2021年10月28日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その56

    『駝鳥の妙術』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 先日のとある稽古中、玄花后嗣がふいに、「ダチョウはものすごく頭が悪い」というお話をされました。
 稽古に参加していた我々門人は、「藪から棒に、何の話だろう?」と耳を傾けます。

 玄花后嗣がおっしゃるには、
 ダチョウは記憶力が悪い。人が乗るとパニックになるけれど、すぐに乗せてるいことを忘れてしまう。柵に入れられても、すぐに忘れる。
 とにかく脳みそがすごく小さい。ダチョウの目玉より小さいほど。などなど。
 身振り手振りを交え、唐突に始まったダチョウの話に、みんなが笑いを誘われます。
 そこで語られるダチョウのアホさ(失礼)は、我々の想像を超え、そんな生き物がよく生きてこられたな、と思わされるに十分な内容でした。

 玄花后嗣の話は続きます。
「みなさんも、ダチョウのように稽古をしていませんか? 新しい課題を与えられたらパニックになるけれど、喉元過ぎたらすぐに忘れていませんか? きちんと頭を使って稽古に取り組めていますか?」

 その言葉に、我々ははっとなり、ある門人は苦笑いを浮かべ、また別の門人は、神妙な顔になり無言で頷いていました。


 ニワトリは3歩歩けば忘れる、などと言われますが、ダチョウは本当にそのレベルで記憶力がない生き物だそうです。
 異なる群れ同士のダチョウたちが出会い、パニックになってケンカが始まります。
 しばらくしてケンカが治まるとそれぞれの群れに分かれて去っていきます。
  その時、最初の群れとは違う組み合わせ(違うお父さんお母さん、違う子供たち)になっていても彼らは平然としており、当たり前のように帰っていくそうです。
 …そもそも身内の顔すら覚えていないとのことです。ちなみに、ペンギンはきちんと自分の子供を見分けられるそうです。
 また、みんなでいる時、誰かが(なんとなく)走り出すと、訳もなくみんながついていくそうです。ダチョウは時速60キロで30分走ることのできる、地上で二足歩行動物最速とのことで、暴走したまま崖の上まで辿り着き立ち往生、パニックになってまた誰かが走り出すとそれについていく、ということがざらにあるそうです。本能なのかもしれませんが、アホです。
 またその鈍感さは目を見張るものがあり、仲間に羽根をむしられて(理由はヒマだったから)、出血した部分にカラスがたかり、自分の身をつつかれてても平然と餌を食べているそうです。
 ただし、その生命力はとても強く、怪我の治りは早いそうで、そのような怪我も適切に治療をすればすぐに再生してしまうのだそうです。これがアホでも(失礼)生き残ってこれた理由のひとつなのかもしれません。

 さて、玄花后嗣はなぜ貴重な稽古中の時間を使ってダチョウの話をされたのでしょうか。人間らしく、真面目な顔をして考えてみようと思います。
 理由のひとつは、このように真面目な顔をしてみんなが稽古に取り組んでいたからかもしれません。
 集中しているといえば聞こえはいいですが、歯を食いしばり、眉間に皺を寄せて、身体中に余分な力を漲らせ鼻息を荒くしている中で、拙力を使わない太極拳が理解できるのでしょうか。
 いや、きっとできないに違いありません。

 師父も、稽古中によく冗談を言ってくださり、我々の余計な力みを取り除くような稽古をしてくださいました。真面目な顔をして稽古をしていて、結果が出ていればいいのですが、そうでない時がザラであり、そのような力みは理解を妨げる原因でしかない、と見抜かれておられたのだと思います。
 真に集中している時、人は澱みのない緊張を体に持たせ、余計な力は抜け、体は最大に動ける状態にあるはずです。周りのことに意識は配りつつも、ひとつ所に留まらせないその状態は、武術においても求められるものに近いように感じられます。
 もう一つの理由は、稽古になかなか進歩が見られず、同じ「出来ないこと」を繰り返している状態はまるで、考えなしに突っ走り、自分の置かれている状態もわからない、何をしていたかさえ思い出せないダチョウのようであると、喩えられたのではないでしょうか。
 同じことを繰り返すということは、そこで反省して次に繋げることが出来ていない状態です。
 理由は様々あるかと思います。一つは何が起きているのかわからない、鈍感な状態であること。正しい認識・意識なくして問題点の改善など望めるはずはありません。
 もう一つは、何かに気付けたとしても、その気づいたことが次に活かせない。気づきを忘れ、改善すべきことも手につけず、また同じことを繰り返してしまうところです。
 それはあたかも、記憶力の悪い、鈍感なダチョウの例えにピッタリと当てはまるもののように感じられます。

 どのように物事を勉強していったら良いか、師父は我々研究会に講義を開いてくださり、人間の脳の特性から、効果的な勉強方法まで、時間をとって丹念に教えてくださいました。
 その勉強の仕方、頭の使い方を、我々がダチョウ頭で忘れてしまっていないでしょうか。
 豚に真珠、猫に小判、ダチョウに勉強法…せっかく教わったことを活かせないのなら、トリと一緒です。何のために人間をやっているのか、わからなくなってしまいます。

「ダチョウの脳みそは約40グラム…彼らの目玉よりも軽いのだそうです」
 と、玄花后嗣がポツリと仰います。ちなみにダチョウの体重は100〜200キログラムです。
 対して人間の脳みそは1200〜1500グラム。大きさが全てではないですが、身体に対してそれだけ大きな比率を占める脳を、使わないなんてあまりに馬鹿げています。
 また、だからと言って稽古中に考え込み、体の動きが疎かになってしまうのも問題の一つです。この場合は、考えると称して自分自身の考えに拘泥し、周りが見えなくなってしまっているはずです。
 これはそもそも、武術として必要な在り方とは真っ向から対立しています。
 戦いの場において、考え込んで動けなくなることがあっていいはずがありません。それは稽古について考えているようでいて、実際には自分勝手なあり方になってしまっているのだと思います。

 戦闘機のパイロットが操縦中に行なっている作業は、音速で戦闘機を飛ばしながらコンピュータを操ることだと言われています。考えなしに操縦桿を操るのではなく、かといってデスクワークでコンピュータに向かっているでもない極限状態が、コンマ1秒の判断の中に求められているのだとすると、常人にできることではないように感じられます。
 しかし、地上での生身の戦いにおいても、それと同じ状態が必要となってくるはずです。
 考えて止まるのではなく、考えながら動く。
 知的な肉体作業があって初めて、自らを生存させながら敵を倒すことができるのではないかと思います。
 また、落ち着いて考える時にはじっくりと、指導されている内容、理論について向かい合う必要があるように感じます。
 稽古で教わったことをそのままにしておくと、次々と教わる内容に消化不良を起こして、いずれ何も理解できない状態に陥ってしまいます。
 自分は、稽古が終わるたびに一つ一つ、自分が行なっていたことと指導された内容、示されたことを思い出し、確認するようにしています。その中で、それまで見えてこなかった物事の関係性が少しずつ細い糸のようになってつながってくる時があります。
 それをもとに自分自身の動きを改善、検証を重ねた上で次回の稽古に臨みます。
 そうすると、自分が思っていたことの問題点が新たに浮上し、また、思っても見なかった発見が次々と現れてくるようになりました。

 稽古中の発見はさることながら、新しい発想が一番生まれてくるのは、シャワーを浴びている時など、リラックスしている時です。
 考えに考え抜いて頭を一杯にしておき、そこからリラックス状態に入ると、人間の脳は休むのではなくて、その時間の中で最大限の仕事を行います。
 余計な入力がない時、実は脳はその時間を、自分自身の神経の再配置に使っています。
 ボーッとする、散歩をする、リフレッシュをする。リラックスする時間が必要なのはそのためで、そういった時にこそ、思っても見なかった発見はあるものです。
 ですが、ただボーッとしてもダメで、事前にしっかりと課題に取り組んでおくことが必要になります。
 それはあたかも、ワインを作るために葡萄をしっかりと下拵え、準備をする必要があるのと同じだと思います。条件を整え、樽に入れて初めて、時間が葡萄をワインに変えてくれるのです。
 漫然と葡萄を眺めていても、それは決してワインにはなってくれません。

 我武者羅に稽古をすることはもちろん必要です。
 それが煮詰まったら、一度稽古をやめて、のんびりとダチョウの動画でも見てみたらいいのかもしれません。嫌でも肩の力が抜けてしまいます。

 師父が「一流の芸術に触れなさい。いい音楽を聞きなさい」と仰ってくださったのは、リラックスすることで生まれる貴重な瞬間の大切さを、身をもって味わわれていたからなのかもしれません。
 その瞬間に、それまで見えなかった糸が繋がり、パッと輝くものに出会えるのかもしれません。

                                (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その57」の掲載は、12月22日(水)の予定です

disciples at 23:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 阿部玄明   2021年10月30日 16:44
太郎冠者 様
ダチョウのお話は身につまされるようで耳が痛い限りです。昔、日本国中で流行ったとある国民的歌謡曲で「あしーた(明日)がある あしーたがある あしーたがあーるーさー」という能天気なフレーズを思い出すようです。逆に昨日はどうだった?先週はどうだった?という振り返りを促す歌はなかなか流行らないですね。
脱線してしまいましたが考えることと体を動かすことを同時にやれないのは脳を使い慣れていないからかもしれません。自動車学校では最初に構内練習で車に乗るときは最初オートマチックの車に乗ります。
はじめは両手でハンドルを握りしめてよちよち運転するのが精いっぱいです。車に乗るということが大味な体感として理解できて来たらマニュアル車に切り替えて左手でシフト、足でクラッチとブレーキ 右手でハンドル操作というように徐々に使い分けをできるようになり段階を経て晴れてマニュアルの免許を取得できます。動きながら考えることができないのは構内教習所のAT車での初期訓練段階のようなものといえます。
車の運転は路上教習の状態に移らないと早く上達しません。ですが焦る前にいったん車を道路わきに停めてがちがちにハンドルを握りしめている両手を緩め、そっとシフトレバーに左手を添え感じてみる。逆に思いっきり飛ばしてみる。そんな風に自分のペースを意識的に変えることが大事。
ダチョウはきっと意識は使ってないと思います。
快、不快の感情はあると思います。
我々もダチョウのような習慣があります。感情もあるしどちらかといえば感情優位になりがちです。
しかし人間は意識優位に自分を観照し律することができるし、だからこそ霊長類なはずです。
太極拳は意から始まると説かれたことの意味。
意を使えるようするには何が必要なのか、何を整備するべきかを普段からしっかりと考えて備えていきたいです。
 
2. Posted by 松久宗玄   2021年10月31日 11:45
駝鳥は何故アホなのか?
非常に興味深い所です。
おそらく進化の過程で、得意分野を特化させて生き残る戦略を選び、
賢さは切り捨てたのでしょう。

我々は何故アホなのか?
これもまた非常に興味深い所です。
やはり成長発達の過程で、得意分野で勝負して生き残る戦略を選んでいて、
本質的には賢さを切り捨ててきたからだと思います。

どちらも問題になるのは、特定の方向に特化しているが故に、
前程や状況が変化した場合に、何も出来ず、生き残れないリスクがある事です。
駝鳥の進化の選択は置いておいても、
どんな状況でも、生き残る事が目的である武術家の戦略としては問題です。

幸いにしてその気になれば、考える事は可能な脳みそは付いている筈なので、
自分自身の生存戦略の偏りを改めて考察した上で、
早く智慧ある人間に戻らねば、と思いました。
 
3. Posted by 西川敦玄   2021年10月31日 12:27
太郎冠者様、投稿ありがとうございました。ダチョウの脳が小さく、相当アホであるということから、私たちの脳の使い方にいたるまでの考察は読んでいて楽しいものでした。
重要なポイントは、ダチョウにあるのではなく私たちが稽古に臨む姿勢。今回は脳の使い方にあるということでしょう。私たちをダチョウのように稽古している。・・・・ように見えると言われている訳です。ね。多分。
自己の課題、指摘されたことなどに対して、反射的に、反応して、すぐに忘却している。ように見える。
太郎冠者様も言及しているように、私たちは、真剣に眉にしわをよせて、それこそ忘れるなどと言うよりも、固執しているように稽古していることが多いのではないのでしょうか。ダチョウの脳と真逆のようにみえる働きが、同じ現象のように指摘されるのでしょうか。
あること(考え)を、忘れるのではなく、殺す。能動的に殺す過程は、観照する中で行われることで、新たに生かす過程となると思います。
そんな、考えがあたまに浮かびました。
日々精進あるのみですね。
 
4. Posted by 川島玄峰   2021年10月31日 13:01
稽古では、自分が無理だと思う事や苦手に感じる動き、固執した考え方などが浮き彫りにされます。
その状況も稽古の段階であり、集中した己に向かう大切な時間であると考えています。
しかし、理解の仕方や動きの変化の生じない状況は、教えを示されたことを忘れしまったダチョウ状態であり、大切な時間を無駄にしいると反省をしました。
それぞれ示されたことが繋がっている事に気づき、それを考えながら動くことが大切であると思いました。

ダチョウはその小さな脳を使い厳しい自然界を生き抜いていると思いますが、その強い生きる姿勢には、今のストレス社会を生き抜くために学べるものがあるような気がします。
 
5. Posted by マルコビッチ   2021年10月31日 17:37
ダチョウは脚が発達していてとても速く走るということは知っていましたが、脳がそんなに小さくて記憶力がないとは知りませんでした。
大変興味深く、面白いですね。
ダチョウの脳が小さいのは持って生まれたものですが、同じ持って生まれた強い脚を最大限に生かして生き抜いています。
私たちは、持って生まれた使える脳をどのように使っているかということですね。
私は、最近特に忘れることが多く(笑)(笑い事ではないですが)、鍛える必要があるようです。
稽古で、まるでダチョウのよう・・・というのは、例えば、ひとつの課題を与えていただいたら、そのことのみをひたすら繰り返し、それがどういう事なのか、今まで教えて頂いたこととどのように繋がっていくのかを考えず、あるいは忘れて繰り返しているからではないでしょうか。
ようするに行き先も状況も見えず突っ走っているだけ!
あるいは、私にも覚えがありますが、ひとつのことに固執してしまうとなかなか他が見えないということがありますね。
ましてやそこに少しでも手応えのようなものを感じたら、そこから離れられず手放すことが出来ません。考え方が居着いてしまうんですね。
ひとつの線しか引けない状態とでも言いますか、太郎冠者さんのように関係性が少しずつ細い糸のようにつながってくれば面白いですよね。
太郎冠者さんも大変な努力をされているのだと思います。
私もしっかり考え、力まずに稽古していきたいと思います。
今回も刺激的な記事をありがとうございました。頑張ります!!
 
6. Posted by ハイネケン   2021年10月31日 18:58
ダチョウに非常に親近感を覚え、他人とは思えなくなりました。いや私はダチョウと同族そのものに思えます。
普段の仕事の中で日々一つ一つはこなせているのですが、全体的に今ひとつ纏まりの良さを感じられず、無意識のほころびがあることに最近気づき「どうしたものか・・・?」と思っていました。
私達は稽古時間が短い分、時間の貴重さを思い知らされますが、その中で指摘された内容を自分で熟成させているか?指導・指摘されている事を素直に実践しようとしているのか?色々な事を忘れて突き進もうとしてしまいます。
稽古中にふっ飛ばされると、自分の中に生じた感想・解釈はとても自分にとってセンセーショナルで稽古へ向かう動機づけになります。しかし最初はあたかも真実であるかのように見えるその感想は自分への検証を繰り返すと次第にそれこそが自分勝手な解釈の始まりである事が殆どです。
我武者羅の中に「周りを顧みない、見境ない状態」との意味が含まれています。理解へ向かう為に指導と自分とを確かめながら稽古に向かう中で、人として考え巡らし周りを顧み、自分にとって必要な稽古をしてみたいと思いました。
太郎冠者様、玄花後嗣のダチョウの話を紹介して頂きありがとうございます。ダチョウの動画を見たら一番好きな動物になりそうです。
 
7. Posted by 円山玄花   2021年11月01日 01:04
一般社会では、ストレスフリーの代表として捉えられることもあってか、「くよくよと思い悩まず、ダチョウのように生きよう」とか、「ダチョウのように悩みを引きずらず、明日には忘れて、明るく生きよう」などという言葉も見かけたことがあります。
まあ、確かに悩んでいるだけでは解決しないこともありますし、忘れた方が明るく生きられることもあります。
しかし。本来生きとし生けるもの全てがそうであると思えるように、人間も成長するために生まれて来たと考えるなら、悩みや課題、人生の壁というものは、自分がステップアップするために必要として生じたものであり、現在の自分には無い「気づき」を得るためのものだと言えます。
思い悩むことなく明日には忘れている日々にも憧れますが、同時にアホになっていく自分がリアルに見えるので、悩みと課題に感謝して、気づける自分で在りたいと思います。
 
8. Posted by 川山継玄   2021年11月02日 03:15
玄花后嗣がダチョウのお話しをされた時、「まさしく自分ではないか!!」と冷や汗が噴出してきました。
太郎冠者さんが書いて下さったダチョウの様子も、あまりに自分と重なるので、何種類か動画を見てみました。
その中で、豹に狙われたダチョウの映像が興味深かったです。サバンナの真ん中で豹の気配を察知したダチョウが、周りに注意を払いながら、卵を産んだのです。産卵後は卵の中身が殻に張り付かないように卵を転がすそうなのですが、そのダチョウは丁寧に卵を転がしてから、ようやく逃げ始めました。そして、最後に豹に捉えられて餌食になってしまいました。
命が狙われている状況でありながら、自らの欲求を優先させて命を落とすことになったダチョウ。この状況は、目の前で示して下さった玄花后嗣の動きを真似ることなく、自分勝手なタイミングとやり方で対練をしている自分と重なります。
考えないということは、習慣化されたものを半ば無意識的に、自分のやりやすいように、やり過ごすことのようにも思えます。
せっかく人として生まれ、太極武藝館で太極拳を学んでいる以上、感覚を研ぎ澄ませて全体を観て、発見・成長し続けられるよう、頑張りたいと思います。

今回も、太郎冠者さんの鋭く幅広い考察がとても勉強になりました。
ありがとうございます。
 
9. Posted by 清水龍玄   2021年11月02日 06:26
大変耳の痛い話です。
折角の脳を、一体自分はどう使っているのか。
メリハリの無い使い方をし、フリーズしているような状態のまま、処理しなければならない事ばかりがたまっていく。
駝鳥よりは容量があるはずなのに、使い方は駝鳥以下と思います。
面白くも考えさせられる記事です。
ありがとうございました。
 
10. Posted by 平田玄琢   2021年11月02日 17:22
ダチョウの話を聞いた時、私は「ダチョウの流儀」を連想していました。ダチョウは、危険が迫ると砂の中に頭を突っ込む習性があると昔から言われていました。
「ダチョウの流儀」とは、自分にとって都合の悪いものは見なかったことにするという意味で使われるようです。政治の世界でも、他国との安全保障上の危機を直視しようとしないことを、「ダチョウ政策」とか「ダチョウの平和」と呼ぶ比喩表現があります。
しかし、後世にダチョウの研究が進み、それは迷信であり、全く別の習性や理由によりそのように見えていただけで、それは誤解だったと解明されました。

自分もダチョウの様に、稽古中にまだ理解出来ていないところや、納得するまでやり込んでいないところは、自分にとって都合の悪いところの様です。稽古中に重要な個所を、「そこ」「ここ」と指摘されても、観ているようで見なかったことにして、そのうち忘れてしまっているのかもしれません。

それについての稽古の方法・対応策を太郎冠者さんが書かれています。真摯に受け止めたいと思います。
次々と教わる稽古内容は、そのままにしておくと消化不良を起こす。
稽古が終わるたびに自分の行っていたことや指導教示内容を確認する。
それまで見えてこなかった物事の関連性が少しずつ繋がっていく。
それをもとに、自身の動きを改善、検証を重ね次の稽古に臨む。
稽古中に、新たな発見と問題点の浮上がある。
稽古中だけでなく、リラックスしているときにも発想が浮かぶ。
何事も下準備が必要である。
我武者羅も必要だが、煮詰まったらリラックスも必要ではないか。

理解・上達具合の遅さを何らかの理由にしている自分が見えてくるようです。
 
11. Posted by マガサス   2021年11月03日 00:40
ダチョウのお話、なんとも滑稽で思わず笑ってしまいました。
そんなダチョウがサバンナを駆け抜ける姿に、自然と思いを馳せました。
危険な動物が周りにはたくさんいて、生き延びるために兎に角走ったんだろうな、
んー、ダチョウの方が命がけで、凄く厳しい中で生きているぞ、
自分はそんな危険の中で生きていないな、
生命として、ダチョウに負けているじゃないか・・・
と、色んな思いが溢れてしまいました。
進歩・成長ができない理由をアレやコレやと思い悩み、それはきちんと理解できていないから、考え方が変わっていないから、努力が足りないから、取り組み方が間違っているから・・・と、頭で考える事ばかりしています。
勿論それは間違っていません。
その通りだと思います。
恥ずかしいことに、確かに自分はそれらができていません。
でもそれ以前に決定的に足りないもの、それは危機感だと思いました。
冷暖房、換気完備、転んでも痛く無いマットの上で雨や風や雷にも打たれない場所で、「いつでも教えてもらえる」と思える心の甘え。
情けないことに、動物としての野性を忘れて頭でっかちで、軸の無い状態になっていたように思います。
ご指摘の通り、きちんとした緊張感の中からこそ、心と体のしなやかさが生まれてくるんだと思います。そして真のリラックスと。

いつも色んな観点から記事を書いて頂き、ありがとうございます。勉強になります。
いま一度自分の根本を見直し、取り組んでいきたいと思います。
 
12. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 00:31
⭐︎阿部玄明さん
マスコミによる流行は、世の中の大衆の方向を誘導する装置としての役割も兼ねられているそうなので、
そのように全体を流していきたい、お気楽に、何も心配ナイヨーと思って頂きたい方々もおられるのでしょうね…。

良きにしろ悪きにしろ、無意識による行動は自分の動きを円滑にもしますし、同時に知らないうちに誘導されてしまっているという罠も生じさせるのだと思います。
おっしゃる通り、無意識のレベルで運転を処理できない新米ドライバーに円滑な運転は無理ですし、逆に慣れて油断した運転は、
気づかないところでの事故を招きやすいです。

「意識を使う」とは、それら無意識の行動にある種の監視をする役割もあるのだと思います。
それを意図的に働かせ、何か問題がある時には意図的に対処できるようにすることが可能になれば、
日々の生活の中で意識的に行動するということにも、何か光が差すのでは、と個人的には感じます。
 
13. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 00:43
⭐︎松久宗玄さん
>駝鳥は何故アホなのか?
鳥が空を飛ぶ羽を維持するには、日々のケアが欠かせないのだそうです。
毎日毛繕いをし、体から分泌される油脂を羽に塗り、適切なお手入れをして初めて、空を飛ぶことができるのだそうです。

ところで、ダチョウはどうでしょうか。彼らは、あまり綺麗好きではないようです。…むしろ汚れていてもお構いなしで、一言で言うと汚い。

ある説によると、ダチョウのご先祖の鳥は、めんどくさがりでだらしなく、羽のケアを適切に行なっていなかったそうです。
すると、だんだんと空を飛ぶことが出来なくなってきました。
空を飛べないのだから、体を軽く保つ必要はありません。
彼らの体は次第に、鳥の中でも最大のサイズへと変化していったのだそうです。そして、足は速くなりましたが、2度と空は飛べなくなったのだそうです。

つまり、駝鳥は何故アホなのか?に対する答えは、正しくは、
めんどくさがりの(アホな?)鳥が駝鳥に進化した、です。

日々の取り組み方が生態系をも変えてしまう。恐ろしい話ですね。
 
14. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 00:57
⭐︎西川敦玄さん
特定のことに固執しすぎて、全体のことが見えなくなってしまうことは往々にして起こりますね。

以前、散手の稽古をしていた時、おそらく我々の頭の中は、
「架式を守る、架式を守る…」と呪文のように一杯になっていたのだと思います。その動きを見て師父が、ため息混じりに、
「君たちの動きはチンドン屋のようだ」
と、指摘してくださったことがあります。

チンドン屋…?と今度は頭が疑問で埋まります。
要は、動き方のリズムなどが、師父の示してくださったものと全く異なってしまっていたのですが、それを言われるまで、我々は少しもそんなことに気付けなくなっており、むしろ指導された内容を必死にやろうとしていたのだから、恐ろしいものです。

木を見て森を見ず、にならないようにしなくてはいけないと思いました。
 
15. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 01:09
⭐︎川島玄峰さん
個人的な傾向ですが、正しくても間違っても仮説を立て、それに対してどうなのかと検証に検証を重ねていくと、新しい発見が飛び込んでくることが多い気がします。
概ね、仮説の方は間違っているのですが、ある種の叩き台としての役割を果たしてくれるようです。

一番実りが少ない状態は、指導されたことを、「きっとこういうことに違いない」と中途半端な解釈のまま放っておいた時で、そういう時は物事の繋がりがだんだんと見えなくなってきてしまいやすいです。

発見したことの多くは(現状では、ですが)、指導されている内容に照らしても全く矛盾はないのに、普通に見ているとそのようには全く見えず、太極拳独特な物事の捉え方、角度から見ていると表現されうる内容なのだということに気付かされ、日々戦々恐々としています。
 
16. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 01:29
⭐︎マルコビッチさん
例え脳が小さい鳥でも、例えばカラスは体も小さい分、脳は小さのですが、頭の良さはそれとは関係ないというのも、面白い話だと思います。

カラスで言うと、小型犬くらいの知能、人間でいうと3〜4歳児くらいの知能を持っているとのことです。
つまり言葉を覚え始めてなんとなく意思疎通が図れる程度には頭が良い、ということですね!

要は大きさではなくて構造、使い方が問題だということで、太極拳についても体の大きさや力の強さではなく、使い方が問題になるのでしょう。
と、無理やり話を持っていってみるのでした。

ところで、ダチョウはああ見えて鳥なので(当たり前ですが)、鳥というのはすべからく、恐竜の進化した生き残りたちです。
つまり、ダチョウは今に生きる恐竜なのです。そう考えると、すごく格好良く思えてきます。
アホだバカだと言いすぎたので、ダチョウをちょっとフォローしたくなりました。余談でした。
 
17. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 01:39
⭐︎ハイネケンさん
今回、ダチョウの話を書くにあたり、自分もダチョウについて調べ、ダチョウの動画をいくつか見ました。
するとだんだん、ダチョウに対して愛着が湧いてきて、なんてナイスな生き物なんだろう…と俄にマイブームになってきました。
ああ、ダチョウ…!エミューも良いんですよねぇ(浮気)。

さて真面目な話に戻りますと、師父はよく我々に、
「図を描きなさい。幾何学で考えなさい」と指導してくださいました。

物事を図で考えて示すとき、その対象から自分を一歩引いたところで、俯瞰した状態で物事を見ることができるようになります。
特に稽古においては、衝撃的な体験が多くそれだけに埋没しがちになります。その感動はもちろん大切で必要なことだと思います。
しかし時には、一歩そこから離れて、客観的に俯瞰することも当然必要になってくるはずです。

そうして整理してみると、その時に何が起きていて、何によって自分が“そう感じさせられたか“といった因果関係まで見えてきます。

そこで得た視点・知見を、稽古で指導されている内容に当てはめてみると、非常に面白いのではないかと、個人的には感じます。
 
18. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 01:52
⭐︎円山玄花后嗣
世の中にはいろいろな人がいる、とは常日頃仕事をし、生活をしている中で感じさせられるものですが、確かな感覚として以前とは人の質と言いますか、何かが変わってしまっているなと感じることがあります。

例えばスマホの普及によって、少なからずの人の注意力はそちらに取られてしまっているように感じます。
車の運転中にナビでテレビを観ながら、スマホをいじる。もはや狂気としか思えないですが、道を走っていると多く見かける姿です。

また、目の前にいてもこちらと会話ができない人もザラにいます。話しかけても反応がなく、そもそもこちらがコミュニケーションの対象として認識すらされていないようです。
そういった人々に懇切丁寧に接しても反応すら返してもらえないので、確かに思い悩んでもしょうがなく、「ダチョウのように忘れよう」という気持ちにはさせられます。

そもそもの根本は、そんなことが成立している社会がおかしいのであって、自分はそうあってはならない、と気をつけなければいけないと痛感させられる毎日です。
 
19. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 02:04
⭐︎川山継玄さん
師父がよく、「あんちょこはない」と話してくださったのが思い浮かびました。

とかく我々は、こうしていれば大丈夫だろうと思ったことを繰り返す傾向があるかと思います。それが現状に即していなくても、それさえ守っていれば大丈夫、と。
これは精神的に自分を安定させようとする代償行為でしかないのですが、無意識のうちに安心感を求めてしまうのでしょう。

稽古においても、こう言われているから、と要訣を守るだけになってしまう。一見すると自分を挟まず、言われていることを行なっているようにも見えてしまうのが問題なのではと感じます。

実際はどうなのでしょうか。道場内での対練においてでさえ、師父や玄花后嗣は、同じことを漫然と繰り返すことはなく、毎回毎回、違うものとして動かれているのを感じます。
それでいて、揺るぎのない理論があり、構造がある。

それらによって、全体として何を示されているのかを理解し、体現していく必要があるのではないかと感じています。
 
20. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 02:12
⭐︎清水龍玄さん
宗玄さんへの返信にも書かせていただきましたが、ダチョウも最初からダチョウだったわけではなく、そうなる傾向を持っていた鳥が、長い時間をかけてダチョウへと変化していったはずです。

目の前にある選択肢は、一見すると大きな変化には繋がらなく感じられるかもしれませんが、日々の積み重ね、瞬間ごとの選択によって、時間が経てば行き着く先は大きく変わっていくことを、寓意的に示されているようにも感じられます。

選択することの大切さは、師父にも、その在り方によってずっと教えていただいていたことでした。
自分も日々の生活、稽古において、それを実践するようにしています。
その思い、下した選択の数々は、確実に自分を変える力になっていってくれていることが、実感できます。
 
21. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 02:18
⭐︎平田玄琢さん
自分にとって見たくないところは、自分にとってとても致命的であるからこそ、見たくないところだと思います。
だからこそ、そこに目を向けられて初めて、人は大きく成長できるのでしょうね…。
とは言うものの、自分にも見たくないところばかりで嫌になってしまいますね。

そんな自分自身から、
「逃げない、晴れ晴れと立ち向かう」のだと、
師父は弱気な私によく言ってくださいました。

そうやってこそ人は成長していけるのだと、諭してくださったのだと思います。自分にとって本当に大切な言葉です。

稽古においても、そこにこそが問題の本質が潜んでいるのかもしれません。だとしたら、そこを放っておくという手はないですね。
 
22. Posted by 太郎冠者   2021年11月09日 02:31
⭐︎マガサスさん
ダチョウはダチョウの環境で逞しく、人間は人間の置かれた環境で逞しく生きていかないといけないですね。

鍛え方が足りないのは、現代人の例にもれず、太極武藝館の門人であってもやはり問題になるかと思います。
体力トレーニングはすれば向上するかと思いますが、では一流のアスリートが一流のサバイバーかというとまた少し違う話にもなってしまい、ご近所のどこにでもいそうな老婆が非常時に兵士よりも肝が据わっていたなんて話も聞きますし、問題はやはり在り方や考え方にあるのだという気もします。

個人的な経験ですが、稽古において、教わるのを待たずに自分から取りに行くとスイッチを切り替えて以降、確かに見えてくるものは変わったように感じます。
ただ漫然と出来ない、足りない部分に思い悩むのではなく、試行錯誤を繰り返し、その中で発見が現れてきました。発見の裏側ではメチャクチャなことをやった間違いの山が積み上がっているのですが、澄ました顔をしていればそれを道場で咎められたことは、…今のところありません。
玄花后嗣には「またなんかやってるな」と思われているのでしょうけれど。
 

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