2020年09月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その50

  「身につく」ということ

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 武術において求められるのは、ノートに正しく記述された教えを丸暗記して間違えずに言えることではなくて、実際にその教えによって、体が動けることではないかと思います。
 そのためには、道場で指導していただいたことをただ大切にしまっておくのではなく、それをしっかりと正しく理解し、身につくまで自分で稽古する必要があるかと思います。

 要点だけを抑えて理解した気持ちになる、もしくは、道場で示されていることを聞き、理解したつもりになって実際にはそれが反映されていないということは、普段の稽古をしている中で、気を付けているつもりでも、いくつも出てきてしまうことがあります。

 先日の稽古で、玄花后嗣と自分の他に誰も門人が来ないという珍しい(幸運な!!)日がありました。その為か、師父より「1つだけ教えてあげなさい」と玄花后嗣に指示があったとのことで、特別にひとつだけ見ていただくことが出来ました。

 他の門人の皆さまの反感を買わないように先に言わせていただきますが、そこで教えて頂いたのは、特別な秘伝などでは全くなく、その前の日の一般クラスの稽古でも玄花后嗣が言葉にしており、動きとしても示していただいていたような内容でした。
 唯一違ったのは、それをどのように見て、どのように行うかという、本当に些細な一点だけでした。
 説明をすれば「たったそれだけ」とも感じられるような内容ではないかと思います。しかし、それを意識せずにやるときと、意識してやったときの違いは、自分の体感的にはものすごい違いがあったということだけは言及させていただきます。

 自分=太郎冠者にとって足りないところ、というポイントを絞っていただいたというのも大きかったかと思いますが、これほどまでに違うとは…と、唖然としてしまいました。
 歩くとき、歩法を行うときに捉えたいはずの部分が、少し外れてしまうという自分の問題があったのですが、その些細な捉え方の改善によって、大きな違いが生じました。
 そのことを伝えると、玄花后嗣がにこりと笑いながら、
「お宝はどこにでも転がっている。けど、それと一緒に転がっていてはダメですね」
という師父の言葉をお話してくださり、苦笑いをしてしまいました。

 お宝はどこにでも転がっている…これは本当に嘘ではなくて、道場での稽古の間中、気づいても気づいていなくても、本当に大切な教えはどこにでもあるのではないかと、改めて痛感させられた出来事でした。
 思い返してみると、その日、自分が指導していただいたことは、それまでにも師父や玄花后嗣の動きの中に、しっかりと現れていたことが思い出されます。隠されることなく、それは示していただいていたことだったのです。同様に、それはどのような状態なのかというのも、一般クラスの中でさえ、言葉として示していただいていたのです。ですが、それを正しく結びつけ、理解に至るという部分が足りていなかったのです。
 これは完全に、見ている側の、受け取り側の問題であり、それこそがその修行者…自分の理解の度合いの現れであると言えるのだと思います。

 指導していただいた後、「確かに示していただいていたのに、どうして気づけないんでしょうね」と自分が言うと、
「だから、真伝を正しく理解した指導者が必要なのです」と言っていただき、大いに納得できました。
 ほんの些細な違いで理解がまるで180度も変化してしまうのですから、すごいことでもあり、本当に恐ろしいことでもあると思います。
 わずかな思い込みで生じる理解の不完全さ、ほんの小さなことで、それ以降の伝承が変わってしまう可能性があるのだとしたら、どれだけの精度で勉強をしていかないといけないのかが、それだけで想像ができます。

 師父にずっと言っていただいている、『自分を挟まずに受け取ること』…。
 それこそが本当に大事なことで、そこにあるはずのお宝を、本当にお宝として受け取ることができるか、そうではないかを分ける分岐点になっているのだと思いました。

 この出来事は、自分にとっては教えていただいた内容による自身の変化という点も重要であったものの、何よりも、自分がどのように普段の稽古を見て受け取っているのかを改めて問われるという、大きな出来事であったように感じました。

 自分を挟まずに、教わっていることをどれだけ稽古できているでしょうか。

 稽古中、他の人がどのように稽古をしているかという点にも関心があり、それとなく盗み見たり、何を稽古しているのかをそっとメモしておくということを続けたりしていました。
 最近、メキメキと上達されているAさんなど、僕にとっては本当に大切な盗み見…もとい勉強の対象であるのですが、そのAさんもまた、他の人の様子を僕以上に良く見ており、そして稽古に取り組む姿も、自らが何をしようとしているのか、じっくりと向かい合っている様子が見て取れるように感じます。
 Aさんからは、道場で指導して頂いていることを、余計なことを挟まずに取り組もうとされている様子が見えて、その取り組んでいる様子が自分にとっては本当に勉強になります。
 Aさんと対練で相手をさせていただくと、それまでの稽古で培われてきた動きが、そっくりそのまま現れているのが感じられます。
 何日か経ってまた対練をすると、前にあった動きはそのまま、さらに精度を上げて動きが変わっているのが感じられます。
 これが、稽古が「身につく」ということなのかと、その時に思いました。

 何よりもAさんの身についているのは、勉強の仕方なのではないかと思います。自分を挟まずに、示されていることを見聞きし、それを稽古し、それによって自分の体が動くようになること。そしてまた新たに示されることを勉強していくこと。ごく当たり前のプロセスですが、知っているのと実行できるのでは、隔絶の隔たりがあるかと思います。
 見せていただいているもの、勉強させていただいているものを大切にし、自分はどうなのだろうかと、日々自問する毎日です。

                              (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その51」の掲載は、11月22日(日)の予定です

disciples at 10:30コメント(21)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2020年09月26日 12:54
 >理解しているつもりになっている・・
拝見させていただいて、真似をして、「これだ!」と思い動いてみる。
「これだ、同じだ!」と思い込む。
そうして、対練で相手が崩れようものならいい気になる。
そして、そのことに執着して同じことを繰り返すことにより、他の大事なことが見えなくなり受け取れなくなってしまう。
私はずっとそんなことの繰り返しでした。今でも意識できずにあるのだと思います。
だけどある日、疑問が湧いてきます。(常にこれでいいのかという疑問はあり続けているのですが・・)
形が違うことや、動きの違いに気がついたり、見て頂いてる方からご指摘を頂くからです。
私が見せていただいたものは何だったのか、あらゆる理解と交差して、ポンと「これは、初めから教えていただき、言われ続けている、基本には当てはまらない!」という簡単な答えが出てきたのです。
何という浅はかさでしょう。
日常の生活でもこういうことがあるのでしょうね・・
この動きはどんな考え方から来ているのか、どこから来たのか、じっくり向かい合って、稽古を積んでいくことにより、さらなる間違いに気づいていくのだと思いました。

いつも記事のご投稿ありがとうございます。
 
2. Posted by 川山継玄   2020年09月26日 16:19
太郎冠者さんのとても誠実に丁寧に、稽古していらっしゃる様子を拝読し、自分の中の傲慢さ、身勝手さ、不勉強さ、甘えなど様々なものが、音を立てて剥がれ落ちていくのを感じました。

>自分を挟まずに、教わっていることをどれだけ稽古できているでしょうか。

このように、どれだけ自分自身に問いかけ、誠実に稽古できていただろうかと省みました。
私の場合は、何事においても自分がわかるであろう、できるであろうと思われる範囲に狭めて欲求を満たそうとしていたことが原因で、自分のフィルターを通して稽古をしていたのだと気付かされました。腐っている・カビが生えそうだと自分でもうんざりします。
「欲しい!!」「わかりたい!!」という衝動や感動を抑え込んでいたのだと思います。
いろいろな自分の都合を挟み、教わっていること、今まで教わったことから目をそらせて、自分の解釈の中でやろうと躍起になっていたと思います。
先日の稽古で、「できる人のやり方や在り方をよく観てみる。お互いの事を観察しあってみる。せっかく一緒に稽古しているのですから、それを活かせば良いではないですか。」と玄花后嗣からお言葉頂きました。
太郎冠者さんが、師父・玄花后嗣からのご指導、周りの方々の観察からぐんぐん吸収し勉強されている熱意を感じ、これから自分の奥底の本当の声に耳を澄ませ、それに身を任せてみようと思います。ご指導いただく事、周りの方々、今起こっている状況から、一つでも多くを学び、吸収したいと思います。
記事をはじめ、稽古でも太郎冠者さんには本当に助けられています。
ありがとうございます。
 
3. Posted by 西川敦玄   2020年09月26日 19:33
今日、研究ということにたいする一つの定義について知る機会がありました。
そこには、「研究」という用語は、仮説を検証し、結論を導き出すことを可能とし、それによって、一般化可能な知識を開発したり、そのような知識に貢献したりするように考案された活動を意味するとありました。
私は仮説ということを、思いつきと同義もしくは、思いつきから発展したかのようにおもえる発見のようなものだと思っていました。しかし、その思いつきは、結論を導き出すことが可能な土台に立っているのものなのか、甚だ心許なく思っています。実際的に取り組むには、一般化が可能な土台に立つ必要があるのだと思います。
今回の太郎冠者様の投稿をきっかけに、目にとまりました。記事に目を向ける事で気付く事がありますね。今までとこれからの稽古のあり方について実際的に取り組んでいきたいと思います。
 
4. Posted by 阿部   2020年09月27日 11:20
自分の稽古を振り返ると、示されたことをそのまま理解できたと思い、いざ実行に移してみるとなかなかその通りに動けない。または以前できていたこと(もしくは出来ていたと思っていた)が、今日になって同じようにやってみたらなぜかできないことが良くあります。いずれのパターンでも共通した問題は"正しいこととの違いが分かっていないこと"にあります(自分の場合はですが・・・・・)。違いが判ればそこに修正をかければい良いだけですがそれを認識できていないときは何でできないんだろう?教わった通りにやってるんだけどなあ になってしまう。そのような場面を思い返すと大体できないことに焦りを感じ間違った何かを一生懸命やりつつづけている。そしてやっているとそのうち何かが生じることを期待している。そんな合理的でない行動をしてるのです。外側の現象に意識を向けすぎていて自分の状態を見れないと自分がやっていることの違いは
到底つかめません。自分の立っている状態、取り組み状態も含めて違いに敏感になる工夫の必要性を日々痛感してます。
 
5. Posted by 川島玄峰   2020年09月27日 11:37
稽古で示されたことを、自分の中で納得いく回路で処理すると全く自分勝手な行動をとりはじめるのではないかと思いました。
納得することは必要ですが、自分であればこうするという癖というか、示されたことの内容を自分流の動作で納得してしまう。
この自分流の納得は、対練をすればすぐにその残念な結果を知らしめてくれます。

『自分を挟まずに受け取ること』

稽古する場は、まさに我が儘で傲慢な自分との闘いです。
テクニックだけでない、もっと必要な部分を稽古では鍛えれてると思いました。

太郎冠者さん、いつも自問自答させて頂きありがとうございます。
 
6. Posted by 田舎の神主   2020年09月27日 22:38
私も、先日の稽古で門人が一人という初めての日がありました。「歩く」ことの理解が浅いところを玄花后嗣にご指導いただきました。やはり、それは特別な秘伝ではなく毎回のように動きとして示されている事でした。

充分示されているのに全く見えてないところや、どのような意識を働かせて歩くか、でした。私の場合、「合わせる」時の感覚が、実感を得たいがため余分にひねっている。そして、「片足にのる」時に腰のあたりがりきんでいる。また、「ふむ」時に足にダイレクトに踏んでいる。という難点が見つかりました。
こういった難点の動きをそのまま続けていると、過去に、必ずと言っていい程どこかを痛めていましたので、私にとって、そのご指導は「秘伝」に近いものがありました。

小さな動きで少し違ったことをしていると分かりにくいから、どうせ違うのなら(勘違いをしているのなら)大きな動きで大きな間違いをした方が、指導者にも目にとまり、また、自身もなんか変な動きだと思い、早く修正がきく。と指導を受けたことがあります。
その通りに、大きな間違いと勘違いを毎回繰り返しては、ご教示を受けてきましたが、油断すると、過去に修正したはずの勘違いをまた繰り返していることがあります。

やはり、自分を挟まずにそのものを受け取り、何をしているかを考えながら稽古をするといった、「勉強の仕方」を身に付ける事が大事だと分かりました。稽古は、毎回、基本から対練まで一連の関連があります。「これが何をしているかわかりますか」と問われると、すぐに答えられる門人があり、自分は、なんておぼろげな理解だということが分かります。
毎回の稽古で自分にとって足りないものは、まず、「何を教示されているか」を理解することだと思いました。
 
7. Posted by 佐藤玄空   2020年09月27日 23:41
示された事が出来ないときは「誤った捉え方」をしているか「誤った方法」を行っているか「そのように動けない」か「自分の動きを認識できない」かという事が自分の場合はいえると思います。
4分の3は頭の問題ですね。
誤った捉え方は正しく見ていないことになりその結果誤った方法を選択してしまう。所謂思い込みで動いてしまうという事になでしょうか。
動ける体は稽古を通して手に入るとして正しく見ることは簡単に手に入るものではないと感じます。
体を動かす訓練は子供のころから行ってきましたが情報を正しく受け取る訓練は全くと言っていいほど行って来ませんでした。以前の職人のお話のようにごく一部の方々しかそのような訓練はされていない気がします。
正しく見るのは正しい情報を得るためなので自分なりにはあり得るはずもなく・・。
自分を挟まず正しく見れたとき上達の道は開けるのでしょうね。
ありがとうございました。
 
8. Posted by 松久宗玄   2020年09月28日 00:29
太極拳のお宝は、おし頂いて、整理整頓して並べて、
磨いて鑑賞する類いのお宝ではないように思います。

それは生きたライブの内に現れる閃きのようでもあり、
嗅覚鋭く捕まえて、旬を逃さず咀嚼して、
その味を味わい尽くし、自分でその味を再現できるか、
そこでの一連の活きた働きが問われのだと思います。

お宝だと分かる感性、
食してその味が分かる感性、
その味を自分で再構築できる感性、
問われるのは自分の側の活きた感性だと痛感します。

日常の中で感性を鈍らせてしまっていて、
それを仕方が無いと開き直っている自分が居ます。
浮世に流されつつも、自分の美意識を追求できる、
味の違いが分かる男を目指したいと思います。
 
9. Posted by 円山玄花   2020年09月28日 05:02
「自分を挟まずに受け取ること」と「身につくこと」を考えるとき、一瞬のアホらしい葛藤が横切ります。
料理を教わったときに、どれほど自分を挟まなくともシェフと同じ味にはならない・・と。
考えるまでもなく、これは料理ではなくレシピを教わっていることを表しているので、論点がずれていて話になりません。けれども、ここで言う「料理」を「太極拳」に変えてみて、同じようなズレに気づかずに考えている人もいるかも知れない、と思いました。

自分を挟んでしまうときというのは、動きを止めて考えている時が多いと思います。
それは既に「受け取る」ではなくて「考えて」いるので、受け取れないのでしょう。
師父が「スピードの課題」を出されたのも、思考には時間が必要ですが受け取るのには時間が必要ないからだと思います。
他の課題も、動作も、先ずは示されるだけです。その示されることさえ、私たちは師父から歩法でも套路でも何回でも見せて頂き示してもらうことが出来ますが、師父が師匠から教わったときには、見せてもらえたのは1回だけだと聞きました。
また、一流の料理人が料理教室を開催したとき、その教室はその人が料理する様子を唯見せてくれるだけだと仰っていました。秘伝のレシピや魚の焼き方のコツ、美味しそうな盛り付け方を教えてくれるのではなく、ただ見せるだけ。なぜでしょうか。
 
10. Posted by 円山玄花   2020年09月28日 05:03
(#2)
そして、身につくこととは、受け取れたことを、いつどこで何をしていても受け取り続けて実践し続けていることによって、つまりその知的で意識的な繰り返しによって練られ、形となり自分の一部となるのだと思えます。
反対に、自分の理解が及ばないところを思考で補おうとしても、それは一生懸命に自分を挟み込もうとしてるようなものなので、いつまで経っても理解には至らないのです。
私たちは、ただ道場に来て稽古をしていても、太極拳として動ける体は手に入らないし、ものの見方も考え方も改まりません。やはり、勉強の仕方が大事ですね。
 
11. Posted by ハイネケン   2020年09月28日 20:57
自分がどの様に稽古をしているか?と見てみると道場では見ている事自体が曖昧で、さらにうちに帰れば道場よりも真似の意識が行き届かず雑になりがちです。
今回の記事からせめて次回稽古までに少しでも動ける体づくりをと思い動いてみましたが、ただただ漠然としたものになってしまいイメージすら明確に味わえていない。
私は稽古する上での最初の方針が全く真似る事から始めていないのです。
何に向き合っていたのでしょうね・・・自分に驚きました。
ご教示頂きありがとうございました。
 
12. Posted by 清水龍玄   2020年09月30日 23:33
仕事でも、出来る人は、物事を観察する力が鍛えられているように感じます。
そして、常に自分本位の考え方にせず、道理に沿っているかを自問しているように思います。
自分本位で物事を見ていては何もわからないし、出来ないとわかっていても、つい、自分の見たいように見て、聞きたいように聞き、やりたいようにやってしまう。
それでは、法則も見えてこないし、道理に合わない事ばかりになってしまい、結局は、何も身に付いていない。
しかし、それとは違い、自分を挟まずに物事を受け取ることも、同じように人にできる能力ならば、それを勉強して、磨いていきたい、そう思います。

貴重な投稿をありがとうございました。
 
13. Posted by 太郎冠者   2020年10月09日 01:19
☆マルコビッチさん
道場というのは、日常生活では意識することの少ない「気付き」が促される場であると感じています。
まさに「道場」として、師父が用意してくださった場であるからこそ、我々は真摯に自分自身に向かい合う場として使わせていただくことが出来るのではないかと思います。

入門する以前のことですが、頭でっかちの自分は禅の本などを読んで、確かにすごいことが書いてあるけれど、日常の荒波の前の一時的な清涼剤みたいなものなのではないか?と思ったことがありました。

ところが太極武藝館に入門して初めて、そのような禅の精神はもっとタフで、日常の中でこそ光る価値があるものなど知ることができました。
(それもそのはず、師父が禅の修行もされていたからなのですが…)
太極拳に収まらない、本当に価値のあることに取り組めているのだなと、感動している毎日です。
 
14. Posted by 太郎冠者   2020年10月09日 01:29
☆川山継玄さん
こちらこそ、継玄さんをはじめ、皆様からとても多くのことを学ばせていただいています。
それは、自分一人でやっていたのでは到底間に合わないような量で、自分にたくさんの大切なことを学ばせていただいているのです。

師父や玄花后嗣をはじめ、多くの人の技の受け役をやらせていただく機会が多いので、他の人の指導をされている中で、どれだけ自分が多くのことを体験させていただいているか…。
その機会を逃す手はないですし、そうしてしまうにはあまりにもったいないチャンスです。

自らを鍛えていけるのは自分だけだと思うのですが、指導が完全な個人教授ではなく道場という、他の人のいる場所で行われていることにも、意味があるのではないかと思います。
他の人を見、感じ、そこからも学ぶ糧を得る。
そうやって成長できる場なのではないかと思います。
個々人それぞれの成長がまた、皆の糧になるのだとしたら、それは素晴らしいことではないかと思います。
 
15. Posted by 太郎冠者   2020年10月13日 02:15
☆西川敦玄さん
自分は本格的な「研究」というものに従事したことがないので、的外れなコメントになるかもしれません。

師父のお話を伺うとき、話題の豊富さに驚き、笑わされ、また真剣に物事に向かい考える機会を与えていただいているように思います。
その中で、師父の考え方の筋道と言いますか、論理のようなものが垣間見える(気がする)ときがあります。
先日も師父ご自身が「計算は苦手だけど、数学的思考は得意」と冗談を交えてお話してくださったのですが、仰るとおりに師父の考え方の骨子には、必ず数学的な法則性があるように感じられます。

コンピュータの世界で、ライフゲームという生命の誕生、進化や衰退などをシミュレートする研究があります。
大雑把に言えば、計算でたくさんのマス取りゲームをし続けるようなものですが、何世代も行っていく中で、そこに現れる生物を模したコマの群れに、様々なパターンが現れてきます。
続きます。
 
16. Posted by 太郎冠者   2020年10月13日 02:16
続きです。

純粋な数学的計算の結果でしかないそれらのパターンには、特徴的な戦略・戦術がいくつも現れてきます。
師父の太極拳の中に、あるいは特に、太極拳を習得していくために必要な事として指導していただいている中に、それらの戦略に通じる論理を持っているものが含まれていると言ったら、これは自分の妄想が行きすぎた結果でしょうか。

師父が常に仰っている、「情熱を持つ」「晴れ晴れと立ち向かう」…ただ精神を高く持つ必要があるという意味を超えて、数学的に意味のある戦略だったと言ったらおかしいと思われるでしょうか。
先日も師父が特別寄稿で書いてくださった通り、植物が種を撒き芽吹いていくことと、人間が成長していくことは、同じ法則なのではないかと思います。
「本物の持つ味は同じ」なのだとしたら、そこには必ず法則性があるはずで、それは数学的にも記述できるのではないかと思います。
そして、少なくとも自分は、師父を通して初めてその「本物」を感じることができたのだと思います。
 
17. Posted by 太郎冠者   2020年10月16日 17:11
☆阿部さん
教わっている通りにやっているはずなのに、できない…というのは、往々にして出てきます。
そういう時はやはり仰るとおり、こうすれば出来るはずという、出来ないことに対する焦りというものがあるように感じられます。

そういう状況では、実は稽古に対する目的が変わってしまっているのではないかと思います。
つまり、理解していける稽古ではなくて、結果を出すための稽古になってしまっていると、そうなってしまうのではないかと思います。

結果を出すことを目的にしてしまうと、一見合理的に見えて実は遠回りをしてしまうことになるというのは、稽古の面白い点のようにも感じられますね。
本当に大切なことに焦点を当てて、取り組んでいきたいものです。
 
18. Posted by 太郎冠者   2020年10月16日 17:17
☆川島玄峰さん
道場での指導において、師父は我々に、「私はそんなことを教えたいのではない」というお話をしてくださいます。

そんなことというのは、相手の崩し方や倒し方であり、闘う技術のことです。
師父は、太極拳とはそんなことではない、と仰るのです(!)

ですが、「そんなことではない」ことが分かることで初めて、太極拳のことがわかるようになり、戦えるようになる、と…。
禅問答のようであり、実際的なことのようでもあり。

こんなことを、ちゃんとした師に教わらずに理解できるものなのか、甚だ疑問です。
本当に、自分を挟み込んでいては出来ないのだと思います。
 
19. Posted by 太郎冠者   2020年10月19日 23:59
☆田舎の神主さん
>先日の稽古で門人が一人
それは素晴らしい日でしたね!…ということは僕も稽古に参加できなかった日、ということですよね…(複雑)。

>それは特別な秘伝ではなく毎回のように動きとして示されている事でした。
それは素晴らしいです。自分のときもそうでしたが、いつも示していただいている中にとてつもない秘密が示されており、自分たちはそれに気づけていないのだと思います。

先日も師父のお話の中で、すでに示されている内容の中にとてつもないことが含まれているということを言っていただき、その場にいたみんなが唖然とした、ということがありました。
考えてみれば当然のことですし、それに思い返してみると、すでにそう聞いたこともあったはずで…。
それも、他愛のない話の中で、ポロッと、です。

どれだけ自分が多くのことを見逃していたかを知り、より意識的に取り組んでいかなければいけないと改めて思いました。
 
20. Posted by 太郎冠者   2020年10月20日 00:11
☆佐藤玄空さん
個人的にはですが、見ることも、動くことも、自分を認識することも、本来分けることは出来ない、たった一つのあり方が問われているのではないかと思います。

稽古においても、どう動いているかを指導されますが、どう動いているかが問題ではなく、そこに何が起きているのかを認識できているのか、その点が常に問題の中心として見据えられているのではないかと思います。
先日、師父から存在についての話をしていただきました。
「存在」とはなんなのでしょうか。
身体のない思考はないし、意識がない身体は動くことができません。それらが元々分割出来ない存在であるはずなのに、我々はなぜそれを別々に捉え、問題にしてしまうのでしょうか。

もっともっと包括的な見方、「在り方」を、太極拳では問われているのではないかと思わざるを得ません。
そこにこそ、自分を挟まないことがあるのではないかと感じます。
 
21. Posted by 太郎冠者   2020年10月20日 00:34
☆松久宗玄さん
瞬間瞬間を味わうには、楽しめているかどうかにかかっているのではないかと思います。

生き生きとしている、喜び、それらプラスの感情が溢れているとき、人間は楽しめているのだと思いますし、そうでない状態でどれほどの発見があるのだろう、と思います。

稽古中、眉間にシワを寄せて深刻になっている我々に、師父はいつもジョークを言ってくださいます。
師父が、「人生は深刻なものなのだろうか?…そうでないと知っている人たちもいる」
と言ったとき、我々はゴクリと唾を飲み、そして、
「それはイタリア人」
と言われ、思わず吹き出してしまいましたね。

イタリア人…自由と喜びを愛しているように思えますね。
情熱的なイタリア人のように太極拳に取り組まないと、ダメなのでしょうね。
 

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