2023年02月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その69

  『謎解きは稽古の後も』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 この世界には多くの物事があり、それらの中には、自分自身の手で解かれることを待っている多くの謎が隠れているように思います。
 人間が生まれ持った性質のひとつとして、世界に潜む謎を見つけ、それを解き明かすことに喜びを見出す、というものがあるのではないかと感じます。…よくできたミステリ小説を読む、パズルやクイズを解く…それらの謎が解けた瞬間を不快と感じる人は、あまりいないのではないでしょうか。
 そうやってひとつの作品として作り上げられたものの根底には、自然の中にふと見た景色に残された痕跡に気づき、それをつなぎ合わせ、自分の見ていなかったはずの世界の出来事を知るという、人間が生きるのに必要な能力があるのでは、という気がします。
 さて、その事を踏まえると、太極拳を稽古する上で力になってくれる事のひとつに、謎を解いていく喜びというものが挙げられるのではないかと思いました。
 気づけなかったことに気づく、出来なかったことが出来るようになり、理解を得られる…そこで得られる喜びは、他に換えがたいものであり、より自分を太極拳へと向かわせてくれる力になるのではないかと思います。

 どうしてもわからないクイズやパズルに取り組んでいると、「本当に解けるのか?」と疑問が募り、次第に「やーめた」と投げ出してしまいたくなります。しかし、その先にすごいものが待っているに違いないと確信を抱いているとき、どうしても解きたいという思いは、何年、何十年と物事に取り組む粘り強さを得られるのではないかと思います。
 太極拳の稽古をしていて、自分が近視眼的になってしまい、目の前のタスクをこなすことだけに集中してしまうと、人間が本来持っているはずの力を驚くほど発揮できないものだと、自分自身の経験としても感じたことがあります。
 人間が楽しみや喜びを感じることとして、この世界を知る、身体で味わう、自分の力を高めるなど、人間が生存するのにプラスになる事柄にそういう感情を抱くということが多いのではないかと思います。
 暗くて身動きがとれず、危険を感じる場所に閉じ込められることに喜びを感じる人間は、あまり多くはないのではないかと思います。人間は頭を働かせられるように進化してきた生物ですが、頭と体は不可分であり、身体の発する声をないがしろにしては、ひとりの人間として最大限に生きていくことはできないのではないかと思います。
 また、身体は閉じ込められていないはずなのに、自分の考え方で雁字搦めになり頭が閉じ込められてしまうような時も、また同様に自身の力を引き出せない状態ではないかと思います。

 太極拳の稽古において、楽しんでいればなんとかなる…という事はないと思いますが、ただ、動いていてそれを楽しめないような緊張した状態を感じる瞬間というのは、放鬆の状態からは離れてしまっているのだと思います。
 生じている緊張に気づけていないとき、自分の中では、ただ何かがおかしい、ずれていると感じられるものです。自分が向かっているその方向性をしっかりと修正できたとき、自分の中で物事がカチッとかみ合うような手ごたえがあり、それに伴って、実際に物事が動き出すといった経験を、誰しも味わったことがあるのではないかと思います。

 先日も宗師が「壁だと思っていたものが扉に変わる瞬間」というお話をしてくださいましたが、物事が動き始める時というのは、あたかもそのように、急に目の前の世界が変わってしまうことであり、まるでそれは魔法のようです。しかし本当は、ただそこに扉があることに自分が気づかなかっただけ、なのかもしれません。そこに扉があることは示されていたはずなのに…。
 その示された扉を見つけることに熱中できること。その先に何が待っているのだろう?、という気持ちに後押しされた人間だけが、扉を探し続けられ、見つけられるのかもしれません。

 歩法の稽古を行っている時や対練で相手と対峙しているとき、それまでどうしても出来ず、さんざん指導していただいてもまったくかみ合わなかった事が、ある時急に出来るようになる瞬間があります。理解が生じるのは、他でもない自分がどのような状態であったかが分かる時で、何を指導していただいていたのか、腑に落ちた瞬間でもあるといえます。
 裏を返せば、言われているように、見せて頂いているように出来れば瞬時に解決できていたはずなのに、という事ばかりです。
 取っ手が無ければ扉じゃない! と思い込んでいたのは、他ならない自分だったのです。

 太極拳では、自分が制せられて身動きがとれなくなっているとき、傍から見るとこちらがただ一方的に封じられているようにも見えるかもしれません。自分でそれを体験させて頂くと、そこに向かう過程で、まるで自分からそこにはまり込んでいってしまうかのような錯覚を味わうことがよくあります。不自由さは概ね、不快な感覚を伴うものですが、そうされている時の自分は、決して不快には感じていません。
 宗師は「罠にかける」という表現をして説明してくださいますが、自分はまるで餌のたくさんある場所に入り込んで入れ食い放題…だったはずなのに、いつの間にか身動きがとれなくなっており、頭の中は「あれ、なんで??」と混乱している、という表現に近いかもしれません。
 そのように、まるで自分の中にある力や特性を引き出されてしまっているかのようにも感じられるのは、太極拳が自分の内側に徹底的に向き合い、そこに秘められた力に気づいているから、といえるようにも思います。

 秘められた謎が解けるということは、そこにある法則性に気づけることといえるかもしれません。現代日本人は特に、それらを感じ取り嗅ぎ分ける嗅覚が衰えてしまっているように思います。物事の道理を得られないということは、ひいては自分が生き残る力も弱くなっているといえると思いますし、それは危機感の無さといえるのかもしれません。

 幸いなことに、我々太極武藝館の門人は、太極拳にみんなのめり込み、謎を解こうと誰しも必死になっています。自分を含め、これほどのめり込んでしまうというのは、太極武藝館で指導していただいている太極拳に、人間が本来持っている力を取り戻す術(すべ)がしっかりとあるのを、本能的に感じ取っているからではないでしょうか。
 世の中には他にも魅力的なことはたくさんありますが、もし自分の人生に太極拳がなかったらと想像してみると、なんだかさみしく物足りない気持ちになってしまうものです。
 今年の頭に体調を崩してしまい、動けない時間があったのですが、ほんのわずかな期間動けないだけで、身体を使えるというのがどれだけ大切なものだったのか、身に染みて感じたものでした。
 人生をかけて夢中になれる謎解きに取り組むこと…その喜びをしっかりと味わいながら、自分の力へと変えていきたいと、改めて思いました。

                             (了)




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disciples at 18:00コメント(24)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2023年02月26日 23:39
なるほど!本当にそうですね。
太郎冠者さん上手に表現されますね。
稽古で出来ない意味を理解できたときは、ガッテンの鐘が鳴り響きめちゃくちゃ快感ですよね。
そして皆さんご想像の通り、私もミステリー小説は好きでたまに読みます。(ミーハーなので流行りのやつとか)そこで例えば、捜査に行き詰った時など、よくはじめに戻って細かく見直したり、科学的に分析して見落としを見つけるなんて場面があります。
稽古でも行き詰った時には基本に戻って立ってみる、架式の状態を見直す時も基本の要求をひとつずつ照らし合わせてみたりしますね。
人はやはり思い込みや習慣で、大事なことを見落としている事が多々あるのだと思います。
もっとも謎に満ちているのは人間のマインドと人間社会ではないかと感じている今日この頃です。
理不尽な出来事、他国との争い、明らかにおかしな出来事など、でもやはり突き詰めれば人間のマインドであるのかと思います。
一人一人の考え方は違いますし、その一人一人の考え方を分析することは出来ないですし、する必要もないと思います。
大事なことは自分のマインドと向かい合い、考え方がどこから来ているのか解き明かし、自分とは何者であるのかと言う宇宙のように深い謎に向かい合うことなのではと思います。

>自分の考え方で雁字搦めになり頭が閉じ込められてしまうような時・・・
その状態わかります。
毎日同じ社会で生き、同じようなことをして、同じようなことばかり考えているとそうなりやすいです。
私はそんな自分に気づいた時は、外に出て自然に触れて深呼吸します。
あとは稽古の対練で玄花宗師に飛ばされた時などは頭が解放されますね。(^o^)

何はともあれ、きちんと動けるように稽古がんばります!
今回もありがとうございました。
2. Posted by ハイネケン   2023年02月28日 19:32
謎解き中に太郎冠者さんのおっしゃる「生じている緊張に気づけていない」ことに取組まなければ緊張を介した同じ動きを繰り返す事になる様です。
先日、棍を用いた対練を見せていただき、早速こちらでも稽古しましたが、互いの速度を等速に行っても確実に取られていました。
また自分の姿をみる機会があったのですが、自分の想像とは違う動きで、緊張の賜物(?)でしょうね。
太郎冠者さんの謎解きという語感から、また緊張をほぐして頂きました。
もっと美しく動きたいと思います。
ありがとうございました。
3. Posted by 阿部 玄明   2023年02月28日 20:23
太極拳の様々な練功を進めていく中で日々壁にぶつかります。対錬などは見た目にも非日常であるため摩訶不思議なマジックのようでありますし、自分にとって馴染みの無い形式での対錬では頭が混乱することが多いです。その内容に対して仮説を設定できるとそれを基準にして研究できるので足りない部分は稽古で着実に理解していける。一方、理解が不足し仮説を設定するまでに至らないときは基準が無い状態が長期間継続し不安と焦りが生じます。その類の緊張から無意識に逃れたいと思うと勢い任せ、力任せの稽古になってしまい部分的な力みを生じるという課題が自分にあります。いかに早く法則を見出せるかが稽古の上達スピードの鍵になりますが、感性が鈍っているといつまでも法則の輪郭にも辿りつけない。自分の中では鈍さの克服ということも課題になっています。
今回の太郎冠者さんの謎解きというキーワードを見て、自分の稽古と知恵の輪との類似性を考えました。知恵の輪を解くことに力みは要らないが、解くための法則を分かろうとするやわらかい思考と根気強さが必要になります。思うように智慧の輪が解けないとイライラして力づくで引っ張ってしまうものです。それでも解けないと感性を放棄し、さらに力をこめて知恵の輪を変形させてしまえとばかりの脳筋状態に陥りがちです。
太極拳の稽古も一方向に力感いっぱいにがむしゃらにやるのではなく、知恵の輪を解くような冷静さを持ち、鋭く取り組むことが必要だと思い直しました。
4. Posted by 川島玄峰   2023年02月28日 21:20
>自分の考え方で雁字搦めになる…
非常に頭の痛い所です。
分からない動きを自分の思い込みに当て嵌めていたり、自分が理解しやすい方向で納得しようとする事が自分勝手な解釈になる事を散々稽古で教えられています。

入門以前は自分を顧みる事や自分の思い込み、意固地な部分など色々な自分を知る事がありませんでした。(なんて浅はかな…)
以前の行動を今も継続していたのなら日常生活の苦難を対処する事も難しく途方に暮れ虚しく感じていたのではないかと思われます。
自分を改善する事は難しく大変な事でもあり気付かない事だらけ、気付いたらそれを正すためには当然努力も必要となって来ます。

太郎冠者さんの云われるように太極拳の謎を解く喜びがあるからこそ何事にも努力しようと思えるのかもしれません。
太極拳は本当に奥深く謎が多いです。これからの先には何があるのだろうか期待が込み上げて来ます。

謎解きの喜びに出会えた事、それを一緒に感じ稽古が出来る仲間がいる事に改めて有り難く思います。

ありがとうございます。
5. Posted by 西川敦玄   2023年02月28日 23:22
太郎冠者さん、謎解きをテーマにしたブログ記事ありがとうございました。
太郎冠者さんの言われるように、謎解きの謎を解くことの喜びは大きなものがありますし、先の見えにくい問題に取り組むモチベーションになるのだと思います。
一方で、私の中で謎を謎としておいておきたい(そんな風に思うなんておかしいのですが)。謎を解くのでなく、謎を深めていくことに、心地よさを感じている自分がいるのではと思うことがしばしばあります。謎に向かい合っているのですが(本人は解くつもりでいる)、謎解きに進んで行くことがない状態があるのではと思います。
その事に、はっきりと気付いていくことができれば、本当に謎解きに取り組んでいくことが出来るのではと、今回改めて考えました。
さて、現代日本人の嗅覚が衰えていることを嘆き、反省することも大事だと思いますが、そこから歩を進めなければいけないのではと感じています。最近私は、私自身が、現代日本人の受けてきた教育を生かすことができているのか、(評価はされていないけれども、それでも)うけてきた事を十二分に発揮しているのか疑問に思うこともあります。私は、現代の日本人が培っている嗅覚をつまらないものとして、自分の鼻を塞いでいやしないかと自分に問いかけます。これは、謎に対しての態度と近しいのではと思うのです。
これまで、自分に培ってきたものに対しても、私自身謙虚に尊重出来るようになりたいと思いました。
6. Posted by 松久宗玄   2023年02月28日 23:40
太極拳を掘り下げていくと、
壁にぶち当たる度に、先が見通せない暗闇のように感じられ、
先に進んでその奥に触れる度に、更なる謎と神秘に満ちているようにも感じられます。

太極拳の理解が一歩進んだと感じられた際には、
自分自身への理解も同時に生じている事は良くある事で、
自分自身が理解できて、自分自身を変えた事で太極拳が理解できた事も多かったかと思います。

やや強引な展開ではありますが、
太極拳が分からない状態は、自分自身が分からない状態だとも言えると思っています。

自分自身の謎を解く道だから修行になる。
師父が「もっと自分に興味を持て」と仰っていた事が思い起こされました。
7. Posted by ふにゃ   2023年03月01日 10:22
>動いていてそれを楽しめないような緊張した状態を感じる瞬間…
瞬間どころか、何年もそんな所にいたように思います。稽古に限らず、敢えて自分を緊張状態に追い込んでいたような…。
放鬆どころか、この緊張状態に慣れなければ…と必死になっていたように思います。
今考えると何でそんなことを?と思いますが、まさに、>自分の考え方で雁字搦めになり頭が閉じ込められて…いたのでしょうね。

パズルやクイズは好きですが、最近は、一度解いた問題でもしばらくしてやってみると初めて解くかのように楽しめてしまっています(汗)
8. Posted by ユキ   2023年03月01日 16:05
謎を解く。
それは、”不明”であることが”明らか”になることと言えます。
私はすぐに野外生活を思い浮かべてしまいますが、見知らぬ土地で、寝起きする拠点を作り、
火を熾し、飲み水と食料を確保し、危険を回避すること・・それらが困難な時にはどのようにしたら良いのか「謎」であるわけです。しかも、例え自分が望んで行った状況であっても、非日常の中で思うようにいかないことに苛立ち、感情的になります。
『感情にのみ込まれると、どんなに屈強な人でも精神をやられる』とは、宗師から聞いた言葉ですが、瞬間瞬間で謎を解いていかないと体も心も蝕まれる状況では、楽しむ余裕はありません。
やや大げさな表現になりますが、極限の緊張状態でも謎を解いていける精神状態が理解できなければ、解ける謎も限られてくるのかもしれないと思います。

問題は、どれほどの謎が解けたかではなく、謎を解けるアタマを養おうとしているのかどうかですね。そして、謎解きに最も必要になることは「集中」だと思います。
集中を妨げる大きな原因は、心です。人は心が弱ると集中できなくなります。
武藝において「平常心」が道とされるのも、それ故なのだと思います。

今回は触れられていませんが、太郎冠者さんが思う「人間が本来持っている力」とは何であるのか、興味があります。いつか機会があれば記事に書いていただければ嬉しく思います。
 
9. Posted by 平田玄琢   2023年03月01日 23:11
私は、神事等の仕事では緊張をあまりしなくなってしまいました。たまに緊張すると、適度な緊張は心地よくテンションが上がり、車で言えばターボのかかった状態の様だと思っていました。
しかし、その後、「生じている緊張に気づけていない」ため、体のあちこちが凝っていて、変な力が入っていることに気が付かなかった事が度々ありました。

理想は、仕事で言えば緊張感があり心に余裕のある状態。
太極拳では、身体に力や緊張でない張りがあり、架式と放鬆が出来ている状態でしょうか。

十数年程前に神道についての講義を頼まれた時、ホワイトボードに描きながら、3時間近く休憩も無しに話を進めたことがあります。講義で、あっという間に時間が過ぎたのは、最初で最後でした。私の拙い話を長時間聞いた方もさぞかし大変だったと思いました。
しかし、道場では毎度のことの様に、あっという間の4時間が過ぎていきます。その時間を有意義なものとするため、自分は、「解らないことがわからない」状態で稽古に向かうのでは非常にもったいないと思います。
「何が解らないか」を事前に考え、それがわかるための練功を少しでも行い、「解るようになりたい」と稽古に向かうと大変有意義な時間となるのではと思います。
「謎解きは稽古の後も前も」ですね。
10. Posted by 清水龍玄   2023年03月02日 03:04
私は、何かの指標がないと、より浅く物事を見がちで、唯でさえ狭い視界が、より狭くなっていると感じます。
その状態で得られるものは、とてもちっぽけなものです。
稽古中であろうと、日常生活の中であろうと、1つのことに向き合い続けることは、人の持っている力であるし、また、その状態が更なる力を生み出していくようにも感じます。
それは、その場限りで終わるものではなく、疲労はあれど、活力、成長、人との繋がりと様々な得難いものを得ることができるものと感じています。
今回も記事をありがとうございました。
11. Posted by 川山継玄   2023年03月02日 06:03
「問題を自分で解決できない」
「問題を解決できたとしても非常に時間がかかる」
というのがずっと課題です。
この状態がなぜ起こっているかと振り返ると、物事に取り組む時、まず
「できないのではないか?」
という大きな不安や恐怖から始まっているからではないかと思いました。そして、その不安や恐怖は、極度の緊張を生みます。
太郎冠者さんがおっしゃるように、
>近視的になり、目の前のタスクをこなすことだけに集中
している状態。
そんな私でも、対練を示して頂き、見たままに
「あっ!これ、わかりたい。やってみたい!!」
と思えた時は、見るとやるとでは大違い(汗)と難しさを感じつつも、必死になって、示されたものとの違いを、姿勢や間合・向きなど、ありとあらゆることに目を向け修正しようとしています。
今年の目標の一つに、「言葉にしてノートにまとめる」なのですが、視覚化して頭を整理することで、より現状を把握し、問題点が具体的になり、着地点はどこなのかがはっきりして、壁が扉であったと気付ける状態になります。
しかし、なかなかスムーズにいかない現状があります。
書くことによって整理され、次のステップにつながる足がかりを見つけられるという喜びが浸透するまでやってみる根気強さを身に付けていきたいです。
物事、プラスの捉えで取り組み始めようと思います。

今回の記事、とても美しく流れているな…と感じ、文章がすっと体に馴染みました。
自分自身の整理にとても役立ちました。ありがとうございます。
12. Posted by マガサス   2023年03月02日 19:17
なかなか解けない謎ばかりでして、自分の頭と体が追いついていきません(汗)
ただただ宗師との「違い」に圧倒され、疑問に思い、とても興味深く感じています。
人間は進化するんだ!? いや、本来の姿に戻るのか・・・

緊張に呑み込まれると、確かに思うように動けません。
でも楽しいだけでは発揮できない力があると思います。
心身ともに極限状態に達した時には、逆に信じられないくらいの集中力と力を発揮できるものだと、少ない経験ではありますが体験してきました。
では緊張とは何か?
あるべき状態にない時に起こる心身の歪みなのか?
宗師は歪んでいないのか?? 緊張していないのか???

解いていかなければならないことが山積みです!
ありがたいことに、自分にとって太極拳は生きるためにとても重要な道標です。
在り方を探求し続けていきたいと思います。

今回はなかなか筆が進まず申し訳ありません。
またしっかりと読み込ませて頂きます。
13. Posted by 太郎冠者   2023年03月06日 22:31
☆マルコビッチさん
稽古をしていても、普段の生活を送っていても、人間とはかくも不思議な生き物なのか、と思わされることがしばしばありますね。

考えてみると確かに、問題の大半はほかの人との関わりの中から生じているようにも感じます。それがなければどれだけ物事はスムーズか、と思うこともあります。
では、他に人がいないとどうかと想像すると、それではこの世界の豊かさが半減してしまうように思いますし、さみしいものがあります。
・・・自分も含めやっぱり人間は勝手な生き物で、そこが面白いのかもしれません。

太極拳も、他者との軋轢が生じる中で、それを解決するために生まれたもののひとつといえるのかもしれません。
太極拳を学ぶことは、人間を学び、それを通じて世界を学ぶことなのだと感じさせられますね。
14. Posted by 太郎冠者   2023年03月06日 22:36
☆ハイネケンさん
緊張しすぎている状態、逆に緩みすぎている状態、どちらも共通して、すぐには動けない状態なのだと思います。

というのも、自分は稽古の時にはしばしば「適切な張りがない状態」だと指摘をしていただき、そういう時には、放鬆と称して力を抜く=身体を休めてしまっているような、さっと動けない状態になってしまっていることが多々あるからです。

緊張のし過ぎ、緊張の無さすぎ、どちらも武術として適切な状態ではないとすれば、正しい整い方はどういう状態なのか?答えが見えそうな気がします。
そのためには、自分の姿に自覚的にならないといけないですよね。
宗師のように、普段の立ち振る舞いから美しくありたいものです(趣旨が違う?)。
15. Posted by 太郎冠者   2023年03月06日 22:47
☆阿部 玄明さん
稽古において、太極拳は知的でないと解けないと指導していただきますが、一見関連がなさそうな事柄の中に共通点を見出せるかなど、実際に知性を試されるような場面はたくさんあるように感じます。

物事を発見していく際に、知識は確かにそれを推し進めるヒントにはなってくれるかもしれませんが、最後に問われるのは、当人がどれだけ自分の力で発見できるか、なのだと思わされます。
これは自分のことですが、気づきを得るために、身体の声にもっと耳を傾けなければいけないと最近は特に痛感させられています。
頭で考えていても解けないことは、身体で考えて解く…まるで脳筋のようですが…脳に頼り切りではないので、脳と筋肉両方の発想でしょうか。
そうすることで見つけられることでしか太極拳は学習していけないのだな、と思いました。
16. Posted by 太郎冠者   2023年03月06日 22:54
☆川島玄峰さん
太極武藝館で稽古をしていて、日常生活と違っているなと感じる事に、間違えることは問題ではなくて、何もしない、進展がないことのほうが問題視されるという点があるように思います。

普通はどうしても間違える=悪いことだという風潮があり、間違ったことをして何か言われるよりは何もしないほうがいい、という事にまでなりかねません。
ところが、太極武藝館での稽古において指摘されるのは、何も変化が無いことに対してです。
稽古においてはむしろ、正しく間違えている時のほうがよほど建設的であるといったことまで言って頂くことがあります。

正解を発見し理解を促していくためには、正しく間違えながら失敗していく必要があるのかもしれません。
その謎解きのプロセスの楽しみが、我々を稽古に引き付ける要因のひとつなのかもしれませんね。
17. Posted by 太郎冠者   2023年03月06日 23:10
☆西川敦玄さん
玄花宗師が稽古中に、私を目指すのもいいけれど、もっと先のことを目指してほしい、ということを言ってくださったことがあります。

仰る通り太極拳は深遠なものだと思いますし、どこまで続いているのかも、自分には全く見えておりません。
ですが、今現在自分が解かなければならないこととして、師父や宗師に示していただいた内容として、「ここまでは解けるよ」というものが間違いなく存在しているので、その謎を解かなければ、という気持ちでおります。
その謎が解けたとしたら、また新しい謎が生じているはずなので、引き続きそれにも取り組んでいいきたいですし、そうやって謎を解き続けていけるような深い取り組みが出来る太極拳に関われることが、喜びだと感じています。

私自身、現代日本人としてこの歳まで生きてきており、それ以外のものを体感としてはっきり理解できているわけではないのですが、だからこそ、
「その考え方では解けないよ」と言って頂いた言葉が、今も胸に突き刺さっているのかもしれません。
一度すべてを手放さないとわからないのかもしれないけれど、自分はまだまだ手放せていないという感覚があるからこそ、今回のような内容で記事を書かせていただきました。
18. Posted by 太郎冠者   2023年03月06日 23:15
☆松久宗玄さん
太極拳を稽古していると、本当に、嫌でも自分という存在と向かい合わないといけないと痛感させられることがしばしばです。
…ということは、どこかで見失っている時があるということかもしれません。

宗師が「自分が太極拳になる」という表現をしてくださいましたが、それは、自分の中にない太極拳という技術を習得していくという表現とも全く違ったニュアンスであるように感じられます。

自分を理解する、自分を知るという過程で知り得た自分に固執しているのもまた、間違っていたのかもしれません。
それはその時の自分で、現在の自分とはまた違っている…だからこそ、常に今を生きることでしか稽古は進んでいかないのかもしれませんね。
改めて、目を見開いて稽古に臨みたいと思いました。
19. Posted by 太郎冠者   2023年03月08日 22:23
☆ふにゃさん
記事で書いた内容と矛盾しているかもしれませんが、何かに取り組むにあたり、ゴールを設定せずに無目的に、あたかも対象と戯れるようにして取り組めるとき、いい結果が伴ってくるように感じます。

師父はよく音楽のお話を引き合いに出してくださいましたが、音楽を聴いている最中は、聞き終わるのが目的ではないはずです。
ただその聞いている瞬間に身をゆだねることが出来るとき、それが一番音楽を味わえているように思います。
太極拳の稽古中、たとえば対練においても、もちろん架式を理解する等の目標はあるのですが、相手との関わりを自分の存在と共に味わえている時に、いちばん理解が生じる結果が出るように思います。

音楽を聴きながら何も考えずに踊りだしている、そのように全身全霊で稽古に取り組みたいと、僕もいつも思っています。
20. Posted by 太郎冠者   2023年03月08日 22:33
☆ユキさん
>極限の緊張状態でも謎を解いていける精神状態
原始の時代、自分の居住地から一歩離れ、常に身の回りに危険を感じながら獲物を追い求めた人類の祖先は、おそらくそのような状態だったのではないかと思います。

どこかに獲物の痕跡を見つけ、それがどのように動いていたかを推察し、近づく。その中で、自分が獲物とならないよう、捕食者や危険の存在も常に感じ続けなければならない。
我々の身体にも、その時の血が今も流れているはずで、人間の能力を引き出すには、そのような環境・精神状態に自分を持っていけるかが問われているのではないかと感じます。
腕っぷしの強さではなく心の強さが問われている、とは、稽古を通して常に感じさせられることだと思いました。

>いつか機会があれば記事に
興味を持って頂けたのなら、またしっかりと記事にしてみたいと思います。
…それまでに、自分もきちんと人間としての力を発揮できるようにしていきたいと思います。
21. Posted by 太郎冠者   2023年03月09日 00:33
☆平田玄琢さん
過度な緩みでもなく、かといって緊張でもない状態を「放鬆」という言葉で表現して我々に残して下さった太極拳の先達たちには、本当に頭が下がります。

人間は極限状態に立たされたとき、火事場の馬鹿力というように限界を超えた力が出せるのかもしれませんが、それはその場しのぎの状態であり、眼前の危険を乗り切るための一時的なターボなのかもしれませんね。
その状態が恒常化してしまえば身体に良いわけがありませんし、長期的にみれば体調を害することになりかねないのだと思います。

>「何が解らないか」を事前に考え
仰る通り、たとえ間違っていようと自分の中に疑問点や問題点があれば、それをたたき台にして稽古に取り組むことが出来、次につながる新たな気づきが生じてくるように思います。
謎解きは稽古の後も前も、最中も…稽古は続くよどこまでも…ということなのかもしれませんね。
22. Posted by 太郎冠者   2023年03月10日 02:36
☆清水龍玄さん
大それたことでなくても、何か目標を持つことは、浮ついて漂ってしまいがちな人の精神をひとつの方向にしっかりと向けることが出来ることにつながるように思います。
まるで、太極武藝館の稽古でいえばグラウンディングを行っているかのようですね。
ましてやそれが、太極拳のように大きなものであればこそ、それに向かっていく苦労と見合うだけの大きな成長が、自分自身に得られるのではないかと思います。

そこでの気づきは、他の人との関わりや人生への感じ方など、多くのことへ影響を与えてくれるように思います。
何よりも、自分が成長していくことを実感できること、その喜びというのは、何ものにも代えられないのではないかと感じますね。
23. Posted by 太郎冠者   2023年03月10日 02:50
☆川山継玄さん
案ずるより産むが易しという言葉がありますが、出来るのかな…と悩んでいるよりは、実際にやってみたほうが簡単なことだった、ということはしばしばあるように感じます。

僕は趣味で工作をすることがあるのですが、以前木工にはまっていたことがあって、黒檀などの、とても硬い木を加工したことがあります。
家具や建物の建材などにも使われるとても頑丈な素材で、刃物でもなかなか文字通り刃が通らないくらいでした。

悩んでいても加工は出来ないので、とにかく手を動かしていきました。刃物でダメならヤスリを使い、手でダメなら電動工具で、とにかく木を削り続けました。
形を加工したら、あとはひたすら紙やすりで表面を整え、やすりの目を細かくしていきます。
最後にはただの紙で表面を磨いていくと、ざらざらだった木の表面がツルツルになり、光を反射するようにさえなりました。

自分の手で美しい道具を作り出せたことの喜びは、表現しがたいものがありますね。
最終的な形、目標をしっかりと持ちながら、目の前の作業に没頭できること、それは何をするにも共通して現れてくる、問題を解決していくためのノウハウなのかな、とも思いました。
24. Posted by 太郎冠者   2023年03月10日 03:03
☆マガサスさん
コナン・ドイルがシャーロックホームズを執筆していた時代、世の中にはまだ、証拠を発見し積み上げていく科学的捜査という手法は浸透していなかったそうです。

作品の中で、名探偵ホームズはまるで超人のように、見えない物事を見出し、隠れた出来事を露わにしていきますが、それらはすべてよく見ればそこにある出来事の積み重ねとして描写されています。ホームズとほかの人々の違いは、それに気づけるか気づけないかだけなのです。

太極拳の稽古中にも、我々は宗師に「本当に同じ人間なのだろうか…?」という視線と疑問をぶつけてしまいがちですが、そのたびに「同じ人間です」という返答をいただいています。
見えない、わからない、出来ない。自分もしばしばその壁にぶつかってしまうのですが、では果たしてそれを越えていけるだけの努力を自分がしたのだろうかと問えば、玄花宗師がされているようにはしていない、足りないのだと思います。

示していただいているはずの太極拳の本質を見抜けない我々自身の見方そのものこそが、本当は解決していかなければならない謎なのかもしれませんね。

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