2019年03月29日

練拳diary #84「学習体系に身をゆだねる」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花




 「学習体系というものは、本当に凄い」と思えることが、度々あります。
 それが最近になって特に強く感じられるのは、もしかしたら新入門人の稽古への取り組みとその進歩の様子を目の当たりにしたり、研究会クラスを中心に、武術的心身の訓練方法として、新たに本格的な「ガンハンドリング」が稽古されているからかも知れません。
 ガンハンドリングとは、拳銃やライフルなどの正しい取り扱い方を指し、基礎知識から安全管理、射撃、戦闘時に至るまで、銃に関係する全てが含まれます。
 もちろん私たちは実銃ではなくトイガンを用いて稽古しますが、それでも重量や機能は実銃に近似しており、BB弾というプラスチックの弾が秒速60~90mで飛ぶ威力の高いものです。それを、軍隊で行われる指導と同様に実銃として扱うことが要求され、安全確保のためのルールや銃口管理が徹底された厳しい状況の中で稽古が行われます。

 さて、門人の誰もが最初に学ぶこととは、基本にして最大の秘伝と言われる「立ち方」すなわち站椿を、僅か十余りの要訣でわかりやすく簡潔に指導され、「歩き方」となる歩法では、站椿で整えられた身体がどのように動くのかを、科学的かつシステマチックに説かれることです。
 それだけで、と表現するのはおこがましいかもしれませんが、謂わゆる套路や推手などの太極拳らしく思える動作を一切教わっていない初心者でも、ただそれだけできちんと初歩的な発勁ができてしまうので、それが学習体系の怖ろしさであり、素晴らしいところだと思います。
 
 研究会で行われているガンハンドリングの稽古は、銃に対して正しい知識を学び、銃の安全管理から取り扱い、そして射撃、戦闘訓練に至るまでが行われます。その訓練内容は、例えば外国のシューティング施設に行っても通用するレベルと言われるほどで、特に実際に射撃するまでの動作や姿勢の確認、正しく狙いをつけるためのサイティングが、時間を掛けて細かく行われます。
 なぜ太極拳の道場で銃の稽古が行われるかと言えば、銃という日常で馴染みのない武器を正しく扱うことで武術的な意識が養われ、実際に銃を保持して様々な課題をこなしていくことで、武術的な身体が養われるからです。
 一般的に、武術の道場で扱われる武器といえば、大刀や棍、槍やヌンチャクなどを思い浮かべるかもしれません。しかし、日常に戦場のような危機を感じられない現代日本では、たとえトイガンであっても、室内で大刀を振り回しているよりはよほど現実味を帯びた、危機管理の訓練になると思われます。言い方を変えれば、木製の大刀や棍を見ただけでは武術性がピンとこないほど、私たちの危機意識は希薄なものに成り下がっているということでもあります。
 ともあれ、銃の取り扱いを正しく身につけようとすれば、否応なしに意識的にならざるを得ず、銃を保持して武術的に動こうとすれば、そこには太極拳の基本功や歩法での要求がそっくりそのまま求められます。つまり、いかに太極拳が武術的に優れたものであり、その学習体系が実戦性の高い「武術」として整えられているのかが、銃の稽古をすることで再認識させられるのです。

 師父は、太極拳を修得することに比べればガンハンドリングの方が単純で分かりやすい、と仰います。
 確かに、銃を扱うときの注意点には、それをできるかどうかは別にして、言われていることそのものを理解するまでにそれほど時間を必要とはせず、守るべきポイントの数も太極拳よりは少なく複雑ではない、と思えます。だからこそ、銃の訓練に太極拳の体系を当て嵌めれば、より武術的に細部まで整えられたものとなりますし、太極拳の稽古では理解できなかった問題点が、銃の訓練を行うことで問題の元となる「考え方」が明確に浮き彫りになり、解決の糸口になるのだと思います。

 ただし、ガンハンドリングの稽古が太極拳の学習に役立つかどうかは、やはりその人の精神の軸と意識によって大いに影響を受けるということも事実です。なぜなら、銃の訓練で出てくる問題点は太極拳を学習する上で生じる問題点と、ピッタリ一致するからです。
 それは、とりもなおさず架式の問題と歩法の問題であり、さらに言えば、提示されている学習体系に則って学んでいないために、何年経っても解決できないままになっていると言えます。
 例えば、先日の稽古で研究会の門人Tさんに問題点を訊いたところ、次のような答えが返ってきました。

 『結局は、片足で立った時に身体が使われておらず、軸が揃っていないのだと思います』と。

 この回答自体が、きちんと学習体系に沿って稽古を進めていないことの表れなのですが、そのことを本人に指摘しても、なかなかその意味が解ってもらえないので歯痒く思います。
 ここでの問題点は、そもそも太極拳で「片足で立つ」ことは何を意味しているのか、それについては散々様々な表現方法で説明されてきているはずなのですが、それには着目せず、片足で立った時の状態を気にしている、ということです。
 私たちの学習システムから観れば、片足で立ったところから身体を使おうとしても使えない時には、そこで軸が揃うことはありません。なぜなら、そもそも片足で立つという行為自体が身体を基本通りに使わなければできないことであり、そのようにして立てた片足の状態では、軸足にも上がっている足にも負荷が来ない状態で立つことが可能になります。
 それこそが、「片足站椿」の状態であり、套路で一番最初に出てくる「金剛搗碓」が「片足」であることも、その意味に他なりません。そしてそのことは、師匠から幾度となく示され、説明されていることなのです。
 なぜ、それをそのまま受け取ることから始めないのだろうかと、いつも私は疑問に思います。
 示された身体の使い方をした結果、まだ片足で立てない。そうであれば稽古を重ねていけばやがて片足で立てるでしょうし、太極拳における「片足で立てることの意味」も理解できることでしょう。けれども、自分なりに片足で立った状態からは、何をどのように工夫しようとも、形が似ていても、長時間立てていても、太極拳の理解には繋がらないのです。

 また、同じく研究会のMさんは自分の問題点について、太極拳で大事な「合わせる」という課題に対して、実際の中身ではなく位置を合わせる動作をしていた、と言います。本人はさらに続けて「当然自分では、何を合わせなければならないか、ということは認識しています」と畳み掛けます。
 ならば、なぜ最初からそれを稽古せず、違うことから始めようとするのでしょうか。

 示されていることをきちんと守れば、入門したばかりの初心者でも発勁のタマゴのようなことができるという、それだけの内容がそこにはあるのに、それには取り組まず違うことからアプローチを試みてしまう。知的なアプローチとは反対の試みです。さらには、自分が「違うことをしている」という認識さえ持てなくなってしまうのです。
 示されたことを最初から理解できたり体現できる人は、まずそういないと思いますし、課題をこなそうとする過程で、次の道標が見えてきて、また先へ進んでいくことができるのだと、私は学習をそのように捉えています。
 しかし、最初に理解できないからといって、自分なりに道を探して進んでも、目的地へは到達できずに迷子になってしまいます。時間をかけても進歩がなく、同じ課題を抱え続けている状態はまさに「迷子」です。迷子になったら、闇雲に歩き回らず、地図を見て現在地を確認し、目印となるところを探さなければなりません。・・それが、太極という学習の果てしない道のりに、先人たちが置いてくれたありがたい道標であるはずです。

 師父は仰います。
 『体系に身を委ね、体系という河の流れに流されて大海に辿り着くような、そういうことがわかる人間じゃなければこれは理解できない。カッコだけで内容が伴わないもの、問題点を指摘される事を嫌い、なかなか中身が変わらないもの、それらは全て”甘え”に起因するものである。プライドやエエカッコに見合うだけの成長があったかどうか、それを自分に問い直さない限りは、本格的なガンハンドリングを学んだところで所詮は”お家(ウチ)バンバン”、”子供部屋のプロ”にしかなれず、本物の戦闘のプロフェッショナルにはほど遠い』


 いつ、どのようにして太極拳の学習体系が形作られたのか、考えることがあります。
 戦いの最中では、悠長に体系として纏めることなど不可能だと思えますし、やはり今回太極拳の稽古にガンハンドリングが加えられたように、その時どきで必要だと思われたものが加えられ、必要なくなったものは外れることを連綿と繰り返し、今の体系が出来上がったのでしょうか。
 何れにしても、師父が仰る”知的なアプローチ”がなければ、高度な学習体系もただの標本になりかねません。
太極拳の始まりは何であるのか、それはどこへ向かっているのか、各自がもう一度問いかける必要があると思います。

                                  (了) 

xuanhua at 12:48コメント(25)練拳 Diary | *#81〜#90 

コメント一覧

1. Posted by 西川 敦玄   2019年03月30日 00:45
今回のブログに提示されているように、迷子になるという表現が正に的をえた表現だと思います。しかしながら、実際の迷子と違い、客観的に自分が迷子であることに気づくことが如何に難しいことかと、後になって思うことが多々あります。そして、迷子になった時に持っている地図…。それは自分で書き換えた地図である事に気付くことがまた難しいところだと思います。その後、漸く本来の地図を模索する自分を発見するわけですが、それには地図と現実を照らし合わせて再発見していく過程をともないます。天才であれば難なく、地図を読み取れるのでしょうが、私は師父の言葉や諸々のことを思い出しながら、たどたどしく地図を読み解いていきたいと思っているところです。
 
2. Posted by 川山継玄   2019年03月30日 16:32
「常に本物の銃として扱う事」
最初に守らなければならないことの一つとして、師父から教えて頂いた事。
これが、私の武術性に対する認識ががらりと変わるきっかけになりました。

それまで、師に合わせようとしても合い切らないものが何なのかわからずにいましたが、何事においても、師父はこのような考え方がもとになっていらっしゃるが故に、人に対しても、物に対しても、その一人一人、一つ一つをとても大切にし、丁寧に関わることができるのだと感じた瞬間でした。

体系的に順序立てて正しく取り組むことで、精神も身体も無理や歪みがなく成長できるのだと思います。
人は、手順を省いてでも結果を得られることに躍起になってしまう弱い生き物です。でも、太極という道にさえ身をおけば、結果ではなくその道のりを大切に歩み進めるための道標があります。
その事に深く感謝して、日々稽古に励みたいと思います。
 
3. Posted by マルコビッチ   2019年03月31日 11:04
体系に身を委ねる・・本当にその通りで、凄いことなのだと思います。
だいぶ以前になりますが、套路をやっていた時だと思います。
「太極拳に合わせるのだよ」と師父がおっしゃいました。
どういうことだろうと分からないながらも、その言葉を呪文のように頭の中で繰り返して稽古したことを思い出します。
「太極拳に合わせる」は、その学習体系に身を委ねることでしか理解出来ないのだと思います。
師父のおっしゃる一言一言は、一回しかおっしゃらないこともあれば、何回も繰り返される言葉もあります。全てに耳を傾け素直に受け入れてやろうとすること。
ずっと以前、正式門人の方に「なぜ師父のおっしゃったことを大事にしようとしないのだ!」と諭されたことがあります。
そのことがずっとショッキングなこととして心の中に残っています。

私は稽古をしている中で、『考えていることが非常に多い』ということがガンハンドリングの稽古ではっきり知ることができました。
ガンハンドリングでは考えていたら間に合わないからです。
ここをこうしてこうなるからこうあわせて・・・等とやっている余裕はありません。そう、余裕があった。それはそのまま危機意識の欠如だったのです。
太極拳で教えて頂いた大事なことにただ合わせようとする意識が必要なのだと思います。
それとガンハンドリングは、考え方や性格がストレートに表れるようで、私は最近(前からかな)怒りっぽくて、少しのことでイラっとしてしまいます。
それも形になって表れていて、「だめだだめだ・・こんな自分じゃだめだ・・」と思っていたところ、師父から「どんな時でも平常心でいないとね!」と言って頂き、ああ、見て頂いているなぁ・・ありがたいなぁ・・と思いました。
全て、本当に全てが稽古なのだと改めて認識して、日々精進していきたいと思いました。
 
9. Posted by 田舎の神主   2019年04月02日 18:00
武術の学習としてガンハンドリングの稽古が始まりました。それは、降下訓練以上に自分では全く気付かずにしていることが多くあることに、やっと気付かせてくれました。
稽古以外の普段の生活でも、私の様々なミスの元となっている事柄だと思います。

過去に習ったのにすっかり忘れている事項。
自分の都合で省いているもの。
意識がそこまで届かず途中で途切れてしまうこと。
落ち着いて出来ず、ただ慌てて雑になってしまうこと。
慌てついでに興奮してしまうこと。

考えてみると、これは自分の性格で、今までこれではだめだと思っていた事柄でした。
新たな稽古を通じて自分で気がついたこれらのことが、少しでも改善されるよう、素直な気持ちで意識をしっかり持ち、学習体系に身を委ねる努力をしたいと思います。
 
4. Posted by 清水龍玄   2019年04月02日 21:37
結果ばかり気にしてしまうと、過程が疎かになり、結果もある程度で止まってしまい、自分に何の変化も生まれないということが、何度もありました。
当然、それでは、自身の成長にはなりませんでした。
しかし、過程を楽しむことができると、結果は瞬間瞬間いろいろと変わっていき、自分にも変化を感じられるようになりました。
結果とは、自分を振り返る一つの基準であり、そこで反省し、また、軌道修正をして、また次へ進めばいいのではないかと思います。

折角の稽古も、結果ばかりを気にしてしまうと、それでは稽古にならず、意味の無いものになってしまうと思います。
一つ一つの稽古を大事にし、自分を成長させていきたいと思います。
 
5. Posted by もりそば   2019年04月02日 23:30
質の異なる2つの宗教を同時に信仰できないのと同じで今持っている古い考えを捨てることが新しい観念を受け入れるために必要であると思われます。また自分の考え方は移ろいやすいので絶えず自らを顧み修正することも必要なので信仰を試される宗教に似ていると個人的には感じます。案外武術と宗教は近しいものかもしれませんね。
 
6. Posted by スーパードライ   2019年04月02日 23:55
以前は、武術的意識に関して、自分の考えや感覚で勝手な攻防意識で解釈していましたが、学習体系により非日常的な経験をするうちに攻防意識より危機意識へと変わってきました。また、私の抜けきれなかった楽しい妄想太極拳は、跡形もなく消え去り、と同時に厳しく険しい道が開けています。
それは、頂上へ導く道を指し示しているにもかかわらず、自分で違う道を選びまた元の道へ引き返す、また導く道を確認するという嫌というほど己と向き合わなければならない道です。

いつか頂上に立てるように、その道の導かれる道標を知的なアプローチでたどれるよう勉強し、体系にゆだねて稽古に励みたいと思います。
 
7. Posted by 太郎冠者   2019年04月03日 00:15
自分のこととして書きますが、迷子になってドツボにはまっていると、なかなか自分の状況が認識できないものです。

何かがおかしい、これはまずいと思いつつも、どうすることもできません。
道場での稽古では、幸運なことに師父や諸先輩方、他の門人の仲間たちが「そっちじゃないぞ!」と助け舟を出してくれます。

自分の力でなんとかする!とつっぱるのも、自分じゃ何もできない!と人にすがるのも、どちらも同じように甘えなのですね。
今回の記事のように、喝を入れてもらえるような記事は自分にとっては非常にありがたいものだと思います。
もう10000回くらい読み返して、勉強に使わせてもらおうかと思います。
 
8. Posted by 松久宗玄   2019年04月03日 00:41
自分を見る事の難しさは、
自分から離れられず、自分の所から物事を見ている、
偏った状態にあると思います。

ガンハンドリングの訓練は非日常であり、
要求と形が単純であるが故に、内外の偏りが認識し易く、
自分を観る良い鏡だと感じています。

浅学非才な自分だけでは、自分を見れず、修正も出来ません。
他者を鏡に自分を観る事が、如何に大事かを痛感します。

知的という事は、自分の不完全さを知る態度であり、
完全であるかのように装う事ではないのだと思います。
もっと他者に学ばねばと思います。
 
10. Posted by ハイネケン   2019年04月03日 02:27
先日、玄花后嗣と話した際、私が「目まぐるしく変化していく稽古の中、理解できない所が多すぎて、自分(の気持ち)が追いつかず焦ってしまいます。何から手をつけて良いか分からず、放置してしまいます。」という旨の話をした所、分からない所に取り組む事を説かれました。
遅まきながら稽古に「注意」を向けてみました。
見えてくるのは普段から話を聞き飛ばしていたり、理解を限定していたり、雑念を挟み込んでいます。
癖になっているのか、やはり自分が理解できない内容は自分勝手に「ヒント」という分類に仕分けし放置しようとしていました。
少しでも理解し難いと感じる部分こそ、本当に足りていない所であり、向き合うべき「答え」そのものの様です。

不遜な言い方で申し訳ないのですが、今回の文章を読みながらあまりに技術的な内容にニヤニヤしてしまいました。
 
11. Posted by 佐藤玄空   2019年04月05日 13:12
コメントが遅くなり申し訳ありません。

先日本部にてガンハンドリングの手ほどきを受け、実際に的を狙って撃ってみました。動作自体はシンプルで難解なものでなく初心者でもスムーズに撃つところまでは行けると思いました。
しかし、動画サイトなどで実銃を指導しているものをいくつか見ましたが、「初心者でもスムーズに撃てる」ということ自体がシステムのなせる業であり自分一人では所詮は「お家バンバン」から上には到底行くことができないものだと思いました。

では、何故太極拳の稽古は難解に感じられるのか?
指示されたとおり動けないから?
思った効果が出ないから?

いやいや、示された通りにしていないからに他なりません。
 
12. Posted by 円山玄花   2019年04月11日 23:14
☆西川敦玄さん

「自分で書き換えた地図」を持つ「迷子」。その状況こそ、学習体系が見えなくなってしまった状態と言えるかも知れません。
天才とは、天から与えられた才能とも言えると思いますが、その「天」こそは私たちが見出そうとしている大宇宙の法則であり、そこにアクセスできる人、つまり天に身を委ねられる人を「天才」と称するのかとも、考えたりします。私たちにとっての学習体系も師父の言葉も、そこに身を委ねることによって学習の流れを感じることが可能になり、そうなることで、自分で地図を書き換える必要がなくなるような気がします。

 *追記したいことがありますので、皆さんへのコメントバックを終えた後に、再度コメントいたします。
 
13. Posted by 円山玄花   2019年04月11日 23:29
☆川山継玄さん

「実銃として扱うこと」と「安全管理」は同等の意味を持ちます。なぜなら、実銃として扱わないのなら、それほど安全管理を徹底する必要がないからです。
実銃の威力と恐ろしさは、私はライフルしか存じませんが、実弾を装弾してライフルを持ち歩いた時の緊張感は未だに忘れませんし、その場に居合わせた人たちが徹底できていないことに、心底恐怖を覚えたものです。
「実銃として扱うこと」を徹底される私たちは、幸せだと思いますよ。

>体系的に順序立てて正しく取り組むことで、精神も身体も無理や歪みがなく成長できるのだと
>思います

もちろんその通りだと思いますし、私もずっとそう考えてきました。
けれども今は、「無理」や「歪み」があっても成長するのが生命であり、それでいいと思うようになりました。問題は無理や歪みがないことではなく、それに気がつける状態ではないでしょうか。
 
14. Posted by 円山玄花   2019年04月11日 23:38
☆マルコビッチさん

>ガンハンドリングでは考えていたら間に合わないからです

私は、よく師父から「お前はノンキだねえ」と呆れながら言われますが、その意味が実際に感じられるようになったのは、恥ずかしながらガンハンドリングを稽古するようになってからかも知れません。そう、マルコビッチさんと同じく、「これでは間に合わない」と実感することが増えたからです。そして、思考している時の自分にできることの少なさ!、これには本当に驚きました。
どれだけ考えている気になっても、動けていなければ意味がない・・つまり、生き残れないのです。
こういう稽古ができる道場は、なかなかないでしょうね。
ありがたいことです。
 
15. Posted by 円山玄花   2019年04月11日 23:45
☆田舎の神主さん

>素直な気持ちで意識をしっかり持ち

これが一番大事だと、私も思います。
よく指導される「自分を挟まない」ということは、素直な気持ちでないと聞けません。

ガンハンドリングの訓練では、站椿のようにじっくり取り組む暇は与えてもらえませんから、かえって自分のアラが見つけやすく、修正もしやすいのかも知れませんね。
訓練は、これからますます高度になっていくと思いますので、より一層基本が重視されるということです。
頑張っていきましょう。
 
16. Posted by 円山玄花   2019年04月11日 23:55
☆清水龍玄さん

私は幸運にも誰かから「結果が大事だ、結果を出せ」と言われた記憶がありません。
だから、というわけではないでしょうが、「結果」について考えたことはあります。

この植物は、花を咲かせることが結果なのか、
人は仕事をし、結婚して子供を育てることが結果なのか、
雨として地上に降り注いだ水は、海に行くことが結果なのか、
太極拳は、発勁で人を飛ばせることが結果なのか、
戦闘は、最後に自分が立っていることが結果なのか・・

考えた結果(笑)、それらのことは結果にすらならず、どこかの誰かが見たり聞いたりしたことを同じ視点で見て考えていただけだということに気がつきました。
誰かが考えた「結果」でもなければ自分で考えた「結果」でもなく、自分が関わっていることがどうなっているのか、より深く感じていきたいと私も思います。
 
17. Posted by 円山玄花   2019年04月11日 23:59
☆もりそばさん

私は宗教に詳しくはなく、お釈迦様でもキリスト様でも、ご先祖様でも、自分が心を無にして祈り、学ぶ気持ちを持てるのならば、対象は誰でも何でも変わらないとも考えます。
そういう点では、太極拳もガンハンドリングも、自分が学ぶということに関しては何も変わりませんね。

植物が種から芽を出し、最初に開いた双葉が、植物の成長とともに枯れて落ちて行くように、自分の古い考えも落としていければ、と思います。
 
18. Posted by 円山玄花   2019年04月12日 13:08
☆スーパードライさん

学ぶこととは、イバラのトンネルを進むが如く、と私は感じます。
前に進むか後ろに退がるかしかなく、しかしどちらの出口にも僅かに光は見えているわけです。

気合だけでも進めないし、体力だけでも、もちろんアタマだけでもダメです。
まさに、知的なアプローチが必要なのです。
良い稽古をされていますね。
 
19. Posted by 円山玄花   2019年04月12日 13:10
☆太郎冠者さん

言葉というのは面白いもので、自分が思っている以上に自分のことが表現されているものです。

自分の経験からですが、
迷子の時に認識しなければならないのは、「自分の状況」ではなく「自分の状態」です。
「何かがおかしい」のではなく、自分に原因があるのです。
「まずい」と思うのは、自分が理想とする「状況」と異なるためであり、身体と精神を含めた「自分の状態」を気にしている人は、迷子であってもドツボであっても、まずそれを静観します。

また、道場の稽古で「助け舟」を出してくれることは「幸運」なのでしょうか。
そもそも、それは「助け舟」なのでしょうか。

「つっぱり」も「泣きすがり」も、おっしゃる通り「甘え」であり子供の精神状態です。
つまり、そもそも自分で何とかする気がなかった、ということです。

言葉の揚げ足を取るつもりはありませんが・・
私の記事を10000回読むよりも、自分のコメントを100回読んでみると、良いかも知れません。
 
20. Posted by 円山玄花   2019年04月12日 13:17
☆松久宗玄さん

>ガンハンドリングの訓練は非日常であり

確かにそうです。
私もそう思っていました。
けれども、最近は「非日常でない日常があるのだろうか」と疑問に思います。
つまり、「日常だから」と見過ごされていることが多くないだろうか、と。

もっと注意深く日常を過ごす必要があると、つくづく感じるこの頃です。
 
21. Posted by 円山玄花   2019年04月12日 13:26
☆ハイネケンさん

大事なことは、何が理解できたかではなく、何かを理解できた気になっていないか、何かを理解できない気になっていないか、だと思います。
示されていることを、ただそのまま受け取ることが、一番難しいですね。
 
22. Posted by 円山玄花   2019年04月12日 13:34
☆佐藤玄空さん

>「初心者でもスムーズに撃てる」ということ自体がシステムのなせる業であり

正確には、その学習システムの根幹に流れる精神性、師父が仰るところの「スピリット」があるからでしょうね。
また、スムーズに撃てる気持ちになれるのは最初だけで、そこから一歩踏み出せばいかに「自分が」スムーズではないかが痛感させられます。
つまり、「撃てない」「動けない」「当たらない」=生き残れないのです。
自分の、何と制御できないことかと途方に暮れてしまいますが、精進あるのみです。
 
23. Posted by 円山玄花   2019年04月12日 13:39
☆西川敦玄さん(#2−1)

敦玄師兄へのコメント投稿後に師兄のコメントを再読していて、以前に師父からお聞きした、
「道を歩く」ということのお話を思い出しましたので、コメントを追記いたします。

『・・ただし、私から出て来る言葉というのは、非常に誤解されやすい。たとえば昨日私が「この花は美しい」と言っても、私は今日は「この花は美しく思わない」と言うかもしれない。ついさっき私がこれはこの様なものだと表現したばかりでも、今はその様なものではない、と言うかもしれない。

だから何年も前に「師父がこう言った」ということに囚われて、その事について今なお追求をしているようなら、それは愚の骨頂というものだ。

稽古や訓練指導は「ライブ」に他ならない。何年も前に録音されたレコードではない。
稽古はライブそのものだ。
それは「今ここ」にこそ生きている、ナマの教えなのだ。

正式弟子たちはどうか覚えておいて欲しい。秘伝というのは、常に「今ここ」にある。
かつて、その昔に私が語ったことの中にはない。
なぜなら、刻が経ち、歳月が過ぎてゆけば、その言葉はすでに、それを聞いた人の思い入れが入った「古いもの」になっているからだ。
 
24. Posted by 円山玄花   2019年04月12日 13:40
☆西川敦玄さん(#2−2)

それは、たとえその時に真実を語ったことであっても、もはや骨董品となっている。
もちろん真実は不変で不滅だ。しかし、未だ物事のシステムを知らぬあなた達は、それを時間と共に陳腐な物に変えてしまう。

かつて私が「白だ」と言ったことを、今日は黒だと言うかもしれない。だが、たとえそうであっても、「今ここ」の言葉こそが正しい。
なぜなら、その昔に私が黒だと言ったことを、あなたは白だと聞いてしまったかもしれないからだ。
今ここで聞いた事さえも、あなた方は違って聞いている。人は皆、自分の聞きたいように聞き、自分の価値に置き直して、貴重な内容をその場で書き直してしまう。

道を歩んでゆくとは、大変なことだ。
私たちは道がどこに続いているのかを知らずに居る。
それは誰にでも始められるが、道に踏み出しさえすれば誰もが歩めるとは限らない。
だからこそ、今ここで教えを受け、生の言葉に耳を傾けて、そこを歩んでいる実感の下で修練に励まなくてはならない。
その道が何処へ続いているかを知らない者が確実に認識できる事はただひとつ、いま自分が何処に立っているか、という事だけなのだから。』
 
25. Posted by 西川 敦玄   2019年04月13日 16:46
玄花後嗣
コメントの返事ありがとうございます。

「今ここ」 に不純(自我と呼びたい)なものが混じっていることに気づきました。
今自分がどこに立っているか。
もう一度、省みてどこに立っているのか。見ていきたいと思います。
ありがとうございました。

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