2021年12月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その57

    『尽きない流れに乗って』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 今年も残りあとわずかとなり、道場での稽古も、一年間のまとめと、また来年に向けての新しい課題への取り組みが行われています。

 先日、研究會門人による反省会が執り行われました。
 皆がそれぞれ今年の反省をし、それに対するアドバイス、来年に向けての抱負など、また次の稽古に生かされるような話がありましたが、その中で、玄花后嗣から稽古の指導の仕方に関しての、興味深いお話がありました。
 それは、例えば1週間の稽古の中で、同じ内容を日を変えて教えようとしても、それは不可能なのだと言うこと。
 同じ稽古指導は2度と出来ない、というお話でした。

 私は現在、1週間のうち5日間、仕事で遅刻せざるを得ない日はあるものの、ほぼ毎回の稽古に参加させていただいています。
 その中で確かに玄花后嗣のおっしゃる通り、同じ門人が稽古に来ている時でも、それぞれの日によって稽古の内容は全く変わり、毎回同じように歩法などを稽古しているようでも、その時々に応じてフォーカスされている内容が全く異なる時があることを感じます。
 もちろん、全体を通して、太極拳という一つの同じ原理を理解することを目的としていることに違いはないのですが、そのためのアプローチの取り方が、同じ基本、同じ対練を行なっていても、指導されていることが少しずつ違って感じられるのです。

 健康太極拳クラスの稽古は、一般武藝クラスより開始時間が早いこともあって、どうしても遅刻して参加することが多くなってしまうのですが、その時などは特に、すでに最初から参加していた門人たちの中で、その日の稽古で一連の流れの中で醸し出された変化が垣間見えます。(そしていつもそれに驚かされるものです)
 その時に見えるものというのが、面白いように毎回の稽古で異なっているのです。
 全体としては、もちろんみなさん継続されて良い方向への変化が積み重なっているように見えるのですが、その時々で交わされている言葉の断片や、何に注目しているかなどの見え方が、毎回同じということが全くと言っていいほど無いように感じるのです。
 これはもちろん、我々門人が少しでも理解できるようにと、心を砕いて下さっている玄花后嗣の指導の賜物であると思いますし、同時に、それを受けている我々門人が、どのように自分自身と向き合い、どのように変化していっているかの現れであるかと思います。
 そうして、相互作用によって生じている稽古というのは、おそらく指導してくださっている玄花后嗣の意図をも外れ、想定していなかった結果を生み出しているのではないかと思われます。

 武術の稽古とは、孤独なものである、と、師父は仰っておられました。
 我々個人個人が真摯に自分自身に向き合い、努力をしていかない限り、どれだけ優れた指導をしていただいていても、功夫が身につくという結果は伴わないのだと思います。
 それと同時に、道場にみんなが集まって行われる稽古も非常に大事で、自身の気付けなかったことに気づく機会がそこにあり、自身の取り組み方、物事の見方を含め、より切磋琢磨していける土台を与えていただいているのではないかと感じています。

 自分で行う稽古と、道場で行われる稽古は、どちらも自分自身で積極的に取り組んでいかなければならないという点では共通していますが、あたかもそれは一対の車輪のように、自分を前へと進ませてくれるものになってくれているように感じます。
 自分でやっていて気づけなかったことが、道場での稽古で新しく見出されます。
 また、道場での発見は、自分が取り組んでいたことの結果として見つかることが多いように感じます。

 私は毎回の稽古に通う時、必ず一つは何かを掴んで帰る、と心に決めて臨んでいます。
 それは、その時々によって違うのですが、その時疑問に思っていることであったり、自分が発見したと感じていることを、確かめることであったりします。
 そう決意して稽古に臨んでいると、不思議と毎回、必ず何かしらの発見があります。
 それは、思っていた疑問点の答えであったり、全くそれとは関係のない新しい気づきであったりしますが、いずれにせよ、自分の中にはなかった新しいものです。
 新しい気づきを得た時、それまで疑問だと思い込んでいたことが、急に解決することもありますし、その疑問自体が、ある意味ではナンセンスな疑問であったことに気付かされることもあります。また同様に、それまで発見だと思っていたことが間違っていたと気づかされることもしばしばあります。
 そういう時は遠慮なく、その古い考え方を捨ててしまいます。それが新しい発見につながるのだと思うようになりました。
 かといって、「何かを発見すること」に固執することもまた、稽古の進捗を鈍らせてしまう可能性もあります。
 太極武藝館で指導して頂いている内容は、すでにそこにあり、太極拳の原理は明確なものである、と示して頂いています。
 私が発見していることとは、言い換えれば、その学習体系に本来含まれているものであり、それに気づけていない自分自身の考え方の壁であるのだと言えます。

 自分が発見したと思っていることも全て、「すでに示して頂いていた」と感じることばかりであり、「あぁ、師父はこのことをおっしゃっていたのだなぁ」と思うことばかりです。
 頭の固い自分が精一杯取り組んで、ようやく発見したことなど、釈迦の掌の上で飛び回って喜んでいるおサルさんのようなものなのかもしれません。
 だからこそ、師父は稽古をライブのように取り組めることが大事なのだと仰っていたのだと思います。自分を挟まずに何かを取っていけるものとは、稽古を生のライブのように楽しめる音楽感なのではないかと感じます。

 ほぼ毎回のように道場での稽古に参加していると、指導して下さっている内容が、その瞬間だけでなく、一日、一週間、一ヶ月といったスパンで一つの流れを持っているように感じられることがあります。
 もちろんそれは、師父がまとめて下さった学習体系がそうであり、指導して下さっている玄花后嗣がそのように計画して下さっていることなのだと思いますが、その流れに乗れるかどうかは、我々一人一人の取り組み方如何によって、大きく左右されてしまうのだと感じます。
 道場の稽古に参加していても、途中から参加した時には、その流れが掴みにくいことが当然あります。また、稽古に出席しているからといって、教えてもらえれば全てわかるかというとそうではなく、稽古全体の流れと、自分自身の流れを調和させるような在り方がなければ、どうにもならないようにさえ思えます。

 稽古全体が大きな川の流れだとするならば、自分が川の上流にいるか下流にいるかにかかわらず(それは個人の進み具合というだけです)、その流れに乗れるかどうかだけが、稽古で進んでいけるかどうかの分かれ道になるといえるはずです。
 自身の力を過信し、その川を泳ぎ切ろうなどと考えると、おそらくどこかで疲れ果てて溺れてしまいます。また、その流れに乗らないまま、川岸を歩いていても、目的地にはいつまで経っても辿り着けないでしょう。

 稽古で師父の驚異的な功夫を体験をさせて頂くと、師父は事あるごとに、「私が凄いのではなくて、太極拳が凄いんだよ」とお話しして下さいました。
 太極拳のその流れに身を委ねることができた人だけが、太極拳が見せてくれる境地へと、我々を連れて行ってくれるのではないかと思います。

 自分がその流れに果たして乗れているのか、そんなことは正直判断のしようがなくわからないですが、個人的な手応えとしては、稽古をすればするほど、新しい疑問が湧いてくるように感じます。何かに気付けば問題は解決をし、その上で新しい疑問が生じます。
 『汲めども尽きぬ泉』という表現がありますが、太極拳に関して言えば、その疑問が留まることを知らないという意味なのでは…と思わずにはいられない程です。
 流れに乗るというのは、ラッコさんのように浮かんでいれば済むということではなくて、水面を優雅に泳ぐ白鳥の例えのように、水面下では足を動かし続けて泳ぎ続けなくてはならない、ということなのかもしれません。

 泉から溢れ続けるのは新たなる疑問ばかりですが、そこにあるのは確かに「変化」であり、停滞ではありません。
 それとどれだけ付き合っていくことになるのかはわかりませんが、少なくとも、今年の残り少ない日数だけでは、解決し終える兆しは、どうやらなさそうです。
 来年もまた、楽しませてもらえそうです。
                                (了)





*次回「今日も稽古で日が暮れる/その58」の掲載は、2022年2月22日(火)の予定です

disciples at 22:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2021年12月24日 16:43
今回は特に、「本当に上手いこと言うなあ」と思わされる記事でした。
私の気づいていない事、そう思っていた事をとても的確な言葉で表現されていて、すごいなあと感心いたしました。
>発見していることとは、言い換えれば、その学習体系に本来含まれているものであり、それに気づけていない自分自身の考え方の壁であるのだと言えます。
本当にその通りで、それまでも同じことを教えて頂いているのに、とんでもない頃になって「ああ、そうだったんだ!」と気づく瞬間があります。
それはまるでピースがはまったパズルのようで、パッと視界が開けるような感じです。
それではそれまでなぜ気づくことが出来なかったか、太郎冠者さんの言葉を借りれば、「考え方の壁」であり、そこに行き着くまでの間に自分の考えやこだわりがあり、扉を開くことが出来なかった。もしくは同じ考え方のパターンを繰り返していた、と思い出されます。
 以前、師父がお話ししてくださっている時、「私が話したくて話しているのではない、君たちに喋らされているんだよ」と仰ったことがありますが、同じ稽古が二度とないということと同じ理由になりますね。
そしてやはり道場の稽古に始めから参加することは必要で、自分の問題点に気づける可能性が多くなるということですね。
ここのところ稽古にあまり出席できず、自宅での稽古にも身が入らず、稽古不足を実感していましたので耳が痛くもあり、元気を頂けた記事でもありました。
いつもありがとうございます。
 
2. Posted by 阿部玄明   2021年12月25日 00:35
太郎冠者様

年末のこの時期、1年を振り返る助けになる記事を掲載頂きありがとうございます。
川の流れで例えてみると1年間でどれくらいスタート時点から歩んで来れただろうか?の視点でみると判り易いですね。取り組みの正しい正しくないの判別はもちろん難しいことですが自分が気にしているところ、ものの見方、学習して得たものの整理の仕方がどう変わったか?も成長を測る物差しだと思います。気にしているところの川、ものの見方の川、学習の整理の仕方の川・・・といった具合です。

それらが各々成長しているからこそ今まで見えなかった壁が次第に見えてきて新たな疑問となって生じてくるのです。疑問が生じるのは無知を表しているのでなく成長の度合いが進んだ証なのだと思います。出来る出来ないはその次の段階です。出来ることに飛びつきたくなるのが人情ですがそれを戒め、解るための稽古に我慢して徹することもまた必要な成長の要素だと思います。

かように太極拳は武術性のみならず、人間としての成長を促す学習体系を備えていることに大いに驚かされます。それを整備されてきた師父、玄花后嗣の知恵と努力の歴史を想いつつ次の目的地を定めて再び歩んでゆきます。
 
3. Posted by 川山継玄   2021年12月25日 05:13
今回も、一つのテーマでありながら、いろいろな視点で、ご自身が感じている事・考察していること等をわかりやすく表現して下さり、大変勉強になりました。ありがとうございます。

「同じ稽古は二度と出来ない」
同じ稽古指導をしてみようと玄花后嗣が試みて、苦しくてとてもできないと断念されたと、私も同じ席で聴いておりました。
では私はどうだろう。日曜の特別稽古で、柔功・圧腿などを前でやらせていただく事が多いのですが、その際、「同じようにやること」に安心感を覚えていることに気付かされます。稽古中に、玄花后嗣に問われることに対しても、ほぼほぼ毎回同じ返答をしています。
稽古中の見方や稽古の仕方、自宅での稽古の仕方、日々の生活…。
どれをとっても、変化の無いことを求めているようにしか思えません。
師父の特別寄稿の中で、『人は生まれ変わることを非常に怖れ、古ぼけたアイデンティティを大切に守り、ひたすら平穏無事に、そこに何も特別な変化が無いことを無意識に求めて、安心を生きている』とあります。
まさしく私はその通りで、頑なに成長・変容できない方を選択して安心を得ようとしていたのです。
―遠慮なく、その古い考え方を捨ててしまいます。
私も、ちっぽけな自分にとことん向かい合い続け、自己をそぎ落としていかなければ、決して太極拳はとれないと、もう一度肝に銘じます。

―稽古全体の流れと、自分自身の流れを調和させるような在り方
鳥肌が立ち、自分の芯の部分が震えました。
師父や玄花后嗣と同じところで、評価や変化を怖れることなく、稽古したいと思います。
2021年は残りわずかとなりましたが、次の年に繋げられるよう、頑張ります。
 
4. Posted by 松久宗玄   2021年12月25日 10:27
確かに道場の稽古には流れと変化があり、
ライブでその流れを感じて、自分を合わせて、乗れるかどうかで、
太極拳の妙味が味わえるかどうかの明暗が別れる様に思います。

その為には、自分にその準備が出来ているかどうかが問われるかと思います。
過去には、自分の稽古で分かった事を、道場の稽古の中で試すようなアプローチでしたが、
それでは、自分の範囲を超えた世界には入る事が出来ませんでした。

最近ですが、むしろ自分の色を消し、器を空にしておく事で、
新たに注がれた中身を飲み干して、味わい、身に付ける事ができるのだと、
少し在り方の理解が進んだ様に思います。

師父から「やり方」ではなく、「在り方」なのだよ。
と折に触れてご指導頂いた事ですが、シンプルなのですが深いなと、沁み沁みと実感する所です。
 
5. Posted by 川島玄峰   2021年12月25日 10:43
稽古とは、在り方を学ぶ事であると再認識しました。
身体運動を強化する事や操作を学ぶトレーニングだけではなく本質である太極拳の原理で示された在り方になる稽古をする。
その在り方は、己に向き合う受容性を高める自己修復が必要である事、情熱を持って継続する事など原理を知るために必要な事を師父や玄花后嗣から教えられて来たのだと改めて実感しました。

今年は、自分自身に問いかけた一年であり、太郎冠者さんからのブログで何度も励まされました。
毎回、道標を本当にありがとうございました。

今年も残り僅かですが、今年に得たものを来年に繋げれるよう果てしない境地に向け、水面を泳ぎ続けて行こうと思います。
 
6. Posted by 清水龍玄   2021年12月25日 18:17
師父は稽古はライブであるとよく仰ります。
本当に、同じ稽古は一回としてなく、例え、同じお話でも、その稽古の流れ、そして、自身の状態によっても全く感じられることは変わってくることを、何度も経験していました。
先日、いろいろな人の話を聞いて、自身の考えの拘りも沢山感じ、それこそ、流に乗れない状態であると思いました。
それでは、何の楽しみや喜びもなく、変化も生じませんね。
これから、もっといろいろと試し、稽古をしていこうと思っています。

本年も、ありがとうございました。
 
7. Posted by 西川敦玄   2021年12月25日 19:21
稽古がライブであり、古くから一期一会と言われるように、同じ瞬間は二度と現れるものでは無い。と。
我々は、二度と同じ稽古をすることができない。反省会で言われたことのポイントはもっと深いが単純なところにあると振り返って思いました。玄花后嗣は十分に準備をして稽古に臨まれていると言われました。その上で、同じことはできないと。
音楽のライブに例えるなら、ミュージシャンが表現したいこと、プログラムを練って舞台を整えて、当日のライブが始まる。ライブの中で様々な作用によってアレンジされ表現が昇華され、観客と共有されていく。
そこで、途中から入ったり、中途退出して、ミュージシャンとの最高な一体感は味わえるか?と問われているのかもしれません。
私も参加できることが、不十分なものの一人ですが、それでもライブに参加し、盛り上げられるかどうか精一杯精進したいと思いました。
 
8. Posted by 円山玄花   2021年12月25日 19:26
計らずも「二度と同じ稽古指導ができない」ということがバラされてしまいましたが(笑)、この事の重大さに、一人でも多くの門人が気づいてくれればと切に思います。
できることなら、毎回、せめて一週間は同じ内容の稽古をしたいと思うくらい、一回ずつの稽古で重要なことを話すし見せるということをしています。これは、指導する側が意図しているのではなく、その時その場で生じた必要性に応じて稽古内容が決められていくので、ある意味、コントロールはできないのです。
そして、そこで示すことになった重要な内容を、別の日にもなんとか指導しようと努力するのですが、やはり流れに抗うことはできないようです。・・と、いうよりは、すでに別の流れが生じているために、自分の意図を挟むことができないと言った方が正確かもしれません。
そのような状況になる度に、ここが「教室」や「ジム」ではなく「道場」なのだと思い知らされます。何かのカリキュラムを、出席回数に応じて繰り返すことができないのです。
同じ内容の稽古指導を諦めた私にできることは、せめてクラス別の稽古を意識することくらいですが、それでも、やはり私自身が太極の道の求道者として修行を積み重ね続けている以上、同じ流れを繰り返すことはできず、自分自身の稽古の流れとなっていることを強く感じます。つまり、こちらは「指導する側」ではなく皆さんと同じく太極という学問を学ぶ「指導される側」なのです。そして、もし皆さんが私と同じ「指導される側」に立てたなら、「二度と同じ稽古指導ができない」という事の重大さが、本当の意味でわかってもらえると思います。
 
9. Posted by ハイネケン   2021年12月26日 20:48
先日、久しぶりの玄花後嗣による指導を受けることが出来ましたが、私の体調が不良のため、見取り稽古をさせて頂いていました。
みるみるうち、ほんの数十分で皆さんの動きを含めた雰囲気が変化し驚いていました。
何が起きたのか、何が起こっているのか理解出来ませんでしたが、変化を認識することが出来ました。
「どこどこがこうなって、ああなって、そしてこうなって・・・」と言う様な複雑な説明ではなく、
「このように意識して・・」と始まり、「そこで力まず・・・」など心地よい緊張感の中で静かに流れに導かれた気分でした。
川の流れ自体は何十年何百年と存在していても、流れる水は同じではなく入れ替わり変化しています。
私の知っている固有名詞の「川」は流れを作っている環境や条件であって、水の流れである川そのものは常に同じではない。どちらも必要ですが今と同じ川は今後一度もなく、まさにライブです。

頭のカタイ私は泳げないと思ってしまうので、川遊びを楽しみ、流れに親しみ、流れる音に耳を傾けられるくらいじっくりと味わいたいと思い返していますが、今年一年の締めくくりにあの様な稽古に参加でき幸せでした。

太郎冠者様 いつも自分の見方や考え方を変化させ続ける秘策を頂きありがとうございます。御蔭様で苦しい時に考え方を変える事で動けた事が多々ありました。どんどん色々バラしてください(笑)
 
10. Posted by 平田玄琢   2021年12月26日 22:04
太郎冠者さんが、道場や普段の自己研鑽をとても楽しんでいることがよくわかりました。私も太極拳についての疑問だらけですが、その疑問をしっかりとまとめずに、ただ漠然となっているものが多くあります。私も、太郎冠者さんのように自己の稽古にて一つ一つ焦点を絞って、それを解決するよう道場に臨むべきだと思いました。

先日、研究会の課題にて、一日毎の稽古を一週間分報告というものがありました。稽古した時間、内容、気付き、発見、疑問点をまとめることでした。道場以外での私の自己研鑽は、多用な時期とはいえ毎度同じような稽古時間と内容くらいで、ほとんど気付きや発見・疑問点等が起こらない稽古だという事に気付いたのでした。

来年は、限られた時間を無駄にしないためにも、毎日の生活そのものが稽古になるよう意識して、毎回の稽古に対応できるよう焦点を絞って自己研鑽に励みたいと切実に思いました。
 
11. Posted by マガサス   2021年12月27日 00:35
最近身に染みて思う事は、「同じ時」は2度と訪れないという事です
毎瞬毎瞬、それは初めてで、新鮮で、生き生きとしていて、同時にとても不安定で、危険に満ちていて、居心地が悪く、落ち着かない感じもあります
だから自分が安心するために、「同じ事」「変化しない事」を繰り返してきたんだと思いました
そんな自分への戒めとして、
同じ事をしていても「慣れる」のではなく、練られて、コナレテ、精度が増すように取り組むこと
慢心をせず、荒波に身を委ねることができる自分であること
楽しめること
今この瞬間を疎かにしないこと
そうしないと「2度と同じ稽古指導は出来ない」とおっしゃる玄花后嗣が示してくださる事を、何も理解出来ないのではないかと、とても考えさせられました

いつもいろんな観点から記事を書いてもらい、自分自身を省みるきっかけを与えて頂き、ありがとうございます
人生に迷った時、太極の道は自分に光を与えてくれ、同じ道を歩く仲間は自分の宝だと、心から感謝した一年でした
ありがとうございました
 
12. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 00:43
⭐︎マルコビッチさん
以前、師父の仰っていた、「暗号を解く」という考え方でしょうか。
パズルのピースを一つ一つ埋めていくように、稽古で示して頂いている内容を丁寧に並べていくと、ある時ふっと、それまで気づいていなかった絵が見えた!
…と思えるような瞬間があります。

あるいは、隠されていると思っている内容に一つ一つ光を当てていただいて、そうした先にそこに元々あったはずの姿が浮かび上がってくる、とでも言えるような感じでしょうか。

あるはずなのに、見抜けない。そうとわかれば、見えてくる。

そういう謎かけを解いていくことが、稽古には必要なのだと思わされます。
そして、それが同時に面白くもありますね。
お互いに、どんどん稽古していきましょうね!
 
13. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 00:51
⭐︎阿部玄明さん

今年も一年間、拙い文章の記事を読んでいただき、ありがとうございました。
出来うる限り、稽古で行われていること、その熱を伝えられればいいなと思い、書き進めてきました。

稽古の流れ、物事の流れ、自然の流れ、…。
一つの比喩でしかないのかもしれませんが、逆らわずに乗ることが出来れば、必ず目標にたどり着ける、のかもしれません。
ちょうど読んでいた漫画に出てきたセリフです(笑)

流れに乗るのも乗らないのも、そこはまた個人の自由であり、選択の一つなのかもしれません。
ですが、もし太極拳が一つの流れであるのならば、それを身につけたいと思ったからには、やはり飛び込んでしまわないといけないのだと思います。
その思い、熱は、それもまた日々の営みの中に、自らに見出していくもののようにも感じられます。
 
14. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 00:57
⭐︎川山継玄さん

同じことの繰り返しの中に安心感を求めるのは、ある意味では生き物としては正しいのかもしれません。
自然界における変化とは、命の危機であり、それは避けて然るべきものだからです。

ところが、武術を志す上で、危険とは避けて通れないものなのかもしれません。あたかも戦場に自ら飛び込んでいく戦士のように、危険を危険と知りながら、命を賭けないとならない、そんな状況は、おそらく当たり前にあるのだと思います。

師父が我々に仰っていた「危機感が足りない」という言葉には、自ら危険を選んでいけるような勇気の足りなさの指摘、その部分も含まれていたように感じます。

もちろん、勇敢さと無謀さでは似ているようで全然違うのですが、そういった心を持って生きるか生きないかでは、武術の稽古をしていて身につくものが全く違うのでは?と思うのです。

自分自身、臆病で脆弱な人間です。
だからこそ、強いものに憧れ、それを目指したい!という欲求が、心の中から湧いてくるのかもしれません。
 
15. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 01:03
⭐︎松久宗玄さん

学生がやるようなブラスバンドのライブでも、外で演奏を聴くのと、バンドの中で自らが参加する時では、音の厚みが全く異なります。
私が学生時代、始めてバンドの中に入って演奏した時、このような体験があるのか、と驚いた記憶があります。

道場における太極拳の稽古とは、あたかも自分自身が楽器のプレイヤーとしてライブに参加するように、その流れに乗らなければいけないのだろうと感じます。

ただ、稽古で行われることを漫然と味わうのではなく、自らもその味として、全体で流れに乗り、そして味わうこと。
本当の意味での味わいは、そうしないといけないのかもしれない、と少しばかり感じるようになりました。
そうすることで始めて、自分の中からも立ち上ってくる声が聞こえ始めるのでは、と思いました。

あくまで自分の言葉でしか表現できないので、師父の仰っていたことと合っているのかどうかは定かではないのですが、
そうしていく中で、見えなかったものが見えてくるような、そういう感覚が感じられてきます。
 
16. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 01:09
⭐︎川島玄峰さん

最初に思いたつのは簡単ですが、その熱を持ったまま、継続し続けることの方がよほど難しいように感じます。
自分の場合、道場に通うことでその熱をもらい続けているような感じもあり、その熱によって自分からまた新しい熱が生じるような…
あたかも、最初に火をつけるには、相応のエネルギーがないとつかないような、そういう循環が起きているようにも感じます。

野外で焚き火をして、その炎を適切な状態で管理するには、状況に合わせた明確なアプローチが必要になります。

人や物との関わり方、そして自分との関わり方。そういったところから見つめ直して、整った自分であることが求められる。
太極拳には、そういう部分があるように感じられます。

拙い記事ばかりでしたが、一年間読んでいただき、ありがとうございました。
 
17. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 01:15
⭐︎清水龍玄さん

同じ音楽を演奏していても、一回として同じ演奏ができたことはなく、毎回毎回、少しずつ異なっているものばかりでした。
もちろんその上で、曲全体としての精度を上げていくことは出来るのですが、一番求められるのは、その演奏全体を通してのまとまりがあるかどうか、という点だったように思います。

道場での全体の稽古にしても、またその中で自分自身によって執り行われる自分の稽古においても、全体としてまとまりがあり、目標がはっきりと定められているか。その目標に向かっていっているか。
一見単純そうに見えることですが、流れに乗りながらも、場当たりではなく、かつ臨機応変に対応できるか。その点が大切なように思います。

まさに太極の陰陽両面が求められるような、そういったところで生きていけないと、太極拳は理解できないのではないかと、思わされるところがあります。

記事を読んでいただき、ありがとうございました。
 
18. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 01:24
⭐︎西川敦玄さん

世界には色々な音楽がありますが、曲によっては、例えばパーカッション担当の人間が、一曲中に一回、シンバルを鳴らすだけという役割の時があります。
(普通は、そうはならないように楽器をいくつも兼任するのですが、例えとして)

曲のクライマックス!とかではなく、途中で、まるで合いの手のように、軽めにバシャンと鳴らす。たったのそれだけです。
5分という演奏の中、たった一回鳴らして終わりです。ラッパやフルートが散々吹いてる中、彼はその一瞬の役割しかありません。
しかもほとんど鳴らしたことさえ気づかれないのです。

だけど彼はそこにいて、場合によっては途中で入ってきて、バシャンと鳴らして、そしておしまい。
けど、その彼の仕事によって、曲は始めて全体として完成します。彼が仕事をしなければ、曲は不完全になってしまいます。

まるで禅のようです。
 
19. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 22:06
⭐︎円山玄花后嗣
とても大事なお話だったように感じたので、ついこの場を借りて紹介させて頂きました。
まさにおっしゃる通り、それこそが太極武藝館が稽古をする場、道場であって、武術教室や訓練所ではないことの証明ではないか、と感じた次第です。

習得すべき内容、段階は事細かに用意していただいていますが、それは何回教わったからできるといった類のものではなく、あくまで我々門人個々人が、自分自身と向き合い磨いていかないと身につかない、「武芸」なのであると感じます。

漫然と教わるのを待っていても身に付かず、勝手に修練に明け暮れても身に付かず、その行間にあるものを見出せるか。
そしてそれこそが、師父や玄花后嗣の仰ってくださる「太極拳に教わる」という道に繋がる在り方なのではないか?と思うのです。
このことは、痛切に身に染みるまで、刻み込まなければならないのではないかと思います。
 
20. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 22:14
⭐︎ハイネケンさん
本部の稽古においても、今年一年は特に、
「見たい人は前に出て、見てください」と声をかけていただく機会が多かったように思います。

それは、昔から正に見取り「稽古」というように、見ることがとても大事な勉強の機会として存在していて、そこに大きな意味があるからだと思います。

私もしばしば機会を利用させていただき、前に出させていただくことがありました。そうすると、それまでにない気づきが得られることが多かったものです。
それは、自分の体を使ってやってきた分だけ得られるものが多かった気がしたので、ハイネケンさんが見取り稽古で気づきを得られたのだとしたら、それはそこに至るまでの積み重ねが、ハイネケンさんの中にできていたからなのではと思います。
本当に素晴らしいことだと思います。

一年間、記事を読んでくださり、ありがとうございました。
>どんどん色々バラしてください(笑)
いやいや、そんなつもりは全くありませんよ。
バラすなんてことがあったら、私がバラバラになってしまいますので(笑)
 
21. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 22:23
⭐︎平田玄琢さん
師父のように稽古をしていけるか。これが私の目標の一つでもあるのですが、師父は誰よりも太極拳を楽しんでおられたように感じられました。

我々に冗談めかして(半ば本気で?)、
「こんな大変なこと、やりたい?」と質問を投げかけられたことがしばしばありましたが、その裏には、
人生を掛けてでも、その大変なことをやる価値がある、という意味が込められていたのではないかと思います。

私自身、道場でパッとやってすぐにわかる人間なら良かったのですが、実際にはわからないことばかりで、なので課題に焦点を当て、分析的になり、地道にやっていくことでしか解決策が見出せなかったというのが本当のところです。
それでさえ解決していけているのか怪しいところですが、何もしないと本当に何もわからないまま!なので、ひたすらにやるしかないと行き当たった次第です。決して誉められるようなものではないと思います…。
他の人がどのように稽古に取り組み、問題を解決していっているのか、むしろそこに興味があります。

そうすれば、私自身の努力の仕方も、良い方向にもう少し修正していけるかもしれませんので…(笑)
 
22. Posted by 太郎冠者   2021年12月31日 22:30
⭐︎マガサスさん
同じ時は2度と訪れない、正にその通りだと思います。
その上で、最近稽古をしていて感じたのは、
それでも、本当に大事なものは変わらずにあり続ける、ということでしょうか。

先日、玄花后嗣にもそのお話をしていただいたのですが、
稽古をしていて、新しい発見があったら、それまで大事だと思っていたものでもすぐに手放し、忘れてしまう。
けれど、大事なことは、自分の中に残っている、と。

これは人生においても全く同じことが言えるように思います。

同じ時はなくても、そこにある大切なもの、核のような思い、気持ち、喜びといったもの。それは、人生の中で繰り返し現れ、いつも新鮮な喜びを私に与えてくれるように感じます。

それはまだ解決できていない課題だったり、魂が震えるような感動であったり…。変わらないものがあるからこそ、我々は2度と訪れないこの時という瞬間を、最大限に味わいながら生きていけるのでは、と思います。

なんだか、話にまとまりがないですが、こういう人生の深みを味わっていけることが、太極拳の上達につながるのだと、師父は教えて下さったのだと思います。
 

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