2021年08月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その55

  『意識的に見ること』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 稽古をする上で、ただ漫然と数や時間をやればいいわけではない、とは常に注意されることです。
 では、意識して稽古に取り組むとは言いますが、何も知らない、味わったことのない状態で、果たして最初に何を意識したらいいのかという問題があるかと思います。

 よほどの天才でもない限り、何もないところから武術を創出するのは簡単なことではないはずです。だからこそ、我々には先人から授けて頂いてきている、代々培われた理論があり、それを学んでいくために守っていかなければいけない体系があるのだと思います。

 意識的に稽古に取り組むためには、まず何よりも自分に対して自覚的であること、認識をきちんと持っていることが必要だと思います。そして、何を意識しなければならないか、という、意識についての型や枠、つまりは規矩を身につけていかなければならないのではないか、と感じます。

 意識の型、というと表現が難しいかもしれませんが、それは、どのように自分が物事を捉えているかという、考え方につながっているのではないかと思います。

 人間は、やろうと思えば何でも出来るし、何にでもなれるような自由度を持って生まれてきているのではないかと感じます。ところがそれは、裏を返せばまっさらに何も書き込まれていない白紙のような状態で生まれてきているとも言えるわけで、そこで使われるべきペンや絵の具、はたまた書き込まれる言葉でさえも、外側の世界との関わりで一つずつ身につけていかなければいけないのではないかとも思います。

 太極拳で求められる考え方、提示されている物事は、日常の生活の中には存在し得ないものです。師父は常に我々に「考え方を変えること」と仰っていましたが、我々がこれまでの生活で養ってきたものの見方、発想方法では、太極拳で示されているものは見えてこないのだと、改めて感じさせられます。
 絶対に引っかかることのない網を広げて太極拳という獲物を捕らえようとしたところで、どれだけ頑張っても獲物が捕まえられるはずはありません。するりと網を抜けて行ってしまいます。
 では、どうしたらいいのでしょうか。


 先日の稽古の際に、玄花后嗣から「とにかく考えずに真似をすること」という指導をしていただきました。
 自分を挟まずに真似をすること。今まで生きてきて培われてきた自分という土壌がある中で、示されたものを素直に真似をするのは、我々にとって難しいこととなってしまっています。
 順番をつけられるものではないかもしれませんが、意識的に稽古に取り組むためにこそ、まずは何も挟まずに真似ができるかという点が、重要になってくるのだと思います。
 では、なぜ真似をしなければならないのでしょうか。

 太極武藝館の稽古では、多くの時間を歩き方、歩法の稽古に当てています。歩法の稽古があって対練は行わないという日はあるものの、その逆はない、というほど歩くことに重点が置かれています。
 道場に通って来ることのできる門人は、恐らく全員が物心が付く前には歩いていたと思います。乱暴な言い方ですが、人間は体の構造上、雑なやり方でも割と歩くことが出来てしまいます。
 ところが、大きくなっていざ太極拳の稽古をしようとなった時、その雑に習得してきた歩き方そのものに苦戦させられます。赤ちゃんの時、見様見真似とはいえなんとなく出来てしまった立ち方、歩き方を、大人になってからこれ程まで修正されるとは、思ってもいない事態です。
 太極武藝館に初めて入門した人は、ここまで細かく立ち方、歩き方を修正されるのかと驚くに違いありません。
 自分というまっさらな紙に書き込まれてしまった、身についている身体の使い方を、一から修正していかなければなりません。ところが、多くの場合、それらは無意識的になんとなく書き込まれてしまったもののはずです。

 ただ真似をして動いていく。
 その中で、指導者から折を見て、必要となる注意点、要訣を指導していただきます。
 そうすると、今まで無意識に行われていた自らの行為に、ふっと意識が向き、気がつくようになります。そうして初めて、
「ああ、自分はこのように勝手な体の使い方をしていたのだな」と、気づけるようになります。
 そうすると、示されていた動きが、自分の認識の変化に伴って、さらにそれまでと違ったものとして新しい面が見えてきます。そしてそれを真似をすると、また不意に気づける瞬間がやってきます。
 こういったサイクルを循環させることによって、何も挟まずに真似をすることから、自らのことに認識が向かうようになり、意識的に稽古を行うという感覚が芽生え、養われていくのではないかと思います。

 指導者による指導はもちろんのこと、我々門人同士でも、お互いの状態を見て指摘し合うという形の稽古が行われます。
 これは、他者の間違いを注意するためではなく、むしろそれを通して、自分が何を見ているのかを学習することが求められているのではないかと思います。
 同時に、稽古でどんどん成長していける人は、どのような点に着目しているのか。それを勉強させてもらえる機会でもあると自分は感じています。

 そういった形を通して、自分が何を認識し意識しているのかという点そのものに、次第に意識が向うようになっていきます。
 自分の認識のメカニズムが、だんだんと形としてあらわになってくるのです。
 人間は、自分で思っている以上に、自身の内面を構成するものが外側の影響を受けているのではないかと思います。というよりも、それがなければ、自身の内面を認識することさえも難しいのではないかと思います。
 考え方という点においても、そこに意識を向けるという訓練を行って初めて、考え方に向かい合うという概念が生じてくる、とでも言えるでしょうか。
 そういうことを言ってもらわないと、それに目を向けるのは、人間にとっては容易なことではないと思うのです。

 歩き方に関しても、日常生活を送る上で恐らくほとんどの人は、生まれてからこれまで、自分がどのように歩いているのかを認識したことはないのではないかと思います。
 それでも、足を痛めたとか、スポーツをするなど、何かの必要性に迫られた時に、初めてそれを認識するのではないかと思います。

 太極拳を完全に独学で行うのは、恐らくほぼ不可能ではないかと思う理由がそこにあります。
 物事はそこにあったとしても、何に目を向けたらいいのかわからないからです。
 太極拳は、そのシステムを理解している指導者から、何に意識を向けたらいいかという点を教えて頂いて初めて、そこに目を向けることが出来るのではないかと思います。
 それなしで全てを独力で見極めようとするのは、砂漠の中の砂粒ひとつを見つけ出すのに近い神業ではないかと思われるのです。

「考え方を変えなさい」と言われる時、そこにある意識のメカニズムにまで目を向けよ、と言われている気がしてなりません。
 師父は我々に、構造はすでにそこにある、ということを話してくださいました。ただ、誰もそれに気づいていないだけなのだ、と。
 太極拳としての構造がすでに人間の体の中に備わっているのに気づけないのだとして、では我々は稽古の際、何を教わっているのでしょうか。
 それは、意識や認識の中にも見出されるべきメカニズム、型というものではないのかと、感じます。それさえも本来そこにあるものなのかもしれませんが、先人の導きなくしては、そこに気づくことは不可能とさえ思えます。

 最初に入門して直される立ち方、歩き方。ただそれが変わるだけでなく、そこに意識的になれるかどうか。
 何に目を向けるべきか、注意したらいいかという認識の型というべきものを、我々への指導に多くの時間を割いて頂いているのではないでしょうか。

 私たちは、師父のような物の見方が出来ているでしょうか。
 師父は、どのようなときも特定の見方に固執することなく、柔軟な捉え方をするようご指導くださいました。
 こう言われたから、とか、こうしなければならないということではなく、常に機に臨んで変化に応じることこそ、疾風勁草の在り方なのではないかと思います。

                              (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その56」の掲載は、10月22日(金)の予定です

disciples at 22:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 阿部玄明   2021年08月24日 23:07
道場にいる時だけではなく日常も意識的でありなさい、普段の生活も稽古なのだとよく我々は指導されます。その意味するところは自分の認識というものは思っている以上に移ろいやすく、錯覚しやすいものだからだと思います。あえて表現すると玉ねぎのようなもの。何かを分かったつもりでいてもそのさらに深いところになにかがあることに気づくことができない。どこまで皮を剥いても玉ねぎであることには違いないが違う表情の玉ねぎが新たに発見される深さの次元があるものなのだと。そのように玉ねぎを剥き続けて立ち方、歩き方にもいろいろな次元があることが分かってくる。禅の修行で何気ない自然の風景や動物のありようから法則や摂理を見出せるよう意識訓練しているのと同じ要素があります。また認識について別の表現をすれば木々を剪定して通路や照明を整備しておかけば美しい秩序のある活きた庭園のようなもの。庭師が仕事をさぼって放っておくとすぐ日常という名の雑草が蔓延り荒れ果ててしまい街角の公園のような陳腐なものに堕ちる油断のならないものです。何気ない立つこと、歩くことにもより深くより繊細に整備されたところに秩序と法則が隠されていると思います。自分が何かを分かったと思えた瞬間こそ疑いの目をもって自分の認識を修正し続けてゆくことが修行の道であるよう思います。
 
2. Posted by 松久宗玄   2021年08月25日 00:10
太極拳の基本は立ち方と歩き方ですが、
そもそも人の動作の基本も、立つ事と歩く事が基本です。
一般的な成人であれば、それこそ何も考えず、無意識で実行できるよう、
自動化された命令系が刷り込み済みの状態であるはずです。

ロボットで二足歩行で動的に立つ、歩く事を再現する事は、
情報処理として非常に難しいと聞き及びますが、
健常者で、そこに難しさを覚える人は居ないと言えるくらいに、
自動化された命令系は勝手に仕事を代行してくれています。

それゆえに、それだけ無意識化されている命令系を、
別のフォーマットに書き換える作業は、どうしても大変になってしまうのだと思います。
そもそも自分がどうやって立ち、どうやって歩いているのかを分かっていないからです。

だから稽古で、意識的になる事、自分を見る事、観察する事、と、
認識に関わる注意が、何よりも最初に提示されているのだと思います。
その上で、型にはめていく、規矩に沿わせていく順番なのだと思います。
活きた型稽古の意味を改めて考えたいと思います。
 
3. Posted by 西川敦玄   2021年08月25日 20:53
意識と無意識と
意識とは何でしょうか。私の意識、あなたの意識、何者かの意識、はては動物の意識なども考えられるかもしれません。そうしてみると、まず意識とは個々人のものであると言えるでしょう。私たちは、その意識をもって生きていると言っても良いと思います。そうして、意識とは、氷山の一角でしかなく、意識下には膨大な無意識が眠っています。例えば五感も意識ですが、複数の部位に痛みがあるとき、不思議な事に、大体一番痛みの強い場所の痛みを訴えて他の部位の痛みを訴えない場合が多くあります。そんなとき、痛みの原因を解決すると、今まで痛みを訴えていなかった部位の痛みを訴えるようになることがあります。こんなとき、2番目以下の痛みのメカニズムは無意識の中にあったものと思われます。
また、自動車を走らせるとき、アクセルを意識して(無意識のこともありますが)踏むと、車が走ります。無意識下で起こっている自動車のメカニズムに目を向けると、エンジンのシリンダー内にガソリンと空気が噴射され圧縮爆発して上下運動が起こり、其れを機械的に変換してタイヤの回転にかえて走っていると言うことが起こっています。
太郎冠者さんの書かれているとおり、我々が無意識につちかってきたことに、問題があることも多々あり、そこに目を向けることとで、無意識で思いこんでいる間違いに目を向けることことができる。そういうことも多分にあると思います。
自動車の例を取ってみれば、自動車の走るメカニズム(正しいシステム)は無意識の中にあるとも言えるのでないかと思います。自分の思い込みを反省することだけでなく、無意識下にあり、見えなくなっている正しいシステムに目を向けるために、意識を向けてみても面白いのではないかと思います。
 
4. Posted by 川島玄峰   2021年08月25日 22:12
「考え方を変えること」とは、何も知らない状態の自分では変えようとしても自分勝手な思い込みとなり、むしろ勘違いの方向へとなる可能性がでてきます。
やはり習得のための規矩を教わらないと考えを変えるきっかけも与えられないものであると今回の記事で思いました。

稽古では、この規矩を言葉だけでなく、稽古として行われるすべての事を意識の型として教わっているのだと実感しました。そして、たくさんの仕方を考えて動きを繰り返しても、套路や対練を繰り返しても意識の型が備わらないと意識と一致した動きの理解が訪れないないのではと思いました。

今回の記事により、これからの稽古に必要な事を教えて頂きました。
ありがとうございました。
 
5. Posted by 円山玄花   2021年08月26日 00:28
意識的か、そうではないか。自覚出来るか、できないか。認識を持てるか、持てないか。。
これら二つの違いは、どの世界でも、そのままプロフェッショナルとアマチュアの違いだと言えますし、それらをやろうとしてやり方を探しても出来ることではなく、それが在り方なのだという気づきによって自分の内側から生じるものです。

先ず真似をするように指導されるのは、太極拳の考え方には到底及ばない自分のお粗末な考え方を挟むことなく指導者に合わせようとすることで、自分には考えられなかった動きやスピードを体験することができるからです。そうして初めて、それまでに教わっていた要訣や基本となる架式の意味が、やはり自分の内側から生じてきます。
ところが、ただ真似を出来る人が、本当に少なくなったと感じます。

ひたすら真似をすることを稽古していると、真似をしようと一生懸命になることさえ消えてしまうような、ある独特な感覚になることがあります。私もそれほど数多く体験したわけではありませんが、正に変容と言えるような、小麦粉を捏ねただけの食べられもしないその塊が、熱を加えられてこんがりふっくら焼き上げられたパンとして姿も中身も変わるように、自分も既にそれ以前の自分とは全く変わってしまいます。そして、パンはもう二度と小麦粉と水には戻れないのです。

先ずは自分がプロとしてこの道を究めたいのか、アマチュアとして高みを目指したいのか。
一見すればどちらも同じ方向を向いているように見えますが、実はその二つには天と地ほどの違いがあることが分かれば、自分の居る位置も再認識出来るはずです。
 
6. Posted by ハイネケン   2021年08月26日 08:24
真似をする事、よく見る事を心がけてみますが、その実私は自分が何に目を向け、何に注意しているのかまで認識せず、自分の認識のメカニズムに注意せず、無意識的に動作を何となく見ています。
意識自体は見えない存在ですが意識を真似をする様な感じでしょうか? ただ意識自体は見えないとしても指導や門人同士の指摘などを通して自他の意識の方向性や違いは感じられます。
個人ができる情報処理量は程度があり現状を繰り返しても閉塞感に溢れた状況になりますが、
自分の視点や認識に目を向け、感じる方向性を変化させていく事、自問し指導・指摘との相違を認識していく。文章するることで自分の認識も顕在化されていきます。
太郎冠者様、いつもありがとうございます。
 
7. Posted by マガサス   2021年08月26日 15:09
意識的に稽古に取り組む・・・
昨晩の稽古で、皆さんが「とても意識的に稽古に取り組んでいらっしゃる」と感じました。
数年前に拝見した姿とは違い、玄花后嗣と合っていて、これが功夫なんだと感じ良い意味でショックを受けました。
ご本人達は「え〜よく分からない」と笑っておっしゃると思いますが、玄花后嗣のご指導のもと、よく見て、よく聞いて、よく真似をして、きちんと自分と向かい合ってこられた証だと思います。
それに比べて、自分の手首さえ意識して回す事が出来なくなっている自身に、非常にショックを受けました。
稽古をしていると、必然的に自分自身の問題とぶつかります。
独りよがりになってしまい、自分では気付けない部分を指摘してもらえます。
「お前さんのは意識ではなくて、思考だ。自分自身へのフィードバックが全く無い。」と師父から指摘して頂いていたことも、どうしても違いがはっきりと分からないままだったのですが、稽古をして、太郎冠者さんの記事を読ませて頂き、皆さんのコメントを拝見する中で、進むべき方向や、自分の在り方に光が見えてきました。
ありがとうございます。
 
8. Posted by 平田玄琢   2021年08月26日 22:07
私は、先日の稽古で『考え方に変化が表れた』という勘違いの経験をしました。それは、近頃連続して、形を変えながら同じ事を教わっているのに、はっきり理解出来ていない共通のものがあるのではないかと思い、それをずっと疑問に思っていたものでした。

基本功や歩法、対練でもその動きが理解できず、似ているけどそれは全く違うものと感じていました。丁度そういった時に先輩の門人から、構造やシステムや考え方を詳しく教えていただきました。その形にはそのような意味があったのか、とか、精度を上げるには、それをやり込めば良いという、その先輩のアドバイスは的を射たと思えるものでした。
しかし、それは、まだ、どのような点に着目すべきかを教えて頂いただけのことであり、自分の認識状態に意識がいく所にはまだ遠いものとわかりました。

太郎冠者さんの理論の一部である、自分を挟まずにただ真似をする。→ 指導者や同門人からの注意点、要訣を指導される。→ 自覚し意識が向き、気が付く。→ 気が付いたことを確認し、ただ真似をする。という繰り返しの循環が必要だと痛感しました。
 
9. Posted by マルコビッチ   2021年08月26日 23:41
ここで言っている、意識的に見るというのとはちょっと違うのかもしれませんが、私たちが生まれて育って行く過程で、立ち方、歩き方、あるいは眠っている時の姿、話し方など、それらが親にそっくりということ見たことありませんか。
何故でしょう。
「子供は親のことよく見てるよねー!」なんて声も聞いたりします。
子が親を真似るとき、そこに考えるということはなく、真似をするという意識もありません。
無意識のうちにそうなってしまっている!?
無意識も意識のうちなので、それが使われるということなのでしょう。
それと、子供にとって親は生まれて初めてみる一番近い人であり、信頼できる人でもあります。
そんな、真っ新で、受け入れ、明渡せる状態であるからということもあるかもしれません。
さて大人になった私たちは、たくさんのことを見て、聞いて、体験して、外側からの影響を受けて、いろいろな色に染まっています。
そのままを受け取るとか、そのまま真似をするとかがとても難しく思います。
ただ真似をするということを必死にやってみると、瞬間でも自分の考えがない状態があります。
そして動きの違いを違和感として感じ、さらに今度は違いを意識して真似をし、その違いを認識することができます。
認識できてもそれがどこがどうなっているのか、そこからが大変ですが、いろいろなことを考えたり、いろいろな角度から動きを拝見したりしていく中で、何故か全然注目していなかったところから驚くような発見があったり、そんなことを繰り返して『合った!』と思っていても、また違いを見つけるという、何か深みにはまっていくような感覚で、でもそれが妙に楽しい。
たくさん生きてきても、分からないことは増えて、葛藤はまだ続いています。
無意識の海に溺れないようにしっかり自分を見つめていこうと思います。
 
10. Posted by 川山継玄   2021年08月27日 04:28
真似ることがうまい方は、その雰囲気や表情、息遣いまでもがそのものになりきっていて、一様に楽しそうです。
では自分はというと、真似ている気満々なのですが、全然似ていない。
以前、撮って頂いた動画を見て、愕然としました。自分の思い描いていた姿とはかけ離れており、これほどまでに違うのに、その認識が無いことに気付けていない…。自分の姿を見てからは、少し自覚ができ、示されたものとの違いが感じられ、修正がきくようになります。が、自分の傾向として、「自分が自分が」と躍起になるか、「自分は自分は」とシュンとなるか、ものの見方が自己中心的で一方通行なので、動いている中で状態を自覚して違いに気付き修正していくことを困難にしているのだと感じます。
只、先日の稽古で、玄花后嗣のご指導の下、規矩を守り体現しようとした時、今まで感じていた焦りや感情がよぎることなく、力みなく動くことができたと感じました。立つことによって練られる体の状態と、精神状態、意識の持ち方の大切さを稚拙ですが感じることができたように思います。これから、怠けることなく、その時の状態を維持しようとするのではなく、柔らかい心と体で合わせ続け歩みを進めたいです。
 
11. Posted by 清水龍玄   2021年08月27日 20:25
今回も凄いテーマですね。

本当に人は無自覚で行っていることが何と多いのかと、よく思います。
それはそれで、一つの人間の能力であり、そのおかげで、沢山の人間が、一先ず生活することが出来るのかなとも思いますが、より深く物事に関わろうとする人にとっては、意識的という事は、絶対に必要な事だと思います。
しかし、そうはいっても意識的とはどういう事なのだろうか、自分の考えの中では、なかなか答えは出てこないと思います。

太極拳の稽古を通じて、非常に浅い考えの中でただ行ってしまっていることと、教わったことをやっていく中で急に発見が生じ、それぞれが新たな発見とつながり、また、それが間違いであったとしても、何かしらの発見の中で間違いに気が付き、変わっていけるということもあります。
その時の自分の状態や物事への向かい方を観察すると、どのような方向性であれば、より学んでいけるのかが感じられるように思います。

今回も貴重な投稿をありがとうございました。
 
12. Posted by 太郎冠者   2021年09月03日 01:33
⭐︎阿部玄明さん
人間の意識に関してですが、あたかも自分という存在の主体であるかのようにさえ感じられます。
ですが、一人の人間全体から見ると、それは本当は大きな存在ではないのではないか、とさえ思わされます。

例えば、馬に乗ることを考えた時、人を乗せて動いてくれるのは馬という存在そのものです。人間ができることといえば、自分の足で歩くことではなく、手綱を取り、思った方に動いてくれるよう呼吸を合わせることだけかと思います。

人間の意識・無意識の関係も、乗馬中の人間と馬のように、思っている以上に馬(無意識)という存在無くしては成り立たないのではないかと感じます。
そう考えてみると、意識的であることの意味が、また少し違ったもののように感じられる気がします。
13. Posted by 太郎冠者   2021年09月03日 01:43
⭐︎松久宗玄さん
意識とは何か? は常につきまとう疑問ですが、企業の社長のようなものと考えると、少し辻褄が合う気もします。
会社という組織自体は、社長が手足となって働くわけではなく、組織を構成する社員が有機的に機能しているはずです。

社長の大事な仕事といえば、円滑に組織が動けるよう適切なルールを作り、指針を示す事ではないかと思います。社員一人一人の考えを支配しようとするような企業は、ロクな企業ではないと思います。

師父に指導して頂いた太極拳において意識的になること、規矩を当てはめることというのは、そう言った意味も含まれるのではないかと感じます。
言うことを聞かない社員を、怒鳴り散らして命令して監視することは社長の仕事ではないように、つまり意識的になることではないのではないかと思います。

では、規矩とは。型とは何を指し示しているのでしょうか。
もしかしたら、我々が悩んでいる以上に、シンプルなことを示されているのかもしれません。
 
14. Posted by 太郎冠者   2021年09月08日 21:58
⭐︎西川敦玄さん
以前師父がお話ししてくださったと記憶しているのですが、意識というのは、暗がりで灯される明かりのようなものだ、と。

その時に自分が感じたのが、それまで意識=自分の主体だと思っていたものが、実はそうではないのかもしれない、ということでした。玄明さんへのコメントでも書かせて頂いたので重複する内容は避けますが、元来、物事というのは自分で思っている以上に、自分とは関わりのないところで進行しているのではと感じられました。

師父は自省すること、内観することの大切さを教えてくださいましたが、そうすることで、思っている通りに物事に関われるというようなことは言ってはおられなかったかと思います。
むしろ、起きていることをただ知ること。そのことの大切さを繰り返し教えてくださったように感じます。

最近の稽古でも感じるのは、物事を思った通りに、間違った意味で「意識的に」進めようとしても何も起こらず、ただ起こることに目を向けて初めて、変容は成るのでは、という点でした。
返信になっているのかわからない、錯綜したコメントで申し訳ありません。
 
15. Posted by 太郎冠者   2021年09月08日 22:09
⭐︎川島玄峰さん
太極武藝館で教わっていることは、人間の生存に関わる非常に普遍的なものであり、意識のメカニズムに由来する極めて実践的な技術でもあるように感じられます。
それが突き詰められた形で、武術として一つの形をなしているかのように思われ、表面の闘い方などをいくら覚え取り繕っても、本質には行き当たらないように思えます。

指導していただくのが考え方の型とでも言えるような、一見すると捉え所のないものだからこそ、逆にあらゆる物事に適応でき、太極拳の原理で日々の生活を送るということさえ可能になるのではないかと思います。

そのための根本にある「型」をこそ、師父が何よりも我々に伝えてくださったことなのではないかと、日々の稽古で噛み締めております。
 
16. Posted by 太郎冠者   2021年09月08日 22:18
⭐︎円山玄花后嗣
歩法ひとつとっても満足に真似できず、ああでもないこうでもないと稽古を繰り返す日々ですが、先日、思っても見ない体験をしました。

歩法の稽古で、足の蹴りが使われない、一見するととても足が上がるとは思えない場所で足が上がっている…真似しようとしても実際には出来ておらず、それでも真似をしようとしていた折、それまでの自分とは全く違った現象を味わいました。
「足のないところで上がる」というのは、そうでないといけないという注意点ではなく、むしろそれが最大のヒントであったのではと感じるようになりました。
それによって立ち方・姿勢が最大の注意点となり、必要のない力みが自分の中でどんどん発見されていきました。それでいて、それまで以上に体は使われていきます。まさに大発見でした。

何が違ったかというと、示されていることをただ示される通りにできるという、いたって単純な違いが大きかったのだと思いました。
些細な違いでこれほどまで違ってくるというのは、凄いことであると同時に、気を引き締めなければいけない点だと感じました。
 
17. Posted by 太郎冠者   2021年09月08日 22:38
⭐︎ハイネケンさん
個人的な感覚なので的外れかもしれませんが、意識的に稽古するというのは、むしろ普段の一般的な自分達の感覚からすると、
「意識(と思えるもの)に邪魔させない稽古」という方が近いのではないかと思います。

というのも、我々が「意識」だと思っているものは、往々にして「思考」である可能性がある、という点が挙げられます。
意識的に取り組む、意識的に観ると称して働いているそれは、思考である可能性が高いです。

今回の記事でなぜ意識の型という表現を使ったかという点ですが、まず我々は師父の仰っているような意識を使うどころかそもそも持っておらず(思考などと勘違いしている)、そこから指導して頂いて、初めて意識の萌芽が養われてきているのではと思ったのがきっかけだからです。

順番としては、何も(思考を)挟まずに真似をすることで、太極拳で求められる意識の使われ方が少しずつ見出され、それまで見えなかったものが見えてくる、という感じでしょうか。
すごく乱暴な言い方をすると、普通の生活している人がいきなり意識的に何かするのはかなり難しいのではないかと思います。

だからこそ、太極武藝館では多種多様な訓練が用意されているのだと思います…。
 
18. Posted by 太郎冠者   2021年09月08日 22:49
⭐︎マガサスさん
>お前さんのは意識ではなくて、思考だ
あー、やっぱりそうですよね…。今なら師父の仰ってることの意味が以前より理解できます。

先日の稽古で大発見があったと上で書きましたが、言ってみれば、
「りんごって本当に木から落ちるんですね…!」
というような発見で、師父や玄花后嗣からすれば、
「前からそう言ってるでしょうが〜!!」
という事かもしれません。いま大汗をかいてます。

連日道場で稽古して、やったー発見だーなんて言っててもそんなもんなんですから、「違って見える」なんて言ってもそう見えるかもしれない?という程度で推して知るべしというもんです、はい。
慢心したらおしまいです。

頑張って精進していかないといけないと思います。
一緒に頑張りましょう。
 
19. Posted by 太郎冠者   2021年09月10日 11:04
⭐︎平田玄琢さん
自分を挟まずに物事を真似するメリット…というと少し安っぽい感じがしますが、そうすることで一番簡単に、自分の価値観を越えたところにあるものを体験できるのではないか、と感じます。

まだ20歳前の頃だったのですが、趣味でバンドをやっている友達について行って、小さなライブハウスに行った事があります。
自分一人ではそういうところに行ったこともなく、ギャンギャン音が鳴ってすごいなーと思いましたが、とりあえず友達の横でおんなじように体を動かしながら聴いてました。

そうすると、なんだか楽しかったのです!
曲も歌ってる人も知らないけれど、何とも言えない一体感が生じてきました。
なんだかわからないけどとりあえず楽しんで、終わってから友達に演奏してた人たちの詳細を聞いたものでした。

一歩引いて後ろで聞いていたらわからなかった体験だったかもしれません。
 
20. Posted by 太郎冠者   2021年09月10日 11:13
⭐︎マルコビッチさん
就学前くらいの子供の話し方を聞いていると、その子の親御さんがどのように話しているのか、なんとなくわかるので面白いですね。
話し方も歩き方も、それがどこまで遺伝でどこまで学習したものなのかはっきりしたことは分かりませんが、近くにいる人の影響を受けているのは間違いないかと思います。

最近のスマホは高性能なCPUとたくさんのセンサーを積んでますが、それがあるのとそれを使えるのでは違いがあるかと思います。

どれだけ本体の性能が高くても、スマホで言えば有用なアプリを入れないことには役に立ちません。
俗っぽい例えですが、無意識の大海を意識で照らすというのは、人間のまっさらで広大な能力を、そうすることで引き出せるようにしてくれているのかもしれませんね。
 
21. Posted by 太郎冠者   2021年09月10日 11:27
⭐︎川山継玄さん
真似ているつもりで実際は自身の認識と違った、というのは、それは実は意識的に真似できているのではない状態の表れかもしれません。

ひとつの定義として、自身を認識=意識的に観れるということは、「自分」を客観視出来る状態であるかと思います。
子供の成長過程を見ると、自分のことを「〇〇ちゃん」「〇〇くん」と名前で呼ぶ期間が見られます。
それは、まだ子供の中では自分を客観視できておらず、つまり自我が確立されておらず、親や周りの人から言われる自分(のようなところに位置する存在)を相対的に認識している状態だからです。
少し時間が経つと、周りから言われる〇〇ちゃんが自分を指すことを理解するようになり、次第に「わたし」「ぼく」という自身の存在を認識、確立していくようになります。
まぁ、諸説は色々ありますが…。

意識的であることと自我の確立というのは大きな関わりがあり、確固とした自我を認識できるからこそ、それを外部から観察することができます。それが、意識の働きの一つだと言えるかと思います。
その状態にあれば、真似しているつもりで、自分の姿が認識と大きく違っていた、という乖離は生じにくいのではないかと思います。
と、この辺りの話は認知心理学周辺の分野からの切り抜きになります。
 
22. Posted by 太郎冠者   2021年09月10日 11:44
⭐︎清水龍玄さん
>人は無自覚で行っていることが何と多いのか
この辺りの話に関しては、今も世界中で多くの人が研究を続けているところですが、あえてセンセーショナルな意見を取り上げてみたいかと思います。
そもそも人が生きる前提として当然のようにあると思っている「意識」や「自我」というものが、人間が文明を発展させる過程で後天的に生じたものだ、という話があります。

「そんなことないでしょ、だって意識は現にあるじゃん」と思っていることこそが、あなたが文明や文化の進歩を正しく享受して生きてきたことの証ですよ〜、なんて話です。

意識があるという前提で生きている我々にとっては、俄には受け入れ難い話ですが、人間は無意識でも喜怒哀楽などの感情はあるし、物事に反応するし日常の営みを送ることも出来るわけです。

詳しく書くととても長くなるので詳細は省きますが、この観点に立つと、太極拳の稽古で意識的に取り組む〜ということに関して、根本から自分の取り組みを疑ってかかることが出来ます。そこが最大の利点かと個人的には思います。
こうだと思っていた価値観が、ひっくり返ります。
 

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