2020年07月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その49

  「情熱を持って」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 本気で何かを習得したいのなら、それに対して情熱を持たないことには、始まらないと思います。
 自分にとって師父は、ただ太極拳の師というのみならず、人として、男として、多くの大切なことを教えていただける人生の師と言える存在です。

 師父が以前、「情熱を持って」取り組むのだと、説いて下さったことがありました。
 その言葉には、ただ熱意を持つといったことや、熱心にやるといったことを超えた深い意味があるのではないかと思いました。

 自分が感じたのは、情熱には必ず行動が伴うのではないかという点です。口先だけの情熱…など、言葉にしただけで矛盾があるように感じられます。
 どれだけ熱心にやろうとしている、思っていると言ったところで、それが行動に結びつかないことには全く意味をなさないのだと思います。

 師父の言葉に重みを感じる一番の理由は、何よりも師父が「行動の人」だからです。
 数十年に渡る武術稽古という途方もない営みも当然のことながら、何か行事を行うとなったら、一切手を抜くことなく準備を行い、それを実行されます。
 太極武藝館の歌を作ると聞かされた時も、非常に驚きました。
 忙しい日々の合間を縫って実際に歌を完成させ、我々門人に自ら指導までしていただき、みんなが歌えるようにしていただきました。
 このような武術の師など、他に聞いたことがありません。ですが師父はそれを考え、実行に移されるのです。

 最近では、ご多忙のため道場に来られない時でも、スマートフォンを使ったテレビ通話を利用して指導をしていただくこともあり、常識に囚われない姿には、本当に驚かされます。
 中には「そんな指導で上達するわけがない」と思う人もいるかもしれませんが、実際に師父に指導を受けた人にポンポンと崩され投げ飛ばされるということを自分で味わうと、その結果に目を向けざるを得ません。

 それも全て、師父が理論的・科学的に太極拳を解明しており、何をどうしたらどうなるということを理解されていることの証明に他ならないのだと思います。
 そして、こういう文明の利器を利用することもいとわず、我々に指導をつけてくださるという師父の行動そのものが、師父が情熱を持って太極拳に取り組んでいらっしゃることの現れではないかと思います。
 その姿にこそ、我々門人は、何よりも多くのことを勉強させて頂いているのではないかと思います。
 師父のように太極拳に向かえているだろうか? と自分自身に問わない日はありません。
 口先だけ、うわべだけの情熱になってないだろうかと、常に自問自答しなければならないのだと思います。

 何かを理解することもまた、結果的には行動を変えることにつながることではないかと思います。
 太極拳の原理を頭で理解したということは論理的にありえず、理解が起これば、少なからず自らの動きに変化が生じるはずであり、そうでなければ本当の理解には至っていないと言えるのではないかと思います。
 このことは、自分を知的馬鹿へと誘う甘い誘惑と戦う時に大いに役立っています。

 極論すれば、本当に情熱を持って何かに取り組むとき、そこにあるのは「やる」か「やらない」かの2つだけであり、その間に「やろうとしている」というものはないのだと思います。
 やろうとしていると思っている間は、実際にはやってはいないはずです。
 実際に行動を起こしていない人間が、それに情熱を持っていると言えるのでしょうか?
 そうは言えないはずです。自分のこととしてもそう思います。

 世の中にはいろいろなことがありますが、どうしても興味を持てないこともありますし、特にやる必要を感じないこともあります。それらのことをやろうとは思いませんし、当然、情熱など持っているはずもありません。
 情熱を持たないものに関しては、変化を望まないものです。
 だからこそ、目標に向かって取り組んでいるはずの人間は抱いていて当たり前のはずの情熱について、師父はあえて我々に問い直してくださったのではないかと思います。
 自分の中で何かが袋小路に入り込んでしまった時、最後に照らしてくれるのは、自分の中にある光だけではないかと思います。本当に大事なこともまた、そのようにして見つけ出していかなければならないのではないかと思います。

 師父が「太極拳の構造はすでにそこにある」という話をしてくださったことがあります。
 何かを作っていくのではなくて、すでにそこにあるものを見つけ出して、磨いて使っていけるようにすること。それを行うためには、情熱を持ち、実践し続けることが必要不可欠なのだと思います。

 師父が行われることには、太極拳には繋がらない無駄なことは含まれていないように感じます。
 先日も、稽古でわからない部分で悩んでいた時、ふと浮かんできた太極武藝館の歌の歌詞に、とてつもないインスピレーションを受けたことがありました。
 稽古中にぶつぶつと歌詞を口ずさむのは怪しいことこの上なかったかもしれませんが、どうしてもわからなかった部分の解決の糸口が、その歌詞によって少し見えてきたのは紛れもない事実です。

 歌を作ると聞かされた時にはピンと来なかったものが、こうして稽古へと繋がってくるのは、まさに陰陽虚実が流転する太極の在り方だと感じられます。

                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その50」の掲載は、9月22日(火)の予定です

disciples at 18:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 佐藤玄空   2020年07月23日 06:45
以前師父が「フランス料理をyoutubeでみて真似したところで本物のフランス料理にはならない。似たものができたところでそれは似て非なるものにしかならない」という事をおっしゃっていました。
以前、中国でイスラム料理のお店でチャーハンを注文し出てきたそれを見てびっくりしました。
全然パラパラしてないし、具材も僅かで見た目がとても残念だったからです。でも一口食べて二度目のびっくり。イスラム料理特有のスパイスが効いた絶妙な美味さだったからです。同席した友人も同様に思ったらしく後々になっても「あのチャーハンは忘れられない」と語っていました。
おそらくTVなどで紹介されてもあのしょぼい(失礼)外観しか伝わらずとても食べてみたいとは思わなかったでしょう。
食べ物は食わない事にはうまさが分からず、武藝館の武術は行わない事には理解できません。
とはいえ、ガンハンドリングや降下訓練の練習などなんの稽古だろう?と思っていたものです。
やはり料理と稽古は皿まで食わなきゃわからないです。
 
2. Posted by 川山継玄   2020年07月23日 16:45
太郎冠者さん、いつもタイムリーな記事を投稿して下さり、本当にありがとうございます。
全てのことを学びに変えて稽古に取り組んでいらっしゃるお姿と記事に、いつも刺激を受け、学ばせていただいております。

私は、今まで太極拳に対する情熱を、いえ、すべてのことに対するものの見方を、勘違いしていたのだなと思います。
自分の中に既にあるものにもにも関わらず、それを外に求めたり、「このようなものであろう」と自分が思う型に当てはめようとしたり…。
それらの事に一生懸命で、そのものを感じ取れなくなっていたのです。
どこかいびつで、緊張があって、流れが無くて、それが私の動きとなって表れています。自分が情熱をもって取り組んでいると思っていても、なかなかそこから抜け出せず、恐怖ばかりが押し寄せてきます。

そんな時、とてもかわいらしいカップが手元に届きました。
私はそのカップを眺めていると、なんだかとっても嬉しく、心がわくわくしている自分に気が付きました。本当に、今までに味わったことのない感覚で、愛おしくてたまらず、紅茶やコーヒーを頂く時ばかりでなく、それを仕事をする時にも傍において眺めているほどです。今もそっと近くで見守ってくれています。
このカップは、もっと心と体を開放していいんだよ。そして、内に湧き上がる感覚を大切にして耳を済ませてごらん。と言ってくれているように感じます。

内なるものに目を向け、もう一度前を向いて歩んでいきたいと志を新たにしました。
 
3. Posted by 西川敦玄   2020年07月23日 17:44
情熱・・・・
私は、言葉が先にきて、幾度となく失敗をしてきました。

子どもが、成長すると、死ということの恐怖を訴えるようになることがあります。
振り返って我が身の事を考えると、小さいころ、自我の成長とともにだと思いますが、
今まさに生きて育まれていることが、無くなってしまう恐怖を感じていたように思います。

成長とともに、その恐怖感はなくなるか、感じなくなっていました。

記事にあるような 「自分の中の光」と表現されているものか分かりませんが、
自分の核のようなもの(精神的にですが)を最近感じることがありました。
そのとき、同時に子どもの時におぼえていたような、無くなることの不安感?を感じました。

情熱的な状態とは、『全てを忘れて打ち込むこと』 だと思っていましたが、
このところ、自己とそれが無くなっている状態を双方を感じられているまで、
打ち込むことを情熱と言うのでは・・・と思っているところです。
情熱的に打ち込むとは、
打ち込めば、それが永遠に失われていることをも、リアルに感じてしまう
のでは と。

とっても、まとまりのない、そして恥ずかしいほどナイーブな感想で済みません。
自分の中で、消化し切れていないのですね。

いつも、記事をありがとうございます。
 
4. Posted by 清水龍玄   2020年07月23日 21:55
情熱と聞くと、自分を突き動かすエネルギーのように思いますが、自分を突き動かすエネルギーだからこそ、変化が起こるのではないかなと思います。
変化がなく、停滞している、もしくは後退しているのなら、その気持ちは、憧れやちっぽけな望み程度のものなのだと思います。
果たして、自分自身の現状はどうか、なんの変化もなく、そのことに甘んじていて、変化できないことを打破する為に何かしたのか。
自分の人生には、全く足りていないと、太極拳を学ぶようになって、やっと気がつき始めました。
 
5. Posted by 松久宗玄   2020年07月23日 23:17
情熱、その最初の切っ掛けは、自分で起こすものではなく、
自分の中に火を付けられ、息を吹き込まれて、
否応なく燃やされるもののように感じます。

思えば最初に、師父の想像を絶する功夫に心を動かされ、
その後、師父の懐の深い生き様に心をかき立てられ、
その背中を追って歩いてきました。
自らの見る目の未熟さ、心の弱さ故に、自分に躓き、
寄り道の多い道行きであったと思います。

その自分に迷う中にも、師父の言葉は嵐のように力強く響き、
自分を吹き飛ばして、一切合切を押し流し、
その先で、前を向いて歩いていく決意が装填される感覚を覚えました。

それが師父の器から流出する情熱であるなら、
溺れているばかりではなく、飲み干してこそ弟子の本分かと思いました。

いつも自分を見直す問いを示して頂きありがとうございます。
 
6. Posted by 川島玄峰   2020年07月24日 11:30
絶対に習得したい気持ちがあっても、証明されたものを実感として理解されないと喪失感が生じると思います。
私は過去に幾度もその心境に陥りました。

しかし、はじめて師父より修得するための基本を丁寧に示され、それを自分の体にふれて動きとして導びいて頂いた時に、その通りに学べば習得は可能になるのではと希望を持ちました。
そして現在、その希望は、確実に習得できる道があると確信に変わっています。

あとは、自分がどれだけ稽古に励めるか努力の問題となりますが、希望が確信になれば、必ず習得するぞという気持ちが出てくると思います。
師父は、その奥深い確信部分を常に示されるので、稽古をする気持ちが尽きないでいます。

その尽きない気持ちは、気づくと情熱となり困難な探究の道も歩んでゆけると思っています。

毎回、太郎冠者さんには、自分を戒め、見つめなおす貴重な機会を与えて頂くので、本当にありがとうございます。
 
7. Posted by 阿部   2020年07月25日 00:28
太郎冠者さん 力強い記事を掲載頂き有り難うございました。

よく師父が思考ではなく感じろとおっしゃいます。このことは思考より感じることの方が発生する熱量が多く、体を動かすエネルギーに変換しやすいことをも示しているように思います。思考はマインドであり脳に属するが情熱を感じることはソウルであり魂に属する活動になる。精神活動にも階層があるのだと思います。何かを為すにあたりマインドよりソウルを使って自分を見つめ自分の体との関係性が一致するよう取り組んで見ることで突破できる課題が多くあるように思います。何事も初心(ソウル)を忘れずに継続して行きたいです。
 
8. Posted by 円山玄花   2020年07月25日 03:42
「情」とは、物事に感じて動く心の働き。「熱」とは、あつさ。
手元にある広辞典には、「情熱」とは「燃え立つような感情」だと記されています。
誰でも情熱を持つことは出来ますが、しかし、情熱を持ち続けることは誰にでも出来ることではないと、私は思います。
辞典にあるように、「燃え立つ」には燃料が投入され続けている必要があり、例えば焚き火をしたいときでも、誰かが用意してくれた焚き付けは、火付きが良くて焚き火初心者を喜ばせるけれど、上手に使わないとあっと言う間に燃え尽きて焚き火にはなりません。
燃え尽きてしまう火は、熾きない焚き火と同じなのだと思います。

そして、情熱を持ち続けるには努力が欠かせず、人はそれを継続することがとても困難です。
三日坊主や一暴十寒などの言葉があるのは、本来人が何かを継続することが苦手だからなのでしょう。だからこそ、継続は力となるし、才能を育むのだと思います。
時々、「自分には才能が無いから」と軽く言ってしまえる人がいますが、私から見ればそれは才能が育まれるほどの不断の努力をしなかった、若しくはそれほどに入れ込む対象がみつからなかったと公言しているように思えます。
師父の強さは、正に情熱を何十年も絶やすことなく持ち続けられたことにあると思います。
情熱に、時には自身を焼かれ、時には情熱を静観し、情熱と共に発見や学びが生じ、その人が育まれてくるのだと。
私たちは師匠の情熱をもらうことは出来ないし、仮に出来たとしても“焚き付け”にしかならないことでしょう。
 
9. Posted by マルコビッチ   2020年07月25日 16:25
 ”情熱”と聞くと思い出す一節があります。
「ナタナエルよ、君に情熱を教えよう
   善悪を判断して行動してはならぬ」 
 (師父の影響大ですが・・・)  
深く考えてはいないのですが、何故か心の奥に響き、突き刺さった言葉です。
今から思えば、人を傷つけ、罪悪感と絶望に苛めながらも、自分の行く道を押し通したのは一種の”情熱”だったのかもしれません。
ただ、今の自分が情熱を持ち続け、情熱的に生きているかと問えば、”No”と言わざるを得ません。
もちろん太極拳に対しては、稽古したい、取りたいという思いは強いのですが、以前の自分と比べると、常識的な日常に安穏としている自分を感じるからです。
師父はずっと常識に囚われず、ご自分の信じるところ、真理を追求するところから外れていず、一点の曇りもなくご自身と周りに関わり続けています。
私は師父の他に、このような方に出会ったことがありません。
何かに情熱を持ち続け、ひたむきに歩き続けることは、その人の全てを変容させるのだと思えます。
今一度、自分の生き様を見つめ直し、原点に戻りたいと思います。

ありがとうございました。
 
10. Posted by ハイネケン   2020年07月26日 03:23
昨年所用で出来なかった子供の自転車訓練を先月からしていました。
近頃はペダルを付けずに自転車に跨り、平らな道をつま先で蹴り走り、そして緩やかな坂道を走らせ、バランスに慣れたらペダルを付けて漕ぐ練習をするそうです。
私が幼少の頃、数十日掛けたはずの自走ですが、3日目で既に一人でペダルを漕ぎ始めて驚きました。
手足には練習で転んだ生傷がありながら、自転車に乗りたい一心でカサブタが治る前に次の練習へ向かう姿。
ふとバランスボールを使った訓練を思い出しました。何とも従来の太極拳では聞いたことのない訓練ですが、その味わい深い訓練、稽古に私は向き合っていない事に気づきました。出来ないことに向き合う子供の姿と自分を重ねると何とも情けなく、私は上達しない努力をしているかの様でした。
(本当に笑えない話です、、、)
太郎冠者さんの歌からインスピレーションを受けたとの話自体、情熱があるから感じたのだろうと思いますし、歌に情熱があるからこそ聞き手も情熱を感じる事が出来たのだと思います。

まだまだ子供の成長に負けていられないっ、父でした。
 
11. Posted by 田舎の神主   2020年07月26日 12:14
“情熱をもって行動する”この状態の逆は何かと自分なりに考えてみました。
それは、状態としては、“飽きてしまって何もしない”“ろくに考えもせずだらだらと行動する慣れた状態”“唯の日課”であり、
精神的には“もうどうでもいいとあきらめる”“自分はこれが限界と設定して楽になる”かなと思いました。
即ち、“ああなんて無駄な時間を過ごしたのだ”です。まるでばちが当たって抜け出せないような状態です。そして生きているのが感じられず空虚のように思います。

「情熱をもって行動する」これは生きていくには大切なことです。

では、どのようにしたらよいのでしょう。私なりに思ったものは、「見たものや感じたもののなかに、興味あるものや面白いものを探し楽しむ。」でした。

私も、稽古中に太極武藝館の歌の歌詞が思い浮かび、“これだ”と思いました。生きる糧の一つとなるような歌詞だと思います。
 
12. Posted by 太郎冠者   2020年08月01日 00:12
☆佐藤玄空さん
師父に道場で示して頂いていることには、全て太極拳の本質が流れているように感じます。

極端な話、師父が道場で言われたジョークのひとつひとつにも、遍く全て太極拳としての質が備わっているようにさえ感じられます。
そういう意図はないのかもしれませんが、師父という人が情熱を持って太極拳に向かわれているのが感じられるので、その師父から発せられるものは全て、太極拳との関わりを持っているように思えてしまうのです。

たとえその時、自分にわからなかったとしても、師父の太極拳を信頼していること・・・。
その気持ちがあるので、いずれはなにかが見えてくるのかもしれない、とそのように感じています。
 
13. Posted by 太郎冠者   2020年08月04日 03:13
☆川山継玄さん
こちらこそ、いつも真摯に稽古に取り組む姿を見て、勉強させて頂いています。ありがとうございます。

情熱というのは、ただ自分の中にボンと現れてそのまま続くものではなくて、毎日毎日、それこそ焚き火に薪をそえるように育てていくものではないかと感じています。

昨今、「やりがい」を求めて新しいことを無闇に求めていく風潮があります。
本当はそうではなくて、今自分が関わっているものに丁寧に向かい合ってこそ、本当にやりがいのある、自分の人生にとって益となる物事は見えてくるのではないかと感じています。

太極拳は、そう言ったことも自分に教えてくれているように思います。
 
14. Posted by 太郎冠者   2020年08月04日 03:23
☆西川敦玄さん
自分の死によって無に却ってしまうことの恐怖…
自分にも覚えがありますし、古来から人間なら誰しも抱く恐怖、ないし悩みなのだと思います。

けれど、もっと悪いのは、自分だけでなく周りの世界まで消えてしまうこと、そのことの方がもっとずっと恐ろしいのだ…と、最近では感じるようになりました。

人間はひとりでは生きておらず、周りの世界の中で繋がって生きているのだと思います。
それらが全て断ち切られ、消えてしまうことの恐怖に比べたら、ある意味、自分ひとりの死だったら、小さなことなのだと思うようになりました。
繋がり、生々流転すること。
その営みを、太極拳はダイレクトに味わわせてくれるように感じますし、自分が感じることだけで終わらせるわけにはいかないのだと、強く思います。
 
15. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 22:14
☆清水龍玄さん
個人的な感覚ですが、変化は自ら起こすというよりも、本当は常に変化しているのではないかと思います。
むしろ、変化が起きないように、同じところに留まろうと、知らないうちに努力してしまっているのではないか?と感じるところがあります。

時間が経てば嫌でもお腹は空いてきますし、そうなったらご飯を食べます。できればおいしいご飯を食べたい、そして食べ過ぎは良くありません…!
それが師父が仰っている、力を抜いて流れに乗ること(お腹が空いたらご飯を食べる)、そして情熱を持つこと(おいしいご飯!)なのではないかと思います。
そして、食べ過ぎないこと(自制、自照すること)でしょうか。
 
16. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 22:25
☆松久宗玄さん
自分も、いつも師父の後ろ姿に学ばせて頂いています。
師父の言葉に強い力を感じるのは、師父がいつも行動してきたからではないかと思います。

師父ご自身でやらないことは人には言わないし、やれないことをやれと言うことはありません。
いつも、師父は「私はこうしてきた」というような言い方をされます。
その歩まれてきた道そのものが、我々にとっての道標となるように感じます。
そして、同じ道を行こうと欲する我々もまた、師父と同じように未開の原野を開拓していく精神を持っていなければならないと思うのです。
 
17. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 22:34
☆川島玄峰さん
ちょっと変な表現かもしれませんが、師父の言葉や行動には数学的?(論理的?)な裏付けがいつもあるように感じます。

武術家として、生き残っていくために身につけられた行動規範に現れる生存戦略と言いますか…。
あらゆる過酷な状況を生き残ってきた先達たちが、その叡智を伝えてきたものが師父のもとに集まり、結晶化したものとでもいうのでしょうか。
それがある時では太極拳のような、格闘技術として現れ、ある時にはCQC講習として指導して頂いたような、生活にまで根差すような行動の仕方や考え方にまで及んでいるように感じます。

自分も含め、門人はみんなそれを師父から感じるために、師父が「本物」だと思い、遠方からでも通いたいという人が多くいるのではないかと思います。
本当に、ありがたい縁を与えて頂いているのだと思います。
 
18. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 22:40
☆阿部さん
人間と、自分が生きるこの世界は、自分が知覚できる以上の奥深さがあり、まるで思っても見なかったことが起こるものだと感じます。

阿部さんのおっしゃる通り、自分の体でさえも自分で思っている範疇を超えているように感じます。
頭の理解の枠をこえた現象が起こり得るというのは、毎回の稽古で実感しているところです。

それでも、それを導けるのは、人間の持っている意志の力ではないかと感じるのも確かです。
これから先、もっと予想だにしなかった発見が、どんどん出てくるように感じます。それを味わっていけるのは幸せなことだと思いますし、自分もそれを望んでいます。
 
19. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 22:52
☆円山玄花さん
ある物事に対して「努力し続けられる」ことが、その才能があることだという言葉を聞いて、おお、と思ったことがあります。

天才と呼ばれる人の自伝をいくつか読んだことがありますが、彼らはそれぞれのジャンルに対して、並々ならない努力をしています。ただ共通して、彼らにとってはそれが苦しいことではないように書かれていました。
情熱を持ってひたすらに取り組み、どんな壁が現れたとしても絶対にそれを投げ出しません。

才能がないから続けられないのではなくて、続けられないことが才能がないと証明することなのだとしたら、結局のところ決めるのはその人間自身、その人の意志の現れだということになります。
だとすれば、それを決めるのもまた自分自身の選択ではないかと、思いました。
 
20. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 23:15
☆マルコビッチさん
自分も師父に『地の糧』を教えていただくまで、恥ずかしながらアンドレ・ジィドのことはよく知りませんでした。

ちなみに地の糧の文庫版は絶版で、中古品にとてつもない値段が付いています…。
ですが、探せば見つかるものです。

ジィドに限らずですが、ノーベル文学賞を受賞したとなれば一時的に世間は熱狂的に騒ぎ立てます。
ところが、ブームが過ぎ去ってしまえばそんな作家など過去のもの。誰も知らない、図書館の片隅に眠っているカビくさい文学全集の作者でおしまいです。

本物の情熱と、一時的な熱狂の違い。
それは自分の心の中にも起こり得ることなので、深く注意しなければならないと感じています。
本物の情熱を持って、生きていきたいと思います。
 
21. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 23:27
☆ハイネケンさん
自転車といえば、自分も小学校に入る前、補助輪なしで乗りたいと思い立ちました。
父親は仕事で帰るのが遅く、とても休みの日まで待ってはいられませんでした。
幼稚園児だった僕は、自分で父親の工具箱を勝手に開けて、レンチを取り出して自分の自転車から補助輪を外しました。
実は当初から補助輪なんて曲がるのに邪魔だと思っていたのですが、案の定外してみたら乗りやすく、自力で練習しているうちに乗れるようになりました。

というわけで、自分には親と一緒に自転車に乗れたという微笑ましいエピソードが無いという話なのですが、やると決めた人間は(たとえ幼稚園児といえども)その意志を自らの努力で貫き通す力があることの現れかもしれません。
幼稚園児の自分にできたことが今の自分にできないわけがない!
と自分自身奮闘しているところです。

子供の成長を見守りつつ、我々大人も、子供の成長に負けないように頑張って行きましょう!
 
22. Posted by 太郎冠者   2020年08月06日 23:35
☆田舎の神主さん
生命というのは不思議なもので、生きることを諦めてしまうと、途端にその命でさえも失われていってしまうのではないかと感じます。

そもそも、この宇宙はエントロピーの法則が働いており、万物は須く秩序から無秩序に向かうようになっています。
その中において唯一、生命活動は無秩序から秩序へと回復していく方向性を持っており、そう向かっていく力のことを生命力と呼ぶのではないかと思います。

我々の中にある構造。日常の中では見出せない身体の秩序を見出していく太極拳は、それそのものが生命活動であり、命の根源たる力の現れではないかと感じています。
太極武藝館に入門した人が、当初よりどんどん元気になり、若返っていく様子を見ると、それが強く感じられるものです。
そして、自分自身もそうあるように努力して行こうと思います。
 

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