2021年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その52

   『純粋に』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 先日、稽古の帰りに、門人の I くんがこう言いました。

「僕にとって、太極拳は生き甲斐です」

 人生で、生き甲斐と断言できることに出会えるのは、素晴らしいことだと思います。それは人生を惰性で過ごし消費してしまうものではなく、人生を通して自分を磨いていくことに使える、素晴らしいものだと思います。

 昨年一年間、道場へ稽古に通う傍ら、ブログ記事「今日も稽古で日が暮れる」を書かせていただきました。
 それらの中でも常々触れさせていただきましたが、太極拳を稽古していく中で大事なことは、師父がどのように考え、行動されているのかを理解し、それに合わせていけるかという点ではないかと感じておりました。

 先日、たまたま見かけた科学ニュース記事の中で、ニューヨーク大学の研究について書かれていました。それによると、授業中の教師と生徒の脳は同期しているそうで、さらに、生徒の脳波が教師の脳波に似ていれば似ているほど、授業の理解度が高いことがわかったそうです。
 情報元の論文を当たったわけではないので、詳細はわからないですが、おそらくその通りなのだろうという気はします。
 自分で稽古をしていて、また他の門人が稽古に取り組む様子を見ていても、まさにその通りと思えることが実際に感じられます。
 示された太極拳の技法ひとつひとつが理解されることで上達するというよりは、その示された技法が、どのような理論・背景によって成り立っているのかを理解することが上達につながるのではないかと思います。
 そこで示されたことがそのまま出来なくても、師父が何を言わんとしているのかがなんとなく分かる…それによってのみ上達できるのではないかと思います。

 師父が常々「考え方が大事だ」と仰ってくださることは、そういう意味も含まれているのではないでしょうか。
 考え方が合っているということは、発想の仕方が同じということであり、考えを生み出す脳も同期した状態であると言えるかと思います。その状態で、武術的な動きをしようとした時、そこから導かれる動きは、それもまた師父の考えと同期した動きになる可能性は高く、それによって太極拳の動きが再現され得る、と繋がっていくのは論理的にもあり得るのではないでしょうか。

 師父に指導して頂いている太極拳は、非常に科学的・論理的で、一見すると神秘的な現象に見えるようなことも、きちんと条件が整えば再現性のある現象であると感じます。
 師父が太極拳を教わる時、「一度しか示してもらえなかった」という話をしてくださいました。それに比べて我々は、何度も技を示して頂き、事細かに説明までしていただき、それでも十分には理解しきれないという体たらくで情けない限りです。
 師父のように、一度示されただけで理解していけるよう、心身ともに研ぎ澄ませていかなければいけないと反省と精進をしております。

 技を教示して頂く際、師父や玄花后嗣に何度も何度も技を掛けていただくという機会が自分にはありました。技を掛けられることは非常に幸運なことで、そうやって体で覚えていくのだと、師父に伺ったことがあります。
 そこでふと思ったのですが、世界的に見ても太極拳の真伝が非常に稀な存在である上に、その技を自分のような一門人が何度も体験させていただくということは、これはもう歴史的に見ても稀な出来事なのではないでしょうか…?
 というのも、最近特に感じるようになったことなのですが、稽古中に対練で崩される時、明確なパターンがそこに存在すると認識できるようになってきたからです。
 体が散々崩され続け技を受け続け、その先にようやく頭の理解が追いついてきたという感覚です。
 それは不可思議な現象ではなくて、ある状態ではこちらの体が特定の反応を示していて、それに対して別の変化が加わるとこちらが対処できないというように、極めて論理的な現象だといえます。

 師父はよく、太極拳を「手品」と例えてお話をしてくださいます。手品・マジックにおいては、それがどれだけ不可思議な現象に見えても、必ずタネがあります。
 ある特定のポイントに人の注意を集めておいて、気づかれない裏で別のことをしている。それがある時、表に出てくると、人々は驚きます。
 マジシャンの腕前、見せるトリックの難易度など、様々な要素があるにせよ、見ている人のミスリーディングを誘うというのは、根本的なネタではないかと思います。

 太極拳においても、それと同じ状態が、相対している中で生じているのだと思います。
 もちろんそれは、格闘技のようなフェイントを仕掛けるという話ではありません。人間の生理現象、反応のもっと深いところで起きている繊細な現象を利用しているのだと感じます。

 さて、もし太極拳がそのような、手品のような人の虚をつく現象を利用しているとして、それを理解するにはどうしたらいいかという話になるかと思います。
 そのために、最初の話に戻りますが、考え方を合わせる、脳を同期させるしかないのではないかと思うのです。
 もし本当に太極拳が手品のように人を驚かす技法と共通点があるとして、ではその手品で人を驚かせるにはどうしたらいいでしょうか。
 そのためには、まず自分が、手品で純粋に驚く必要があるのではないかと思います。

 よく、手品やマジックを披露されている時に、手品の出来ない素人で「看破ってやろう」として見ている人がいます。
 そういう人は、拙い手品なら見破れるでしょうが、プロが本気で仕組んだ手品は絶対に見破ることが出来ません。
 問題はその先で、手品を見破ろうとしてきた人は、実は、手品で驚くということがわからないので、手品のトリックは分かっても、それを使って人を驚かせることができません。
 プロのマジシャンというのは、いくつものトリックを使えるからプロなのではなくて、人が「驚くこと」が分かるから、プロとしてやっていけるのではないでしょうか。
 人が何に驚くかが分かれば、そこから新たな仕掛けを考えることが出来るでしょうけれど、その逆ではないのではないかと思います。

 太極拳の稽古中でも、対練において、看破ってやろう、技を効かないようにしようという態度で挑むと、分かるべきことが分からないと体験として感じます。
 一番上達が早い人は、技を技としてきちんと受けられる人で、手品で言えば素直に、ただ純粋に驚くことが出来る人だと思います。
 自分が驚くことが出来るために、驚くということがどういうことか理解でき、それはつまり人を驚かすこともできるということではないかと思います。

 同じものを見て味わっていても、その人間の見方ひとつで物事は変わってしまうのだと思います。では、そこで何を選択するかで、物事も即座に変わるのだと思います。

 自分が何を選んでいるか自覚的になって、生活まで含めて稽古として取り組んでいきたいと思います。

                             (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その53」の掲載は、3月22日(月)の予定です

disciples at 17:00コメント(20)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2021年01月27日 23:14
手品の種明かしと、手品自体が人にもたらす驚きの関係についての考察は興味深いものがありました。生きて働いている物事を、体験して感動し、体現する。
振り返って、我が身の稽古に対する態度をみると、太郎冠者さんの喩えられたトリックを見破ろうとする目になってやしなかったかと思いました。
われわれは、手品で喩えるなら、一流のマジシャンに弟子入りした状態のようなものだと思います。トリックは説明され、提示されています。そうであるにも関わらず、教示される場においては、トリックを見破る姿勢となっているのではないかと思います。太郎冠者さんのいわれるように、感動や驚きを提供できるようなマジックを表現できる。そんな稽古を行うことが大事なのだろうと、そう思いました。
大きな、勘違いを知らないうちにしていたのかもしれません。ありがとうございました。
 
2. Posted by 阿部玄明   2021年01月27日 23:21
太郎冠者 様
いつもいろいろな方面の切り口からブログを書いていただきありがとうございます。マジシャンと観客の視点で太極拳と一般の武術を捉えるとそれぞれの脳波はどのようになっているか考えると面白いです。観客(一般の武術家など)はマジシャン(太極拳の使い手)が何かをしてくる(拳で打つなど)のをまず見せられるという状況が準備される。観客はそれに注目しどう捌くかを考えている間にマジシャンは既に次のネタを準備している。マジシャンの脳内は観客の脳内に比べ2回転3回転も先に進んでいる。仮に観客が最初のネタに気付き対処できても次のネタに気づかずやられてしまう。そのような情報処理量の違いはマジシャンが努力研鑽の末獲得できるのであり凡俗な精神状態で日常を送っていては到達できないものです。自分が上手く学習を進められなのはそのような師父の脳波と自分の脳波の違いが存在するためではないか?と思います。脳の使い方、生活態度、ものの見方の癖など自分自身の点検は始まったばかりです。
 
3. Posted by 川山継玄   2021年01月28日 12:07
I君の言葉がとても鮮やかに清々しく染み入ってきました。
純粋,泙犬蠅韻里覆い海函0杣舛覆發里鬚修貅身に含まないこと。
  △發辰僂蕕覆海函専一。
  4袷瓦覆海函
  ぜ拉亜私欲がなく清らかなこと。
と辞書にあります。純粋とはかけ離れた自分。家族からの自立、特に親からの自立を自らの選択で行ってこなかったことが今の自分を作り上げているように思います。師父が、ご自身やご両親の子育ての仕方・躾・生き方などをお話しくださいますが、それらは私のたどったものとは大きく違い、その質と価値観の違いに大変驚き、動揺し、感動し、憧れます。
人は、一人ずつ違う存在であり、自分の芯に響いたものを、押し殺す必要もなく正解を求める必要もなく、ただ師父に合わせて真似てみる。どのようなことが自分に起こっているのかを味わってみる。
難しいですが、肩の力を抜いて、自分の選択を客観的に観続けていきたいと思います。
太郎冠者さん、いつも幅広い角度・視点からの記事をありがとうございます。発想・考え方、学ばせて頂きます。
 
4. Posted by 川島玄峰   2021年01月28日 22:08
修得には、己に向かい、己を挟まず受け取れる受容性、強い精神、そして在り方・・・。
入門以前には考える事がない武術への取り組み方も稽古として教えて頂いています。
その稽古の継続は、簡単ではなく、厳しさ、悔しさ、諦めなど自分との闘いが予想を超えるため、どうして良いのか分からなくなることがあります。
それでも、その状態に素直に純粋に身をゆだねることで、考え方が変わり、自己修正されていくのではと思いました。

今後も稽古あるのみです。

今回も道標となりました。
ありがとうございます。
 
5. Posted by 松久宗玄   2021年01月28日 23:27
最近、難しい型稽古が課題として出されて、その各人の取り組み方に対して、
「ホリスティックではない・・・」と師父が呟かれた事が印象に残っています。
ホリスティックとは、全体性から派生し、癒し、健康、神聖を意味する用語です。

その時、我々は型の手順ややり方の外形をトレースする事で精一杯な状態でした。
それは全体性からは、ほど遠い取り組みであったと思い返されます。

何故、太極拳が生き甲斐だと断言できるのか?
何故、全体性が神聖に繋がるのか?
何故、自分達は来る日も来る日も稽古に勤しんでいるのか?
誰も彼も、理屈では無いものに突き動かされているとしか思えません。

人間は理屈を超えて心を動かす何かを、聖なるものとして尊んできました。
聖なるを論理的に表現すれば、全体性に行き着くという点が鍵だと思われます。
追求に励みたいと思います。
 
6. Posted by 平田玄琢   2021年01月29日 00:59
私は、「脳を同期」の「同期」という言葉にあまり馴染みがなかったため、コンピューター用語かなと思い調べてみました。
“synchronization”一般には「同期」と訳すが、同時性などでは同時と訳される。また、同調と訳されることもある。
これは、「シンクロ」と言われている事なのかなと理解しました。
稽古中、師匠や同門人の考えていることがわかるという経験は、弟子が思っている以上に、教える側の方がずっと多くわかっているのでは、と思います。

太郎冠者さんの言う、「それは不可思議な現象ではなくて、ある状態ではこちらの体が特定の反応を示している。それに対して別の変化が加わると、こちらが反応できないというように極めて論理的な現象。」を明確なパターンとして認識できるようになったということは、「考え方」が以前と変わりかなり上達し始めているのではないかと思います。

また、「同じものを見て味わっていても、その人間の見方ひとつで物事は変わってしまうもの。」という事項に対し、私も最近の稽古で思い当たるものがあり、何回も指導を受けているはずなのに、やっと見えてわかってきたことがあります。
それは、「その位置を維持すること」でした。それを行うには、自分の稽古で不足している、正しい站椿をやり込むことが最良と思われました。

自分の時間を自ら作り出し、有意義な稽古を行い精進したいと思っています。

7. Posted by 円山玄花   2021年01月29日 17:25
師が、真っ赤に熟れたリンゴを指さして、『これは黒い』と言えば黒く、『これは白い』と言えば白い。言ってみれば、そこに「え?」とか「いや〜・・」とか、「師は何を仰っているのだろうか、これには深いワケがあるに違いない」というようなことを挟まない人、というか、挟めない人が、師に自分を丸呑みにされることができ、また自分も師を丸呑みにできる。純粋さとは、ある一面から見たら狂気とも思える激しい力そのものであると思います。

だからこそ、純粋に関わったことからはトータルなものが返ってくるし、トータルに関わることで、それは見抜く必要も無く、見えるのでしょう。
もっと、燃え上がり踊り狂う純粋さで関わりたいと思います。
 
8. Posted by マルコビッチ   2021年01月29日 22:03
”純粋”と聞いて、師父を思うと「師父は純粋な方だなぁ」と思うのです。
理由を考えなくてもそう感じるのですが、考えてみると何事に対しても真っ直ぐです。
真っ直ぐ・・余分なものは無く、晴れ晴れと立ち向かい、ただ一生懸命に歩いている・・と私には思えます。
そして常に人を思い、周りを気遣われます。
本人が気付いていないようなことも気付いていらっしゃいます。
物事の本質を見る目をお持ちです。
師父の考え方は、師父の真っ直ぐな生き方なのではないでしょうか。

外ばかりに意識がいっていると、外側の現象に振り回されてしまいます。
自分のことばかり考えていると、周りとズレてきてしまいます。
しかし、自分に意識的であろうとすると周りも見えてくると思います。
煩悩だらけの私ですが、自己を見つめ続け、純粋に師と合わせて稽古に取り組んでいこうと、また新たに思いました。
 
9. Posted by ハイネケン   2021年01月30日 00:25
私は驚いた後、どうなっているのか「考えよう」と分析の様に構えている事が多いです。
結果として指導されている部分や言葉の中で、都合の良い自分勝手な引用をしたり、思い込みで動いたり、分かったような気で、実は何も分かっておらず動けていない結果となります。
それは「手品を見破ってやろう」とするのと同じアプローチですね、、、。
驚きました。
驚いたことを感じ続け、自分が何に驚いているのか?自分が何を選んでいるのか?と言う事には目を向けていない為、その様に「自分が何に驚いているか」などといった選択肢が在ることすら気付かずにいました。
自ら進んで窮屈かつ、つまらなくなる様な、キツイ選択肢を選択している訳ですね。
教示して頂いた技を感じ、その時の自分の状況、状態を感じ続けてみることは美味しいものを口の中や全身で味わい続ける事と似ているように感じます。
もっと味わってみないと勿体無いですね。
御指導頂きありがとうございました。
 
10. Posted by 清水   2021年01月30日 18:06
稽古で手本を示していただいて、あそこはどうだった、この時このように相手に入っていったなど、その時に見えたことばかりに拘ってしまうと、本来、そこで示されていた事に気が付けなかったり、見落としてしまうことが沢山あります。
それよりも先ず、師父に自分を合わせて、自分が感じたことをそのままやってみること、そして、そこで生まれる感覚や理解と、師父が仰っていた事の違いが判れば、自分の間違いがはっきりとわかってくる。
その様にして、いよいよ、自分というものが変わっていけるのではないかと、最近の稽古を通して、感じられます。
テクニックの寄せ集めではない、その人間の根幹から変化が生じてくる、そのような稽古を積んでいきたいと思います。

今回も、面白い記事をありがとうございました。
 
11. Posted by 太郎冠者   2021年02月10日 00:07
☆西川敦玄さん
本日も稽古をしてきたのですが、その中で玄花后嗣の歩法を拝見していて、前に進んでいるはずなのに後ろや横にも進んでいるかのような…

そこでは足が上がらないはずなのに上がっている、だけど角度を変えてみると真っ直ぐ整っているかのように見える…というような、まるで騙し絵を見ているかのような気分になりました。

目の前で、ただ歩いているはずの歩法でさえそのように錯覚を生じさせるものであるとしたら、ではそれで対練となった時、我々はどれだけ認識を錯覚させられているのか、考えさせられました。
このような動きに対し、その原理を知らずに向かっていくことがどれだけ困難か、想像するに難しくはないのではないかと思います。
まさにマジックのようでした…。
12. Posted by 太郎冠者   2021年02月10日 00:13
☆阿部玄明さん
おっしゃる通り、まるでマジシャンにこちらが選ぶカードが選ばされているかの如く、師父や玄花さんに向かっていくと、こちらの手は自由に選んだはずなのにそうではなく、その先の展開まで二手三手と読まれ、あたかも誘導されているかのように感じられます。

でも、実際には自分の意思で向かっていったはずなのに、ことごとく攻撃は外れ、自分は転がされてしまい、首を捻るばかりです。
考えてみると、マジックを看破ってやろうと躍起になっている人は、一番いい観客なのかもしれませんね。…最後にはダマされてしまうので。
本当にプロのマジシャンを目指すなら、プロのマジシャンと同じ精神性でマジックを見ないといけないのではないかと思いました。
13. Posted by 太郎冠者   2021年02月10日 00:19
☆川山継玄さん
以前師父が、「逃げずに晴々と立ち向かうのは、他でもない自分自身に対してだ」というお話をしてくださいました。

人間が一番逃げ出したいのは、何よりも自分自身からではないかと思います。なぜなら、一度向き合ってしまうと、2度と元に戻れないとどこかで知っているからだと思います。

だからこそ、純粋に向かい合わなければいけないのは、やっぱり自分に対してではないかと思います。
何も挟まずに合わせられるのは、自分自身に真っ直ぐ向かい合っているから…言うは易しで実行するのは難しいですが、それを生き方として示してくださっているのが、他でもない師父なのだと自分は感じています。
だからこそ、我々はその生き様に惹かれ、そして師父の太極拳にも惹かれているのではないかと思います。
14. Posted by 太郎冠者   2021年02月11日 21:49
☆川島玄峰さん
稽古をしていて感じることがあるのですが、その人の軸の強さというのは、体の状態もさることながら、その精神の軸の強さと密接に関係しているのではないか、ということです。

誰かと対練をしている時に、精神的に迷い、弱っているのかな?と感じる時に軸の強さが無くなるように感じられることがあります。
ところがその人が、同じ時間の稽古の中で、いったん何かで精神のスイッチがきちっと入ると、途端に軸が強くなるというか、はっきりとしたものに感じられる、と変化することがあります。

こういう経験をしていると、師父がなぜ、考え方を改めることや、精神性を大切にすることを強調されるのかが、よく分かる気がします。
人間は、心身が分離した存在ではない、と思わされる経験です。
その精神の強さも、付け焼き刃ではなく、本当の強さが求められるものだと感じます。精進していきたいです。
15. Posted by 太郎冠者   2021年02月11日 21:57
☆松久宗玄さん
自分も合理性を追い求める傾向がある人間ですが、自分がそう思う合理性と、時間という流れの中で本当に洗練されて生き残ってきた合理性は、全く別のもの…であるとも思います。

太極拳の稽古をしていると、本当に洗練された体系であるように感じられ、よく稽古中に、
「太極拳はいったい誰が作ったのだろう…?」とぽつりと疑問が漏れることがあります。
「師父が作ったのではないですか?」と質問が出ると、師父は笑いながら「違うよ」と否定されます。
しかし稽古体系の中には、師父が工夫されて、我々に理解しやすいように組み立てられたものが含まれています。

過去の先達たちが少しずつ工夫してくださり、今も残っている太極拳…それを習得するために受容的であることと、創造的であることは全く矛盾しないのだと感じます。
そのためには、おっしゃる通り全体的である必要があるのでしょうね。我々も、もっと工夫して上達していきたいですね!
16. Posted by 太郎冠者   2021年02月11日 22:03
☆平田玄琢さん
師父がいらっしゃる前に道場で我々が話題にしていたことを、師父がいらっしゃってから何気なく話をされることが度々あるので、その度に非常に驚かされ、面白くなってしまいます。

これをシンクロというのか、師父は全て見通していらっしゃるかのような…。
気になったので玄花さんに、師父に何を話していたのかお伝えしたのですか?と聞いたことがあるのですが、「話してない」と言っていて、苦笑いをしたことがあります。

昔の人が言う「以心伝心」とはまさにこのことで、これによって師父が何を指導してくださっているのか、我々は受け取っていかなければいけないのだと思います。
17. Posted by 太郎冠者   2021年02月11日 22:12
☆円山玄花后嗣
以前読んだことのある中国の伝説なのですが、昔、仙人になるために弟子入りした男がいたそうです。

その男は師である仙人に、「仙人になるためには私のことを一切疑わずに、全て従わなければいけない」と言われたそうです。
その男は非常に素直に、仙人に言われた通りの修行をこなし、順調に上達していったそうです。

そしてとうとう、仙人に「これを飲めばお前は仙人になれる」と、薬を差し出されたそうです。
それは、器に一杯に盛られた糞尿や死骸などの汚物で、異臭を放っていたそうです。
男は躊躇し、一瞬顔を背けてしまったそうです。
すると、仙人は「そうか」と悲しげな顔をし、去って行ってしまいました。実はそれは本物の仙薬で、男を試すための魔法がかけてあったのです。
そして、男が仙人になることはなかったそうです。

非常に示唆的な物語だと感じます。
18. Posted by 太郎冠者   2021年02月11日 22:22
☆マルコビッチさん
師父は純粋にご自身と太極拳に向かい合ってこられたからこそ、あのような功夫を身につけられて、そしていまだに上達されているのだと感じます。

だからこそ、太極拳を身につけるためには、まず何より師父がどのように生きてこられたのか、その精神の中身をこそ真似していかないといけないのだと、常々思います。
ともすれば自分の意思は弱く、すぐにでも物事を投げ出してしまいたくなります。
転んでもなお立ち上がる。多少の擦り傷は自分を強くする糧であると自分に教えてくださったのは、他でもない師父です。

太極拳は当然のこと、その教えていただいた生き方が、本当に自分にとっての宝物のように感じられます。
自分ももっと頑張っていきたいと思います。
19. Posted by 太郎冠者   2021年02月11日 22:32
☆ハイネケンさん
自分も稽古中に過度に分析的に考え、見破ろうとし、そしてわかったような気になって全然わかってなかった!ということはザラにあります。というよりも、ほとんどそんな感じで稽古しています。
かと思えば何も考えずにただやっている時もあります。

そして両方とも、わかっていける時と、わかっていけない時があります。

それは何の違いなのかと考えたのですが、師父のように考えることが出来ているか?と言うことなのではないかと思い至りました。
まるで師父の思考パターンが宿ったかのような時は、考えていても独自の考えにはまらず、多くのことが繋がって見えてきます。
逆に、自分の持ってるもので考えてしまっていると、どれだけ考えても答えは出てきません。
要は本当に、師父に「合わせられるか」、だけなのではないかと思います。そしてそういう時は、「楽しい」ものです。喜びに近い感覚と言いますでしょうか。
師父には、「苦しくなければ努力ではない」と言う考えは無い、ような気がしますね。
20. Posted by 太郎冠者   2021年02月11日 22:39
☆清水さん
合わせることが難しく、結局自分で頑張ってやらなければいけないと思っていた時もありましたが、そう言う時は全然うまく物事が回らないものでした。

今にして思えば、ある意味、自分という概念をものすごくちっぽけで小さなものとして捉えていたように思います。
本当は自分とは、個人の自分だけで完結しているものではなくて、もっと大きな周りの物事や人々との間に、複雑に絡み合って構成されているのだと感じるようになりました。
すると、自分を見つめることは周りを見つめることであるとも言えて、師父に合わせることはまた、自分を知ることとも直結することなのだと感じられるようになりました。
自分の中にいる師父?というと変ですが、その繋がっている存在から、多くのことを勉強させてもらっている感じです。

それが分かるまでは、合わせるなんて嫌だー!俺は俺だー!という自分がどこかでいたのも確かで…頑固さは修行の敵だな、と改めて感じます。
人間って、そんなにちっぽけなものではないんですよね…。

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