2019年11月22日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その45

   「『選ぶこと』について」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)


 前回、「選択の問題」という記事を書きましたが、ただ記事にして終わりではなくて、毎回の稽古の中で、自分が何を選んでいるかということについて、より意識しながら取り組むことを続けてきました。

 最近の稽古の中で、師父が特殊部隊を例に挙げて話をしてくださったのが、非常に印象に残っています。特殊部隊のような戦闘のプロを目指して訓練をしていく中で、一番大切な要素が、訓練を行う者の精神力である、という話です。
 武術で、科学的に取り組む、構造に関して分析していくというアプローチをとっていくとき、あたかも大切なのは物質的な要素ばかりだと思ってしまいがちですが、本当に大事なのは精神であり、マインド、魂や心なのだと師父はおっしゃいます。

 最近、たくさんの門人が道場で稽古をしている様子を、それとなく観察させてもらう、ということをこっそりと続けていました。
 そうすると、いくつか気づいたことがありました。
 稽古の中で、ここ最近特に上達していく様子が目に見えて感じられる門人の方たちは、まるで「分かることをしっかりと選んでいる」ように見えるのです。

 こう書くと当たり前のことのように思えて伝わりづらいかもしれませんが、おそらく、実際に道場で彼らを含めたみんなの様子を見ていると、納得していただけるのではないかと思います。
 上達するために道場に来ているのだから、誰しも、稽古で理解していけるほうを選んでいるはずではないのか? と思うのは当然の疑問です。
 ですが、自分のことを鑑みても思うのですが、稽古がうまくいっていないときには、まるで自分がうまくいかない方に身を置くような選択を続けているのではないかと思います。

 なぜそんな、不条理な選択を行うのか。その時々、その人によって違いはあるのかもしれませんが、人間とは元来、不条理な生き物で、思っているよりも自分自身のバイアスによって選択は歪められ、思っているよりも合理的な行動はとれていないということなのかもしれません。

 自分が何を選ぶかということは、腕っ節の強さには関係がなく、年齢や体格、どれだけの年月やってきたのかということにも関係がありません。精神の問題であり、心の問題です。
 しかし、実際にそれこそが稽古の成果を決める決定的な要因なのだと感じられたとき、かなりの衝撃に自分は襲われたものです。

 気づいたからには、自分の稽古にそれを生かさない手はありません。
 稽古で上達していっている人を参考にして、自分もある選択をすることにしました。

 非常に単純です。自分も理解していけるほうを選ぶようにする、それだけです。
 もう少し付け加えるなら、「理解していけるほうを選ぶ」ということを選ぶ、というものです。
 たったそれだけの選択をすることにしただけで、多くのことが自分に起きてきたと思います。

 稽古の中では、師父から多くのことを示していただいています。それは太極拳の動きであったり、見せられる姿や立ち振る舞いであったり、まるで太極拳とは関係がなさそうな師父のお話の中であったりと、様々な姿を取って表現されているかと思います。
 その中に、我々が気付くべき太極拳は含まれていて、それに気付くか気づかないかは、やはり我々ひとりひとりに問われているのだと思います。
 たとえばあるひとつの技を同じ形で示されたとしても、理解できる人は理解でき、理解できない人には理解できないのだとしたら、その人がどう受け取ろうとしているかという違い以外に、どこに差異があるといえるのでしょうか。

 そして、すでに書いた通り、理解できていく人は、それを自分で選んでいる人なのだと思います。
 自分を挟まずに真似することの大切さは、たくさん言われ、ブログ等にも書かれているかと思いますが、まず自分がそれを理解する準備ができた上で真似しないことには、ただの模倣にすらならず、理解は生じてこないのだと思います。
 本来は、そこまで含めた意味で「真似をする」と言うのかもしれません。

 「備えよ常に」という言葉は、何かが起きた時に、すぐに動ける状態に準備しておくことなのだと自分は思っていました。
 自分にはそれができていない、師父は常に準備されているように思える…
 そう師父に話したら、師父は「そうではない」とおっしゃったのです。

 「私は物事に備えているのではない。私は、常に『自分に』備えているのだ」と…。

 この言葉を聞いたとき、金槌で頭を殴られたような衝撃を受けました。
 思ってもいなかった衝撃を受けると、否応なく人間は変わってしまうものです。

 自分が準備できていなかったのは、外の物事ではなく、他でもない自分自身に対してだったのです。内と外がぐるっと入れ替わってしまうような経験は、生きている中でもそうそう味わえるものではないです。

 太極拳の理解がおぼつかないのも、外側の事物に問題があるのではなくて、自分の内側の問題に向き合えていないからであり、それをするためには、他でもなく、自分自身できちんと選ばなくてはならないのだと、師父は仰っているのだと思いました。

 常に、自分に対して備えていなければならないのです。
 それは何を選んでいるかを知るということであり、何を選ぶかということではないでしょうか。きちんと選択することができれば、それによって現実は動き、おのずと結果は出てくるものではないかと思います。

 師父から、意識・意志・魂がベースであり、その上に理論や技術が乗ることで物事は発展していく、というお話をしていただきました。
 太極拳を科学的に追求していくということは、ただ技術や技法を学び研鑽していくだけではなく、それを行う人間としても、本物でなくてはならない。だからこそ、現代においても太極拳は価値のあるもので、大切なものなのだ、と。

 自分の中のタガが外れて、まるで壊れたようになったとき、はじめて新しい、見えていなかった物事が見えました。
 そして、それを待っていたかのように、外側からまた新しいことがドンドンと飛び込んできます。それによって、また思ってもみなかった自分の枷が外れていってしまいます。
 そうして新しくなっていくという繰り返しの循環は、一度味わうと病みつきになってしまうものです。

 それに必要な最初のきっかけは、疑問を持ち、自分が何か別のことを選んでいくことから始まるのかもしれません。
 幸いにして、我々には教えをいただける師がいて、現代では稀有な道場、志を同じくした様々な門人たち、という学びの場が与えられています。
 それだけ恵まれた環境を使わないという手はないと思います。

 何より、ささいなことで人間は変わっていくのだということ、これほど面白いものは、この世の中でそうそう無いのではないかと思います。



                                 (了)



*次回「今日も稽古で日が暮れる/その46」の掲載は、2020年1月21日(火)の予定です

disciples at 18:57コメント(20)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 川山継玄   2019年11月23日 00:43
>「私は物事に備えているのではない。私は、常に『自分に』備えているのだ」

私もこのお言葉に、衝撃を受けた者の一人です。
備えることを、外との関わりと捉えらえてしまうと、何が起こるかわからないという不安から、右往左往してしまうような心理状況に置かれていたのですが、一番身近である「自分自身に備える」と意識が変わっただけで、心がとても楽になりました。
そして、今この瞬間の選択は、自分自身に責任があるのだということを、強く感じるようになりました。今更でお恥ずかしい限りですが、誰のせいにもできないという自覚が持てたのだと思います。

師父の教えは、「これをやらなければいけない」という私のガチガチに凝り固まった脅迫観念を常にほぐしてくださいます。
「一週間で3日、予定していた時にできなければ、次の日でもいいからとにかく3日やってごらん。」
毎日やらなくては!と鼻息を荒げて続かない私にとっては、「な〜んだ、3日でいいんだ!」と肩の力が抜けて、その3日に集中し、継続し続けることができるようになりました。
この柔軟な発想は、自分の備えとしてとても大切な事だと感じています。なぜなら、「できなかった」事に対する罪悪感や不安を持ち留まることなく、次の状況にさっと自身を合わせて、動いていけることに繋がるからです。

ご指導頂いた事を、言われたとおりに継続することによって、心身の変化を実感し、この稽古やトレーニングが何を意味して、どのようにつながっていくのかが徐々に見えてきて、生活の中でも、修正が早くなり、凹むことが少なくなりました。心が少しずつ、強くなってきているのかな…。だと嬉しいです。
感謝と感動の中で生きていきたいと、改めて気持ちを新たにしました。
活き活きとした太郎冠者さんそのものを記事にしてくださり、ありがとうございました。
 
2. Posted by 西川敦玄   2019年11月23日 08:29
ブログ拝見致しました。本部道場への参加の頻度が低い私にとって、太郎冠者様のブログは師父や本部道場の雰囲気を太郎冠者様の目を通して身近に感じられる貴重な記事となっています。感謝します。
「私は物事に備えているのではない。私は、常に『自分に』備えているのだ」との師父の言葉、とてもありがたく受け取りました。とかく、常にそなえていないといけない状態と言われると、外に目を向けてしまいます。様々な状態を想像して、それに対し心づもりをしておくというような。しかし、師父の見方はそうではないのですね。  心を外に向けて準備すると、色々な状況を想定していってしまい、疲弊してしまっていました。自分に備える・・・。
 私は、自分の自分自身の状態に目をむけて、自分の中に起こっていることに自覚的になること。自己の考えの起源を認識すること。そして、認識されることから起こることを邪魔することなく、見ていくことができることから新しく始めたいと思います。そして、それは稽古において、言われたことを変化させてしまうことに自覚的になり、どうして、私はそう考えたいのかということから始まりました。
 師父の教えに従い、自分の心の起源と、思考の起源の相違を明確に自覚して生きていくことを、素直に行いたいと思います。
 今回もブログの記事ありがとうございました。道場での稽古や様々な場での仲間との時間の共有に感謝致します。
 
3. Posted by もりそば   2019年11月24日 11:29
自分の選択の優先順位を鑑みると自分が慣れ親しんだ得意なことから始めたがり苦手なものは選択したくないと思っている。自分はそういう傾向なんだなあと批判を交えずに俯瞰することから初めて意識的な選択が始まると思います。普段から自分を俯瞰するということに意識を行使しつづけることが重要な訓練であり道場は道場にあらず日常こそ道場であると師父は教えてくださります。
それらの探求の結果、苦手なことを選択できなくしている要因は何かを解明し、それを受け入れ選択していけるよう心も柔らかくほぐして事に当たりたいと思います。
 
4. Posted by 円山玄花   2019年11月25日 04:15
最近は、受け取ることも選択することも、自分がするのではなく「生じる」ことなのではないかと思えます。
太郎冠者さんが書かれた「理解していけるほうを選ぶ」ということも、言ってみれば理解していける方を選べる自分の状態が整えられたために、そちらを選ぶことが生じたのかも知れません。
するべきことは、それらが生じるように自分自身を整えること。そうすれば自分を挟まずに真似をするということも、初めて可能になるような気がします。

面白いのは、太極拳で相手を打てることや崩せることも、同じように考えられることでしょうか。
自分と相手との関係性の中に、自分には相手を打てることが、相手にはこちらに打たれてしまうことがそれぞれ生じており、それ故に相手と向かい合ったときに、何の力も拳の速ささえも必要ない状況が整っているように思います。
それでは、その選択はどのようにして生じているのか・・と順を追って考えていくと、元々の自分、無極椿で立ったときの自分に還ってきました。
 
5. Posted by 川島玄峰   2019年11月25日 23:04
稽古では自分自身のバイアスに嫌というほど向き合わされます。このバイアスを壊さないと選択すら迷うように感じております。
その迷いが生じている最中、今回の太郎冠者さんのブログのおかげで、少し落ち着いて冷静になることができました。
今までの習った動きを思いだしながら照合する作業を選択し、素直に真似るができていない事が原因でした。まだ、自分はタガを外さなければいけない状況であるのに余計な考えをしていたと反省しました。
タガを外れることは、新しい物を受け入れる準備となり次へとつながり、それが循環されることだと今は自分に言い聞かせてます。

「常に『自分に』備えているのだ」

という師父のお言葉で、そんな迷う自分に活を入れて頂いたように思いました。
もっと自分を冷静にし、落ち着いてこれからの太極拳習得に必要な精神力を備えていかなければいけないと思います。
そして本物でなければならないという意味を心に刻み、太極拳の意識、意志、魂を養い稽古に励みます。
 
6. Posted by 松久宗玄   2019年11月25日 23:31
合理的な選択も、その目的の選択において、
真に合理的なのか、不条理に陥るのかが分かれるのだと思います。

仮に時短が目的であれば、
如何に手を抜くかが合理的な方法論で、
それだけを見れば正しい選択と云えるのでしょうが、
遠く高い目標を掲げつつも、そこに時短で辿り着こうと考えたのなら、
その目標達成は逆に遠くなる、不条理な選択になるのだと思います。

人間は弱く、不条理な合理性も大好きな生き物なので、
目的を正しい選択からブレさせず選び続けるには、
その弱さにこそ注目し、自分の弱い選択にこそ自覚的であるべきなのでしょう。、
それが師父の云われる「自分に備える」という事の一つの意味なのだと思いました。

自分自身に立ち返れば、社会の中で生きていく為の工夫として、
自分の強さや、単純な意味での合理性を多用してきました。
そして今、その強い自分の枠組みによって、見える世界を制約してしまい、
太極拳の稽古での障害なっているのだな、と思います。

省みず歩き出す前に、
弱い方の自分に向き合う選択こそが、
自分を変える一歩に繋がるのだと再認識できました。ありがとうございました。

その自分に向き合う機会に直面させて頂ける環境は、本当に得難く貴重です。
師父と門人の皆様に深く感謝申し上げます。
 
7. Posted by 田舎の神主   2019年11月26日 01:03
近頃の自分の稽古を反省すると、太郎冠者さんのように「自分も、理解していけるほうを選ぶようにする」ではなく、「自分が、理解できる事をただ選んでしまっていること」が多いことに気が付きました。

これでは、様々なことに思い込みが多く見られ、いくら基本の動きを練習しても、それが全く生かされなくなってしまいます。

現在の自分の課題は幾つかありますが、その中でも、まず、基本を生かせるようにすることが、自分にとって理解していけるほうの選択と考えました。

 ー分の思っている(思い込んでいる)基本の動きが、相手を崩すという事に、どのように関わっているかを注意深く観察する。

◆〜蠎蠅函◆悗む』とか『線をひく』ということに関しての意識の持ち方と、相手に影響を及ぼすことのできる基本の動作と意識を改善する。

 師匠の動作を、うわべだけ真似をするのではなく、基本動作を踏まえて中身を真似できるようにする。

これらのことを、具体的に稽古に活かしたいと思いますが、また、大きな思い込みをしていたら遠慮なく指摘して下さい。
 
8. Posted by 清水龍玄   2019年11月26日 19:42
人は、自分の見たいように見て、考えたいように考えるものですね。
それで満足ならばそれでも良いのだろうし、また、それ以上の事は出来ないと思います。
私は、それが個人の能力の差だと思っていました。
しかし、それは、自分がやっていないだけであり、やらない方を自分が選んでいるだけで、能力というのは、その先にあるものなのだと、少し実感できたような気がします。
自分を成長させるためには志が必要であり、何かをやりたいのならば、今出来るか出来ないかではなく、自分は何をやりたいのか、どこまでやりたいのか、という事に立ち返り、反省することが必要なのだと思います。
そして、それができるのが、人間の凄いところであり、また同時に難しいところなのかなと思えてきます。
その人間の自分の選択次第で変化し、成長できるという可能性が、最近は面白く感じます。
 
9. Posted by マルコビッチ   2019年11月27日 00:09
私にとっては「理解していける方を選ぶ」という言葉は難しく感じられていました。
しかし、見ようとすること、聞こうとすること、基本通りに素直にやろうとすること、そういう自分でいようとする事は意識できます。
先日おもしろい実験を見せて頂きました。自分はもうダメだと思いながら動くことと、自分は出来ると自信を持って楽しい気持ちで動くということで、その二つの動きの違いを見るというものでした。
あきらかに違う動きを見せて頂き、改めて人の意識の面白さ、奥深さ、そして怖さを認識しました。
そういった経験は何回となくしてきていますが、自分の心の状態、意識がどちらに向かっているかを常に見ていられるよう、その瞬間、より成長していける事を選べるよう向き合っていきたいと思います。
結果から反省し、前向きに修正していけるようにしたいと思います。
改めて考える機会を与えて頂き感謝いたします。
 
10. Posted by 佐藤玄空   2019年11月27日 10:47
師父の形や動きを真似ることは「捨己従人」って事ですかね。
しかし身も心も師に委ねることは単に技術習得する目的だけではなく精神(スピリッツ)を受け継ぐ必要も出てきます。なぜなら太極拳の技術は「意」が最初から要求される訓練から始まるのも納得です。
太極拳を通して自分を磨き続け良い選択にたどり着くためには道場での訓練以外の時間も律し続けることが必要だと痛感します。
 
11. Posted by 太郎冠者   2019年12月07日 01:03
☆川山継玄さん
武術とは自分との戦いである、と師父に言っていただいたことがあるのを憶えています。

技術としては、もちろん戦いで生き残るための術であるのだと思うのですが、そこに至る過程において、いやでもそれまで気にしていなかった自分自身と対面する必要が生じてくるかと思います。
それとどう向き合うかが、稽古の本質として、とても大事なことなのかと思いました。
師父のおっしゃる、常に自分に備えるというのは、自らと向き合い、それを修行とするという点においても、重要なことなのではないかと、自分には感じられました。

責任は自らにあり、それを由として生きていく。
そういう、真に責任のある大人になりたいものです。
 
12. Posted by 太郎冠者   2019年12月07日 01:11
☆西川敦玄さん
以前、アメリカで武術をしている知人から言われたことがあります。
「毎回、本部で師匠に稽古を見てもらえるのは、とても幸せなことです。それが当人たちにとっては、当たり前のことだと思ってしまうようですが…。」

その知人は、こちらでいう拝師弟子で支部を任されており、その方の師匠とはアメリカの西海岸と東海岸という、地理的な距離があります。
なので、直接稽古をつけてもらえる機会は、そうそうないとのことです。

その彼の目から見ると、本部で毎回稽古を見てもらえる人たちは、それがどれだけ凄いことなのかがわかっていない!とのことで、まさに同じような境遇にいる自分に、それをそっと教えてくれたのです。

自分の情けなさ故に、それを忘れてしまうこともあるのですが、彼のこの言葉を心に刻みつけて、毎回の稽古に臨まなくてはいけないのだと思っています。
そうすると、確かに見えてくるものが変わってきます。
人間というのは、不思議な生き物だと思います。
 
13. Posted by 太郎冠者   2019年12月10日 16:29
☆もりそばさん
苦手なものは誰しもやりたくないですよね。
苦手だからやらない、やらないから上達しない、だから余計にやりたくない、と…。

最初の一回を頑張ってやってみれば、その次の一回も、とだんだんとやっていけるかもしれないのに、そのふんぎりがつかないものです。
おっしゃる通り、冷静に、俯瞰的に物事を見て、なぜそう自分は感じているのかを理解していけることが必要なのだと思います。
思い返せば、稽古で求められる知的さとはそういったものなのだと思います。

努力は必要ですが、我武者羅な努力だけでもダメなのでしょうね。
 
14. Posted by 太郎冠者   2019年12月11日 02:14
☆円山玄花さん
確かに、思い返してみれば、自分が生きてきた道筋も、その時々で選んできたことも、言ってみればその時々に生じていた自分と物事の関わりの結果、選んでいたという気がします。

でも、選択する自由はなかったかというとそうでもない気がもします。流されて決めた、というものは省いてですが。
そう考えると、太極拳において架式が決まる、決まらないというのも、もっともっと深遠なこととして捉えなくてはいけないような気がしてきます。

動くことと動かないこと、太極の虚実…わからないことばかりです。
自分も、もっと根源まで帰って見つめなおしてみたいと思います。
ありがとうございます。
 
15. Posted by 太郎冠者   2019年12月13日 02:00
☆川島玄峰さん
稽古では師父から、「第三者が見るように自分を観る」という指導をいただいております。

もしかしたら、「強くなりたい」という思いさえも、強く目の前にありすぎると自分を照らし観る妨げになるのかもしれません。
もちろんそれは、必要なものだと思うのですけども。

先日の稽古でも、理解していく人というのは、
「石のようにかじり付いてくるけれど、冷静に物事を見られる」
という話を玄花后嗣からして頂きました。
相矛盾するものを内に秘めて稽古していけるか問われるのも、陰陽たる太極拳の所以なのかも、などと思いました。
 
16. Posted by 太郎冠者   2019年12月13日 02:12
☆松久宗玄さん
全然関係ないかもしれませんが、元諜報員、いわゆるスパイの人が書いた本を小説、ノンフィクション合わせいくつか読んだことがあります。

それによると、他国、もしくは他企業の外部には知り得ない情報を得るために、彼らが使う資料の8割〜9割は、外部に公開されている情報なのだそうです。
007はともかくとして、スパイというのは地味〜にデータと向き合って、見えているものから見えないものを見つけていく仕事だといえるのかもしれません。
そして、真に優秀なエージェントは、全く自分を挟まずに、情報が示している事実に気づくことのできる人間だそうです。

これは、太極拳を理解していくということと、少し似ているのかなと思います。
公開されている、つまり教えていただいていることから、表からは知り得ない真実に至る。
太極拳に知性が求められる理由なのかと思います。
 
17. Posted by 太郎冠者   2019年12月13日 02:20
☆田舎の神主さん
田舎の神主さんは、色々と不思議なことを体験されているのではないかと思いますが、人の意志が生み出す現象?というのは、それこそ世の不思議の中でも、トップクラスの不可思議さではないかと思います。

意志や意識に関する科学は、現在も発展途上の分野であって研究が進んでいるもののようですが、多くの科学者も、人の持っている意識の不思議さには目を向けざるを得ない、というのが現実のようです。特に物理学で。
太極拳の師父が科学だと言われている通り、再現性のある現象で、問題は我々一般人の生活が、人間という存在に目を向けてこなかったために理解が難しくなっているという点なのではないかと思います。

今回の記事は、選ぶということと、物事の変化の足並みがまるで揃うかのように整っていったのが面白いと思って書いたものです。
こちらこそ、何か気づいたことがあったらお話していただけると嬉しく思います。

18. Posted by 太郎冠者   2019年12月13日 02:36
☆清水龍玄さん
物事の見方で、自分の感じられる世界ががらりと変わってしまうのは、非常に刺激的な体験だと思います。

そして、それができるのが人間であり、そうしたことが理解された上で太極拳の稽古を行なっていく必要がある、と師父は仰っているのではないかと思いました。

そしてそれができるのは、子供が純粋に自分の楽しみとして遊んでいるときのように、心が解放されている時なのではないかと思います。
子供が遊んでいるときには、できない物事に悪戦苦闘はするかもしれませんが、「自分にはこれは難しいかもしれない」などとは考えないはずです。

これが小賢しいオトナになってしまった我々の悲しいところだと思いますが、もっと素直に、違った見方をしていけたらいいと、自分自身反省する毎日です。
 
19. Posted by 太郎冠者   2019年12月13日 02:41
☆マルコビッチさん
>おもしろい実験
たとえ自分では半信半疑でも、人がたったそれだけで変わる姿を実際に見ると、考え方を変えざるを得ないですね。

本当は物事はとてもシンプルに出来てるのに、もしかしたら自分たちでただ難しくしてしまっているだけなのかもしれません。
だとしたら、我々は悲しいというか、なんと虚しいことをしているのだなぁと思ってしまいます。

ヒントはそこら中に転がっているのに、それを有効活用できない…、と思い悩むのではなく、だったらそれを使って謎を解いていこう!とシンプルに発想するのが良いのかもしれません。
明日と言わず今から、頑張っていきたいと思います!
 
20. Posted by 太郎冠者   2019年12月13日 02:56
☆佐藤玄空さん
日本の剣術においても、幕末期、白井亨という凄い剣術家がいたそうですが、彼が重視したという心法というのが、現代風にいうと意識訓練のことを指しているのではないかと思います。

流派の違いはあっても、武の行き着く先は、意によって自らを制し、相手を制することなのではないかと思います。

ところで、江戸時代の古文書に出てくるような達人の逸話を読んでも「そうだったんだろうなぁ」と自然に思えてしまうのは、おそらく毎回の稽古で師父に相手をしていただいているからだと思います。

現代人からすると、古文書に出てくる達人はずいぶん「盛られた」表現をされているかのように感じると思います。
ですがそこに書かれているのとほとんど同じような体験を実際にさせて頂く立場からすると、「昔の日本にもそういうことが出来た人がいたんだなぁ」という感覚です。

冷静に考えると、「有り得ない」体験をさせていただいているのだなと思います。
 

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