2022年08月13日

門人随想「沁みてくるもの」

                    by 拝師正式門人 松久 宗玄



「稽古が沁みてきますね・・・」
稽古の終わり際に、とある門人の方が呟かれた言葉には、ハッとさせられる稽古の本質が感じられました。

太極拳の稽古の難しさには、おそらく全ての門人が頭を抱えている事かと思いますが、その中で、その沁みてくる感覚を味わう事が出来ているか、否かには、天地の違いがあると思いました。

師父の伝えられる太極拳の稽古体系は、本来は解釈の余地が無いレベルで完成されていますし、その要訣は明確に提示されているのですが、その教えを表面的になぞってみても、同じ様には再現できず、形を真似れど、その中身は判然とせず、謎は深まるばかりとなってしまいます。

師父曰く、
太極拳は暗号だ。稽古体系と要訣は暗号を解く為のコードブックだ。
太極拳は詩だ。行間を読み解ける詩情がないと理解は難しい。
太極拳は数学だ。論理的に記述が可能な法則性に基づいている。
太極拳は音楽だ。JAZZのアウトで戦うのだ。
太極拳は宇宙の法則だ。自然の「ことわり」なのだよ・・・

その言葉の奔流に圧倒されつつ、益々、謎は深まっていきます・・・

私自身、師父の言葉も、太極拳の稽古体系も、その一つ一つが区別され、分かれたものとして捉え、読み解こうとして、ことごとく挫折してきました。
提示されているのに、見えない、分からない事に悩み続ける状態です。
よく例えに挙げられる、月を目指したい筈なのに、月を指す「指」を気にする錯誤に、何度ハマり込んだことでしょう。

一方、冒頭の「沁みてくる」と語られた門人の方は、「日々が新鮮な驚きの連続です」とも語られていました。
自分の中に発見があり、素直にその味わいを楽しんでいる風情でした。

その両者の違いは何にあるのでしょうか?
その一つの鍵として、「部分」と「全体」があると思います。

科学的なアプローチの起点は、渾然一体としてよく分からない現実世界を、単純な要素に分解して調べることから始まります。「分ける」ことで、差異や作用を際立たせる事が可能となり、要素同士を比較する事で理解を進めることが可能になるからです。
その細かく世界を切り分けていく道具として、言葉が生み出され、大いに発展、発達しました。
言葉で「分ける」ことが、「分かる」= 科学的理解に繋がっているのだと思います。

現代人は、科学者であるかどうかに関わらず、既に科学的に切り分けられた世界に生きてしまっていると思います。
皆が皆、言葉で事物を切り、単純化して物事を理解する作法が身に付いてしまっています。
それ故に、神も、神秘も、全体性も、バラバラにしてしまって、逆に物事の意味や価値が良く分からない状況にも陥っている、とも思われます。

この言葉で切り分けて「分かった」気になれる点が、現代人に太極拳の理解が難しい理由の一つだと思われます。
先の師父の言葉の奔流は、切り分けて単純化するアプローチでは歯が立たない複雑性に充ちています。
また、太極拳を含む芸術の世界では、「高い」あるいは「深い」と表現される、意味や価値の、垂直方向の重層性が認められます。
高くて深い対象を、単純に言葉で「部分」に切り分ける行為は、高きを崩し、深さを埋めて、平坦にしていくアプローチであり、むしろ価値を無価値に近付けているのだと思います。

これらの事から、意味や価値は「部分」には少なく、「全体」にこそ属することも見えてきます。
人間の優れた点は、バラバラにする事も出来れば、それらを繋げて再構成する事も出来る点だと思います。
言葉においても、文字一つ、単語、文、文章と、繋げることで意味性が高まります。
「部分」が法則性を持って「再構築」あるいは「統合」される事で、その「関係性」の中に意味や価値が宿るのだと思われます。
この「全体」を「再構築/統合」する働きが、我々には圧倒的に足りないのだと思います。

冒頭にある「沁みてくる」ものを味わう事が出来る感性は、「全体性」が働く中で生きられているからではないかと思われました。
「全体性」の中で「分かる」ことが起これば、その「全体性」はより高く、より深く、より複雑な「関係性」を生じ、その新たな「関係性」の中に、新たに立ち現れる意味性こそが、「沁みてくる」味わいではないかと思われます。

師父が「太極拳は大人の拳法だ」と述べられた事も思い起こされます。
この意味は、人生の辛酸も舐め、清濁合わせて呑み干し、酸いも甘いも噛み分ける事が出来るまで成熟しないと、いつまでも人間は「部分」を追いかけて、「全体」に目が向けられないもの、と今ならその言葉を味わうことが出来ます。

先ずは”違いがわかる男”を目指して、日々、日常においてこそ、味わい深いものとして物事に関われるよう、日々の生活を整えていきたいと思います。
                              (了)


disciples at 21:45コメント(27)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by 川山継玄   2022年08月14日 03:21
宗玄さんの記事を拝読し、師父の「問題の解決」についての座学を思い出しました。

>科学的なアプローチの起点は、渾然一体としてよくわからない現実世界を、単純な要素に分解して調べることから始まります。

問題の絡み合った一つ一つを取り出して、一番シンプルにする。
これをしていないから、問題が解決しないままで、中々変貌・成長できないのではないかと思いました。
自分の都合で、ほぐしきらないままのものをいくつかに分けていたり、一つ二つだけを取り出してほぐした気になっていたり。「自分の都合=言い訳」していると認められず、問題の整理ができないまま、部分的にしか関われなかったのだと合点がいきました。
玄花宗師のご指導や、門人の言葉に、
「そうですね。」
と真摯にご自身に向かい合う宗玄さんの姿勢や、私達に向けて下さる言葉の重みは、日々の努力の積み重ねを怠らないからこそのものなのですね。

言われた通りの手順を踏んでいないのは、問題を解決したくないから。
自分でブレーキを踏んでいる理由を、見つめなおしてみます。
ブレーキから足を外した時、何が見えるのかなあ。

ご自身の経験も交えての文章が、とても分かりやすく勉強になりました。
師父がご指導下さったひとつひとつを噛みしめて、稽古に励みたいと思います。
ありがとうございました。
 
2. Posted by 西川敦玄   2022年08月15日 14:55
宗玄さんブログ記事ありがとうございました。
ノンフィクション作家ロバート・パーシグ著書の『禅とオートバイ修理技術』という本に「人は自分が本当は知らないことを、本能にまどわされて知っているかのように錯覚する。科学的手段の真の目的はそれをふせぐことである」という一節があるそうです。(これから、その本を読んでみようと思っているのですが)
私たちは、太極拳の稽古で科学的に考えるようにいわれたとき、まだ知らないことの解明に科学的方法を使おうとしているのではないでしょうか。そして、本能にまどわされて知っているかのように錯覚していることには、興味をむけていないのではないでしょうか。そうして、知っているかのように錯覚していることを防ぐために科学的手段を用いるということをしていないようにも思えます。要訣や注意なども、知っているかのように錯覚していることを防ぐための手段の一つではないでしょうか。
熱をもち、かつ冷静にこの道に取り組んで行こうと思いました。
あらためて、記事ありがとうございました。
 
3. Posted by マルコビッチ   2022年08月15日 17:30
宗玄さん、とても知性的な理解の解釈に感心し、同感いたしました。
ことごとく挫折し、見えない、分からない事に悩み続けたゆえの理解だと思い、感慨深いものがあります。
私たち現代人は特に、全体を見ることが苦手(出来ない)なのではないでしょうか。
日々の生活の中で、何かに追われ、目先のことに囚われ、一つの情報に振り回される。
それは緊張を生み出すのだと思います。
私は、稽古の際によく緊張していますと指摘を受けるのですが、私自身以前から、生きていること自体に緊張しているように感じていました。
つい最近、リラックスしようとすることにさえ自分が作ったリラックスという形にはめようとしていることに気づき、これは『こうでなければならない症候群』だと自分の中の緊張の訳を発見したのでした。
稽古をしていても、部分に意識が集中すると全体は見えなくなり、そこには放鬆は起こらないのだと思います。
身体もそうですが、精神の放鬆は私にとって大きな大きな問題です。
師父の仰った数々の言葉が骨の髄まで沁みてくるといいなぁと思います。
私も日々の生活の中で自分を整えるよう精進すると共に、”違いがわかる男”!応援させていただきます。 ありがとうございました。
 
4. Posted by 阿部 玄明   2022年08月15日 22:02
我々の悩みの核心とも言えるテーマですね。簡単には解決しませんが向き合う必要がありますね。

味わいが感じられるかとは......

我々が味わうことが最も多い機会があるのは例えば料理です。
料理を味わおうとするならば料理全体を味わうことになりますが出来上がった料理からその構成要素だけを取り出して味わうことは出来ませんし、出来てもそれは不味いです。
調理前は出汁がああだとか、この野菜がこうだとかは単語で述べることは可能ですが出来上がった料理としては材料は他と混ざり合い、調理過程を経て変化しているので、もう元の材料とは別物であるし全体から相互作用を受けているものなのです。
料理の材料要素だけを取り出して論じるのは意味がないとはすぐ分かるのですが、太極拳の稽古では部分だけを取り出して稽古してしまうようなことが良く起こります。既に完成している一品なのにわざわざ分解しようとしてしまうのです。
難しく考えてしまうから陥ることなのです。左脳優位で物事を考えているあいだはどんな詳細な思考も出来るが自分は対象から遠いところに居て思考の空中戦をしているのです。取り組む対象との間合いがかなり遠いのです。
机上の空論という言葉があるように、何も経験していないし収穫もできないのと等しいと思うのです。思考は現場から遠い"虚"の経験なのです。
一方、味わう行為は自分から対象に近付き一体になることで初めて可能になるのでしょう。
また、思考だけでなくそこで感じられる五感を使って味わうことは主体的で能動的です。脳も左右が両方使われるため仕事量とそれに伴う成果は思考だけの場合よりもはるかに多くなります。味わう行為は現場での"実"に属する経験なのです。

5. Posted by 阿部 玄明   2022年08月15日 22:03
分かったような気になるとは単に脳が"実"の経験することを嫌がった虚の結果かもしれないです。若しくは、分からないことがあると落ち着かず嫌な気分になるので単純な言葉に脳内変換して自分を納得させてしまうのかもしれません。脳は我々が思っている以上に気まぐれで、プライドが高く、分からないことが大嫌いなのだと思います。

自分を鍛えるとは身体だけの話ではなく脳を鍛えることでもあります。
公文のドリルやクロスワードのような単純で平面的な処理ではなくイメージや感覚、リズムなどに関わる立体的な処理を総動員して脳を整えるのです。
目が覚めるような芸術、料理、ストーリー、に触れなさいと良く言われるのは頭を整えなさいと言い換えることが出来ます。そこには普段の生活には無い刺激と法則に満ちているから。
公文のドリル的な単純な拳法ではなく大人の拳法を実践出来るようになるには自分も、もっと経験を積み美味しい味わいを重ねないといけないようです。
 
6. Posted by 太郎冠者   2022年08月15日 23:24
学問でも特定の分野において、例えば「複雑性」を扱う科学や数学では、全体は部分の総和ではない・・・切り分けた部分を集めても、最初の全体よりも要素が少ない、という言説が当然のこととして取り扱われています。
また、詩や俳句、短歌や音楽などの芸術作品は、ある特定の、本当に短いフレーズによって世界を切り取り、それによって再構築された世界の新しい解釈は、我々にそれまでなかった味わいを体験させてくれます。
一見矛盾しているようで、それらには、語りえない味わいが含まれているのだろう、と記事を読んでいて思いました。

稽古で行き詰ったとき、師父はどのように考えていたのだろう、世界を観ていたのだろうかと、思いをはせることがしばしばです。
師父は言葉だけでなく、その生き方や立ち振る舞い、その背中で我々に多くを語ってくださったように思います。
稽古においても、様々なことを指導して頂きましたが、一番自分を奮い立たせてくれるのは、
稽古終わり、帰り際の、
「頑張れよ」という師父の言葉かもしれません。

改めて、人生の中にある色々な物事の味わいを噛みしめて、稽古に取り組んでいきたいと思いました。
ありがとうございました。
 
7. Posted by ハイネケン   2022年08月16日 17:09
読ませて頂いた当初、折角平易な言葉で表現されているのに理解できず、私は字面だけ読んでいました。数回読んでみてようやく面白さに気が付きました。
私はまだ持ち合わせてはいない「沁みてくる」という感性。それを何とも的確に自分事として再構成し、部分や全体という視点から次第に鳥瞰し、自身の捉え方自体をも変化させていこうとする様子は、宗玄さんの意気込みの様にも思えます。
物事を分割するのではなく、丸ごと飲み込んでしまうような観察であり、自分の理解や感性をどの様に磨くのか?と問われている様です。
宗玄様 ありがとうございました。
 
8. Posted by 川島玄峰   2022年08月16日 20:01
なかなか全体を見るという事が出来ず特定の部分を見てしまいます。また提示されていても気付かず言葉で納得したつもりにもなってしまいます。
出来ていると思い込み、他の動きをすると体の力みを感じ、体が動いていない事を知り、何も分かっていなかった事に愕然とします。
しかしその愕然とする事は、自分勝手な行動を防ぐと同時に自分を修正するためにどうしたら良いのかと考えさせて貰えます。
それも稽古となり自分の問題が次々と浮き彫りにされます。
ここからどうしなければならないのかは、在り方で分かって来るのかもしれません。

全体を見る一連の行為の必要性を改めて教えて頂きました。
ありがとうございました。
 
9. Posted by 平田玄琢   2022年08月17日 00:46
宗玄さんは、自らの稽古体験に基づいたものを、論理的思考で言葉や文字に置き換え、それをもとに仮説を立て答えを出していくのが得意と感じます。
こういった事が私に足りないものだと思いました。

いったい論理的思考とは何かと調べてみました。
因果関係を整理し、順序立てて考えること。あるいは分かりやすく説明する事を指す。とあり、ロジカルシンキングとも呼ばれるそうです。

確かに宗玄さんと対練をする時、私が質問すると、順序立てて説明して下さり、大変分かりやすいといつも思っていました。

それと比べると、私は、「積み上げ式思考」なのかもしれません。大きな目標や小さな到達点からの逆算から、やる事を考えたものでなく、現在を起点にして今できる事を積み上げていく。それでも時々閃きがあり、「これはもしかして、あれと同じ」と、部分が少しずつ繋がっていくが、なかなか全体まで到達しないと感じています。

普段の生活も稽古でも、もっと明確に物事を意識する事が必要と思いました。
 
10. Posted by ユキ   2022年08月17日 02:22
>高くて深い対象を、単純に言葉で「部分」に切り分ける行為は、高きを崩し、深さを埋めて、平坦にしていくアプローチであり、むしろ価値を無価値に近付けているのだと思います

鮮明にイメージが湧いてくる良い言葉ですね。

全体性への誘いは、そのまま自己探求の旅の船出となり、今までとは全く異なる世界・・例えば、目では見えない世界、耳で聞こえない音が溢れる世界が広がります。そして、自分を超えた世界では自分の力などひとつも及ばず、ひたすらに受け取るしかないことを教えてくれます。

芭蕉の句ではないですが、自分が閑かでないと蝉の声も沁みてくることはなく、むしろ排除を望む騒音となるのでしょう。満腹な時に三つ星レストランへ行っても、何も味わえないことと似ていますね。宗玄さんが仰る「日々の生活を整えていきたい」という言葉は、それを意味しているのでしょうか。
よく、「部屋は心の表れ」といわれますが、自分の部屋を見回してもなるほどとため息をつきたくなります。今回の記事をヒントに、私も日々の生活を整えていこうと思います。
 
11. Posted by マガサス   2022年08月17日 15:57
この文章を書かれている宗玄さんの心が、胸に響いてきました
理屈ではなくご自身の経験からくる真心が、心にしみてきます

枝葉だけをそれぞれ別々に追い求めるのではなく、自分の根幹に目を向けて、その中心から枝葉を生い茂らせて行きたい
部分ではなく、ひとつ(全体からなるもの)でありたいと願ってやみません
自分が分裂していたら、太極拳も人生もバラバラなものになってしまうと思うからです
自分の想いを上手く言葉に変えることが出来なくて申し訳ないのですが、宗玄さんの投稿をじっくり味わいながら、胸に響いてきたものを大事にして、自分を整え課題に取り組んでいきたいと思います
貴重な投稿をありがとうございました

12. Posted by ふにゃ   2022年08月18日 01:16
稽古が沁みてくる…そう呟かれた方にも、その言葉にハッとされ深く掘り下げられた宗玄さんにも、人としての奥深さを感じました。
日頃から自分に幼稚さや薄っぺらさを感じ、稽古に於いては目の粗いザルで全てを取りこぼしているように感じていましたが、そもそもザルはどんなに目を細かくしても薄っぺらいことに変わりないですね。
それにザルでどれだけ掬っても全体にはなり得ませんね。
ザルには何も沁みてこないし、“沁みてくる”…からは、奥行きや深さ、広がり、柔らかで繊細な素材感や時間の流れ、静けさなどが感じられます。大人の趣です。
大人とは・・・?と、ずっと思っていましたが、宗玄さんの見解に納得致ししました。

丁度ブログを読み終えた時に、部屋に朝日が差し込んできて窓ガラスの汚れに気づきました。“生活を整える!”と思って気持ちよく拭きながら、いつもと違う角度から照らされたのでなければこの汚れは私にはずっと見えなかったのだな、と思いました。

朝日のような清々しい記事を有難うございました。
 
13. Posted by ichi   2022年08月18日 17:49
日常の中で、部分的、表層的な一部を取り出して分かった気になってしまう事が少なからずある気がします。
そうした半端な理解(した気になる事)がより深い理解を妨げてしまう、こと太極拳においてはそういった部分があるのですね。
分かる事を求めずただ感じる、ただ味わう事が理解に結局は繋がっていく様に感じました。
 
14. Posted by 清水龍玄   2022年08月18日 23:35
全体性、そして科学的なアプローチというのは、とても難しく思います。
言葉や言葉から整理される考えはとても大切なものとは理解しながらも、部分に拘り囚われて、全体を感じとることが出来ない、創造性の働かない緊張も多々あり、非常に難しく感じます。
宗玄さんの記事を読み砕き、またそこに書かれていることを味わえるよう、幾度も記事を読んでいこうと思います。
貴重な記事をありがとうございました。
 
15. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:10
川山継玄さん
難しい問題とは、大抵の場合において絡み合っていますし、絡み合った問題は本当に何処から手をつけたら良いのか途方に暮れますね。
人間の問題とは自分自身と環境、もしくは対象との関係性において生じる事が大多数である様に思います。
その関係性の中で、本来の「自分」から離れて、流される、もしくは前のめりに進んでしまう事が、問題の解決をより難しくしているかと思います。
日々、少しの時間でも良いので、立ち止まって、一人になって、浮世の関係性から離れて自分に向き合ってみる、そこで「自分」を再発見する試みは、常に最初の一歩として有効だと思っています。
 
16. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:12
西川敦玄さん
>本能にまどわされて知っているかのように錯覚する
これは、未知に対して、自分の世界に取り込む際に、自分の世界のルールで翻訳して、とりあえず既知にしてしまう働きでしょうか。
(私の場合も心当たりが多すぎますね・・・)
啓蒙時代を経て、科学の光が未知すら隈なく照らす今時においては、確かに現代人の本能になっているかと思います。

冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(和泉式部)

古代日本とは、どうしようもなく未知に満ちた世界で、未知に向き合い進むしかなかったかと思われます。
か細い認識の光の中で、自ら一歩づつ足場を確かめ、触って、嗅いで、味わい、咀嚼した上で、未知を少しづつ自分の世界に取り込んでいった事と想像されます。
科学という便利すぎる道具は、人間の可能性や自由度を大幅に拡張しましたが、生き物としての本来的な機能は決定的に損なわれてしまった、と思われます。
この道具を使う「自分」の在り方こそが鍵であると、今一度、心に止めおこうかと思います。
 
17. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:13
マルコビッチさん
「ねばならない」という思考、あるいは強迫観念は、私自身を振り返ってみても大いに認められますし、現代日本人全般において、相当に多く認められる症候群である様に思います。
その自分の常識や信念が何処から生じて、現在の自分の形を成すに至ったのか、それを自分が分かっている事が大事ですね。
今回、「自分」を再発見したその気付きこそが、継続的な放鬆に繋がる第一歩となりますように、、、
 
18. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:15
阿部玄明さん
太極拳を理解する上において、脳にアプローチする方向性には同意致します。
(それこそ脳の機能を機械的な視点でのみ捉えてしまう危険性もあるのですが・・・)

我々の認識する世界とは、個々人の脳内に再構築された世界であるとも言えるかと思います。
特に太極拳を研究する上で興味深い学説は、「脳地図:脳の中のこびと(ホムンクルス)」でしょうか。
このこびとの脳地図を見ると、如何に人間にとって太極拳が難しいのか分かる様に思います。
脳を鍛えるとは、この脳地図を書き換える作業だと思っています。
ただし脳は気まぐれなので、ノイマン型コンピューターのOSを入れ替えるみたいに、単純には済まない点が難しい所です。

一流の芸術に触れ、味わいなさい、と、師父も宗師も常々口にされていましたね。
本質的に脳を鍛えるとは、その様にしかアプローチできないのでしょう。
ある意味、執念を持って多様な芸術に取り組まれた師父の後ろ姿に学ばねば、と思います。
 
19. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:16
太郎冠者さん
師父は言葉の使い方においても、ことさら慎重に言葉を扱っておられましたが、特に行間の表現が、水墨画の余白のように詩情豊かでしたね。
本当に大事な内容は、言葉で伝えられない事を表現されている様でもありました。
言葉にならないその余白をこそ味わいたいものだと、つくづくと思います。
 
20. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:19
ハイネケンさん
私が思うに、ハイネケンさんは「沁みてくる」という感性はお持ちだと思います。
だって食べる事、味わう事に、ある種の執念を持っておられる様にお見受けするからです。
美味しい料理やお酒を味わう事ができるのであれば、その感性は太極拳の味わいを理解する助けになると思います。

また、流行り病がさった折に、みんなで酒盛りできる様になると良いですね。
 
21. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:20
川島玄峰さん
>自分の問題が次々と浮き彫りにされます
問題点が次々に出てくるとは、羨ましい、良い稽古をされているのですね。
本質的な解決は、「在り方で分かって来る」という点も同意致します。

自分を歪んだ鏡に写して見ると、歪んで見える事は問題ですね。
歪みのない鏡に写せば、問題は自ずと解消されていますね。
在り方を整えるとはその様な事なのかと思います。
 
22. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:21
平田玄琢さん
ロジカルシンキングには大きく二つの流派、演繹法と帰納法がありますね。
演繹法は自明とされる大前提(ゴール)から考える仮説検証的なスタイルで、帰納法は数多の事象から実証的に解答を推定していくスタイルです。
面白い点は、いずれの思考方法にしても、因果関係という関係性を辿る所ですね。
太極拳を研究するには、対象だけではなく、行間も含めたその関係性に着目する事が重要だと思います。
最初の一歩は先ず自分の常識を疑う事でしょうか・・・
私は玄琢さんの閃き、直観に学ばねばと思います。
 
23. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:21
ユキさん
確かに自分自身が閑かである事は、大変重要な条件であると思います。
心は水面のようなものであり、波打っていれば流され翻弄されるばかりですが、凪いで静まっていれば、その奥底を垣間見せ、水面には月影を映す事でしょう。
私も改めて部屋を片付けようと思います・・・ふぅ
 
24. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:22
マガサスさん
枝葉末節という言葉がある一方、神は細部に宿るという言葉もあり、面白いですね。
太極拳の稽古でも、単鞭の手形はピースサインでも良いと言われる事もある一方、
基本功においては手形が厳密に問われる場合もあり、何かを決めて臨む事はできないのだとつくづく思います。
いずれにせよ今ここをリアルに生きる事が鍵になるのだと思います。
 
25. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:23
ふにゃさん
確かにザルでは、注がれるものを汲み取れませんが、ザルの役目は要/不要を分ける事なので、用途を間違えないことこそが大事なのでしょうね。
注がれるものを受ける器にしても、小さくて浅い器だと、すぐに溢れてしまいますし、この自分という器を如何に広げていけるかが、本質的な課題であると思います。
ふむ、そういえば角度を変えて見てみると、相当に改善の余地のある自室です・・・掃除しよー
 
26. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:24
ichiさん
一知半解とは、特に太極拳においては常に現れる問題ですね。
全体が見えていないが故に、部分的な理解に足を取られてしまう事が多々生じてしまいます。
無極椿から始まり、その要求が全稽古を貫かれているという事は、評価検証をする為の尺度があるという事で、これは大変ありがたい事だと思います。
 
27. Posted by 松久宗玄   2022年08月21日 01:25
清水龍玄さん
太極拳も同じですが、難しく感じられて歯が立たないものであれば、そのまま無理に食べなくても良いのではないかと思います。
人間の有している創意工夫を活用して、胡桃であれば硬い殻を割って中身を食べれば良いですし、筍ならばアク抜きをした上で美味しく頂けば良いのです。
太極拳におけるその噛み砕けなさとは、多くの場合は心身の緊張に由来している事に同意します。
それ故に、自分自身の緊張と、その放鬆を深く掘り下げる事は死活的に重要だと思います。
料理すべきは緊張した自分ではありますが、そのゴールは美味しく頂く事です。
ヒントは自分が日々の日常を美味しく頂いているか、味わう準備ができているか、その為に日常が整えられているか、だと思います。
 

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