2022年06月29日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その61

  『たいきょくけんでせかいをみるの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 私は仕事柄、いろいろな本を見る機会が多いのですが、先日、ある絵本が目に止まりました。それは、今年の夏休みの、小学生向けの読書感想文用課題図書のひとつでした。
『すうがくでせかいをみるの』というタイトルで、スペインの絵本作家さんが書いた絵本を邦訳したものでした。
 内容は、主人公の女の子が、家族がそれぞれ好きなものに熱心に取り組んでいる様子を見て、「自分は何が好きなんだろう?」といろいろな事をやってみる中で、自分は「すうがく」が好きだということに気がつく話です。
 世界をみる方法は人それぞれいくつもあり、自分は好きな「すうがく」で世界を見る。すると世界には様々な数字や形が秘められていることに、その子は気づき、それを楽しみます。
 他の子供が動物や紙飛行機を見る時、その子にはそれがフラクタルな図形や数式として見えています。数学という好きなものによって世界の見え方が一変すること、それが楽しくて仕方がないのです。

 可愛い絵柄で、短いのですぐ読み終わってしまう絵本ですが、大人の自分が読んでも、多くの事を問いかけてくれるような内容に感じられました。
 はて、自分には世界はどのように見えているのだろうか、と。
 主人公の女の子が大好きな数学で世界を見渡しているように、自分は太極拳で世界を見ているだろうか、とふと思ったのです。
 太極拳の稽古に取り組む中で、自分の考えを挟まないというのは常々指導していただいていて非常に重要なことだと思います。自分を挟まずに物事に接するという時に、その女の子がしているように、(大好きな)太極拳で世界を見るということは、もしかしてすごく大事な物の見方を指し示しているのでは、と感じたのです。

 道場での稽古の始まりと終わりに、最近はよく玄花宗師が日本の二十四節気、暦のお話をしてくださいます。暦の変化になぞらえて季節や気候が変動していくというお話をして下さるのですが、自分は恥ずかしながらそれまで、季節の変化における自身の体調の変化と、その管理とケアもしっかりしなきゃな〜というレベルの、浅い認識しか持っておりませんでした。
 つい先日の6月21日はちょうど、暦の上では夏至を迎えるというお話をしてくださいました。夏至は陽が最も強くなる日であり、それはちょうど太極図に示されているように、陰に転換する時の状態でもあるとのことでした。
 そのお話を聞いた時、急に自分の中で(ようやく)物事の歯車が噛み合った音がしました。
 それは浅〜い認識の頭をぶっ叩かれたような衝撃を、自分に与えてくれたのです。

 季節の変化に応じた体調管理も、武術修行者としては当然大事なことだと思います。また、二十四節気を通して、見えにくくなった日本の伝統、考え方や文化に触れる機会をも与えてくださったのも事実だと思います。
 ところが、それ以上に我々にとってもっと大事なことがあるのでは、と思い至ります。
 玄花宗師は、四季折々の変化の中に潜んでいる、陰陽虚実、気の循環・・・つまりは太極拳の話を我々にして下さっていたのではないかと、改めて気付かされたのです!!

 ここで、冒頭の疑問に戻りました。
 はて、自分は「太極拳で世界をみていたんだろうか?」という点です。
 絵本の女の子が紙飛行機が飛ぶ軌跡の中に、「すうがく」を通して幾何学のカタチと数式を見出していたように、宗師は四季の移ろいと暦の中に、「太極拳」を通して、陰陽虚実の変化と循環を見出されたために、我々にその話をしてくださったのではないかと思いました。
 太極拳を理解するということが、自分が理解できる形に太極拳が切り分けられるということではなく、太極拳を通じて見える世界の見方が自分にはどれだけ見えているのかということが問われるのだとしたら、自分の認識はずれていたことになります。
 他の人には見えないけれど、絵本の女の子には数学を通して世界に潜む数式が見えているのだとしたら、太極拳が隠されていないにも関わらず、なぜ自分にはそれが見えてこないのかという話にも、腑に落ちるものがあるのではないでしょうか。

 宗師にとっては、季節が巡り夏になることと、相対した相手が力も入れられずに崩れてしまうということは、同じものとして写っているのかもしれません。
 物事に潜む道理を見抜くためには、こうであるに違いないという思い込みを持っていては成せないのだと思います。
 暦の話と太極拳の関連性ということについても、自分の浅はかな理解で物事を勝手に結びつけてしまうという働きが起こった結果、より大切な部分が自分には見えていなかったのではないかと、改めて勉強させられる結果となりました。
 面白いのは、それが隠されていたというわけでもなく、ただ自分の見方ひとつによって、途端に見える姿がガラリと変わってしまったという点ではないでしょうか。
 そもそも、宗師が道場での稽古の締めくくりに「暑くなるから気をつけましょうね〜」というだけの話をされるでしょうか。いや、門人の方達には放っておくとどこまでも無理をしてしまう方々もおられるので、そういう意味も含まれているかとは思いますが・・・しかし道場でされるお話の中にはどこにでも、我々が太極拳を稽古していくために必要な意味が含まれているに違いないと、感じてしまうのです。

 私が世界を見る時、それは太極拳によるものでしょうか。考え方を変えること、見方を変えることというのは、そもそも自分の中にはなかった「太極拳」という新しい尺度によって世界を見ることであって、そうして初めて、世界が太極拳の理を隠さずに、我々に語りかけてくれているのだということに気づけることになるのかもしれません。
 ただ歩法を稽古する、套路や対練で技を磨くだけではなく、道場で様々な習得過程にある人々と一緒に過ごし、会話をし、食事を共にすることで、一体どのように皆が生きていて、太極拳と関わっているのか。それを感じられることがまた、自分にとってもすごく為になる稽古のひとつとなっているように感じられます。
 ひとつ共通しているのは、絵本の女の子が「すうがく」が大好きであるように、門人みんなが太極拳を大好きであるということ。好きだからこそ、もっと知りたい、もっと学びたいと思っているということではないでしょうか。
 先ずは直向きな情熱があるか、それがプロになれるかを最初に分けるのだと、宗師はおっしゃっています。

 太極拳が好きだという気持ちは、自分を燃え上がらせるのに十分な火種となるのではないでしょうか。それを、より大きな炎へと成長させていきたいと思いました。

                                (了)




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disciples at 12:00コメント(27)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2022年06月29日 14:45
面白い記事ありがとうございます。
今年は6月夏至早々に梅雨明けして、真夏の暑さが続いています。
体調管理が大変ですね。
暦の話は面白いですね。
陽から陰に転換されるその時、今年は特に、何処に陰があるのヤーと思いたくなる様な陽陽陽気となっています。
陽中に陰あり。少し心を静めてみると陰気が感じられる様な気もします。
いや、暑いですが。
 
日本人は、俳句にも季語をいれるなど、季節の移ろいに繊細な感性を刺激される民族であるような気がします。
そういう、季節への感性(才能)が我々には備わっていて、そこに働きかけているということなのかもしれませんね。

感性はそれ自体を(再)発見、認識し、さらに養い育てていくことが大事なのだと思います。
それが、われわれの稽古なんだろうと思いました。
 
2. Posted by 松久宗玄   2022年06月30日 21:44
数学で世界を見る感覚は、共感覚と呼ばれている知覚でしょうか。
音や数字に色を見たり、言葉に味を感じたりと、一つの感覚刺激に紐づいた複合的な知覚能力とされます。
これは脳内の特定の感覚野が、何らかの理由で同時に活性化される事で生じる現象のようです。

太極拳で世界を見るとは、陰陽太極の理で「実際」に世界を感覚するという事でしょうか。
確かにその様に世界を感覚する事に憧れて、太極拳を追求する道を選びましたね。

共感覚は先天性の才能によるのでしょうが、
太極拳は訓練体系を通じて、後天的に機能を開発できる可能性があります。
ただし、意識的でなければ、成果に結びつく事はないとされる点も、脳力開発の側面から見れば納得できますね。

6月末にして既に盛夏の程を示す今日この頃ですが、陰陽太極の理をもって乗り切りたいと思います!
3. Posted by 川島玄峰   2022年07月01日 21:53
武術の目的を戦い方に執着すぎると性格や考え方まで殺伐した在り方へ導かれ、一方その反対は体操化してしまい自己満足の在り方へと導かれるように思います。どちらにも嵌らずバランスを保てる認識が必要であると思います。

先日に行われた宗師の稽古では、思い違いをした箇所が沢山ありました。その稽古内容は濃密な上にそれらの箇所を修正させられ、頭の中は真っ白になり体も動けなくなりました。それはこれまでの凝り固まった認識がバラバラになっていくような状態でした。
宗師は、私が間違った方向へ偏らないように在り方のバランスを修正して下さったのだと思います。

この度の太郎冠者さんの記事を読み、自分に生じた偏りによる思い違いは、太極拳の理を無視している証拠でもあると思いました。これからは日常生活でも陰陽のバランスを取り、感じながら稽古へ臨みたいと思います。
ありがとうございました。
 
4. Posted by 阿部玄明   2022年07月02日 06:50
世界を見たときに何が見えるかは
それぞれの人が何を気にしていているかに大きく影響されると思います。
平凡な世界が見えるのか、深遠な法則が見えるのかは自分の状態次第ということですね。


道場での稽古も単なるいろいろな練功の寄せ集めでは無いです。

・なぜ基本功、歩法、対錬がセットで稽古されるのか。
・なぜ基本が重要視されるのか
・なぜ姿勢が大事なのか

稽古の組まれ方にも毎回変化があるが門人を理解に導く狙いがある。
それに気づけば一つ一つの練功への見方が変わり、取り組み方も変わってきます。
パーツでしかなかったものが繋がって大きな絵が浮かび上がってくると面白ろさが増してきます。


自分の状態を把握するという意味でも
今、自分が何を理解していて何を見ているかを感情と絡めて観察してみます。

(見えるもの)同じことを見ても変化して見える→(感情)面白い   =(理解度)ある程度分かっている  
(見えるもの)いつ見ても何も変わらない   →(感情)つまらない =(理解度)何もわかっていない


こんな法則があるように思ってます。
 
5. Posted by 川山継玄   2022年07月02日 17:27
とても気になっていた絵本の一つだったので、早速手に取ってみました。教室の後ろで読んでいると、すぐに数名の一年生達が興味津々で寄ってきます。
字を覚えたての子は字を追って、音読をばっちりやっている子は私に合わせて大きな声で読んでいます。絵が大好きな子は、静かに絵に見入っています。
私は…?そんな子供達に囲まれて、素敵な絵や私には考えもつかないような女の子の世界に引き込まれ、周りのざわざわした音や子供達のエネルギーを感じつつ、音読する子達の声を聴き、このお話を心を込めて音読する自分の声に抑揚をつけ、実にいろいろな事を感じて同時に様々なことに関わっていることに幸せを感じていました。
子供達も同じく、自分の好きなことにフォーカスされているように見えつつ、思いもかけないようなことを発見していたり、変化を見つけて楽しんでいたり、無限にそのセンサーは働いているように見えます。
何をしたら〇、何をしてはいけない、これをしなければならない…制限を設けて、関係性を狭めて、更に歪めて生活することに慣れきってしまった私にとって、目から鱗の出来事でした。
「集中する事」への大きな勘違いをしていたのではないかと思いました。
(つづく)
 
6. Posted by 川山継玄   2022年07月02日 17:29
(その2)
先日、年長さんの男の子達と、カードを宝物に見立てて宝探しをしました。私が今まで覚えた10枚程度を宝に指定すると、その男の子は、これもこれもと何十枚も取り出し、他の子と私を部屋から出し、全力で宝を隠しました。
…そして、扉を開けてビックリ!!
いたるところに、丸見えで宝がまとまって、時には一枚ずつ隠されていました。そして、
「ここにもあるよ〜!」
と、嬉しそうに種明かしまでしています。
「見えていると、みんな沢山宝物がもらえて楽しいじゃん‼」
「お父さんが、宝を隠すときは、こうやって見えるようにするといいよって言ってたから…!」
“何て素敵なんだろう‼楽しくてたまらない”
と子供たちに交じって、真剣に宝物を集めて心から楽しんだひと時。
今まで何百回とやった「宝探し」で一番楽しく、キラキラしたものになりました。
日常に、探し求めてやまない太極拳の宝は、いたるところにちりばめられているのかもしれません。いつの間にか身に付けた自分の色眼鏡で、自らで見えないものにしていたようにも思えます。
時に、未知のものや変化に、少しの恐怖を感じて、尻込みしていることも、原因の一つです。一歩踏み出してみると、何でもない事かもしれません。そして、そこに広がる世界は、もっともっと楽しく色鮮やかで、追い求めても終わりなく、自己を成長し続けることを可能にするものだと確信を持っています。

太郎冠者さん、いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
 
7. Posted by ichi   2022年07月02日 18:05
絵本の話、とても興味深かったです。
人間誰しも自分の価値観、考え方で物事を見る事を無意識にやっていると思います。
でもそんな日常と同じ調子で太極拳を見ても、理解は出来ないのでしょうね。
「たいきょくけん」で見る様に、自分を差し挟まずただ、ありのままを見て、感じていく事が理解への道なのだと思いました。
その為にはまず自分が何を考え、何を見ようとしているのか知る、意識する事が大事だと思いました。
 
8. Posted by ユキ   2022年07月02日 18:20
以前に『太極とは、大宇宙のことである』と言われた言葉があまりにも衝撃的でした。
そうして私も、日々の生活の中で感じられる宇宙の運行・・月の満ち欠け、潮の満ち干、季節の廻りなど気になるようになりました。

昼間でも星は流れている、けれども自分たちに見えないと、それは起こっていないと思い込んでしまうこと。それは自分自身のことをわかっているようで分かっていない、見えているつもりで全く見えていないことにも繋がると思えて、怖くなった覚えがあります。

「太極拳で世界を観る」、これはちっぽけな自分の考え方を超えて、物事をものごととして観ることのできるキーワードのように感じられました。
 
9. Posted by ハイネケン   2022年07月02日 22:48
隔週の行事の様に強い眠気が時折発生し、今までとは異なる生活を過ごしております。流行病の後遺症の様です。
休む事はサボる事と同じという感覚があり休む事は苦手で、以前の生活ペースに戻れず焦りと苛立ちがありました。
そんな中、宗師とのお話しの中で身体を充分に休める事、今現在の状況を知る事の肝要さに及びました。その後、宗師による特別稽古で状況を知る事は自分では意識していなかった、体の緊張をなくす事と似ていると気づかされ、心身の在り方は繋がっているという体験をさせて頂きました。
「たいきょくけんがすきだ」を素直に味わえた瞬間でした。
当たり前であるはずの事も、人それぞれ感性やセンサーに大きな違いがあり、個性であり一長一短があります。「自分の目線」からでは見えづらい短所が「現在の状況を知る」という俯瞰した目線を持つ事で気持ちや風景が一変しました。
書く事で先日特別稽古で味わった感覚を再度味わっているようです。「すうがくでせいかいをみるの」は子どもと一緒に読んでみます。太郎冠者様、ありがとうございました。
 
10. Posted by マルコビッチ   2022年07月03日 15:24
今回は、私がずっと軽く流していたことに焦点を当ててくださったようで、大変感じること考えることがありました。
日々の生活の中で、立ち方、歩き方、身体の構造についてなどは気にしていましたが、もっと深く「太極拳」というものを深く研究していったら出会えた”こと”だったのだと思います。
太極の意味が宇宙の根源だということは知識として知っていても、私にとってはあまりにも話が大きすぎて、それで?どう考えればいいの?というレベルで終わっていました。
自分が太極拳を理解するために、どう身体を使って動いて、どうあるべきか・・・「自分が」太極拳を掴むために・・の方向にいきがちで、「太極拳」とは何?という考えの方向にいかなかったですし、深く考えませんでした。
日本にも、宇宙の流れによる季節の移り変わりがあるという大事なことに、改めて興味が湧いてきました。
幸せなことに、太極武藝館には由緒ある神社の素晴らしい宮司様がいらっしゃいます。
四季折々に人々がどのようなことをしてきたか、などの知識も豊富にお持ちなので、機会があればそんなお話も伺いながら、興味を深めていきたいなと思います。
太郎冠者さんは、絵本から、そして宗師の稽古終わりのお話から、大事な事に気付き考えを深めました。これはもう『たいきょくけんでせかいをみるの』に入ってますよね。(笑)
とっても凄いと思います。
そしてそれをこの記事にしてくださり、本当にありがとうございました。
 
11. Posted by マガサス   2022年07月03日 21:23
師父が残してくださった沢山の言葉が、やっと自分の中で「生きたもの」に変わり、普段見ていた景色が色鮮やかに変化した時がありました。
その頃からでしょうか、宗師の言葉や生きる姿勢が、今までと違った形で自分の中に沁みてくるようになりました。
呼吸を合わすように、意識を合わすように、自分を空っぽの器にしてチューニングしていく必要を感じ、受け入れて、じっくりと味わうようにしています。
20年も経ってしまいましたが、師父に物事の見方、考え方の軸を作って頂いたんだと理解できました。
情けないことに、今までは苦しみや辛さや大変さの方が勝ってしまい、この事の重要性や大切さを理解することができずにいました。
自分の偏った考え方、なかなか修正できない頑固な自分にぶつかることばかりですが、そんな自分を認める機会を与えて頂いているのだと思い、今までほったらかしにしてきた自分とお話をしながら生活をしています。

太極拳即ち太極の道は深淵なるもの
師父が歩き続けたように、宗師が全身全霊で邁進しているように、成長し続けている仲間達のように、歩みを止めずに自分が心から必要だと思う太極拳を通して、世界を見ていきたいと思います。
いつも自分を省みるきっかけを頂き、ありがとうございます。
 
12. Posted by 平田玄琢   2022年07月03日 23:27
そもそも暦とは一体何を現していたのでしょうか。それによって日本人は何をしようとしていたのでしょうか。現在、日本の大多数の人達は暦を見ようともせず、「新しい占い」の方がおもしろく重要だと思っているようです。

「太極拳で世界を見る」これはとても大切なことだと思いました。どこかから流される情報で世界を見るだけでなく、自分が熱中できることで物事を見る事、そして、各々の仕事や趣味を通じ物事を見て感じたものはそれぞれが全く違う世界でしょう。

江戸時代から色々な暦が流行り始め、いったいどの暦が本物なのか解らなくなりました。そこで、明治政府は本物の暦を制定しました。伊勢神宮の暦です。その暦は、四季のある日本での自然の法則が載っていました。その法則により農作業が行われ、農閑期には祖霊崇拝をしました。雨・風・日照時間・潮の満干により播種時期を決めました。一般にいう大安仏滅赤口等、そういったものは別紙として挟んであります。

陰陽転換でいえば、日の出入、潮の満干、朝凪夕凪、夏至・冬至。まだ他にもたくさんあります。特に夏至・冬至は、ストーンヘンジ、マヤ文明、日本の一部の社寺に共通の事が起こるといわれます。私も神社でその現象を目の当たりにした時、これはそういう事だったのかと納得しました。

春が訪れ、桜が咲き終わると、お米の早苗を作り、早乙女の田植えが終わると早苗饗(さなぶり)で労をねぎらう。その過程は、なぜか神を現しているとされる「さ」「早」が付きます。そういえば、遠州見附の町を救った信濃の霊犬も早太郎といいました。八十八(米)という手間をかけ、実った稲穂は頭(こうべ)を下げ、もみが穂から解かれた時、穂解け(ほとけ)となります。まるで、日本人の成長度合いの様です。そして、一年の農事が全て終了する12月8日を「こと納め」といいます。農業を本義とした日本は、その日を開戦日としました。
 
13. Posted by 清水龍玄   2022年07月04日 05:12
以前、師父より、太極というのは大宇宙を意味すると教えていただきました。
その時は只今漠然と凄いものなのだという思いでしたが、太極拳の理は、この世の中にも流れており、また自然の一部である人の営みの中にも同様にあるのだと思います。
それを感知できるアンテナは、誰にでも備わっているのでしょうが、その人の向かい方次第で、何が見えてくるのか変わってしまうのでしょう。
自身は今何をしているのか、立ち返ってみたいと思います。
面白い記事をありがとうございました。
 
14. Posted by ふにゃ   2022年07月07日 23:21
太郎冠者さん、いつも様々な角度から素敵な記事を有難うございます。
興味深く、また、本部道場の稽古の様子が垣間見られるようで、とても楽しみにさせてもらっています。

「すうがくでせかいをみるの」読んでみました。
仰るとおり、可愛らしくて、文章少なめで、すぐに読むことができました。
…が、読み終えて何か違和感を感じ、何だろうと考えて気づいたのは、私の「数学に関する思い込み」でした。
先入観なしに、真っ新な気持ちで読みましょう…と、意識していたにもかかわらず、「数学好きの女の子!?私もそうだった!」などと心のどこかで、きっと女の子に共感できると期待してしまっていたのでしょう。
あれれ?何か違う…と思い、よくよく考えてみると、私の好きだったのは数学ではなく、数学という教科の、“問題を解くこと”それだけだったのです。
与えられた(中学生レベルの)問題をクイズかパズルのように解くことを楽しんではいましたが、もっと知りたい、学びたいと、自ら先へ進もうとすることも、そんな道があると気づくことさえありませんでした。もちろん数学で世界をみることも…。
自分の好きなことでさえきちんと認識できないのに、私の頭の中に、思い込みではないと言えることが一体どれくらいあるのでしょう。

夏至のお話も、宗師の言葉を直接お聞きしていただけに、太郎冠者さんの視点に、まさに頭をぶん殴られた思いです。

サビ付いた歯車を手入れし直し、その噛み合う音を自分の耳で聞いてみたいと思いました。
 
15. Posted by 太郎冠者   2022年07月12日 16:07
☆西川敦玄さん
日本人の感性・文化には、四季があることではぐくまれた部分が少なからずあると思うのですが、
最近では季節の循環でさえも少し狂っているように感じられます。

それは日本にも限らないことで、そうした中で人々の考え方や心にも、少なからず影響が出ているようにさえ思われます。
周囲に巻き込まれて自分が悪影響を受けないよう、しっかりと自分を確立しつつ、
ただ力まかせでもない、流れに合わせられるような、陰と陽を併せ持つしなやかな強さを持ちたいものです。
 
16. Posted by 太郎冠者   2022年07月12日 16:13
☆松久宗玄さん
我々だけで稽古をしていると、どうしても言葉による理解への努力に傾きがちですが、宗師がおっしゃっているように、感性、感覚による理解が武術習得への早道なのかな、と思います。

共感覚というのかわかりませんが、自分の場合は言語と皮膚感覚、物を触ったときの感覚が混ざっているときがありますね。
イメージするときには物体の手触りがリアルに浮かびます。
割と肌感覚で生きてるのかもしれず、鬼滅の剣士の猪の被り物の彼には共感を覚えます。
そういえばイラストの自画像でよくブタちゃんを描きます。
完全に余談でした。
 
17. Posted by 太郎冠者   2022年07月12日 16:16
☆川島玄峰さん
自分は毎回のごとく稽古に参加させていただいているのですが、そのたびに目を覚まされるような発見をさせていただき、頭をガツンと殴られているような感覚を受けます。

先日、宗師が札幌を訪問されたときのことをお話してくださったのですが、
「詰め込んできた」といい笑顔でお話をされていたので、さぞや頭が大爆発されたことでしょう(笑)

しかし、大人になり仕事をしながら平凡に過ごす毎日の中、これだけ自分の視点や価値観をがらりと変えてもらえるような体験をさせられるのは、本当に貴重なことだと思います。
そして、何よりもそれが面白く感じます。

また稽古をご一緒したいです。楽しみにしています。
 
18. Posted by 太郎冠者   2022年07月12日 16:23
☆阿部玄明さん
稽古で発見があると、自分が興奮気味に、
「〇〇は××だったんですね・・・!」と言うと、
玄明さんが冷静に、
「ずっと言われてるじゃないですか」とツッコんでくれる、というやりとりがここ数回続きましたね。

そのたびに「確かにー!」と思うのですが、それこそが稽古が型として残されている理由であり、理解を深めることで架式を習得できるように設計されている部分なのかな、とも感じました。

見方によって違ってしまうということは、見方を変えて、深めていくことにも使えるので、先人達はそれをこそ残してくださったのかと思いました。
違いを発見できることは、ネガティブなことではなくてポジティブ、上達できることが面白いことだと思えるようになると、稽古の質も少しずつ変わっていけるように思いました。

19. Posted by 太郎冠者   2022年07月12日 16:28
☆川山継玄さん
子供の手にかかれば、どんな些細なことでもすぐに宝物に早変わり。彼らの物事を純粋に楽しんでいける様子は、大人になったら忘れてしまいがちな、大切なものに感じられます。

太極武藝館での稽古が素晴らしいものだと思うのは、社会的な殻、自分がまとっていた仮面を外して取り組める場所だということではないかと思います。
もちろん、羽目を外して自由にしていいわけではなく、道場としての規律はむしろ一般社会より厳しいものだと思います。
ですが、そこに「自分はこうだから〜」とか、「こういうときはこうしないと〜」という不自然なものを持ち込む必要が全くありません。

すべて、太極拳を稽古し理解していくための様式がそこにあり、そのために洗練された形がある。
勝てばよかろう、儲ければ勝ちといったような価値観のあるこの世界において、その存在は非常に貴重なものに思います。

・・・なにか話がずれてしまいましたが、何よりも太極拳は面白い!その気持ちになれるのが本当に素晴らしいことだと思います。
 
20. Posted by 太郎冠者   2022年07月12日 16:33
☆ichiさん
自分は学校という場が、あんまり好きではなかった人間でした(友達といるのは楽しかったですが)。
大人になって知ったのは、現在の学校の制度、時間を決めてチャイムで動くという習慣が、そもそも近代の産業主義において、工場での労働人員としてひとつの場所に縛り付けて、時間通りに働くように人間を教育するためにそのようになったということを知り、愕然としたことがあります。

そもそも人間はそのようには出来ておらず、それを教育と称して習慣化させるとは、なんたる非人道的な行為でしょう・・・!
まぁ、教育について云々したいわけではなく、そのような価値観を知らずに刷り込まれてしまった中で、それを外して物事を見るというのは、シンプルなはずなのに難しくなってしまっているように思われます。

本当に大事なことはなんなのか、自分の心をしっかり見つめて稽古をしたいですね。
 
21. Posted by 太郎冠者   2022年07月12日 16:39
☆ユキさん
自分は、昼間に見える月が好きで、外に出てふっとそこに月があることに気づくと、すごくうれしくなります。

月というと夜空に出ている姿が浮かぶのですが、普段は見えにくいだけで(時間が合えば)そこにあるはずのもの。それは星とも同じだと思いますし、昼間に見える控えめな月明かりは、日常に埋もれそうになる自分をそっと応援してくれているかのようにさえ感じられます。

空が曇っていては月や星が見えないように、自分の心の曇りが物事の見えなさを決めてしまっているのでしょうか。
師父の仰っていたとおり、「晴れ晴れと立ち向かう」ことは、物事を見通す目を自分に気づかせてくれるのでは、と思いました。
 
22. Posted by 太郎冠者   2022年07月13日 20:42
☆ハイネケンさん
>心身の在り方は繋がっているという体験
それは素晴らしい体験でしたね。
稽古をしていると、自分で何か気づく、あるいは指導をしていただくことで、次の瞬間、まさに瞬時に自分の状態が変わるということを経験させていただくことがあります。

体が一瞬で鍛えられるはずもなく、認識が変わった結果そのようになると、考え方や心の持ちようは、体にものすごい影響力を持っていることが実感させられます。
自分自身を見つめ、それが変容を起こす瞬間を味わうと、またその感覚を求め、病みつきになってしまいますね・・・。
だからといって無理はせず、自分の体としっかりお話合いをしながら、丁寧に稽古をしていくのがベストかと思います。
お互いにがんばりましょうね!
 
23. Posted by 太郎冠者   2022年07月13日 20:49
☆マルコビッチさん
自分の拙い文章でしたが、何かのお役に立てたのなら幸いです。じっくりと読んでくださり、ありがとうございました。

「宇宙」や「太極」というと、すごく大上段に構えていて、どこか自分とは別の世界の話のように感じていたものでした。
宗師のお話にあった通り、季節の変化は日常の中でも必ず出会い、味わい、経験するものです。
そこにふと目を向けて、それらが織りなす糸の中に自分も含まれ、世界が変化する様と自分が生きることが混然一体となるような視点、それをガツンと頭に叩き込まれたような感覚に、自分はなりました。

「太極」を遠くのことだと思っていたのは、他でもない自分自身だったのだな、と思ったものです。
もっとじっくりと味わい、遊びながら、学んでいきたいと思いました。
 
24. Posted by 太郎冠者   2022年07月13日 20:55
☆マガサスさん
言っていただいた言葉が、自分の中に響き渡り、体験として生きたものになるとき、急に世界がパーッと開けたような感覚になるときがあります。

「言ったとおりだったろう」とニコリと師父が微笑まれている顔が浮かぶようです。
師父にかけていただいた言葉や、言外の行動で示していただいたこれまでの指導は、まさに種として自分の中に播かれたものとして感じられます。

その時は芽が出ず、わからないとしても、大切に世話をしていけば、いずれその芽を出し、いつか花が咲くか、大きな樹になるのかもしれません。
師父や宗師の姿を拝見し、そのように感じるからこそ、我々門人もそれぞれが奮起して、やってやろう、という気持ちになっているのかもしれませんね。
本当に、ありがたい場所に巡り合えたと、そう思っています。
 
25. Posted by 太郎冠者   2022年07月13日 21:00
☆平田玄琢さん
やはり玄琢さんには、一度じっくりとお話を伺う機会をいただきたいなと思いますね・・・。
この歳になっても、本当に知らないことばかりか年々それが増えていくようで、今まで何をしていたんだろうと思わされることばかりです。

特に、先人達が残してくださった数多くの智慧を、我々はどれだけ蔑ろにしてきてしまっているのか、想像するだけで恐ろしくなるものです。
時間の流れという濁流にもまれながら、それでも現代に生き残っている智慧というのは、それだけで生き抜くための英知の宝庫であり、汲めども尽きぬ泉のように思われます。

正に太極拳もその大いなる宝のひとつだと思いますし、それを稽古していくことは、文化や風習を大事にする心と重なる部分が多いにあるように思われます。
もっと、大事なものに目を向けていきたいと思いました。
また勉強させてください。
 
26. Posted by 太郎冠者   2022年07月13日 21:10
☆清水龍玄さん
20代の若いころですが、自分とは何か、宇宙とは、世界とはどういう存在なのだろうか?と、哲学とブンガクにかぶれていた時期が私にもありました(笑)。
その時の私にとって、自分とはやはりどこかで特別な存在で、我(ワレ)があるというのは、それと対置するように世界があり、そうした中で何かを見いだせる、云々・・・と。

自分もその世界の一部だという思考がすっぽり抜けておりまして、まさに若さ故、と言いたいところであり、お恥ずかしい限りでした。

世界には何も特別なことはなく、ただ淡々と循環し巡っていく。そして、それこそがまさに特別なことなのだと、太極拳の稽古を通して、特に大きくそれを感じるようになったものです。
何が言いたいかというと、特にまとまってはいないのですが、それでもこんなちっぽけな人間であることが、今の私にとってはたまらなく愛しいことに感じられている、という次第です。
 
27. Posted by 太郎冠者   2022年07月13日 21:23
☆ふにゃさん
コメントありがとうございます!
本を読んでいただけたとのことで、それもまたありがとうございました!

>私の好きだったのは数学ではなく、数学という教科の、“問題を解くこと”それだけだった
太極武藝館での稽古でもよく、学校の勉強と研究の違い、というお話をして頂きます。
教えてもらうのを待つのではなく、自分で取りに行く、学習していけなければものにならない、と言われております。

「すうがく」が好きな女の子の例でいえば、その子は子供が学校で習うカリキュラムの範囲を超え、学者や研究者の視点で数学をとらえているように見えます。
我々が太極拳を勉強していく上でも、そのような視点でとらえていかなければ習得など出来ないのではないか。自分の視点はどうなっているだろうか?と思い、今回はこの本を紹介させて頂きました。

・・・と、これだけ言葉にすると難しい話のように見えて、眉間の皺がまた増えてしまいそうですが、何よりも女の子が「すうがくがだいすき」なように、だからこそ純粋にのめり込んで行っているように、我々も大好きな「たいきょくけん」を純粋な気持ちで一心にやっていきたい、と思ったのが一番大きな理由です。

こんなに楽しいことに満ち溢れているのですから、楽しまなければ損ですよね?
またよろしくお願いします!
 

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