2020年05月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その48

 「システムとシンプルさについて」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 先日の稽古中、玄花后嗣から「学習していけるシステムを理解しないといけない」
というお話をしていただきました。
 稽古をしていて、自分がよく注意される点に、「頭で考えていて身体が動いていない」
というものがあります。頭で理解することが物事を理解することだ、と思っていたためなのですが、言ってみればそれが間違いの始まりなのかもしれません。
 極端なことを言えば、頭で理解することと、それができるようになる=本当に理解すること、との間には、全く何も関係がないのかもしれないとさえ思うようになりました。


・刀鍛冶の話

 刀が武器として使われなくなって久しいですが、現代でも、刀鍛冶は伝統文化として日本に残っています。
 日本では刀の製作は法律で規制されていて、しっかりと弟子入りして、認められた人間が伝統的な手法で作ることしか認められていません。

 聞いた話でしかないのですが、刀鍛冶の師のもとに弟子入りした人は、刀の作り方について事細かに教えてもらえるかというと全くそんなことはなく、最初の数年は ”炭切り” と言って、炉に火を灯すための炭を切る仕事をずっとやらされるそうです。
 炭を切って運ぶだけの毎日で、たまに師がやっている作業を横から覗き見できるだけであり、当然何も教えてもらえないそうです。
 そんなことを続けていると、ある時、ふいに師匠が作業のひとつを「やってみろ」とやらせてくれるそうです。師や兄弟子を見様見真似でやってみると、師が一言「ダメだな」とだけ言い、それからは自分もその作業に加わることが出来るようになる…。

 最初その話を知った時は、「伝統文化ってそんな感じなのかぁ」と思うと同時に、
「現代の冶金技術や金属工学の知識を使って、しっかり教えてくれれば、もっと簡単に凄いものが作れるんじゃないの?」とも思ったのですが、太極武藝館に入門し、今になってようやく、そういうことではないのだということが理解されてきました。

 先日の師父の特別寄稿で、「師は弟子に何もしない」という言葉がありました。
 ただそのものを見せ、弟子はその在り方を感じとる…。

 これほどまでに全体的で、豊かな方法があっただろうか!と自分は凄まじく感動したものです。武藝館に入門させていただいて、我ながら随分考え方が変わったと思います…。

 刀を作ることは、鉄を化学的に変化させていくという、極めて科学的なアプローチの集合体です。事細かに分析していけば、いくらでも技術的な説明はできるはずです。ですが、刀鍛冶の伝統的な師弟関係では、そのような説明の仕方は行われていないそうです。

 相槌を打つという言葉がありますが、これは鍛治の時に、熱した金属を2人で叩く様子からきた言葉だそうです。
 その、ハンマーで熱した金属を打った時に出る「カンッ」という音、その音で熟練の職人は金属の温度や変性の様子がわかるそうです。
 また、金属を熱する、焼き入れの時の炎の温度を、揺らめく炎の色を見ることで判断して、焼き入れの仕方を調整する。熱した後、冷ますための水の温度を、その時々の気温によって判断する、などなど…。

 一般人には理解しがたいことを、刀鍛冶の職人は、師匠から受け継がれてきた方法で理解し、実践しているそうです。
 昔から受け継がれてきた方法ですが、戦国の時代に、金属の温度による分子構造の変化、云々といったことは当然発見されていません。科学的に言えば、ほんの少し条件が変わっただけで、刀は使えない鉄屑になってしまうそうです。

 そのシビアな物理的な条件を、彼らは先人のやり方を真摯に学ぶことで受け継ぎ、現在まで発展させてきたというのだから、驚くほかはありません。

 ある意味では、科学的な知識がなくて事細かに説明できなかったために、刀鍛冶の師は説明をしなかったとも言えるのかもしれません。
 代わりに、その作業そのものを、何の説明もなしに見せる。
 教わる弟子は、説明をされない代わりに、それらの現象そのものを、余すことなく全て見ることが要求されます。
 師が何に耳を傾け、何をじっと見据えているのか。おそらく、それが何を意味するのかさえも、説明はしてくれないのでしょう。しかし、ただその様子は示されている。
 弟子入りした人は、それを全て真似していくしかないのでしょう。
 最初はわからなくとも、それを真似していくしか、刀を作る方法はないのですから。

 太極拳の話に戻りますが、頭で理解することが理解することではない、というのは、上にも書いた理由によります。
 鉄が変性する温度を知っていたとして、刀を作れるかというと、そんなことはない…それだけの理由です。

 もちろん、鉄の温度変化に対する科学的な知識があれば、刀を作る上で有効に活用はできるはずです。
 ですがその知識も、刀を作る上で鉄の温度変化がどのような役割を果たしているのかを、全体性の中で理解できていなければ、全く意味がなくなってしまいます。それよりは、むしろ科学知識が何もなくとも、炎の色を見て温度を判断することのできる人の方が、よっぽど上手に刀を作れることでしょう。
 なぜなら、炎の色で温度を見分けることが出来るようになった人は、実際に、炎を見て、鉄を熱して、温度の変化を体験したしてきた人だからです。
 それが、本当の意味で理解している人を指すのだと思います。自分も、頭で理解するだけでなく、実際的な人間にならないといけないと、そう思っています。


・システムとは

 刀鍛冶の例が長くなってしまいましたが、刀を作るという極めて物理的な手順がはっきりした作業であるため、理解しやすいように思ったためです。
 というのも、こうしたらこうなるという明確なルール(物理法則)があり、それに則った手順で作業を行えばうまくいき、そうでなければ違った結果が出てくるというのが、システムの考え方を表していると感じたからです。

 道場では、結果にマルやバツを付けたいわけではない、という話をよくして頂きます。

 ある手順でAという作業を行い、Bという結果が得たいのにXという結果がでたとします。
 その場合、疑うべきは行なわれたAという作業であり、得られた結果Xそのものが問題ではないというのはすぐに理解できます。
 ところが、どうしても我々はXという結果が出たことのみに目を向けてしまい、作業Aそのものに目を向けなくなってしまいます。実際は、改善すべきは作業Aの工程であり、ここが是正されれば結果も正しくなるというのは道理なはずです。

 師父は、そのAにあたる部分をあらゆる手段を以て示してくださっているので、そこを改善できるかということが、我々に問われているところだと思います。
 そこを正していくには、さらに上位のシステムとして、間違った結果Xを得た場合、作業工程Aを見直すことが必要になり、それがつまりネガティブフィードバックが必要だと言われている点だと思います。
 そしてこれが一番大事なことだと思うのですが、多くの場合、問題になるのは、作業工程Aが間違っているのではなくて、自分が正しくその工程を“行えていない“ことに気付けるかどうか、という点だと思います。

 太極武藝館の太極拳について言えば、事細かに検証していけるだけのシステムが、稽古体系としてすでに構築されているように感じます。
 常々言われていることですが、理解していくために必要なのは、そのシステムに則って勉強していけることであり、そこで必要とされる考え方は、システムに乗った形で考えられているかどうかであって、「自分が」どう考えているかなど問題ではないという点ではないでしょうか。

 ここが違った!とシンプルに受け入れることが出来るのか否か。

 ここを理解できるかどうかは、多くのことを勉強していけるか、自分の考えで凝り固まって先に進めなくなってしまうかの、大きな分かれ道になっているように感じます。

                               (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その49」の掲載は、7月22日(水)の予定です

disciples at 23:45コメント(17)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2020年05月23日 12:47
私も、師父の特別寄稿のあと、何気なく見返した新聞記事があります。それは、一子相伝の樂焼きの陶芸家、樂吉左衛門さんの書かれた記事でしたが、その中の一節に
(「伝統を守るのには特別な教育があるのでしょうね」。そう尋ねられて、父は「一子相伝で伝えることは何も教えないことです」と胸を張って答えた。
日本経済新聞 2020/2/2付け 十五代樂吉左衛門)
とあって、師父の寄稿とあいまって感動を覚えました。
それでは、しかし、その中でどうやって学んでいくのだろう。その解はすでに明示されているのかもしれません。やり方を覚えても、形の表層を覚えても、それは書き残して伝えられるようなもので、私たちでいう太極拳の稽古とはなりえないのだと言うことは分かります。私たちが考える教育指導などというものが通用しない世界にあるもの。その中にあるシステムについて理解するということはなんであるのか。おそらく、太郎冠者さんも考えておられるように師父はシステムを明示してくれているのだと思います。ではどうして分からないのか。私には、そのヒミツが教えないことにあるような気がしてならないのです。
 
2. Posted by 松久宗玄   2020年05月23日 15:57
いつも心に響く喩えをありがとうございます。

刀と刀鍛冶という職業には、男の子心は憧れを覚えますね。
日本刀は実用的でありながら、その機能美は芸術として心を動かします。
その機能美を追求する職人の在り方は、
その刀の機能美と等しく潔い生き方だと目に映ります。

仮に現代技術の粋を集めて、
折れず曲がらず良く切れる刃物を作り上げられたとしても、
そこに尊さを感じる事は無いように思います。

人の営みとして、受け継がれた業の中に、その心の息吹を感じられるから、
その在り方が人の心を動かすのだと思います。
それは確かに自分の頭で理解しようとしても、成し得ない事だと思います。

稽古システムのフィードバックがうまく回らない問題には、
私自身も度々直面しています。その原因は自分側の観測に失敗し、
成長の機会である「違い」を認識出来無い事に集約されます。
自分が強いほど、自分を観測できなくなるとは、実にシンプルな法則ですが、
自分を抱えて離す事ができない人間には、この上ない難事に感じます。

自分に興味を持ち、自分を訪ねる旅を続ける事、
自分を知り、その上で受け容れて、自分をやめられる事、
それを人の営みとして歩いていく中で、
心も業も受け継がれていく道が成立するのだと思います。
師父が常に語られる「反省と精進」を噛みしめて、歩かねばと思います。
 
3. Posted by 佐藤玄空   2020年05月24日 09:38
システムという科学的な考え方とそれとは正反対に感じていた刀鍛冶という伝統文化が実は近似であったというのは衝撃でした。
ある方が

科学的とは「適切な実験によって確かめられ云々」

と説明していました。
この「適切な」という事が大変に難しい事だと感じました。師父が示された手順が「このように行ったに違いない」と自分フィルターが発動してしまいます。自分を挟んだ段階でそれは「適切」ではなくなり当然結果は全く違ったものになってしまいます。
適切な手順とはやはり示された通りしかなく、違った結果が出たという事は自分が行った手順を捨てるしかない。
観察しそのまま行うというシンプルなことができなくしている自分を改善してゆくことしか無いのでしょうね。
 
4. Posted by 川島玄峰   2020年05月24日 11:15
頭で考え、わかったつもりで動けていない、気づけなく混乱し複雑な状況に陥いる。
なぜそうなるのか。

「学習していけるシステムを理解しないといけない」
考えていたところが間違っていたなと思いました。

やり方を考えるのではなく、在り方を学ぶことが大事であるとまた深く理解できたと思います。
在り方を学ぶには、やはり素直に謙虚に情熱を持たないとシステムに気づけていけないかも知れませんね。

そして書かれていた刀鍛冶に弟子が向かう姿勢は、太極拳の学び方、学ぶ姿勢について改めて考え直すことができたと思います。

ありがとうございます。
 
5. Posted by 田舎の神主   2020年05月24日 19:58
自分の結果が良くなかった場合、違いを認識し見直す必要があるという、『見直す』という言葉が重要と思いましたので、また神道話です。

神道の古い祝詞 (平安時代の延喜式祝詞) の中に、「咎過あらむをば、神直日、大直日に、見直し、聞き直しまして」とあります。私の勝手な解釈では、「もし間違っているものがあれば、どうか、見直したり、聞き直したりすることが出来るようにして下さい。」ではないかと思っています。

神様にお願いするほど、「見直し、聞き直し」が昔から難しく、時と場合によっては、それは許されることではなかったと思います。

私の雅楽の師匠の先祖 (豊原時秋) が、秘曲を得た説話があります。

平安時代後期、生の大家 豊原時元が、八幡太郎義家の弟、源義光(新羅三郎)に伝授した秘曲 (太食調入調)がありました。1087年に源義家(兄)が苦戦の戦況を伝え聞き、義光(弟)は、官を辞し私兵を集め奥州へと急ぎました。近江国の宿にて追いかけてきた笙の師匠の子息 豊原時秋は、箱根の足柄山(関所)までついて来てしまいました。朝廷の正規軍でない義光一行は関所で捕まる可能性があります、その場合、義光は命を懸けて関所破りをする覚悟でした。

関所を前にして、義光は師の子息の願いを察知して、「あなたの父上から賜りし曲、心して聞くがよい」と、一回だけその秘曲を奏し伝授したそうです。すなわち、見直し、聞き直しが許される状況ではなかったのです。

私も、その説話を師匠から聞き、まだ伝わっているその秘曲を一回だけ教わることができました。

道場では、「見直し、聞き直し」また、考え直すことも出来ます。本当に貴重な学びの場であり、「心して拝見・拝聴する」場だと思います。
 
6. Posted by 円山玄花   2020年05月25日 01:46
(#1)
太郎冠者さんの記事は、様々な分野のお話が多く勉強になります。
いつもありがとうございます。

1つの武門を継承するということを考えたとき、なぜスポーツや格闘技では「継承」という言葉が使われないのかと疑問に思いました。
陸上競技でも、テニス、サッカー、野球でも、”伝えられてきた秘伝の〇〇”というようなものは聞いたことがなく、個人がその競技の頂上を目指してトレーニングに励みます。
余り詳しくはないですが、サル山のボス猿だって「よし、次のボスはお前だ」と言う具合ではなく、より力の強い猿がサル山の次のボス猿になるのでしょう。
けれども、太郎冠者さんが書いてくれた刀鍛冶にしても、茶道、舞踊などの伝統文化、伝統芸能には伝承、継承ということがなされているし、料理の世界だってそうです。
先日師父から伺ったお話では、神戸の洋菓子ブランド「御影高杉」は、神戸の人々に「絶品の洋菓子と出会えるところ」と賞賛されるほどで、最盛期には全国に6店舗を展開しましたが、3年ほど前に閉店しました。その理由が、シェフの高杉さんが作るシュークリームの味を出せる後継者が、誰もいなかったからだということです。その味を出せる人がいないのなら店を閉めると、21年の歴史に幕を下ろしました。
師父は続けて、「正に、私がやりたいことはこれだよ」と仰います。
継げる人間がいないのなら、玄門太極武藝館はやめると。
 
7. Posted by 円山玄花   2020年05月25日 01:46
(#2)
記事の中の、刀鍛冶のお話はこのことを表していると感じました。
立派な一点の曇りもない「刀」をつくりたいわけではない。その刀を作り出せる「人間」を練り上げたいのだと。私たちで言えば、纏絲勁や発勁、誰にも負けない散手が出来るようにしたいのではなく、それが分かる人間として練り上げられてきたかということ。だから師匠を観て真似をして感じて、生き方を、呼吸を、魂を合わせる必要があって、だから最初から刀の作り方を教えずに、先ずは炭切りをさせるのだと思います。
かつて、私が后嗣認証を受けたとき、私は翌日から一体どのような特別な稽古が始まるのかと期待に胸を膨らませていました。ところが、翌日も、その次の日も、それまでと変わらない毎日が続いていくだけです。自分が出来ないところ、分からないところもそのままです。
堪り兼ねた私はある日、師父に「お願いです。私に太極拳を教えてください」と頼みました。すると師父は、一言、「もう教えているよ」と仰ったのです。
頭を殴られたような衝撃でした。私は后嗣になったのだから、何か特別なことが教えてもらえると思っていたのです。そのために、教わっていることさえ理解できていないままだったのです。
その日から、毎日の稽古を基に自分で勉強する日々が始まりました。そうして徐々に、基本功や套路を稽古する中で自分がまだ分からなかったことや大事なことが見えてくるようになりました。練功から教えてもらえるようになったのです。
その稽古の基盤と学習システムを教えてくれていたことに、中々気がつけませんでした。

始まりは欲することでも、欲しがっているだけでは赤ん坊と一緒です。
自分の目で見ること、自分の耳で聞くことをやめたときに、既にそこに在るものに気がつけるのだと思いました。
 
8. Posted by もりそば   2020年05月25日 23:16
伝統芸能の極意を言語で伝承を伝えようとしても言語自体が保持できる情報量が少ないのでうまく伝わらないし間違ったとらえ方を弟子がしてしまう可能性がある。であれば弟子はたとえ言語で示された事柄があっても単純に言葉じりだけ受け止めて理解したつもりになってはならず言語以外でも示されているヒントも頼りにその全体像を把握する必要に迫られる。

その意味で武術の習得も伝統芸能と同じです。師の考え方、雰囲気、所作、あり様などを真似ることで初めて師が体現している高度な情報の集合体の片鱗に触れることができる。伝統的な学習方法とは情報の開示を渋っている古めかしい文化遺産では無く最も近道なルートを見いだせるようになるための学習システムを体現しているのだと思います。
 
9. Posted by 川山継玄   2020年05月26日 00:29
憧れの刀鍛冶職人の師匠のもとを尋ね、やっとの思いで得た修練のチャンスを、「こんなはずではなかった。私には向いていない。」と多くの方が諦めてしまったことでしょう。
しかし、できるようになることを目的とせず、その意味するものを、師匠の在り様を、岩にかじりついてでも我がものとし、後世に残していきたい!と師匠の全てを全身全霊で受け取ろうとした中のほんの一握りの人しか生き残れない厳しい世界。
伝承というものの厳しさを改めて感じ、自分自身がまだまだ足りていないと反省します。
熱した金属を打つ音、炎の色、気候の変化などあらゆるものを瞬時に察知し一本の刀を仕上げていくという繊細さ、潔さ、豊かさ、奥深さ、雄大さ…これらは、受容性そのものにならないと到底できることではないのではないかと思います。
ここ最近特に、自分には受容性が決定的に欠けていると感じてきました。物事を客観的に観ることができません。なぜなら、そこに感情が入ってしまうからです。恐れや傲り、怒り、喜び、その時々で安易に平常心を欠き、力みや緊張となって体に表れ、受け容れることを嫌います。
 
10. Posted by 川山継玄   2020年05月26日 00:31
では、なぜ客観的に観ることができないのだろう。感情というフィルターが掛かってしまうのだろう。と振り返ってみると、極度の緊張が訪れる時は決まって、自分に後ろめたさがある時だと気付きました。その後ろめたさがある中でも、平常心であるかの如く振舞う事は、ただの嘘つきではないか、といういたたまれない気持ちを放ったままだったからです。
嘘つきであることが嫌なのに嘘をついている自分・相手のせいにしている自分・無知な事は仕方がないと思っている自分などなど、数え上げればきりがない程の「受け容れたくない自分」をはじいてきてしまった事が原因だったのではないかと思うのです。
こういう自分がいるんだな、とそこに良い悪いという評価を介することなく、客観的に自分を認めて受け容れることが私には必要だったのではないかと思い至りました。

いつもいつも、わかりやすい切り口で、振り返りの機会を与えて下さり、ありがとうございます。
 
11. Posted by マルコビッチ   2020年05月26日 01:18
>「頭で考えていて身体が動いていない」
私もそういうことは多々ありますが、頭で考えた事を身体に反映させようとすると、そこには隙間ができて難しく思います。
しかし、前で示してくださっている事を真似しようとしている時、あるいは自分の中でヒットした情報を即座に身体で試してみる時、私には少し隙間は狭められると思われます。
何も隙間がない状態は、きっと”考え”ではないのでしょうね。
用意不用力・・・これもまた奥深く難しいです。

刀鍛冶の世界でも、最初の数年は”炭切り”をするとのこと・・茶道でも初めは基本の所作を何回も何年も続けるそうです。
隅切りも茶道の基本も私たちの歩法も毎回同じ事でも同じではなく、そこから身体に染みていくことがあるのでしょう。
身体に染み渡るまでやり続ける事の中で学べることがあるのでしょう。
例えば、最高級の豆で計算された方法で最新の機械で淹れた珈琲は、毎回同じ美味しいものなのでしょう。
しかし、珈琲を愛し、何十年も珈琲を淹れ続けてきた熟練のマスターの味は?きっとその時の自分にぴったりのただ美味しいというだけのものではない、言葉では表現しきれないのではと想像できます。
その言葉では表現しきれない”何か”を知るためには、師を見て感じて、真似をし、師と同じになることなのだと思います。

太極武藝館の学習体系はとても緻密で洗練されていると思います。
その全体を見て理解できるよう、真の太極拳が身体に染み渡るように、稽古を積んでいきたいと思います。
 
12. Posted by 清水龍玄   2020年05月26日 06:42
刀鍛冶の例えは、とても面白く感じました。
つい自分も、現代の冶金技術や金属工学の知識を使えば、理解しやすいのでは、とも思えてしまいましたが、その辺りが、現代人なんだなと、思います。

ある料理人が言っていたことを思い出しましたが、たとえ同じレシピでも、火の入れ方、調味料の使い方や調味料を入れる順番等で全く味が変わってくるそうで、例えば同じ塩でも、下味の塩、味を引き出す為の塩など、使い方がいろいろあり、浸透圧の関係で味が引き出される等、科学的な根拠があり説明できるそうです。
だからと言って、浸透圧がどうのこうのということから勉強が行われるのかと言うとそうではなく、調理の中で、親方は、道理に合わない時、最近の若い者は塩の使い方が分かっていないと言うのだそうです。
確かに、浸透圧がとか、なんとか反応がということばかり気にしていては、食べ物として食べることはできるけど、一品の料理としては、纏っていないし美味しくなさそうです。

結局、料理人として勉強したいのか、知識の寄せ集めをしたいのか、全く別のことになってくると思います。
武術の勉強も同じで、自分が何をしたいのか、どう考えているのかに気付き、取り組み方を、軌道修正していかなければならないと思います。
その中で自分の間違いに気付き、自分を豊かにしていく必要性を感じ、また、実際、そのために努力をする必要があるのだと思います。
 
13. Posted by ハイネケン   2020年05月26日 21:58
頭で理解していれば少しは進めるのではないか?と思っている自分にとって問題は相変わらず山積していきます。
「学習していけるシステムを・・・」との言葉からは、今ある疑問が一つひとつ個別のものではなく、継続的で広がりのあるシステムへの理解へと繋がっている事は薄々と感じるのですが。
得られた結果Xから考えてしまい、多少の別作業を試みますが、当然結果Xその2へとなり戻ってきます。
同じ次元の解釈をいくら増やしても望む結果Bにはなりませんし、作業Aを意識してすらいません。
自分がマスターキーの様な作業Aへのアプローチする事を考えておらず、意識もしていないからでしょう。
稽古自体を何かを学ぶものだと思っていました。
刀鍛冶の例えを頂き自分が如何に根幹を意識せず、その場をなんとか上手くやりこなす事で精一杯になっているのかと思います。
 
14. Posted by 太郎冠者   2020年06月02日 01:34
☆西川敦玄さん
>一子相伝の樂焼きの陶芸家、樂吉左衛門さんの書かれた記事
なるほど…ありがとうございます。
やはり職人の伝承というのは、どこも同じような学習方法を求めるようになる、と思えてきます。

動物が子供に狩りの仕方を教える時、彼らもまた自分が獲物を獲る様子を見せるだけで、丁寧に教えたりはしません。
動物の子供たちは、自らが食べる必要性のために、狩りの方法を学習していきます。
求めて、自分がそれに費やした分だけ(もしかしたら)返ってくる。
それこそが自然の摂理であり、力学的な法則が働いているのだと、今の自分には感じられます。
15. Posted by 太郎冠者   2020年06月02日 01:48
☆松久宗玄さん
ある現代の刀鍛冶は、刀鍛冶になるのに何が必要かという質問に、
「収入のない間、生活の面倒を見てくれる親」と答えていました。

冗談でも何でもなくて、刀鍛冶になるための試験に合格するために最短でも(確か)5年間、師のもとで毎日修行をして、その間は一切収入はないそうです。その間生活していけるだけの蓄えが必要、としての上の回答だそうです。
そして、運よく刀鍛冶として刀を作れるようになったとしても、年間で作って売れる本数は上限が定められており、いくらでも好きに作れる訳ではないそうです。

その上、作った刀が必ず売れる訳でもなく、プロになったとしても収入があるかどうかはわからない。
その中でも技術を磨いて、同じような境遇を経てプロになった他の刀鍛冶の作品と張り合っていかなければいけない。

正直言って、憧れだけでは絶対に出来ないことだと思います。
刀鍛冶になるには、相応の覚悟が問われるように感じます。
何も得られないかもしれないけど、それでもやるのか? と。
生活、人生の全てを、文字通り賭けないといけないのです。

それでもやると決めた人たちがいるからこそ、日本の文化が伝承され、世界に評価される日本刀がある…。

それと同じだけの覚悟を持って太極拳に臨めているのか?
と、自分自身に問いかける毎日です。
16. Posted by 太郎冠者   2020年06月06日 00:06
☆佐藤玄空さん
太極武藝館の太極拳は、非常に科学的だと思います。
体系として整っており、正しい手順で行えば正しい(そう出るはずだという)結果が得られるからです。

ところで、科学と技術の関係性について、少し考えてみたいところがあります。
現代の考え方だと、科学が発展して、それから技術が発展したと思いがちですが、実際はどうなのかというところです。
歴史に学んでみると、まずは技術が発展した後に、その技術で得られた結果を元に考察が深められ、科学が発展したのではないか、という話があります。

19世紀、内燃機関が開発され機関車が出来ると、文明は一気に開花していきました。
ところが歴史をみると、内燃機関を発明した人々は科学者ではなくて、技術者たちです。

続きます。
17. Posted by 太郎冠者   2020年06月06日 00:08
☆佐藤玄空さん
続きです。

技術者たちが散々試した結果、内燃機関が完成し、それが使われるようになりました。その内燃機関の働く仕組みや運動を研究することで、熱力学という新しい科学分野が生まれてきました。

何が言いたいかと言いますと、太極拳を学習していく上でも、この順番を違えてはいけないのではないか?ということです。

師父に示された手順を正しく守ることは、内燃機関の設計図通りに正しく機械を作り、組み立てることにあたるとします。
最初から複雑なものが作れなくても、簡単な模型でも、内燃機関の仕組みをまずは正しく作れなくてはいけない、つまり真似できなくてはいけない。
その上で、その仕組みを用いて、科学的な考察、内燃機関とはどのように動いているのか。そこに作用している科学の原理はどうなっているのかを、研究していかなくてはいけないのではないかと思います。

まず、示された設計図通りに作ることが肝心ではないかと思います。普通、知らない機械を設計図から作るときに、いきなりアレンジから始める人間はいないはずです。

そう考えると、師父に示していただいたことを正しく守ることが、どれだけ大事か…というより、それしか方法がないのだと痛感させられる気がします。

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