2019年07月23日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その43

   「合わせることで変わる」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 合わせることについて、最近感じたことを書いてみようと思います。
 というのも、自分自身が合わせられないことに大いに悩んだからです。そして、自分が感じていた問題を打開するきっかけになったのは、他でもない、師父と合わせて動くことがきっかけだったからです。

 誤解を恐れずに言えば、それまで合わせようとしていたことは表面的なことで終始しており、全く違ったということです。
 動きを合わせる、タイミングを合わせる、形を合わせる。それらのことはもちろん、大切なことだと思います。しかしそれよりももっと大事な、意識…と、そこまで高尚なことではないのかもしれませんが、心や気持ちを合わせないといけないということが、いつのまにか自分にはわからなくなってしまっていたようでした。
 人間にとって、何が体を動かすかというと、やっぱり心がなければ動かないのではないかと思います。そして、合わせるということはまた、対象を見て真似る、という隙間さえもなく、時間と空間を離れたところに、同時にあることでなければならないのではないかと思います。
 そうでなければ、機械仕掛けの人形がやればいいだけなのですから。

 反省の意味も込めて書かせてもらいます。少し前までの自分の様子を見ていた人はお分かりかと思いますが、本当に、やることなすことダメになってしまっていたように感じていました。
 その時も、稽古で師父と一緒に動く機会を頂いていたというのに、頭の中では「ああ、やっぱりぜんぜん合わない、ダメだ…」ということばかりが渦巻いていました。手に持った電動ライフルの重みが、そのまま心の重さにプラスされているような気分でした。
 やりたくてやっているはずなのに、一体どうしてこうなってしまっているんだろう、自分は何をしているんだろう、と、抜け出せない状態でした。
 このまま、自分は完全にダメになって終わりかもしれない、そう思ったときです。
 どうせダメなら、最後までやりきってダメになってやろう、と、心の中で言っている自分に気づきました。
 或いはそれは、目の前を歩く師父が、言葉ではなく語られた声だったのかもしれません。
 本当に、それでいいのか、と。

 そこで、自分自身のスイッチがカチッと、本当に入ったような感覚があったのです。
 目の前の師父に合わせる…真似をするのではなく、おんなじに動くのだと。
 ただ見て真似るのでは間に合わず、見えない腕が自分から生えてがっしりと掴むような、あるいは自分が体から抜け出て師父と一緒に動いているかのように…。
 そうして歩いていると、離れた場所にいるのに、師父の隣に立って動いているかのように、隔てた距離に関係なく、まるで体温さえも確かな手応えを持って感じられたかのようでした。
 「少し合わせられきた、変わってきた」という言葉をいただくことで、それが自分だけの勘違いではない、確かなことなのだと確信が持てました。
 そして同時に、自分はこの感覚を確かに知っていたはずなのに…どうしてわからなくなってしまっていたのか…。

 大切な何かを理解するためには、一挙手一投足を作り出している自らの、原点に立ち返らなければならないのではないかと思います。
 体の動きが合わないのも、まず自らの心がひとつに合っていなかったからではないでしょうか。そんな中では、誰かと合わせるなどというのは不可能なことだと身をもって味わいました。
 その、大事にしている何かに、合わせようとしてはじめて、そのズレは急に埋まりはじめたように確かに感じられたのです。不思議な体験ではありましたが、確かに、その時を境に自分が変わっていったのが感じられます。

 合わせて動く。ただ動作だけではなく、考え方や、心まで合わせようとする。
 距離も時間も超えた先で、重なるようにして一緒に在ることができたら、その中ではたとえそれができなくても取り繕うことができないというか、その必要さえも感じられません。ただ、ありのままの自分をさらけ出して、隣に、いや、一緒に立って動いていればいいだけという気分でした。
 その中で、頭は冷静に違いを見極めて、次の、その次の一歩に活かしていかなければいけません。けれどそれもまた、同時に楽器をかき鳴らしてセッションをしているときのように心地いい感覚さえ伴っています。それは、あたかも本物の楽器に囲まれた中で、初めて音楽を体験したときのような気分です。
 つたないながらも、ぎこちないながらも、確かに本物の音が生まれてくるのです。そして自分もまた、その一員として、音を生み出すのだという手応えがありました。
 避けていたこと、恐れていたことが幻想だと思い知るには十分な体験であり、そこには上達していく過程での困難さはあれど、それは苦痛とは違う、喜びに近い感覚でした。

 合わせようとすることで、発せられた熱が、自分の中に入り込み、体を満たしていくような感覚があります。朧げながらも、これが受け取るということなのか?と思わされます。
 受け取るということは、観念としてある言葉ではなく、もっと即物的でリアリティのある何かを、自分の中に宿されることなのではないでしょうか。そう感じられるようなエネルギーが、確かに師父から自分の中に降り注いでくるのを感じられました。
 それはもちろん、自分だけに降り注いでいるわけではなくて、本当はずっとそこに、実際に、師父から与えられ続けていたもので、ただ自分が気づいていなくて、取りこぼし続けていたことなのかもしれません。
 重さを持った熱の塊に感じられるもの、それが自分の中に入り込み、内側から自分という人間を変えていってくれるという高揚感。そこで感じられる実感に比べれば、自分が教わったことを稽古していると思い込んでやっていたことの、いかに浅はかなことかが、思い知らされます。

 自分の中のものが、少しずつ人間として大事な気持ちや心を取り戻していくように思え、心身ともに、まず血肉の通った人間として存在しないことには、「本物」などわからないのではないかと思います。
 さんざん言われていたことが、ようやく、わずかながらでも、実感を持って味わえたような気分です。

 合わせることで、自分で陥ってしまったどん底にいるような感覚に少しずつ変化が生まれてきました。同時に、どれだけ貴重で大切な機会を、知らずに無駄にしていたかという後悔も生まれてきます。
 ですが、時間は過去には戻せません。これから先、どれだけ自分が変わっていけるかを、自分に問わなければなりません。それこそが、自分の状態を理解しながらも、厳しく、そして何より優しく見守っていてくださった師父にできる恩返しだと思うからです。
 もちろん、まだ惑うことも出てくるでしょうし、殆んど全てわからないことばかりです。けれど、あの時確かに感じた、合わせるということ…この実感だけは、もはや忘れようもなく自分の中に、確かに息づいているのです。
 そこで感じられた熱は、はっきりと、これから先も自分を後押ししてくれる原動力となってくれるのだと確信しています。

                                 (了)


 *次回「今日も稽古で日が暮れる/その44」の掲載は、9月22日(日)の予定です


disciples at 10:00コメント(23)門人随想 | 歩々是道場 

コメント一覧

1. Posted by マルコビッチ   2019年07月23日 19:05
太郎冠者さんが苦しんでいる様子を見ていたので、このようにそこから抜け出す過程を読ませて頂いて、嬉しくて涙が出ます。
本当に良かったですね!
そしてここからが始まりですね!
きっと今までより多くのことが見えてくるのだと思います。
気持ちが下向きで、ネガティブサイクルにはまってしまうと、自分がそのような状態なんだと離れてみることも出来ず、いら立ちと反発が精神を乗っ取り、自分のことしか考えられなくなりますね。
とことん悩み苦しんだからこそ得たことだと思います。
必要なことだったのでしょうね。
私も、この太郎冠者さんの記事に書かれていることを大事に、常に師父に合わせ、太極拳に合わせていけるよう精進していきたいと思います。
 
2. Posted by もりそば   2019年07月23日 23:10
何かをつかみ取っていくためには知性とともにハートも必要なのだと気づかされる素晴らしい記事でした。合わせることを演奏の調和との例えは絶妙です。例えばの例として体錬で相手と不協和音を生じてしまう精神状態で要訣を守って動いたところでそれは太極拳の意味することとは遠いものになるでしょう。相手の波長を捉え、合わせるセンスはハートの開き度合いで高められるものかもしれませんね。そのためにはどうすればよいか?日々を漫然とではなく積極的に生きハートを燃やせるよう晴れ晴れと在りたいと思います。
 
3. Posted by 川山継玄   2019年07月24日 01:08
太郎冠者さんの貴重な経験を、細やかに心を込めてわかりやすく共有してくださって、ありがとうございます。

この安穏とした世の中で、甘やかされて、また自身を甘やかして過ごしてしまった故に、自分勝手に生きていることに気付かなかったり、目を瞑ってやり過ごしたりすることが当たり前の今、太極拳の稽古を通じて、自分を深く見つめ、自身の根源に向かい合える、本当に貴重で有難い機会を与えて頂けた奇跡に、深く感謝する日々です。
合わせることによって生じる毎瞬の気付きや変化を、私も余すことなく味わい、成長につなげていきたいと思います。

太極拳で学んでいることを日常にも活用してみると、今まで悩み立ち止まっていたところでも、より積極的に相手や自分に関わり、心身ともに活動し続けられるような気がします。
在り方を調え、師父が示してくださる太極拳そのものに合わせ続けたいです。
 
4. Posted by 円山玄花   2019年07月24日 12:06
今回書いていただいた内容は、人が魂として、存在として学び成長するための一番大事なところではないかと思います。
自分は、道場、家庭、仕事と、全て「自分と自分以外」との関わりに終始してしまうと、「自分との関わり」が疎かになり、何かが見えているつもり、わかっているつもりの傲慢な状態となり、気がつけば世界がずいぶんと色褪せて感じられました。

自分が求めてやまないものは、努力邁進のその先にあるような気がして、少しでも早くそこへ到達しなければという焦燥感を伴う、言ってみれば息切れ状態であったように思います。
改めて「合わせる」ことに立ち返ってみれば、邁進している今ここの自分にこそ解答があるのだと思いました。
ありがとうございます。
 
11. Posted by 田舎の神主   2019年07月24日 23:30
(#1)
さんざん悩んだ末に何らかのきっかけがあり、「自分自身のスイッチがカチッと入ったような感覚で変わることができた」というのは、とても素晴らしいことだと思います。もちろん師父をはじめ、他の何か崇高なものに導かれ、自分自身の内から湧き上がったものなのかもしれません。「考え方や心まで合わせようとする」これは見習わなければと思いました。また、「重さを持った熱の塊に感じられるものが自分の中に入り込み、内側から自分という人間を変えていってくれるという高揚感。」

これらは、私には、まだ訪れたことの無い感覚です。今まで、太極拳では行きつ戻りつつ僅かに変化していく事を経験しているだけです。しかし、それとは違うかもしれませんが、外からの大いなるものの奇跡は、何度か経験があります。その一つは、まるで、何かが祖母に宿って言わせたかのような事がありました。それにより、自分の命が助かったことがあります。祖母は、まだボケていないのに、その言ったことを全く覚えていませんでした。私は、その不思議なことを啓示かもしれないと受け取りました。
 
12. Posted by 田舎の神主   2019年07月24日 23:31
(#2)
その後、自分の受け持っている神社の内、五社程新築にたずさわり、最後の一社で、様々なことに散々な思いをして悩んだ末、社殿はめでたく竣功しましたが、神社の普請は、器の小さい私には大変重く、心身はもうすでに病んでいたという体験をしました。そういったことも貴重な体験ですが、命をかけての無謀ともいえる事は、もうこりごりでした。

「大切な何かを理解するには、自らの原点に立ち返らなければならない。」とは、大変重要なことだと理解できます。しかし、自らの原点に立ち返ることは非常に困難であり、どうしても、自分が培ってきた大したものではないもので応用してしまいます。たぶんそれは、唯、初心に戻ることではないと思いますし、それは、無いことがある「ゼロ」という概念と聞いておりますので、自らのそれは一体何で、どのような意識なのかを探る必要があると思いました。
 
5. Posted by 松久宗玄   2019年07月25日 00:44
ちゃんと底まで落ちきって、自分ではどうしようもない所まで行く事で、
自分の原点に出会えるという感覚には共感します。
自分を砕き、燃やし、見守って頂ける師匠の存在は本当にありがたいですね。

エゴを燃やされる事が苦しいと感じる事は、エゴと自分を同一視する幻想ですから、
結局はエゴに拘束され、不自由に生きる選択をしているのだと思います。

エゴを燃やされた先で、
本当にリアリティのある自分を知る事は、純粋に喜びであり、
真に自由に生きる事が始まる一歩だと、私も感じます。

その一歩を踏み込む事ができた勇気に、エールを贈りたいと思います。
 
6. Posted by 西川敦玄   2019年07月25日 09:05
太郎冠者さん。とても良い記事をありがとうございます。いままでのブログで感じられた悩みや戸惑いの影が薄くなり、心から喜びがあふれていることが読み手にも伝わってきました。心身ともに血肉の通った人間って・・・・、そうですね。血肉の通っていない人間など一人もいないにも関わらず、そのような実感のないまま生きていることの、なんと多いことか。私も太郎冠者さんとは異なるかもしれませんが幾度か同様な実感を感じて感動に浸った経験があります。
私は忘れっぽいせいか、しばらくすると感動が薄れてきました。そして、その後でも上手くいかなく事もありました。同じ実感に立ち戻ろうとしても上手くいかなくなる・・・・・・。

太郎冠者さんもいわれるように、時間は過去には戻せません。あのときの師父にあわせた実感に立ち戻るのみでなく、今のこれからの新しい体験、合わせ続けていくこと、血肉通い生き生きと躍動しつづけていることを、私もあらためて認識しました。
 
7. Posted by 佐藤玄空   2019年07月25日 09:23
中国武術の用語で喂勁(Wei‐ jin)「勁を食べさす」という言葉があります。ヒナに親鳥が口移しで餌を食べさすように師が弟子に教える、ということらしいです。私が太極武藝館で稽古を始めたときにこの
喂勁という本当の意味を知った気がしました。
親から餌を貰えなければ死んでしまうヒナのようにひたすら無心で、必死に受け取るということが自分たち弟子に与えられた使命だと強く思います。
言葉は悪いですが先輩や年長者を押し分けてでも師父に近づく気概も必要かと。あとは進むのみ!
 
8. Posted by ハイネケン   2019年07月25日 16:10
何とも語りづらいであろう辛く谷底の様な日々、アプローチを突き詰め続け、一転し軽やかに掴み行く様子は大変興味深く、後進の私からすれば羨望であり斯くあるべきなのかと読ませて頂きました。
自分なりの工夫など入る余地などなく、深く師父に合わせていく事でしか受け取れない玄妙な世界が存在する事を鮮やかに感じました。
まだ稽古に迷い続け、突き詰められていない私は、自分を冷静に見つめ続けて来た太郎冠者さんの文章に励まされた思いです。
自分の観察すら出来ていない事を内省し、より良い稽古に繋げていきたい思いです。
良き道標、ありがたく思います
 
9. Posted by 清水龍玄   2019年07月26日 21:18
本当に、人はその人自身の状態次第で、やる事なす事、物事の見方、受け取り方が全く違ってくるものですね。
同じ事を聞いても、全然違って捉えたり、いざ、何かをやってみても酷い結果ばかりで...
それを自分の能力の所為だと思いたくなったり、こんな事ではいけないと意地になったり、そんなことが、幾度もありました。
そんな状態では、人の言う事は聞けないし、そもそも自分の事を何も認めていない。
それで自分を変えていこうと思っているんだから、おかしな話です。
しかし、ある時、師父の教えが、自分の頭にではなく、心に入って来た時、あっという間に、まるで別人の様に、自分が変わったと感じました。
実際には、別人ではなく、それが自分が作り出していた仮面だったわけですが。
そこで、やっと受け入れるということが起こって来ました。
これは、概念ではなく、実感のあるものでした。
だからこそ、それが素晴らしいものであるとはっきり解ります。
ここで理解した事を糧とし、稽古をしていきたいと思います。
 
10. Posted by スーパードライ   2019年07月27日 09:21
諦めない精神力と継続する信念に受容が整えられ、その状態で合わせられた結果、師父の教えが流れ込まれてきたのだろうと思いました。

師父の動きに「合わせる」とは、教えられる側がしっかり心までもが受容として備えなければ、合わせる事の意味が自分勝手な捉えになるのだろうと考えます。
今後の稽古に生かして、早速実践させて頂きます。

そして、私も太郎冠者さんを見習い、打開しつづけるためのアプロ―チの参考とし精進して参ります。
 
13. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 22:33
☆マルコビッチさん
苦しんでいる間は、ドツボにはまりこんでしまっているようで、足掻いてもどうしようもなく、無意味なように感じてしまっていました。
マルコビッチさんをはじめ、多くの人にご心配をおかけしてしまい、申し訳なく思っています。

立ち直るきっかけをくださったのはやはり師父であり、その気持ちというか、志が、自分の中にも燃え移ってきたかのようでした。
これからは、情けない姿はさらさないよう、懸命にやっていきます。今後ともよろしくお願いします。
 
14. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 22:36
☆もりそばさん
武術を科学的に見ていく姿勢は必要で、大事だと思います。
しかしそもそもの根本に、なぜそれをやろうとしているのかという、心がないことには何も生み出さないのだということを、これらの経験を元に感じさせられました。

そもそもそうやって、「生きる」ことがなければ、命を守るための武術などわかるはずがないですよね。
そんな当たり前のことがすっかり抜け落ちてしまう、我ながら情けない限りでした。
ハートを燃やして、一緒に頑張っていきましょう!
 
15. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 22:44
☆川山継玄さん
泣き言ばかり言ってグズグズしていた自分を、見捨てずに導いてくださったのは師父で、それがなければ、こうして自分のことを書くことも本当に出来なかったと思います。

大事な志をそもそも見失ってしまうこと自体、けしからんことだと思います。
けれど、それをもう一度しっかりと感じることができたおかげで、本当に大事にしなければいけないことを再び、しっかりと噛みしめることができたように思います。
他では得難い勉強ができる機会を、ひとつひとつ大切にし、着実に自分の成長につなげていけるようにしていきたいです。
これからもどうぞよろしくお願いします。
 
16. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 22:52
☆円山玄花さん
師父や玄花さんをはじめ、多くの人たちに心配をおかけしてしまいました。申し訳ありませんでした。
自分自身に向き合い、取り組んでいかなければいけない修行ではあるものの、それは決して自分一人の力でできるものではなくて、多くの人たちに支えていただいてはじめて成り立っているのだと、感じることができました。

今回の一連の出来事では、どんなにダメになってしまっていてもそれでも自分の中にくすぶっているものがあって、自分でさえわからなくなってしまっていたそれに、師父がまた熱を持たせてくださったように感じています。
これからも、またしっかりと「合わせて」、稽古していきたいと思います。
 
17. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 23:03
☆田舎の神主さん
神秘的な体験だったのかはわかりませんが、それを境に何かが変わるという点では、確かに転換点だったのかもしれません。

その時は、割と冗談ではなく「これでダメなら自分は本当にダメだ、おしまいだ」と思っていて、確かに持っていたものへの執着はなく、ある意味では全て放り捨てて、ただ最後に「合わせよう」としていたのだけは事実です。

その時の気持ちと比べれば、それまで合わせようとしていたことがいかに表面的だったか、と思わざるをえません。
意識のあり方だけでこうも人間が変わってしまうのだとすれば、それを探求することの奥深さがどれほどのものかと、恐ろしく思うと同時に、楽しみでもあります。
 
18. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 23:09
☆松久宗玄さん
ぶつかっていた壁は、外側ではなくて自分の内側にあって、自分が作り上げていた、というのが、なんとなくわかるような気がしました。

物事が難しいのではなくて、物事を難しく見てしまっているのは自分なのではないか、と。
だとしたら、もっと目を見開いていかないといけないと思いますが、これから先もまだまだ自分が出てきてしまうという気も、しています。

それを超えていくことが、修行ということなのでしょうか。
まだわからないですが、わからない故に、もっと続けていきたいと思っています。
 
19. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 23:30
☆西川敦玄さん
日々の生活の中で、ルーチンのように道場に来て、稽古をし…いつしかそうなってしまっていて、大事なものが抜け落ちてしまっていたようでした。
そもそも、最初は何を思って道場の扉を叩いたのか?
その志がどこに行ってしまっていたのでしょうか。おそらく、日々の積み重ねの中で埋まってしまい、見えなくなってしまっていたのだと思います。

これからするべきこと、やりたいことはいくつもありますが、それらに取り組むとき、その瞬間瞬間にきちっとフォーカスを合わせていかないといけないのだと感じました。
 
20. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 23:36
☆佐藤玄空さん
>中国武術の用語で喂勁(Wei‐ jin)「勁を食べさす」
それを指すのかはわかりませんが、師父にひたすら崩していただく、吹き飛ばされるということを延々と繰り返していただき、この間気づいたことがありました。
自分の体の中に、自分が動かすのとは違う「回路」のようなものがある?というような感覚です。

それに沿って動かす、というより自分で動かすのをやめるという感覚がうまくはまると、それまでよりも脚での蹴りを使わずに動ける感じがするのです。
それにぴったりと合うということが少ないので、もっと余分なことをやめて、じっくりと向かい合って、合わせてみたいと思っています。
どんどん進んでいきたいですね!
 
21. Posted by 太郎冠者   2019年07月29日 23:46
☆ハイネケンさん
今回の記事は、半分は反省の意味を込めて書かせていただいたものです。
少し前に一緒に稽古していた人に聞けばわかるかと思いますが、この頃の自分は本当に落ち込んでいて、ダメになっていたのです。
そして記事に書いたとおり、立ち直るきっかけを与えてくださったのが、師父に合わせることだったので、その辺りを包み隠さず書けたら良いなと思ったのです。
読んでもし何か感じるところがあったのだとしたら、嬉しいかぎりです。
今後とも、一緒にがんばっていきましょう!
 
22. Posted by 太郎冠者   2019年07月30日 00:15
☆清水龍玄さん
問題の種類というのは多々あるとは思いますが、太極武藝館での稽古でぶつかる課題は、それはそのまま、自分の普段の生活の中でぶつかっている課題であるように感じます。

日常生活の中ではそれが表面化しにくいだけで、気づきにくいことに、道場での稽古の中では気づかせてもらえる。
逆に、それを解決することができれば、生きていく上での質も向上させていくことができるのでは、と感じるようになりました。
武術の稽古も生活も、両方を含めて自分という人間を作り上げているし、自分を表しているとも思います。
そのバランスのとれなさというのも、今回、自分が陥っていた問題に関わる部分でもあったのだと思います。
それをどうにかしようとしてもどうにもならず、最後には、ただ合わせることでしかどうにもなりませんでした。
今回は、そのことをどうしても書きたくて、記事にさせていただきました。
 
23. Posted by 太郎冠者   2019年07月30日 00:20
☆スーパードライさん
改めて感じたのは、師父から頂いている教えは、常にそこに流れ出ていて、それを掬って飲めるかどうかは、まさに自分自身にこそ問われているのだということでした。

上達するために、自分から取りに行く、の自分の部分を誤ってしまうと、にっちもさっちもいかなくなり、まさに師父から得られるはずの流れを阻害してしまっていたものと思います。
流れは、滞りなく流れてこその流れであり、それを阻害してせき止めてしまうのも自分で、その時には流れ込むものがなくなってしまうのは道理だと思います。
いまは、この流れを味わっていけることを多いに楽しみ、上達の助けにしていきたいと思っています。
 

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