*第41回 〜 第50回

2010年05月15日

連載小説「龍の道」 第45回




 第45回 訓 練(4)


 中尉が銃を構えた瞬間、宏隆は背筋がゾクッとして、思わず小さく身震いをした。

 中尉は遠くの標的に対して銃を構えているのに、まるで自分に銃口が向けられているような、そんな緊張を覚えたのである。

 宏隆は、中尉のすぐ右に立って見ようとしたが、

「そこだと薬莢(やっきょう)が飛び出して来ますから・・・」

 そう注意されて、慌てて左側へ場所を移動する。

 実銃は、弾丸を発射すると同時に、空の薬莢が勢いよく飛び出してくる。そして、薬莢が飛び出てくる方向や勢いは、その都度、一発ずつ異なっているので予測できない。ライフルともなれば、弾丸の火薬量に比例して、かなりの勢いで空莢が飛び出す。ほとんどの銃は右利き用に作られているために、薬莢が右側に排出されるようになっている。
 宏隆は既に観光射撃や大武號のライフルで経験済みなのだが、陳中尉の気迫に圧倒されて、そんなことを忘れていた。

 陳中尉は、再び銃を構えて標的に向かうと、

「ダーン、ダーンッ・・・ダンダンダンッ、ダンダンダンダンッッ・・・・!!」

 初めの二発だけは間を置いて撃ち、後はまるで機関銃のように連射して、瞬く間に十発ほどの弾丸をターゲットに撃ち込んだ。

「・・・すごい!!」

 目の前で実銃が撃たれる迫力に圧(お)されたのではない。
 陳中尉の体軸が全くブレず、手許に返ってくる発射時の反動が体軸できちんと押さえられている見事な撃ち方に ”武術性” を感じて、感動したのだ。
 大武號で、オートマチックで連射できるライフルを持ってさえ、一発ずつ慎重に撃っていた宏隆は、小さな拳銃から安定して一気に何発も標的に叩き込めるような中尉の射撃には、とても興味を持った。

「これは・・・銃と言うよりは、まるで槍を持って的に向かっているような・・・
 いや、まてよ・・そうか、だから拳銃を手槍、ライフルを歩槍と呼ぶのだ・・!」

 宗少尉に教えてもらった ”ピストル” という言葉の意味を、宏隆は想い出していた。
 ヨーロッパでは「短剣」という言葉が拳銃の意味に充てられたが、中国では「槍」がそれに変わった。その違いは、身体の使い方、武術の文化の違いにあるのだろうか・・・・

 陳中尉は安全装置をオンにして銃を台の上に置くと、傍らのボタンを押し、標的を手許まで引き寄せた。標的は天井のワイヤーに吊り下げられていて、6m、10m、14m、18m の四段階の距離の調節がスイッチひとつで設定でき、撃ち終わってから手許に戻して命中の程度を検証することが出来る。
 中尉が撃った標的は、一番真ん中の、直径5センチほどの小さな黒い円を中心に、全弾がすべてその辺りに集中して撃ち抜かれていた。

「銃を撃つためには、正しい持ち方と、正しい立ち方が必要になります」

「・・はい、太極拳と同じですね。
 でも、僕にはとても中尉のような馬歩(ma-bu)では立てません」

「そのとおり・・・これはまさに太極拳の馬歩に他なりません。
 銃を手に持って伸ばした両腕両足が二等辺三角形に開かれるので、このような構え方を、アソセレス(isosceles=二等辺三角形)スタンスと呼ばれます。台湾や日本ではアソセレスと呼んでいますが、ア(アィ)ソサリーズと言う方が正しい発音に近いでしょうね・・」

「isosceles(aisάsəlìːz)・・・なるほど、そうですね」

「拳銃の構え方は、このアソセレス・スタンスと、ウィーヴァー・スタンスのふたつに代表されます。ウィーヴァー・スタンス(Weaver Stance)というのは、1959年に米国の保安官であるジャック・ウィーヴァー氏が発明したもので、右利きの場合はこのように左脚を前に、足を前後に開いて右腕を伸ばし、左腕は肘を曲げて体に引きつけて構えます。
 今日はとりあえず、アソセレス・スタンスからやってみることにしましょう・・」

 ・・いつもながら、陳中尉はどんなことに対しても詳細にまで通じている。
 自分なら、「少し昔、アメリカの何とかいう保安官が考案したスタンス」と言うのが精々だと思える。それは、中尉が些細なことも疎かにせず、物事をきちんと読み解くことによってその実体を正しく知ろうとする、真摯な研究心を持っている故なのだと思えた。

「お願いします」

「・・では、初めは銃の持ち方からです。まずは銃を持ってみて下さい」

「こうですか・・?」

 宏隆は、安全装置のロックを確認してからベレッタを取り上げ、ごく普通にグリップを握って標的に向けた。マガジン(弾倉)には弾丸が何発か残っているはずでもあり、トリガー(引き金)には触れず、人差し指を前に伸ばしている。

「うん・・普通は誰でもそんな風に銃を握ってしまいますね。
 しかし、銃を日常的に必要とする職業の人たちは、決してそのようには持たないのです」

「・・何か特別な握り方があるのですか?」

「では、銃を置いて・・こうして手のひらを縦にして指を前に伸ばしたまま、親指と人差し指が水平に向かい合うようにしてください」

「・・・こうですか?」

「そうです・・そうして、親指と人差し指の付け根が合うところを腕の中心に持ってきて、肩を力まず、肘を下に向けて腕を伸ばします。この時、親指と人差し指はきちんと正面に向いていますね・・・そこに銃のグリップの中心を持ってきて、手のカタチを崩さずに、親指と人差し指できれいに夾むように握ってみるのです・・・さあ、そうすると、どうなりましたか?」

「・・あ、さっきよりも、人差し指がトリガーに届きにくいです!」

「そう、普通はトリガーに指を掛けやすいように、親指側へ偏ってグリップを握ってしまうのですが、それでは正確な射撃は出来ません。銃は、グリップを正しく握れてこそ、正しく撃つことが出来るのです」

「ああ・・やはり何事も正しい指導を受けないと、ただの自己流でしかないのですね」

「そのとおりです。そして、たとえ正しい指導を受けていても、それを自己流に変えてしまうことも出来ます。自己流が行き着くところは、偏見に満ちた ”独り善がり” の世界でしかありませんが、自己流を捨てて正しく学べた人は、本人の努力や研究によって、さらに高度なものへと発展させて行くことが出来ます。どのような文化も・・藝術も、武術も、皆そのようにして進歩発展していくのですよ」

「僕は、この射撃場に入ってから、早く銃を撃ちたくて仕方がありませんでした・・・
 けれども、それは単に素人の興味本位に過ぎなかったようです。
 銃もまた、太極拳と同じように、基本あってこそのもの・・・単に握り方ひとつを取っても、正しく教わり、正しく訓練しなくては何ひとつ上達しないのですね」

「ははは・・・まあ、あまり深刻になる必要はありませんが、そのように考えられる人こそ、きちんと上達していけるのだと思いますよ」

「ありがとうございます」

「さて、次は左手です・・・」

「拳銃を撃つ時は、常に両手で構えるのですか・・?」

「両手か片手かは場合によりけりですが、初めにきちんと両手で撃つ訓練をすれば、体軸と射撃の関係が明確に理解できるので、後から片手でも、移動しながらでも、きちんと撃てるようになります。だからCIAも、KGBも、MI6も・・玄洋會でもそうしています・・・」

「なるほど、そうなのですか・・・」

 陳中尉はちょっと微笑んでユーモアを交えて語っているのだが、中尉の言葉を必死になって聴いている宏隆にはそんな余裕は全く無く、ニコリともせず大真面目でそう答える。

「左手は、小指から中指までの三本をグリップを握った右手に重ねて、人差し指はトリガーガードの前に掛けるか、右手の上に重ねます。親指は右手の親指の下に、同じように伸ばして置きます・・・そう、なかなか上手いじゃないですか」

「うーん・・何だか、やたらと肩に力が入ってしまいます」

「太極拳の ”沈肩墜肘” の要求は、銃を撃つ時も同じです。
 馬歩の架式をきちんと取ると、自然に余分な力が抜けますよ」

「あ、本当だ・・そうか、構造が整わないと、腕だけで銃を持ってしまうのですね」

「そのとおり。どのような武器を持つ時も、素手と同じく、正しい身体構造で持たなければ、その武器は役に立ちません。銃を撃つ時の歩幅は ”一横脚” 、膝から足先までの長さのスタンスが基本です。上半身は前傾させて、両手を真っ直ぐ体の中心に伸ばして、 isosceles(二等辺三角形)に構えます」

「陳中尉は、それほど前傾されていませんでしたね・・」

「体軸が安定していさえすれば、真っ直ぐ立つに越したことはないのです。
 ヒトが最も動き易く、高度な動きを可能にするのは、構造的に真っ直ぐに立てている時なのです。普通の人は、銃の反動を押さえるために上半身を前傾させてカバーしなくてはなりませんが、馬歩で前から押されても立っていられるような体軸があれば、わざわざ前傾する必要もないのです」

「馬歩で・・・前から押されても、立っていられるのですか?」

「ああ、ヒロタカは未だ、その訓練をやったことが無いのですね。
 それじゃ、やってみましょう・・・私を前から押してみてごらんなさい」

 陳中尉は、その場で馬歩の架式で立ち、宏隆に向かって両掌を前に出した。

「・・どうすれば良いのですか?」

「私の手のひらを、まっすぐ、水平に押してくるのです」

「・・・こうですか?」

「もっとしっかりと、私を後ろに押し倒すつもりで・・・」

「あれ?・・・お、押せません!」

「もっと強く、力を込めて押してごらんなさい・・」

「うぅっ・・・うーむむむ・・・!!」

 宏隆は、かなり強く陳中尉を押しているが、ビクともしない。

 それどころか・・・・

「それじゃ、返しますよ・・」

「・・え、返す?・・・・うわああっっっっ!!」

 そう答えた次の瞬間、宏隆は押している姿のまま後ろ向きに吹っ飛ばされ、5メートルほど先の、ブースの手前にある机に当たって転がった。

「大丈夫ですか・・・?」

「ふぅ、驚いた・・・だ、大丈夫です・・・・
 でも、何故そんなことが出来るのですか?、中尉は足を横に開いているのに、なぜ押せないのでしょう・・どう考えても、真っ直ぐに押している方が強いに決まっているのに・・」

「それが体軸ですよ。日本の武道では、中心線とか中心軸などと言うでしょう?
 陳氏太極拳ではそれを ”上下一条線” と言って、身体を整えることの基準にします」

「でも、とても不思議です・・・」

「ヒロタカも、実際にやってみればわかりますよ。
 まず、馬歩で立ってごらんなさい・・・」

「歩幅は、これで良いですか?」

「・・うん、流石によく練習していますね。
 いちいち一横脚を取り直したり、姿勢を崩して足もとを見なくては歩幅を決定できないのは訓練が足りていない証拠ですし、馬歩が一瞬で決まらなくては正しく学んでいるとは言えません・・それじゃ、押していきますよ・・・」

 陳中尉は、宏隆の手のひらをゆっくりと押し始めたが・・・

「・・あ・・・あれれっ・・・?」

 まだそれほど力を入れていないのに、容易に押されてしまい、後ろに崩されていく。

「・・す、すみません、もう一度お願いします・・・」

 馬歩を取り直し、慎重に体軸を決めて、今度はやや上半身を前傾させて中尉が押してくるのを待つ。

「それでいいですか?、じゃ、行きますよ・・・」

 今度は、中尉の押す力が増えてくるにつれて、だんだん宏隆が中尉に寄り掛かるようになり、相手に身体を預けることで耐えようとしている。

「それだと・・・こうなりますよ」

 突然、陳中尉が押すのを止めてサッと身を引くと、途端に宏隆は前方に崩れた。

「ああ・・やっぱり、膝を抜いて寄り掛かってもダメですね」

「相手に体重を預けて寄り掛かることなど、実戦で使えるわけがありません。自分の軸で立っていないわけですからね。そんなことをしたら、あっというまに殺(や)られてしまいますし、武術として使える体軸の在処(ありか)も滅茶苦茶になります」

「・・もう一度お願いできますか?」

「解るまで、何度でもやりましょう。
 まずは正しく無極椿の位置で立って・・・腰掛けて、馬歩に変化しますね・・・
 ・・そう、そこまでは、ヒロタカの年齢にしては見事なものです。
 では、もう一度押しますよ・・・」

 陳中尉は、ゆっくりと丁寧に、馬歩に構えた宏隆の手のひらを押してくる。

「馬歩の軸を崩さないように・・・腰掛けていることに放鬆して・・・
 耐えるために足を蹴っても、緩めても、腰や背中を緊張しても駄目です・・・
 もっと自分の中心にある軸に寛いで・・・その軸から外れないことだけに留意して・・」

「あ・・何だか、ずいぶん楽になりました・・・」

「そうです・・・そして、相手の押してくる力を全て地面にアースするようにして・・」

「アース・・・?」

「Earth Electrode・・・電気のアースのことですよ。私たちはこの訓練を、アメリカ英語式に ”グラウンディング(grounding)” と呼んでいます。傍系の太極拳ではルーティング(Rooting=根を張ること)などと表現されることが多いのですが・・」

「アース・・つまり、相手の力を、電気がアースされるように地面に流すのだと・・?」

「その通りです。正しくグラウンディングが出来れば、足腰に不必要な緊張がなくなって、放鬆(ファンソン)することの意義が理解できるようになります。もちろん、初めから放鬆ができれば、言うことはありませんが・・・」

「何だか、射撃の訓練をするより先に、基本功や套路を見て頂いた方が良いような気がしてきました・・・」

「ははは・・・結局は同じことですよ、近道はありませんから。
 太極拳というのは、原理はひとつ、基本もひとつ、戦い方もひとつですからね。何をやっても、ただひとつのことを知るために、それを修得するために訓練が存在するのです」

「陳中尉・・・もう一度、押してみて下さい」

「いいですとも・・」

 宏隆は、陳中尉に言われたことを、細心の注意を払ってやろうとした。
 
「放鬆・・・そうか、本当の意味での放鬆が為されなければ、相手の力とぶつかって、自分が不利な体勢では、まったく力を出せなくなるんだ・・・馬歩に腰掛けている事が、放鬆で成り立つようにしなくては・・・」

 宏隆が頭の中で考えていることが分かるのか、そう思った途端に、

「・・そうです、放鬆こそが架式を確立するカギとなります・・・・」

 まるでテレバシーで話しているように、中尉が応じる。

「はい・・・・」

「そう、それが正しい馬歩です。私はもう、強く押しても押せなくなりましたね」

「・・でも、自分には全然リキミがありません。そんなに強く押されているような気がまったくしません」

「それが正しい架式である証拠です。自分なりに勝手な試みをして、どれほどこれに耐えられたとしても、それは武術として、太極拳として正しくありません」

「何だか、ずっとこのまま立っていたいような気分です・・・」

「ははは・・そうもいきませんから、返すことまでやってみましょう。
 そこから王老師に教わったとおりに、套路や基本功の構造のとおりに、馬歩から、ほんの少し意識を ”動” に変えてごらんなさい・・」

「動に・・・・・」

 宏隆がポツリとそうつぶやいた次の瞬間、押していた陳中尉の身体は、さっきの宏隆と同じように、数メートル離れた机のところまで一気に吹っ飛んで行った。


                                 (つづく)

taka_kasuga at 20:49コメント(10) この記事をクリップ!

2010年05月01日

連載小説「龍の道」 第44回




 第44回 訓 練(3)


 銃は単なる殺戮の道具ではない、という陳中尉の言葉は、宏隆も大いに同感できた。

「それが武器というだけで、平和に反すると言う人もいますよね・・・」 

「そのとおりです。世の中には、軍隊を持たないことが真の平和だというような、とんでもない勘違いをする人も居ます。世界がどう動いているかを知らない、というか・・・
 中国のように、日本の防衛予算がほんの少し増えても ”軍国主義” だと言って散々文句を付けておきながら、ちゃっかり中共軍は毎年二ケタの伸び率を示す軍備で世界最強を目指し、それを "平和発展" などと都合の良いことを言う国もありますし・・」

「要は、やはり使う人、使う目的によるのだと・・・・」

「そういうことです。中国の話をするとキリがないですね、ははは・・・
 さて、ブースへ行って、M92を実際に構えてみましょうか」

「ふう、ドキドキするなぁ・・・・」

「本当ですか?・・大武號でライフルを撃って大活躍した人とは、とても思えませんね」

「いえ、僕はこう見えても、ホントは気が小さいんですよ・・」

「あははは・・・誰も信じないでしょうけどね!」

「いや、本当にそうなんですよ・・!!」

「まあ、少なくとも私は信じませんね・・・きっと、宗少尉もね!」

「いや、本当ですってば・・!!」

「はははは・・・・信じませんよ!」

 そう言って笑いながら、射撃ブースに向かう。
 ブースは、二段ほど階段を下がったところに作られている。

 陳中尉が教官用のテーブルにあるボタンを押すと、「ジリリリ・・・・」とベルが鳴って赤い回転灯が回り、射撃ブースに居た三人はすぐに銃を置き、ヘッドセットとゴーグルを外して素早くこちらに駆け寄り、中尉に向かって直立して姿勢を正した。

「皆に紹介しよう・・・こちらは日本から来た、カトウ・ヒロタカさんだ。
 すでに伝えたように、カトウさんは現在日本に居られる王老師に見出されて、陳氏太極拳の真伝を学ぶ訓練に励んでいる。数日前に台湾に入り、張大人に面接して我々の家族の一員となることを認められ、近いうちに入門式と入会式の席が設けられることになっている。
 君たちも家族として、よく面倒を看てあげるようにしてほしい」

 三人に向かって陳中尉がそう言うと、次々に宏隆に寄ってきて握手を求めてくる。

「カトウさん、私は蘇(そ)と言います、よろしくお願いします」

「初めまして、蘇さん・・どうぞヒロタカと呼んで下さい」

「私は丁(てい)です、この度はおめでとうございます。今後は家族としてよろしくお願いいたします」

「丁さん、初めまして。若輩者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 しかし、どういうわけか、残った一人が腕を組んで、あらぬ方向を見上げたまま、宏隆に挨拶をしようとしない。

「どうした、強(きょう)?・・ヒロタカに挨拶をせんか!」

 強と呼ばれたその男は、陳中尉にそう言われて、渋々歩み寄ってきて、

「ふん!・・俺は強だ。唐代の鳳州人・強氏の末裔で、祖父は安徽省から台湾に来た。
 つまり、生まれも育ちも生粋の漢民族だ。何を血迷って日本人がこんな場違いなところに居るのかは知らんが、まあ、せいぜいシッポを出さんようにするこったな・・・」

 そう言い放って、宏隆が差し出した手に、握手をしようともしない。

「こらっ、強っ・・何という失礼なことを言う!、ヒロタカは張大人や王老師に認められた人なのだぞ。父君は昔から私たちの組織に協力している実業家だ。
 大体、我々の仕事に日本人も台湾人も漢族も無い。私たちと同じく、義のために生きることを誓って家族になった仲間に向かって、何ということを言う!」

「はは・・苦労知らずの金持ちのお坊ちゃまが、道楽で太極拳を習うってコトか・・・
 いくら張大人が認めても、俺は日本人なんぞ絶対に信用しませんね!」

「お前の好みの問題ではない!、張大人に逆らうつもりか?」

「そうじゃありませんよ、ただ、コイツが中共や北朝鮮のスパイじゃないという保証はないだろうと・・・」

「スパイだと?・・貴様、言って良いことと悪いことの区別もつかんのか!」

 あまりの放言に、さすがに陳中尉も怒りそうになったが、横から蘇と名乗った男が、

「強さん・・そんなことを言うものじゃないよ、ダムだって、鉄道だって、上下水道だって、教育だって、いま在るものの殆どは、日本人が誠意で貢献した故のことで、そのお陰で経済発展や民主化まで成功して、現在の台湾があるんじゃないか・・」

 陳中尉との間に入って、仲間をなだめるように、そう言う。

「ふん!、侵略した土地で好きなことをした挙げ句に、南方進出の基盤をつくる目的で経済整備をしたことまで、恩着せがましく威張るのか!!」

「侵略ではない、日本は清国から割譲されて統治していたという事実を知らんのか?
 もし統治をしたのが西欧諸国だったら、今ごろ台湾はどうなっていたか・・・」

「・・へっ!、欧米列強でも、日本帝国主義でも、どっちだって同じこった!
 日本は台湾を滅茶苦茶にしたんだ。コイツの爺さんだって、総督府でちまちま働く小役人だったと言うじゃないか!!」

「失礼だぞ!・・ヒロタカの祖父、加藤隆興(たかおき)閣下は、乃木将軍や児玉大将とも親交のあった総督府の高官で、台湾に対し公私にわたって多大な貢献をした方だ。小役人などではない。
 それに、滅茶苦茶になったのは、日本が敗戦した後で、大陸から蒋介石が率いる国民党が進駐してからのことではないか。初めは台湾人も歓迎したが、やがてすぐに彼らの本性と腐敗の凄まじさに気付き、台湾の誰もが失望したのだ。

 国民党の軍人は質が悪く、強姦、強盗、殺人を平然と犯す者が多数いて、台湾の治安はあっという間に最悪となり、しかも犯人が罰せられないという異常な事態が永く続いた。
 やがて台湾の国家資材まで中国人官僚によって横領され、上海の国際市場で競売に掛けられ、そのせいで台湾の物価が高騰し、インフレで企業倒産が相次いで失業者が巷に溢れた。
 二・二八の台湾大虐殺事件では、国民党軍が台湾市民への無差別射撃や処刑を続けることに対し、ラジオ局を占拠した台湾人が日本の軍艦マーチを流し、 ”台湾人よ、起ち上がれ” と日本語で放送をくり返していたほどだった。

 日本が統治していた頃は、日本人も台湾人も平和のうちに共存し助け合っていた。
 治安は良く、女性でも安心して夜の街を歩けたし、日本兵は礼儀正しく、多くの市民に尊敬されていた。総督府では台湾に居る日本人を厳しく監督していたし、何よりも日本人の精神性が本質的に高いものだったからだ。
 現に、毎年行われる世論調査でも、日本に大きな親しみを感じるという人が常に90%を超えている。台湾で生まれ育っていながら、そのような歴史や事実を知らないのか!」

「ははは・・・中尉はえらく日本贔屓なんですね、何ともお目出たいこった・・・」

「・・何だと!」

「あの・・これはきっと何かの誤解です。
 よく話し合えば、強さんにも、きっと分かってもらえると思いますが・・・」

 自分のことでその場が険悪になってきたのを見兼ねて、宏隆が言葉を夾むと、

「いいか、よく聞けよ、坊主・・これはゴカイじゃなくて、正しい認識だ。
 きちんと証明されない限り、俺は、お前を仲間だとは思わない!
 信用されたかったら、まず実力を見せて、組織のために働いて見せるこったな。
 命懸けの仕事をして見せたなら、その時は、少しは信じてやってもいいぞ・・!!」

 凄味をきかせるように、宏隆を睨みつけて言う・・・

「強よ・・ヒロタカはまだ若いが、その実力は、お前など遙かに及ばないだろう。
 現に、これほど侮辱されてもチリほども動じない、その精神状態も含めて、な・・・」

「日本贔屓の陳中尉は、えらくコイツを買い被っているようですが、俺は見た目や家柄だけで人を信じたりはしません。そのうち、コイツの化けの皮をひん剥いてやりますよ!
 ・・さて、俺はもう今日の訓練は終わりますよ、課題は全部こなしましたからね!」

 そう言い捨てると、強は足音を荒げて出て行ってしまった。

「ヒロタカ・・・部下の強が、たいへん失礼なことを言って申し訳ない。
 台湾の人間には珍しい反日感情ですが・・・強の祖父は、かつて清国からの割譲に反対する抗日武装運動のリーダー格で、その抵抗がだんだんエスカレートするので、日本軍の武力鎮圧にあって殺されたのです。そのせいで彼の父親も大の日本人嫌いで、小さい頃から反日教育をされてきたらしい。成人してから縁あって張大人に世話になることになり、組織に入ったのですが・・・ともかく、改めてよく注意しておくので、今日のところは大目に見てやって下さい」

「いえ、僕は構いませんが・・強さんにとっては日本人が ”悪” なのでしょう。
 僕は、さっき陳中尉が話されていたような日本が台湾を統治した経緯も、その内容もロクに把握していないので、強さんに反論することも出来ませんが、これを機会によく勉強しようと思います。ただ・・・・」

「ただ・・?」

「・・はい、僕は日本人として、自分と同じ血液を持つ祖先が、人間として非道なことをするとは思えない、と言いたかったのです。
 かつて、日本のほとんどの家庭から軍人が出ています。ということは、小さな島国に住む日本人の多くは軍人の祖先を持つわけであって・・他の民族を侵略して、弾圧して、自国の利益とする為にはどんな悪逆無道も辞さないというような・・・”日本鬼子(悪魔)” などと呼ばれるような、そんな非人間的な血液を、現代に生きている私たち日本人が受け継いでいるとは、とても思えないのです」

「・・そのとおりですよ、日本人は、もっと自分の民族を誇りに思うべきです。
 日本人は平和を好む、温和で礼儀正しい、道徳を重んじる民族です。
 ところが戦後、まるで日本人がそうではなかったかのように隣国から喧伝され、あたかも日本こそがアジアを侵略していった極悪人であったという意識を植え付けるような、自虐史観に基づく教育が、何十年も意図的に続けられているのです・・・
 それは、小さな島国に住む黄色人種に、世界を支配するべき白人をあれほどまでに脅かせた軍事力や国力を二度と持たせないための、戦勝国アメリカが意図した戦後処置と、それに乗じた中国や朝鮮など隣国の敵意なのですが、肝心の日本人がそれに乗せられて安易にそれを受け容れてしまうような風潮があって・・・」

「僕はまだ若くて・・・若すぎて、世界のことがよく分かっていません。もっとよく歴史を勉強します。台湾や、他のアジアの人たちとも、よく話し合ってみたいと思います」

「それが一番ですね、インド、ミャンマー、タイ、インドネシア・・アジア各地の人たちの話を聞いてごらんなさい。インドなどでは、戦後何十年経った今でも、日本人兵士を讃える歌が、世代を超えて若者の間で歌い継がれているのですよ。彼らは西欧諸国の植民地支配に対して、日本と一緒に独立を戦ったのです。広島に原爆が落とされ、敗戦となった時には、彼らも日本兵と同じ心情で、共に涙を流したのです・・・
 日本が統治した時代に生きた台湾の人たちの本音の感想も、ぜひ聞いてみて下さい。日本人が教えられてきたものとはまるで反対のことが返ってきて、きっと胸のつかえが取れて、日本人であることに改めて誇りを持てるはずですよ!!」

「陳中尉・・・ありがとうございます。日本人としての誇りはあっても、強さんからあんな風に言われると、つい滅入ってしまいました・・・」

「よく分かりますよ・・・さて、思わぬ時間を食ってしまいました。もう無礼な隊員の話はやめにして、射撃訓練に入りましょうか」

「はい、お願いします!」

「ヒロタカさん、何か困ったことがあったら、いつでも遠慮なく言って下さい!」

「私で出来ることなら、いつでも、何でも、喜んでお手伝いさせて貰いますよ・・」

 残る二人の隊員も宏隆にそう言って、再び自分のブースに戻って行った。



「さて、それでは先ず、ヒロタカに質問です・・・
 これから行う射撃の訓練で、最も重要なことは、何だと思いますか?」

「はい・・・それは、いかに安全に、効率の良い訓練ができるか、という事だと思います」

「うーん、流石ですね・・・大抵の人は如何に正確に弾丸を的に当てるかとか、素早く弾丸を込めることが可能になることである、などと答えるのですが・・」

「王老師やK先生のご指導を受けていなかったら、僕も同じ事を答えていたと思います」

「そんなヒロタカには今さら言うまでもないのでしょうが、一応、銃を扱うためのルールをお教えしておきましょう」

「よろしくお願いします・・」

「まず第一には、全ての銃は、常に銃弾が装填済みのものとして扱うということです。
 弾丸が装填されていないと思って扱うと、思わぬ事故を招くことになります」

「第二には、いつ如何なる場合でも、自分が破壊したくないものに対しては決して銃を向けない、ということです。訓練場の標的や、倒すべき敵、破壊すべきものだけに銃を向ける、という意識が徹底されなくてはなりません」

「第三には、銃を撃つ直前までは、必ず安全装置をオンにしておくことです。
 安全装置を信頼することは仲間を信頼し、自分を信頼することにも繋がります。
 撃つ直前までは安全装置の表示を必ず黒にしておきます。赤のドットが出ている時は危険信号で、いつでも弾丸が発射されてしまうと思わなくてはなりません。
 しかし、安全装置も絶対ではない、ということを覚えておくべきです。安全装置はあくまでも暴発事故防止のために付けられているもので、弾丸がチェンバー(薬室)に込められている限り、常に誤発砲の危険が伴います。長期に保管する際は弾丸をチェンバーから抜き去り、ハンマー(撃鉄)を下ろしておかなくてはなりません」

「第四には、実際に銃を撃つまでは、決してトリガー(引き金)に指を掛けないことです。 
 これによって誤った標的を撃ってしまうことを防止できます」

「・・・銃を扱うための四つのルールは以上です。これらを決して忘れないことです。
 これらについて、何か質問がありますか・・?」

「どの項目も、なるほど・・と頷けるものばかりです。
 すべてが当たり前の事のようで、誰もが忘れがちな、無意識になりがちなことを、きちんと意識させているのだと思います。自分も常に忘れないよう、充分心掛けます」

「よろしい・・・では次に行きましょう。
 この射撃ブースに入る際には、手前の教官のデスクで自分のIDプレートを貰って、胸に付けます。自分が射撃をする銃と弾丸を選び、そのブースが使用中であることを示すランプを点けて、射撃の訓練に入ります。訓練中は必ずゴーグルとヘッドセットを着用します」

「はい・・」

「ブースの使用中はランプを点け、自分のブース以外では銃を撃たないこと。
 ブースのテーブルと横壁が示す空間の範囲以外では、決して銃を構えず、撃たないこと。
 また、その空間からは、前方の標的に向けてのみ、撃つことです。
 ・・これらも、訓練に際しては、必ず守らなくてはならないルールです」

「・・はい、わかりました」

「それじゃ、実際にやってみましょう。まずはIDプレートから・・・」

 教官デスクに行くと、すでに自分の写真が入ったIDプレートが用意されていた。
 それを胸に付け、さっき選んだベレッタのM92を取りに行き、”9X19 Parabellum” と書かれた箱を持って空いているブースへ行く。テーブルに銃と弾丸の箱を置いて傍らのボタンを押し、そのブースが使用中であることを示すランプを点けた。

「できましたね・・・では、次はいよいよ、銃の持ち方と撃ち方です。
 まず、自分で銃を手に取ってごらんなさい」

 宏隆は、注意深く、銃身を前の標的の方に向けたままで、トリガーに指を掛けずに銃を取り上げた。 ”全ての銃は、常に銃弾が装填済みのものとして扱う” という注意を守ったのである。

「そうです、よく理解しましたね。自分で弾丸の箱を持ってくると、つい装弾されていないと錯覚してしまいます。銃は常に弾丸が装填されているものとして扱うことです。
 ・・これが安全装置です。今はセイフティ・レバーが下がっているから、安全装置が働いていますね。また、ハンマー(撃鉄)を起こした状態で、このようにレバーを下に動かすと、安全にハンマーが収納されるデコッキング機能が付いています」

「大武號でライフルを持った時もそう感じたのですが、銃というのは、思ったより重いものですね・・」

「M92の重量は1kg 弱です。そうやって手のひらに乗せている時と、実際に構えた時とでは重さが違って感じられますし、弾丸をフル装填すると1kg を超えます」

「弾丸は、何発装填できるのですか?」

「15発です。この弾丸の弾頭重量は8グラムですから、薬莢を入れて一発約10グラムぐらい、初速は秒速350mぐらいでしょうか・・・ここを押すと、マガジンが出てきます。
 安全装置やマガジン交換はトイガンでも同じだから、分かりますよね・・」

「・・わぁ、本物は、空のマガジンでも、ズッシリ重いんですね!」

「ははは・・・弾丸は、マガジンの中に、このようにジグザグに二列に入っていきます。このスタイルをダブルカーラム・マガジンと言います。ダブルカーラムは弾倉が大きいのでグリップも大きくなってしまい、あまり手の小さい人には向きません。
 マガジンは、こうしてグリップの底から正しく挿し込み、スライドを引いて放すと、初弾が薬室に装填されます」

「あ・・僕の手には、ちょっと大きすぎますか?」

「ヒロタカなら、まあ、ギリギリでしょうか・・実際に撃ってみれば分かることですが、手の大きさにあった銃を選ぶことは、とても大切なことです」

「オートマチック拳銃は、どれもこのような方式なのでしょうか?」

「そうです、現在のオートマチック銃は全部この方式で、この手順に例外はありません。
 弾丸を撃ち尽くすと、弾倉の上端がここにあるスライド・ストップ・レバーを押し上げ、スライドが後退したまま戻らなくなり、射手に弾切れを知らせてくれるわけです。
 映画などでは、撃っているうちに弾丸が切れてカチカチと虚しく引き金を引くようなシーンがよくありますが、あれはウソ・・・実際には引き金が引けなくなります」

「ははは、やっぱりドラマと現実とは、何もかも違うんですね。
 もうひとつの・・・トリガーのすぐ上にある、この小さなレバーは何ですか?」

「これはディスアッセンブル(分解)レバーと言って、ジャミング(弾薬詰まり)や、銃のメインテナンスの際に、銃を分解するための操作レバーです。
 戦場や自宅などで特別な工具なしに銃を分解してメインテナンスすることをフィールドストリップと言いますが、それは後日改めて訓練することにしましょう」

「ふう・・覚えることがいっぱいありますね・・!」

「自分の生命を守るための道具ですからね・・いつでも、どのような場所でも、自分の責任で整備して、正しく機能するようにしておくことは当然のことです」

「・・はい、よく勉強します」

「さて、いよいよ拳銃の撃ち方ですが・・・
 これから私が見本を示しますので、まずは理屈抜きに、よく見て下さい。
 ヒロタカも、ヘッドセットとゴーグルを着用して・・・」

 そう言うと、陳中尉は太極拳の馬歩のように足を開き、両手でベレッタを持って身体の前に突き出し、15〜6メートルほど先にある小さな標的に向けて、ピタリと構えた。 


                                 (つづく)

taka_kasuga at 20:00コメント(6) この記事をクリップ!

2010年04月15日

連載小説「龍の道」 第43回




 第43回 訓 練(2)


 此処にはもう、洗濯物をプレスする蒸気の音も聞こえてこない。
 赤い煉瓦が波紋の模様に綺麗に敷き詰められた中庭の真ん中には、大きな菩提樹の葉が風に揺れて涼しげな木陰を作っている。龍の形をした噴水の傍らには大小の観葉植物の鉢が幾つも配され、木漏れ日の光の中に真っ白なティーテーブルや椅子が置かれて、まるで南国の瀟洒な茶館にでも来たような風情なのだ。
 そんな中庭に佇んでいると、自然に心が和(なご)んでくる。
 ここの女主人・・・もちろん秘密結社の要員に違いない陳明珠という人が、ただ洗濯工場の支配人としての立場を担うだけではなく、心に優美な余裕を持つ人であることが窺えるのである。

 別世界のような美しさに見惚れて中庭を見回していると、後ろで唐突に「ウォン・・!」と、低く犬の啼く声がする。どこに居たのか、優しい目をしたその大きな犬は、のっそりと立って、人懐こそうに宏隆に向かって盛んに尻尾を振っている。
 犬が好きな宏隆は、しゃがんで頭を撫でてやろうとしたが、その途端に大きな体で立ち上がり、前足を肩に乗せて寄り掛かってきたので、危うく転びそうになった。

「ダメよ、阿南!!・・・ご免なさいね、可愛がってくれそうな人には、愛情表現ですぐに飛びつくんですよ。でも、大きいから、大人でもひっくり返りそうになるでしょう?」

「ははは・・・構いませんよ、僕も犬は大好き、友だちですから。阿南というのは、もしかして仏陀の弟子の、あの ”Ananda(アーナンダ)” のことですか?」

「・・あら、よくお分かりですね」

「この庭には、まるでシンボルのように立派な菩提樹が立っているので、多分そうではないかと思ったのです」

「・・その通りです。この菩提樹は元々この土地にあったもので、それを活かして中庭を配置しました。この犬が来た時、此処をずいぶん気に入って離れようとしなかったので、十大弟子の一人の名前を頂いて名付けたのです。阿南は釈尊の入滅まで傍らに二十五年間仕え、百二十歳まで生きたといわれますから、この犬にもそんなふうに長生きをして欲しいという願いも込めて・・」

「Ananda は確か、サンスクリットでは ”歓喜” という意味でしたね。
 菩提樹の下で Enlightenment(大悟)に歓喜する・・・とても良い名前ですね!」

「まあ・・お若いのに、色々なことをよくご存知ですのね。
 もっとも、この犬は毎日歓喜しっ放しかもしれませんわ! ほほほ・・・・」

「はははは・・・・」

「さあ、それでは、訓練場にご案内しましょうね」

「訓練場は、まだ遠いのですか・・?」

「・・いえ、此処がそうです」

 靴をトントンと地面に打ちつけながら、ちょっと悪戯っぽく笑って、陳さんがそう言う。
 こうして切れ長の目を大きく見開くと、陳さんは誰かに似ているような気がする。

「ここが?・・・でも、何処に・・・・・」

 キョロキョロと辺りを見回しても、其処には菩提樹が美しく繁る中庭しかない。

「どうぞ、こちらへ・・・・」

 中庭を夾んで、建物の反対側に入ると、陳さんはすぐ傍の「総機室」と書かれた部屋の鍵を開けた。室内はそれほど広くないが、壁一面に大小の配電盤や電話線のパネル、太いケーブルなどがズラリとまとめられていている。奧には流し台や自動販売機があり、三、四人で囲めるような円卓も置かれている。このビルの設備や機械の保守点検をする人が休憩できるような部屋なのだ、と思えた。

 陳さんは「総機室」の扉を閉めると、内側から鍵を掛けた。
 こんな部屋に入って一体どうするのか、と不審に思ったが・・・宏隆はすぐにハッとして、神戸の南京町で初めて地下通路への秘密の入口が開いた時のことを思い出した。

「そうか・・きっと、この部屋の何処かに入口があるんだ!」

 そして、思った通りに・・・陳さんが一番奥の大きな配電盤のパネルの鍵を開けると、それがパネルごとギィーッとドアのように開かれ、小さな踊り場の向こうに地下へ向かう頑丈そうな石段が見えた。

「上の方の鍵を開けるとカバーが開いて配電盤のパネルが見えますが、これはダミー。
 下の鍵を開けると地下へ下りる扉が開きます。本物の配電盤は隣のパネルです。
 白月園のビルの住人は全員が結社に関わる人間ですが、万一のための用心ですわ・・・」

「・・すごい!、神戸の南京町もそうでしたが、よく考えるものですね」

「ほほほ・・・こんな子供騙しのようなものでも誰にも気付かれないのですから、不思議なものですね」

 扉に内側から鍵を掛けながら、笑ってそう言う。

「さあ、参りましょう・・・この地下は、元はこの町に古くからある大きな食料倉庫だったのです。一階を洗濯工場にしてから地下を改造して訓練場にしたのですが、私はあまり地下は好きではないんですのよ」

 ・・・説明をしながら、陳さんが先に立って地下に降りていく。
 戸外(そと)の暑さとは打って変わって、階段にはひんやりと冷気が漂う。
 南京町でも、圓山大飯店の脱出路もそうだったが、やはり人は、秘匿すべきことは地下の奧深くに収(しま)っておきたくなるものらしい。

 冷んやりと固い石段は、かなり下の方まで続いている。普通の1階から地下1階へ下りていくような距離ではない。その倍近くも長く階段を下りているような気がして、薄暗さや冷気と相俟って、下れば下るほど否応なく緊張が増してくる。

 階段の終わりに、大きな鋲の着いた頑丈そうな鉄の扉があり、陳さんが別の大きな鍵を取り出して開けると、1メートルほど先にもうひとつ、覗き窓の付けられた扉がある。
 初めの扉を閉めると、細い覗き窓がパタンと開いて、鋭い目がジロリとこちらを見た。
 インターホンも何もないので、おそらくこの地下では、誰かが「総機室」に入るドアを開けた時点から、すでにそれを認識できているのだと思える。

「ヒロタカさんをお連れしましたわ・・・」

 陳さんがその目に向かってそう言うと、ようやくガチャリと内側から扉が開かれた。

「・・やあ、よく来られましたね! 武漢班の大安訓練場にようこそ!」

 扉を開けたのは、陳中尉であった。

「あ、陳中尉!・・・遅くなりましたが、やっと到着しました」

 そして、ここまで宏隆を案内してきた支配人の陳さんにも、「ご苦労さまでした・・」と、労(ねぎら)いの言葉をかける。

「上手く尾行を撒(ま)けたようですね・・」

「・・あ、もうご存知なんですね?」

「ええ、階上(うえ)のことが手に取るように分からなければ、安心して地下に居られませんからね。・・・ところで、自己紹介はもう済みましたか?」

「いいえ、ヒロタカさんにご紹介したのは、中庭の阿南だけよ!」

「ははは・・・では、私が紹介しましょうか、これは私の姉で、陳明珠といいます。
 張大人から、このビルの管理と ”白月園” の経営を任されています。クリーニング屋は何かと情報を取るのに都合が良い仕事なので・・」

「あ・・姉・・・・?!」

 陳中尉の姉だとは全く思いもよらなかったので、宏隆はとても驚いた。

「そう、私の姉ですが、何か・・・?」
 
「・・い、いや、あの、そうですか・・・ちっとも気付かずに、失礼しました。
 そういえば名前が陳さんで、明珠さんで・・あ、それで中尉と同じ ”明” という字が?」

「そのとおり・・私の名は陳承明、姉は明珠といいます」

「明珠さん、兄弟子のお姉様だとは気付かず、大変失礼しました」

「おほほほ・・・滅多に姉弟(きょうだい)には見られないので、全然失礼じゃありませんことよ」

「あの・・・陳中尉、失礼ついでにお訊きしたいのですが、お名前の ”明” の字の意味は、やはり ”反清復明” という意味があるのでしょうか?」

「ははは・・ずいぶん古いことを知っていますね。・・でも、そうではありません。
 私たちの父は若い頃に密教寺院に出家していたので、還俗してからも不動明王の ”明” の字を取って子供たちに付けたのです。明朝の復興とは、たぶん何の関係もありませんよ」

「・・ふ、不動明王っ!!、陳中尉も不動明王にご縁がおありなのですか・・?!」

「はい、父が密教僧になったほどですから、私たち家族には浅からぬご縁があります。
 中国では南北朝時代から密教が存在していましたが、唐の時代に王室の帰依を得て、中国の密教は最盛期に到りました。最澄や空海が日本に密教経典を持ち帰ったのも、確かその時代でしたね」

「はぁ・・・・」

「・・不動明王が、どうかしましたか?」

「いや、僕も小さい頃から不動明王にご縁があって・・・
 世の中の、人と人との繋がりというのは、本当に不思議だなあと思いまして・・」

「そうですか・・・私たち師兄弟にも、大きなご縁があるようですね。
 しかし、ヒロタカは連日のハプニングのためか、ちょっと疲れているようですが・・・
 今日からいよいよ訓練に入ろうと思ったのですが・・・大丈夫ですか?」

「・・だ、大丈夫です、ちょっとアタマが混乱してますが・・勿論、大丈夫です!!」

「さてと・・私はあまり地下に居たくないから、階上(うえ)で仕事をしていますわ」

「姉(ねえ)さん、ありがとう・・・それじゃ、また後で」

「明珠さん、ありがとうございました」

「では、また後ほど・・・」

「さあ、訓練場を案内しましょう。先ずはこちらから行きましょうか・・・」


 陳中尉がすぐ先の防音扉の分厚いドアを開けると、耳を劈(つんざ)く音と、火薬の臭いがツンと鼻につく。ここが射撃練習場であることは、宏隆にもすぐに理解できた。

 かなり広いスペースが、射撃訓練場としてこの地下に取られている。
 手前のところには一人ずつ仕切られたゲートが五つほどあり、三人ほどが銃を手にしている。誰もが皆、耳にヘッドセット、目にはゴーグルを装着して、15メートルほど先の小さな標的を狙って弾丸を撃ち込んでいる。

 横にある壁の向こう側には、木箱が雑然と積み上げられた倉庫のような設定のスペースがあって、教官らしき人が後ろに生徒を従え、立ち止まっては撃ち、動いては地面に伏せたりしながら、指導しているのが見える。

「どうですか・・・面白そうでしょう?」

「こんな所を見るのは初めてです。ハワイで実弾射撃を体験したことがありますが、もちろん観光客相手の射撃場で・・まったく雰囲気が違います」

「あれはまあ、夜市の ”神槍手(射的)” のようなものですからね」

「・・でも、よくこんな台北の街の真ん中に射撃場が造れましたね」

「まあ、CIAも東京のど真ん中に射撃場がありますし、勿論、桜田門(警視庁)の地下にも、CIRO(サイロ)の地下にもあるわけですからね・・・」

「サイロ・・・?」

「Cabinet Intelligence and Research Office・・・内閣情報調査室のことですよ」

「あ、なるほど・・・・」

「ここは外部には一切音が漏れない設計ですし、一階では洗濯工場の騒音がカモフラージュになって、二重の防音の役割になっています。ここで訓練すれば、銃の扱い方が格段に上手くなりますよ」

「自分も、ここで銃の訓練をしても良いのですか?」

「もちろんです!、張大人にも許可を頂いたじゃないですか」

「はい・・でも、やはり夜市とは違って、本物を目にするとドキドキしてきます」

「私も最初はそうでしたよ。けれど、最初の一発を撃った後からは、組織の一員としての自覚を持って厳しく訓練するようになりました。何しろ、ただの一発でも、人間を殺傷できるものですからね」

「はい、大丈夫です。きちんと気を引き締めて、訓練に臨みます。
 ・・射撃以外の、他の訓練もここで行われるのですか?」

「あとは格闘訓練用の部屋と、バーベルや鉄棒のあるトレーニング室、会議室、ロッカーとシャワールームなどがあります。それじゃ、それらの部屋にもご案内しましょう・・・」

「あの・・もう少し此処で見ていたいのですが、構わないでしょうか?」

「ははは・・・やっぱりお互い男の子、射撃には心惹かれますよね!
 良いですとも、何なら銃の訓練から始めましょうか?」

「はい、ぜひお願いします!!」

「では、まず銃を選ぶことから始めましょう・・・こちらへどうぞ」

 射撃のブースに目を奪われて気がつかなかったが、後ろの壁には、様々な種類の拳銃やライフルが所狭しと掛けられている。

「手入れの仕方は、後からじっくりお教えするとして、先ずは拳銃の扱い方からです。
 ・・ハワイの観光射撃では、どんな銃を使ったのですか?」

「S&Wモデル10のリボルバーに、後はコルト・ガバメントと、ワルサーP38です。
 ワルサーはジャミングが激しいので、撃つのをやめました」

「ははは・・・まさに観光用がズラリと並びましたね。・・でも、それで基本的な扱い方は分かると思います。この中に自分の好きな拳銃はありますか?」

 宏隆は銃器の図鑑を持っていたので、銃には詳しかった。
 ざっと見ただけでも、ここにはベレッタ、コルト、ワルサー、スミス&ウエッソンなど、錚々たる銃器がズラリと並んでいるのが分かる。
 壁の前の、ガラスのフタがある展示テーブルには「TOKAREV」「NORINCO」と書かれたネームプレートが付いた、見たこともない二丁の拳銃が並んでいる。

「ああ・・それは使用できません。ロシアのトカレフと、中国のノリンコです。
 ウチのメンバーが敵の武器を認識するために、見本に置いてあるのですよ」

「あ、ロシアと中国の・・・」

「トカレフは、アメリカのコルト・ガバメントのメカニズムを基本に真似て、パーツを極力削減して生産性を高め、工具なしでも分解できるように造られた拳銃です。安全装置は着いていませんが、極寒の土地ロシアで装置が凍結して発射不能になることを怖れてのことかも知れません。
 ノリンコとは ”中国北方工業公司”、中国が得意とするコピー製品の武器製造工場のことで、そこで造られた製品の総称でもあります。この拳銃や、アメリカのM16、ロシアのAK47や、SKS45といったライフルもそこでコピー製造されて、南米、中東、アフリカなど、政情不安定な国のテロ組織に密輸されています。ロシアの戦車やバズーカ砲のコピーなども、同じ所で造られているのですよ」

「戦車まで・・・・」

「まあ、銃はまず、自分の直感にピンと来たものを選ぶと良いですね。
 それを使ってみてから、じっくりといろいろ試してみることです・・・」

 陳中尉に言われたとおりに、壁から様々な銃をいくつも手に取って、実際に握ってみる。 
 重さや、握ったときの大きさ、手にしっくり来る感覚などを念入りに試してみた。

「これを使ってみようと思います・・・」

「ほう・・流石に目が高いですね。それはイタリア製、ピエトロ・ベレッタのM92・・・つい最近発表された最新型の銃です。米軍やNATOでも採用する兆しがあるということで、将来は名銃と呼ばれるに違いないと言われている、優れた銃です」

「よく分かりませんが、何となくピッタリ感じられるので・・・・」

「M92は 9x19(Nine-One-Nine)パラベラムで、装弾数15発、ダブルアクションです」

「 9x19 パラベラム・・・?」

「口径が9ミリ、薬莢の長さが19ミリの、反動が少なく、フラットな弾道で飛ぶ、高性能の弾丸のことです。
 パラベラム(Parabellum)とは、開発者であるゲオルグ・ルガーがドイツ武器弾薬工業のモットーの ”汝平和を欲さば、戦いに備えよ” というラテン語の格言から取ったもので、 ”戦いに備えよ(Para Bellum = prepare for the war)” という意味です」

「わぁ・・・陳中尉、さすがに詳しいですね!!」

「ははは・・・武器に興味があるので、由緒来歴をいろいろと調べています。
 銃は、決して単なる殺戮の道具ではなく、要は使う人、使う目的によるわけです。
 これはどのような武器でも、どのような武術でも、同じですよね・・・」



                                (つづく)

taka_kasuga at 21:22コメント(6) この記事をクリップ!

2010年04月01日

連載小説「龍の道」 第42回




 第42回 訓 練(1)


 穏やかな夏の空を眺めながら、宏隆は独り、台北の街を歩いていた。
 雨上がりの澄みきった蒼空に、入道雲がむくむくと聳えている。
 台湾には毎年必ず二つや三つは台風がやってきて、時にはひどい被害をもたらすこともある。商店街では ”台風休日” などという呼称さえあって、故宮博物院なども必ず休館になるというのだが、今年はそんな嵐がやってくる気配がまったく感じられない。

 昨日という日は、本当にいろいろなことがあった。
 ホテルから出るのに、敵の見張りの目を掠めて地下の秘密の脱出路を使ったこと。
 その出口に迎えに来ていた宗少尉に海軍基地に連れて行かれ、実力を散々見せつけられた挙げ句、自分も戦う羽目になり、窮余の一策で居合の軸を使って何とか戦えたこと。その後、歓迎会に行った士林夜市で黒社会の人間に絡まれ、すっかり自分も戦うつもりで居たが、宗少尉の計らいで安全に逃がされたこと・・・・

 それらの出来事が、こうして外を歩いていても頭の中に去来して離れない。
 自分はまだ、呆れるほど未熟だと思う。これでは宗少尉から子供扱いをされても仕方がないと、素直にそう思えてしまう。
 弱冠17歳の高校生である吾が身に経験が少ないのは年齢的にも当たり前なのかも知れないが、自分の子供っぽさは、まだ人間としての経験が余りにも浅く尠(すくな)いことに起因しているのだと思う。
 宗少尉などは、文化大革命の嵐の中で学者である父親が迫害に遭い、被害が自分たちに及ぶ前に、遺された家族で辛うじて台湾へ逃げ延びてきたという。
 幼い頃からそんな大変な思いをしてきた宗少尉が、若さに似合わぬしっかりした考え方を持ち、誰にも負けない強さを求めて武術を学び、軍人の道を選んで少尉にまでなって、果ては秘密結社を目指したということも、そんな生い立ちを聞けば頷けるが、自分にはそのような経験が皆無であり、その分、どこか根本的な強さに欠けているような気がしてならないのだ。

 ”ケンカの若大将” などと呼ばれて良い気になっていた自分は、結局は「平和は水の如く、安全は空気の如く・・」などと、いささか軽侮の念を以て語られる ”戦後” の日本に生まれ、山の手の上流家庭に育って、何の不安もない生活を送りながら好き勝手なことをしてきただけの青二才に過ぎない。
 台湾へ渡って来る時に遭遇した ”大武號” での一件を思い出しても、初めは何も行動できずに、ただ部屋でじっとしているしかなかったし、張大人に面接を受けた際に聞いた話も、自分が生まれた国の歴史なのに、まったく知らないことばかりだった。
 昨夜にしたって、もしあのまま宗少尉たちと一緒に行動していたら、ひどいお荷物になるだけだったに違いない。自分が居るために形勢は不利になっていたかも知れないし、陳中尉を呼んできて欲しいと言われても、それが自分を安全な所に逃がす配慮であるなどとは、これっぽっちも気付かなかったのである。

 ・・そう考えると、自分の貧弱さが、青臭さが、身に染みて情けなかった。
 何事によらず、もっともっと、いろいろな経験を積まねばならない。人生経験を山ほど積んで、武術の高みへと到るための技藝を磨き、人間として大きく成長していくことを明確に意図して行かなくてはならない・・・・沁み沁みと、そう思えるのだ。


 そんな宏隆は、さっきホテルを出る時にも、もうあの秘密の地下通路を使わなかった。ロビーを通過する時に、明らかに自分を見張っていると思(おぼ)しき敵の構成員が居たが、構わず、玄関から大手を振ってそのまま街に出てきたのである。

「何でもいい、来るなら来い・・!」と思えた。
 自己の運命を切り開いていくのは自分自身でしか無く、人生に起こることは、その人に起こるべくして起こっていることなのだ。それを避けるわけにも、逃げるわけにもいかない。きちんと正面から向かい合ってそれを経験し、全身全霊で十全に応え、それを学ぶ以外に道は無いのだ。
 そして、やけっぱちではなく素直にそう思えるようになると、不思議にこれまでには無い勇気や力が湧いてくるのが感じられた。


 ・・・街に出てきたのは、秘密結社の訓練場に行くためである。
 昨夜、歓迎会の後に陳中尉から、明日は独りで「玄洋會」の訓練場に来るようにと言われ、住所は、台北師範学校から復興南路を夾んで西側の通りを入った瑞安街というところにあると教えられた。一昨日、陳中尉と共に訪問した張大人のマンションからも、そう遠くない所だという。
 住所を聞いたときに、忘れないようメモを取ろうとしたが、行き先や伝達事項などは、どのような場合でも書き残さず、すべて諳記するように言われた。そして、くれぐれも誰にも気付かれないよう、タクシーを使うなら必ず少し離れたところで降り、尾行されていない事を確認してからその場所に来るように、と念を押された。 

 つまり、訓練場に向かう時から、もう「訓練」は始まっているのだ・・・
 もちろん、そんな所は一般の人に気付かれない、隠蔽された場所に決まっているのだろうが、人目を忍んで独りでそこに来るように言われると、人一倍度胸のある宏隆でも、やはり緊張せざるを得ない。


 宏隆は、新生南路一段の、森林公園のワンブロック手前までタクシーで来て、仁愛路と交差する交差点の手前で降り、そこからゆっくりと、散歩するように歩いた。
 街の大通りは、どこも片側が三、四車線あって、神戸や東京のように広い。
 仁愛路に出ると、椰子や柳の樹々が遠くどこまでも涼しげに植えられていて、真夏の朝をぶらぶら歩くのにはとても都合が良い。台湾の夏は酷(ひど)く暑いと聞いていたが、昨夜も今日も、その台湾にしては不思議なほど爽やかな風が吹いている。

 しばらく歩いていると、後ろの少し離れた所で黒塗りのクルマがキィーッとブレーキの音を立てて停まり、胸板の厚い、体格の良い男が一人、降りてくる。

「・・あれは、確か、ホテルのロビーに居た男だ」

 観光客のように周りを見回しながら何気なく其の方を見れば、遠目にもはっきりその男だと分かる。陳中尉たち秘密結社の人間と同じように、何らかの訓練を積んできた人間に共通する、独特の雰囲気が感じられるのである。

 男は、降りたクルマの目の前にある店で煙草を買っている。

「わざとらしく煙草なんか買って・・・やっぱりホテルから尾行してきたのか」

 ・・試しに、大通りを横切って南側に渡ってみる。
『臺北市大安區幸安國民小學』と、金文字で大書された立派な門が目の前にある。門の向こうに見える校舎は、窓の形や建物の造りがモダンなことで知られる神戸の摩耶小学校とよく似ていて驚かされるが、今はとてもそんなことを思い巡らしている余裕は無い。

 幸安小学校の横の小路に入り、二つ目の通りを東へ入ってみる。
 五十メートルほど歩いて、それとなく振り返ってみると、やはりまだその男が後ろから従(つ)いて来ている。まるで営業マンか何かのように、手帳のようなものを取出して、それを眺めては建物と比べながら、さも訪問先を探しているように見える。

 この辺りはもう、張大人が住んでいるマンションに近い・・・
 宏隆は偶然ここに来たのではなかった。敵は張大人の居所など疾っくの昔に承知のはずであるから、もし尾行された時の用心に、まずはそこを訪ねて行くように見せかけようと思ったのである。

 ちょっと辺りを見回しながら張大人の家を探すような振りをして、宏隆はあちこちのマンションの前で立ち停まっては、住所表示を確認するような仕草をした。
 尾(つ)けてきた男は、相変わらず付かず離れずで従いて来るが、今度はやや遠くで、立ち止まってインターホンを押すような恰好をしている。

 次の角のところに、建設中のマンションがある・・・・
 宏隆は一計を案じて、その角をわざとゆっくり北へ曲がると、ちょうど相手から見えなくなる位置になった途端、素早く立入禁止のロープを飛び越え、建物の中に飛び込んだ。

 足音を立てないように気をつけながら、急いで階段を3階まで駆け上がる・・・
 工事に使われている道具やらバケツやらがそこら中にあるが、幸い工事の人は居ない。
 足元に散らかっている物を蹴らないようにしながら、粉塵避けの薄いネットが張られた、基礎のコンクリートを打った壁の間から、顔を見せないようにそっと下を覗いてみる・・・
 尾行してきた男は、明らかに狼狽えた様子で、辺りを彼方此方キョロキョロとしながら、どこかに消えてしまった宏隆を捜している。
 やがて男は「・・チイッ!」と舌打ちをすると、その路をさらに先の、元来た仁愛路の並木通りに向かって慌てて駆け出して行った。

「ふぅ・・・やっぱり尾行(つけ)られていたんだな。けれど、うまく反対方向に行ってくれたから、ちょうど都合が良いや・・・さて、今のうちだ!」

 宏隆はそのまま工事中のマンションの3階を突っ切って反対側に出て、そこからビルの外壁に取付けられた足場を伝ってスルスルと身軽に庭に降り、フェンスを飛び越えてさっき歩いていた道に戻ると、樹がこんもりと植えられた小さなビルとビルの境目の、水路にコンクリートのフタがされた狭い通路を、素早く南に向かって走った。

 信義路の大通りに出ると、目の前に大安の森林公園が広がっている。
 宏隆は、素早く羽織っていた黒いジャンパーををひっくり返してグレーにし、ホテルの売店で買ったデニムの帽子をポケットから取り出して被った。こういう時は裏も着られるリバーシブルの上着はとても役に立つ。こんなことなら裏側を迷彩柄にでもしておけばよかった、と思える。
 
 まだ油断は出来ない・・と思った。
 追っ手が来ないか、周りをよく見回しながら森林公園に入る。ここまで来ても誰も追ってこないところを見ると、どうやらさっきの男はうまく撒(ま)けたようだ。

 大安の森林公園はとても広い。ワンブロック全部が公園になっていて、地図で見ると明治神宮と代々木公園を合わせたくらいの大きさがあった。宏隆はまず南に向かって整備された小道を歩き、しばらく行くと森の中を横切るようにして、時々後ろを気にしながら、樹々の間を公園の東のはずれに向かって歩いた。
 
 憶えるように言われた住所は大安地区の「瑞安街208巷98弄」だった。煉瓦造りの五階建てのマンションがあって、その一階に『白月園』という店があるから、先ずはそこへ行くように言われたのだ。
 「瑞安街208」と書かれた地域表示のプレートを頼りにその通りを歩いて行くと、言われたとおり、少し古ぼけて貫禄のついた煉瓦造りのマンションが幾つか建ち並んでいる。どのマンションの入口にも鉄製の洒落たフェンスと門が造られてあって、やはりこの辺りは高級住宅地なのだろうと思える。
 少し向こうの軒先に白い看板が見えるので近づいて行くと、「白月園」と書かれてあり、その下には「洗衣店」とある。さらに店の前に立つと「白月園乾洗名店」と書かれていて、ようやくそこがクリーニング店だということが分かった。
 ”白月園” などという洒落た名前を聞いた時は、きっと茶館か何かなのだろうと思ったのだが、まさか洗濯屋だとは思いもよらなかった。

 店はマンションの一階を全部占めていて、かなり大きい。周りに幾つものエアコンの室外機や換気扇が付けられているところを見ると、此処が一般個人用のクリーニング店ではなく、ホテルなどから大きく仕事の入る洗濯工場だということが窺える。
 子犬がのんびり昼寝をしている、木陰になったアプローチの向こうに、受付のカウンターが見えている。しかし、なぜクリーニング店に行くように言われたのか、どうも、宏隆には見当が付かない・・・
 仕方なく、店の中に入って行ってカウンターの前に立つ。
 奥の方には大型の洗濯機や乾燥機がいくつも並び、その横では四、五人の従業員が天井から伸びたコードの先に付けられた何台ものアイロンを使って、シーツやらシャツやら、洗い上がった洗濯物にせっせとプレスをしていて、洗剤や洗濯糊(のり)の独特の臭いで蒸れている。
 奧に居た店員に、大声で「Hello!」「對不起!(すみません!)」と声を掛けてみると、ようやく宏隆に気付いてこちらに来て何か言ったが、店の中は奧の洗濯機がゴウゴウと動いている音や、大きなプレッサーを押し付ける音や排気音がうるさくて、何を言っているのかちっとも分からない。
 もっとも、早口の中国語で喋られても、宏隆にはチンプンカンプンであった。


「えーっと、ボクは宏隆・・ヒ、ロ、タ、カ、と言う者ですが・・・」

「ハァ?・・・フロタカ?」

「あー・・・ウー、我叫・・我、叫、ヒロタカ・・・(私はヒロタカといいます)」

「アー、ウー、フロタカ・・?」

「ちがう、ちがう・・ヒロタカ、です! 
 あのね、我姓、カトウ、名字叫、ヒロタカ・・・ね、ワカル?」

「啊・・要水洗還是干洗?(あー、普通の洗濯ですか、ドライクリーニングですか?)」

「え・・何だって?・・どうも分かってもらえないみたいだ。
 弱ったなぁ・・まさか秘密結社の訓練場はどこですか、とも訊けないし・・・」

「・・什麼?、請你慢点而説(・・え?、もっとゆっくり話してくれますか)」

「はぁ・・? うーん、こりゃ困ったなぁ、中国語をやっておくんだった・・・」

「・・Hi, I'm Chen Ming Zhu(陳明珠), the manager of this factory.
 You must be Mr.Kato・・・Hirotaka?」

 そうしているうちに奧から品の良さそうな年配の女性が出て来て、流暢な英語でそう言うので、ありがたい、やっと言葉が通じる・・と思いながら、

「・・Yes, ma'am. I'm Hirotaka, It was ordered that I came to here.」

「はい、貴方のことは伺っていますわ。
 Welcome to Bright Moon Garden Laundry!(白月園へようこそ!)」

「Nice to meet you.」

「ここへ来るまでの間に、誰かに尾行されませんでしたか・・?」

「ホテルのロビーに居た男がひとり、僕を尾(つ)けてきました」

「・・で、その男は?」

「途中、信義路を渡る前に、はぐらかせたと思います。
 それからは、だれかに尾けられているような気配がありませんでしたが・・・」

「では、念のために確認させますから、ここで少し待っていて下さい」

 支配人だという陳さんが奧に声を掛けると、若い男が二人、サッと外に出て行き、ほどなく帰ってきて、彼女に何かを告げている。

「幸い、誰も従いて来てはいないようです。どうやら上手くやり過ごせたようですね」

「ふぅ、よかった・・・・」

「それでは、Come this way, please.(こちらへどうぞ)
 皆さん、あなたが来るのをお待ちかねですよ」

 陳さんはにっこりと微笑んで、宏隆を促して歩き始めた。

「謝謝・・・ところで、白月園というのはとても美しい名前ですね。白月とは、確か日本語では明るく輝く月のこと、美しい明月という意味だったと思いますが、中国語でも同じでしょうか」

 ギシギシと床の鳴る狭い通路を、支配人に導かれながら宏隆が訊ねる。

「・・そう、白月とは明月のことですね。でも、それは漢語にはありません。
 中国では明月は明月と言います。これは、私の父が総督府の日本人から教えてもらった言葉で、父がとても美しいと気に入っていたので、この店の名前にしました。
 白月にはもうひとつ意味があって、古代インドの暦法(こよみ)で月が満ち始めてから満月に至るまでの十五日間を指します。反対に満月から新月までは黒月と呼ぶそうですね。
 これは陰陽の法則ですし、だんだん月が満ちていくように、この店が発展していくという気持ちを込めて白月という名前を付けたのです。勿論、洗濯物が白くなるという白の意味も含めてですけれど・・・
 日本には色々な国からの文化が入っていますが、それを自国の文化として昇華していく能力があって、とても素晴らしいと思います」

「ああ・・・僕はそんなことを何ひとつ知りませんでした。
 私の祖父も、総督府に勤めていたと聞いていますが・・」

「あなたの御祖父様のことはよく存じています。台湾の人々に対して誠意と正義を貫いて総督府の仕事をされた加藤隆興(たかおき)氏のことは、当時の台湾上層部の人間なら、知らない人は居ません」

「・・え、そうなのですか?! 何だか、自分の祖父のことなのに僕の知らないことばかりで、見ず知らずの人の方が良く知っていることが余りにも多いです」

「ほほほ・・・そんなものかもしれませんね」

「この洗濯工場の中に訓練場があるのですか?・・ホテルの地下通路に行く時も、ルームメイド用の倉庫のような所を通って行ったので、何だか似ています・・・」

「・・まあ、それは面白いですね。
 それでは、訓練場は見てからのお楽しみ、ということで・・・・」

 案内されるままに、むせかえるような臭いのする店内を奧へ奧へと進んでいくと、やがて小さな中庭のような所に出た。


                                (つづく)

taka_kasuga at 22:26コメント(8) この記事をクリップ!

2010年03月15日

連載小説「龍の道」 第41回




 第41回 武 漢 (wu-han)(13)



 人気(ひとけ)の無い暗い路地裏を、奧へ、また奧へと進んでいく。
 宏隆たちの前には黒社会の二人が先導するかたちで歩き、後ろには少し離れて、更に三人が囲むようにして付いてくる・・・絶対に逃がさないぞ、とでも言わんばかりの構えなのだ。

「どこへ行こうというんでしょうね・・」

 宏隆が、肩を寄せるようにして、そっと小声で宗少尉に訊ねる。

「・・きっと、暗くて誰も来ない所ね。イザとなったら合図をするから、ヒロタカはさっきの夜市の通りまで全速力で走るのよ、いい・・?」

「えーっ、逃げるなんて、そんなぁ!・・僕だって戦いますよ!!」

「シィーッ・・・大きな声を出さないの!
 逃げるんじゃなくて、陳中尉を見つけて、知らせてほしいのよ・・・」

「陳中尉とは、射的に夢中になっている間にはぐれたままですね。
 いったい何処に居られるのだか・・・」

「さっき、奴らが腰に拳銃を持っているのが見えたわ。
 今日のところはこっちが不利だから、陳中尉たちを呼ばないと・・・」

「・・陳中尉が来れば、何とかなるんですか?」

「多分・・・ね」

「・・多分、って?」

「黒社会は決して甘く見てはいけない、ってコトよ。ボスのところに行くのだから、そこらのチンピラを相手にするようなワケにはいかないわ」

「・・よし、それじゃ、合図して下さい。そしたら、いま来た道をフルスピードで戻って、中尉を探してきますよ」

「OK、気をつけて行くのよ・・・・」


 路地を二つ三つ越えてさらに五分ほど歩くと、どうやら倉庫街らしい、ひっそりとした袋小路の広場に出た。あれほど賑わっていた夜市の喧騒も、真昼のような明るさも、もうここまでは届いてこない。
 薄暗いので周りがよく見えないが、近づくにつれ、向こうに三つほど人影が見える。奥の方に小さな街灯がひとつあるが、その灯りを背にして立っているので、彼らの顔が見えない。

「ボス、連れてきました・・」

 先頭の男が、その人影に向かって慇懃に言う。

「お嬢さん、先ほどはウチの者が失礼をしたそうだね・・・・」

 低い、嗄(しゃが)れた声で、真ん中に立っている背の低い男が言った。
 
「本当に失礼な話ね。オマケに、こんな所まで連行してきて・・・
 昔の黒社会はカタギの人間にも仁義を重んじたらしいけど、今じゃすっかり低級ビジネスマンに成り下がったようね!」

「ははは、口の悪いお嬢さんだ。だが、そう言うアンタたちも、決して堅気の人間には見えないがね・・・さっきは遊んでいるのを遠くから見ただけだったが、こうして間近で見れば、その強気や自信からも、坊や以外はどうやら軍人さんのようだが・・・」

「あら、薄暗がりでも流石に親分はよくお分かりね・・いかにも海軍の兵士よ。 
 それが分かるんだったら、怪我をしないうちにワビを入れて、おとなしく引っ込んだらどう?」

「ところが、そうもいかないんだよ、お嬢さん・・・昔とは違って、今では軍人や政治家も黒社会と大きな繋がりを持っているんだ。それに、元々台湾の黒社会は、蒋介石と一緒に大陸からやって来て、国民党政府と共に大きくなってきたのだからね・・・」

「・・・その輝かしい歴史があるから、どうだと言いたいの?」

「海軍のハネっ返り娘が一人ぐらい居なくなっても、どうにでも揉み消せる・・・
 結局、我々には従うしかない、ということさ」

「お生憎(あいにく)サマね、こっちは国を守るために身体を張っているの。
 そんな寝言ばかり言うそこらのチンピラヤクザに、ハイそうですかと従うようなヤワな了見は、持ち合わせていないのよ!!」

「では、仕方がない・・・力ずくでもそれを分かって貰うしかないな。
 お嬢さんは、じっくり可愛がってから香港へ売って、たっぷり稼いでもらうことにしよう・・・」

 頭目が怖い顔をして、ドスのきいた強い調子でそう言うと、子分たちがサッと動きを見せる。それに対して宗少尉たちも身構えるが、

「おっと、下手な行動は起こさないほうがいい・・・彼らの拳銃が見えないかね? いくら軍人でも、普段は丸腰・・・夜市を歩く時にまで、ライフルは担がないだろう?はははは・・・」

 宏隆も、ようやく暗闇に目が慣れてきたが、見ればいつの間にか前方で二人、後ろではひとりの男が腰の前で拳銃を構えている・・・

「ふぅ・・そのとおりね、これじゃぁ、どうにも身動きが取れないわ・・・」

 あきらめたような声で、宗少尉が言う。

「ほう、意外と物分かりの良いお嬢さんじゃないか・・・」

「・・けれど、安心するのはまだ早いわよ・・・・
 軍隊にあって、黒社会に無いモノもあるって、ご存知?・・・・」

 ・・・そう言って、不敵に微笑みながら上着の内ポケットに手を入れた途端、「ピィーン」という金属音が、小さく響いた。

「・・な、何をする気だっ・・・!?」

「ワーン・・トゥー・・・ヒロタカ!、伏っ!、MOOOOVE!!」

 ゴロゴロゴロッ・・・と、宗少尉の手から黒い筒のようなものが地面に投げられ、それが凄味をきかせていたボスの足元に転がっていくと、

「・・・ボンッ!!」

 閃光と共に、鋭い爆発音が起こり、瞬く間に白煙がもうもうと辺りに立ち籠めた。

「・・うぁ、うわぁっ・・・!!」

「ううっ・・・さ、催涙ガスだっ!!」

 袋小路を背にしているというのに、爆発した瞬間、思わず後ろへ下がってしまったので、今さら逃げる場所もない。

「・・・ボ、ボスっ・・!!」

「うっ・・ゴ、ゴホ、ゴホ、ゴホン・・・・ゲ、ゲェーッ、ゲェッ、・・・」

「・・ち、ちくしょう、目が・・目が見えねぇ・・・!!」


 宏隆は合図と共に一目散に駆け出している・・・・
 伏曹長は、後ろに居た三人の男があたふたとしている隙に、拳銃を構えていた男をあっという間に投げて地面に叩き付け、アゴに止めの蹴りを入れて銃を奪った。

 同時に宗少尉も、間髪を入れずもうひとりの男をただ一発の蹴りで倒し、残った一人はとても敵わぬと思ったか、わざわざ立ち籠める催涙ガスの中へワラワラと逃げて行く。

 宗少尉と伏曹長は、素早く催涙弾の煙が届かない後方に移動し、相手の次の出方に備えて、道の左右に分かれて物陰にピタリと身を潜めた・・・・

 戦場での戦闘を想定した訓練を積んできた者と、そうでない者の違いは歴然としている。よく訓練された者同士は、その呼吸や間(ま)がお互いに通じ合い、何も言わなくとも素早い判断と動きが出来るのだ。
 凄味をきかせながら悪事の中に身を置く黒社会の人間たちとは、不測の事態が起こった時の処理能力がまったく違っていた。

「ゴ、ゴホ、ゴホ・・・ゲッ、ゲェッッッ・・・く、くそぉ、何てことしやがる!」

「・・ええい!、構わねぇから、あの辺りに向かって撃て!・・撃っちまえ!!」

 あいにく、風も無い・・・・経験したこともない催涙弾から濛濛(もうもう)と放出され続ける煙は彼らをパニックに陥れ、袋小路に淀んだまま、何処にも流れていこうとはしない。

 煙の無いところへ抜け出てくれば良さそうなものだが、部下が拳銃を奪われているので、この煙から外へ出て行けば、待ってましたと狙い撃ちされるに違いない。
 ・・・そう思うと、毒煙の立ち篭める袋小路から、容易には出て来られないのだ。
 ここは威嚇射撃をして、宗少尉たちを追い払うしか術(すべ)がなかった。

「バンッ! バン、バン、バンッ・・・!!」

 盲(めくら)撃ちで何発か撃ってくるが、ひどい咳と涙にまみれて、とてもまともには撃てない。下手をすると同士撃ちの危険さえあった。
 たとえ催涙弾を喰らっていなくとも、通常、彼らが拳銃で狙う標的は至近距離が多く、また軍隊や警察のように大っぴらに射撃訓練ができる環境も無いので、十メートル以上の距離があれば命中率もかなり低い。
 宗少尉たちもそれらを計算して身を潜めているので、命中するはずもなかった。

「・・もっと撃て!、撃って相手が怯んでいるスキに、突っ込んで行って仕留めてこい!」

 ボスに言われて、煙の中から拳銃を持った二人が何発か撃ちながら、ダダダダッッと足音を荒げて走ってくるが・・・ちょうど立ち籠めめた煙が切れるあたりで、

「ぅわぁっ・・・!!」

「ズッデーン・・・!」

 二人とも、突然足を掬われたように何かに躓(つまづ)き、地面に顔を突っ込むように激しく転がった。髪の毛のような細いワイヤーが路地一杯に張られていて、それに躓いたのである。ひとりの拳銃は、転んだ拍子に手から離れ、遠くに滑って行った。

 こんな状況で、そこにそんなものが張られていると、誰が用心するだろうか・・
 催涙ガスで混乱している隙に、伏曹長がケースから巻尺のようにワイヤーを取り出し、その一端を宗少尉に渡して左右に分かれ、建物の壁ぎわに固定して、膝下ほどの高さに張ったのである。

 毒煙の中からは一刻も早く出たい、というのが人情であろう。
 焦ってそこから出て来た人間が、薄暗がりに低く張られた細いワイヤーに気がつくはずもなかった。

 躓いてひどく転げるのを待っていたかのように、彼らからあっという間に拳銃を取り上げ、殴って気絶させる・・・・宗少尉も、伏曹長も、こんなことによほど慣れているのか、顔色一つ変えず、淡々とそれをこなす。

 そして、催涙ガスの威力は、一般人が想像するよりも遙かに強力であった。
 宗少尉が用いたものは軍隊用ではなく、秘密結社製の小型軽量のものだ。
 小型とは言っても、信管のピンを抜けば五秒後に着火起動し、発煙を吸い込むと30分ほどの間は激しく咳こんで吐き気がし、涙が止まらなくなるのは軍隊用と同じである。
 煙が立ち篭め、催涙効果が発揮される範囲はおよそ半径15メートル、催涙の効果に伴い、視界はほとんどゼロに等しくなる。
 このような無風の袋小路では、かなりの威力を発揮する武器となった。

 軍隊に籍を置いていても、秘密結社の要員である彼らは、平服で町に出る際にも自己防衛の用意を決して怠らなかった。
 そして、その爆発音と煙は、陳中尉たちに居場所を知らせる信号にもなっていた。


「少尉・・・今のうちに、この場から離脱しますか?」

 伏曹長が、道の反対側に居る宗少尉に声を掛ける。

「いや、ケジメをつけないと、ヒロタカが滞在中に報復されてもいけない・・・」

「では、徹底的に叩きましょう」

「陳中尉への連絡は?・・・」

「ここへ来る前にビーパー(Beeper=ポケットベル)で送っておきました。
 すでに爆発音と煙で場所を確定したはずです。到着まで3分足らずでしょう・・」

 先ほど、黒社会の男たちに囲まれた時に、伏曹長が、「こっちも話しがしたいから、行ってやりましょう」と言いながら何気なくポケットに手を突っ込んだのは、陳中尉に向けて緊急信号を発するためであったのだ。

 まだ一般社会にはポケベルも携帯電話も無かった時代であるが、特殊な職業の人間は当然このような通信手段を持っていた。
 因みに、世界に先駆けてセルラー式移動電話を実用化したのは日本であり、すでに'70年の大阪万博には電気通信館にワイヤレスホンが展示され、日本中どこへでも無料で通信する体験ができた。'79年には東京23区で自動車電話が開始され、順次大阪や首都圏に拡大した。
 米国が慌てて実用化したのは、その翌年のことである。
  

「中尉を呼んできてほしい、なんて仰ってましたが・・・・
 そう言って、ヒロタカくんを安全なところに逃がしたんですね?」

「何と言っても、王老師の大事な跡取り息子だからね・・・」

「彼に何かあったら、我々がエライことになりますよ、ホントに・・・」

「よし、現状を確認・・・敵4名と手槍(拳銃)3丁を捕獲、残存は頭目を入れて4名、他の武器の所持は不明、此方から銃を使いたくないので、投降を呼びかける・・」

「了解っ、確認しました!」

 宗少尉と伏曹長が互いに確認を取り合う。

「・・さあ、出てきなさいっ! 此方からはそっちの影が見えるのよ。
 狙い撃ちにされたくなかったら、武器を捨てて、手を挙げて出てきなさい・・!!」

 声を掛けるとすぐに、その場から足音を立てずに移動する・・・
 声がする方を頼りに、敵が拳銃を撃ってくることを避けるためだ。

 しかし、思わぬ催涙ガスの反撃に遭って、もう相手は反撃どころではなかった。

「・・ゲ、ゲホッ、ゲホッ・・・ち、ちくしょう・・・・
 おいっ!・・・し、仕方がない、銃を向こうに放ってやれ!、
 声がする方に向かって、全員、手を挙げて出ていくんだ・・!」

 ボスにそう言われて、ぞろぞろと四人が頭上に手を挙げて出てくる。
 ボスも、手下の三人の連中も、催涙弾の煙にひどくやられていて、激しく咳き込んで涙が止まらない。

 宗少尉は投げられた2丁の拳銃を素早く拾い、1丁を腰の後ろにはさみ、1丁を手にして構えた。

「・・・手を高く挙げて、壁に着けて!、足を大きく開いてそこに並べ!」

 伏曹長が彼らを小突きながら、次々に彼らを壁ぎわに並ばせる。

「お前たち、ただの海軍の兵隊じゃないな・・・・?」

「いいから、黙って歩け・・・!!」

 暗闇の向こうから、足早に駆けてくる足音が聞こえてくる・・・・

「宗さん・・!!」

「ヒロタカ・・・!」

「陳中尉を見つけました・・というよりも、もう此処に向かっていました。
 伏さんからは、すでに連絡があったと・・・」

「ご苦労さま・・お陰で、もう片付いたわよ・・・」

 陳中尉たち三人が足早に寄ってきて、壁に並んだ黒社会の者たちを眺めて、

「やれやれ、派手にやってくれたなぁ・・・」

「陳中尉・・・こんなことになって、申し訳ありません!」

 宗少尉が敬礼をして、そう言う。

「いいさ・・・降りかかる火の粉は払わなくてはならない・・・
 日本の格言にあるとおりだが、ヒロタカの身に危険がなくて何よりだった」

「その通りです・・大切な人間を、危険に巻き込んでしまいました」

「さて・・ボスは誰だ?!」

「私がそうだ・・・・」

「私は、台湾海軍中尉、陳承明という者だ。文句があればいつでも相手になる。 
 これに懲りたなら、以後このようなことは謹むことだな・・・」

「貴様ら、いったい何者だ・・・ただの休暇中の兵士じゃあるまい?」

「玄洋會・・・・・」

「・・な、何だと! あの張大人の玄洋會のことか・・?!」

「いかにも・・・・」

「・・こ、これは・・・大変なことをした・・・・
 おいっ、みんな、頭を下げろ!・・ええい、座れ!、座って頭を下げるんだ!!」

 ボスが自ら土下座して頭を付けたので、子分たちは驚いて慌てて地面にひれ伏した。
 張大人が率いる「玄洋會」の名は、台湾中に鳴り響いているらしい。

「・・まあ、そんなことをしてもらわなくても結構だ。手を上げてくれ」

「いや・・知らぬ事とは言え、大変なことをしてしまった・・・
 私は、萬国幇の五堂のうち、士林夜市を取り仕切っている ”火堂” の堂主、許国栄という者だ」

「顔も、名前も、承知している・・・」

「萬国幇の幇主、我々の大兄(ボス)は、かつて張大人に大変お世話になっている。
 幇主の恩人の配下に手を出してしまったとあっては、私の責任が厳しく問われることになるだろう・・・」

「・・いや、報告をするつもりはない。
 今夜のことは、お互いに無かったこととして、さっぱり忘れてもらいたい」

「・・・それで良いのか?」

「いいさ・・・そちらも、つい夜市に浮かれて、相手を見誤ったということだろう」

「ありがたい・・・借りが出来たな、陳さん・・」


 遠くの方から、パトカーのサイレンが聞こえてくる・・・・

「・・さあ、そろそろ此処から離れなくては。蒋介石総統の秘密官邸も近いから、不審な爆発音と、立ちのぼる白い煙を見て、間もなく警察がご到着だ・・・」

「そのとおりだ、そちらに面倒をかけない為にも、早々に引き揚げることにしよう」

「宗少尉、拳銃を返してやれ。伏曹長が取り上げた銃も・・・」

「ここで渡しても良いのですか・・?」

「ああ、大丈夫だよ」

「ありがとう・・・今度はあんたたちを守るために、コレを使わせてもらうよ。
 お嬢さん、失礼をしたね・・」

「こちらこそ、ひどい目に遭わせてしまったわね。
 早くシャワーを浴びて、病院で目と喉の手当てをすると良いわ・・」

「ははは、そうすることにしよう・・・」

 ”火堂” のボスは、そう意って笑いながら、ふと傍らに居た宏隆の顔を見て立ち止まったが、サイレンの音がだんだん近づいてくるので、配下に誘われて再び歩き始めた。

「それでは・・・・」

「では・・・」

 陳中尉たちも、それを見送ると、

「さて、我々も立ち去ることにしようか、警察に会うと面倒だからな。
 全員バラバラに散ってから、士林の慈誠宮で合流する・・・・
 合流して晩メシを食べないと、腹が減って仕方がない・・!!」

「了解!・・・・あははははは・・・・・・」

「・・あ、ヒロタカは、私と共に行動してもらいたい。
 何しろ、王老師と張大人から預かっている、とても大事な身体だからね」

「はい、了解しました!」

「ははは・・・もうすっかり、我々の一員みたいだね。
 ・・さあ、急いで・・・明日からは、いよいよ訓練に入ります」

「・・・訓練!?、陳中尉に教えて頂けるのですか?」

「あははは・・・そうですよ。
 さあ、歩きながら話すことにしましょう・・・・・」


                                (つづく)

taka_kasuga at 22:04コメント(12) この記事をクリップ!
Categories
livedoor Readerに登録
RSS
livedoor Blog(ブログ)