2022年09月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その63

  『稽古への向かい方、整えるということ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年のお盆は、太極武藝館では珍しく(?)、道場での稽古がお休みとなりました。
 私は仕事柄、世間がお休みの日には逆に仕事が忙しくなるので、ほとんど普段と変わらない生活を過ごすことになる・・・かと思いきや、です。
 「道場で過ごす時間よりも、日常の時間のほうが長い」とはよく言われていますが、いざ実際に道場に通わない期間が数日設けられてみると、道場に行かないと時間が思ったよりも長く感じるものだな、となりました。
 稽古がない、やった〜! と遊び呆けることになるかというとそんなこともなくて、いつも体を動かしている時間に何もしていないと、逆に落ち着かずそわそわとしてきて、何かしたくなってくるのは、もはや身に付いた性分となってしまっているのかもしれません。

 せっかくの稽古がない時間を有意義に使う、ではないですが、改めて自分自身の生活を振り返ってみることにしました。
 私は現在、週に5日間道場での稽古に通っています。仕事があってどうしても間に合わない日は遅刻、ないしは欠席させていただいていますが、平日の一般クラスには、仕事を終えて即帰宅、急いで準備をすることでなんとか時間通りに参加させていただいています。
 仕事を終えてから慌てて飛び出していく必要がないというだけで、かなり精神的な余裕を感じられるものです。ところが、その余裕があるというのは、実はいい面だけではないのかもしれません。
 道場という場所と時間が定められた環境があれば、当然その時には稽古するしかないのですが、自分で好きなようにあれもできるこれもできるという状態になると、人は意外と、するべきことをするのが億劫になるという面があるのではないかと思います。
 夏休みの宿題を一向に片づけられない子供と同じように・・・(自分はそういうタイプでした)。

 なので今回のお盆休みの期間、自分がどのように自分の稽古に向き合うのか、少し見つめてみることにしました。
 自分で稽古をするということは、稽古時間も、するべき内容も自分で判断していかなければなりません。ただ漫然と、柔功、基本功、套路・・・とメニューをこなすように行っていっても時間は経つものの、身に付くことは少ないと思いますし、それが自分と本当に向き合っているとは言い難いのではないかと思います。
 自分の状態をしっかりと把握し、正しい稽古を行う。そうすることで初めて、自分の課題としっかり向き合うことになり、解決へと進んでいけるのではないかと思います。
 道場で指導していただくとき、自分のわからないことが自分ではっきりしていないのでは、何を解決していったらいいかも分からないことになります。ましてやその状態では、自分一人で稽古を行ってくることなど到底不可能ではないでしょうか。
 夏休みの子供のように、宿題を与えられるのを待つのではなく(ましてやそれが出来ないのでは論外です)、自分で課題を見出し、それに取り組めるのが、大人のやり方ではないかと思います。

 そして、自分で課題を見つけ、それにじっくりと向かい合うことで、今回のお盆休みの期間中、私は「寝ても覚めても太極拳」という状態になっておりました。
 生活の地続きとして稽古をする中で、起きてる間中「ああでもない、こうでもない」と太極拳に頭を支配されることとなり(仕事? もちろんしっかりやりましたよ)、結果的に寝ている間中もずっと太極拳のことを考えてたようでした。睡眠から目が覚めた瞬間、まず「立ち方が・・・こうで・・・いや基本が・・・」と夢の世界から続いてきていたのは、その証拠ではないでしょうか。
 頭の中が太極拳で支配されるのは、自分としてはすごくハッピーな状態で、とても楽しいものです。まさに何かにハマっている状態といえるのではないかと思います。
 太極拳をやるのに、何も特別な道具は必要なく、自分さえ居れば、すぐにでも稽古に取り組めます。四六時中熱中できるものがあること、それに制限なく取り組めること。これほど幸せなことはありません。

 そして、連休が明けました。最初の稽古で、玄花宗師が、「整えること」についてお話をしてくださいました。お話を聞いて、太極拳における自分の整え方と、それ以外の整え方に共通点があるのならば、普段の自分の行動を見つめなおすことは、そっくりそのまま太極拳の稽古へと繋がって生きてくることになるのだと、改めて感じました。
 今回の連休中、「道場での稽古」と「自分での稽古」を無意識のうちに分けてしまっていた自分に、改めて気づくことができました。それはたとえ薄く小さな壁だったとしても、壁であることに変わりはありません。あるいは、足元にあった小さな段差、くらいのものだったのかもしれません。
 ただ、小さな段差は油断すると足に引っ掛かり、つまずくことになります。それがあるとないとでは、雲泥の差です。
 思えば学生の頃から、「学校での自分」と「家庭での自分」をきっちり線を引いておきたいという面が自分の中にありました。道場に「通う」という日々の中で、そのような面が知らず知らずに顔をもたげていたのかもしれません。
 太極武藝館で過ごす時間は、自分の家族と過ごす時間よりも濃厚で、本当の自分をさらけ出しているかもしれません。玄花宗師には隠し事など通用しないのですから、線を引いても無駄なことだとあきらめる他ありません(笑)。冗談はさておき、自分自身を隠すことなく、ひとつのありのままの姿で取り組まないことには、太極拳の上達など見込めないというのが本当のところではないかと思います。・・・もちろん、親しき仲にも礼儀ありで、武藝館では世間一般の他所よりもそれが徹底されています。そしてそれがあるからこそ、仲間と過ごす時間が非常に心地よいと感じられるのではないでしょうか。

 連休中に行った、自分の稽古の取り組み方を見つめなおすということは、言い換えれば自分の時間の使い方を見つめなおすことであり、それは「整え方」の一つの面を表しているのではないかと、玄花宗師の話を聞きながら感じたものでした。物事というのは、思ってもみないところで繋がっているものです。
 そしてまた、そこで現れた結果も思ってもみなかったことであり、それによって自分はより、稽古に熱中する喜びと楽しみを感じられたのでした。
 散らかった物事を整えていくと、そこにそれまでは見いだせなかった法則性が現れてきます。今回の連休中に自分が取り組んでいたことは、連休明けの宗師のお話があって初めて本当の意味で整頓され、自分の中にしっかりと収納されたように感じました。

 ただ、それで良かった、おしまいおしまい、とならないのが物事の常です。
 私が今まさにキーボードを叩いている自室には、文字通り片づけねばならない課題が山積みとなっております。
 玄花宗師が話してくださった「整える」というお話は、文字通り、「整理整頓」の話でもありました。整理整頓が出来ないのなら、自分の整え方も推して知るべし、と。
 振り返って部屋を見回してみると・・・山積みの本も色々な道具も武器類もわりとまとめて置いてあるから、意外と綺麗に見えるかも・・・? なんて幻想を打ち砕いてくれるような、惨状が目の前に広がります。

 もしかしたら連休中に一番最初に取り組むべき課題は、本当はこうして目の前にあったのかもしれません(遠い目・・・)。
                               (了)




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disciples at 20:35コメント(29)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2022年09月03日 16:03
随所主作 立処皆真 (臨済録)
という言葉があります。私の好きな言葉です。

振り返って自分を見て、今現在の自分をみて、
自己の足で立っているか・・・・。
これは、中々に厳しい問いかけです。
そして、その立ち位置がいかに惨めであろうとも、それを偽りとしていないだろうか。
自分の足でたっていれば、その惨めさが真に迫ってくることとなります。

稽古とは
どのようなメニューでやろうと、どうあろうと、
ただ、ひたすらに自己の足でたちつづけることだと思います。
そして、惨めな状況も引き受けながら、押しつぶされても、泣きながらも、
立ち続ける。
そういうことだと思います。

今回の投稿を機にあらためて、日々を振り返ることが出来ました。
ありがとうございました。
 
2. Posted by 阿部 玄明   2022年09月04日 09:03
太郎冠者様

今回の記事は自分にとって苦手な整理整頓のテーマであり、興味深く読ませて頂きました。
整えることは苦心しながらも継続して取り組んでいるところです。
仮に、今回の記事を昔の自分が読んだらどう思ったか?
部屋の掃除と稽古に関係が無いと思ったはずです。
しかし、今では理解が変わってきました。
部屋の状態は自分自身の状態を映し出している鏡のようなものだと見ています。
部屋がごちゃごちゃしていれば自分の体調や心が乱れているし
不用品が多ければ自分がガラクタを抱えていると。
部屋を整えるということをはいくつか恩恵がありました。

・必要な物がすぐ見つかるようになる。
・部屋の中が綺麗になって快適に過ごせる。
・なにか普段と違う異常(空き巣が入ってきたなどの)があっても気が付くようになる。

さらに一歩進んで "整えることを習慣化する" と

・いろいろなことが気になってくる。
(なんでこれがここに置いてなくちゃいけないんだろうか?もっといい配置がある気がする・・・とか)
(無造作にどこでもモノを置かなくなる・・自分の習慣を気にするようになる)
・何かを購入する前にいったん立ち止まって「それ本当に要る?」って自問自答するようになる。
(自の行動に疑問を持つようになる)
・思考がクリアになる。
 
3. Posted by 阿部 玄明   2022年09月04日 09:04
上記によって自分のメモリが徐々に精密になってきてるように思います。
それは部屋だけでなく稽古の取り組みも一緒に変化してきます。
なんでこんな種類の稽古が存在するんだろう?、なんで自分はこんな癖があるんだろう?
こんな架式でいいんだろうか?と気になってくるのです。
モノごとの上達の秘訣はそれに対して興味を持つことだといわれますが
”自分自身がものごとに興味がわいてくるような(エネルギーの)状態に整える”ことが肝要です。
部屋を整理することでそのエネルギーが増え、乱雑にしているとエネルギーが下がってくる気がするのです。
まるで風水ですが物理でいうところのエントロピーの法則でもあります。
そういう法則がわかると整理整頓もやりがいが出て、楽しさも出てきました。
稽古には終わりがないが部屋の掃除や整理も終わりはありません。
しかし、やればやっただけの変化と収穫があります。
きちんとすることが生活も稽古も質が上がってくるので両方大事に扱っていきたいと思います。
 
4. Posted by 松久宗玄   2022年09月04日 11:06
稽古と日常の自分が分かれたものになっている・・・
あまつさえ、日常の方が稽古に延長されてしまうことも多分にあり、
その前提であるが故に、稽古の成果も延長されてしまう悪循環が認められます(自分ごとです)。

太極拳は芸事ですから、芸術的な感性をもって関わらないと成果を得る事は難しいと思います。
日常とは、概ねにおいてシーン毎に自身の役割が決まっており、その役を演じるべく芸術とは関係ない仮面を被って生活しています。
(その役を上手くこなせない人は空気が読めない人になってしまいますし・・・)
その仮面に気付けよとの事で、師父からは自分を見ろ、とひたすらご指導を頂きましたし、日常を芸術に近づける方法論として、日常を整える事の重要性を説かれたのだと思います。

日常との付き合い方は不断の見直しが必用ですね。
 
5. Posted by 川山継玄   2022年09月04日 11:20
太郎冠者さん
自分を徹底的に見つめた記事、とても勉強になります。ありがとうございます。
私は、掃除や整理整頓が好きなのですが、では、本当に整理整頓ができているか、というと?????です。
仕訳と分類までは何とか出来ているかな?と思ったのですが、なんのなんの。
一番最初の意識の在りようが、そもそも太極拳的ではない。と省みました。
書類一つとってみると、「それをまず集中してきちんと要点を把握する」のではなく、さらっと目を通して「とりあえず、`再度目を通すコーナー`へ。あとでしっかり読んでスケジュールに取り込もう」と書類コーナーが膨れていきます。
この「とりあえず」と「あとで」の何と多いことか!!
「とりあえず」かかわったことは、頭の隅には引っかかっていても、期限過ぎて思い出してお詫びの連絡を入れ、「あとで」と思っていた事は手つかずでほこりをかぶったまま…。ということが山程です。備えも、危機の察知もあったものではありません。
この姿勢は、家族との関わり・周りの方々との関わり・家事・仕事・生活そのもの全てに貫かれています。生活が武術的ではありません。それ故に稽古では、違いに気付けず、その場で修正・躍動的に変化ができない、のだと思います。

また、時間管理が苦手な要素として、大きくそれが関わっていると感じます。
「やらなきゃ。間に合わなくなる。」という焦りと、「まあ後でしっかり腰を据えてやろう。」というストッパーが同時進行して、物事はもつれ、前に機能的に進めません。
今後、快適に物事に取り組める心身の整備に心掛け、最初にぐっと集中して関り、取り組んでいこうと思います。
周りを見渡した時、それらが活き活きと機能しているような環境を思い描いて、そして、それらとの循環の中で稽古している自分を目指したいです。
それにはやはり、自分自身を見つめ続ける重要性に立ち返ります。
 
6. Posted by 川島玄峰   2022年09月04日 14:10
今でも忘れられない事は、本部道場で持物の置き方を指摘され整え方を教えて頂いた事でした。持物を置く事一つでも普段の行いが現れ、いかに無防備であり自分勝手な行動であったことかと恥ずかしく思いました。その時から自分は分かっていない事が沢山あるのではと不安を覚える一方、その指摘は色々自分自身に目を向けるようになり意識が少しずつ変わり、日常の取り組み方を考えるきっかけとなりました。
理解しているつもりでも行動が出来ていないという事は、自分の常識の行動でありそれ以外の常識を全く分かっていないという事です。稽古も頭では理解しているけど出来ないという現象も同じに思います。
何故そのような現象になるのかは、普段の行動や生活が知らないうちに偏りを生じ、都合の良い思い込みの行動や考え方で自己中心的な傾向になるためであるように思います。
今回の記事では私にとって大事な点を思い起こさせて頂きました。目に見えてない、知らないうちに偏りを起こした行動を整理整頓により正しく整えて行こうと思います。
ありがとうございました。
 
7. Posted by マルコビッチ   2022年09月04日 15:55
今回の太郎冠者さんの記事を読ませていただき、いつもはスッと入ってくるのですが、今回はなかなか入ってこず、読みながら整理させていただきました。
そしていくつかの疑問点が出てきました。

○自分で課題を見つけるとは、まったく新しく課題を見つけようとしたのか、今まで漠然と課題となっていることをはっきり認識しようとしたのか?

○お盆休みもお仕事はされていたようですが、普段週5日稽古に行っている毎日よりも、稽古がお休みになった日々の方が四六時中頭の中が太極拳でいっぱいだったとは、その違いは何なのでしょうか?  そういう頭の中が太極拳で支配されるような自分の状態を作りたかったということはないですか?

○より稽古に熱中する喜びと楽しみを感じられたという、そこで現れた思ってもみなかった結果とは何でしょうか?

遠慮のない私で申し訳ありません。
以上ちょっと疑問に思ったことでした。
 
8. Posted by マルコビッチ   2022年09月04日 15:56
整理整頓は取り組み続行中ですが、なかなか前に進みません。
ただ、やろうとするだけできちんとしようとする軸が立ってくるような気がしています。
太郎冠者さんが仰った、「時間の使い方を見つめなおす」ことを意識したいと思います。
頭で考えていると、膨大な時間を想定して足踏みしてしまいますが、あまり考えずに実行すると意外と思っていたより時間がかからないということがあります。
そして長い時間を想定して取り組むとそれなりに時間がかかるということも!
ここにもスピードという秘密がありますね。

そういえば何年も前にサッカーの長谷部選手が「心を整える。」という本を出されましたね。
自称ミーハーな私はタイトルにも惹かれて購入したのを思い出し、引っ張り出して見てみましたが、その中に、ドイツには『整理整頓は、人生の半分である』という諺があるそうです。
ちょっと調べてみたら、ドイツ人と日本人の整理整頓の考え方の違いがあって面白かったですよ。

ブログの記事にいつも考えるきっかけをいただいています。
整理整頓、自分を整えること精進してまいります。
 
9. Posted by 平田玄琢   2022年09月04日 23:44
現在、私にとって物や物事を整理することは、大変重要なこととなっています。来年度に自宅の土地の真ん中を、幅16メートルの県道が通ることになりました。そのため、事務所と倉庫の移転を余儀なくされているからです。

「整理する事」で思い出した事があります。私は、三十数年前鉄工所で働いていました。その時にあった出来事ですが、下請けの工場で、頼んだ製品が納期にどうしても間に合いそうにないと連絡があり、皆で応援に行くことになりました。
到着して工場の中を見た時、「何だこれは」と言葉が出てしまうほど散らかっていたのです。そこには、コンクリートの床が見えない程の鉄部材と鉄屑があり、数年の溜まった埃がありました。
鉄製品を半自動溶接機で溶接するには、先ずアースを近くに接続する必要があります。しかし、鉄屑があまりにも散らかり、それがつながっているためアースは必要無く、とても便利でした。
溶接は固定物に身体を付けブレないようにするため、感電の危険があります。また、溜まった埃は溶接時の火花で火災になる事があります。
心配した事は起こりませんでしたが、後にその工場は廃めてしまったそうです。

私が働いていた工場は、職人の道具は大切にする。道具を使ったら元に戻す。休み前は必ず清掃を行い、休み明けは清々しく仕事をしていましたので、業界で県西部トップの会社となりました。(私はやめてしまいましたが)

道場もいつも清々しく稽古が出来ますが、私の部屋周りと自分の稽古は整理整頓がまだまだ途中です。
 
10. Posted by ユキ   2022年09月05日 00:24
整理整頓。
これの意味を限りなく若い年齢のうちに理解することで、より長い時間を豊かな人生として過ごせるに違いない、とさえ思います。
なぜ太極拳の道場で整理整頓を厳しく指導されるのかといえば、「考え方とアプローチの仕方」に直結しているからに他ならず、乱雑な部屋は自分の考え方とアプローチの仕方の表れと言えます。

逆に考えると、整然と整えられた「場」に身を置くことで、心身の在りようが規矩に沿うかのように整えられやすくなるのではないでしょうか。故に、日常での在り方が問われるのだと思います。

さて、片付けても片付けても散らかる部屋。乱雑さの元は引っ切りなしにやってくるのですが(だから片付けを少しでも延期するともう収集がつかなくなる)、発想を変えると、どれほど乱雑さの元がやってきても、例えばその部屋、その家に入ってきたら片付かざるを得ない状態を作っておけば、何も煩わされることはないのです。
私はそれを証明するために、家と部屋とを変えてみようと思っています!
 
11. Posted by マガサス   2022年09月05日 11:48
「身の回りをきちんと整えること」は、「自分自身をきちんと整えること、在り方、立ち方」を教えてくれるのだと思います
はっきり言って私は「きちんと整えること」が苦手です(汗)
師父が手をかけられた空間は、常にきちんと整っていて、それでいて窮屈でなく寛げる空間でした、が、同じ場所を私が掃除すると、いつも「乱れている!」とご指摘を頂いておりました
掃除機をかけて埃を取って、あるべき所にあるべき物を戻しているつもりなのに、何を「乱れている」と言われているのでしょうか?
中でも、とても印象に残っていることがあります
例えば台所にはお玉や木べら、トング等の大小様々な調理器具を壁に掛けるようになっていました
その場所は私がどれほど整えても「お前が使うと必ずめちゃくちゃになっていて、私が整えた通りに戻していない」とおっしゃるのです
自分では綺麗に掛けてあるつもりですので、ご指摘の意味が全く分からずに悩んでいました
何日も、何週間も、何ヶ月も、私があまりにも出来ないので、ついに師父が教えてくださったのですが・・・
なんと、器具の掛かっている順番と、掛ける向きが違っているとおっしゃるではありませんか
私は自分なりに綺麗に掛けることだけを気にして、実は師父がやっていた事を何も見ていなかったのです
ショックでした
そこで言われた通りに全てを掛け変えたら、なんとスッキリして綺麗なことか
ただ綺麗なだけでなく、隣の器具と緩衝していないか、取りやすいか、埃がたまらないか等、全て考えられていたのです
 
12. Posted by マガサス   2022年09月05日 11:50
師父は常にこのように身の回りも、ご自身も整え続けていらっしゃり、この事が全てに繋がっていたんだと、今になってようやく分かりました

乱れて曲がったものの中に居ては、自分の軸が整うわけがないですよね
苦手だと言って後回しにしないように、
一番身近な、日常を整えて!
自分がきちんと立てるように!
生活そのものが稽古なのだと、改めて実感しました
 
13. Posted by ハイネケン   2022年09月05日 21:01
太郎冠者 様

本日ブログへのコメント予定しておりましたが、体調不良の為、改めて体調が戻り次第、後日コメントさせて頂きます。
体調管理の甘さを深く自省しております。
 
14. Posted by ふにゃ   2022年09月06日 02:08
整える・・・それはまさに私が長年背負ってきた課題です。
そして丁度最近、「整える習慣」という本を読み返していたところでした。
自律神経の研究をしている著者によると、“多くの人は実力を出し切れていない。(モノが散らかっているなどの)日常の小さなストレスでも自律神経が乱れ、パフォーマンスが落ちてしまう”そうで、生活を整えるための具体的な方法がたくさん出ていました。
パフォーマンスの下がることをしない、と考えると、ただ整えようと思うよりも取り組みやすい・・・と前に読んだときにやる気になっていたことを思い出しました(頭の中が散らかり過ぎていて忘れていました…)。
玄花宗師の「整える」というお話も一つには文字通り「整理整頓」のことであったということなので、どんなに山積みでも、目の前のひとつひとつを地道に整えていこう(積んだのは私)と改めて思いました。
取り組むべき課題のヒントを教えていただき、有難うございました。
 
15. Posted by 清水龍玄   2022年09月06日 23:18
整えるという言葉を、よく耳にしますが、では、整えるという事はどういう事なのだろうかと疑問にも思います。
ただ散らかっているような状態では、大事なことが目の前にあるのに、雑多な物(考え?)に埋もれてしまい、本来そこから得られる変化も気が付けない、大変もったいないものになってしまうようです。
かといって見た目がきれいでも、機能的ではない。
また、自分の基準で整理しても、結果的には大して意味をなさない。

整えるという事は、その整えていくべき方向性を理解していき、そして、自分自身の現状が見えきて、その方向性に合わせ続けていこうとする中で、自身に変化が現れ、そして、その変化を感じ続け、理解へとつなげていく事が大事なのかなと今は思っています。
 
16. Posted by ハイネケン   2022年09月09日 06:11
太郎冠者様
先日投稿させていただきましたが、改めて投稿させて頂きます。
遅くなり申し訳ありません。
以下は体調不良になる前に書いていた文章です。
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おそらく誰もが忙しく、なぜ忙しいのかと考える事もなく時間は過ぎ去ります。
ありがちなのは一日がすぎるのを勿体無いと考えて夜に無理やり僅かな時間ですが稽古をする事があります。クタクタで濃厚な時間にはならない状態では良い稽古にはなりません。
ある時、何もせず充分な睡眠を取りました。翌日晴れやかな頭と身体で朝から稽古をしてみました。当たり前ながら充実した時間となりました。
自分の状態(私の場合は体調ですが)を整える事で短期的に自分で決めた通り行動をするのも一つ、長期的に考え目標に対する自分のアプローチを大切にするのも一つ。漫然としマンネリ化させてしまった取組みよりも、新鮮な心で楽しむのは心地良いものです。
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・・・さて、ここまで文章を書いた翌日、3日間体調不良になりました。
多少でも「自分の状態を観察出来るようになったかな」と思っていた自分にとって非常に衝撃的な事です。整える事の奥深さを再び感じた次第です。
ちなみに現在の所、定期的に検査もしており、加齢と過労、後遺症が原因のようです。
心配下さいました玄花宗師はじめ川島支部長、及び皆様にお礼申し上げます。
 
17. Posted by 太郎冠者   2022年09月12日 20:46
☆西川敦玄さん
>自己の足で立っているか
太極拳を学ぶために、まずは一人の人間としてしっかりと生きていかなければならない、とは、常に道場で指導していただいている事柄です。

そのためには、まさに書いていただいた通り、自分を振り返って、自分を観ないといけませんね。
これは自身にとっても大変な苦痛を伴うかもしれませんが、むしろそれを避けて通ることのほうが、本当は惨めで悲しい生き方しかできないのでは、とも思います。

敦玄師兄をはじめ、多くの先輩方が自らの道を歩む姿を示してくださり、その姿に自分もまた多くのことを勉強させていただいています。
皆様に負けないよう、自分もより一層精進を重ねたいと思いました。
ありがとうございました。
 
18. Posted by 太郎冠者   2022年09月12日 20:52
☆阿部 玄明さん
整えるということに関して、玄花宗師からお話があったとき、自分も目から鱗が落ちたような気持ちになりました。
玄明さんのようなレベルと理解の深さで取り組めているかというと疑問ですが、取り組んでみることでより価値が感じられることのように思いました。

「整えなくてはならない」ということと、「太極拳はすでにそこに在る」という言葉、何か通じるものがあるように感じられます。
部屋はすでにそこにあり、物もすでにそこにあります。同じだけ物があっても、散らかった状態にもできれば、片付いた状態にもできます。
では、この違いは何なのでしょうか?
何をもって片付いている、整っているといえるのでしょうか。

物理学でいえばまさにエントロピーの法則であり、ある意味ではそれは世界を一貫して流れている法則だと思います。
味わってみればみるほど、面白い内容に感じられます。もっとじっくり味わっていきたいですね!
 
19. Posted by 太郎冠者   2022年09月12日 20:59
☆松久宗玄さん
仕事で理不尽な出来事があり(それほど大したことではないのですが)、それから稽古に来ると、すごく開放された気持ちになることが多々あります。

道場では自分を偽らず、さらけ出して、勉強したいことに十分に精を出していいのだと、そういう場所としてのエネルギーを感じるからです。

そういった意味では仕事(日常)と道場での稽古を分けてしまっているのですが、仕事で自分をさらけ出していても仕事にならないので、仕方のない部分ではあるかと思います(笑)
しかし、それとは違った意味で、自身の在り方・感じ方・考え方・立ち方を見直すという点において、どこでも、常に太極拳の稽古と共にあるという姿勢は貫いていけなければならないのだと感じます。
「道場での稽古だけでは時間が足りない」とは、玄花宗師も仰っていることですが、四六時中それに取り組むくらいでないと、本物にはなれないのだろうな、とほかの芸事を見ていても感じます。
まだまだ足りないので、もっと精進していきます。
 
20. Posted by 太郎冠者   2022年09月12日 21:21
☆川山継玄さん
整理整頓をどのように行っているかを見直してみると、すごく自分の性格が現れているように思えますね。
翻って、それが整理整頓のみならず、他の物事への取り組み方、何より太極拳の稽古に対するアプローチと共通している部分があるとなると、嫌でも目を向けざるを得ないことになります。

「日常が稽古だ」とは常に指導していただいていたことですが、自分の理解は非常に浅く、日常生活の中で太極拳の稽古、例えば立ち方などをどれくらい確認しているのか、といった程度の意味で捉えていたという点に気づかせていただいたように思い、非常に多くの示唆を与えられたように感じます。

自分のそれまでの理解は「日常生活の中で稽古する」くらいの意味合いでしかなく、それは「日常が稽古だ」という言葉のさらに深い意味とは、隔たりがあったのだと思いました。
このことに愕然としつつも、さらに稽古を続けねば!と一層気持ちを新たにし、頑張りたいと思いました。
 
21. Posted by 太郎冠者   2022年09月12日 21:28
☆川島玄峰さん
道場の稽古の際、鍵をお預かりして準備をさせていただく機会があるのですが、その中でどれだけ自分が漫然と「これくらいでいいだろう」と思ってしまっていることがザラにあることかと、いつも反省させられています。

しっかりと準備をすることで、そこでの稽古が滞りなく、気持ちよく行うことが出来るという意味も傲然あるかと思いますが、それ以上に、自分が一体何を気にして、何を気を付けているのか、ということが道場全体から、行動を通して問われているのではないかと、改め感じるようになりました。

自分が見過ごしてしまうほんの些細なことが、それは自分自身にも言えることであり、そのわずかな差が、武術にとっては致命的になってしまうのではないかと思わされます。

道場で指導していただいている事をひとつひとつ、今一度確認しなおして、稽古を深めていきたいと思います。
 
22. Posted by 太郎冠者   2022年09月12日 21:44
☆マルコビッチさん
適切なツッコミ・・・ならぬ質問をありがとうございます。やはり太極武藝館の皆様の視点は鋭く、「こういう書き方でいいかなぁ・・・」と甘さを見せたところがズバっと追求されてしまいました。
・・・反省と精進をしたいと思います。

さて、意を決して質問にお答えしていきたいと思います。

>○自分で課題を見つけるとは、〜
今回の自分の場合、太極拳の稽古に対する向かい方そのものに関する課題と発見があったように感じました。
記事にも書いた通り、自分は連日道場で稽古を行ってきましたが、その時間が無くなったことで、素の自分が太極拳に相対させられたような感覚になりました。つまり、どこかで自分自身、道場に通って指導してもらえるという点に甘さがあったことに気づけました。
それを抜きにして太極拳に向かい合ったとき、道場で教わっていることは多々ありながらも、「自分自身の力」で太極拳を理解していかなければならないのだと、改めて感じたのです。

そこから二番目の質問につながるのですが、太極拳の問題も自分で解決していかなければならないとなったとき、それをどこかに棚上げしておくこともできず、常に頭の片隅にあった状態、それが寝ても覚めても〜という表現へと繋がります。
繰り返しになりますが、普段はどこかで「誰かがなんとかしてくれる」という甘さが自分の中にあったのだと感じられました。

続きます。
 
23. Posted by 太郎冠者   2022年09月12日 21:55
☆マルコビッチさん
続きです。
>そこで現れた思ってもみなかった結果とは何でしょうか?
人間はなんでも習慣化してしまう生き物ですが、これだけ連日稽古を続けていると、自分自身そうなっている可能性が、なきにしもあらずです。
しかし、そうではなくて、誰に強制されるでもなく、自分自身の意志で太極拳に向かう願望が生じ、稽古に取り組むこととなった連休期間でした。
そして、ある意味ではだれかを頼ることが出来ない状態において、自分自身から湧き出してくる力や創意工夫を感じられたところがありました。
・・・これはいつも道場で、人生の諸先輩方から私に言ってもらっていたアドバイスだったのですが、改めてその必要性を自分で感じられた、というのが発見のひとつでした。

実生活の方でも(思ってもみなかった)変化の兆しがいくつも現れはじめていたのもあり、まだまとまっていなかったので、記事ではふわっと触れただけになりましたが、こうして質問をいただけたことで、ざっくりとではありますが改めて自分でもまとめることができました。

もっと細かく聞きたければ、道場で質問していただければおしゃべりスイッチが入ってベラベラ喋るかと思いますので、よろしくお願いします。
・・・これで疑問への返答になったでしょうか??
 
24. Posted by 太郎冠者   2022年09月15日 21:13
☆平田玄琢さん
鉄工所のお話を読んでふと浮かんだのが、武道に用意されている型が、なぜ今のような形で今も残されて、稽古に使われているのか、ということでした。
玄琢さんが訪れたという、その下請け工場のような場所でも、確かに仕事は可能なのかもしれません。
が、あらゆるところに危険が潜んでいて、それを回避できているのはほとんど幸運だから?という気がしました。
逆に玄琢さんが勤めていらっしゃった工場は、環境が整えてあり、その中で仕事ができる。

毎回掃除をする=型を守るということは、ひと手間かかり大変なのかもしれませんが、それによってはじめて、正しい仕事ができるのでは、と思いました。
型を形骸化したものとして排除してしまった場合、そこに残るのは荒れ果てた職場で、そのような場所でまともな品が製造できるとは思えません。
武術における功夫もまた、型を守る、場を整えることで得られるものが、とても多いのではないかと思いました。

ちょっと焦点がずれてしまったかもしれませんが、そのように感じました。
 
25. Posted by 太郎冠者   2022年09月15日 21:22
☆ユキさん
>どれほど乱雑さの元がやってきても、例えばその部屋、その家に入ってきたら片付かざるを得ない状態

物の多さと片付かなさというのは、実は関係がないのかもと思うところがあります。
例えば大量の荷物が出入りする倉庫でも、整っている状態と整っていない状態がありますし、整っているか否かの違いは、仕事の能率という点でも大きな違いにつながるかと思います。

逆に、少し前に流行っていた、ミニマリストといわれる物を持たない生活をしている人々の中で、物が少なすぎて何か起きたときに生活が簡単に破綻するという、お笑いのような話を聞いたこともあります。

どちらがいいというのではなく、どのような状態にあってもバランスが取れている状態を保てるか、それが必要なのではと感じました。
それはまさにユキさんの仰る通り、やり方ではなく考え方やアプローチの仕方から現れてくるものだと思うので、やはり今一度しっかりと自分の状態を見つめなおしてみたいと思いました。
 
26. Posted by 太郎冠者   2022年09月15日 21:29
☆マガサスさん
師父が道場にいらした時、またそれ以外の場所で師父とご一緒に過ごさせて頂いたとき、出来うる限り師父の動きや行動を観させていただいておりました。

そうすると、師父の動作のひとつひとつが、なんと丁寧だったことか・・・。
物をつかむ、物を置く、その他さまざまな立ち振る舞いが、ゆっくりと丁寧で、しかし決して遅くはないのです。
「優雅」と表現するに相応しいのだと思います。
今にして思えば、自身に対する関わり方、また物に対する関わり方や考え方も、常に整ったものとして関わっておられたのだな、と。

無礼に視線を向ける自分にも当然気づいておられながらも、何も言わずに動きを見せてくださった師父には、感謝の言葉しかありません。
私も、一歩でも師父に近づけるよう、努力したいと思います。
 
27. Posted by 太郎冠者   2022年09月15日 21:34
☆ふにゃさん
コメントを読ませていただいて、ふと思い出したことがありました。

最近はほとんどの方がスマホを持っているかと思いますが、何か作業に集中しようとしたとき、自分の視野の中にスマホがあるだけで集中力が途切れるのだそうです。
何か調べものをしたい、連絡がくるかもしれない・・・実際にスマホが鳴ることがなくても、それだけで落ち着かないのだそうで、人間の集中力というのはいとも容易く乱されるのだなと思ったものです。

生活の中で、整っていないだけで自分も乱されてしまっているのだとしたら、これほど知らずに損をしていることはないですね。
自分ももっと、より集中できる環境を作って稽古と生活に臨みたいと思いました。
 
28. Posted by 太郎冠者   2022年09月15日 21:44
☆清水龍玄さん
物事の取り組み方、実際に何をどのように使うかということと、自分の思考の様式には関連があるのかもしれませんね。

ロードオブザリング(指輪物語)シリーズの作者であり、著名な言語学者でもあったJ・R・R・トールキンは、物語を製作するにあたり巨大なフィクションの地図を作り、用意した大きな紙にさまざまな書き込みをスクラップブックのようにペタペタと貼り付けて、とんでもない量の資料を作成したそうです。
その重厚さは、そのまま作品の重厚さへと受け継がれ、架空の神話体系、言語体系まで作ってしまうトールキンの思考様式を表しているように感じます。

傍目から見ると机の上は紙の束で文字通り埋まり、とても整っているようには思えません。
ですが、その内実は、ひとりの人物が作り上げたフィクションとはとても思えない、一貫した物語が作り上げられています。

何をもって整えるというのか、今一度考えてみたいと思いました。
・・・ちょっと話題が反れたかもしれません。
 
29. Posted by 太郎冠者   2022年09月15日 21:53
☆ハイネケンさん
体調はいかがでしょうか?
例の流行り病ですが、一旦は回復したものの後遺症がいつまでも残り、社会生活を送るのが困難になっているという報告をいくつか目にしております。
決して無理をなさらず、ご自愛ください。
(太極武藝館には無理をするのが「普通」だという人が多いので・・・)

仕事の関係で学校で使う教科書の手配などもしているのですが、ちょうど今の時期から、来年4月に使う教科書の数を決めて発注、など動き始めております。
年間行事なので季節の移り変わりに合わせて物事が推移していくのですが、焦っても教科書は動いてくれませんし、物事は変わってくれません。やることをやったら、あとは待つしかありません。

玄花宗師が二十四節気の話をしてくださるのは、現代人が忘れてしまった、ゆったりと時の流れに身をゆだねる必要性も教えてくださっているのではないかなと思います。
・・・急ぎすぎる人は、特に。

もっとも、自分は急がされるくらいでちょうどいいので、やはり人それぞれ、勉強しなければいけないことがあるのかなと思います。
無理をせずに、頑張っていきましょうね!
 

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