスパイのアジトが見つかり、私のチームが念入りにチェックしたことがあります」
精悍な顔をした一人の隊員が、思い出したように言う。
「文革中は鳴りを潜めていたけれど、’73年6月に活動を再開した工作部の潜入事件ね。
でも、澳底はつい最近、中国からの武器密輸事件で警察の大規模な手入れがあったばかりだから、奴らはきっと、そこは嫌って外すはずよ」
「と、すると・・・・」
「そこから10kmほど南東へ下った、卯澳(うおう)漁港───────」
「そう言えば、卯澳漁港のある福連街は、昔から朝鮮人の多いところですね」
「これまで気にも留めませんでしたが、国家安全局が追う重要犯罪者がその辺りに逃げ込んだという話も聞いたことがあります。中共か北朝鮮のスパイだったかも知れません」
「・・いや、何年か前に、朝鮮の工作船から麻薬を受け取って台湾本土に持ち込んだ事件は、確か卯澳か澳底あたりの漁船ではなかったか?」
「そうだ、田舎のことで余り気にも留めなかったが、あれは確か卯澳だったな・・」
「そうなると、俄然、卯澳漁港が怪しくなってくるぞ!」
「台湾最東端の、あんな鄙びた所なら、潜伏も逃亡の準備も容易だ」
「隠れた協力者が、何人も居そうだな・・・」
地図を見ながら隊員たちが口々にそう言い、確かめるように陳中尉の顔を見た。
「卯澳なら、台北市街から高速を通って、2号省道を海岸沿いにひたすら走れば、拉致された時間帯なら、途中で誰にも見咎められずに、2時間ほどで行けるな────────」
暗夜にようやく小さな灯火を見出したような気持ちで、陳中尉が言う。
「・・・はい、そのとおりです!」
目を輝かせて、宗少尉が答えた。
「────────よし、最優先で卯澳の情報を取れ!!
この数週間、近辺で何か気になる事が無かったか、朝鮮人や社会主義者の不穏な動きがなかったか、卯澳船籍以外の、見慣れぬ船が入っていないか・・・・」
「了解しました!!」
宗少尉が素早く二人の隊員に指示をすると、会議室の壁ぎわに並んだ無線機を取り上げ、大急ぎで卯澳漁港のある貢寮郷の支局に向けて通信を始めた。
「・・・ですが中尉、もうこんな時間です。漁師たちはあと2時間もしないうちに出港し始めるはずです。卯澳までの道のりは70km以上、それも狭い海岸線をクネクネと走って行くので、此処からではとても間に合いません」
玄洋會の戦闘部隊・武漢班で実力ナンバーワンと言われる、第1班のリーダーである黄が、腕のベンラス(BENRUS=海軍特殊部隊の腕時計)を見つめながら、心配そうに言う。
「それに、もしその場所が違っていたら、もう他を捜す時間がありません・・・」
さっきの精悍な顔つきをした隊員が言った。
「うむ・・・・・」
陳中尉にしても、決してその漁港に宏隆が居るという確信があるわけではない。
しかし、たとえそれがどれほど細い糸であっても、それを辿って行けそうな可能性があるのなら、何でも良いから片っ端から確認していきたい気持ちなのだ。
だが、確かに、もう時間が無い。
陳中尉は、今すぐにでも決断をしなければならなかった。
「ジリリリリリ・・・・・!!」
丁度その時、壁際の赤いランプが明滅し、けたたましく会議室の電話が鳴り響いて、全員の顔にサッと緊張が走った。
「中尉、階上(うえ)から内線電話です。お姉様からですが」
「姉?・・・・何か情報でも入ったか」
そう言いながら、受話器を受け取る。
「はい・・・・何ですって?・・・そうですか、すぐに上に行きます!」
「中尉、何ごとですか?」
電話を受けた隊員が、心配そうに訊ねる。
「誰かが拉致に関する情報を持ってきたらしい。組織の者ではないから、ただの情報屋かもしれないが、私を名指しで直接話したいと言うので、ちょっと確かめてくる。
・・・宗少尉、引き続き、情報収集を頼むぞ!」
「イエッサー!」
何か新たな情報が入ったのではないかと、ワラにも縋る思いで一階に上がり、クリーニング店の中ほどにある応接室に行くと、ひとりの男が立ったまま待っていた。
「あ、あなたは────────!!」
扉を開けた途端、陳中尉は驚いて立ち止まり、その男の顔をまじまじと見つめた。
「その節は、大変失礼をしました・・・」
深々と、陳中尉に向かって頭を下げたその男は、つい四、五日前、士林夜市で一悶着があった時の相手───────台湾有数の黒社会として知られる「萬国幇」の、その五堂ある組織の中でも最も勢力の大きい「火堂」の堂主(首領)、許国栄その人であった。
「貴方だとは思いも寄りませんでした。しかし、何故ここが───────?」
「ははは、蛇の道はヘビ、と言いますからな・・・・
しかし、そんなことよりも、現在の状況について急いでご報告をする必要があります」
「現在の状況、とは・・?」
「こちらに日本から来ている少年が拉致され、捕らわれている状況についてです」
「・・・な、何故それを!?」
「後で詳しくご説明しますが、その少年は今、北朝鮮の特殊部隊によって東北部の漁港に監禁されています」
「卯澳(うおう)漁港────────ですね?」
「おお、流石にもうそこまで把握されていましたか、それなら話が早い」
「やはり────────」
「しかし、もう時間がありません。奴らは夜明けを待って、漁船に偽装した工作船に乗り込み、拉致した少年を北朝鮮へ連れて行くつもりです」
「吾々も、つい先ほどその漁港を特定したところです。しかし、卯澳の何処に捕らわれているのか、どの船で脱出するのか、まだ何も分かっていない状態です」
「ご安心下さい、それらの状況はすべて、私の部下が掴んでいます」
「えっ・・・?」
「御恩を、お返ししたかったのですよ────────
先日の士林夜市では、有ってはならない無礼を働いたにも拘わらず、陳中尉の一存でそれを不問にして下さった。お陰で私たちは、かつて張大人にお世話になった幇主(ボス)から責任を問われずに済みました。
しかし、私は正直に幇主に報告しました。親代わりとして育ててくれた人に嘘はつけませんからね。義理を重んじるこの世界では、本来なら厳罰に処されても仕方のないところでしたが、幇主もその話を聞くと陳中尉の態度に甚(いた)く感心し、それに免じて不問にして下さったのです。そして、御恩をいつか必ずお返しせよと、幇主に厳しく言われました」
「そうだったのですか・・・」
「少し前から、私たちの縄張りに、珍しく朝鮮系の人間が足繁く出入りするようになりました。それが矢鱈と金をちらつかせて、玄洋會のことを根掘り葉掘り訊いてくる・・・・
これは何かあるぞ、と思っていると、今度は東北部の漁港に船を一隻、泊めておけるように算段して欲しいと言うのです。台南で修理した船を回してくるのだと・・・」
「萬国幇と玄洋會の繋がりまでは、奴らも識らなかった・・・」
「接触してきた所が私たちの一番下の組織でしたから、気が付かなかったのでしょう。
それ以来、私たちは奴らに騙されないよう密かに監視を続けていましたが、どうも一人の日本人を拉致して行くことが目的らしい・・・・そして先日の夜市の一件の際、お傍に日本人の少年が居たことを思い出し、その少年こそが拉致の対象ではないか、と直感しました。
御恩ある玄洋會の客人を、みすみす拉致させるわけにはいかないと、密かに協力するフリをしながら、奴らの計画の全貌をつかもうとしていたのです。こんなに早く拉致を実行に移すとは思っても居ませんでしたが・・・」
「ああ・・・ご縁というものは、何と有り難いものでしょうか」
「今こそ、御恩返しをさせて頂く時です。さあ、急いで卯澳に向かいましょう!」
「・・・しかし、卯澳までは70キロもあるので、どんなに急いでも、目的地に着くまでには夜が明けてしまいます」
「大丈夫、あっという間に到着できますよ───────」
「えっ・・・?」
「こんなこともあろうかと思って、すぐそこの森林公園の工事中の空き地にヘリコプターを用意しておきました。今すぐ飛べるようにパイロットを待機させています。
あと7〜8人は乗れるので、隊員の方たちも同乗できます。卯澳までは、ここから直線でわずか50km足らず。ヘリで飛べば、まあ、15分というところですかな・・・」
「許さん───────ありがとうございます・・・・」
陳中尉は、許国栄の手を取り、それを押し戴くようにして頭を下げた。
「いやいや、私は御恩返しをさせて頂いているのですよ。お礼など、とんでもない。
さあ、どうか頭を上げて下さい・・・・」
「陳中尉!!」
その時、宗少尉が慌ただしく応接室をノックした。
「入れっ・・!」
「陳中尉、至急お話が────────あっ、あなたは・・・!?」
「そう、萬国幇の、許国栄さんだ」
「お嬢さん・・いや、宗少尉でしたな、先日は大変失礼を致しました」
「許さんは、ヒロタカの情報を持ってきて下さったのだ」
「そのことですが・・・・」
「許さんなら大丈夫だ、ここで話しても構わない」
「はい、貢寮郷の支局員が、この夜中に慌ただしく動き回っているそれらしい人間たちを確認しました。しかし、彼らを監視している別のグループがある、というのですが・・・」
「それは、許さんの配下の人たちだ」
「え・・・?」
「急ごう、時間が無い────────説明はヘリの中でする。
随行は、宗少尉以外に5人、精鋭を選べ!、
各個人は第1級装備、特殊装備はグレネード・ランチャーを2基、榴弾、催涙弾、煙幕弾を用意。また、個人用とは別に長距離無線器を1台、現地には速度の出るゴムボートを2台、目立たない所にスタンバイさせておけ。随行者以外は基隆海軍基地に急行、第1班は哨戒艇で海路を卯澳へ向かい、残りは連絡を待って基地に待機すること!!」
「ヘリ・・・・?」
「────────いいから、すぐに掛かれっ!!」
「・・イ、イエッサー!!」
(つづく)
【 資料:台湾・台北付近地図 】

2010年09月15日
連載小説「龍の道」 第53回

第53回 綁 架(bang-jia)(4)
「小僧──────おとなしく銃を捨てろ!!」
押し殺したような、低い嗄(しゃが)れ声が、程の白い制服の後ろから聞こえた。
「あっ・・て、程さん・・・・・!」
地獄に仏と思えた程の姿は、あろうことか、徐の仲間に後ろ手に拘束され、頭に銃を突きつけられて、ドアを開けた宏隆の前に姿を現した。
「銃を捨てるんだ、この男の頭に弾丸をブチ込んでもいいのか?!」
男はそう言いながら、程を中に押し込むようにして部屋に入り、ドアを閉めた。
「ヒロタカさん、済みません・・珈琲でもお持ちしようと思ってここまで来たら、いきなりコイツが隣の部屋から出てきて、あっという間に・・・・」
「程さん・・・」
宏隆は徐に銃口を向けてはいるが、そのまま、どうすることもできない。
「ヒロタカさん、自分のことは、いいです・・・ヒロタカさんが連れて行かれたら、どうせ自分も殺されます、だからその銃を捨てちゃダメです!、私を撃った瞬間にコイツらを撃って、その隙に逃げるんです!!」
「そ、そんな・・・・」
「迷ってはダメです、そうしなければ、北朝鮮に連れて行かれるんですよ!!」
「でも、そんなことをしたら程さんが────────」
「いいえ、ヒロタカさんを守るのが私の任務、覚悟は出来ています」
「・・・・・・」
「ほう、見上げた忠誠心ですが、さて、どうしますかな?」
「徐っ!・・・・お前がヒロタカさんと一緒に居てくれるからと安心していたのに、まさか北のスパイだったとは!!」
「ははは、新入隊員の身元もロクに調査できないとは、やはり玄洋會にはお目出たい人間ばかり揃っているようですね」
「どうりで、新入りにしては成績が良すぎると思ったのだ。人も良いし、才能があって有望だと、皆で高く買っていたのに・・・」
「正体がバレないよう、念入りに玄洋會への潜入計画を練りましたからね。張大人にコネのある人間たちに遣った金額だけでも大変なものです。人がカネやモノに弱いのは世界共通、台湾人も御多分に洩れません。中国人ならもっと扱い易い・・・・」
「くそっ、煮るなり焼くなり・・私を好きにして良いからヒロタカさんを解放しろ!」
「ヒロタカさんを連れて行くことに変わりはありません。しかし、どうしても銃を捨てなければ、程さんの命を頂くことになります・・・さて、どうしますかな?、彼が撃ち殺されてもなお、我々と争って脱出を試みますか?」
「・・・・・・」
万事休す───────宏隆はどうすることも出来ず、しばらく黙って考えていたが、
やがて降参するように、銃を手に持ったまま、ゆっくりと両手を挙げた。
「あ、いけません!、私はどうでもいいから、その銃を捨ててはいけません!!」
「程さん、ありがとうございます。そのお気持ちだけ、ありがたく頂きます・・・」
「ははは、ケンカの若大将もやっと大人になりましたね。さあ、観念したなら、早くこちらに銃を渡しなさい!」
「分かった、そうすることにしよう」
しかし、そう言った途端 ────────
「ダン、ダン、ダン、ダン、ダァ────ン・・・・」
突然、宏隆は手を挙げたままの恰好で、天井に向けて銃弾を五、六発立て続けに発射し、片手を挙げたまま、もう一方の手でゆっくりと銃を床に置いた。
「・・な、何のつもりだ・・・・!!」
徐とその部下たちは、宏隆の不可解な行動に、一斉に身構えた。
「この銃声で、複数の人間が警察に通報することだろう・・すぐ下の道には警官の詰め所もあるし、ホテルの警備員も飛んで来る。フロントはすぐに大騒ぎになるはずだ。
さあ、どうする・・・・!!
こんな状況で、この9階から、どうやって僕を拉致して行くつもりだ?!」
「く、くそっ・・とんでもないガキだ!!」
程に銃を突きつけている男が、腹立たしそうに言う。
「むぅ・・ だが、彼の言うとおりだ。
よしっ、全員、予定どおりに・・・・急げ!!」
徐がそう命令を放ち、テラスの窓際に居た二人に目で合図を送ると、途端に宏隆に向かって走りながら二人掛かりで飛び掛かってきた。
しかし、飛びつかれるよりも早く・・・
「ダァ────ン!!」
宏隆は床に転がるほどに身を低くして、足元に置いた銃を素早く拾い、程に銃を突きつけている男の右肩を狙って見事な正確さで撃った。予めこうなることを予想して、間合いを測っていたのである。
「ウグッ・・・・」
男は右手に持っていた銃を床に落とし、そのまま肩を押さえて踞(うずくま)った。
「程さん、早く銃を拾うんだ!!」
しかし、そう言ったのと同時に、宏隆は銃を手にしたまま、後ろから屈強な男に掴み掛かられ、少し藻掻いたが、次の瞬間───────
「ズン・・・!!」
大きな体がフワリと円を描いて宙に舞い、ソファの肘掛けに強かに首の辺りを打って、男はその場に昏倒した。
八卦掌の「倒銀瓶」─────── 基隆の海軍基地のリングで、武漢班の実力ナンバーワンと言われる、黄という男が宗少尉を手玉に取った、あの技である。
”銀の瓶子(徳利)を倒す” という意味のとおり、その技が決まれば、いきなり宙に舞わされ、頭から逆さまに落とされる。あの日、それを目にしてから密かに研究を重ねていたのか、見事な技の切れ味を見せた。
「ふぅ・・何とかうまく決まってくれたか」
しかし同時に、後ろからもう一人の男の声がした。
「坊や、残念だが、そこまでだ」
「・・ああっ、程さん!!」
「ヒロタカさん、すみません・・・・」
「銃を捨てるんだ、今度は本当に、この男の頭に弾丸を撃ち込むぞ!」
一人が宏隆を襲っている間に、もう一人の男が、程が銃を拾うよりも早く拘束していた。
このホテルに勤務しながら情報収集をする仕事が主で、武漢班のように戦闘部隊としての訓練を積んでいない程は、屈強な工作員にワケもなく捕らえられていた。
「く、くそぉ・・・・」
「相変わらず見事な動きですが、多勢に無勢という状況で、ヒロタカさん独りが頑張ってみてもどうにもなりません。無駄な抵抗だということが分かりますかね」
徐が落ち着き払った声で言う。
「さあ、銃を捨てなさい。今度はヒロタカさんが、壁に手を着ける番ですよ」
「程さんを、彼を殺さないと、約束するか・・?」
「約束しましょう、この男は我々のことを何も知りませんからね。しかしヒロタカさんがこれ以上暴れるなら、容赦なく彼を撃つことになります」
「分かった・・仕方がない・・・・」
宏隆は銃をゆっくりと床の上に置くと、観念したように壁に向かって両手を着けた。
徐は素早く銃を拾い、ポケットから手のひらに入るほどの、小さな試験管のようなものを取り出し、それを後ろからスッと宏隆の頸(くび)に当てると・・・
たちまち宏隆はぐったりと力が抜け、壁に手を着いた恰好のまま、床に崩れ落ちた。
───────瞬時に人を眠らせる、特殊な注射器である。
「ふむ、やっと大人しくなったか・・・・随分手こずらせたな。
これだけの腕があれば、ここから独りで脱出することも不可能ではなかっただろうに」
徐が、少しホッとしたように、そう言った。
「アカの他人のために、自分が脱出するチャンスをみすみす棒に振るとは・・・・
やはり、訓練で教えられたとおり、日本人は ”情け” にはひどく弱いとみえる」
程に銃を突きつけている男が、肩を撃たれて踞っている男に向かって、そう言う。
「お前なら、オレを見捨てて逃げるのか・・?」
少し不安そうに聞くが、
「もちろんだ、仕方がない・・・お前もそう教えられたはずだ」
きっぱりと、答えて返される。
「かつて日本の兵隊は、誰ひとりとして仲間を見捨てなかったと言うが─────
たとえその一人の為に苦境に陥っても、最後には全員でハラを切って自決したそうだが」
踞っていた男は、痛そうに肩を押さえながら、そう言って立ち上がった。
「いや、一人でも生き残って国家に尽くすことが正しい。その為には失敗した仲間を敢えて見捨てることも許されるのだ」
「うむ・・・」
「・・さあ、無駄口を叩くなっ! さっさとホテルから出ないと、国へ帰れないぞ!」
徐が、厳しい口調で命令をする。
「はっ─────!!」
全員が、姿勢を正してそれに答えた。
「コイツはどうしましょう・・・ここで殺(や)ってしまいますか?」
程に銃を突きつけていた男が、徐に訊ねる。
「・・いや、生かしておいてやろう、その方が色々と都合も良い」
「くっ、こうなったのも自分の責任だ、ひと思いに殺せ!」
「程さん、まあ、そう興奮せずに───────
ヒロタカさんは確かに我々が頂いていくと、陳中尉によろしくお伝え下さい」
「徐っ!、貴様、こんな事をして無事に台湾を出られると思っているのか・・・!!
こうなってはもう、このホテルから出ることさえ難しいぞ!」
「はははは・・・いいえ、無事に出て行けますとも、ご心配は無用です」
徐はそう言うと、手にしていた銃でいきなり程の後頭部を殴り、その場に眠らせた。
すでに準備されていたのか、ひとりの男が廊下から洗濯物用の大きなワゴンを運び込んで来る。手早く中身を出し、宏隆をそこに担ぎ入れると、またその上に洗濯物を被せ直した。
さっき宏隆に八卦掌の技で宙に舞わされた男は、頭を押さえながらようやく自力で立ち上がってきたが、首を痛めたのか、手を当てて盛んに回している。
しかし、仰向けに返されて手酷く ”金剛搗碓” を極められた男は、まだぐったり昏倒したままで、とても自力では歩けそうもない。それは、始めに珈琲を運んできた男である。
「四号をどうしますか?、このワゴンには一人しか入れませんが」
「こんな状態ではとても連れて帰れない。かといって此処に残して、回復した後に口を割られても困る・・・可哀相だが、運が無かったな・・・・」
徐はそう言うと、四号と呼ばれたその男の胸にソファのクッションを宛てがい、銃口を押し付けて躊躇わずに2発を撃ち込むと、丁寧に指紋を銃から拭き取って、昏倒している程の手にそれを握らせながら、
「これで警察は程が犯人だと思って混乱し、玄洋會も我々を追い難くなる」
・・・ポツリと、独り言のように言う。
部下たちは、身につまされるような面持ちで、それを無言で見守っていたが、
「よしっ、行くぞ・・・!」
自分の手で部下を始末するというその行為に、チリほども動揺していない徐の声に、目を覚まされたのか、
「はっ──────!!」
軍人らしく、吹っ切るようにそう答えて、テキパキと行動を開始した。
その9階の廊下では、さっき宏隆が天井に向かって撃った銃声を聞きつけた人々が不安気に行き交い、フロントの制服姿の女性が、慌ただしく廊下を行ったり来たりしながら一部屋ずつノックをして回り、変わったことがないかどうか、客に訊ねている。
宏隆が入れられた洗濯物のワゴンを押して、黙ってその傍らを通り過ぎようとした男に、
「ああ、ちょっと待って・・・・」
その、フロントから来た若い女性が声を掛けた。
「・・はい、何か?」
「この階で銃声のような音がした、という問い合わせがたくさん入って来ていて大騒ぎをしているんだけれど・・何か変わった事はなかったかしら?」
「ああ、そういえばさっき、向こうの部屋のテラスで、爆竹をパンパン鳴らして遊んでいた子供が居たみたいですよ。家族連れで来ている、あの角の部屋です」
「爆竹?・・・何だ、そうだったの!、黒社会の抗争か何かで、部屋で拳銃でも撃ち合っていたらどうしようかと思ったわ。親には厳重に注意しておかなきゃね!」
「まったく、近頃の子供はシツケが悪くて、人騒がせな話ですよね」
「ありがとう、それじゃ、ご苦労さま・・・」
「ご苦労さま・・・あ、私からフロントに、心配ないからと連絡しておきましょうか?」
「そうしてくれると助かるわ、今からこの階の客室全部に、一件ずつお詫びして回らなきゃいけないから・・・」
「おやすいご用ですよ」
「サンキュー!」
そう言うと、彼女はさっそく、今彼らが出てきた部屋をノックしたが、
「ああ、そこの日本人のお客さんは、いまお留守ですよ・・・」
男がそう言ったので、
「あら、そう─────それじゃ、ひと部屋分、助かったわ!」
フロントから来た女性は無邪気にそう笑うと、次の客室へと向かった。
この騒ぎで忙しく走り回らされていた所為だろうか、その部屋からやたらと体格の良いボーイたちが何人も出てきたことを、少しも疑問に思っていない様子だ。
徐と三名の部下たちは、先ず非常階段で7階まで下りると、入口に「PRIVATE」と書かれた、シーツや毛布、掃除用具などの備品が所狭しと並んだ部屋に入り、奧にある業務用のエレベーターに乗り込むと、躊躇わずに「B2」のボタンを押した。
──────そう、それはいつか宏隆が、見張りの目を掠めて密かにホテルの外へ出た時の、あの秘密の脱出路であった。
その存在や通路への行き方を、どうして知り得たのかは分からないが、彼らはその秘密の脱出路を使って、誰の目にも触れることなく悠々と宏隆を運び出し、やがてホテルの裏手にある剣澤公園の出口に出ると、待っていた大きな黒塗りのバンの荷台に洗濯物のワゴンごと積み込み、急いで夜の闇の中に走り去った。
ホテルではその後、銃声のような音が、子供の爆竹の悪戯ではなかったことが分かって、スタッフが再び上階の全室を念入りに調べた結果、宏隆の部屋から銃で胸を撃たれて死んでいるボーイ姿の男と、拳銃を握ったまま気絶している従業員の程が発見され、慌てて警察に通報した。
警察や救急車が大挙して円山大飯店に押し寄せ、ホテルが騒然となったのは、宏隆が拉致されてから1時間以上も経ってからのことであり、運ばれた病院のベッドで警察の事情聴取を受けた程が自分の身分を明かし、「殺人事件ではなく、綁架(Bang-jia=拉致)である」という説明によってようやく警察上部から張大人や陳中尉に知らせが届いたが、急ぎ玄洋會の組織が動き出すまでには、さらに2時間近くの時間が費やされた。
時刻は、すでに真夜中の2時を回っている────────
いったい彼らがいつ、何処から密かに出国するつもりなのか、誰も見当も付かない。
そして、拉致されてからの時間が経てば経つほど足取りを追うことは難しく、宏隆を取り戻すことが困難になると、誰もがそう思えた。
(つづく)
2010年09月01日
連載小説「龍の道」 第52回

第52回 綁 架(bang-jia)(3)
「ははは・・・噂どおり、なかなか切れる若者ですね。
お察しのとおり、私たちは ”チョソンロドンダン”、朝鮮労働党の工作員です。
ヒロタカさんを拉致して、お父さんが破産するほどの身代金を頂戴して、玄洋會との繋がりを絶やそうというワケですよ。いろいろと、我々の活動の邪魔をしてくれる台湾の玄洋會に、これ以上大きくなってもらっては困るのでね・・・」
「やはり、そうか─────福建省に拘っていたが、中国人ではないんだな。
僕を護るのではなく、監視していた側だったとは・・けれど、ハイそうですかと、黙って連れて行かれるほど、僕は温和(おとな)しくはないぞ」
「ふむ、なかなか腕も立つそうですね。それに、オトナに騙されないだけの知性があるし、度胸もある・・・だから、タカが高校生一人ぐらいと思いましたが、睡眠薬入りの珈琲に気付かれた時のために、念のためコレを用意してきたのですよ」
そう言いながら、徐は脇の下からスッと拳銃を出すと、宏隆に向けて構えた。
「いくらヤングボス、ケンカの若大将でも、目の前で銃を向けられたことは無いでしょう?おとなしく、言うことを聞いてもらいましょうか─────」
「その銃もそうだ・・・共産圏以外だと値段が倍以上もするというのに、あなたは反対に、 ”安かったので買った” と言った」
「おや、それはウカツでした、西側諸国で買うとそんなに高価なんですね?、これは支給品ですが、強さんと同じ銃なので安心してしまって、そんな事を気にもしませんでしたよ」
「だから、その銃の名前を間違えそうになった・・・」
「そう、危うく、ペクトサンと言うところでした」
「ペクトサン・・?」
「そう、漢字では ”白頭山” と書く、中国との国境にある山の名前で、我々が崇拝してやまない朝鮮民族の聖地です。近い将来、日本を侵略する作戦名も、同じ ”白頭山” と呼ばれていますから、ヒロタカさんに向けるには、まことに相応しい銃だと言えますね」
「白頭山作戦───────日本を侵略する計画?!」
「はははは・・・驚きましたか、日本人は何も知らないでしょう?
原爆でヤマトダマシイまで木っ端微塵にされ、軽薄なヤンキー文化に染まって、うわべの平和と経済成長に浮かれている今の日本を侵略することなど、赤子の手を捻るように簡単なことなのですよ」
「馬鹿な・・・そんな話は信じないぞ」
「あははは、島国根性の日本人には、そんなことはどこか海の彼方の見知らぬ世界の話で、自分たちとは何も関係がないと思えてしまうんですかね・・・
私が言うのもおかしいが、近隣諸国に強請(ゆす)られ、集(たか)られて、国民の血税で巨額のODA(政府開発援助)を貢ぐ金があったら、もっと防衛力を強化するべきですよ。
ODAで支援した国はそのお金をそっくり軍備に回しているのに、日本は防衛費をどんどん減らしていて、東アジアの脅威認識が何も無い───────
友好でカネさえ出していれば誰も侵略して来ないと、本気で信じているんですかね?
現に中国などは、ODAを ”経済援助” ではなく ”戦後賠償” だと捉えているじゃないですか。しかも中国人民は、日本からの莫大な援助の事実を何ひとつ知らされていない。
つまり、国民には反日感情を煽っておいて、国家としてはカネを巻き上げる・・・こんなオイシイ話はそう滅多にありませんからねぇ───────」
「・・・・・・・・」
「まあ、そんな甘い外交をやっているから、戦後何十年経っても、いまだにアメリカに押し付けられたお仕着せ憲法のまま、自衛隊をまともな軍隊にすることも出来ないし、防衛機密が朝鮮や中国にツツヌケの状態になるのです。原発やダムの警戒など、まったく無きに等しいのですから、まさに平和ボケ・・よその国では絶対に有り得ませんよ」
よほど余裕があるのか、徐は饒舌に日本の現状を語ってやまない。
宏隆にとっては初めて耳にすることばかりだが、最後のひと言が引っ掛かった。
「原発やダムを?・・・・どうするというんだ」
「ははは、つい口が滑りました・・・でも、教えてあげましょう。
潜入上陸部隊と日本潜伏中の工作員が共同で敦賀、柏崎、浜岡などの原発を占拠、破壊して、主要都市の水瓶であるダムに生物兵器をブチ込めばどういうことになるか───────
お目出たい日本人は、誰も想像すらしないでしょうねぇ、あはははは・・・・」
「何ということを・・・絶対にそんなことは許さないぞ・・!
日本には警察も自衛隊もある、そう簡単に、破壊工作などできるものか!!」
「ヒロタカさん独りがムキになっても駄目ですよ───────
自衛隊は、たとえ出動しても、内閣総理大臣の命令がなければ一発の銃弾さえ撃てないのです。拳銃か、ライフルか、榴弾か、ミサイルか・・・どの武器を使うかということさえ、いちいち総理大臣に連絡して、そのつど許可をもらう必要がある。
防衛出動命令も、まずは国会で議決されなくてはならないし、緊急出動も国会で不承認の議決があれば撤収してくるしかないのです。まあ、そもそも、自己の地位に固執する政治家センセイたちが、イザという時に防衛出動の英断を下せるかどうか、疑問ですがね・・・」
「何だって・・・・?」
「おや・・日本人なのに、そんなコトも知らないのですか?、日本国憲法には戦争の放棄、戦力の不保持と併せて、”交戦権の否認” というのが明記されているのですよ。
国際法で言う交戦権とは、敵の戦力の破壊、および敵の勢力の殺害を意味します。つまり基本的には敵が侵略して来ても交戦してはイケナイ・・・こんな独立国は、世界中のどこを探したって見当たりませんね」
「・・・・・・・」
「だから、我々が早いか、中国が早いか───────いずれにしても、日本などという国は、遅かれ早かれ、この世界から消えて無くなるのです、それは避けられない事実なのですよ。
勤勉で優秀な頭脳を持つ、従順でお人好しな日本民族が、たっぷりと戦争への贖罪意識を植え付けられ、隣国に脅され、集られながら、武器を持たない平和を唱えている・・・・こんな侵略しやすい、支配しやすい国を、誰が黙って放っておくものですか!!」
「くっ・・・何ということを・・・・」
「ヒロタカさんも、現実的には、そこからピクリとも動くことも出来ないでしょう?
今の日本と同じようにね! あはははは・・・・・」
話し終えると、徐は、ゆったりとソファーに座って足を組んだまま、ポケットから煙草を取り出して火を点け、余裕で煙を燻らせた。勿論、銃口は宏隆に向けられているままだ。
その宏隆は、前屈みに両肘を腿の上に置いて、珈琲カップを両手で抱えたまま、何かをじっと考えているが・・・・
「ほう・・やっと自分の現実と、日本人の実情が分かったようですね」
黙って俯いたままの宏隆の姿を見て、徐はすっかり良い気になってそう言った。
しかし、やがてその宏隆が、
「社会主義は、元々単純な人間たちの思想だと言うけれど、本当なんだな───────
やたらと白頭山(ペクトサン)という名前を使いたがるだけあって、君たちは頭の中まで真っ白になっているらしい・・・・」
薄らと笑みを浮かべながらそう言い返したので、徐の顔色が少し変わった。
「なにぃ・・・何が言いたい?」
「その銃は安全装置が掛かったままで、初弾が装填されてもいない・・・・
つまり、その銃を撃つには最低でも1.5秒は必要になり、僕を狙って撃つまでには2秒以上もかかる───────それだけあれば充分だと言っているんだ!!」
「・・な、何だと!!」
そう言われて、慌てて組んでいた足を戻そうとした徐の顔に向けて・・・・
突然、宏隆は手にしていた珈琲をパッと浴びせかけ、同時にテーブルを飛び越えながら徐の胸に蹴りを入れ、その同じ足で銃を持った手首を激しく蹴ったので、銃は手から離れて、入口の方に飛ばされていった。
ヒラリと───────もう宏隆はソファーから離れて身構え、様子を伺っている。
銃は宏隆から数メートル後方に転がっているが、しかし、それを取りに行こうとすれば後ろ向きになるので、その機を逃さず徐が襲ってくるに違いない・・・そう思うと、宏隆もそこから動けなかった。
もしも徐が、海軍基地で宏隆が宗少尉と戦っている姿でも目にしていたならば、これほどの油断はしなかったかもしれない。しかし、何と言っても相手は未だ高校生の子供なのだからと、そう思えてしまう甘さが、徐のどこかに残っていたのだ。
「珈琲が熱くなくて、幸いでしたね・・・」
むしろこの異常な状況を楽しんでいるような、不敵な笑みを浮かべて、宏隆が言う。
かつて学校帰りに兄と共に不良に襲われた時もそうだったが、ある種の度胸と言おうか、こんな時でさえ、宏隆には敵にユーモアを向ける余裕があった。
「ふむ、中々やるな・・・子供だと思って、つい油断したが───────」
「僕を撃てば拉致をする意味がなくなるし、宿泊者の多い高級ホテルで、サイレンサーも付けずに銃を撃つのは余程のバカに違いない。だから初めから撃つ気など無く、脅しで銃を向け、安全装置も外していなかった・・・そうでしょう?」
「なるほど、本物の銃を向けられてもそれだけ冷静に判断できるとは、その年齢(とし)にしては大したものだ。あの張大人に認められるだけのことはある。
しかし、所詮は一般人、まだまだ甘い。私なら銃を蹴り飛ばさず、奪い取ってすぐに相手の腿を撃つところだ。おとなしく睡眠薬入りのコーヒーを飲んでくれれば良いものを・・・
無傷で平壌(ピョンヤン)に連れて行きたかったが、少し痛い目に遭ってもらうしかないようだな」
───────そう言われて、(確かにそうだ、自分は甘い・・)と、あらためて思える。
これはケンカでもなければ、試合でもない、本物の実戦なのだ。相手は国家の密命を帯びて自分を拉致しようとしているプロの工作員なのである。徹底的に相手を動けなくしてしまうか、ここから巧く脱出するか・・・それが出来なければ、自分は本当に拉致されてしまい、二度と日本には戻れないだろう。
(よし・・こうなったら、一か八か、やってやる!)
しかし、そう決心したとき、いきなり入口のドアが開かれた。
物音を聞きつけて異変を感じたのか、さっきのボーイが入って来たのだ。
ボーイ姿の男は、事態をすぐに読み取って、宏隆を警戒しながら何やら徐と言葉を交わしている。朝鮮語で何を言っているのかさっぱり分からないが、もちろん、宏隆に銃を取られないうちに早く絡め取ってしまえ、と言っているに違いない。
果たして───────予想どおりに、男はいきなりツカツカと傍に寄って来て、宏隆を捕まえようと、大きく手を広げて掴みかかってきた。
しかし、両手で宏隆の肩をグイと掴まえた途端に、
「うぁ・・・!!」
いったい、どうすれば瞬時に相手をそのような恰好にさせられるのか───────
男はあっという間に、その場に立ったままの姿でクルリと仰向けの海老反りにさせられ、同時に心臓の裏辺りに強烈な膝蹴りを喰らい、さらにその恰好のまま引き落とされながら、まるで地面に杭でも打つかのように「ズン・・・」と喉もとへの一撃を見舞われ、更に仰向けに床に転がったところへ、真上から床を突き抜くような蹴りを腹に喰らって・・・
「グェッ・・!」と、何かが潰れるような、声にもならぬ音を出して悶絶した。
仰向けにされたところに膝蹴りを喰らうことだけでも大変なダメージだが、その右膝が背中に置かれたまま、蹴った足を相手の身体ごと地面に踏み付けながら、挟むように喉もとに拳が振り下ろされたのだから、これはたまらない。
逃れたくとも、左腕を逆に極められて海老反りにさせられた上、胸を押さえられているので動けず、首が反らされたところに、さらに喉もとに拳を浴びせられたのだ。
そして止めを刺すかのように、仰向けに倒れたところを真上から腹を踏み付けられては、如何に屈強な男でも再び起ち上がって来ることは出来なかった。しかも、背中、喉、腹と、三ヶ所に向けて為されたそれらの動作が、ほんの数秒のうちに行われたのである。
床に転がった男の口から、「ヒュー、ヒュー」と細く荒い息が聞こえている。
喉もとを拳で直撃されたために、周辺が炎症を起こし、気道を圧迫しているのだ。
もしこれが、喉の骨を破壊するほどの強烈さであったなら呼吸困難に陥り、わずか数分で絶命してしまうだろう。しかし宏隆には、拳を振り下ろす時には、もう手加減をする余裕もあった。
それよりも、どうしてこんな動きが出来るのかと、そんな自分に宏隆自身が驚いていた。
套路を「応用」として学んだことなど全く無かったのに、相手が襲いかかってきたその瞬間に、王老師に教わった ”金剛搗碓” の動きが自然に出ていたのである。
こんな動きが、なぜ勝手に出てくるのか・・・自分でも不思議でならなかった。
そして、ほんの僅かな時間だったが、徐は、宏隆の余りにも見事な動きを呆然と見守ってしまった───────宏隆はそのスキを見逃さず、受身を取るようにサッと後ろに転がって、入口近くに飛ばされていた銃を拾い上げ、素早く安全装置を解除し、スライドを引いて初弾を装填すると、銃口を徐に向けながら後ろ手で入口に鍵とチェーンを掛けた。
あっという間の、素早い動きである。
「そのままだ・・・そのまま、そこを動くな!!」
「あはははは、いやぁ、お見事!、見事な動きですねぇ、つい見惚れてしまって加勢するのを忘れてしまいましたよ・・・今のワザは、王老師に学んでいる太極拳ですか?
凄まじい破壊力ですね、台北の公園なんかで見かける健康体操とはエラい違いだ。
それに、敵に手加減をする余裕さえあるとは・・・いや、見上げたものですよ」
とどめの一撃を、致命傷にならぬように手加減した事まで、徐には見えていた。
そして、パチパチと拍手をしながら、徐は盛んに宏隆を賞めている・・・
しかし、それは普通の拍手ではなく、何か独特の拍子があった。
「動くな!・・・その変な拍手を止めるんだ!」
「ウチの隊員を瞬く間に倒してしまえる実力も大したものですが、銃を拾った動きも、弾丸を装填する動きも中々鋭い。武術に対する、天性のひらめきが有るのでしょうね。
わが国に来たら、対日工作部隊の隊員として立派に教育してさしあげましょう。寒い中で強制労働をさせられるよりも、よっぽど良いでしょう?」
「馬鹿を言うな!、敵の工作員になるほど、日本人は落ちぶれていないぞ。
ましてや、麻薬やニセ札を造る国営工場なんぞで、誰が働いてやるものか!」
「ほう・・もうそんな事までご存知なんですね。しかし、いくら訓練場の標的に当てるのが上手だと言っても、昨日今日、訓練を始めたばかりのヒロタカさんに、果たして生身の人間が撃てるでしょうか?」
「人間は撃たない───────だが、人間の皮を被ったようなケダモノが相手なら、いつでも躊躇せずに撃ってやるぞ!」
「おお、それは頼もしい! その銃の構え方も ”プロ裸足” ですしね・・・」
「ソファの向こうに回って、壁に手を着けるんだ──────さあっ、早く!」
「あははは・・・それじゃ、取り敢えず、言うことを聞いてあげましょうか」
笑ってそう言いながら、徐はゆっくりと壁に向かって歩いていく。
いたって平然としていて、何の危機感があるようにも感じられないのだ。
しかし、宏隆にはどうして徐がそんなに冷静で余裕があるのかが分かっていた。
恐らく隣室には何人かの仲間が潜んでいるのだ。睡眠薬入りの珈琲を用意したのも、ボーイに変装したのも同じその部屋だろうし、いま拍手をしたのも、自分が銃を向けられていることを隣室に知らせるための合図に違いなかった。
入口のドアはロックしたが、テラスの鍵は開いたままだ・・・ともかく、早くそれを閉めて、中の様子を分からなくするためにカーテンを閉めなくてはならない、と思った。
しかし、それから・・・それから、一体どうすれば良いのか────────
この時点になっても、まだ取るべき行動が何も決まらないことに、宏隆は焦りを感じた。
徐は壁に手を着けて立ち、宏隆もそれに合わせるように、ゆっくりとテラス側まで移動して来た。宏隆は、徐から目を放さず、後ろ手で鍵を掛けようとしたが・・・
同時に、どこに潜んでいたのか、まるでそれを待っていたかのようにテラスの入口が荒々しく開かれ、見るからに屈強な体格の、ボーイ姿の男が二人、どっと、部屋の中へなだれ込むように入って来た。
「あっ・・・!!」
宏隆は彼らに拘束されるよりも早く、テーブルを飛び越えて、再び入口のドアの近くに立った。テラスから入って来た男たちは、幸いにも銃を手にしてはいない。
「動くなっ!・・・動くと、この男を撃つぞ!!」
壁に手を着けている徐に銃口をピタリと向けて、宏隆はそう怒鳴ったが、しかしその屈強な男たちは、その言葉を無視して、ジリジリと動きはじめた。
「・・・馬鹿っ、動くんじゃないっ!!」
しかし、大声でそう怒鳴ったのは、宏隆ではなく、徐であった。
「迂闊に動くんじゃない───────こう見えても、ヒロタカさんは銃の名手なのだ。
この距離なら、お前たちの体のどこの部分にでも、実に容易に、正確に銃弾を中てるに違いない。見かけや思い込みで相手の実力を判断しないことだ」
怒鳴られて静止した男たちは、そう聞いて顔を見合わせ、少し後ずさりをした。
「・・・しかし、これからどうしますかな?、廊下に逃げても我々の仲間が居るし・・」
「黙れ!・・・そのまま、じっとしていろ!」
宏隆は銃を構えたまま、すぐ側のキャビネットの上にある電話を取って、フロントに電話をした。しかし、何の応答もないし、呼び出し音さえ鳴らないのだ・・・・・
「くっ・・・・・」
「・・ああ、言い忘れましたが、電話はさっき珈琲を頼んだついでに、線を切っておきましたよ。ボーイの程くんを呼ばれては面倒なのでね、あはははは・・・・」
流石に、相手は国家の工作員・・・拉致や破壊、暗殺を専門に訓練してきたプロである。万が一に備えて、徐は宏隆の行動の先を読んでいた。
廊下にも、テラスにも出られないし、電話も通じない・・・
これは、どうすることも出来ないぞ────────
しかし、そう思い始めたところに、
「コン、コン、コンッッ・・・・・」
突然、入口の扉がノックされた。
「誰だっ・・・?!」
「・・・ヒロタカさん、程です!・・ご無事ですか?」
「程さん・・・!!」
まるで、宏隆の想いが通じたかのように・・・
ドアの外から聞こえる程の声は、まさに地獄に仏であった。
宏隆は急いでチェーンを外し、ドアを開けた────────
(つづく)
2010年08月15日
連載小説「龍の道」 第51回

第51回 綁 架(bang-jia)(2)
メニューを選ぶのに徐が難儀しているので、宏隆はコース料理を頼んだ。
次々と出される広東料理は、期待に反してビックリするほど美味しいというわけではなく、むしろルームサービスの飲茶の方がよほど彼の味覚には適っていると思えたが・・・
まあ、”有名な店” にはよくあることで、こんなものなのかもしれない、と思った。
「ふぅ、美味かった!─────自分は中国の生まれですが、フルコースでこんな料理を食べたのは生まれて初めてです、弟たちにも食べさせてやりたかったなぁ・・・」
膨れた腹をさすりながら、徐がいかにも満足気にそう言う。
気を利かせて勧めたビールや白酒(パイチュウ)が暑かった日中の疲れを癒したのか、飲むほどに、食べるほどに饒舌になり、すっかり打ち解けて話ができるようになっていた。
「・・・それは良かったです、食事が美味しいのはとても幸せなことですよね」
食後には、金龍餐庁の名物である ”マンゴー・プリン” が出る。
「おお、こりゃぁ、美味い・・・・噂どおりの、最高の味ですね!」
「うーん・・・悪くはないですが、方々で ”絶品” と言われている割には、僕にはそれほどとは思えませんね」
「そうですか?、私にはものすごく美味しく思えます・・・上流家庭で育ったヒロタカさんは舌が肥えているから、漢民族の料理など、お口に合わないのでしょうね」
「いえ、そんなことはありませんよ。神戸にも南京街があって、中華料理はとても好きですし、士林の夜市の味などは病み付きになるほどですから」
「・・まあ、屋台や夜市の味は、統治時代の影響ですっかり日本的になっているものもありますから、日本人には食べやすいかもしれませんね」
「日本の中華街は化学調味料をたくさん使うようになって、本来の味が失われてしまっていますが、台北はそうではないので安心しました」
「でも、すごい発明ですよね、化学調味料は─────」
「いいえ、所詮は旨味に似せた偽せ物・・・・原料がサトウキビだろうと何だろうと、抽出された化学薬品に変わりはありません。このままでは、いずれは日本の食文化を破壊してしまうことになるでしょう」
「そうですか?、私なんか、あれが中国にあったら、さぞかし料理人が便利だろうと思いますけどね。何しろ、いちいちダシを取る必要がないし、廉(やす)いし・・・・」
食事中にアルコール度数の高い白酒の茅台(マオタイ)酒をよく飲んだ所為か、徐は声のトーンも大きめで、ちょっと絡むような言い方をする─────
「・・・そんな事になったら、あっという間に中国の食文化が滅んでしまいますよ」
「いやいや、中華民族は、外国人が想像するよりも強(したた)かですよ──────」
「はぁ・・・?」
「中華民族といっても、中国人は基本的には ”個人” で、大切なのは ”家族” なのです。
仕事をしていても自分の責任範囲を明確にして、他人の力を借りない代わりに、協力もしない・・・日本人のように、同僚だからといって、会社が終わってから一緒に飲みに行って仕事の話をするということも、まず有り得ません─────だから、彼らには国家などという概念も、基本的には全く無いのですよ・・・」
「・・・ははは、日本人はそんな事でも有名なんですね。
でも、中国人のことを ”彼ら” だなんて言って・・・何だか他人事みたいですね」
「え?・・あ・・・いや、我々はもう、中国人ではなく、台湾人だという意味で・・・・
できるだけ早く、大陸から独立しなくてはならない、ということですよ」
「ああ、なるほど・・・・」
「・・・あ、これは福建省の烏龍茶ですね!」
「台湾産のウーロン茶ではないのですか?」
「いや、これは絶対に福建省のお茶です、味が違います!」
「すごい!、徐さんには、烏龍茶の産地が明確に分かるんですね?」
「私は福建省の生まれなので、他所(よそ)の烏龍茶はすぐに分かります」
「そういえば、台湾産よりも味が濃いような・・・渋みが勝っているような・・・・」
「そうです、そのとおりですよ・・・烏龍茶はこうでなくっては!!
甘いだけの台湾産など、お茶として、福建産よりもはるかに劣ります────」
「ははは・・・郷里のことになると、徐さんも人が変わったみたいになりますね」
「・・あ、ちょっと興奮してしまいましたね、はははは・・・」
「さて、もうこんな時間ですね────このホテルの珈琲も、お口に合うかもしれませんよ。もちろん福建産ではないでしょうけど・・・よかったら、僕の部屋で夜景でも見ながら食後の珈琲でもいかがですか?」
「ははは・・・いいですね。実は、圓山大飯店の上階のスゴイ部屋というのを一度で良いから見てみたくて、私からお願いしようと思っていたところです」
「それはちょうど良かったです─────」
勘定書にサインを済ませると、宏隆は徐を誘って自分の部屋へと向かった。
エレベーターに乗ると、徐がスッと9階のボタンを押したので、宏隆は驚いた。
「徐さん────よく僕の部屋が9階だと分かりますね?」
「ああ・・・さっき支票(勘定書)にサインをする時にルームナンバーを書いたでしょう?
それがチラッと見えたんですよ」
「よく目が効くんですね・・・そんな訓練も行われるのですか?」
「ええ・・まあ、そうですけど・・・・ははは」
「さあどうぞ────ああ、よかった、今日は最初からエアコンが効いていますよ」
宏隆は先に入って、部屋の電灯を点けてまわる。
「うわぁ、広い部屋ですねぇ、リビングと二間続きで・・・ほぉ、すごいなぁ!」
よほど珍しいのか─────そう言いながら、徐はまるで誰かが潜んで居ないかどうかを確認するかのように、洗面所や寝室、クローゼットまで勝手に開けて、どんどん見て回る。
宏隆は、ボーイの程さんが「徐が一緒なら安心ですし・・」と言っていたことを思い出し、そんな奇異な行為も、自分を護るために部屋を確認してくれているのだと思えた。
「調度品や家具も、何もかも本格的ですね、こんな部屋に泊まってみたいものです」
「張大人が用意してくれたのです。僕は一人なので、階下(した)の小さな部屋で充分なのですが・・・」
「このゴージャスな部屋を見ても、張大人がどれほどヒロタカさんを買っているかという事がよく分かりますね・・・ヒロタカさんの参入によって、日本の大資産家であるお父様と、玄洋會との繋がりもより強くなったことですし・・・・」
「買って頂いているのかどうかは分かりませんが────父は兎も角、僕はただ陳氏太極拳を極めたくて王老師に入門して、そのご縁でこの組織に入りました。今はただ自分が知らないことを色々と勉強していきたいと思っているだけです」
「いずれにせよ、玄洋會は日本との大きなコネクションが出来た、というわけですね」
「そうなるのでしょうか・・?、僕にはまだ、そういったことがピンときません。
・・・あ、済みません、いま珈琲を頼みますから、ソファで寛いでください」
「いやいや、珈琲なら私が電話しましょう─────ヒロタカさんは清潔好きだというから、手でも顔でも洗って、ゆっくりしてください」
「はぁ・・・・・」
────他人の部屋に呼ばれたのに、珈琲を注文する電話を自分で掛ける、という行為が、ちょっと宏隆には不思議に思えた。それに、確かに自分は外出から帰れば必ず手を洗うし、よくシャワーも浴びるが、徐はどうしてそんな事まで知っているのか。精一杯気を遣ってくれているのか、それとも、これが民族や習慣の違いというものなのか・・・・
少々疑問に思いながらも、言われるままに洗面所で手を洗っていると、徐がルームサービスに珈琲を注文している声が聞こえてくる。
「─────混み合っていて少し時間がかかるそうですが、珈琲を頼んでおきました」
「済みません、そんなことまでして頂いて・・・」
宏隆は礼を言ったが、ふと、そんな徐の心遣いがちっとも自分の心に触れてこないことに気がついた・・・・まるで、その人自身の必要で行っているような、そんなエネルギーが感じられるのである。
「ここは夜景が綺麗ですねぇ・・・ちょっとテラスに出ても良いですか?」
「どうぞ、どうぞ──────」
宏隆はそう言うと、ガラス戸のロックを開けて、自分からテラスに出た。
「うわぁ、絶景だなぁ・・・普段生活している台北の街が、まったく違うところに見えてしまいます。9階だというのに、こんなに高く感じるのは、丘の上にホテルが建っているからなのでしょうね」
「そうですね。でも、こうしてテラスに出ると隣の部屋が丸見えになります。部屋と部屋の仕切りが低い欄干しかないので、セキュリティやプライバシーには大いに問題があります。
何しろ、ルームメイドが隣の部屋から欄干を跨いでシーツを取り換えにやって来るくらいですからね。アレにはさすがにビックリしましたが・・・」
「あ、本当だ・・・これじゃ、簡単に隣の部屋から侵入できてしまいますね」
─────その ”隣の部屋” には小さな明かりが灯されていたが、こちらの気配を察してか、人影がスッとカーテンの向こうに動いた。
ふと気付いたのだが───────ただの偶然なのか、徐は常に、宏隆の右側へ、右側へと、回りたがっているように思える・・・
部屋の中でもそうだったのだが、たった今も、徐がそこに来やすいようにと、宏隆がテラスの右の方へ行って場所を空けていたにも関わらず、徐はわざわざ宏隆が立っている所よりもさらに右側に行って、欄干に手を着いたのである。
人は普通、左に回転する方が右へ回るよりも動きやすいものだ。それに、右側に居れば武器を持つ利き手を制御しやすい─────宏隆は自分が動きにくく感じる右側へ右側へと回ってくる相手に、本能的に警戒心を持った。
「向こうの明るい所が士林夜市で、こっちは白月園の秘密訓練場、その手前は張大人のマンションがある辺りですね。基隆の海軍基地は大体この方角ですか。こうして見るとヒロタカさんは、台湾に来てからそれほど行動半径が広くないですね───────」
徐が夜景を見ながら、あちこち指をさして宏隆に説明をしてくれるが、行動半径、という言葉にちょっと引っ掛かり、(変なことを言うなぁ・・)と思って、
「行動半径も何も・・入門式までの時間を、ひたすら訓練に励んでいるだけで・・・」
思わず、そう答えると、
「・・あ、そうか、台湾に遊びに来ているわけではなかったですね、はははは・・・・」
徐は、自分の言った言葉を打ち消すように、頭を掻いて笑う。
しかし、笑って上を向いた拍子に、徐の脇の下にホルスターに入った拳銃が下げられているのが目に留まった。
「徐さん・・・いつも拳銃を装着しているのですか?」
「えっ・・ああ、コレですか・・・これはまあ、ヒロタカさんの護衛の意味で・・・
宗少尉に持って行けと言われたので、念のために携行しました。
このホテルにも、ヒロタカさんを見張っている奴らが何人か居るとかで・・・・」
「そうですか・・・こんな所で目にすると、ちょっとビックリしますね」
「ははは・・・いや、脅かすつもりはないのですが、世の中というのは、いつ何時、何が起こるか分かりませんからね、念には念を入れるに越したことはありません・・・・」
「・・・・・・・」
「さて、そろそろ珈琲が来るころかな────もう部屋に入りましょうか」
そう言って、どうぞ、と手を伸ばして宏隆を先に部屋に誘う。
後から入って来た徐は、テラスの出入り口を閉めたが、施錠はしない─────
「何という銃ですか、それは─────」
徐にソファーを勧めながら、宏隆が訊いた。
「えっ・・・・?」
「脇の下の銃ですよ、何という銃なのかと思って・・・」
「ああ、これはペク・・いや、CZ-75・・・強さんが持っているのと同じ銃ですよ」
「確か、共産圏の銃でしたね・・・・」
「そう、チェコスロバキアが共産党政権になってから造られた銃です」
「なるほど・・・・」
「銃がどうかしましたか?」
「いや、僕は銃に興味があって、いろいろと勉強しているのです。
その銃は、北朝鮮が正式に採用するかもしれない、と宗少尉が言っていました」
「そうですか・・・これは強さんが愛用している銃で、私も奨められて買ったのです。
チェコ製で、安かったので、つい買ってしまいました。はははは・・・・」
「そうですか・・・安かったのですか・・・・」
──────そのとき、入口のチャイムが鳴った。
「お、やっと珈琲が来ましたね、私が出ましょう・・・」
徐が立ち上がって入口を開けると、白い制服を着たボーイが、珈琲のポットとカップを載せたワゴンを押しながら部屋に入ってくる。
「お待たせをいたしました─────」
慇懃にそう言いながら、螺鈿(らでん)で装飾された中国式の豪華な応接テーブルに珈琲をセットするが、慣れない手つきで、ガチャガチャと音を立ててカップを置き、ポットから注がれた珈琲をソーサーにこぼしても、それを謝ろうとも、拭こうともしない──────
このプレミアム・ルームには専属のバトラーさえ用意されているので、当然、上階専属のボーイも居るはずなのだが、それにしては余りにも躾(しつけ)が悪い。それに、ボーイにしては程さんよりも体格が良いほどで、ふと足元を見ると、靴は黒い色で紐もあるが、まるで軍隊用のようなゴツイ靴を履いている。
「よし、後はこっちでやるから、もういい・・・」
命令するように、徐が中国語でそう声を掛けると、ボーイは上目遣いにチラリと徐の顔を見て、頭を下げて外へ出ていった・・・ボーイが出ていっても、徐は入口の鍵を掛けようとはしない。
「・・・さあ、お待ち兼ねでした、頂きましょうか。
ヒロタカさんは、珈琲がとてもお好きなんですよね─────」
徐がそう言って、宏隆に珈琲を勧める。
「いろいろと─────僕のことを、よくご存知ですね」
珈琲カップを、両手で包むように持ちながら、そう言った。
「ええ、それはもう・・ヒロタカさんは ”時の人” ですからね、皆の噂になっているので、いろいろなお話をきいています。さあ、どうぞ召し上がって・・・食事のお礼に、珈琲は私が奢らせてもらいますよ」
「・・・・・・・・」
宏隆は、珈琲カップを手のひらに載せたまま、何かを考えるように押し黙っている。
「どうかしましたか・・・?」
「─────他人(ひと)を騙そうとする人間は、騙そうとするが故に、そのエネルギーがどうしようもなく見えてしまうものなのですね・・・」
「・・・え?、いったい何の話ですか?」
「本物のホテルのボーイが、プレミアム・ルームに宿泊している客に、湯気も立っていないような温(ぬる)い珈琲を運んでくるわけがない─────そう言っているのですよ」
「あ、温かったですか・・・それはいけない、すぐに電話して、熱いのを持って来させましょう」
そう言って、徐は席を起ちかけたが、
「徐さん、もうお惚(とぼ)けは止めにしましょう・・・・」
強く──────しかし穏やかに、宏隆はそう言った。
「珈琲だけじゃない・・・・僕を護るために気を遣っている人が、テラスや入口の扉をロックしようとしないのも、わざわざ僕が動きにくい右側にばかり立ちたがるのも、初めて他人の部屋に招かれた人間が、自分で電話をして珈琲を注文するのもおかしい──────
プレミアム・ルームに来るようなボーイが、珈琲を皿にこぼしても謝りもせず、拭こうともしないのは、もっとおかしい──────そうじゃないですか?」
「・・・・・・」
「だから、もう惚けるのは止めましょう、と言っているのです──────」
「はははは・・・そうですか、コーヒーが温かったですか・・・・
それは、こちらの手落ちでしたね・・・・何しろ我々は上流階級の育ちじゃないもので、そんなことを気にも留めませんでしたよ、あはははは・・・・・」
「あなたは何者だ!・・・いったい何を企んでいる──────?」
(つづく)