2022年07月31日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その62

  『アシよさらば ー誰が為にアシでケる?ー』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「それは足の入力で蹴っていますね」
 ある日、道場での稽古で、基本功をやっていた時のことです。宗師にこのように指摘していただいた私は、自分の状態を見返してみました。
(あ、足で蹴っている・・・?)
稽古の中で繰り返し、本当に繰り返し散々注意していただき、当然自分でも気をつけていながら、それでも度々現れてくる、足での入力、蹴りという状態。
 これは相当に根深い問題だぞ・・・と、認識を改めなければならないと遅まきながら悟った私は、本腰を入れてこの問題に介入していく決意を固めました。
 とはいえ、ではこれまでの稽古を通して「足で蹴る」問題を見て見ぬフリで過ごしてきたかというと実はそうでもなく、普段の生活を通して自分の状態がどうなっているかということを注意してきてはいたのです。注意してきた結果がこれなのです!
 事ここに至って初めて、注意してきただけでは足りない、問題の根の深さに目を向けることになりました。そして同時に、その問題に目を向ける、その眼差しのあり方にまで、目を向けざるを得なくなってしまったのです。

 太極武藝館では、歩法の稽古に多くの時間が割かれ、以前在籍していたある門人からは、「いつまでやるんですか」という声も聞かれた程、とのことです。
 いつまでやるんですか? それはもちろん、出来る様になるまででしょう!
 稽古の中で指導して頂いている内容は、非常にわかりやすい言葉で説明していただけるので、それを聞くと、頭ではあたかも理解できたような気持ちになります。ですが、聞いてわかったつもりになるのと、それを自分の体を通して実践出来るかというところは、全くの別物に感じます。自転車の乗り方を人から聞いて教わってわかったつもりになっても、すぐに乗れるはずがなく、自分で実際に自転車に乗る練習をすることでしか、身につける方法はありません。
 太極拳の稽古においても、全く同じことが言えるのではないかと思います。
「足の入力を使わない」という説明は、おそらく誰でも何を言われているのかわかるかと思います。
 ところが、それを実際に自分の体でやろうとすると、そう簡単にはいきません。
 先日も宗師に、『聞いたことで理解したつもりになっていることと、実際に自分ができていることのギャップを認識しなければならない』と、指導していただきました。
 稽古をしていく中で、自分達が超えていかなければならない壁がここにあるのではないかと思います。
 一般的な普通の考え方では、「そのように言われるものの、足を使ってしまう。きっと、それが出来ないのには自分が聞いていない秘伝が関わっているに違いない!それさえ教えてもらえれば、指導してもらっていることは出来るはずだ!」となるかもしれません。
 武藝館で稽古をさせて頂いていると、その認識が全く間違っているのだという現実に、嫌でも直面させられます。武術の武の字も齧ったことのないような、それまで主婦をやってこられたような普通の女性が、正しく修正されただけで、体重80キロを越す自分のような男を、簡単に吹っ飛ばし、転がすようになってしまいます。
 では、その人は誰も聞いていないような秘伝を聞いたのかといえば、そうではありませんでした。
 稽古で毎回のように指導して頂いている整え方を、改めて宗師がその場で指導して下さっただけでした。
 たったのそれだけです。だとすれば、その整え方こそが秘伝と言えるものだと思いますし、もし稽古で行き詰まりを感じたのだとしたら、それを自分がちゃんと守れているか、それが問われているのだと、見つめ直す必要が生じてきます。


 話題は変わりますが、自分が通わせて頂いている床屋のご主人から聞いた話です。その方は、学生時代に部活動で卓球をやっており、今も学生さんを相手にボランティアで週に何度か指導をしているとのことです。その話になったとき、ポツリと「基本がちゃんとやれていない子は試合で勝てない」と言っておりました。
 自分は卓球を知らなかったので、卓球で基本に当たることは何ですか?と尋ねたところ、ラリーを何回出来るかが一つの基準になると仰っていました。県の大会でも勝って行ける子は何百回と続けられるそうで、負けてしまう子はそれが続かない。イコール、基本が身についていないのだそうです。
 磐田には、オリンピックでメダルをとった水谷選手が所属していたチームもあるそうで、そこの練習は、同じ体育館でやっていると他の選手も注目をするような、一味違った練習をしているとのことでした。メダルを取った水谷選手や伊藤選手ともなると、ラリーが5000回以上(!)も続くとのことで、そのレベルでなければ世界で勝っていくことなど無理なようです。

 その話を聞いたとき、自分の太極拳への向かい方はどうだろうかと、改めて反省を促されたように感じました。言い方は悪いですが、学生の部活動のレベルでさえ、基本をしっかりと固めることで基礎を培い、実力を伸ばしていくという指導が行われているというのは、ある意味衝撃的ではあります。ましてや、世界で戦っていく選手となると、その上でさらに磨きをかけていくのが当然のこととして要求されます。
 太極拳を稽古するにあたり、「他にない、凄いものだ」と言いながら、取り組み方は学生の部活動の方が高度な訓練をしていました、などとなっては笑い話にもなりません。
 余談ですが、静岡県西部の卓球のレベルは、世界でメダルを獲得する選手を輩出するだけあって、かなり高いもののようです。とはいえそれは、何の気休めにもなりません。
 一流のものとして太極拳をやっていく為には、一流の意識で取り組み、訓練もそれに沿うものでなければならないはずです。床屋のご主人の話が頭に蘇ります。
「自分の経験の中で、自分が教わった理論が正しいことは証明されてきました。あとは、それを子供たち一人一人に合わせて、正しく指導してあげる必要があります。どこまで行っても勉強だね」
 これ卓球の話ですよね!?あなた本当に床屋のご主人ですか!?
 カットをしてもらいながら店内の壁をふっと見ると、理容師の大会で優勝している賞状が何枚か、控えめに飾ってあります。
 本当に腕のある人は自分からは何も言いませんし、何をしていても取り組み方が変わらないのだと、痛感させられました。
 教わっている太極拳の内容は高度でも、指導を受けている我々の質によって、それは二流にも三流にも簡単に変わってしまいます。それは教授して頂いた内容ではなく、我々個人個人の質そのものが現れてしまうからではないかと思います。
 であれば、太極武藝館が高度な学習体系を有していると本当に言える為には、我々が高度な功夫を体現している必要があるはずです。
 足で蹴ってしまう・・・このような問題は、早急に解決していく必要があります。
 問題の解決方法はすでに示して頂いていますし、あとは、自分がその方が便利だと勝手に思い込んでそうしてしまっているという現実と、しっかり直面する必要があるかと思います。

 誰が為にアシでケる・・・?それは他でもない、自分自身の為にそうしてしまっています。
 だからこそ、その問題を解決することが出来るのは、他でもない、自分自身のはずです。

 ・・・アシよさらば。
                             (了)





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disciples at 20:30コメント(14)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2022年08月03日 15:43
今回は、どことなく記事が軽やかに感じられます。ヘミングウェイのご加護でも有るのでしょうか?
さて、太郎冠者様が床屋の方に卓球の基本について質問されたとき、床屋の店主氏はラリーが何回できるかが基準となると返されたそうですね。素人である太郎冠者様には基本がなにかではなく、基本が出来ていることを図る指標を教えてくれたのですね。私も素人なので本当の事は分かりませんが、卓球の基本とは一言で言えるようなものではなくて、おそらく様々な訓練ほかにより身につけられる、複合的ではあるけれどシンプルな有りようなのでしょうね。それは、コーナーの隅をいかにつけるかという能力ではなく、ラリーを何回できるかということで知ることができると。それが指標であるならば基本を作るためにラリーの訓練だけしている訳ではないのでしょうね。
さて、足よさらば
なにかの、本でみたのですが、その他のものを全て否定することだけでは、当のそのものを理解することは出来ない。たとえば、それが、足ではないということ以外のものをしらなければならないと。とはいえ、区別について着眼するのは不適切ではないそうです。意味のある区別、それは、対照関係のある区別であり、情報的価値のある区別なんだと書かれておりました。とはいえ、私たちは対照関係について考え違いしやすく、なぜなら考え違いしている当の対照関係も実際に存在しているからなのだそうです。
足を使うことと、使わないことなど。区別するときの対照関係をどうとらえるかなど、腰をすえて研究頑張りましょう。簡単に「さらば」させてくれそうにありません。
人間は考える足である。いや葦だって。
 
2. Posted by ハイネケン   2022年08月03日 22:08
ともすれば同じ基本功を同じように繰り返す様な気持ちで稽古してしまう事があります。
卓球のラリーでも、何度やっても同じ状況なんかは存在しないであろうと思いますが、
同じ状況だと思い込んで練習してしまうのかもしれません。
目標は太極拳の習得、もちろん玄門太極武藝館の示すものです。
基本功、歩法、武器と何れも同じ原理原則で運用されている様ですし、非常にシンプルで画一的にすら見えます。
稽古では染みついた個性、冗長した個性、自分の半世紀にもわたる体や思考の癖が嫌というほど出てきて、他人にはわかりえない自分への執着や、自分では見えていない自分の癖との取り組みが始まります。非常に個人的で、ひたすらに個性との対話である様です。
基本功では私のためにあるのではないかと思うほど、私の癖を明確に教えてくれる時があり、染みついた個性にアプローチし、私に合わせてオーダーメイドで教えてくれようとします。
そして宗師や支部長の受けを取らせていただくと、自分では意図して動かせない所を動かしてくれてます。
5,000回1セットのラリーと見てしまうのではなく、1球1球を適切に打ち返し5,000回の全ての場面である種の緊張を切らずに、5,000回分の状況に正確に対応したからこそ出来たことなのでしょうね。
太郎冠者さんからは毎月投稿の上、お返事も頂いております。
私もラリーの様に良い言葉を返せるようになりたいものです。
 
3. Posted by 阿部 玄明   2022年08月03日 22:38
自分の状態を整えるというのは誰にとっても難しいことです。
整えるという作業自体が難しいのではなく、自分を観れないことが難しくさせている(自分が整っていないことが認識出来ない)。

人間は感覚器官として非常に眼が発達しており大部分の情報を眼から入手しています。
しかしながら自分の眼は顔の前面に付いているので周囲の環境や他者は良く見えるようになってますが自分の姿を直接見るようには設計されてないので自分を観察する必要性がないのです。

そこで昔の修行者は眼を閉じて瞑想する、お香を焚く、独特のリズムの祝詞を奏上し耳で聞くなどの他の感覚器官全体に訴えるような訓練を通じて自分を観照し、見えないモノを認識する力を高めたし、茶道や華道ではワビサビを肌で感じ入るセンスを磨いたことを思うと必ずしも視覚情報だけに頼る必然性はないのかなと思います。

一旦、昔の知恵に倣って眼をそっと閉じて視覚情報過多の状態を調整し、全ての感覚をバランス良く使うことが出来れば本来の自分を観ることがもっと容易になるかもしれません、と思いました。

素敵な記事を書いて頂き有難うございました。
 
4. Posted by 松久宗玄   2022年08月03日 23:05
今回の記事の内容を私なりに解釈して、要約すると、下記のような式で表現できるかと思いました。

訓練の成果=正しい訓練体系A×(1−間違った自己認識B*)×訓練時間C
*0<B<1

我々はAとCには恵まれているのですから、根本的な問題はBに伴う効果の減衰に他なりません。

ACよさらばとならぬよう、もっとBに目を向ける必要がありそうです。
 
5. Posted by ichi   2022年08月04日 09:53
足への入力に限らず、問題点の改善の難しさにその事への向き合い方があると思います。
問題を先送りしたり、出来ない言い訳を考えたり、
それ程重要な事だと認識していなかったり等々、
実際の問題解決の難しさは置いておくとして目を逸らさず正面から向かい合う意識が大事だなと思いました。
またオリンピック選手の5000回以上にも及ぶラリーも基本を蔑ろにせず、付く詰めていく事だけでは無いかも知れないですが、そういった姿勢が実力に結びついてくると感じました。
 
6. Posted by マルコビッチ   2022年08月04日 20:34
足、誰もが抱えた問題ですね!
私も長いことバンバンに使っていたので、いまだに四頭筋が疼きます。^^;
ようやっと足が少し軽くなった分楽になりましたが、まだまだまだまだです。
宗師の歩法を拝見していると、本当に足が軽くて、入力がありません。
その分他のところが動いていて、全体のバランスが非常に美しく整っています。
私もやはり足を使っていないつもりで基本功をやっていたある日、弓歩から弓歩へ変わる時、宗師との違いで違和感を感じ、「これも足だ!」と思った瞬間がありました。
それではどうなのか・・試行錯誤が続いています。
足の問題ひとつでも上には上があって、だから歩法の稽古はずっと続けたい稽古ですね。

どのようなスポーツでも基本を大事に繰り返している人は、ある日ポンと伸びると言います。
そしてその基本でさえも、深く考え工夫してやり続けている人が一流になれて、何か不具合が生じた時、すぐに調整できると聞いています。
私たちの基本は、基本自体が深くて、突き詰めていかれるところが面白いですね。

足で蹴ってしまう・・・自分の身体がそうなっていることを認識する、認識できることから始まりますね。
そうすれば、いつか朝が来て、『日はまた昇る』でしょう。
 
7. Posted by 川島玄峰   2022年08月04日 22:37
指摘された事を素直に聞き入れる力が必要であると思いました。
自分の考えでは無理であると思うまでやり尽くし、もう自分では出来ないと諦めるまで落ち込むと余計な考えも無くなり示された事が見え、素直な状態になるのではと思います。
私は入門以前の固執した考え方に気付くまでは、基本功の重要さや捉え方がわかりませんでした。
その固執した考えを捨てさせるため、稽古に臨む整い方を幾度も師父や宗師から教えて頂いたように思います。

今回も、武藝を体得する事の意味を教えて頂きました。
私も体現できるように精進して参りたいと思います。

ありがとうございました。
 
8. Posted by ユキ   2022年08月04日 23:36
>>稽古の中で指導して頂いている内容は、非常にわかりやすい言葉で説明していただけるので、それを聞くと、頭ではあたかも理解できたような気持ちになります。ですが、聞いてわかったつもりになるのと、それを自分の体を通して実践出来るかというところは、全くの別物に感じます。

「聞いただけで理解できたような気持ちになる」とは、言い換えてみると、「説明を聞いただけで食べたような気になる」となるでしょうか。他にも、「聞いただけで」の後には「観た気になる」「行った気になる」「触れた気になる」など、たくさん言い換えることができそうです。
しかし、太郎冠者さんも仰るように、『自分の体を通して実践できるか』というところに行くには、実際に自分の体に通す必要があり、そしてそこでもまた「通した気になる」という罠が待ち受けていると言えます。
罠に掛からないために必要なたった一つのこと。それは”味わう”ということです。
こればかりは「味わった気になる」とはできないもので、味わえているかどうかは自分がその味わいを表現しようと試みることで明白になります。
自分の言葉で、自分の感性で、味わったまま感じたままを表現する。

”あなたにとって太極歩とは、基本功とはどのような味わいですか?”

これこそ、他人の言葉を持ってきてもどうしようもなく、また自分の味わいの深さがどの程度であるか、表面的であるのか、カッコつけているのか、他ならない自分には簡単に見えてしまうものです。
味わいは、追求すればするほどに変化していきます。そうであるからこそ、一度でも本物を味わった人はそれを追求せざるを得なくなる。逆に言えば、追求心が起こらないのは未だ一度も味わったことがないからかも知れません。
いつまでも「アシ〜たがある♪」なんて暢気なことを言っていないで、今日この瞬間しかないと思って取り組んだ方がヨイかも知れません。
 
9. Posted by 平田玄琢   2022年08月05日 00:17
私も、足で蹴ったり乗り上げたりしていると指摘を受けます。解決策としては、まずそれを見えるようにする事。そして、それ以前の基本の練功をできるまで、また、解るまで行なうしかなく、その練功ができなければもっとシンプルな基本に立ち返るしかないと思ってやるようにしています。

自分の雅楽の失笑談ですが、笙を習い始めた三十数年前、伊勢神宮の雅楽講習会に数回参加しました。
知り合いから安価で購入した笙を独学で吹き込み、明治の時代に秘曲と言われた曲をたった1週間で会得出来たと勘違いした私は、何と、雅楽界で有名な人達の前で、自信満々にソロで演奏しました。「正に無知は有知に勝る」の見本でした。
演奏後、「何か変だと思ったら間違っとるわい」「何だかわからない」と言われ、思いっきり恥をかき、考え方の違いにも気付くこととなりました。
オマケに、隣に座っていた品の良いご老人に「おじいちゃん、楽器をそんな風に扱うものじゃあないよ。」と知ったかぶりして説明した時、周りの人達がざわつきました。・・えっ、どちら様ですか・・と恐る恐る伺ったところ、関西の大きな雅楽団体の頂点にいる方でした。「わしにものをいうたんは、あんただけですわ。」ひえ〜っと恐縮しました。その方とは親交が続き、貴重な資料を頂いたり、何回か演奏会を拝聴し楽屋に伺った記憶があります。
それから後は、派手な秘曲を練習するのではなく、先ずは地味な基本のイロハと思い一生懸命励んだのでした。

ものごとを深く知るのは大変な事だと思います。
10. Posted by マガサス   2022年08月05日 01:03
足ですね、足なんです、足を使っているんです・・・
先日の歩法の稽古の際に「それで足を使わなければ良いですね」と宗師にアドバイスを頂き、「そうだ、足を使わない!足を使わない!!足を使わないぞ!?」と呪文のように唱えながら黙々と歩法をやっていたところ、「んー、それは足を使わないようにしているだけです。『足を使わないようにする』のではないんですよ。『足を使わない』んです」と、ご指摘を頂きました
私は一体何をやっているのだろう・・・
細やかに、丁寧に、太極拳の理論は教わっていますが、それを体現できない
「言葉」として理屈がわかったような気になっていても、内容や意味を分かっているか?と問われれば、悲しいことに理解していません
稽古をしていて難しいと感じることは、指導されていること、真似をすること、を純粋に体現できないところです
そして、その時点で「難しい」という思いから諦めが入ってしまう
でも、毎日稽古する中で自分を注意してみていると、自分のしていることがだんだん見えてきます
まだまだ全然足りていませんが、やり込んでいく事の大切さや奥の深さは、自分をわかり、示されていることと照らし合わせて違いを分かり、修正して合わせていけることだと感じています
そして、そのために、日々物事に向かうときにも「味わうこと」「チャレンジすること」「深めていくこと」が重要だと、思い至りました
「なんとなく」とか、「まあこれでもいいか」とか、「今ちょっと時間がないから」とか、何も感じずに日々を過ごすとか、非常にもったいないことだと思います
(続く)
11. Posted by マガサス   2022年08月05日 01:04
私は毎日コーヒーを淹れて飲みますが、きちんと味わうようにすると、毎回違いがはっきりとみえます
「うわー、まずい!」「美味しい!」とか「はっきりしない味だな」「水っぽいぞ・・・」
「腕が落ちたかな、何がダメなんだろう」と疑問が湧き、「おいしく飲みたいから、そのためにはどうしたらいいんだろう」と考え実行します
そして立ち返るのは基本です
豆の挽き方、お湯の温度、お湯のおとし方など、基本を見直します
人生も稽古もその繰り返しですね
チャレンジして、失敗して、経験が重なって、深まっていくものだと思います

「教わっている太極拳がどんなに高度でも、指導を受けている自分の質はどうなのか」
の問いかけに、とても考えさせられました
今一度自分の在り方を見直し、基本に立ち返り、向かい合いたいと思います
ありがとうございました


12. Posted by 清水龍玄   2022年08月05日 23:41
基本というものは本当に大事なものですね。
基本が無いと自己流で中途半端になってしまうし、穴だらけで使い物にならない、武術だけでなく、仕事でも同じだなと痛感します。
基本の練度も必要だけれども、そもそも基本を理解し身に付ける過程もまた、大変だと思います。
自身の、こうしたいとか、こう考えたいというものが邪魔をして、理解が出来ないとか、結果が出ないという事があります。
その過程で、自分や物事に関わることで、やっと得られる成長もあると思います。
今回も、面白い記事をありがとうございました。
13. Posted by 川山継玄   2022年08月05日 23:57
5000回ものラリーを続けられる一流選手のお話しを伺い、うまく表現できないのですが、一回たりとも全く同じ球が来ることも無ければ、同じ球を打ち返すことは無い。相手と自分の関係性を観て・感じて、全体として動いて成り立つラリー。
でも、私の思考回路は、まるで5000回のラリーが全く同じことが繰り返されていることが基準になっている。全体性が無くなり、どこか一点に注意が集まってしまうような偏りが生じやすい傾向にある。
特別稽古で身を持って体感した、自分と自分をとりまく全てとの関係性を全身で感じ、枠を取り払って開かれた状態が、薄れていく生活をしていたと省みます。
今の課題の解決に、必要な記事でした。
まだ、読み込みが足りないので、記事と皆さんのコメントで勉強し、解決に繋げたいと思います。
太郎冠者さん、ありがとうございました。
14. Posted by ふにゃ   2022年08月06日 05:51
「足への入力で蹴る」
このような言葉を聞いた時、私はすぐに“足とは?入力とは?蹴るとは?”…と、頭の中でグルグルと考え、いやいや動いてみなければ…と動いては、足にばかり意識がいってしまい、アシよさらば…どころか、100%アシ…みたいになってしまいます。
>その問題に目を向ける、その眼差しのあり方
そうですね!そこが問題なんですね。
昔友人に「家事が出来ないんだよね」と言ったら、「出来ないじゃなくて“やってない”だよね」と言われたことを思い出しました。

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