2022年10月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その65

  『絵本とイメージ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 先日、玄花宗師がご不在だった際の研究會での稽古の様子を、宗師にお伝えした時のことです。
 特定の対練では成果が見えるものの、別の形になると上手くいかないということがある、と説明させていただくと、
「太極拳は、『ひとつのこと』しかしていない」
 という旨の内容を指摘していただきました。我々が、違う対練をすると結果が伴わないのだとすれば、それは肝心な部分の理解が出来ていないのだ、という事でした。

 我々をその『ひとつのこと』の理解に導くために、様々な形をとって指導をしていただいています。そのひとつに、提示されたイメージに沿って体を使うというものがあります。太極拳の要訣というと難しくなってしまうので、その前段階としてわかりやすいイメージを伴った説明をして頂いているとのことですが、聞いたままのイメージを持ってみると、実際に体がそのように感じられ、確かな変化の実感が得られます。
 しかし、いざそれを維持しようとしたまま何かをしようとすると、気が付くとイメージが持続できていないということがあります。
 そのことを宗師にお伝えすると、
「昔の人と違って、現代人はイメージが体に染みつくまで集中した稽古時間を取るのが難しい」
 といったことを言って頂きました。
 …確かに、冬に農作業が出来ない間中、稽古に明け暮れていた昔の武術修行者と現代人の生活では、時間のサイクルが違っています。
 ですが、その時間が取れないからといって修得を諦めることは出来ません。我々に出来うる正しい稽古方法を探求していくしかありません。

 前回の記事でも書きましたが、頭や言葉で理解できたつもりになっていることと、体が実際に理解できていることの違いという問題が、ひとつあるように思います。
 その続きとなりますが、大人になった我々は、言葉とイメージをどのように結び付けているのかという疑問が、頭に浮かびます。稽古で示されているのに、言われた通りのことが出来ないという点において、二通りの間違いがあるように思います。
 ひとつは、言われた通りのことと称して表面上の文字面を追ってしまい、それだけしかしなくなるという間違い。もうひとつは、話の行間を読むと称して妄想を挟んで、自分勝手な行いをする、というパターンがあるように思います。
 そのどちらも間違いだということは、一目見ればわかることです。ですが実際には、そのどちらかをやってしまっていることが多いのだと思います。

 見せていただいたこと、説明していただいたことが、正しいイメージとして自分の中に染み込み、それを行うということがなぜ困難になってしまっているのでしょうか。これは、例えば自分の稽古の状態を問われた時に、明確に分かりやすくポイントを絞って説明することが困難であるといった問題と、表裏の関係にあるのではないかと思います。
 研究會では、ブログの記事を書く、コメントを期日内に書くという課題が課されています。自分もこうして毎月記事を書かせていただいていますが、一見すると太極拳の稽古と関係がなさそうなこの課題が、個人的には大いに勉強をさせていただく機会となっています。
 先に挙げた通り、自分の状態を言葉で説明できる時は、たとえ問題が出てきているとしても、稽古そのものはしっかり出来ている時なのだと思います。逆に、なかなかその表現が的確に説明出来ない、まとまった文章や言葉で表現すべきことが書けないといった状態というのは、自分自身の中にかなり混乱が生じている状態であり、自分がそうなっている限り、稽古の状況もそれに即したものとなってしまっている可能性があるように感じます。
 また、何かわかったつもりになっていても、いざ言葉にしてみるとかなりあやふやであったりした場合も、自分で気づいてないだけで漠然とした状態になっていると言えるのではないかと思います。

 我々が意識するしないに関わらず、言葉の使い方とその人の精神状態というのは密接に関係しているのだそうです。語彙力が無く「ヤバい」であらゆる感情を表現する若者が一定数いるようですが、そういった子は、感情がもっとグラデーション豊かに段階的に存在していることを、その語彙力の無さという理由で、理解できないのだそうです。
 いいことがあっても「ヤバい」、悪いことがあっても「ヤバい」。繊細さとは程遠い状態です。日本人が感性豊かと言われるゆえんのひとつには、四季折々に育まれた日本語があり、その語彙力にともなった感性・感覚を、日本人が身に着けていたという点が挙げられると思います。
 その正しい言葉遣いを見失った時、日本人だから感性が豊か、と言えていた点も同様に見失われてしまうのではないかと思います。

 我々が稽古をする際にも、この点は問題として顕在化しているように思います。説明された時のイメージを、正しいイメージとして認識出来ているのか、という点です。表面的にならず、かといって自分の勝手な解釈を挟まずに言われた通りにやることの困難さが、ここにはあるように思います。しかし、それこそが太極拳を正しく理解していくための、最も早く、かつ確実な方法なのだと指導していただいているので、この点を疎かにすることは、多くのことを取りこぼすことにつながってしまうのだと思います。

 上に書いたような言葉をうまく使えない若者の問題は、ただ言葉遣いだけでなく、その情緒や精神性の発達にまで問題が生じてくることにあります。彼らは、言葉が外界の特定の物事と結びついているということがうまく理解できておらず、それが同様に、自分の精神の奥行と結びついていることも理解できていないのだそうです。若者が問題行動を起こす際、ただ情緒が不安定になっている、感情的になるというわけではなく、精神や感情が段階的になっていることが理解できておらず、極端な行動に走ってしまうのだそうです。
 良いことがあった=最高、悪いことがあった=最悪、というように、スイッチのオンオフのようにしか感情がないとした場合、自分がどのような行動を取るか想像していただくと、おおむね理解しやすいのではないかと思います。

 言葉と外界のイメージは密接に結びついており、言葉は当然、外界の物事を表しています。また自分の中では、言葉によって情緒や感情が励起させられ、疑似的に体験することができます。
 それを手軽に味わえる方法のひとつに、絵本を読むことがあります。
 以前記事でも取り上げさせていただきましたが、自分は仕事柄、絵本を手に取ることがあるので、仕事の合間に気が向いたとき、絵本を見ることがあります。

 先日、玄花宗師が幼少の頃、愛読していたという絵本を紹介していただきました。
『光の旅 かげの旅(評論社刊)』というしかけ絵本で、日本語版は1984年に初版が発行され、発売以来、今年も重版が行われ読み継がれている本です。内容を説明をしていただき、非常に面白そうだったので、実際に自分でも注文して、読ませていただきました。
 白黒の大判のイラストに、控えめに書かれたテキストを読んでいくと、最後のページ、旅の終わりにたどり着きます。ところが、テキストに従って本をひっくり返すと、あら不思議…見てきたはずの景色ががらりと変わり、また新たな旅が始まるのです。
 あっという間にイラストが様変わりする様子は見ていてとても面白く、「へぇ!」と衝撃的でした。
 玄花宗師はこの本を何度も読み返したとのことで、その気持ちがよくわかりました。
 宗師は「誰に買ってもらったのかわからない」と仰っていましたが、見方を変えることで世界ががらりと変わる様子は、さながら陰陽虚実の流転を表しているようでもあり、太極拳の教えが宿っているようにさえ感じられました。ということは、やはり師父が買い与えられたのではないでしょうか…?

 さて、みなさんは小さなころ、どのような絵本を読んだでしょうか。
 自分はあんまり読まなかったような気がしていたのですが、よくよく思い返してみると自分が忘れていただけで、我が家には絵本がわりとたくさんあり、知らずにそれを読んでいたことを思い出しました。
 絵本は、小さな子供でもわかりやすいということは、大人が読んでもわかりやすいものです。
 特に、ベストセラーと呼ばれ長年読まれ続けている絵本は、子供の情緒を刺激し、言葉や世界の豊かさを味わわせて、体験させてくれるようなものがたくさんあります。
 絵本はただ左脳で文字として読むことは出来ず、絵を通じて右脳も使い、それらの総合的な信号は、言葉とイメージが体験として自分に染み込むことを味わわせてくれます。
 もし機会があったら、それを体験し、お気に入りの一冊を見つけてみるのも、普段あまりない刺激として楽しい試みかもしれません。

 絵本を絵本として味わい、体験すること…・そこで得られる感覚は、言われたことを言われた通りにすること、何も挟まずに、自分の味わいとして感じる体験と、大いに通じるところがあるように感じます。
 もしそこで得られるものが、人生を豊かにする役に立ち、太極拳の稽古にも反映されるのだとしたら、少し気持ちを楽にして絵本をゆっくりと手に取ってみるのも、良いのかもしれません。

                                (了)





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disciples at 17:30コメント(25)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 川島玄峰   2022年10月27日 19:43
今回の記事はとても頭の痛い内容でした。

イメージする動きと実際の動きの感覚の差が大きければ大きいほど分かったふりをしがちになり、また他の動きを真似ると全くそのイメージすら忘れてしまい、結局は分かっていない事に気付かされます。

イメージをした事を動きに変えるには、まさに「語彙力にともなった感性、感覚」が身につける事が必要であると思います。それが育まれれば示された実際の動きにも素直な捉えが得られるようになり理解も深まるのではと考えます。

私の場合は語彙力、その感性、感覚が乏しいが故にイメージも自己中心的な捉えとなり間違いを指摘されても「え?」となり、気付けてもいない自分がいます。
特に今回行われた宗師特別稽古では何度もそこに陥りました。

この度の内容では、動きを真似る時の大事な在り方を教えて頂きました。
大変難しく感じましたが、諦めずに自分を少しでも高めて行けたらと思います。

ありがとうございました。
2. Posted by 松久宗玄   2022年10月27日 22:44
「ひとつのこと」を体現する事において、現代人に難しい事としては、
理解が自身の紡ぐ言葉の範囲に、多分に限定されている、と言う事はあると思いました。

一つは言葉を使って世界を認識する流儀に慣れきってしまっている事、
もう一つは、その半面としての言葉で語りえない世界への受容性が乏しくなっている事でしょうか。

霊長たる人間は、言葉を外界を認識するインターフェースとして大いに発展させてきました。
言葉は世界を切り取る鋭利な道具のようなもので、
例えるなら、刃物でりんごを切れば、新たにその断面を露わにする事で、
新しい理解や認識が生じる様に似ています。

言葉は便利な道具ではありますが、
その一振りに頼るのみでは、りんごの理解も、太極拳の理解もトータルに進める事はできないかと思います。
言葉に捉われない自由な視点も涵養していきたいものです。
3. Posted by ユキ   2022年10月27日 23:06
絵本とイメージ。絵本が右脳も刺激するとは、考えたこともなかったです。
太郎冠者さんの記事を読んで思い出したのが、文字のない(と記憶している)絵本です。
カラフルな鳥のようなイラストで綴られ、最後まで文字は出てこなかった・・と思うのですが、
最初は意味がわからずただパラパラと最後までめくって終わりましたが、そのうちにそこにある絵から、いつしか自分でストーリーを想像し、膨らませ、展開して遊んでいたことを覚えています。
それも、何通りものストーリーを自分で作っていったのですから、子供の想像力は無限なのですね。

絵だけの本を読んでストーリーを連想するように、文字だけの本を読んでもその内容が色鮮やかな情景として広がる・・人は皆そういうものだと思っていたのですが、文字を読むと文字しか入ってこない人もいるようです。
太極拳も、詩で残されている要訣は多く、表面的な文字を追わず、行間を読み、自ら味わうことで解いていくことができると聞きました。先人たちの声に耳を傾け、自分の現状から未来を想像し、不要なものは落とし、必要なものは補い、豊かに太極拳を追求していきたいと思いました。
 
4. Posted by 平田玄琢   2022年10月28日 00:44
「説明されたイメージを正しくイメージして行うこと」これは自分にとって、かなり困難な事だと思います。
私がそれを行うには、まず師匠の姿を目に焼き付けます。自分と比べて何が違うのか、具体的に何処がずれているのか、それは何故か、太極拳の原理原則にあてはまっているか。と考えます。そして他の練功と仕組みが同じになるまで、その練功をやり込みます。そうしているとハッとする瞬間が訪れることがあり、これは同じ事だったんだと気付きます。そして、これはいつも言われていた事であった。の繰り返しです。
まさしく、十を聞いて一を知る程度です。
絵本については、私が幼き頃、母が買ってきてくれた本は「世界偉人物語」泣いて嫌がり替えて来てくれたものは「桃色のキリン」でした。これは大変気に入りボロボロになるまで読んだ覚えがあります。かみさんにも聞いてみたら、「ぐりとぐら」なんと作者が同じでした。どうりで同じようなところがある筈です。
5. Posted by マルコビッチ   2022年10月28日 21:05
子供の頃に絵本を読んだ記憶はないのですが、読んでもらっている写真があるので多分読んでいたのだと思います。
絵本はどちらかというと大人になってから出会っています。
今思い返すと、子供たちが好む絵本は、平均して色がはっきりしていたり、言葉は単純であり、繰り返しのパターンが多かったように思います。
『ぐりとぐら』『おおきなかぶ』『ぐるんぱのようちえん』『はらぺこあおむし』
そこから発想が広がっていくような感じがしました。

子供の頃に読んだ本で一番心に残っていて大好きだった本が『アルプスの少女』です。
紫色の雲、やさしい風、藁の匂い・・・そんな言葉がとても心地よくて、自分がそこにいるかのように妄想していました。
ですので、間違いのパターンは、妄想を挟んで自分勝手な行いをするという方が多いかもしれません。
師父のようにたくさん本を読んだわけではありませんが、読むのは遅いですが好きで何かしらカバンに入れています。
自分とは違う世界、経験したことのない世界、思ってもみなかった考え方を知ることができて、そこからいろいろな事を感じることができます。
語彙力もイメージ力も拙いですが、イメージ力は本から得たように思います。
アンテナを張り巡らせ、大事なことにチューニングでき、師と同じイメージが持てるよう自分を磨いていきたいと思います。
6. Posted by 阿部 玄明   2022年10月28日 21:44
学校歴史の教科書などでよく見かけますが
大昔の人々の生活の痕跡が洞窟の壁に狩猟の様子として描かれていますね。
言語が発達しない段階の人類は
イラストを通じてイメージで物事を伝達していたのでしょうね。
つまりイメージは人間にとって伝達の手段としては入門編であり扱いやすいと推測します。
より高度な伝達が必要になってくると
言語(文字)が発明されてきたとすれば
言語はイメージより難しい伝達手段となります。
イメージが理解の基礎となって、その上に言語が位置する関係性でしょうか。
一方、見方を変えると目で読んだ文字、もしくは耳で聞いた情報からイメージする
さっきとは逆のプロセス(絵本を逆さまにするような)
を辿ることで確固たる理解が生じるかもしれません。
太極拳でも自分が知っていること、理解していると思っていることを
イラストにすることで自分の理解度を確認していこうと思います。

今回の太郎冠者さんが挙げて頂いたテーマの絵本とは発達過程にある児童が"イラストのイメージ"と"言語"
どちらにも馴染むための中間の教材です。
親御さんが読み聞かせをすれば音声を伴ってより馴染みます。
とても優れた教材ですがそういった絵本に触れる機会が
無かった人が言語に習熟する機会を得られないまま大人に成長し
苦慮した末に”やばい”の一言で処理することを選択したのだとしたら
教育が機能不全に陥ってるんでしょうね。
紙や鉛筆を使わずタブレットを教材としてスワイプとタップするだけの
現代の教育が変わってくれることを切に願います。
7. Posted by 川山継玄   2022年10月29日 03:09
日の当たる窓際で、絵本を選び黙読していると声に出して読みたくなります。
すると、何人かの子供達がふらふらとやってきて真剣に聴き入ります。
中にはするりと膝に入ってくる子もいて、何とも満たされた気分になります。
するとそのうち、たどたどしくも、とってもかわいらしい声が重なってきます。
私はその子の声に聴き入り、膝の子供のぬくもりと柔らかさに包まれて、至福の時を過ごすのです。
そんな時には、何人子供がいても、その一人一人の様子を手に取るように感じ取ることができ、自分の状態も冷静に見つつ、とてもリラックスしています。
チャイムが鳴ると、サッと子供達の心は絵本から離れ、席に戻っていき、少し寂しい私がいます。

太郎冠者さんがおっしゃる、稽古で示されているのに、言われた通りの事ができないという点においての二通りの間違いを、二つともやり、自分の状態や他の方の状態や原理を言葉にするのがとても苦手です。
どこかで、間違いを恐れ委縮して自らを閉ざしていると感じます。

放鬆が大切。
日頃、絵本を介して放鬆することができていたのだと改めて振り返ることができました。
とかく「緊張した状態」に目がいきやすい私でしたが、もっと「放鬆した状態の自分」にフォーカスしつづけてみようと思いました。

太郎冠者さん、今回も興味深い記事をありがとうございました。
8. Posted by 西川敦玄   2022年10月29日 13:06
言葉と、その実質や対象について考えさせられました。
大人になってから絵本というものはあまり読まなくなってしまいました。改めて、絵本について考えてみました。それは、言葉、あるいは文章、詩が絵を背景に書かれています。言葉は、絵の説明でもあるようでもあり、絵の一部が言葉でも有るようでもあります。幼少期の絵本についての記憶は曖昧としていてはっきりしませんが、私もきっと読み聞かせしてもらったはずだと思います。きっと、他の方々と皆同じ様な経験をして育ってきていると思います。今となっては、なんだか、面映ゆい感情だけが残っているようにも思いますね。
さて、絵本とは、絵と言葉を繋げて表現したものです。太郎冠者さんの言われるように、豊かな絵本は情緒を細やかにして、発想を豊かにしてくれるものだと思います。
そういう絵本的な視点にたってみると、稽古において、絵(見える現象や姿勢)と言葉(師父や宗師の言葉と、自己の解釈の言葉)などの関係が思い起こされます。
稽古中の個人的な感覚なのですが、師父や宗師との稽古の折に頂いた言葉(注意や要訣)と、目の前の現象(絵)が異なっている事実にしばらく前に(遅ればせながら)気付きました。若い頃は、言葉を信じ、絵を曲解して解釈したり、絵(の自己解釈)を見て言葉を変容させたりを無自覚にしてしまっていました。いまは、その乖離を自分の問題として大事に見つめて行きたい気持ちでいます。
絵本という視点は、私にとってあたらしく、良い意味で力をぬいて考えるような視点をくれたような気もします。ありがとうございました。
11. Posted by 清水龍玄   2022年10月30日 08:58
子供の頃に読んだ絵本は、ほとんど忘れてしまっていると思いましたが、絵のイメージがまだ今でも頭の中に残っている物がいくつかありました。
子供の頃よんだ本は、絵のイメージと一緒に残っているようです。
それほど文字のみで頭に入る物と、絵のようなもので入る物とでは脳の使われ方や自身の受け取り方が違ってくるのかもしれません。
私も語彙力が乏しく、感性も乏しい人間なので、太極拳を学ぶ上で、その部分の改善も必要なのだと思いました。
面白い記事をありがとうございました。
12. Posted by ハイネケン   2022年10月30日 15:26
先日の宗師特別稽古において、言葉によるイメージと実際の動きを交互に、サンドイッチの様に稽古をして頂きました。
時間に限りがあり染み込む前に次々と展開され、最初点の様であった事が繋がり、線から平面に、平面から立体になった様でした。
稽古開始時点で難しかったであろう「グラウンディング」が実に進歩した状況であったと感じました。
その3日後の稽古の時、同じ様には出来ませんでした。おそらく全員がそう思った様な気がします。
人はそれぞれ身体状態や思考傾向に癖や特徴があり、言葉ですら人によりイメージや内部表現が他人とは異なります。生まれた時を「白紙」に近い状態とすると、その後「白紙」の右端を使ったり、真ん中だけを使ったりと個人差があります。そうした異なる平面である白紙を基に立体を作っていくと、仕上がりは当然個人により異なります。特に私は「言葉」偏重で捉えてしまいがちで実際の「動き」が沁み込むのを「言葉」が邪魔をする事が多い様です。
(続く)
 
13. Posted by ハイネケン   2022年10月30日 15:27
理解は個人の経験や蓄積された認識を基盤として進むのですが、そこにはどうしても個人のイメージや癖が内包されてしまいます。これこそが自分自身を挟むことであり、新しい事を学習する時の弊害となります。自分の価値観が求める新しい考え方の習得、そして自分の価値観がその習得を邪魔します。車が走る時、タイヤの摩擦は走行の邪魔もしますが制御の役にも立ちます。苦しくない時は何も考えていないか、考えが足りない時かもしれません。苦しいと思う時「この今」は過去よりも少しでも進んでいれば、まずは良しと思う事にし、さあ次の手は何が良いだろう?
この文は車の中で書いており、私は家の方向は分かっていますが、さて方位「南」はどっちだろう?
空では白鳥がグゥワーグゥワーと群れで南へ向かっています。

「現代人はイメージが体に染みつくまで集中した稽古時間を取るのが難しい」住み込みの稽古ができる時代でもなく、時間や生活スタイルは時代により変化しています。そして指導方法も変えれ得る限り模索し変えていただいているのだと感じますし、本ブログがその一環ですね。私から見れば太郎冠者様は住み込み稽古の様に見えます。
先日の宗師特別稽古を再考し、「言葉」や「イメージ」「動き」のバランスの良い稽古、そして自分の知らない領域へと踏み込める稽古をするにはどうしたら良いのかをじっくり考え感じさせていただきました。
太郎冠者様、ありがとうございました。
 
14. Posted by マガサス   2022年10月30日 20:29

「見たものを見たままに」「言われた事を言われたままに」行うことが、これほどまでに難しいこととは、毎回稽古で宗師の姿と比べて、泣きたくなります
自分の精神、頭、体の構造、イメージ力はいったいどうなっているのかしら??
宗師が発する言葉はとても奥行きや情緒があり、「深いな。温かいな。」と感じます
歩法でも対練でも、道を歩いていても、座っているだけでもそう感じます
そして「あー、自分の全てが見透かされている・・・」と観念します
どうしてその様に感じるのかと考えた時に、太郎冠者さんのお話の中にあったように日本人が身につけていた繊細さや豊かな感性、思いやりや、自分自身を省みることを宗師が常に磨かれているからではないかと思いました
深く高く、常に自分を律していらっしゃるからだと思います
稽古の軸、日常の軸、遊ぶ時の軸等々分けることはできませんので、どんな時でも「同じ自分」がそこに居ます
自分を豊かにするために自分に積極的に関わって、自分自身をもっともっと育てていくことが必要だと日々感じて過ごしています
頭や心が固まっている自分にとって、今回の絵本の体験のおはなしはとても興味深く、ぜひ読んでみたいと思いました
遠い記憶をたどってみると「ぐりとぐら」「エルマーのぼうけん」や「いないいないばあ」「てぶくろ」など大好きだったなあと懐かしくなりました
今回も自分に取り組むきっかけを頂き、ありがとうございます
15. Posted by ふにゃ   2022年10月30日 22:46
私が小さいときに好きだった絵本は「ちいさいおうち」です。一般的な絵本より小さくて薄い印象でしたが、久しぶりに開いてみると、思っていたよりも文字が多くて、幼少の頃は今ほど言葉が苦手ではなかったのかなと意外に思いました。
そして久々に読んでみてもやっぱり好きでした。

何年か前、読み聞かせのワークショップに参加したことがあります。その時講師の先生が受講生のために絵本を読んでくださいました。何をしていてもあちこちに考えが飛んでしまい集中できない私ですが、その時は、ページがめくられる度にワクワクし、絵と、耳から聞こえる物語にどっぷりと入り込むことができて、自分でびっくりしたことを思い出しました。
あの時、絵本を絵本として味わえたのに、稽古を稽古として味わえないということはどういうことだろうと考えてみました。まさに表面上の字面を追ったり、妄想を挟んで自分勝手に陥ってるのだと思います。絵本で言えば、絵の一部分しか見ていなかったり勝手にストーリーを捻じ曲げたり、という感じでしょうか。なんてもったいないことをしてしまっているのでしょう。
そして稽古だけではなく、日常でもそんな自分勝手をしてしまっていると、最近やっと自覚することができました。悲しくもありますが、今気づかせていただいたことを幸いと思い、普段の生活の中でももっと人の言葉に丁寧に耳を傾けることができるよう、思いやりを持って接することができるよう、練習しています。

稽古で自分の状態を聞かれてそれを言葉にする意味がよくわかっていませんでしたが、言葉にできるかどうかが、問題を自覚できているかどうかの一つの指標になるのだなと思いました。
自分では気づけない問題を太郎冠者さんが言葉にしてくださったことで、言葉にすることの大切さがわかりました。有難うございました。
16. Posted by 太郎冠者   2022年11月01日 02:29
☆川島玄峰さん
昔…といっても昭和初期のとある武術修行者のエピソードですが、その方の師匠から「あれをして、次はあれをして」という指示しかもらえなかったのに、間違えると怒られる、というような教わり方をしていたそうです。

一見無茶苦茶なその指導方法により、だんだんと師匠が何を言わんとしているのかが理解できるようになり、それによって技の本質が見極めることが出来るようになった、とのことです。
それは極端な一例としても、指導されている事の正しい意味を見極め理解していくことは、修行者にとっては絶対的に必要なことなのだと思います。
その点に関しては、我々みんな多かれ少なかれ、頭を悩ませている点ではないかと思いました。
17. Posted by 太郎冠者   2022年11月01日 02:35
☆松久宗玄さん
言葉を言葉「だけ」として切り取ってしまうと、あたかもポストモダンブンガクが辿った道のように、意味のない言葉の羅列に、無意味な修飾が重なり、深さがあるようで実は意図されていない、まるで現代の無味乾燥さを表したようなゲージュツ、世界が生まれてしまうように思います(辛辣ですが)。

逆に短歌や俳句のような芸術は、その短い言葉の裏に世界が広がっているような感覚を、我々に味わわせてくれるように思います。
感性を豊かにし、開かれていないと太極拳が理解できないと言われる理由のひとつには、そのような感覚でしか理解できない世界があるからなのだと思います。
大切にしていきたいですね。
18. Posted by 太郎冠者   2022年11月01日 02:46
☆ユキさん
戦いを制すること、危機を察知して生き延びること。それらには共通して、想像力、ないしは創造力が必要なのではないかと思います。

我々はよく稽古中に、宗師に「発想の豊かさがない」と指導して頂きます。
型を守りながらも、型にはまらず…最近の玄花宗師の動きを拝見していると、まるでそのように感じられます。
それは例えば、俳句で使える言葉の数は決まっているのに、そこで生み出される作品には限りがないというように、一見矛盾するものでありながら、どちらに偏ることなくしっかりと両立しています。
…と、そんなことに真面目な顔して悩んでいると、それもまた「遊びが足りない」との檄が飛んできそうですね(笑)

こんなことでは、わかることもわからないですね。子供のようにもっと自由に想像して、遊んでみたいと思いました。
19. Posted by 太郎冠者   2022年11月04日 00:47
☆平田玄琢さん
学生時代楽器を演奏するとき、聞いたことのない曲を練習する際に、渡された譜面だけではどうしてもわからなかった部分があったのですが、実際にその曲を一度聞くと、とたんにリズムが理解できる、ということが多々ありました。

イメージをつかむというのはまさにその瞬間のことを示しているように思われ、説明されている(楽譜は渡されている)だけでは理解できなかったことが、腑に落ちるかのようでした。
ただ、わかったところで演奏するためには日々の練習が必要となり、ジャンルは違えど武術も一緒なのでは、と思います。

小さなころ読んで印象に残っている絵本はいくつかありますが、思い返してみると…記憶に残っているものは、かなり偏りがある気がしますね(笑)
その時の記憶が、今の人格を形成する原因にもなっているのかもしれませんね。
20. Posted by 太郎冠者   2022年11月04日 00:51
☆マルコビッチさん
最近はコロナの影響でやらなくなってしまいましたが、以前は職場で月に一回、子供への絵本読み聞かせが開催されていました。

読み聞かせをする方の腕もあるのでしょうが、一ページ一ページめくられ読み上げられていく文章に、子供たちが一喜一憂していた姿がいまも思い出されます。
子供にとっては、それがまさに作り物などではなく、現実に味わう「体験」なのだな、と思ったものです。

絵と言葉から広がる世界を子供たちが味わうように、大人になった我々も、無味乾燥な世界ではなく、そこにある味わいを堪能できるような、感性豊かな人間になっていきたいものです。
いつまでもアンテナを磨き続けていきたいですね。
21. Posted by 太郎冠者   2022年11月04日 00:57
☆阿部 玄明さん
絵本に触れ、読む、聞くことは、五感を刺激し、抽象的な概念と体感を結び付けてくれるような経験なのだと思います。
子供、ひいては人間の成長のプロセスにおいては、まず身体的なプロセスからはじまり、そこから具体性を持たない抽象的な概念を理解していくという流れが一般的かと思います。
その過程をしっかりたどればこそ、実態を持たない考え方や論理的思考も、自分の体験に即したものとしてリアリティを持って取り扱うことが出来るのだと思いますし、それをどこかで疎かにしてしまうと、どこかでしっぺ返しが来るのでは、と思ってしまいます。

知らず知らず衰えてきてしまっている感性、それが太極拳を学習する上でどれだけ弊害になっているか、この歳になってようやく体感させられているような、そんな気分です。
ただ、それで落ち込むことなく、もっと子供のように楽しみながら、自分を磨いて上達していきたいと思います。
22. Posted by 太郎冠者   2022年11月05日 01:54
☆川山継玄さん
>何人かの子供達がふらふらとやってきて
子供たちは、よくも悪くも大人よりも人前で演じるということが少ないと思うので、そういった子たちがリラックスして本に聞き入る時は、本当に心を開いていて、緊張のない状態なのだと思います。
継玄さんが子供に懐かれているイメージは、違和感なく目に浮かびますね。緊張を持たずに人と接することのできる経験は、我々にとっても、放鬆することと通じるところがあって勉強になりそうだと思いました。

子供は成長の過程で、とにかく大人を真似しています。その様子もまた、私たちが勉強をする上でも非常に参考になりそうです。
貴重な経験だと思います。
23. Posted by 太郎冠者   2022年11月05日 02:03
☆西川敦玄さん
記事に書いた絵本の他にも、玄花宗師は「絵しか描いてない絵本を見ていた」とお話をしてくださいました。
何も書いていないからこそ、自分でストーリーを作り上げ、何通りもの楽しみ方が出来たのだそうです。
調べてみると、このような絵本はわりとたくさん種類があったので、まだ特定には至っていないのですが…(書籍探偵気分です)。

逆に、世の中には「えがないえほん」という絵本さえあります。上手に読み聞かせをすると子供に大うけする鉄板商品となっております。
こうやって並べてみると、どちらも絵本なのかわからなくなりますが、それでもやっぱり、絵本なのだと思います。たかが絵本、されど絵本とでもいうように、我々がイメージしている絵本など簡単に超えていってくれるようで、なんだか小気味よくさえ感じます。

「絵本とは…」と肩ひじ張って向かい合うよりも、少し力を抜いて読んでみるくらいのほうが、やはりちょうどいいのかもしれません。
24. Posted by 太郎冠者   2022年11月08日 01:36
☆清水龍玄さん
子供の頃に見たり聞いたりしたものは、潜在意識化にしっかりと残っているのかもしれず、忘れているようでも、何かのきっかけでふっと思い出されたりすることがありますね。

太極拳の修練をする上では、幼いころになんとなくで身についてしまった歩き方を修正するのが、逆に困難な理由もそこにあるように思います。
潜在意識化にまで刷り込まれている思い込みを、いかに自分で認識して、新たなものに書き換えることができるのか。
それをするためには、いつも指導していただいている通り、自分を見つめて、改めていく必要があると常に感じます。
誰にとっても困難な事なのだと思いますが、その先にあるものを目指して頑張っていきたいですね。
25. Posted by 太郎冠者   2022年11月08日 01:48
☆ハイネケンさん
小さな子供が親御さんと一緒にいる姿を見ると、子供は親のしていることを本当によく見ていて、真似しながら学習しているように感じます。
子供は何もないところから二本足で立って歩き、言葉を学習し使えるようになっていきます。その過程で、周囲にいる人からの影響を受けないはずはなく、そうして初めて自分にはなかったものを身につけられていくのだと思います。

自分は太極武藝館に、つい最近入ったような気がしていましたが、数えてみると入門してはや15年(!)も経っていました。
年数と稽古時間を考えると、自分の人生の中で親に次ぐ長さで、玄花宗師の姿を見ている気がします(笑)
それでも、まだ歩法ひとつ満足に出来ないので、これまでに染みついてしまった習慣や考え方が、どれだけ足を引っ張っているかが、痛感させられますね。
子供だって3年も経てばちゃんと歩いているというのに…。
大人も頑張っていかないといけないですね。
26. Posted by 太郎冠者   2022年11月08日 01:57
☆マガサスさん
仕事をして、稽古をして、家に帰って…。
日常生活を送る中で、どれだけ自分が自分自身に開かれていて、嘘偽りなく生きているのか。
他でもない自分自身にこそ、それが問われているように感じます。
常にそれをし続けている玄花宗師のような人には、他の人がどのように生き、何を考えているのかがわかってしまうのでしょうね。
傍から見ると「エスパーか?」というようなエピソードがいくつもありますし…。
そういう方が近くに居ると、もはや隠し立てをすることは無意味と諦めて、自分をオープンにしていくしかないのかな、とも思います(笑)。

>「ぐりとぐら」「エルマーのぼうけん」や「いないいないばあ」「てぶくろ」
これらの絵本は、いまだに書店でも流通していて、世代を超えて愛されている本ですね。
素晴らしいものには、時代に関係なく愛される何かがあるのだと思います。
ジャンルは違いますが、太極拳もまた、そうやって人々を通して現代まで残ってきたものだと思いますので、今を生きる我々がもっと大切にして、次につなげていかなければ、と思います。
27. Posted by 太郎冠者   2022年11月08日 02:11
☆ふにゃさん
>「ちいさいおうち」
見たことがなかったので調べてみたのですが(職業病)、かわいらしくて面白そうな絵本ですね。
(余談ですが、この絵本の出版社である岩波書店の本は、流通の体系の違いで普通の本屋さんにはあまり置いてないのです…)

>絵本を絵本として味わえたのに、稽古を稽古として味わえないということ
普段の生活の中では、「こういう自分であらねば」という仮面を使い分けて生活をしているように感じますし、むしろそれがないと日常を送るのは困難な面もあるように思います。
ですが、道場で稽古をしている時は、そういったものを使う必要はなく、純粋に自分と対面しなければならないように感じます。

不思議なのですが、そういう時は、いわゆる「我が出る」かというとそうでもなく、肩の力が抜けるためか、むしろ人の話はちゃんと聞けるし、ちゃんと自分のことを見つめて話せる余裕が出来るようにも思われます。
人の言葉が聞けず我を押し通そうとする時というのは、本当は緊張で固まり、力んでいる時なのかもしれません。
現代人は誰しも多かれ少なかれそうだと思いますので、肩の力を抜いてリラックスできる時間は、必要なのでしょうね。

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