*第31回 〜 第40回

2009年12月08日

連載小説「龍の道」 第35回




 第35回 武 漢 (wu-han)(7)


 先に動いたのは、宗少尉だ。
 間合いが思うように取れないことへの不安や苛立ちをそれごと打ち壊すように、しなやかな肢体を活かした鋭い蹴りを立て続けに放ち、相手が避けてもそのまま距離を詰めて、打撃で接近戦に持ち込もうとする・・・

 その蹴り技の攻撃は、息も吐(つ)かせぬほど素早い。普通であれば、そんな攻撃を浴びれば足を居着かせ、身を萎縮させて、ただそれを懸命に防ぐことに専念せねばならないところだろう。
 しかし相手は、宗少尉が動きを起こすか起こさないかの時に、すれ違うようにスルリ、スルリと身体を翻して、その強烈な技が炸裂するはずの処にはすでに身体が無い。
 何度となく、宗少尉はそのような攻撃を仕掛けているのだが、ちょうど川の中の魚を手で掴もうとしても、いとも簡単に逃げられてしまうように、その相手の動きはことごとく少尉の攻撃を無効にし、或る瞬間には少尉の攻撃が開始される前から躱す動きが始まっているようにも見える。

 ・・・宗少尉の戦闘技法は、ちょっと空手に似ている。
 足や手を長く使い、目標まで最短距離のラインを、最も速いスピードで、一直線に技を展開していくのだ。
 そのハッキリとした気持ちの良い戦い方は、見ていてとても分かり易いが、この武漢班ナンバー・ワンの男が見せる動きは、それとは全く反対に、一体それがどのような闘争術であるのか、何とも説明し難いほど不思議なものに思える。
 何しろ、宗少尉がどれほど果敢に攻撃を仕掛けていっても、水中で魚が向きを変えるような動きでヒラヒラとそれを躱し、現にこれまでに幾度かは、いつの間にか宗少尉の背中側に回り込んでいるほどなのである。

 およそ戦闘の最中に、相手に背中を取られることほど恐ろしいことはない。
 試合でも、それは確実に敗北に繋がるのは必至であるし、実際の戦場に於いては即ち死を意味することになる。
 そして、逆に言えば、闘いの最中に相手の背中を取る事ほど難しいことはない。
 相手の後ろに回ることが出来れば、もう勝負の十中八九は決まったようなものなので、誰もそう簡単に背中を取らせてはくれない。誰もが必死に、そうされないように努めなければならないのは、どのような戦闘にあっても至極当然のことなのである。

 しかし、この相手は、いとも簡単にそれをやってしまうのだ。
 そして、その高度な動きを見せながらも、何故か未だに反撃には転じていない。
 宗少尉の出方を見ているのか、それとも何か他に目的があるのかは判らないが、その渓谷を流れる水のような動きは、宗少尉がそれに抗えずに流され、どうしても大小の渦に巻き込まれて翻弄されてしまうような、独特のチカラを見せつけている。

 この男の学んだ拳法がどのようなものであるのか、無論、宏隆には知る由もないが、それは、これまで日本の武道しか知らなかった彼にとっては非常に新鮮で、興味が尽きない。
 宏隆は、その不思議な動きを何とか必死に見極めようとしているのだが、それがあまりにも自然で、流れるような捉えどころのない動きなので、リングの外から見ているだけでは、何故そうできるのか、どうしてそんな事が可能なのか、いや、そもそも武術のメカニズムとして何をしているのかが、一向に分からなかった。

「うーむ・・・・・・」

 仕方なく、リングを睨んで腕を組み、その不可解な動きに、顔を顰(しか)めながら呻っていると、

「・・・・面白いでしょう?」

 傍らから、陳中尉が微笑みながら声を掛けてきた。

「はい、不思議な戦い方です。何故あのような動きや捌き方が、戦いの最中に可能になるのか・・ 宗さんは、さっきから何度も後ろを取られていますが・・・」

「・・そう、戦闘でバックを取られたら、もう、あらかたは駄目ですけどね!」

「そ、そんな! それじゃ、相手に倒されてしまいます・・!」

「ははは・・・次は自分が宗少尉と闘う番だというのに、その人が負けるのを心配しているのですか?」

 ・・・そう言われて、初めて宏隆は自分が宗少尉を心配していることを知り、何やら照れ臭くなって、慌ててそれを否定した。

「・・あ、いや・・・そういうわけではないのですが・・・」

「あれは Pa Kua Chang という武術です」

「パークワ・・・?」

「・・そう、北京語で Ba Gua Zhang、日本語で言うと、ハッケショウでしょうか。
 八という字に、掛かると書いて・・・日本でも “当たるも八卦、当たらぬも八卦” などと言うでしょう?・・易占(えきせん)の、筮竹(ぜいちく)で卦を立てて吉凶を占う、あの八卦ですよ」

 手のひらに、その文字を書きながら説明をしてくれる。
 
「八卦は、もとは儒教の教典として知られる五経のひとつの “易経(イーチン)” という陰陽の原理を説いた書物から来ていますが・・」

「・・あ、その八卦ですか、暦(こよみ)にも八卦方位というのがありますね。
 うーん・・ハッケショウ、というのですか、あの拳法は・・・」

「武術という意味では拳法ですが、太極拳のように “拳” という文字を使いません。
 拳の代わりに “掌” と書いて、一般的な拳術ではないことを強調しているのです」

「拳(こぶし)を用いない特殊な武術、と言うことでしょうか?」

「・・いや、拳も使うのですが、少林拳のように打拳を多用せず、掌法に多くの工夫があります。そして、あの黄くんを見ての通り、水が流れるような、直線かと思えばすぐに旋転変化して、いつの間にか相手が手も足も出ない状況にさせてしまう、そんな特徴のある戦法から、他の拳術と区別をして “掌” と呼んだのかもしれません・・・」

「少林拳というのは、日本の少林寺拳法の基にもなったという、嵩山少林寺の僧侶が修行する拳法のことですね」

「そうです。あの宗少尉の戦闘法も、少林拳を基本としているのですよ」

「あれが少林拳ですか・・・初めて見ました・・・」

「少林拳というのはひとつの拳術ではなく、少林寺の僧が学ぶ数多くの武術の総称なのです。少林寺には、大紅拳、小紅拳、老紅拳、羅漢拳、梅花拳、七星拳、通劈拳、連環拳・・などと、挙げていったら限(き)りがないほど多くの拳種があります。
 何しろ、天下の功夫は皆少林より出づ、などと言われるほどですからね」

「天下の功夫、みな少林より・・・うわぁ、すごい話ですね! 
 でも、そんなに沢山の拳種を、少林寺の僧は全部マスターするわけですか?」

「いや、ひと通りを学んだら、得意とする拳種を磨いていくらしいですが・・・
 それより、少林拳には今でも秘密の伝承を続ける、すごい絶技の把式(はしき)があるそうです」

「把式・・・?」

「把式というのは武術のカタチのことで、拳種そのものや、技法、武芸者のことなどを指します。練功修行をする場所のことも把式場と呼んだりします。
 少林拳最高の秘密の把式は “心意把(しんいは)” と呼ばれていて、起式把、翻身把、騰梛把、亮翅把など、全部で十二種類の把式がある、ということです」

「心意把・・・・名前だけ聞いても、何だか凄そうですね!!
 それは、どんな拳法なのでしょう?」

「それ以外のことは私にもほとんど分かりません。何しろ秘密裡に伝承されるものですからね・・・少林心意把の元になっているものは心意拳という回族の拳術ですが、実は私たちが学んでいる陳氏太極拳も、この心意把との繋がりが大いにあります」

「えっ!、そうなんですか・・?」

「・・・そう、陳氏太極拳は心意拳と大きな関係を持っています。
 たとえば、套路の第一勢、金剛搗碓のフォルムは、心意把の把式のひとつと非常によく似ている、ということを王老師から伺ったことがあります・・・」

「金剛搗碓が・・・少林寺に?!
 では、宗さんも少林拳で、その心意把を学んだのでしょうか?」

「いや、少尉は陳氏太極拳を学んでいませんし、少林心意把は極めて限られた人にしか伝えられないので、まず、知らないはずですが・・・・あっ、危ないっ!!」

「・・ああっ!」

「ズダァーーーン・・・!!」

 リングの周りに群がっている兵士たちに、大きなどよめきが起こる。

 いったい、どうなったのか・・・・
 それまでと同じように相手の様子を伺いながら鋭い蹴り技を繰り出していた宗少尉が、突如、大きく宙に浮いて逆さまにされ、受身も取れぬまま、頭から強くマットに叩き付けられていた。辛うじて頭を手で護りはしたが、そのまま落下したので少なからずダメージがある。相手に止めを刺させぬよう、すぐに起き上がっては来たが、少し足元がおぼつかない。
 ・・しかし、宗少尉だから何とかそれで済んだものの、普通ならまず頭部を床に強打して悶絶せざるを得ない、恐ろしい投げ技である。

「・・すごい! 何もしていないのに急に宗さんが宙に舞ったように見えました」

「今のは、八卦掌の “倒銀瓶” という技です・・・銀の瓶子(へいし=徳利)を倒す、という意味ですが・・・あれを喰らうと、見事に頭から落とされます」

「徳利を倒す・・・? ああ、なるほど、確かにトックリを倒した時には、あんな風にいきなりガタンと倒れたり、下手をすると宙に舞ったりしますね・・・
 でも、宗さんが蹴ったのは見えましたが、相手が蹴りをどのように受けたのかがハッキリ分かりませんでした」

「少尉の中段への前蹴りは、とても鋭くて早いものでしたが・・・黃くんの動きはそれを流水のように外に躱(かわ)し、少尉とすれ違って自分から背中を向けるような恰好になりました。
 それによって、宗少尉の意識の中では、蹴った方の足に何かの技が来る心配が無くなったかのように思えたのです。
 ところが、まるですれ違ったように思えた黄くんが、前に出した右足を軸に、そのまま足を床から離さず、右回りに身体を旋転して、そのまま宗少尉の足を下から掬(すく)うように持ち上げながら歩を進めたので、ちょうど少尉の蹴り足が伸びきったタイミングだったこともあって、あのように派手に投げられてしまったのです」

 そんな動きをしていたのか・・・・
 説明を受けて、宏隆はその戦い方にますます興味を覚えた。
 これまで自分がケンカ三昧で闘ってきたやり方とは全く違っている。

 宗少尉は、見事に投げられたことでやや焦っているのか、今度は打拳の技法を多く交えて相手に迫っていく・・・・

 少林拳が基本になっているという、その激しい攻撃は、見ていてとても美しい。
 今どきのカラテのように、フットワークはボクシング、蹴りはムエタイ、歩法の訓練は中国拳法、呼吸法はヨガで、西洋式のウエイト・トレーニングに励む・・といった、強ければ何でも良かろうと言わんばかりの武道とは違って、長い年月を掛けて研究され続けてきた、筋の通った学習体系を持つ、伝統武術の緻密な律動が感じられる。

「イヤァーッ! ハァッッ! ハッ、ハッ、ハァーッッ!!」

 比較的遠くの間合いから、大きく蹴りを出しながら踏み込み、間髪を入れず相手に対して横向きの馬歩で縦拳を突き出す・・・相手が避けた次の瞬間に空中に翻り、着地と同時に両腕を大きくグルグルと振り回すような打ち方で迫り、さらに身を翻して馬歩で拳を打つ・・


「・・・まるで中華武術の見本市のようですね、少林拳も、八卦掌も、凄いとしか言いようがありません! こんな戦い方を初めて見ました!!
 宗さんの攻め方は凄いですね、まるで宙を舞う風車(ふうしゃ)のような・・・」

「あれは、少林拳の馬歩挿捶に、翻身劈拳、八字連環拳・・などといった技法です。
 相当に訓練を積んでいないと、戦闘の中であのようには動けないでしょうね。
 しかし、この相手には通用しそうもない・・・・」

「・・え? そ、そんな!・・・なぜ通用しないのですか?」

「宗少尉の攻撃が、単調で直線的だからです・・・」

「・・でも、あんなに身を翻したり、腕を回転させたり、見事な円の動きを・・・」

「円・・・? それは、自分が自分の中心の周りを回っているだけで、結局、直線的に動いていることに変わりないのですよ」

「では、もっと円を描くような動きにしなければいけないと・・・?」

「そうではありません。どれほど円を描くように動いても、自分が直線のままなので、どうしようもないのです」

「自分が直線・・・? では、どうすれば良いのですか?」
 
「あははは・・・・まあ、太極拳を学ぶことでしょうねぇ・・・
 それも、源流である、陳氏太極拳の小架を・・・」

「・・そ、そんなぁ!! たった今、リングで苦戦しているんですから、それをどうにかしてあげないと・・・」

「これは、稽古なのです・・・
 そして、ここは軍隊と言えども “教場” 、文字どおり、教えを受ける場なのです。
 教えを受ける場というのは、勝敗を決するために設けられた場ではない・・・・
 自分自身の至らないところと向かい合って、時には惨めな目に遭って、自分の未熟さや傲慢さ、慢心を思い知って、その都度それを修正し、改めていくための場なのです。
 その時々に、ただ相手に勝つための、己の到らぬ技量や自我に満足するための、そんなことを確認するための場ではない・・・・
 そうでなくては、拳藝の高みに向かう道など、何処にも存在しないのです」

「・・・・・・・」

「宗少尉は、あのような目に遭うことで、新たなことを学んでいるのですよ。
 己の技量と、これまでの武術に対する考え方と、人間に対する思いと・・・・それら自分が学んできたことの内容を見つめ直す、貴重な機会にしているのです。
 そして、それが出来る人だからこそ、少尉はあれほどまで技量を養えてきた・・・さっきの相手の寝技にも、起死回生のポイントを冷静に探すことが出来たのです」


                                (つづく)


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2009年11月28日

連載小説「龍の道」 第34回




 第34回 武 漢 (wu-han)(6)


 背丈は宏隆くらいだが、その男のガッチリとした肢体は、誰が見ても相当に鍛え上げていることが分かる・・・

 そして、その立ち方は、どこか陳中尉とも似ている、と思える。
 いや、初めて陳中尉と基隆の港で出会ったときに感じた、あの王老師にも似た、優れた武術家だけが持つ、独特のエネルギーがこの男にもある・・とさえ思えてくる。

 武術家の立ち姿は、それだけで、その人の力量を表している。
 宏隆は、K先生という、単に武術だけでなく、日本文化の研究や歌道やに於いても優れた師に就いて居合いや柔術を学んできたので、何かに秀でた人がどのような姿で立っているかに、いつも大いに関心があった。王老師と出会ったときにも、自分よりも体格の小さなその人が、まるで高く聳(そび)える霊峰のように思えたものである。

 リングで宗少尉と向かい合ったその男の立ち姿は、まるで何処からか吊り下がって、何処にも偏っていないような、上下に綺麗に弦が張られているような、調和の取れた姿に見える。
 これは、かなり本格的な武術の訓練を積んで来た人であるに違いなかった。


「オォ・・そう、貴方が武漢の “ベスト” だったわね?、えーっと・・
 The Best “Product” of the Year Award(年間最優秀“製品”賞)だったかしら?!」

 リングの中を歩き回りながら、宗少尉が気軽に口にするジョークに、そこで見物している大勢の隊員たちが皆、ドッと笑う・・・宗少尉は、こんな時も魅力的だ。
 
「Yes, sir・・・・」

 ・・・リングに上がったその男は、表情も変えずに静かにそう答えた。
 上官から受けた言葉には、勿論、どんな事にもきちんと応答しなくてはならない。
 しかし、その男はそう答えながらも、すでに宗少尉を上官ではなく、闘いの相手として見ているのか、たとえその瞬間に、少尉から不意の攻撃を受けても対応できるようなエネルギーが感じられる。

「・・あ、さっきのキミも、Best Actor Oscar(主演男優賞)モノねぇ!!
 ん?・・それとも、Best Adapted Screenplay Oscar(最優秀脚色賞)かしら?」

「ハーッハッハッハッハ・・・・・!!」

 今度は、リングの周りから大爆笑が起こった。
 さっき後ろから裸絞めにチョークされた相手も、飛び上がるようにして皆に向かって誇らしげに両手を高く挙げて見せ、爆笑と共に大きな拍手が起こる。

 しかし、いったい、こんな余裕がどこから出てくるのか・・・
 つい先ほどまで、武漢班のナンバー・ツーに見事マウント・ポジションを決められ、首を絞められたばかりだというのに、宗少尉は絶対的にそれよりも強い、ナンバー・ワンの相手を前に、怯むどころか、ひどい冗談さえ言ってのけながら、皆と一緒に笑って楽しんでいるのだ。

「・・・宗さんは、よほど自信があるのでしょうね」

 宗少尉のそんな態度を見て、宏隆が傍らの陳中尉に声を掛ける。

「いや、もちろん自信もあるのでしょうが、本当は気を落ち着かせているんですよ。
 こうしている間に呼吸を整えたり、疲労を回復させることもできるし・・・」

「あ、なるほど・・・・」

「それに、闘いに集中している相手の “気” を乱すことにもなります。
 軍人は戦場に行くために存在するのだから、学ぶべきは “戦略” や “戦術” なのです。
 戦法など、単にそれだけを幾ら工夫しても、それほど戦いの役には立たない・・・」

「スポーツ・カラテの、試合のようなわけには行かないのでしょうね。
 定められたルールで・・・観衆が見守る試合場で・・審判が居て・・・・?」

「そう、試合の為の練習と、実際の戦場に赴くための訓練とは、全く異なるものです。
 たとえ見た目の訓練方法が似ていても、試合の為に行ってきた訓練は、戦場では全く何の役にも立ちません。よくあるフェイントやコンビネーションの技法なども、ほとんど役に立たないと言って良いでしょう。
 私たち兵士の間でも、スポーツ試合のファイターは戦場では簡単に殺されてしまう、などという話がよく出ます。それは私たちが常々、ルールに慣れ、ルールの中で勝利を工夫してしまうことの怖ろしさを厳しく戒めているからです」

「・・では、軍隊の格闘訓練には、ルールは無いのですか?」

「いや、ルールはありますが、それはあくまでも “戦場で闘える訓練” のためのルールなのです」

「戦場で闘える・・訓練のためのルール・・・?」

「そう、試合のための訓練は、当然、試合と同じルールで行われることになりますが、吾々の格闘訓練では、元々、ルールの無い戦いを想定した内容で行われるのです」

「それは、何でもアリで思い切り殴り合う、といった激しい内容なのですか?」

「いや、そうではなく、何をされても、相手がどう出ても、それに対応できるものを養うための訓練を行うのです。
 どこをどんなに強く殴っても良い、顔面もアリ、金的もアリ、といった乱暴な訓練をするのではありません。そんなことをしていたら、訓練だけで兵隊がみんなカタワになってしまいますからね。軍隊には “ルールの無い戦場” に赴くための、きちんとした訓練体系があるのですよ」

「うーん・・・一時、僕が通っていたカラテの道場では、稽古は基本と組手しかありませんでした。基本の突きや蹴りをひと通りやって、最後はひたすら組手、それも、誰もがだんだんムキになって、強く打つ、強く蹴るで、結局は相手に如何にダメージを与えられるか、というような稽古になっていたと思います」

「ああ、それは一番危険な訓練です。戦場では全く役に立たないという意味でね。
 戦場で何が役に立つのか、その為に何を磨かなくてはならないのかは、実際に戦場を経験してみないと分からない。吾々の学習体系は、戦場での経験を基にして造られているのです」

「陳中尉が指導されているものは、とても高度な訓練のようですね。
 お話を伺っているだけで、とても興味が湧いてきます」

「ヒロタカも、試合用の訓練との違いが、だんだん分かってきますよ。
 もうすぐ、それを実際に体験することになるのですし・・・」

「・・えっ! 僕もその訓練を受けられるのですか?」

「そう! 吾々の家族になるのだから、もちろんそれを学ばなくてはなりません。
 伝統的な中国武術の、陳氏太極拳の、本物の戦闘方法を身に付けるためにね」

「うわぁ、とても楽しみです! ・・で、それは、いつから始めるのですか?」

「はははは・・・よかったら、今日から始めてもいいですよ。
 私はヒロタカに、色々なことを山ほど指導するよう、命令を受けていますから」

「命令・・・?」

「そう、王老師や、張大人からのご命令です。
 ヒロタカが台湾に居る間に学ばなくてはならないことは、山ほどあるのです」

「・・何だか、想像するだけで、身体が震えてきます!」

「あははは・・大いに楽しみにしていて下さい・・・
 さて、この練習試合は、さっきよりも、もっと面白くなりますよ!
 何しろ相手は、武漢班でも、ナンバー・ワンの男ですからね。
 果たして宗少尉も、初めに言っていたようなウォーミング・アップで済むかどうか・・・」


 それまで騒がしかったリングの方が、凪いだ海のように静かになった。
 宗少尉の冗談も終わって、お互いに沈黙したまま相手と向かい合って立ち、陳中尉からの、試合開始の命令を待っているのだ。

「・・さあ! お互いに、用意はいいか・・・?」

 陳中尉のよく通る声が、ホールに響きわたった。

 宗少尉の相手に選ばれた三名の最後の男は、確か “黄(こう)” と呼ばれていた。
 さっき少尉が「武漢班のベスト」と言ったその男は、相変わらずスラリと静かに立って、不気味な感じさえする。

 宗少尉にも、もう先ほどまでの二人に対するような余裕は見られない・・・
 やはり、陳中尉が言ったようにウォーミング・アップどころではないのかもしれなかった。
 この時間を、自分の精神や体力を回復させるために遣っていたのか、ほどよくそれを過ごした今は、身体の張りには一人目と闘ったときと同じ余裕が見られるが、反対に顔つきは先刻(さっき)までよりも真剣になっていて、今向かい合っている男が、決して楽に遇(あしら)えるような並の相手ではないことが分かる。

「・・・よしっ、始めっ!!」

 陳中尉が、リングに向かって声を掛けた。

「あぁっ・・・!!」

 ・・・初めてその男が見せた “戦闘状態の動き” を目にして、宏隆は思わず声を上げそうになった。宗少尉に向かって歩き始めたその男の、こんな構えを・・こんな間合いの取り方を、宏隆はこれまでに見たことがない。

 さらさらと、谷川を流れる水のように・・・
 まるでその男の足が、リングのマットを踏まずに、水の上を浮いて歩いているのではないかとさえ、思えてしまう。
 カラテでもなければ、ボクシングのフットワークでもない。
 かと言って、王老師のような太極拳のようには見えないし、宗少尉が見せる技法とも大きく異なっている。

 その男は、片手を顔の高さほどに挙げ、もう一方の手は鳩尾(みぞおち)の前の辺りに添えている。そして、相手の宗少尉に対しては自分の正面を向けず、身体を少し捻るようにして、挙げた前の手を正面にして、常に斜めに相手に向かっているような恰好なのだ・・・

 不思議なのは、構えや歩き方だけではない・・・
 その、まるで水に浮かんでいるような足が、一歩、二歩と歩くたびに、体(たい)の左右が入れ替わり、また、前と後ろも入れ替わっているような錯覚が起こる。

 その歩き方も、ヒタ、ヒタと、足がわずかに浮いて、滑るように前に送られている。
 普通の歩き方ではない・・・歩いているのに、踵(かかと)の裏があまり見えない、不思議な歩き方なのだ。

 それは、まるで水が流れているように、クルリと渦のように巻いては、また緩やかに真っ直ぐに流れ、また小さく巻いては少し流れ、さらに大きく巻いては流れ・・・という具合に、捉えどころがない。

 そして、左右に体(たい)を入れ替えるたびに、前の手を右から左に、左から右にと替えて、だんだん今どちらの手が挙がっているのか、左右どちらに体が開いているのかが分からなくなってくる。挙げた手はずっと相手に向いているのに、体の正面の向きが違うのだ・・・

 これでは、いったい何処から、何をしようとしているのかを計り兼ねてしまう。
 リングの外で見ているだけでこうなのだから、実際に向かい合っている宗少尉の感覚は、如何ばかりのものだろうか・・・

 そう思って見ると、宗少尉は、軽やかにステップを踏みながら相手との間合いを取ろうとしているが、顔つきは真剣そのもので、さっきまで相手に冗談を向けていたゆとりなど、もう何処にも感じられない。
 騰空後旋腿(飛び後ろ回し蹴り)で鮮やかに舞って宙空のリンゴを砕いてしまう、その鋭敏で軽やかな身体は、何故か相手の、その流れるような歩き方に、ちょっと手こずっているように見える。

 現に、その男がわずか一歩を移動する間に、宗少尉は二歩も三歩も歩かされているのである。これは「歩き方」の違い・・・つまり、相手が修得している歩法の構造と、宗少尉が学んだものとの、武術的な「歩法(bu-fa)」の、レベルの違いなのだろうか。


 しかし、いったい、何故そんなことが起こるのか・・・・

 宏隆は、初めて王老師に向かっていったことを思い出した。
 自分がどれほど打ち込んでいっても、どれほど間近に迫っているつもりでも、王老師はほとんど身体を動かさずに、ただ自分が拳(こぶし)を振り回しながら走り回るばかりだった。
 そして宏隆には、躱(かわ)されたという実感がまったく無かった。
 それどころか、王老師の身体がいつ動いたのかさえ、全く分からなかったのである。

「あれは、もしかすると、このような “歩法” の故だったかも知れない・・・」

 朧気ながらに、そんなことを想っていると、

「・・・そう、 “歩き方” に秘密があるのですよ。
 もちろんそれは、身体の “構造” によって、行われているんですけどね・・」

 横に居る陳中尉が、声を掛けてくる。

「・・えっ? ど、どうして僕の考えていることが分かるのですか?」

「ははは・・・ちょっと太極拳の修行を積んでいけば、聴勁(ちょうけい)がはたらくようになるのですよ。ヒロタカは、初めて王老師に向かって行った時のことを思い出していたのでしょう?」

「そのとおりです・・・でも、何故そんなことまで・・・・?」

「いや、そちらで考えていることが、同時に伝わってくるのですよ。
 それに、私も王老師に初めてお会いした時には、こっぴどくやられましたからね!!
 あはははは・・・・」
 
「そう・・そうです、そこが知りたかったのです・・・!!
 その、歩き方の、身体の構造がどうなったら・・・いったい、何をどうすれば、王老師の
 ように相手の攻撃を無効にすることができるのでしょう?」

「・・・それは、ヒロタカが、自分で探して行かなくてはならない事なのですよ。
 ほら、宗少尉も、それを懸命に探そうとしているし、相手の黄(こう)くんも・・・
 それは、まだ完成してはいないけれど、訓練の中でそれを見つけようとして、必死になっ
 ている・・・」

「・・・・・・」

「他人に教わることと、自分が学んで行くこととは、同じではないのです。
 解答を教わっても、それを分かったことにはなりません。教わったことを基(もと)に、
 自分で探して行くからこそ、それが自分のものとしてきちんと身についていく・・・」

「・・・・はい、おっしゃる通りです。
 ちょっと焦ってしまって・・・自分が間違っていました」

 先輩の的確なアドバイスに、宏隆は笑って頭を掻いた。

「ははは・・・先輩ぶって偉そうなことを言ってしまいましたが、きっとヒロタカも、王老師にその洗礼を受けてから、ずっとそれが気になって探し続けているのでしょう。
 でも、正しい訓練を積みながら探し続けていれば、いつか必ず見つかりますよ!」

「・・はい、それが向こうからやって来るぐらいに、稽古します」

「そう、それが正しい・・・それに、ほら! いま、あの二人の動きを見ている方が、私が言葉で教えるよりも、よほど手っ取り早い・・・!!」


 リングの上では、それまで間合いを探り合っていた二人が、新たな動きを見せ始めた。



                                 (つづく)


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2009年11月18日

連載小説「龍の道」 第33回




 第33回 武 漢 (wu-han)(5)


 ジリジリと・・・
 その男は宗少尉に向かって、躙(にじ)るように間合いを詰めていく・・・

 この「間合い」というのは、無論、戦闘にあっては基本中の基本であるが、宏隆が王老師に太極拳を学ぶ中で、最も興味のある事のひとつでもあった。

 間合いとは、単に自己と相手との間にある「距離」を言うのではない。
 字義的にも、「間(ま)」というのは間隔・隔たりのこと、「合い」とは調和や適合があること、一致してひとつになることであるので、間合いとは本来、相手との隔たりの間に生じている調和や一致を指すものであろう。
 そしてその通りに、武術で云う「間合い」は、相手と自分との時空間を如何に“制御”するかということに本題があって、たとえどれ程の筋力や打撃力があろうと、その「間合い」が取れる相手には一方的に制されてしまい、戦いにもならない。

 武術の世界には『間合いを制する者はすべてを制する』などという言葉も存在していて、真の意味に於ける「間合い」が、非常に重要なものだということが分かる。
 宏隆は、かつて王老師に自分の精一杯の攻撃を手ひとつ触れずに悉く無効にされて以来、それを幾度となく夢に見るほど、高度な技藝としての「間合い」が気に掛かり、その秘密を解こうとして躍起であった。
 真の「間合い」を制することが出来れば、必然として相手の攻撃は当たらず、自分の攻撃は当たるのである。力の強さやスピード、タイミング、技のコンビネーションこそが武術の戦闘法だと信じ、それに頼る者は、このような「間合い」に熟達した相手には、実に呆気なく屠られてしまうことになる。


 そして、今このリングで向かい合っている二人は兵士であり、命懸けの戦場では一発たりとも相手にヒットさせるわけにはいかない筈である。それが銃弾であれ、ナイフの切っ先であれ、磨き抜かれた打撃であれ、自分に当たれば致命的であることに変わりはない。
 前戦の兵士として白兵戦の訓練を受ける者は、絶対に相手の攻撃は当たらず、そして自分の攻撃は必ず当たるという原理をこそ、正しく修得しておく必要があるに違いなかった。

 宗少尉に対しているその男は、秘密結社の戦闘部隊の精鋭だけあって、少尉との間合い、つまり、戦闘空間を出来るかぎり自分に優位なように“制御”しようとして必死になっているように思える。
 そしてその証拠に、宗少尉もまた、先ほどまでとは打って変わって真剣な顔つきになり、相手にそのような間合いを“取られまい”として、一定の距離を置きながらリングの中を注意深く動き回っていた。

 ・・・暫くして、互いにほぼリングの中央まで来たのを機に、男が「スゥーッ」と低めのタックルに行った・・・宗少尉は、それまでの動きと同じように軽やかに腰を引き、半歩後ろに下がりながら、そのタックルを滑らかに躱(かわ)す。

 それは、今までの動きでも見られる、少尉が得意とする柔らかい動きだ。
 しかし相手は、タックルを躱された直後に、その低い姿勢から、自分の胸に膝を付けるようにして、さらに宗少尉の顔面を蹴り上げてきた。
 腰を引いてタックルを躱そうとすれば必然的に上体が前に傾くものである。そして相手は躱されたその瞬間を狙って、そのまま下から顔面を蹴り上げてきたのだ。

 その予期せぬ反撃に、宗少尉は、思わず、狙われた顔面を後ろに反らした。
 足蹴りは当たらずに空を切ったが、反射的に顔を後ろに避けた宗少尉の身体は、やや腰が立ち、背中が少し後ろに反ったような状態となった・・・・

「・・あっ、危ないっ!!」

 思わず宏隆がリングの外でそう叫んだが、その時にはもう、すでに遅かった。
 その瞬間(とき)を待っていたかのように、相手の男はフッと前方に身体を抜いて、初めよりも鋭く、素早い動きでタックルに入り、宗少尉の腰を充分に取って、体当たりをするように、コーナー・ポストに激しく押し付けてきた。

「チィィッ・・・・!!」

 悔しそうな声が、宗少尉の口から漏れる。

 すぐさま、タックルで固めている相手を振り解(ほど)こうとして、上から肘打ちしたり、揺さぶって外そうとするが、相手の腰が低く、身体をピタリと密着しながら制されているので、まったく効果がない。
 かと言って、ここで力んでチカラ一杯に反撃をすれば、身体がバランスを失って簡単に倒されてしまうのは目に見えている。

 しばらく、そのままどちらも動かない膠着した状態が続いた後に・・・・
 密着していた相手が、宗少尉の腕(かいな)を返すようにしながら、その低い腰を上げて少し立ち上がり、密着されて身動きが取れなかった身体の間に少し空間が出来た。
 それまで動きを制されていた宗少尉は、相手が立ち上がりながら次の技を仕掛けてくるのだと思い、そうさせない為に、間髪を入れず、空いた相手の脇腹に鋭い右の膝蹴りを放った。

 しかし・・・それは相手の策略であった。
 相手はそのような行動を予測して腰を上げ、密着した身体をわざと少し離して、宗少尉の膝蹴りを誘ったのである。

「あっ!・・・・」

 後悔したが、しかし、もう遅かった。
 膝蹴りは相手に触れる程度には当たったが、その右膝を反対に内側から抱え上げられ、タックルをされたままの腰は相手の方にグイッと引きつけられ、ほとんど片足で棒立ちのような状態にさせられた途端、宗少尉はそのままリングの中央に向かってドーンと投げ倒され、あっという間に“馬乗り”のマウント・ポジションを取られていた。

「ウォォオオーーーーッ!!」

 ・・どっと、大きな歓声が、見物をしている隊員たちから起こった。
 おそらく、少尉がこれほど劣勢となるような光景は、滅多に見られない事なのだろう。

 宗少尉は、馬乗りをされた状態から何とか逃れようと、海老反りをしながら盛んに身体を動かすが、相手は少尉よりも遙かに体格で勝り、日頃よほどグラウンド・ワーク(寝技)の修練を積んでいるのか、どんなに逃れようとしても、巧みに制されて効果がない。
 それどころか、相手はその安定した馬乗りのポジションから更に顔面を狙って打ってくるので、宗少尉はそこから逃れる動きに専念できず、両肘を顔の前に固めて、必死にそれを避けていなければならなかった。

 今の時代でこそ、グレイシー柔術によって、このようなグラウンド・ワークの戦闘法が広く知られているが、この物語の舞台である1970年代には、そのような技法は日本人が見たことも、聞いたこともない、非常に新鮮なものであった。


「・・Do you give up?・・・Sir?」

 少尉の上に、揺るぎない軸で馬乗りになっている男が、顔面にパンチを打ち続けながら、もうすでに勝ちを収めたかのような、落ち着きはらった声でそう声を掛ける。
 確かに、あの勝ち気な宗少尉が、為す術もなく部下にのし掛かって制され、悔しそうな表情を浮かべながら打撃を浴びている状況を見れば、誰もがもうギブアップするしかないと思えた。

 が、しかし・・・

「・・ふん! それで私に勝てたつもりなの?
 ちゃんと勝ちたいのなら、本当にギブアップさせてごらん!!」

 自分の明らかな劣勢を顧みず、不遜にも、そう大口を叩く少尉に、

「な、何をっ・・・!?」

 やや興奮気味にそう口走りながら、力強く宗少尉の顔面に向けて一撃を放ち、次の瞬間、チョークの技で首を絞めてきた。

「うぅっ・・・!!」

 思わず、宗少尉からうめき声が洩れる。
 馬乗りの状態からチョークで首を絞められれば、逃れようもなく、非常に苦しいものだが、これはただのチョークではない。右肘で少尉の左肩を押さえ、右の前腕をノドに強く当て、左手を自分の右手の甲に重ねるようにして少尉の右肩に押し付け、それを支点にして右肘を下向きに押し、前腕部を喉にグイと押し込んでいるのだ。

 自分を本当にギブアップさせられるかと挑発され、相手も流石にカッと来て、この強烈なチョークを仕掛けたのである。
 そして今度こそ、もう宗少尉がどうすることも出来ないと、そこで見物している誰の顔にも、あきらめの色が出始めたが、しかし、その次の瞬間・・・・

「あっ・・ぅわっ・・・!!」

 あっという間に・・・相手が少尉の腰の上からグルリと転げ落ちたかと思うと、瞬く間に反対に宗少尉が相手の上で馬乗りのマウント・ポジションを取った。

 その見事な逆転劇に、周りからドォーッと拍手と歓声が起こる。

「すごいっ!! あの体勢から、どうしてあんな風に返せるんだ・・・?!」

 宗少尉は、後ろ回し蹴りで空中のリンゴを蹴り砕けるような技だけではなく、あのような完璧と思えるほどの馬乗りさえ、見事に返せてしまうのである。全くと言って良いほど寝技のテクニックを知らない宏隆にとっては、その多彩で繊細な戦闘技術に、ひたすら驚嘆する他はない。

 そこで一瞬のうちに行われたことは・・・
 馬乗りになった相手が首を絞めに来た瞬間、少尉は右手で相手の右肘を押しながら左手で上腕を突き上げ、同時に左脚を相手の右脚にフックして、それを支点にブリッジをしながら左回りに相手を転がし、完全に上下を逆転してしまった。
 その時、相手の足は馬乗りの形のまま少尉の腰に巻き付いていたが、相手が慌てている間にスッと立ち上がり、すぐに左脚を大きく後ろに引いて右膝を相手の股の間に割り込み、腰に巻き付いていた足を外しながら相手の上に乗り、瞬く間にマウント・ポジションを奪ったのである。


 そして、そこからは、さらに見事な、流れるような動きを周りの者に見せつけた。

 まず、その馬乗りの体勢から両手を鷲掴みのように構え、相手の喉を絞めに行くようなポーズを見せた。さっきまで少尉のノドを攻めていた相手は、少尉がその仕返しに来るのだと思い、思わず両手で喉を庇(かば)った。
 しかしそれはフェイントであり、次の瞬間、宗少尉はその庇った手首を捉えながらスルリと相手の首の後ろに手を回し、自分から転がって更に相手の後ろに回り、後ろから左腕を深く喉に巻き付け、相手を仰向けにして、後方からのネイキッド・チョーク(裸絞め)を決めた。
 しかも、少尉の脚は後ろから前に回され、内股がカカトで強く押さえられているので、相手は身動きひとつ出来ない状態となっている。

「うぅ・・ぐ、ぐぁあっっ・・・」

「あハハ、コレは効くわねぇ・・・So, Do you give up?・・Boy?! 」

「ウグ・・・グゥ・・」

「オゥ・・オーケイ! ギブアップしたくないのなら、それでも良いけれど、私のカカトはキミの大事なトコロを蹴って潰すことも出来るし、5秒もあれば、その首を締めて“落とす”こともできるのよ!! ・・・さあ、どちらがお好み?」

「ウグ・・ムムゥ・・・・」

 余りに鮮やかに逆転された事がよほど悔しいのか、相手の男は容易に降参しない。
 何とか首を絞めている腕を解こうとするのだが、自分よりも遙かに細いはずの少尉の腕を、まったく外すことが出来ないのである。

 宗少尉は相手がもがくのを見て、ますますチョークの腕を絞めて気道を圧迫し、脚で下腹部を小突くように蹴りながら、激しく相手に迫る。

「ユー、ギブアップ・・?! ドゥ、ユウ、ギヴアーップ?!」

「・・ヴグッ・・ギ・・Give up・・・アイ・・ギ・・ブア・・ップ・・!」

 苦しそうに、首を絞めている少尉の腕をタップしながら、ついにその相手がそう言った。

「Good・・・!」

 巻き付けた腕を解いて、何もダメージの無い宗少尉はスタッと軽やかに立ち上がったが、相手の男は床に座ったまま喉に手を当て、苦しそうに息をはずませて、なかなか立つことができない。


 見物をしていた隊員たちから盛んな歓声が起こり、拍手が鳴り止まない。
 宏隆もまた、賞賛の拍手を惜しまなかった。

「君のグラウンドの戦いは余り見たことがないが、今のは実に見事な動きだった。
 相手との体重差は30kg 以上もあるのに、大したものだ」

 席を立って拍手をしながら、陳中尉がロープのところまで来て、そう言う。

「Thank you very much, sir・・・でも、さっきはちょっと危なかったです。
 これからは、もっとグラウンドの訓練を増やすことにします。
 でも、今のは、ほとんど彼との訓練から学んだものですが・・・」

 ニコリと微笑みながら、宗少尉はそう答えた。さっきの鮮やかな技法は、たった今、馬乗りで自分の首を絞め上げた相手との訓練中に学んできたものらしい。


「・・OK、Next, Please! 確か、いちばん強い(Best)のが残っていたわね・・・?!」

 すると、それまで宗少尉の戦いぶりを、リングの外からロープにもたれるようにして黙って見ていた男が、そのままフワリと、軽やかにロープを飛び越して、リングに立った。


                                   (つづく)




  【参考写真】

        
        *相手に馬乗りから前腕でチョークされている状態。




                     
                     *馬乗りから逆転して立ち上がり・・・


           
           *さらに膝で割って入って・・・


       
       *反対に馬乗りになってチョークに行くようなポーズを見せると、
        相手は思わず両手で喉を庇ってブロックしようとするが・・・    


               
               *そこで相手の肘と手首を取って・・


                   
                   *胸で相手の肘を押すようにして手を下げて、
                    片手を首の後ろに回し・・・


              
              *スルリと相手の横に回りながら・・・


         
         *自分の手首を掴んで相手を引き上げ・・・


            
            *バックを取り「裸絞め」を極める。



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2009年11月08日

連載小説「龍の道」 第32回




 第32回 武 漢 (wu-han)(4)


「・・そうよ? 私じゃ、相手にとって不足かしら?」

 そう悪戯っぽく微笑む顔をつくづく眺めれば、宗さんはとても美しい女(ひと)だ。
 迷彩服や荒っぽい言葉についつい騙されてしまうが、普段着に着替えて花でも持てば、きっと引く手数多な麗人に見えるに違いない。おそらく年齢的にも宏隆より五、六歳上の、女性が最も美しい年頃なのだろう。

 しかしそれとは反対に、よく鍛え上げられた肢体には、すでにリングに上がる準備が整っていることがはっきりと見えるし、自分と散手をしないかと挑発する目の奧には、怪しい光が宿されていて、この人が決してただの士官学校上がりの、成績や推薦で成り上がった海軍少尉ではないということを想像させる。

「いや・・その・・ 決してそういうワケではないんですが・・・」

 戸惑って言う宏隆に、傍らから陳中尉が、

「あははは・・・こりゃ面白くなってきた。ヒロタカは日本じゃ “ケンカの若大将” と異名を取るほどの男で、人間的にも王老師に一目で見込まれるような人だから、宗少尉もきっと良い勉強になるだろうね!」

 そう言うと、宗少尉も、

「Yes, sir! ぜひ、そのあたりを・・・なぜ王老師が外国人を陳氏太極拳の伝承者に選び、皆がヒロタカ、ヒロタカと大騒ぎしているのかという理由を、この身できちんと確かめたいと思いますが!」

 ・・などと、やる気満々に受けて返す。

「いや、実はその・・僕はまだ、女性と闘ったことがないので・・・」

「ははぁ・・私が女だから、思い切り闘えないと、そう言いたいワケね?!」

「いえ、決して女だからと、軽く視るわけじゃないんですが・・・」

 ・・・そこで何かが起こっている雰囲気を感じ取ってか、周りで訓練をしていた隊員たちがいつの間にか集まって来て、互いに何か囁き合いながら、好奇心一杯に、遠巻きに宏隆たちを囲み始める。

「・・A - ha, オーケイ!!」

 そう言うと、何を思ったのか、宗少尉は突然スタスタと壁際のベンチの方に歩いて行き、誰かのランチボックスの傍らに置いてあったリンゴをふたつ、ヒョイと掴んで戻ってきた。

 しかし、いったいリンゴを持って来て、どうしようというのか・・・?

「私がどんな武術を学んだか、ヒロタカにお見せするわ!」

 リンゴを二つの手の間でジャグリングしながら、ニコリと微笑んで片目をつぶると、

「・・ヘイッ、そこの隊員っ、コレを私の方に投げて!!」

 そう言って、見物している隊員に、リンゴを二つ投げて渡す。
 また宗少尉が何かをやりはじめたぞ・・・という顔をして、隊員たちは皆、楽しそうに笑っている。

「Are you ready, sir?・・・」

「Yeah, I’m ready・・・Go!」

 そう言って、宗少尉の頭上高く、リンゴが投げられたその瞬間・・・・

「キェェーーーィ!!」

 宗少尉は、前方に軽く一歩を踏み出したかと思うと、怪鳥のような声を上げて宙に高々と舞い、空中で身体を後ろ回りに水平に1回転させながら右脚を高く鋭く振り回し、見事にカカトをリンゴに命中させた。

「バシュッーーッッッ!!」

 飛び上がった頭よりも更に高く挙げられた脚に蹴られて、リンゴは鈍い音と共に、その場で粉々に砕け散った!!

 中国拳術の “騰空後旋腿(teng kong hou xuan tui)” ・・・・
 つまり、空手で云う “飛び後ろ回し蹴り” が綺麗に命中したのである。

 その跳躍力の高さも、飛んできたリンゴをカカトで狙える蹴りの正確さも、そして、それを空中で打ち砕くことの出来る破壊力も、そのフォルムの美しさも・・・どれを取っても、これはもう “見事” と言うほかはない。

「ウォォォオーーーッ!!」

 周りを囲んでいた兵士たちから一斉に歓声が沸き、盛んに口笛と拍手が起こる。

「すごい・・・・!!」

 ・・・宏隆は、呆気にとられた。
 空手では、後ろ回し蹴りで飛び上がって板などを割ったりするものも見たことがあるが、こんな技術は、見たことも、聞いたこともない。

「・・All right!・・・Another one・・・・」

 いったい、今度は、何をしようというのか・・・

「Ready?・・・Fire!!(撃て!)」

 それを想像する間もなく、二つ目のリンゴがヒュッと、高く投げられた。

 その時・・宗少尉の手が僅かにスッと動いた、と思った途端、何故か投げたリンゴはこちらに届かず、ちょうど兵士たちが取り巻いている所との間に落ちて、ゴトリと、硬い音を立てて床に転がった。

 またしても、兵士たちから大きな歓声と拍手が湧く・・・
 しかし、宏隆には何が起こったのか分からない。
 
「いま、何を・・?」

 怪訝な顔をして、宗少尉の顔を見ると、

「・・あら、分からなかったの? その目で、確かめてごらんなさい!」

 そう言われて、落ちたリンゴの所まで歩いて行くと、

「あ、ああっ・・!!」

 思わず、宏隆は声を上げた。
 そこには見事に、小型の軍用ナイフが刺さっていたのだ。
 一体いつの間に、どこからナイフを取り出して、それを投げたのか・・? 
 そして、そのナイフを、どうしてそんなに正確に、飛んでくるリンゴに命中させることが出来るのか・・・・まるで映画のシーンのような、その本物の練達の技術を目の当たりにして、宏隆は愕然とした。

 確かに、女だてらに、と思わなかったわけではない。
 ドレスの方が似合いそうな美しい女性が、どうしてわざわざ迷彩服を着こんで、荒くれ男のたまり場のような軍隊で、しかも少尉という階級に君臨して強がっているのか・・・
 そんな、この女(ひと)の感覚に、宏隆は初めから違和感を感じていた。いや、宏隆に限らず、宗少尉を一目見れば、誰だってそう思うに違いない。
 しかし、たった今、その実力を目の当たりにして、これは大変な女(ひと)だ、と改めて思える。その態度の強さは、決して強がっているのではなく、実際の実力に裏付けされたものであったのだ。

「ふぅ・・今日は、とても此処からは無事に帰してもらえそうもないな・・・」

 宏隆は、その状況に腹を括った。

「・・どう? あなたも、何か見せてくれる?」

「いえ、僕には、何も見せるものがありませんが・・・
 僕でもよければ、お望みどおりリングでお相手をします」

「ウォォオーーッ!」

 見物の兵士たちから、待ってましたとばかりに大きな歓声が上がり、広いトレーニングホールに口笛が鳴り響く。

「ha ha ・・OK、もちろん喜んでお相手するわ。でも、その前に・・・」

「・・え、その前に?」

「まず、武漢の男ドモを相手に、ちょいとウォーミング・アップをするから、その切れ長の目を大きく開けて、よーく見てらっしゃい!」

 明るく笑って言う宗少尉に、またしても兵士たちの間から歓声が上がる。

「さーて、武漢班の男たち、強い方から三人、リングに上がりなさいっ!
 ・・・Come on, boys!!」

 西洋人がよくやる、アゴをグイッと回すようなジェスチャーをして、男たちにリングに上がるように促す。

「Yes sir!・・ Yes sir!!・・・」

 宗少尉の言葉に、口々に「イエッサー」の返答をして、三人の男がリングのロープを潜る。
 いずれの隊員も頭髪を短く刈り込み、見るからに強そうで、体格のゴツさも身長も、当然、女の宗少尉の比ではない。
 こんな男たちを相手に “ウォーミング・アップ” をするというのは、一体どういう了見なのだろうかと思う。

「まさか、いくら何でも・・・
 本気で、この男たちと闘おうというんじゃないだろうな?」

 すると、まるでその宏隆のつぶやきが聞こえたように、

「さあっ! いつものように、思い切り掛かってらっしゃい!
 私を倒したらビールを奢るわよ! でも、倒せなかったら・・そっちの奢り、ね!!」

 そう微笑んで、片目をつぶってみせる。

「・・よしっ、田(でん)、伏(ふく)、黄(こう)、の順に行け!」

 リングの外から、陳中尉が彼らに命令する。

「Aye, aye, sir(アイアイサー)!!」

 まず、田(でん)と呼ばれた比較的細めの男が、宗少尉に向かっていく。
 ヘッドギアもグローブも、防具を何も着けていないまま、いきなりそれは始まった。

「あの・・グローブも、防具も着けずにやるんですか?」

 宏隆が、思わず陳中尉の方を向いてそう言うと、

「ああ・・・彼女はいつもこうなんですよ。
 戦場でグローブを着けて殴ってくれる敵は居ませんから、ってね・・・」

「はぁ・・・なるほど・・・」

 しかし、宏隆がそう言ったのと同時に、

「Y i i ---- Y e, ・・・ H a a a a !!(イィーーィッ・・・・ハァァーッ!!)」

「・・・ズッドォーーォン!」

 何がどうなったのか・・・陳中尉と話したほんの僅かな時間に、リングでは鋭い気合いと共に相手が大の字になって転がされ、宗少尉は間髪を入れずその顔を目がけて上から蹴りを入れ、ピタリと止め、そのまま首を踏んで動きを制した。

「・・よしっ! それまでっ!!」

 陳中尉の声が響き、リングを取り巻いている隊員たちから歓声が上がる。

「Oh, dear・・・それじゃ、いつまでも武漢じゃナンバー・スリーのまんまね!」

 相手の首を踏み付けたまま、上から見下ろしながら、立てた指を振ってそう言う。

 いったい、何をしたのか・・・?
 宏隆は、ついそれを見過ごしてしまったことを後悔した。
 これから自分は、彼ら武漢班の男たちと同じように、このリングに上がるのだ。
 女とはいえ、空中に放り投げられたリンゴに見事にナイフを命中させ、また、そのリンゴを宙高く舞いながら粉々に蹴り砕く・・・
 その、とんでもない相手の闘いぶりを、よく観察しておかなくてはならない。

「・・あら、坊や、駄目じゃない、よく観ていないと!!」

「えっ? ど、どうしてそれを・・・」

 屈強な体格の隊員と闘っている間にも、宏隆が何をしていたかを知っている・・・
 そのことに、宏隆はちょっと驚いた。

「聴勁(ちょうけい)よ。 Ha?・・太極拳をやっていて、そんなことも分からないの?
 せっかく見せてあげてるんだから、今度は、よーっく見てらっしゃい、坊や!」

 倒した相手の首を踏んだまま腰に手を当て、脚をやや大きめに開いて身体を捻り、斜め後ろの此方を向いて、少し尻を突き出すようなポーズを取りながら、そう言って宏隆を揶揄(からか)うと、見物している隊員たちが大声で笑う。

「・・・次っ、伏(ふく)、行けっ!」

 陳中尉が、よく通る声で次の隊員に命じる。

「よーし、今度は、見逃さないぞ・・・」

 次の相手は、さっきの男よりも体格がガッチリと大きく、腰が重く低く見え、レスリングのような構えで、スラリと立っている宗少尉に向かって、隙を窺っている。

「これは・・タックルを狙っているな・・・・」

 宗少尉の体格では、この男にタックルされ、捕まえられたら終わりだろうと思う。

 しかし、予想どおりに、伏(ふく)と呼ばれた隊員は、素早く、宗少尉の腰の辺りに食らい付くように鋭くタックルに行き、そのまま膝裏を抱えて持ち上げるように刈り倒した!!

 ・・・と、誰もがそう思えたが、タックルに来たその瞬間、宗少尉は相手の背中に手を着きながら、フッと前転をして軽やかに宙に舞い、相手の後ろにスッと立っていた。

 慌てて向きを変えて、相手は後ろを振り向いたが、その瞬間、クルリと回転しながら放った蹴りがきれいに首を捉え、相手はそのまま翻筋斗(もんどり)打ってマットに倒れた。
 ついさっき、空中でリンゴを粉々に砕いた、あの鋭い “後旋腿” である。

「ほらほら!・・今のをカカトで、コメカミを狙っていたら、もう死んでいたわよ!」

「・・イ、イエッサー!」

「じゃ、もう少し遊んであげるから、遠慮なく来なさい!!」

「イエッサー!」

 その男の目つきと、構え方が、少し変わった。
 上官とは言え、自分よりも遙かに体格では劣る女性を相手に、良いように嬲(なぶ)られていては男がすたる。

 そこに居る誰もが、その男がもっと本気になった、と思えた・・・


                                    (つづく)

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2009年10月28日

連載小説「龍の道」 第31回




 第31回 武 漢 (wu-han)(3)


 20分ほど走ると、やがて港が見え始めた。
 この道には見覚えがある。これは、初めて台湾に到着してからロールス・ロイスで走った道を、反対に港の方に向かっているのだった。

「基隆(キールン)に行くのですか・・?」

「・・そうよ、そこに基地があるから」

「それじゃ、基隆の港に、秘密の基地があるんですね?」

「ご期待に添えなくて残念だけど、ただの基地よ、台湾海軍の・・・」

「あ・・海軍の・・・」

「ヒミツ結社の、スゴイ秘密の基地じゃなくて残念ね、坊や・・!」

「ぼ、坊や・・?」

「・・そうよ、だって、あなたはまだハイスクールに通ってるご身分でしょ!」

「そ、そりゃ・・まあ、そうですけど・・・」

「それじゃ、間違いなく、立派な “坊や” じゃなくって・・?」

「・・・・・・」

 “坊や”と言われて、宏隆は流石に気分を悪くしたが、軍隊の迷彩服をキッチリ着こなし、男勝りの荒々しいものの言い方をするこの女(ひと)は、ふと気付けば、時折り上品な仕草や育ちの良い言葉遣いが見え隠れする。
 もしかすると宗さんは、上流の良い家庭で育った人かも知れなかった。

 港の埠頭には、グレーに塗られた海軍の軍艦や潜水艦が何隻も停泊している。
 穏やかな夏の雨の中に佇む軍艦の姿は、戦地から帰還して休息を取る兵士のように、どこか安らぎを感じさせる。

 言うまでもなく、台湾にとって最も脅威となっているのは中国である。
 中国が台湾を併合しようと躍起になっているのは世界中が知る事実であり、その中共が、いつ、どのようにして侵略を開始するのか、戦力に於いて遙かに勝る敵に、果たして台湾はどのように立ち向かえるのか・・・
 当然ながら、台湾併合は日本にとっても中国からの “チェックメイト(王手)” であるし、そうなればアメリカも黙っては居られなくなる。
 
 そんなことを想えば、任務の合間に入港中の軍艦を眺めて“安らぎを感じる”などと、暢気に構えて居られるわけもないのだが、今の宏隆には、まだそんな情勢を十分感じ取れるだけのアンテナもなければ、危機感も無い。
 戦後日本の平和に身を委ねて育った彼には、軍艦がこの港に停泊している理由も、それによって想い起こされる筈の危機への実感も、何も無いのだった。


 ジープが走っている道のすぐ横には、高い金網のフェンスがあって、その上には高電圧のケーブルが何段にも張り巡らされている。フェンスの手前には螺旋に巻かれた鉄条網が二重三重に置かれていて、至る所に監視カメラが設置されている。
 此処は紛れもなく、台湾海軍の重要な基地であるに違いなかった。

 やがてジープは、海軍基地の入口の検問所で停まった。
 すぐに自動小銃を手にした門衛が二人、ゲートの向こうからジープを夾むようにして立ちはだかる。いきなり小銃が目に入って、宏隆は少し緊張した。
 同時にもう一人、拳銃と警棒を腰に提げた兵士が運転席に近付き、両足の踵を付けて宗さんに慇懃に敬礼をすると、身分証を確認することもなく、直立不動の姿勢のまま、何か中国語で語りかけている。
 宗さんが助手席の宏隆を指差して、ひと言ふた言、強い調子で答えると、すぐに大声で返答し、再び姿勢を改めて敬礼し、他の門衛にゲートのバーを上げるように指示した。
 宗さんは、この基地ではよく知られている存在らしい。

 基地の中は、外からフェンス越しに見るよりも遥かに広い。
 ちょっと年季の入った二階建ての兵舎や、大きな倉庫、ヘリコプターや水陸両用の装甲車を入れた格納庫なども見え、整備兵たちが忙しそうに働いている。
 向こうのグラウンドでは、この雨の中を、兵士たちが15人ほど隊列を整えて走っており、傍らで合羽を着た上官が大声で怒鳴って発破を掛けている。
 ジープは相変わらず荒っぽい運転で倉庫の裏の通路に入り、体育館のような蒲鉾型の屋根の建物の前で、「キィーッ!」とブレーキの音を立てて停まった。

「 Here we are 〜 !! (さあ、ついたわよ!)」

 ・・ちょっと楽しそうに、歌を口ずさむように、宗さんが言う。

 建物の中は板敷きのトレーニング・ホールになっていて、大勢の兵士がグループに分かれて様々な訓練をしている。
 クライミングロープを手だけで昇る人、ウエイト・トレーニングをする人、マットの上でレスリングのような組技を練習している人、ハンドミットや、サンドバッグを打つ人・・・奥の方にはボクシングのリングも見える。

「こっちよ、ついて来て・・」

 立ち止まって辺りを見回している宏隆を促して、宗さんはどんどんリングの方に向かって歩いていく。
 近付くと、リングはよく見かける試合場のものとは違って、少し小振りで、ほぼ床と同じ高さに設置されているので、中の人の動きがよく見える。

 リングの上では、海軍のタイガーストライプの迷彩ズボンとTシャツ姿の二人の男が、グローブをはめ、ヘッドギアとボディプロテクターを着けて闘っている。
 似たような体格で、しかも全く同じ恰好をしているので、一体どちらがどちらなのか見分けが付かないが、グローブの色が「青」と「赤」に分かれているので、何とか区別が付く。

 宏隆は、こんなふうに防具を着けて練習したことが無いので、その戦い方に少し興味を持った。それが素手・素面で行うのと、グローブや防具を着けて練習するのとでは、当然動きが違ってくるし、打撃の方法も違って来る。早い話が、剣道でも防具を着けていなければお互いに決して気軽には打ち込めはしないし、攻防のスタイルも違ってくるのだ。

 リングの二人は激しく打ち合って闘っているように見えるが、よく見れば、一方は決して相手を倒すために、ただ力まかせに打ち合っているのではない。
 当たるか、当たらないか、という単純な攻防技術を磨こうとしているのではないのだ。
 自分がどう打てるか、どう躱せるかというのではなく、どのように整えれば相手の攻撃を無効にできるのか・・・その場で相手を倒すこと、倒せることを目的とせず、丁寧に攻防の在り方の訓練をしようとしているように見える。
 つまり、「相手と打ち合う」という状況を借りて、身体の在り方を整えるための訓練をしているように思えるのだ。丁寧な基本功と套路の訓練を一年以上に亘って王老師から指導されてきた宏隆には、その人の動きがそんな風に見えるのである。

 そして、その赤いグローブをはめた方の、軽く、素早い、流れるような動きに、宏隆は目を見張った。その実力は、もう一方と比べると、まるでケタ違いである。
 青いグローブの相手は、時おり機を狙って、まだチカラ任せに、強引に打ちたがっているのが見えるが、この赤いグローブの相手には、それをやっても何も通じない。無理を押してでも当てようとするのだが、どうしてもそれが出来ないのである。
 いや、打つどころか、打とうとするその動き自体が先に制御されてしまい、その結果あらぬ方向に攻撃が逸れて大きく崩され、結果として相手に触れることさえ儘ならないのだ。

 しかし・・・

「ああっ・・・ こ、これは・・・・」

 リングの攻防を見ているうちに、宏隆は初めて自分が王老師に向かって行ったときのことをまざまざと思い出して、ハッとした。

「これは・・あの時の、自分の姿そのものじゃないか・・・?
 この赤いグローブは、まるで王老師の動きを再現したような動きだ!!」

 そして、そう思った途端、リングの上で相手を思う儘に翻弄している、その赤いグローブの人が誰であるのか・・・宏隆はようやく気付き始めた。
 迷彩の服に、分厚いヘッドギアを付けているので顔がよく分からなかったが、そう思い直してよく見てみれば、その人は間違いなく、兄弟子の陳中尉その人であった。

 スゥーッと・・・相手の右の打撃を避けもせず、それが勝手にあらぬ方向に空を切ったと同時に、まるでスローモーションのようにその空間に入り込み、足を掛けると、相手は見事に宙に舞って倒れ、さらにその倒れた顔面に足を踏みに行って、顔の数センチ手前でピタリと止めた。

「すごい・・・!」

 思わず、それを見た宏隆が呻る。
 
「・・・よし、それまでっ!!」

 赤いグローブが相手にそう言うと、

「ありがとうございました!」

 相手は、グローブを着けた両手を額の所まで挙げて礼をし、相手に一発も当たらなかったことに盛んに首を傾げながら、リングを跨いで出ていく。

 そして、リングを降りてきて赤いグローブを外し、ヘッドギアを脱いだその人は、やはり陳中尉であった。

「陳中尉! ミスター・カトウをお連れしました!」

 宗さんが、タオルで汗を拭きはじめた陳さんに、英語で声を掛ける。

「・・ああ、Ensign Zong(宗少尉)・・・ご苦労さん!」

「エンスン?・・・Ensign(エンサイン)かな・・?? 
 というと、旗?・・いや、旗手のことだったか・・・?」

 宏隆が思わずそう口にして、宗さんの方を見ると、

「Ensign は旗手じゃなくて、”少尉” っていう階級のコトよ、坊や!」

「しょ、少尉・・・!?」

「・・そうよ! 女だてらに、って思うンでしょう? あははは・・・・」


 「少尉」と言えば、尉官である中尉のすぐ下の階級である。
 各国の海軍では凡そ、一番下に新兵の三等水兵が居て、二等水兵、一等水兵、水兵長となり、その上は「下士官」の三等兵曹、二等兵曹、一等兵曹、軍曹、兵曹長などとなる。
 「尉官」とは、准尉、少尉、中尉、大尉。 次の「佐官」とは、少佐、中佐、大佐、最上位の「将官」は、准将、少将、中将、大将、元帥、となり、このような順序で階級が上がっていく。

 少尉となるには、士官学校で教育を受けた上で確かな実績や信頼性が認められなくてはならず、軍組織を直接指揮運用する立場の一員として厳しく教育される。
 少尉は、戦場では中佐以上で構成される司令部を支え、前戦の現場では、分隊(9〜12人)または小隊(36〜48人)を預かる分隊長や小隊長の立場となる。
 宏隆が驚くのも無理はないが、先ほど基地のゲートで衛兵が宗さんに慇懃に敬礼をした理由もこれで説明がつく。

 民間人には相手の階級章を確認する習慣など無いが、改めて宗さんの肩を見れば、なるほど、階級章には少尉であることを示す、太い一本の線が入っている。
 陳中尉は、その上にもう一本、細い線が入ったワッペンがTシャツの袖に着けられている。
 中尉となれば、少尉の任務を1年以上こなした経験があり、全ての小隊を束ねて動かす任務を与えられる、名実共に一人前の士官であった。


「・・やあ、加藤さん、ようこそ、台湾海軍へ!」

 陳中尉がいつもと同じように、太極門の包拳礼で挨拶をしてくる。
 異なるのは英語で話しているということだが、たびたび米軍と合同演習を行う台湾軍では英語も必須の訓練のひとつなのだろうと思った。
 しかし、軍隊でも武門の世界でも、本来なら当然、先輩や上官に対しては下の者から先に礼を取らなければならない。宏隆は慌てて姿勢を正して、包拳礼を返しながら、

「失礼しました・・・陳中尉、本日は、お招きいただいてありがとうございます」

「おや? 私のことを “陳中尉” と呼ぶようになりましたね、ははは・・・
 こちらこそ、雨の中をよく来てくれましたね。
 それに、英語もなかなか話せるじゃないですか・・・」

 陳中尉は、いつも気さくで、謙虚さが感じられる人だ。

「はい、恐れ入ります・・
 此処へ来るときには、ホテルの程さんにもお世話になりました」

「・・秘密の地下道は、面白かったでしょう?」

「はい、あんな凄い通路が地下に隠されているなんて、驚きです」

「ははは・・・でも、日本に帰っても、内緒にしておいてくださいね。
 コトによると、まだ誰かが使うかも知れないので・・・
 そういえば、神戸にも、似たような設備があるらしいですね」

「はい、程さんは、お仕事で神戸の地下道にも行かれたそうです」

「・・お仕事(job)じゃなくて、任務(duty)でしょ、坊や・・!」

 宗少尉が、横から口を挟んで、宏隆の英語を直すと、

「・・ぼ、坊やじゃなくって、僕の名前はヒロタカです・・!」
 
 ちょっとムッとして、ヒロタカが返す。

「あははは・・・君たちは、もう仲良くなっているようだね。
 宗少尉も、まあ、あまり苛めるな・・・
 私の大切な同門なのだし、君とそれほど齢も離れていないのだから」

「Yes, Sir! でも、私は可愛がっているつもりですが・・・」


 リングでは、別の組が上がって、さっきと同じように打ち合いの訓練を始めている。
 宏隆は、打ち合いの動きには、つい目を奪われてしまう。

「加藤さんは、散手に興味があるようですね・・・」

「はい、防具で試合するのを見るのは初めてです。
 それから陳中尉、僕のことはどうぞ、 “ヒロタカ” とお呼び下さい」

「・・オーケイ、そうしましょう」

「あれは、散手・・というのですか?」

「そう、あのようなスパーリングのことを、散手、散打などと呼びます。
 あなたは、まだ王老師に教わっていないのですね?」

「はい、初めて目にします。
 組織の人は、いつも、この海軍の施設で訓練をするのですか?」

「ああ・・これは偶々(たまたま)のことですよ。
 少し前から海軍に依頼されて、この基地で格闘訓練を教えているのです。
 この中にも、組織の者を何人か連れてきていますが・・」

「あ、なるほど・・・」

「坊や・・いや、ヒロタカは、 “秘密基地” に行きたかったそうです・・・」

 またしても、横から、宗少尉が絡んでくる。

「・・そ、そんなこと言ってませんよ!」

「あら、そうだった? でも、この海軍基地も、なかなか面白くってよ・・!」

「面白いって・・何が、どう面白いんですか?」

「教えてあげてもいいけど・・ まず、私と散手してみる・・・?」
 
「・・えっ? 貴女(あなた)と・・・?」


                               (つづく)




  
       *台湾海軍基地のゲート


      
       *基隆の海軍基地に停泊中の潜水艦

taka_kasuga at 21:22コメント(7) この記事をクリップ!
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