*第11回 〜 第20回

2009年05月18日

連載小説「龍の道」 第15回




 第15回 不 動(3)


「お父さん・・・ど、どうしてそれを?」

「ハハハ・・それは、親として当然の義務ではないか。それに、南京町は、お前よりも私の方が、ずっと古くからの “客” なのだよ。
 ついでに言えば、お前の師、王先生を神戸に招き容れた人も私の旧くからの友人で、私もそのささやかなお手伝いをさせて頂いた一人なのだ」

「あ・・・やはり、お父さんとは関係が・・・!?」

「お前は内緒にしていたつもりかも知れないが、それは王先生との約束。私はその友人から、既にその辺りの経緯を詳しく聞いていたのだ」

「済みません・・師との約束とは言え、親を偽っておりました・・・」

 頭を下げて、宏隆が言う。

「いやいや、内緒にしていただけで、別に偽ったわけではなかろう。お前に騙された覚えはないし・・・何しろ、私は初めから知っていたのだからな。
 それにお前だって、私が彼らに関係していることは薄々感じていたのだろう・・?
だからまあ、そんなに気にする必要はない」

「はい・・・」

「それより、昨日はずいぶん、ご活躍だったそうだな?」

「はい・・あ、いや、いいえ・・・でも、何故そんなことまで?」

「ゆうべ、報告をもらったのだよ・・・」

「・・ほ、報告? ・・・警察が来たのですか?!」

「ハハハ・・流石の “ケンカの若大将” も、警察は困ると見える・・・警察ではない、いつも私の側に居てくれる陰の友人たちからの報告があったのだ」

「陰の・・友人・・・?」

 ・・そう聞いて、宏隆には、直ぐに思い当たることがあった。

 小さい頃、父のクルマで一緒に出かけると、黒いセダンが何処からともなく現れて、自分たちに従(つ)いてくることに気付くことがよくあった。家に戻るまで、まるで父の護衛をするかのように、着かず離れず、ずっと追従してくるのである。
 それを訝しがった運転手が父に問うと、「・・ああそうか、気にせんで良い」と、疾(と)うに承知しているような口ぶりであったことを思い出す。

 また、父の会社や自宅には、父の財力や事業を利用しようと、手を替え品を替えて、如何わしい人間がたびたび訪れ、半ば強引に暴力を以て脅しをかけるような輩まで居たが、そんな時にはいつも、どこからともなく父を護る人たちが現れ、穏便に、しかし有無を言わせぬ威圧を以て立ち去らせる・・・そんな話が母の口から出たこともある。

 父が「陰の友人たち」と言うのは、その人たちのことに違いなかった。


「し、しかし・・・」

「お前の言いたいことは分かる・・・
 学校の帰りに馬鹿な不良どもに遭遇してしまい、兄が殴られたのをきっかけに、三対一の不利を押して瞬く間にそ奴らを屠り、機転を利かせて、警察が来る前にその場を離れた。
 しかし、昼下がりのあの時間、誰も通る人とて居ない緑深い閑静な山の手の公園での出来事を、一体そのことを誰が、どのようにして知り得たのか、と・・・」

「そ、そうです・・!あそこには、あの場所には、私たち以外、誰も居ませんでした!!」

「誰も居ないように思えた・・・とも言えるのではないかな。
 彼らは本国で “陰” としての特別な訓練を積んできている。人目を忍ぶことくらいは朝飯前だよ。ちょうど昔の忍者のようなものかな・・」

「お父さんだけではなく、私たち兄弟にまで、そのような人たちが “陰” として付いているのですか?」

「そうだ、彼らは何よりも義侠心を重んじるからな。昔あった或る出来事に・・私が彼らと関わったある事柄に深く恩義を感じてくれているのだよ。
 それに、特にお前は、彼らにとっては私よりもずっと大切な人間でもあるし・・・」

「・・・・・・」

「・・ああ、ついでだが、灘(なだ)の署長には、私から一報入れておいたので、この度のお前の活躍は、事件にはならない・・・安心するが良い」

「ありがとうございました。ご迷惑を掛けて、申し訳ありません」

「ははは・・いいさ、私の若い頃は、もっと派手にやったものだ。それに、親に迷惑もかけられぬような優等生など、息子としては、ちと心許ない」

「はい・・・・」

「さて、もうメシにしよう・・稽古は、もう区切りが付いたのだろう?
 今朝はとても気持ちが良いから、外で一緒に食べることにしようか。隆範も呼んで、昨日の武勇伝でも詳しく聞きながら、な・・ワハハハハ・・・」

 父はそう言って笑うと、パンパンと手を鳴らして使用人を呼び、噴水の泉を前にした石造りのテラスに朝食の用意をするように命じ、兄の隆範もこの庭に呼ぶように言った。

「かしこまりました、先にボランジェをご用意いたしましょうか・・?」

「うむ・・・」

「’66年のものがよく冷えておりますが・・」

「それでよろしい」

 初夏の風が心地良い爽やかな朝に、久々に戸外で息子たちと共に朝食を楽しもうという主人の気持ちを汲んで、食前に主人の好みのシャンパンを添えようという使用人の心遣いに頷くと、父は、再びパイプの煙を燻らせた。

 父のパイプ煙草は、ボルクム・リーフというデンマークの銘柄で、煙草嫌いの人でも思わずその匂いに惹かれてしまうような、上質のモルトウイスキーにも似た甘く上品な香りがした。それは、いかにも世界を舞台に学び、成長して、日本の貿易の土台を造ってきた人に相応しい香りのように思えた。


 さっき、父が自ら語ったように・・・この一家は、いつの時代にも中国とは浅からぬ縁があった。

 父の光興(みつおき)は、当時日本の統治下にあった台湾で生まれた。
 宏隆の祖父にあたる、光興の父・隆興(たかおき)が、台湾総督府の高官として赴任していたためである。

 少年時代を台北で過ごした父は、祖父が邸内に呼び寄せた武術家に「内家拳」と呼ばれる中国武術を学んだ。この内家拳とは、今日、太極拳、形意拳、八卦掌などの内功拳術の総称とされるものではなく、明末に存在した北派短打拳術の一種が南方の温州に伝来したと言われる、南派拳術に近似した武術のことである。

 当時の台湾には柔道や剣道を教える日本人がほとんど居なかったということもあったが、祖父自身も武術に優れ、中国独自の武術を高く評価していた。また、光興も子供ながらそれに興味を持ち、熱心にこの異国の武術を学んだという。

 やがて祖父と共に家族は日本に戻ったが、父は上海の「東亜同文書院」という、当時アジアで最も大きな大学に留学をした。
「同文書院」は、当時の日本が中国との文化交流の架け橋を創らんとする大いなる構想を実現しようとするものであり、また、欧米諸国の脅威に敢然と立ち向かえる人材を育てる大きな学府をアジアに設置する目的もあった。そこには日本中から選りすぐられた英才たちが集い合い、優秀な者は国費で留学することが出来たが、その入学試験は日本で最も狭き門としても知られていた。

 同文書院を卒業した父は、その後数年間、見聞を深めるために大陸を放浪して歩いた。
 放浪中には或る馬賊に捕らえられてしまったが、その場で頭目の息子と激しい素手の勝負をし、その戦いっぷりが頭目に気に入られ、半ば馬賊の一員として迎えられ、そこで射撃や馬術を訓練した。
 また頭目の口利きで、馬賊と所縁(ゆかり)の深い道教の寺院を紹介され、滞在して武術の名師に就いて学ぶことを許され、幼少から身に付けた武術に更に磨きをかけた。

 帰国後には柔道で三段、剣道で五段の腕前になったが、ちょうど神戸の御影(みかげ)で琉球唐手を本土に普及するため指導していた達人「本部朝基(もとぶちょうき)」を知り、その拳理の高度さに感動し、熱心にその武術を学んだ。
 それは「御殿手(うどんでー)」と呼ばれる、琉球王家を外敵の侵略から守るための、王族だけに伝えられる特別な武術であったが、父が幼少から学んだ内家拳や大陸の道教寺院で学んだ武術にも共通するものが多くあったという。

 父が学んだ武術はそのように多岐に亘っていたが、その実力は、終戦直後の神戸三宮駅構内でわがもの顔に乱暴狼藉を働いていた三国人の暴力集団にただ独りで立ち向かい、やがて武器を手に加勢に駆けつけた仲間が徐々に増え、総勢が三十名ほどにもなったが、全員を完膚無きまでに叩きのめし、その内二十数名を病院送りにしたというすさまじいエピソードだけでも、充分に理解できるものであった。

 日本の警察力自体が GHQ によって弱体化されていた当時、その事件は大きなニュースとして市民の知るところとなり、敗戦のショックから覚めやらぬ人たちに大きな勇気を与えた。また、そのニュースは、同じ思いでその暴力集団を一掃しようと独自に自警団を結成し始めていた、神戸の有名な日本人暴力団組長にも深い感銘を与えたという。

 やがて父は、親族が経営する商社にしばらく身を置いて経営を学んだ後、自ら新しく貿易会社を興して青年実業家となった。事業は祖父の旧友たちの惜しまぬ援助もあって見事成功し、今日、神戸でその名を知らぬ者はなく、特に自他共栄の精神でアジアの力を高めようとする真摯な姿勢は、アジア諸国から大きな信頼を得るものとなった。


 その息子、宏隆に、実業家の才があるかどうかは兎も角・・・大学生の不良グループ三名を瞬く間に一蹴してしまった彼の武術の才は、紛れもなくその父の血を色濃く受け継いだものに違いなかった。

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2009年05月08日

連載小説「龍の道」 第14回




 第14回 不 動(2)


 通用口の内側から、建物に沿って細い砂利道を廻っていくと、芝生の庭に出る。
 北側にある日本庭園や茶室のある数寄屋造りの屋敷とは違って、南側の庭はふだん家族が起居する洋館の前に広々と造られてあった。

 その母屋から少し離れたドーム形の四阿(あずまや)の前には、噴水のある泉があって、それを囲むように大理石の石畳が円形に敷かれ、そこから望む庭には、よく手入れをされた芝生が広々と敷き詰められている。
 緩やかに南に下って行くその広い斜面には、所々に楠(くすのき)やアカシアなどの小高い樹々が初夏の葉を鮮やかに繁らせていて、更にその樹々の頭を超えて神戸の街と港が見渡せる。

 この庭は、幼い頃から宏隆がよく好んで遊んだ場所であり、今では格好のトレーニング場であった。

 四阿の傍の、大きな楠が影を落としている芝生にドッカリと座り、腰を曲げ、或いは反りながら、手足をゆっくりと伸ばして、身体を整えていく・・・
 少し腿の辺りが硬いのは、ムキになってペダルを踏みすぎた所為らしい。

 ・・そうしながらも、頭の中には、昨日の出来事が思い出されてならない。

 宏隆には、昨日、学校の帰りに不意に自分たち兄弟に降り掛かったアクシデントへの対応が、どうにも自責の念に駆られて止まないのである。
 昨夜、部屋を訪れてきた兄の隆範に、自分が密かに南京町で太極拳を学んでいることを説明してからは、なおさらその思いが強くなっていた。

「あの対応は、決して褒められたものではなかった・・・」
 
 ・・・振り返って、そう思えてならないのである。

 現に、「ケンカの若大将」などと渾名される自分が一緒に付いて居ながら、兄は不良のボスに危害を加えられているのだ。
 なぜあの時に、兄への危機を、初めの一撃を未然に防げなかったのか・・・あれ以来、宏隆にはそのことが悔やまれてならなかったのである。

 あの時、兄に向かって「もう少し恩に着て欲しいな・・」などと、冗談を口にしたが、内容的に、とても兄を助けたことになっていないのは、自分が一番よく知っていた。

 相手が不良のボス程度の実力で、たまたま自分が見くびられていたから何とかなったようなものの、もしあの時、相手が刃物でも持っていたなら・・
 それも不良大学生ではなく、闘争に熟練したプロか何かであったなら、兄は完全に刺されていただろう、と思える。

 たとえプロでなくとも、相手が兄にもっと強烈な恨みでも抱いてれば、その有無を言わさぬ執念が致命傷に至ってしまうような、そんな最悪のケースも考えられるのだ。
 そう思うと、自分の未熟さと、生来の暢気さから来る状況判断の甘さが、つくづく情けなく思えてならなかった。

 護身術、などという類いのものではない・・・武術とは、もっと動(ゆる)ぎの無いものでなくてはならない、と思う。

 相手がこう来たら、こう躱して、こう反撃する、などといった訓練が何の役にも立たないことは、すでに東亜塾に於いて、剣術や柔術を学ぶ中で理解していた。
 武術の訓練の中心である「型」は、実戦の雛形として作られてはいないのである。
 それは、武術の絶対的な “構造” を得るために細密に工夫されたものであり、それを理解することなく、実戦の雛形として何万遍繰り返そうとも、実際の戦闘の場面では何の役にも立たないのだ。

 宏隆はそのことを、自身のケンカ三昧の経験から、よく識っていた。
 ケンカにはルールも反則も無いし、それを咎める審判も居ない。此方が素手でも、相手は武器を持っているかも知れないし、途中から出してくるかも分からない。
 出場資格も経歴も問われず、相手がどのような人間かも判らないので、どんな狂気の輩を相手にすることになるやも知れない。
 相手が素人なら兎も角、競技用のスポーツ武道を、どのような場合にもその格闘技術が通用すると思えるような考え方は、実に危険極まりないことなのである。

 武術として修得すべきことは、打つ、蹴る、受ける、躱す、などといったことの表面的な工夫ではなく、「絶対的な原理」なのだ、と思える。

 もっと深く、もっとトータルに・・
 相手がどうあろうと、絶対に負けない・・・
 絶対に殺されない、絶対に打ち負かせるような・・・

 ちょうど、自分が王先生に向かって行ったときのように、何をやってもまったく通じず、自分の攻撃がひたすら無効にされてしまうような・・・
 そんな高度な原理を持つ、真の武術を追求していかなければならない。

 ・・・宏隆は、自分を省みて、素直にそう思った。

 そして、そのような高度な武術原理を修得するためには、かつて王先生が自分に語ったように、その原理を知る人に正しく教わり、謙虚に正しく学ぶ必要がある。

 真正な武術家に就いて、弟子としてそれを学べることの希有な幸運を得られたことを、あらためて、とても有り難いことだと、宏隆は思った。


 ・・・先刻(さっき)女中のハナに向かって「もう少し動いて汗をかく」と言ったのは、もちろん、彼が密かに学んでいる陳氏太極拳の訓練のことである。

 青々とした芝生の上で・・
 宏隆は海の方に向かって足を三尺ほどに広げ、まるで馬にでも跨っている様な、見るからに奇妙な格好をして立ち、手は眼下に広がる神戸の港をすっぽり両手で抱えるように、肩の辺りまで挙げて、不動のまま身じろぎもせず、ひたすらその場に立ち尽くしていた。

 南京町の地下の秘密の道場に通い始めてから、すでに一年以上になる。
 しかし、宏隆は未だに太極拳の戦闘法はおろか、武術らしく見える動作のひとつさえ教わっていない。教わったのは「柔功」と呼ばれる体軸を整える訓練と、数種類の基礎の訓練のみであった。

 陳氏太極拳は現在でこそ数多(あまた)ある太極拳の源流として知られているが、宏隆の時代、この70年代初頭の日本では、その存在を知る人など皆無に等しく、「太極拳」という言葉さえ全く一般的なものではなかった。

 この数ヶ月後・・・つまり1972年の9月には、田中角栄・周恩来の両首相によって、日本と中華人民共和国との間に「日中国交正常化」と呼ばれる共同声明が行われ、翌73年には、訪中団の日本人が初めて「簡化太極拳24式」を中国で習うことになる。

 日本人が初めて太極拳として知ったのは、そのような「表演競技や娯楽のための運動」として共産党政府が新たに編纂した保健運動の太極拳であり、毛沢東によって三十年余に亘って禁止された徒手格闘の軍事技術・・・何百年もの間、乱世を生き抜いてきた純粋な「武術」としての太極拳が日本人の目に触れる機会はまったく無く、ましてその源流として一族だけに秘匿され続けてきた陳氏太極拳を知る人など、この当時に誰も居るはずがなかった。

 事実、陳氏第十九世の嫡孫である陳正雷氏が初めて来日したのは、それから更に十年を経た1983年のことであり、武道研究家の松田隆智氏が70年代の初めに台湾の「武壇」で学んだ太極拳を元に『秘伝・陳家太極拳入門』を著したのも77年のことであった。


 陳氏太極拳は、宏隆がそれまでに学んだことのある日本のスポーツ武道とは全く内容が違っていた。特に、当時急速に流行しつつあったフルコンタクト形式の空手とは学習体系が全く異なっており、そこには競技試合に勝つための闘争術とは根本的に違う、絶対的な勝利を修めることを目的とした、軍事技術としての「武術」であることを実感させる緻密な基礎訓練が整備されていた。

 その基礎の訓練は「基本功」と呼ばれ、いま彼がやっている「ただ立っているだけ」の練功もそのひとつである。
 それは「站椿(たんとう=Zhan-zhuang)」と呼ばれるもので、毎回の訓練の初めに行われ、上達した後も重要な課題とされ続ける、最も大切な基礎のひとつであった。

 しかし、正確に言えば、それは「ただ立っている」のではなく、周りから見れば、まるで「ただ立っているだけのように見える」訓練法なのである。
「立つ」ことによって身体の構造を整え、日常で無意識的に、習慣的に用いている運動法則を否定し、ひたすら武術としての独自のチカラを出すための “構造” に変容させることが、この「站椿」と呼ばれる練習法の目的であった。

 宏隆は、すでに30分ほどもその姿勢のまま立ち尽くして居たが、やがてその格好のまま、身体が微細に動き出し、次第にゆっくりと腕を動かし始めた。

 動かす、と言っても、見た目にはほとんど動いているようには見えない。
 けれども、よく目を凝らして見れば、それは非常に小さく、また非常にゆっくりと・・・前に、後ろに・・・上下に、左右に・・・と、腕だけではなく、身体全体が頭から足の先まで、内側からの力で微妙に動かされているのが分かる。

 そして当の宏隆自身は、ほとんど不動のままに見えるにも拘わらず、まるで激しい運動を行っているかのように、顔は上気して赤らみ、たくさんの汗を足許に滴らせている。
 もし傍らで注意深く観察していれば、脈拍や呼吸の数さえ、明らかに平常より大きく上昇しているのが判るはずであった。

「不思議な訓練・・・・」

 初めてそれを目にした者は、誰もがきっとそう思うに違いなかった。


 港を見下ろす広い庭には、朝凪を過ぎて吹く海からの風が、心地よくそよぎ始めている。それを機(しお)に、その訓練もそろそろ収めようかと、呼吸を平常に戻し始めた途端・・

「・・・少しは、上達しているのか?」

 いきなり、背後から声を掛けられて、宏隆はギクリとした。

 決して大きくはないが・・・まるで突然頭の上から落ちてきたような、太く、張りのある・・しかし、それは宏隆のよく知る声であった。

 慌てて挙げていた手を収めて振り向くと、傍らの噴水の脇に置かれた石造りのベンチに、父の光興(みつおき)が腰掛けていた。

「あ・・お、お父さん・・・・お早うございます」

 いつの間に、そこに来ていたのか・・・
 家族に内緒で学んでいる太極拳の訓練の最中に、突然現れた父の姿にちょっと慌てながらも、きちんと姿勢を正して、朝の挨拶をする。

 涼しげな紺の紬(つむぎ)の着流しに、淡い臙脂(えんじ)の角帯を締めた父の姿は、ただそこに座っているだけでも凛々しく、堂々として見える。
 そして、若い頃には相当鍛えたことが窺える厚みのある立派な体格は、強さというよりも、むしろ人間として積み上げてきたものの大きさを感じさせる。

「お早う・・・ どうかね? 少しは上達してきたかね・・?」

「・・じょ、上達とは、いったい何のことを・・・」

「フフ・・惚(とぼ)けんでも良い、お前のことは何でも知っているぞ・・・」

 静かにそう言いながら、懐からパイプを取り出し、よく慣れた手つきで火を点けて、美味そうにそれを一服吸うと、

「お前の修行も、もう、かれこれ一年にもなろうかな・・・・
 私が “知っている” と言ったのは、お前が学んでいる陳氏太極拳のことや、王先生との、南京町での秘密の稽古のことだよ・・・」

「え・・ええっ・・・!?」

「・・おお、そうだ、ついでに、昨日のケンカの武勇伝もな! ワハハハハ・・・」

 豪快に笑いながら、父の光興(みつおき)は、再びパイプに煙を燻らせながら、あらためて、ゆっくりと宏隆の目を見つめ直した。

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2009年04月28日

連載小説「龍の道」 第13回




 第13回 不 動(1)


 朝・・・太陽が昇ってまだ間もない時間、神戸の山の手は人影もクルマもまばらで、樹々を行き交う鳥たちの囀りだけが賑やかなひとときとなる。

 風は凪いでいるが、空気は澄んでいて、眼下に見下ろす港の景色が昼間よりもひときわ鮮やかに見え、所どころに犬を連れてのんびり散歩する紳士や、神社の石段を掃く人、玄関先に水を打つ人、ショートパンツ姿で颯爽とジョギングをしている外国人女性の姿なども見られる。

 ・・そんな朝の景色を巡るように、宏隆は風を切って自転車を飛ばしていた。
3キロほど離れた所にあるベーカリーに、焼きたてのパンを取りに行くためである。

 そのベーカリーは「FREUNDLIEB(フロインドリーブ)」と言って、神戸では有名なドイツパンの老舗であった。
 使用人に取りに行かせれば済むことなのだが、父の光興(みつおき)は、宏隆が小学校の三年生になる頃から毎朝欠かさず、予約したパンを取りに行く役目を彼に与えていた。

 山の手の家から、坂を下る・・・
 生田川に架かる橋を超えて少し西に向かって走ると、左手の柳坂の角に、大岩に彫られた不動明王を祀る古い杜(もり)がある。
 宏隆は、パンを取りに行くときには必ずこのお不動さまに立ち寄り、きちんとお参りをすることを毎朝欠かさなかった。

 神戸っ子によく知られる、この「柳坂のお不動さん」は、宏隆が生まれたばかりの頃に母の親族が彫ったもので、次のようなエピソードが伝えられている。

 母の叔父にあたるその人は、当時、京都で呉服商を営んでいた。
 商いは栄え、代も息子に替わって悠々自適の暮らしをしていたが、ある日夢枕に不動明王が火炎を背負って現れ、「神戸の北野の森に大岩があるので、それに私の姿を彫ってその地に祀れ」・・と仰った。

 その叔父は特に信仰があったわけでもなく、まして彫刻などとはまったく無縁で大いに戸惑ったが、ともかく気になって神戸に出かけてみたところ、夢で告げられた通り、広い森の中に大きな岩がポツンとひとつ転がっていた。
 翌日、石屋を雇ってその大岩を足場の良いところに据え、試しに職人の鑿(のみ)を借りて岩の前に立ってみると、不思議なことに自然に手が動き出して石を彫り始めた。
 それまで半信半疑であった叔父も、これは真に不動明王の御意志であると信じ、その日から七十二昼夜に亘って、形振り(なりふり)構わず、ほとんど飲まず食わずの状態で一心不乱に彫り続け、ついに不動明王のお姿をその岩の中から掘り出した。

 その後、京都に戻った叔父は彼の地を買取り、不動明王をお祀りする杜(もり)を造るように家族に言い遺すと、翌日から原因不明の病で昏睡状態となり、三日後に息を引き取ったという。
 母は、小さい頃から姪として可愛がって貰ったその叔父を供養するためか、まだ幼い宏隆を連れて、何年もの間、雨の日も風の日も毎朝欠かすことなく、そのお不動さまに参詣を続けた。母が宏隆を伴ったのは彼の生まれ年の守り神が大日如来であり、不動明王は大日如来の化身とされる故でもあった。

 ・・・そんな経緯があって、宏隆も、毎朝欠かさずお参りをする。
 彼にとっては不動の杜に立ち籠める線香の匂いは、心鎮まる安息の香りであり、母がお参りをする度に幾度となく祈り唱えた「不動真言」は、母の背で安寧の裡に聴いた子守歌に他ならなかった。

 霊験灼かな柳坂のお不動さまには、今日も早朝から蝋燭の献灯が絶えない。
 宏隆はいつもどおり、真夏でも冷んやりとする薄暗い参道を通り抜けて、火炎を背負い、降魔の剣を手にした、憤怒の形相のお不動さまの前に立ち、賽銭を入れて不動真言を幾度か称える。

「ナゥマクサンマンター、バーサラダンセンダン、マーカロシャーダー・・・」

 決して、意味も分からず、無暗に称えているわけではない。彼の血液には何かを未知のままに放置しておくような半端さは無かった。すでに中学に上がる頃には図書館でその真言の意味を調べ、原文のサンスクリット教典の内容を理解していたのである。


 お参りを済ませ、家族全員の無病息災と自分の武芸上達を祈ってペコリと頭を下げると、再び外に停めてあった自転車に飛び乗り、風見鶏のある異人館通りを横切ってハンター坂を下って行く・・・・

 勢いよく車輪が転がるのに委せてしばらく坂を下ると、やがてカトリック教会が見える頃には、焼きたてのパンの匂いが、もう、その辺りに香ばしく漂ってくる。

 自転車をキーッと停めてその店に入ると、カウンター越しに見える棚の上に、たくさんの食パンが蒸れぬように紙袋の口を開けたまま並べられてあり、その内のひとつに「加藤様」と紙に書かれた札が貼られているのが見える。
 棚に並んだパンに付けられた名札には、神戸という土地らしく、英語で書かれているものや、フランス人や回教圏の人の名前まで見受けられた。

 ドイツパンは、周りを硬く焼いたハードタイプが主流である。
 時間をかけて自然発酵をさせ、特製の煉瓦の釜で焼き上げられたパンは弾力性に富んで、身がギッシリと詰まっており、噛むほどに、食べるほどに、その味わいが増す。
 しかも、これはただのパンではない。その一個のパンを、発酵させてから焼き上げるまでに、実に6時間もの手間をかけて造られているのであった。
 パンの種類も豊富で、その美味しさには飽きがこない。家族は皆この老舗(みせ)のパンを愛し、宏隆が小さい頃から朝の食卓に欠かすことがなかった。


 店に入ると、一段と焼きたてのパンの香りが鼻をつく・・・
 予約の名札が貼られたパンの袋を指差すまでもなく、馴染みの宏隆の顔を見つけた年配の店員が、それを棚から取りあげながら声を掛ける。

「・・あ、加藤さま、お早うございます、今日は少し暑くなりそうですね」

 宏隆のような若い学生にまで、きちんとした挨拶で応対する・・・
訪れる人にとっては、そのような店の気風がとても心地よく感じられた。

 どのような店でも、その店の質は「客が作る」とはよく言われることである。
 店員の躾けが良いのは神戸という土地柄もあるのだろうが、この店を訪れる客たちもまた、たかが一個のパンを作るためにわざわざ6時間もの手間を掛けるという心意気を持ったこの店に対し、それを敬う心で対等の礼を尽くせるような育ちの良さを持った人たちに違いなかった。


「・・そうだね、でも僕はもっと酷く暑かったり、寒すぎるぐらいの方が元気が出る」

 店員の言葉を受けて、宏隆が返す。

「おや、生粋の神戸っ子にしては珍しいですね、爽やかな気候はお嫌いですか?」

「そりゃ僕だって、アラスカやサハラ砂漠より神戸やエーゲ海の方が好きに決まっているよ。
でも、あまり心地よい気候に慣れると、人間、バカになってしまうと思わないか?」

「うーん、私は馬鹿になっても良いから、心地良いところで暮らしたいですね・・」

「ははは・・・僕もきっと、歳をとってからそうするさ・・!」

 そんな言葉を交わしつつ、自転車の荷台の籠にパンを放り込むと、ありがとうございました、と言う店員たちの声を背に受けながら、早くも帰路の急な上り坂に向かって、力を込めてペダルをこぎ始めた。

 坂道の途中には、まだ朝露を付けたままの紫陽花が初夏の光に煌めいていた。



「・・・宏隆さま、お帰りなさいませ!」

 家に着くとすぐに、ハナと呼んでいる女中が飛んで出てきて、自転車の荷台の籠から、パンの包みを大事そうに取り出す。

 劉(りゅう)という姓の中国人であるハナは英惠(ying-hui)という名前だが、自分で日本風に「はなえ」と読んでいる。
 年齢も宏隆とそう違わない英惠は、三年前に台湾から家族で神戸に渡って来た。
日本に来てすぐこの家に住み込んで奉公するようになったが、よく気が利いて頭も良く、近ごろは加藤家を訪れる外国人に応対するために英会話の勉強もしている。
 英惠の家は、台湾ではそれなりの家格を持つ家だったそうだが、事情があって家族ごと日本に移住してきたのだという。
 ハナはスマートで足が長く、目鼻立ちは漢族というよりも、遠く西域の血液がどこかに入っていることを想わせるエキゾチックな美人である。
 それに、よく礼儀を重んじ、何に付けても外見よりも中身を大切にする心があることは、今どきの日本人の若者には見習って欲しいほどであった。

「あらあら、大変な汗のコト・・お食事前にシャワー、お使いなりますか?」

 まだ中国訛りが抜けない日本語で、ハナが宏隆を気遣って、そう言う。

 ほとんど上り坂ばかりの道を思いっきりペダルを漕いできたので、彼のシャツはそのまま絞れるほど汗まみれであった。

「いや、いい・・・ついでに、このままもう少し汗をかくことにする」

 ・・・そう言って、庭の方に向かって歩き出した。

「それでは、お朝食の準備、でき次第、お声掛けます!」

 ハナが宏隆の背中に向かってペコリとお辞儀をしながらそう言うと、

「・・ああ、そうしてくれ」 

 振り向きもせずにそう答えたが、ふと、足を止めて、

「あ、それと・・」

「・・ハイ、何か?」

「もう、晩メシに海老フライはたくさんだぞ!」

 ハナの方に振り返り、冗談を言って、笑う。

 ハナは、普段から宏隆の悪口に慣れているのか、少しプイと怒って見せながら、

「ご安心なさいマセ、本日はスズキ・シェフに代って、オリエンタルのフクハラ・シェフ、厨房に来られるのコトね。きっと美味しいフレンチ料理、沢山召し上がれますでしょうネ!」

「・・・ほう、きっと父も、お前の料理にはつくづく辟易したのだろう。
鈴木シェフがフランスから帰ってくるのを、もう、誰もが待ちきれないんだ!」

「ムッ・・ソなこと仰ると、もう二度と作って差し上げませんのコトね!」

「あはは・・そうだ、もう二度と作るんじゃないぞ。
あんな海老のフライがあるものか! 衣はボテボテ、中身はヨレヨレ、エビの臭みも抜けていない・・・この際、まともな海老フライの作り方を、そのオリエンタル・ホテルの、何とか言う、代りのシェフに教わるといいぞ!」

 そう貶(けな)したものの、ハナが珍しくしょんぼり俯(うつむ)いて消沈している様子を見て、ちょっと気になって、

「・・・そう、アレ以外なら・・・まあ・・・まあ、食べられなくもないからな・・・
うん、そうだ・・・勉強さえすれば、お前もきっと一流のメイドに・・・」

 しかし、気休めを言いかけた宏隆の言葉をさえぎるように、

「・・あら! 後から取って付けたように賞めても、もう駄目のコトね!!」

 怒ったようにそう言うと、ハナは厨房の裏口のドアを開けて、そのままプイ、と中に入るそぶりを見せたが、すぐにそのドアから顔だけ戻して出し、にっこり微笑んでみせた。
こんな時のハナの笑顔は、メイドとは思えぬほど、ドキリとするほど美しかった。




       

          *昔のフロインドリーブ。右隣は「にしむら珈琲・北野店」


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2009年04月18日

連載小説「龍の道」 第12回




 第12回 南京町(7)


 その明くる日から・・・

 学校が退けると、すぐに南京町の秘密の入り口のある店に行き、K先生と一緒に来たときのように地下の部屋まで行って、三週間のあいだ、宏隆は実にさまざまな「テスト」を受けさせられた。

 テストには、初めてここに来た日に、飾り棚の裏に隠された秘密の扉からヌウと出てきた、あの金剛力士のような男が通訳を兼ねた助手として常に付き添った。
 男は、どこから見ても中国人に見えるが、口を開くと驚くほど日本語が上手だった。

 すでに此処へ通う前に、テストの内容はおろか、その場所や出来事についても、だれにも・・たとえ家族や恋人にも、時が来るまでは決して口外してはならないという厳しい約束を王先生とK先生の二人に交わしていた。

 南京町のその秘密の店、「祥龍菜館」の店員たちは、いつ来ても宏隆を普通の食事客として扱うような顔をして、「いらっしゃいませ」と、にこやかに彼を迎え、客として彼を予約専用の個室である一階の「奥の間」へと案内した。

「この店の従業員は、当然、全員が秘密結社の構成員なのだ・・・」

 そうと思うと、普段この南京街で気楽に食事をしていた自分が全くの世間知らずに思え、同時に、なりゆきとは言え、とんでもないことに首を突っ込んでしまった気がして、少しばかり・・いや、正直なところ、本当にこれでよいのかと、少なからぬ後悔の念もあった。


 そして、瞬く間に、その三週間が過ぎた・・・

 全てのテストを終えた翌日、その同じ部屋にK先生を交えて、王先生と三人で同じテーブルを囲んでいた。王先生の後ろには、期間中に通訳や助手の役を務めた大男が、相変わらずの巨きさで立っている。

 王先生の手許には、この三週間、宏隆がどのようにそのテストに関わってきたのかを示す厚いレポートが置かれていた。
 王先生は、そのレポートの内容を指さしながら、隣に座っているK先生と中国語で何やら話しながら頷き合っている。


 自分は間違いなく不合格だと、宏隆には確信を持って思えた。

 ・・・テストは、困難を極めたのである。

 テストを受ける場所も、南京町の秘密の地下ばかりでなく、週末であれば泊まり掛けで、摩耶埠頭の倉庫街に隠すように設けられたヘリポートから奥六甲の山深くにヘリコプターで連れて行かれることもあれば、暗くなるのを待って淡路島までゴムボートで行き、誰も来るはずのない入り江に聳える断崖で、命懸けの登攀テストを強いられることもあった。

 それは、いま想い起こせば、基本となる身体能力や闘争能力は無論のこと、判断力、対処能力、忍耐力、決断力、行動力、生存能力など・・・一人の伝統武術家の許に入門するための試験と言うよりは、まるで情報部員か特殊部隊の卒業試験として設けられたような、多岐多様にわたるものであった。
 
 そして、やること為すこと、テストとして試されることのすべてが全く思いもよらぬことばかりで、実際のところ、テストというよりも何かの特殊な訓練ではないかとさえ思えるようなその内容は、宏隆にとっては大変厳しく、それを完遂するには余りにも困難に過ぎた。
 事実、宏隆はその三週間の間に三度も、本当に死ぬかと思えるような状況に遭遇させられたのである。

 肉体的にばかりではない、それにも増して精神的にも、自分がどれほどのものかを厳しく試されているのだという事を、気が狂うのではないかと思えるほどの大きなストレスの中で、幾度となくその重圧に喘(あえ)ぎながら悟らざるを得なかった。

「ダメだ・・・これでは合格するわけがない!」

 悔しかったが、テストが始まって三日もしないうちに、宏隆には心底そう思えたのである。


 そして、その悪夢のような三週間の後に・・・
 その地下室で、まるで法廷で有罪判決を待っている容疑者のように、くたびれ果て、意気消沈して、俯(うつむ)き加減に座っていると、

「君は、私の太極拳を受け継いでくれる気持ちはあるかね・・・?」

 王先生が、静かにそう訊ねてきた。

「私の武術は、今ではたいへん貴重となった、古くからの伝統的なもので、もう、それほど若くもない私は、後を継いでくれる優れた資質を持つ若者を探しているのだ」

「今回のテスト以外にも、失礼ながら、君について少し調べさせて貰ったが・・
 君はその資質や性格、血統や家庭環境と共に、気学でいうところの九星や天干、中国古来の姓名判断などを詳しく観ても、私たちが驚かされるほどの、全く申し分のない人間だ。
 それらのデータは、君が千万人に一人という、天性の資質を持ち合わせた人であることを示している・・・」

「もし、君さえ良ければ、私たちの “家族” の一員となって、私が受け継いだ武術のすべてを君に伝え、君にもきちんと、それを正しく受け継いで、後の世まで遺していってもらいたいと思うのだが、如何だろうか・・・」


 意外にも・・・王先生はそう言われた。

 あまりにも予期しなかったその言葉に、
宏隆は口を開いたまま、しばし呆然としていたが、

「・・で、ですが、ご存じの通り、この三週間のテストの中身は、まさに惨憺たるもので、全く何ひとつ、私がまともに出来たものはありません。
 肉体的にも、精神的にも、自分にはこのような優れた伝統を学ぶ資格など何も無いのだということがはっきりと分かります」

 宏隆は、自分が感じたままを素直に告げたが、

「いや、君は合格だ・・・
 テストとは、もちろん何かを試すということに他ならないが、今回はそれを完遂出来るかどうかを問うたのではなく、それに対して君がどのように対応するかを、様々な状況で詳細に試させてもらったのだ・・・」

「出来たか、出来ないかと言えば、内容的には、君はほとんど出来なかった・・・
しかし、出来なかった事をそれほど気に病むことはない。それは出来なくて当然なのだ。
 それらは必ずしも出来るようには仕組まれていなかったし、その中には特別に訓練された人間でさえ脱落者が出るほどの内容も含まれていた・・・」

「人は、何を為し得るかではなく、どのように立ち向かったかという事で決まる・・・
 ものごとに対する姿勢を、その向かい方を観れば、結果はどうあれ、その人の凡その器量は分かるものだ。私たちは君の “向かい方” を試したかったのだ・・・」

「君は、なかなかよくやった・・・
ただの負けん気が強いだけの若者であれば、決して君のような姿勢は見られなかった筈だ。
 このテストによって、君は、私たちが求めるところの資質を充分に持っている人だということが、私たちにはよく理解できたのだ」

 優しく、噛んで含めるように・・・
王先生は、気落ちしている宏隆に、分かり易くそう説いてくれる。
その語り方は、どこか、父に似ていた。


 そして、続けて・・・

「もし君が、私の武術を、十全に受け継いでくれる意志があるのなら、
私は君に、私の知る武術の、すべてを伝えたいと思っている」

「・・・君には、それを正しく受け取る用意があるだろうか?」

 王先生は、静かにそう訊ねた。


 安易に答えられるような問いかけではなかった。

 太極拳を教えてやる、とか、今日から何処かの教室に通って武術を学ぶとか、そういった話ではないのだ。それを受け継ぐのに充分な資質があると言われたが、本当に自分にそのようなことが出来るのだろうか・・・

 それに、王先生が中国人の秘密社会に関わる人間で、その“家族”の一員になるということにも、正直なところ、何やら得体の知れない、全く未知の世界を感じて躊躇する気持ちもある。
 しかし、考えてみれば、親しく教えを受けているK先生は、そのような社会と繋がりがありながら、人間としても自分が最も尊敬する師として存在しているし、実際にこのような場所を根城とする社会を知った上、このテストで組織と大きな関わりを持ってしまった今となっては、すでにその世界に片足を突っ込んだのも同然であった。

 そして何よりも・・・
 宏隆にとっては、たとえそれがどのような危険な選択であっても、それが一般の常識から見てどれほど外れていようとも、王先生の、あの驚異的な武術をトータルに学べるということの方が、それらの不安な要因をはるかに超えて、大きく彼の心を捉えて放さなかったのである。

 何百年もの間、幾世代にもわたって伝承され、繰り返し研究し続けられ、選ばれた者にのみ、その真実が密かに伝承され、実際の戦いに次ぐ戦いの歴史の中で、より強力に、より高度に発展し続けてきた、太極拳という武術・・・
 その源流の高度な武術を得た人から、それを「十全に受け継いで欲しい」と自分に言われることの、その意味の深さを、その言葉の重さを、若い宏隆は懸命に感じようとしていた。


 どれほどの時間を、そうしていたのか・・・

 宙を見つめたまま、沈黙を続けていた宏隆が、
 やがて、何かが吹っ切れたかのように、突然、席から立ち上がり・・

 三週間前の、初対面の時と同じように、あらたまって床に正座し、
 王先生に向かって姿勢を正し、床に手を付けて、

「どうか、お願いします。 
 私に、王先生の武術の・・その太極拳の、すべてを教えてください」

 ・・・きっぱりと、そう言い切った。

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2009年04月08日

連載小説「龍の道」 第11回




 第11回 南京町(6)


 ・・・突然、宏隆は立ち上がって席を離れ、きちんと正座し、手を床に着いて王先生に向かい、初めてその人の名を呼んで、そう告げた。

 K先生はその様子を目にして、黙って王先生の方を見たが、その人は表情も変えず、瞬きひとつせずに、じっと足許の宏隆を見つめている。

 宏隆は、思わずその人の目を見てしまったために、目を逸らせなくなった。


「強い・・・・」

 決して相手を威圧するような眼光ではないのに、つい目を背けてしまいたくなるような、軽々しく奈落の深みを覗いてしまったような、そんなエネルギーが、この王先生の眼にはあった。

 しかし、ここで目を逸らせたら、この人はきっと自分のことを「弱い」と思うに違いない。
ダメだ、こいつは弟子として相応しくない・・と。

 この人に、あの驚異の武術の技を学ばせてもらうには、何としてもここで目を逸らせてはならない、と思う。

「・・ま、負けるもんか」

 そう思って頑張ってはみるものの、見開いて乾いた眼には、その意に反して、だんだん涙さえ滲(にじ)んでくる。
 少しでも、ほんの僅かでも、自分の呼吸が逃げや諦めのそれに変わってしまったら、この人は自分を軽蔑し、きっとモノにならない人間だと思うことだろう・・・

 そう思うと、意地でも目を逸らせるわけにはいかなかった。


 どのくらい時間が経っただろうか・・・
 そうして土下座を続けながら、王先生の目を凝視し続けている宏隆の頭上に、やがて静かに優しい声が響いた。

「もし君が本気でそう望むのなら・・・特別に、教えても良い・・・」

「えっ・・・! ほ、本当ですか?」

 K先生に通訳をされて、その場で躍り上がりそうになったところに、

「ただし、テストをする必要がある・・・」 

 ・・水を注すように、そう畳み込まれた。

「まず、君は外国人だ。私たちは同じ民族の人間以外にそれを教えたことは無い。
君に教えることが出来るとすれば、それは特例中の特例と言える。
 さらに、君の学びたいという意志がどれほど本気で、君が本当にそれを学ぶだけの価値がある人間かどうかを、きちんと見極めなくてはならない。
 これは特別な武術であって、妄りに雑多な人間に教えるわけにはいかないのだ。
私たちには、昔からそのようなルールがある。これは君と私だけの問題ではないのだ。
 それでも、そのテストを受けてみる気があるかね・・・?」

 テストをする、と聞かされて、やや気が引けたが、もうこうなったらやるしかなかった。
 宏隆にはもう、今となっては引き下がれないという意地よりも、この素晴らしく高度な武術への興味の方がはるかに勝っていて、「君と私だけの問題ではない」などと言われた意味を深く考える余裕もなかった。


「・・・はい、どのようなテストでも、受けさせて頂きます」

 それを受けることの意味も禄に分からず、これから起こることの後先も考えずに、兎にも角にも、それを学びたい一心でそう即答すると、

「では、明日から三週間、続けてここへ通って来なさい」

 ・・・と言う。

「さ、三週間・・・・?」

「そう、君がこの武術を学ぶのに相応しい人間かどうか、この地下に、今日と同じように通って、毎日毎日、三週間、つまり二十一日の間、連続してテストを受け続けるのだ」

 三週間の長きに亘っての、自分が試される日々・・・
 そのような試験など、まったく経験したことがないので想像の仕様もないが、一体そんなに長い期間を使って何のテストをされるのだろうかと、少し怯んだ。
 何しろ自分が教えを乞うている相手は、ついたった今、自分の常識も、いささかの自信も、何もかも木っ端微塵に砕いてのけた、異国の見知らぬ武術の達人なのである。

 しかし、今の宏隆にはもう、それを受けることしか選択は残されていない、ということしか考えられなかった。

「わかりました・・・よろしくお願いします・・・・」

 大きな不安の中で、しかし再びキッパリと返事をしたが、そう言った瞬間から、何やら自分の運命が大きく変わってしまったような気がして、身体中に身震いが走り、そして次の瞬間には、全身の力が抜けていくのを感じた。



 やがて、その帰り道・・・

 すっかり暗くなった南京町の通りを後にして、少し海の方に向かって歩きながら、まだ放心状態のままで居る宏隆に、K先生がポンと肩を叩いて言う。

「・・ほら、私が言ったとおり、あの人は、君の人生を変えただろう?」

「はい・・・そして、とても怖ろしかったです」

「ハッハッハ・・そうか、そうか、アッハッハッハ・・・」

 宏隆の答えが予想どおりだったことに、K先生はいかにも満足そうであったが、愉快そうに笑うK先生に、宏隆が訊ねた。

「・・先生は、なぜ僕に、あの人を引き合わせようと思ったのですか?」

「うむ、それは・・・
それは、ひとりでも多くの、まともな人間をつくりたいからだよ」

「人間を・・つくる・・・・?」

「そうだ・・・・ 
 国ほろびて山河あり・・・

 この国は、先の戦争でアメリカに負けてしまったが、日本が、まるで実験場のように二度も原爆を落とされるまで、最後まで頑張って戦い続けたお陰で、アジアの国々は欧米列強からの侵略を最小限に食い止めることが出来たのだ。
 日本が戦わなければ、欧米のアジアへの植民地支配は、現在でも平然と続けられていたに違いない。
 しかし、連合国の東京裁判なるもので、一方的に日本が全て悪者にされたばかりか、反対にアジアの非道な侵略者などというレッテルを貼られてしまったがね。
 ・・・勝てば官軍とは、よく言ったものだ。

 先の戦争を語るには、事はペリーの来航にまで遡らなくてはならない。
欧米列強の覇権に対抗するために明治維新が起こったところから、それは始まっている。

 君たちが学ぶ歴史は、W.G.I.P・・・War Guilt Information Program と言って、占領支配国であるアメリカの GHQ の方針と指導に基づいて作られたものだ。
戦後、四半世紀が過ぎても、未だにそれに従うことを影のように強いられているのだよ。

 だから、当然ながら、教科書には載っていない、本当の歴史がある・・・
 そんなことは、私たちのように、実際に欧米の覇権と戦い、戦後の一方的なアメリカ支配を耐えてきた日本人なら、誰でも分かっていることだがね。
 歴史もまた、その時々の社会を支配する力関係によって、いくらでも真実が書き換えられてしまう。教科書も、放送も、新聞も、政府の方針も、すべての内容がそれに添って書き換えられてしまうのだ。

 君には、まだピンと来ないかも知れない・・・
 しかし、君のような、これからの時代の若者は、そのように訂正されることのない真実こそを、正しい歴史こそを、きちんと学ばなくてはならない。

 戦後、日本は、わずかな年月でこれほどまでに復興した・・
この成長ぶりには、かつての欧米列強たちは皆、度肝を抜かれている。
これは私たち日本人の、民族の底力を証明するものだ。
 これからは益々経済が発展して、日本が世界の経済に大きな影響を与えるようになる。
 戦勝国のアメリカが、性能の良い日本製の電化製品や自動車を嫌というほど買わざるを得ない日がやって来るのだ。やがて世界中が経済恐慌に見舞われるような時が来ても、日本は最も必要とされる国になるだろう。

 しかし、人はクニが造る・・・
 私たちを育んできた国土の、この美しい山河が、人をつくるのだ。
 山河が乱れていては、まともな人間は育たない。

 経済復興と、占領後の、戦後の見かけの平和や繁栄に浮かれていると、資源の貧しい我が国は、やがてボロボロになってしまうし、狡猾な国々からの、内部への侵略を容易に許してしまうことになる。

 君のお父さんが貿易を仕事に選んだのは、決してそれが商売として儲かるからではなく、いま、この国に貿易をきちんと整備していく必要があるとお考えになったからだ。
 それは、とても意味のあることだ。
 君のお父さんのような、本当の意味で日本人としての誇りを持って、世界に向かって堂々と生きようとしている人間が、もっと増えなくてはいけない・・・」


 K先生の話は、宏隆に説いて聞かせているようで、また、そのようでもなかった。
しかし、その話は、イデオロギーなどというものを超えて、人間として、日本人として、深く共感するものがあった。

 日本人であれば誰もが持っているはずの、この国を愛し、この民族を愛し、この国の行く末を案じ、憂うるひた向きな精神は、まだ政治経済はおろか、ここ百年の日本の歴史にさえ疎い若い宏隆の心にも、自ずと水のように浸透してくるのだった。


「・・・そして、美(うま)し国・・・美しい国は、人が造る。
まともな人間が正しく活躍できてこそ、ようやく国は立派に栄えるのだ。

 現在(いま)、この国の文化まで根絶やしにしてしまおうとする動きがある。
 この国の人間たちを堕落させ、後々まで内外からの侵略を容易にする為の入念な下地作りをしている、とても卑劣な力があるのだ。

 それは、目には見えない、銃やミサイルとはちがう、ウイルスのような敵だ・・・
 非常に強(したた)かで、狡猾で、数十年から百年という長い時間を掛けながら、内側からジワジワとこの国を滅ぼそうとする、途轍(とてつ)もなく巨きな謀略が、昭和20年の終戦と同時に、私たちの国の中で着々と進められている。

 このままでは、経済的には多少豊かにはなっても、ひとつの民族としては、堕落する一途をたどるのが目に見えている。あと二十年もすれば、この国の若者たちは誰も “国家” などということを想わなくなってしまうだろう。

 だからこそ、今のうちに、人を造らなくてはならない。
 本当に “道理” のわかる人間を・・・
 人として、国として、何を為すべきかが解る人間を、造らなくてはならない。
 
 そうすれば、その人間はまた、新たにまともな人間を育てることができ、
 この国は、そう簡単に滅ほされることはなくなる・・・」



 まるで、何かの詩歌でも詠むように・・・

 K先生はそう話し終えて、遠く、淡路の海に懸かっている月を見上げた。


「ヒトをつくる・・・」

 そう反芻しながら、宏隆もまた、海に懸かる同じ月を見上げた。


 K先生の言葉のひと言ひと言が、宏隆の心に大きく残っていた。
 しかし、その言葉の深意をさぐるには、今日の宏隆はもう、あまりにも疲れ過ぎていた。

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