2021年08月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その54

  『選択し続けること』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 稽古をしているとき、それまで出来なかったこと、違ったことが、わずかなきっかけで急に変わるということがあります。
 師父はよく我々に、何を選択するかが大切だ、というお話をしてくださいます。

「山頂に至るのに、一歩ずつ歩いていく必要はない。・・ヘリコプターでパッと山頂に降り立ってしまえばいい」

 ・・千里の道も一歩から。武術という山の頂に到達するには、長く険しい道を一歩一歩進んで行くしかない。そのために、先人の教えを守り、彼らの示した道順に従い歩んでいくのだ・・・。

 そう、常識的に考えがちな我々の頭に、上にあげた師父の言葉はどのように響いたことでしょうか。

 特に我々日本人には、結果が出るまで粛々と努力し続けることが美徳という価値観があるかと思います。そして、たとえ結果が伴わなくても、そこに至るまでの過程が、努力し続けてきたことが美しいのだと、自分に言い聞かせるような文化があります。
 そういった面は確かに良い部分もあるかもしれませんが、言語が違えば文化圏、考え方まで異なっている他国から入ってきた武術を練習する際に、そのような美徳だけで正しく習得できるかというと、少し疑問が挟まります。
 武術とは生死を賭けた瀬戸際で生きる術であり、そこで結果を伴わない綺麗事だけを行っていては、本来必要な技術・精神は見出せないのではないかとも思われます。

 頭が堅くても本当のことはわからない、ともよく言われます。
 ヘリコプターで山頂に至る、という例え通り、もし先人たちが指し示している道が、ヘリで空中を通るルートまで含んでいるのだとしたら、我々が固定観念に囚われて躍起になって足元を探し続けたところで、永遠に道は見つからないということになってしまいます。

 師父はよく、月を指し示す指を稽古に例えてくださり、指ではなく月を見なくてはならないと仰ってくださいます。
 月へ至る道を探すのに、足元を探す愚か者がどれだけいるでしょうか。
 我々が何かを発見できないと嘆いているとき、月がある空のその先ではなく、自らの足元をじっと眺めるという愚を犯していないかを、改めて見直すべきではないかと思いました。

 この話は、単なる例え話ではなくて、実際的な技法にまで繋がっているのでは、とも感じます。
 相手を倒す時、高度な技術を追求する人間でも、どうしても自分と相手との関係性だけに着眼してしまうのではないでしょうか。
 相手がどのようにあって、自分がどうであるか。相手がどのように向かってきて、自分がどのように動くか。
 しかし、本当に見なければいけないのは、その点だけなのでしょうか。
 地に足をつけ、自分で歩くことだけが道の追求だと、そう思い込んでいる自身の姿がそこに重なります。姿形もなく空中に指し示された道までも、我々は捉えなくてはならないのではないか、という考えがよぎります。

 以前より動画で公開されているように、師父は壁際で行うような対練も我々に示してくださいます。
 なぜ壁際なのでしょうか。壁際に追い込まれた時にどのようにエスケープするかという練習を、状況を設定して行っているのでしょうか。
 私たちは、そのような単純な稽古を教えられたことは一度もありません。
 自分自身、壁際で動きにくくなった状態で動くことで何か発見する、といったような浅い理解で稽古をしていました。ですがあるとき、「もっと壁を使う」という師父の言葉が、実感として理解されたように感じたのです。
 言われた時にはわからなかった意味が、自身の感覚と結びつき、それに相手の崩れ方が重なった瞬間が訪れたのです。

 そこにずっとあったはずの壁に、我々は心身ともに、知らない間に影響を受けていました。ですが、そのことの意味をずっとわからないまま、ただ漫然と対練を繰り返していたかのようでした。
 そこにあるものに改めて気づき、それとの関係性まで含めて、自分と相手を認識しなければならないのだと、感じさせられたのです。

 そこにあって見えているはずのものが見えない。
 しかし、それがあると認識できるようになる感覚は、そこにはないはずの、例えば空を行く道のことも、はっきりと道と認識できるような感覚と、共通するものがあるのではないかと思います。

 人の意思は自由で、何者にも囚われていないはずです。
 ですが、我々が自由だと思っている以上に、そこにあるはずのものに影響を受け、制限されているのではないかと感じます。
 そのことに意識的に気づけると、それらをどうするかを、選択することができるのではないかと思います。
 そこに石があることに気づけば、それを避けることもできるし、座って一休みすることもできます。敵がそれに気づいてなければ、そこに足をかけて転がすこともできるかもしれません。

 意識的で気づいていること、自覚的であること。その上で、どのようにするかを意思で選択していけること。そのことの大切さを、我々は教わっているのではないかと思います。
 そして、その選択したことは、一度決めたことだからそれでよし、未来永劫続くというものではなくて、その都度その都度、瞬間瞬間に選択し続けなければ、すぐに変わっていってしまうのではないかとも感じられます。

 冒頭の話に戻ると、確かにヘリでパッと山頂に至ることは、歩くよりもすごく早いです。
 ですが、そこに至ったらそれで終わりではなく、さらなる別の頂に登るか、そこから山を下るか、その瞬間に選択肢はもう生じているのではないかと思います。
 山頂に来たからゴールだと、何もせずに保留していては、あっという間に山から転がり落ちてしまいます。
 ヘリコプターが空中でホバリングし続けるためには、実は空を飛び続けるのと同じだけの仕事をし続けなくてはいけません。
 あらゆるスポーツのプロ選手なども、一度覚えた技法を毎日毎日練習し続けます。そうしないと、それが出来なくなってしまうと知っているからです。
 そして興味深い事に、彼らが毎日練習し続けるのは、そのスポーツにおける最高難度の動きではなく、最も基礎的な動きなのだそうです。

 スポーツと武術という違いはありますが、我々も、基礎・基本を最も大事なものとして、指導していただいています。
 そしてそれをこそ、常に見つめ直し、磨いていかないといけません。
 この共通点は、決して偶然ではないはずです。

 何かを決意し、一度選択することは簡単なことです。
 本当に難しいのは、それを選択し続けることではないかと思います。

 我々が成し遂げなければならないのは、太極拳をただ理解するのみならず、理解したものを研鑽し続けることではないかと思います。
 そこへ至る道を、示されているものと、また、これとは明示されずに現されているものをも、感受性を最大限に開いて、見ていかなければならないのだと思います。


                             (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その55」の掲載は、8月22日(日)の予定です

disciples at 13:30コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2021年08月01日 23:58
理解すること! しかしそれはそう簡単には起こってくれません。
何故でしょう。
太郎冠者さんが仰る通り、私たちはいろいろな事に影響を受け制限されているのだと、私も感じています。
いわゆる常識というもので頭がカチカチになってしまっている状態で、ただ歩き続けていても何か発見することは難しいでしょう
頭を柔軟に世界を広げていけば、選択肢も増えますし、その上で基本をしっかりと行い、科学的な目で紐解いていくのも必要なのではと思います。
そんな中でのわずかなきっかけはきっと大きな変化に繋がるのだろうと思います。
師父の柔軟な考え方には本当に驚かされます。
自分の考えはどこからきているのかを意識し、また自分とは違う考え方の人の話を聞いたり、いろいろな分野の本を読むなどして、新しい世界を広げていきたいと思います。
 
2. Posted by 西川敦玄   2021年08月02日 17:56
選択し続けること。
われわれは、能動的に選択していることは非常に少ないと思います。
山を登る譬えにしても、歩いていることと、ヘリコプターで頭頂する選択の譬えがありました。
この対照のなかの、より通俗的一般的な方法としての「歩くこと」
この、山を歩いて登ることの中に「選択」は含まれているでしょうか。
勿論歩くことを選択だと言うことなのでしょう。
実際には山を歩いてのぼるにも、登坂ルートの検討と選択が必要になるでしょう。
自分の中に歩いて登ることのなか(普段の稽古)に、このような能動的な選択は含まれているのか改めて自分に問い直してみると、
その話を聞いたときには、少なくとも私の中には明確には含まれていませんでした。
だから、捉えられなかったのかもしれません。
登坂ルートに想像外の選択肢があることの驚きを。
自分が山を登るために必死に考えているルートとは次元の異なる、方法があることを。
私の登山(稽古)においての、選択工夫の範囲を実感できたかもしれません。
今、この記事を読んで改めて自分の認識がいかに茫洋としているかに気付きます。
茫洋とした意識のなかで、選択しているつもりでは、たとえ他の選択肢を提示されても、
能動的な選択と実行には繋がらないと思います。
改めて、考えさせられました。
 
3. Posted by マガサス   2021年08月03日 17:34
私は、師父に『「こうすれば出来る」「こうすれば分かる」と提示してあげているのに、何故オマエは、「出来ないこと」「分からないこと」をワザワザ選択するのか?』と、常々指摘されていました。
『人は如何なる時でも「自分の選択」で物事を決めて、思考や行動をしている
「出来ない」「分からない」は全部自分の選択のせいなのに、それを認めようとしていない
そのことをきちんと認めて、そのことに責任を持たないと、人生を台無しにしてしまうよ』

今になって、やっと、その言葉が重く心に響いてきます。
毎瞬の選択の積み重ねが、今の自分になっているんだと実感しました。

自分が何を選択したがっているのか、沢山の教えと照らし合わせながら、味わい続けたいと思います。
 
4. Posted by 円山玄花   2021年08月03日 17:50
>山頂に来たからゴールだと、何もせずに保留していては、
>あっという間に山から転がり落ちてしまいます

本当に、人生には「保留」もなければ「一時停止」も無く、「一休み」も無く、まるで火の灯された1本のロウソクのように思えます。
そういえば、師父は、人生は砂時計のようだと仰っていました。

その、止められない動きの中で、何かを選択したり、選択しないという選択をしたり。
人は誰でも自分の判断で全てを選択して生きているので、大事なことは瞬間瞬間の判断選択をしている自分自身を観ることが出来ているか、意識的に判断出来ているかどうかであるはずです。
そして意識的に判断している人は、その修正がもの凄く早く、結果としてより良くなる方向への伸び率がどんどん上がります。
選択することを目標にしていると、選択したら終わります。
選択することの目的が明確であるなら、それは選択し続けられることになります。

太極拳の練功でも同じ事で、指摘されていることや、まだ出来ていない基本功が ”できるようになること” に目的が置かれると、これには永遠に答えが出てこず、出来ないままです。
何のために基本功があるのか、その意味を本当に理解した人しか、研鑽の道は開かれていないのだと思います。
 
5. Posted by 川島玄峰   2021年08月03日 22:56
色々な影響を受けている日常生活では、固定化観念の枠へとはまり、それに気づかずに過ごしてしまっていると思います。
しかし稽古により、自分の行動が見直され、捉えや考え方、動きの甘さなど、日常ではできない固定観念の脱却のきっかけをいつも示して頂いていると思います。
脱却が進むことで、真似ることができ、学べる受容も備わり、そして選択できる心身が構築されるのではと考えます。

以前本部道場で、師父より「落ちる(諦める)のは簡単だから」という言葉が衝撃でした。それからはいつも間違った選択をしないように私を導いて頂ける言葉となっています。

これからも、示されている基本を研鑽し、良い選択ができるように改めて精進しなければと思います。
 
6. Posted by 阿部 玄明   2021年08月03日 23:35
太郎冠者様、ブログ投稿ありがとうございます。

選択することは行動もそうですが視点の持ち方も含まれているように思えます。頂上を目指しているのに足元しか見てないと道を間違えますし、頂上ばかり見ていても躓く。絶えず視点を変え続ける態度を選択することが大事。日常のなかでの視点の持ち方はどうなのかを問うことにも繋がると。

・・・・たとえ結果が伴わなくても、そこに至るまでの過程が、努力し続けてきたことが美しいのだと、自分に言い聞かせるような文化があります。

これだと外面的な行為を続けている努力はあるのだけど(自分にとってつらい選択かもしれない)正しい選択をするという内面的な努力は無いので半分足りてない状態かもしれません。頑張っている自分の姿を評価できても結果が伴わない選択をしている自分に目を瞑ることを正当化してしまう。視点を上から下まで過去現在未来まで自在に変えながら目標とする頂上も自分の取り組みも含めて俯瞰するスケール感こそが師父のお言葉の意味することかととらえてます。 
 
7. Posted by 松久宗玄   2021年08月04日 00:06
選択し、決意した事、この道を歩いていくと誓った事、
を続けていく事は根性の問題ですが、
瞬間瞬間に気付いて、選択し続けていける事は、
危機意識と感受性の問題かと思われます。

足元しか見ずに根性で山登りを続けて、道に迷う事は当然の事で、命に関わるから、
地図を確認し、ナビゲーションしながら慎重に行動する事も当然の事です。

しかしながら、日々の武術の稽古において、
山登りと同じレベルで危機意識が働いているか、自らを省みても疑問です。
そもそもの武術の本来の目的とも大きく乖離しています。

現代の日本社会において、武術の必然性が限定的である事は確かですが、
同じ様に、地図を確認し、ナビゲーションしながら慎重に行動を選択する事は、
意識的に可能である筈です。

視点を変えて自分を見て、省みる為に、喩えは非常に有効だと思います。
いつも鋭い洞察を示して頂きありがとうございます。
 
8. Posted by 平田玄琢   2021年08月05日 01:43
私は、対練の時、「見えたまま感じたままを、そのまま行えば同じように出来るようになる。」と指導され、やってみたが、まるで出来なかった事がよくありました。私は、似て非なるものだなと思っていましたが、指導する側は、似ても似つかぬものと思われたことでしょう。

見えているものをそのまま行なえるようになるには、まず、それが見えるようになること。それには、基礎・基本の精度を高めること。それでないと出来ないと気付いてから、道場の基礎訓練は、その精度を高めるために様々な方面からのアプローチで説かれているものと思っていました。

しかし、私がアプローチと思っていたもの、すなわち、示されていた方法の全てが、基本の精度を高め応用するために必要な事であった。と、最近やっとわかってきました。

私が行っていた試行錯誤の稽古は大変時間がかかるため、これからの稽古は、瞬間瞬間を選択し続ける稽古に改めようと思いました。
 
9. Posted by 川山継玄   2021年08月06日 00:17
一心不乱に、結果を出していく。
いろんなことに触れ、やってみて、感じ、自分を解放してみる。
実際にやってできなかった自分に直面することを怖がらず、実際にやってみてどうなるかを自分で見つめて、師父の示して下さっていることとどう違うのかをリアルタイムで感じ続け、修正し続けたい。

太郎冠者さんの記事、皆さんのコメントを拝読し、自分の怠惰さと臆病さを大いに反省し、気を引き締めました。
言葉だけで終わらないよう、精進したいと思います。
 
10. Posted by ハイネケン   2021年08月06日 00:34
太郎冠者様
いつも新しい視点を投げかけていただきありがとうございます。
「選択し続ける」という事が「今なされている選択」から「次の選択」へと変化していく事であれば、何をきっかけに選択を変化を迫られるのか自問してみました。「今なされている選択」が「状況」の変化に伴いミスマッチになる。本来はその前に選択したいし、遅くとも変化に合わせたい。
自ら壁にぶつかっている自覚がありながら、その理解度が浅い時は稽古で得られる感覚が足りず自らの壁にぶつかっているのか?外形を含めた理解が足りず稽古の方向性を間違えているのか?
現状では何かの壁や違和感に当たらなければ自分の選択の間違いを修正して行くことが出来ない。
ただこの様な考えですと「空を行く道」はしばらく見えてこない気もします。
もうしばらく太郎冠者様の文と自分の稽古を見直す必要を感じます。
 
11. Posted by 清水龍玄   2021年08月06日 20:23
どれだけたくさんの事を習っても、反復練習のようになってしまい、全く理解や発見にはつながらないという事が、多々ありました。
そのような時には、気が付けない、要するに意識的ではない状態であり、その中では、実際には沢山ある選択の場面をシャットアウトし、非常に乏しい考えの中で行動しているように思います。
今の私は、変化の無いことを一番恐れることだと考えています。
そうすると、同じことを見ても行っても、そこには沢山の、それまでは見えなかったものが出てきました。
それだけ、選択すべきものが増えた、というよりも、本来存在している選択すべき事や選択している自分に気が付くことが出来たという事だと思います。
 
太極拳の稽古に於いては、この見えること、気が付くことが出来ることが絶対に必要であると私は考えています。
太極拳の稽古に身を置き続ける中で、その必要性のため、より、意識的に目覚め、他者や物事、そして自分自身にもより大切に関わることができ、成長に繋がるのではないかと、今は思っています。
 
12. Posted by 太郎冠者   2021年08月14日 16:31
⭐︎マルコビッチさん
師父のような方とお話をさせていただくと、しっかりした考えを持っている人ほど、いざ自分の考えにない選択・判断に迫られた時、柔軟な発想で決断をしていけるのではないか、と感じさせられます。

太極拳の稽古に限らず、生きているうちに出会う世の中の様々な問題に対して、自分の見方がはっきりしていない人間ほど、感情的に自分の考えに固執し、排他的になるのではないか、と思います。
であれば、自分が決断を下す時、どのような状態に陥っているのか。それをしっかりと自覚することが、やはり一番大事なのかと思います。

視野を広げていけるような生き方で、物事に臨みたいですね。
 
13. Posted by 太郎冠者   2021年08月14日 16:48
⭐︎西川敦玄さん
以前、何かの折で師父とお話しさせていただいた時、あるアドバイスをいただいたことがあります。
自分がまだ20代の頃でしたが、日々の生活でも稽古でもわからないことばかり、と弱音を吐いた時、師父が、
「私も若い頃はそうだったよ。けどある時、生活でも稽古をしていても、これで大丈夫だと感じるようになった。そうしたら不思議と、物事がついてくるようになった」
というようなことを言ってくださいました。

普通だと、これがあって、あれがあるからこれは大丈夫、という順番で問題を解決していくかと思います。ところが、師父がお話ししてくださったのは全く逆で、まず、解決することを選ぶ。
そうすると、そのための方法が見えてくる、ということでした。

その時は漠然としかわからなかったのですが、今にして思えば、それが選択することの大切さであり、そしてその力を示してくださったのではないかと、そう感じています。
 
14. Posted by 太郎冠者   2021年08月14日 16:55
⭐︎マガサスさん
師父にはいろいろな形で、具体的に問題を解決するための手順といったことも指導していただきました。

ところが、実際に考えてみると、その問題を解決しようという選択に至るのか、そこが最初の問題だと改めて感じるようになりました。
これは稽古に限らずですが、「そのままでも十分」だと思ってしまっていることは、変な話解決しようとする選択がないわけで、問題は放置されたままです。
ですが、問題は問題なので、いずれどこかで表面化してきます。
そしてそうなった時、人は初めて困ってしまい「こんなはずではなかった」と後悔するようになっているのではないかと思います。

おっしゃる通り、自分の人生に責任を持って、まず自覚的であること。そこが問題を解決する要なのではないかと、改めて思います。
 
15. Posted by 太郎冠者   2021年08月14日 17:05
⭐︎円山玄花后嗣
稽古に臨むとき、自分の問題を明確にしはっきりとこれを理解するぞと思う時、もしくは、見えていないものをはっきりとさせると決めていく時。
そういう時には、理解できる内容が2段も3段も違ってくるのだと、最近の稽古で自覚できました。

それは言ってしまえば何も難しいことではなくて、「今日理解できることを理解する」という選択をして臨んでいただけ、とも言えるかと思います。
それだけで大きな効果があるのだからこそ、師父はこのことを教えてくださったのだと思いますし、やらない理由はないと思います。

ただ、その選択をすることを選択するのは、外部からどれだけ言われてもダメで、やはり自分自身で気づいて、意識的に決断していかなければいけないのだと思いました。

16. Posted by 太郎冠者   2021年08月16日 11:18
⭐︎川島玄峰さん
道場の稽古においては、例えば同じ言葉を聞き、それを同じように使っていても、果たして本当に太極拳として正しい意味に捉えられているのだろうか?
と、常に自問自答することが必要とされているように感じます。

自分自身、日常生活で培われた一般的な感覚、ましてやそこで通じる意味として捉えたまま稽古に臨むと、何も理解できないという痛い目を、何度も味わっております。

「もういいや」とそれで諦めてしまうのは簡単なのかもしれません。しかし誰に強制されたではなく、自らの意思で取り組もうと思い、太極拳を始めたのですから、正々堂々と向かい合っていきたいと思っています。
 
17. Posted by 太郎冠者   2021年08月16日 11:24
⭐︎阿部玄明さん
師父は常々、「月を差す指を目指していてはわからない」と仰ってくださいますが、本当にその通りなのだと思います。

学習すること=学校教育のあり方という考え方が多く支配している頭では、短期的な結果を出すことに主眼を置いてしまい、なぜその勉強をするのかという長期的な目標が見出しにくくなってしまうように思います。

では果たして、学習とはそのようなちっぽけなものなのか。そのやり方で太極拳、人の生きる道など理解できるのだろうか、と師父は我々に問いかけ続けてくださっているように思います。
他者との優劣を競うのではなく、本当に戦うべきは自分自身なのだと痛感します。
 
18. Posted by 太郎冠者   2021年08月16日 11:34
⭐︎松久宗玄さん
バイクで夜の峠道を走ることがたまにあるのですが、たったそれだけでも、普段とは違う危機感を抱きます。
街灯はなくヘッドライトの範囲から先は暗闇、路面も昼間の雨で濡れ、凹凸もあれば落ち葉で滑りやすくなっている場所もあります。カーブで、油断して曲がれば即座に転倒、ガードレールが無い場所だったら崖下まで転がり落ちてしまうかもしれません。

その時に抱いているような危険意識、そのように稽古できているだろうかと、自分でも反省することがあります。
本来戦いの場においては、それよりももっと直接的な危険が目の前に迫っているはずで、それを抜きにして、太極拳の理が〜という話をしても、理解など起きるはずがないですよね。

だから師父は、我々に「甘い」と、言ってくださるのだと思います。
 
19. Posted by 太郎冠者   2021年08月16日 11:55
⭐︎平田玄琢さん
物事が見えるかという点に関しては、自分も物凄く悩まされてきております。
個人的な感想ですが、見たまま行えない時というのは、それ以前にやったことのある内容が頭に残っており、無意識にそれを踏襲しようとした上で真似していて、結果全く違うものになっていたかなと思います。

得てして、示されているものは本当はもっとシンプルなものであったように感じます。複雑なものの方が優れていてありがたい、とどこかで思いやすいのも人間の性なのかもしれず、真実は果たしてそうなのか、と首を傾げるものです。
しかし、シンプルなものほど、シンプルさ故に精度が求められ、ひどく難しい。結果、正しいものとは違った複雑さで、その精度の低さを誤魔化そうとするということが起きるように思います。
複雑にするよりシンプルにしていく方が、難しいですね。
 
20. Posted by 太郎冠者   2021年08月16日 12:12
⭐︎川山継玄さん
言い方は良くないかもしれませんが、自分ではなくて、人間のちっぽけさを知ると、それだけでかなり気が楽になります。
人間はすごいこともしてきていますが、同時に、大したものではないという面も持っています。

特に、思った以上に個人で出来る事は大したことはなく、自分の力だと思っている以上に、他所から借りてきたり教わった事で培われたことは多いものです。

そういう面を知ると、「自分で」と躍起になっていた自分を手放すことが楽になり、そうして見えてきた大きな力、流れに乗るのが非常に楽になった、というような気が自分ではしています。
乱暴な表現になってしまいましたが・・・師父の仰っている手放すことにつながるところがあるのではないかとも感じます。
 
21. Posted by 太郎冠者   2021年08月16日 12:27
⭐︎ハイネケンさん
師父から教えていただくことは、かなり実際的で、現実的かつ実用的なことばかりだと思います。

今回の記事も「選択の魔法」とでも書きたいくらいに実用的で、即座に効果があることだと思います。
目の前の壁があると、確かに間違いだと認識するのは簡単になります。問題は、その壁というものが、本来は必要ない壁だという点です。
壁を超えた先に正しい理解があるわけではなく、正しい理解へ向かっていれば、本当は壁は無いわけですよね。
だとしたら選択すべきは、「壁をどのように超えるか」ではなくて、壁が無い「正しい理解の方向はどちらか」を知るということです。
さらに言えば、「理解へと至る」ことこそが、考えうる一番正しい選択と言えるかと思います。

選択すること、選択し続けることという概念は、本来存在しない「壁を越える努力」を丸ごと回避し、正しい行程にエネルギーを注ぐ機会を与えてくれます。

どちらの行程が理想的かは、考えるまでもないかと思います。
 
22. Posted by 太郎冠者   2021年08月16日 12:41
⭐︎清水龍玄さん
人生の大きな決断から、日々の些細なことまで、意識的に決めて生きているという認識が自分にあるかどうか。
それがあるかどうかで、人生を自分の責任で、意識的に生きていけるかどうかが決まるように思います。

選択肢は無数にあるようでいて、多くの物事にただ流され、知らない間になんとなく決めてきてしまい、それを誰か他所のせいにして生きていく。それほど人間として悲しい生き方はないと思います。
そのような生き方では、太極拳など分かるはずがない、と師父は仰ってくださっているかと思います。

太極拳の修行者として恥ずかしくないように、意識的に生きていきたいと思います。
 

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ