2022年01月11日

門人随想「無心でやり込むこと」

                    by 拝師正式門人 平田 玄琢



 想えば、物心ついた子供の頃、無心でやり込んでいたことがある。
 春には・・・桜でんぶのような鮮やかな桃色の、蓮華いっぱいの田んぼに入り蓮華つみ。堤防でつくし摘み、山の方でわらびとり。田植えを家族と一緒に行き、畦の堀にいる雑魚やドジョウを箕(み)ざるで大量にすくいとり、くし刺しにして干物づくり。
 夏には・・・木に止まっている蝉を素手で捕まえる。川に入り石の下にいる魚を両手で捕まえる時のダイレクトな魚信。毎朝、早起きしてカブトムシやクワガタムシを肥料袋一杯つかまえ、飼えない分は近所の鳥獣センターに売りに行き、お菓子やアイスを買い豪遊。
 秋には・・・山に入り、リスに負けないよう山栗を拾い、アケビを採って食べる。木からつり下がっている太いつたでターザンごっこ。山の枝や大きなシダで秘密基地づくり。
 冬には・・・北風の中で鼻水を垂れ、田んぼの氷割り遊びに夢中になる。祖父と一緒に、神無月に神様が旅立つためのお弁当の赤飯を背負っていく「ツト」という藁で作った水戸納豆の入れ物のようなものを作る。正月に使うしめ縄作り。
 一年を通して、山・川・田・畑・車の来ない道路が遊び場であった。

 半世紀前の田舎の子供は、テレビゲームもパソコンもなく、無心にやり込むことが沢山あって毎日忙しく楽しかった。
 憧れたものは、祖父が素手でマムシを捕まえること。ただそっと手を差し伸べるだけで捕まえられたマムシは、頭を取られ皮をむかれ干しマムシになっても動きつづけた。乾くと炙って酒のつまみとなった。
 驚いたことは、なぜか昆虫毒に耐性のあった父が、蜂に刺されても毒毛虫を素手で捕まえてもなんともなかったこと。私は、自転車に乗りスズメバチの巣に石を投げ素早く逃げる遊びで逃げ遅れ、頭を刺され膿んでしまい10円ハゲができた。

 高校生の頃、部活やスケートボードを無心にやり込み、千葉にスケートボードパークが出来たと聞き、早速行ってバンクに挑戦したが、コンクリートバンクの上から転げ落ちた友は、服はボロボロ血だらけの打撲となった。今思うと防具もつけず大変危険な遊びである。

 20代はダンスにはまった。ダンスは出来たらいいなと憧れていたものであり、その頃はやりつつあったブレイクダンスである。チームのリーダーが鏡張りの専用スタジオを経営し部活の様に運動をした。チャチャという昔のステップからディスコダンス。壁・ロープ・マネキン・ロボットなどのパントマイム。ポピュラーなムーンウオークのバックウオークは今一の動きだったが、サイドウオークはジャクソンより上手いと好評だった。
 スタジオのメンバーとは、スタジオで練習して様々なところにショータイムの依頼を受けて踊るだけだったが、あるとき、チームの皆とディスコに行った。他の客と違って、さぞかし目立って素晴らしいものかと思いきや、皆の、のりにのった状態は、唯の酔っぱらいが踊っているようだった。
アクロバティックなダンスは、床運動・鞍馬競技でもおなじみのウインドミルやトーマス旋回、頭のてっぺんで回るヘッドスピン、逆立ちして片方の手の平だけで回るナインティナインという技があり、その技が上手かったコメディアンがその名をコンビ名とした。そういったダンスは、痛いことも忘れ体中痣だらけになりシップ薬を張るのが日常となった。音楽が流れると、ところかまわずどこでも踊った。気が付くと、まるでセミプロの様にギャラをもらうようになっていた。そのスタジオからは多くの有名なダンサーが育っていった。

 ダンスに限界を感じた30代は、18歳からの雅楽を再び志し、笙(しょう)という楽器の演奏に熱中した。顔の正面に楽器を構える為、横の下に譜面を置きその譜面を長時間見て練習をしすぎて、両目とも網膜が剥がれ、治療後は再発しないように暗譜するようにした。雅楽の先輩の勧めで、憧れていた宮内庁の先生に教わるようになり、先生方は東京から熱海へ、生徒は熱海まで出向き稽古に励んだ。琵琶の稽古では、琵琶の重さで外くるぶしが腫れてしまったこともある。いつしかダンスは舞楽の舞に変わり、県神社庁の雅楽講師に任命された。

 40代では、22歳で神主として独立してからずっと念願であった、地元の神社の普請を行うべく取り組んだ。明治の初めに、神仏判然令により建築された拝殿は、昭和19年の東南海地震で柱と梁を繋ぐほぞがつぶれて傾いてしまっていた。その拝殿を両側から鉄骨で支え、その鉄骨も朽ちようとしていた。
 屋根瓦はガタガタにずれて建物自体も立体的に傾き、拝殿に入ると一本たりとも垂直に立っている柱はなく、まるでトランポリンのような床も、めまいが起こりふらつく原因となった。正座をしてもなんとなく斜めに座っている感があり気持ちが悪くなった。正月に大勢の参拝者が神社の中に上がり、重さで床板の底が抜け、ドリフのコントの様になった時もあったという。雨の日は雨漏りにバケツを置き、鉄のバケツ・金たらい・プラスチックバケツの雨だれ音は不協和音のハーモニーを奏でた。拝殿の畳は、梅雨時には見たことのない毒キノコが生え、朽ちた畳は畳床の中でカブトムシが育つかと思えた。扉はすべて賽銭泥棒によって壊され、トタンとベニヤでの安価な補修は、みすぼらしい社殿をよりみすぼらしく強調していた。当社は、通称を渋垂神社(しぶたれじんじゃ)というが、しみったれ神社とか、まるで貧乏神が祀られているようだと言われ大変悔しい思いをした。

 神社建設委員会の発足は困難を極めた。神社の現状を見ても見ぬふりをして補修で済まそうとする人達によって、何回も何回も会はご破算になった。神社保存検討委員会から神社建設準備委員会になり、次に漸く建設委員会となった。何れの会も、会長はじめ三役の人選と会の規約を作り承認されてから進みだすという有様で、発足まで5年の歳月を重ねていった。事務局は大変なので誰も受けてくれる人もなく、自ら神社総代や建設委員総勢50名の事務局となった。

 神社建設の理解を得るため各自治会に説明会を開き、宮司・総代会長・建設委員長の3名が出向いたが、納得する人は少なく大きなヤジが飛び交った。拳を握りしめ耐えがたきを耐えるしかないと思った。カタカタという抜刀寸前の鞘鳴りの音とはこういったものかと納得をした。
 説明会の後、神社を受け持つ20の自治会全てが寄付行為は出来ないとの声明を出してきたため、やむなく各戸をくまなく回ることとなった。建設委員会全体を、総務・設計監理・神事部会の3部会に分け、なおかつ部会前の役員会や寄付の現状を協議する会合も行ったので、忙しい時には、一週間に4、5回の会合を行った。まだ神社に社務所もなく、会議案を作成し公民館を借り、お茶や茶菓子を準備し会場の設営や片付けを一人で行なった。もちろん妻も献身的に手伝ってくれた。

 神社総代や建設委員が出ていない自治会の寄付活動は、たった一人で回ったこともあった。各戸を回ると、詐欺や偽物と思われた事もあったが、本物の神社宮司と認識されても、話をしている最中に戸を閉められ鍵をかけられた。あそこの宮司は頭が狂っていると噂が広がった。冷静に考えてみれば、見ず知らずの家庭にアポなしで訪問し、10万円以上の篤志寄付を頼むのだから、狂っていないわけがないのである。炎天下の中、トボトボ歩いて寄付を乞う田舎の神主の姿を見て哀れに思う人も多く、その同情からか何とか寄付も集まっていった。

 神社の建築用材は、伊勢神宮の式年遷宮用材の主となった南木曽の檜であり、『太一』という立て札を掲げた新車のトラックを調達する材木屋から購入した。
 『太一』という言葉は、神道ではあまりにも古い言葉であり意味不明となっていて、太いに一は変だということで、一時期『大一』という言葉に変えたこともあったという。太極拳ではお馴染みの『タイチ』であり、陰陽や宇宙の理をあらわすものとなっているため、神道では大自然の理をあらわしているのかもしれない。
 私が40年程前に勤めていた神社の参集殿を設計した有名な設計士がいた。その当時、助手を務めていた設計士に社殿社務所の設計を依頼し20数年ぶりに話をしてみると、社寺の設計はパソコンでは出来ないものであり、昔からの製図版で鉛筆の手書きだという。私の今迄の知り合いの設計士は皆、社寺もパソコンを使って設計することから考えて、あの助手は超一流の設計士となったに違いないと思い大変感慨深いものを感じた。設計士の勧めで社寺の新築は日本で最高の技術を持つと、マニアの間で囁かれている大工さんに依頼した。建築途中、日本で唯一人の宮大工の人間国宝がおしのびで遊びに来ていた。聞けば、いとこであり、若い頃一緒に大工修行をした仲だったとのこと。三年前に亡くなられたその大工さんは、建築業界では神といわれていた人だったことが最近耳に入った。
 依頼した設計士と大工のコンビは、私には驚くことばかりで、材木屋は、実生(みしょう:種子から発芽して生長すること。またその草木のこと)で200年以上育った伊勢神宮に使うご用材を「いいからもってけ」と言い、安価で譲ってもらった。屋根屋は半額に近い価格でよいと言った。屋根屋は、国技館や東宮御所を葺いた屋根専門の業者である。建具屋は、日光で実生の320年物の檜を特別に使ったといって自慢気に話した。
 師父が研究会でよくお話されていた『一流』は人間にも当てはまるようで、その人達と関係すると、気運が上がり物事が良い方に転がっていくようだった。
 毎日、建築を見学することは最高の楽しみであり、全ての普請が終わり竣功の神事や催しが終えた暁には感無量で放心状態であった。

 さて、ここからが問題である。毎日議案や資料づくりに明け暮れ、パソコンを午前様までやり込んだ体は、かなりガタがきてしまっていた。毎朝トイレに行くのに30分以上の時間を要するようになっていた。座骨神経痛から、肋間神経痛を発症し、狭心症の疑いもあり、心臓発作の時のためのニトロ薬を財布にしのばせていた。犬の散歩も心臓が苦しくなり途中で帰る時もあった。
 病院の他に、整体、鍼灸と治療をはしごして、神前の拝礼では腰から動かすことが出来ず首だけのお辞儀の時もあり、社殿の普請を終えたので私の役目は、もう終わったのかなと一抹の寂しさを感じた。

 ちょうどそのような時、風の噂で太極武藝館のことを知った。太極拳だけでなく治療も行っているそうだと。すぐに知人より紹介してもらい治療を受けるようになった。受動的な治療だけでは直ぐには治りそうになく、積極的な治療法として太極拳を習う事とした。道場に見学に行くと歩く稽古をやっていた。歩法である。それは、今迄見たこともない宙に浮いているかのような歩き方だった。人類は退化するのみと思っていたが、ここにいる人達は進化していると感じ驚いた。
 太極拳に憧れ早速入門したが、最初に行う柔功や圧腿は、錆びついた体にはとてもできるものではなく、大汗をかき、それだけで帰りたくなった。歩法や対練は、何回やってもまったく出来ず、次第に稽古を休む日々が増えていった。

 東日本大震災の起こった年、2011年の9月と、その翌年の6月に大型の台風が標高50メートル以上の場所に災いをもたらした。一般の民家の被害は少なかったが、神社の境内と山林は、竜巻に近い風で立木はすべて倒れめちゃくちゃになった。その光景は、まるで地獄の様で、これからもっと何か大きな事が起きる、何が起きても不思議ではないと感じた。まだまだ自分の役目は終わっていないと感じる出来事であった。

 毎日、負けるものかと思い神社境内の復興の作業が続いた。作業の合間に太極拳の柔功や圧腿・歩法を行った。その基本の動きを、大汗をかく苦しい動きではなく楽にできる動きとなるまでは到底先に進めそうにないと思い、朝昼晩できれば3回は行なって、まずは10年続けようと決意した。神社の山の災害が見える場所で、負けるものかと思って行う自発的で勝手な稽古は、膝を痛めたこともあったが、同じことを無心でやり込んでいくと、師父や玄花后嗣や門人から指摘された事や、声が、何回も何回も脳裏によみがえってきた。まるで、それは丁寧なご指導をいただいているようだった。

 太極拳は、今迄自分が取り組んだ何よりも面白くかつ難解であり、並大抵の努力では出来そうになく、還暦を過ぎた自分に残された時間も多くないと思われる。
 先日の稽古で玄花后嗣から雅楽の練習方法を問われたとき、「昔から伝わる練習方法をするだけです。」と答え、次の言葉を出そうとして、はっと思い口をつぐんだ。それは、嫌になるような地味な稽古だが、昔ながらの稽古方法の通りにやらないとそれは全く違ったものになる。それを面倒臭いと思ったり、小馬鹿にして怠った人は、自分のリズムと音程を整えることが出来ず、たった一人の相手すら合わせる事が出来ない。ましてや笙・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の三管を三人ずつと、三種類の太鼓と琵琶二面と楽筝二張という、複数の異なる楽器の相手と合わせる合奏は何十年経っても全く出来る日はやってこない。すなわち合奏のセンスが全く身につかないのである。
 指揮者のいない雅楽自体は非常に高いレベルのものもあるが、私の習得したものはまだ低いレベルの雅楽であり、自分の体全体や相手の体にも意識を用いる太極拳ほど複雑なものではない。しかし、振り返れば、最初に習った曲は、昔ながらの稽古である唱歌(しょうが)を何千回と稽古していると思われる。そして、曲ごとに何回も基本に戻って稽古をしている。昔の唱歌稽古は、合の手(あいのて)といわれる民謡の基となった独特なリズムと中世の基調音(現代の基調音よりも10ヘルツ程低い)による音の高さを正確に体に叩き込ませるため、正座にて足の腿の上と側を手で叩くため、腿が赤く腫れ上がった人もいたほどである。
 太極拳の門人の中には、基本となる昔ながらの稽古方法を行って大きな気付きと成果が出ている方もいて、やはり、昔ながらの稽古を無心にやり込む事は、これから先に進むならば、必要な事であり、とても大切なものであると思う。
                            (了)


disciples at 18:00コメント(18)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2022年01月12日 18:53
ドジョウを捕まえ料理し、スケートボードやダンス、そして笙に向かうまでの景色が目に浮かぶようです。また神社の普請では詐欺や偽物と思われたりその後も長い間苦労され何とも寂しく切ないのですが、次第に道が拓けて行く様は、鈍くそしてキラキラと光って見えます。玄琢さんの経験であるのに一度見た映画の様に苦心と爽やかさを感じます。
分かろうと逸る気持ちで進もうとしている私は、同じことを無心でやり込むという至極当然な態度が欠如しています。以前師父が書かれていた牡蠣の殻を剥き続ける料理人と違わぬ直向きさが私には欠如しています。せっかく学んだ柔功や基本功ですら「いつ以来だろう・・・」といったものが幾つも有る有様。自分で心に決めたことを無心にやってみる事の難しさが沁み入りました。

そういえば大人になり初めて神事を「体験した」と思ったのは太極武藝館でした。
それまでは神事を「観た」という感覚だったのですが、この時「体験した」と感じたのです。
もっと伝わる書き方が出来ればよいのですが、この度はありがとうございました。
様々な一流の方々と普請された神社を一度きちんと参拝させて頂きたいです。
 
2. Posted by 太郎冠者   2022年01月13日 22:51
玄琢さんが稽古に打ち込む熱量の根源を、見させていただいたような気持ちになりました。

今年の初詣も、渋垂さんにお参りさせていただきました。
今まで意識したことがなかったのですが、神社仏閣というものも全て、それに関わっている人たちがいて始めて、成り立っているということ…。
昔からそこにあるのが当然なのだとどこかで思っていたのですが、それは大きな間違いだったようです。
関わっている人々が大変な努力をした上で、そこにあるのですね。
もう一度、新たな目でお参りをさせていただきたいと思います。

本当に、一流を目指すからには、何が一流なのかを知らないといけないと、痛感させられます。
静岡のこの片田舎に建っている神社の社殿が、実は一流の手によって建てられているように、本当の一流というのは、大衆の人目に触れにくい場所に、わかる人間にはわかるという形で、ひっそりとあるのかもしれないですね。
それを嗅ぎ分けられる人間になりたいものです。
ありがとうございました。
 
3. Posted by 松久宗玄   2022年01月13日 22:52
興味深く、楽しく、読ませて頂きました。
「おー」と思う所がありながらも、違和感はありませんでした(笑)。

ある意味、子供の頃からの「遊び」の延長で、様々な物事に関わってこられたのかな、と想像し、
無心に歩き続ける事で、道が拓かれていく展開には、引き込まれつつも、
自らを省みて、襟を正さねばとも思いました。

常に目的を持って、物事に打ち込む情熱を抱き続ける事、
行き詰まった時には、基礎、基本に立ち帰り、見直す事、
逆境に際しても、諦めず進み続ける事、
私も見習いたいと思います。
 
4. Posted by 阿部玄明   2022年01月14日 04:33
玄琢さんの壮絶、かつパワフルな経験が糧となって太極拳の稽古の向かい方を形作っているのですね。

誰しも子供の頃は何かしらに一心不乱になって
遊んでいたし、熱量の塊のような状態であったのではないかと思います。
門限や宿題や親の期待など一切気にせずひたすら遊んでいる様は外から見ている大人が感心するひたむきさがあり、感動すら覚える要素を何らか持っています。
子供って天才だなと。
一方、平凡な大人になってあれやこれやの余計なことが増えてそれに気になってくると取り組むの方向は分散し(あれこれ考えるのは一見、マルチタスクをこなしていてすごいと勘違いしがちですが実際はシングルタスクを行ったり来たりしているだけだったりする)、
熱量も失わてくる。
それを見ても感動は生まれるものではないし、つまらないと感じることが多い・・・・。

玄琢さんのように一流のなにかをなし遂げてきた偉人の伝記を聞くといろいろ工夫して苦労し思い悩みながらも
これだけは絶対やるぞ・・・というどこかしら子供っぽいひたむきさと熱量で成し遂げてきています。

それをやっている瞬間は捨て身で取り組み余計なことは顧みない。
そして見ている側に感動と微笑みが思わず生じるのです。


「もっと破天荒になれ、もっとバカになれ、もっと狂え」

このような例え方で我々の日々の稽古指導をうけるのはおそらくつまらない大人の取り組みをしている時だと思います。防御ではなく攻めの姿勢で取り組むことは太極拳のありようにも合っている。
改めてそんな認識に至りました。
ありがとうございました。
 
5. Posted by 円山玄花   2022年01月14日 17:50
一見すると、様々な方面に手を出して移り気なようにも見受けられますが、その根底には何事に対しても「無心でやり込むこと」が貫かれており、その結果、先の見えない困難に対しても「打ち克つ」「逃げる」のどちらでもない「やり込むこと」で乗り越えられていることが伺えます。
それは単純なようでいて、実は、人間にとって一番難しいことかもしれません。

ただやり込むだけなら誰にでもできますが、自分の都合をカケラも挟まずに「無心で」やり込むのは、難しいことです。
考えてみれば、師匠に「それほど難しくない」と言われている太極拳を難しいものにしてしまっているのは、他でもない自分自身の心なのでしょう。それ故に、自分を挟まず、物事をものごととして観ることが大事だと、何回も繰り返されたのですね。
自分を挟まず、ただひたすらにやり込んで、打ち込んでいく直向きさ。それを動力としない限りは道は拓けてこないのだと、改めて認識しました。
また、好きなことに関わっている時には、ケガも故障もトラブルさえも気にならず、無我夢中で没頭します。大人になると好きではないことにも大概関わらないといけませんが、何に関わっていても自分の向きを「好きなこと」に転換できるヒントも頂いたような気がします。
ありがとうございました。
 
6. Posted by マルコビッチ   2022年01月14日 21:38
・・・何ともすごい経験をされて・・びっくりです!
私の子供の頃は、内気で人と話すことが苦手で、家で漫画を読んだりテレビを見たりしている暗〜い子供でした。
子供の時に、玄琢さんに出会っていたら、きっと眩しすぎて近寄れなかったと思います。
私の母は日本舞踊をやっていて、それがなかったら生きていられなかったと言うほど、日本舞踊は母にとって人生そのものだったのだと思います。
私は、母から「やりたいことを見つけてやりなさい」とよく言われていましたが、やりたいことは見つからず、何かに打ち込むということを知らずに大人になってしまいました。
そんな私と玄琢さんが、今同じ道場で太極拳を学んでいることが面白く感じられます。
玄琢さんが稽古に対しても、理屈ではなくストレートなものの見方をされていて、大胆にかつ繊細に取り組んでいらっしゃる(私にはそういうふうに見えます)様子は、これまでのひたむきに生きてこられた姿と重なります。
私もまだこれからでも出来る!!
ためらわずに飛び込むこと。
ひたむきに、無心にやり込むこと。
そんな風に思わせていただけたことに感謝いたします。
7. Posted by 川山継玄   2022年01月15日 02:16
スケールの大きさに、視界がパット開けたようです。
幼い頃に、大自然の中での遊びが生きることに直結するような経験を存分に経て、玄琢さんの、いつでも戦える集中力・精神力・しなやかさが培われてきたのだなと思いました。
志したことに向かって、基本に忠実に無心でやり込むことが、生きる柱になり、それが周りの人や物事と共鳴し、より豊かに大きな循環をもたらしていらっしゃるように感じます。

―指揮者のいない雅楽
日常の中ではまず取ることのないリズム、幾重にも重なる音が、複数の人と、何種類もの楽器によって、指揮者なくして奏でられることにとても驚きました。
自らを見つめ、周りと合わせずして、曲には成りえませんね。
また、そこに至るためには、繰り返し繰り返し基本に忠実に稽古をやり込むことがいかに大切か。
太極拳と同じですね。
変わることの無い基本に則ることによって得られる自身の変化にもっと耳を澄ませ、周りと合わせることで起こる循環を全身で感じて、稽古していきたいと思いました。
自らが熾した火種を絶やすことなく育て続けたいです。

貴重なお話を記事にしてくださり、ありがとうございます。
物の見方・考え方が広がるきっかけを頂きました。
8. Posted by 西川敦玄   2022年01月15日 15:12
そういえば、師父や玄花后嗣から玄琢さんの稽古への取り組みについて感心されて話されていたことを思い出しました。柔功、圧腿がまるでできなかったこと。おそらく、歩法対練など上手くいくことができず、苦しまれていたときに、柔功圧腿にとことん取り組まれてきたことなど。それは、我々の稽古への情熱や取り組みの時に、相対して紹介された話です。玄琢さんの人生への取り組みを紹介いただき、その一端にあらためて触れることができたように思いました。
玄琢さんも言われる様に、提示された練習法を面倒くさいとか、小馬鹿にして怠るとかいうようなことがあると、全く違ったものになると思います。ただ、当門においては、本気で小馬鹿にしたり、面倒くさいと思っている門下生はいないと思います。しかし、私も、言われたことを解釈して別のことをしようとしたりすることが多かったように思います。これは、小馬鹿にしていることとあまり変わらなかったかもしれません。罪悪感?がない分よほど、気付きにくいことだったかもしれません。ただひたすらに、やりこむことの大事さを教えてもらった気がします。
9. Posted by 川島玄峰   2022年01月15日 19:47
今まで過ごされてきた過程や姿勢は、まさに一つの強い軸として感じとれます。
玄琢さんのように自分が求めると決めたら、それを手に取るまで負けるものかと情熱を持って努力し続ける。その精神の継続が武術であり、大事な稽古の一つであると思いました。

また玄琢さんの太極拳の稽古には、基本功の重要性を再認識させて頂きました。
今後も師父や玄花后嗣の御指導された内容を一つ一つ大事に稽古してこうと思います。

この度は、大変貴重な内容と教えをありがとうございました。
10. Posted by 清水龍玄   2022年01月15日 21:02
とても引き込まれる記事でした。
一つ一つの事に全身全霊で打ち込むような、混じり気のないエネルギーが感じられるようで、まるで感化されるように引き込まれ、そして自身を省みて反省も生じ、また、新たな一歩に向けての力も生じてくるようです。
一つ一つの事に無心でやりこむ姿は、それが全て稽古のように感じられます。

大変貴重なお話をありがとうございました。
11. Posted by マガサス   2022年01月16日 20:59
以前から玄琢さんに抱いていた「静けさの中に、物凄く熱いものを秘めている」というイメージが、記事を読ませて頂き、納得しました。
やっぱり熱いです!
「生きるってこういうチカラだよなあ」と唸ってしまいました。
まさに、自分に決定的に欠如している事ばかり・・・
なりふり構わず無心でやり込んだ事があったか?
自分が決めた事に、強い意志と情熱を持って取り組んできたか?
困難にぶつかった時に決して諦めず、自分のチカラで打破してきたか?
面倒がらず、格好つけず、基本・根源を大切にしてきたか?
自分自身に問いかける機会を頂きました。
ありがとうございます。

稽古に復帰させて頂いてから、基本の重要性と、自分の甘さを痛感している毎日です。
「無心でやり込むこと」
見習わせていただき、精進します。

12. Posted by 平田玄琢   2022年01月27日 01:56
☆ ハイネケンさん

長い文章を読んで下さりありがとうございます。一度見た映画のように苦心と爽やかさを感じたとは・・・とても光栄です。

太極武藝館の20周年や袋井道場開きの神事は、神主の私もかなり緊張していました。感性の優れた門人の皆さんの緊張がこちらまで伝わり、非常に心地よいものだったことを思い出します。

他の神事では、時間の制約やさまざまな事情があります。どこかのお店のような、「安い早いうまい」の三拍子揃った神事を要求されることが多く、ゆったりと神道作法の通りにできて自分も満足する神事は大変少ないと思います。

太極武藝館の神事や、その時の師父のお話しのおかげで、子供たちは二人とも神主の道に進みました。


☆ 太郎冠者さん

私も神社の普請に関わる前は、神社は昔からそこにありそれが当然のことと思っていました。私の神社の思い出は、小学校の頃、神社の軒下がアリ地獄の生息地になっていたことです。まるで小さな爆撃を受けたクレーターのようなアリ地獄の形をしている罠を、松の葉で蟻の動きを真似ておびき出し、たくさんのアリ地獄の主(ウスバカゲロウの幼虫)を捕まえました。クワガタムシのような大きなあごのあるその虫は、なぜか特別な神がかり的なものの様に感じました。

神社の普請が終わり、社殿周りの外構工事が始まったとき、それを思い出しました。今では絶えてしまったウスバカゲロウの代わりに、小さな子供たちが楽しめる、小さな浅く安全な池を造りザリガニを放ちました。ザリガニつりが楽しめるようにしてあります。

もしかしたら、世代の違う子供たちにとって、大きなハサミを持つ赤いアメリカザリガニは、神がかり的なものになるのかも。と思いました。

13. Posted by 平田玄琢   2022年01月27日 01:57
☆ 松久宗玄さん

私の物事の関わり方は、ご指摘の通り、子供のころからの遊びの延長でしょうね。自分が興味を持った楽しいと思えることをやってきただけです。

しかし、やりたくもなかった神主の修行で、世の中との接触を断つため、新聞・テレビ・雑誌・菓子・ジュース・外出を禁止され、毎日数時間の正座が痛くて苦しんでいるとき、あることに気が付きました。それは、皆で修行していると逆境と思えることも楽しくなっている事でした。

学友との修行を切磋琢磨の場と思った時からでした。


☆ 阿部玄明さん

「もっと破天荒になれ、もっとバカになれ、もっと狂え」このようなことを言って下さる師匠はまずいないでしょう。指導を受けた私たちは本当に幸せだと思います。私もそうですが、指導されても理解できないのは教わる側の取り組み方の問題でしょうね。

昔の職人の世界では、技術は説明されず垣間見て覚えるしかなかったといわれます。私の知人に板前さんが二人いますが、そのうちの一人は「修業を終えてから40年近く経つが、近頃、時々、師匠のようなネギ打ちが出来るようになってきた」と言っていました。
包丁がまな板に当たる音がしなくてもネギがしっかり切れている師匠の技を見て憧れ、その情景を思い出しては、ひたすらネギ打ちをしていたそうです。

もう一人の板前さんは、まだ若い女性ですが、毎日仕事を終え深夜に家に帰り、早起きをして魚の市場に行き、大きな魚をさばく訓練をひたすら2年近くしていました。
親方に勧められてそれを行ったそうですが、一人前に近づく最短距離の修行だったのではないかと思います。しかし、うら若き乙女の手の指が、グローブのような私の手のようになっていました。
そして、私の手に似ていると口を滑らしてえらく怒られました。
 
14. Posted by 平田玄琢   2022年01月27日 01:58
☆ 円山玄花后嗣

私は、若かりし時、はたして自分に合っているものは何か、出来るものは何か、どこまでが限界かと考えて、様々なものに挑戦したことがあります。大概は若気の至り、移り気となってしまいました。

太極拳以外でも、熱中したものをあげてみると、スケートボード・ローラースケート・オートバイ・車・サーフィン・エレキギター・習字・絵画・雅楽・舞楽・祭式作法・ダンス・日本の伝統文化について・神道について・祭について等です。見聞を広げるまでもなく、唯の話の種程度で終わったものもあります。

30歳を過ぎたとき自分にとって大きな出来事があり、自分は足りないものがたくさんあると思い、それは何か、それを補う目標がやっとできたのは35歳を過ぎてからでした。足りない何をすべきかの結論は・・・

1、 感性を磨くには雅楽が有効ではないか 2、日本の伝統文化と郷土史の勉強をする 3、身体を鍛えること        以上の三つでした。

明治の文明開化の時代、西洋の思想の影響を受けた、西周(にしあまね)の人生三宝説は、知識・お金・健康の3つですが、35歳の当時、私は玄洋社・黒龍会の内田良平氏に憧れていました。
大切なものは、感性・勉強(勉めて強くなる精神)・健康(身体の鍛錬)だと思ったのでした。

世の人を見渡せば、学校歴はあるが優れてもいないのに自分が先生という人ばかりで、人に教えを乞うような人はほとんどいないことがわかります。いずれも全く進歩せず学生の頃で何かが止まっている人が多くみられ、それを打破するには師匠と呼べる圧倒的な方が自分には必要だと思いました。

感性と勉強は、すぐに師匠にめぐり合いましたが、身体を鍛えることは何が良いかわからず迷い続けていました。スポーツよりも武道のようなものをやりたいと思って探しました。・・・そして今に至ります。
 
15. Posted by 平田玄琢   2022年01月27日 01:59
☆ マルコビッチさん

私も子供の頃は、内気で、なおかつたいへんな変わり者で、授業中など人前でものをいうなど恥ずかしくて一回も手を挙げて発表したこともなかった記憶があります。小学校の通信簿では、低学年のころ音楽と体育と図工は、なんと1でした。1番ではありません。

音楽は、音程というものがこの世にないと思ってしまうほどの、度を越した音痴。体育では、長距離走など疲れることは体に悪いと歩いてしまい、大縄跳びは、「おはいんなさい」が入れない。プールでは顔すら水につけられない。図工は、先生のいう事を聞かず、大きすぎるものや小さすぎるものを作り、絵画は熱中して筆をとり、絵が大きくなり絵の具が画板からはみ出す始末。

大人になったあるとき、母から私の母子手帳をもらい受け、母の記入欄を読んでみました。「しつけをしてないので、かなりわがままです。」そう書かれていて、すべて納得がいきました。
当時、私の家は大家族で、家には祖母・叔母3人・親戚の女性といった女性が何人もいて、母が、子のしつけに関与することもなく、主に子供の私を育ててくれたのは、ひい爺さんが雪国から連れてきた文盲の未亡人でした。どのようないきさつなのかは分かりませんが、苗字も違うその女性に自分はなついていたのでした。
そのような育ちと環境が、どのように自分の人生に影響を及ぼしたのか、その良し悪しは・・・やはり、様々なものを乗り越えて、自分の責任で自分の人生を進めなければいけませんね。
 
16. Posted by 平田玄琢   2022年01月27日 02:00
☆ 川山継玄さん

指揮者のいない雅楽といっても、ほとんどの人は想像すらしません。雅楽の演奏を見聞きしたこともなく、想像できるだけでもすごいことだと思います。実のところ表立った指揮者はいませんが、指揮者の代わりを務める楽器があります。

三管の時は笙が、三管三鼓以上の種類の時は鞨鼓(かっこ)という太鼓がその役目を担います。しかし、とてもファジイというか大概のところがあります。

以前、私は音楽の会社に頼まれて、雅楽演奏機をその会社のスタジオで共同開発したことがあります。会社で開発済のかるたの演奏機(上の句と下の句を唄う)を改造したものですが、雅楽の吹留句(途中で曲をとめるための句)は、各管がもっと張り合うような様子(ここで止めるの?まだ後でもいいじゃないか?いや止めたいな。といった息の合わないさま)を出すように宮内庁楽部の師匠に言われて困ったことがありました。

私は、洋楽のオーケストラのことはさっぱり分かりませんが、大陸で1500年前に音楽理論が完成した雅楽は、まるで、山に入って木々の触れ合う音や川のせせらぎを聞き、風の音や野鳥の声を聞いているように感じます。そして、全ての音や雰囲気を一緒に聞き感じることも出来るが、唯一つだけの音も認識できるチャンネルが備わっているように認識されています。

最初は、合奏を聞いても唯一つの楽器の音しか聞こえませんでしたが、自分の演奏できる楽器を増やしていくと、その楽器の音色を瞬時に聞き分けることができるようになりました。不思議な事のように思いますが、演奏できる楽器を増やさないと楽器の聞き分けができないようです。もちろん基本に忠実に行った結果です。やはり、なんとなく太極拳に似ていますね。
 
17. Posted by 平田玄琢   2022年01月27日 02:00
☆ 西川敦玄さん

私も「小馬鹿にしている」門人は一人もいないと思います。そういった表現でなく、「自分が勝手に解釈してしまっている」という表現の方がより通じたかなと思いました。
勝手な解釈といえば、世の中の宗教的なもので田舎の神主(私)が嘆かわしいと思うものが多くあります。たぶん、将来、私もそれに賛同してしまうだろうなと思います。

神と称える神社の御祭神を「ゆるキャラ」に変えて、楽しんで収益を増やしている神社がありますが、これはもうごく普通の状態になってしまいました。
御集印の過激化。和風のイルミネイション。神社の行事の過激なイベント化。仏画に一番興味を示さないのはお坊さんだという仏画師。ラップになったお経。袈裟のファッションショー。社寺のご利益カフェ。インスタ映え。これらはまだ、ほんの一部の社寺の関係者、神仏を小馬鹿(勝手に解釈した)にした人達が、マスコミにより大きく取り上げられた結果です。

衰退した伝統文化を現代風にアレンジしたもの、他の分野とコラボしたものというと、社会から過度に認められています。本物の作るものはそれでも素晴らしいものもありますが、現代の迎合は、似て非なるものが殆どと見受けられます。

決して絵にしてはならないといわれた神様を、絵画にしたものも昔からありました。それは、朝廷や幕府が認めた一流の絵師、例えば狩野派の一部の絵師でした。

神様の描かれる絵の中で私が特に好きな絵は、伊勢神宮の御垣内の前の正絹の白布のたなびいているような、神様をあらわした間接的な雰囲気だけの絵です。これこそが、西行法師の詠んだ「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」だと思いました。・・・内容が太極拳の稽古と離れてしまいましたが、本物を維持するには大変なことだと言いたかったのでした。
 
18. Posted by 平田玄琢   2022年01月27日 02:01
☆ 川島玄峰さん

「情熱をもって努力し続ける。精神の継続が武術であり、大事な稽古の一つであると思いました。」このコメントをいただきました。
これは本当に難しいことだと思っています。私は、意識のある間(起きている間かも)は、いくつかの要訣を守って生活をしようとしています。しかし、その意識はすぐに途絶えてしまい、それゆえに、からだの故障の原因となる場合が多くなっています。

仕事上の装束を着装した時、正座や直立することを、これは無極だとか禅だとか思っているのですが、1月のカレンダーの師父の描かれた「禅」は、全ナリ、示ス偏に単とは、深いものだと改めて感じました。


☆ 清水龍玄さん

無心でやり込むということは、なんだか非常に遠回りのように感じます。しかし、遠回りをすればするほど色々な方面からのアプローチができたようにも感じます。自分は、最短距離で行くのはもったいないと思っています。


☆ マガサスさん

私の場合、性格的に何事も不器用なため、無心でやり込むしかなかったのではないかと思います。若いころに、もっと他の人のことを考えることができていれば、困難は少なくなり、私の人生は違うものになっただろうなと考えることがあります。しかし、それはあとの祭であって、今ある縁を大切にして前に進むしかないと思っています。
 

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