2021年03月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その53

 『味噌の味噌臭きは上味噌にあらず』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず…」

 以前稽古中に、師父が我々に言ってくださったことわざです。その時には、細かい意味の説明などはなかったと思うので、発言の真意は個々人がそれぞれで味わってみよ、ということだったのだと思います。

 味噌を武術に置き換えて考えてみると、武術然とした武術は高級武術にあらず、といったところでしょうか。

 これは、最近師父に指導していただいている、「太極拳みたいな動きをしない」ということと通じる部分があるのではないかと思います。
 我々が基本功や歩法、対練をしている時、いかにも武術らしい動き…力強く、居付きや蹴りを使った素早い動きが出てきてしまいます。師父の動きを比較させていただくと、それはまるで舞でも舞っているかのように軽やかで、むしろ一見すると武術らしくない動きと見えなくもありません。

 我々は、そもそも武術の本当の動きを理解できておらず、それでいて自分の中にある武術観を完全には捨て去ることができず、大なり小なりそれを引きずったまま稽古に臨んでしまっているように思います。
 それを捨て去れることこそが、真に上達していける道なのではないかと思うのですが、言うは易しで、それを行動に移すのは難しいものがあります。

 ことわざの通り、味噌臭い味噌は食べられたものではありません。それなのになぜ、その味噌臭さを我々は武術性だと信じて疑わないのでしょうか。


 先日、師父が非常に興味深い話をしてくださいました。
 ところで、師父のお話はいつも一見関係なさそうなところから始まり、それが順を追って進んでいくと、最終的に明確な答えに辿り着きます…。
 師父のお話を聞いていると、とても短い時間の中に、明確な一本の筋道が見えて、そして最後の結論に至った時の爽快感は、まるで質の良いミステリ小説を読んだ時の気持ちになります。考えてみればそのように繋がってくるのに、最後に至るまでそういう発想は出来ず、そう来たか!とつい膝を打つような気分になります。

 さて、先日お話ししてくださったのは、「武術には狩猟のセンスが必要である」と言うものです。
 人類の発展の歴史を紐解き、狩猟の時代から個人の貯蔵が始まり、そこから争いが始まったと言う話をしていただきました。誰かが自分より多くのものを持っているから、それを欲する心が起こり、そこから争いが生じる。奪う側も、奪われないように守る側も、戦いの手段が必要になり、そこで狩りのセンスが必要とされると繋がっていきました。
 また、個人の所有という概念が生まれ、誰かとの比較で優劣を生じさせるようになり、そこからそれまでにないもの、俗っぽさが生じるというのは、非常に示唆的な話だと思いました。
 
 俗っぽさ、世俗的な思考に満ちた頭では、到底太極拳をとることはできない。

 師父ははっきりとこのように仰います。
 というのも、俗に塗れた中では、天才のセンスは生じず、生じたとしても世間から抹殺されてしまうもの、だとおっしゃいます。
 武術で必要な感性、閃き、センスは俗世で生きる中では必要とされず、埋もれてしまうのかもしれません。
 人類が狩猟の時代から貯蔵・農耕の時代へと変遷していく中で、それまでにはなかった他者との関わり方、社会性が生じてきたと想像できます。社会性で必要とされることは、狩猟の時代に母なる大地との関わりで必要とされてきたこととは、大分異なっていたのではないかと思います。

 「狩りのセンス」が必要という話をされた時、自分の頭には、受容性というワードが浮かんできて、それとつながりました。
 人間が生きていくために狩猟を行う時、獲物=恵みを与えてくれるのは、いつだって自分以外の自然、大いなる他者であったはずです。
 そして、その母なる自然が分け与えてくれるものを頂く=受容性という感性が今の人間よりも強かったのではないかと思います。

 狩猟では、どれだけ個人で足掻いても、自然から与えられるもの以上のものを得ることはできないはずです。かといって、何もせずに待っているだけでは、ただ飢えて命を落とすだけです。
 獲物を得られても、必要なだけの量で終えなければ生態系のバランスは崩れ、最後には自分たちも生きていけなくなります。
 そこでは、積極的あるいは能動的な受容性とでもいうものが必要とされていたのではないかと思います。

 現代でも、狩猟採集社会を営んでいる文化をみると、必ず自然に感謝を捧げる儀式が執り行われています。それは自然からいただいたものへの感謝であり、それが人間にとっての、芸術の始まりなのだと思うと示唆的なものがあるように感じます。
 最近も、人類最古の壁画が発見されたと話題になりましたが、それらは不思議と、人間と動物が描かれたものが多いのです。これは偶然なのでしょうか。

 太極拳を稽古することと照らし合わせてみると、どうなるでしょうか。
 自分でこうだと思い込んだことをやるのではなく、示されたことをきちんと受け取る。
 そして、ただ教えてもらうのを待つだけでなく、積極的に自分から取りにいくこと。

 それはあたかも、狩猟において生きるために獲物を持ち帰ることと、共通しているのではないかと思うのです。

 また師父は、老子の『道(タオ)』の思想も例に挙げて我々に話してくださいました。
 人間はここに存在としてあること。今、ここに生きていること。

 その時の自分には、それもまた、狩猟の話と関わったものとして響いてきました。
 獲物を狩るとき、明日の、明後日の生活はどうなるだろうと未来に心配を馳せたりはしないはずです。ただ、目の前にあるものと関わり、そうして獲物を追っていくことしか頭にないはずです。
 先の心配はしても仕方なく、与えられるものは母なる自然から与えられる。
 偶然か必然か、『道』の考え方に当てはまるように感じられます。

 老子は、確かに人の関わりの中で生じる社会性という面からみると、それらの決まり事を根底から破ってしまうような厄介者に感じますが、もっとプリミティブ・原始的で素朴な人間の営みという面から見れば、決して破綻しているわけではなく、むしろ自然の本質に迫るものではないかと感じられるから不思議です。

 また師父は、老子と同様に人々に生き方を説いたキリストの話も例に挙げてくださいました。

 1日の終わり、捕らえた魚を持って帰ろうとする男に、キリストが声を掛けたそうです。

 師父は、「その男はどうするだろうか」と我々に問い掛けます。 
 魚が痛むからと、そそくさと帰ってしまうでしょうか。
 もしくは、話を聞くものの「また後日」と去ってしまうのでしょうか。

 それとも、獲った魚や他の全部を捨てて導きに従い、キリストについていくでしょうか。

 そして、その行いは、社会的に見て正しくない、と非難されるべきなのでしょうか。 

 社会性=俗っぽい目で見てしまうと、本来そこに見出せるはずの自然的な営み、原理が見えなくなってしまうのではないかと思います。
 それはまさに、自分の考えを盲信して稽古を繰り返し、本当に示されているものが見えない我々の姿そのものを指し示しているのではないかと思います。

 味噌臭い味噌は、食べられたものではありません。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その54」の掲載は、5月22日(土)の予定です

disciples at 22:00コメント(20)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2021年03月25日 22:49
師父が、君達だと知識や道具があっても、無人島に独りで生き残れないよ。
と仰った事が思い起こされます。

かつての自分は、人間は社会的な生物だから、現環境で社会性も含めて生き残る事を模索する事がより現実的で、サバイバリストのように日常の延長ではありえない状況にまで備える事はナンセンスなのでは?
とぼんやり考えていました。

今から思うと、その考え方自体が俗と言われる発想なのだと分かります。

自然の恵みや厳しさの中で、生きる事に必死にならないと生きていけない状況では、外部に対してはひたすら自然に従うしかなく、内部に対しては野生の閃きに従うしかなく、受容性とセンスこそが生き残る本質的な鍵になる・・・それこそが武術性であり、太極拳の理解に繋がるのだという事は、遅まきながらようやく腹に落ちてきました。

自分が世界の中心ではなく、大自然の極一部であり、今ここを懸命に生きる事を延長せずに全うする事でしか、道を歩いていく事には至らないのだと心に刻み、日々を過ごしたいと思います。
 
2. Posted by 西川敦玄   2021年03月26日 10:29
今日のブログを拝見していて、味噌の話と老子の話から、老子の書き出しの文章が脳裏に浮かばれました。

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門

もう数十年、老子は難しく理解できないなと思っていました。また、俗っぽい考えで当てはめて可笑しな理解で満足していたこともありました。
私は俗ですが、太極拳は俗ではないと思います。
可笑しさ半分で、今の気持ちで試みに、私の言葉で日本語にしてみたいと思います。
笑って読み飛ばしていただければとも思います。

「私がこれが道だと思っているような物は太極の道ではない。これが太極拳だと言えるような物は、本当の太極拳を表していない。太極と言えるようなものが無いところから始まって、太極を理解して全てが生まれる。故に無極は原理を観ることを欲し、太極はその法則を観ることを欲する。この両者は同じものであるが、その現れを異にする。これを玄という。玄ということから太極拳の全体が生まれてくる」

と書いてみましたが、
それでも難しく考えず、体に刻み込まれているはずの原初の体験を想起してこの道を理解、生きて行くことができればと思います。
 
3. Posted by 阿部玄明   2021年03月26日 23:26
俗っぽさとは人間の集団生活によって生まれ、その狭い社会性を維持するためのシステム、またはその中での規範と同義であると思われます。ある意味では社会の空気を読み、上手く立ち回り順応する対人術ではあるが狩人に求められる資質とは真逆である。またここでいう狩人は双眼鏡や高性能な猟銃を装備した現代的な狩りではなく太古の祖先がやっていたような粗末な弓矢や槍などの心もとない装備と感覚だけで強靭な野生動物を狩らねばならない状況でしょう。しくじれば獲物を逃すどころか反撃にあい自分が狩られてしまうため相手に悟られず注意深く獲物に近づき必殺の一撃を加える(相手が人間でも同じです)。そのような精神状態であれば相手の状態が判ってくる、自分の体の運びが判り、相手が攻撃してきても相手の弱点を見出し逆撃を加えることができるような危うさ、際どさの中で居る状態かと思います。
太極拳がまず意識から導き体を整えよと示しているのはそういうことであると思います。俗っぽい意識のままで取り組んで戦える状態が整えられるでしょうか?安全な現代社会での武術研鑚はある意味非常に難易度高いですがこれも一つの課題であり我々が乗り越えてゆけるものだと思います。
 
4. Posted by マルコビッチ   2021年03月27日 15:11
「狩のセンス」=受容性 という考え方は、私にとって新鮮なものでした。
なるほどそう考えると、人も動物と同じように自然に導かれ、宇宙の摂理の中で生きていたのですよね。
以前師父が、「太極拳に合わせるのだよ」と仰ったことが今でも私の中に残っています。
太極に委ねる(ファンソン)は、すでに能動的に受け取っているのか・・などと考えてしまいました。 故に大変難しい・・私たちは自分の考えでいっぱいだから・・
一人一人の考えが交じり合い、ぶつかり合って出来ているこの社会は、人を管理しやすいように、人々が折り合いをつけて生きていかれるように出来上がってきたのでしょう。
そこには宇宙の摂理など忘れ去られているようです。
そんな世の中で、私たちが学ぶ太極拳は一筋の光であると思います。
自分の中の俗っぽさを見出し、根本に焦点を当てて行くことが大事だと思いました。
常に自分との戦いですね。
 
5. Posted by 川山継玄   2021年03月27日 16:46
「生きる」ということは決して一人ではなく、自分という存在は大自然の一部で、その営みの循環の中で生かされているのだということにハッとしました。
何人かの人達と狩りに向かい、自分たちの動き、獲物の動き、自然のありようで、いかようにも変化しなければ生き残れない中で、「これをやっていればいい」という考えはかけらも持ち合わせていなかったはずです。
しかし、自分は俗的なことから離れられず、凝り固まった考えのもと変化できずにいました。

所有物・土地をめぐる争いも、武器や戦略が変わっていく中で、武将たちは狩猟に出たそうです。戦に備えて、狩猟のセンスを自然の中で呼び起こし、兵の動きや連携に磨きをかけたのでしょうか。
食糧が店頭に並び、作る手間さえかからないものが容易に手に入る世の中も、本をただせば人間が生きるために血と汗を振り絞ってきた過程があることに目を向けずにいました。
現代においてその原理を追求できる環境に身を置けることに甘んじることなく、教えを純粋に受取り、積極的に循環し変化し続けられるよう、頭も心も体も放鬆し、整え続けたいと思います。
 
6. Posted by 円山玄花   2021年03月28日 04:25
味噌の味噌臭き、と言えば、極上のシャンパンは他のシャンパンより炭酸がきつくなくシャンパンらしく思えなかったことや、ブランデーはポールジローの50年ものが、全くお酒らしくなくて驚いたことが思い出されます。そしてどちらも、この上ない味わいを与えてくれました。

狩猟はしたことがないのですが、師父に教えて頂いた、現代に狩りをしながら生きる人々の生活は、私の想像の範囲を遙かに超えたものでした。
まず、狩りとは上手くいかないこともあるということ。文字通り家族の生活のために狩りに出かけて、そして成果が得られなかったとき、彼らは「明日また来よう」と言うのです。その、自分に起こったことに何も足さず、何も引かず、ただそれを受け入れて、次に繋げるというその純粋な在り方が、自分には足りていないと感じられました。

人間が「生きる」ことにおいては本来何一つとして保証されていることはないはずなのに、それ故に虚の保証を求めて味噌をより味噌らしく見せようとしたり、酒を酒臭くしたり、その道のプロっぽく見せようとする行為が始められる。武術で言えば、「免許皆伝」の免状をもらおうとするようなものでしょうか。
明日の生活を保証されるための生き方ではなく、自分で生きるためのチャンスを掴み続ける生き方。それが武術で問われるところの「生き残れるか」ということに、ダイレクトに繋がるのだと思います。
 
7. Posted by 川島玄峰   2021年03月28日 12:24
武術を勝手な思い込みで興味を持ち、追い求め、いつまでも分からないまま自己満足に浸り、また勝手にお見込む事を繰り返してきたと思います。
それは武術への習得を自分の都合に合わせた選択の連続で、その頃の在り様は俗っぽさそのものでありました。

その俗っぽさを脱却する術は基本功が教えていると感じています。
本当の基本功を知ることで本当の悩みも湧き、自分に突き付けられる弱さを知ることで否応でも追い求めなければならない状況が俗っぽい考えも消し去ってしまうからだと思うからです。

今は、本当の基本功から教われる環境と自分一人ではない共有できる環境の中で稽古ができていることに感謝の気持ちで一杯です。


あとは上味噌を味わい続け、造れるように精進するだけです。
 
8. Posted by 清水龍玄   2021年03月28日 20:34
自分が勝手に作ったイメージに拘ってしまい、残念ながら、そのことになかなか気が付くことができないことが多々あります。
しかし、ある時、ああ、自分はこんな風に勝手にとらえていたんだと、ほんの少しでも気が付くと、それが切っ掛けとなって、その、気が付ける自分の状態も、少しずつ見えてきたような気がします。
気が付けない方向性の自分は、酷く傲慢であり、下らないことに拘り、大変な損をしていたな、などと思えます。
師父のお話は本当に深く、何か少しでも自分が変われると、あの時のお話は、もっとこのような意味でもあったのではないかと、何度も感動します。

貴重な投稿を、ありがとうございました。
 
9. Posted by ハイネケン   2021年03月28日 22:38
稽古で「関係性」という言葉を聞くたびに何だろう?と思いつつ取り組めず、取り組まずにいました。
対錬でも顕著に力みや踏ん張りで相手を動かそうとし、結果相手との力でのやり取りとなり、稽古になりません。
自分のアプローチが間違えており相手との関係性を自分の動作で動かそうとしてきたためです。
そんな時の自分のあり方を顧みると、力みで支配しようとする、まさに俗っぽさの表れです。
自分では気が付けないのですが、気の抜けたようなルーティンで稽古に取り組んでしまいがちです。
先日の稽古で気づかせてもらいましたが言語化できずにいましたが太郎冠者さんの本文を読み少し言語化してみました。
相手に合わせ、自らのあり方に気付ける様、心を向けて行こうと思います。
太郎冠者さんの色彩豊かな気づきの視点に感謝しております。
 
10. Posted by 平田玄琢   2021年03月29日 02:20
太郎冠者さんの文章を拝読し、自分は、今迄いったい太極拳上達のための意識として何を思っていたかを考えてみました。自分の場合は、何かを理解するためには、物事をできるだけ単純化し、見えたものをそのままやっているがごとく思っていました。そのため、ひどい勘違いが多く全く違っていることが多々ありました。特に、表面では見見えにくいものに対しての試行錯誤が多く、時間の無駄遣いをしていたように思います。
 峭佑┐箘媼韻砲いて、俗っぽさからの脱却をする。」これは、俗とそうでないものを周りのもので比較しました。境内の樹木に例えると、剪定された木と自然のままの樹形。社殿の屋根に例えると、数百年経っても垂れない庇と、数十年で垂れる庇の構造の違い。舞で例えると、宮内庁舞楽と里神楽。やはり、勝手な都合で変えてしまったものと、そのままの姿が継続している、また、見た目だけでなくその内容が伝承されているという違いがあるように感じます。 
道場内でも、身体の動きに対し考えて意識を持った動作と、もうすでに、意識を持つのが常態となり、さんざん考え抜いたあげくのスムーズな動作ができる事の違いのように思います。
◆嵬燭けの狩りのセンスが必要である。」私は今まで狩りの経験がありません。せいぜい川魚や昆虫を捕まえた程度です。子供の頃の経験で、川に入り、この石の下には魚がいるような感じがして素手で捕まえるとか、木にとまっている蝉を風下から蝉に感づかれないように素手で捕まえたことがあるくらいです。「命がけの狩りのセンス」を磨くのは難しく、どのような些細なときにも危機に備える心構えではないかと思います。また、自分に当てはめると、やたらに体を痛めないようにするセンスが足りないのかもしれません。
 「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」この諺は、全ての真偽を問い奥深いものを表し、自分の在り方が正されるようです。
 
11. Posted by 太郎冠者   2021年04月02日 16:35
⭐︎松久宗玄さん

個人的な感想ですが、師父が「備よ常に」と仰っているのは、命を落としかねない致命的なリスクに対してこそ、備ていなければいけないということなのではと思っています。

というのも、致命的でない状態…例えばちょっと停電したなどであったら、それこそおっしゃる通り、社会システムとしてそれが復旧されるのを待てば現代だったらすぐ復旧するかと思うのですが、そういったものに頼れない状態、極限に近い状態になった時、自らを助けてくれるのは極論すると自分しかないと思うからです。

だからこそ、心身ともに動ける状態にあることこそが、自分の命を救うことに直結するのだと思いますし、そうなった時に問われるのが野生の直感やセンスなのだと思いました。
それをこそ、普段から磨いていかないといけないですよね。
 
12. Posted by 太郎冠者   2021年04月02日 16:41
⭐︎西川敦玄さん
稽古をしていても、分かっていないところを自分の理解の中で繰り返してしまうということが、何回出てくることかと我ながら反省しています。

ただ悲しいことに自分という人間は、その味噌臭い部分こそに武術的なものを感じてしまっているというところがあり、それに気づいた時にははっとさせられました。

相手の上手な殴り方や崩し方など、そんなことを教わったことは一度もないのに、無意識のうちに武術だと信じてそれを求めてしまっているものでした。

師父には、そういったことを「武術だ」と教わったことも示されたこともありませんでした。
老子のいう「道」の考え方も、難解な哲学ではなく、味わって進むべき道として示されていると考えると、少し肩の力が抜けて、進んでいけるような気がしました。
 
13. Posted by 太郎冠者   2021年04月02日 16:51
⭐︎阿部玄明さん
人間という種全体で考えると、社会性を成長させて相互に助け合い、弱い個体も生きながらえさせるという戦略は、全体を生き残らせる戦略としては成功しているのではと思います。

師父がよくフールプルーフと例えてくださいますが…問題は、アホでも生きていけるようになると、自分がアホになる可能性があるという点ではないかと思います。

狩猟で獲物を取れるというのは、強者の立場であると思います。
そういった観点でも、狩猟のセンスなくして武術は習得できないとおっしゃた意味があるのではと、個人的には思いました。

どちらがいいということではなくて、中庸として、自分が社会に飲まれずに鍛えていくしかないのだと思いました。
 
14. Posted by 太郎冠者   2021年04月02日 16:57
⭐︎マルコビッチさん
個人的にはですが、師父はどちらか極端にならずに、捉われずに中庸でなくてはならないと仰っているのではないかと感じています。

師父は、野に入れば誰よりも野生の獣のような動きで動かれますし、サバイバルの経験など我々とは比較にならないレベルです。
かと思えば、人並み以上にコンピュータを使いこなし、自分より電子機器を巧みに扱っている様子を見ると自分は何をしているんだろうと思わされます。

文明を捨てて野生に帰れば俗っぽさはなくなるかというと、おそらくそうではなくて、結局のところ自分との関わり方次第なのではないかと思いました。
 
15. Posted by 太郎冠者   2021年04月06日 16:54
⭐︎川山継玄さん
>「これをやっていればいい」
「ただ真似をするだけでいい」けれど、それをやっているだけでは上達出来ない…。
まるで禅問答のように感じられます。

個人的な考えですが、ただ真似をするだけで物事に取り組んでいると、それを通して自分自身が変質していくような感覚があります。
そのままの状態では、ただその通りに真似することは出来ず、ある時ふとそれが理解されて、少しだけ真似が出来る様になります。
その時には同時に、自分とはまた違ったところで、物事そのものが変化したような感覚も味わいます。
物事は物理的な法則に支配されており、ある意味ではそれは自分の管轄するところではないため、それそのものの力によって変化していくとでもいうような所があるのだろうなと思います。

それと全面的に合わせていくには、受容性が必要なのではと感じています。
…文章にしてみるとなんだかおかしいですね。
 
16. Posted by 太郎冠者   2021年04月06日 17:07
⭐︎円山玄花さん
生活のために動物を狩り命を頂く。自然との関わりが薄くなってしまった現代の生活では、自然の循環、営みが見えづらくなってしまっているように感じられます。
そのために、有りもしない保証に縋ってしまったり、全く当てにならない他者の評価に右往左往したりしてしまいます。

そういった俗っぽさでは太極拳は取れないと、師父は我々に指導してくださっているのではと思います。
そういったものとは無縁の、真摯に自分と向かい合うことでしか見えてこないもの、それを生活とすることでしか見えてこないのだと思います。

自分自身が味噌くさくては、自分の周り全てのものが味噌くさくなってしまいますね。
それでは上味噌のことなどわかるはずがありませんね。
 
17. Posted by 太郎冠者   2021年04月09日 15:19
⭐︎川島玄峰さん
稽古の時に師父に指導していただいていること、基本功で示されている事は、おっしゃる通り、俗っぽい思考では理解できないことではないか、と感じております。

なぜ俗っぽくてはいけないのかと考えたのですが、心理学的に見て、人間の嗜好には多分に認知的バイアスがかかっているからではないかと思います。
というのも、基本・構造のメカニズムは根本的に物理的なシステム、法則によって動作しており、そこには本来人間の心理思考が挟まる余地がないから…と個人的には研究しています。

なので即ち、基本と向かい合うことは、やはり自分を挟まずに物事に物事として向かう訓練になるのではないかと感じています。
 
18. Posted by 太郎冠者   2021年04月09日 15:25
⭐︎清水龍玄さん
非常に大きく強固なダムも、ほんのわずかなヒビがきっかけで崩壊してしまう、ということがあります。
そして、崩壊してしまうときは、あっという間に巨大な構造物が消え去ってしまいます。

それは自分の中にあると思っていた壁でさえもそうなのかもしれません。
とても自分の力では突破できない、どうしようもないと思っていたことでも、何かのきっかけがあれば、ある時それが突然、壊れて跡形も無くなってしまいます。

そのきっかけを作るために、自分の内外から関われる場所として、師父は道場を開いてくださっているのでは、とも思います。
本当にありがたいことです。
 
19. Posted by 太郎冠者   2021年04月09日 15:33
⭐︎ハイネケンさん
関係性というのは数学的に見ても非常に複雑で、要素が一つ増えるだけでも、そこに生じる関係性というのは、凄まじい勢いで数が増えていってしまいます。

太極武藝館では、体を球として細かく見ていくので、余計に要素が増えてどうしたらいいかわからない!
となってしまうことが自分にもありました。

対練での相手との関わり方は、普段の他人との関わり、人間関係の築き方と共通しているところもあるように思え、それも含めて自分の在り方が問われているように思います。

どれだけ自分が暴虐無人に命令を下したところで、人は従ってはくれません。
それよりは、もっと仲良くなり、頭を下げた方がよっぽど人は思った通りに動いてくれるものです(悪い言い方)
戦いにおいても、本質は同じなのかもしれません。
 
20. Posted by 太郎冠者   2021年04月09日 15:55
⭐︎平田玄琢さん
自分は一時期、自然のものと人工のものを著しく対立させたような考え方をしていたことがあり、それでは非常に多くのことを見落としてしまっていたと感じました。

例えば野生の動物は、とても洗練された狩りの仕方をしており、相手の心理的な出方、肉体的な特徴の弱みに付け込みます。
また、道具を使い、トラップを用意する生き物もいます。
それらの知恵を使った狩猟は、知恵がまるで人間特有のものであると思い込んでしまう人間の傲慢さを、自分に示してくれたように思います。

それはまるで、味噌臭い部分を人間の強みだと思い込んでいたのだと思います。

では、上味噌とは何なのでしょうか。
知恵の傲慢さではなく、先人からうけつぎ、積み上げられてきたことの上にあるものが、人間が持っている本当の強みなのではないかと思います。

師父の天才的なセンスは、99%の努力の結果だと、仰っていました。
人間の脳のメカニズムから見ても、普段から頭がそれでいっぱいで、考えて考えて考え抜いた先にピンと閃くのが最後の1%のセンスなのだと思います。

我々は個人においても、先人の積み重ねである部分を、自身の努力として積み重ねないといけないのだと思います。
何もなしに閃くのを待つのは、そもそも不可能であり、それが起こると思うのは傲慢なのだと思いました。
 

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