2020年11月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その51

  『わかるかな』

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



「…わかるかな」

 あなたは、それが「わかりますか」?…。師父が我々に何かを話してくださる時、いつも発してくださる問いかけです。

 師父が我々に何か指導してくださるとき、師父はそれが「出来るか」と問うことはありません。
 師父に「わかるかな」と問いかけられたとき、私はいつも自分自身の内側と向き合い、自分が何を感じ考えているか、外側をどのように見ているか、ということと直面することを求められているように思います。

 また稽古中、何かに気づいたとき、それまでに見えなかったものを見たとき、師父は一言、「わかったか」と仰ってくださいます。
 それによって、また自分自身と向き合い、それまでの自分との違い、確かに芽生えた手応えを感じることが出来ます。

 理解することと出来ることには、隔絶の違いがあるのではないかと、自分で稽古をしていても、また、どんどんと理解していく他の門人の取り組み方を見ていても感じます。
 厳密に言えば、理解せずに出来ることはないかと思います。ですが、その時点で要求されている事柄をクリアすることを目標にするのと、何かを理解することを目標にするのでは、大きな違いがあるように思います。

 思い返せば、自分自身を形成するのに非常に大事な幼い頃から、我々は学校で行われる評価のシステムに慣れすぎてしまっているのではないかと思います。
 その中で求められる、「勉強ができる」「良い成績が取れる」ことと、太極拳を「学習していける」「理解できる」ことで稽古していくことは、全く違ったことなのだと、最近は特に強く感じています。

 理解できることは、非常に経験的なことで、体感的、現実的なことなのではないかと思います。
 理解が生じると、頭で「なるほど」と思うだけには収まりきらず、気づいた瞬間には思わず膝を打つような体の動きを伴います。それまで繋がっていなかったことが結びついたかのような、実際的な手触りまで、自分の場合には感じられます。ぼやけていた輪郭がはっきりとした瞬間、確かに自分はそれまでのものとは変わったのだと、体感させられるのです。

 師父はその瞬間を見逃さず、「わかったか」と声をかけてくださります。
 …もしくは、わからずに首を捻る我々に「わかったか?」と問いかけて下さるのです。

 先日も、師父のお話を伺っているとき、「わかるだろうか」という問いかけを聞く度に、自分は嬉しくなってしまっていました。というのも、師父の言動には全て必ず、太極拳の理解につながる要素があると感じているからです。
 その師父からの、「わかるだろうか?」の言葉…。
 それはあたかも、「ここに宝があるのだけど」と示されているかのようにさえ思えるのです。

 学校で誰かに評価され、自分の価値を決められるかのような経験をしてきた我々にとって、わからないことはネガティブな響きを持っており、わからないことは誰かに劣ることであり、自分の居場所さえないのだと言われているかのように感じられる部分もあるのではないでしょうか。
 ですが、師父の「わかるだろうか」という言葉には、そうした後ろ向きなニュアンスは全く含まれていないのではないかと思います。
 「なぜわからないのだ」と我々を責め立てるような意味は微塵もありません。
 わからないのだとしても、その「わからない」自分と向かい合っているだろうか? わからない原因が「わかるだろうか?」 と、いつも自分と向き合うよう、指導してくださっているのだと感じます。

 「わかる」ことと「わからない」こと、こうして書いていると、まるで禅問答のようにも感じられます。
 以前師父が話してくださった、ある禅のマスターの話が強く心に残っています。

 その師匠は、悟りを理解できていない自分の弟子を、ある日、杖で殴りつけて殺してしまいます。
 驚き見開かれた弟子の目が師を捉えた、命を落とすその瞬間、確かに彼は、師の行動を通して何かが「わかった」のだそうです。
 理解、それは一瞬で起き、そして全てを理解した状態で、弟子は命を落とします。
 そして、そうなることもまた、師にはわかっていたのです。

 現代的な解釈で見ようとするには、野蛮に映る話かもしれません。
 ですが、理解する、わかるということはどういうことなのかを、非常に鮮烈に体験させてくれるかのような話ではないでしょうか。

 同時に、わかるためには全てを投げ出す覚悟があるかを、改めて自分に問われる話ではないかと思います。
 その弟子は、悟りを得るために、自分の命さえも投げ出すことを選んだのです。それは師匠の手によってでしたが、これほどまでに強烈で、一瞬で得られる理解、そして命を落とすまでのほんの一瞬の出来事を自ら選んでいたに違いありません。
 そして、その覚悟と行動があったからこそ、師匠と弟子には共通の理解が確かに生じたのではないでしょうか。

 師父の「わかりますか」という問いかけは、極端な話、太極拳がわかるかと問いかけているわけでもないのではないかと思います。
 というのも、先日も稽古で「そんな太極拳みたいな動きはしなくていい」という言葉があったからです。
 太極拳の稽古をしにきているのに…? と、疑問を持つ門人は、おそらくもうその場にはいなかったかと思います。
 むしろその言葉によって、自分の中でどれだけ勝手な太極拳のイメージが出来上がっていたかを、改めて実感したのではないかと思います。少なくとも、自分にとってはそういう経験でした。

 禅のマスターによって命を落とす瞬間、その弟子は何が「わかった」のでしょうか。
 師父は我々に、何が「わかりますか」と尋ねるのでしょうか。

 その問いの妙味、深みを、もっと味わっていきたいと思いました。

                                (了)




*次回「今日も稽古で日が暮れる/その52」の掲載は、2021年1月22日(金)の予定です

disciples at 23:30コメント(23)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2020年11月23日 18:52
「わかるかな」「わかるだろうか」という問いかけ。
太郎冠者さんの記事にあるように、常に私たちは問いかけられていると思います。それは師父の仕草、眼差し、間など、そして師父を想起するとき… 常に問いかけられていると思っています。
 そして、師父の問いかけに、心の底からの笑顔で応えたい、その理解を待ち望む自分が常にいます。
 ただ、その希望によって、時として自己欺瞞に導くことが多々あります。そして、欺瞞であるがゆえ、リアルではありません。当然それは見通されていると思いますし、私はそのことにより、余計に苦しむこととなります。
 しかし、それは改めて真剣に向かい合うことで欺瞞、傲慢に気づくきっかけにもなり、ようやくではありますが、本当に学べる状態に一歩進めることでもあると思っています。
 門人の一人として、そんな道場で稽古できる幸せを感じています。
 
2. Posted by 阿部玄明   2020年11月24日 00:20
学校教育の目的は特に近代〜現代の時代において生徒自ら考え理解する能力を育てることを主眼に置いていないのは確かです。決められたルールに基づいて出題されるテストに順応できるかのみを求められ評価される。100点満点のテストで赤点にならなければとりあえずは及第点で平均点以上ならまあまあ・・・など今思えば意味のない評価基準でした。合計点が大事でありサービス問題を暗記さえすれば赤点は回避できるのでトータルの理解が育む余地もない。そしてそれが勉強のすべてであると錯覚させられているのです(先進国の中で比較すると日本人は卒業後全然勉強しないらしいです)。

道場での学びはその反対でトータルにどうなっているか、仕組みとしてどうなっているかの理解が重要になる。枝葉を集めても全体は見えないが幹があって大地と空があることに気づいて今まで見ていたものが葉っぱの絵ではなく実はこんな風景画だったんだと繋がりや関連性を理解するために視野が広くなること。自分の経験や得意なやり方に縛られないよう習慣をそぎ落としてゆく積み重ねを大事にしてゆきたいです。
 
3. Posted by 川山継玄   2020年11月24日 02:01
実際のところ、私は今まで「わかる=できる」という解釈でしか物事と関りを持てなかったのだと思います。
師父がずっとずっと「わかることと出来ることとは違うよ」と言い続けてくださるその真の意味を理解しようとする前に、「わかる事と出来る事は違う」と唱えてわかった気になり、「わかる事ってどんなことなのだろう、できる事との違いって何だろう」とじっくりと味わう事を求めませんでした。
それが、全てに貫かれているために、経験として、自分の事として、積み重なってこなかったのだと合点がいきます。
ではなぜ、実際の自分を素通りできてしまったのだろう。
間違えている自分、できない自分、劣った自分、ダメな自分を直視することが怖くて、自分のぼろ隠しに必死だったから…?
いや、今までの価値観とは全く違う世界に一歩踏み出す勇気のない自分に直面するのが何より怖かったから?…勇気のないことや、怖くて二の足を踏むことが、自分の中にあってはいけないと思い込んで、認めたくなかっただけ?

小さい!小さすぎる‼
こんなちっぽけなプライドを握りしめて離せないなんて!!!
今すぐ、顔を洗って出直します。
 
4. Posted by 田舎の神主   2020年11月24日 18:06
「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆう) べに死すとも可なり。」・・・論語   十代の終わりにこの言葉を知ってからずっと、世の中にはそんなに凄い「道」というものは無く、何かの例えとか意気込みのことだろうなと思っていました。しかし、世の中には、人それぞれだが、確かにそれはあるという事件、事例等があります。

昭和45年(1970年)の市ヶ谷事件を裁く法廷で、君主制日本を支持する、楯の会・古賀浩靖氏(23歳)と、米国占領軍による憲法や民主主義を護持する市ヶ谷駐屯地東部方面総監・益田兼利氏(51歳)は、全く噛み合わない論争をした。その後、三島由紀夫氏の最後の言葉とその状況を供述した。(供述内容のため敬称を省く)

昭和45年11月25日、自衛隊東部方面総監室で、古賀浩靖、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)は、三島由紀夫(45歳)と森田必勝(まさかつ25歳)の自決を泣きながら見守った。
古賀浩靖は、総監・益田兼利の目の前で、切腹した三島由紀夫を介錯し、次いで切腹した森田必勝の首も斬り落とした。そして、古賀は三島と森田の頭部を持ち上げて、総監室の床に並べて安置した。因みに、首と胴体の距離は約1メートルだった。

自決前に、三島由紀夫は、総監・益田兼利に次のように述べ、これが最後の言葉である。「『総監に対しては、何の怨みもございません。これは自衛隊のためになるのです。自衛隊を天皇にお返ししなければ、日本の国は滅びます。』と言われ、制服を脱がれて自害された。このような、最後に言われた三島先生の心情は判っていただけると思います。」と古賀氏は供述した。刑期を終えると、古賀氏は国学院大学で神道を学び、九州の神社の神主になった。

5. Posted by 田舎の神主   2020年11月24日 18:06
このような印象に残る鮮烈な事件は、そういった「命を懸けるべき道」が、実際に存在することを再認識させてくれます。
道場での稽古も、ご指導下さる師匠は命を懸けるかの意気込みが感じられます。
先日の稽古では、私も、「そんな太極拳みたいな動きはしなくていい」という師父の言葉を聞いて、これは、もっと大きなものだと感じ、素晴らしいと思いました。

明日、令和2年11月25日は50年目の「憂国忌」を迎えます。
 
6. Posted by 円山玄花   2020年11月24日 18:24
「分かりますか?」と問いかけられると、”自分は何かを分かっていなければならない”と思い、
「分かりましたか?」と問われれば、”何かを分かったことにしておかなければならない”と思う。
・・自分もそうでした。
それは、自身の修行とも研究とも全く関係の無い思考であり、何を分かるかと問われたのかも分からず、果ては自分は本当にわかったのかどうかさえ、分からなくなります。
分かっていないことは、わからない。
その当たり前のことに正面から向き合えたときに初めて、自分は何が分かっていて、何が分からないのかが見えてきました。
師父の「わかりますか」という問いかけは、私にはまるで「そこがポイントだよ」と言われているように感じられます。ボーッとせずに、気がつきなさい。目を覚ましなさい、と。
ですから、それは禅のマスターが弟子を殴りつけることと、同じことなのだと思います。
 
7. Posted by 佐藤玄空   2020年11月24日 20:40
ともすれば視野が狭くなり頭ばかりが大きくなります。
同じものを見ているのに「わかる」人と「わからない」人。
いろいろ考えさせられました。
「わかる」ことは「できる」ことへの一歩近づいたことにはなりますが決して「できる」ではない。
示されたことに対して「わかる」ということは正しく「視る」ことになるのかしら。

「そんな太極拳みたいな・・・・」
それを言える指導者は本当に数少ないと思います。
というか聞いたことこもありません。
 
8. Posted by マルコビッチ   2020年11月25日 20:38
「わかりますか?」と問われ、誰も何も答えられずにしんとしてしまうことがあります。
私もその一人です。
そんな時、私の中で「わかっていると思っていることはあっているのだろうか」わかっているのか、わからないのか、とても曖昧な状態であります。
しかし、一度だけ「わかりますか?」と問われ、「はい!」と答えたことがあります。
咄嗟に出た返事で、自分でも驚きました。
その時は何も考えていず、その”わかる”ということがあっているのかなどとも考えませんでした。
ただ、教えて頂いてきたことのピースが一致したような感じだったのです。
考えてみれば、あっているかも出来ているかと同じで、まるばつの○が欲しいという心理ですね。
私が、生まれてから今まで培ってきた考え方捉え方はこういうことかと思います。
理解は理解で、○でもないし×でもない。
こうして固まった頭の中をかき混ぜて、習慣となっている考え方に気付いていきたいです。
ささやかでも、小さな理解が次の理解につながる瞬間が面白いです。
太極拳がわからないのではなく、自分自身のことがわからないのかもしれませんね。
 
9. Posted by 川島玄峰   2020年11月26日 21:09
師父に「わかるかな」と言われると、見方が変化するようになります。
太郎冠者さんが云うように理解がつながる要素を感じ、それを何とかしようと必死に考え集中します。
そして、同時に稽古に取り組む姿勢、仕方、取り方が大事であることを「わかるかな」とも問いかけられているように思います。

それは、グライダー化された思考、姿勢、精神を修正させるためのレールを敷いているように感じます。
その結果、稽古以外の日常にも影響を与え、精神が修正されることで傲慢な状態を作らせなくさせ、自ら取れるような己を変容するきっかけとなるように思います。
これからも精進して参ります。
 
10. Posted by 松久宗玄   2020年11月27日 00:24
師父の「わかるかな」の問いかけに対しては、
それが言葉の連なりとして聞こえた時には、
理解はその輪郭を結んでおらず、物事を外から眺めるような距離感を覚え、
それが感覚の一致として体感された時には、
理解は晴れやかに明確で、物事との一致の中にある味わいは感動的でさえあります。

師父は、この場で分かり、変わる事が出来るのだと仰います。
本当の理解とは、本来はそのように一瞬で起こるものなのでしょう。

戦後教育世代の私達は、既定のカリキュラムを熟していって、
方法を習熟していく事が身に付いていて、
その中で安心して続けていく事がとても好きです。
予測が成立する範囲で、コントロールできる状況を好みます。

その自分が安心できる枠の範囲でちまちまとやっていて、
それが本当の理解を妨げているから、
師匠はそんな枠は早く捨てろよ、と問いかけ続けてくれるのですね。

太郎冠者さんには、
いつも「ハッ」とさせられる視点を示して頂き勉強になります。
ありがとうございました。
 
11. Posted by 清水   2020年11月27日 17:36
今まで、師父に何度も何度もわかるかなと言われ、また、いずれわかる時が来るかもしれないと、様々な例えや、わかりやすいよう噛み砕いて、沢山の話をしてくださいました。
それは、聞いた瞬間に、「ああ、そうだったのか」と、自分の中に入ってくることもあれば、まるでわからないこともあります。
そのわからないこという事を、自分の読解力や知能の問題と以前の私は考えていました。
しかし、わかる為の努力と準備をどれだけ自分に課してきたのか、そのことが大事なのだ、そこが問題なのだと思えるようになってきました。

貴重な投稿をありがとうございます。
遅いコメントで失礼しました。
 
12. Posted by ハイネケン   2020年11月27日 22:49
「わかるだろうか」への返答をしようとすると、何がわからないのか? 何をしているのか?どれほど自問や観察があるのだろうか?
師からの問いかけに対して答えようとすることで漸く問題を顕在化させようと考えるスタート地点の様ですし、出発点を決める定点の様な感じがします。
「わかりますか」の一言が太極拳の理解ではないとすると、太極という思想のようなものなのか、はたまた今一瞬のライブの様な関係性なのか。
わからないな・・・と考えても進んでない気がしますので「わかるだろうか」という問いかけがどの様なニュアンスなのか、私の思考ではなく、感覚として大きく捉え直してみたいです。かなり難しい事ですが。
 
13. Posted by 太郎冠者   2020年12月11日 17:36
☆西川敦玄さん

逃げない、晴れ晴れと立ち向かう…

師父が幾度となく語りかけてくださり、自分にとっても非常に大切な言葉になりました。
稽古をしている時、日常を送っている時、自己欺瞞は誰にだって生じてしまうかと思います。もしそうなった時、どうしたらいいのでしょう。

そういう時も、自分としっかり向かい合わなければいけない、と師父は仰って下さいました。
自己欺瞞が見つかり、それを否定したい時、それもまた自分の内側から逃避したいということなのかなと、思うようになりました。

晴れ晴れと立ち向かわなければならないのは、自分に対してなのではないか、とも思いました。
 
14. Posted by 太郎冠者   2020年12月13日 13:00
☆阿部玄明さん
近代の学校教育は、端的に言えば社会の歯車となる人間を育てることに主眼が置かれていて、それは人間を成長させるものとは相容れない種類のものではないのかと思います。

むしろ、人間として成長、独立してしまった人は、大人しく社会の歯車として収まってくれるとは思えないので、ある意味厄介者になるとも言えるのかもしれません(特に支配階級にとっては)。

それと比較して、太極拳で求められるのは、改革者になること…自分自身を改革していけることだと思うので、学校教育の思想にどっぷりと浸かったままでは、それは稽古は取っていけないですよね…と、自分のこととして思います。
 
15. Posted by 太郎冠者   2020年12月13日 13:11
☆川山継玄さん
敦玄師兄へのコメントでも書かせていただきましたが、「晴れ晴れと立ち向かう」のは、自分自身に対してもそうなのかなと思います。
弱い自分は誰の中にでもあるかと思いますが、強くなるためにそれを否定するのではなく、弱い自分に対しても、しっかりと向かい合う必要があるのではないかと思います。

観照する対象は、しっかり出来ている自分だけでなく、出来ない自分も含まれます。強くあろうと、弱い自分を否定してしまっては、全体的なものにはならないのではないかと思います。

と、これらは全て師父に教えていただいたことです。
これほどまでに細部にわたり指導していただける道場は、そうそう無いのではないかと思います。
 
16. Posted by 太郎冠者   2020年12月15日 00:14
☆田舎の神主さん
三島由紀夫先生の本は少しだけ読んだことがあるのですが、とても繊細な筆遣いで、普通の人は気づかない、事細やかな機微を感じ取れる方なのかな、と感じたことがあります。

もともと弱かった自分をこれではいけないと、心身ともに鍛え上げた、と書かれていたと記憶しています。
そして、憂国の思いを胸に、最後は激しく燃え盛るように、人生を全うされたのだと思います。

事の是非はともかくとして、生きていく中で何かを感じ取り、「これではいけない」と行動を起こし、確かにこの世の中に大きな足跡を残していった…。
このような生き方が出来る人間が、果たしてどれくらい現代にいるのでしょうか。
師父が太極拳に抱く思い、太極拳を通して見ている世界がこのようなものだとしたら、果たして自分はどれほど本気で取り組めているのでしょうか。
考えない日はありません。
 
17. Posted by 太郎冠者   2020年12月15日 00:24
☆円山玄花さん
師父が常々仰っている「科学的な態度」とは、自分は無知であることを知ることであり、世界は未知に満ち溢れていることを味わえることではないか、と感じます。

師父の「わかりますか」という言葉は、「わかろうとしていますか」と問いかけているのと同義であって、その、未知の世界を探究していける精神こそが科学であり、一歩ずつそれを行なっていくことが研究ではないかと思います。
学校教育では、わからないことで評価が下がり、自分が下であると思わされるようなシステムになっているかと思います。
そうすることで「得」をする人間たちが、そのように都合よくシステムを作り上げてきたかと思うと、そういった連中には「喝」を一発入れてあげたくなるものです。
そのようなものに左右されない自分でありたいと、常々思います。
 
18. Posted by 太郎冠者   2020年12月15日 00:42
☆佐藤玄空さん
師父の「わかりますか」という言葉に何か理解が生じるとき、師父の言葉ではなくて、師父そのものへと、師父の存在に対する共感のようなものが生じているのではないかな、と感じる時があります。…一方的な勘違いなのかもしれませんが。

師父の言葉、考え方…特に最近のお話では、物事の研究に対する向かい方というものに、自分は科学的な一貫性と論理的な秩序が感じられます。
師父の豊富な話題、ユーモアのある話し方、それらの一見無秩序な話の中に、研究に向かうのに必要な科学的な態度が含まれている…そういう数学的な整合性が見えたとき、自分は電気が流れたように、驚きと喜びを感じます。
この宇宙ができた時からある普遍的な法則性は、確かに「太極拳」という言葉で一括りにするには無理があるのかもしれません。
そういうことを体で理解している師父という人から太極拳を教わることができるのは、至高の喜びと言って過言ではないと思います。
 
19. Posted by 太郎冠者   2020年12月15日 00:47
☆マルコビッチさん
咄嗟に返事が出たというのは、本当に理解している証拠なのかもしれませんね。

人間が成長していく過程で物事を理解していく時、最初に物事の概念を覚えるのは言葉ではなくて言葉以前の「何か」、なんとなくの感覚のようなものなのだそうです。
歳をとってくると「あれ」「それ」と言葉がだんだん出なくなってきて悲しいことがありますが、その「あれ」や「それ」と言った状態でまず理解し、それから頭と言葉での理解につながってくるのだそうです。

うまく表現できなくてもしっかりと体では理解していること。
道場の稽古でも、言われていることを覚えていることよりも、身に付いていることの方がよっぽど武術的なのだと、常々思わされます。

身についた上で、表現までできれば完璧なのだとは思いますが…。
 
20. Posted by 太郎冠者   2020年12月15日 00:58
☆川島玄峰さん
自ら行動し、物事を切り開いてく…そういう人間ことをどう表現したらいいんだろうと常々思っていたとき、師父の寄稿で「飛行機人間」と「グライダー人間」という例えを知り、これだ!と膝を叩いたものです。

上のコメントにも書かせて頂いた通り、わかるということは頭だけではなく、身体的なものも大きく関わっているのではないかと思います。それは、「わかった!」という理解、変容は即座に体に繋がり、行動を変えるものだと思うからです。

自ら行動を起こしていく、一個の自立した人間、そういったものが求められるのは、物事を追求していくのに必要な自然の理ではないかと思います。
仰る通り、自分が変容していく一番大事なところは、日常の中に潜んでいるのではと、自分にも感じられます。
 
21. Posted by 太郎冠者   2020年12月18日 01:45
☆松久宗玄さん
>予測が成立する範囲で、コントロールできる状況
師父はよく、武術と格闘技=スポーツは違うというお話をしてくださいますが、上述の状況とはまさに、スポーツに当てはまるのではないかと思います。

学校での勉強、受験や成績の付け方など、ある意味では全てレギュレーションを決めた上での勝負と言えるかと思います。
それが、いざ実際の社会に出た途端、そんな状況は皆無だと言えるのではないかと思います。
それをうまく隠せるよう、巧みに構築してあるのが今の社会と言えなくもないのかもしれませんが、そこで上手に生きていけるようなやり方では、物事の本質に関わる太極拳のことなど、まるでわからないのだと思います。
そういう意味も含めて、師父は我々に「わかるかな」と問いかけてくださっているのではないかと思います。
 
22. Posted by 太郎冠者   2020年12月18日 01:53
☆清水さん
先日、玄花后嗣の後ろで套路を行ったとき、立ち方などそれまで稽古してきたことが「動くこと」として套路にこれだけ集約されていて、かつそれが例えば散手などで向かい合ったとしたら、どれだけ恐ろしいものになるかが、不意に自分の中で噛み合って新たに見えたことがありました。

その瞬間、確かに何かわかったのだと思うのですが、それらが結びついた時の喜びたるや、筆舌に尽くし難いものがありました。
稽古中だというのに、思わず叫びそうになったのですが、あんまり変な反応をしていると「またおかしくなってる
…」と言われそうだったので、なんとか抑えたものです。

自分にとってそれは、準備していて起きたことではありませんでした。稽古そのものが準備といえばそうなのかもしれませんが、それよりはむしろ、不意に鈍器で殴られたような衝撃に近かったです。
わかるということは、「私にはこれだけの準備が出来ている。なのでわかるはずだ」ということではないような気がした体験でした。
 
23. Posted by 太郎冠者   2020年12月18日 02:08
☆ハイネケンさん
記事に書かせて頂いた禅のマスターの一撃を、果たして弟子は予期していたのだろうか、と疑問に思います。
おそらく、その弟子は師に殴り殺されることなど、全く考えていなかったはずです。
晴天の霹靂、全く予想していなかったことによって、その弟子は悟りを得たのではないか、と思います。

彼はおそらく、日々の生活を修行として、ただ黙々と続けていたのではないでしょうか。
わかるとかわからないといったことも超えて、ただ修行に没頭した瞬間、その瞬間にハッとする気づきを与えられる。

師父の言葉はいつも、その「在り方」に通じているだろうか?
と問いかけてくださっているように自分には感じられます。
 

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