2022年02月11日

門人随想「科学的態度と道場 自分を疑うことから始まる太極拳」

                    by 拝師正式門人 阿部 玄明


【初めに】

 太極拳が上達するかしないかのポイントととして、どれだけ自分を観れるかが重要です。それは普段の稽古でもよく話題になるのですが、イマイチ自分を観るということに慣れてなく曖昧に捉えがちです。では、普段の日常生活ではどのように物事を観ているのかを「科学」という観点で整理し考察してみたところを今回の記事で紹介したいと思います。

 太極拳を科学的に論じるために、比較例としても科学を扱うニュースをテーマとして引用しようと思います。これから挙げる例は見方、考え方を判りやすく説明するために厳密性を求めずに大雑把に述べますので、”そういう考え方もあるよねっ!”という程度で軽く読み流していただきたいです。こういう説もある、ああいう説もあるなど諸説乱立している中で、一つの仮説を取り出してお話させていただきます。


【結局石油は無くなったの?、無くなるの?、いつ無くなるの?】

 今から何十年前のこと、石油ショックと呼ばれるイベントをきっかけとしてエネルギー危機が声高に叫ばれた時期に、あと50年くらいとかで石油が枯渇するという言説が科学的根拠をもって官産学そろって喧伝してました。それから50年たった今、石油は無くなるどころか地球上をどこを掘り出しても吹き出してきて無くなるどころではないというのが現状です。なぜかというと、当時の枯渇論の前提があって今の採掘技術や省エネルギー技術に進歩がなく、ただ現状のまま掘りつづけた場合にはという前提があったのです。その部分があまり(意図的に)フォーカスされずに石油が無くなることだけを切り出して、テレビや新聞や教育の現場で強烈な印象を植え付けられ続けたのです。
 その後技術が進歩し、より広い範囲、より深い地層からも石油を採掘できるようになり枯渇を免れているのは皆さんご存じの通りです。(原理的にはそれこそあと何十年、何百年もすれば枯渇するかもしれません。ですがいわゆる商業的、政治的意図を持った専門家がいかにも科学的っぽく言い続けた結果、国民全部が思考を限定させられた状態になり、クリーン(?)エネルギー推進の方向に突っ走ってしまった。その結果、活断層だらけの日本の国土中に原発が並び立つ異常な光景が出来上がったのです。この事例はその部分だけで見るとそれ自体は正しいのだけれど大きな視野でみると見ると不足と間違いがあることが観て取れます。科学的に議論されていることでも視野が狭いと後々取り返しが付かなくなることがあるのです。)


【地球温暖化議論はスケールが小さすぎないか?】

 類似な事例として地球の温暖化というテーマについても考察してみましょう。
 人間の経済活動に伴って二酸化炭素が放出され温暖化効果によって地球の温度が上昇しているというアレです。確かに日本の夏日は最高記録を更新するような猛暑日も近年増えているので「ああ、なるほど!」と思います。メディアは過去最高気温を記録すると元気になり、環境問題の重要性を語り始めるようです。しかしながら世界を見渡すと信じられない厳冬になる地域があるのはなんででしょうか?
 熱というものは、暖かいところから冷たいところに循環して均一化すれば移動しなくなる性質を持ちます。地球が温暖化しているなら、どこでもいつでも平均気温が上昇していないとおかしくないでしょうか。日本の夏は暑い一方、世界中で記録的な厳冬(アメリカのある州で前回の冬には部屋の中につららができるほどでした)になるのは何故なのでしょうか? 

 地球の気温を決定する熱量は入りと出の収支から決まっているはずであり、つまり大きな目で見ると、太陽の活動の影響による熱量増加(入り)、地球の大気からの冷却による熱量の減少(出)が気温に影響するのです。ですが温暖化について語るとき太陽の活動について詳細に報道する例はどれくらいあるでしょうか?
 天文学で観察されている事象としては、太陽には黒点の数が増減する太陽黒点周期というのがあり、太陽の活動が活発なときとそうでないときが周期的に繰り返されています。実は最近の太陽の活動はすごく活動が少なくなっており2030年にむけて極小期に突入すると推測されています。これは1700〜1800年ごろの前回の寒期に次ぐ規模のものであり、これからは地球が寒冷化する可能性を示唆しています。(産業革命から二酸化炭素の排出が増えて地球が暖かくなって来たというのが温暖化の主張ですがその当時は太陽の活動も少なかったということになり、信憑性に疑義が生じます。また万年単位で繰り返されている間氷期と氷期のサイクルは、二酸化炭素量の変動で説明できるのでしょうか?)
 また熱の収支に影響する因子として、太陽以外にも大規模な火山活動が起こった場合は火山灰により太陽光が長期間遮られるだけでも地球の温度が下がることが知られています。偏西風の流れが変わっても(近年日本などの夏が特に暑いのはこの影響が大きい可能性があります)特定の地域の気温が変わります。事象を観察するときどう見るか?、顕微鏡と望遠鏡を使い分け、観察対象のスケールを原子サイズから太陽系サイズにまでせわしなく拡大縮小してゆくと風景や登場人物がどんどん変わってゆき、原因が一つに特定できないことが判ります。このような思考と視点を漂わせることで一点集中の思考から抜け出すことができ疑問が生じます。この事例もまた、太陽や火山活動という関係性のある色々なものに触れずに二酸化炭素というきわめて微小なこと(それ自体の主張は正しいのが厄介ですが)に焦点をあて、聞く人の視野を狭くしそれが全てであると思わせ、次のビジネスに誘導しようというところが先の例と同じですね。
 なぜそんな風潮になるのかというと、センセーショナルなほうが世論を誘導しやすいし、研究者にとっては国や企業から予算が出るから乗っかるのです。巷に流れている情報はちっとも科学ではないのです。科学のふりをした政治とビジネスのコマーシャルなのです。


 ・・いかがでしたでしょうか?
 一度は見聞きしたことがある話題ですが、いろんな受け取り方、解釈もでき、研究の余地があるかと思います。もしそうではなく見聞きしたたままのことをそのまま聞き流してしまうことを習慣化していたとしたら、それは教育のせいかもしれません。
 今はどうかわかりませんが、昔の学校の勉強は教科書を暗記し、テストでは提示された選択肢の中から一つの正解を選び取ることが求められる。選択肢外のことを回答しては減点されるし記述式のテスト自体ほとんどなかったのです(議論についてはその機会さえ与えられてこなかったはずです)。余計なことを考えないロボットのように画一教育され、自由で創造的な思考は許容されなかったのです。

 結局温暖化説が正しいかどうかは現在進行形で議論中ですし、あと10年位は経過しないと検証できないかもしれません。ですが、政府や自称専門家の言うことを「ああ、そうですか」と受け入れているだけでは、本当に正しいことが判るのは時間経過頼みになってしまいます。本当にそれを知りたい、備えたいと思うのなら、自分で関心をもって周辺を研究しないと間に合わないのです。そして研究とは、なにも専門性の高い知識を学校通って詰め込む事は必要はありません。身近な日常のその場、その場で既に知っていることを新しい視点で観察し思考の幅を広げる一歩を踏み出し始めることだけなのです。日常の「聞くもの」「触れるもの」「味わうもの」を当たり前と思わずに疑問を持って関わることが、研究の始まりなのです。そうすると今まで見えていなかった周辺風景が見えてきて、まだ登場していない人物が浮かび上がってきます。そこからもっと知りたいと興味が生じることで研究が加速するのです。専門家が言うからとか大多数の人間がそう言っているからその意見に従うというのは科学的な態度とは言えませんし、多数派か少数派かどうかは科学とは関係ありません。大多数の人間は科学的真実を研究することはないし、日々の生活を過ごすのに都合の良い心地の良い行動と信念を選択します。また、それは維持が簡単だからであり、安心感があり葛藤を生じない感情の選択のことだからです。

 歴史をみると、その当時大多数に支持されてきた学説や信念は感情に基づいた動機で支持され、後の時代の科学的検証で否定されてきたのです。つまり科学的態度とは商業的と政治的動機や安心感や多数派であることとは反対の立場であり、非感情的、懐疑的、少数意見の側なのです。道場での稽古もまた、日常的ではなく孤独な研究であり自己の習慣に否定的であります。科学と道場は向き合う態度としては同じ性質なのです。


【太極拳に向きあう科学的態度】

 一般的な常識からすると、とてもできるとは思えない(大多数の人間がそんなことできるはずがないと否定するであろう)動作や事象を可能にする太極拳も、「ああすればこういうメカニズムでこうなる」と、架式の理論体系をもって説明され、実際にそれが実践され、その正しさが証明されます。そして太極拳は難しいことではなく、誰でも知っていることから成っていると言われますが、日常的に見ていては判らないものだとも言われます。できない場合は、出来るようになるための主体的な工夫や研究をしなさいと指導されます。
 ここに上述した科学の事例とかなりの一致が観られ、大変興味深いと思います。自分の選択行動と価値観に疑問を持って、自分でやらないとダメなのです。自分の取り組みのプロセスや考え方自体が狭くなっていないか、習慣化されてしまい同じことを繰り返していないか、つまりは『科学的な態度で稽古できているか?』ということです(上から見なさい、横から見なさい、もっとずっと遠いところから観なさい、など言われます。これらは自分の視点を変える 縮尺を変える、意識を変えることを意味しています。宇宙スケールにまで観方を変えないとダメなのです)。

 科学的態度とは、今まで使ってきた常識や行動パターンに疑いを持ち、自分自身の習慣化された行動を否定し新しい視点を獲得する姿勢のことです。そして、浮かび上がってくる関係性に関わってゆくプロセスです。勇気をもって過去の自己を否定し、観直すことから研究が始まるのです。道場でも日常でも何かを研究するのに必要なことは、未知の秘伝を教わることではなく、既に知っている当たり前のことを疑いの目をもって見つめ直すことでもあるのです。このことを念頭に置いて、気持ちを新たに稽古に打ち込みたいと思います。

                               (了)


disciples at 20:00コメント(16)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2022年02月14日 20:03
とかく人間は、自らの偏見で物事を見やすく、また感情で判断・決定を下す傾向がありますので、まさにおっしゃる通り、自分を疑って物事を見ていかないと、太極拳の理解をしていくのは難しいのだと痛感しております。

以前師父から、中庸であることについてお話をしていただいた記憶がありますが、自らの価値判断でこうだと決めつけず、実際に起きている物事はどうなのだろうかと、静かに見つめることが必要なのではないかと感じます。
どちらかに傾かずに中庸であることと、客観的な観察から組み立てられる科学的体系とは、共通する要素があるように感じられました。

解決が難しいと感じる壁にぶつかると、どうしても遠くに解決法を探してしまいますが、看脚下という言葉にある通り、観ることそのものの視点を変えてみたいと思いました。
 
2. Posted by 西川敦玄   2022年02月15日 00:33
科学的な思考というテーマで、稽古への取り組みの考察ありがとうございました。
科学は疑うことから入るといいます。定説を疑い、より真実に近いことを模索していく過程であると思います。
二酸化炭素の温室ガスの話も、今年ノーベル賞を取られた真鍋淑郎先生の研究の成果ではありますが、様々な解釈があってしかるべきだと思います。
ただ、疑ってかかっている中で、どうしても巷の一般人、専門家の中でトンデモ科学者やトンデモ一般人が存在していることが気になります。彼らがガリレオやコペルニクス、アインシュタインとはなにが違うのか。おそらく、それまでの科学的知見を科学として受け入れてそこに立脚することがないのが一点と、彼らの主張の根拠、方法が科学的でなく主観的であり再現性がないことが主な原因であると思います。
広く考えると、疑う対象として、是までの科学的知見と、個人の思い込みとあり、その双方を疑うということであるのでしょうが、それぞれへの態度は異なると思います。科学的知見へは受容性と懐疑性が、個人の思い込みには絶対的な否定性が必要になるのではと思います。それらを混同するとおかしなことになるのだと気付かされました。思えば太極拳への私のアプローチは科学以前に自分の思いこみにたいする否定から始め、示された科学的知見への受容性がまず必要なのだと思いました。
 
3. Posted by 平田玄琢   2022年02月15日 08:48
「科学」という視点で考察した事例や、太極拳に向き合う科学的態度は、非常に興味深く読ませていただきました。正に、自分に足りないことではないかと思いました。

考察事例は、まるで私が以前に定期購読していた科学雑誌の二〇〇トンを読んでいるようでした。もっとも、世の雑誌は全て政治的配慮・経済的配慮で満ちていますので、肝心なことや、都合の悪いことは、他の話にする必要があります。地球のどこかに神の領域が存在するのかもしれないと、「風の谷のお話し」の一場面を連想するかのようにされていたのを思い出しました。

地球温暖化の事例では、確かに二酸化炭素の排出量だけが世の中で言われています。二酸化炭素を酸素に変えるサイクルを持つとされる、自然の山を潰してクリーンエネルギーの一つといわれるソーラーパネルを敷き詰めた景色をよく見かけます。それは本末転倒ではないかと思っていました。
「微小なことに焦点を当て視野を狭くし、次のビジネスに誘導させる」とか「身近な日常のあらゆるものに疑問を持って関わることにより、みえていなかった周辺風景や人物までも浮かび上がる」とは、してやったりという感じで、たいへん気持ちの良いものでした。

太極拳に対する自分の視点、縮尺、意識に注意を向けるように心掛け、今迄の当たり前のものに疑問を持ち、新たなものがみえるよう、もっと深く研究をしなければと思いました。
 
4. Posted by 円山玄花   2022年02月15日 18:22
これだけ平易な事例を挙げて物事の見方、自分の見方にフォーカスを当ててもらうと、とても分かりやすいと思います。
私たちの視野の狭さや思考範囲が限定されてしまった原因は、画一教育の他にも、結果的に便利になってしまった日常生活が考えられると思います。寒くなったら暖房器具、夜食はコンビニかファーストフード店、温かい飲み物は自販機、お米は炊飯器が炊き、洗濯は洗濯機が全自動で解決、体調が悪くなったら薬を飲む、治らなければ病院へ・・もちろん間違っていないし、悪くもないのですが、それぞれの過程の中で自分の工夫はどれほど入っているのか、考えて欲しいところです。
例えば「寒くなったら暖房器具」は、当たり前のことではありますが、寒さの対策としては暖房器具の良し悪しだけではなく、着る物、携帯できる温かい物、そして体の部位にも一部を温めると全身が暖かく感じられる部位がありますし(反対に冷やすことも可能です)、そもそも体を温かく保てるような食事に変えてみるとか、生活の環境を整えるなどなど、少し考えてみるだけでありとあらゆる工夫を凝らすことができるわけです。
そして、その工夫のおかげで、寒かった部屋で温かく過ごすことができた時には、「寒さとは何か」と「暖かさとは何か」の両方を理解することをも可能にするのです。すると、家の中でも外でも、山の中でも、その理解をもとに工夫することができます。
また、それらの工夫の大元が先人たちの残した知恵に因るものだったと気づくことも多いのですが、そんな時には感謝の気持ちと同時に心からほっこりした気分になれます。
 
5. Posted by 円山玄花   2022年02月15日 18:23
(承前)
『君らはもっと苦労しないといけない』とは稽古中の師父のお言葉ですが、年々そのように言われた真意がしみじみと感じられるような気がします。
当たり前の便利さを当たり前のように享受せず、何事にも仕組みがあることを認識し、興味を持って追い求めることで生じる理解。それ以外に太極の道を紐解くすべはないのだと思います。
そして、ここで言う「興味」とは、玄明さんの書かれた「疑いの目」とも同じであると思います。

「調べ物はグーグル」が当たり前になってしまったこの時代に、私もグーグルのカメラでその場で翻訳できる機能に感動してよく使用しますが、しかしその不思議な翻訳結果に首をかしげることも多く、翻訳前の本文を自分の目で追って得られる意訳の方がよほど納得できるということが続いてからは、あまり使わなくなりました。むしろ、今は言語に限らず辞書を使って調べ物をすることが圧倒的に増え、それによって何やら頭の使い方も変わってきた実感があります。
考えてみれば、グーグルと辞書とでは、その目的も制作に関わった人数も正確性も比較できるようなものではないはずなのに、いつのまにか「便利で簡単だから」という認識さえないままに「当たり前」になっていたのだと思います。恐ろしいことです。

「科学的態度」で取り組むことは、たいそう不便で、あまりにも面倒臭く、延期するのにちょうどよく、部屋の片隅に片付かないまま置いてある雑多な物の塊のようなもの、なのだと思います。
まずは、自分たちにその認識があるかどうかですね。
グーグルに尋ねても発勁や纏絲のメカニズムは答えてくれないので、「結局、さっぱり分からない」なんてことにならないことを願うばかりです。
 
6. Posted by 川島玄峰   2022年02月15日 19:59
入門当初、先輩の門人たちの動きに愕然とし、自分には一生無理であると諦めた気持ちでいた事を思い出しました。
その時を思うと、自分の考えている武術のイメージを否定できなく、その動きを自分の中で肯定することが怖かったのだと思います。
自分の経験や日常の常識で捉えていると、見えるものも見えなくなり、より難しく不思議に感じてしまうのかもしれません。

師父は、よく科学的であるとお話をされていましたが、科学的という言葉にも私にとって謎に思え、捉え方がよく理解できませんでした。
この度の玄明さんの記事により、自分が謎と思うこともやはり固定観念が原因であり、自分の在り方に問題があると感じました。
武術の稽古では、常に在り方が問われます。まさに科学的態度で臨み在り方を変容し続ける事が必要であると感じました。

今後の稽古の向き合い方を教えて頂きました。
ありがとうございました。
 
7. Posted by 松久宗玄   2022年02月15日 23:47
科学の視点は事物の一断面を観察する事に特化しているので、
自分の立ち位置を決めてしまっている人が使えば、容易に〇〇に刃物になってしまいますね。

科学的な態度の一つが、反証が可能である事ですが、
その前提には自由を許容する大らかさが社会にあるかどうかが、極めて重要になると思います。
昨今の社会には、極論と極論がぶつかって相容れない様な窮屈さを覚えつつ、
今後、更に拡張されるネット空間の中で、集合的な知恵が働くかも・・・との期待もあり、
自らの態度を決定してしまう事にはリスクを感じています。

今、現在の自分が、何を根拠にして態度決定しているのか、
思考停止せず、説明ができる状態ではあり続けたいと思います。
 
8. Posted by 川山継玄   2022年02月16日 04:16
―顕微鏡と望遠鏡を使い分け、観察対象のスケールを原子サイズから太陽サイズにまでせわしなく拡大縮小してゆくと…

今まで考えもしなかったようなスケールの大きさと躍動感・スピード感・繊細さ・緻密さ・しなやかさが一気に押し寄せ、鳥肌が立ちました。

少し前になりますが、玄花后嗣から、
「生活が時間割通りになっていませんか?」
としきりに言われることが続き、その意味を分かりかねていました。
やらなければいけない事は決まっている中で、視点や縮尺、意識を変える一歩を踏み出すという選択肢があることに、目を逸らせていたから、ピンとこなかったのだろうと思います。

玄明さんの記事を拝読してから、見方や行動や時間配分などを変えているのですが、自分の勇気の無さや、発想の貧困さに笑ってしまいます。ただ、少しずつですが、その一歩を踏み出そうとしてからは、視界や人との関りや、自分に対する関わりが変わってきたように思います。「やり方を変える」ことに焦点が向きがちな私なので、常に自分に疑問を持ち、センサーを磨いて、流れ着く先はどこなのか何が見えるのか、何があるのか、求め続けたいと思います。

分かりやすい記事・沢山のヒントを、ありがとうございました。
 
9. Posted by マルコビッチ   2022年02月16日 20:05
科学という言葉に拒否反応を示す私は、太極拳を科学的に考えていく!ということがイマイチわからず、現象を理屈で組み立てていくように思っていました。
玄明さんの記事を拝読して、なるほどこういう風に考えていくのだなと感心しました。
興味を持つこと、疑問を持つこと、これらは大多数意見に流されるような状態では起こりえません。
科学者も画家も、何かを新しく生み出した人はとても孤独だったのだろうと思います。
新しいものを創り出す時、何度も何度も試行錯誤し、出来たかと思った絵画のキャンバスを切り裂き、出来たと思った焼き物を叩き割る、そんな作り上げてきたものに固執しない、後生大事にとっておかない状態は、自分の考え方や行動がどうであるのかを観察し疑い、否定し、本物とピントを合わせていかないと出来ないことだと思います。
太極拳の取り組みの中で、なぜそのように考えるか、固執していないか、もっと視野を広く意識を持って臨んでいきたいと思います。
科学的態度で取り組んでいくことを記事してくださりありがとうございます。
難しいことではありますが、玄明さんを見習って頑張っていきます。
 
10. Posted by ハイネケン   2022年02月16日 22:34
脳ではより使われる回路が強化され続け、より使い易い様に習慣化されると聞いた記憶があり、スマートフォンのアプリの様です。
またインターネット上で検索などしていても今ある情報から、より新しい情報を求めても答えが見つからない事がよくあります。
少し話がズレてしまいますが、このようなループに迷い込んだ時、腑に落ちるような答えを見つけて一安心しようとしたりします。
自分の見えざる価値観で作った、自分のループは楽で安心なのでしょうね。
その様なループから抜け出すには自らの根底にある自己の習慣、物の見方や捉え方を知ることでしか自分の眼を覚ますことが出来ないと思うと気が遠くなりますが、早く抜け出て次の新しい疑問へむかってみたいです。
ありがとうございました。
 
11. Posted by マガサス   2022年02月18日 09:12
「ニュースで伝えられていること」「教科書で教わったこと」「世間一般で著名人といわれる人達が言っている事」・・・ずっと正しいと思っていました
“正しいと思っていた”いうよりは、関心を持ったり、疑問を持つという頭が無く、与えられている情報が全てなんだと、タダ鵜呑みにしていただけでした
いま思うととても危険な状態ですよね
楽だし、安心できるし、日常を習慣化することで生活しやすくしている自分に直面した時、「これはマズイぞ」と心の声が聞こえてきたんです。危機管理能力ゼロだと・・・
「科学的に」と聞くだけで自分などは敬遠しがちでしたが、玄明さんの記事を読ませて頂き、納得できたり共感できたり、とても興味深ったです
科学的態度を持って、自分をフルに使って、楽しみながら研究していきたいです

『道場でも日常でも何かを研究するのに必要なことは、未知の秘伝を教わることではなく、既に知っている当たり前のことを疑いの目をもって見つめ直すことでもある』
心に響きます
ありがとうございました

12. Posted by 阿部玄明   2022年02月24日 23:59
☆太郎冠者 様

誰しも自分の経験や信念を拠り所にして生きてきているのでそれを否定することはとても苦しいことです。
象という生き物を知らない人が初めて見る際、象を前から見るのと後ろから見るのでは全く違うものを想像してしまうが見てるものは一緒だというエピソードを思い出します。
色々なところから見ればいいじゃないと思う、一方我々も同じように色々見れているのか、、、、自分を疑います。


☆西川敦玄 様

自分の目で見て、自分の頭で考えている以上、
人間は100%客観的にはなれないのだと思います。
だけども自分は客観視できていないかも・・
どんな視点が足りていないのだろうかと
頑なさではなく寛容さがあれば、第3者に意見を求め議論することでも修正されてゆくこともできるのでしょう。万能感の反対側に道があると思います。


☆平田玄琢 様

昨今の風潮は議論すること自体を許容されておらず環境に良いと言ってさえいればなんでもありの状態です。それに反対すれば環境問題に甘いやつだと糾弾されるでしょう。

また報道しない自由というのも流行っているようです。パネルは隣の国が市場を独占してます。
欧州では原子力も再生可能エネルギーですと主張しています。
環境にやさしい活動すればするほど・・・・・誰が得をするんでしょうね。
このやり口は環境だけにとどまらずいろいろな方面で使われてます。
それは人々のなかの価値観が信仰や文化ではなくマネーが占めているからこのやり口が上手くいくのでしょう。マネーに置き換えることができない真に価値のあるものを追及せねばと思います。
 
13. Posted by 阿部玄明   2022年02月25日 00:12
☆円山玄花 様

便利な道具、便利なシステムは我々に恩恵をもたらす、一方それが機能しなくなったときにどうなるのかを考慮する必要があります。
本来人間が色々手順を踏んで実行してきた複雑なプロセスを機械はボタン一つ押すだけで人間の代わりに一括高速処理してくれます。
人間は何もしなくていいし知らなくてもいい・・・
文明は進歩すればするほど、人間という種にとっては退化する環境が整います。
そして厄介なのは人間がそれに依存させようする意図が隠れていることです。
グーグルやFBなどのアプリの開発者自身が言っている・・・。

つまり便利さの追求は反面として自身の能力開発機会を失う行為と感じます。その危険性を理解したうえでの道具の使用が推奨されるのです。ましてや物事を知らず、経験もない子供に与えるのはもっと危険。
我々大人がしっかりせねばと思います。


☆川島玄峰 様

日本語は曖昧さゆえに難解な言語だと思います。
科学的と言われてもたくさんの意味を含んでいて情報量が多く解釈の幅が広くなります。
法則性と置き換えることもできると思います。朝顔の種をまいて正しく世話すれば芽がでてくるし、そうでなければ傷んでしまう。そのくらいのシンプルな法則なんだと思います。


☆松久宗玄 様

自由な情報発信が許されてきた数少ない手段であったSNSは近年、政府や国連が発表する公式見解以外の意見を削除すると規約で規定しています。
社会システムがうまく機能しなくなってきており極論の思想統制で社会を管理する方向に世界が傾いているのです。おっしゃるように自分で自分の行動を決定できるように整備しておきたいですね。
 
14. Posted by 阿部玄明   2022年02月25日 00:21
☆川山継玄 様

物事の変化は少しづつで良いのだと思います。
無理に大きく変化を遂げようとして焦ると緊張状態を招き極端な闘争か逃走の選択を強います。
楽しみながら思考実験をやれればきっと儲けものなのです。


☆マルコビッチ 様

難しく考える必要はなく、自分の思考の癖が認識できれて興味をもてばそれが始まりなのです。
例えば拒否反応を示すというそのこと自体が
自分の癖を理解するためのヒントであったりして貴重な情報です。
なぜ自分はそう考え、そう拒否するんだろうか
その結果どう行動しているんだろうか?
くらいから考察し始めてみると意外と新しい発見を得られるかも・・・と思います。


☆ハイネケン 様

脳は常に大量のエネルギーを消費するので
常に省エネしようと画策します。
日常生活を送るためには何も遠回りしたり
新しいルートを開拓する必要はないのです。
ループとはそういう状態なんだと思います。
日常を非日常として取り組めれば
普段と違うエネルギーが湧いてくるかもしれませんね。


☆マガサス 様

例えばの仮定として考えてみると

流れてくる情報は誰かが選別したうえで
流されているとすると容易に入手できる情報は
どうでもいい情報ということになる。

じゃあそうではない情報はどこにあるのか・・・・そんな風に気になった時から
宝探しが始まるのでしょうね。
 
15. Posted by 清水龍玄   2022年03月05日 08:41
大変遅いコメントで失礼いたします。
つい、少ない情報から検証もせず、安易で、一見効率的かと思えてしまうような考えや行動を選択してしまうことがあります。
そこには、科学的な視点というものがなく、実際には現実とは違うことがあります。
自身の考え方を疑い、もっと多方面からの視点、全体的な視点で物事に関わっていきたいと思います。
貴重な記事をありがとうございました。
 
16. Posted by 阿部玄明   2022年03月06日 01:42
☆清水龍玄 様

安易な選択に慣れてしまうの平常時には問題にならないですが非常時には応用が利かず大変困ることになります。
色々な応用と選択ができるように日頃から広い視点を養っていきたいものですね。

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