2021年09月14日

門人随想 「諦めない心」

                    by 拝師正式門人 川山 継玄


 この夏約一か月の間、私はご縁があって学童保育所に通う小学生達と過ごす機会を頂きました。
太陽が照り付ける暑い日も、帽子をかぶって虫籠や捕虫網を持って山を駆け回る子供達。
トカゲや虫を探して山肌を這うその姿は、あまりにトカゲが好きすぎて、私の目には、どうしてもトカゲそのものにしか見えない程でした。
 
 私は、普段の稽古で、一つの質問にさんざん時間をかけて考えておきながら、支離滅裂な事を拙い言葉でもじもじ言い出し、自分で発した言葉に疑問を持ち、挙句の果てに、「一体私は何を問われ、何を言いたかったのでしょう…?」とばかりに、答えを待つ相手に言葉を濁す始末。
 この状態では、自分で稽古し、研究していくなどとんでもない話です。悩んではいるものの、実際に・具体的に解決していくというには程遠い現状です。
物事と深く関わり、考え、調べて更に考察する事、言葉で説明することがとても苦手な…というよりできない私は、思考することなしに行動に移しているため、右脳優位な人間かと思っていました。
 ところが、稽古で丁寧に説明を受けて、何度も繰り返し取り組んでいるにもかかわらず、何も残っていない、時には一瞬にして頭が真っ白になって忘れてしまう。関連性が理解できない。不用意に壁や物にぶつかってしまう。等々、武術家というには何ともお粗末な有様。
 〈高速意識処理のコンピュータ〉と考えられている右脳が秘める能力はすさまじく、記憶力で言えば左脳の100万倍の能力をもっているとか。私が右脳優位であるわけがありません。

 『「文字で」記憶しようとして、“覚えられなかったらどうしよう”、“できなかったらどうしよう”、という不安や恐怖心を勝手に持ち、自らが緊張状態を作り出している。これは、左脳だけですべての物事を対処しようとして部分的・平面的にしか物事に関われていないことに起因している』
・・と、師父が脳についての講義もしてくださいました。また、
 『右脳を使えるようにするためには、良い音楽を聴きなさい、おいしい料理を作ってみなさい、食べてみなさい、本物に触れてみなさい、カラフルなペンで絵を使ってはみ出してもいいから自由にノートをとってみなさい、全てを喜びの中で存分に味わってごらんなさい…』など、師父は毎回、本当に丁寧にその時に応じた例を用いて、ご指導くださいました。

 「成長したい!」「変わりたい!」「師父や玄花后嗣と同じ景色を観たい!」と、音楽を聴き、絵を観て、自然を満喫して、映画を観て…。それらに感動はするのですが、その場で終わってしまうような、空回りしているような、貧しい精神状態の私。稽古で音楽を頭に流すのですが、いつの間にかそれは消えて、口を一文字に固く結び、緊張した面持ちに戻っています。
 そのような中で、子供達の瑞々しい感性と好奇心と行動力と優しさのお陰で、私にも一筋の光が見えてきたのです。

 小学校に通う児童全員が一輪車に乗れて、冬にはグループに分かれ、パフォーマンスを披露するまでに成長してしまう子供達。初めての夏休みを迎えた1年生の中には、乗れるようになってまだ間もない子も少なくありません。
 子供達と出会ったその日、「一輪車やろう!」と宿題を終えた1・2年生の女の子たちが私に声を掛けてくれました。一輪車には、数メートルしか乗れない私は、「今年の夏こそ、思ったところに悠々と漕いでいけるようになるぞ!」と意気込み、練習を始めました。

 「まず、遠くの山のサルをみるようにって教わったよ」
 と、1年生が口々に言います。教わったことをみんながよ〜く覚えているんだな、と感心しながら、
 「ふ〜ん、サルね!」
 とバーから手を放して漕ぎだしてみました。するとすぐさま、
 「そうそう、その調子! そうだな〜。サルじゃなくていいや。何の動物がいい?」
 と、Aちゃんがスイスイ一輪車に乗って近づいてきました。

―(えっ? 私が「サルはあの山にはいないよな」って頭の中をよぎったのがわかっちゃった?)

 「リスかな!、じゃあリスでいいや」

―(なんだ?!このテンポの良さは。)

 昨今の私の会話にはないスピード感にあっけにとられました。
 そしてその後も、私が一度乗るたびに、

 「あっ、できない理由が分かった!」

―「何?、何?、教えて‼」

 「目が下向いてる」

―「はいっ」(あれ⁈、どこかで聞いたような。)

 「腕が曲がってる」

―「あっ、本当だ」(これも聞いたことある。)

 「腰がこう(一輪車に乗ったまま、腰を巻き込んだ姿勢をとる)じゃなくてこう(同じく、命門が入った綺麗に立てている姿勢をとる)」

―「私そんなに腰が丸くなってるんだ」(あれ?、この子門人だっけ⁈)

 「体が動いてない」

―「う〜〜〜〜やっぱり(泣)」

 「笑ってない」

―「近頃眉間にしわ寄せて、口元ギュってしちゃうんだよね」(放鬆、ファンソン…)

 「怖がってる」

―「確かにそうだなあ」

 「転んでない」

―「ケガすると治りが遅いからな…」(稽古もできなくなっちゃうし。)

 極めつけが、
 「言われた通りにやってない!!」

―「…(-_-;)」(ごもっともです〜〜〜〜。)

 ・・ここは道場か?、と錯覚してしまうほど、日頃稽古で指摘されることのオンパレードで、しばらく開いた口が塞がりませんでした。
 彼女たちは、本当に真剣なまなざしで私の姿を観て、自分との違いを瞬時に察知し、心の声まで読み取って、一人一人が自分の言葉で、私ができない理由をわかりやすく、楽しそうに教えてくれるのです。
 一息つきながら、「どうして上手になったの?」と立ち乗り練習中の1年生に聞いてみると、「練習したから。」と極々普通に答えます。
 転んでも転んでも練習する彼女たち。そこには「乗れなかったらどうしよう。」という気持ちはみじんもなく、「うまくなりたい。これができるようになりたい(10級から名人まで段階があり、技の数々が用意されています)」という前向きで意欲的な気持ちだけです。乗れなければ、グループのみんなに迷惑をかけるため、彼女たちには乗れないという選択肢はありません。それだけの厳しさの中で頑張っています。

 以前のレンガ站椿の稽古で、
 「外筋でも何でも、乗ってやる!という気持ちでやるんです」と、玄花后嗣がおっしゃいました。
 「わかるまでやるんです」
 「今やらないなら、時間が経ってもやりません」
 「延期しないことです」
 ・・と、常々甘っちょろい考えが見え隠れするたびに、そう言って喝を入れてくださいます。

 人は、都合の良いように言い訳をつくっては、その場をしのぎます。それでも生活はできます。しかし、それでは太極拳は取れないと何度も何度もご指導頂きます。その場から逃げない、甘えを許さない心構えが大切だと思います。
 私は、右脳が使えるようになるには…と師父が挙げてくださったことを、心から楽しいと思えるまでやっただろうか。子供達が転んでも転んでも練習し続けるように、向かい合っただろうか。彼女達が私に指摘したように、自分を観て・認識し・修正しただろうか。
 答えは、“NO”でした。
 私が長く悩んで解決できなかった理由はただ一つ、
「“その時わかるまで取り組む”という覚悟の欠落」
だと思い至りました。それ故にできない理由を山ほど用意したり、延期したり、甘えてばかりの自分を許していたのです。

 「誰でも、今この瞬間に変われるのです」
と言われたことの意味が、分かったような気がします。
 「こうする」と言われたらその場でそのようにやる。わからなければ、わかるまでやる。それこそが大切だったのだと。
 これから、子供達から学んだ、強風に身を委ねる柳のようにしなやかで強い「諦めない心」を育て、鍛えていきたいと思います。そして、喜びに満ちて伸びやかに太極拳に向かい続けたいと思います。
                              (了)



disciples at 18:00コメント(23)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by 円山玄花   2021年09月16日 21:41
小学生の子供たちとの会話が、そのまま思考と意識の違いとして現れているように思います。
その純粋さと、ときに無鉄砲とも思えるエネルギーの大きさと決まりの無い発想と転換の早さは、正に一つの武術を継承していこうとする私たちには、なくてはならないものです。

「どうして上手になったのか?」との問いかけに、「練習したから」と答えた一幕には、いかなる天才も達人も、努力と練習の積み重ねなしには生じなかったことを思い出させます。
実際に、もし私が皆さんより功夫が上であるなら、私は皆さんより練習しているということですし、私が師匠を超えられないのなら、師匠の練習量より少ないということです。
もちろんその「練習」という言葉の中には、研究も実験検証も入っているわけですが。
何にしても、稽古が足りているのかということにつきます。
こう言うと、よく「まあ、どれほど稽古しても足りると言うことはないのでしょうけれど・・」なんて言葉を聞きますが、私にはこれがどうしても”できないことへの言い逃れ”に思えてしまいます。
「稽古が足りているのか」というのは、「自分が理解するのに十分な稽古が行えているのか」ということであり、何となくの自分から離れた稽古量の話ではないのです。
自分の稽古への向かい方と稽古量で理解出来ないのなら、それは稽古が足りていないのです。
その、できないこと、理解出来ないやり方を繰り返していても、分かるはずがないのですが、なぜか、そこから「自分には分からない」とか「自分には向いていない」とか、「自分には能力がないから」という話に持っていきたがってしまう。なんとも奇妙な話です。
「諦めない心」、大事ですね。
 
2. Posted by 西川敦玄   2021年09月17日 01:06
大人が忘れてしまっていることかもしれませんね。
一輪車の練習であれば、子供の何倍かの時間をかけて練習すれば、大人でもできるようになる気がします。それに対して、太極拳の歩法などはどうでしょうか。できるようになる気がするでしょうか(反語(^^ゞ)。
一輪車に乗れることは、それ自体が乗れるか乗れないか、はっきりとしています。それに対し、歩法は、だれもが似た形をとって歩けます。
できている中で、できていないことを理解しないといけない。
要するに、みんなそれらしく歩くことができると言うことです。
まず、ここに、練習を妨げる要因があるのではないかと思います。
そして、二番目。できることが、どういうことか理解できないこと。一輪車に乗ることは理解できます。でも、太極拳の歩法で歩くことは、どういうことなのか理解できていますか? なにを練習するのか。
これが、分からないまま練習してできるようになるでしょうか?
このあたりが、私たちが練習できない理由ではないかと思います。
では、どう練習するのか?
太極拳がどのようなものであるのか、歩法とはどのようなものなのかということは、学習体系の中に組み込まれているはずです。
架式、站椿、歩法、套路、推手、対練etc 全てが太極拳の学習です。
我々が全く知らないこと、普通にしていてはやってないことでしょう。站椿をしていて、ボーっと立てていてはダメなのだと思います。だって、一輪車がなんなのか知らないし、当然それを使うことができないのだから。ぼーっと立てることは、知っていることで立っていることになるから。
だから、純粋な稽古していくことが必要なのだと思います。
あらためて、言葉にすることでやっていくことが見える気がします。ありがとうございました。
 
3. Posted by 平田玄琢   2021年09月17日 09:25
素直な子供達の状態を、素直な気持ちで描写されていて好感が持てる文書だと思いました。
やはり、子供達の感性は鋭く素晴らしく、私達大人の様に、『大人の事情』の下に、見ざる、言わざる、聞かざる ではありませんね。
子供の頃は神童で大人になったらただの人とよく言われます。人生の中の一体どこの時点で、自分の理想を変え、基準を緩め、本音と建前を作り、色々なものを諦め、自分の限界を作り、周りの人たちもそうだからと安堵したのでしょう。
自分は、今迄面白いと思う事をただやってきました。しかし、師父の様々な物事に深く関わり細部まで拘ったお話を拝聴し、自分など全く問題外、まだまだ可能性があるのでは、と思うようになりました。めげない子供たちを見習わなければいけませんね。
『出来るまでやる』についてですが、「君は何故できないのかな? 今すぐやりなさい、出来るまでやりなさい」と、雅楽の師匠の口癖を思い出します。やはり、「帰ってから練習してきます」というような言い訳は通用しませんでした。
雅楽の合奏の時には、笙が最初に吹く時が多く、途中でしくじり吹くのをやめた時、先生方全員から指摘を受けました。「合奏は途中で止めてはいかん」「練習を本番だと思ってやりなさい」「途中で失敗しても続けなさい」これを思い起こすと、対練の稽古に対する自分の甘さを感じます。駄目だと思うと途中で諦めてしまい、それにより、何かをつかめなくなっていると思いました。
学生の頃、詩吟と和歌や詩の授業があり(神主学校は変わった学校)与謝野鉄幹の、人を戀ふる歌を知りました。大きな声で歌い、感動したことを想い出します。『妻をめとらば才たけて、みめうるはしく情けある、友を選らばゞ書を読んで(読みて)、六分の侠気、四分の熱』18歳の頃、これこそ理想だと思った、六分の侠気・四分の熱を想い起こし、諦めない心を維持していきたいものだと思いました。
 
4. Posted by マガサス   2021年09月17日 13:40
子供達の真っ直ぐで一途な姿と、なりふり構わず夢中で取り組んでいらっしゃる継玄さんの姿がうかがえる、良いお話ですね。
四半世紀以上も前の、むかーし昔の話になりますが、教育実習で触れ合った園児達の姿がオーバーラップしました。
子供達はやりたい事も、やりたく無い事も、何においても全身全霊、直球で自分を表現してぶつけてきます。
大人の上手い言い訳なんて全く通用せずに、困ったことが何度もありました。
逆に、いつからでしょうか?
「こんなことを言ったりやったりしたら、他人からどう思われるだろう?」なんていう厄介な自意識が芽生え、「他者からの評価」を気にして自分自身をがんじがらめにしてしまうようになったのは・・・
子供の頃の純粋さが無くなってしまったのかな?
大人になるってそういう大切なことを失くしてしまうのかな?
などと色々ウダウダ考えていましたが、要するに失敗を恐れて、自分を守って、言い訳を用意して、物事に正面からぶつかっていくことを辞めただけだと気付きました。

「この生の人生は、ただ一度だけのもの
何をも恐れず、勇気を出して、自分自身の成長と情熱のために
自分の存在に忠実に生きて欲しいと心から願っています」
師父から頂いた宝物の中の一つです。
とても良い素敵なお話を伺い、お伝えしたくなりました。
ありがとうございました。
 
5. Posted by 阿部玄明   2021年09月17日 23:31
川山継玄さん
素敵な投稿頂きありがとうございます。
子供達とのやり取りをしているその情景が浮かんでくる活き活きとした文章です。思考は静的、感性は動的でありその両方を使って日々生きているのが人間です。知識をまとめて言語化するというのは左脳の機能ですし感性だけでは生きていけないものです。しかし見習うべきは子供というのは常に動き回っていて見ていて危なっかしく不安定だが感性優位で吸収が早い状態なのだと思います。それが齢を重ね知識を得て、体面を保つために処世術を張り巡らし、失敗を恐れて成功体験に依存するような大人になると思考優位になり方だの動きが鈍くなり頭の活動も体も安定して居ついたようになり物事を吸収できなくなります。よく馬鹿になれと我々が指導されるのは錆付いた我々の感性が蘇るために子供の状態に還りなさいということだと思います。感性を使い知識や体験を吸収し改めて左脳を使い言語で定義してまとめるのだと。その指導を素直に受け取れるためには自分が思考(左脳)に偏った使い方になってないか脳のバランスが今どうなっているかを自分で把握できるように絶えず訓練しておくことが大事なのだと思ってます(もちろん感性優位すぎる人は左脳を機能させることが必要になります)。バランスを知る手掛かりになる秤が常に機能するよう子供達を見習い自分を活き活きと磨いてゆきたいものです。
 
6. Posted by 松久宗玄   2021年09月18日 00:55
センスオブワンダーの息吹が伝わる良いエピソードですね。
日常の中で、感性よりも常識にとらわれがちな大人から見れば、
子供達は、今ここをライブの中で生きていて眩しいです。
師父のように純粋に遊べる感性こそ、芸事を身に付けられる境地だと思います。
私も、稽古をタスクや課題として捉えるだけではなく、
その中で遊びの感性を深めたいです。
 
7. Posted by 太郎冠者   2021年09月18日 02:01
子供が時として、大人が想像しないような行動力で物事を成していくのは、彼らが遊び心に突き動かされているからでしょうか。

「遊びが足りない」とは、よく師父にも指摘いただいた言葉ですが、本当に遊べる大人は、子供にも負けず、むしろ物事に取り組む奥深さ、楽しさを子供達に伝えていけるものではないかと思います。

とりわけ、スポーツでもなんでもプロフェッショナル・プロと呼ばれる人々は、子供との交流においても、子供以上に物事を楽しみ、それを深いところまで追求していける姿勢を示していける存在ではないかと感じます。

練習における取り組み、試行錯誤の中で、あたかも真理とも言えるものに子供達が到達していったように、我々大人も、一人のプロフェッショナルとして、物事全般に相通じる原理、法則に気づいていけるような努力をしていかなければ、と感じました。
 
8. Posted by 川島玄峰   2021年09月18日 15:08
子供達の学ぶ姿勢には、素直な受容性が備わっているように思います。
大人になるにつれ、素直さを忘れてしまい確立された自分の考えが優先され、新しい物事を素直に受け入れることが難しくなっていくように思います。
この記事を読み、子供の感覚が純粋であり、難しくとも諦めず笑顔で練習している光景が目に浮かび、感性豊かな楽しさを感じました。

私も師父のようになりたいと思い、追い求めています。
それには学ぶ受容性を持たないといけないし、自分と向き合う努力もしなければならないのですが、子供達のような素直で感性豊かで求め続けるには、楽しみを持つ情熱が大切であると思いました。
これからも初心の情熱を忘れず精進したいと思います。

継玄さん、稽古に必要な事を教えて頂きありがとうございました。
 
9. Posted by 川山継玄   2021年09月18日 17:54
円山玄花 后嗣
以前の稽古で、
『日常を稽古にしようとしていないか? 稽古が日常になるのだよ。』
と師父にご指導いただきました。
その時は、愕然としたのですが、それからずいぶん時間が経つにも関わらず、そのまま漠然と言葉でとらえたままになっておりました。
「稽古量が足りていない。」
という事実に目を背けていたために、甘い自分を許しておけたのだと、改めて省みます。
もし、稽古が日常であったならば、緩い状態(緊張⇔脱力の繰り返し)がいかにしんどいことであるか、いかに目指しているものと違うものであるかに気付き、放置しておけなかったはずです。示されたことを今一度見直し、放鬆の中で「合わせ続ける事・自分を見つめ続ける事・修正し続ける事」を丁寧にやっていきたいと思います。

今回この記事を書くにあたり、最終的にこのように文章が締めくくられるとは、自分自身思ってもみない事でした。
「最初から決まっているのです。けれども、それは相手によって決まるのです。」
と対練で言われることの意味が、どうしても分かりませんでした。けれど、今は朧気ですが、自分のエゴで人や物事は操作することはできず、純粋に自分と相対することで感じ取れるものや、関わろうとする対象は変わってくるのではないかと実感しています。
このような機会を与えて頂けたことに、心から感謝申し上げます。
 
10. Posted by ハイネケン   2021年09月19日 11:35
読ませて頂き清々しい気持ちにさせて頂きました。今の自分には出来ないことに思い悩むのではなく、果敢に取り組み、挑み続ける子供たちと継玄様との対比でもありながら、同じ事に挑戦する者同士が共有する感覚に、何も隔たりがない様な美しさを感じました。出来ない理由や、延期する理由がとてもちっぽけに感じ、難しさでさえも飲み込み押し流してしまうような好奇心と向上心に圧倒されました。子供たちのただただ純粋であろう心の有り様に比べ、ちっぽけなプライドを守るために自分を甘やかす私自身の心意気のなさは自分の心が錆びつつある様に思えてしまい、とても寂しくなりました。
間違えの無いように進もうとすると心がすくみがちになり、望んでいる姿が見えくなってしまいそうですが、指導されている時その様な心自体に投げかけられる言葉も多く、励まされている事に気付かされます。
純粋さを新鮮に捉え直す機会となりました。ありがとうございました。
 
11. Posted by 川山継玄   2021年09月19日 12:01
西川敦玄 師兄
―――ここに、練習を妨げる要因があるのではないか…
一つの事例からそれを太極拳に結び付けて、原因究明や研究に取り組む姿勢を、稽古だけでなくブログのコメント、休憩時の会話等々で示し続けて下さり、本当にありがとうございます。
「一輪車に乗れる/一輪車に乗れない」はごまかせないけれど、太極拳の歩法で「片足に立てる/立てない」は学習体系の中で学んだことを忠実に守っているかという自分へのアプローチが無いと、容易に外筋に頼り、立てた気になったり、ごまかせたりできてしまうものだなあと、改めて敦玄師兄の考察で気付くことができました。
私が陥りやすいのは、一輪車の練習を、稽古で学んだ事をスルーして太極拳にそのまま当てはめようとしてしまう事です。スルーしたほうが、物事を単純化できてしまうので、自動的に楽な方を選んできたのだと思います。そうでは無いということを肝に銘じ、太極拳という大海に身を投じ、恐怖に心身を委縮させことなく、全身全霊で泳ぎ続けたいと思います。
なかなか直接はお伝え出来ずにおりましたが、本当に親身になって入れてくださる喝で、何度も揺さぶり起こして頂いております。ありがとうございます。
敦玄師兄と共に稽古できる貴重な時間を心待ちにしております。
 
12. Posted by 清水龍玄   2021年09月19日 12:34
御自身の体験からくる記事をありがとうございました。
私も同じように思うことが沢山あります。
何事も進展しない時は、凡そ同じ状態に陥っているように思います。
そのため、これは個人の問題なのではなく、人間の持っているメカニズムの一つだと再確認できました。
これがマイナス方向のメカニズムであるなら、子供たちのアプローチは、対になったプラス方向のメカニズムのようであり、どちらも人に本来備わっている能力であると再認識できます。
そのどちらのメカニズムを選んでいるか、そしてどのメカニズムに乗っていくか、生活の中でも何度も行き当たりますが、それも稽古として、自身の状態を理解し、発展していくことのできる状態で生きていきたいと思います。
とても素敵な記事でした。
ありがとうございました。
 
13. Posted by マルコビッチ   2021年09月19日 14:41
良い経験をされたのですね。
子供達と一緒に、一輪車に取り組んでいる様子が目に浮かびます。
私は、こんな風に素直に子供達に教わりながら、チャレンジしている継玄さんが素敵だな、すごいなって思います。
その素直にチャレンジしていこうとする姿勢は見習わなければと思います。

一輪車に限らず、子供が何か初めてのことに取り組もうとする時、「楽しそう!」「面白そう!」とか、「カッコイイ!」「きれいだー!」みたいに感動する心がその事と繋がったように見える子は、諦めずに最後までやりきろうとする傾向があるかと思います。
どうしても出来ない時、少しでも出来ているところ(良い部分)を気付かせてあげるとめちゃくちゃ頑張りますよね。
大人もあまり変わらないのかもしれませんが。

音楽を聴いて、絵や映画を観て感動する・・それって素敵じゃないですか?
それで、その感動はその場で終わったっていいじゃないですか。
その感動を何かに結びつけようとか、役に立てようとかしなくても、その感動したということは継玄さんの中の一部であり続けるのですから。
それより、「この曲聴いてみようかな」「この映画、名作って言われてるけど、どんなかな」「この本、何か気になるな、読んでみよう」みたいに、楽しんでみたらいかがでしょう。子供みたいに。
 
14. Posted by マルコビッチ   2021年09月19日 14:42
今回のこの記事もとてもわかりやすくて素敵な文章だと思いました。 苦手とおっしゃる『言葉で説明すること』も、ぜったい苦手ではなくなると思いますよ。(こうでなければならないという緊張がなければ・・)(私もあまり得意ではありません・・)
今回の気づきも、師父や玄花后嗣から頂いたたくさんの言葉、ご指導いただいた多くの時間が、やはり心と身体の中に生きているゆえのことでしょうから。 

今回この記事に、とても元気をいただきました。
コメントも自分自身にも問いかけていました。
私も諦めない心を持って頑張ります。 ありがとうございました。
 
15. Posted by 川山継玄   2021年09月21日 02:11
平田玄琢 様
昨日の散手の稽古で、自分の状態と、相手にどのような影響が出ているのかが認識できず、何度も関わってはやめ、関わってはやめということを繰り返していた折、玄琢さんがコメントで書いて下さった、雅楽の先生方からの「合奏は途中で止めてはいかん」「練習を本番だと思ってやりなさい」「途中で失敗しても続けなさい」という言葉を思い出しました。
「途中でやめない。」「戦場だと思って。」「一回目に相手に効かなくても次にはこうしてみると…。」といつもご指導いただいている事そのものです。
これらの教えを玄琢さんが大切にし、生き方に貫かれているために、いつでも戦える状態でいらっしゃるのだなと思いました。

―人生の中の一体どこの時点で…
この投げかけに、私は自身の大きな課題である「時間・スピード」に対して緩みが生じ始めたころではないかと振り返りました。それが、私の場合は、子供から大人になるちょうど切り替わりの頃と合致しました。皆に平等に与えられた時間。本来変えようもないものですが、自分の都合でいかようにもごまかせる気になっていたように思います。
同じころ、「人を戀ふる歌」に感動し、理想を掲げて声高らかに歌い、今尚、「まだまだ可能性があるのでは」と日々活き活きと稽古に励まれる玄琢さん。
私も見習い、精進したいと思います。
多くの気づきを頂きました。ありがとうございます。
 
16. Posted by 川山継玄   2021年09月22日 01:09
マガサス 様
マガサスさんのコメントを読み、「今」この「瞬間」を、ご縁があって出会った人々を、そして自分を、とても愛おしく感じます。
一人一人が、まったく違う存在であり、それぞれがその瞬間ごとに選択をしてその人の生を生きているのですね。だから、比べる必要もないし、同じである必要もない。
心が、雲一つない秋空のように爽やかです。

円山師父を介して太極拳に出会い、偉大なるその原理に魅せられ、身を委ね、生涯成長し続けたいと日々修練を重ねている、全国各地・海外も含む、全くユニークな存在の門人達が、マガサスさんが伝えてくださった師父のお言葉を、胸に刻んだことと思います。
ありがとうございました。
 
17. Posted by 川山継玄   2021年09月23日 20:07
阿部玄明 様
思考優位な凝り固まった頭だと、物事には、陰陽虚実があり、それらは太極マークのように常に繊細に絶妙なバランスで循環していることを、感じ取れなくなってしまうと感じます。
純粋に受け取ることで、子供達は即座にバランスの変化を察知して考えることなく動き続けているようです。
箱の中の象を小さな穴から覗き、その見えた部分だけを「象」だと思い込んで、知った気になって満足してじっとしている自分の周りを、
「他にも穴はあるのかな⁈ 実際のこいつ(象)は一体どんなものなのだろう???」
と駆け回り、箱をよじ登り、象の形やら動きやら、箱の手触り・形・すべてを全身で観て、発見して、大いに楽しんでいる子供達の映像が脳裏に浮かびました。

―脳のバランスが今どうなっているのかを自分で把握できるように絶えず訓練しておく事
―「自分に言いきかせ続ける事。」
―「自分を躾ける事。」

玄明さんから発せられる言葉が、私にはとても新鮮です。
常にご自身が取り組んでいらっしゃることを順を追ってわかりやすくご指導下さり、更にご自身に反映されている状態までも、言葉にしてくださいます。
考え方・捉え方・取り組み方など、よく勉強させて頂きます。
ありがとうございます。
 
18. Posted by 川山継玄   2021年09月23日 20:22
松久宗玄 様
―常識にとらわれがちな大人…
その「常識」すら、人それぞれ感じ方も捉え方も違っているのだと、改めて気付きました。

自分・人・物事のそれぞれの違いを察知して、その源まで掘り下げてみる、関わってみる、そこに正解は無いのかな。と今までがんじがらめになっても手放せなかった「正解を求める事」に価値は無いのだと思いました。
「楽しい」の感じ方が合っているのかな⁈ と不安でおどおどしていた自分が、ばかばかしくなってきました。
宗玄さん、心のとげを抜いていただき、ありがとうございます。
 
19. Posted by 川山継玄   2021年09月23日 23:54
太郎冠者 様
数年前になりますが、娘たちが通うトランポリン教室の新年会でのことです。
公共運動施設の外で、持ち寄りおにぎりと手作り豚汁で新年の昼食会(当時が何と平和で、幸せだったかと振り返ります)をした後、子供達のレクリエーションがありました。確か、途中で障害物の入るレースだったかと思うのですが、その時の子供達のそれに向かう姿勢に感動しました。
全員が、そのレクリエーションに本当に真剣に取り組んでいたからです。
誰一人として「私は苦手だから。」とか、「ばからしい。」とか、「負けたらどうしよう。」とかいう姿勢を見せず、みんなが、「賞品を獲ってやる‼」とやる気満々。そして、負けると、本当に悔しがり、すぐさま次の作戦を練るのです。何より、それらを楽しそうにやっている。
全国大会や世界大会にも出場するような選手が育つそのクラブ。指導者もものすごく真剣に遊んでいました。練習ではとても厳しい(もちろん、ユーモアもふんだんに交えてくださいます)方なのですが、練習以外の時には、いつもワクワク楽しそうです。
子供達と交流するプロアスリート達も、指導は真剣(にやって楽しさが増し)、そして、遊びの場面でも真剣(にやって楽しさが更に増す)と感じます。

「遊びが足りない」とは「遊び」に本当に真剣に取組めていないということなのかな。
「遊び」と「稽古」が同等ではないと思っているということなのかな。
などと、太郎冠者さんのコメントを読んで、今までの解釈とは違った視点から見ることができました。
これからも、太郎冠者さんの鋭い視点と熱心な研究を見習って、頑張ります。
ありがとうございました。
 
20. Posted by 川山継玄   2021年09月24日 01:20
川島玄峰 様
「受容性」これは、拝師礼で、まず初めに自身の器を空にして、師の教えを全面的に受け入れます。という意志を形として表すほど大切な事なのだと思います。
毎瞬毎瞬自分を見つめ続け、そしてまっさらな状態で受け取り続けていくには、玄峰さんがおっしゃるように「楽しみを持つ情熱」を掲げていてこそですね。
「ワインに一滴でも水が入ったら、ワインではなくなる。」
と師父がよくおっしゃいました。
純粋な心で、純粋な太極拳を伝承していかなくてはいけないなと、気持ちが引き締まります。

札幌から960厠イ譴針槁道場でも、玄峰さんの太極拳への情熱、そして、玄峰さんのご指導のもと、札幌支部の皆さんが一生懸命稽古されている熱を感じています。
コロナ禍で稽古も落ち着いてできない状況の中、更に功夫を上げ続けていらっしゃる皆さんに負けないよう、精進して参ります。
一日も早く、稽古で手合わせ頂ける日が来ることを願っております。
玄峰さんの、真っすぐで情熱のこもったコメントに、背筋が伸びました。
ありがとうございます。
 
21. Posted by 川山継玄   2021年09月24日 02:57
ハイネケン 様
ハイネケンさんのコメントを拝読する度に、目の前でお話しされているのではないかと錯覚するのですが、今回のコメントも気持ちが声となって私に届いてきました(笑)。ハイネケンさんのご自身への振り返りが、私の心を代弁して下さっているように感じていたからかもしれません。

―間違えの無いように進もうとすると心がすくみがちになり
本当に、その通りだと思います。恐怖を感じた瞬間に、心にも体にも緊張が走ります。
緊張が走ったとたんに、体も思考も“一時停止”を決め込みます。一か所でも停止したならば、全体として機能しなくなります。

「怖がってる。」
と子供達に指摘されて、
「一体私は何を怖がっているの? 教えて!!」
と稽古で一向に成長が感じられず、下達しているのではという恐怖に苛まれていた私は、答えを期待して、すがり、叫びたくなるほど、情けない甘えた状態でした。
けれども、誰も教えてはくれないし、自分でそこをわからなければ、解決できないのだと、この記事を書き、コメントを頂き、コメントバックを書く中で思い至りました。

ハイネケンさんの、純粋で一生懸命な姿勢に励まされています。
ありがとうございます。
 
22. Posted by 川山継玄   2021年09月25日 13:46
清水龍玄 様
現象を冷静にとらえて、いくつかのデータを集めて、その規則性から分析していくと、龍玄さんのように、その時の感情や状態に流されたり甘えたりすることなく、メカニズムを理解し、きちんと原因が把握できるのですね。
私は、現象や結果にばかり気を取られ、その原因を冷静に観察することなく、感情に流されて右往左往するばかりだったので、根本的な修正につながらなかったのだと省みます。
稽古でも、龍玄さんはいろいろな方を観て傾向を見抜いてアドバイスをくださるので、私も一呼吸おいて冷静に自分を振り返ることができたように感じます。
これからは、自分でそれができるように、また、今まで「メカニズム」をわかろうという意識を持てなかったので、勉強の仕方を参考にさせて頂き、訓練し学びを深めたいと思います。
ありがとうございました。
23. Posted by 川山継玄   2021年09月25日 14:23
マルコビッチ 様
―こうでなければならないという緊張がなければ・・
自分で勝手に作り上げた理想や正解という箱に、我が身を縮めて入ろうとすると、ゆがみや緊張・固定などなど、不自然な形や動きになってしまうものですね。
もっと、根幹を合わせようとすればすくすく育つ大木のように、伸びやかに感じ、発想し、動けるのでは!! とコメントを拝読して、
「合わせるところが違う」
「形を合わせようとして、基が合っていない」
と常々皆さんにアドバイスいただく事が、すとんと入ってきました。

無駄なことは何一つなく、もがき苦しむ時間もまた愛おしいと思います。
ただ、時間は無限ではないので、教えて頂いたことを忠実に守って、成長の密度とスピードを上げて、心して稽古していきたいと思います。
マルコビッチさんのように、ダイナミックに・繊細に・豊かに、太極の道を歩めるよう頑張ります。
力を頂きました。
ありがとうございます。

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