2019年07月04日

練拳Diary #85「アプローチの仕方を振り返る」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 太極拳の学習は、「戦い方」からではなく、人が動くことの元となる「立ち方」から始められます。それは、たとえばライフルの訓練が射撃からではなく、持ち方と構え方から行われることと似ています。
 なぜ戦い方から始めないかといえば、先ずは太極拳の基本的な考え方を学ぶ必要があるからで、それに最も適した練功が「站椿」、つまり立ち方だということになります。
 站椿で教示される要訣は、わずか十個前後ですが、それらの要訣は頭から足まで全身が網羅されており、それ以上は加える必要がないと思えるものです。そして「要訣」とは ”物事の最も大切なところ” という意味ですから、まさしくそれを外しては太極拳を始めることが出来ないと言えるものです。

 さて、道場での稽古に於いて、指導者資格を付与されている私の役割とは、門人の武術的な身体や技術などの功夫(コンフー=実力、練度)を確認し、師匠との考え方や動きの違いを指摘しながら、太極拳の学習と考察、検証を繰り返し、研究を深めていくことです。
 稽古の最中には、必ず門人に現在の状態を訊ねるようにして、示していることと本人の動きの相違がどこから生じているのかを確認するようにしていますが、まだ学習が十分に進められていない状態だと、太極拳の訓練体系に則った上での回答が得られなかったり、反対に的外れな質問をされることがあります。

 例えば、よく聞く言葉として、

 「胸が動きにくいです。他の人からもよく指摘をされるので、自分で色々と工夫しているのですが」

 「膝が正しく動くときと、そうでない時があります。理由がよくわかりません」

 「歩くときに胯(クア)を動かそうとすると、どうしても左右にブレてしまいます」

 「体を固めてしまいます。もっと動けないとダメだと思います」

 ・・などが挙げられます。

 初心者であれば、このような質問は山ほど出てきます。それは、初めて太極拳に触れて、新しいことを教わり、示された動きと同じように自分が動いてみようとして、そこで出てくる自分の状態と疑問なので、むしろこのような質問は積極的な学習の姿勢として歓迎されるものです。
 ただし、同じような質問が研究会クラスから出ているとしたら、それは問題視されます。
 これらの何が問題かと言えば、一番目に挙げた「胸の動き」については、そもそも「胸をよく動かしなさい」という要求が太極拳にあるのか、という点です。
 胸に関する要訣に「含胸抜背(がんきょうばっぱい)」や「涵胸抜背(かんきょうばっぱい)」がありますが、示されているのは胸部の状態であって動き方ではないのです。
 もちろん、稽古中には「胸が動いていない」や「胸がここでもっとこのように動く」という指摘はされます。しかし問題はそのあと、各自がその言葉をどのように受け取り、咀嚼するのか。そのところこそが、私たち現代人がこの太極拳という伝統武藝を斯くも難しく習得しにくいものにしてしまっている原因のような気がしてならないのです。

 「胸が動いていない」ことを指摘された場合、多くの人は先ほど述べたように、より動くようにと自分なりの工夫を始めてしまいます。
 なぜ「自分なり」と断言出来るのかと言えば、太極拳の要訣に「胸はこのように動く」というものがない限りは、動かそうとする工夫は全て「自分なり」に過ぎないからです。
 「胸が動いていない」ことを要訣に従って受け取るならば、胸が動ける状態になっていない、つまりまだ胸の要訣が整えられていないことを指摘されているのです。それを、要訣を無視して、或いは要訣は要訣としてそこに置いておき、一生懸命胸を動かそうと努力しても、動かないのです。もしくは、仮に動くようになったとしても、それは太極拳として必要な動きではないため何の役にも立たないのです。

 他の、膝や胯(クア)、体の固さなどについても同じように考えることができると思います。
 膝や胯は動かせと言われたのでしょうか、体は動けないとダメなのでしょうか・・?
 自分のことを振り返ってみても、太極拳の要訣は「それはそれ」のように、まるで站椿専用の要訣のように捉えていたことが思い出されます。そのために、要訣に沿った稽古ができず、ずいぶん多くのことが見過ごされていました。
 それこそ、「基本が秘伝」と言われている理由が、何も分かっていなかったのです。

 基本となる立ち方と動き方。それは、站椿と太極歩であると、師父は仰います。
 当初、朝に晩に站椿の時間を取っていた私は、日々刻々と変化し、站椿と同じ状態で太極歩ができることに嬉々とし、「そうなのだ、やはり站椿と太極歩なのだ!」などと思っていたのですが、それは間違いでした。
 他の歩法などの基本功と一致せず、新たな問題が出てきたときには、やはり自分も「〇〇が動かない」と、自分なりの工夫でアプローチをしていました。
 要訣を整えようとすると、とても不自由で窮屈に感じられ、それを守ったままではとても動けないような気さえするのです。けれども、その状態こそが本来の学習に於いては、きちんと通過するべき正しい状態であったと、今なら思えます。

 自分にとって、新しく学ぶことが簡単なわけはないのです。ましてや、自分なりの今までと同じ関わり方で、何かを理解したり道を開いたりできるはずがないのです。
 だからこそ、わざわざ門に入り師匠に教えを請うわけです。そこでしか教えてもらえないことがあり、そこでしか見られない動きがあるからです。
 入門を希望する理由とは、自分がそれを習得するという、只それだけのためです。そのはずなのに、わざわざ門に入らなければ教われなかったことを見聞きしても、そのやり方で上手くいかないと、人はすぐに自分なりの工夫を始め、そして、遠回りをしてしまいます。
 上手く行こうが行くまいが、そこで注意深くコツコツと取り組んでいる人は、例えばその要訣の指し示す意味が少なからず見えてくるはずですし、一つの要訣が見えてくれば、自ずと他の要訣との繋がりも見えてくるのです。

 門人の皆さんの稽古を見ていて最も感じることは、それぞれのアプローチの仕方が、少なからず自分なりになっていることです。
 もっと、道場で教えられている太極拳そのものに漬けられてもいいのではないか、もっと太極の煙に燻されてもいいのではないか、それこそ、太極の海に飛び込んで、骨まで溶けて無くなる必要がある、と思います。
 なぜ、師匠の言葉をそのまま受け取らないのか、示されたことから解いて行こうとしないのか、とても不思議に思えます。
 「自分」が「自分」であるからこそ、勉強出来るなどと思っていたら、その人はそのままでは一生をかけても太極拳は理解できないことでしょう。

 私が今回の記事の内容を師父にお話ししたとき、師父は一言、こう仰いました。

 『学ぶということは、自分を否定することだからな・・』

 結局は、この一言に尽きるのだと、しみじみ思いました。
 「自分なり」にできることは、自分を肯定することが前提です。つまり、学べない。
 同じことが、日常に向かう自分、稽古に向かう自分、そして真伝に向かう自分に言えると思います。「自分なり」が入っていないかどうか。それを観照できて初めて、努力が実を結ぶのだと思います。

                                 (了)




xuanhua at 21:45コメント(22)練拳 Diary | *#81〜#90 

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2019年07月04日 23:58
太極武藝館の門人の皆さんは、
自分を変えるという事に関して、
強く問題意識を持たれているように思います。

私も含めて自分を変える事を主目的に、稽古に取り組んでいる筈ですが、
それでも、その追求は少なからず自分の感覚や興味に引きずられ、
偏った内容に陥る事が多いように思います。
まるで自分が感覚できる世界まで、と制限しているかのようです。
そのある種の思考停止が、「自分なり」の元にはあると思います。

日常生活で「自分なり」が成立しても、大過なく生きられる状況が多ければ、
厳しいと感じられる本質的な変化に向けて飛び込む事は難しい、とも感じます。

そもそもの目的に対して自覚的であり、
本質的に厳しいと感じられる変化に対し向き合うには、
不断に生き方自体を問い続け、
自分を変えるべき、との選択から逃げない心構えを練り続ける必要があると思います。

せっかくですから、その変化に向かうプロセスを楽しもうと思います。
 
2. Posted by 川山継玄   2019年07月05日 01:01
「自分は間違っていたんだ」
と強く自覚する機会を与えて頂き、「言われたことをまずやってみよう。」と思い実行してみたら、とても楽になりました。
それまで、何を見ても、何を聞いても、自分の都合に合わない事を排除したり、都合のいいように捻じ曲げたりしていたのだと、今なら思えます。排除したり、捻じ曲げたり、我を通すために、なぜあれほど莫大な時間と労力を費やしていたのだろう…と今更ながら、悔しく、時間を巻き戻したい気持ちで一杯ですが、気付けて良かった!と気持ちを切り替えて前を見据えて歩んでいる次第です。

稽古ではもちろんそうですが、日常生活でも、現状と自分の気持ちを自覚し、「まず基本は何か」に立ち返り、その場で修正していくようにしたら、時間の使い方も上手になってきたように感じます(まだまだですが…汗)。
結局、その場でやらなければ、手を付けずに終わるか、とんでもなくタイミングを逃してしまう事になると学習しました。

玄花后嗣の一挙手一投足見逃さないよう、学ばせて頂きます!
 
3. Posted by 佐藤玄空   2019年07月05日 10:30
整体の勉強をしていた時「検査をするときは自分を疑え」と注意されたことを思い出しました。
自分勝手に「この辺が悪いだろう」と思い込んで検査をすると正確な情報は得ることはできず結果として見当違いな施術をしてしまうことになる。
また施術の勉強の時は「指先ばかり見ないでもっと体全体をみて真似をするように」とも教えられました。
どの世界でも「自分」を挟むことは遠回りしかならない様です。
私もいくつかの太極拳を見たり習ったりしましたが太極武藝館に入門するにあたり如何にそれらを忘れるかがすごく難しかったです。
自分を挟まずものを見る目、ものを聞く耳のスキルを磨く必要をとても感じます。
 
4. Posted by 円山玄花   2019年07月05日 18:29
☆松久宗玄さん

早々にコメントを頂き、ありがとうございます。
コメントから読み取る限り、稽古の主目的が「自分を変えること」になっているとのことですが、私には、それもまた的外れであるように思えます。
なぜなら、稽古には「自分」が入りようがないからです。
稽古の主目的を「自分を変えること」にしていたら、自分は変わるかもしれませんが、稽古にはなりません。

自分を一切挟まず、ただそこにある教えに身を浸し、それそのものになる。
そのために自分をやめること・・。
自分が変わるのは結果的な話であって、それを目的とするならば、それは向いている方向が違うということになります。

なかなか的確な言葉が見つからず、伝わりにくいかもしれません。
私が記事に書いた、「自分なりを挟む余地はない」ということを、もう一度味わっていただければ、と思います。よろしくお願いします。
 
5. Posted by 西川敦玄   2019年07月05日 19:31
玄花後嗣のおっしゃるように、私達はこの門を叩き、ゆるされて入門して今に至っています。また、ある聖典には狭き門より入らなさいという言葉もあります。今回のブログを読んで改めて気づいた事があります。私は今まで、聖典やいわゆる仏門などに入る事などの体験など読んできました。そこで触れられている事は、私達が自分なり?(ではないのでしょうが)に行う事の出来る事は門を叩き、門を通る事のみであるという事です。門を通ることには触れありますが、その後の事は詩のような、例えのようなそのような形でのみ表されているように思います。今は私に出来ることは、門を叩きそこを通る事に尽きるのだと思っています。そして、難しいですがその事に注意注力していきたいと思います。
 
6. Posted by 円山玄花   2019年07月06日 03:34
☆川山継玄さん

とても大きく、そして楽しく勉強をされているのが伝わってきます。
私も見習わせて頂きたいと思います。

>結局、その場でやらなければ、手を付けずに終わるか、
>とんでもなくタイミングを逃してしまう事になると学習しました

まさに、その通りだと思います。
「この世に偶然はない」との師父のお話を伺ってから、物事の発生をよく観察するようになり、自分でも確かにそうだと思うようになりました。つまり、目の前に出てきた「やらなければならないこと」は、実はベストタイミングで出現しているわけです。
それに対して面倒臭いと思ったり、後回しにしたりするのは、自分です。けれども、それは回避できたわけではなくて、文字通り後に回ったのですよね。

ところが、後には後の、ベストタイミングで出てくることがある、と!(笑)
後回しにすればするほど、やらなければならないことが増えていくわけですね。
ならば、それは一体誰が選んだベストタイミングだったかと言えば、他の誰でもなく、自分しかいないと私は思います。
自分という存在が、人生で何が必要であるかを分からないはずがないのです。
今世でやるべきこと。そのために必要なこと。
どんなに些細なことでも、全て自分で自分のために課していることだと思います。
 
7. Posted by スーパードライ   2019年07月07日 10:58
動きを真似ても、そこに少しでも自分の意識と考えが出始めると、一気に日常でおなじみの四頭筋群や余計な攻防等の考える症状が出てくる時があります。
そして、なかなか抜けきれなくなり、諦めかけると力が抜け、もがいているかのように足が重くなっていることに気づきます。
その時は、なぜそうなったのか原因を考え、本部で教わったことを思い出しながら站椿をやり直しもう一度リセットすることにしています。

この原因を考えられる状況にある事やリセットできることは、自分と向き合う辛さはありますが、考えれる教えや基本があることはとても幸せなことだと思っております。


今回のブログでは、やはり站椿、基本を再確認し、自分の在り方をじっくり構築していかないと、とても太極拳を理解できないと感じます。
特に私は、太極拳の真逆の動きを長年やり続けてきたので、それが染みついた己の心身を抹消し続け少しでも本質へと近づくため今後も精進していきたいと思います。
 
8. Posted by 円山玄花   2019年07月07日 11:39
☆佐藤玄空さん

ある風水の記事には、『開運のための最も重要なポイントは、結局のところ ”見れることと聞けること” です』と書いてありました。
今まで見てきたその手の本などには「〇〇を改善しましょう、〇〇を置きましょう」という文句が散見されたので、この言葉には少々驚きました。
太極拳だと、「見る、聞く」をさらに高度に使って自分を整えていきます。
そのようなことを修めていこうとする時、「思い込み」や「自分なり」があっては理解できるはずがないのです。だからこそ、段階訓練となっていて、わかる人にしか教えないという方法が取られているのだと思います。

私は他所の太極拳を習ったことがありませんが、それでも自分なりの動きや癖がなかなか取れず苦労しました。それらの癖は、やめようと思ってもやめられませんでしたが、今教わっていることの基本により深く入っていこうとすることで、勝手に落ちていったように思います。
 
17. Posted by 田舎の神主   2019年07月07日 18:14
私の仕事の一部となっている「雅楽」を習うとき、対面で一緒に演奏している師匠の動きや呼吸に合わせる事を行ないます。すなわち、見たり聞いたりすることを真似るわけです。時には、師匠の癖まで真似をしてしまい、癖だけが身に付いた人もいます。

雅楽を習うほとんどの人は、継続していても、一生懸命練習しても、何十年経っても全く進歩していません。それは、譜面だけを見ているからです。譜面に書かれている指譜まで絵図にして見ている人もいます。 師匠のところにせっかく時間を掛けて行っているのに、師匠の示す微妙な動き、音や呼吸を真似ることなく、ただ、間違えてはいけないという思いからか、譜面だけを見てしまいます。それがあまりにひどいと、師匠に「お前の先生は譜面か。それでは譜面に習え。私は必要ない。」と言われ、もうそれっきりになります。明治期までは、譜面ではなく口伝だったのです。

伝統音楽の雅楽を習う事でもそうですから、身体や意識を、要訣に沿った稽古が必要な太極拳では、自分は全く思うように出来ず、今でも「自分なり」に工夫をしてしまいます。私の場合は、幸いにも、「自分なり」をし続けると、ばちが当たったように体に故障が起こるようになっています。とにかく、基本の動きに忠実であり、そこでしか見られない微妙な動きを見ることができるよう、注意深く観照したいと思います。
 
9. Posted by もりそば   2019年07月07日 23:48
現代社会に生きる我々は兎に角デジタルに物事を処理する癖がついしまっており道場での取り組みにもそれが色濃くにじみ出てしまいます。指摘された事象について言葉尻を文字通りに受け取り安易に取り繕うことをしてしまいがちです。要訣を守ることで動きが生じてくることをじっと観察すべきところなのが待てないので自分で生じさせてやろうとしてしまうのです。
自分がそれをできないことを長時間直視したくないので安易に手早く処理をする日常的な脳の使い方に自動的に転換されてしまうのだと思います。脳は放っておくと楽な方に誘導しようとするのでそれを戒め統御する訓練場として道場に挑みたいです。また人間は見たい物だけを見、聞きたいことだけを聞くというこれもまた脳の勝手な取捨選択により情報収集にも障害をきたします。こうしてみるとある意味人間は不自由であり精神や脳の統御の先に真の自由があるという気がして止まない今日この頃です。
 
10. Posted by ハイネケン   2019年07月08日 00:51
入門した頃、門人の方々の様子を見て落ち着いた方が多いなぁなどと呑気に思っていた事を思い出しました。
「動かそうとする工夫は全て自分なりの工夫である」。この言葉に怯えてしまい、このコメントを書くことを含めて動けなくなりました。やはり私も「胸が固い」と言われ、胸を動かそうとしたりしておりました。(そして何とも頭も固い・・・)
どのような人生も人それぞれで他人と取替えも出来ません。今の人生状況は各個人にしか判らず、簡単には変えようもない事も沢山あるかもしれません。そして私はと言えば「動かそうとする工夫」である行動として、その状況を何とかせねばとジタバタとしている気がします。
それは以前紹介された小説「火を熾す」でも語られたはずの「自らを観照する事を蔑ろにしてきた」結果であり、必然の成り行きの様です。
「日常にも向かうにも「自分なり」が入ってないか?」
「観照」と言う言葉すら知らなかった、言葉を知らずとも分かろうとしてこなかった私にはまだ真意すら掴めていないのですが、やはり進んで行きたいのだと思いました。
 
11. Posted by マルコビッチ   2019年07月08日 00:57
>『学ぶということは、自分を否定すること・・・』
こうだ!と何か自分の中で納得し、その納得した中で続けようとしていたことにずいぶん長い時間を費やしていました。
その中であれこれと工夫していたので、ずいぶん強い人間だとつくづく思います。
これでよし!と思い込んでいる訳ですから示して下さっていることが入ってくるはずがありません。
それがある日、ふと「根本から違うのでは・・」と思った瞬間、玄花后嗣の言葉が入ってきたことがありました。
それは難しいことではなく、以前から言われていた基本でした。
まだまだ自分が頭をもたげて執着しようとしますが、師父、玄花后嗣の姿を拝見し、合わせていくことで、気付けることが増えて来ますし、頭の中が基本に戻れるように感じています。
見えていないことはまだまだたくさんあるのだと感じています。
自分を挟まず、聞く、見ることのできる、良い意味で”弱い人”でありたいと思います。
 
12. Posted by 太郎冠者   2019年07月08日 01:06
記事を拝見してふっと思ったのは、「こんな自分じゃダメだ・・・」という考えを抱くことも結局は自分を挟んでしまっていて、おまけに自らの価値観で判断を下していた、という点でした。

自分を挟まない、という話をしているときに、こんな考えを抱いていては結局自分の殻からは抜け出せませんね。しばらくそんな状態が続いていたので、特に強く感じました・・・。
自分が知らないことを知りたくて、習得したくて入門したはずなのに、いつのまにか自分がどうかという考えになってしまうのは、一体どういうことなのでしょうか。
この問題に立ち返らないと、太極拳や、人生の本当のことなどわからないように思いました。
 
13. Posted by 円山玄花   2019年07月08日 20:30
☆西川敦玄さん

「門は内側に開かれる」という言葉を聞いたことがあります。
それは、門というものは、入る準備が整えられた者に対して開かれ、そうでなければ門は開かれず、内側にしか開かれないので、自分で開けることはできないのだと、そう理解しています。

私たちは師父に拝師入門していますが、それでもなお「教え」に関しては、教えを受けられることと、そうでないことがある、と思います。つまり、こちらの学ぶ準備が整わない限りは教えてもらえないことがあるのだと。そして、教えてもらえないというよりは、仮に教わったとしても受け取る準備ができていないために、教えることが不可能なのだと思います。

教えを受け取れる状態とは、やはり自分を挟まずにそれをそのまま受け取り、余すところなく染み込んでいくことを指していると思います。
伝えれば、わかる状態。出来るできないではなく、理解できる状態。
まさに站椿のような、積極的な受容性だと思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2019年07月08日 20:54
☆スーパードライさん

リセットできるということは、意識と身体の整え方が整然としていることと、自分の稽古の積み重ねに対して常に意識的に取り組めているということの表れだと思います。
大事にしてほしいところです。
また、整え方にも段階があり、より高度に整えられていくことで、日常の悪しき習慣は消えていくと思います。

自分に染みついた習慣とは、言ってみれば自分の執着の結果ですから、新しい教えに対する執着をきちんと持てれば、古くて必要なくなったものは落ちていくはずです。
どのような理由であれ自分にとって必要だと思えるものは、なかなか落ちないのだと思います。
私も精進したいと思います。
 
15. Posted by 円山玄花   2019年07月09日 12:58
☆もりそばさん

>ある意味人間は不自由であり精神や脳の統御の先に真の自由があるという気がして・・

私もそのように思います。
たとえ人間に見られる不自由さの、安易な方、楽な方へと流れる脳の働きや、見たいものを見て聞きたいことを聞くという操作が、生命としての自動的危機回避防御装置(長い^-^;)だとしても、人間はそんなものに無意識に依存しなくとも自分自身で対応、対処できるはずだと思います。
ただし、自分の望みか生命の望みかはわかりませんが、ここまで構築されてしまったシステムを新しくするには、明確な目的意識と自己観照、自己統御は欠かせず、やはり稽古が鍵になると思います。

全てが観られて、なおかつ心にさざ波が立たない自己統御の世界は、想像すると、宇宙空間のような世界かなとも思えます。願わくば、宇宙に咲く「存在の花」になりたいものです。
 
16. Posted by 円山玄花   2019年07月09日 13:18
☆ハイネケンさん

そうですね、どれほど怯えようが、泣きわめこうが、与えられた期限内にこなさなければならないもの、それが「課題」です。それは見方によっては苦痛かもしれませんが、反対から見れば、絶対的であるために、自分の状態や状況に関わらず「やること」に向かえる自分を発見できる場を与えて貰っていると言えます。ありがたいことですね。

だから、「課題」は師匠が与えたいものではなく、弟子の成長と実りのためにだけ課せられている貴重な教えそのものなのです。それが分からないような凡俗な意識活動しかしていないようなら、到底稽古には向かえません。以前にも書いたかもしれませんが、稽古では自分で自分に課題を課していかなければならないからです。与えてもらえているうちにその真意を汲めなければ、全て無駄になることでしょう。

「進んでいきたい」という、その気持ちは、何事に対しても自分の動力源と言える種火となることと思います。大事に、そして大きく大きくしていってください。
 
18. Posted by 円山玄花   2019年07月09日 18:23
☆田舎の神主さん

雅楽を習うことに於いて「譜面だけをみてしまうこと」は、太極拳では「習った要訣の字面を追うこと」や「師匠が話した秘伝の言葉を記憶すること」などに当てはまるでしょうか。
幸いにして私たちは「研究会」という場を与えて頂いていますから、所謂「譜面を覚えようとする」ことはないように思いますが、失伝の危機としてそこにあるものと恐れ、心して稽古したいと思いました。

>それがあまりにひどいと、師匠に「お前の先生は譜面か。それでは譜面に習え。私は必要ない。」と言われ、もうそれっきりになります。

この言葉を、門人全員に噛みしめてほしいと思います。
これが普通、これが当たり前の世界であるということです。
 
19. Posted by 清水龍玄   2019年07月09日 19:46
自分など、とてもちっぽけなものなのに、ついしがみついてしまったり、その中で工夫しようとしたり、考えてみれば、全く成果の上がらないのは明白なのに、そのような取り組み方を選んでしまうことが多々あります。
それは、いくら外部の環境が変わろうとも関係なく。自分自身が作り出している問題であって、自分自身が変わらなければならないものだと思います。

実際に、何かたとえ簡単な問題が起きても、自分自身が作り出したものに縛られ、まともな結果が得られないことは、日常生活の中でも沢山出てきます。
以前の自分は、それは能力の無さなのだと思っていました。
しかし、実際には能力以前の問題であり、解決していけるものなのだと思えてきました。
そもそも、私が武術を始めたのは、「このままではいけない」という思いがあったからでした。
自分の考えや行いは、きっちり自分に帰ってくると思います。
それをしっかり自覚し、自分を変えていかなければならないと思います。
 
20. Posted by 円山玄花   2019年07月11日 15:56
☆マルコビッチさん

「自分」がなければ、気づける力も生じませんし、「自分」があることで示されていることが入ってこない・・。本当に、人間はなんという謎かけをされてこの世に生まれてきたのかと、呆れてしまいます(笑)
この堂々巡りの先にある(と思える)、自分があって自分がなく、自分と他人や教えなど、他とが分かれていない世界であれば、全てが自分に入って通過していくのではないかと、そんな気がします。
 
21. Posted by 円山玄花   2019年07月11日 20:20
☆太郎冠者さん

ある意味、もっと心底「こんな自分じゃダメだ」と思えないと、自分に対する疑問も生じなければ、教示されていることを本当に観よう、分かろう、理解しようとは思えないと思います。

自分の核、魂の渇望として今の自分が存在し、日々学んでいるかどうか。まるで自分の意思とは関係ないものに突き動かされているかのような感覚に襲われる毎日。
生きている実感といいますか、道を歩くということも、同じ実感だと私は思います。
つまり、「こんな自分じゃダメだ」などと考えられているうちは、まだ道を歩くことも始まってはいないと言えるのかも知れません。
 
22. Posted by 円山玄花   2019年07月11日 20:29
☆清水龍玄さん

コメントに出てくる「自分自身が変わらなければならないものだと思います」「自分を変えていかなければならないと思います」という言葉の回答といいますか、そのことについて今回の記事に書いたつもりでしたが、やはり人に伝えるということは難しいのだと感じています。

記事の前半に例えとして書いた「よく聞く言葉」に、このコメントの言葉「自分自身が変わらなければならないものだと思います」を当て嵌めて読んで頂ければ、と思います。
 

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