練拳 Diary

2017年01月26日

練拳Diary #76「教示されていること」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私たちはよく、稽古時間が長いことについて驚かれることがあります。
 自分たちでははそれほど気にしていませんでしたが、確かに一般武藝クラスでは1回4時間強、健康を目的とする人が集まる健康クラスでも2時間から2時間半程度行われ、研究会ともなると1日10時間前後に及ぶ稽古が行われています。
 もちろん、稽古時間は長ければ良いということではなく、そのクオリティが問題であるということは、常日頃より師父からご指導を戴いているところです。

 トップアスリートのトレーニング方法にしても、巷では「長時間の練習は身体を壊す」とか「一流と二流の違いは、練習と休息のスケジューリングの違いにある」など、様々なことが言われていますが、彼らの普段の練習量と生活スタイルを見てみれば一概に長いとダメだというわけでもなく、まさに三人三様であることが分かりますし、結局のところ成績を残しているプロの人たちは、ジャンルを問わず食事と練習量と身体の回復に重点を置きつつ、自分に合ったトレーニング方法を確立しているわけです。そして、それは国を守る任務にある軍人であっても同様です。

 さて、今回私が述べたいのは稽古時間の長さの話ではなく、その長い稽古で行われている中身についてです。
 稽古では、歩くことだけで2時間が過ぎるということも珍しくありません。それも、ただ延々と同じことを繰り返すのではなく、太極拳という武術に必要とされる歩法とは一体どのようなものであるのか、その歩法が戦闘時にどのような役割を持つのか、正しく歩くために身体をどのように整える必要があるのか、という説明に始まり、そのためのトレーニングを入れながら、日常生活ではさほど気にしていなかった「歩く」ということについて、じっくりと取り組み、学んでゆくのです。
 ときには師父と一緒に歩いて動きを比べ、ときには障害物を設けて歩くなど、様々な方向から歩法を検証する中では、私たちはその人間の理に適った歩法のシステムに驚き、感動させられます。更にはそれが歩法だけに留まらず、基本功や対練へと繋げていけることに、太極拳の学習体系の大きさと厚みを感じずにはいられません。
 最も驚くべきことは、その歩法の集大成が直接戦闘技術に結びついている点です。
 いきなり「散手」とはいかなくとも、対練で相手が攻撃してくるものはもちろん、組みついて倒しに来るものまで、その歩法の理論を知っているのと知らないのとでは、結果に雲泥の差が出てきます。それこそ、勁力と拙力の違いと言いましょうか、相手への影響の現れ方やチカラの種類が明らかに異なってくるのです。
 つまり、私たちが教わる「歩法」とは、単なる一般的な歩き方や足の使い方とは異なり、太極拳の構造から生じる高度な身体操作そのものであり、それが相手にとっては非常に戦いにくく、制しにくい状態を生み出します。

 ところが、私たち門人にとっては無論のこと、太極学を学問として研究するための材料としてみてもたいへん貴重なその指導内容は、師父から見ればご自身が学び修得され、さらに長い年月を掛けて研究発展させてきた全伝の内容からみて、僅か5%にも満たないものだと言われます。
 私たちが普段の稽古で教示され、これこそが太極拳の深奥であると歓喜し感動しているものが、実はわずかに5%であったとは誰が推測できたでしょうか。
 そして、その5%からは、とても全体の100%を想像することはできません。一体どのような内容がそこに内包されているのか、どれほど考えてみても、すでに我々の想像の範疇を遥かに超えてしまっているように感じられます。

 しかし、幸いにも私は、普段教示されている5%以外のほんのささやかな数%を指導されたことがあります。ひとつは対練に於ける要点について。もうひとつは、この新年早々に行われた、正式弟子特別稽古でのことです。
 当然ながら、その稽古内容について此処で書くことは許されておりませんが、普段から一般門人とは異なる高度な内容を教わっている彼らが何に驚き、感動したかということについて、書いてみることにします。

 特別稽古は、普通なら誰もが期待するような派手な吹っ飛ばし方や、高度な纏絲勁理論の教授、套路の第何段階目を稽古する・・といった内容ではありませんでした。むしろ地味で静かな感覚を覚えるような、じっくりと太極拳そのものに自分を浸して染め上げていくような稽古であると言えます。
 稽古が進められる中で何度となく繰り返し聞こえてくるのは、彼らの「すごい!」という言葉でした。何がそんなに凄いのかと言えば、その指導の仕方が通常の稽古とは異なり、ある練功では先ず示されたことをその通りに行い、その中で新たな感覚が生じてきたときに、初めてその感覚が何であるのか、その時に生じた現象が太極拳での何にあたるのかを説明されます。
 それは最初から説明されるものではなく、恐らくそれが稽古中に生じることがなければ、その後も一切説明されなかったのではないかと思われます。つまり、取るも逃すも自分次第だという緊張感をリアルに感じさせるものだったのです。その点だけを取り出しても、まさに「生きた稽古」と言える、伝承というものが決して紙に書かれた秘伝書の受け渡しなどでは為し得ないことを感じました。

 また、太極拳の学習に必要なひとつのことを理解するために、様々な方向からアプローチをしていくことは一般の稽古でも行われていますが、そのひとつひとつが普段とは比べものにならないほど細かいものでした。
 その中には、

 『なぜ站椿で立つ必要があるのか』
 
 『太極拳に必要な身体とはどのようなものか』
 
 『套路とは、何を練るものなのか』

 ということも含まれていました。

 対練でも、最初の対練から次の対練、そしてまたもうひとつの対練へと、架式やスタイルを変えて行われる稽古は、全て段階的に繋がったものとして実感することができます。そのために、相手を如何に遠くまで飛ばすか、などということではなく、なぜ「四両撥千斤」が可能になるのか、なぜ「用意不用力」を理解しなくてはならないのか、その大元を辿ることができるのです。

 特別稽古で行われた稽古内容が、全伝の何パーセントにあたるのかは皆目見当がつきませんが、その日の稽古の始めと終わりとでは彼らの立ち姿も変わり、軸は強くしなやかなものに変容したと感じられました。そして何より、各自の太極拳に対する考え方がより鮮明になってきたと感じられたことが、印象的でした。
 ──────これは、教わらなければ絶対に分からない。套路の形を覚え、推手の数をこなすようになっても、太極拳を教わったことにはならないし、ましてや太極拳を知ったことにはならない。そんな感想を覚えました。


 今年に入ってから、稽古の指導内容がより繊細に、よりダイナミックにパワーアップしているように感じられます。
 それは、一般武藝クラスで指導されていることが研究会レベルに近いものだったりすることが多々見受けられ、その度に研究会に所属する門人は目を丸くして話を聴いていますし、平日の稽古で行われたことを正式弟子に伝えると、その内容の高度さに仰天するのです。
 師父が凄いことを仰ったときには、決してその場で騒がない。それは私たちの中でいつしか秘密を守るためのルールとして根付いたようですが、それでもやはり隠しきれずに、表情や仕草に動揺が現れてしまいます。

 太極武藝館では「健康太極拳クラス」の高齢者でも二十代の若者を軽々と飛ばしてしまいますが、太極拳のすごさは、誰もが容易に相手を飛ばせるようになることではなく、その戦闘方法をトータルに理解するための学習システムが精密に整備されていることにあると、私は思います。
 確かに、その詳細は師父について順序よく教わらなければ理解できませんし、伝承の性質上、正式弟子のための特別稽古と一般門人のクラスを同じ内容で行うことは出来ません。
 けれども、示される形も質も、説明される言葉さえも一切そのシステムを外れたものではなく、それは正に太極拳そのものなのです。つまり、私たちが注意深く耳を傾け、示されることを正しく観ることができれば、それは初めからすでに目の前に在ったということが分かるはずです。

 新年も早くもひと月が過ぎようとしていますが、一段と高度になった稽古内容や、それに伴う門下生の成長の様子を見ても、今年は色々な意味でとても楽しみな年となりそうです。

 皆様にとって、実り多き良い年となりますように。

                                 (了)


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2016年12月08日

練拳Diary #75「武術的な強さとは その19」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 『太極拳は、それほど難しい武術ではない』──────────とは、師父が稽古中に度々仰る言葉です。師父が “それほど” と仰るのは、私たちがあまりにも難しいことに向き合っているように見えるからかも知れません。
 確かに、太極拳は簡単かと問われれば、私は難しいと答えます。なぜなら、示される太極拳のメカニズムが、自分が知る範疇を遥かに越えているからです。

 太極拳のメカニズム。それは学習を深めるほどに、日常で見慣れたシステムとはあまりにも掛け離れたものであるように思えますが、しかし科学的に説明できないことはひとつもなく、条件を満たせば誰でもそのメカニズムを実感し、体験することが出来ます。
 太極拳のメカニズムについては、少々タイトルから外れてしまうので、また改めて思うところを書いていきたいと思いますが、今回はその条件を満たすために必要な『自己修正』について考えてみます。

 人が何かを学ぼうとする時というのは、新しい発想や考え方を養いたいときや、自分の知らない技術を身につけたいときだと思いますが、正しいことを身につけるためには必ず修正が必要になるということを、誰もが認識しているはずです。
 そして、人が何かを学ぼうとする行為は、我が身を正しく立てて行きたいという気持ちの表れでもあり、それが潜在的であるか顕在的であるかは取り敢えず置いておいても、人としての成長を望み、向上心を持って自らの人生に向き合おうとしている状態だと言えるのではないでしょうか。
 だからこそ、成長のシステムを知る人たちは、他人に本を読んで世界を広げることや趣味を持つことを勧めるのだと思います。

 何かを学び始めたときには、目の前に広がる未知の世界に感動し、ささやかな発見にも喜びを覚え、更なる勉強意欲が湧いてくるものです。それは、何かを与えられていたのでは分からなかった素晴らしい体験であり、目に映る全てのものが輝いているとさえ思えるような気持ちにさせてくれます。
 しかし、その勢いもそう長くは続かず、行く手を壁に阻まれたと感じられるような、どのようにも進めない時期が訪れます。私はその原因を「物事と自分の都合との相違」と考え、自己修正の時期として取り組むようにしています。

 人間は、物事に対して自分の都合の良いように思い込み、その思い込みをさらに正当化することが出来る生き物です。自分が好きで学びたいと思ったことに対してさえ、そうなのです。ましてや自分の嫌いなことや苦手なことに対しては、思い込みとさえ気がつかないことが山ほどあるに違いありません。
 自分の学びたいことが、趣味の領域を越えて芸術の世界にまで入っているなら、それはとても幸せなことだと言えると思います。なぜなら、壁に行き当たった場合に、それを誤魔化すことも出来なければ、自分の都合を正当化するということも出来ないからです。
 武術の世界ももちろんそうです。なにしろ、自分の命が掛かっているわけです。やられてしまったらどのような言い訳も誤魔化しも意味を成さず、そこでお終いなのです。壁に行き当たったからといって、さっさとやめて次に行けるようなら、残念ながら武術の世界が命懸けの世界だと思えていなかったか、趣味に向かう心構えでも通用すると思い込んでいた可能性が大いに疑われることでしょう。

 そもそも、行き当たった「壁」を何であると捉えているのか、そこが問題です。
 自分の実力が及ばないのか、それともその物事が難しすぎるのか。私はそれについて呆れるくらい悩みましたが、出てきた答えはそのどちらでもなく、先ほども述べた自分の都合との相違であったのです。
 自分の都合とは、簡単に言えば、自分がやりたいことを、やりたいときに、やりたいようにやることです。拳打の場合には、自分が打ちたいタイミングで打ちたいように打つということになりますが、それでは実戦どころか稽古の約束組手でも相手に当てることは難しいでしょう。武術でなくても、例えばただご飯を炊くということでも、自分の都合では上手に炊けないのです。
 最近、研究会の稽古の休憩時間には、各自が持参していたお弁当の代わりにお米とキャンプ用のガスストーブを道場に持ち込み、自分でご飯を炊いて、汁物やおかずを作る光景が見られます。そのご飯も、お米の量と水加減、火加減、そして炊く時間に蒸らす時間と、美味しく炊くためには自分の都合をやめて、それらのこと全てに耳を傾ける必要があります。
 僅かに20分前後の短い時間で結果が出ます。生煮えでもなければ酷い焦げにもならない程度の、ホカホカでふっくらとした美味しいご飯を炊くために、誰でも少しずつ修正を重ねるのです。適確にやっても適当でも、それ相応の結果が出るのです。
 自炊で考えてみると、自己修正とはそれほど大変なことではなく、ひとつの物事を完成させるために必要な、単なる「過程」であることが分かります。
 それでは、ご飯を炊くことに何度失敗しても「壁」とは感じられないのに、練拳など自分が学びたいことに関しては「壁」と感じられるのはなぜでしょうか。

 私の場合には、まず自分の「都合」が分からなかったということが挙げられます。
 例えば、普段歩く時に大腿四頭筋の蹴りを使った方が都合が良いと考えて歩く人がいないように、物事の修得を阻む自分の都合を認識できていなかったのです。その状態で何回その事を指摘されようとも、認識できていないものは修正しようがなく、ただ “できない” ということだけが残ります。
 認識するためには、誰かに指摘してもらう程度ではダメなようで、自分で徹底的に自分のことを追究するしかないと思います。自己認識は簡単ではありませんが、自分勝手を戒め、自分のささやかな考え方をもしっかりとキャッチしていくことで、ずいぶん多くのことが見えてきます。そして、ここが一番肝心なところだと思うのですが、そこで見えてきた自分に対して、自分が嫌になっているかどうかです。「これではいけない!」「このままではダメだ!!」という想いの強さに比例して修正が可能になると、私は思います。
 これが、先ほど述べたように誰かに指摘してもらうだけだと、やはり他人の意見として聞いてしまうのです。所詮は自分のことを分かっていない他人の言葉だと。本当は、他人の言うことに耳を傾ける余裕さえ無くなっているのですが、そのような自分の事さえよく分からなくなってしまうのです。
 こうなると、向上心に満ち溢れていた自分はどこへやら、前向きだった自分はいつしか後ろ向きになり、「壁」と面と向かわないことで心の安定を図ろうとします。そして、一度逃げてしまうと、その一時の心の安寧がクセになり、やがて逃げ癖がついてしまいます。

 きっと、誰でもそのような状況に陥ったことがあるのではないでしょうか。そして、そのような負の連鎖からの脱却方法は、人それぞれに自分で導き出してきたはずです。
 私は、弱い自分、情けない自分がほとほと嫌になったことがあります。もちろん1回ではありませんが、一番最初に心底嫌になったときに、それまでは自分を嫌だと思ったことがなかったことに気がついたのです。なんとも衝撃的な発見だったことを今でも覚えています。
 誰でも、ご飯は美味しい方が嬉しいし、きれいな車に乗りたいと思うことでしょう。けれども、まずいご飯が嫌でなければ美味しいご飯は作れません。汚い車が嫌にならなければ、車を洗う気にはならないのです。それが出来ないどのような立派な理由を持ってきてもダメなのです。自分がそれを選んでいるし、決定しているからです。
 生活の中で様々なことと上手に折り合いをつけているつもりが、いつの間にか自分の都合を優先することとすり替わっていないかどうかが、自己修正の鍵となるでしょうか。人間は簡単に自分を正当化できてしまいます。

 自己認識の作業はずっと終わりがないような気がしますが、私は太極拳という大きな存在があることで、とても役に立っています。太極拳と係わっていると自分勝手にも気儘にも出来ませんが、代わりに、そんなことはほんの一時の表面的な安らぎに過ぎないことを教えてくれました。

 いつだったか、師父が天ぷら職人の話をしてくださいました。
 一流の天ぷら職人は、自分で満足のいく天ぷらを揚げられるのは、年に2回あるかどうかだそうです。それはきっと、それ以外の364日間の修正の結果なのでしょう。


                                 (つづく)


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2016年10月29日

練拳Diary #74「武術的な強さとは その18」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 突然ですが、「武術的な強さ」には、“戦いのセンス” が含まれていると思います。
 なぜなら、鍛えられた逞しい身体があっても、兵法を熟知していても、また素晴らしい武器を所有していても、それらを使える頭がなければ持っている実力を十分に発揮できないからです。その「頭」のところに、「センス」と呼ばれるものもあるのではないでしょうか。
 よく、最新のスマートフォンを持っていても、実際に使っている機能は何分の一か?、などと言うことも聞かれます。同様に、ポルシェに乗っても走れないとか、素適な洋服を買っても1年に1回着るかどうかなど、日常生活を省みても、所有することと使えることはまったく別の話だということが分かります。

 「センス(=sense)」とは、日常でも「洋服のセンスが良い」とか「料理のセンスがある」など、よく聞かれる言葉です。
 改めて辞書を引いてみれば、

 『物事の真意を感じとる心のはたらき。感覚。官能。(広辞典)』

 『物事の微妙な感じ或いは意味を悟るはたらき。感覚。思慮。分別。(広辞苑)』

 『物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの。判断力。思慮。良識。(大辞泉)』

 ・・と、あります。
 なんとも内側に染み込んでくる言葉で、普段自分がセンスという言葉を用いるときにはもっと軽い意味合いで使っていたかも知れない、と思います。
 特に、センスという言葉に「判断力」という意味が含まれる点に於いて、とても腑に落ちるような感覚を覚えました。

 判断力。物事の真意を感じとる心のはたらき。
 こうして見ると、確かに武術的にも重要であると思えますし、日常的にも、特に他人との関係性の中で重要なポイントになるような気がします。
 考えてみれば、武術とは基本的に自分以外の人間との戦いであり、生き残るため、或いは家族や仲間を守るために命の遣り取りをするわけですから、戦う相手との関係は、ある意味 “究極の人間関係” と言えるのではないでしょうか。

 さて、少し武術から離れて「センス」について想いを巡らせてみると、センスが光っている人というのは、やはり魅力的に感じられます。それは単純に服装や話し方が上品だというだけではなく、それらのセンスが光るだけの裏側の努力がある、つまり、“物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き” から滲み出てきた結果の輝きなのではないでしょうか。
 なぜこのような話をするかと言えば、そのことが当然武術にも関係するからです。
 人間は、何をしていてもその人の人間性が表れているわけで、向かう対象によって色々と使い分けられるような器用な生き物ではありません。洋服のセンスにしても、普段よれよれのジャージをなんとなく着ている人が、一流のフランス料理店に行くときだけはビシッと決まるかと言えば、残念ながらそんなことはないのです。
 よれよれのジャージが悪いのではなく、そこに “微妙な点まで悟る働き” がないことが、たとえアルマーニのスーツに着替えても滲み出てしまう、ということなのです。そしてそこにある考え方が、武術的なセンスに影響しないはずがありません。

 先日、人にセンスが育まれていく光景を目の当たりにする機会がありました。それは、太極武藝館の研究会メンバーを中心とした合唱練習中のことです。
 始まりは、札幌稽古会・佐藤会長の御還暦祝賀会にて、何か本部からも余興をひとつ行いたいということからでした。あれこれと意見が出る中、師父のご提案により「師父作詞作曲による、お祝いの歌の合唱」となったのです。
 お祝いの歌?、合唱??、いやいや、師父の作詞作曲ですって?!・・と、稽古直後に発表された私たちには寝耳に水の話でした。

 我こそは歌声に自信あり、という人がひとりも居なかったためか、第1回目の練習から問題が山ほど出てきました。二部合唱でハモるどころの話ではありません。音が取れない、リズムが取れない、歌声がしゃべり声になっている等々、仕方のないこととはいえ正に音楽の素人集団丸出しの状態だったのです。
 音楽を専門にして来たスタッフによると、師父が作曲された曲はリズムや音の取り方が難しい高度な歌だということで、そんな専門家の意見にちょっぴり救われるも、目の前の課題がなくなるわけではありません。平日の稽古が終わる夜の11時過ぎから、師父が今回の合唱のために購入されたヤマハのシンセサイザーとモニタースピーカーをセッティングし、深夜1時、2時まで歌の稽古です。

 お祝いの歌なのに、きれいな歌声が出ていない。それは腹筋が足りないのか、曲のイメージが取れていないのかと、にわか合唱部のように腹筋のトレーニングをしたり、師父による曲の細かく豊かなイメージを取るためのレクチャーを繰り返すことが続きました。
 参加した誰もが、道場で歌の練習が行われることに何の疑問も持たなかったのは、それが稽古以外の何ものでもないことを、最初から肌で感じていたからだと思います。
 それはたとえば、

 決められた音を出すことは、示された形を即座に真似て取ること。
 同じパートの人と合わせることは、推手で相手と合わせられること。
 複数のパートと合わせてハーモニーにすることは、対練で複数の人に対応できること。

 ・・などが挙げられます。
 歌の練習で生じる問題点は、日頃稽古で指摘されている各自の問題点とそっくりそのまま一致するのです。ひとりだけ大きな歌声でも、音痴だからと声を控えめにしても、どちらにしてもハーモニーにはなりません。
 声質も、ボリュームも、リズム感も異なる人たちと合わせて、さらに指揮者を務める師父と合わせてひとつのものを作り上げるにはどうしたら良いのか。全員で師父の曲のイメージを表現し、会長にお祝いの気持ちを届けるにはどうしたら良いのか。
 繰り返される練習の中で見えてきたことは、自分の持っている目盛りでは粗すぎて到底使い物にならないということでした。それこそ、“物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き” が決定的に欠けていたのです。
 私たちが徹底的に行ったこと。それは、繊細な感覚を育んで目盛りを細かくすることでした。誰かに指示されたわけではなく、自分の必要性としてそれを感じてそこにチューニングしていったのです。

 本番が近づいてきた頃、本番同様に伴奏無しで歌を録音してみました。
 iPhoneで録音されたその歌を聴いたときの感想は、全員一致で「汚い!」という惨憺たる結果で、思わず頭を抱え込んだほどでした。
 札幌まで飛行機で駆けつけてお祝いの歌がコレでは、やらない方がマシかも知れない。そんな気持ちが皆の胸中にあったかも知れません。けれど、ここで諦めたら一体何のために今まで頑張ってきたのか。武術家のプロの端くれとして修練を積んできながら、歌一曲まともに歌い上げられないなら、所詮は太極拳もその程度だと言い聞かせる姿が、そこにはありました。

 参加門人に「ある意味普段の一般クラスの稽古よりキツイ」と言わしめた練習の甲斐あって、時々上手に聞こえるようになってきました。それが、出発までもう日がないという本当にギリギリの時です。結局、合計練習回数は19回行われましたが、全員が毎回出席できたわけではないので、フルメンバーで合わせられたのは僅か数回です。
 実らなければ、育ててきた意味がない。なんとか成功させたい。そんな気持ちで出発当日を迎え、飛行場に集まったときには、全員が厳しい稽古を潜り抜けてきたような、あたかも身体も意識もボロボロの様子だけれど、清々しい気持ちで顔を合わせました。

 そして本番。今までで最高の、全員がベストを出し切った歌声が、会場に響いたのです。
 札幌稽古会の皆様からは、大きな大きな拍手を頂きました。何より、お祝いの歌を贈った佐藤会長に喜んで頂き、感動して頂けたことが、私たちの約1ヶ月にわたる努力の結晶のように感じられました。
 本番直前にホテルの一室で音を合わせたときに全く合わずに冷や汗を掻いたことや、自分たちの余興が終わるまでは食欲どころではなく、お酒や料理もあまり進まなかったことなども、本番で大成功に終わった後では笑い話となりました。

 本当に、良い勉強をさせて頂いたと思います。
 普段の稽古だけでは中々知ることができなかった自分の考え方や問題点を、違う角度から見ることが出来ました。また、それを真っ正面から突きつけられることによって、それをどのようにクリアしていったら良いのか、また、本当に人と合わせることは何であるのか。それらのことを、毎回の練習で衝撃を受けながら学んだ気がします。
 参加者ひとりひとりが、「自分はこのように歌いたい」という主張を持って始まった練習は、時間を掛けてじっくりと、協調と調和のハーモニーへと変化していきました。

 師父は仰います。
 『音を合わせる、ハーモニーを奏でるということは、とても内家拳的である。相手ときっちり合わせることで、相手は何をされているのか分からない状態になる。打たれた気がしないのに打たれている、攻撃されたように思えないのに倒れている。それは相手と合っているからだ。それに対して外家拳とは、相手の音と外すことで攻撃が可能になる、という考え方だと言える』と。
 短期間とはいえ、音楽というものに濃密に係わってきた私たちは、その考え方の違いを身を以て実感しました。

 札幌での祝賀会を終えてまだ数日ですが、少しずつ歌の練習の成果が稽古にも表れているような気がします。それは、技術的なことよりも、意識的、感覚的なものかも知れません。
 “物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き” ───────各自の目盛りは、きっとますます細かくなったに違いありません。

                               (つづく)



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2016年09月26日

練拳Diary #73「武術的な強さとは その17」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 武術を修得するために最も必要なこと、それは何でしょうか?

 努力、忍耐、根性、理解力・・と、思いつくままに挙げれば色々と出てくるものですが、武術の修得にはどれも必要であると思えてきますし、加えてそれらのことはどうしたら自分に備わるのか、という疑問が出てきます。
 そしてそれは武術に限定された話ではなく、何に係わっていようとも誰でも人間の問題として行き当たることであり、ある意味、人生を活き活きと生きるために必要なことであると言えると思います。

 よく、幼少期に習い事をさせると根気や集中力が養われるという話を聞きますが、自分の周りにいる人を見ても、習い事の有無と根気や集中力との関係は明確には表れていないように感じました。それでは、何事に対しても継続出来る人と、いわゆる三日坊主で終わる人とでは、一体何が違うのでしょうか。
 ひと言で言えば、意識と志が高いか低いか、その程度に由るのだと思いますが、私は自分の経験から、意識と志を支えるものが「自分を律する力」であると思うのです。その支えがないと意識も志も高めていくことは難しく、良くても元のまま、悪ければ反対に低くなり、やがては挫折へと繋がるのだと思います。
 考えてみれば、人が成長することを目的として自分を投じるところには、必ず日常には無い規則が存在します。それは、日常を持ち込んでいては何事も現状以上のことを達成するのは不可能であることを示していると同時に、自分の中に規律を生じさせることを目的としているように思えます。

 少し話が飛びますが、ここで「食事と音」について話をしてみます。
 食事のマナーは、世界規模で見れば様々なマナーがあるようですが、一般的には食事中にガチャガチャと音を立てるのは不躾とされています。一緒に食事を楽しむ人が不快な思いをしないよう、守られるべき最低限のルールとして誰もが心に留めているものですが、さて、それでも一切の音を立てないのは不可能です。また、音を気にするあまり食事を楽しめないのでは本末転倒です。
 禅寺では、もちろん食事中に音を立てることは厳禁ですし、たくあんをバリボリと音を立てて食べることもできないと聞きました。けれども、やはり全く音を立てずに食事をすることは難しいでしょう。
 このような、「食事」という人間にとって欠かすことの出来ないことに於いて、日常と非日常とでどのような違いがあるのか、私は以前から興味がありました。そしてある時、面白いことに気がついたのです。

 それは、フランス料理で名の知られたマキシム・ド・パリのマナー講習会に行ったときのことです。
 実際に食事を楽しみながらの講習会では、恐らくはギャルソン(Garcon=給仕をする人)の見習いだと思われる若い男性が、主任の監督の下でお皿やグラス、料理のサービスを行っていました。
 その中で、重ねられた何枚もの大きなお皿を片手に持ち、もう片方の手で一枚ずつお客に出すシーンがあったのですが、そのサービスの仕方に無駄な動きがなく、大きなお皿を扱っているにも係わらずお皿同士が触れるカチリという僅かな音しかさせていなかったのです。そして、一枚目のお皿を配るときから最後まで、音の大きさは変わりませんでした。
 心地よく次の料理を待つ気持ちを一切妨げないそのサービスに、私は驚きました。
 音がしているのに、気にならない。それは、音が小さかったからなのでしょうか?

 そのことがあってから、「音」と「ルール」の関係に更に興味を持つようになりました。
 たとえば、茶事。
 私は茶道を本格的に学んだことはなく、師父の設計された茶室でお茶の真似事を経験したに過ぎませんが、茶室という独特の空間で殆どの動作が静寂の中で行われるのに、お点前の最中には、茶道具を置く際にわざと音を立てるところがあります。
 或いは、掃除。
 掃く、拭く、雑巾を絞るなど、音の立つ所作ばかりですが、京都のお寺で和尚さんが掃いていた竹箒の音は、掃除をしていることを感じさせない、心地よいものでした。それらはまるで、音を含めた規矩がその空間に表れているかのようだったと記憶しています。
 私たちが庭の落ち葉を掃くときの音は、どのように響いているのでしょうか。

 さて、このように見てくると、非日常の世界では「音を立てること」が戒められているわけではないことが分かります。ルールが存在するどのような世界でも衣食住から離れて生活することは出来ず、生活を無音で過ごすことはできません。しかし、好き勝手に音を出すことは厳しく戒められる。そのことから導き出されるのは、戒められているのは音を立てることではなくその人の「無意識」だということになります。

 これで、なぜ非日常の世界には細部にまで厳しいルールが存在するのか、私たちにとって何が「日常」で何が「非日常」であるのか、答えはもう目の前に見えているはずです。
 日常の所作であるが故に、日常を持ち込めない規則を設ける。
 それは、自分を越えることを人生の目的として修行してきた先人たちが発見した知恵であり、また後に続く人々への親心でもあるのだと思います。

 先日のCQC特別講習クラスでは、師父から、脳を老化させる一番の原因は “独りよがり” や “自分勝手” であるというお話がありましたが、独りよがりにはルールが必要ありません。むしろそれがあると自分勝手にできないので、まるで手枷を外すようにルールを外したくなることでしょう。その心地よさがいつしかクセになり、やがて自分を律すること、人間として成長し高めていくことが億劫になってくるのです。
 人は誰でも大変なことよりも楽なことの方が良い生き物ですが、それでもこの世に生を受けた理由は楽をすることではなく、自分を成長させるためだと感じていることも事実だと思います。

 自分を律することに目覚めるには、まず自分の無力さ、非力さ、情けなさに直面するのが一番手っ取り早いと、私は思います。
 たとえば、ひとりで野原に出掛けて一晩をそこで過ごしてみれば、嫌でも己の無力さ、怠惰さと向き合うことになります。
 それがたとえ整地されたキャンプ場であっても、自分で寝起きするスペースを考えて選択し、風向きと相談してテントをきっちりと張り、最適な場所に火を熾し、空腹で疲れ切った自分のために今夜の食事を作り上げる。面倒だからと言って整地をせずに火を熾し始めたりすれば、その場で倍の面倒となって自分に還ってきます。そしてそのためにまた走り回らなければならないけれど、太陽は非情にも刻一刻とその姿を山に沈めていきます。
 私が初めてソロでキャンプを行ったときなど、ゆっくりとキャンプを楽しみ始めたのは、すっかり日も暮れて空一面に星が瞬き、あまり美味しくない夕飯をすっかり平らげて、後は小さな焚き火を前に温かい飲み物を頂くばかりになった頃でした。

 ホッと一息ついたときに感じたのは、自分の都合で動いても通用しないということです。
 荷物の置き方も、火の管理も、虫との格闘も、食事の仕度も、その場所での全ての行動は「我が儘」にできることなど何ひとつとして無く、その都度求められたことは、思慮深さや感受性、協調性など、「受容性」に係わることばかりでした。

 人は、こう思うかも知れません。
 たったひとりで出掛けたのだから、思う存分好きなように勝手気儘に過ごしたら良いじゃないかと。それこそ日常の喧騒を離れて大自然の中で大地の息吹を感じるアウトドアの醍醐味ではないか!、と。
 私は、そうは思いません。
 普段何の疑問を抱くこともなく自分の周りに在る、家や火や食料などの日常が無い状況では、それらの物がいかに整備され、利便性を追求されているかが、しみじみと感じられるものです。
 自然の中ではそれを自分の力で整えなければならず、そのためには自分の「我が儘」を排除して「法則」に耳を傾ける必要が出てきます。なぜなら、「我が儘」から出た行動では実際の成果が出てこないからです。そしてその「法則」を見出すためには自分の中に「規律」がなければならず、その「規律」こそが稽古で指導され続けている「自己統御」の素に他ならないのです。

 私は、自分を統御できることこそ人生の課題のような気がしています。
 日常から非日常の道場へと足を運ぶことを繰り返しても、そこで得られる成果はたかが知れています。日常を非日常として認識し、自分の人生そのものを道場だと思えるかどうか。そうでなければ、何かひとつの物事を修得することも、ただの夢で終わることでしょう。

 用意不用力──────────
 太極拳の大原則として第一番目の要訣に挙げられている言葉の重みが、今ようやく感じられる思いです。


                                (つづく)



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2016年08月31日

練拳Diary #72「武術的な強さとは その16」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 「武術」について考えたとき、戦い方、強さ、力など、様々なことが想い浮かびますが、同時に気になるのは、それらのことについて、すでに自分の中にある確立された認識(自分勝手な解釈)を元に考えていないか、ということです。

 自分がそう考えるようになったのは太極拳を学び始めてからのことですが、例えば太極拳では、「足を一歩出すこと」や「階段を上る」といった日常的な動作でさえ、自分の認識とは全く異なる非日常的な身体の用い方が要求されます。
 その要求はたいへん細かいことで、これほど厳密に指導される武術は他に無いとさえ思えるほどですが、よく考えれば、戦いの基本は「立つこと」と「歩くこと」にあるわけですから、そこに重点が置かれるのも頷けますし、それを指し示すように歩法で真っ先に指導されるのは半歩足を前に出す「太極歩」であり、套路で最初に行う動作は「足を肩幅に開く」ことです。しかも、上級者になるほどその一歩を出すことの難しさが身に染みて分かるのですから、日常の認識が通用するわけがないのです。

 私たちが日常として考えられる普通の “力” と、太極拳で示される “力” では、考え方もアプローチの仕方も全く異なり、それを区別するためにわざわざ「勁力」という言葉が用いられていることは、前回にも述べたところです。
 ところが、よく動画などで目にする、四正手による発勁や推手からの攻撃などでは、まさにこれから強い力を出しますとばかりに、広い歩幅で大きく踏み込み、腕に勢いをつけて大きく振りかぶるような動作となっています。これは、大きな力、つまり重い物を持ち上げたり動かしたりしたいときに用いられる、典型的な拙力の特徴です。
 そうであるにも係わらず、その動画を観た自分たちもタイトルが「勁力」であることに何の疑問も持たないのは、なぜなのでしょうか。

 勁力であることを示すならば、先ずはとても強くて大きな力は出せないような姿勢で、相手への踏み込みや腕の勢いが必要無いことを証明しなければなりませんし、尚かつ相手に確実な影響を及ぼせなければ、ただ拙力の用い方を工夫しているだけのことになってしまいます。
 武術の極意が誰もが小さい頃から認識している拙力であるならば、その用い方を単なるタイミングや相手にぶつける角度などでどれほど工夫しようとも、それは誰が見ても自分にも容易に手が届くものだと思えることですし、本来そのようなことに太極拳の武術的魅力を感じられるはずがないのです。

 私たちが毎回の稽古で思い知らされているのは、如何に自分の認識が一般常識的な範疇を超えていないか、ということです。
 先日の対練中にも、師父から「それでは盆踊りと同じだ」と指摘されたことがあります。
 その時行われていた対練は、お互いに長さ40cm程のスティックを持って攻撃し合うという、非常にシンプルなものでした。師父はその対練の様子を見て、“盆踊り” だと仰ったのです。つまりそれは「動きが丸分かり」だと言うことなのです。
 盆踊りがいくら速くなろうとも奇抜な動きをしようとも、それが盆踊りであることに変わりはなく、武術的な動きとは程遠い日常的な動きであると言えます。

 その対練に含まれている動きといえば、「歩く」「スティックを振り上げる」「相手に斬りつける」となり、特に難しい動作は入っていません。
 ただ、この対練では「受け」と「取り」に分かれずにお互いに攻撃となるため、正しい身体操作が行われていないと 双方の肩にスティックが触れて斬られた “相打ち” の状態となります。
 本来高度な修練を積んできた者同士では、お互いに僅かな実力差が感じられただけでも事前に回避できるか、またはそれを感じる暇さえ与えずに斬ることができるため、相打ちにはならないのですが、ひとまずそのことについては措いておき、ごく一般的には相打ちとなるケースが多いとだけ述べておきます。

 その、歩く、スティックを振り上げる、斬りつけるという三動作は、確かに目に見えていれば攻撃が来るタイミングも計ることができるので、それを見越して避けることや相手よりも早く切り込むことが可能になります。
 ところが、師父に相手をして頂くと、動作が見えないのです。
 それほど速い動きではありません。むしろ横から見ていれば目で追える程度の速さで、歩調が急激に変化するわけでもありません。それが、向かい合って歩き始め、“ここで来る!” と思えた瞬間に動きが消えたように思え、次の瞬間にはこちらの首元にスティックが来ているのです。
 その様子を離れた所からじっくり観察すると、動きが消えたように感じた瞬間はちょうど師父がスティックを振り上げ始めたところであり、面白いことに横から観察していてもその瞬間に師父の足元がよく分からない状態になります。つまり、「見えない」のです。
 横から細かく観察していても見えないのですから、ましてや正面に立って相手をすれば、見えるはずがありません。

 これらの稽古から分かることは、私たちの「見方」がまだまだ常識的である、ということです。何の見方かと言えば、それは「戦い方についての見方」だと言えますが、師父の動きがまるで消えたように見えてしまう所こそ、私たちがもたついて身体が思うように動かず、相手に、こちらが武器を振り上げて打とうとすることを認識されてしまうところなのです。
 師父は、この見方の違いは「考え方」の違いである、と仰います。私たちの考え方がまだ武術的ではないために、見え方も違ってくるのであると。
 このことは、武術を学ぶ人間にとってはとても大きな事です。
 なぜなら、この対練は何も “スティックを手にした際の戦い方” を練習しているわけではなく、相手に向かって歩いて行けるということは、すなわち相手に危機感を覚えさせずに近寄れるということですし、スティックで相手を斬れるということは、つまりは相手にパンチが当たるということに他ならないからです。

 特にスティックを振り上げるときなど、自分が思う “斬れる” タイミングやそれに合わせた小手先の動きでは、どれ程素早い動きであっても相手には見えてしまいます。
 それは、反対の立場に立ってみると良く分かりますが、その時の身体の状態によって振り上げるときの初動が丸々見えてしまうのです。それが武術的な身体の動き、つまり非日常的な動きである場合には、ゆっくりでも反応できず、動きが見えていても斬られてしまうということが起こります。

 このようなことを可能にするには、やはり “たった一歩をどう出すか” という教えをひたすら追究しなければなりませんし、自分の武術に対する認識がどのようなものであるのか、常に見直すことが必要なのだと思います。
 私たちが普通に考える「突き」や「蹴り」は、本来は到底武術的とは言えないものです。
 武器という、誰にとっても力になる物でさえ、ただのチンピラが持つときと武術家が持つときとではワケが違います。その事を、特に研究会では毎回のように体験させられます。
 私は、まだ武器を高度に扱うことはできませんが、稽古を重ねる中で見えてきたことのひとつに、武器を相手に当てようとすることと、武器が相手に当たることとは違う、ということがあります。武器を手にすると、どうしてもそれを早く相手に触れさせたくなりますが、そうすると自分の歩法と合わなくなってしまうのです。歩法とスティックを振り下ろすことの不一致は原理の不在とも表現することができ、その状態では相手に致命的影響を与えることができません。つまり、どのような状況に於いても決して負けないような状態にはならないのです。
 相手に身構える暇さえ与える事なく斬れたとき、それは自分がそれまで斬れると思っていたタイミングや身体の状態とは全く違うものでした。

 武器を手にすれば一般的な斬り方になるようでは、拳を握っても同じことです。
 一般常識的な物の見方をやめて武術的な認識に立ち返らなければ、所詮はちょっと力の使い方を覚えただけの一般人と、何も変わらないのです。

 ただ歩いて行って斬り掛かるということだけでも、私たちの認識とは大きく異なるわけですから、武術の核心である「戦い方」ともなれば、その認識は100%完璧にひっくり返ると言っても過言ではありません。
 真に恐れるべきは、すでに自分の中に構築された “戦い方” を大事にとっておき、どこかでそれを正当化しながら太極拳の戦い方を学んでしまうということです。
 一切の自分の古い認識を捨て去り、まっさらな心で正しく見ること。そうして初めて、武術としての太極拳がみえてくるのだと思います。


                                (つづく)



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