2022年04月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その59

   『変化するものと合わせる』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 最近の稽古において、自分の課題として、「動くこと」というものに焦点が当てられています。稽古全般を通して、玄花宗師の動きと比べ、明らかに動きが少ないのです。
 それは万人が見てもそう感じられるというレベルのもので、よく見なければわからないという程度ではないのです。明らかなのです。
 では、自分は自分の動きに固執していて、全然真似をしようとしていないかというと、まったくそうではなくて、全力で真似をしようとしているはずなのです。なのに、まったく違う動きしかできていないのです。
 自分にはまだ見えていなくて真似できていない動きも、当然あるかとは思うのですが、それだけではなくて、確かに見えているはずの動きも、真似できていないのです。
 見えているために、動けていないことが分かるのですから・・・。

 ところが、それが分かっても全く問題は解決していません。
 これは由々しき事態です。
 ともあれ、放っておいてもどうしようもないため、問題解決のため、状況をいくつか推察していくことにしました。

 まずはとにかく動きを大きくして真似してみること。
 動きが足りないのだから、もっと大きく動けばいい。

 シンプルな方法ですが、一番最初に取り組むことができます。
 玄花宗師の後ろに付いて動く機会を得たとき、それを実行してみます。ところが、それではどうしても動きが合わないのです。真似しているはずなのに、やっぱり違う動きをしているのです。
 そうして、問題の別の側面が見えてきます。
 
 そもそも動こうとしている箇所、体の動き方そのものが違うという点です。
 こうなってくると、また違う側面と向き合わなければならないということに気づかされます。自分はいったい、どのようにして体を使おうとしているのか、という点です。

 これは考え方や発想という点と結びつくかと思うのですが、人間の頭と体は本来不可分であり、表裏一体であるはずです。
 考え方を変えれば動きも変わるといえますし、逆に、動きを変えれば考え方も変わるともいえます。


 先日の火曜日の一般武藝クラスでは、普段ではやらないような「スペシャルな稽古」が行われました。
 玄花宗師の計らいではあったのですが、宗師は「こんなことをする予定ではなかった」と仰っていたので、逆に言えば稽古に参加した我々門人がその稽古を引き出してきたともいえるのかもしれません。これもまた表裏一体です。

 その稽古では、詳細は省きますが、自分が抱いていた考え方ががらりと変わるような、それでいてやれば誰でもできるような(一人では不可能ですが)、体を使った稽古が行われたのでした。
 そこで得られた自分の感覚は、それまでは気づけなかったものが非常に多かったのです。

 例えば、体を動かす、使うというときに自分が意図していたのは、ある意味では無駄な動きであったということ。そのような無駄な動きは、動く際には余計なものであるため、必然的に続けていく中で省かれていってしまいます。結果、動きは小さくなります。
 ところが、その稽古においては、嫌でも体を使うことが要求されます。そうしなければ一歩も動くことができなくなってしまうからです。
 そして、いざ一人になったときに自分の動きを振り返ってみて初めて、もっと自分の体が細かく分かれて動けるのだということが認識されました。

 玄花宗師の動きを拝見させていただくと、門人の皆さんの中からよく、
「すごく動いている」「自分たちより関節が多く見える」であるとか、はては、「宙を舞っているようだ」といった意見が出てきます。
 自分でも拝見させていただくと、それらの意見には全面的に同意である上に、毎回の稽古でちょっとずつ動きが変わっていっているようにも見えるのです。
 本質は共通されていても、同じであるということがなく、常に進化し続けているように見えるのです。
 それは、玄花宗師の動きが大きく、かつ動き続けているというだけでなく、その考え方においても、稽古に対して動き続けているような頭の使われ方をされているという現れなのではないかと感じます。

 稽古に対する発想でさえも、我々は固定的にしがちです。というのも、変化がない=安定した状況のほうが自分にとっては安心できる材料になるからではないかと思います。
 ところが、この世界は常に生々流転しており、変わらないことがあるとすれば、それは常に変化しているという点しかないのではないかと思います。
 その流れに逆らって、自分が固執的になり、太極拳の真理=絶対的なものを探すと称して、変化することのない安心感を探しているのだとすれば、それが見つからないということは道理ではないかと思います。
 そういったことを玄花宗師はしておらず、それを我々に示してくださっているようのではないかと思います。

 円山洋玄師父はよく我々に「君たちには遊びが足りない」ということを言ってくださいました。一流の人間は、その遊び方さえも洗練されており、一流のように見えます。
 翻って我々が「遊べない」と言われるのはどういった理由があるのでしょうか。
 遊びには楽しさが伴っており、そのためには物事が変化していく様子と、それに驚き受け入れることのできる性質が必要とされるのではないかと思います。

 多少乱暴な論法になりますが、我々が遊べないのは、物事の変化を受け入れるだけの器の大きさがない、という現れなのかもしれません。

 未知のものに出会い、それを楽しめるかが遊びの本質であれば、安心安定を求め、絶対不変の法則を探すなどとうそぶいているようでは、それは遊びの本質ではなく、それでは太極拳はわからないのだと、言っていただいていたのではないでしょうか。
 そのような状況では、千差万別に変化する戦いの場において対応できるような体の動きなど生じるはずもなく、それが稽古の中で端的に表れていたのではないかと思います。

 体の動きを変えることは頭を変えることであり、その逆もまた然り。

 太極武藝館の稽古においては、それに必要なものをすべて提示していただいているように感じます。あとはそれを、我々門人ひとりひとりが、どれだけ生かして自分のものにできるかという点のみが、問われているのだと思います。
                               (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その60」の掲載は、2022年5月22日(日)の予定です

disciples at 17:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2022年04月23日 08:28
自転車のペダルを漕ぐと、車輪が回転しますが、変速機があると同じペダルでも「重く」なったり「軽く」なったりします。
「重くなる」のはペダル自体ではなく、チェーンを介して繋がるギアのサイズにより重さ(仕事)が変化しますが、実感は「ペダルが重く」なります。
直接目で見て、体感で感じていたとしてもメンテナンスとしてギアに油を射す人もいれば、油切れすら気付かずに乗り続ける人もいます。(因みに私は油切れまで気付かない人です。)
一つの事象を視点を変化させて捉えてみる事を進めようとすると、自分の考えが固定化している事を自覚したり、他者を見ることで参考にさせて頂いたり、実は色々な選択肢が在る事に気づくのかもしれません。正しいかどうかはまたその先の事になるのだと思いますが。
そう思うとシンプルに見える基本功の奥深さや太郎冠者様の文章から読み取れる在り方に活き活きとした物を感じます。
稽古をしたくなる文をありがとうございました。
 
2. Posted by 西川敦玄   2022年04月23日 14:48
太郎冠者様の現在の問題に取り組まれている様子がうかがえる投稿だと思いました。
今回は「動きが少ない」との問題の解決が太郎冠者様が取り組まれている課題だと理解しました。
私としても折角なので、課題の解決について考察してみました。
動きが少ないとの問題に対して、太郎冠者様はまず動きを大きくしてみるというアプローチを取りました。そうすると動きが合わないとの新しい問題点が出てきました。そこで、太郎冠者様は動いている場所がそもそも異なるのではと・・・。とても、稽古の事を考えられていると思うのですが、例えば、本投稿ではあまり触れられていない、道場稽古以外での一人での稽古ではどうアプローチする方法があるでしょうか(見られていると恥ずかしい様なこともしたい放題です)。道場稽古の内容をなぞることも大事だと思いますが、ここでは少し別の視点をもった方法を考えてみたいと思います。たとえば、動きの大きさという視点でみてみます。そして、かりに基本功の動きに限定してみてます。そうして、道場では行わない様なめちゃくちゃ広い足幅で基本の動きを行ってみたとします。そうした上で、道場とは逆に、その広い幅の中で、狭い中で行っていることができるかどうか、何をしているのか見てみたりします。すると、違う視点での動きについての視野が広がってくることが起きてきたりします。これは、遊びなので繰り返しトレーニングで体に覚え込ませる様な方法ではありません。だって、それは明らかに絶対的な決まった原則ではありませんから。さらには、動きという面を考えてみると、太極拳である前に人間としてどう動けるか、色々試してみても面白いかもしれません。そこから太極拳の原則にもどるというのも面白いのではと思ったりします。
そんなことを思ってみました。
私も、しっかり向かい合って稽古に励みたいと思います。
 
3. Posted by 松久宗玄   2022年04月23日 15:59
動ける、動けない、という事と、
本来は頭と身体は不可分である、という事の対比には、確かに重要な示唆があるように思います。

私も含めて現代人は、
自分の頭の中や、あるいはネットやスマホで拡張された世界の中で、
体を使う事なく頭だけを働かせて生きられるようになり、
実際に自覚する事もなく、そのように生きてしまっていると思います。

頭の中で、理解した事と、
身体を通して、体感的に気付いて理解する事とは、
その理解した事を再現するに際して、大きな違いを生じると感じています。
頭ではなく、身体を通した理解に、もっと目を向ける必要があると思います。

その無自覚な頭でっかちな自分を見直すべく、
やはりもっと遊ぶべきだなと思いました。
 
4. Posted by 川島玄峰   2022年04月24日 11:28
良い稽古をされていて羨ましく思います。

稽古とは何かと自分に問いかけられた気持ちになりました。
稽古は出来ないこと確認をすることができ、頭で分からないことを動きで分かる事を可能にしてくれます。可能にするためには、ワクワク感のような憧れる情熱と素直に感じるとれる感性を持ち、稽古に対する向き合い方が必要であると感じます。
私の場合は、ワクワク感は常にありますが稽古が足りないこともあり太郎冠者さんのような表裏一体を感じる域まで至っていないなと思いました。
でも普段の稽古でワクワク感を持ち続けながら稽古できることは、大事な基本があるこの太極拳に出会った事のお陰だと心の底から感謝しています。
これからも気付けていけるよう精進したいと思います。

今回は、稽古への向き合い方を考えることができました。
ありがとうございます。
 
5. Posted by ユキ   2022年04月25日 17:16
「変化するものと合わせる」、それ自体は人間が生活する中で必要な、ごく当たり前なことのひとつです。
気候を例に挙げても、一年を通しての四季の変化があり、さらに前年と同じ気候状況はなく、1日の中でも変化に合わせて対応していく必要があり、その中で多くの工夫と反省があり、成功と失敗の繰り返しによって自然との調和、共存が可能になっています。
自分のことを鑑みても、変化するものと合わせられないのは、調和を忘れて自分のやりたいことを優先する、または優先できると思える傲慢さであり、傲慢さは反省と工夫の欠如を招きます。

太極武藝館のすごいところは、学習していく中で自分の傲慢さと向き合わされ、自然の営みを学び、見えなかった法則が見えるようになり、自身との対話ができ、人や自然との調和が可能になることです。
かつて師匠は、「そうでなければ、戦いから生き残ることは不可能だ」と仰いました。

「遊び」には“できなければいけない”とか、“やらなければならない”などの強迫観念が生じません。自由に、のびのびと、好きなだけ好きなように遊びまみれれば良いのです。
楽しくても悲しくても悔しくても、思いっきり全力で自分を投入できるのです。誰の目も気にすることなく、評価もなく、期待もなければ憂いもない。。
そこで見えるものは、今までにみたどのような景色とも違って見えます。例えば対人訓練の相手でも、です。
遊びは一つの境地だと言えます。
その感覚を手に入れた人は、間違いなく一度は自己を超えています。
一流と言われる人たちに見られる共通した感覚、それは「遊び」なのかもしれません。
私もそこを生きられるように、日々稽古に励みたいと思います。
 
6. Posted by 平田玄琢   2022年04月25日 22:27
私も太郎冠者さんと同じように感じています。

宗師の動きですが、全身がずっと動き続けているように見えています。その動きと比べると、自分の動きはどこかを支点としている。または、どこかを固定してその他を動かしているように見えます。

洋玄師父は、「人類は、体を固定して手先指先だけを動かし、細かいことをすることが出来るようになり文明が築かれた」と仰ってましたが、私達は余りにも身体を固定して、末端を動かすことに慣れてしまったのだと思います。

数年前、宗師はご飯を食べる時でも、お茶碗や箸を持つ動きも体幹部からの動きを用いていると仰っていました。半分冗談ではないかと思い、実際に体幹部からの動きでご飯を食べようとすると、いつもと違って不安定な状態となり、水の中での動きのように感じました。

宗師の動きの変化については、私も半年くらい前から思っていて、それを口にしたことがあります。套路の動作を拝見しての所感でしたが、「以前、人間の動きがこんなに芸術的に動けるのだろうかと思っていたものが、最近、今迄のような芸術的なものはあまり感じなくなり、まるで套路が、自然の事象や情景を見ているように変化してきている。」と。

私は、世の芸術といわれるものは「デザイン化」してきていると思います。「デザイン」の「サイン」は、古い意味として創造主の造られたもの。すなわち自然という意味もあるそうですが、それに「デ」が付くと、それとは離れたものという意味合いになるそうです。正にその通り。芸術も人間も、自然の事象や情景とはかけ離れたものになってきているかの様です。
危なくないように整備され消毒された公園で遊べば、自然と触れ合うことができると思い込んでいるみたいです。

太極拳を通じて自然に近づきたいものです。
 
7. Posted by 阿部 玄明   2022年04月26日 00:32
高い身体能力が求められる職業といえば
消防隊員、軍人、サーカス団などが挙げられます

消防隊員の例でいうと火災の際、手すりもない梯子を駆け上がり、
窓を突き破り建物に突入し内部の人間を担いで戻ってくる。
ロープ一本を伝って高所から高所へ移動しまた戻る。
暴れまわる放水ホースを抱え次々と移動し消火活動に従事する。
そして状況は何時いかなる時でも同じではない。

それらを速やかに実行するためには体を小さく縮めて固めて使うということはあり得ない。
大きくしなやかで自由な体の使い方のはずです。
頭もめまぐるしく回転しているのだと思います。
感覚が研ぎ澄まされ目が届かない物陰の状態を肌で感じられるかもしれません。

翻って自分の生活を観察すると大部分の場面で体が使われる必要性がないことに気づきます。
小さく単純な体の使い方で済ませられる。
頭のエネルギー消費も少なくアンテナの感度も鈍いのです。

一般人である我々が危険にさらされずとも何が足りてないかを認識しないといけません。
人それぞれで必要なものが異なるでしょうし
絶対に正しい回答などもない。試行錯誤の果てに間違えることを許容する
度量が足りないと変革の一歩を踏み出せないのだと思いました。

安定を前提とした生活によって染み付いた発想を一旦横に置き
動ける体と頭の状態に整備しないと稽古が示している中身が解けません。
日常生活はどこかで体裁を気にし、失敗を忌避するものがあるように感じ
無難な(もしくは合理的な?)選択をしがちです。
その癖は自分の稽古の取り組みにも影響を与えているように思います。
太郎冠者さんのおかげでそのことに気づきました。
ありがとうございました。
 
8. Posted by マルコビッチ   2022年04月26日 01:11
>自分はいったい、どのようにして体を使おうとしているのか・・
では、玄花宗師はどのようにして体を使おうとしているのでしょうか?
違いとしてはっきり見ることが出来るのが、形だと思います。
分かりやすいところで言えば、圧腿の形でしょうか。
後圧腿の形の構造物があるとすれば、玄花宗師の形とどう違うのか?
頭の位置、肘の位置、膝の位置、腰の向き・・・
どのような骨組みなのか・・
あるいは歩法で片足になった時の形の違い。
ではその形になるまでのプロセスは?

私と玄花宗師の形の違いで、どうしても不思議でわからないところがあったのですが、ある練功でそれぞれの位置を真似することで、それまでやろうとしていた動きの考え方が違っていたことに気付くことが出来ました。
合わせることによって動けること、位置によって導かれること、そしてそれらによって体が使えること。
太郎冠者さんが認識した”無駄な動き”とは、何によって生じたどんな動きなのでしょうか?
大きな動きと小さな動きの違いは何なのでしょうか?
”体が細かく分かれて動ける”ことによりどのように変わったのでしょうか?
ちょっと疑問に感じてしまいました。

わかったと思ったらまたわからず、まるで答えが定まらない底なし沼のように深淵な、この太極拳を探求していくことは究極の遊びなのかもしれませんね。
 
9. Posted by 清水龍玄   2022年04月26日 06:05
同じ自分の身体でも、その日の稽古の始めの状態や動きと、稽古後の状態や動きが、全く違っています。
先日の稽古でもそうでしたが、一日で、それほど身体能力が変わるとは思えません。
それは稽古を通して、身体だけではなく、考え方や頭の使い方に変化が生じたからだと思います。
普段の自分に変化が少ないとしたら、普段の生活がどうなっているのか、普段の生活は稽古になっていないといいう事ではないか、そう思われます。
 
10. Posted by マガサス   2022年04月26日 22:03
私の場合、その時の心のあり方や体調など、不安定な微妙な状態の時に、安定や安心が欲しくなります
自分自身にストレスをかけたく無いといいますか・・・
その様な時は、必ず色々なことをシャットアウトし、感覚がストップしてしまいます
情けないのですが、それが稽古にも日常生活にも影響してしまいます
それに比べ、毎日毎日驚かされるのは、宗師の在り方です
常に何か新しいことを自分に課して、チャレンジを楽しんでいる様に見えます
常に変化されています
そして、今できることを絶対に後回しにしません
どうしたらあの精神状態でいられるのか?
しんどい時は無いのかな??

師父と過ごした時間はどんなアドベンチャーランドよりも刺激的で、スリリングで、ハラハラドキドキして、ずーっと絶叫マシーンに乗っている状態でした
自分自身の喜怒哀楽に押し潰されそうな時もありましたが、でも、だからこそ「生きるって素晴らしい!」んだと、今なら思えます
そして、最近は、宗師とご一緒していても同じ状態を感じます
常に合わせていないと、あらぬところへ流されてしまいそうです
こちらは息切れしているのに、何十倍も沢山のことをされている宗師は嬉々としていらっしゃる!
この違いは、大変なものだと思います
周りのものと波長を合わせ、流れの中で止まらず、結果を求めず、どんな緊張やストレスも持たず、瞬間を生き生きと生きること
毎瞬が稽古
自分もその姿勢を学び、そう在りたいです
そうすることで、頭も体も動いてくる様な気がします

最近稽古で感じていた悩みに光をあてて頂き、ありがとうございました

11. Posted by 川山継玄   2022年04月27日 23:53
コメントが大変遅くなり、申し訳ございません。

先日の稽古で、厳しい状況下で動き、体と思考が働かなくなると、自分の考えを挟む余地がなく、必然的に力みに頼ることなく、人間本来の動きが生じるのかな。。。と針の先程ですが、感じる事ができたように思います。
「こうしなければ」とか「どうすればいいのかな」などという強迫観念や不安を感じる事も無く、ただ与えられた課題に没頭する自分がおりました。

そんな中で、今までと大きく違ったことは、とても注意深かったことです。
生き残るためにはどうしたらいいかを、本能として察知し、変化に合わせていたように思います。
今までだったら、「失敗した!」と勝手に緊張を生じさせていたであろうところで、「では、どうしたらいい?」と自らに投げかける自分がいて驚きました。

常に「放鬆」と、その在り方を示して下さる玄花宗師をただ無心で真似ること。今の気づきに固執することなく、変化を受け容れ続けること。
いつも新鮮な状態で精進したいと思います。

太郎冠者さん、いつも稽古の様子を交えながらの活き活きとした記事を、ありがとうございます。
 
12. Posted by 太郎冠者   2022年05月01日 23:44
☆ハイネケンさん

同じ日の自分の体の状態に関しても、例えばいいことがあると軽くなったり、嫌なことがあって気分が重くなると、同じように体が重くなったりしますね。
考え方で体が変わるという一番単純な例ですが、極端な話、稽古で体が変わるというときにも、これぐらいぱっと、劇的な変化が起こるのが面白いものです。

前日までのトレーニングで体は疲労を覚えているはずなのに、次の日に同じことをやってみると、不思議と前日よりつらくない・・・。
一体、何が変わったのでしょうか。
そういう変化に敏感になることが、求められていることなのかな、とも思います。
 
13. Posted by 太郎冠者   2022年05月01日 23:50
☆西川敦玄さん
思い返してみれば、道場での稽古においては、必ずしも正解を導き出すことを求められてはいません。
それよりはむしろ、さまざまな状況の中で、いかに自分の思考や発想を柔軟にして、さまざまな方法で対応することができるか、それを求められているように感じます。

決まりきった答えを出すことが正解ではなく、選択肢を増やすことが正解である、そんなことを言われてしまうと、じょーしきてきに生きてきてしまった自分の頭では、えもいわれぬもやっと感が生じるものです。
そこに、停滞した物事を打破する鍵があるようにも感じますし、それこそが、求められている力なのかとも思います。

意固地でも愚直でもなく、柔軟かつしなやかな力、まさに太極拳に必要なものだと感じます。
 
14. Posted by 太郎冠者   2022年05月01日 23:52
☆松久宗玄さん
人間の脳に関する科学系の読み物をいくつか読んだことがありますが、科学者たちが共通して言っているのは、脳は考える器官ではなくて、体を動かす器官だということでした。

体を動かすことで発達した脳が、その機能を拡張させて考える能力を得たのだといい、考えられることと動けることはまさに表裏一体の関係なのかもしれません。
とすれば、体を使わずに頭で考えたつもりになっている我々現代人は、真の意味では頭も体も使えておらず、そんな気になっているだけなのかもしれません。
恐ろしい話です。
 
15. Posted by 太郎冠者   2022年05月01日 23:59
☆川島玄峰さん
以前、玄花宗師も仰っていた通り、プロとして必要な要素である情熱、というよりも好きなことにのめりこんでいる人は、寝ても覚めてもそれにどっぷりと浸かっていて、朝から晩までそのことが頭から離れない!という状況になるのだと思います。

少し前にはやりがい探しや自分探しなどといった言葉が流行していたことがありましたが、そういうのは探して見つけるものではなくて、気が付いたら抜け出せなくなっているもの(笑)のことではないかと思います。
玄峰さんの情熱的な姿勢は、本部道場でもたびたび話題になっており、話を伺うたびにこちらも負けていられないぞ!と奮起させていただいております。
こちらも頑張って稽古をしていきます!
 
16. Posted by 太郎冠者   2022年05月02日 00:06
☆ユキさん
コメントをありがとうございます。

最近の気候の変動を肌で感じていると、極端な話、四季というものでさえ不変のものではなく、ごく限られた領域の中、繊細なバランスの中で保たれていたものだったのだな、と感じます。

そのような日常で生きていくことは、実はすでに思っている以上に過酷なことであり、どこかで見て見ぬふりをして、安心した生活であるということに自分でしておきたいのでは、と思わされるものです。

繊細でギリギリのバランスの中で、それでいて余計に力まずに遊んでいられるような状態。
それはまさに太極拳で求められていることではないかと思いますし、そうするために・・・もっと遊ぶ!
というと、論旨の飛躍があるように感じてしまうのが自分の常識的なところなのですが、、それくらいとらわれない発想でないと太極拳なんてわからない!のかもしれませんね・・・。
・・・がんばります。
 
17. Posted by 太郎冠者   2022年05月02日 00:14
☆平田玄琢さん
玄花宗師はよく「私が特別なことを教わったわけではない」というお話をしてくださいます。
我々個人個人の物事の見方、取り組み方が、そのまま稽古に反映されているように思います。

芸術の原点がどこにあるのかはわかりませんが、古来より人々は、自然に見いだされる美しさや畏怖を、あらゆる形で残そうとし、それがいま芸術という形につながっているのではないかと思います。

芸術という試みが、本来不可能な自然そのままを表現しようとすることだとすると、デザインとは逆に、余計な要素をそぎ落として、人間の感性に受け入れられる形に加工することといえるのかもしれません。
我々の物事の見方、理解の仕方もまた、世界そのものを受け取るのではなく、自分の受け取りやすい形に一度デザインし直してしまっているのではないかと思います。
そうであれば、そこに表されている、現れているものをそのまま受け取り理解することとは、解離が生じてしまいます。
その理解の仕方の差が、稽古の進捗を決めるのだとしたら、開かれた自由な感性であることがどれだけ大切なことなのか、より味わわなければならない気がしますね。
 
18. Posted by 太郎冠者   2022年05月02日 00:22
☆阿部 玄明さん
ネイビーシールズの元隊員が書いた本で、
「バーでのケンカで地元の警察官と消防隊員たちに(へべれけに酔ってたのもあって)負けたことがある」
という記述を読んだことがあります。
読んだ当初は「シールズがケンカに負ける?」と疑問に思ったものですが(後にリベンジして勝ったとのこと)、消防隊員がいたというのが後から気にかかりました。
警察官はともかくとして、消防隊員、とりわけレスキューに従事している人の体は、すごい鍛え方をしているようですね。

ライフルやバックパックは背負わないものの、全身に耐火スーツを着てボンベを背負い、燃え盛る荒地を乗り越え人を助けられるというのは、尋常ではないはずです。

災害現場と戦場、居場所は違えど、命を守るうえで求められている体と頭の使い方は共通しているのだと思います。
さて、では自分はと顧みると、なんという自堕落な生活を送っていることでしょうか。
反省して、精進しなければいけません。
 
19. Posted by 太郎冠者   2022年05月02日 00:32
☆マルコビッチさん
これだけ連日、時間と労力をかけて稽古に取り組んでいると、道場以外の周りの人からすると正気の沙汰とは思われてないのかもしれませんが、もはや何も言われなくなって久しいです(笑)

ひとえに、自分がやっていて楽しい以外の理由では、このようなことは出来ないのだと思います。
生活の中でやりたいことばかりあって時間がまったく足りないのですが、それでも優先して時間を割いていること、それこそがすでに底なし沼にはまってしまっている証拠なのかもしれません。

蓮の花は泥沼の中に根を張り、いずれ綺麗な花を咲かせますが、果たして自分の花は咲くのでしょうか。
それとも、せめて立派な蓮根を実らせて、食卓を豊かにするお役には立てるのでしょうか。

まぁ、そんなこともどうでもよくて、泥沼の中が意外と心地よくて楽しいのかもしれません。
もっともがいて遊んでみようと思います。
 
20. Posted by 太郎冠者   2022年05月02日 00:36
☆清水龍玄さん
まさに仰る通りで、稽古を経験すると、その前後で大きく変わっている自分に気づくことがあります。

そのうえで、変わってよかった〜で終わらせることなく、何によって自分が変わったのか、またそれを継続して自分自身の力で行っていくことは可能なのか、それが本当に求められている強さという点で、必要になってくるのではないか、と自分としては感じています。

稽古をして変わるのは当然のこととして、それを自分に課して、自分で行っていけなければ、いつまでたってもおんぶにだっこの赤ちゃんと同じではないかと思うのです。
逆に、それが理解できて、自分で成長していけるプロセスを見いだせれば、どんどんと上達の道が開けるかも、という希望も抱いています。
とにかく、やってみなければお話にならないですよね・・・!
 
21. Posted by 太郎冠者   2022年05月02日 00:40
☆マガサスさん
一見すると矛盾にも感じますが、戦場において、精神をやられることなく、淡々と仕事をこなして生き延びることができる人間というのは、どこにいても普段通りの行動ができる人間だという話を聞いたことがあります。

取り乱すことなく、また舞い上がったり落ち込んだりすることもなく、日常の延長のように非日常を生きられる人、それがそれが本当に強い人なのだと思います。
逆に言うとそういう人は、日常の中にすでに非日常を見出しており、その境目がないからこそ、何も変わらずに過ごせるのではないかと思います。

師父や玄花宗師は、何もない日も特別な日のように、また、何かある日は、もっと特別な日のように毎日を過ごしておられるように感じます。

そういう人生への向かい方そのものが、人間性を磨くことになるのではないかと思うと、自分でももっといろいろなことができそうに思えてきますね。
 
22. Posted by 太郎冠者   2022年05月02日 00:51
☆川山継玄さん
元メジャーリーガーの松井秀喜選手が、スランプに陥ったとき、長嶋茂雄監督に電話でアドバイスをもらったそうです。

そのとき、長嶋監督は電話越しにバットの素振りをさせたそうです。当然、素振りしている姿は見えるはずもなく、一切会話もなかったそうです。
100〜200回の素振りをし、あるときバットが風を切る音が変わったのを聞くと「それだ!」と一言。
翌日、松井選手はホームランを打ったそうです。

僕はこの話が面白くて、すごく好きなのです。
野球と武術、一見関係のない世界の話ですが、師と弟子、稽古と上達、そういった要素が含まれた素敵な逸話のように感じるのです。

自分は、一体何をすることを稽古だと思っているのか、そういうことまで問われているようにさえ感じるものです。
 

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