2019年09月21日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その44

   「選択の問題」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 最近、稽古をする中で、感じたことを書いてみようと思います。
 稽古中には、師父や玄花后嗣から、我々が稽古をしていく中で、どのように考え、取り組んでいったら良いか、様々な角度から多くの話をしていただいています。

 それらの多くは、ただ太極拳の修練のために必要になることばかりでなく、それぞれの門人が、人生をより良く、本物の人間、一流の人間として生きていくためにはどうしていったら良いかという示唆が、ただの哲学としてではなく、現実的に有効な手法として数多く含まれているように感じます。
 太極武藝館で伝えられている太極拳が、あいまいな表現に逃げずに、ひたすら科学的に追求されているのと、共通しているかと思います。

 そして、そこで言われたことは、ただノートや心の中に書き記して大事にしておくだけではなく、そこから現実の行動に移せるだけの厚みがあり、そして、それが端的に言ってしまえば、生きていく上でものすごく役に立つ、有用な手法であると感じています。
 その中で、特に自分の印象に強く残っており、ガツンと文字通りのインパクトを与えてくれたものを取り上げてみたいと思います。

 それは、自分が何を選ぶか、ということです。選択の問題、とでも言えるでしょうか。
 前回までの記事にも書きましたが、稽古をしていく上では、うまくいっている時も、うまくいかない時もあるかと思います。
 それまでの自分は、稽古に限らず物事がうまくいかない時には、いくつも原因があって、それに対して自分がうまく対応出来なければ、それが問題になって現実にあらわれてくる、というような、そんな考え方を漠然と抱いていたものでした。
 原因に当たるものには、自分の力が足りない、時間がない、それが難しすぎるなど、考えられるものをいくつか当てはめることができるかと思います。
 そう思うのが自然なことであり、妥当なことだと考えるのは、普通のことではないかと思い、それを疑ってもいなかったのです。

 ところが、師父の話を聞いて、はっと目を覚まされたのです。

「問題の原因は全て自分にある。そして、それを選んでいるのは全て自分である」

 その「言葉」自体は、どこか別のところでも聞いたことのあるものでした。
 街中の本屋さんに行けば、本棚の片隅に、そういった聞こえのいい言葉がたくさん書いてあって、それを読めば、数日間はまるで悟りを開けたような気持ちにさせてくれる本がいくつも置いてあるものです。
 でも、何日かたてば元どおり、また次のよく効く「言葉」を探さなければなりません。

 しかし、師父は違いました。それは「言葉」ではありましたが、師父の「行動の表明」であり、生き方、現実の実行を伴ったものだったからです。

「原因は自分にあり、全て選んでいるのは自分である」

 そして、“私はそのように生きている” ────────

 それは自分にとっては衝撃でした。
 一言一句違わずにそう師父が仰ったわけではないのですが、師父の話の中には、そのような生き様が現れており、それまで師父がさりげなくその後ろ姿で表してくださっていた生き方の中にこそ、この「言葉」の真の重みが現されていたことが、あらためて理解できたのです。

 自分は、その言葉によって多くの事に思い当たり、しばし呆然とさえしてしまいました。
 本に書かれていたものではない、生きた言葉です。本では常套句のように、「選んでいるのは自分です、だから〜…」と続くのですが、本当は、その時点で迷路に迷い込んでしまっていたのではないでしょうか。

 選んでいるのは、選択しているのは自分であるとわかったのなら、あとはそれをどう選ぶかだけが問題で、それは思考ではなく行動で表すしかないのだということです。

 先ほど、問題が起きたときには原因はいくつも当てはめることができると書きましたが、その原因だとしたものが、果たして本当の原因だったのかと、考える必要があったのだと思います。
 現実の結果は、多種多様な要素が絡み合って出来上がった現実であり、仮に、ぱっと思い付くような因果関係が原因としてあげられたとしても、それで果たして、実際に問題が解決できるかというと、そんなことはないと思うからです。

 自分の見ているものは、自分が選択しているのだということは、刮目すべきことであり、そして、太極拳を修業していく上でも重大なことであると思います。

 実際に自分に起きた出来事として、その言葉を聞いてはっとした以後では、かなり見方が変わったように感じます。
 問題に対する関わり方が、それまでのものと変化してきました。問題が自分と離れた、何か外側から用意された別のことではなく、自分の中にしっかりと根付いているもののように、言い方を変えれば、ある意味では身近なものになったように感じられるのです。

 稽古をする中で、本当に大事なことは「どれだけ真似できるか」だと言われています。
 真似できていないという問題が出たとき、そしてしばしばそれは出てくるものですが、その問題の原因は自分にある、というのなら百歩譲って受け入れられるが、それを自分で選択している!などと考えるのは、ものすごく抵抗のある考え方かもしれません。
 自分はこれだけ頑張って真似しようとしているのに!きっと何か違う原因があるに違いない!と…。

 そうなる気持ちは、自分にも覚えがあるので否定はしません。
 ですが、それではできない、と師父に指導していただいているとおり、間違っていたのだと、今だったら思うことができます。

 今は少しですが、問題が出てきたときにも、太極拳のこととしてだけではなく、自分の問題として、
「そういうとこあるよな、自分」
 と、前より素直に思えるようになりました。それと、問題そのものが身近に感じられ、まるでそれが自分の中でだだをこねている子供、とでもいうように思えてきたというのがひとつあります。

 同じ問題に関して、難攻不落の敵!と感じるか、だだをこねる子供と感じるかでは、対処の仕方がかなり違ってくるのではないかと思います。

 ここでふと、師父に「子供のマインドではわからない」言われていたことを思い出しました。
 子供同士の同レベルの争いでは、当人たちにとっては一大事に感じられるものですが、大人から見たら、それは実にささいなケンカに見えるものです。
 問題に感じていることも、わかっている人からすれば、もしかしたらその程度のことなのかもしれません。当人にとっては、人生を掛けた最大の危機が現れた、くらいにも感じるものですが。

                                 (了)



 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その45」の掲載は、11月22日(金)の予定です

disciples at 02:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2019年09月21日 14:01
選択の問題との表題をみて、興味深く読み進めました。
無意識に私が選択していることには私たちは鈍感でいられます。自分の見方、考え方によって、自然と選んで選ばされているからだと思います。
一方で、日常のじつに些細なことの選択に悩むことが、ままあります。
食事はなにを準備しようか。どんな服を着ていくのか?何時の電車にのるか?などなど。
あげくには、食堂のメニューが数種類しかないのに選択に時間をつかってしまうと云うことがあります。
本当に大事な選択には鈍感でいられるのに、この対比は滑稽に感じます。
そして、無意識に無頓着に選んでいることや方法に、太極拳が上達しない原因がある。
そうして、必ず問題点が出てくる。正しくない選択をしているから。
自己に、目的、道という強い光をあてれば、現在の自分の状態や選択の問題が幾ばくか明らかになるかもしれません。そんな事を思いました。
 
2. Posted by もりそば   2019年09月21日 17:04
日々稽古してゆく上で選択を迫られている我々ですが何を選択しているかを正しく認識することかが非常に難しいことと感じられます。
今日何の稽古をするか。今日何の技術を試してみるか。などなど一見いろいろ選択しているようですがこれらは自分がどうあるべきかを選択しておらず自分に問題が存在していても修正できる余地がないプロセスです。
何かを選択するときの"何"の次元が違っていると大変なことになります。我々が太極拳を容易には真似できない理由は見ているものの次元を捉え違いしている可能性があるかもと最近思います。
我々はよく稽古を上達させるために自分を客観視するよう指導を受けます。
その際、自分を客観視する際も自分の何を客観視しているのか?テクニックの選択のプロセスを観察しているのか?それとも自分の在り方の変化を観察しているのか?人間は自分の見たくないもの避けるためにより次元の低い事象に議論の対象にすり替えてしまうことがよくあります。
意識の焦点に注意しながら対象の次元を正しく選択していけるようにありたいと思います。
 
3. Posted by 松久宗玄   2019年09月22日 01:47
今の自分は自分が望んだとおりの自分になっている。
良くも、悪くも、その通りだと思います。

振り返ってみると、こんな筈じゃ無かったと頭を抱える事も含めて、
確かに自分が選んでいるのだと思います。

出来ない、分からないという問題も、
難しいからと、諦めたり、避けたり、逃げたりした結果で、
その選択をした責任は、結局は自分に帰すしかないと思います。

悩んでいるだけでは変化に繋がりませんし、
行動しても的外れでは解決には至りません。
向き合って乗り越えていくしかないのが人生で、
そしてそれはずっと続く事なのですから、
それを楽しめる人生でありたいですね。
 
4. Posted by 川山継玄   2019年09月22日 03:46
自分の目標が明確になった時から、自分を観察し続けることが苦痛な事ではなくなったと感じます。
また、何が師と違うのか、何が問題なのかに気付く事に、以前ほど時間がかからなくなり、自分自身に起こっている現象をまず実感し受け止めて、解決に向けて具体的に動けるようになってきたように思います。

…が、日々稽古で、日常生活で、仕事で悩みや問題は尽きません。太郎冠者さんの記事のお陰で、改めて自分の目指すところを明確にし、自分が実際に何を選択しようとした結果、そのようになっているのかを、常に常に洗い出して、歩みを止めてはいけないなと気を引き締めた次第です。
ありがとうございます。

音楽を奏でるように、絵画を愉しむように、ダンスを踊るように、ハートで太極拳と関わる事が大切だと師父からご指導いただき、毎回お茶やコーヒーを淹れる時、自分の在り方と味の違いを観察しています。
その度に味が違い、なかなか「美味しいな〜」とはいかず難しいですが、とても楽しく、自分の心身の状態がわかりやすいです。
 
5. Posted by スーパードライ   2019年09月22日 10:13
先日の稽古で自分の状態がなぜそうならないのか、なぜそうなるのかと考えていたところでした。
原因は自分ですが、考えすぎている頭に縛られ、力を入れすぎている自分の状態がわからなかったことに原因があり、それを選択したのだと思いました。
でもなぜ選択したのかと考えだすと、また同じ繰り返しになるなと悩みながらブログを読み進めていくと、太郎冠者さんの「思考ではなく行動で表すしかない」という内容に道標を指し示してもらったように思います。
以前本部道場の稽古で、夜の窓ガラスに映った動けいない自分にショックを受けた時も、自分が選択した結果の動きだったなと思い当たります。
これからも多分、同じ選択をするかもしれませんが、選択した自分の在り方を注視して行動にシフトできる精神状態にあり続けれるようにしていきたいです。


すべて自分が選択しているのだと考えると、素直に自分を受け止めて行動をとれるような気がします。
貴重な道標をありがとうございます。
 
6. Posted by マルコビッチ   2019年09月22日 11:54
太郎冠者さんのおっしゃる通り、師父のお話は、ご自身の行動、経験、生き様から出てくる言葉なので、納得し、響いてくるのだと思います。

「選択の問題」・・・問題の原因は全て自分にある、大きく言えば”人生”は自分で選んでいるということでしょうか。
そして自分で選んでいるので、何かのせいには出来ない!ということです。
稽古にしても生活にしても、自分の思うように行かないことは何か別のもののせいにしたくなるものです。身体のせい、年のせい、環境のせい、そして他人のせい。
人は、甘えたい楽をしたいと思うのが常のようですが、それが悪いというのではなく、自覚があるかということなのだと思うのです。
自分の責任として生きれるか・・・
そういう自覚を持って生きている人が本当の「大人」なのだと思います。

世の中のこと、自分自身のことを知らない私たちは「誤った選択をしてしまった・・」と思ったり、後から「あの時こうしていれば・・」と後悔したりしますが、過去を巻き戻すことは出来ません。
今この瞬間何を選ぶのか・・悔やんでトボトボ歩いていくのか、今、修正しようとするのか。
私たちには、先を歩いて道を示して下さっている師匠がいます。
多くの言葉を投げかけて下さっています。
情熱を持って、心を開けば、自分の中心に響いてくるのだと思います。
後はどれだけ自分自身の声が聞こえるか、ということでしょうか。
私も頑張ります!
 
7. Posted by 円山玄花   2019年09月22日 13:09
自分の進む道の先にいる師匠を心から凄いと思えること、そしてその様な師に出会えたこと、そして絶えず私たちに気づきと学びを与えてくださることは、私たちにとっては奇跡のような、幸せの極みだと思います。


>自分の見ているものは、自分が選択しているのだということ

正にここへの気づきが、自分の稽古に対する取り組みを大いに変容させてくれると、私は思います。
師匠が動作を示してくださるとき、人は一生懸命に見ようとします。しかし、いったい何を見ているのでしょうか?、そして師匠は何を見せてくださっているのでしょうか?・・

示されていることさえ、自分なりに選択して見ていないだろうか。
自分の分からないことだけを、知りたいと思っていることだけを見ようとしていないだろうか。

私自身、このことへの気づきによって随分と肩の力が抜けて、「観る」ことが少し深くなったような気がします。
私たちが稽古であるべき状態とは、示されていることと自分との間に、「”何を”見れば良いのか」という「何」が無い状態だと思います。示されていることが、そのまま自分に入ってくる、或いは同時に生じる。
そのために「真似をしなさい」と言われるのだと思います。
真似をしようとするときと、見ようとするときの自分の体や意識の相違が分かれば、自分で稽古していても「自分なり」には、なりようがないのだと思います。

何れにしても、先ずは太郎冠者さんの気づかれた「自分が選択しているということ」を解ることから始まると思います。いえ、もしかしたら、「自分で選択できる」と思っていることに気づくことかも知れません。
 
8. Posted by ハイネケン   2019年09月22日 15:01
普段の思考の癖なのでしょう、初めに読んだ時には問題と原因の入れ子構造の様な気がしてしまい、「問題」と「原因」が交互に噴出し続ける様な気持ちで読みました。

自分が「原因」だと思っていた事が実は「結果」であったり、「原因」自体が全く異なる質であったり。「原因」とされる内容すら自分が見ようとしているものの副産物で、無意識に自分が選択している事の結果でしかない。教えていただいた事で、今より明瞭なあり方がある気がしました。自分が2次元的な解釈で行き詰まりやすい思考をしていた事に驚いていますが、言われたことをしていないのであれば当然の結果です。

「自分の見ているものは、自分が選択しているのだ」
ボタンの掛け違いを直すように、無意識かつ不用意に掛け始めてしまった初めのボタンを怖がらず解き直し、服を一度整えてボタンを掛け直します。

9. Posted by 佐藤玄空   2019年09月22日 23:06
自分が選択するということに2種類が存在すると思います。
一つは頭で熟慮しそののち選択する。
もう一つは自分が選択してるとは気が付かないまま選んでいる場合。
熟慮して思い描いたように選んだはずなのに上手くいかず、後々思い起こすと明白な失敗理由に気づくような場合。またはその気づきさえ無い場合。
結局、熟慮している様で実は自分がしたいようにしかしていないということになります。
見たいようにしか見ない。真似している様で出来ていない。(耳がいたい!)
自分の考えを捨てて物事を判断して選択することのなんと難しいことよ。太郎冠者さんの言葉が胸に刺さります。
 
10. Posted by 田舎の神主   2019年09月23日 13:48
私は、二十数年前、日本の宗教哲学の師に、『自由とは』『学ぶとは』『勉強とは』を教わりました。 もう、忘れかけていた事を、もっと詳細に師父から再び教わりました。それも、太極拳の稽古という実践行動を伴なってです。

『自由とは』、自由奔放ではなく、自らに由ることであり、今の因果応報は自らにあり、その責任は自分にある。という今迄の認識であったものが、師父の御言葉「問題の原因は全て自分にある。そしてそれを選んでいるのは全て自分である。そして、私はそのように生きている。」により、「何を選ぶか」、「それを行動に表し生きているか。」という認識が新たにはっきりとしました。

また、『学ぶとは』、まねぶ事、すなわち真似る事。という漠然とした認識も、道場での、師と同じように身体の動きを真似て、鳥瞰しているように観る。師はどのようなことを真似してほしくて見せているのかを注意深く観察する。という様に自分の認識が変化しました。

そして、『勉強とは』、勉(つとめ)て強くなる事であり、戦後の学校教育では、点数と功利の、勉(つとめ)て弱くなる『勉弱』であると思っていたものが、道場での講義により、自分の選択と検証の無い間違った思い込みによって、「一厘の違いが、やがて千里の誤りを生じる」という太極拳経の意味も少し理解でき、太極拳の勉強方法も理解しつつあると実感しています。

今の自分の認識を少しづつ明確にして下さる、太郎冠者さんのブログに感謝いたします。
 
11. Posted by 清水龍玄   2019年09月27日 00:10
生きていくと選択の連続であり、先延ばしにはできないし、それを避けたくても避けることはできないし、むしろ、問題は大きくなって返ってくるものです。
選択は、それが意識的であれ無意識的であれ、自分の意思で行なっていることで、それを直視すると、自分の見たいこと、見たくないことや、やりたいこと、やりたくないこと、また、分かりもしない未来の結果が心配になったりと、おかしなことばかりが気になり、つい目を逸らしてしまう、それもまた一つの選択であり、その結果、自分の人生の方向性が決まってしまう、今更ながら、そのようなことが実感されてきました。
その時の自分は、漠然とした、根拠のない恐怖と、それに対する自分が原因の殆ど全てを占めていたと思います。
しかし、そのようなものは、自分の思考が作り出したものが殆どで、本来選択すべきことをぼかしてしまうものでした。
それに気が付いたのは、師父の元でトレーニングをしている時でした。
自分の状態が、一つ一つの選択が、自分の方向を決める、それを実感しました。
太極拳の道場は沢山ありますが、このようなことを実感できる道場がどれほどあるのでしょうか。
この御縁を大事にし稽古をしていきたい、そう思います。
12. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:01
☆西川敦玄さん
小さなことでは日常生活の些事から、大きなことでは自分の人生の生き方まで、気づく気づかないにかかわらず、人生とは選択の連続なのだと思います。

師父のお話を聞いて感じたのは、その選択に対して、誰が責任を取っているのか、という点です。
自分が決断した選択は、自分以外の他の誰にも責任をとらせることはできないはずなのに、どこかで、
「あのとき誰かが…」などと思ってしまう。

そういう考え方では、本当の人生など生きられないのだと、師父はおっしゃっているのだと思いました。
これを噛み締めていきたいと思います。
13. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:06
☆もりそばさん
稽古においてどんどん上達していける人は、自分が持っているものに執着がなく、それが役に立たなければすぐに手放せる人間だ、と言われています。

おっしゃる通り、見ている次元が異なれば、それがガラクタなのか本当の宝物なのかを、見極める目を持つことができるのだと思います。
はて自分はというと、ガラクタを大切にするあまり、本当に大切なものとして教わっているはずのことをないがしろにしていないか、と、反省しきりです。
気づいたこともあれば、まだまだ気づけないこともあります。

上達していける人がどのような観点で取り組んでいるのかを、もっと勉強したいと思います。
14. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:15
☆松久宗玄さん
師父を拝見していると、徹頭徹尾、「行動の人」であるのだと思います。発言も行動も、全て自己責任で選択し行われ、それゆえに存在に矛盾がない…。

そんなあり方に凄まじいものを感じざるを得なく、そうでなくては太極拳を極めることなど不可能なのだということなのだと思います。
それと比べるのもおこがましいのですが、自分の在り方がどれだけブレていて軸がなく、ゆるい中で生活していることでしょうか。
もし、そのような生き方に、自分が近づくことができたらと、太極拳のみならず生き方そのものも勉強したい!
という気持ちが強いです。
そして、本当にそれを楽しめる人生を送りたいですね。
15. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:21
☆川山継玄さん
最近の継玄さんを拝見していると、何事にも楽しめる余裕を持ちながら、それでいて真剣に集中しているという様子を感じます。
その姿は、修行者(と言っていいのでしょうか?)の端っこのほうになんとかいさせてもらっている自分にとって、非常に勉強になります。ありがとうございます。

人生そのものの豊かさがなければ太極拳の豊かさなどわかるはずもなく、その中に出てくる問題さえも、まるごとたのしんで乗り越えていけるような生き方を、自分もしたいと思います。
したい、と言っているだけではなく、先輩の姿を参考に、実際に行動していかないとダメですね!
16. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:28
☆スーパードライさん
自分も稽古ではよく「頭で考えている」と注意されます。
太極拳の「仕組み」がわからないのだから、「仕組み」さえわかれば太極拳を理解できるのでは、と思い込んでいたときもあります。

道場で、またそれ以外の場所を通して、師父の姿を見させていただいておりながら、どれだけ狭い見方しか出来ていなかったのかと思います。

本当に大切なことは、そんなところには隠されていないのですよね。それがわかっただけでも、人生において宝物というべき経験なのだいえるのではないでしょうか。

太極拳も人生の深みも全くわからない若輩者ですが、そういう追求をしていくものがこの世には存在するのだと、知ることができただけでも値千金です。
そして、目指すはそれ以上のこと、その人生を自分が生きることです。
17. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:35
☆マルコビッチさん
自分の人生の中で、師父のように、「そこまで」言ってくれる人というのはいないです。
ましてや、それを行動で示そうとしてくださる人などというのは、果たしてどれだけの人が人生の中で出会うことができるのでしょうか?

武術としての太極拳の凄さはもちろんなのですが、ひとりの人間として、師父のもとで人生勉強できるというのが、僕にとってはもしかしたら何よりも大切なことだったのかもしれません。

自分の場合、まだ悔やむほど多くのことを人生で経験してすらいないのですが、ここから先、太極武藝館で学んだことをどれだけ人生で生かして行けるのか、と、楽しみです。
もちろん、稽古も忘れずにやっていきますよ!
18. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:41
☆円山玄花さん
そもそも何も知らずに太極武藝館に入門させていただいたときから、「ここには何かあるに違いない」という予感に導かれていたのかもしれません。

入門していなかったらという仮定に意味はありませんが、今よりもっと腑抜けた人間がひとりいることになったと思います。

いまの日本、というより世界でも類を見ないような高度な内容、心身ともに鍛えていかなければ見ることができない世界があるのだということは、本当に大切にしていかなければならない宝物だと思います。
自分も、凄い凄いと言っているだけでなく、そうなれるようにもっと修練を積んでいきたいと思います。
19. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:46
☆ハイネケンさん
そもそも、「原因と結果」という考え方自体が、自分たちが生きている間に学んでしまった、真実とは程遠い考え方なのかもしれません。

そういう目で見ているから、正しく真似することはできないし、太極拳の本当のところなど理解できるはずがない…。
最近の稽古では、そんなことを感じています。

選択の問題、として記事は書かせていただき、その内容と一見矛盾するかもしれませんが、おそらく、師父がおっしゃっている「選んでいる」というのは、単純な原因ー結果の考え方ではないのだと思います。
そういう点まで含めて、自分で選び、生きている。
その味がわかることが、太極拳の深みを味わう一歩になるのではないかと感じています。
20. Posted by 太郎冠者   2019年09月30日 23:53
☆佐藤玄空さん
師父は禅の修行もされたことがあるとのことで、その言動そのものが禅の問い掛けが含まれているのではないか、と感じることがあります。

>自分の考えを捨てて物事を判断して選択することのなんと難しいことよ

この一文の中にも、すでに矛盾する内容が含まれているかと思います。それを追求できる資質が、太極拳を追求していけるものと共通しているのだとしたら、合理的な判断だけで物事を決めようとするような現代的な思考は通じませんね。
考えるだけで頭が痛くなるような問題ですが、取り組んでいくことの楽しさも感じられます。
21. Posted by 太郎冠者   2019年10月01日 00:01
☆田舎の神主さん
>『勉強とは』、勉(つとめ)て強くなる事
なるほど、そのような意味があるのですね。

自分のような若輩者がブログの記事を書く、そのことが責任重大で大変なことだと思ったことがあります。
そのことに変わりはないのですが、少し変わったのは、未熟だからこそ、感じたことを書き、多くの人に見てもらい、それによって自身の勉強に生かす場として与えられているのだ、というように感じたことでした。

勉めて強くなるように、師父に機会を与えられている…。
先日も、道場の稽古で目から鱗が落ちるような体験をいくつもさせていただきました。
そのこともまた、機会があれば皆様に共有させていただきたいと思います。
22. Posted by 太郎冠者   2019年10月01日 00:08
☆清水龍玄さん
上にも書きましたが、自分にとってはブログの記事を書くのもコメントの返信をするのも大変なことで、心が折れそうになってしまうこともしばしばでした。

そこでやめてしまっても、師父は「そうか」と、責めることもなく受け入れてくださるのだと思います。
ただ、そうしてしまった場合、自分の中に残るのは何か。

その経験が自分にとってプラスになるとは、到底思えません。
ダメになりそうな時も、周りの人に叱咤激励されて、ようやく今の自分があるのだと思います。
自分の選択でここまで来たのだとしても、それは決して自分の力だけではありません。
だからこそ、自分はへこたれた時も、かじりついてでもやっていきたいと思っています。
他力任せと思われるかもしれませんが、そういう時に力を貸してくれる仲間がいる場というのは、そうそう出会えるものではないと思うからです。

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