2020年03月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その47

   「すべて真似する」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極拳の稽古では、示された動きを全て真似をすることが求められます。それは、自分の気になったところや教わって理解できているところだけでなく、自分の考えを挟まずに動きの全てを真似するという、言葉通りの意味です。

 表面だけをなぞって真似することを猿真似と言いますが、先日、おもしろい実験の記事を読みました。
 人間だけでなく、チンパンジーなどの類人猿も他者の行動を模倣する能力を持っているのですが、人間とチンパンジーでは、その真似の仕方がどう違うのか? という実験でした。

 その実験では、箱の中に入ったおやつを研究者が取り出す様子を見せて、チンパンジーと人間の子供が、それぞれどのように箱の開け方を模倣するかを観察していました。
 箱の開け方を示すやり方にはいくつかバリエーションがあったのですが、その中でいくつか、箱を開けるのには必要のない行為(たとえば箱をポンポンと叩く、など)もわざと含んでいるものもありました。

 実験をしてみると、おもしろい結果が得られました。
 箱が透明で、明らかに「箱をポンポンと叩く」ことが開けることに関係がないと分かるとき、チンパンジーは箱を叩くのを省略する傾向があったのに対し、人間の子供はというと、それでも箱を叩くという示された手順を真似する傾向があった、とのことでした。
 一見すると、必要のない手順を省くことのほうが合理的にも思えます。一体、どういうことなのでしょうか? 実は人間よりも、チンパンジーのほうが知的だと…?

 実はこの実験は、人類が繁栄した理由は「何も考えずに他者を模倣する力」を持っていたから、ということを確かめるために行われたものだったそうです。
 自分の考えを挟まずに、他人の行動を注意深く真似することによって技術が伝達し、生き残る確率を上げる。結果として、これだけ人類が繁栄することに繋がったのでは、という考え方です。

 現実の物事は複雑で、全てを人間の知識で理解できると思っているとしたら、それは思い上がりではないかと思います。ではどうすることもできないかというと、そうではなくて、実際に先人たちたが生き残ってきた手法を真似することで生き抜くことができた、そうやって人々は今まで、綿々と生命を受け継いできたのではないかと思います。

 昨今、タピオカがブームとなっていますが、その原料であるキャッサバという芋は毒を持っており、適切に加工しないと食べることができません。
 東南アジアやアフリカなど、世界中で広く食べられているキャッサバですが、彼らが化学の知識を持っていて、正しい理屈を知っているから毒を処理できているかというと、そうではありません。
 経験則として、この調理の仕方なら食べられるようになる、というのを先人のやり方を観て学習していった結果なのです。
 2000年代に入って、気候のせいでアフリカのある地域で食糧不足が発生したそうです。
 それに伴って、その周辺で奇妙な病気が蔓延しはじめたそうです。原因がわからなかった当地の医師たちは、海外から研究者・医者を呼び寄せて原因を究明してもらいました。
 原因は、適切に毒が処理されていないキャッサバを食べたため、ということが判明しました。
 食糧不足により、過酷な環境でも育つキャッサバを、それまで食べていなかった都市部の人間たちが食べはじめたことにより、加熱したキャッサバを水につけて一晩置いて絞る、という、ごく単純な毒抜きの方法を知らずに調理していたことが理由だったようです。

 考えずに全て真似することと、「合理的に」手順を抜き出して真似すること、果たしてどちらが本当の意味で合理的なのでしょうか。
 人間の文化、営みの中には、理由はわからないけれど受け継がれてきて、そうするようになっている文化がたくさんあるかと思います。ところが、近代の合理主義は、それらをバッサリと無用のものとして切り捨てていきました。
 近代の合理主義には、「わからないものをわからないまま受け入れる」ことで、自分には理解の及んでいない部分の可能性が開けるということが、どうにも理解できなかったようです。

 残念なことに、我々現代人は、その近代合理主義の洗礼にどっぷりと浸かって育ってきてしまっています。

 示された太極拳の動きを真似する際、考えずにその動き全てを真似しようとすることは、自分が気づいていない宝物を手に入れる可能性を与えてくれるのだと思います。
 逆に、自分の理解の及んでいる範囲でのみ真似しようとすることは、そこにある大切なものを取りこぼしてしまうばかりか、毒の含まれている食材をそのまま食べてしまうかのような害を自分に及ぼしているといえるのかもしれません。


 太極拳を理解していくには、示されたことを真似するのはもちろんのこと、師父がどのように太極拳に向かっているのかという点をこそ、真似しなければならないのではないかと思います。
 先の例では、キャッサバの調理の仕方を先人から学ぶと書きましたが、では師父がされていることはというと、どうでしょうか。
 ただキャッサバの食べ方を伝えるのではなくて、キャッサバの新しい調理の仕方、ないしはキャッサバに変わる新たな食料をずっと開拓し続けているのではないかと思うのです。
 我々門人が教わることができるのは、もしかしたらそのキャッサバの調理の仕方だけで、それを覚えただけでは、太極拳を理解するには足りないのではないかと思います。

 前回の記事で、「なにを掛けるか」として書かせていただきましたが、自分の調理したキャッサバをまず自分で食べられるか? ということだと思います。
 自分の命が掛かっていれば、手を抜いて調理をすることはないでしょうし、もっと真剣に示されたものを真似しようとするはずです。
 太極拳は武術なので、全く同じことが(むしろもっと直接的に)いえるのだと思うのですが、どうしても、我々にはその感覚が欠如してしまっているのではないかと、自分のこととして特に強く思います。

 そのことが少しばかり感じられて稽古に向かうようになった時から、少しずつ自分が理解できるものも変わってきたように感じました。
 自分の責任で生きるということは、毒がある(かもしれない)料理を平然と他人だけに食べさせるような人間には理解できないことではないかと思います。それは、近代合理主義が生んだ官僚のようなやり方で、彼らほど勇敢さとかけ離れた人類はいないのではないかと思います。
 まずは自分のこととして、しっかりと正面から向かい合う必要があるのだと思います。
 自分では毒を抜いたつもりだったという言い訳は、自分でその料理を食べていないからできるのではないでしょうか。

 自らが責任を負うということは、自らが傷つく覚悟を持って、腹を切る覚悟で物事に臨むことではないでしょうか。人から咎められないように、うまく見えるように稽古をしていくことは、最終的に全てを水の泡に帰すような崩壊が待っているのだと思います。
 それが自然の道理だからです。
 逆に、ネガティブフィードバックを続けていくことは、小さな間違いをずっと見つけていくことでもあります。それはある意味では、うまくいかないことを繰り返すことでもあり、自尊心は傷つくのかもしれません。しかし、自分が本当にしたいこと、目標と照らし合わせたとき、そんなものは傷ついたといえるのでしょうか?
 その目標が明確になっていないときは、小さなエゴを満足させるような稽古をしてしまうのではないかと思います。そうすると、堰き止められたダムに溜まりに溜まった間違いは、ある日、大きな音を立ててドカン! と崩れてしまいます。
 「晴々と立ち向かう」ことは、いつだって自分に成長の種を与えてくれるのではないでしょうか。

 師父はいつだって、そのことを自分に伝えてくださっています。
 言葉はもちろんのこと、言葉以外のあらゆる手段でも、です。

 師父に、太極拳に関して「上達しろ」と言われたことはありません。
 ただ、人間として「一人前になれ」「男になれ」とは何度言われたことかわかりません。

 そうすることでしか、太極拳が本当の意味で上達することはないのだと、ようやく理解出来はじめたように感じています。
「男らしく」なんて死滅した古い言葉かな、と師父が冗談でいわれたこともありましたが、それを死滅させないように、さらに繁栄させていくことこそ、我々…というか、男である自分に求められていることのように感じます。

                                (了)


*次回「今日も稽古で日が暮れる/その48」の掲載は、5月22日(金)の予定です

disciples at 09:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 円山玄花   2020年03月23日 21:38
「(自分勝手に)真似するだけなら、チンパンジーでもできる!」ということですね!?
とても興味深い実験結果だと思いました。
「真似をすること」が人類の繁栄にまで繋がっていたとは驚きましたが、考えてみれば私たちが赤ん坊のときに出来ることは正に真似をすることであり、それは大人になっても続いている、と思えます。
道場では、各自が指摘を受けた部分的な所を見て真似をしようとする人もいれば、常に全体をボンヤリと見て真似をしようとする人もいます。
師父は、稽古で一緒に動きながら「ここが違う」とは仰いますが、部分的に此処を真似しなさいなどとは言われず、「もっと全体の雰囲気を真似してごらん」と仰います。
部分を真似して、その数が増えていったところで決して全体にはなり得ない、そのシステムをこそ私たちは学ぶ必要があると思います。
そして日常生活から道場の稽古まで、注意深く観察してみれば、動く、機能するというシステムは全て同じことであるように感じられ、武術的に相手と相対したときにも同じ法則が当てはまれば、
相手はこちらにとっての全体の一部になり、こちらの意のままになってしまうのではないか、などと想いを巡らせました。
 
2. Posted by もりそば   2020年03月23日 23:19
合理的行動とは・・・
自分にとって最良と思われるものを選択し
必要でないものを捨てること。
と仮に定義するとして自らが完璧に正しいことを理解しているという
ことが果たして可能なのであろうか?
その意味で人間はそもそも合理的ではない。

ありのままを受け容れることによってのみ
理解できる伝承があったとして
自分にとって必要な部分だけを取り出す行為は自分が伝承より合理的に正しいことを理解し選択していると思っている、、。
思い上がりの結果とも言えますね。
自らは不完全で無理解であることから始まり
何が足りないのかを伝承から学びにいくくらいのまっさらな状態が上達の鍵です。
それは何も自尊心とは相反しないことです。
足りないから学ぶのであり修練が必要であり
それを求める行為に尊さこそあれみっともなさなど微塵もないのです。見えかたより在り方を気にかけることが重要なのです。
 
3. Posted by 西川敦玄   2020年03月23日 23:31
猿真似という言葉がありますが、チンパンジーの方が目的に対して合理的?ともいえる対応をとるという実験は初めて耳にして面白く思いました。
どのような状態で実験したのか詳細は分かりませんが、人の子供が真似をしている様子が想像できるような気がします。きっと楽しんで真似して、笑いながら真似して、一方で真剣に取り組んで・・・。微笑ましい様子ではないのではないかなと想像しました。チンパンジーは食料を取り出すという目的だったのに対して、人の子供は遊びながら全体を真似して、そして真剣に取り組んだのではないかなと。そんな感想を持ちました。
振り返って自分をみるに、チンパンジー的な態度で物事に取り組むことがいかに多いかよく分かりました。ホモサピエンス本来の能力を生かせるようにできるといいなと思いました。
 
4. Posted by 松久宗玄   2020年03月24日 00:43
合理性が猿の発達段階から認められる事、
そしてそれが生存の最適戦略ではない事、
いずれも常識の外側の意外な事実でした。
その仮説を立てられる発想自体がユニークだと思います。

合理主義は確かに便利な道具ではありますが、
それが万能であると強く信じて疑わず、
常にその眼鏡越しに世界を見ている事に気付く機会が無い事、
自らを省みても、それが現代人の病の元なのだと思います。

全てが明らかにされていれば(←既におかしいですが・・・)、
理性によって理解する事が出来て、合理的にアプローチしさえすれば、
ゴールに行き着けると考えてしまえる事が、
自分勝手で浅はかな、傲慢な態度であった事は、
その枠組みの中に居ては分かりませんでした。
その構図が私自身の見つめるべき課題です。

道場の稽古で師父や諸先輩の方々から頂くご指導は、
先に進まれて、それらの枠組みを踏み越えた視点から問いかけられており、
ひたすらに、自分から離れて、外側から自分を見る事を突きつけられます。

本質的には技術や方法論、結果や成果を問われるのではなく、
在り方自体を問われる場、自分を見る場こそが道場であり、
太極拳に向き合い、師父と自分の関係を通じて、
自分に向き合い続ける事が稽古の本分だと学びました。

「男になれ」の意味は深いですね。じわっと噛みしめたいと思います。
 
5. Posted by 佐藤玄空   2020年03月24日 12:24
摸倣が人類の進化を促したというのはすごく納得します。
人の真似をするの能力は素晴らしく音楽や芸術もそのように発展していたのだなとつくづく感じます。
しかし悲しいかな「木を見て森を見ず」の諺とおり細部を見ようとして全体を見逃すこともしばしば。
いや、本当に難しいですね。
そういえば世界的に有名なスポーツコーチが日本人は細かいことを気にしすぎて教えにくい、というような発言をしていました。
日本人の性でしょうね。
考えてみると最初にやる站椿は全体で站椿ですものね。
えてして近視眼的になる視点を変えて頂きありがとうございました。
 
6. Posted by 田舎の神主   2020年03月24日 12:49
人間とチンパンジーの対比実験の結果から、そのまま真似るのは人間の方であったというのは驚きでした。必要と思えないことも、自分の理解を超えたものとして捉え、それが伝統文化技術の継承にとても必要なことだったと理解できました。

お宮の作法においても、意味不明と思われる昔から伝わるやりにくい作法がありますが、私は勝手にやりやすい方法に変えてしまいました。実は、それが神道の一番重要な作法だと気付いたのは、神主となって35年を過ぎた頃でした。まるで、雅(みやび)を理解できない井の中の田舎の神主でした。

それは、太極拳を学び少しは身体が動くようになった頃、やりにくい方の作法を行った時、体の他の部分が連動して動き始め、このことを意味していたのかと突然に気付いたのでした。一度気付くと、昔から伝わっている神道の謎が徐々に解け始めました。

道場においても、自分の理解が及ばないこともそっくり真似ることを心掛けたいと思います。
 
7. Posted by 清水龍玄   2020年03月24日 20:03
今回の記事の中で、チンパンジー的な発想というのが、非常に危険で独りよがりなものであると感じました。
真似をしていく中で理解していく事が、たとえそれがたった一つの理解であったとしても、百の知識より深く、大切なものなのだと思います。
自分自身の根本的な、取り組み方、考え方次第で、同じことを示されたり、また、情報を得たとしても、それらを活用し、より理解を深めたり発展させたりできるのか、はたまた、目の前に示されたことを、味わうことが出来ず、その上辺だけで判断し、自分が理解したことや思ったことをやってしまう危険な状態か、本当に大きな差が現れると思います。

気が付くと、情報に囚われたり、振り回されたりしている自分が居ますが、稽古の中で、そうではない自分もいると感じられるときもあります。
その、たとえわずかに感じられたような違いでも大事にし、稽古に向かい、自身の軌道を修正していきたいと思います。
 
8. Posted by 川島玄峰   2020年03月24日 22:19
ブログを読み終えて真似をする事をもう一度考えながら、今までの稽古を振り返っていました。
最初の頃は、真似る事が戸惑いで手足、頭も麻痺するほど考え疲れをしていたことを思い出します。
稽古を振り返り、真似ることが猿真似にならないもっと重要な部分の習得が目的であったのだと考えています。

師父は太極拳に必要なことを最初からそれを教えていたのだと気づき、今後の稽古の取り組み方を考えることができました。

ありがとうございます。
 
9. Posted by ハイネケン   2020年03月25日 01:12
「わからいないものをわからないまま受け入れる」と言うことが自分にとって恐怖であり、思考停止点に突入していくような感覚になります。
出来ない事に取り組もうとしているのにも関わらず、(真似をせず)理解が及ばない事を前にして躊躇し、
うまく行かない事を繰り返すうちに自分には無理ではないか? なぜ皆さんは出来るのか?と思っています。
以前も同じ様なコメントしたと思いますのでまだ堂々巡り中ですが。

ネガティブフィードバックの中、うまく行かない事を繰り返し真似をする・・・と言われ
以前頂いた陳氏太極拳図説の「拳を学ぶとは・・・」の一説を思い出し読み直しました。
身に沁みました。
太郎冠者様 いつも本当に、ありがとうございます。
 
10. Posted by マルコビッチ   2020年03月25日 01:14
 太郎冠者さんが大きく成長されていることが、この記事を読んでよく分かります。
迷いがなくなったかのように思われ、我が事のように嬉しく、私も頑張らなくてはと気合が入ります。

チンパンジーと人間の子供の実験は面白いですね!
開け方だけで考えるとチンパンジーの方が知的で無駄がなく早いように思いますし、きっと己が生き抜こうとする力の習性なのかとも思います。
それに比べて、人間の子供は一見無駄と思えるような行動さえ自分を挟まず素直に真似できる力を持ち、それが人類の繁栄に繋がったとは何か感慨深いものがあります。
昔の職人は皆そうして技術を会得していましたし、意味はわからなくてもそうするものだとして続いていることもありますね。

以前にどこかで書いたかと思いますが、人の考えることはちっぽけな事で、知識でさえ不完全だと言います。
自分の考えでいっぱいの状態では見る事も聞く事も出来ないでしょう。
そんな私たちが”太極”という言葉がつく武術を学んでいるのですから、自分を真っさらにして丸ごと真似するしかないですね。
そうして、気付き、修正してと繰り返し努力していくしかありませんね。
いつか師に少しでも近づき、太極を知ることが出来るまで!
 
11. Posted by 川山継玄   2020年03月25日 23:34
「真似ること」これは本当に繊細でち密で、伝承には欠かせないことなのだと感じました。

チンパンジーだけでなく、現代人は手順を省略して、なんとか時短を図りたい、合理的に生活したいと、巷には多くの本やら雑誌やらが並んでいます。
私もうっかりそれに乗りそうになることや、実際に試してみることもありますが、手順を省くことが自分の感覚を鈍らせ、自分勝手を許すことにつながってしまうなと、怖くなりました。

私たち拝師正式弟子は、生活でも意識レベルで師父をまねなければ、とても陳氏太極拳を伝承することなどできはしないと気を引き締めました。

自分の身の回りを清潔に整え、生活を整え、靴や服の手入れをし、荷物も常に自分に備えるために必要なものを、どのように収納すれば使いやすく、意味をもってその道具が使えるかを考えて収納する事が、いかに大切なことであるかを痛感します。
以前、実際にご自身の荷物を丁寧に出して見せて下さり、一つ一つの道具をどのようにしまったらいいかなど、ご指導いただく機会がありました。
所作の美しさに、感動したのですが、何より、出した時と同じように丁寧にしまい、どこにも隙がや無駄が無く、かといってぎすぎすしていない様子に驚き、心がくぎ付けになりました。

所作を真似ることが意識を真似ることにつながり、生活や稽古への取り組みが少しずつ変化していくように感じています。
感覚を研ぎ澄ませて、繊細に丁寧に生きていきたいと思います。

太郎冠者さんの視点や分かりやすい解説が、いつもとても勉強になります。
次回も楽しみにしております。
ありがとうございました。
 
12. Posted by 太郎冠者   2020年03月30日 23:29
☆円山玄花さん
太極拳という体系、つまりシステムは、多くの人の手によって受け継がれてきた営みであり、個人の人間よりもずっと大きな存在であるように思います。

しかし、その理解さえも超える大きなものを、人間は行っていくことができるのだから、それをこそ一番不思議に感じます。

師父に指導していただく際も、形としては示してくださいますが、言葉としては一言「違うなぁ」で終わったことが、何度あったかわかりません。
しかし、その指導の在り方こそが、理解を超える大きなものに、自らが飛び込んでいけるやり方だったのだと、改めて感じるようになりました。
本当に、たくさんのことを勉強させていただいていると思います。
 
13. Posted by 太郎冠者   2020年04月02日 23:21
☆もりそばさん
先日の稽古であることに気づいたとき、本当にすごいショックを受けて、言葉が出なくなりました。

そんなことは人生で初めてで、あまりにショックを受けると本当に人間は呆然としてしまうのだなぁ、としみじみと思いました。
内容としては、すでに稽古の中で言葉としては聞いていたことだったのですが、まさかこんなことが起こるとは…という感覚でした。

こんな経験をすると、本当に、自分の理解できる中で「合理的に」稽古をするなんて考え方が、本当にバカらしく思えてきます。
世界は知らないことで溢れている…のだと思います。
 
14. Posted by 太郎冠者   2020年04月07日 00:30
☆西川敦玄さん
小さな子供と接していると、彼らが大人の言動を本当によく観ていて、真似しようとしているのがわかりますね。
喋り方などは、「この子の親はこう言って聞かせているんだなぁ」
というのがはっきりとわかって、面白いと感じるものです。

それと、「なんで?なんで?」と質問攻めにあいます。
育てている両親はつくづく大変だなと思うと同時に、大人がやっていることを逐一真似をしながらも、その本質はどこにあるのかを理解しようと本能的に行動している様子が見て取れて、これもまた興味深く思います。

彼らにとっては全てが新鮮で、挟み込む自分などカケラももっていません。
大人になってもそのように物事に関われたら、きっと見えてくる世界が大きく違うのだと思います。
 
15. Posted by 太郎冠者   2020年04月07日 01:00
☆松久宗玄さん
「案ずるより産むが易し」
という言葉がありますが、考えて理解するのは困難でも、実際にやってみたときの方が簡単な事というのは、実は世の中に溢れているのだと思います。

たとえば、重りが複数つながった多重振り子の挙動を計算で求めるのはかなり面倒です(やりたくないです)。
要素が増えると必要な計算が爆発的に増えていくからですね。
しかし、実際に模型を作って指でちょんと動かしてやれば、どんな動きをするのかはすぐに分かります。子供でもわかります。

数学的に見ると、実は、頭で理解…計算で答えを得るよりも、直接それをやるほうが、人間…物理的には簡単という結果が得られてしまいます。

個人的には、全てを全体的に真似しなければ太極拳の理解が難しいのは、そういった理由もあるのではないかと思うようになりました。
 
16. Posted by 太郎冠者   2020年04月11日 03:02
☆佐藤玄空さん
部分を集めても、それらの総和は全体にはならないのだと思います。
というのも、全体は部分それぞれが織りなす関係性まで含めての全体性であって、部分ひとつひとつをまとめ上げたものの総数を大きく上回るから、だと考えています。

個人の身体ひとつとってもそうなのですから、では対練で人と相対したときは?それが複数人相手だったら?
などと、考えてみるだけで額に汗が浮かんできます。

頭で考えて解こうとするのではなくて、全体を味わってみること。
太極拳に必要な味わい…。
師父は、そのように仰っているのではないかと思います。
 
17. Posted by 太郎冠者   2020年04月13日 22:06
☆田舎の神主さん
先日、套路の稽古を行っていたとき、玄花后嗣から、
「現代の人間に、このような套路が創れるのだろうか?」
というお話がありました。
先人達が何代にも渡って継承してきた套路は、本当にすごいものだと思います。
自分のような右も左もわからない未熟者にさえ、何かを教えてくれるのですから…いわんや構造を理解した人なら、もっとすごい発見があるのだと思います。

現代の人間、それも一世代だけだったら難しいかもしれません。
ですが、師父のような創造性に溢れた方が、数世代に渡っていたとしたら、と考えると…。
このような套路が存在することも、不思議ではないのかもしれません。
 
18. Posted by 太郎冠者   2020年04月13日 22:16
☆清水龍玄さん
「考え方」というと、それだけで独立した何かがあるように感じてしまうものですが、実際には、そういう考え方をする「人間」がいる、というのが大事な点なのではないかと思います。

ある考え方をする生き物(人間)がいて、その考え方によって行動を変えます。
行動を変えた結果、記事に挙げた例の通りチンパンジーと人間を比べたときのように、生存という結果が大きく違ってくるといえるのだと思います。

つまり、考え方が独立してあるわけではなくて、その考え方を持つことによって生き残ることが出来た人間がいた=その考え方がここまで伝わってきた、といえるのではないかと思います。
人を生かさない考え方は、その考え方とともに、その考え方をする人間までも葬ってしまうのだと、そう言える気がします。

だからこそ、師父は「考え方を変えなさい」と、常に我々に指導し続けてくださっているのではないかと思います。
 
19. Posted by 太郎冠者   2020年04月13日 22:28
☆川島玄峰さん
「太極拳漬けの毎日を送る…」
先日の稽古で玄花后嗣がこのようなことを仰っていました。

実は最近の記事で一番書きたかったのは、
「師父のように太極拳に関われているか?」
という点でした。

師父が何を掛けて太極拳へ向かって居られるのか。
何を選んでいるのか。
そして、自分はその在り方に合わせて、真似できているだろうか?

師父のその生き様にこそ、太極拳を理解する鍵があるのではないかと、感じています。
 
20. Posted by 太郎冠者   2020年04月13日 22:36
☆ハイネケンさん
最近になって朧げながらも、稽古で違いを指摘されるのは、マルやバツをつけるためではないということが分かってきました。

以前、師父に稽古を見ていただいたとき、自分がかけて頂いた言葉は一言、
「…違うなぁ」
だけだったことがあります。

この一言!

この一言が、どれだけ値千金の価値があるのか…。
以前の自分だったら、おそらく分かっていなかったことでしょう。
 
21. Posted by 太郎冠者   2020年04月13日 22:51
☆マルコビッチさん
もし何か少しでも、自分に変化を感じていただけているのだとしたら、たぶんそれは上にも書いたとおり、師父がどのように太極拳に向かっていらっしゃるのか、少しでも考えようとし始めたところからかもしれません。

師父の特別寄稿に書かれていた、
「実は、真の師弟関係では、師匠は弟子に何もしない」
「師匠は、ただ黙って「そのもの」を見せるのである」
という文章を読んだとき、自分は鳥肌が立ち、狂気錯乱しかねんばかりに…いや、実際そうなっていたかもしれません。

何もしない、ただ見せる。
これ以上に全体的で包括的で、全てを余すことなく伝える豊かな方法があるでしょうか?

…その凄まじい特別寄稿の後に、原稿を載せなければならない私が、「これでいいのか?」と悪戦苦闘し悶絶しながら記事を書いたのは、ここだけのヒミツです。
 
22. Posted by 太郎冠者   2020年04月13日 23:16
☆川山継玄さん
武術に限らず、伝統文化を継承することと、現代的な生活を送ることは、やはりどこかで相容れない部分があるのかもしれません。
ですが、実は気付きにくいだけで、人間は、昔とほとんど変わらない生活をしているのではないかとも思います。
たとえば食事するとき、調理器具や食器類、これらは数百年、ことによっては数千年前の道具とほとんど大差ありません。

車や飛行機、電子機器など、センセーショナルな新しいものに人間のセンサーは敏感に反応してしまうので、古き良き昔のもの、時間の流れを乗り越えて生きながらえてきたものに目を向けにくくなってしまっているのではないかと思います。

目の向け方を変えられたとき、それらのものが現代にも脈々と息づいて感じられることは、伝統武藝を現代で修練することにとっても有益なものではないかと感じます。
絶やすことなく次へとつないでいくためにも、まずはきっちりと理解せねば!と思う毎日です。
 

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