2022年02月28日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その58

   『合わせて、奏でられるもの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年に入って、太極武藝館の稽古では、「合わせる、真似をする」ことが大切だという指導をしていただいています。もちろん、これまでの稽古においてもそれらのことは、重要なことだと指摘していただいていました。それを今は、より追求しながら稽古している、といえる状態でしょうか。
 稽古においては、自分を挟まずに合わせる、真似をするということは当然であり、それがなければ上達は見込めない、といっても過言ではないかもしれません。
 今年の稽古が始まり二ヶ月近くの時間が経ちましたが、その間に私が感じたことを、少し書いてみたいと思います。

 いきなり個人的なことですが、最近、クラシック音楽、特に管弦楽団の音楽をよく聴くようになりました。学生時代(遠い昔のことのようです・・・)はクラブ活動でブラスバンドに所属していたこともあり、先輩や顧問の先生などから、おすすめされた曲を熱心に聞いていたことが思い出されます。
 当時は、このCDがいいよと言われれば、近くのCDショップに足を運び、そこになければもっと大きな店に行きと、東西奔走しながら目的のものを探し回ったものです。
 それが今では、音楽配信サービスにより、以前聴いていた曲はもちろんのこと、それ以外にも多種多様な音楽が配信されており、自由に聴くことができます。こういう点に関しては、改めていい時代になったものだと思いました。

 さて、音楽配信サービスでクラシックが配信されていることに気づいた私は、軽い気持ちで再生をしたのでした。聴いたのはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。かの有名な、世界最高峰のオーケストラです。そこで私は、改めて、これまでにない感動と衝撃を受けたのでした。

 う、うまい・・・上手すぎる・・!

 奏でられる音の一つ一つのハーモニー、それらがピタッと合い、渾然一体となって体に響き渡ります。学生時代も当たり前に上手だと思っていたのですが、その時とはまた感想が違うのです。
 太極武藝館には、師父に作曲していただいた太極武藝館の歌があります。
 それをみんなで歌った時の、最初のあの合わなさたるや・・・。メロディーをピアノで伴奏し、声を出しながら、みんなで苦労しながらも、少しずつ合奏を形にしていきました。
 その経験があったからこそ、より自分に響いてくるものがあったのだと思います。
 プロの管弦楽団は、当たり前のように合っていて、ズレがありません。音やタイミング、それらが成す一つの音楽、それが全くブレることなく数十人という人間によって形作られていることの、なんて脅威的なことでしょうか。

 音楽を聞く中で、いくつものことが頭の中に浮かんできました。
 一つは、凄すぎるものは逆に当たり前に見えてしまい、より注意深くならないと、その本質を見逃してしまうかもしれないということ。
 クラシック音楽は、昔からいろいろなところでBGMとして使われてきているので、名前は知らなくても一度はメロディを聴いたことがある曲というのは多いと思います。
 なので、なんとなく聴いていると、あ、この曲知ってる〜と自分の中で簡単に通り過ぎてしまいます。
 素人、またはそれに近いバンドが演奏した時の、曲が曲として成立しないかもしれない、バラバラになりそうな状態を思い浮かべてみると、それがその曲として当たり前に認識できることが、実はいかにすごいことかわかります。・・プロの演奏としてはそれが大前提なのは言うまでもないことなのですが。

 なぜこのようなことを思ったかというと、最近、玄花后嗣の動きを見ていると、そのように感じている自分に気付いたからです。
 玄花后嗣の動きが、以前にも増して師父に似た、凄い動きになっているように感じられるのと同時に、凄いのは分かるのに、あまりに滑らかに一動作(いちどうさ)で動かれるために、それが自然なものに見えてしまって、認識がし辛くなったように感じるようになったのです。
 自らのセンサーを鋭敏にし、感性を磨いていかないことには、高度な内容は学習していけないと痛感させられました。また、当たり前ではないものを当たり前だと思えてしまうような鈍さも、より一層戒めていかないといけないと思ったものです。

 もう一つは、プロとしてどのように稽古をしていかないといけないか、という点でした。
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、世界でも最高峰の管弦楽団であり、いわば音楽においてはプロ中のプロです。歌ひとつを形にするのに四苦八苦した経験を思うと、コンスタンスに何曲も形にし、最高の演奏を聴かせられ続ける彼らが、一体どれほどの勉強をし、訓練を積んできているのか、少し想像することができます。
 問題は、彼らのレベルで音楽を出来るかということではなく、彼らと同じレベルでの訓練・稽古を、我々が太極拳に対して行なっているか、という点ではないかと思いました。

 プロの管弦楽団として音楽を演奏すること。師父がおっしゃっていたように、プロとして武術に関わり、太極拳を稽古すること。ジャンルは違えど、そこに求められるプロとしての意識には、違いがあっていいはずがないと思います。
 では、自分は、彼らのようなレベルで武術に取り組めているでしょうか。
 それは今ある実力という意味ではなくて、ウィーン・フィルハーモニーのメンバーがそこに至るまでに辿った道筋、そこに掛けた力と時間と情熱と同じものを、自分は太極拳に注ぎこめているだろうか、と自問したのです。
 とてもではないですが、足りません。何よりも、圧倒的にその意識が足りません。
 プロとして取り組むこと・・・それが当然でなければ、到底師父の太極拳など理解できるはずがありません。その現実に、自分は愕然としました。

 そしてもう一つは、冒頭に書いたこととリンクするのですが、彼らの音楽は、全てがピッタリと合ってるという点です。
 和音が合っているという単純なレベルではなくて、例えば、無音の中からポンっと鳴らされるひとつの音、それがすでに音楽として成立しており、一体となってその姿を表してくるように感じられます。本当にすごいことだと思います。

 管弦楽団には指揮者がおり、素人からするとテキトーに指揮棒を振ってるだけで何をしているかわからないと思われるようですが、その人物を通して、楽団全体の音楽に一貫性が生み出されてきます。
 学生クラブレベルのブラスバンドでさえ、指揮をちゃんと見ない学生は、どうしても音楽として少し外れてしまいやすかったです。極論すれば指揮者がいなくても音楽は成立するかと思いますが、クラシック音楽というジャンルにおいては、指揮者という存在もまた、楽団を構成する要素のひとつとして、その全体性を成しているように感じられるものです。

 太極拳の稽古に話を戻しますと、当然誰しも、前で指導していただいている人と合わせて動こうとしているはずです。
 自分ももちろんそうしていました。ところがある時、玄花后嗣の後で動いている時に、ふっと感じるところがありました。自分は玄花后嗣に合わせようとしているけれど、その玄花后嗣は一体何に合わせようとしているのだろうか?と。その何かに、自分も合わせてみようと思ったのです。
 多分に感覚的で、言葉にすると取りこぼしが多く感じられます。
「月を指す手ではなく、月を目指す」
 そのように言われたことも一度ではありません。ですが、感覚的にはっきりとそうしてみようと思えたのは、もしかしたらその時が初めてだったのかもしれません。

 クラシック音楽も太極拳も、それが作られ、成立した当時の「もの」は、形としては何も残っていません。200年前の演奏家や音楽が残っていないように、200年前の太極拳は物体としては残っていません。
 ですが、それらは人々の中に、文化という形として脈々と保たれて残ってきました。
 楽譜は音楽ではありませんが、そこに記されたものを、人は音楽として再び演奏することができます。その時演奏家は、一体何をもって、それを音楽として成立させることができるのでしょうか。

 楽譜があっても音楽は出来ないのと同じように、秘伝を聞いただけでは太極拳は出来ないのかもしれません。先人たちが何に合わせてきたのかを自分で理解し、自分という存在をあたかも楽器のように奏でることができて初めて、太極拳はここに現れるのかもしれません。

 師父が合わせていたものとはなんだったのか。玄花后嗣が合わせていて、我々にも教えてくださっているものはなんなのか。
 そこに焦点を絞って、自らの感性を最大限に磨いてチューニングしていかないと、本当に大事なことは見えてこないようになっているのかもしれません。

 幸運なことに、我々太極武藝館の門人は、すでにそれに必要なことを目の前で提示していただいていますし、事細かな指導をしていただいています。
 あとは、それをどれだけ自分自身の課題として、自分に課して、切磋琢磨していけるかという点だけが問われているようにも思います。
 すでに述べた通り、管弦楽団の一員として多くの人々の前で演奏するプロの演奏家と、実践の場において自らの身を守り、大事なものを守れる武術家には、求められる努力に何も違いはないのだと思います。
 秘伝を習えば一朝一夕で戦える、そんな都合のいい話は恐らくないはずです。
 レクチャーを受けて一晩でプロ並みの演奏ができるようになります(??)
 ・・そんな話はあり得ないことくらい、誰でもわかる話です。

 だからこそ我々は、朝に夕に、教わった内容を正しく身につけるための努力を惜しんではいけないのだと思います。
 師父がそうされたように我々も倣わなければ、到底、太極拳をものにすることなど不可能に違いありません。

                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その59」の掲載は、2022年4月22日(金)の予定です

disciples at 23:45コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2022年03月03日 22:33
音楽は主に聞いて楽しむ側なので、その道のプロの世界の凄さは分かってはいませんが、
太極拳を音楽に例えるイメージは、すごくしっくりと理解出来ます。

自分自身を楽器として捉えるのであれば、
站樁においては架式をチューニングする事であり、
奏でられる音は一着の変化として現れ、一勢の動作は連なるメロディとして表現され、
対練はアンサンブル的な響きを醸し出す・・・
と捉える事も出来るかと思います。

音楽を形造る要素には、楽器や奏者、演奏とありますが、
その本質はやはり「音」であろうかと思います。
音を捉えて、音に合わせて、音を組み立て、芸術として表現する。
太極拳においても、音楽における「音」に相当するものが何であるか、
その理解が明確である程、合わせる事もより核心に近付くものと思います。

一流に触れ、感性を磨きなさい。
と折に触れて、師父が述べられた意味が思い起こされました。
 
2. Posted by 円山玄花   2022年03月03日 23:39
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、小澤征爾さん指揮のものを聴いて鳥肌が立った覚えがあります。奏者よりも、指揮者が奏者全員に合わせさせていること、そして指揮者自身が音楽になっているかのように見えたことが一番の驚きでした。
学生の頃に実際に小澤征爾の指揮を観た時には、「この人だったら、散手の多人数掛けが出来るかもしれない」との感想を持ちましたが、そういえば、稽古で前で套路を行う時なども指揮者の感覚と似ているのかもしれません。

プロフェッショナルとアマチュアの違いについては、師父も私も文章や言葉で機会があるごとに話をしてきたかと思いますが、最近はプロの資質というか、その道のプロになれる条件というものがあると思い至りました。それは、「三度の飯よりそれが好きか」ということです。
世界中に様々な分野のプロフェッショナルが存在しますが、彼らをプロたらしめているその根源には、何よりもそれが好きである、関わらずには居られないという熱があります。義務感、使命感、責任感などでは、到底プロにはなれないし、プロとしての道も歩めないのだと思います。
 
3. Posted by 阿部 玄明   2022年03月04日 00:26
太郎 冠者 様


示唆に富んだ記事を掲載頂きありがとうございました。

 プロとは何かを習熟している、身に付いている人を指すのだと思います。
そしてプロが普段練習しているのは応用ではなく基礎の部分。
プロが放つ超絶技巧は恐ろしく精度の高い基礎から成り立っており、きっとプロの音楽家の普段の練習は想像以上に地味な基礎練習の日々なんだと思います。
基礎を繰り返すことで、基礎が指し示している事象が理解し始め、理解が進むとついには身に付く。
そして、身に付いたものの精度を高めるため、また基礎に立ち戻る。

 太極拳の稽古も基礎が指し示す原理に合わせることで理解が進むと指導されます。そして精度が問われます。
武術の本質も大仰な大技を繰り出すことではなく基礎的なことの理解と、それを緻密に制御することから成っているのだと思います。

音楽を聴くときも演奏家の練習の日々を想像しながら聴くと、より多くのものが伝わってきます。

4. Posted by 平田玄琢   2022年03月04日 08:24
私も今年に入って、今迄思っていたさまざま疑問がほんの少し紐解かれてきました。稽古中に玄花后嗣の動きや上達している門人と比べると、自分は何かが違っていることはわかっていましたが、いったい何が違うのかが解らず頭と体が混線していました。

私の違和感の一番大きなものは「最初から合わせた自分を相手と合わせる」と、「それは足ではない」でした。
しかし、一旦少しでも紐解かれてくると、まだ体はそのように動いてないのに頭では理解できて、なんだそうだったんだという感覚になります。それを自分で納得するまで基礎に戻ってできればいいのですが、まとまった時間がないという事になります。

演奏家のプロは、一日の大半の時間を練習時間に費やすそうですが、やはり“ふとした時間”を主として稽古に費やすしかなく、一瞬一瞬をそうありたいと意識して生活することを心掛けたいと思います。
 
5. Posted by 西川敦玄   2022年03月04日 12:17
ブログ投稿ありがとうございます。
ピアノを弾けるひとに、私も楽譜は読めないのだが、好きな曲を弾ける様になりたいな。と言ったことがあります。その楽曲が好きで良く聞いているなら、むしろすぐに、それらしく弾ける様になるよー。
みたいな事を言われたことがあります。まあ、それ自体トンデモないことであって、そんなに簡単なら良いよねという話ではありました。
まあ、しかしこの話の肝は、聴いた様な感覚でそれらしく弾きに行くのは初心者でもできるということでした。反対にいうと、きちんと弾きこなしていくのは、それっぽく弾くのとはまったく異なるアプローチを必要とすると言うことなのでしょう。
我々の稽古でも、それっぽく(いかにも太極拳!!のように)やらないことをむしろ稽古していたりもします。
日々、精進とはそのようなアプローチに立ち返り稽古していくことなんだと思います。
 
6. Posted by 川島玄峰   2022年03月04日 21:16
教えられた基本に沿うことが大事であると痛感しました。
基本を知り正しく習う。
そして実践し修正する。

稽古では、基本が見えてこなければ本質へのアプローチは難しくなり、まったく違う方向へ見るような自分勝手な状態に陥るのだろうと思います。
合わせる事の意味は、基本に沿えているのかどうかによるのかもしれません。

基本に自分を合わせ、稽古に合わせてそのうち太極拳を奏でる事ができるようになれれば、いや、ならないといけないなと思いました。

今回も本部での稽古を振り返ることが出来ました。ありがとうございました。
 
7. Posted by マルコビッチ   2022年03月04日 21:54
確かに玄花后嗣の動きはどうなっているのか、解りづらくなりましたね(笑)
自然なものに見えてしまうってすごいことですよね。
うわー滑らかな動きー!って言ってる間にやられてしまうんですから!

「合わせる」ということも大変深いなと思います。
真似をするとは違っていて、真似をしようとするとどうしてもタイムラグが生じます。
もちろん初めは真似することから入りますが。
合ってしまっていた!という状態を追求したいものです。

プロの合奏はあまりにも合っていて自然なので、その美しさに圧倒されるだけですね。
よくよく考えてみると、別の音が重なってハーモニーになるとは、何と不思議で美しいことでしょう。
自然の中にいると、川の音、風の音、鳥のさえずりなど自然なハーモニーになっていて心地よく感じます。
何だか支離滅裂なコメントになってしまいました。すみません。
一流に触れ、自然に触れ、自分を磨き、精進していくしかありません。
 
8. Posted by ハイネケン   2022年03月05日 00:12
先日、稽古にて教練に対して一般門人は私一人でした。
いつもなかなか陣取れないすぐ後ろで稽古させて頂いた所、いつもと違う見え方に驚きました。
見るといっても「じっくりと見る」というよりも「大きく全体を見る」様な感じでしたが、情報量が多くとてもついていけないのです。
もちろん動作が素早い訳ではなく、ただただ圧倒された情報量を感じました。
さてその次の稽古時、稽古参加者も多く、いつも通りの稽古ですが、なぜか先日の様な「情報量を感じる見え方」を期待したのですが出来ませんでした。
教練の動きではなく、自分に問題があるようで、意図的に情報量の多い見方がしたいのですが難しいです。
因みに音楽BGMとして漠然と聞くことが多いのですが、しっかりと聴き入る事はありません。
折角ですから御紹介頂いたウィーンフィルを聴いてしっかり休息を取ってみようかと思いましたが、しっかり聴こうとするとリラックスは出来なさそうですね。
寛ぐのがムズカシイ私の性格を何とかしたいです。
いつも気付きから深淵な世界を感じさせて頂きありがとうございます。
 
9. Posted by 川山継玄   2022年03月05日 02:00
先日、道場の床マットの張替えを一緒にやらせていただく機会を得ました。
備品などを移動して古いマットをはがし、新しいマットの寸法を合わせて敷く、備品を戻す…
その過程を思うと気が遠くなりそうでした。
しかし一旦作業が始まると、一人一人が実に絶妙なタイミングで必要なことを工夫しながら、協力し合って、時に鼻歌交じりで、とても寛いだ、張りのある状態の空間が醸し出されて、短時間でどんどん作業が進みました。
互いが互いの思いや動きを察し、重なることなく止まることなく作業を進めている様子は、まさしく音楽を奏でるオーケストラのようで、とても心地が良かったです。
皆さんの意識の高さと日頃の修練の積み重ねに飲み込まれ、流れに乗れたのだと思います。
まだまだとてつもなく自己中心的で、自我が強い自分。
自分の枠を崩し、それを超えて大きく他と共鳴できるよう、努力を重ねたいと思います。

JAZZ、雅楽、クラッシック、少しずつ聴く音楽の幅も広がりつつあります。
奏でられる音楽の振動・奏者の息吹が体全体に広がり、とても気持ちがよいです。
太郎冠者さん、いつも細やかでしなやかな視点での記事を投稿して下さり、ありがとうございます。
とても勉強になります。
 
10. Posted by マガサス   2022年03月05日 10:17
10年以上前の稽古のことです
師父に合わせて歩法の稽古をし、その違いを先輩からご指摘頂いたことがありました
「師父が何を示してくださっているのか、何に合わせているのか、観えていないみたいですね。師父はいつでもどんな時でも観せてくれているのにね。師父の近くに居すぎて、当たり前になっちゃって、大事なとこが観えないのかな?!」
当時は、全く何を言われているのか、ナンノコトヤラさっぱり分からない状態でした
今になって、とても大事なことを言って頂いたんだと思います
『師父が合わせていたものとはなんだったのか。玄花后嗣が合わせていて、我々にも教えてくださっているものはなんなのか。』
自分もその事を分かりたいです

師父にいつも言われていたことがあります
「お前には、覚悟がない。生きる覚悟も死ぬ覚悟も・・・。そんなヤツに物事の奥深さや、生きることの本当の味わいなどわかるわけが無い!」
この言葉は、「自分の在り方」を問い正す、大きな大きなヒントでした
師父も玄花后嗣も、普通に観えていました
が、観ている自分がフツウ過ぎて、その目でフツウに観ていただけだったと理解しました
努力・覚悟・情熱・純粋さ・好奇心・狂気(?)・・・それはそれは凄い物です
瞬間瞬間を意識的に在る
自分も近付きたいです
自分の全てを使って味わい、深みのある音楽を奏でたいです
いつも色んな視点からありがとうございます

11. Posted by 清水龍玄   2022年03月05日 11:24
今まで会ったことのある人で、それぞれの道に精通していると思われる人は、皆さん、いつもそれぞれの専門の事を考えている人でした。
それは、眉間に皺を寄せて考え込むだけではなく、もっと自然にそのことについて興味を持ち、考え、新たなアイデアが浮かんでくるという風でした。
今考えるとそれは、その物事について考え込んでいるではなく、その物事にチューニングしているから、いつも、それぞれの専門の事について、頭が使われているのかと思います。
そして、その過程を基準に、専門外の事も理解できるような、とても柔軟で、広い考えをもった人でした。
自身の取り組み方と照らし合わせ、反省点が多々あります。
今回も、面白い記事をありがとうございました。
 
12. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 00:28
⭐︎松久宗玄さん
過去のどのような文化にも、原始的な音楽・・・例えば音の出るものをかき鳴らすなど、は必ず存在していたようです。
夜、焚き火の周りに集まり、語らい、音をかき鳴らす。

そうやって育まれてきた人々の交流が、いつしか文化として発展してきたという歴史があるのかもしれません。

武術の成立過程にも、初めはただ体や武器を振り回してきたものが、いつしか洗練された技術体系へと昇華されてきたという歴史があるに違いありません。
そのためには、他者が得てきた知識や技術を、真摯に受け入れるという姿勢がなければ成立しなかったかと思います。
感性を磨き、一流に触れ、学んでいく。
学習には必ず必要とされるように思われますね。
 
13. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 00:38
⭐︎円山玄花宗師
「合わせる」というと、自分のような一般人にはなんだか特別なことに感じられてしまいますが、
本当は全てのことは関連しあっていて、すでに合っているというのが正しい状態なのでは、と感じることもあります。

合わせることではなく、分離しているという幻想からいかに目覚めるか。
太極拳の稽古をしていると、そう考える方が自然に思えることが多々出てきます。であれば、囚われているのはやはり、自分自身の考え方なのでは、と思わされます。

>「三度の飯よりそれが好きか」
好きこそものの上手なれ、という言葉がありますが、確かにそれがなくては、稽古を継続することなど不可能ですね。
好きかどうか、本当にシンプルなところに理由があるのかもしれません。
 
14. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 00:46
⭐︎阿部玄明さん
スケートボードの競技で世界トップで争っている日本人選手が、練習するときに基礎的な技を重点的に練習しているという動画を見て、
やはりそういうやり方こそがトッププロとして通用する唯一の方法なのだろうな、と思ったことがあります。

太極武藝館での稽古も、まさに基本を繰り返すことに終始していますね。
思えば、入門してはや十数年・・・一般的に思われるような『技』を習ったことなど、一度もありませんね。

師父や玄花宗師の動きは、基礎がそのまま奥義であり、動けば即座に技となる様子がまざまざと見える気がします。
基礎の修練をもっともっと大事にして、精進していきたいと思います。
 
15. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 00:53
⭐︎平田玄琢さん
国内外を問わず、武術を習得してきた偉人たちの逸話を読んでいると、共通して見えるのは、生活の大半を武術の修練に費やしてきたという点でしょうか。

武家として生まれた人はもちろんのこと、近代においても、それを生業として修行を続けた人もいますし、あとは家が資産家で仕事をする必要がなかったなど、武術を続けられる下地があった人もおられたようです。

単純にその点だけとってみても、普通の生活をしている現代人には難しいところがあるように感じられますが、空いている時間を見つけて稽古を積み重ねる必要があるのだと思います。
あとは、そこまでするほど好きか?というのが、やはり問われているようにも感じます。
自分も頑張っていきたいです!
 
16. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 01:01
⭐︎西川敦玄さん
音楽は素晴らしいものですし、誰でも楽しめるものだと思います。
なので、ピアノを弾きたかったら誰でも弾いていいと思いますし、練習すれば弾けると思います。自分もやってみたいと思っているところでもあります。

ところで、まさにおっしゃる通り、素人とプロの演奏では、どうしても違いがあるのだと思います。
そこがプロたる所以であり、我々が太極拳を稽古する上では、まさにその部分で取り組んでいかなければならない、とは師父が仰っていた通りなのだと思います。
自分も、それっぽいではなくまさにそれ、太極拳をやっていきたいです。
 
17. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 01:06
⭐︎川島玄峰さん
武術において、基本こそが一番大事であり、一番秘匿されているという理由はまさにそこにあるのだと思います。

師父はよくチャートという言葉で説明してくださいましたが、套路は基本の集大成であり、基本の理解によって読み解いていけるものなのだ、とおっしゃっておられました。

大事なものがそれとなく示されるのが当たり前の中、「それが大事だよ」と教えていただける機会を得られるのは、本当にすごいことだと思います。

自分自身、それをもっと大事にして精進していきたいと思います。
 
18. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 01:13
⭐︎マルコビッチさん
玄花宗師の動きですが、稽古で示していただいている時もさることながら、何気ない普通の動きや歩き方も、「うわー!」と思わされることばかりです。

先日、階段を登っていく玄花宗師の動きを見る機会があったのですが、・・・うわー!
その直後、とある正式弟子の先輩の動きを見るチャンスもあったのですが、・・・うわー?
多くのところで勉強させていただいています。

プロの演奏家は、演奏中は当然ながら、演奏する前の楽器の音出しやチューニングの段階で、とてつもなく上手い!のです。
なんだったら楽器がなくても音楽に満ちている!
というような状態と同じなのだな、と思わされました。

自分もそうなれるように、努力していきたいと思いました。
 
19. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 01:20
⭐︎ハイネケンさん
情報量というお話ですが、同じイヤホンでウィーンフィルの演奏を聴いたあと、それまで聴いていたJpopを聴くと、とても音がスカスカに感じてしまうことがあります。

よくも悪くも人間の感覚は慣れてしまうものです。ハイネケンさんが前日の稽古で情報量が多く感じた見え方は、もしかしたら次の日にはご自身の見え方に基礎として反映されていて、気づかないうちに多くのものが見えていたのかもしれません。

もしくは、邪念が入って見えなくなっていたのかもしれません(笑)。

いずれにせよリラックスして頭空っぽの方が、色々入ってくる気はします。
リラックスできない時は、もしかしたら疲れ過ぎているのかもしれません。
休息も稽古だとも言われますし、少し休んでみるのもいいかもしれませんね。
 
20. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 01:26
⭐︎川山継玄さん
作業をやらせていただく機会があると、みんなの動きが前よりかなり早くなっていると感じます。
以前だったら動けないところで、何をしたらいいか即座に判断を下す、できることを探すというのが徹底されてきているように感じました。

これも全て、師父や玄花宗師に指導していただいてきた賜物なのだと思うと、本当にありがたいことだと思います。
こういう時に動けることが武術性なのだと思いますし、まだまだ甘い部分を、もっともっと磨いていかないといけないと思いますね。
 
21. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 01:33
⭐︎マガサスさん
>努力・覚悟・情熱・純粋さ・好奇心・狂気
本当に好きで取り組んでいる人は、自らの内側から湧く力で動かされており、その熱を持たない人が外側から見ると、
なんでそんなに?と思うような行動力を持っているようにさえ見えますね。

何事も、努力と継続なくして物事を成し遂げた人はいないはずなので、自分自身も、それらの人々の負けないようなレベルで、もっと多くの熱量を注ぎ込みたいと思いますし、そうして取り組める対象と出会えたことがとても心地よくあります。

自分が師父や玄花宗師の功夫に遠く及ばないのは、明らかに稽古への向かい方が、量も質も足りてないからだと思うので、少なくともその点だけは負けないレベルでやっていかないといけないのだと思います。
お互いに頑張りましょう!
 
22. Posted by 太郎冠者   2022年03月11日 01:40
⭐︎清水龍玄さん
人間の脳の仕組みとして、同じことだけに淡々と取り組んでいるというのも、実は脳神経の成長にはよくないということがわかっています。

師父をはじめとして、プロフェッショナルな人たちは多くのことに好奇心を持ち、様々な刺激を受けることを好みますが、そうすることで、いざ自分が取り組んでいることに向かうとき、その刺激によって脳が活性化されて、より良い結果を得られるというらしいのです。

オープンなマインドで人や物事に接し、集中する時にはとことん集中できる・・・そういう人でないと、一つの何かを成し遂げるということはできないのかもしれません。
 

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