2022年05月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その60

   『自然に宿る強さ』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 先日、いつものように道場で稽古の準備をしていると、道場に敷かれたマットにたんぽぽの綿毛が落ちているのに気づきました。稽古前に気になったゴミは拾うようにしているので、その時も普段と変わりなく、それを摘んで回収したのです。
 その時、プツ、という手応えがありました。
 驚いてそのたんぽぽの綿毛、種子を観察してみました。白い綿毛の部分はしなだれていましたが、先端の黒い種の部分が少し伸びていて、なんとマットに穴を開けて根を張ろうとしていたのです。
 新しく交換して数ヶ月と経っていないマットに、一ミリにも満たない小さな穴が穿たれていました。前回の稽古の終わりにはなかったと思うので、その後でどこかから飛んできて、根を張ろうとしていたのでしょう。たった二日も経たないうちに、小さくて弱い種が、柔らかいとはいえ目が詰まっていて丈夫なマットに穴を空けたという事実に、心底驚かされました。
 とはいえ、土ではないためそこに根を張ったとしても、栄養がとれることなく、結果的にその種子は遅かれ早かれ枯れてしまったはずです。しかし、自らが成長するために一見困難とも思える場所にさえ根を張ろうとしたという、その生命力。
 稽古が始まるまでのわずかな時間でしたが、自分に対してさまざまに考える機会を与えてくれた出来事でした。

 先日のゴールデンウィークに、研究會では特別強化訓練が執り行われました。
 普段はできないようなさまざまな稽古が行われたのですが、中日にあたる二日目には、道場から出て、野外での稽古が行われました。
 川に入り、山を歩き、坂道を文字通り転げ回りました。
 また、みんなで競争をしたり、共同作業をして、食事を摂るという、有意義な時間を過ごさせていただきました。その前後の変化の様子は、稽古に参加した門人みんなを見るだけですぐにわかることかと思います。
 さて、その日の訓練を振り返ってみて、自分が一番に感じたことは、その日行われたことというのは、実は自然・野生に生きてきた人間が、昔から行ってきた生活様式、普段の日常とほとんど変わりないのではないか、という点でした(今回は食料を調達したりはしませんでしたが)。
 太極拳の稽古が行われたはずなのに、その内容はまるで、「人間とはこういうものだ」ということを思い出させていただくようなものでした。
 師父はよく「太極拳は常にそこにある、ただ自分がそれに気づけていないだけ」という表現をしてくださいましたが、今回の稽古において、自分がどれだけ人間としての能力が退化している、あるいは使えていないのかということに大いに気付かされたものです。
 それがあって初めて太極拳が自身の中にすでに備わっているのだと気付けるのだとしたら、自分を磨くということは、自分が本来持っている能力にまず目を向け、そうした上で向上させていかなければならないことなのではないか、と感じさせられたものでした。
 稽古が執り行われる道場という場は、師父や宗師によって耕され、用意していただいた豊かな土壌なのではとしばしば感じます。
 今回の特別訓練においても、玄花宗師が我々の食事などの栄養状態にまで気を遣って頂き、自ら用意して下さった料理を我々が休憩中に頂くという、普通に考えたらありえないことまで準備をしていただいていました。
 我々が降り立ったのは、根を張っても栄養なんかない赤いマットの上ではなく、栄養豊かで、臨めばどれだけでも成長していけるような場所です。
 そこまで用意して下さった上で、「成長できません」「わかりません」などと言っていては嘘になってしまいます。そこから先は、やはり我々に問われた責任なのではないかと思いました。

 ところで最近、気になるニュースをみました。それは、現在の野菜に含まれる栄養価が、数十年前のものより少なくなっているという研究記事でした。
 我々の祖父母が食べていた野菜よりも、ビタミンやタンパク質、ミネラルなどが、ほんの少しずつではありますが少なくなっているというのです。
 これは一体どういうことなのかと調べてみると、ざっくりと原因をまとめてみると、どうも現在の野菜は大量生産するために成長が促進されており、十分に養分が吸収できる前に大きくなって出荷されてしまうということ。
 また、同じ畑で同じ品種を育て続けることにより、土壌そのものの栄養価が落ちてしまっているということ。そして、二酸化炭素の濃度が世界中で上がっていることで、植物が水を吸う量が以前より少なくなっており、それに伴って栄養を蓄える量が減っているということ、などの点が上がってくるようです。
 もちろん、栄養が少なくなっているからと言って即座に我々が栄養失調になるという話ではなく、食べる時に多品種の野菜を摂り、不足しがちな栄養を補ってあげれば問題はないようです。結局のところ、普段の食事習慣で改善できる話ではあるとのことです。
 ところで、野菜の栄養価が減ると何が起きるかというと、実は野菜の味そのものにも変化が起きるようです。昔より野菜らしい味がしなくなった、今の野菜は野菜の旨み(野菜臭さ?)がなくなったという話を自分も聞いたことがありましたが、そういった理由は実はこういうところにあったのかもしれません。科学的なデータなどなくとも、感覚、自分の舌でそれがわかってしまう人間はすごいものです。

 この記事を読んだ時、太極武藝館で行われていることは全く逆のことだと思いました。
 環境を整え、土壌を豊かにし、我々一人一人が、即席栽培で大きくなる=強くなることを目的とせず、人間として大いに成長し、太極拳という豊かな文化を育み、伝承していける一員となることを目指すための場・・・。
 大量生産で市場に出され、利益を出すことを目的とした野菜の栽培とは、全く異なった発想がそこにはあります。もちろん、生活の上でそれは必要なことだとも思いますし、全てを否定するわけではありません。
 ですが、世の中には、それと全く異なった価値観で育まれている世界があるのだということを、我々は頭の片隅、と言わずに頭の真ん中にしっかりと刻んでおかなければならないのだと思いました。

 そうでなければ、現代に大きく広がった資本至上主義とは全く相容れない、伝統文化という土壌の本質など理解することは難しく、そこで自身を成長させようなどということは、まるで夢物語のようになってしまうと思うからです。
 私は、豊かな土壌を用意してくださる太極武藝館に出会えたことを幸運に思いますし、またその環境に甘えることなく、自らもその一員としての責任を果たしながら、成長していくことに努力をしていかなければいけないと感じました。
                                (了)



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disciples at 21:45コメント(24)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2022年05月28日 01:24
今回のお題での中で共通しているなと感じた事として、
タンポポも、強化訓練中の我々も、昔の野菜達も、
純粋に生き物として生きる事に対して懸命だった、という事です。

現代人もそれぞれに懸命に生きているとは思うのですが、
それは社会の中の関係性において、社会的な生き物としての一生懸命であり、
そもそもの立つ舞台と方向性が大きく異なります。

太極拳は武功藝術の極致でありますが、その美しさは都会的あるいは人工的な美ではなく、
自然の営みの中にある規則性や法則性に連なる美として実感されます。
精緻に理論化されてはいますが、その根は武術の本質として、野生に根ざしています。

今回の野外訓練では、自分の中の野生のセンスの目覚めを自覚し、
それを太極拳の稽古に活かす事が出来た事、と合わせて、
日々の日常が如何に野性から遠く離れてしまい、社会という枠の中で飼われている状態であるかを、
強く自覚するきっかけにもなりました。この気付きは今後より掘り下げたい、と思います。
 
2. Posted by 阿部玄明   2022年05月28日 01:49
昔の人は生活のためにやむを得ずという側面があるにせよ
立って作業し荷物担いだり畑を耕したり水を汲んだり
動き回っていることが多いのに対し
我々現代人の生活様式は大人であれ子供であれ
椅子に座ってジッとしている時間がとにかく長い。

徒歩で歩こうとしても大した距離は歩けない。
昔の人は貧しい食事しか取れず乏しい栄養しか補給できなかったとしても
飛脚のように何十キロも平気で走れる。
現代人は栄養が豊富な食料を食べているにもかかわらず
動けないのは栄養の問題ではなく種として体の機能が退化しているのでしょうね。

生物の種が進化することは必要性があって新しい能力を獲得するのであり
退化するのは必要性がなくなったから能力を手放す選択の結果だとする。
現代人はかりそめの平和と豊かさを見て
戦う必要性がないと思ってしまっているということになる。
本当にそれでいいのだろうか?
太郎冠者様の記事にもあるように先日の強化訓練は厳しいものでしたが
自然の中で自分が追いつめられることから見えることもあり大変勉強になりました。
自分を甘やかさないことが退化しない秘訣のように思います。

道場とは敢えて厳しい状況に自分の身を置きながら
戦う術を身に付けることができる貴重な場です。
ほんの些細なヒントも見逃さず
精巧に設計された学習システムに感謝しながら修めてゆきます。
 
3. Posted by 川山継玄   2022年05月28日 02:11
マットに根をはろうとするたんぽぽの綿毛の生命力に驚くと同時に、意志の力と身を置く環境の大切さを感じました。

私も先日の強化訓練に参加させて頂きました。
各自が最初に目標を掲げて、皆の前で言葉にして発表しました。
それぞれが皆違う目標を持ち、未知なる訓練に臨んでいるのだな、と一人一人がユニークな存在であることを認識しました。
玄花宗師が時間と労力を惜しむことなく、繊細に且つダイナミックに、練り上げてくださった今回の訓練。
「こうなりたい!」という強い願望を持ち、「何が何でも!」と我武者羅に取り組みつつも、様々な状況の中で自分を見つめ続けることができた三日間は、本当にかけがえのない財産となり、その後の稽古に大きな変化をもたらしてくれました。

マットの上に根を張ったものの、摘まれてそこでは育つことができなかったたんぽぽ。
しかし、摘まれたことによって、窓から風に乗って土に着陸し、再度根を張り成長し、種を残すことができる。このたんぽぽの、生きるという強い意志が、このような展開をもたらしたのだと思うのです。
限界を自分で設けて小さく収まってしまうのではなく、変化を恐れて同じことの繰り返しを選ぶのではなく、我が身の内に存在する太極という大宇宙の無限の可能性を信じて、日々精進したいと思います。

今回も、太郎冠者さんの瑞々しい感性と、探求心に満ちた投稿をありがとうございました。
 
4. Posted by ハイネケン   2022年05月28日 08:41
先日ニュースで北海道の納沙布岬が映ると本州育ちの家人が「北方領土って、こんなに目の前なの?」と驚いていました。距離約4キロ。
幼少の時から北方領土を眺める機会があった私と感覚が違うのだと、肌で感じる大切さを感じました。

自分の今の視点を変化させようという取り組みは大切ですが、稽古を流行りのトレーニング方法に沿ってトレンドの視点から見ようとすると、トレンドという物差しは変化し続け価値が上がったり下がったりとなかなか大変です。
また視点を変えて、ある基本功で求められる要点と敢えて真逆の事、つまりダメと思われる事を意識してやってみると、今の自分の向き合い方では間違えている事が端的に浮かび上がりました。
そういえば稽古を指導されている時でも「こうではない」と実践もして頂いて、そのダメな真似もしているのにダメな内容に気が付かないままでした。
何も気付けないよりは、失ってから大切だったと気づけた方が良いのですが、
失う前に大切だと気付ける方がより良いのでしょうね。
自分の物差しで「正解だけ」を追い求めるという変な癖、私の価値観が私の邪魔をしています。

太郎冠者さんの稽古への取り組みを通してこの様に文章を書くと、自分の稽古への甘さを認識するため書きながら心がヒリヒリとすることがよくあります。ありがとうございました。
 
5. Posted by 西川敦玄   2022年05月28日 11:03
マットにも根をだすタンポポの力強さ、驚きますね。一方、その話を聞いて私も小さい頃の夏の日、庭でスイカを食べて吐き出した種から固い土の上に芽と根を出していたのを思い出しました。干からびたり、芽が出てもか細く枯れていく姿に幼心にはかなさと空しさを感じたことを思い出しました。その感覚の違いは年齢によるものか?野草か野菜かの違いによるものか?炎天下か室内かの違いによるものか?いずれでもあり、そうでないのかもしれません。

人参などの味が以前と変わったことについても、様々な理由が挙げられているようです。どのような理由でも野菜を取り巻く環境に反応して野菜が変わってしまったとの理由の様です。理由を考えると、進化論しかり環境に反応との理由になるのでしょう。人間も野菜と同じ生物と考えると、野菜同様、環境により味が濃くなったり薄くなったりするのかもしれません。

先日の野外での訓練(稽古)自体すべて宗師の工夫でもあり、知らず知らずの変化を私たちにもたらしてくれました。裏山の自然の豊かさの中、あるいは浅くとも川の流れの中、芝の上であっても勾配起伏のある斜面上など、平坦な室内ではできない環境では、身体や脳も対応せざるを得ないのだと思わされました。人間は生物である一方、未だ薄弱ではありますが意識の存在でもあるでしょう。渾然となった環境にたいしてどのような姿勢でのぞみ、芽を出して成長していけるか。
ブログにありますように、根と芽をだせばよいところは、そこに在ると思います。
芽や根をだす、力を信じて。
 
6. Posted by 清水龍玄   2022年05月28日 17:22
コーデンウィークの特別強化訓練に参加された皆様を見ると、
肉体的に強化されたとか、何か新しい事を手に入れたというような変化ではなく、まるで人間的に大きく変わられたように感じました。
そして、その後の稽古での変わっていく変化の度合いが非常に大きいように感じられます。
皆様の変化に大変刺激を受けます。
私も負けない様、稽古していこうと思います。
 
7. Posted by ユキ   2022年05月29日 02:19
面白いですね、記事を拝見していると、まるでたんぽぽの方が人間よりも生き残るための欲求や力そのものが強いのではないかと思えます。
たんぽぽの綿毛にとって「生き残る」とは、自分が他のたんぽぽに負けない最高の花として存在し続けることでもなければ、立派な真ん丸な綿毛を飛ばされることなくいつまで維持できるかでもなく、子孫を残すことです。つまり種が絶えないということです。
小さな一粒の自分を肥やしにして、そこから芽を出したくさんの花を咲かせて、、そしてまた何十何百という綿毛を飛ばして次の世代へと繋いでいく。私はそこに「利己」ではなく「利他」の精神をみました。

玄門太極拳が途絶えることなく伝承され、さらに発展し、連綿と受け継がれてゆくこと。
そこには「自分が強くなること」とか「自分が理解すること」ということでは成し得ず、「自分」が落ちさったその時に、初めてたんぽぽのように当たり前に受け継がれてゆくのだと思います。
なんとも、美しいものですね。
 
8. Posted by マルコビッチ   2022年05月29日 02:20
たんぽぽの綿毛の生きようとする力には感動しますね!
風に吹かれてフワフワと飛ぶ、何百何千の綿毛たちの降り立つところが土の上とは限らないのだと、改めて思わされました。
私たちはたんぽぽの綿毛ではないので、風に吹かれてどこに降り立つかわからないなんてことにはなりませんよね。
生きていく中で、風に吹かれ、雨に打たれても、自ら進む道を選ぶことができる。
太郎冠者さんの仰るように、豊かな土壌である太極武藝館に出会えたことは幸運ですし、たんぽぽが土の上に花を咲かせる確率よりも低いものだと思います。
ただ、そこで根を張ってひょろひょろと芽を出したままではなく、きちんと自ら栄養を取り入れ、陽をあびて成長し、花を咲かせ実をならさなければ意味がありません。
そして、そこまでの道のりの中でも選択の連続であるのだと思います。

今回この記事を拝読して、人は、大いなるエネルギーの流れには逆らえないのかもしれないけど、風に吹かれてもその方向を知り、川に流されても深さや速度を感じ、自分で立ち上がり歩いていくこととのバランスが必要なのではと、そんなことを思いました。
身体のバランス、心と身体のバランス、自然と自分とのバランス、宇宙と自分とのバランス・・・
稽古していく中で理解していけたらと思いました。
 
9. Posted by ichi   2022年05月29日 09:25
マットの上でも根付こうとするタンポポの綿毛に、生きようとする強い意志みたいなものを感じます。
翻って自身を省みた時に、何かする時にまずは出来そうかどうか考えてしまいます。
そして障害になる様な事があると、やる前にそれを諦めてしまう事があります。
ですが、タンポポに限らず自然の生命力を目の当たりにすると、条件が揃ってるかどうかは問題ではなく、まずはやろうとする意志が大事だと感じました。
また、野菜の栄養が少なくなっているという話については、野菜も人も豊かな土壌で時間を掛けて成長していく事が大事だと思いました。
ともすると、分かりやすい物や、簡単に習得出来そうな事を求めてしまいがちですが、本当に大事な事、価値のある物は簡単に理解、習得出来るものでは無いという、当たり前の事に気付かされました。
 
10. Posted by 川島玄峰   2022年05月29日 09:58
マットに根を張るたんぽぽの生命力には驚きました。しかし、成長のできる養分が豊富にある本当の土壌にたどり着けなかったのは残念です。
私の近所に咲いている綺麗なお花畑は、栄養たっぷりの良い環境の土壌なのか力強く咲いています。
種子から根を張り、土から抜け出て花を咲かせるまでどれだけの危機を回避してきたのだろうと考えてしまいました。

私は、運がよく栄養豊かで環境の整えられた本当の土壌である武藝館にたどり着き、根を張ることができました。
その土壌は遠く離れた場所からでも、宗師から教えて頂ける環境があり、一緒に稽古ができるすばらしい仲間が養分になり、お互いが自らを成長できる畑のようです。その土壌で仲間と花を咲かせるには、マットに根をはるたんぽぽのような生命力を見習う精神で稽古をしなければならないと思いました。

一緒に稽古ができる仲間の重要さを再認識することができました。
ありがとうございました。
 
11. Posted by 平田玄琢   2022年05月29日 15:21
私も、二日目の訓練は、昔の生活様式のように思いました。そして、子供の頃を思い出しました。風呂やかまどの燃料は「もや」という木の枝でした。当時、薪は高価貴重な燃料であり、私の家は、もっぱら神社の隣のうちの山で拾った松葉と木の枝を燃料としていました。
食料も自給自足でした。小学校から帰宅すると、祖父の「裏の畑の肥えまき」に遭遇し息を止めて走りました。「つぶし」という卵を産まなくなったチャボをしめている姿も目に浮かびます。私もお湯の中で鳥の羽をむしる作業を手伝いました。よくむしらないと食べる時 羽の根が残り気持ち悪かった事と、子供では、とても噛み切ることが出来ない硬い肉をずっと普通の鶏肉だと思っていたのでした。
今回の訓練は、たぶん私の筋や肉もそのような硬いものになりつつあることを自覚しました。
屋外訓練で感じたことは、川や山に入ると自然に体が動かざるを得ないという事でした。その感覚を持ち続けて稽古に臨みたいと思います。

私の子供の頃は食べ物に好き嫌いが多く、給食の時間が終わって掃除の時間になっても食べ終わるまで居残り、皿に盛られたおでんの大根がどうしても食べられず涙でかすんだ嫌な思い出があります。
大人になってからは、食べ物の好き嫌いはないと豪語していましたが、「昔の人参」をもらい食べたところ、えぐくてとても食えたものではなく残してしまいました。好き嫌いが無くなったのではなく、いつの間にか時代のニーズにより野菜が食べやすいものに変わっていただけでした。
先日、和歌山県で本物の無農薬野菜を作っている方から、ほうれん草とキューリが送られてきました。それは、今迄食べたことのない美味しさと、生命力があふれていました。無農薬で野地葉物を育てるには、大変な苦労と工夫があったものだろうと感心すると同時に、私たちにとって本来の生命力を阻害している農薬に値するものはなにかと考えさせられました。
 
12. Posted by マガサス   2022年05月29日 23:29
タンポポの種子がマットに根を張ろうとしているなんて・・・そんなことがあるんですね
「野生の生命力」は本当に偉大です
自分も軟弱なことを言っていられないなと、反省しました

ゴールデンウィークの研究会特別強化訓練では、野外訓練の時にお手伝いで参加させて頂きました
当日は、お昼・午後・夕方の3回、合流したのですが、皆さんの変化に大変感動しました

一日中野外で過ごし、普段は絶対にやらない様な事をして、夕方にはさぞかし疲れ果てていらっしゃるのではないかと思っていたのですが、全くの逆で、皆さん目がキラキラとして、とてもリラックスした表情で、体の力が抜けてとてもしなやかな軸になっているではありませんか!
私がこのような事を言うのは大変失礼かと思いますが、皆さんの「素顔」を拝見したような気がして、お一人お一人がとても清々しく生き生きとされている様に感じました

自分を固定観念で縛り付け、行動を規制し、自分の限界を自分で決めてしまうのは、なんとももったいない事です
師父や宗師からの教えを大切にして、自分が持っている力を最大限に伸ばしていけるよう、精進します

良い刺激を頂き、本当にありがとうございました

13. Posted by 太郎冠者   2022年06月02日 22:28
☆松久宗玄さん
現代の社会も、人々が協力関係を築くことではじめてここまで発展してきたのであり、それはもちろんすばらしいことであると思います。
太極拳に限らず、伝統というものに関しても、先人たちに培って頂いてきたうえで今があるわけですから。

ところが、まさに仰る通り、我々の体は、毎日椅子に座って生活するようにはできておらず、もっとアクティブに使わないといけません。
その土台が当然としてあったうえでの武術だと思うので、やはり我々は、忘れてしまっている自分自身に宿っている力を思い出さなければならないのだと思います。
今回の強化訓練は、そう認識させていただけた貴重な機会だったと思いました。
 
14. Posted by 太郎冠者   2022年06月02日 22:32
☆阿部玄明さん
便利になっているはずの世の中なのに、そこで生きる我々が実は身体的に退化してしまっているというのは、少し不思議な気もしますが、おそらく事実なのだと思います。

人類が狩猟採集生活から農耕を中心とした生活に移行した時、種全体として見れば爆発的に人口を増やす結果となったそうですが、人間個人個人を見ると、実は栄養失調で生きることが難しくなったという研究を見たことがあります。

果たして、個人にとっては何が本当の幸せで、最大限に生きるということなのか。
もっとじっくりと見つめることが必要だと思いますし、そうしなければ太極拳の理解も生じないのではないかと感じています。
 
15. Posted by 太郎冠者   2022年06月02日 22:36
☆川山継玄さん
しっかりと自分で言葉にすることで、自分の中にあるものを明確にし、また気づいていなかったことを新たに発見することにも繋がるように感じました。

太極拳の稽古においても、漠然とその日の稽古をこなすのではなくて、自分が何に取り組むべきなのか、課題を明確にし、それに対する発見を目指すことによってのみ、はじめて気づきが生じるように思います。
そして、その気づきの中には、それまでの自分になかったものが含まれており、それがまた、新しい成長の糧になるように感じます。

余談ですが、たんぽぽの綿毛は残念ながらゴミ箱へと・・・(笑)
ですが、綿毛が穿った穴、生きるための意志の痕跡は、今も道場のマットに残っているはずです。
 
16. Posted by 太郎冠者   2022年06月02日 22:43
☆ハイネケンさん
トム・クランシー著「いま、そこにある危機」というハリソンフォード主演で映画化された作品がありますが、まさに気づいていないだけで危機はそこにあり、その感性がなければ武術の習得は困難なのだと、いつも道場で指導していただいています。

人間は元来怠け者の性質があるので、本当に必要でなければそれをしたいとは思わないようなので、危機感なくして武術は身に付かないのだと思います。
では眉間に皺を寄せて眼を鋭くしながら稽古していれば理解が生じるかというとそうでもなく、むしろ適度にリラックスした状態のほうが、気づけることが多いのもまた事実です。

ならべてみるとまるで矛盾しているように感じますね。
それが矛盾ではなくきちんと循環しているのが、太極の理と言われている部分かもしれず、それを理解してはじめて、何かが見えるのかもしれません。
なんだか抽象的な内容になってしまいました・・・。
 
17. Posted by 太郎冠者   2022年06月02日 22:50
☆西川敦玄さん
師父が以前、「小さな種の中に、すでにそれが大木へと育つものが備わっている」というお話をしてくださったことがあります。
それが非常に印象深く記憶に残っているのですが、いつも思うのは、ではそれはどのようにして大木へと育っていけるのか、という点でした。

生化学的な仕組みとしては、種の中にあるプログラムが、栄養のある方へ反応を起こしながら少しずつ変化を重ねていくという、機械的とも思えるプロセスを経ています。
ところが、それを総体として見ると、まるでそれに意志が宿っているかのように、我々の目には映ります。
両方の視点で見てはじめて、物事の全体が理解されて、その全体性の中ででしか本来は何も生じないのではないか、などと漠然と思いました。

成長する努力を惜しまず、かつ流れに身を任せられる力みのない状態、そういうもので稽古と人生に取り組みたいと思いました。
 
18. Posted by 太郎冠者   2022年06月02日 22:56
☆清水龍玄さん
本当におっしゃる通りで、特別訓練に参加させていただいてから、変化の仕方といいますか、取り組み方そのものに変化が生じたように感じています。

これは、毎回の稽古そのものに関してもそのように感じられて、特別訓練の前と後では、道場での稽古の質も少し変わってきているのではないかと思います。質が、明らかに上がってきているように感じられるのです。
というのも、連日稽古に参加させていただいていると、「こんな内容までやるの??」ということが多く、毎回毎回、必死でくらいついていかないと置いていかれる〜という思いでいっぱいになるのです。
これは非常にやりがいがあって面白いのですが、その分、自分でしなければならないことも指数的に増えていくように感じるので、やはり乗り遅れないようにしないと!と思うのです。
このまま続くと、どこまで変化していくのでしょうか。楽しみですね。
 
19. Posted by 太郎冠者   2022年06月04日 01:38
☆ユキさん
以前面白い研究を見たことがあるのですが、それは、生物(細胞)にとって老化や寿命というものは、先天的に逃れえない性質なのではなくて、進化する過程で獲得してきたものだ、というものでした。

たんぽぽの綿毛のような、生き物の生殖細胞が環境さえ良ければ延々と増え続けられるように、細胞にとって増殖の限界というのは、本来なくてもよかったはずです。
ですが、生き物はそれをよしとはせず、自らに寿命を設けました。
それは、自分が退くことによって、次の世代へ機会を残し、新しいものを作り出す可能性を与えるためだ、というのです。
散る美しさといいますか、わびさびの心といいますか・・・。古来より日本人は、そういった精神性を持ち合わせていたように思います。
大切にしていきたいと思いました。
 
20. Posted by 太郎冠者   2022年06月04日 01:44
☆マルコビッチさん
世の中では「置かれた場所で咲きなさい」という本がベストセラーになっております(読んだことはないのですが・・・)。
師父でしたら、そんな消極的なこと言ってないで場所なんて自分で作るんだよ!と仰りそうです(笑)

植物と違って人間は、幸運にも自分で考える頭と使える手足を持っているので、大いなる流れを感じながらも、それに乗りながら、より良いものを目指していくことが可能なのではないかと思います。
そうでなければ、生き物は人間になどならずに植物のままでいればよかったはずですからね。

ただ、草木と同じで、多少の雨風に打たれたほうが人間も強くなるような気がするので、少しばかり波風にもまれないといけないのかな、とも思います。
精進してまいります。
 
21. Posted by 太郎冠者   2022年06月04日 01:49
☆ichiさん
簡単に出来ることは、最初はそれで楽しいかもしれないですが、人間とは強欲なもので、次第にもっと難しいものを求め始めてしまうのではないかと感じています。

太極拳がここまで発展してきたのも、大事なものを守るためという、必要性もあったかと思いますが、わりと大きな割合で、太極拳を追求することへ純粋な楽しさを見出してきた、という理由があったのではないかと思います。

極端な話、敵を屠るだけだったらいくらでも他にいいやり方があったはずなので、このような芸術にまで発展させる必要は、本来なかったのではないかと思うのです。
それが、ここまでのものとして残されているのだから、おそらく見いだされた楽しみによって研鑽され続けて、発展してきたのではないでしょうか。
我々が武術を志すのだとしたら、そういった部分の魂も、味わっていかなければいけないようにも感じました。
 
22. Posted by 太郎冠者   2022年06月04日 01:55
☆川島玄峰さん
一緒に稽古ができる仲間というのは、本当に掛け替えのないものだと思います。
武藝館に所属している門人たちは、みんな武術が好きで興味を持ち、日々の稽古に励んでおられるかと思います。

ひとりでやっていても生じる喜びは、みんなで分かち合うと、より大きな喜びになるように感じます。
稽古というものは一人で行うものであり、孤独なものであると言われますが、その情熱や喜び、楽しみを多くの人と分かち合うことが出来ないわけではないのだと思います。
そうして、たんぽぽの綿毛のように、だれかの心にまた情熱が宿れば、それが火種となって次代の多くの人々の心に残っていく。
そうやってこそ、伝統は発展していけるのではないかと思いました。

もっともっと、頑張って取り組んでいこうと思います。
 
23. Posted by 太郎冠者   2022年06月04日 02:02
☆平田玄琢さん
玄琢さんのお話を伺っていると、我々が便利だと思っている生活というのは、本当につい最近からはじまったものであり、本来は自然と共に生きてきた人間の姿と紙一重の差しかない中で生きているのではないか、と感じさせられます。

すぐ隣にあるのに、見て見ぬふりをして、現在の生活・自分に埋没してしまう。
これは、稽古をしていても全く同じことがいえるのではないかと思うので、いつも反省しなければいけない気がしています。

逆に言うと、ふとしたことで本来の自分に気づければ、自然に宿っている力にそのまま出会えるということなのかもしれません。
そこにこそ、太極拳に求められているものがあるのかもしれません。

強化訓練では、山や川を歩き、動き回るとどんどん変化していく自分が確かにありました。
目を向ければ見つけられそうなくらい本当は些細なことなのかもしれない、そこにある可能性にもっと気づけるセンサーを磨かなければいけないように感じました。
 
24. Posted by 太郎冠者   2022年06月04日 02:06
☆マガサスさん
強化訓練の後半で目がキラキラしていたのは、もしかしたら疲れがたまってきて少しハイになっていた可能性も否定できなくはない、ですね(笑)

ですが実際に、それだけ疲れていたはずなのに(情けない話ですが)、力が入らない体はいつもより繊細な動きを生じさせていて、普段と全く違った感覚に満ちていて、思い返せば不思議な感じがしたものでした。

ファンソンしなさいといつも指導していただいてますが、普段は本当に無駄な力がみなぎっていて、心身が本来持っている力を全く引き出せていないのかもしれません。
どれだけもったいないことをしているのでしょうね・・・。
余分なものを捨ててありのままでいられるとき、はじめて本当の自分の力が分かるものなのかもしれませんね。
 

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