練拳 Diary

2018年08月16日

練拳Diary #82「稽古と非日常」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花


 太極拳の稽古修練の世界。そこでは、古く常識的な考えで凝り固まった頭を叩き割り、新しい考え方と価値観を知り、直向きにそこに広がる全てを受け容れることが求められます。
 そして、そのような非日常の新しい世界に身を投じれば、自分の力ではどうすることもできなかった「自分の殻」を破り、新たに生まれ変われる気がするからこそ、人はわざわざ非日常の門を叩いて入門を乞うのではないでしょうか。

 問題はそこから、いざ新しい世界で新しい考え方に出会ったとき、どのように受け取るのか、はたまた受け取らないのか──────。
 この非日常の世界でどれだけ受け容れられるか、ということは、言い換えればどれだけ自分をやめられるかということなのだと思いますが、それがなかなか難しいことです。なぜなら、人の性質には、変化を求めるよりも現状を維持したい、今が心身ともにそこそこ平穏ならそれで良いと思えるヤワな傾向があるからだと思います。
 それこそ、何かのきっかけでふと立ち止まり、自分を振り返る機会があっても、まるで考え方にも ”慣性の法則” が働くかのように、それまでの自分の古い考え方が押し寄せてくるのです。
 そこで古い考え方を落として、新しい自分として一歩を踏み出せるかどうか。その原動力となるのは、未知なる世界、未知なる自分への興味ではないでしょうか。

 失敗を恐れず、危険を顧みず。誰かのためではなく自分のために歩くこの人生。
 生まれた時に「自分はこの様に生きたい」・・と思ったかどうかは、もう覚えていませんが、「今の自分はこの様に生きている」と、胸を張って生まれた時の自分に言えるなら、自分の人生、自分の足で歩いていると言えるような気がします。

 ところで、稽古中よく耳にする「非日常」という言葉ですが、この言葉を聞くと、皆さんはどのようなイメージを持つのでしょうか。
 「非日常的な力」「非日常的な考え方」「非日常的なアプローチの仕方」・・と、様々に表現される「非日常」という言葉は、もしかしたら発した人の意に反して、異なる捉えられ方をしているかもしれない、と思います。
 例えば、先ほど挙げた3つの文章を違う言葉に置き換えて見ると、
 「日常からかけ離れた力」「凡人の自分にはとても及ばない考え方」「一般的ではない、一部の卓越した人にしかできない取り組み方」・・などとなるかも知れません。
 実は、これらの言葉は私が考えたものではなく、その昔道場で小耳に挟んだ門下生のリアルな感想ですが、これらの文句からは「非日常」という言葉が「自分には到底実践できない理想の世界」というイメージに置き換えられていることが分かります。

 自分にとって未知の世界に対し、自分の考え方では及ばない、かけ離れた世界だと思うこと自体は、間違っていないと思います。特に、武術や芸術の世界のように特殊な技術が必要とされ、そのための学習体系が存在するようなところでは、まずはじめに「自分とは全く違う」という正しい認識がなければ、新しいことを学んで行けないからです。
 しかし、先ほどの言葉のように「自分には到底実践できないナントカ」という方向に行くと、学習としては前に進めなくなってしまいます。
 大体、「自分には出来ない」と思いながら何かをやっていて、楽しいはずがないのです。
 自分とはかけ離れたとてつもない何かに対して憧れを抱き(それは、武術的な強さでも、たとえば身体の健康でも変わらないことですが)、尚かつ幸運にもそこに至る道筋を示してもらえたなら、あとはひたすら前向きに突き進むことが求められ、その中では当然自分とぶつかることもあるし、自分を超えるためには自分を変える必要があり、たとえ七転八倒しながらでも、遥か遠い憧れだったある意味不確かなものが、自分の歩く先に現実的に見えてくるのです。同時に、自分の中には「歩いてきた」という確かな実感が感じられます。だから取り組む甲斐があって楽しいし、追及することをそう簡単にはやめられないのだと、私は思います。

 それでは、なぜ人は自分が学ぶために入門したはずの道場で、発せられた師匠の言葉に対し、ともすれば否定的なマイナスのイメージを持つ場合があるのでしょうか。
 もちろん、人それぞれに色々な想いがあるはずですが、理由のひとつとしては、自分が思うように学習を進めていけないことが挙げられると思います。
 しかし、そもそも人は既に自分にできることに対して新たに「やってみよう」とは思わないはずで、自分にできないことをこそ習得するためにこの道に入ったはずですが、どうやらそのような状況でも人は自分の好きなように学習したいと思う気持ちがままあるようです。
 もうひとつの理由は、「非日常」という言葉の取り違えです。カエサルの言葉ではありませんが、人は物を見たいように見て、聞きたいように聞く傾向があります。私たちはまず、師匠が何を「非日常」であると言い表しているのか、そのことに耳を傾ける必要がありそうです。


 ここでひとつ、興味深くて美味しい話をしましょう。
 ある時、師父がお夕飯を作ってくれました。
 「自分が食べたいものがあるから」と、仰った時には立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認しながら買い物に必要なものをピックアップし、そのまま近所のスーパーに買い物へ出かけられました。・・その作業と行動の早いこと、早いこと。台所によく慣れた主婦だって、そうはいかないのではないかと思ったとき、あるひとつの考えが浮かびました──────この光景は、まるで軍人が武器庫から必要な武器を持ち出している時のようだ、と。

 急いでいるわけでも、慌てているのでもなく、言って見れば状況把握と必要となる行動の認識、そして判断から実行の過程がもの凄く早く、その過程には「思考」の時間が入っていないとさえ見受けられました。

 そこで感じられた「早さ」は、師父が買い物から帰られた後も続きます。
 材料を出して、刻んで、火にかけて・・・出来上がり!?
 「はい、どうぞ!」と言われて私が真っ先に見たのは時計でした。
 ・・ええっ?、キッチンに立たれてから40分位しか経っていませんよ、師父!
 「なんでこの立派な料理がこんなに早いのですか?」と聞きながらも、手にスプーンを持ってお皿に飛びつく自分には、もはや師父の言葉は耳に入っていなかった気がします。
 そうです、この芳しい香りには、誰も抗えないはずです!

 出てきたのは、ラム肉の軽い煮込みにクスクスが添えられたモロッコ料理。一応写真を載せておきますが、美味しさのあまり食べる勢いがついて、悪しからず半分近く平らげてから撮影したものとなってしまいました。


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 「う〜ん、ラム肉は私の好物ですが、それにしても美味しい。見た目はゴロッとした野菜とお肉が入っているだけなのに、それらの素材の味が全て引き出されていて、その旨味がシンプルなクスクスに見事に移ってベストマッチング〜!!」とホクホクしながら食べていたら、キッチンから師父が出てこられて食卓に座り「お味は、どうかな?」と言いながら、一緒に食べ始めたのです。
 おや?、と思いキッチンに目を向けると、なんと、全て綺麗に片付いています。出てきた料理は、子羊の煮込みとクスクス、それにサラダですが、料理が出来上がって器に盛り付けた時には、鍋から流しまで元の使用前のキッチンになっているとは、誰が思うでしょうか。
 「一体、いつの間に片付けたのですか?」と問いかける私に、師父は「料理が終わった時には片付けも終わっていた方が、次の仕事が楽でしょ」と仰います。
 ここでまたしても、ひとつの考えが浮かびました──────確かに、師父が一発殴った時には、すでに次のパンチが打てる身体の状態が整えられていて、ご自分の攻撃によって居つくことはありえない、と。

 そうです。買い物も、料理も、後片付けも、全て日常の所作です。けれども、師父が示してくださったのは、食事を考えるところから実際の行動、そしてご自分が食べるまで、どれも非日常的なアプローチの仕方でした。
 つまり、自分の好きな考えを挟まず、そこで必要となることを見極めながら動き続け、同時に結果を出す。そして師父はそれを楽しみ、なんの制約もなく料理を味わいながら仕上げて、最後には片付けながら食べている人の感想に耳を傾けたりしているのです。


 師父お手製の料理は、モロッコ料理にとどまらず、
 フレンチの豚肩ロースとキャベツのワイン煮、

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 鶏肉の煮込み、フェットチーネ添え、

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 牛肉とキノコの煮込み、

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 究極の肉じゃが(命名は玄花)

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 ・・と続いていきます。

 どの料理も、どこのスーパーでも手に入るありふれた材料が使われていて、メインディッシュだけではなくサイドディッシュも組み合わせ、それらを僅か一時間足らずで調理し、食べる時には片付けまで終わっている状態です。

 もしも自分が同じ料理を作ったなら、どのような味わいになるのか、そしてその後の台所はどうなっているのだろうか───────

 そう考えたときに思い浮かぶのは、やはり稽古の取り組み方や考え方などで感じられる、師父との「違い」と全く同じことでした。
 これはきっと、掃除をしても、本を読んでも、車を運転しても、野外で火を熾しても、それこそ暴漢に襲われても、災害に巻き込まれた時でも、同じ「違い」があるはずで、そうだとしたら、師父の所作を見て感じる繊細さや常識に捉われない柔軟な考え方、行動力の早さなどは、師父がもともと性格や能力として持っていたものではなくて、恐らくは太極拳の修行の中で必要なこととして身につけて練り上げてこられた、真の功夫(コンフー)なのだと言えるはずです。

 日常を、非日常的に取り組むこと。
 それは自分が人生を生きることに対して意識的になることとイコールだと感じられます。
 それを、自分の怠惰さを棚に上げて、やれ高尚だ非凡だ特殊だからと理由をつけて自分では何もしないのは、武術家の風上にも置けないのはもちろん、ひとりの人間としても自分の魂を腐らせているに等しいことだと、私は思います。

 私が学生の頃には、遠方に住む祖母に電話を掛ける度に、必ず『お勉強していますか?』という言葉を頂きましたが、今なら、祖母の話した「勉強」が日常の全てに当て嵌まることを実感できます。
 自分と関わる全てのことに対して、勉強できるかどうか。それは自分の物事に対する向かい方次第だということを、幼い私に分かりやすい言葉で示してくれたのだと思います。

                                 (了)


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2018年02月13日

練拳Diary #81「常識を越えて」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私はこれまでに、稽古で示される「散手」などの非接触系の対練に対して、頭を悩ませてきました。
 課題は、相手との間合いの取り方や、こちらの滞りない攻撃などに始まり山ほどありますが、何より師父と同じように動けずに、足が居着く、身体を回してしまうなど、太極拳の要訣が守れない自分の身体の状態が課題になっていました。

 師父の動きの特徴は、第一に「どこに向かって、どのように動いているかが分からない」ことだと言えます。途切れることなく動き続けていて、尚かつ相手に向かって前進し続けるだけの動きではなく、稽古によっては相手は攻撃を繰り出させては貰えるものの、あらゆる攻撃は空しく中を切り、その瞬間には師父の攻撃が相手に確実にヒットしています。
 ちなみに、師父との散手の稽古では「痛めつけられる恐怖」というものが存在しません。
 これは、他門から入門してきた人が最も不思議に思える事のひとつのようですが、対練や散手の稽古中には、師父から顔面、首、後頭部、胸、腹、足など、ありとあらゆる部位に攻撃を受けても、軽く打たれるだけなので、痣(あざ)などが残ることはまずありません。防具を着けての散手なら、よほど下手な受身でもしない限り、怪我をする事はまず有り得ないと思います。
 ただし、その代わりに、「これが実戦だったら確実に殺されているという恐怖」が常にあります。相手を痛めつける為の稽古ではないので、攻撃の威力は小さくとも、攻撃に至るまでの遣り取りで、師父の攻撃成功率は100%、それに対してこちらは0%であることがはっきりと認識させられるのです。まさに「手も足も出ない」とはよく言ったもので、決して速い動きではないと思えるのに、此方は為す術もなく容易に追い詰められていきます。
 それはあたかも、四方を敵に囲まれている状況で足場がどんどん崩れていき、やっとの事で立って居るかのような状態だと言えます。だからこそ、稽古では敢えて強大な打撃力を相手に与える必要がないのでしょう。

 自分が何ひとつ動けない中で感じる恐怖の大きさは、単なる ”打撃力” に対する恐怖などとは全く比較にはならず、正直なところ生きた心地がしません。大袈裟ではなく、手足をもがれて地面に転がされているところに迫って来ているような状況に思えるのです。
 一体何がそう感じさせるのか─────それを認識し修得できない限りは自分なりに戦い方をどう工夫しても所詮は ”ドングリの背比べ” であり、いつまで経っても太極拳の戦い方にならないことは明白です。
 道場で師父の動きを見て真似をし、家で師父の動きを動画で観ては検証することを繰り返し、また稽古に反映させていきますが、なかなか師父のような、こちらが主導権を取れている散手にならない日々が長く続きました。

 ある時、師父にひとつのヒントを頂きました。そのヒントとは、今までに聞いたことも無いような新しい内容ではなく、今まで教わってきたことの「表し方」が異なるだけでした。
 けれども、それは言い換えれば自分がどれほど表現しようとしても出来なかった内容で、そのヒントを頂いたときの衝撃は、まさに頭を銃弾で撃ち抜かれたかのようであり、しばらくの間は立ち直れなかったほどです。しかも、衝撃はその時だけでは収まりませんでした。

 画面に穴が空くほど繰り返し観ていた師父の散手動画ですが、あらためて観てみると、頂いたヒントのお陰で今までよりも動きが明確に見えるようになりました。
 そして私は、『なるほど、相手が打ってきても当たらないのは、こういうワケだったのか』と独り納得をし、重要なことが見えたつもりになって、見えたものをそのまま再現しようと稽古で散手を行ったのです。
 しかし、思うようには行きませんでした。今までの散手と比べて確かに手応えは違うものの、まだ相手が自由に動ける時があり、それは大抵は自分の身体に無理が掛かっている動きのときだったのです。
 自宅に戻り、もう一度同じ映像を観たとき、それまで見えていなかった ”違い” が今度ははっきりと分かりました─────身体が動けていなかったのです。師父の動きを真似ているつもりが、実際には何もかもが足りない・・それどころか、身体の質そのものが違うようにさえ思えました。
 動き自体は決して難しいものではないのです。太極拳を学んだことがあれば誰でも知っていると思われる、ごく一般的な見慣れた歩法です。けれども、動けない。
 ショックを受け、半ば呆然と動画を観ていた私は、思わず呟きました。

 『──────────鬼だ!』

 師父の動きが、実は並大抵の練習によって得られたものではないことが、私はこのとき初めて解ったのです。この動きは歩法を「鬼のように」練習しなければ得られないのだと。
 それまで、いとも簡単にヒョイヒョイ歩いて見えていた動きが、反対に、もの凄い内容を含んでいる途轍もない動きに一変しました。師父の動きと比べると、自分の歩法など文字通りの付け焼き刃に思えてしまいます。
 なぜ、今までそのことが見えなかったのかと問いかければ、稽古中に師父が常々仰っていた言葉が聞こえてくる気がします。

 『いつも常識的な頭で見て、常識的な頭で考えて、動こうとする。だから君たちは、いつまで経っても太極拳が理解できないんだよ。もっとアタマに染み付いた常識を捨てなさい』

 私たちの稽古では、相手との接触・非接触に関わらず、相手を抵抗なく倒せても、或いは大きく吹っ飛ばせても、それが「太極の理」に適っていなければ無意味だと指導されますし、それは散手の攻防でも同じで、こちらの攻撃がいくら有効でも、原理が異なれば『そんなものは太極拳ではない』と一笑に付されます。
 それは、稽古の目的が「相手を倒せること」というような単純なものではないからであり、たったひとつの対練でも、そこに太極拳の全てが表現されているからであると言えます。
 人は、すぐに成果を欲しがりますし、目の前にいる相手を倒さなければ武術ではない、と考えがちです。けれども、そんな薄っぺらな意識の持ち方ではこの太極拳は到底理解できないものであり、もっと観て、感じて、理解しようとして、自分自身を高度に「鬼」として変容させない限りは、その片鱗にさえ触れることが叶わないのだと、今回つくづく思い知りました。

 これまでに、師父の動きを見て「すごい」と思ったことは数えきれないほどありますが、それを「超常的である」と思えたのは今回が初めてのことです。そして、この「鬼神」とさえ思える動きこそが、師父が伝承されてきたことなのだと、つくづく感じ入りました。
 また、何かを伝承することとは、決して特別な秘伝書を渡されることなどではなく、「それそのものになること」なのだと、このとき身を以て実感したのです。
 太極拳の奥義を識ることではなく、太極拳そのものになる─────つまり、鬼神ほどに稽古をして、この身に鬼を宿すことこそが伝承と呼べるのだと思いました。
 もしかしたら、それは「鬼」と言うよりも「龍」と表現した方が、適当なのかも知れません。
 そして、目の前の龍をどれほど真似しても決して龍にはなれず、それはただの龍の物真似に過ぎないのです。そのことを私たちは明確に認識する必要があるのだと思います。

 さて、今回頂いたヒントによって自分の稽古が一変したことは言うまでもありませんが、それと同時に見えてきたことは、師父の超常的な身体の使い方や稽古の次元の違い、そして伝承の意味だけに留まらず、音楽を聴いたり絵画を観照すること、そしてささやかな料理を作ってみたりする、それら芸術に関わる世界の見え方までもが、これ迄とはすべて変わってきました。
 今までは、世界を前にして自分で理解しやすいように「枠組み」を作り、その枠の中の世界を一生懸命見ようとしていたのだと思います。もちろん、まだ自分で気付いていない枠組みが有るかも知れませんが、そのような心積もりで今後も観て行きたいと思います。

 今回私が気がついたような、太極拳を学ぶ上でとても大事だと思えることは、本当に貴重な、この上ない宝物ではありますが、それを得られたことに手放しで喜んではいられないという危機感が、同時に存在しています。
 それは、その宝物が、あたかも夜明け前の野に密やかに降りた、一滴の露のようなものに感じられるからです。
 日の出を間近にして空が白んでこなければ、野に降りた露を探すことはできません。けれども、日が昇ってしまえば辺り一面の朝露は消えてなくなります。野原一面に降りた露を集めようとしているときに、たった一滴の露で喜んではいられません。それは、その日、その時限りでしか、手に入らないものなのです。

                                  (了)




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2017年10月25日

練拳Diary #80「台風に思うこと」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 先週末、10月22日に超大型の台風21号が静岡県の御前崎を直撃し、本州に上陸しました。
 強風域の直径2,200km、最大風速50mという「超大型」の呼称のまま日本に上陸した台風は観測史上初めてということですが、普段から雨が少なく、めったに大雨に降られることがない本部道場でも、この日は窓一面に大粒の雨がひっきりなしに叩き付けられ、稽古を終わろうという夜中になっても、渦巻く風の音が止むことはありませんでした。
 その日は、いつものメンバーに加えて、札幌、東京、長野からも、門人が稽古に出席するために来ていました。
 「大事な稽古が行われる」となれば、たとえ超大型の台風が来ていようとも彼らには関係なく、帰るための交通機関が動いている間は問題無いとして、一心不乱に稽古に励むのでした。
 きっと、本当は交通機関がストップしようとも、貴重な教えを受けられるのであればそれで良い、とさえ思っているに違いないのです。また、そう思えるだけの教授内容がこの道場には確かに存在するし、それを修得するためには、並大抵の熱意と努力では報われないことが感じられるからこそ、緊急速報で避難準備警報が鳴り響く中であっても稽古に没頭できるのだと思います。

 さて、この日も充実した稽古が十分に行われた後のこと、とある問題が発生しました。
 帰り支度をしていたAさんとBさんの2人にふと目を留めると、いつもの稽古帰りと同じ服装をしていて、とても今から暴風雨の中を帰るとは思えませんでした。
 念のため「合羽を持っていますか?」と聞くと、Aさんは何と「家にあります」と答え、Bさんは「車の中です」と答える有り様です。
 台風が一日中荒れ狂った挙げ句、あと数時間で最大のピークを迎えるという大雨と暴風の状況下で、カッパの一枚も無いという事態に、師父と私はとても驚きました。

 もちろん、台風が来ることは事前に分かっていたはずですし、彼らにその準備をする時間が無かったわけでもないのです。けれども、Aさんは先日のキャンプで使用したカッパを焚き火臭いという理由で、拭いて家に干したままにしており、Bさんは駐車場まで持ってきていながら、わざわざ車に置いてきていました。
 きっと、2人が稽古に来るために外に出たその時は、雨が止んでいたのでしょう。けれども、帰りたい今この時に、暴風雨を遮るためのカッパが無いのです。

 普通の人は、結果的に無事に家まで帰ることが出来た場合には、もしかしたら、「雨具がなくてもそれほどひどい目には逢わなかった」「自分は無事だった」と考えるかも知れません。しかし、それは全く結果オーライではないのです。

 『一番の問題は、そのとき結果的に無事であったかどうかではなく、超大型の台風が直撃するその日に、鞄に合羽を入れてこなくても大丈夫だと思えてしまうような、その高を括れてしまう精神性のままでも、太極拳のような高度な武術を修得できると思っていることだ』と、師父は仰います。
 また、『人間の中身はひとつなので、日常の備えに対しては高を括ってしまうけれど、深遠なる太極拳には真摯に向かい合う、などという器用なことは出来ない』とも仰いました。

 確かに自分のことを振り返ってみても、何かを軽んじている時や、何かに対して傲慢になっている時というのは、その対象となる「何か」が問題になるのではなく、常に自分自身が軽薄であったり傲慢であったりしますので、対象毎に自分を分けることは出来ません。
 太極拳は、自分にとってとても難しい武術だと感じられます。けれども、その「難しさ」を掘り下げていくと、何もかもが「自分勝手に出来ないこと」に辿り着きます。太極拳が難しいのではなく、自分勝手に出来ないために難しいと感じられていたのです。
 示されていることを、自分を挟むことなく、そのままその通りに受け取れること。それを可能にする精神性と意識を養うために、道場には細かい礼儀作法や道着、身嗜みなどまでもが細かく定められているのだと、今となってはよく分かります。

 「高を括る」ことは、言わばその場限りの自己満足です。今回の事で言えば、カッパを鞄に入れていかなくても良いと判断したとき、不測の事態に備えることよりも、自分の都合を優先したというわけです。
 ちなみに師父はその日、台風の影響で帰宅が困難となっても良いように、日常の装備に加えてビバーク(不時の露営)の出来る準備と、ガスストーブなども持って来られていたと聞きました。
 結局それらの装備は使わずに済みましたが、もしもその日帰れない状況になったとしたらどうでしょうか。たとえば、台風で倒れてきた木が車に直撃して動かせなくなっていたとしたら・・真夜中の駐車場に来て潰れた車を見て呆然としている時点で、師父はカッパの上下に身を包み、ザックには防水カバーまで掛けてありますが、彼ら2人はすでに全身びしょ濡れで、どんどん体温と体力が奪われていきます。その後、仮に風雨を凌げる場所を見つけたとしても、濡れた服がカッパだけなのと、着ていた服装の全部がビショ濡れの場合とでは、身体を温めたり、お湯を沸かしたり、温かい食事を摂ったりするための、次の行動に取り掛かるまでの時間や労力が大幅に変わってくることでしょう。
 実際にどのような状況でも動ける人と、限定された状況でしか動けない人との違いが、ここに表れるような気がします。

 私たち現代人は、ともすれば「今までもこれで大丈夫だったから」という浅薄な発想から物事を判断し、実行してしまいます。なぜ「これではダメかも知れない」とは考えないのでしょうか。
 思い当たることは、いつも師父が私たちに仰るように、周りを見渡せば24時間開いているコンビニがそこら中にあり、手元には万能とさえ思える魔法のスマートフォンがあるからなのだと思います。コンビニが悪いのではなく、コンビニがあるから大丈夫だと思える私たちの頭がオカシイのです。便利さ、安易さ、簡易なことが当たり前になってしまっていること、これほど恐ろしいことは無いと思えます。なぜなら、便利さと引き換えに、私たちは「自分で考える力」を失っているからです。

 さあ、それなら人間の野生と本能を呼び覚ますために野外訓練をしよう、と思い立てば、もちろん雨具は持って行くに違いないのですが、今度は野営のための火が熾せないという事態が起こります。
 すぐに火の着くガスレンジや電子レンジで育った私たちにとって、野外で火を熾すことはとても難しいことなのですが、やはり、そこには「これで火が着くはずだ」という自分勝手な思い込みが存在します。私が太極拳を難しいと感じることと、火を熾すことを難しいと感じることは、実は同じことなのです。
 何が問題で、何が解決になるのか。それを瞬時に分かり、解決のために実行できるようになるには、一朝一夕には不可能です。
 普段から、根拠もなく「きっと大丈夫だ」と思うのではなく、「何が起こっても大丈夫なように準備しておく」というその心構えが、自分が修得したいと思える太極拳に向かう心構えと同じであり、その心構えで修練を積み重ねた結果として、戦って生きて帰れる強さへと繋がっているのだと思います。

 本部道場で開催された『CQC特別講習会』では、日常生活から被災時を含む様々な状況での危機管理についても講習が行われていますが、今回のようなことが起こると、その講習の中で師父がいちばん初めに仰っていた、『誰もが自分だけは大丈夫だと思っている』という言葉が思い起こされます。

 大型台風が御前崎を直撃したその日、札幌から稽古に来ていたCさんは、やはり豪雨の対策となる物を何も持っておらず、コンビニでカッパを買って最終電車に乗り込んだものの、到着した駅から24時間営業のファミリーレストランに向かい、バスの出発時間まで温かな数時間を過ごすつもりが、向かう途中で風雨の酷さに身の危険を感じて引き返し、駅付近にあるバスターミナルの地下で風雨を凌ぐことになりました。結局その夜は、稽古の帰り際に師父に頂いたリンゴとバナナが夜食になったそうです。
 後日ご本人から聞いた「本当に美味しかったです」という言葉からも、Cさんがどのような心境で一夜を過ごしたかが伺えます。

 「災害時には不測の事態が起こる」と言われていますが、今回の台風のことから、実は日常生活においても、本当はずっと不測の事態が起こっているのだと思いました。ただ、それが幸いにも大ごとでは無いために気付かなかったり、慣れてしまって何とも思わなくなっているのではないでしょうか。
 日常の自分勝手な習慣を、身体面でも精神面でも否定し、物事本来の正しい法則を見つけて、身に着けていくこと。これは太極拳の修得に欠かせないことですが、同時に災害時に生き残ることや戦争時に生きて帰れる事にも繋がり、延いては人間性の成長にも繋がるはずです。

 「降らずとも傘の用意──────」

 千利休が遺したこの言葉の意味を、今一度深く考え直してみようと思えた、この度の台風でした。

                                   (了)

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2017年07月27日

練拳Diary #79「武術的な稽古」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 梅雨が明けて暑さが一段と厳しくなり、照りつける日差しが容赦なく肌を焦がすようになりました。ここ本部道場の稽古では、以前にも増して高度な内容が展開され、消化するのに必死な毎日です。

 さて、今回は稽古の中でも「対練(対人訓練)」に焦点を当てて、思うところを述べたいと思います。

 対練の稽古には幾つかの稽古方法がありますが、主なものには「役割を攻撃と防御に分けたもの」と「役割を分けずに行うもの」があります。
 対練で役割を分けることには、他にも「受け」と「取り」と呼ばれるものがあり、その時々の対練で、師が示された課題を行う側が「取り」で、それに対して「取り」が技法を学べるように、打つ・崩すなどの攻撃を仕掛けて行く側を「受け」と呼びます。正に、相手の技術を受けてあげるわけです。

 対練は、どちらの役割でも太極拳の基本功で学ぶ正しい身体の整え方と使い方が要求されるので、こちらが「受け」の立場でも、決して相手の技や力を受けて、打たれたり崩されたりしてあげるわけではなく、あくまでもこちらの攻撃が相手に対して実際的に有効であることが条件となるわけです。

 ちょっと極端かもしれませんが、料理でたとえれば ”作り手” と ”食べる人” とも表せるでしょうか。
 「取り」を作り手、「受け」を食べる人とすると、食べる方は出された料理をただ「食べられる」とか「美味しい」と言って食べてあげるのではなく、その料理を深く味わい、料理した人のことまで分かるような状態で居ることです。
 余談ですが、私は料理を作る事とそれを食べること、つまり「食事」に於いては、料理が美味しいだけでは不十分ではないかと考えたことがあります。たとえばその料理人と料理とが一流であるならば、それを余すところなく味わい、それが一流であることを見抜けるだけの、食べる側の一流の資質が必要であり、自分が一流を志す姿勢がなければ、作り手と食べる人による「食事」という行為も完結しないような、そんな気がするのです。
 そう考えると、作る側も食べる側も、一期一会の真剣勝負となり、たかが食事といえども武術と何ら変わらないものと言えそうです。

 さて、実際の対練についてです。
 「受け」の攻撃に対して「取り」の動きが優位であった場合には、当然「受け」の攻撃は無効になり、反対に「取り」の反撃が有効になります。
 武術的に考えた時、「受け」は「取り」の反撃に対してもまだ動ける身体の状態が要求されます。
 たとえば、その対練でのみ有効な力みや踏ん張りは、相手の攻撃がナイフなどの武器であった場合には何の効果もなく、それらは非武術的な行為であると言えます。
 正しい稽古の状態として、「取り」が優位であるために「受け」が反撃された場合、あるいは「受け」が反撃を躱して避けることしかできずに優位に立てなかった状況は、稽古中に幾らでも生じてくるのですが、そのような稽古風景の動画を見た外部の方より、『あれは馴れ合いで倒されている、同門同士でなければ通用しない』といった内容の感想を耳にしたことがあります。
 それは、ことさら私たちの道場に限ったことではなく、斯界ではよく話題になることらしいので、この際「馴れ合い」について少し考えてみることにしました。

 馴れ合いとは、既にお互いに動きや力の大小、向かって来る方向などが分かっている状態で、相手の力や技に対して適当に折り合いをつけて、いい加減に受けたり流したりすることである、と言えるでしょうか。
 これを武術的に考えてみると、例えば、お互いにナイフを持っている、または片方だけがナイフや銃を持っているとすると、その途端に馴れ合うことは大変難しくなります。
 なぜなら、いずれも実際に傷つき、怪我をする可能性が出てくるからです。
 稽古ではもちろん本物の銃を持って向かい合うことは出来ませんが、たとえ電動ガンでも弾丸の入った銃口を向けられた時には、お互いに ”馴れ合う” などという気持ちにはとてもなれないものです。
 また、稽古では実際に本物のナイフを持って素手の相手に斬りつけて行くこともありますが、通常ならどう考えても武器を所持している方が有利に思えるところが、実際に大型ナイフを持って相手に向かうと、相手が素手であっても、ある種の緊張感で一杯になります。
 それは、下手な動きをすればナイフを持っている自分も危ういということが、理屈ではなく身体で実感出来るからであり、私の場合は何度行っても、決して有利に立ったとは思えませんでした。
 ナイフは、それ自体が十分な殺傷能力を持つ物です。そして、それを手にして構えたときの緊張感は「危機感」とも言い換えることができるので、武術の稽古中に馴れ合う事が出来る状況とは、「危機感が欠如した状態」であると考えられます。

 それでは、「馴れ合いではない状況」とは、どのようなものなのでしょうか。
 先ほどの検証からも分かる通り、先ずは「危機感が存在する」ということが言えます。そしてそれは、「武術=戦闘」の為の稽古をしている限りは、武器の有無に関係なく、常に持っていなければならない感覚です。
 たとえスポーツの世界でも、試合のための練習で ”馴れ合う” などという事は考えにくいですし、たとえ実際の試合を想定したような練習ではなくても、遊びではなく練習である限りは、馴れ合いの感覚は上達の妨げになると思えます。

 反対に、「馴れ合いであってはならない」と言う場合、一般的にはそれがどのように捉えられるのかも考えてみましたが、それは、お互いに「本気で打ち合う」とか、実際に相手に「ダメージを与えられるようにする」ということになるでしょうか。
 確かにこれだと、相手にやられる危機感もあれば、それを必死に防ぐ工夫もできるのかも知れませんが、やはりそれでは肝心なことが抜けてしまっています。
 それは、本物のナイフを持った時に、お互いに本気で刺し合ったり、相手にダメージを与えることを目的にしていたのでは、全く稽古にならないということです。
 つまり、「実戦のための練習なら殴り合うのが手っ取り早い」という考え方もまた、所詮は危機感の欠如から来るものであり、実際に生命が脅かされないような、「術理の必要性」が無いような稽古は、限りなく ”馴れ合い” に近いと言えます。

 私たちが「武術の稽古」について度々述べる機会を設けるのは、日々の稽古で、まさにここのところが重要だと考えるからです。

『その対練は、お互いに武器を持っていても、同じ考え方で、同じ様に動いていたか?』
  ────────この問い掛けを、稽古中に何度言われたか分かりません。

 危機感の欠如は、私たち現代人が武術を修得しようとする上で、ひとつの大きな問題となって降り掛かってきます。
 相手がナイフを持っていなくても、持っているかのような気持ちで向かい合えること。
そして、お互いにナイフを持って向かい合っても、ただ相手の身体に刃を当てることを目的とせずに、実際に相手に有効な攻撃ができる身体操作の追求を目的とすることで、「武術」としての稽古が可能になり、ただの一本の攻撃が、術理の力を伴った有効な攻撃に変わるのだと思います。
 実際に、稽古で最初から相手の打撃に恐怖を覚えるような状況では、術理としての自分の身体操作や、相手との間合いを充分に心掛けることなども難しくなります。

 『稽古では実戦のように、実戦では稽古のように』とは、拝師弟子や一般門人を問わず、武術を志す者の心構えとして、師から幾度となく指導されてきたことですが、先ほど述べた「危機感の欠如」と同じく、その精神状態が身に付くのは容易なことではありません。

 武術という術理の世界を正しく認識し、正しい稽古を積み重ねていくこと。
 ありきたりのことかも知れませんが、やはりそれしか無いのだと思えます。


                                   (了)


xuanhua at 20:32コメント(19) この記事をクリップ!

2017年03月26日

練拳Diary #78「武術的な強さとは その20」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 「武術的な強さとは」について書き始めてから、もう20回目となります。
 読み返してみると、自分のことについてこんなにも書いたのか?、と驚くほど自分の想いや考え方を率直に、その時々の言葉で綴っていました。
 練拳ダイアリーだから何を書いても良いのでしょうが、今振り返ると少々恥ずかしさを覚えるような拙い表現などもあり、改めて文章として書き残すことの重大性を感じざるを得ません。

 第1回目は約2年前の投稿で、「強さ」とひと言で言っても実際には様々な種類の強さがあり、とりわけ私たちが求める “武術的な強さ” がどのようなものであるのか、一般的にはもちろんのこと、私たち自身も明確に認識してないのではないかという疑問からこのタイトルが生まれました。
 内容としては、試合と実戦の相違点に着目することから始め、勝てる強さではなく負けない強さ、即ち「生き残れること」を軸に様々な角度から光を当てて述べてきましたが、当初自分で考えていたよりも話が広がっていくこととなり、その分新しい発見も多く毎回勉強できたことが大きな実りでした。
 この第20回目を機会に、武術的な強さについて纏めてみたいと思います。


 さて、生き残るためには自分を鍛えなければならず、負けないためにはただ筋力や打撃力を増強するだけでは無意味です。なぜなら、30歳を過ぎれば誰でも実感するように、体力筋力は年々衰え身体の回復が遅くなります。
 太極武藝館に入門してくる格闘技出身の人たちが言うには、現役で動けるのは精々頑張っても30代後半までということで、自分が年を重ねても若い人に負けずに動くことが出来て戦うことも出来る、そういう男になりたいという理由で入門する人が大勢居ました。
 彼らから聞いた話では、普通は何をどのようにして鍛えていくのかが曖昧であったり、その方法に極端に偏りがあるもので、概ね指導者の経験から得られた方法を教わるようです。しかし、もしその結果身体が故障したり、それが武術として使えない身体を造ってしまう原因になってしまっては何にもなりません。

 太極武藝館の門人は、入門から1年も経つと例外なく姿勢が良くなり、多くの人が「健康診断で身長が伸びた」と言います。60歳を過ぎた人がそのような報告をしてくるとさすがに驚かされますが、実際に体つきや顔色が変わって動作も機敏になってくるので、練功に対する正しい取り組みの重要性を否応なしに実感させられます。何十年もサラリーマン生活をしてきた70歳を越えようという人が、師父に大きく投げられて綺麗に受身を取って立ち上がる姿は感動ものです。
 何をどのようにして鍛えていくのか。それこそが “秘伝” と呼べるものだと思いますし、それ無しに套路を何種類も覚えたり秘技絶招をどれほど習ったところで、武術的にどのくらい役に立つのかは甚だ疑問です。

 先日、幸運にも軍隊のトレーニングを間近に見る機会がありました。
 一般市民に公開展示するようなイベントではない本物の訓練であり、部隊名やトレーニング内容の詳細を明かすことはできませんが、室内で行われていたそのトレーニングは多くの一般人が想像する軍隊のトレーニングとは全く異なるもので、とりわけ印象的だったのは訓練の最初に行われていたエクササイズです。
 それは床に寝転んだ状態から始められていましたが、驚いたことに太極武藝館のセミナーで行われた内容とほとんど同じものだったのです。まさか、自分が何年も前にセミナーで受講した内容が、そのまま実際の軍隊のトレーニングで行われているなど、まったく想像も及ばぬことでした。
 広い訓練棟で戦闘服に身を包んだ訓練兵士が教官に指導を受けている様子には一切の一般的な戦闘イメージはなく、反対に深く静かに自分自身をみつめて精神的な自己制御のシステムを養っているように見えました。しかも、そこから始められた3つのトレーニングは、私たちが道場で指導されていることやCQC特別講習クラスで教授されていることと、驚くほどピッタリと一致していたのです。
 師父は、道場での稽古指導に於いては、滅多にその練功がどのような種類のものなのか、それを稽古することでどのような成果が出るかを説明されることはありません。そしてそれ故に、私たちは教わる内容を、まるで太極拳の学習としては当たり前の、どこの太極拳でも教授されているものだと考えがちです。
 ところが、そのとき軍隊で教官が説明していたのは、“軍人にとって欠かせない特殊な意識訓練” であること、そして “体力筋力を養うと同時に脳を鍛えること” だったのです。
 もちろん、そこで行われていたトレーニングは静的なものだけではなく徐々に動的なものへと移行し、更には素早い動きの中で複雑な指示を的確にこなしていくというものまで行われていたことを付け加えておきます。

 プロの戦闘要員育成トレーニングが、私たちの稽古内容と一致する。────────それは、激動の時代を生き抜いてきた太極拳の歴史を見れば何の不思議もないことですが、現代太極拳の練習内容を見聞する限り、まるで肝心な “武術的要素” がスッポリ抜け落ちてしまったかのように思えてしまいます。つまり、たとえ勁力などの非日常的なチカラが存在していたとしても、その使用方法となる戦い方は明確に示されていないのです。多くの発勁動画を観てもあまり武術的な脅威を感じないのは、その辺りの理由からかも知れません。
 軍隊で武器(力)を正しく扱える知識と身体を養うように、武術家にも同等の過程が必要なはずで、その過程を経ることによって、ただの強さではない “武術的な強さ” が身に付くのだと思います。

 軍隊式トレーニングが筋力体力を頼みにするものではなく、ましてや単なる格闘訓練や銃火器訓練だけでもなく、もっと根本的な自己統御から行われているということは、彼らのその統率された集団行動や命令系統の確立からも納得できると同時に、武器の有無に関係なく戦うことが出来るし、たとえ最後のひとりとなっても為すべき事を為しながら戦い続けることが出来るという、そのような人間を育成していることがはっきりと分かります。

 研究会の稽古で時々道場を離れて山に入って特別訓練を行うのも、同じ目的であると感じられます。
 特別訓練と言っても、いきなり山中に放り出すような荒っぽいやり方は(今のところは)せずに、まずは非日常の環境に身を置いて寝床を作り、火を熾し、食事を作るという、ごくありふれた野外生活を経験させられます。
 慣れ親しんだ日常から一歩離れた非日常の中では、自分が行ったことが全て自分に還ってきます。その時に自分は何をどのように考え、問題にどのように向き合うのか。また、自分独りなら何とかなったことが、仲間と共に行動しているために一手間も二手間も掛かるように感じられることも多々あって、一致団結のためには誰もが自分から率先して動く必要が出てきます。
 そうして少しずつ、太極拳という武術に向き合う自分自身の根本的な問題──────危機感の欠落、ご都合主義でコンビニエンスな考え方など──────と直面し、大袈裟でなく一個の生命としての活動に目覚め始めるのです。

 常に危険や危機と隣り合わせの状態では、否応なく武術的な強さが希求されます。それは理屈ではなく、頭で考える暇もなく唯々生き残るために全身全霊で求めるのです。
 危険と言っても、たとえば岩がゴロゴロしている川原を歩くということでも充分危険な状況です。そこで正しい考え方と歩き方を教わり様々な変化応用を伴って縦横無尽に行き来する、たったそれだけでも不思議と軸が整った立ち姿に変わり、身体はいつの間にか柔らかくしなやかに動き、足元は自然と軽くなります。
 言い換えれば、人間はそれ程までに “危機” に対して頭も身体も鈍感になっているということです。

 かつてない種類の激動の時代に入っている現代では、誰もが危機に対して敏感になり、どのような危機に対してもきちんと対応してそれを乗り越えられるだけの知識と身体が必要になると思えます。その場合には武術学習の有無は関係なく、誰もが日常生活の中で “武術的な強さ” を求めて生活することで、敵の思うがままにおめおめとは遣られない意識と精神力とが養われるものと思います。
 僅かばかりの油断が悪いとは言いません。そのささやかな油断にさえ意識的に気付ける自分で居られることこそが、「武術的な強さ」を理解するために欠かせない重要なヒントになるはずです。

 20回をかけて述べてきた「武術的な強さとは」については、今回で一応の区切りとすることにします。武術的な強さとは何であるのか、ここに明確な回答が得られたわけではありませんが、それを確実に手繰り寄せて行けるだけの実感が両掌に感じられます。

 この記事が武術を道とする皆様の、また日々を武術性の追究に向けられている方々のささやかなお役に立てて頂ければ望外の幸せです。

                                  (了)


xuanhua at 11:42コメント(18) この記事をクリップ!
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