2022年09月12日

門人随想「歌と詩と」

                    by 拝師正式門人 西川 敦玄



 太極武藝館で太極拳の練功をしていくことは難しい・・・と思う。多分、門人の多くはそう感じているはずである。当門の門下生のブログや、そのコメントをみればよく分かる。そこには、自己の至らなさ、反省の弁がそこかしこに表現されている。もう反省と決意が銀河の星のごとくに連なっている。もちろん、僕もその星々を形成している。ブログのコメントを遠くから眺めてみる。どのブログのコメントにも同じ夜空が広がっている。
 皆はそうは思わないかな・・・・。
 判で押したようなコメントを皆が片手間に書いているのか?そんなことはないと信じる。皆、真剣にコメントを書いて、結果同じ夜空となっている。
 稽古で、注意され、注意されても、改善しない。師父に易しく噛み含めて指導されても、理解できない。自分の問題だと指摘されて、必死に自己を変革しようと試みる。毎回、反省の弁とともに決意を述べる。我々は一体なにを反省しているのだろう。自分の理解が進まないことに真剣に浸ってみるといい。勿論浸るだけでは変わらない。苦しまなければ。自分の力ではどうしようもないところまで苦しまなければ。

 最近、師父の言葉が、ふっと入ってくることがある。そうして腑に落ちるようになってきた。
 そういえば、今年いただいた太極武藝館のカレンダーは師父の言葉で満ちあふれていた。其れを観ていると、私たちに対して言われたことが甦ってくる。

 「本物の音楽を楽しみなさい。」
 「料理もしてみようか。それは、残り物を使ったような発想でするのではないよ。」
 「芸術に親しみなさい。」
 「どんな絵が好きかな。」
 「コーヒーはどんなのが好きかね。」

 僕は知らなかった。自分の好み嗜好を聞かれているのかと勘違いをしていた。「自分の好みがはっきり理解できているか」と問われているのかとさえ思った。また、絵を描いたり楽器を奏でたりすることが太極拳の上達の秘訣であるとも思い、絵心や音楽センスがない自分に絶望したりもした。
 そうして、反省という名のもとに自責の観念だけが増えていく、満ちていく。ダメだダメだと自分を苦しめ、家族を苦しめる。周囲に迷惑を振りまく。もう限界であると思った。家族も壊れていって、全てを捨ててしまえと思った。太極拳がそうさせているのかと疑った。僕の自我は膨らみ破裂寸前であった。早急になんとかしなければ、自分が壊れるか、周りが壊れるか。
 僕には太極拳は捨てられない。自我を安心させるためには、自分が思いこんでいる太極拳のようなもの以外の全てが崩壊してしまうかもしれなかった。幸い僕は、踏みとどまることができた。漸くそこで、自我と異なるところに目を向けることができた。いままで、必死に自分であると思っていたものにではなく、自分ではないところに真実があると実感することができた。
 芸術は、その場所でこそ花開く。音楽もそこに流れている。料理もそこでされるのだ。自我が入り込む余地がないのではないのだ。そもそも関わりが無い場所なのだ。いや、自我は関わってはいるか。勿論お互いに影響はされるだろう。しかし、芸術が花開く土壌は自我という土壌ではない。この年になって漸くその事に気付かされた。
 とっても不思議なことに、自分が変わったわけでもないのに。その事に気付いただけなのに、人間関係も変化が起きてくる。自分が変わるのかもしれないが、相手も変わる。本当に実感として相手が変わる。周囲が変わる。
 でも、そこで有頂天になってはいけない。生きて働くその場所は、自分の好きな様にすることはできない。そして、同様に自分自身をも好きな様にすることができないことを知る。太極拳も同様である。それらを、ぼくが好きな様にはすることができないことが、漸く僕の腑に落ちた。
 好きな様なことが出来ないそれ、そこへのアプローチを表現する方法はないか・・・・。そこにある、そこで生きているという事への分かりやすい表現はないか。言ってみれば、それは自然である。道である。建築物であり、光であり、音である。はっと思う。私たちは古来、短歌俳句をもってそれを言葉として表現してきたのではなかっただろうか。詩人のみならず、高名な僧侶もそういったものを残している。
 カレンダーの中に師父の詠まれた俳句がある。師父は書もされるし、俳句も詠まれる。僕は俳句をはじめとする詩は、その場所に生きている事、そして自分を歌として表す芸術だと理解した。そうする事で、初めてその芸術を楽しみ、また真実に生きる事ができると思った。そう、そこで生きる事は創造性に満ちあふれている。
 
 去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの
      
 有名な高浜虚子の俳句だが、これなど自我の箱庭の中で生きていては詠めないものではなかろうか。棒の如きものは自我の中では生まれてこないものだと思う。それは解釈を拒絶している。
 また、道元禅師の「本来ノ面目」という題で読まれた歌に

 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷し(すずし)かりけり

 という歌がある。題と歌と合わせてみると良いと思う。自然をそのままに認めている。当たり前のところに立ち上がってくるものがある。立ち上がるそのところは、決して自分の中ではない。道元禅師は「これが本来の面目」と言われたのかしらんとも思う。

 最近読み始めた詩集がある。高村光太郎の詩集である。とても、誠実に純情に詩が書かれている。ここで、紹介させてもらえればと思う。


 手紙に添へて
どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
中にかはいい部屋を揃へてゐるのでせう
どうして蜜柑は葡萄でなく
葡萄は蜜柑でないのでせう
世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません
何にも生きる意味は無いときでさへ
この美はあなたを引きとめるでせう
たつた一度何かを新しく見てください
あなたの心に美がのりうつると
あなたの眼は時間の裏空間をも見ます
どんなに切なく辛く悲しい日にも
この美はあなたの味方になります
仮の身がしんじつの身になります
チルチルはダイヤモンドを廻します
あなたの内部のボタンをちよつと押して
もう一度その蜜柑をよく見て下さい


 学生時代の教科書以来か、かれの詩集を本屋でふと手にとってみて、その詩にうたれた。僕には解説する能力もないが、あるいはこの詩にかいてあることが言いたかったのかもしれない。
 そして、もう一つ小学校の教科書にもあるかもしれない有名な詩。今、改めて読んで涙あふれてきた。


 道程 
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


disciples at 00:00コメント(26)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by 平田玄琢   2022年09月14日 10:14
まるで哲学者の文章を読んでいるような錯覚に陥りました。私なりに整理すると、
‖清坊を通じて自分の力ではどうしようもないところまで苦しんだ。
⊆分の好きな様にできないものを知った。
自我では無いものに真実を得た。
い修譴蓮∀族里篁蹐防修気譴討い觴然や純粋なものに近いものであった。
ァ崙残」という詩の「この遠い道程のため」と決意が表される。
私は、深読みが出来ないのと、具体的な事例等が分からないため、このようなことではないかなと思いました。

私の場合、頭で色々と考えると心と身体が病みそうになるので、単純に物事を想うことにしています。
太極拳では、勘違い→是正。また勘違い→是正。大きな勘違い→昔から伝来の方法をやり込む、です。
 
2. Posted by 平田玄琢   2022年09月14日 10:19
平安時代の古今和歌集仮名序の一部分には、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれとおもはせ、男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心をなぐさむるはうたなり」と書かれています。

また、現代の文章で私が涙したものを紹介します。

『小倉から博多へむかう新幹線のデッキの窓から田圃で藁を焼いている一条の煙が立ち上がるのを見た。
山へむかう傾斜地へ棚田が連なり、鎮守の森だろうか、木陰から祠が覗く小山が晩秋の陽差しにかがやいている。
狭い土地に何百年もかけて耕地をひろげ、神を祀り、土地とともに生きてきた、この国の人たちが築き上げた田圃の美しさには尊厳すら感じてしまう。
いったいどれほどの汗が流され、失望がくり返されて来たのだろうか。それでも先祖たちは土を耕し、祈りを続け、この国を美しい国土にした。
これは農耕者に限らず、山や海で生きて来た日本人も同じことなのだろう。
この一ヶ月間、旅が続き、日本各地を見る機会になった。
いろんな街に、日本人が継承したものが風景の中に残っている。
ー 日本人は、いやこの国の先祖はたいした人たちであったのだろう。』作家 伊集院静氏
 
3. Posted by 西川敦玄   2022年09月14日 20:50
平田玄琢様
概ね、ブログコメントしていただいたことで、気持ちを理解していただけていることと思います。人生の先輩として、コメントいただきありがとうございます。
玄琢様のおっしゃるとおり、当たり前の日常を精一杯に当事者として生き抜くことを大切にしたいのだと思っています。ブログ記事は難しいというより、素直な心情を表して書きました。青臭く、読みにくいかもしれませんが、私は大事なことではないかと思っています。

紹介してくださった文章素敵ですね。私も、祖先につらなり生きる者として、まさに当事者として必死に生きて行きたいと思います。
 
4. Posted by 松久宗玄   2022年09月14日 23:11
>そこで生きる事は創造性に満ちあふれている
「そこ」のイメージとして、私の場合は、複雑系の「カオスの縁」が思い起こされました。
生命の進化然り、新しい何かは、混沌と秩序の境界で発生するという仮説ですね。

静的に定まった秩序だけではなく、乱雑さの極まった無秩序だけでもない、
多数の要素の相剋相性の相互作用の果てに、何かが生じうるという理論は、
太極拳を学ぶ身としては、直観と響き合う納得感がありました。

ブログのコメント然り、秩序側(良い子)に偏ってしまっているのであれば、
それは変化、成長できない状態かもしれないと、自分を疑うべきですね。

師父が仰っていた「非習慣化が鍵だ」
という言葉を掘り下げて、実践する事が必用だと思いました。
(しまった、また反省と決意の弁を述べてしまいました・・・自分のスタイルを変えることはまことに難しい・・・)
 
5. Posted by 西川敦玄   2022年09月15日 12:42
松久宗玄様
コメントありがとうございます。宗玄さんのコメントは、相変わらず難解ですね(^_^)。
コメント内容は言葉がむずかしくて、よく分からないのですが、私はもっと単純に思っています。
私の言った、「そこ」とは、日常的にありふれている場所であって、
そうですね。
例えば、野原で気持ちの良い日差しの中で横になっていると、顔の横の蕾が、ふっと開く瞬間を一緒に体感している様な。
雪がしんしんと降っている中、無心で雪かきしている間にも、雪がつもっていっているような。
というような感じです。
特別なことでな無くて、言葉をひねり回すようなことでもない・・・と思っています。
そして、反省決意の弁が悪いと思っているわけではありませんよ。実際なにを反省しているのかと、それを知れたら良いなと思う程度です。
 
6. Posted by 阿部 玄明   2022年09月15日 23:14
沢山悩んだ末に何かが見えてくる時、
悩んだ分だけその有り難さや感動は一層輝きを増して来ますよね。

言ってみれば
国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。
でしょうか?

自我にまかせて好き勝手に物事をいじり倒すのは子供のやること (=すなわち緊張での操作)。自我を制し、自然から学び自然と一体化できるのは大人ならではの成熟(=放鬆によって導かれる順体、自然体)。
自然に触れあいながらキャンプをやっている最中の人は緊張なんか生じません。
反対に、緊張は人工的な環境や自我から生じて来るように思えます。

音楽、詩歌、絵などは自然そのものを体現します。稽古で動きが硬いときに、「頭の中に音楽が流れているか?」と良く問われます。
放鬆を見失いそうなときには芸術が放つ自然体のリズムを思い出すよう心掛けます。
 
7. Posted by 西川敦玄   2022年09月16日 12:07
阿部玄明様
ブログ記事にしましたが、私まだ、悩み真っ只中です。その中で生きる術をみつけた・・といったところでしょうか。
まだ、私が若い頃20才代のころ、山の上の師父宅で、誰のどんな曲が好きかという話になったことがありました。
たしか、師父はエルビス・プレスリーの「明日に架ける愛」が好きだと言われました。一方私はというと、同じ曲のサイモン&ガーファンクルのものが好きだと話しました。(どちらが先に言ったかは覚えていません。) 師父は、それについては、それも良いと言われ、でもねエルビスは涙を流しながら歌うんだ。といわれました。俺はエルビスの歌が好きなんだと。
言いたいことがよく分からなくなってきましたが、師父はキレイなハーモニーもさることながら情熱を好まれたのだったかなということを思い出しました。
我々は、科学的であると同時に、情熱の火を忘れてはならないのだと思います。
コメントをみてそんなことを思い出しました。
 
8. Posted by 川島玄峰   2022年09月16日 21:20
規則や道理を理解する事は、自我に気づき知ることから始まるのかもしれません。自我に気づくことで己の取り巻く環境が見られるようになり、今の力量が勘違いであったと知らされます。
私はこの太極拳を習うようになり以前には考えもしなかった捉え方や行動が取れている事に気付かされる事があります。
それは悩んだり反省しながら稽古する事により己に訂正が起こり調整された結果なのではと思います。

規則や道理の中で凝り固まった自我を自由に動かせ、いつかは太極拳を奏でるようになりたいと思います。
今回のブログでは、太極拳への思いと情熱が凄く伝わりました。
私も悩みながら楽しく稽古をしています。
ありがとうございました。
 
9. Posted by マルコビッチ   2022年09月16日 21:33
私は、涙あふれている敦玄さんを感じ、涙があふれてきました。
内省すればするほど自我と直面し苦しい日々が’続く。
その中では音楽も流れないし、詩も生まれない。
でもその辛い苦しい時があったからこそ、ポンとそこから離れ、自我でないところに目を向けることができたのだと思います。

あの頃、自分のエゴをどうすることも出来ず、どうしていいかもわからずただ苦しかった時。
小谷の蔵の横で出会った椿を見た瞬間に生まれた俳句です。

 静けさにただ待つ花のつぼみかな

今でもあのつぼみと一つになったような感覚を覚えています。
そして一度だけ、師父が「すごい!これは誰の句?いいじゃない!」って言ってくださったので、ずっと気に入っています。
混沌とした日々だったけど、振り返ると濃密で暖かく感じるのは真剣に生きていたからかもしれません。
今ではすっかり落ち着いてしまい、俳句もメロディも出てきません(笑)
しかし、ずっと葛藤は続いています。
大切な何かを思い出させていただいた記事でした。
ありがとうございました。
 
10. Posted by 西川敦玄   2022年09月16日 22:27
川島玄峰様
コメントいただきありがとうございます。恥ずかしいことながら、思いを吐露した記事にいささかでも、情熱を感じていただいたことは嬉しく思いました。玄峰さんは、遠く札幌で責任をもって指導されていることを宗師より聞いており、その苦労に頭が下がる気持ちでいます。自我だのえらそうに記事になっていますが、その実泥臭く稽古することに目覚めただけだと思っています。この記事を書く前後頃か少し前からだったか、その頃から私は泥臭くないようにすればするほど、悩み、ぬかるみにはまり、石に躓くような気がしています。その意味では、必死に稽古に取り組まれている方は誰でも、一歩一歩先に進まれてるんだなと、私はかなり遠回りをしたなと思っています。一緒に稽古できる日がくるのを楽しみにしています。
 
11. Posted by ハイネケン   2022年09月16日 22:41
門人の皆様のブログは確かに同じ星空であろう事が感じられます。

そして同じ稽古を見、実践しようとしているのに、こうも個々違う目で見つめ、異なる感性を持っているのだと驚かされる事が多いです。

そして皆さんが楽しんでいる事も、苦しんでいるであろう事も、どちらも同じ様な匂いがしてきます。

詩を読ませて頂いたので先日の稽古で、感じる事を広げてみようという気持ちで望んでみました。

するといつもの「ここが緊張しているな」「ここが動いてるのかな?」と自分との対話(不要な自我?)が多すぎて、心の向くまま、感覚の向くままに感じる事ができず、自分の思考が邪魔をし、自分の状況が見えていないまま稽古が終了しました。

そんな中、たまたま今日仕事中に立ち寄ったホテルのロビーでピアノ演奏があったので、20分だけ聴いてみようと足を止めました。

シティホテルの大きくはないロビーですが4階までの吹き抜け。演奏が始まり「知らない曲だ」とか「クラシカルな曲調からジャズ調に変化した」とか、自分の雑念のうるさい事に驚きました。全然曲を楽しんでおらず、聴いてはいないのです。

立ち去る時間が近づき雑念が薄らぎ、少しだけ純粋にピアノの音楽に乗れたような気がした頃、ようやく無駄な反響音のない素直な音のロビーだなと思いました。

紹介して頂いた詩を、一語一句を区切って理解しようとするとなぜか感想の言葉に詰まりました。しかし詩全体を読むと詩の示している世界は鮮やかで、旬を切り取った様な時間の流れと変化の美しさを感じます。
世界の広げ方はまだまだ沢山あるのですね。

敦玄様 ありがとうございました。
 
12. Posted by ユキ   2022年09月16日 22:42
真の芸術とは、自分を挟む必要がなくなった時に生じるのかもしれないと思いました。
たとえば仏師なら、自分の彫りたい仏を彫るのではなく、そこに現れた仏を彫る。…彫らされるともいうのでしょうか。
絵も音楽も、詩や俳句さえも、そのようにして生まれたものはどこか一味も二味も違うように感じます。
私は、太極拳も同じであると思います。
法則を体現する自分ではなく、法則になってしまう自分。そこが、太極拳を含め、芸術や芸事が人間修養の道になり得るカギのような気がします。
 
13. Posted by 西川敦玄   2022年09月16日 22:56
マルコビッチ様
遠い日、小谷の山の上での経験は、私の原点となっています。夏と冬には、今回コメントされた蔵で過ごさせていただきました。
詠まれた俳句、とっても良い句ですね。マルコビッチ様が椿に目をやる様が想像されます。その頃、まだ私は若く、マルコビッチ様の心情や悩みに思いをはせることなど、あろうはずも有りませんでした。今にして思えば、山の上で、あの場にいる人達が普通に問題なく日常をやり過ごすことのできる人だとはとても思えません。

当門の太極拳はその師父の伝えられたものです。真剣に行わず、自分勝手に行おうとすると行き詰まり、続けていくのが苦しくなるのではないかと思います。
私は、なにが自我かどうかは二の次、まずは青臭く、泥臭くとも心のそこから、色々なことに向き合うことができるようにしていきたいと思います。
 
14. Posted by 西川敦玄   2022年09月16日 23:40
ハイネケン様
ありがとうございました。まずは驚きました。私の記事で、実際に行動を変えてしまう。そんなことが起きてしまうことを、とっても新鮮に思いました。とくに、今回の記事には、テクニカルなことや、科学的な思考法などまったく触れていないと思います。(悪く言えば、三文的な感情垂れ流し記事でもあります。) 
にも関わらず、稽古時間でもないのに、ハイネケン様の一日の少なくとも20分の行動を変化させてしまったことに、びっくりしました。と同時に仲間なんだと心から思うことが出来ました。
師父が言われたことは、私たちの日常に変化をもたらします。それこそ、真剣に捉えると四六時中の変化を強いられることとなります。師弟関係とはそのようなものなのだと思えました。
また、お互い稽古頑張りましょう。
 
15. Posted by 西川敦玄   2022年09月16日 23:54
ユキ様
コメントありがとうございます。私は彫刻などしないので分かりませんが、私が想像するに仏師は必死に、師のまねをしたりしながら、自分の理想の仏像を彫る意気込みで刻んで行くのではないかと思います。その中で、師や、そもそも対峙する木にぶち当たる。どうしようもないところまで悩みながら、ぶち当たり続けるのではないかと思います。私が思うに、最初から彫らされることを目標にして彫っていくわけではないのではないかと、少なくとも自分の太極拳への取り組みからは思います。それは、達人の至った境地なのでしょうが、境地を今体現することに取り組んでいては、凡人には到底理解できないのではと思います。ユキ様のいわれるように、法則となってしまう自分が、いつの日か存在できるように、法則と格闘し、打ちのめされる稽古を、そして日々を過ごしていきたいと思います。
 
16. Posted by 太郎冠者   2022年09月17日 00:19
稽古をしていて一番苦しいと感じる時は、単純に身体的に辛いときよりも、心が負けそうになってしまっている時だと感じます。

そういう時は物事の歯車が全くかみ合っていないようにも感じられ、何をしても上手くいかないのではないか、という不安が心をよぎります。

そんな時、師父に教えていただいた、
「逃げない、晴れ晴れと立ち向かう」という言葉が、負けそうになる自分の心を強く鼓舞してくれます。
逃げてやめてしまえば、一時はそれで楽になるかもしれませんが、最終的に逃げた現実が自分の中に重くのしかかる気がします。
だからこそ、逃げずに正々堂々と立ち向かいたいです。
師父はずっとそうやってこられたのだと、私に話してくださったことがあります。
だから、自分もそれに倣って、負けずに立ち向かっていきたいのです。
なんだか、感情的なコメントになってしまいました。
 
17. Posted by 川山継玄   2022年09月17日 15:13
敦玄師兄の体験に基づく記事と、そこから広がる皆さんのコメント。
そして、スピーディーでライブ感あふれるコメントバックに、自己の枠が取っ払われ、視界がパーンと広がるような錯覚に襲われます。

先週、長女の合唱のコンクールを応援に行きました。50人所帯の各県の優秀校が名を連ねる中、娘の高校は14人。どうなる事かと不安に駆られながら子供達を見守りました。
練習の際、指揮をとる先生は微妙に数名の生徒の位置を修正し、タクトを振り始めました。
するとどうでしょう。透明感・躍動感あふれる、転がるような、演劇やミュージカルを見ているような、ステージと観客席が一体化するような、スリルあふれる美しい歌声がホール一杯に広がりました。とてもとても感動しました。
音楽そのものになった先生の指揮に生徒達は自我を挟む隙も無かったのだと敦玄師兄の記事を読んで、思い至りました。
結果は…常連校が全国大会にコマを進めました。とても上手で非の打ち所の無い合唱でしたが、
「うまいんだけど…。感動がないね。」
と夫と顔を見合わせ、第一声。
全く素人の私達ですが、感動が伝わってこない。
「上手じゃなくていいんだよ。」
という師父のお言葉を感じ取れた気がしました。
近頃稽古がとても新鮮で、変化に富んだものと感じられます。
毎回、喜びと感動一杯に稽古される敦玄師兄も、日々努力されて、苦しまれて、今があるのだと感銘を受けました。
あまり意味が受け取れず、敬遠していた歌や詩ですが、敦玄師兄にご紹介いただいたおかげで、もっと触れてみたくなりました。
自分の枠を超えたものに沢山触れて、しなやかに生きたいと思います。
ありがとうございます。
 
18. Posted by マガサス   2022年09月17日 19:46
敦玄さんの一途さと誠実さが伝わってきて、胸が熱くなりました
「敦玄さん、変わられたな」と感じたのは、悩み、苦しみ、そこから逃げ出すことなく、きちんと関わってこられたからなのだと、分かりました

ブログに参加させて頂き、先輩方の体験や思い、稽古や人生への向かい方など、いろいろなお話を聞かせて頂き、本当に有り難いと思います
一人で考えて視野が狭くなり、独りよがりで暴走するタイプの自分なので(汗)、様々な視点から物事を見させて頂けることや、皆さんの思いを感じようとする事で得られる自分自身の心の動きなど、とても貴重な体験をさせて頂いています
自分はまだまだ未熟ですが、敦玄さんの記事を読ませて頂き、自分と向かい合い、人を思いやり、感謝の気持ちを忘れずに精進して行きたいと改めて思いました
ありがとうございました
 
19. Posted by 西川敦玄   2022年09月17日 20:41
太郎冠者様
ありがとうございます。そうですね。
師父は「晴れ晴れと立ち向かう」ことを、伝えてくれていました。
太郎冠者様のいうとおり、力をふりしぼり立ち向かって行きたいとだれしも思うところではないでしょうか。
ただ、力が振りしぼれない事も人生を過ごす間にはあるかもしれません。
また、自分が逃げていることに気付かない時もあるかも知れません。
そんなときの立ち向かい方について、思いをはせることがあります。

また、自分のおかれている環境が逃げることが容易にできる環境、といった場合もあり得ることかもしれません。
真摯に向き合わなくても、周りが逃げることを容認して、是認してくれるような。
否応なく逃げられない環境に落ちていくのも、縁かもしれませんし、自由を希求していくと、そのような場所に陥るのかもしれません。なんてことをコメントを見ながら思いました。
 
20. Posted by 西川敦玄   2022年09月17日 20:57
川山継玄様
お子様の合唱コンクールの応援の経験は良いですよね。私の長女も小学校の時には合唱部に在籍していました。その学校は、長女の時にはかなわなかったのですが、全国大会に良く選ばれている学校でした。私は機会なく、観賞など出来ませんでしたが、ディズニーオンアイスが地元に来たときには、彼らがバックのコーラスに御願いされたことで、鑑賞できたのを思い出しました。子ども達は、必死に先生を信じて声を出しています。普段の練習から決して甘いことはなく、(先生たちにとって、かも知れませんが、時間が限られている中、活動のレベルを落とさないため)必死で作り上げられていくことは確かにあるのだと思います。特に学生の活動は、行く川の流れのように、同じ川にあらずです。それを続けていくことは我々の稽古とは、ある意味違った意味でも、尋常でない事ではないかと思っています。その時の指導などを聞くに付け、上手さを求めることよりも、厳しいところを求められていることが印象に残っています。
それはそうと、我々とは違った意味と書いてしまいましたが、よく考えれば、多くの人々を介した、行く川の流れを私たちも形成しているはずです。数年単位で入れ替わる学生の活動の厳しさに学び、ある意味同じことを求められていることを肝に銘じたいと思いました。
 
21. Posted by 西川敦玄   2022年09月17日 21:27
マガサス様
コメントありがとうございます。私は何度も逃げ出しています。そして、これからも逃げることはあると思います。ただ、逃げ出したところで、太極拳に、師父に・・・気がついたら、逃げ出したその先には、太極拳が待ち構えているのです。真摯に向き合うなんて(書いた記事と矛盾しているかも知れませんが)、かっこ良いものでは、私の場合有りません。死ぬまで未熟なんだと、心底思っています。凡人にはその環境の中でしか見えてこない物事があるのだと思いました。未熟でどうしようもない中にいて、同時に抜き差しならない中、静かで、それでいて流れている・・・。
道場に身を置くとは、そういうこともあるのではと思います。
 
22. Posted by 清水龍玄   2022年09月17日 23:12
「太極拳の練功をしていくのは難しい」これはとても思います。
そして、太極拳の練功が何を指示しているのか理解していくのが難しいと思います。
練功の意味を噛み砕き、詳細に、分かりやすく教えて頂いても、その意図することをどれ程理解できているのか。
敦玄師兄の書かれた、「芸術は、その場所でこそ花開く。音楽もそこに流れている。料理もそこでされるのだ。自我が入り込む余地がないのではないのだ。そもそも関わりが無い場所なのだ。いや、自我は関わってはいるか。勿論お互いに影響はされるだろう。しかし、芸術が花開く土壌は自我という土壌ではない。」
この言葉は、まさに練功に対してどのように向かい、その結果、理解が生じるかという事に直結しているのではないかと思いました。
太極拳に必要なのは、芸術のセンスなのではなく、芸術を味わい、感じとり、理解していく事のできるアンテナとそれを肥やしていく事が大切なのではないかと思えてきます。
 
23. Posted by ふにゃ   2022年09月17日 23:58
私が今持っている唯一の詩集は、金子みすゞですが、ほんわかとした詩が多い印象のみすゞさんもその人生はとても壮絶なものだったようです。
また、最近よく聴いているピアノ曲、ジムノペディも、心安らぐ音楽かと思えば楽譜には「ゆったりと苦しみをもって」と指示があります。
詩や芸術は苦しみの中から生まれてくるものなのでしょうか。
この度の敦玄さんの記事も、その全体がまるで詩のように感じられ、心がぎゅっとなり、最初に読んだときは、今の私にはとても言葉にしてコメントなどできないと思いました。
何度も読み返し、ご紹介いただいた詩「手紙に添へて」を読んでいる時、“美”という一文字に目が留まりました。
私が何に魅かれてここにいるのかを思い出し、はっとしました。
ここ何年も、美しいものを敢えて避けていたような気がします。近づくと自分の汚れが見えるようで。近づかなくても汚れてることには変わりないのに。
これが自我というものでしょうか。
今朝たまたま目にした、エベレストに二度目の登頂を果たした登山家の方の言葉
「山はずっとそこにいて変わらないのに、自身が置かれている肉体的・精神的な状況によって変化し続ける」
何か通じるものを感じました。

コメント遅くなり、申し訳ありません。
貴重な体験をお聞かせいただき、ありがとうございました。
 
24. Posted by 西川敦玄   2022年09月18日 10:00
ふにゃ様
コメントから、気持ちがたくさん伝わってきました。ありがとうございました。わたしなどより、よほど豊かな体験をされているようです。
ふにゃ様のいわれるように、私たちは、当道場に今回やりとりしたような、言葉に上手にできない場があるために、離れることなく、引きつけられているのだと思います。
登山家のかたの言葉は良いですね。日々刻々と身体や心は変化しています。同じ山を登るという行為も、毎回が異なる体験となるのだと思います。
私は毎回稽古にでられませんが、一緒に稽古出来ることを楽しみにしています。
 
25. Posted by 西川敦玄   2022年09月18日 10:05
清水龍玄様
そうですね。やってもいないのに、理解はできません。まずは、言われたことをやってみる中で、悩み、壁にあたり、壁に当たったことをごまかさず、誠実に打ちのめされることから始まるのだと思います。
コメントを拝見すると、私の記事の主題が練功に向かい合うことに、龍玄さんの中で転換されているようです。
今回の記事の内容は日々の練功へだけの向かい合いかたではないつもりでした。恥ずかしながら、もっと、根源的な体験を記事にしたつもりでした。龍玄様のいう芸術を味わい、理解するアンテナと肥やしをどうするのか、どうしていたのか?そのあたりのことが、こちらに伝わると嬉しいです。
芸術の事に記事でふれたせいか、今回のコメントを拝見すると、音楽を聴くために普段の時間を少し変更して聞いた、とか、子供の合唱の応援で私はこんな体験をした、私はこんな詩が好きだとか。こんな言葉をきいたよ。この文章を読んで感動しているのだ。など皆様実体験に基づく様々なことを表現されています。本当にすばらしい、仲間たちだと本当に思いました。
 
26. Posted by 西川敦玄   2022年09月24日 23:28
皆さま
コメントありがとうございました。今回は、コメントを確認した時に、コメントバックを自分の中で時間をおかずに行いたい欲求が生まれたため、それに従いました。結果的に、ライブ感あるやりとりとのコメントもいただきました。そのような効果は意図したものではありませんでしたが、皆さまとやりとりしている間には思いがけない発想が生まれたりして自分の中での生じてくるものを、楽しむことができました。ここ数日、しばらく祭りの後の余韻のようなものを感じていましたが、次の記事もきっとじきにあがると思います。また新しく日々を過ごしていきたいと思います。今回の皆様とのやりとりは私の中で、表現しにくいですが糧となった気がします。また、同様にいくばくかの爪痕が皆様の中に生じるような事があれば嬉しいです。

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