2020年01月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その46

   「なにを掛けるか」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 1月も早くも3週間が過ぎ、すでに何回も道場で稽古をしてきました。
 道場で師父にお会いできないときも、師父はあの時どういうことを言っていただろうか、どう示していただいただろうか、と思いながら稽古をしていると、不思議と師父に稽古を見ていただいているような気持ちになります。
 その場で稽古を見ていただけなかったとしても、師父が一体なにを掛けて稽古に取り組んでいるか、それと比べて自分の稽古への取り組みはどうかを比較していくと、学ばせて頂けることがたくさん出てくるのです。

 太極拳という「システム」を学ぶにあたり、学習に対するアプローチの仕方でどれだけその成果が変わってしまうかということを、痛感させられています。

 師父から示していただいている学習体系は、その要点だけ持ってきて、おいしいところだけ取り出してやろうとしても決してうまく行かないようになっているのではないか、と思うのです。

 太極拳をシステムとしてみた場合、システムの健全化、成長をさせていくためには、何か要素を付け足していくのではなくて、そのシステムを使っていく中で現れてくる不備をやめていく、否定していくことでしか改善されていかないからです。
 すでに人間は自分の体がそこにあり、その構造を使って生きています。その中で、太極拳というシステムに最適化をしていくためには、要素を付け足していくというやり方をしていては、悪い意味で無限の可能性を試していかなくなってしまうからです。
 それとは逆に、間違っていることをやめていくのは、簡単です。
 AとBを比較して違いがわかれば、その違っている要素をやめていく。そうすれば、やめた分はBはAに近くなっていきます。
 BにとってAがどういうものか完全にはわかっていなかったとしても、BはAに近づいていくことができます。システムが否定の道でしか改善しないという、非常にシンプルな説明です。

 今年は元旦から初詣に行くことができました。
 神社の境内の清涼な空気を体に浴びて、昔の日本人から脈々と受け継がれている神道が、なぜ禊と祓を行うのかということに、思いを馳せることができました。
 禊と祓、宗教的な詳しい説明は不勉強なのですが、それは何かを取り除くという行為に他ならないと思います。昔の日本人は、経験的に、何かを健全化させていくには否定していく必要性があることを知っていたのだと思います。それが、特定の形で残されたのが禊と祓なのではないかと思います。

 何かをやめていくということは、ある意味では自分の一部を捨て去ることに繋がるので、行うには勇気が必要になります。
 師父が、臆病ではできないと仰っているところかと思います。

 どれだけそれを取りたいか、そのために何を掛けることができるのか?
 問われているのはそのことで、それがなければ、太極拳を理解することはできない…。

 師父がずっと言われ続けていることなのですが、それこそがまさに、太極拳をどれだけ学習していけるかの本質なのではないか、というように感じるようになりました。
 ただ時間をかけるとか、どれだけ稽古をしているか、と単純に表せるものではないのだと思います。

 魂をかける、命をかける。

 言い方は色々だとは思いますが、自分の考えをやめる、否定することで上達していくとはつまり、自分の一部をやめて、捨て去っていくことで、自分自身が刷新されていくことなのではないでしょうか。そのためには、どれだけの頭があるとか、運動神経があるかではなく、ただどれだけ覚悟を持って取り組んでいるか、その点に尽きるのだと思います。

 ただ努力を積み重ねるだけなら、おそらく多くの人にできることなのではないかと思います。
 システムという点で見ると、それは積み重ねていく方向の努力であって、ある時まではうまくいったとしても、ある時、システムの全体としては不備が起きてしまい、うまくいかなくなる日が来てしまいます。

 師父に示していただいているのは、太極拳という磨かれたシステムです。
 教えていただける要点は、それをそのまま自分のシステムに取り込むのではなくて、それによって自らのシステムを新たに生まれ変わらせることに使わなければならないのだと思います。
 すでにシステムの発展形を示していただけているので、それに向けて自分のシステムを改善していく必要があり、そのためには足し算ではなく引き算をしていかなければならないのではないでしょうか。

 自らの足で立つ、自立した人間であることとは、起きたことの責任を自らで負うことのできる覚悟を持った人間のことなのだと思います。
 自らの身を切る覚悟があり、それのできるところにいる人間でなければ、自分を持たずに手放していくことの意味がわからない、と師父は仰っているのだと思います。
 両者は同じことを示していて、全く矛盾していません。それは、自立しているとして我を貫こうとする種類の人間とは全く異なっています。

 太古の昔から、力を持った為政者とはすなわち、自ら戦争の最前線で死ぬ覚悟を持った人間のことを指していました。
 野蛮だなんだというような話は別として、古代ローマの皇帝は、多くが戦争で命を落としているのです。
 今のように後ろから指示を出し、自分以外の他者を先に死なせる種類の人間では決してありませんでした。自らを犠牲にする覚悟を持ち、実際に最前線に行ける人間こそが力を持つことが許されたのです。

 これは最小化すれば、個人のレベルでも同じことがいえるのだと思います。
 自らが安全なところにいて、本当の意味で力を得ることは出来ないということなのだと思います。
 安心できるところにいるかぎり、太極拳で示している本当の戦い方はわからないのだと、師父はそう示してくださっているのだと思います。

 これはただそういう覚悟なくして出来ないというような、観念的な話ではないのだと思います。
 実際に、システムを改善していくという、科学的なアプローチを行っていく上で必要な状態のことを指し示していて、そのためにもスピリットこそが大事なのだと、師父は仰っているのではないでしょうか。
 このような話が現実的に意味を持つようになるところが、太極武藝館で示されている太極拳を学習していく中で、非常に刺激的で面白いところだと思います。

 だからこそ、ただ太極拳の技術を学ぶのではなく、師の後ろ姿を見て、師がどのように生きているのかを自分も味わなければいけないのだと思います。

 そのためには、言葉で語るのではなくて、実際に行動で示さないといけないのだと思います。


                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その47」の掲載は、3月22日(日)の予定です

disciples at 17:17コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2020年01月22日 19:25
太郎冠者さん。いつも色々な考察を供していただいて感謝します。太極拳のシステムと、それに対する姿勢についての考察、また、師父の言葉などを記事にしていただきありがとうございます。
*どれだけそれを取りたいか、そのために何を掛けることができるのか?
*太極拳のシステムを理解するには、そのスピリットが必要である
そうですね。問われ続けていることは、その事であると思います。私は臆病で弱い人間です。臆病さを自覚してのなお、臆病という殻に入っていたい。そんな面が多くあります。それでも、雄々しく立ち向かうこと。今年は、晴れ晴れと立ち向かい続けて行きたいと思っています。
新しい、記事ありがとうございました。
 
2. Posted by 円山玄花   2020年01月23日 11:34
「命をかける」・・これこそ、言うは易しで、命がけでと言ってはみても、自分のやりたいこと、自分が言いたいことなどが出てきて「自分」が山積みになってしまい、天秤に掛けた「命」よりも「自分」が重たくなってしまいます。
自分の命よりも重たくなってしまう「自己」を否定し、捨て去らなければ、命をかけることさえ侭ならないのだと思い至るこの頃です。

「命をかける」とは、言ってみれば、腹を切れる覚悟となるでしょう。そしてそれこそが生きる覚悟なのだと思います。
そうだとしたら、人は生まれたそのときから命がけで生きていることになり、しかしいつの間にか自分の思考で生きているのだと傲慢に考えられるようになり、そして終いには命がけで生きられなくなってしまったのかも知れません。

師父の存在とは、私にはハーモニーであると感じられます。
何者に対しても、何事に対しても、調和が生じることとは、天秤に「自己」がないからこそ可能になるのかもしれません。
私も勉強していきます。
 
3. Posted by ハイネケン   2020年01月23日 23:21
太郎冠者さんの仰る通り、
自分が何をしているのか?と考えてしまい自分のシステムに何かを組み込もうとする方向に進んでしまいます。
更に何をすればもっと良くなるのだろうなどと足し算の要素を探す日々。
「AとBを比較して違いがわかれば、その違っている要素をやめるていく」
そんな比較すらせずに日々何に自分は取り組んでいたのか?見えていないのではなく見ようとしていないのかも知れません。
ブログの記事を読みつつも、生かし切れていないのも今の自分や安心・安全への固執であり、太極拳を学習する事を味わえていない気がします。
 
4. Posted by 松久宗玄   2020年01月23日 23:38
覚悟が伝わってくる熱い文章ですね。
読み進める中で、私も自分を見直す良い機会になりました。
ありがとうございました。

多くの物を抱えた状態で、新しい物を手に取る事ができないように、
捨てられるからこそ、新しくできる。
全くその通りだと思います。

でも自分自身を省みても、
捨てる為に自分の内側をよく観る事よりも、
足りないと思われる部分を補うべく、自分の外側に向かう方向に陥りがちです。
自分の強さや考えで自分の中身を満たしてしまうと、
自分を観る事も困難になってしまいます。

今年の正月には、私も初詣に参りました。
日常のしがらみから離れ、自分に向き合い、決意を新たにする良い機会となりました。
自分を観る事が起これば、その場で捨てて、新しくする事が起こるのだと思います。

自分から逃げず、観る事を続ける覚悟こそが、
常に問いかけるべき初心なのだと思いました。
 
5. Posted by 川山継玄   2020年01月24日 00:24
自分を否定するのには、とても勇気が必要で、難しい事だと感じています。
自分を否定するためには、今の自分を充分に観察して自分でその状態を理解しなければなりません。精神状態・身体の状態・環境等々、今の自分を作り出しているものが把握できないと、何を否定したらよいのかわからないからです。

年末に、不覚にも少し体調を崩し、稽古に行けなかったり、トレーニングを定期的にできなくなったりしました。体調の良い時には、時間もスムーズに流れて、快適で心身ともにとても充実していると感じていたので、それを遮断された時には「しまった」という思いと、「どうしよう」という焦りが湧いて出てきました。
トレーニングは、一週間の間で3回、調子が良い時に組み入れようとしましたが、普段やっている時間にやらないと、なんだかんだと都合のいいように後回しにする自分がむくむくと顔を出しました。体が本調子でないことを理由に、普段の生活や時間のやりくりを、自分勝手にし始める自分が潜んでいる、という自覚なしに今まで過ごしてきた傲慢さに驚きました。
「自分を挟むこと」が如何に容易に学習システムから外れる自分を許すことに繋がるかを学ぶ機会となりました。

このところ、自分の状態が今一つはっきりと見えておらず、言葉を濁すことが気になっていたのですが、この学びをきちんと受け入れて、「それはやめよう」と自らに言えていなかったからだと反省しました。
 
6. Posted by 佐藤玄空   2020年01月24日 09:58
先人がどのように太極拳を作り上げていったかは今となっては不明ですが、次はないという命がけの中で発展し進化していったのは間違いはないでしょう。
そういうものを平和ボケ時代に習得することは逆に難しいのかもしれません。時間もけして無限ではない。
命に係わるくらいに危機感に満ちた状況を自ら作り上げないと先人の境地にたどり着くのは難しいのかもしれませんね。
師父との対練と同じ心境にいつも自分を置けたらかわるかしら。
 
7. Posted by 清水龍玄   2020年01月24日 20:23
沢山の時間をかけてみても、上手くいかないやり方をしていたら全く理解に繋がらず、自分に歪みが大きくなっていってしまったりすることがあります。
その様な時は、自分のやりたいように物事を行っていて、自分がやりたいことを付け加えている状態でした。
落ち着いて考え、本来やらなければならないことが何なのか、自分がやりたがっていることや、その原因を解り、正し続けていきたいと思っています。
大変興味深い記事でした。
ありがとうございました。
 
8. Posted by もりそば   2020年01月25日 09:21
システムって何だろう?自動車の動くシステム、地球と月が互いに公転しながら動くシステム、太極拳のシステム・・・・・etc
それらを発明、解明してきた人々を動かしたきっかけは必要に迫られてだったかもしれませんが次第にそのものの本質に対する興味や好奇心といったものに転じていったのでは?と想像します。生存のため、名誉のため、金儲けのためを突き詰めても人間はそれだけでは飽きてしまい自分が夢中になって追及できるものを求めていった。そのような状態を命を懸けると言ってみても良いのかな?とも思い師父のありようを思い出すとそのように在られると感じます(師父は好奇心の塊でありその対象は太極拳に収まりきらないですよね)。

なのでって言うのも変ですが稽古においても(日常においても)科学的アプローチができているかどうかも大事だが自分が興味や好奇心をもって取り組んでいるかどうかも興味深く観察しながら進めてゆきたいです。
 
9. Posted by 川島玄峰   2020年01月25日 11:43
太極拳に向かう姿勢を問われたという思いです。

システムと考えると、今までの自分の捉えが間違いであったと稽古を振り返っていました。
太郎冠者さんの云われるように否定の道であり、自分を刷新していかなければ、修得できるはずがないなと考えます。
そのためには「なにを掛けるか」。
自分の弱さ、愚かさに対して逃げない勇気、気持ちがあるのかと問われているように思います。

今回のブログは、自分の稽古で取れていない欠点が少し見えたように感じました。
今回も太郎冠者さんに、道標になって頂きました。
ありがとうございます。
 
10. Posted by 田舎の神主   2020年01月26日 14:20
禊や祓いは、神事や大切な行事の前に行なう、神慮にかなうためのものですが、言われてみると確かに新たに加えるものは無く、穢れを落とすとか祓い清めるとかの捨てることです。

神道書にある解釈ではなく、田舎の神主の解釈で言えば、祓いは「罪」を捨て元に戻すこと。罪とは、自分が意識しないうちに正道から他の道にそれてしまった事項や意識。禊は「穢れ」を取り元に戻すこと。穢れとは、気枯れ、気の枯れた状態。興味や、やる気が無くなり弱気になった状態。禊や祓いを行い、罪穢れを祓い、正しいと思われる道や元の気に戻ることではないかと思います。

実際に、先日他県に出張した際に「禊祓い」をした神社に参拝しました。その神社は私の恩師が宮司を勤める都市中心部の神社ですが、過去に宮司就任祝いで参拝した時には、神社境内の前面が駐車場となっており、その収入で神社を運営しているとの事。大変うらやましい神社でした。しかし、先日は、別の神社かと見間違うほどになっていました。それは、駐車場収入を止め、境内前面に車が停まってなかった事です。駐車場収入を捨てることによって、得たものも多く正道に戻った神社でした。まず有り得ないことであり、生涯を掛けた覚悟だと思いました。今の時代でも、そのような宮司がいたのだと私の心も洗われました。

すなわち、本来は止めるべきものを、止め、捨てることにより、正道を進み晴れ晴れとして得るものも多く、関係した私の心も清々しく元気になったのでした。

今回、神道についてふられましたので、駄長文、たとえのようなコメントで申し訳ないです。
 
11. Posted by マルコビッチ   2020年01月27日 23:37
太極拳に合わせようとすると、意識は自分の中へと向かう方向を変えていきます。
その中で、自分の考えを通そうとする自分、一つのことに執着している自分などに気付かされます。
そんな、日常生活の中では難しい濃密な時間を持てることも、私にとっては道場に通う意味でもあります。
しかし、日常生活の中でこそ道場にいる時と同じ意識でいないと意味はないですね。
常に自分のエゴに気づける状態でいたいと思います。
自分の中の弱さも自覚していますが・・・否定と肯定・・・大変です。
 
12. Posted by 太郎冠者   2020年02月05日 01:14
☆西川敦玄さん
コメントありがとうございます。
自分自身、記事にすることで自分はどうか確かめ、そして毎回の稽古の中で、果たしてどのように取り組んでいるかを確認している毎日です。

出来ていることばかりではなく、むしろ出来ていないことのほうが多いくらいですが、それでもできることを精一杯やっていくことでしか、何かを進めていくことはできないのだろうと感じています。

太極拳を修行するとは、途方もないことなのだと思います。
しかし、何より他の誰でもない師父御自身が、我々門人以上に未だに切磋琢磨し続けているのですから、我々が自分に負けているわけにはいかないのだと思います。
心を燃やして頑張っていきたいと思います。
 
13. Posted by 太郎冠者   2020年02月05日 01:21
☆円山玄花さん
私の亡くなった祖父が、戦争を経験した帰還兵だったのですが、一緒に何かをするときに「腹を切る覚悟はあるか」と冗談めかして、小さくてよくわかっていない自分に言って聞かせてくれていました。

自分にとっては優しい祖父でしたが、戦地から帰り、十代で友人と会社を起こして事業を軌道に乗せるような人で、よくも悪くも熱意に漲っていました。
そういう人だからこそ、何かを成すのに腹を切る覚悟を持って臨まなければならない、と理解していたのだと思います。

もう少し自分が何かをわかっていれば、こういう話がもっとできたかもしれません…。
これから、孫としても、またひとりの男としても、恥じないような生き方をしていかなければいけないです。
 
14. Posted by 太郎冠者   2020年02月07日 15:36
☆ハイネケンさん
先日、師父から「音楽や絵画を味わうように…」という言葉を頂きました。
美術館に行ったとき、絵の細部を食い入るように見つめているのは、美大生の若者だ、などという話を読んだことがあります。

それは、絵の一部である技術に目を向けて、研究している気になってしまい、絵画としての全体の美しさを見ることを忘れてしまっている状態だ。
と、私の好きな作家がエッセイで書いていたことなのですが、師父も全く同じことをおっしゃっているのだと感じました。

自分にとって太極拳の学習がどうなっているのか、常に見直すのが必要なのだと感じています。
お互いにがんばりましょう!
 
15. Posted by 太郎冠者   2020年02月07日 15:50
☆松久宗玄さん
個人的な体験ですが、何かで頭がいっぱいになるといいますか、心を閉ざした状態になっていると、何かを経験しても、それで心が揺り動かされることがなかったように思います。

心が開いた状態でいられるときは、些細なこと、日常の何気ないことでさえ、ふっと心が動かされる状態になり、本当は色々な物事が起きているのだと感じたものでした。
心を開くということは、外側だけでなく自分に対しても心を開いているということでもあり、必然的に、自分が何かを感じ、なにをしようとしているのかを理解することも容易になったように感じたものです。

何かに詰まるとは、文字通り自分が詰まったような状態で、解消するためには、その詰まりを手放す他ないのではないか、と思ったものです。
まだまだ詰まっているところがあるので、風通しをもっとよくしていきたいです。
 
16. Posted by 太郎冠者   2020年02月08日 00:07
☆川山継玄さん
稽古で上達している人がどのようにやっているのか、いつも勉強させてもらっています。
取り組み方や自分への向かい方、修正ができるかどうかなど、言い出せば要素はいくらでもあるかと思うのですが、根っこのところで共通して、そして一番重要なのは、太極拳をどれだけやりたいかにつきるのだと思うようになりました。

やりたいことを本当にやるには、なんだって犠牲にする、くらいの傲慢さを、ある意味では持っていないといけないのかもしれない、と感じました。
世の中で何かを成し遂げた人は、ある観点からすると、まったく世の中に迎合せず、妥協せず、自分を貫き通した人に見えなくもないです。
けど本質は、そのやりたいことのために他の全てを手放した人が、本当にそれを極められた人なのかもしれません。

それくらいの心意気で「やるぞ」と行動できる男になりたいものです。いや、ならないといけませんね。
 
17. Posted by 太郎冠者   2020年02月08日 00:21
☆佐藤玄空さん
師父のお話を伺っていて、師父が危機へ対して張っているアンテナの状態が、我々一般人とは違っているのだと、最近になって感じるようになってきました。
それは、危機を予想しているのではなく、備えているのだと…。

師父が危機に備えると仰っているのは、数学的な確率でそれがどれだけ起こりうるかということではなくて、もしそれが起こった場合、どれだけ致命的になりうるか、ということなのではないかと思うようになりました。
実際に戦いで太極拳を使う確率を考えるのではなくて、もし万が一戦う必要にせまられた時、果たしてどれだけの確率で生き残ることができるか?
一般人が数学的に(科学的に?)理解できていない確率のことを、師父のようなプロフェッショナルは理解しているのだと思います。
そう考えれば、現代でもしっかりとした認識を持って武術の稽古を行うのは、十分に可能なのだと思いました。
それこそが、備えよ常に、ということなのかな、と思った次第です。
 
18. Posted by 太郎冠者   2020年02月11日 16:25
☆清水龍玄さん
作家の話ばかりで恐縮なのですが、ある有名な作家のもとに相談に訪れる作家志望者から、こんな質問があったそうです。
「小説を書きたいのですが、最初の書き出しがうまくいかずにずっと書き直しています。どうしたらよいのでしょう?」
それに対して有名な作家はこう答えます。
「なんでもいいからとにかく書き進めろ」

その後、作家志望の若者に話を聞くと、まだこう言っていたそうです。
「まだ書き出しが決まらずに、書き進められません」
結局その若者は、小説を書き始めることすら出来なかったそうです。

どのジャンルにおいても、求められるスピードの質は同じなのかと思います。
 
19. Posted by 太郎冠者   2020年02月11日 16:31
☆もりそばさん
>師父は好奇心の塊でありその対象は太極拳に収まりきらないですよね
以前、師父が映画に当てる音楽を作っていたというお話を聞いて、驚いたことがあります。
自分も映画のサウンドトラックが好きで聞くことがあるのですが、見ていたはずの映画なのに、流れていたことに気づく曲もあれば、こんな曲あったかなと思う曲も多々あります。

けれど、映画の中でもしその音楽がなければ、おそらく映画そのものが違った印象になるのだと思います。

ただ主張するでなく、映画を引き立たせるような音楽が、映画のサントラだと思うのですが、ただ音楽を作るだけでなく、映画音楽を作っていたという師父は一体・・・??
好奇心というレベルで収まるとは思わず、何かをやり遂げるということを突き詰めた結果、ジャンル問わず学習していけることができるのだと思うのですが、単純にすごいですよね・・・。
太極拳は奥が深いです・・・。
 
20. Posted by 太郎冠者   2020年02月11日 16:43
☆川島玄峰さん
>太郎冠者さんに、道標になって頂きました。
もしそう思っていただけたのだとしたら、それは自分ではなくて、やはり師父に道標になっていただいているのだと思います。
というのも、書いていることは道場で学習したことであり、道場は、師父に用意していただいた場所です。
そして、この連載もまた、師父によってはじめさせていただいたものだからです。

「何を掛けるか」というのは、何の責任を負うかということも意味していると思います。
師父は、我々に道場という場を用意してくださっているわけですが、同時に我々門人のことまで、責任を負ってくださっているのだと思います。道場での稽古のみならず、道場から帰ったあとの稽古、はたまた実生活に太極拳がどう関わるかといったことでさえ…。
我々が太極拳を修行していくために、師父がどれだけのことをしてくださっているのか、正直自分には想像もつきません。
それだけの責任を負っているからこそ、我々は誰も師父に敵わないのだと思います。
ただ太極拳をやっていくというだけでなく、どれだけの覚悟で太極拳を追求していけるか。
師父は言葉ではなく、行動で示してくださっていると思います。
だからこそ、我々もまた行動で答えないといけないのだと思います。
 
21. Posted by 太郎冠者   2020年02月12日 01:24
☆田舎の神主さん
本職の方に解説していただけると、非常にありがたいです。
>神慮にかなうため
とのことですが、太極拳においても、正しく動ける構造、原理というのは、ある意味では自然から賜り、先人によって代々受け継がれてきた恩寵で、神性さえ秘めているといえるのかもしれません。

それを我が身に宿すとなると、こちらも相応の覚悟を持って臨まなければいけないものと思います。
やはり問われているのは自分のあり方であり、物事への向かい方なのではないかと思わされます。

日常で身についたものを落としきらないことには、自分の真実には出会えず、そして太極拳もまた理解できないのかもしれません。
勉強になりました。ありがとうございます。
 
22. Posted by 太郎冠者   2020年02月12日 01:39
☆マルコビッチさん
自分にとっても、日常生活の中で稽古し続けるのは難しいことです。
太極拳の良いところは、自分の体ひとつで、気になったときにすぐに練習できることかと思うのですが、そういった日常の些細な隙間を見つけて、少しずつやるのが効果的なのかなと思います。

ピアニストやスポーツ選手なども、一度スキルを習得すれば良しというわけではなく、上達するためにはたえず練習し続けなければならないそうです。
一度できたことを手癖のようにやり続けても技術の上達は見込めなく、自分のやり方をたえず気をつけて自分に意識を向けながら、練習し続けないといけないのだそうです。
それが人間に備わった学習のシステムのようですが、太極拳においても、一度何かを理解したとして、それをさらに磨き続けないと、いずれその出来ていたはずのこともできなくなってしまうといえるかもしれません。
人間の学習プロセスの、面白くもあり大変なことでもある点だと思います。

ますます日々の稽古に励まないといけませんね!
 

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