2022年12月03日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その66

  『太極拳を優先する』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 みなさん、日々の稽古は順調に取り組まれておりますでしょうか。太極武藝館本部道場での稽古では、毎回のように新鮮な発見と驚きに満ち満ちており、新たな体験をすると、驚いた鳥のように羽ばたいて動き回る(とりみだす)といった行動まで、門人の中で見られるようになってまいりました。・・・主に自分ですが。
 道場の中で得た感覚と経験は、それを大事に仕舞っておいても身に付くことにはならず、それを普段の生活から、稽古として磨きをかける必要があるかと思います。毎日、毎分毎秒を稽古として過ごすこと、それを意識的に実践しようとすると、怠惰に日常を過ごすだけでは得られなかった充実感や楽しみを味わうことをもできます。また、簡単に日常生活に飲まれ、常に稽古し続けることの難しさというのも、同時に感じられるものです。

 太極拳を本当に習得し、研鑽を積んでいくためには、生活の中に太極拳の稽古を取り入れるといった表現では生ぬるい、生活そのものを太極拳にしていくことが求められているのではないかと思います。
 この現代日本で生活を営んでいる限り、誰しも太極拳以外の何かをしていなければならないはずです。仕事であれ、家の用事であれ、するべきことはいくらでも存在しています。
 では、それらの中で自分がどのような優先順位を付けて生きているのか。太極拳に限らずですが、何かを極めようという時には、必ずそれが問われることになるのではないかと思います。
 少なくとも、玄花宗師は、「太極拳を何よりも優先している」と明言されています。それは言葉だけではなく、玄花宗師の普段の行動や立ち振る舞い、在り方を見ていてもありありと見られますし、納得できます。玄花宗師と我々の実力の差を要因づけるものがあるとすれば、太極拳にどれだけの熱量を注ぎ込んでいるのか、その点が非常に大きな原因ではないかとさえ感じます。
 そのことについて、我々は、改めて自分自身に問わなければならないのではないか、と思うのです。

 日々の暮らしの中で、一日のうち何時間かを道場での稽古に費やす。それを一週間、一か月、一年と続けていく。自分も含め、道場に通っている門人皆さんと接していると、それがどれだけ大変なことかは、嫌でも想像がつくものです。
「それでも太極拳を学びたい!」
 この気持ちはみんなに一貫していることだと感じますし、それがなければこれだけのことを続けることは不可能だと思います。また、一歩道場を離れたとしても、即座に太極拳のことが頭をよぎり、あれはどうなっているのだろう、体の使い方は・・・?と、心はまるで道場に居続けながら、稽古を続けているかのようです。

 先日、玄花宗師が自衛隊の訓練に出頭されて、道場に戻ってこられた後、その期間に何を稽古していたのかというお話をしてくださいました。というのも、訓練から帰ってこられた玄花宗師の体の動きや使い方が、その以前と比べても、我々の目には明らかに違って見えたので、どうしても気になって質問してしまったのです。
 宗師のお話によると、訓練期間中はやることがいっぱいであまりに忙しく、太極拳(のカタチでの)稽古をしている時間は、今回は一切取れなかったとのことでした。
 では何をされていたのかというと、ひたすら「放鬆(ファンソン)」に取り組んでおられたのだそうです。

 かいつまんで説明を聞くだけでも、訓練は目まぐるしいものに思われました。朝から晩まで訓練場はもちろん、隊舎の中でも1階〜屋上まで駆けずり回り、食堂での食事よりレーション(配給される携帯食)の方が多いようなスケジュール…。それも体調もこれまでで一番優れなかったとのことで、場合によっては途中でリタイアの可能性もあったとのことでした。
 そのような中で、ひたすら放鬆に取り組まれ、調整することに集中し続ける…。その結果が、体力検定は1級の結果を残し、訓練に参加した女性隊員の中で一位の成績を取る。射撃検定は前回よりもスコアを上げる、等々。
 一体、どういうことなの?と、話を聞いた門人は、驚きの声を上げるか、変な笑いをこぼす始末でした。
 自衛隊の訓練も太極拳の稽古も共通しているところが大いにある、とライフルの射撃姿勢を取りながら説明してくださる宗師の姿は、もはや自分が同じ人間とは思えないような軽やかさと滑らかさでした。

 玄花宗師が、忙しい訓練の中、そのように太極拳の稽古に取り組まれてきたのだとして、では我々は、自分の生活の中でどのように稽古に取り組めているのか、見直さなければならないのだと痛感しました。
 玄花宗師の結果を前にして、「忙しくて出来なかった」は、もはや自分にとって都合のいい言い訳にしかなりません。少なくとも、道場での稽古で得られたものは、次の稽古に来るまでにはさらに磨きを掛け上達してくるくらいでないと、道場での稽古がどんどんレベルアップしていくことに、追いつけなくなってしまうのではないか、とさえ感じられます。

 道場で稽古を行う門人の誰かが上達してくると、それに引きずられるようにして他の人にも良い影響が出始め、それはお互いに影響を与え合って、結果的に稽古の質そのものが引き上げられているのではないかと、ここ最近は感じています。
 玄花宗師だけが上達して、それを我々にどれだけ教えてくださっても、それだけでは門人全体の腕が上がっていくわけがありません。ひとりひとりが磨きをかけ上達していくことで、その相乗効果はどんどん大きくなっていくのではないかと思います。

 道場で、どんどん上達している門人と話をさせてもらうと、間違いなくみんな、自分の稽古に時間を費やしています。稽古の仕方は人によって様々ですが、朝や夜の時間をあてていたり、普段の動きそのものを稽古の質へと変えていたりと、話を聞かせてもらって大いに参考になることばかりです。
 それもみんな、社会人として立派に生活を送りながら、本当に多忙であるにも関わらず、そのように太極拳に取り組んでいるのです。太極拳のことを後回しせずにどれだけ優先しているか、たったその一点の違いだけで、こうまで得られる結果が異なってくるのかと、大いに驚かされることばかりです。

 もし稽古に取り組んでいて、だんだんわからなくなってしまったり、結果が出なくなってしまうなどという状態がある場合、稽古への取り組み方と、それに先立って何を優先して生活しているのか見直す必要があるのだと、自分自身のこととして感じます。
 行動に先立って現れてくる気持ちの面で太極拳を後回しにしてしまっていたら、結果は当然それに即したものとしてあらわれてくるはずです。
 トータルで見れば稽古をする限り上達はしていけるのだと思いますが、何よりも太極拳を優先して稽古に取り組んでいる人と比較して、そのスピードに差が出てしまうことは、もはや説明の必要もないことかと思います。

 もちろん、どうしたって現実的に時間が確保できず、道場での稽古には参加できない、ということは誰しも出てくるかと思います。自分自身、仕事の内容が変化したことに伴い、以前よりも道場での稽古に参加できる時間が少なくなってしまいました。
 しかし、そうなったときにどのように自分自身で稽古に取り組んでいけばいいのかは、玄花宗師がすでに我々に、その姿を通して教えてくださっているのです。
 あとは、自分自身の選択として、太極拳にどう向かっていくつもりなのか。太極拳が上達できるかどうかは、最終的にそこに掛かっているのかもしれません。
 道場での稽古を通して、多くの人を手本にさせていただける機会があることは、大いにありがたいことです。そこで得られた勉強を有効的に使わせていただき、また自分自身の稽古に還元していきたいと思います。
                               (了)




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disciples at 14:00コメント(24)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2022年12月04日 18:33
 今回の記事は、最近の私にとって耳の痛いものでした。
まさに日常生活に飲まれるということ、体調の悪さによる精神状態のバランスを取ろうとする上での葛藤。
 私も玄花宗師から自衛隊の訓練でのお話をお聞きしましたが、本当にすごい方だと思いました。
私だったら即リタイアしているでしょう。
ギリギリの状態でも、自分の身体がどのようであれば訓練をこなしていくことが出来るのかを感じ、実践していく力は並大抵のことではありません。
訓練から戻って初の稽古で、明らかに歩き方が違っているのに驚き、興奮してしまいました。
 私はというと、頭の中に常に太極拳というものがあるというものの、自分の課題に対してすべてやり尽くしているかというとそうではなく、稽古に対して常に引け目を感じている自分がいます。
自分にとって何が必要かを考え、後回しにせず、どんな時でも今できることに真摯に取り組んでいかなければと改めて思いました。
2. Posted by マガサス   2022年12月05日 12:14

いつもと変わらない日常で、パターンが決まっていて、何時、どのタイミングで、これができるぞ!という状況であれば、安心してやりたい事が出来るのですが、そうで無い場合(極端に忙しいとか、期日までにどうしてもやらなければならない大仕事がある等々)、いつもやっている事が出来ず、色々後回しにし、それに対して言い訳を探している自分がいます。

では、宗師はどうされているのか・・・
スピード、後回しにしない、最善を尽くす、きちんとしたビジョンを持つ、そして頭も体も柔軟に動けるように緊張を持たないなど、とにかく常に稽古・訓練されています!
宗師ご自身が太極拳!!
言うは簡単ですが、いつもその状態であるというのは並大抵の努力と意思では出来ないと、心底驚くことばかりです。
一緒に行動させて頂くと自分もその流れに乗せてもらえる感じで、以前よりも「動ける」状態ではいられますが、自分1人の時でもそうできるか、が大きな課題です。
「自分は心身ともに太極拳で動けているか」「身についているのか」「上達しているのか」悩みは尽きないですが、もっともっと自分のことを理解して認めて、明確にしていかないとだめだと思い取り組んでいます。

今回も自分を省みる機会を与えて頂き、ありがとうございました。
3. Posted by 西川敦玄   2022年12月05日 21:45
太郎冠者さんの発した問いかけは、心にシンプルに響いてきました。
師父や宗師の有り様をみて、太極拳を最優先にされていること。
そのことは、私の意識内でいつも迫ってきます。振り返って我と我が身をみると、とてもとても、太極拳を最優先にしているとは恥ずかしながら言いにくいかと思います。このことは、ずっと私の課題であり続けており、いまだ解決できないことでもあります。
漠然と太極拳を最優先にすることを唱えても中々実生活で実現することは難しいのです。最優先にするぞと意気込むことは過去幾度としれず。
そこで、先ほど、書いたように「漠然」としているので取り組みにくいのではと思いました。
太極拳を何にたいして、どう優先するのか。比較するということは、同一に並ぶ物があると言うことになります。太極拳を最優先にするということは具体的にどういうことか。
私たちそれぞれが、具体的に検討して回答していくことが必要なのではないかと思います。太郎冠者さんの言われるように、それも師父や宗師が示されている。
示されていることを、私が具体的にどう理解し取り組んで行くのか。それを改めて問われているということ。これらも含め、稽古すべてが同じ問いかけなのかも知れません。そのことに気付かされました。ありがとうございました。
4. Posted by ハイネケン   2022年12月05日 22:04
出来ない自分を見てしまうと「どうしようもなく」気持ちが落ち込み、文字通り体の足取りも重く稽古が苦痛になり、重たい気持ちが自分を支配します。
悩んでいたいのならそれで良いのですが、悩みすぎるのは時間が勿体無くて別の行動に切り替えてみます。
何度も吹っ飛んで、慣れていく中で崩し飛ばされる理由(理論)を頭で理解しようとすると理解できず眼の前は真っ暗になりますが、自分が少しでも受けを味わっているかを気にかけてみるとまた方向性が変化します。
気を抜けば危険も伴いますが、そこは稽古の妙、危険の少ないような状態で「飛ばしてもらって」いますし、自分の意思では到底できない様な動きを繰り返します。嫌々受けていては勿体無い。
日々自分が優先している事は自分では認識できず、押し寄せる幾多の日常に流されている事が多いのですが、日常でも「これが稽古」であればどうしたら良いのだろう?と考えるだけで思考は広がります。太郎冠者様の「行動に先立って現れてくる気持ちの面で太極拳を後回し」にしている事を意識すると、自分が思う「稽古」と示されている「稽古」に違いがあると気づかせて頂きました。「稽古」とは何か?と問う必要があります。
太郎冠者様 ありがとうございます。
5. Posted by 阿部 玄明   2022年12月05日 23:11
現代人は常々忙しく慌しい生活を送っています。
忙しいとは文字通り心を亡くすということを漢字で表現されてますね。
目の前の仕事や家事や事務手続きなどを処理することで精いっぱいの時は
自分がそれらに”圧倒されてしまう”、”押しつぶされてしまう”、”心を失う”状態になり
文字通りのネガティブな意味合いになります。忙殺されるという物騒な表現まであります。

しかし視点を180度変えてみると"忙しさや煩わしさ"は"試練"として捉えることもできます。
自分の成長する機会として難事を迎え撃ち、乗り越えることができれば実力と自信が湧いてくる。
どんなに忙しくても心を無くすことなく

・動揺せず向き合う
・課題の解決法を探索する
・自分の行動を見直し時間を捻出する

など内面の稽古として行うこともできる。
宗師に示して頂いた姿勢はどんなものでも試練としてポジティブに取り組み乗り越えているから
目に見える形で成果が表れているのでしょう。
太極拳の考え方を自分の第一優先に置いて、身の回りで生じる事象の陰陽の両面を見ることで
いつでもどんな形でも稽古していけるのだと改めて認識しました。
自分もポジティブな姿勢で物事に取り組んで色々な面で成長してゆきます。
6. Posted by 松久宗玄   2022年12月05日 23:43
一人の人間のリソースは有限ですから、人生において優先度を考えて行動する事は避けられないですね。
でも、何かを優先する選択とは、ただそれだけでは存在できる筈もなくて、その前に必ず、その選択を選ぶ動機や目的が存在している筈です。

何の為に、人生の限られたリソースを振り分けようと考えたのでしょうか?
難しいと感じられる選択に直面すると、いつも最後にはその動機に行き着きます。
人間は自分が納得していない事に関しては、本質的には頑張れないものと思っています。
個人的な考えではありますが、表面的な理由が利他的であったとしても、その根底には「自分の為」の理由が必用だと感じています。

稽古の進捗が捗々しくない場合には、立ち止まって、一人になってみて、今現在の自分の動機や目的を見つめ直してみるのも良き事かなと思いました。
7. Posted by 平田玄琢   2022年12月06日 16:57
今回のブログ記事を拝読した時、「生活習慣病」という病が頭に浮かびました。普段の生活の中で自覚がない状態で罹っててしまう病です。私も十数年前に罹って大変な目にあいました。

私は、普段の飲食の嗜好やパソコン仕事の姿勢によって病が引き起こされましたが、そういった悪いことは、何も意識せずに出来てしまいます。しかし、太極拳の要訣を守って日常生活をおくると決意しても、気がつくと忘れていたり違う姿勢や意識となっています。

何か他の事を始めると、たった一つの要訣ですら意識から吹っ飛んでしまいます。放鬆の意識を持っても、力みになってしまいます。
自分の場合には、まとまった時間を作って的を絞った稽古をしなければと思っています。

この前の稽古で、門人のR君に言われました。「放鬆すればまだまだのびる。」
まさにその通りだと思いました。
8. Posted by 川島玄峰   2022年12月06日 21:50
太極拳を通しての考え方は、太極拳の奥深さに触れ、味わい、知る事で培われて来るのだと思います。
この度の記事を読み、日常生活に於いてもその考え方で行動が取れよう意識する事が必要であると感じました。

毎回稽古では「まだ何か足りない」、「これではダメだろ!」と心の中で嘆き、「何か分かりそうな気がする」、「そうだったのか!」と喜び、また嘆くといった事を繰り返します。そのような感情や意識が徐々に問題点を修整し己の変化を感じ取ることができるのだと思います。
またその己の変化は、普段の日常生活に於ける物事の考え方や行動にも変化が生じ、より太極拳への受容性が高まり在り方も変わって行けるのかもしれません。
日常が太極拳になれるように稽古に向かう意味を感じ取って行きたいと思います。

今回は、稽古への取り組み方について考える事が出来ました。
ありがとうございました。
9. Posted by 川山継玄   2022年12月07日 01:09
今回の太郎冠者さんの記事を拝読し、
「生活を稽古にしようとしていないか?」
と師父に問われたことを思い出しました。
太極拳をわかりたい、上達したいと言いつつ、「生活」と「太極拳」を分け、生活に重きが置かれている事に気付きます。生活を重視しなければ、太極拳もできなくなってしまうのではないかという恐怖や不安を抱いている臆病な自分にハッとします。
「環境を変えてみては?」
「生活パターンを変えてみては?」
などなど、様々なアドバイスを玄花宗師はじめ、研究会の皆さんに頂き、やってみようと試みるもののやはり挫折を繰り返しています。
皆さん、とってもお忙しくされているにもかかわらず、自分自身と向き合い、日々精進を重ね、グングン変化変貌を続けています。
では何故私は挫折を繰り返すのだろう。
「やってみよう」とこの先にあるビジョンを明確に抱くよりも、「今回もできないんじゃないか」と過去の失敗に焦点が合っているからではないかと思いました。それ故に、いつしか湧き上がる衝動を抑え、頭で考え、とても狭い視野の中で可能性を制限して緊張を生み、自らの首を絞めているのです。

これから、まず太極拳を優先して、自分自身がどう変わるのか観察してみます。
「わかるまでやる。」
第一歩を踏み出す勇気を頂きました。
ありがとうございます。
10. Posted by ふにゃ   2022年12月07日 21:27
宗師とお話させていただくと、何気ない会話の中からでも、気づかいと努力の方だと感じられます。
宗師が体調が優れないとか忙しいと仰る時、私のそれとは比較にならない程であろうと想像しますが、そんな中でも取り組めることがありレベルアップまでしていけるのなら、もはや自分は出来ないではなくやっていないだけだと認めざるを得ません。
ベストを尽くさない状態で稽古に出向き、出来ないわからないというのは当たり前で、そしてそれでは指導してくださる方に対してあまりに失礼だったのではないかと今更ながら深く反省しました。
過去は変えられない。今から始めます。
ありがとうございました。
11. Posted by 清水龍玄   2022年12月08日 06:16
大変考えさせられる記事です。
一時的に優先というのではなく、常に優先し続けて生きられる熱量とでも言えるようなものが、成長や理解に繋がるのではないかと思います。
どんどん成長していく人は、生活の中に太極拳が溶け込んでいるかの様にも感じられます。
道場での稽古は、そのような人達の集まりで、相乗効果が生じ、より変化が大きいように感じます。
12. Posted by ユキ   2022年12月09日 00:11
「太極拳を最優先にする」ことは確かに大きな課題なのかもしれません。
西川敦玄さんがコメントされた『漠然としているので取り組みにくいのでは』という一文にもみられるように、“大変なことだ”と思いつつも、実際には何がどのように大変なのか把握できていないことが多く、悩んでいるというより悩ましい気分になっているだけのことが散見されます。
漠然としている事を明確にする。これはどのような課題にも解決策の一つとして有効であると思います。

A:「うーん、困った、困った」
B:「一体どうしたんだい?」
A:「いや、何に困っていたか忘れちまったから困ってるんだ」

もし皆さんがBさんなら、Aさんになんと言いますか?(^-^)
 
13. Posted by 太郎冠者   2022年12月11日 00:44
☆マルコビッチさん
今回の記事は、私自身にとっても耳の痛い話となっております。
私も普段、生活を送っている中で、太極拳に限らず、やらなければならない事を先送りにしたい、理由をつけて引き伸ばしたいという葛藤にかられます。
仕事にしてもそうですが、結局のところ、自分以外の誰かがやってくれるわけではないので、遅かれ早かれ自分で取り組むことになります。
それだったら、最初から取り組み始めてしまっていたほうがいいはずなのに、なぜかそうしたくない…。
けれど、ある時から「まずはそれを先にやってみよう」と、なんとなく取り組むようになり始めると、物事は変わっていくのだなぁ、と感じるようになりました。

それを自分に教えてくれたのは、他でもない太極拳の稽古を通して、だったのだと思います。
もう少し早く気づいていればと思わなくもないですが、今より遅いことはないので、継続して取り組んでみたいと思います。
14. Posted by 太郎冠者   2022年12月11日 00:54
☆マガサスさん
太極拳の稽古で得られたこと、玄花宗師に示して頂いていることは、言い方は悪いかもしれませんが、日常生活の中で、例えば仕事などに取り組む時に、非常に役に立っているように感じます。

最近、仕事で自分がやらなければならない量がどんどん増えて、さらに色々と頼まれごとも積み重なり、ゆっくりじっくり片づける暇もないくらいになってきました。
そういう時、まずはスピードを持って取り組み、するべきことをまとめて、ひとつずつ仕事をこなしながらやる順番など見直せることは見直していき、かつクオリティは落とさない。
自分の条件が整うまで待ってはくれない。というの闘争の場に限らずあらゆる場所に現れてくるように感じ、逆にいうとその取り組み方の練度次第で、いざ戦うときにも出来ることが違ってくるのかも、とも感じます。
生活の中で稽古に取り組み、太極拳をまた生活に生かしていく、こういうサイクルが少し動き始めると、非常に良い循環に身を置けているような気持ちになります。

もっともっと宗師の生きざまを見習い、そして精一杯自分自身の人生を生きていきたいですね。
15. Posted by 太郎冠者   2022年12月12日 01:19
☆西川敦玄さん
>「漠然」としているので取り組みにくいのでは
この点に関して、稽古中に玄花宗師から我々に対して、考えさせられる疑問を提示していただきました。
敦玄さんの仰る通り、何よりも優先させて解決させたい問題のはずなのに、それがはっきりとしていないのではないか、と。
何が分かって何が分からないのか、それさえも分からない漠然とした状態では、そもそも何を解決させていったらいいのかさえ見えてきません。

太極拳で疑問にぶつかりもやもやしている時、少なからず我々自身の中でそのようになっている点があるように感じられます。
稽古が順調に行っているとき、人生がうまくいっていると感じる時は、問題がないわけではなくて、それに対してきちんと向かい合えている時ではないかと思います。問題に対して晴れ晴れと立ち向かえている時、その問題はしっかりと輪郭が見えているはずで、そうでなければ少なからず、ごまかしたい何かがそこにあるのではと感じました。
自分自身の在り方や考え方を、改めて見直さなければならないと思いました。ありがとうございました。
16. Posted by 太郎冠者   2022年12月12日 22:13
☆ハイネケンさん
太極武藝館の稽古では、「受容性」が大事だと、いつも指導していただいています。

闘争の場である武術の稽古に、なぜ受容性が必要なのか…一般社会の考え方からすると、奇異にも感じられます。相手を徹底的に拒絶し、叩きのめすことで勝利を得るべきなのではないのか、と。
世の中にはそういう武術もあるのかもしれませんが、少なくとも、太極武藝館で指導していただいている太極拳においては、そのようなやり方では、自分を害しようとする敵に対して、効果的な行動が一切取れないように感じられます。

自分の敵であっても、受容性を持って受け入れること。稽古中の対練の相手はもちろんのこと、うまく出来ない自分でさえも、しっかりと受容性でもって受け入れる必要があるのかな、と思います。
突っぱねることよりも、正しく受け入れられる姿勢の方が、真の意味で強い人間の在り方なのではないかとも思われます。鍛えていかなければならないのは、腕っぷしではなくてこういうところなのかな、と思います。
そういう点では、自分は弱弱しい人間なので、色々な人の姿を見て、勉強させていただいている毎日です。
17. Posted by 太郎冠者   2022年12月12日 22:22
☆阿部 玄明さん
天は乗り越えられない問題を与えてはこない、という言葉を聞くこともありますが、自分自身に起きる問題というのは、どうしても何か他所の物事のせいにしたり、「なんで自分だけこんな目に!」と天を罵りたくなるような時もあります。

そんな時、師父や玄花宗師をはじめ、本当に強い人は、そのような弱音を一言も漏らさず、ただ誠心誠意、出来ることを一歩ずつ着実にやり進め、問題の解決に邁進しているように見えます。
戦いの強さ、稽古の功夫のレベルというものが、あたかもその生きざまに現れている姿が反映されているかのように感じられます。
では自分はどうだろうと内省してみると、本当に弱くて情けない姿が嫌でも目についてしまうものです。

そんな自分が嫌だからこそ、せめて少しでも前に進もうとする、そうすることで、確かな手ごたえが少しずつ自分の中に蓄積していき、自分を後押ししてくれる力になってくれているような気がします。
そうしていけるということを、太極武藝館で学べたことは、自分の人生にとって本当に大きなことだと思います。
他の誰でもない、自分自身に負けないように、精一杯精進していきたいと思います。
18. Posted by 太郎冠者   2022年12月12日 22:30
☆松久宗玄さん
稽古をする動機…理性的に(社会的に?)考えると、人生のうちかなりの時間と労力を費やしていますね。

知人や親類に話の流れで聞かれて、武道の稽古にかなりの時間を費やしていているけれど、大会に出て賞を取る等の目的が特にあるわけではないと説明すると、ひどく怪訝な顔をされたことがあります。
じゃあ、なんのためにやっているの?と。
そういうときは笑ってごまかしたりしますが、同じように人生を掛けて取り組んでいることがある人には、そのような説明でも恐らくピンと来るのではないかと思います。

自分の内から湧いてくる衝動としか言えないものに突き動かされる、そのようなものに出会えるのは、非常に稀なのかもしれません。
幸運にも、それに出会えた我々は、もっとその幸せを噛みしめながらも、もっともっと気合を入れて取り組んでいって然るべきなのかもしれません。
今年もあと少しですが、最後まで頑張っていきたいですね!
19. Posted by 太郎冠者   2022年12月14日 01:53
☆平田玄琢さん
>気がつくと忘れていたり違う姿勢や意識となって…
学生時代に所属していたブラスバンド部で楽器の練習をしている際、特定の何かに注意を払って練習をしているのですが、それがしばらく経つと、ふと意識から消えてしまっているという経験は、しばしばありました。

その時の自分は、なんでこんな簡単な注意もすぐに守れなくなってしまうのだろうと悩んだのですが、冷静に見つめ直してみると、実は注意していたことは次第に身に付いてきていて、それまでの注意力を払わなくても実践することが出来るようになっていたのです。
それまでやろうとしていたことが無駄になったわけではなく、確実に自分は上達していたのに、そのことに気づいていなかったのです。
なので、次に自分が取り組むべきことは、その身に付いてきた内容を元に、さらに磨くべきことに注視する、というものでした。

真に身に付くということは、やろうとしていることすら意識に上らずにやれている状態、という寓話もどこかで聞いた記憶があります。
玄琢さんが太極拳に関して仰っていることとは違いがあるかもしれませんが、意識していたことは決して無駄にならず、着実に変化されているのでは、と思った次第です。少なくとも、玄琢さんと一緒に稽古をさせて頂いている者としては、そのように感じております。
20. Posted by 太郎冠者   2022年12月15日 23:09
☆川島玄峰さん
日常生活を送っている中で時折感じるのは、波風が起きない平穏な毎日が続いてくれたら…という感情でしょうか。
なんの問題もなく生活していける環境とは、生物として求めるものとしては不自然なものではないのかもしれません。ところが、刺激のない毎日の中では、次第に自分自身の感性も鈍り、怠惰になってしまうのもまた感じられます。

太極拳の稽古をしていると、自分の知らない世界や感覚がそこにあり、もっと可能性が開かれているのだと味わわせてもらえますし、逆にそのようにして自分を開発していけなければ、太極拳を身に付けることも出来ないのだろう、と思わされます。
そのようにしていると、日常の中で何気なく音楽を聴いているとふっと踊りだしたくなる瞬間のような、沸き立ってくるものが自分の中にあることが感じられます。
太極拳のすばらしさ、また同時に、太極拳を学習しようとすることで自分の感じられてくる変化、それらすべてが、本当に味わい深いものだと思えてきます。
その喜びを味わいながら、もっと稽古に精進していきたいですね。
21. Posted by 太郎冠者   2022年12月15日 23:19
☆川山継玄さん
僕もまだ二十代だったころ、師父に太極拳を続けていくことについてアドバイスをしていただいたことがあります。

生活か太極拳かという選択肢が現れたとき、師父は「とにかく太極拳の稽古に取り組んだ」とのことでした。そうすると、それまで困難だと思っていた道が切り開かれ、自然と太極拳に専念して生きていくことも出来るようになっていった、と仰ってくださいました。
その言葉に倣って、拙いながらも自分も太極拳を続けることを選んで来ましたが、そうしていると、何か節目となるような時には、必ず道が開けてくるのだな、とわずかながらですが感じられるようになってきました。

自分自身の人生は、他ならない自分で歩くしかないので、それを最大限に楽しみながら過ごしていきたいと、今は思っています。
その時に、同じ志を持つ仲間がいると、一人でやるよりも充実し、楽しいものではないかと思います。
本気で取り組み、本気で楽しむ。それが大人の生き方であり、そして掛け替えのない仲間という存在のありがたさなのかな、と感じます。
22. Posted by 太郎冠者   2022年12月15日 23:30
☆ふにゃさん
>宗師とお話させていただくと…
宗師とお話させていただくと、自分が何もかも見透かされているように感じられ、対練をさせて頂くと、自分自身よりよっぽど私のことを理解しているのでは??と感じさせられることが多々あります。

それはもしかしたら、玄花宗師が誰よりも自分を挟まずに物事に向かい合っているからで、その宗師と向かい合うことで、我々は自分自身(隠しておきたい部分も含め)と対面させられているのかもしれません。
そこで感じられたことは、自分でも気づけていなかった自分の一面であり、そこで得られたものは、自分の中に隠されていた自分の声や力なのかもしれません。

そこで得られたものは、おそらく誰にとっても掛け替えのない宝物であり、それによって我々が成長・変化していけることを、宗師は何よりも喜んでくださるのではないかと思います。
それに応えられるよう、誠心誠意取り組んでいきたいと、私も思っています。
23. Posted by 太郎冠者   2022年12月16日 01:30
☆清水龍玄さん
『常に相手の立ち場にたって 考えられること
 物事を ものごと として 受けとれること
 うまいことやろうとしないこと
 それは必ず還ってくる それが 陰陽だ』

今年の太極武藝館のカレンダーの、最後の月に書かれている言葉です。
最初は、「いい言葉だけど、なぜこの言葉なのだろう?」と、疑問に思っていました。
一年がもうすぐ終わろうとしている今、ここに書かれている文章が、まるで今年一年に起きたことを象徴しているかのようにさえ感じられています。

今日の私にとっては、戒めの言葉であると同時に、励ましの言葉としても感じられています。
この言葉は、自分から見える周り、周りから見える自分の両方からの視点を示しているように思われ、自分に起きていることはまた、自分自身がそのように仕向けたことなのだと感じています。

自分を大きく成長させることも、小さくしてしまうことも、すべて自分の思いと行動によってなされているのだとしたら、どのように自分の人生を生きていきたいのかを、しっかりと見つめる必要があるのだ…そう、思わされるような一年でした。
とはいえ、今年もまだ終わりではないので、引き続き気を抜かず、最後まで精進していきたいと思います。
24. Posted by 太郎冠者   2022年12月16日 01:52
☆ユキさん
「自分が何をしたいのかがわからない…」
心理学・社会学でいうところの、モラトリアム期間と通じる問題のようにも感じますね。
モラトリアムとは、学生が大人になりきれない猶予期間、漠然で曖昧とした時間のことを指し示す言葉ですが、そこにあるのは子供のままでもいられる、庇護下にある余裕がある人間の状態だと言えるような気がします。

そのような状態では、物事を自らの力で解決する必要もなく、そのために問題をはっきりさせる必要もまたありません。
師父が「大人にならなければ太極拳はわからない」と仰っていましたが、問題を解決していくための能力が、子供には備わっておらず、問題を特定して解決するためには否が応でも大人にならなければならないということなのかな、と思いました。

A:「うーん、困った、困った」
B:「一体どうしたんだい?」
A:「いや、何に困っていたか忘れちまったから困ってるんだ」

うーん、なんて言葉を掛けたらいいんでしょう。
はて、困った、困った…。
ここらで一杯、お茶が怖い(ごまかし)。

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