2022年09月30日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その64

  『子供の自分と、大人の自分』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古中によく指摘される事柄に、「頭で考えるのではなく、体を使って動く」という点があります。最近の稽古でも、道場内に色々な障害物を設置して、そこを移動するというサーキットトレーニングが行われることがあります。
 このトレーニングでは、どのように障害物を越えようかと考えている暇はなく、とにかく体を使うことしか解決手段がない、という状態が設定されます。このトレーニングを行うと、みんな一様に身体の状態が良くなり、足は軽くなり、足で蹴る、落下するといった普段注意される状態が、少なくなっているかと思います。トレーニングの効果があったのだといえばそれまでかもしれませんが、ではなぜ、普段からその状態でいることが難しいのでしょうか。

 『かのアインシュタインは、「子供に説明できなければ、理解したとはいえない」と言った』・・・と、師父や玄花宗師が我々に言ってくださったことがあります。
 我々が稽古において宗師にしていただく説明は、非常に明瞭簡潔であり、専門用語を使わずに説明すれば、小学生の子供が聞いても難しくて理解できないということはないと思います。
 実際に、当時まだ小学生だった門人が、指導を受けて大の大人を軽々と吹き飛ばすという風景が道場で見られることがしばしばありました。
 そしてその横で、大人が相手を崩すことが出来ずに四苦八苦、という状況もありました。
 これはいったい、どういうことなのでしょうか。

 この問題を考えるには、最初に挙げた「頭ではなく、体を使う」という点により深く入っていかなければならないのだと思います。
 稽古で適切な指導をしていただき、細かな点まで修正を行い、動けるようになってきました。そして、いざ対練になると・・・やっぱり体が動かない。これは、自分が理解したと思っていることでも、本当は体はまだ理解できていないのではないか、と思います。

 人間の体の命令形は、単純化すれば、脳から神経を経て体全体に張り巡らされています。
 大まかな説明ですが、脳の構造は中心部から脳幹、小脳、大脳で構成されており、それぞれが生命維持、運動機能、高度な命令を出す司令塔といった役割を担っています。
 我々が「体が動かない」という問題に直面しているとき、それを司っているのは脳の領域でいえば、脳幹、小脳にあたる部分でしょうか。野外で動く、障害物を使ったサーキットトレーニングを行う時など、普段とは違うイレギュラーな状況に置かれたとき、脳はその中心部に近い領域が、本能に導かれて活性化するのかもしれません。その結果、体が動くようになります。

 ところが、普段の稽古で「聞いたことで理解したつもりになってる状態」というのは、聞いた内容はまず高次機能を司る大脳で処理されますが、そこで得た情報が、さらに下の小脳、脳幹のほうにまで届いていない、あるいはそれらが理解できていない状態といえるのではないでしょうか。
 では、なぜ小脳や脳幹は、大脳からの情報を理解してくれないのでしょうか。自分の体の一部なのに、自身に反旗を翻しているのでしょうか?

 大脳の内側から小脳にあたる部分は、いわば人間の本能に直結した領域を担当しているといえます。本能による行動といえば・・・野外で走り回る、腹が減ったら食べる、眠くなったら寝る、喜怒哀楽を隠すことなく表現する・・・などがパッと浮かびましたが、いわば野性的な状態でしょうか。
 さて、人間の成長の過程において、一番野性に近い期間はいつにあたるでしょうか。
 それは、とりもなおさず子供時代ではないかと思います。

 私は仕事で接客業をしているのですが、子供連れの家族が買い物に来るのを毎週末見る機会があります。しっかりした親御さんはもちろんいるのですが、それでも、子供の面倒を見ずに暴れさせっぱなしという親も居るものです。まるで体の大きな子供が小さな子供を連れてきているような状態で、子供のしつけがなっているようには見えません。
 と、ここでは現代社会のモラルの低下を嘆きたいのではなくて、子供というのは適切にしつけられていないと、他の人がいる公共の場所でも、まぁ遠慮なく暴れるし大人の言う事を聞かない、という点に注目したいのです。

 子供をしつけるには、親が子供と同じ目線に立っていては、対等な立場になってしまい、ただぶつかるだけになってしまいます。親は大人として、子供を見ることが出来なければ適切にしつけられはしないと思います。かといって、大人にだけ分かるような理屈を子供にぶつけても、やっぱり子供は理解してくれません。
 大人は大人の立場として、子供にもわかるように子供を方向付けてあげないと、しつけは成功しないのではないかと思います。

 実はこれと同じことが、「自分の中」でも起きているのではないかと思うのです。
 我々の脳の運動・体の動きを司る部分がいわば原始的で本能に直結した部分にあるとして、そこに対して大脳がどれだけ立派な理論を上から押しつけても、子供に近い理解力の小脳たちは、何を言っているのか理解出来ず、結果、小脳=運動機能がうまく働いてくれない、「頭で考えた」動きしか出来ない、という構図になるのではないか、と思うのです。

 太極拳を頭で理解したつもりになっても出来ないのは、体(子供に近い性質を持った自分)が感覚として理解できていないから、といえるのではないでしょうか。
 つまり、子供に難しいこと言ってもわからない、のではないかということです。

 太極武藝館では、一人前の大人、一人の人間として立っていないと太極拳は理解していけない、と指導して頂きます。太極拳の技法だけをただ習得したいと思ってもそれは叶わず、かならず自身の存在に行き当たり、人間性や在り方という問題に、誰しもそれぞれがぶつかっているのではないかと思います。

 大人になるということは、子供時代を経てはじめて到達できるものです。
 人間には、大人である面と、子供である面、その両方が備わっているのではないかと感じさせられます。
 その上で、子供を正しくしつけていけるのは、大人の人間性を持った人だけではないかと思います。自分を律していける人というのは、自分の中に居る子供の面をしっかりとしつけられ、律していける人ではないかと思うのです。
 道場においても、玄花宗師はもちろんのこと、太極拳がどんどん上達している先輩たちと接していると、彼らはみんな、人間として大人であると感じるところがあります。律するところはきちんと律し、それでいて人の心を思いやる温かみとユーモアも兼ね備えている・・・それはまるで、師父にも感じられたものと同じもののように思えるのです。

 そして、そういう人たちはみな一様に、体が動くようになっている・・・果たしてこれは偶然でしょうか? いや、そんなことはあり得ません。

 自分の稽古の取り組み方として、体で動くと称して、まるで自分の体に対する支配力を強め、命令を実行させようとしている部分があったように感じます。これでは、自分の中の本能に近い部分は、なぜ命令されているのかも理解できないまま、あたかも叱られて萎縮してしまっている子供のようになってしまい、結果、体は自由に動いてはくれない、という状況になっていたのではないか、と思いました。
 叱りつけ、怒鳴りつけ、動くよう命令し酷使する、それでは体を大切にしているとは言えませんし、本能はそれを嫌い、どんどん動くのを怠る、勝手に暴れるようになるのではないかと思います。

 かといって、しつけが行き過ぎて大人の命令がないと動かない子供というのもまた、その在り方としては不自然なものではないかと思います。
 子供は、大人がどれだけ言って聞かせようと、自分にとって楽しいことがないと主体的には動いてくれません。逆にこれは、美点でもあるのだと思います。
 好きなこと、楽しいことに熱中し、周りのことも耳に入らず情熱的に取り組む姿勢は、子供が持っている素晴らしい性質だと思います。
 玄花宗師は、一人の大人として在りながらも、まるで誰よりも子供のように、興味深いことに情熱を傾ける姿勢を我々に見せてくださいますし、稽古においては誰よりも楽しみを見出し、本気で楽しんで遊んでいるようにさえ感じる時があります(そして、そのような時の稽古は、我々にとっても、すごく劇的に効果があるのです)。

 そういう、両面性とも思える性質を人間は併せ持っていることを知り、付き合っていくことで初めて、一人の人間として正しく在ることが出来るのではないか、と感じます。
 はめをはずしすぎてもダメだし、しっかりしなければ、と硬くなるだけでも物事は片手落ちで、うまく回ってはくれないように思うのです。

 また、人間同士に生じる争いの原因も、根っこの部分では、人間として未熟な、さながら子供のようにすぐに感情的になることで生じている部分が大きいのではないかと思います。
 それをまるで子供の喧嘩のように冷静に見つめられるのが大人の在り方だと思いますし、武術としても、力と力のぶつかり合いを一歩離れたところから見つめ、御することが出来るのが、太極拳の技法としても通じるところがあるのではないかと思います。
 そして、技法としてそれを習得するためには、自分の中にあるものを知り、律していける状態であることが、必要となっているのではないかと思います。

 このように感じるところがあり、稽古において「自分の体の声を聴く」ということを見つめ直した結果、それまでになかったことにいくつか気づけたことがありました。
 立ち方という点において、恣意的にこう立つと決めつけるのではなく、体が本当はどこに立とうとしているのか、が以前より感じられるようになり、変化した部分がありました。
 このようなことをきっかけとして、太極拳の稽古としても、また一人の人間としてももっと変化していけるところがあるように感じられました。
 問題が目の前に出てくる時、それはその問題を解決できるチャンスなのだと思います。
 自分に、まだまだ成長の機会があるのだ、と天が与えてくれているようにさえ感じられます。もっともっと、それらの機会に自分から積極的に向かっていき、本当の意味で動けるようになっていきたい、と思いました。

                                (了)




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disciples at 21:00コメント(26)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2022年10月02日 23:46
子供(もちろん大人も含めて)への躾も、そして稽古における自分の身体に対する時の姿勢にも、一方通行のモノではなく、双方向の要素があります。
躾では「その時だけの行動」であれば容易に伝える事が可能ですが、その根底にある、心遣い、感謝、保健衛生、倹約などの本質的な事に気付くまでには幾つもの経験や体験が失敗も含めて必要なのだと感じます。
稽古をしていて(大変失礼な言い方ですが)「なんじゃこれは?」という、全く理解もできないような稽古もたくさんあります。
その時初めて「よく行う基本功」すら自分が勘違いしていた事に気づきます。そうして先程までの自分の勘違いを越えて、より本質へ近づくチャンスが生まれる気がします。
人生の時間は未来に対しては長く感じ、過去に対しては至極短く感じます。さて「今」と言う時間をどう感じて、何を感じているのでしょうね。自分の中の、知らない自分(癖や思考も)が出てきます。
太郎冠者様、ありがとうございました。
 
2. Posted by 阿部 玄明   2022年10月03日 00:59
太郎冠者さん

自分の体を把握して使いこなすためのプロセスを
脳の仕組みを交えて説明して頂き
大変わかりやすく納得できました。
新しく何かを身に付けるということは小脳や脳幹の存在する深い階層の領域まで
命令を届かせるルートを確立すること。
そのためにはには分かりやすく、且つ正しい命令を一回送れば十分というわけでなく
反復して命令を送ることで自分の脳を命令に馴染ませることも必要になってくるだと自分は思います。
いちいち考えてから行動を決定するのは時間がかかり動作が遅くなります。
稽古事や軍事訓練などは来る日も来る日も同じ動作を反復して訓練を行っている。
体で分かるまで(小脳がわかるまで)やりこむことで考えなくても動ける状態を実現している。

太極拳も頭で考えただけでは知識として知っただけであり
活用できない宝の持ち腐れ状態です。
自分のものにする、身に付けるまでに至るには稽古時間、回数が重要になってくる。
稽古はやりこむもの、やったもの勝ちという言葉は
功夫と脳科学に深い関連があることを示唆しているように思えてなりません。

3. Posted by 川島玄峰   2022年10月03日 20:34
これはどうやるのだろうか?
それはどうすれば良いのか?
よく分からない
と心の中で困惑しながらでも諦められない状況は、稽古では当たり前のようにあります。今回の記事では、このような事態を解決させる糸口を示して頂いたように思います。

日常はスマホやパソコンを中心に動いています。初めての内容や分からないことは検索をしたりマニュアルなどを確認し、事細かく書かれている内容を理解してから覚え行動すように思います。その代わり物事を真似る、感じる、察するなどの行為が少なくなってきたと感じます。
子供のような感覚を培うには、絵や音楽、本や映画、料理など脳を楽しませる刺激が必要であると思います。
私は武藝館に入門する前は、そのように思う事は全くありませんでした。もっと早く気づいていたらこんなに苦労をしなかったのではと思います。(苦笑)
いつからでもスタートであると思い、地道に楽しむ感覚を増やしたいと思います。
今回は、学び方や習い方について考える事が出来ました。
ありがとうございました。
 
4. Posted by 西川敦玄   2022年10月03日 21:02
脳の仕組みを、大人と子供に譬えて話してもらい、分かりやすく頭に入ってきました。小脳脳幹を大脳が躾けるなどの比喩も、それぞれの機能を大人と子供として尊重しているようで確かに確かにと頷きながら読み進めました。
今回の太郎冠者さんが言いたいことととは異なる(触れていない)かもしれませんが、運動の際に大事なもう一つのことがあると思います。運動の際、脳から身体への命令だけで無く、身体の筋や触覚による刺激もまた脳に入ってきていて、その処理も無意識下でずっと働き続けているということがあると思います。平坦な面の上での限定された運動では、身体からの情報もまた限定的となっているのかもしれません。サーキットトレーニングのような状況では、身体からの情報が最大化して、それに対応して大脳の命令は限定されながらも、脳の活動は一方向が主体のときよりは、活性化するような気がします。
太郎冠者さんは、人間には子供である面と大人である面があるのではと・・書かれましたね。本当にそう思います。人間の自律とは、子供の面だけでは当然ダメだと思いますが、大人の面が中心でも、怠惰な独りよがりの面が強くなるかも思わされました。
今回は、大脳と脳幹の関係と、大人と子供の関係を対等に平等にみた記事に認識が新しくされる思いがしました。ありがとうございました。
 
5. Posted by 松久宗玄   2022年10月03日 22:51
子供と大人の違いとは何か?
外的要因(社会的な要素)を除いて、本質を考えてみるのも面白いと思いました。

着目する観点は色々とあるとは思いますが、
子供的な特徴として目に付く点として「自己中心的」である事に注目してみます。
これを視点の向きで表現すると下記のようなモデルになるでしょうか。

「I」→

自分を中心にしか外界を見る事ができないモデルであり、本質的には他者が含まれていません。
子供がわがままで自分勝手である事にも頷けます。
これが成長していくと、下記のように、視点が拡張されていきます。

「I」→   ←「YOU」

相手の立場に立って見る事も可能なモデルであり、
その結果、自他の関係性(双方向の矢印)も認識した上で行動を選択できる様になります。
この視点を取れる事で、他者を思いやる事もできる大人になれるのではないでしょうか。

更に進んで、視点の位置が自在に拡張できる様になると、下記の様になるかと思います。

 ↓       ↓
「I」→   ←「YOU」  ←「第3者」
 ↑       ↑

自他に囚われず、関係性の全体像を俯瞰して見る事が可能なモデルです。
仏教でいうところの「観自在」
この境地に近づく事が、武術的に身体が動く事にも、実際の危機における武術性の発揮にも繋がる・・・
のではないかと考えています。
 
6. Posted by マルコビッチ   2022年10月04日 01:22
大変興味深い記事をありがとうございました。

脳も鍛えるものだと教えていただいたことがあるのを思い出しました。
脳からの命令で身体が動く、そして身体を動かすことで脳も鍛えられて、どんどん強くなるのかと思いました。
サーキットトレーニングや5月に行われた強化訓練などは、子供が自転車の練習をしている時に、大人が後ろから押している手を急に離すような状態、あるいは泳げない子をいきなり海に放り投げるような(師父のお父様は息子たちにそうしていたとお聞きしたことがあります)状態と似ていると思いました。
必死になっているうちに動けるようになっていることを考えると、危機感やハプニングは人を強くするのでしょか。
そして、考えているときは身体が止まったり動きが小さくなったりすることは、皆さん経験したことがあるのではないでしょうか。
勁力と拙力、意識と思考・・身体と脳が生み出す二つの相対するもの・・面白いですね。
以前、のらさんが出された記事”站椿”にも記されてありましたが、『脳幹は「心と意識」の源と言われ、言わば「意」の中枢であるといえます』とありました。
やはり、用意不用力、そして放鬆によって動ける身体を目指して精進あるのみですね。
 
7. Posted by 川山継玄   2022年10月04日 22:42
今回の記事も、日頃問題と思いつつ整理できず、そのままになっていたことを、解りやすくひも解いていただき、本当に勉強になりました。
ありがとうございます。
少し前になりますが、中2の男の子が、
「僕は調和している人…そう、調和している人がいいなあって思うんですよね。」
と遠い目をしながら言いました。その時、私は鳥肌が立ちました。そして、パッと師父と玄花宗師のお姿が脳裏をよぎりました。
大人として自身を律していけるものと、子供のように興味深いものに心から情熱を注ぎ、遊びきれるものを併せ持ち、それらが流動的に調和し続けている状態の師父・玄花宗師・諸先輩方にとても憧れます。そして、太極拳でその人間性と身体が練られていくことが、とても尊いと感じます。
特別訓練やサーキットトレーニングで得られる、瞬時の判断と体の動きは、思考していては到底おこりはしません。普段の稽古で、思考に偏るとどうしても主観的になり、体裁を整えたり、正解を探したり、自身を卑下することに目が向いて、太極の本質が忘れ去られて迷子になります。
思考と本能。以前どなたかが、それらのどちらを今使っているのかを自覚して、意識的にバランスをとる訓練をしていくことが大切であるとおっしゃっていました。その時は、「ああ、大切だな。」と思ったものの、それを大切にしていなかった自分を受け容れ、今から行動を切り替えたいと思います。
(つづく)
 
8. Posted by 川山継玄   2022年10月04日 22:42
数年前の娘達のトランポリンの練習後の先生のお話しがとても印象的でした。
ちょっとした判断ミスで命をも脅かされるこの競技。ちんたらやっていては自分の命は守れない!! レストランでメニューを選ぶ時にもそれは訓練になる。
今食べたいものをぱっと選ぶ。その瞬時の感覚と判断が自分を研ぎ澄ます訓練になる。日頃からもっと意識を高く持ちなさい。という内容でした。
じゃんけん・メニュー選び・身に付けるものを選ぶ…いろいろな場面でパッと察知したものがあるのに、少し考えが入ったばかりに、
「ああ、最初に決めたものにすればよかった。」
と後悔したことは数知れず。
ピンチはチャンス! 何事も無駄は無い!
とは思いますが、限られた時間。
これから、揺るぎない基本と、内なる声を大切にして、可能性を広げていきたいと思います。
 
9. Posted by ふにゃ   2022年10月04日 23:05
人間には大人の面と子供の面の両方が備わっていて、自分を律していける人というのは、自分の中にいる子供の面をしつけられ律していける人・・・長年大人であるとはどういうことかと疑問に思っていたので、非常に合点がいきました。
最近まで子供と接する職場にいましたが、子供を上手に乗せてやる気を引き出せるスタッフは、子供のことを本当によく見ていて、その子の段階に応じて分かりやすい伝え方が出来ていると思いました。私はと言えば、相手を見ずに誰にでも同じ伝え方をしてしまったり、私自身がルールを理解していなくて、どんどん無秩序になっていく…ということがよくありました。
私自身の中でも同じことが起きていて、しつけの下手っぴな私と、レベルに合っていない無理な要求をされている子供の私がいると思うと、今の無秩序な自分の状態にも納得がいきます。
もっと自分をよくよく見てみようと思います。

太郎冠者さん、今回も目からたくさん鱗が落ちるような記事を有難うございました。
「問題が目の前に出てくる時、それはその問題を解決できるチャンス」…いい言葉ですね!
 
10. Posted by 清水龍玄   2022年10月04日 23:47
大人というのは、ただ大人としての概念に縛られるのではなく、子供を体験し、理解し、そして人としての大人という指標があり、そのために起こる成長なのかなと思います。
子供が大人というものに変わるというよりも、様々な体験をして深みが出るというような。
そのおかげで、同じものを見ても、体験しても、得られるものが買ってくると思います。
そして、太極拳を理解していく為には、その人間の深みをより大きくしていく事が必要なのだなと思います。

とても面白い記事でした。
ありがとうございました。
 
11. Posted by 平田玄琢   2022年10月05日 00:44
「世の中の風に心を騒がすな 学びの窓にこもるわらわべ」
この和歌は明治天皇の御製です。私が思うには、学校に通う子供たちは、何らかの目的を持って作られた流行や、まるで良い事のように感じられる悪しき風潮。これらに影響される事なく、勉学の稽古に励んで欲しいとの願いが込められているように感じます。
世の中の企業が次々に便利なものを提供し、行政がそれを助長します。そして人々はもっともっと楽を求め、何か別のものとすり替えられ、考える事の無い生活を覚えます。

還暦を過ぎると、日々頭脳身体の機能が衰退していくのが自分で分かります。それを防ぐため頭や身体を使うように不便さを心掛けています。
稽古でも、自分では一生懸命やっているつもりでも、集中力が続かなかったり、思うように身体は動いてくれません。

私は最近、稽古の基本である太極歩に対し違和感が多くなったと感じ、仕事の時間が空いた時の数時間(何日もかけて)を使って自主練を行いました。それだけを、あれやこれやと子供のように繰り返してやりこんでいました。
そうすると不思議と何かが繋がる感覚が湧いてきました。私にとって、これが太郎冠者さんが示していることのように感じられました。

道場では、宗師による様々な多方面からの効果的な稽古が行われているというのに、上達は難しく歯痒いばかりです。
 
12. Posted by マガサス   2022年10月05日 20:18
脳幹と小脳と大脳で?
生命維持、運動機能、高度な命令を出す司令塔の役割を担ってくれて・・??
小脳や脳幹は大脳からの情報を理解してくれなくて・・・???
自分には難しくてよくわかりません(汗)が、
こんなに脳が働いてくれているのに、あまり意識した事がなく、認識も無くて、申し訳無い気持ちになりました

先日の稽古で「体を使う訓練」を行いました
今まで何十回も行ってきた体を使う訓練なのですが、今までやっていた事が全然違っていたと理解でき、その事を「頭と体で認識した」感覚を得る事ができました
自分の「思い込み」や、「こうしなければ動けない」というような強迫観念に似た思いを一度横に置き、真っさらな心と目で見ないと動けないんだと、反省しました
稽古に取り組み、自分自身に取り組み、じっくりとこの作業をしていくことによって、頭と体が動き出してくれる様な気がしたのですが・・・
先ずは考えすぎて頭ばかり大きくならないように、宗師をお手本にして、先輩方の姿をみて、進むべし!ですね
勉強できることに感謝します
今回も貴重なお話をありがとうございました
 
13. Posted by ユキ   2022年10月05日 23:00
ヒトの脳に始まる体の命令形、面白いですね。
子供の躾に関しては、特に現代の若いお父さんお母さんを見ていると、
「子は親の背中を見て育つ」という認識が失われているようにも思います。
「子は親の鏡」とも言われますが、公共の場でギャンギャンと見境なく泣き喚いている子供が居ると、親御さんの立ち居振る舞いをジッと見てしまいます。

自然流育児を提唱する小児科のドクターは、「人間ほど子育てをしている動物はいない」と言っていますが、確かに動物は生まれ落ちたその瞬間から外敵に生命が脅かされている状況で、幾多の危機を乗り越えて自分を生んだ親を見て1日も早く自力で成長しないと、文字通り生きてはいけないという本能があります。
親の姿、考え方、物の見方、行動の仕方、コミュニケーションの取り方、危機回避・・etc…
動物には「育ててもらう」などという意識は毛頭なくて、自分で育つ、成長することしか考えていないのでしょう。だからこそ、親の真似をして、必死に生きる力を身につけようとする。
正に、師父が仰っていた『師匠は弟子には教えない』ということと一致します。

このことは、小さい子供にのみ必要なことではなく、大人にも必要なことだと思います。
子供を育てるが如く、自分を育てているか。
子供に見せられる、親の背中か。そして今もまだ、親の背中をきちんと見ているか。

『道場できちんと真似ができる人は、自分を挟まない。そして言い訳をしない』とは、宗師の言葉ですが、そういえば、駄々をこねている子供は、必ず「でもでも、だって!、私はこうしたいのに!」と大声で叫んでいます。
こうなると、子供から大人への成長過程において何が必要なのか、何を成長というのか、見えてくる気がしました。
道場はまさに、人生の箱庭。子供でも大人でも、もう一度生まれたその時からをやり直し、見直し、成長できるチャンスを与えられる場に違いないのです。
大事にしたいですね。
 
14. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:15
皆様、コメントの返信が大変遅くなり、申し訳ありませんでした。

皆様の熱意に負けぬよう、気合を入れて返事をさせていただきたいと思います!
15. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:20
☆ハイネケンさん
失敗してしまったり、理解できない、わからないことというのは、稽古のみならず日常生活でも多々あるかと思います。

日常の中では、ある意味それをうやむやにも出来てしまうかもしれませんが、道場においてはそうはならず、必ず自身の行動への反省が促されます。
そうした在り方が許され、また必要とされるのが道場という場所であり、それを用意してもらっているのかなと、感じるところがあります。
そうして初めて人は成長していけるのだとしたら、子供であろうと大人であろうと、成長していけるプロセスというのは何ら変わらないのだとも思います。

まさに、失敗は成長の母であり、チャンスですね。
16. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:23
☆阿部 玄明さん
頭を使うにしても、その使い方は普段の生活では必要とされず、眠ったままになっている部分なのかもしれません。

また同様に、体の使われる状態というのも、本来は持っているものの、使われないままになっているのかもしれません。
それらを偏ったりせずに、両方を同じように使う、育てていけるような訓練体系を用意していただいているかと思うのですが、それを生かすも殺すも、取り組む我々門人それぞれの状態によってしまうのかもしれません。

聞いただけでわかったようになり、実際にそれが使えるのなら話は別ですが、そういうことはないので、やはり実際に体に身に付くところまで努力を怠ってはいけないのだと思います。
習得し、研鑽していけるレベルまで、がんばっていきたいと思います!
17. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:30
☆川島玄峰さん
>日常はスマホやパソコンを中心に…
これは本当に同意で、良い面も悪い面もあるように思います。
好きな音楽や映画をいつでも楽しめるのは良いことですが、それを味わうために行わなければならなかった努力が省かれる結果、もしかしたら得られる喜びが減っている部分があるのかもしれません。
苦しみがあるからこそ、得られた先の喜びがある・・・そう思えば、稽古にもより熱が入るかもしれません(・・・遠い目)。

余談ですが、最近は子供の学習にも電子書籍やタブレットが使われているようですが、紙の本を実際に手に取り、ノートに手書きをするといった、体を使って味わいながら勉強をしないと、学習できるものも少なくなってしまうように思います。

太極拳においても、体を使わないと話にならないはずなのに、聞いただけでよしと思ってしまっていないか、自分自身、改めて反省しないといけないように感じました。
18. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:37
☆西川敦玄さん
ここ最近の週末、我が家に甥っ子三人(モンスター)が遊びに来ることがあるのですが、まぁ彼らの相手をしているだけで、子供とは如何に手の付けられない生き物なのかということを痛感します。
たまに会うではなく毎日接する、実際に子育てをしている親御さんは、さぞや大変な思いをしているのだろうなと、頭の下がる思いです。

自分が小さかった頃にも、こんなに暴れまわっていただろうか?・・・いや、無い。
と自分では思うものの、実際にどうだったかは周りの人に聞いてみないとわからないですね。
大変な思いをしながらも、成長をじっくり待つしかありません。それと同じと言っていいのかはわかりませんが、自身の成長もまた、同様に見守っていかなければいけない気もします。

叱りつけるだけでは育ってくれませんし、放っておいても暴れるだけですし・・・。
大人も子供も、勉強するべきことはたくさんある気がしました。
少し話がそれてしまいました。
19. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:44
☆松久宗玄さん
そこまで内容を深堀りしていただけるとは思っておらず、コメントを拝見させていただいて驚いてしまいました。

実は宗玄さんが仰っているような内容で、もう少し書かせてもらおうかなとも思ったのですが、話が煩雑になりそうだったのでサクッと省かせていただいた部分について言及していただいているように思ったのです。

ただ、そのように俯瞰できる「第三者」としての自分まで認識できる人間というのは、もう普通の人間の枠も飛び出しつつあるのではないかと思うところがあります。
そこまで行って真の人間であり、本当の大人なのだとしたら、自分はまだ片鱗もわかってない!
なので、書けない・・・となったのです。

しかし、そう在らねば武術が分からないのだとしたら、当然それを目指さないといけないですね。
ありがとうございます。目標をもっと高く、邁進していきたいと思います。
20. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:52
☆マルコビッチさん
何かを考えて誰かに説明するとき、身振り手振りを伴うのは、話している人がどれだけ理解しているかも表している、というのを聞いたことがあります。

ただ棒立ちで言葉だけで説明しているのは、実は話している人もよくわかっておらず、きちんと自分で分かったうえで話す人は、少なからず身振りを伴うものなのだそうです。

このように実は、体と頭の理解は密接につながっているらしく、まず体を動かさざるを得ない状況に追い込むことは、それが一番理解への近道だから、ということなのかもしれません。
先人たちはそれを理解していたからこそ、そうしていたのかもしれません。
体がわかってくれば、いずれ頭でもわかってくる。同時に頭も分かっていければ、たぶん理解はもっと早いのだと思います。
意をもって体を導き、用意不用力で行う。
我々が理解しなければならないことは、たくさんありますね。
21. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 00:59
☆川山継玄さん
>中2の男の子が〜
私も中学生時代には、哲学やら科学や思想やら、あまり周りの大人が触れないような話題を聞きかじって偉そうな講釈を垂れ流し、何かわかったようなそぶりで理論武装していたものです。
今にしてみれば恥ずかしい。殴れる機会があったらいっぺん殴ってやりたい!!

・・・と、継玄さんが仰っていることとはだいぶ違うのかもしれませんが、私のような中学生の知ったかぶりの言葉が大人の心を動かしていた、ということももしかしたらあったのかもしれません。
言った本人にそんな自覚は全くなかったのかもしれません。
それだけ、さまざまな場面で勉強しようという姿勢が、継玄さんにあったということだと思うので、私もそのようにあらゆる出来事を学習の機会に変えていけたら、と思いました。
22. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 01:07
☆ふにゃさん
>無秩序な自分の状態
ここを読ませていただいて、以前読んだことのある物理学者の書いた、科学哲学の本の内容を思い出しました。

「整う」ということについて自分でも考えていたときに、たまたまその本を読んだのですが、物理の世界において整うこと、秩序と無秩序について書かれている箇所がありました。
その本によると、宇宙そのものには、秩序も無秩序も無く、ただ存在が(もっと言えば存在する確率が)そこに在るだけ、なのだそうです。

では、何を持って整っている・いないが決まるかというと、宇宙をどのように観るかという、視点の持ち方で決まってしまうのだそうです。
時間の流れも物質の在り方さえも一様ではなく、どのように観るかで整い方さえも変わってしまうこの宇宙。
その中で自分が整えていく必要があるのだとして、我々は太極拳の整え方、要訣を教わっているので、それに沿って整えなければいけないのだと、そう思いました。
その視点の変わり方、「観ること」へのかかわり方は、普段の生活の中でも同じことなのかも、と思った次第です。
23. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 01:12
☆清水龍玄さん
師父の仰っていた、規律を守れる自分と、それと同じだけ、何ものにも囚われずに遊ぶことのできる自分。
それが両立出来るのは、自分の中に一見矛盾するような性質が両方とも備わっているからではないかと思い、今回は、「大人と子供としての自分」として思ったことをまとめて書いてみました。
面白いと思っていただけたのなら、ありがたいことです。ありがとうございます。

どちらかに偏らず、両方を持ち合わせていることは、まさに太極の思想に通じるところがあるかと思いますし、そのバランスが取れている人のほうが、全体として安定した一人の人間としてあるように感じます。
自分はまだまだ、簡単にバランスを崩してしまうような人間なので、その動きがある中で、しっかりと中心を保って生きていけたら、と思っています。
24. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 01:20
☆平田玄琢さん
>これらに影響される事なく
人が生きていく上で本当に大切なことは、長い時間を経ても変わらず、むしろその中で生き残ってきたことにこそ、真の強さの証明があるのではないかと思います。

妙な例ですが、食べ物を煮る、焼くための調理器具は、石器時代から何万年もの間、土器から金属になるなど素材や細かな形の変化はあれど、大きく機能を変えてはいません。
しかし、人が生きるために不可欠な道具として、今でもその命脈を保っています。
存在は地味ですが、鍋がないと人類の生活は今とは変わってしまうと言える程、影響の大きなものですよね。

人が本当に必要としている大切なことは、そうやって残っていくのかもしれませんし、太極拳の稽古もまた、一見すると地味な稽古が、本当に大切なものだと思いますし、そうやってやってきたものは、ずっと自分の中に生き続けるのではないかとも思います。姿は変われども、太極拳の本質は変わらないのかもしれません。

なんだか、妙な例え話になってしまいました。
25. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 01:29
☆マガサスさん
>自分には難しくてよくわかりません(汗)
おいしそうなケーキを見たら食べたくなるのが本能(子供)で、時計を見て夜だから明日にしようと判断できるのが理性(大人)、そして、お腹のぷにぷにを見てケーキそのものを止めようと判断できるのが、それより上位の第三者としての自分、といったところでしょうか(笑)

厳密にいえば、それほど脳の機能がきっちり分かれているわけではないらしいので、なんとなくこんな感じ、でもいいのではないかと思います。
なんとなくでも傾向が分かれば、どのように働いていてどう関わっていけばいいかが見えるのではないかと思います。

何よりも、太極武藝館でやっている内容を存分に味わうのが、脳にも体にも最高の刺激だと思います。
お年寄りに大流行のいわゆる脳トレは、実は最近の研究ではあまり効果がないということがわかってきています。
脳を鍛える目的だったら、実はゲームなどをやったほうがよほど訓練になるのです。

太極武藝館での訓練は、ゲーム性も持たせられ、楽しみながらも体を使う必要がある、脳にも良い最高のトレーニングだと思います。
26. Posted by 太郎冠者   2022年10月12日 01:39
☆ユキさん
人間は生まれもったものによって人間になるのか、人間に育てられることによって人間になるのか。
科学の世界ではひとつの疑問としてそれがあったのですが、オオカミに育てられた人間の子供を例として、その研究がなされたことがあります。
オオカミに育てられた子供たちは、脳や体に異常はなかったものの、二本足では立たず、言葉も話せず、人間としての社会性は結局身に着けられなかったのだそうです。

人として生まれながら、オオカミにもなってしまう人間は、誰の背中を見て誰のもとで育つのかが、本当に重要なことなのではないかと思います。
その点において我々は太極武藝館という場所に出会え、師父や玄花宗師の後ろ姿を見させていただける、切磋琢磨する諸先輩や同門人たちと一緒に過ごせるということ、これは本当にありがたいことなのだと思います。

自分で何を勉強していくか決めることが出来て、志を持った行動を起こせるのも、人間にしかないひとつの美点だと思うので、その機会を最大限に生かしていきたいと思います。

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