2023年01月27日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その68

  『創意工夫した勉強を』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳を学習していく際、多かれ少なかれ、壁にぶつかる瞬間は訪れるかと思います。太極武藝館の稽古が特殊だと感じる点に、ただ深遠な太極拳を教授していただけるというだけでなく、その学習の仕方そのものにもメスが入り、自分が物事をどのように学んでいるか、人生に関わっているかということに関してまで、つまびらかにされていく点が挙げられるのではないかと思います。

 年末年始を通して、一年の中でも一番長い期間、道場での稽古がお休みとなり、我々門人は、それぞれが自身の課題に自分自身で取り組む時間が与えられました。もちろん、みんなで稽古に取り組み、それぞれの課題を発見する時間は本当に必要で、大切なことだと思います。
 ですがそれに合わせて、各自が見出した課題を、自らの力によって、自分自身で掘り下げていく時間もまた、車輪の両輪のように必要な時間だと思います。
 あたかも、世界中に存在している寺院や修道院などで取り組まれている修行において、みんなで共同で取り組む時間と、各自が必ず一人になって修行を深める時間が別々に用意されているかのようです。そうすることで初めて人間は、他者と対した自分、自分と対した自分として、一人の人間としての深みを見出していけるかのように感じられます。

 さて、この現代社会で生きてきている我々は、各自で行う勉強というと、とにかく時間と数をこなし、まるでやり終えて積み上げられたテキストの量が、そのまま自分の勉強できた量であるかのように感じている部分があるのではないかと思います。
 それは、この日本の学歴・受験社会においては、試験で結果さえ出せれば良し、それを過ぎてしまえば、果たして自分に何が残っているのだろうか…、という問題につながっているように思います。
 例えば試験をひとつ取り上げても、太極武藝館で行われるものは普通のものとは全く違いました。そこでは、自分が他者によってただ絶対評価を下されるというものではなく、自分自身が自分の問題と直面し、自分を知るという機会が設けられていたように感じられたものでした。

 稽古が休みの間、自分にとっての問題は何かを追求していましたが、そこで気づいたのは、頭での気づきでは、物事の本質は理解しきれないという点でした。
 何か自分の問題解決のきっかけになるものを…とアンテナを張り巡らしていたのですが、ある時ふっと、それまで気にならなかった本の存在に気づき、なんとなく手に取ってみました。するとそこには、自分が思ってもみなかったヒントがちりばめられていたのです。
 非常に面白いことにその本には、問題を解決する際には大きな紙に問題点を書く、部屋中に張り付ける、自分の居る環境を整える、などなど、いつも玄花宗師に指導して頂いているような内容が書かれていたのです。
 その本を読んで、私は衝撃を受けたものでした。人間というのは頭だけで出来ているわけではなく、身体を持ち、外側の物事と相互にやり取りをしながら生きている生き物です。その、頭の外側で起きている事に、本当に多くの影響を受けているのだということに改めて着目させられ、自分が見直さなければならないことに多くの光が当てられたような気分になったものでした。

 自分の頭だけで物事を理解していけるという思い込みは、自分の力だけで物事が解決していけるという錯覚と同じものであり、太極拳に当てはめれば、自分の力や創意工夫だけで相手を崩すことが出来ると思い込んでいる、拙力の発想と全く同じものだったのだと、改めて思わされました。
 ところが、太極武藝館で指導されている学習方法は、本当に簡単なことのはずなのに、全く違っています。頭の中で問題をこねくり回すのではなく、まずは書いてみる。たったそれだけのことで、問題に対して全く違った切り口が出来ているのだということに気づかされます。悩んでいないで、それをやってみる。これ以上シンプルな解決方法はないのではないでしょうか。
 だけど、自分を含め、ヒトはそれをやりたがらない…そこにこそ、学習が進歩していけない問題点と解決策があるように感じられます。

 紙に書いてみる、環境を整えてみる。本当に単純なことに取り組んでみることで、人間は自分以外のものと、自分で気づいている以上に相互にやりとりをしているのだということが実感させられます。これは自分と物との関係だけでなく、自分と他者との関係においても、全く同じことが言えるように思えます。
 頭ではなく身体で分かっていくというのは、ただ体育会系のノリで身体をひたすら鍛えて、ということではなく、周囲にあるメッセージにまず気づけるのは身体だということに、意識を向けていくことではないかと思います。自分の頭では「わからない」と思い込んでいることでも、身体のアンテナは敏感にキャッチしていることが多々あるように感じます。そこに意識的になることで、新たに見えるものも多いのではないかと思います。

 玄花宗師と対練をさせて頂くと、とにかく自分のことが見透かされてしまっているという感覚が拭えません。太極拳には聴勁という言葉がありますが、こちらの身体が発している声を、自分よりもしっかりと聞き取られていて、自分の気づけないレベルで行動に対処されている。そのような相手に、どれだけ力もうと関係なくやられてしまうのは、もはや自然の理といえるのではないでしょうか。
 武術の道場という場で、ただ敵を屠る技術を教わるのではなく、人との関わり方について話が広がり、そこから見えてくるものが、そのまま自分の稽古の仕方とも繋がってきているというのは不思議に感じるものでもあり、また、同じ人間の取り組んでいることであるために、ごく当たり前のことのようにも思えてきます。

 このことは、これもまたいつも指導して頂いている通り、日常生活の中で太極拳を勉強していけることと繋がっているのではないかと思います。仕事でも普段の生活においても、人や物事と対峙する時、太極拳として自分が向かい合えているかどうか。いつも血気盛んで相手を叩きのめすことしか考えていない人間に、いざ道場や実戦において余計な力を使わないなどということが出来るとは到底思えません。
 ただ、だからといって普段から「修行だ、修行だ…」と眉間に皺を寄せていても、それもまた余分な力みになっていて、稽古としては片手落ちになってしまっているのだと思います。心を静かに、波風が起きてもそれを観察する余裕を持ち、かつ無抵抗ではなくしっかりと対処できるような芯の強さを持った人間であること。それが問われているように感じます。

 剣禅一如という言葉がありますが、人間としてどれだけ自分を磨いているかが、そっくりそのまま太極拳の修練の度合いに繋がっているようにも思えてきます。昔の達人はすべからくその境地に達していたからこそ、見えていたものがあったのではないかと感じます。

 自分も、肩肘を張らずに自然体で、そこから初めて見えてくる自身の本質に向かい合い、それを磨いていきたいと思いました。

                              (了)



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☆ご期待ください!


disciples at 19:00コメント(24) 

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2023年01月29日 11:57
太極拳の上達を求めようとするのであれば、
その本質が芸事であり、修行であり、道である事に入っていくしかない、と痛感しています。
道場における稽古、自己の稽古だけではなく、稽古外の日常に目を向ける必要性が見えてきたのは、実に最近の事になります。

部屋や家の整理、頭や心の整理、睡眠や食事に関する自己管理、普段の言葉使いや立ち居振る舞い、人間関係の間合いの取り方に関する注意、
これら日常への注意は稽古の役に立ちます。
稽古は自律的に自己を修正し、型に合わせていく作業ですが、それには自己の不備と、あるべき型を同時に認識する必要があります。
自他を同時に観察し、その差を認識し、リアルタイムで修正をしていく作業です。

その自己観照の作法は、稽古の中だけで身につける事は困難であり、
日常の中で観察し、修正され、吟味され、磨かれたセンスが、稽古においても大変に役に立つ・・・
と気付いたのは、ごく最近の事でした・・・・

武術における剣禅一如とは、何か物凄い境地として捉えるのではなく、
武術と日常を地続きに捉える心構えとして、気楽に受け取っても良いのはないか、とも感じました。
2. Posted by 阿部 玄明   2023年01月30日 03:51
太郎冠者さん

勉強法というお題を挙げて頂き、遥かな昔に受験勉強したときのことを思い出しました。
受験勉強ではテストの瞬間にむけて得点を最大化するために色々なことを画策しました。
その瞬間だけ得点できてさえいれば良いので手段は何でも問いません。苦手な部分は諦めて、残りの得意な部分でヤマを張って勉強をするなど。選択問題なら4つの選択肢から一つの正解を選ぶだけなのであてずっぽうに選んでも正解する確率は25%ある。
物事の全体を理解しようとする道場の稽古とは大ちがいでした。
当時の勉強を思い返せばいい加減なものでしたがやっぱりシャープペンと紙を使い沢山のことを書いていました。数学や物理の公式問題だけでなく英単語や歴史の暗記ものも紙に書いて時には声に出して読んでいました。単語帳やテキストを視覚だけを使って学習しているときに比べてはるかに勉強効率が良かった。頭だけで考えているだけでは分かり難いのは情報に関わる手順が少ないため十分吟味できず頭を素通りしてしまうためでしょうね。
一方、書き出すという方法は十分吟味できるし思考の履歴も残るため自分の思考の癖も客観的に観れるためすごい勉強法だと思います。
稽古の内容、課題、理解したことを書き出しそこから見える課題と新しい理解に取り組むのが自分にとって情報を吟味し、身に付くやり方だと思い実践していきます。
3. Posted by ハイネケン   2023年01月30日 07:00
人それぞれ、歩みの速さも、歩幅も、今の目指す所も違うのかもしれません。
できない事を理由に自分を傷つけるのではなく、壁と向き合い、自分に足りない事を知り、取組みたいのですが、こう考えると太郎冠者様のおっしゃる通り、私の眉間にはシワが寄っています。壁を感じない様にする考え方、生き方もありますが、私は今の壁を登ろうとしている様で苦しくなります。
そこに至るまで取り組んだからこそ見えてきた、とても大事な壁。もう少しじっくりと壁と遊び戯れてみます。
太郎冠者様、爽やかなご教示をいただきありがとうございました。
4. Posted by 平田玄琢   2023年01月30日 16:54
太郎冠者さんは、毎回、自分の考えを書面にして整理してまとめ、省みて進歩していくところが大したものだと思います。
私も、最近になりますが、苦手な練功を放っておくのではなく、課題として認識する様になりました。自身の課題として納得するまでとことんやって、これに違いないという仮説をたて、次の稽古に臨み、間違いを是正することがよくあります。
 
ある時、苦手な太極歩を課題として独自に取り組んでいると、なぜか、「のれている時」は、昔から知っている馴染みの位置ではないかということに気がつきました。
それは正座の位置でした。正座している時は位置がはっきりわかるのに、立ったり歩いたり(正座以外の行動)すると、その位置は消えてしまいがちです。その位置を常時意識して、動いてもまたその位置に戻るにはどのようなことが必要か?
また課題として取り組んでいきたいと思います。
5. Posted by 西川敦玄   2023年01月30日 21:02
太郎冠者さん
いつも、気付きを促してくれる記事をありがとうございます。
今回の記事を読んでいて、学び方について考えるところがありました。
私は、普段いわゆる専門職と呼ばれるような仕事をしているのですが、
そこで、その分野の英語のレポートなどを読むことがありますが、ときどき不思議に思うことがあります。
以前から同じ英語でも一般的な、ニュースや論説、さらには高校英語などの教科書のほうが、専門分野の文章よりも読みやすいのではと思っていました。
きっと、多くの方はそう思うのではないかと思います。
私は英語は得意ではないので、ニュースなどを英語で読むと四苦八苦するのですが、自分の専門分野の英語レポートは意外に読みやすいのです。
それは、専門用語を知っているいないの問題ではおそらくなく、長年の経験でバックグラウンドに知識として持っているシステムが、文章の行間を読ませてくれているからでないかと思います。
われわれは、太極拳を学んで行く際に正しいシステムを生きたものとして、常に修正アップデートしながら自分の血肉にしていく努力を続けていかなければならないのだと思います。
そして、太極拳の基本を純粋に捉えていくこと、無意識に行っている普段の生活のシステムでない、太極拳のシステムに転換していくことが鍵となり得るのだと思いました。
6. Posted by 川島玄峰   2023年01月30日 21:06
毎回稽古を通して太極拳に対する認識は自分勝手の捉えであることに気付かされます。入門以前は、基本功や套路や技、要訣などを知れば強くなれると思い込み、受容性や捉え方のアプローチなど考える事もなく無知な在り様でした。
今はようやく妄想を抱く事も無くなりましが、太極拳の習得には自分の問題点や心の持ち方、今の在り方を認識し、受容性を持って問い続けなければならないと思っています。
太極拳は頭で理解出来るほど単純な物ではないですが、感覚やイメージを膨らませるための想像力が必要であると実感しています。
そして感覚やイメージを培い知識として変換できる知性が備われば違う景色に出会えるのかもしれません。
宗師は太極拳の強さは副産物と仰います。
副産物だけを追い求めていた自分としてはこれからも感覚とイメージを研ぎ澄まし本当の産物を少しでも多く理解出来るように精進して行きたいと思います。

この度は、武術の意味を考える事が出来ました。
ありがとうございます。
7. Posted by マルコビッチ   2023年01月30日 23:07
 「創意工夫した勉強」 まさに道場では様々な創意工夫された練功を行なっているのですが、その様々な練功も漫然と取り組んでいたら繋がりが見えなくなります。
太郎冠者さんの言うように、紙に書いてみる。
問題点、わからない事、わかった事、色々な視点から文字に書いたり図にしてみたり、ひとつひとつの練功のつながりを線で引いてみたりしたら面白そうだなと思いました。
私が書いているものは、日記やメモのようで何も発展性がないとつくづく反省しました。
何か学び方のヒントを頂いたように思います。

また、他者と対した自分、自分と対した自分、そして他者から見た自分、それらを客観的に見る事ができたら、きっと未知なる自分を見出し深く高く広がっていくのかもしれないと、この記事を読んで思いました。
ありがとうございました。
8. Posted by ユキ   2023年01月31日 18:13
創意工夫された稽古や授業を受けることは誰にでも簡単にできますが、自分で創意工夫をするのは、大変です。だから、普通は人はそれをやらないのですね。
やらないための言い訳ならごまんと出てくるのに、やるための工夫はせいぜい一つ二つで済ませてしまう。不思議なことです。
工夫を重ねていると、壁が扉になるのです。
目の前に立ちはだかっていた到底超えられないと思えた大きな壁が、扉になる。それは開くのです。・・この経験をすると、日常でも壁を目にするとニヤリとしてしまいます。

宗師は『実は、問題を解決するにはもっとたくさんの方法があります』と言われましたが、それらを教えるよりも、それに気づいてもらうことの方が重要だということです。
知識として増えたものと、どうしようもない混沌の中から見出されたものとの違い、それこそが伝承に必要なことなのだといえるのかもしれません。

壁が扉になるマジック。
そんなことが存在する世界だからやめられません。
創意工夫、鍵ですね。
 
9. Posted by 清水龍玄   2023年02月01日 06:09
自身の事を振り返っても、同じ時間を使っても、頭の中で考えているだけでは独りよがりになりやすく、なかなか進歩が無いように感じます。
結果や変化がなければ、機械がものを製造するのと同じで、創造性が必要とされないものと思います。
それでは稽古にはならないし、日常生活も全く変化もなく潤わない、意味の成さないものになってしまうのではないかと思います。
そこに人の成長があるとは思えません。
果たして自分自身が何をやっているのか、考えさせられます。
10. Posted by 川山継玄   2023年02月01日 06:15
「覚える事ではない。わかる事だ。」
この事を、なかなか理解できずにいました。
心のどこかで、「けれど、覚えなければ忘れてしまう」
常に緊張している状態が続いていたのだと省みます。その緊張は、継続してその事に取り組んでいないことに対する恐怖だったのだと思います。

年末より、メモやノートの文字を、太くはっきり大きく書くことにしました。
このようにすることで、物事に対してごまかしがきかなくなっていると感じています。
今まで、小さくまとまり、はみ出すことを嫌い、自分を縮込めていたことに立ち返りました。
書くことが億劫になっていたことも、文字にすることで、自分の怠惰が表面化することを嫌っていた結果です。
今年の目標は「はっきりと大きな声でわかりやすく話す」「文字にしてまとめる」です。
自分をごまかさない事!に私は取り組みたかったのだと腑に落ちました。
すぐに目標から反れている自分を繰り返しているので、毎日それを見て気づき、修正していこうと思います。

下りのエスカレーターを駆け上り続けなければ、あっという間に落ちてしまいます。駆け上るのは、自分しかありません。
人任せや、人のせいにするのではなく、宗師はじめ、門人の皆さんのたゆまぬ努力を目標に、自分の足で休むことなく駆け続けようと思いました。

太郎冠者さん、今回も貴重な記事を、ありがとうございました。
11. Posted by ふにゃ   2023年02月02日 00:04
先日、アマチュアの写真家の方から雪の結晶の撮り方を教えていただく機会がありました。
まず屋内で説明を受け、テーブル上で接写の練習をしてから外へ出ました。
雪が降っていなかったので結晶ではなく別なものを撮ったのですが、外でカメラを被写体に近づけた上で手振れしないようにするためには、テーブル上の物を撮るのとは全然違い自分が全身を使ってありとあらゆる体勢になる必要があり、説明の最初に姿勢の大切さと「傍から見たら怪しいです」と言われた理由が初めてわかりました。
気候条件など他にも色々教えていただきましたが、まず大切なのはカメラの性能でも知識でもなく、とにかくやってみること、そのためには絶対それを撮りたいという気持ちが必要だと改めて感じた出来事でした。
12. Posted by マガサス   2023年02月02日 02:34

自分の問題点や感じたこと、指摘されたこと、なんでも書き出してみて可視化することは、その物事を認識しやすく、とても有効的だと思います。
20年も前から「自分の問題点をきちんとノートに書き出してみなさい」と教えていただいていたのですが、どうしてもやる気になれませんでした。
書き出すことで、自分自身のことをはっきりと認識せざるを得ない状態になるのが嫌で、避けていました。
でも、自分をみつめること、人と向き合うこと、物事への関わり方の繊細さや謙虚さ、誠実さは、そっくりそのまま稽古に反映されます。
自分の人生にも、です。
先日の棍の稽古での宗師の動き、本当に驚きました。
架式がきまっていて動きに無駄がなく、ゆっくりなのに早く、早いのにゆっくりで、後ろについて一緒に棍を振っても、全然、全く動きが合わないのです。
「ああ、自分は甘いな・・・」と痛感しました。
宗師がどれだけのことを勉強され、訓練されているのかと考えたら、自分が恥ずかしくなりました。

自分がしてきた勉強といえば「一夜漬けのテスト勉強」。
物事にきちんと取り組んだことがなく「身につけていく」とはどういうことなのか?本当に疑問です。
何かを理解するには残りの人生時間がないよー、八百比丘尼にでもならないと架式が身につかないよー、などどバカなことを思わず、体を使って、頭を使って、言われたことをきちんとやって、足りないところが埋まっていくように取り組んでみます。
色んなことを模索し研究している太郎冠者さん、今回も記事をありがとうございます。
皆さんのコメントも拝見し、気持ちを新たに姿勢を正して稽古、生活を大切にしたいと思いました。
13. Posted by 太郎冠者   2023年02月03日 15:27
☆松久宗玄さん
>剣禅一如とは、何か物凄い境地として捉えるのではなく…
先日、某動画サイトで、老舗町中華の厨房を取材した動画を見ていたのですが(おいしそうでした…)、
街の一角にある、小さな店舗に昼時はお客さんがひっきりなしに入ってくるのを、厨房でご主人が一人で調理し続け、注文をさばき続けていました。
その手際の良さはまさに達人と呼べるもので、味も良いとのこと。それでいてお値段はリーズナブル。
行列が出来るのも自明のことでした。

普通の生活の中、市井に居るすごい人を見ると、人間の凄さとは本当はどういうものなのか、改めて考えさせられました。
自分はどこかで、「特別」を求めてしまっていたのだな、と思わされたものです。
そして、中華を食べたくなり、中華鍋も欲しくなってしまいました(笑)
14. Posted by 太郎冠者   2023年02月03日 15:32
☆阿部 玄明さん
人間の学習、習得過程を研究したものによると、頭だけでなく、五感を使い、身体の動作まで伴って学習したものは、習得率が高くなるのだそうです。
ただ受験勉強に限っても、テキストを目で見るだけではなく、手で書き、読み上げ、さらには動いて覚えてみたら、もっと勉強がはかどるのかもしれませんね。

さて、太極拳の稽古においては動作が伴うのは当たり前のこと、かつ頭以外の様々な要因までフルで動員しなければ身に付かない、と指導していただいています。

思えば、套路の動作に詩的でイメージを想起されるような名前が付けられているのも、言葉によって感覚を呼び起こさせ、身体に定着できるように工夫された先人の智慧なのかもしれませんね。
今回記事を書いてみて改めて、全身を使って稽古に向かわないといけない、と思いました。
15. Posted by 太郎冠者   2023年02月03日 15:53
☆ハイネケンさん
太極武藝館で教わった問題解決の方法としては、まず問題が生じていると感じたとき、それを書き出してみると良いと思います。
これは自分の経験でもあるのですが、書き出してみると要素が自然とまとまりはじめ、漠然と壁だと思っていたものが、個々の要素に分解され、それぞれがひとつひとつの問題として見えてきます。
そうすることで、小さな課題として見えてくると、それに対する解決策も同時に見えてくるから不思議に感じられます。
壁だと思っていたものが分解され、解決可能な問題になってくる、あとはそれを実際に取り組んで解決していくだけ、です。

もっとも、その上で一番の問題は、本当にその壁を自分で解決する気があるか?という点に集約されるのかなぁ、とも感じたものでした。
やはり、稽古=人生勉強だな、と思いました。
16. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 22:46
☆平田玄琢さん
太極拳が難しいと感じるポイントのひとつとして、学習のために要素を細かく分解しすぎると、太極拳で求められる「ひとつの在り方」から離れ、ピントがぼやけてしまうという点があるように感じます。
玄花宗師に教えていただいたように、たとえば大きな紙に書き出してみると、言葉という限定された手段でありながら、それぞれの要素がどのように絡み合っているかが一度に俯瞰でき、全体としての認識が助けられるということがいえるように思います。

>苦手な練功を放っておくのではなく…
そのような過程を経ることで初めて、玄琢さんのように、「なんとなく苦手だ…」というレベルではなく、その練功の何が問題点なのかまで明確にしたうえで稽古に取り組めるようになり、そうすることではじめて学習の進展がみられるのかな、と思いました。
私も、もっといろいろな人の勉強方法を学んで、どのように学習していけるのかを追求していきたいと思っております。
17. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 22:51
☆西川敦玄さん
自分も英語は全く得意ではないのですが、慣れ親しんだ分野の英語であれば、なんとなく聞き取りは出来ますし、何が書いてあるかもわかりやすいですね。
仰る通り、バックグラウンドの知識が蓄積され、脳内でネットワークが自然と構築されているのだと思います。

逆に言うと、専門バカという言葉で揶揄されるように、限られたネットワークの中だけで物事を認識することに慣れきってしまうと、それ以外の気づきや発見が阻害されてしまう、という弊害もあるのかもしれません。

自分に無いものにこそ興味を持ち、味わっていく
…そういえば玄花宗師はいつもそのようにしておられるように感じます。
我々も、そのように自分を広げていくような生き方でないと、太極拳は勉強していけないのかもしれませんね。
18. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 23:02
☆川島玄峰さん
>太極拳の強さは副産物
現代の戦闘において、「銃火器などの武器があるのに、近接格闘など練習する意味があるのか?」と議論をされる方が世の中にはいるみたいですが、逆に問いたいのは、「では、あなたは武器があれば戦えるのか?」ということでしょうか。

私自身がそれに含まれるのですが、戦いというものへのリアリティのなさによって、何が本当に戦えることで、どういったものが真の強さなのかというイメージが、多くの人はぼやけてしまっているのではないかと思います。

太極武藝館では、ただ敵を倒せるかということではなく、戦いにおいて自分が生き残れるか、大事な人を守れるかといった点に焦点が当てられた指導をしていただいています。
それを追求するには、嫌でも自分の在り方が問われ、それは結局、人間としての在り方がどうでなければいけないのか、と問われることになるのだと思います。
人間としての強さとは何か、自分自身、それをもっと追求していきたいと感じています。
19. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 23:09
☆マルコビッチさん
稽古をしていると、人間はすごい可能性を秘めているという事を感じると同時に、思っている以上に能力は限られていて、自分の力だけで出来ることは非常に少ないのだな、という相反した事も感じさせられます。

ある意味では、運動能力や認知能力に限界があるからこそ、その点を突かれると、全く力を使わずに崩されてしまうという現象が起きてしまうのだと思います。
勉強をしていく上でも、ただ自分の頭を使っているだけではすぐに行き詰ってしまうのではないかと思います。
だからこそ、それを創意工夫して打破していき、学習を進めていくことが求められているのではないかと思います。
そうすることがまた、太極拳の「用意不用力」という要訣を体現しているようにも感じられるのが、面白いものです。
20. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 23:15
☆ユキさん
人生の中で、勉強とは教わったことをノートに書くように頭にも書き写し、必要になったら取り出せることだと、勝手に思い込んできてしまっているのは、太極拳を勉強する上で大きなマイナスになってしまっているように感じます。

そもそも、勉強しろとは言われてきたものの、勉強とは何か、どのように勉強したら良いかを言われたのは、太極武藝館に入門して初めて教えていただいたのではないかと思います。
勉強せねばという強迫観念だけはあるのに、肝心の勉強の仕方が分からない。恐ろしいことです。

伝統文化の教授体系が学校と違うのは、そのように工夫して勉強できる人間にしか、その文化を発展させていけないからなのかもしれませんね。
他の誰でもなく、その伝統そのものにふるいにかけられてしまうのですね…。

>壁が扉になるマジック
まさに太極拳的な表現ですね。自分も、そうなれるように研鑽していきたいと思います。
21. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 23:25
☆清水龍玄さん
「車輪の再発明」という言葉があり、世の中ではおおむねそれは悪い意味で使われていますが、個人的には、何もないゼロの状態から自然法則に則り、車輪を発明出来るような人間のほうが、最終的には新しいものを作り出せるのではないか、と感じるところもあります。

車輪を新しく生み出すために注がれる創意工夫、努力の熱量…何かを発展させる、上達していく人間にはそれが必要不可欠だと思います。
そして、車輪を再発明してしまうような人間は、必ず途方もない熱量でそれに取り組んでいるものです。

周りの人にアホだと思われようが、自分の見出したものに熱中していく、そのような生き方が自分にも必要だなと、改めて感じました。
22. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 23:37
☆川山継玄さん
もう二月になってしまいましたが、私の今年の目標のひとつが、料理を色々する、です。
料理ができる男はモテる…!かどうかは知りませんが、男から見ても、パッと料理できる男の人ってかっこよく見えますね。

料理のレパートリーが色々あって、さっと作れる人に対して無条件に尊敬のまなざしを向けてしまうのですが、あれってどうなっているのでしょう。
私のような料理を知らない人間からすると、複雑な手順を間違えることなく順番にこなせるのはすごいことなのですが、話を聞いてみると、やっている本人からするとそんなに複雑ではない、とのこと。
調理すべき材料があり、加工すべき手順があるからそれを順番に行っているので、レシピをいちから覚えてなぞっているわけではない、と…。

継玄さんが書かれた、
>「覚える事ではない。わかる事だ。」
というのは、もしかしてそれと共通したことを指しているのでしょうか。
私がそれを分かるためには、実際に料理してみて検証するしかありません。
何事も勉強、ですね。
23. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 23:47
☆ふにゃさん
>雪の結晶の撮り方
それは素晴らしい機会でしたね!静岡の人間からすると、まず雪が降っている場所に行かなければ撮れないので、うらやましい限りです!

>自分が全身を使ってありとあらゆる体勢に
あ〜…太極武藝館門人あるあるですね、これは。
何をしていても自分の姿勢が気になって、太極拳の架式が気になって…「太極拳の病」の症状の一つですね(笑)

最後には、写真を撮っていたにも関わらず、
「架式の大切さがわかりました!」と感想を述べるパターンですね。わかります。

案ずるより産むが易しで、あれこれ考えているよりもやってみたほうが簡単で、結果が伴うことも多々ありますね。
人を貶めるようなこと以外だったら、まずなんでもやってみていいのかな、と思います。

…写真も面白いですよねぇ、私もやろうかな。
24. Posted by 太郎冠者   2023年02月06日 23:57
☆マガサスさん
やれば簡単ですぐ済むことなのに、なかなかやりたくない、というのは誰にでもある気がするので、人類が生まれ持った業(カルマ)なのかもしれませんね…というと大げさですが。

私も最近、仕事でしなければいけない細かいことが増えたので、紙にリストを書いて張り出すようにしています。すると不思議なことに、面倒だなーやだなーと思う間もなく、順番にこなしていけることに気づきました。
やってみれば簡単なことで、人類の業は回避できるのかもしれません。
ただ、第三者の目に触れるところに仕事のリストを張っていると、たまに書き加えられて仕事が増えていることがあるので、個人の稽古に関しては、人目に触れない自分だけの場所に張った方がいいのかもしれませんね。

>先日の棍の稽古での宗師の動き、本当に驚きました。
ああ〜…。自分も思い出すだけでもため息が出ます。おそらく私も、驚いたペンギンみたいに目と口を開いた顔をして、そしてため息をついていたと思います。
傍から見たら、異様な光景ですね。

宗師の動きに少しでも近づけるように、努力していきたいですね。

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