2019年04月18日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その41

  「動くということ」

                   by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 最近、研究会で行われているガンハンドリングの稽古をしているときに、「体が動いていない」という注意を受けます。

 師父の動きを拝見していると、銃を構えるとき、手だけの動きにならずに、わずかな動きに際しても全身が同調して動いているのが見て取れます。
 振り返って自分の動きを見てみるとどうでしょうか。

 鏡に自分の姿を写してみると、銃を持ち上げる腕は肩から先の動きが主であり、足腰は重く、地面に居ついているように見えます。
 師父がさながら、いつでも獲物に飛び掛かることのできる動物だとすると、こちらはドッシリと待ち構え、動きのとれない置物のようにさえ見えます。
 どうしてこのような違いが生まれてしまうのでしょうか。


 人間が野生の中で、狩猟採集民として生活していた時代、現代人に比べて人間の体はもっと活動的であり、動く量が多かったと言われています。
 考えてみれば当たり前のことですが、自分の足で動き回り、体を使って食料となる動植物を集めないことには、生活そのものが成り立ちません。
 現代人の生活を見てみると、たいして体を使わなくても生きていくことができるような社会が出来上がってしまっています。
 古くはギリシャ・ローマ時代の貴族たちの時でさえ、身の回りのことは全て奴隷が執り行い、自分は何もしなくても生活できるような社会になっていたらしく、それではいけない、健康によくないということで運動をするようになり、それがスポーツの起源となったという話があります。

 言葉でいうと体を使う、動くという表現になっても、武術的な体の動きは、生き残るための必要性から生じたものだと思います。
 それと比べ、スポーツはその成り立ちからしてすでに違うところから生じており、スポーツ的な発想では武術の体の使い方ができないというのも、頷けます。

 ガンハンドリングの稽古の最中に自分が受けた注意として、「体が動かない」という点と「的当て」になってしまっているというものがあります。
 スポーツとして銃を扱うのなら、的にどれだけ当たるかが争点となるので、極端な話、体など動かなくてもいいということになります。
 自分の頭に染み付いてしまっている考え方の根は深く、好き好んでやろうとしているわけではなくても、どうしても出てきてしまうものです。これは、しっかりと解決していかないといけない課題です。


 最近の科学的な研究によると、そもそも人間の体は、カウチソファでのんびり過ごすようには出来ておらず、体を動かしていないとその機能が低下し、健康を害するとのことです。
 比較としてよく出されるのは、チンパンジーやゴリラなどの類人猿ですが、彼らは一日の運動量が、人間とくらべかなり少ないことが明らかになっています。
 移動距離もせいぜい1日数キロで、移動した先で食料を食べ続けるのが主な生活です。
 面白いのは、ゴリラなどはぜんぜん体を使わない生活をしていても、心筋梗塞などの生活習慣病のリスクが上がらないのですが、人間が同じ生活をすると、とたんに病気になるリスクが上昇するという研究結果です。
 そもそもの構造からして、人間の体は、野生動物以上に動く必要性がある造りになっているということのようです。
 逆に言えば、人間は他の野生動物以上に、動き続けることのできる動物ということです。
 野生に生きる動物は、わりと止まっていることが多いのに対し、人間は一日中動き続けることのできる生き物です。それは、野生環境を生き抜く上では、かなり有利に働いたはずです。

 少し話が逸れましたが、我々現代人も、体の構造という点では、野生を生きていた先祖たちと同じ造りをしており、そもそもが体を動かし続けることに特化した生き物であるはずです。
 体が使われなくなった理由としては、やはり生活でその必要性がなくなったからという点が挙げられると思います。

 では、戦闘状態に置かれた場合、果たして動かずに生き延びるということが可能でしょうか。
 そんなことはありえない、と言えるはずです。
 日常生活にどっぷりと浸かった思考からでは、たったひとつ銃を持ち上げるという動作を取っても、体を使わずに行われてしまいます。
 これはどうにかしないといけません。

 常々、師父に指摘して頂いている通り、一般的な日常生活の中には、危機感が不足していると思います。何かが起きたとき、とっさに動けるかそうでないかは、まさに生死を分かつ問題であるはずなのに、なかなかそれが省みられることがありません。

 人間という生き物の体に対する不理解と、そこから作り上げられた社会生活にどっぷりと浸かった考え方。
 日常生活の中においてさえ、それらは最終的に健康を害することにつながり、人として良く生きることを妨げることになります。
 ましてや、戦闘という極限状態を考えるなら、それらは即座に命を危険に晒すことにつながるはずです。

 とにもかくにも、「動けるか」どうかということは、短期的に自らの命をリスクに晒すことであり、長期的に見ても、自らをリスクにさらすことにつながる問題だと思います。
 いつか、とか、いずれどうにかするではなく、今まさに解決しなければならない喫緊の問題であるはずです。

 ガンハンドリングという、普通ではやらない課題を与えられることで、その中に出てくる自分の考え方が、あぶり出されるように感じます。
 その課題と向き合い、解決していくことが、太極拳のみならず、生きていく上での問題とも関わっていくことになると感じます。

                                  (了)


 *次回「今日も稽古で日が暮れる/ その42」の掲載は、5月22日(水)の予定です


disciples at 12:21コメント(23)門人随想 | 今日も稽古で日が暮れる 

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2019年04月20日 02:05
人間の身体が動かし続ける事に特化しているとの示唆ですが、
いわゆる後期高齢者の方々で、すごく元気なご老人達を見るにつけ、
生きる事に懸命になる必要があり、動き続けてきたのだなと感じます。

人間には安全と安定を求めて、そこに落ち着こうとする本能もあると思います。
現代社会の中で落ち着こうとする精神と、本来は動き続けるべき身体との間で、
ギャップは広がり続けており、心身の健康を損なう形で様々に現れていると思います。

懸命にならなくても生きてはいける現代では、
敢えて精神を奮い立たせて生きる、その理由や目的が必要な時代なのだと思います。

身体が動いていない結果には、精神が動いていない原因があり、
精神が動いていない結果には、理由や目的を見失っている原因があると思います。
 
2. Posted by 西川 敦玄   2019年04月20日 10:02
悩ましい問題の提起ですね。社会生活にドップリとはまってしまっていること。人間が、元々は動くような体であり、現状の社会生活との齟齬があることに問題があるのではとの考察がありました。
一方で、奴隷の話を少し出されていましたが、高度な武術体系が奴隷の中から出ている例は思いつきません。精神的な自由や創作性など。人間の自由で高度な意思の元でこそ、戦闘においても、発展するのだと思います。
今一度、自己の生活、意識が奴隷のそれに近しいものになっていないか内省してみる機会になりました。
 
3. Posted by もりそば   2019年04月20日 11:31
現存の生物はみな環境に適応して変化し続けてきた結果繁栄してきた(学校の授業などではそういうことになってる)わけですがその適応には必ずしも良い進化とは言えないものもあるようです。ガラパゴスなどの孤島の生き物は外来種に対して脆弱であり絶滅する危険があるのと同じように我々も都市という快適な孤島に適応しすぎているように思われます(便利で安心安全という現代のライフスタイルは生存と闘争の真逆ですよね 何かがあったときに真っ先に滅びそうです。合理性は必ずも良し悪しとは関係ないようです)。我々は快適さに過剰適応せず闘争心を失わない在り方を確立したいものです。
 
4. Posted by 川山継玄   2019年04月20日 18:10
全く何の知識もなく始まったガンハンドリングの訓練は、降下訓練同様、私にとって毎回が本当に新鮮で、驚きの連続です。

本来であれば、あれほど細やかに段階を踏んでご指導いただいているので、太極拳の稽古でその精神性、武術性を理解し吸収し、功夫を積まなければならないのですが、どうしてもその根本が理解できず、成長が止まってしまったような状態でした。
そんな自分にとって、CQC・降下訓練・ガンハンドリングの訓練は、自分自身の普段の考え方・思考回路を見つめなおす、貴重な機会となっています。
 
5. Posted by 川山継玄   2019年04月20日 18:11
私は、あぶりだされた現状から、自分の言動の裏にある本当の原因を追究するに至らず、ただただつらいだけの時期がありました。
本当の原因を追究しようとすれば、逃げ道を塞がれる、自分自身を否定せざるを得ない、と心の奥底で感じていたのだと思います。
けれど、師父の指さす彼方を目指したいのであれば、それに目を背けることはできないのだと、師父、玄花后嗣はじめ、いろいろな方々がご指導くださいました。
そのおかげで、自分では当たり前だと信じていた事、このぐらいならいいだろうと思っていたことは、世間では通用せず、自分勝手な思い込みであることに気付かされました。

ガンハンドリングは、マイナスの自分自身を正確に表してくれるので、太郎冠者さんもそれを大いに利用してみては如何ですか。
原因は「動けない事」「的当になってしまう事」ではないのではないでしょうか。
今までご自身が「ガンハンドリングとはこういうものだ」という強固な枠が一気に外れるほどの、感動が溢れ出ると思いますよ。
 
12. Posted by 田舎の神主   2019年04月21日 18:00
私は20代の中頃、鉄工所で働いていました。いろいろな作業の中で、自分は、太い柱の本付け溶接作業が大変難しく感じました。先輩たちが全くブレなく幾層も重ねた芸術的な溶接を施しているのを見て大変憧れました。

その大きな鉄骨を溶接する方法とは、まず、体の一部を強固なものに付ける。そのときに、なるべく体幹に近いところを接するようにする。その後、半自動溶接のトーチを右から左に、ほとんど止まっているようにゆっくりと動かしていく。その動かし方は、肩から先の手だけで動かすと、十中八九、溶接時の反動で波打ったような溶接跡になってしまいました。ゆっくりブレなく真っ直ぐに動かすには、体全体を使って動きながら調整していくことでした。

 その方法を覚えると、苦手なものが得意になりました。しかし、正しく立つ位置は誰も教えてくれませんでしたので、私の利き足である、左足のかかとの内側に巨大な魚の目ができてしまいました。薬で芯までとれたときには、直径3センチ厚さ1センチの大きさがありました。

 この溶接の方法は、ガンハンドリングの方法とは形は全然違います。しかし、初めて習った今までに無い感覚や、その方法を会得するには、まずは、師の示したとおりに行ない、言っている意味を理解しようと努力し、違っていれば何度でも訂正するといったことが、人より不器用で思い込みの癖のある私には、大変必要なことだと思いました。
 
6. Posted by 円山玄花   2019年04月22日 16:26
>最近の科学的な研究によると、そもそも人間の体は、カウチソファでのんびり過ごすようには
>出来ておらず、体を動かしていないとその機能が低下し、健康を害するとのこと

とても興味深いですね。
確かに、会議などで長時間座っていると徐々にしんどく感じられ、あまりに長いと苦痛を覚えます。
人間の体が動くように出来ているなら、現代社会が反対に体を使わなくても良い方向に整えられているということは、それは人の本来の姿を無視して人の欲望にのみ従っていることの現れともいえるでしょうか。
その結果、人間が本来持っている実力も出せず、あまつさえまだ便利さと快楽を求めて堕落して行き、病を患い本当に動けなくなっていくならば、それはあまりにも憐れです。
同様に、「体が動かない」ということの理由にも、自分の「動きたくない」という欲求があるのではないでしょうか。
問題に対して視野を広く持ち、多分野にその解決策を見出す姿勢は必要ですが、まず第一には「自分自身」を観ることが肝要だと思います。
『看脚下』、正に自分がどこに立っているのか。それを知ろうとせずに何を学んでも所詮は付け足しの知識となり、問題の解決にはならないのだと思います。
 
7. Posted by スーパードライ   2019年04月22日 22:40
私は、日常動作の思考で動けないことを理解するのに時間がかかりました。
毎回稽古で指導される度に、導いて動けた時の感動と戸惑いは、今までの自分の思考に変化をもたらして頂いてます。
しかし最近では動けないとき、何か違うことをしているなと自分を見るようになり、どうしてもどうにかしなければならないと行き詰ります。
現代社会ではありえない想像つかない動きであるため、日常の生活をするための動きでは当然理解が難しいのかもしれません。
もっと今の思考を意識的に貪欲に変えていくためのアプローチが必要だなと思いました。

太郎冠者も自身の行き詰まりを克服しようと懸命に稽古されていることが私の励みとなりました。
まさに向き合うことは、生きてく上でも同様だなと深く感じ、今後の稽古に向き合う姿勢の参考とさせて頂きます。

(やっぱり稽古がたりないか〜。)
8. Posted by マルコビッチ   2019年04月23日 01:32
>戦闘状態に置かれた場合、・・・・・
>危機感が不足している・・・・・
確かに現代日本に生きるものにとって、戦争を体験していない人には、戦闘状態は想像の中でしょうし、多くの人が危機感なく生活していると思います。
しかし、だから動けないと言っていられないですし、私たちはこの現代でスタートしているのですものね。
師父はお若いころから自立して、知らない土地で生きてこられています。
家を出て、知らない土地で生きていくということは、大げさではありますが、ある意味、戦闘状態のような孤立感や危機感があるかもしれません。
どうやったらここで生きていかれるか、周りを見て、様々な気遣いをしていかなければなりません。
師父が誰よりも本当の意味での気遣いの出来る方だと言うことは、皆が知っていることだと思います。
そしてその”気遣いということ”を自分自身に使えるかということにも繋がるのではないかと思います。
自分自身に気遣えるということは、甘やかすことではなく、意識的に自分を見ていくことなのではないかとも思います。
行き詰まったら”無極”に戻る・・立つ中で、要求に沿っているかどれだけ自分を感じ認識出来るか、これでいいのか、これでいいのか・・思考と身体を居着かせず、修正し続けていくしかないのだと思います。
考え方があぶり出され、課題が浮き彫りになったときこそチャンスです。

お互いに頑張って歩いていきましょう。
9. Posted by 佐藤玄空   2019年04月23日 08:44
停まっている的に当てるのもようやくなのに動いている的や自分が動きながら当てるのはとても困難に感じる。
これがガンハンドリングを最初に行った時の感想です。
しかし、それも数を重ねるうちに可能になるのだろうと考えていました。

実際はその発想そのものが過ちであり「お家バンバン」以上にはなりえないと思います。
体を固定して的を狙う限りは人としての機能を捨てることになり実際にはまるで役立たずの「ごっご遊び」にしかなりません。
本部からかえりようやく最近になって思いつきました。

10. Posted by 清水龍玄   2019年04月23日 21:01
身体が動かないということは、人にとって致命的ですね。
その動けない体をどうにかしようと、私も苦労しています。
最近新しい仕事につきましたが、足場を登ったり、不安定な中で仕事をしたりと、今までの仕事より実際に体を動かすことが多い仕事です。
先輩方は、年配の方でも、みなさん体が軽く、若々しく見えます。
やはり、必要に迫られると、体というものは動いてくるのかもしれません(笑)

太郎冠者さんの記事を読んで、沢山の本を読んで勉強しようとしているのだなと思いました。
私自身も見習わなくてはと思います。
しかし、本で読んだ知識も、実際に使えなければ、あまり意味がないのではないかとも思います。
身体が動いていないと指摘を受けたのなら、四の五の言わず師父の真似をして動いてみる、これが必要なのではないかと私は思います。
やるべきこと、必要な事は常に示されているはずです
本から知識を得ることも必要であるし素晴らしいことだと思います。
それを、師父が仰っていることを理解するため、師父の仰ることを、自分で気が付けなかった別の視点からも見ることが出来るように使えたらいいなと私は思っています。
 
11. Posted by ハイネケン   2019年04月24日 00:11
現在の人類の進化が約数十万年前、古代ローマ時代ですら約2500年前。私の世代ではテレビドラマ「おしん」の頃(約100年前)と現在を比べると生活の変化が感じやすいようです。
「体が動かない」「とっさに動ける」と言うことも、「体を動かす」と捉えてしまい、何が、どこが動いていないのか分からず、そんな状態から動かしてみても拙力の場所を変えて動かしただけとなってしまいます。
運動量の少ないチンパンジーですら恐らくはチンパンジーらしく体を使っているので、せめて私は人間らしく体が動けるようになりたいのですが。認識出来ていない状態です。
稽古でダイナミックなアプローチを感じる度に、体の精緻さに驚きつつ、自分のアプローチや稽古への取り組み方の間違いに気づかされています。
 
13. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:00
皆様、コメント返信が遅くなり、申し訳ありませんでした。

☆松久宗玄さん
理由や目的を見失ってしまう、そうなってしまう恐ろしさはまさに身をもって味わった気がしています。
極端な話、なんのために生きているのかもわからなくなってしまうと、とたんに体全体から力が抜けていってしまうようです。

まずひとりの人間として、生きていくという足場をしっかり作っていかないと、それ以上のものは手に入れようがないのだと思いました。
もう少し自分の足元を見つめながら、やっていこうと思います。
 
14. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:07
☆西川 敦玄さん
コメントが遅くなり、申し訳ありませんでした。

まさに自分がドツボにはまったような状態になり、精神的な束縛から特に抜け出せなくなってしまっていたようでした。
考え方を少し変えることができれば、心の中の囚われから解放され、少し自由になれたような気がしました。

何かができる環境であるはずなのに、逆にその環境に囚われて何も出来なくなってしまうと思う、まさに本末転倒な状態でした。
これでは、武術で自由に動くなど夢のまた夢です。
精進していきたいです。
 
15. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:13
☆もりそばさん
進化の研究は様々な分野で進められているようですが、必ずしも生存しているのが適者というわけでもなく、何かのきっかけでたまたま生き残った種が繁栄した結果だということもいえるようです。

そう思うと、人間も種として生き残ってはいるものの、必ずしも優れたものというわけではなく、様々な欠点も抱えているのだと思います。
動かないと体が弱っていくという点もそうですし、他人との関わりで大規模な争いをする、というのもそうだと言えるかもしれません。
そういった欠点をひとつずつ克服していくのも、人間として必要な進化の過程なのかもしれませんね。
 
16. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:22
☆川山継玄さん
コメントありがとうございます。
ちょうど自分が問題にぶち当たっていて、どうしたらいいかわからない状態になっていました。わからない、なんて言っていられるうちは甘い、と笑われてしまうかもしれませんが、その時の自分にはどうしようもないものに思えていました。

自分の場合は、ガンハンドリングを通して出てきた問題ではありましたが、問題の根っこの部分は、ガンハンドリングではなくて、もっと別のところにあったように思います。
問題が解決したかというとそういうわけではなくて、せいぜい少し吹っ切れたという程度でしかないのですが、少なからず、何もわからず八方塞がりという感覚ではなくなりました。

平和ボケでしょうがないのかもしれませんが、少しずつでも解決していけるようにしていきたいです。
 
17. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:29
☆田舎の神主さん
田舎の神主さんのお話を聞いていると、本当に色々な経験をされてきたのだなと、それは自分にはぜんぜん足りないことなので、大変だったのだろうとは思いますが、うらやましくも思います。

自分は学生時代に太極武藝館に入門し、それから稽古と仕事と日々の生活を続ける毎日を過ごしてきましたが、今になって、果たしてそれでよかったのだろうかと思うときがあります。
稽古で壁にぶつかったとき、それは本当に稽古の壁だったのか、それを超える力が自分にあるのかと自問自答せざるを得ませんでした。

過ぎた時は戻せないので、これから先、もっと自分にできる多くのことをやっていかないと、人生を生きていく価値がなくなってしまうような気がしました。
色々と頑張りたいと思います。
 
18. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:40
☆円山玄花さん
ナイフというひとつの道具が様々なことに使えるように、人間の体も、ひとつのことにとらわれずに多くのことがこなせる「機能」があるのだと思います。
ただ、使い方を知らなかったり、適切な管理の方法を知らないと簡単に痛んだり、使えなかったり、壊れたりしてしまうということなのかなと思います。

自分の心や頭の中も、自分の中にあって管理できるモノというのとは別物で、自分と思っているものと本当の自分とは、まったく違う存在なのかとさえ感じるときがあります。
なかなか問題の本質に行き当たらず、解決には程遠い気がしますが、向かっていかなければいけないように思います。
 
19. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:48
☆スーパードライさん
自分の場合、懸命に稽古しているなんてカッコいいものではなくて、ただ押しつぶされてダメになっている、という状況といえるかもしれません。ただ、そうなっていると見えるようになった程度には、状況は好転したといえるのかもしれません。

稽古中に玄花さんに、「他の人がどういうふうに稽古に取り組んでいるか観るといい」とアドバイスを頂きました。
自分にとっても他の門人が稽古し、どう生きているのかを見させてもらうのは非常に勉強になるのですが、同時に自分もまた、他の門人の方たちに見られていると、意識させられるアドバイスでした。
反省させられます。
 
20. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 03:59
☆マルコビッチさん
最近少し勉強していたのですが、現代の平和も、それを勝ち取るために多大な努力をしてきた多くの人々がいたからの結果で、平和であるために、争わないための意識と努力が必要なものなのだと知りました。

そうして省みると、自分はただ平和だ平和ボケだと、本当にボケたことを言っていたのだと思います。
それと、生きることもただ日常の延長でやりくりしてしまい、やりたかったはずのことを、いつのまにかいくつも忘れたり、諦めたりしてしまっていたような気がしています。

思えばずっと狭い場所で生きてきたので、一度どこか別の遠くの場所で生活するのもいいかもしれませんね。
そうしれば、師父の仰ってることも身にしみてわかるかもしれません。そういうのが自分には足りない気がします。
 
21. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 04:06
☆佐藤玄空さん
機会を作って狩猟もいずれやってみたいですが、動物相手に弾を当てるよりも、考えて動き回り反撃してくる人間に狙って当てるというのは、数段難しいのかもしれません。

稽古中にも、師父に「それは動かずに反撃してこない的を撃つ狙い方だ!」という注意を受けましたが、動いて狙ってくるターゲットを相手取るときに、自分が動けない状態では、はなから勝負にならないですよね。

師父のように、修羅場をくぐってきた方から見たら本当にお家バンバンにしか見えないのだと思います。
相手も撃ってくる・・・想像力さえ働かせることのできない自分が、非常にもどかしいものです。
 
22. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 04:16
☆清水龍玄さん
シールズの初老のベテラン隊員の動きに、新人の若手が全くついていけないという話を聞いたことがありますが、どの分野でも磨かれた動きには、ただ若さや体力だけではかなわないということでしょうか。

稽古中でも、師父のあとをついて歩くと師父の動きが一番若々しいという指摘をされることがあります。
自分と師父では年齢が倍近く離れているはずなのですが、まるで自分のほうが年寄りの動けない人間に感じられます。

おっしゃる通り、この動きを真似できないことには、動けない云々を言っている場合ではないのだと思います。
余計なことを考え過ぎていて大事なことが見えていないのか、その逆なのかわかりませんが、もっと言われていることをそのまま、正しく理解できるように努めないといけないですね。
 
23. Posted by 太郎冠者   2019年05月11日 04:22
☆ハイネケンさん
ひとりの人間が複数のチンパンジーの世話は出来ますが、チンパンジーには複数の人間の世話は出来ないと思います。
たぶん、途中で力つきると思います。
それだけ人間が動き続けられる生き物だということですが、現代生活の中では完全に使いきれてない能力ですね。

最近は、自動車が複数の歩行者をはねたという事件が話題になっていますが、一歩外を歩けば危険はたくさんあり、それらに対して動ける体は、実際的に危機から逃れるのに必要な力だと思います。それだけ、現代人の感性が鈍ってしまっているということでしょうか。
自分もまさに、心身共に鈍ってしまった人類の代表なので、なんとかして改善していかないといけないと思っています。
 

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